農民と大地を大切にしよう

編集者の言葉

月刊誌『慈済』の四月号を印刷する前日が丁度二十四節気の「春分の日」にあたり、春はすでに半分過ぎたことがわかった。これからは昼間が徐々に長くなり、春の暖かさで花が咲き始め、早起きして気を養うのに適した時期となる。人体という小宇宙の調和が崩れると病気になるが、大宇宙の不調和に至っては災害を引き起こすことになる。四大元素の地、水、火、風から構成されている大小の宇宙は、相互に影響し合っているからだ。

万物が蘇るこの頃に合わせて、今号の『慈済SDGsシリーズ』では、慈済がどれほど環境の持続可能性と食糧安全を重視しているかを取り上げた。この十数年間、慈済は慈善志業資源で以て、花蓮にある五つの主な原住民の村落を支援して農民が農業生産販売グループを立ち上げられるようにしたり、農地の活性化と環境に優しい有機農法である「友善耕作」への転換を指導したりして、励ましを行ってきた。一方、慈済の教育志業資源は、農耕法のコンセプト、農産物の加工、販売経路戦略などの面で、農家の収入と地域のバランスをとることにも協力してきた。

これら長期的な取り組みは、国連の持続可能な開発目標SDGs2のターゲット3「小規模の食料生産者、特に女性、先住民、家族農家、牧畜や漁業をしている人々の生産性と収入を倍にする」及び4「食料の生産性と生産量を増やし、同時に、生態系を守り、気候変動や干ばつ、洪水などの災害にも強く、土壌を豊かにしていくような、持続可能な食料生産の仕組みをつくり、何かが起きてもすぐに回復できるような農業を行う」を実践することに繋がる。

證厳法師は、大地は母親のようなもので、衆生を載せて、長きにわたり万物を育むと考えておられる。農業が大量生産ばかりを重視するなら、環境に悪影響を与えるだろう。人々は母なる大地から資源を得ているのだから、大地が栄養補給をし、体力を取り戻す機会も与えるべきである。私たちは地球を大切にし、労わると同時に、農耕の経験を伝承し、伝統的な智慧が失われないようにしなければならない。

国内外の多くの慈済大愛農場での取り組みにも、生態系に対するボランティアの心遣いが見て取れる。今年一月の月刊誌『慈済』(慈済ものがたり340号)に掲載された「農禅生活:静思精舎の穀倉ー志学大愛農場 天地の恵みに感謝」を読んでみると、畑の生き物に危害を加えず、農薬や化学肥料で環境を汚染しないようにして有機米を豊作にすることは、農民にとって大きな試練であることが分かる。これは人々に食事を提供するだけでなく、将来の世代のために土地の生命力を維持することでもある。

世界での慈済慈善の足跡を見ると、今年に入ってまだ三カ月だが、深刻な天災が頻繁に発生していることが分かる。カリフォルニア州ロサンゼルスの山火事は、一カ月以上燃え続けた。復旧には数年かかるだろう。オーストラリア東海岸はサイクロン・アルフレッドに襲われた。この半世紀で初めて当地を襲ったサイクロンの風速は、時速百キロメートルに達した。ラマダン期間中のインドネシア西ジャワ州ブカシ県では豪雨となった。冠水した場所は深さが最大三メートルに達し、三万世帯が被災した。四大元素の不調和によって引き起こされる災害は、必ずしも遠く離れた場所だけで発生するわけではない。春節を目前にした嘉義県大埔郷で強い地震が発生し、住宅が大小様々な被害を被り、現在に至っても復旧作業が続いている。

四季が順序よく循環し、万物が成長することを願うばかりだ。人々の生活が豊かになるように、先ず足元の土地に感謝し、大切にすることから始めたいものである。

㊟農業で生計を立てながら褝を修めること。

(慈済月刊七〇一期より)

編集者の言葉

月刊誌『慈済』の四月号を印刷する前日が丁度二十四節気の「春分の日」にあたり、春はすでに半分過ぎたことがわかった。これからは昼間が徐々に長くなり、春の暖かさで花が咲き始め、早起きして気を養うのに適した時期となる。人体という小宇宙の調和が崩れると病気になるが、大宇宙の不調和に至っては災害を引き起こすことになる。四大元素の地、水、火、風から構成されている大小の宇宙は、相互に影響し合っているからだ。

万物が蘇るこの頃に合わせて、今号の『慈済SDGsシリーズ』では、慈済がどれほど環境の持続可能性と食糧安全を重視しているかを取り上げた。この十数年間、慈済は慈善志業資源で以て、花蓮にある五つの主な原住民の村落を支援して農民が農業生産販売グループを立ち上げられるようにしたり、農地の活性化と環境に優しい有機農法である「友善耕作」への転換を指導したりして、励ましを行ってきた。一方、慈済の教育志業資源は、農耕法のコンセプト、農産物の加工、販売経路戦略などの面で、農家の収入と地域のバランスをとることにも協力してきた。

これら長期的な取り組みは、国連の持続可能な開発目標SDGs2のターゲット3「小規模の食料生産者、特に女性、先住民、家族農家、牧畜や漁業をしている人々の生産性と収入を倍にする」及び4「食料の生産性と生産量を増やし、同時に、生態系を守り、気候変動や干ばつ、洪水などの災害にも強く、土壌を豊かにしていくような、持続可能な食料生産の仕組みをつくり、何かが起きてもすぐに回復できるような農業を行う」を実践することに繋がる。

證厳法師は、大地は母親のようなもので、衆生を載せて、長きにわたり万物を育むと考えておられる。農業が大量生産ばかりを重視するなら、環境に悪影響を与えるだろう。人々は母なる大地から資源を得ているのだから、大地が栄養補給をし、体力を取り戻す機会も与えるべきである。私たちは地球を大切にし、労わると同時に、農耕の経験を伝承し、伝統的な智慧が失われないようにしなければならない。

国内外の多くの慈済大愛農場での取り組みにも、生態系に対するボランティアの心遣いが見て取れる。今年一月の月刊誌『慈済』(慈済ものがたり340号)に掲載された「農禅生活:静思精舎の穀倉ー志学大愛農場 天地の恵みに感謝」を読んでみると、畑の生き物に危害を加えず、農薬や化学肥料で環境を汚染しないようにして有機米を豊作にすることは、農民にとって大きな試練であることが分かる。これは人々に食事を提供するだけでなく、将来の世代のために土地の生命力を維持することでもある。

世界での慈済慈善の足跡を見ると、今年に入ってまだ三カ月だが、深刻な天災が頻繁に発生していることが分かる。カリフォルニア州ロサンゼルスの山火事は、一カ月以上燃え続けた。復旧には数年かかるだろう。オーストラリア東海岸はサイクロン・アルフレッドに襲われた。この半世紀で初めて当地を襲ったサイクロンの風速は、時速百キロメートルに達した。ラマダン期間中のインドネシア西ジャワ州ブカシ県では豪雨となった。冠水した場所は深さが最大三メートルに達し、三万世帯が被災した。四大元素の不調和によって引き起こされる災害は、必ずしも遠く離れた場所だけで発生するわけではない。春節を目前にした嘉義県大埔郷で強い地震が発生し、住宅が大小様々な被害を被り、現在に至っても復旧作業が続いている。

四季が順序よく循環し、万物が成長することを願うばかりだ。人々の生活が豊かになるように、先ず足元の土地に感謝し、大切にすることから始めたいものである。

㊟農業で生計を立てながら褝を修めること。

(慈済月刊七〇一期より)

關鍵字

現代農家の努力と工夫 花東で未来を育てる

自然農法に取り組む鳳林鎮の農家・陳生華さん夫妻。慈済が支援する雑穀生産販売グループに加わり、慈済大学の教員から農業技術の指導を受けることで、農地のレジリエンスが向上した。

天然で安全な作物、衰えることのない土地、農家の妥当な収益―気候変動で影響する生産量、農薬の過度な使用による土壌の劣化という今の環境の中で、これら全てに配慮することは可能だろうか?

国連のSDGs15のターゲットには、環境の保護、回復、持続可能な利用、生物多様性の損失の阻止、土地の劣化の阻止が掲げられている。慈済は世界の動きと歩調を合わせ、清らかな花東地域でこの理想を育てている。

【慈済の活動XSDGs】シリーズ

峻険な高山と広々とした美しい平野。大自然の恵みは、花東(花蓮、台東)に雄大な豊穣の大地を与えた。農業はこれまで重要な産業として東部の暮らしを支えてきた。しかし、台湾が工業化、都市化するにつれ、花東の若者たちは生活の糧を得るため西部に移住し、高齢化が進んだ花東では、やむなく休耕する農地が増え続けている。地元農業の付加価値を高めて農家の収入を増やし、若者のUターン就農を促すには、どうしたらよいのだろうか?慈済の慈善及び教育志業体は長年にわたり、手を携えて取り組んできた。

気候風土に根ざしたやさしい農業

慈済志業が農業を重視するようになった原点は、気候変動と食糧危機への懸念である。二〇一〇年、花蓮県寿豊郷志学村に二十ヘクタールの農地を借りて志学大愛農場を設立し、様々な作物を試験栽培する慈善農耕モデルエリアを作った。

その頃、台湾糖業公司は製糖に輸入原料を使用していたため、サトウキビの栽培面積が減り、大量の農地を貸し出していた。そこで、慈済は縁を逃さず、台湾糖業から農地を借り受けた。二〇一六年には借地人を静思精舎に移し、借地面積を十二ヘクタールに絞り込んだ。収穫は精舎の日常の食事需要の他、貧困救済や国際災害支援にも用いられた。各地のボランティアが交代で整地し直し、灌漑用水路を通し、有機農法で稲を植えた。安全なバイオ製剤で虫やカタツムリを防除し、除草剤を使わずに人の手で除草した。この八年余り、志学大愛農場では安全なコメを生産してきただけでなく、生態系も益々多様で豊かになってきた。

「実のところ、農業経営はそれほど楽ではありません」と語るのは、慈済基金会慈善志業発展処の呂芳川(リュ・フォンツワン)主任だ。呂主任によると、慈済は花蓮に耕作放棄地が多く、また、耕作を続けている農民も資材や設備、技術の不足に加えて今どきの販売ルートに詳しくないことから、十分な収入が得られないばかりか、投資が水の泡となることもあることに気づいた。そこで、花蓮農業改良場、花蓮県政府農業処等の関連機関と協力して、二〇一三年より秀林郷、万栄郷、光復郷、豊浜郷、卓渓郷の五大原住民集落で、地元農家による農業生産販売グループ設立を支援することにした。

インカインチなど経済的価値の高い作物を導入した他、台湾赤キヌアなど良質な伝統作物の栽培技術を改良することで、農業の収益性を向上させた他、慣行農法から農薬、化学肥料、除草剤を使用しない、風土気候に根ざした環境にやさしい農業への転換促進にも力を注いでいる。

「花東は土、水、空気が最もきれいな場所。ですから、農家や住民の食の安全を守るため、私たちは先ず耕地の活性化から始めました」。呂主任は花蓮で環境にやさしい農業を推進する意味をこう語った。「次に取り組んだのは若者のUターン就農を促し、祖父母が孫を育てる東部の社会構造を三世代同居に戻すことでした。若者は(都会のように)高い家賃や生活費を払う必要はなく、故郷に帰って、自分が社長になればいいのです」。

花蓮志学大愛農場で農作業に精を出す慈済ボランティア。ここは安全な有機農法を貫く「耕福田」だ。(撮影・釋徳倩)

垣根を越えた連携で
生産・販売・加工を支援

慈善志業は農家を全力で支援しており、教育志業も農法に対する考え方、農産加工、マーケティングなど多方面から農家をサポートしている。

二〇一三年、慈済科技大学医療画像及び放射線科学学科の劉威忠(リュウ・ウェイヅォン)教授と耿念慈(ゲン・ニエンツー)教授を顧問として学生サークル「花言葉」が設立された。彼らは主に薬草や花卉を栽培した他、少量の雑穀も栽培し、経済状況の厳しい学生の栄養補給のために提供した。

大学側は彼らに寮敷地内の空地を畑として提供した。最初は鋤を揮うたびに石に当たった。土の中で縦に細長く伸びていくキャッサバさえ、横方向に伸びるしかなかった。それを知った建築出身の慈済ボランティア徐文龍(シュ・ウェンロン)さんがパワーショベルやブルドーザーなどの重機で石塊を掘り出し、教師と学生たちの先頭に立って、整地を完了した。彼らはそこを「耕福田(福田を耕す)」農場と名付けた。また、園芸サークルとして始まった彼らの活動は、次第にアグリバイオ開発へと進化していった。

台湾赤キヌアは手入れしやすく、三、四か月で収穫できる。彼らは台湾赤キヌアの栽培や加工において素晴らしい成果を上げた。二〇一六年七月に台風一号が台東を襲った時、證厳法師は被災した農家たちが困難を乗り切れるよう、慈済科技大学に台湾赤キヌアの栽培・加工・販売について被災農家向けのクラスを、責任を持って開いてもらった。このうち、栽培技術と加工については劉教授と耿教授が、マーケティングについてはマーケティング・流通管理学科の陳皇曄(チェン・フワォンイエ)先生と郭又銘(グオ・ヨウミン)先生が指導した。

台湾赤キヌア以外にも、慈済科技大学アグリバイオチームは多くの原住民集落に赴き、伝統作物や伝統野菜を研究した。例えば「雨来菇」のあだ名を持つイシクラゲ、潮間帯の岩場に生える海草「スジアオノリ」、原住民にも漢人にも愛されるシマオオタニワタリなど、いずれも直接食べる以外の新しい用途が開発された。

この十年余り、慈済科技大学の教師と学生は花東の農家やアグリバイオ企業のために、多くの技術的問題を解決し、「即戦力」を有する人材を提供してきた。「学生たちは現場での作業から始めることを厭いません。さっきまで笠をかぶって石を拾っていたかと思うと、次は実験室で精密な計器を操作しているなんて、想像できないでしょう。ですから、彼らは現場のことも作物のことも非常によく理解しているのです」。

佳民部落でイシクラゲの収穫体験をする慈済大学の教師と学生(写真1)。集落の農業青年が英語で自分の農産物を紹介できるよう指導する外国語文学学科の田薇先生(写真3)。良質な農産物の展示販売ルートを開拓(写真2)し、実質的な利益を得てはじめて持続可能な経営が可能となる。(写真提供・慈済大学)

CO2削減が収入に
時代の波に乗る小規模農家

慈済基金会は慈善農業の推進を主導し、農家に必要な種苗、農機具、資材等を提供している。また、豊富な研究開発経験を持つ慈済科技大学アグリバイオチームが農産加工とマーケティングの指導を担っている。

この他、台湾教育部が各大学に「大学の社会的責任(University Social Responsibility、略称USR)」の実践を求めていることを受け、慈済大学ではUSR教育研究センターを設立し、これにより地域の課題解決を支援し、地方創生の実現を目指し、農業観と経済モデルの改良を後押ししている。

二〇二四年、慈済大学は雑誌『遠見』が主催するUSR大学の社会的責任賞に初めて応募し、「里山が団結して炭素経済へ―地域における持続可能な消費と生産の実践プロジェクト」で「生態共生部門」模範賞を受賞した。

「里山」という言葉は日本語に由来し、元々は丘陵地帯を指しており、丘や樹林地、農地、草原、家、ため池、川などから成った、自然と人間文化が混ざり合った地域を言う。この概念は花蓮の伝統的な風土文化と図らずも一致し、慈済大学によるUSR実践の方向性とも合致する。そこで、USR教育研究センターでは里山をプロジェクト名に採用したのである。

「私たちは現在、低炭素と自然農法を推進しています。この二つをやり遂げれば、農地全体の生態系も生物の多様性も改善します」。USRセンター計画座長を兼任する江允智(ジャン・ユンヅー)教授の説明によると、「パリ協定」の項目の一つに「四パーミル・イニシアチブ」がある。これは、世界の土壌に含まれる炭素量を年間〇・四パーセント(四パーミル)増やすことで、人間の活動で発生する温室効果ガスを相殺できるというものだ。この「炭素経済」は農家の実質的な収入源になるという。

「私たちは有機農法や自然農法を採用するとともに、循環型経済モデルを通じて廃棄する農業資材を土に還し、そして、定期的に土壌の有機物に含まれる炭素量の増加を測定することで、農産物の付加価値を高めるよう、農家を指導しています」。

江教授は補足して言った。「CO2削減量取引」はすでに世界の趨勢となっている。農家が信頼性のあるデータを提出し、温室効果ガス削減量を証明すれば、その証明書は「カーボンクレジット」として、排出量の削減が必要な企業に売ることができるのだ。つまり、「土壌カーボンシンク」で収入を得ることであり、吸収する炭素が多ければ多いほど、収入も増えるのである。

現在、慈済大学USRチームはコメ農家と協力して、「低炭素米」の栽培実験を行っている。そして、種まきから収穫まで、耕作サイクル全体のCO2排出量を調査分析し、「炭素経済」の可能性を探っている。ただ、農家がどれだけ勤勉に耕作しても、栽培した高品質の農産物が最終的に売れて、お金にならなければ、持続可能な経営にはならない。

そこで、慈済大学USRチームは農家のために販売ルートを構築することにした。二〇一八年、志を同じくする教授数名が発起人となって「食の永続消費コープ」を設立し、指導を受ける小規模農家が生産した農作物や加工食品を校内で販売した。

「簡単に言えば、お金を外に流すのではなく、地域内で回すということです」と発起人の一人である邱奕儒(チュウ・イールー)教授は言う。慈済大学のコープは教職員、学生、ボランティアが共同で投資・運営し、全メンバーに運営に参加する権利がある。そして、買うことで地元の農業や農村経済を支えるのである。

邱教授はコープの仕入れ原則について説明してくれた。「環境にやさしい有機商品と地元花蓮の商品を優先しています。特に地元の協同組合が生産したものは、必ず優先的に仕入れます」。

店舗で販売するほか、慈済大学では毎月の「慈誠懿徳日」に小規模農家市場を開催し、農家に自分で育てた良質の農産品を展示販売する機会を提供している。

「誰から買うかは、最終的にお金がどこに流れるかを左右します」。コープ副理事主席を兼任する慈済大学公衆衛生学科の謝婉華(シエ・ワンフワ)教授は、「責任ある消費によって持続可能な生産を支えていきたい」と強調する。

「価格」よりも「価値」を重視する経営理念が消費者、生産者、地域住民のパートナーシップを生み出した。コープとの経済的な繋がりが、「里山が団結して炭素経済へ」の理念を暮らしの中に実現している。

シマオオタニワタリ畑で除草作業をする佳民集落の農業青年・林秀瑛さん。地元の原住民たちは、慈済大学の教師のアドバイスで黒の遮光ネットを撤去し、自然の木陰で日差しを遮る元来の環境でシマオオタニワタリを育てている。

名物シマオオタニワタリ
生産から開発まで

二〇一三年から始まった五大原住民集落での生産販売グループ設立支援、種苗や資材の提供、生産・販売・加工の指導は今年で十二年になる。慈済基金会と慈済大学は、支援農家とは今や深い友情で結ばれている。農家もそのお返しに、慈済大学の教師と学生の実習に農地を提供したり、学生のアルバイトを受け入れたりしている。

「去年、私たちは慈済大学外国語文学科の田薇(ティエン・ウェイ)先生と協力しました。先生は学生を連れて、私たちに英語での通訳と解説の仕方をトレーニングしてくれました。私たちも産学連携の方式で、田先生を通じて学生アルバイトを募集しました。外国のお客さんが来たら、英語のガイドと通訳に来てもらうのです」と、新城郷佳民部落(原住民の居住地のこと)に住むタロコ族の農業青年・林秀瑛(リン・シュウイン)さんは、最近の慈済大学との協働について概要を話してくれた。そして、慈済と縁ができた経緯を振り返った―。

一九九〇年代ごろ、佳民部落ではシマオオタニワタリの栽培ブームが起きた。高い時は一台斤(六百グラム)が二百三十元で売れ、部落の人々は先を争って栽培を始めた。ところが、販売や市場の動向に疎い農家は、卸売業者に買い叩かれ、一台斤十五元にまで値が下がった。シマオオタニワタリは儲からないと誤解した人々は、次々に栽培をやめてしまった。それを知ったUターンの若者が、レストランやホテルなどの末端顧客と直接連絡を取ったことで、ようやく農家は妥当な収入を得られるようになり、シマオオタニワタリの栽培は安定してきた。

ただ、シマオオタニワタリの若葉は摘むと二、三日で枯れて黒ずんでしまい、保存できないという問題があった。この課題を克服するため、佳民部落の農業青年たちは慈済科技大学のアグリバイオチームに支援を求めた。劉先生と耿先生は学生と共に研究を進め、シマオオタニワタリの若葉を粉末にして、様々な食品に加工することに成功した。佳民部落の名物であるシマオオタニワタリのヌガー、クッキー、アイスクリームなどはこうして生まれたのである。

二〇二〇年、新型コロナの流行が花蓮の観光業に深刻な打撃を与え、佳民部落のレジャー農園は客足もまばらになった。農業青年たちは困難に遭遇しても努力をやめず、慈済の大学の教師に指導を求め、農業技術の改善を続けた。彼らは邱教授の指導でシマオオタニワタリ畑の遮光ネットを取り払い、昔のように自然の木陰を作って日差しを遮る自然農法を実践した。

二〇二三年になると新型コロナが落ち着き、商売がようやく好転の兆しを見せた。しかし、二〇二四年にはまたも○四○三花蓮地震や台風二十一号などの天災に見舞われ、再び観光客が激減したばかりか、集落内のシマオオタニワタリ畑も深刻な被害を受けた。だが、災害の試練に直面しても、佳民の農業青年たちは再び持ちこたえた。慈済の教師たちも、とことん支援を続けた。観光が復興するまでの、仕事が比較的暇なこの時期を利用して専門能力を強化するようアドバイスすると共に、製品開発に更に力を入れた。

原住民の農家と共に集落の空地を調査し、フードフォレストづくりの可能性を検討する邱奕儒教授(右)とドイツ人特別招聘教授ノイゲバウアー先生(中)。

慈済大学USRセンターが特別に招聘したドイツ人教授ノイゲバウアー先生は、フードフォレストの構成について解説してくれた。食糧作物を栽培するほか、作物に養分を与えたり、作物を保護したりするために、他の支持的植物も配置するという。

自然で生計を立てるなら、
自然を大切にしよう

慈済が台湾で無農薬・無化学肥料の環境にやさしい農業を原則とする慈善農業を推進して、すでに十年余りになる。進みながら隊列を整え、絶えず実験して学ぶ過程であった。収穫の喜びがある一方、天災の猛威という無常にも見舞われた。

例えば、豊浜郷の生産販売グループで栽培していたインカインチは、昨年の冬の寒風に耐えられず、低温被害で大量に枯れてしまった。そこで慈済は、インカインチの代わりに、同じく食用油が搾れるユチャの苗を農家に提供した。

近年、慈済大学は「フードフォレスト」の研究開発と普及に力を入れている。「全ての太陽エネルギーは炭化物に転化して土壌の養分となります。炭素を土壌に入れ込むことで、最終的に強靱なシステムが形成されます」。耕福田農場に入ると、土壌生物学が専門のドイツ人特別招聘教授トビアス・ノイゲバウアー先生がフードフォレストの構築過程を簡単に説明してくれた。まず、土壌を整え、様々な作物の特性や成長周期に応じて、低、中、高および突出部に区分する。また、経済作物だけでなく、支持的な植物や作物も植えなければならない。例えば、風や強い日差しを遮るための高くて頑丈な喬木などだ。

「台風が来ると頑丈な木は残り、弱い木は倒れて、他の木の養分になります。私たちも同じことをするのです」とノイゲバウアー先生は言う。彼によると、フードフォレストは、今はまだ定期的な伐採や剪定など人間による管理が必要で、倒れた木や落ちた枝、葉は土に還って養分になる。そのうちにシステム全体が安定してくれば、さほど労力を割かなくても良好な状態を維持できるという。

食糧は命の源であり、農業は食糧生産に止まらず、文化、教育にとって欠かせないものである。国連が提唱する持続可能な開発の視点から見ても、大地にやさしい農耕法を採用し、そこに共存共栄の経済モデルと結び付けることは、持続可能な生態系と地域づくりに役立っている。さらに炭素を土壌に取り込むことで気候変動の緩和に大きく寄与している。

慈済の慈善と教育志業体が台湾で慈善農業を推進しているのは、汚染されていない安全な食糧を生産するためだけではない。「一粒の種」から、人・地域・大地の共存共栄が育まれることを願っているのだ。ボランティア、教師、農家たちの懸命な努力はすでに実を結び始めている。将来は技術、農業観、経営モデルが向上するにつれ、花東地域の原住民集落、さらには全世界の慈済と縁のある地域が、より大きな善の効果を生み出すことにも期待を寄せている。

(慈済月刊七〇一期より)

自然農法に取り組む鳳林鎮の農家・陳生華さん夫妻。慈済が支援する雑穀生産販売グループに加わり、慈済大学の教員から農業技術の指導を受けることで、農地のレジリエンスが向上した。

天然で安全な作物、衰えることのない土地、農家の妥当な収益―気候変動で影響する生産量、農薬の過度な使用による土壌の劣化という今の環境の中で、これら全てに配慮することは可能だろうか?

国連のSDGs15のターゲットには、環境の保護、回復、持続可能な利用、生物多様性の損失の阻止、土地の劣化の阻止が掲げられている。慈済は世界の動きと歩調を合わせ、清らかな花東地域でこの理想を育てている。

【慈済の活動XSDGs】シリーズ

峻険な高山と広々とした美しい平野。大自然の恵みは、花東(花蓮、台東)に雄大な豊穣の大地を与えた。農業はこれまで重要な産業として東部の暮らしを支えてきた。しかし、台湾が工業化、都市化するにつれ、花東の若者たちは生活の糧を得るため西部に移住し、高齢化が進んだ花東では、やむなく休耕する農地が増え続けている。地元農業の付加価値を高めて農家の収入を増やし、若者のUターン就農を促すには、どうしたらよいのだろうか?慈済の慈善及び教育志業体は長年にわたり、手を携えて取り組んできた。

気候風土に根ざしたやさしい農業

慈済志業が農業を重視するようになった原点は、気候変動と食糧危機への懸念である。二〇一〇年、花蓮県寿豊郷志学村に二十ヘクタールの農地を借りて志学大愛農場を設立し、様々な作物を試験栽培する慈善農耕モデルエリアを作った。

その頃、台湾糖業公司は製糖に輸入原料を使用していたため、サトウキビの栽培面積が減り、大量の農地を貸し出していた。そこで、慈済は縁を逃さず、台湾糖業から農地を借り受けた。二〇一六年には借地人を静思精舎に移し、借地面積を十二ヘクタールに絞り込んだ。収穫は精舎の日常の食事需要の他、貧困救済や国際災害支援にも用いられた。各地のボランティアが交代で整地し直し、灌漑用水路を通し、有機農法で稲を植えた。安全なバイオ製剤で虫やカタツムリを防除し、除草剤を使わずに人の手で除草した。この八年余り、志学大愛農場では安全なコメを生産してきただけでなく、生態系も益々多様で豊かになってきた。

「実のところ、農業経営はそれほど楽ではありません」と語るのは、慈済基金会慈善志業発展処の呂芳川(リュ・フォンツワン)主任だ。呂主任によると、慈済は花蓮に耕作放棄地が多く、また、耕作を続けている農民も資材や設備、技術の不足に加えて今どきの販売ルートに詳しくないことから、十分な収入が得られないばかりか、投資が水の泡となることもあることに気づいた。そこで、花蓮農業改良場、花蓮県政府農業処等の関連機関と協力して、二〇一三年より秀林郷、万栄郷、光復郷、豊浜郷、卓渓郷の五大原住民集落で、地元農家による農業生産販売グループ設立を支援することにした。

インカインチなど経済的価値の高い作物を導入した他、台湾赤キヌアなど良質な伝統作物の栽培技術を改良することで、農業の収益性を向上させた他、慣行農法から農薬、化学肥料、除草剤を使用しない、風土気候に根ざした環境にやさしい農業への転換促進にも力を注いでいる。

「花東は土、水、空気が最もきれいな場所。ですから、農家や住民の食の安全を守るため、私たちは先ず耕地の活性化から始めました」。呂主任は花蓮で環境にやさしい農業を推進する意味をこう語った。「次に取り組んだのは若者のUターン就農を促し、祖父母が孫を育てる東部の社会構造を三世代同居に戻すことでした。若者は(都会のように)高い家賃や生活費を払う必要はなく、故郷に帰って、自分が社長になればいいのです」。

花蓮志学大愛農場で農作業に精を出す慈済ボランティア。ここは安全な有機農法を貫く「耕福田」だ。(撮影・釋徳倩)

垣根を越えた連携で
生産・販売・加工を支援

慈善志業は農家を全力で支援しており、教育志業も農法に対する考え方、農産加工、マーケティングなど多方面から農家をサポートしている。

二〇一三年、慈済科技大学医療画像及び放射線科学学科の劉威忠(リュウ・ウェイヅォン)教授と耿念慈(ゲン・ニエンツー)教授を顧問として学生サークル「花言葉」が設立された。彼らは主に薬草や花卉を栽培した他、少量の雑穀も栽培し、経済状況の厳しい学生の栄養補給のために提供した。

大学側は彼らに寮敷地内の空地を畑として提供した。最初は鋤を揮うたびに石に当たった。土の中で縦に細長く伸びていくキャッサバさえ、横方向に伸びるしかなかった。それを知った建築出身の慈済ボランティア徐文龍(シュ・ウェンロン)さんがパワーショベルやブルドーザーなどの重機で石塊を掘り出し、教師と学生たちの先頭に立って、整地を完了した。彼らはそこを「耕福田(福田を耕す)」農場と名付けた。また、園芸サークルとして始まった彼らの活動は、次第にアグリバイオ開発へと進化していった。

台湾赤キヌアは手入れしやすく、三、四か月で収穫できる。彼らは台湾赤キヌアの栽培や加工において素晴らしい成果を上げた。二〇一六年七月に台風一号が台東を襲った時、證厳法師は被災した農家たちが困難を乗り切れるよう、慈済科技大学に台湾赤キヌアの栽培・加工・販売について被災農家向けのクラスを、責任を持って開いてもらった。このうち、栽培技術と加工については劉教授と耿教授が、マーケティングについてはマーケティング・流通管理学科の陳皇曄(チェン・フワォンイエ)先生と郭又銘(グオ・ヨウミン)先生が指導した。

台湾赤キヌア以外にも、慈済科技大学アグリバイオチームは多くの原住民集落に赴き、伝統作物や伝統野菜を研究した。例えば「雨来菇」のあだ名を持つイシクラゲ、潮間帯の岩場に生える海草「スジアオノリ」、原住民にも漢人にも愛されるシマオオタニワタリなど、いずれも直接食べる以外の新しい用途が開発された。

この十年余り、慈済科技大学の教師と学生は花東の農家やアグリバイオ企業のために、多くの技術的問題を解決し、「即戦力」を有する人材を提供してきた。「学生たちは現場での作業から始めることを厭いません。さっきまで笠をかぶって石を拾っていたかと思うと、次は実験室で精密な計器を操作しているなんて、想像できないでしょう。ですから、彼らは現場のことも作物のことも非常によく理解しているのです」。

佳民部落でイシクラゲの収穫体験をする慈済大学の教師と学生(写真1)。集落の農業青年が英語で自分の農産物を紹介できるよう指導する外国語文学学科の田薇先生(写真3)。良質な農産物の展示販売ルートを開拓(写真2)し、実質的な利益を得てはじめて持続可能な経営が可能となる。(写真提供・慈済大学)

CO2削減が収入に
時代の波に乗る小規模農家

慈済基金会は慈善農業の推進を主導し、農家に必要な種苗、農機具、資材等を提供している。また、豊富な研究開発経験を持つ慈済科技大学アグリバイオチームが農産加工とマーケティングの指導を担っている。

この他、台湾教育部が各大学に「大学の社会的責任(University Social Responsibility、略称USR)」の実践を求めていることを受け、慈済大学ではUSR教育研究センターを設立し、これにより地域の課題解決を支援し、地方創生の実現を目指し、農業観と経済モデルの改良を後押ししている。

二〇二四年、慈済大学は雑誌『遠見』が主催するUSR大学の社会的責任賞に初めて応募し、「里山が団結して炭素経済へ―地域における持続可能な消費と生産の実践プロジェクト」で「生態共生部門」模範賞を受賞した。

「里山」という言葉は日本語に由来し、元々は丘陵地帯を指しており、丘や樹林地、農地、草原、家、ため池、川などから成った、自然と人間文化が混ざり合った地域を言う。この概念は花蓮の伝統的な風土文化と図らずも一致し、慈済大学によるUSR実践の方向性とも合致する。そこで、USR教育研究センターでは里山をプロジェクト名に採用したのである。

「私たちは現在、低炭素と自然農法を推進しています。この二つをやり遂げれば、農地全体の生態系も生物の多様性も改善します」。USRセンター計画座長を兼任する江允智(ジャン・ユンヅー)教授の説明によると、「パリ協定」の項目の一つに「四パーミル・イニシアチブ」がある。これは、世界の土壌に含まれる炭素量を年間〇・四パーセント(四パーミル)増やすことで、人間の活動で発生する温室効果ガスを相殺できるというものだ。この「炭素経済」は農家の実質的な収入源になるという。

「私たちは有機農法や自然農法を採用するとともに、循環型経済モデルを通じて廃棄する農業資材を土に還し、そして、定期的に土壌の有機物に含まれる炭素量の増加を測定することで、農産物の付加価値を高めるよう、農家を指導しています」。

江教授は補足して言った。「CO2削減量取引」はすでに世界の趨勢となっている。農家が信頼性のあるデータを提出し、温室効果ガス削減量を証明すれば、その証明書は「カーボンクレジット」として、排出量の削減が必要な企業に売ることができるのだ。つまり、「土壌カーボンシンク」で収入を得ることであり、吸収する炭素が多ければ多いほど、収入も増えるのである。

現在、慈済大学USRチームはコメ農家と協力して、「低炭素米」の栽培実験を行っている。そして、種まきから収穫まで、耕作サイクル全体のCO2排出量を調査分析し、「炭素経済」の可能性を探っている。ただ、農家がどれだけ勤勉に耕作しても、栽培した高品質の農産物が最終的に売れて、お金にならなければ、持続可能な経営にはならない。

そこで、慈済大学USRチームは農家のために販売ルートを構築することにした。二〇一八年、志を同じくする教授数名が発起人となって「食の永続消費コープ」を設立し、指導を受ける小規模農家が生産した農作物や加工食品を校内で販売した。

「簡単に言えば、お金を外に流すのではなく、地域内で回すということです」と発起人の一人である邱奕儒(チュウ・イールー)教授は言う。慈済大学のコープは教職員、学生、ボランティアが共同で投資・運営し、全メンバーに運営に参加する権利がある。そして、買うことで地元の農業や農村経済を支えるのである。

邱教授はコープの仕入れ原則について説明してくれた。「環境にやさしい有機商品と地元花蓮の商品を優先しています。特に地元の協同組合が生産したものは、必ず優先的に仕入れます」。

店舗で販売するほか、慈済大学では毎月の「慈誠懿徳日」に小規模農家市場を開催し、農家に自分で育てた良質の農産品を展示販売する機会を提供している。

「誰から買うかは、最終的にお金がどこに流れるかを左右します」。コープ副理事主席を兼任する慈済大学公衆衛生学科の謝婉華(シエ・ワンフワ)教授は、「責任ある消費によって持続可能な生産を支えていきたい」と強調する。

「価格」よりも「価値」を重視する経営理念が消費者、生産者、地域住民のパートナーシップを生み出した。コープとの経済的な繋がりが、「里山が団結して炭素経済へ」の理念を暮らしの中に実現している。

シマオオタニワタリ畑で除草作業をする佳民集落の農業青年・林秀瑛さん。地元の原住民たちは、慈済大学の教師のアドバイスで黒の遮光ネットを撤去し、自然の木陰で日差しを遮る元来の環境でシマオオタニワタリを育てている。

名物シマオオタニワタリ
生産から開発まで

二〇一三年から始まった五大原住民集落での生産販売グループ設立支援、種苗や資材の提供、生産・販売・加工の指導は今年で十二年になる。慈済基金会と慈済大学は、支援農家とは今や深い友情で結ばれている。農家もそのお返しに、慈済大学の教師と学生の実習に農地を提供したり、学生のアルバイトを受け入れたりしている。

「去年、私たちは慈済大学外国語文学科の田薇(ティエン・ウェイ)先生と協力しました。先生は学生を連れて、私たちに英語での通訳と解説の仕方をトレーニングしてくれました。私たちも産学連携の方式で、田先生を通じて学生アルバイトを募集しました。外国のお客さんが来たら、英語のガイドと通訳に来てもらうのです」と、新城郷佳民部落(原住民の居住地のこと)に住むタロコ族の農業青年・林秀瑛(リン・シュウイン)さんは、最近の慈済大学との協働について概要を話してくれた。そして、慈済と縁ができた経緯を振り返った―。

一九九〇年代ごろ、佳民部落ではシマオオタニワタリの栽培ブームが起きた。高い時は一台斤(六百グラム)が二百三十元で売れ、部落の人々は先を争って栽培を始めた。ところが、販売や市場の動向に疎い農家は、卸売業者に買い叩かれ、一台斤十五元にまで値が下がった。シマオオタニワタリは儲からないと誤解した人々は、次々に栽培をやめてしまった。それを知ったUターンの若者が、レストランやホテルなどの末端顧客と直接連絡を取ったことで、ようやく農家は妥当な収入を得られるようになり、シマオオタニワタリの栽培は安定してきた。

ただ、シマオオタニワタリの若葉は摘むと二、三日で枯れて黒ずんでしまい、保存できないという問題があった。この課題を克服するため、佳民部落の農業青年たちは慈済科技大学のアグリバイオチームに支援を求めた。劉先生と耿先生は学生と共に研究を進め、シマオオタニワタリの若葉を粉末にして、様々な食品に加工することに成功した。佳民部落の名物であるシマオオタニワタリのヌガー、クッキー、アイスクリームなどはこうして生まれたのである。

二〇二〇年、新型コロナの流行が花蓮の観光業に深刻な打撃を与え、佳民部落のレジャー農園は客足もまばらになった。農業青年たちは困難に遭遇しても努力をやめず、慈済の大学の教師に指導を求め、農業技術の改善を続けた。彼らは邱教授の指導でシマオオタニワタリ畑の遮光ネットを取り払い、昔のように自然の木陰を作って日差しを遮る自然農法を実践した。

二〇二三年になると新型コロナが落ち着き、商売がようやく好転の兆しを見せた。しかし、二〇二四年にはまたも○四○三花蓮地震や台風二十一号などの天災に見舞われ、再び観光客が激減したばかりか、集落内のシマオオタニワタリ畑も深刻な被害を受けた。だが、災害の試練に直面しても、佳民の農業青年たちは再び持ちこたえた。慈済の教師たちも、とことん支援を続けた。観光が復興するまでの、仕事が比較的暇なこの時期を利用して専門能力を強化するようアドバイスすると共に、製品開発に更に力を入れた。

原住民の農家と共に集落の空地を調査し、フードフォレストづくりの可能性を検討する邱奕儒教授(右)とドイツ人特別招聘教授ノイゲバウアー先生(中)。

慈済大学USRセンターが特別に招聘したドイツ人教授ノイゲバウアー先生は、フードフォレストの構成について解説してくれた。食糧作物を栽培するほか、作物に養分を与えたり、作物を保護したりするために、他の支持的植物も配置するという。

自然で生計を立てるなら、
自然を大切にしよう

慈済が台湾で無農薬・無化学肥料の環境にやさしい農業を原則とする慈善農業を推進して、すでに十年余りになる。進みながら隊列を整え、絶えず実験して学ぶ過程であった。収穫の喜びがある一方、天災の猛威という無常にも見舞われた。

例えば、豊浜郷の生産販売グループで栽培していたインカインチは、昨年の冬の寒風に耐えられず、低温被害で大量に枯れてしまった。そこで慈済は、インカインチの代わりに、同じく食用油が搾れるユチャの苗を農家に提供した。

近年、慈済大学は「フードフォレスト」の研究開発と普及に力を入れている。「全ての太陽エネルギーは炭化物に転化して土壌の養分となります。炭素を土壌に入れ込むことで、最終的に強靱なシステムが形成されます」。耕福田農場に入ると、土壌生物学が専門のドイツ人特別招聘教授トビアス・ノイゲバウアー先生がフードフォレストの構築過程を簡単に説明してくれた。まず、土壌を整え、様々な作物の特性や成長周期に応じて、低、中、高および突出部に区分する。また、経済作物だけでなく、支持的な植物や作物も植えなければならない。例えば、風や強い日差しを遮るための高くて頑丈な喬木などだ。

「台風が来ると頑丈な木は残り、弱い木は倒れて、他の木の養分になります。私たちも同じことをするのです」とノイゲバウアー先生は言う。彼によると、フードフォレストは、今はまだ定期的な伐採や剪定など人間による管理が必要で、倒れた木や落ちた枝、葉は土に還って養分になる。そのうちにシステム全体が安定してくれば、さほど労力を割かなくても良好な状態を維持できるという。

食糧は命の源であり、農業は食糧生産に止まらず、文化、教育にとって欠かせないものである。国連が提唱する持続可能な開発の視点から見ても、大地にやさしい農耕法を採用し、そこに共存共栄の経済モデルと結び付けることは、持続可能な生態系と地域づくりに役立っている。さらに炭素を土壌に取り込むことで気候変動の緩和に大きく寄与している。

慈済の慈善と教育志業体が台湾で慈善農業を推進しているのは、汚染されていない安全な食糧を生産するためだけではない。「一粒の種」から、人・地域・大地の共存共栄が育まれることを願っているのだ。ボランティア、教師、農家たちの懸命な努力はすでに実を結び始めている。将来は技術、農業観、経営モデルが向上するにつれ、花東地域の原住民集落、さらには全世界の慈済と縁のある地域が、より大きな善の効果を生み出すことにも期待を寄せている。

(慈済月刊七〇一期より)

關鍵字

この世の至る所に愛が在る

ここ数年、青児さんは偏境の学校をいくつも訪ね歩き、彼女がたどった険しい山道の距離は、台湾で及ぶ人はいない。

台湾全土にある偏境の学校でも、静思読書書軒には数多くの心打たれる温かい物語が満ちており、読書書軒以外にも、善意の人たちの軌跡に触れることができた。その一点一滴を書にしたため、この世の慈悲と善意を世に知らしめた。

青児さんと知り合って十数年になるが、誰も及ばない優しさと思いやりを備えた人だという印象を受けた。

ここ数年、台北に立ち寄るたびに私たちは顔を合わせている。まだ覚えているが、数年前に台北市「東区」にあるジンスーブックカフェで彼女に会った時、彼女は私に、今台湾の偏境にある学校に静思読書書軒を作る計画を進めているが、初めはとても大変だったと話してくれた。それは多くの学校が宗教色に染まることを懸念して断られたからだ。そこで、彼女は誠意を尽くして学校側に、静思読書書軒を作るのは、偏境にいる学生がもっと読書することで、真善美のある人文的な考え方を身につけ、生命の持つエネルギーを啓発して、理想の人生を追求するというプラス思考を持つことに期待しているからだ、と説明した。

彼女の誠実さと優しさに心を打たれたのだろう。その責任を担ってもいいという校長先生に面会することができ、そうやって、第一号の静思読書書軒が開設された。青児さんは百のへき地学校に読書する空間を設けたいと考えたが、それには社会の愛のある人たちの後ろ盾が必要だった。当時の私には想像もできないほどの大規模なプロジェクトと理想だった。それは、百校に開設する膨大な費用と、将来、毎年新書を贈呈するという大仕事が伴うからだった。どれほど多くの善良な人材と時間が必要になるのだろうか。台湾には、そんなに多く偏境の学校があるのだろうか。

私の思いとは逆に、青児さんのチームは、それらの課題を一つずつ克服していったのだ。そして、百軒目がオープンした時、彼女はこう話してくれた。今では自主的に彼女を訪ね、静思読書書軒を自分の勤務する学校に開設したいという希望が寄せられているそうだ。そして、国内外の善意の人たちが、自主的に彼女に連絡を取り、故郷のために進んで一軒や二軒、三軒の費用を負担したいと言ってきている。

青児さんは、優しさと思いやりであらゆる困難を乗り越え、疑惑を唱える人を説得してきたのだ。次々と難関を突破しても、青児さんとチームは止まることなく、台湾の各県や市や郷にある偏境の学校を奔走している。今年、再び会った時、静思読書書軒は三百軒を超えました、という報告を受けた。

最近の数年間、青児さんは偏境の学校をいくつも訪ね歩き、彼女がたどった険しい山道の距離に、台湾で及ぶ人はいない。各地の偏境の学校の中にある静思読書書軒は、多くの心打たれる温かい物語に満ちていて、それ以外にも、善意の人たちによる愛の奇跡がいっぱいあった。

青児さんは、これらの細々した話を集めて本にした。世間の思いやりと優しさに溢れた、多くの感動を呼ぶ話が、こんなにもたくさんあるのだ。青児さんのこの新しい本を読むと、私たちの心に愛が満ちてくる。思いやりと優しさというものは、私たちに、人間(じんかん)の愛は至る所に在るのだと教えてくれている。

( 慈済月刊七〇〇期より)

愛で夢を紡ぐ 
静思読書書軒の美と善

⌑ 作者:蔡青児
⌑ 定価:420元
⌑ 出版社:静思人文、発光体文化 

※台湾各地の静思書軒店舗及びオンラインショップでお求めください

二〇二一年、ジンスーブックカフェ運営部長の蔡青児さんは、初の著書『読書で希望を咲かせよう〜静思読書書軒の歩み』を出版した。当時は百五十軒だった静思読書書軒は、今年、三百軒を超えるまでに成長した。そこは、読書空間であるだけでなく、希望の種を蒔く心の田園となり、愛の中で知慧の種を育んでいるのだ。

それぞれの書軒の開業までには、心打つ話があり、偏境の子供から都市の学校までを繋げて、一枚の愛の地図を成しているのである。

ここ数年、青児さんは偏境の学校をいくつも訪ね歩き、彼女がたどった険しい山道の距離は、台湾で及ぶ人はいない。

台湾全土にある偏境の学校でも、静思読書書軒には数多くの心打たれる温かい物語が満ちており、読書書軒以外にも、善意の人たちの軌跡に触れることができた。その一点一滴を書にしたため、この世の慈悲と善意を世に知らしめた。

青児さんと知り合って十数年になるが、誰も及ばない優しさと思いやりを備えた人だという印象を受けた。

ここ数年、台北に立ち寄るたびに私たちは顔を合わせている。まだ覚えているが、数年前に台北市「東区」にあるジンスーブックカフェで彼女に会った時、彼女は私に、今台湾の偏境にある学校に静思読書書軒を作る計画を進めているが、初めはとても大変だったと話してくれた。それは多くの学校が宗教色に染まることを懸念して断られたからだ。そこで、彼女は誠意を尽くして学校側に、静思読書書軒を作るのは、偏境にいる学生がもっと読書することで、真善美のある人文的な考え方を身につけ、生命の持つエネルギーを啓発して、理想の人生を追求するというプラス思考を持つことに期待しているからだ、と説明した。

彼女の誠実さと優しさに心を打たれたのだろう。その責任を担ってもいいという校長先生に面会することができ、そうやって、第一号の静思読書書軒が開設された。青児さんは百のへき地学校に読書する空間を設けたいと考えたが、それには社会の愛のある人たちの後ろ盾が必要だった。当時の私には想像もできないほどの大規模なプロジェクトと理想だった。それは、百校に開設する膨大な費用と、将来、毎年新書を贈呈するという大仕事が伴うからだった。どれほど多くの善良な人材と時間が必要になるのだろうか。台湾には、そんなに多く偏境の学校があるのだろうか。

私の思いとは逆に、青児さんのチームは、それらの課題を一つずつ克服していったのだ。そして、百軒目がオープンした時、彼女はこう話してくれた。今では自主的に彼女を訪ね、静思読書書軒を自分の勤務する学校に開設したいという希望が寄せられているそうだ。そして、国内外の善意の人たちが、自主的に彼女に連絡を取り、故郷のために進んで一軒や二軒、三軒の費用を負担したいと言ってきている。

青児さんは、優しさと思いやりであらゆる困難を乗り越え、疑惑を唱える人を説得してきたのだ。次々と難関を突破しても、青児さんとチームは止まることなく、台湾の各県や市や郷にある偏境の学校を奔走している。今年、再び会った時、静思読書書軒は三百軒を超えました、という報告を受けた。

最近の数年間、青児さんは偏境の学校をいくつも訪ね歩き、彼女がたどった険しい山道の距離に、台湾で及ぶ人はいない。各地の偏境の学校の中にある静思読書書軒は、多くの心打たれる温かい物語に満ちていて、それ以外にも、善意の人たちによる愛の奇跡がいっぱいあった。

青児さんは、これらの細々した話を集めて本にした。世間の思いやりと優しさに溢れた、多くの感動を呼ぶ話が、こんなにもたくさんあるのだ。青児さんのこの新しい本を読むと、私たちの心に愛が満ちてくる。思いやりと優しさというものは、私たちに、人間(じんかん)の愛は至る所に在るのだと教えてくれている。

( 慈済月刊七〇〇期より)

愛で夢を紡ぐ 
静思読書書軒の美と善

⌑ 作者:蔡青児
⌑ 定価:420元
⌑ 出版社:静思人文、発光体文化 

※台湾各地の静思書軒店舗及びオンラインショップでお求めください

二〇二一年、ジンスーブックカフェ運営部長の蔡青児さんは、初の著書『読書で希望を咲かせよう〜静思読書書軒の歩み』を出版した。当時は百五十軒だった静思読書書軒は、今年、三百軒を超えるまでに成長した。そこは、読書空間であるだけでなく、希望の種を蒔く心の田園となり、愛の中で知慧の種を育んでいるのだ。

それぞれの書軒の開業までには、心打つ話があり、偏境の子供から都市の学校までを繋げて、一枚の愛の地図を成しているのである。

關鍵字

慈済の出来事 4/15-5/23

台湾
Taiwan

●仏の生誕日、母の日、慈済デーの三節一体の日、世界46の国と地域で灌仏会が行われ、延べ22万人余りが参加した。灌仏会は、5月11日早朝、花蓮静思堂道侶広場で行われたのを皮切りに、13の国と地域でもライブで配信され、皆をオンラインで結んで行われた。夕方には台北市の中正紀念堂前広場で「仏誕浴仏親孝行感謝祈福会」が催された。各地の道場からの506名の長老や法師を迎えて、2万人近い参加者の先頭に立って、世の平安を祝った。

5月11日、中正紀念堂前広場で灌仏会が行われた。雨中、およそ2万人がともに法水(ほうすい)を受け、仏恩にあずかり、心を洗い清めた。

●慈済人文志業は5月、ニューヨークフェスティバルで、大愛全紀実番組『願望の重さ』が人道配慮部門のブロンズ賞に輝き、大愛ドラマ『光る心(Illuminating Hearts)』に出演した杜蕾(ドゥ・レイ)さんが最優秀女優賞に最終ノミネートされた。

●慈済大学看護学部(四年制、二年制)、看護専科(五年制)及び昨年度から始まった学士後看護学部は、台湾医療界における人材の新たな力となるだけでなく、転職を志す人への選択肢となっている。

●5月19日、新北市三峡区北大小学校近くで下校時間に、死者3人と負傷者12人の交通事故が発生した。ボランティアは直ちに事故現場で状況を把握し、夕方から鑑定を行っていた警察や消防署員たちにお茶を届けると同時に、病院へ負傷者と家族を見舞い、亡くなった人への助念を行って遺族に付き添った。

㊟亡くなった人のために直ちに念仏もしくは経を唱えるという儀式。

オーストラリア
Australia

●ブリスベンの慈済ボランティアは、400キロ離れた田舎町のタラで施療を行った。61名の医療人員と85名のボランティアが参加して675人の患者に奉仕した。中医、一般内科、歯科があり、歯科は46組の入れ歯を提供した。歯科技師が型取りから製作、調整まで行い、ほとんど夜を徹して行われた。

●タラの町は公共交通、医療資源、安定したインターネットが不足しているが、慈済の施療は18年間変わることのない約束であり、多くの住民はお金が貯まった竹筒募金箱を持って来た。会場では或る姉妹が自家製のクッキーをチャリティーで1000人あまりに販売し、円換算で36万円余りを寄付して施療の経費に役立てた。(4月17日~20日)

韓国
Korea

●3月末、史上最悪の山火事が発生した。慈済ボランティアは4月に三度にわたって被害調査を行い、20日に慶尚北道英陽郡石保郷沓谷里の避難所で緊急支援金を12世帯の25人に届けた。避難所の物資は充分にあったが、慈済ボランティアが自ら、彼らが最も必要としていた現金を届けてくれたことにとても感動した、と被災者が語った。

マレーシア
Malaysia

●マレーシア・ジョホール州は3月下旬、甚大な水害を被り、一時1万人以上が避難した。ボランティアは風雨の中、避難所を慰問し、携帯用食品や日用品、エコ毛布、福慧ベッドなどを届けた。慈済ジョホーバル支部は初めて州政府と共同で、ジョホールバル市のペルマスジャヤ、タムポイ、ゲランパタ、ウルティラムなどの各地区で、1300の被災世帯に見舞金を配付して家計を助けた。(4月25日)

グアテマラ
Guatemala

●グアテマラのボランティアは3月、スチテペケス県サンタバーバラ市に出向き、海抜1300メートルのロストラスマリア小学校で文具類の配付を行った際、トマトの採取に使う木箱を机代わりにしていたのに気づいた。学校側は何年も経費を政府に申請していたが、音沙汰がなかった。そこで、慈済は4月27日に62台の背もたれと物入れが付いた机を届けた。また、小学校には電気が通っていないため、市長が特別に発電機と音響設備を手配し、市政府管理職たちが出席する中、感謝の言葉が述べられた。

ミャンマー
Myanmar

●3月28日現地時間の14時20分にマグニチュード8・2の地震が発生し、20万人以上が住む所をなくした。ボランティアは4月2日から20日まで第一段階の支援を行なった。「仕事を与えて支援に代える」活動で延べ1342人が参加して、被災者を受け入れている寺院に仮住まい用テントを建てた。また、4つの病院には医療用品、504世帯に緊急支援金、11,818世帯に米と食用油を配付した他、福慧ベッドと蚊帳も配付された。4月27日から5月15日までは第二段階の支援として、食料の配付と仮設教室の建設が行われ、施療活動では495人を診察した。そして、中長期的支援に向かって資料を収集した。

アメリカ
USA

●慈済アメリカの災害支援が2カ月続けて肯定された。4月19日、カリフォルニア州アーケイディア市で第15回「国会年度女性賞」の授賞式が行われ、慈済国際長の曽慈慧さんが9人の受賞者の一人として、慈済がイートン火災の時に支援したことで表彰された。また、5月19日から22日まで、ケンタッキー州で全国災害ボランティア支援団体ネットワークの年次総会が開かれ、アメリカ各地の災害救助NPO代表が集まる中、曽さんがリーダーシップ賞を受賞した。彼女は創設から55年目のこの組織で初めてのアジア系で仏教系且つ女性リーダーとなった。この栄誉は證厳法師のリーダーシップの下に、アメリカと全世界の慈済人が共に成し遂げたものである、と彼女が語った。

台湾
Taiwan

●仏の生誕日、母の日、慈済デーの三節一体の日、世界46の国と地域で灌仏会が行われ、延べ22万人余りが参加した。灌仏会は、5月11日早朝、花蓮静思堂道侶広場で行われたのを皮切りに、13の国と地域でもライブで配信され、皆をオンラインで結んで行われた。夕方には台北市の中正紀念堂前広場で「仏誕浴仏親孝行感謝祈福会」が催された。各地の道場からの506名の長老や法師を迎えて、2万人近い参加者の先頭に立って、世の平安を祝った。

5月11日、中正紀念堂前広場で灌仏会が行われた。雨中、およそ2万人がともに法水(ほうすい)を受け、仏恩にあずかり、心を洗い清めた。

●慈済人文志業は5月、ニューヨークフェスティバルで、大愛全紀実番組『願望の重さ』が人道配慮部門のブロンズ賞に輝き、大愛ドラマ『光る心(Illuminating Hearts)』に出演した杜蕾(ドゥ・レイ)さんが最優秀女優賞に最終ノミネートされた。

●慈済大学看護学部(四年制、二年制)、看護専科(五年制)及び昨年度から始まった学士後看護学部は、台湾医療界における人材の新たな力となるだけでなく、転職を志す人への選択肢となっている。

●5月19日、新北市三峡区北大小学校近くで下校時間に、死者3人と負傷者12人の交通事故が発生した。ボランティアは直ちに事故現場で状況を把握し、夕方から鑑定を行っていた警察や消防署員たちにお茶を届けると同時に、病院へ負傷者と家族を見舞い、亡くなった人への助念を行って遺族に付き添った。

㊟亡くなった人のために直ちに念仏もしくは経を唱えるという儀式。

オーストラリア
Australia

●ブリスベンの慈済ボランティアは、400キロ離れた田舎町のタラで施療を行った。61名の医療人員と85名のボランティアが参加して675人の患者に奉仕した。中医、一般内科、歯科があり、歯科は46組の入れ歯を提供した。歯科技師が型取りから製作、調整まで行い、ほとんど夜を徹して行われた。

●タラの町は公共交通、医療資源、安定したインターネットが不足しているが、慈済の施療は18年間変わることのない約束であり、多くの住民はお金が貯まった竹筒募金箱を持って来た。会場では或る姉妹が自家製のクッキーをチャリティーで1000人あまりに販売し、円換算で36万円余りを寄付して施療の経費に役立てた。(4月17日~20日)

韓国
Korea

●3月末、史上最悪の山火事が発生した。慈済ボランティアは4月に三度にわたって被害調査を行い、20日に慶尚北道英陽郡石保郷沓谷里の避難所で緊急支援金を12世帯の25人に届けた。避難所の物資は充分にあったが、慈済ボランティアが自ら、彼らが最も必要としていた現金を届けてくれたことにとても感動した、と被災者が語った。

マレーシア
Malaysia

●マレーシア・ジョホール州は3月下旬、甚大な水害を被り、一時1万人以上が避難した。ボランティアは風雨の中、避難所を慰問し、携帯用食品や日用品、エコ毛布、福慧ベッドなどを届けた。慈済ジョホーバル支部は初めて州政府と共同で、ジョホールバル市のペルマスジャヤ、タムポイ、ゲランパタ、ウルティラムなどの各地区で、1300の被災世帯に見舞金を配付して家計を助けた。(4月25日)

グアテマラ
Guatemala

●グアテマラのボランティアは3月、スチテペケス県サンタバーバラ市に出向き、海抜1300メートルのロストラスマリア小学校で文具類の配付を行った際、トマトの採取に使う木箱を机代わりにしていたのに気づいた。学校側は何年も経費を政府に申請していたが、音沙汰がなかった。そこで、慈済は4月27日に62台の背もたれと物入れが付いた机を届けた。また、小学校には電気が通っていないため、市長が特別に発電機と音響設備を手配し、市政府管理職たちが出席する中、感謝の言葉が述べられた。

ミャンマー
Myanmar

●3月28日現地時間の14時20分にマグニチュード8・2の地震が発生し、20万人以上が住む所をなくした。ボランティアは4月2日から20日まで第一段階の支援を行なった。「仕事を与えて支援に代える」活動で延べ1342人が参加して、被災者を受け入れている寺院に仮住まい用テントを建てた。また、4つの病院には医療用品、504世帯に緊急支援金、11,818世帯に米と食用油を配付した他、福慧ベッドと蚊帳も配付された。4月27日から5月15日までは第二段階の支援として、食料の配付と仮設教室の建設が行われ、施療活動では495人を診察した。そして、中長期的支援に向かって資料を収集した。

アメリカ
USA

●慈済アメリカの災害支援が2カ月続けて肯定された。4月19日、カリフォルニア州アーケイディア市で第15回「国会年度女性賞」の授賞式が行われ、慈済国際長の曽慈慧さんが9人の受賞者の一人として、慈済がイートン火災の時に支援したことで表彰された。また、5月19日から22日まで、ケンタッキー州で全国災害ボランティア支援団体ネットワークの年次総会が開かれ、アメリカ各地の災害救助NPO代表が集まる中、曽さんがリーダーシップ賞を受賞した。彼女は創設から55年目のこの組織で初めてのアジア系で仏教系且つ女性リーダーとなった。この栄誉は證厳法師のリーダーシップの下に、アメリカと全世界の慈済人が共に成し遂げたものである、と彼女が語った。

關鍵字

カンボジアでの施療活動 運命を変えるチャンス

白内障手術は高額なので、片方の費用しか負担できない。抜歯の費用を捻出できず、十年間痛みをこらえるしかなかった。

カンボジアの辺境では医療の基本的な設備が限られ、専門医が不足しており、村の住民は病苦に耐えていた。二〇二四年十一月、その悪夢はようやく終局を迎えた……。

施療会場には中医など多くの診療科を設け、必要に応じて診療科を越えて診察を行う。

十一月一日から三日まで施療を行いますよ!眼科と歯科もあります」。カンボジア・バッタンバン州バベル郡では、慈済の施療の一週間前から、トゥクトゥクに宣伝用の横断幕が掲げられ、運転手のサク・コサルさんが毎日街を巡って宣伝し、チラシを配った。彼は熱心に親戚や近所の人々に知らせ、自分自身も診療を受けることにした。「私たちはとても貧しく、医者にかかると費用が高すぎて、とても払えないのです」。

市場で花を売る女性は、慈済ボランティアにこう話した。

「最近、動悸がして呼吸が苦しいと感じます。でも、病院には行きたくても行けません。生まれたばかりの子供が心臓病を抱えていて、頻繁に病院へ行かなければならないので、自分の治療に使うお金はありません。やっと無料で診療を受けられる日が来ました」。

国を跨いでバッタンバン州に集合

カンボジアは長年にわたり戦乱や自然災害に苦しんできた。そのため、WHOはカンボジア政府や国際的なパートナー、NGOと連携し、カンボジアを国民の健康と福祉の向上に取り組む重点国の一つにしている。だが、医療資源が限られ、治療費も高額なため、特に辺境の住民の多くは、病苦をこらえながらも受診を諦めざるを得なかった。

台湾、シンガポール、マレーシアから集まった医療スタッフとボランティアは、医療機器や医薬品を携え、十一月初めにカンボジアのボランティアと協力しながら北西部のバッタンバン州で施療活動を行った。診療は内科、外科、婦人科、眼科、歯科、中医などにわたり、三日間で延べ三千五百人近い患者を診察した。

慈済の施療は主にバベル郡のリファラル病院で、眼科の診療はバッタンバン州立病院で行われた。近郊にある村の六十四歳になるニエム・ポーク村長は、診療当日に慈済が手配したマイクロバスで来院し、手術を受けた。彼は白内障を患っており、一年前に私立病院で右眼の手術を受けたが、その時は片目分の費用しか負担できなかった。今ようやく、左眼の治療を受けることができ、自分に自信を取り戻してこう言った。

「手術台に横になるととても快適で、あっという間に終わりました。本当に速かったです」。

ペン・ヴェオンお婆ちゃんは、慈済に出会えてとても幸せだと喜んだ。

「以前は道が見えなくて、転んで家族に迷惑をかけるのが心配でした。白内障手術を受けた後でお医者さんが、これでよく見えるようになりますよ、と言ってくれました」。お婆ちゃんは嬉しそうに、ボランティアの顔を触りながら言った。「少なくとも今、あなたの顔の輪郭が見えるようになりました。あなたはハンサムですね!」。

バッタンバン州立病院眼科のヘン・トン医師は、医師として二十年のキャリアを持つ。彼は慈済ボランティアにカンボジアの医療状況について説明した。多くの医学生は卒業後、プノンペンなど大都市での勤務を選び、給与が比較的低い地方の病院では働きたがらない。そのため、地方には専門医が少ないのだそうだ。

「州立病院は政府の病院ですが、その診療費用は一般市民が負担できるものではありません」。

低所得層の人々は、交通費や医療費用が払えないため、NPOや村の隣人による支援か募金を待って診察を受ける以外に方法はない。ヘン・トン医師は、貧しい人々のために診療を行いたいが、自分一人の力には限界があるので、慈済の施療は、多くの患者が長年待ち望んでいたものである、と語った。また、近年になって政府が医療施設の整備に徐々に力を入れ始め、医療費用も次第に引き下げられているため、今後もっと多くの人々が政府の病院で診察を受けられるようになることを期待しているそうだ。

施療初日の朝8時過ぎの様子。村人は既に待合エリアに列を作り、10時の診察開始を待つ。

この機会を逃したら、次はいつになるかわからない

バッタンバン州バベル郡のリファラル病院の駐車場は、施療活動の間、臨時の歯科診療エリアへと姿を変えた。歯科医たちは透明なフェイスシールドをつけ、手を休めることなく、抜歯やスケーリング、虫歯治療に専念していた。側では助手たちが彼らの額の汗を拭い、手際よく器具を手渡していた。

歯科の待合エリアは、人でいっぱいだった。車椅子のお年寄り、幼い子どもを抱える若い母親もいる。テントの中ではそよ風に汗の匂いが混じり、隙間から差し込む陽光が、それぞれの期待と不安の入り混じる表情を照らしていた。彼らは、これが滅多にないチャンスであり、「この機会を逃したら、次はいつになるかわからない」ことを知っていた。

辺境の村では診療所の数が極めて少なく、村の住民は遠くまで足を運ばなければ歯医者にかかることができない。そして、虫歯を一本抜くだけで三十米ドル(約四千五百円)かかるため、彼らは痛みに耐えるか、特定の植物を噛んだり、塩水で口を漱いだりする伝統療法に頼るほか仕方がなかった。しかし、これらの方法では根本的な解決にはならず、むしろ感染症を引き起こすことさえある。

三日間の施療で歯科を受診した人は、七百四十一人に上った。花蓮慈済病院の李彝邦(リー・イーボン)歯科医は、「村人は、耐えられない程の痛みになってから、ようやく診察に来るのです。スケーリングは鉱山を掘っているようなもので、大量の歯石が出て来ます」と言った。

また、シンガポールで四十三年間歯科医をしてきた鄧国栄(ドン・グォロン)医師は、以前カンボジアで施療に参加したことがあり、現地の人々は歯の痛みを和らげるためにただ抜歯を求めるだけだったと振り返る。慈済の歯科医たちは一本でも多くの歯を残すことに努め、虫歯治療やスケーリングを施し、重度の虫歯でも、状態によっては現地で高額な根管治療であっても行った。

二十二歳のケオ・ムイサンさんは、十年前から食事をする度に激しい歯の痛みに悩まされてきた。歯科に行っても鎮痛剤を処方するだけで、五日分の薬代は二十五米ドルもかかる。彼女の両親は野菜を栽培していて、出荷して得られる収入はわずかだ。それでも娘の痛みを和らげるために薬を買ってあげたいと、ついには小さな農地まで手放してしまった。

慈済の施療チームが彼女を診察してX線検査を行うと、複数の歯はすでに残すことができないほどになっていることが分かった。医師は優しく、「今日は一本だけ抜いて、明日、残りの処置をしよう」と説明した。診察台のそばで、彼女が母親のざらついた手を強く握りしめると、母親はまだ心配ではあるが、まるで悪夢がようやく終局に近づいたかのように、少し安堵していた。

抜歯が終わると、彼女の張り詰めた表情が次第に和らぎ、痛みから解放された。母親は、感極まってこう言った。

「本当にありがとうございました。抜いてくださったのは、悪い歯だけではありません。娘が十年間苦しみ続けた痛みそのものです」。

歯の治療前に、医師とアシスタントが協力して患者の口腔の✕線検査を行う。(撮影・梁倩宜)

九歳の子供の五本の指が開くように

施療活動の前日、医療チームは、近々手術を受ける九歳のホルム・トラ君の家を訪ねた。ホルム・トラ君は知らない人を見て警戒し、両手を背中の後ろに隠した。その様子を見て、母親のチウ・ソク・パナーさんは、誤解されないようにと急いで説明した。ホルム・トラくんは先天性の合指症で、生まれつき右手の中指と薬指、親指と人差し指、そして左手の人差し指と中指がくっついていた。そのため、一層人見知りになっていた。

ホルム・トラくんが三歳の時、右手の親指と人差し指の分離手術に成功したが、その他の手術はリスクが高いため、医師は治療しない方がいいと判断した。以来、ホルム・トラ君の右手は力が入らず、食事や筆記はすべて左手でこなして来た。しかし、何よりも辛かったのは、学校で友達に指が変だとからかわれ、特別な目で見られることだった。家は貧しく、農業で四人の子どもを養っているため、パナーさんには息子をプノンペンの大病院に連れて行く余裕はなく、息子が孤独と劣等感を抱えながら暮らす姿を、ただ見守ることしかできなかった。

「十月初め、夫が市場で慈済の施療のことを耳にし、十三日に医者による事前診察があると知って、直ぐ息子を検査のために連れて行きました。すると、十一月一日に手術を受けられるという連絡を受けました。それは海外の医師が執刀してくれるということだったので、私たちは信頼できると感じました」。この良い知らせを聞いて、パナーさんは思わず涙を流した。

ホルム・トラくんの手術を担当したのは、シンガポールの形成外科である馮寶興(フォン・パオシン)医師で、彼は十年以上の施療経験があった。彼は事前に病歴報告を確認し、通訳を通じてパナーさんに説明した。右手の合指は骨がつながっているので分離が難しいが、健康には影響しないこと。そして、左手は手術すれば、五本の指が正常の人と同じようになるということだった。

ホルム・トラくんは手術台に横たわると、怖くなって泣き出した。ボランティアと看護師は急いで彼を抱きしめ、優しく慰めた。手術中、看護師はホルム・トラくんの顔を軽く横に向け、母親に手のひらで覆うように促して医師を見ないように配慮した。その間、ボランティアがスマホでアニメを見せて、ホルム・トラくんの注意を引いた。

二時間後、手術室から出てきたホルム・トラくんは、母親に「全然痛くなかったよ」と伝えた。パナーさんは彼に、来週、病院に来て包帯を取り除いたら、あなたの左手は五本の指が開くようになるのよと伝えた。

ホルム・トラくんが照れながらお礼を言う姿を見て、馮医師も感動した。「施療会場の手術室は非常に簡素で、病院とは天と地ほどの差があります。施療経験の豊富な医師が担当して初めて、失敗しないようにすることができるのです。もし私がこの手術を引き受けなければ、子どもは運命を変えることができず、一生の悔いとなったでしょう」。

バッタンバン公立聯華学校の陳秀華(チェン・シュウフワ)校長(写真上・中央)は72歳。30年間慈済の通訳支援を続けている。今回は特に70代の女性6人と41人の生徒と教師に通訳をお願いし、遠くから来た医師やボランティアの愛を、言葉の壁なく伝える。(撮影・覃平福)

若い頃に陳秀華校長と共にクメール語の通訳を手伝った村人は、今はもうお祖母さん世代だが、今なお共に活躍し、通訳を通じて愛と温もりを届け続けている。(撮影・江欣燕)

医療チームの最強の後ろ盾

今回の大規模な施療活動を準備するために、慈済カンボジア連絡所は四月、地元ボランティアの募集を拡大し、国をも跨いで過去に施療活動を主催したことがあるシンガポールのボランティアチームを招き、トレーニングを実施した。十月三十日、先遣隊がバベル郡のリファラル病院に入り、今年主催するマレーシアチームも、シンガポールボランティアの付き添いの下で事前準備を開始した。台湾からは斗六慈済病院の簡瑞騰(ジェン・ルイトン)院長が率いるチームが、大型の台風二十一号(コンレイ)によって飛行機が欠航になる前に順調に飛び立った。

ボランティアは農業用トラクターを借り、学校から机や椅子を借りて運び、会場を設営した。マレーシア外科医の史家盈(スー・ジアイン)医師は、手術室と器材を設置した。

二十年以上にわたり国内外の施療活動を支援してきた台南のボランティア、林金安(リン・ジンアン)さんは、経験豊富なプロの機械修理工である。彼にとって、全ての医療機器やパイプは患者に適切なケアを受けることを保証する要なのだそうだ。歯科医療機器が正常に作動するようにと彼は各種部品を事前に用意し、シンプルなスイッチから複雑な配線に至るまで備えるようにしている。彼は、三十キロを超える荷物を肩に担ぐことも厭わない。部品が足りないことで機械が動かなくならないようにしたいからだ。

施療の前日、六台の歯科医療機器をテストした結果、一台が酷く故障していたので、彼は二時間かけて修理を行い、やっとのことで直した。問題は多かったが、強い意志で集中する表情と熟練した動作からは、長年蓄積された経験に基づき、機器のニーズを「聴診」できるようになったのだと見てとれた。

彼は、かつてガンと診断されたので仕事を止め、事業を完全に手放した。だが、そのことから生命の価値を再発見し、慈済の施療活動で機械修理に専念するようになり、今では医療チームの信頼できる後ろ盾となっている。

「ここに来て、やるべきことを成し遂げ、機器が正常に作動するのを見ると、心から喜びを感じます」。

臨時に設営された外科手術室では、3つの手術台で同時に手術が進行する(写真1)。手術後、医療スタッフにお礼を述べる患者(写真2)。(撮影・梁倩宜)

施療開始前、ボランティアチームは歯科診療用の椅子を一つずつ点検し、修理を行う。(撮影・曽秋莉)

精密眼科医療機器の大募集

熱帯地域は日照時間が長く、紫外線が強いため、目の水晶体が濁り易い上に、糖質の高い食習慣が水晶体の酸化を加速させる。それにつれて白内障手術のニーズは、加齢と共に増加する。慈済セランゴール連絡所医療調整チームの曽文発(ヅン・ウェンファ)医師によると、現地の人々のかすみ目や視力低下は、主に白内障が原因だという。

眼科チームは、例えば白内障超音波結晶体乳化装置や眼科手術用顕微鏡、細隙灯顕微鏡、高圧滅菌器などの医療機器を、十分に備える必要がある。曽医師によると、「医療スタッフは揃っていますが、最大の問題は医療機器が不足していることです」。

チーム全員が精一杯、各自の人脈やリソースを活用して必要な機器を集めた。マレーシア・クアラルンプールにあるトゥンクアジザ病院の小児眼科医、呉秀雲(ウー・シュウユン)医師も、全力を尽くして交流のない眼科病院に電話したり、メールを送ったり、直接訪問したりした。幾つかの困難を経て、最終的に診療現場のニーズを満たした。

眼科チームは施療の初日に二十一件の手術を完了し、呉医師はチームのメンバーに深く感謝した。

「一つの手術を終えるたびに、患者さんが正常な日常生活を取り戻し、家族の世話ができるようになるのを見ると、とても安堵しました」。今回はセランゴール連絡所にとって初めての眼科施療であり、チームに大きなモチベーションをもたらした。

初日に延べ六百人余りを診察したが、口コミで翌日には患者が急増した。三日目は午後三時に終了する予定だったが、患者が次々と来たため、医療チームは、診療時間を延長してできる限り多くの人を診察することを決めた。緊張しながらやって来て、治療が終わると嬉しそうな笑顔で帰っていく姿に、全てのボランティアは心を温かくした。

(慈済月刊六九七期より)

白内障手術は高額なので、片方の費用しか負担できない。抜歯の費用を捻出できず、十年間痛みをこらえるしかなかった。

カンボジアの辺境では医療の基本的な設備が限られ、専門医が不足しており、村の住民は病苦に耐えていた。二〇二四年十一月、その悪夢はようやく終局を迎えた……。

施療会場には中医など多くの診療科を設け、必要に応じて診療科を越えて診察を行う。

十一月一日から三日まで施療を行いますよ!眼科と歯科もあります」。カンボジア・バッタンバン州バベル郡では、慈済の施療の一週間前から、トゥクトゥクに宣伝用の横断幕が掲げられ、運転手のサク・コサルさんが毎日街を巡って宣伝し、チラシを配った。彼は熱心に親戚や近所の人々に知らせ、自分自身も診療を受けることにした。「私たちはとても貧しく、医者にかかると費用が高すぎて、とても払えないのです」。

市場で花を売る女性は、慈済ボランティアにこう話した。

「最近、動悸がして呼吸が苦しいと感じます。でも、病院には行きたくても行けません。生まれたばかりの子供が心臓病を抱えていて、頻繁に病院へ行かなければならないので、自分の治療に使うお金はありません。やっと無料で診療を受けられる日が来ました」。

国を跨いでバッタンバン州に集合

カンボジアは長年にわたり戦乱や自然災害に苦しんできた。そのため、WHOはカンボジア政府や国際的なパートナー、NGOと連携し、カンボジアを国民の健康と福祉の向上に取り組む重点国の一つにしている。だが、医療資源が限られ、治療費も高額なため、特に辺境の住民の多くは、病苦をこらえながらも受診を諦めざるを得なかった。

台湾、シンガポール、マレーシアから集まった医療スタッフとボランティアは、医療機器や医薬品を携え、十一月初めにカンボジアのボランティアと協力しながら北西部のバッタンバン州で施療活動を行った。診療は内科、外科、婦人科、眼科、歯科、中医などにわたり、三日間で延べ三千五百人近い患者を診察した。

慈済の施療は主にバベル郡のリファラル病院で、眼科の診療はバッタンバン州立病院で行われた。近郊にある村の六十四歳になるニエム・ポーク村長は、診療当日に慈済が手配したマイクロバスで来院し、手術を受けた。彼は白内障を患っており、一年前に私立病院で右眼の手術を受けたが、その時は片目分の費用しか負担できなかった。今ようやく、左眼の治療を受けることができ、自分に自信を取り戻してこう言った。

「手術台に横になるととても快適で、あっという間に終わりました。本当に速かったです」。

ペン・ヴェオンお婆ちゃんは、慈済に出会えてとても幸せだと喜んだ。

「以前は道が見えなくて、転んで家族に迷惑をかけるのが心配でした。白内障手術を受けた後でお医者さんが、これでよく見えるようになりますよ、と言ってくれました」。お婆ちゃんは嬉しそうに、ボランティアの顔を触りながら言った。「少なくとも今、あなたの顔の輪郭が見えるようになりました。あなたはハンサムですね!」。

バッタンバン州立病院眼科のヘン・トン医師は、医師として二十年のキャリアを持つ。彼は慈済ボランティアにカンボジアの医療状況について説明した。多くの医学生は卒業後、プノンペンなど大都市での勤務を選び、給与が比較的低い地方の病院では働きたがらない。そのため、地方には専門医が少ないのだそうだ。

「州立病院は政府の病院ですが、その診療費用は一般市民が負担できるものではありません」。

低所得層の人々は、交通費や医療費用が払えないため、NPOや村の隣人による支援か募金を待って診察を受ける以外に方法はない。ヘン・トン医師は、貧しい人々のために診療を行いたいが、自分一人の力には限界があるので、慈済の施療は、多くの患者が長年待ち望んでいたものである、と語った。また、近年になって政府が医療施設の整備に徐々に力を入れ始め、医療費用も次第に引き下げられているため、今後もっと多くの人々が政府の病院で診察を受けられるようになることを期待しているそうだ。

施療初日の朝8時過ぎの様子。村人は既に待合エリアに列を作り、10時の診察開始を待つ。

この機会を逃したら、次はいつになるかわからない

バッタンバン州バベル郡のリファラル病院の駐車場は、施療活動の間、臨時の歯科診療エリアへと姿を変えた。歯科医たちは透明なフェイスシールドをつけ、手を休めることなく、抜歯やスケーリング、虫歯治療に専念していた。側では助手たちが彼らの額の汗を拭い、手際よく器具を手渡していた。

歯科の待合エリアは、人でいっぱいだった。車椅子のお年寄り、幼い子どもを抱える若い母親もいる。テントの中ではそよ風に汗の匂いが混じり、隙間から差し込む陽光が、それぞれの期待と不安の入り混じる表情を照らしていた。彼らは、これが滅多にないチャンスであり、「この機会を逃したら、次はいつになるかわからない」ことを知っていた。

辺境の村では診療所の数が極めて少なく、村の住民は遠くまで足を運ばなければ歯医者にかかることができない。そして、虫歯を一本抜くだけで三十米ドル(約四千五百円)かかるため、彼らは痛みに耐えるか、特定の植物を噛んだり、塩水で口を漱いだりする伝統療法に頼るほか仕方がなかった。しかし、これらの方法では根本的な解決にはならず、むしろ感染症を引き起こすことさえある。

三日間の施療で歯科を受診した人は、七百四十一人に上った。花蓮慈済病院の李彝邦(リー・イーボン)歯科医は、「村人は、耐えられない程の痛みになってから、ようやく診察に来るのです。スケーリングは鉱山を掘っているようなもので、大量の歯石が出て来ます」と言った。

また、シンガポールで四十三年間歯科医をしてきた鄧国栄(ドン・グォロン)医師は、以前カンボジアで施療に参加したことがあり、現地の人々は歯の痛みを和らげるためにただ抜歯を求めるだけだったと振り返る。慈済の歯科医たちは一本でも多くの歯を残すことに努め、虫歯治療やスケーリングを施し、重度の虫歯でも、状態によっては現地で高額な根管治療であっても行った。

二十二歳のケオ・ムイサンさんは、十年前から食事をする度に激しい歯の痛みに悩まされてきた。歯科に行っても鎮痛剤を処方するだけで、五日分の薬代は二十五米ドルもかかる。彼女の両親は野菜を栽培していて、出荷して得られる収入はわずかだ。それでも娘の痛みを和らげるために薬を買ってあげたいと、ついには小さな農地まで手放してしまった。

慈済の施療チームが彼女を診察してX線検査を行うと、複数の歯はすでに残すことができないほどになっていることが分かった。医師は優しく、「今日は一本だけ抜いて、明日、残りの処置をしよう」と説明した。診察台のそばで、彼女が母親のざらついた手を強く握りしめると、母親はまだ心配ではあるが、まるで悪夢がようやく終局に近づいたかのように、少し安堵していた。

抜歯が終わると、彼女の張り詰めた表情が次第に和らぎ、痛みから解放された。母親は、感極まってこう言った。

「本当にありがとうございました。抜いてくださったのは、悪い歯だけではありません。娘が十年間苦しみ続けた痛みそのものです」。

歯の治療前に、医師とアシスタントが協力して患者の口腔の✕線検査を行う。(撮影・梁倩宜)

九歳の子供の五本の指が開くように

施療活動の前日、医療チームは、近々手術を受ける九歳のホルム・トラ君の家を訪ねた。ホルム・トラ君は知らない人を見て警戒し、両手を背中の後ろに隠した。その様子を見て、母親のチウ・ソク・パナーさんは、誤解されないようにと急いで説明した。ホルム・トラくんは先天性の合指症で、生まれつき右手の中指と薬指、親指と人差し指、そして左手の人差し指と中指がくっついていた。そのため、一層人見知りになっていた。

ホルム・トラくんが三歳の時、右手の親指と人差し指の分離手術に成功したが、その他の手術はリスクが高いため、医師は治療しない方がいいと判断した。以来、ホルム・トラ君の右手は力が入らず、食事や筆記はすべて左手でこなして来た。しかし、何よりも辛かったのは、学校で友達に指が変だとからかわれ、特別な目で見られることだった。家は貧しく、農業で四人の子どもを養っているため、パナーさんには息子をプノンペンの大病院に連れて行く余裕はなく、息子が孤独と劣等感を抱えながら暮らす姿を、ただ見守ることしかできなかった。

「十月初め、夫が市場で慈済の施療のことを耳にし、十三日に医者による事前診察があると知って、直ぐ息子を検査のために連れて行きました。すると、十一月一日に手術を受けられるという連絡を受けました。それは海外の医師が執刀してくれるということだったので、私たちは信頼できると感じました」。この良い知らせを聞いて、パナーさんは思わず涙を流した。

ホルム・トラくんの手術を担当したのは、シンガポールの形成外科である馮寶興(フォン・パオシン)医師で、彼は十年以上の施療経験があった。彼は事前に病歴報告を確認し、通訳を通じてパナーさんに説明した。右手の合指は骨がつながっているので分離が難しいが、健康には影響しないこと。そして、左手は手術すれば、五本の指が正常の人と同じようになるということだった。

ホルム・トラくんは手術台に横たわると、怖くなって泣き出した。ボランティアと看護師は急いで彼を抱きしめ、優しく慰めた。手術中、看護師はホルム・トラくんの顔を軽く横に向け、母親に手のひらで覆うように促して医師を見ないように配慮した。その間、ボランティアがスマホでアニメを見せて、ホルム・トラくんの注意を引いた。

二時間後、手術室から出てきたホルム・トラくんは、母親に「全然痛くなかったよ」と伝えた。パナーさんは彼に、来週、病院に来て包帯を取り除いたら、あなたの左手は五本の指が開くようになるのよと伝えた。

ホルム・トラくんが照れながらお礼を言う姿を見て、馮医師も感動した。「施療会場の手術室は非常に簡素で、病院とは天と地ほどの差があります。施療経験の豊富な医師が担当して初めて、失敗しないようにすることができるのです。もし私がこの手術を引き受けなければ、子どもは運命を変えることができず、一生の悔いとなったでしょう」。

バッタンバン公立聯華学校の陳秀華(チェン・シュウフワ)校長(写真上・中央)は72歳。30年間慈済の通訳支援を続けている。今回は特に70代の女性6人と41人の生徒と教師に通訳をお願いし、遠くから来た医師やボランティアの愛を、言葉の壁なく伝える。(撮影・覃平福)

若い頃に陳秀華校長と共にクメール語の通訳を手伝った村人は、今はもうお祖母さん世代だが、今なお共に活躍し、通訳を通じて愛と温もりを届け続けている。(撮影・江欣燕)

医療チームの最強の後ろ盾

今回の大規模な施療活動を準備するために、慈済カンボジア連絡所は四月、地元ボランティアの募集を拡大し、国をも跨いで過去に施療活動を主催したことがあるシンガポールのボランティアチームを招き、トレーニングを実施した。十月三十日、先遣隊がバベル郡のリファラル病院に入り、今年主催するマレーシアチームも、シンガポールボランティアの付き添いの下で事前準備を開始した。台湾からは斗六慈済病院の簡瑞騰(ジェン・ルイトン)院長が率いるチームが、大型の台風二十一号(コンレイ)によって飛行機が欠航になる前に順調に飛び立った。

ボランティアは農業用トラクターを借り、学校から机や椅子を借りて運び、会場を設営した。マレーシア外科医の史家盈(スー・ジアイン)医師は、手術室と器材を設置した。

二十年以上にわたり国内外の施療活動を支援してきた台南のボランティア、林金安(リン・ジンアン)さんは、経験豊富なプロの機械修理工である。彼にとって、全ての医療機器やパイプは患者に適切なケアを受けることを保証する要なのだそうだ。歯科医療機器が正常に作動するようにと彼は各種部品を事前に用意し、シンプルなスイッチから複雑な配線に至るまで備えるようにしている。彼は、三十キロを超える荷物を肩に担ぐことも厭わない。部品が足りないことで機械が動かなくならないようにしたいからだ。

施療の前日、六台の歯科医療機器をテストした結果、一台が酷く故障していたので、彼は二時間かけて修理を行い、やっとのことで直した。問題は多かったが、強い意志で集中する表情と熟練した動作からは、長年蓄積された経験に基づき、機器のニーズを「聴診」できるようになったのだと見てとれた。

彼は、かつてガンと診断されたので仕事を止め、事業を完全に手放した。だが、そのことから生命の価値を再発見し、慈済の施療活動で機械修理に専念するようになり、今では医療チームの信頼できる後ろ盾となっている。

「ここに来て、やるべきことを成し遂げ、機器が正常に作動するのを見ると、心から喜びを感じます」。

臨時に設営された外科手術室では、3つの手術台で同時に手術が進行する(写真1)。手術後、医療スタッフにお礼を述べる患者(写真2)。(撮影・梁倩宜)

施療開始前、ボランティアチームは歯科診療用の椅子を一つずつ点検し、修理を行う。(撮影・曽秋莉)

精密眼科医療機器の大募集

熱帯地域は日照時間が長く、紫外線が強いため、目の水晶体が濁り易い上に、糖質の高い食習慣が水晶体の酸化を加速させる。それにつれて白内障手術のニーズは、加齢と共に増加する。慈済セランゴール連絡所医療調整チームの曽文発(ヅン・ウェンファ)医師によると、現地の人々のかすみ目や視力低下は、主に白内障が原因だという。

眼科チームは、例えば白内障超音波結晶体乳化装置や眼科手術用顕微鏡、細隙灯顕微鏡、高圧滅菌器などの医療機器を、十分に備える必要がある。曽医師によると、「医療スタッフは揃っていますが、最大の問題は医療機器が不足していることです」。

チーム全員が精一杯、各自の人脈やリソースを活用して必要な機器を集めた。マレーシア・クアラルンプールにあるトゥンクアジザ病院の小児眼科医、呉秀雲(ウー・シュウユン)医師も、全力を尽くして交流のない眼科病院に電話したり、メールを送ったり、直接訪問したりした。幾つかの困難を経て、最終的に診療現場のニーズを満たした。

眼科チームは施療の初日に二十一件の手術を完了し、呉医師はチームのメンバーに深く感謝した。

「一つの手術を終えるたびに、患者さんが正常な日常生活を取り戻し、家族の世話ができるようになるのを見ると、とても安堵しました」。今回はセランゴール連絡所にとって初めての眼科施療であり、チームに大きなモチベーションをもたらした。

初日に延べ六百人余りを診察したが、口コミで翌日には患者が急増した。三日目は午後三時に終了する予定だったが、患者が次々と来たため、医療チームは、診療時間を延長してできる限り多くの人を診察することを決めた。緊張しながらやって来て、治療が終わると嬉しそうな笑顔で帰っていく姿に、全てのボランティアは心を温かくした。

(慈済月刊六九七期より)

關鍵字

血縁以上の絆 ドナーと移植希望者の対面

ドナーと移植希望者の遺伝子の適合は、実の兄弟でさえ達成できないものであり、「喜びの対面」では生命の奇跡として見届けることができる。

そこには、危機から生還した移植希望者の勇気と強靭さ、そして誰かの尊い未来を繋ぎたいという無私のドナーの愛の両方がある。

陳昌隆さん(右)はずっと恩人に会いたい一心だったが、6年後遂にその願いが叶い、自ら造血幹細胞提供者の鄒宜青さん(左)に感謝の意を伝えた。

陳昌隆(チェン・チャンロン)さんは、癌だと診断された時、一つの思いを心に抱いた。「神様、どうかこの命を少し延ばしてください。どうしてもこの世を去らなければならないならば、両親より後にしてください」。陳さんは未婚者なので家庭のしがらみがなく、生まれつき楽天的で親孝行だったが、唯一つ、願いがあった。「親が子を見送る」という胸が張り裂けるような悲しみを、自分の親に経験して欲しくないのだ。

二〇一六年の旧正月前、彼の皮膚に赤い発疹が現れ、全身がかゆく、めまいや下痢に悩まされた。皮膚科、腎臓内科、神経科、リウマチ・免疫内科、血液内科などの外来で受診し、七人もの医師に診てもらったが、病因を突き止めることはできなかった。診察室を出るといつも、「剣を抜いて辺りを見回しては混乱」しながら、真の敵がどこに潜んでいるのかが分からないまま、嘆き悲しんだ。

最終的に血液内科で骨髄穿刺検査を受けた結果、骨髄異形成症候群(MDS)と診断された。彼はあまり悲しむことなく、逆に病巣の正体が分かったことで心が晴れた。二〇一七年八月から化学療法と分子標的治療を開始したが、効果は芳しくなかった。医師から根治には造血幹細胞移植が必要だと言われた。幸いに彼はベストマッチのドナーさんが決まり、二〇一八年三月に自身の骨髄を全て破壊する療法に続いて移植を受けることになった。

移植から数週間後、彼は針で刺されるような激しい頭痛、高い黄疸指数、爆発的な急性肝拒絶反応に見舞われた。大量のステロイド注射を受けることによってなんとか症状を安定させたが、手の震え、黒ずんだ爪、むくみ、歯茎の露出といった副作用が現れた。その後、腎臓の感染症で化膿したため、CTスキャンによる検査をすることになり、その前に造影剤を注射したところ、深刻なアレルギー反応を起こし、四本の強心剤を打ってようやく一命を取り留めた。その後も三叉神経に潜んだウイルスによるヘルペスが発症した。

一年が経過し、アレルギー症状を除く拒絶反応は見られなくなった。徐々に回復した彼は、命の恩人に一目会いたいと強く願った。彼は、ドナーに連絡したいと、自分とドナーのマッチングに協力してくれた慈済骨髄幹細胞センターに手紙を書いたが、双方のプライバシーを守るため、その願いはすぐには叶わなかった。

強く生きてくれて、ありがとう

六年間待ちに待った陳さんは、ついにその日を迎えることができた。彼は台中で金物屋を営んでいるが、前日には台北に到着して宿泊した。十月十九日、慈済三重志業パークで慈済骨髓幹細胞センターの三十一周年記念が行われ、そこでの「喜びの対面」式に参加した。

緊張の瞬間が訪れ、彼がステージに上がる番になった。恩人が現れると、彼は照れくさそうに微笑み、司会者の陳竹琪(チェン・ヅゥ―チー)さんに促されて、二人ははじめて喜びの抱擁を交わした。ドナーの鄒宜青(ヅォウ・イーチン)さんは、彼がこれほど健康に回復しているのを見て、長い間の心配がようやく解消したと言った。陳さんは、マッチングに成功したこと自体がラッキーなので、感謝の気持ちでいっぱいだった。また、拒絶反応による苦痛は試練の過程に過ぎず、耐えることで乗り越えられたと述べた。

鄒さんは、三十歳の時に採血して骨髄バンクに登録したそうだ。マッチングの通知を受けるまで十四年かかったが、移植希望者とのこの出会いに、広い世界に存在する不思議な縁を感じたという。当初、骨髄を提供するかどうか迷ったのは、提供方法を理解していなかったからだった。その後、献血するのと同じようなことだと分かり、夫も家族も賛成してくれた。相手を救えるのは自分しかないことを知って、提供しようと決心した。

鄒さんが花蓮慈済病院で末梢血幹細胞を採取した際に、体調を崩したことを聞いた陳さんは、とても心が痛んだ。鄒さんは、移植希望者が既に白血球の殲滅療法を行い、無菌室で造血幹細胞の移植を待っているのでもう後戻りできないことを知り、その人が生き延びてくれることだけを願った。幸いに、彼女の体調は回復し、健康を取り戻した。

移植後、陳さんの血液型はA型からO型に変わり、性格も以前より明るくなった。今、彼は慈善団体に常々寄付をすることでドナーへ恩返しをしている。「彼女が居てくれたことで、世の中の大愛を知ることができたのです」。すると、鄒さんは陳氏に返した。

「あなたが居てくれたから、私は非凡な人間になれたのです。強く生きてくれて、ありがとう」。

簡聡良さん(右)は、自分と家族が心を込めて書いたカードを送り、陳政彬さん(左)の骨髄提供に感謝した。

やって良かった

対面の日、七組のドナーと移植希望者がステージで体験を分かち合った。式典では、二〇二三年七月から二〇二四年六月までに骨髄を寄贈した八十一名のドナーに対し、感謝を表明して記念プレートが贈られた。慈済骨髄幹細胞センターが設立されて三十一年目を迎えるが、これまでに三十一の国と地域から骨髄が提供され、六千八百件余りの移植が行われた。適合率は非常に低いので大海原で針を探すにも似たこのプロジェクトは、全て献身的に奔走して登録者を募る慈済ボランティアと、ドナーの無私の奉仕によって支えられている。「命を救う」のだから、苦しみなどかえりみないのだ。

二〇一八年、オーストラリアでのワーキングホリデーを終えたばかりの陳政彬(チェン・ヅンビン)さんは、台湾に帰国した翌日に、登録した骨髄がマッチングしたという電話を受け取った。「最初は詐欺かと思いました」。驚いた彼だったが、ボランティアが諦めずに連絡をし続けたことで、高校時代に骨髄ドナーの登録をしたことを思い出した。しかし、最初は「骨髄液」を抽出するのだと考えて少し怖くなった。それからボランティアの説明を受け、ネットで調べた資料を理解すると、それは世間の誤伝だったことが分かった。移植する骨髄幹細胞によって、血液疾患患者に新たな命を与えられることを知った彼は、毅然として寄贈を決心し、家族も全面的に支持してくれた。

ドナーは白血球成長ホルモンの注射(PRP療法)を受けると、献血と同じような方法で末梢血幹細胞を収集する。順調に健康な造血幹細胞が抽出できるようにと陳さんは生活のリズムを整え、夜更かしを避け、定期的にジムに行って体を動かした。移植希望者の体格が大柄であるため、二日間に分けて末梢血幹細胞を収集することになった。一日目は八時間、二日目は更に四時間かけて採取した。陳さんは、それら一連の過程に辛さも体調不良も感じなかった。逆に、普段は仕事が忙しいので、その二日間は休暇のようなものとなり、とてもリラックスできた。

陳さんよりも二十一歳上になる移植希望者の簡聡良(ジエン・ツォンリャン)さんは、移植後の拒絶反応は軽微で、新たな命を手にしたことに感謝の気持ちでいっぱいだと語った。この六年間、彼は誕生日を毎年二回祝っている。一回は本来の誕生日で、もう一回は骨髄移植をして生まれ変わった四月二十四日である。死と隣り合わせという恐怖を体験したことで、彼の人生観も変わったそうだ。

「以前はお金をもっと稼がなければとか、子どもにより良い物質的な生活をさせなければとか考えていました。今は、心が広くなり、あまり物事にこだわらなくなりました。命より貴いものはないと感じています」。

簡さんは、長年、中国の蘇州に駐在している関係で、現地で結婚して家庭を築いている。しかし、二〇一八年一月に体の不調が現れ、帰国して検査を受けたところ、重度の再生不良性貧血(SAA)と診断された。医師から造血幹細胞移植を勧められた彼は、五十歳まではほとんど保険証を使ったことがなかったが、突然大病に見舞われたので、安定していた家族生活を大きく揺さぶられることになった。

「順調にマッチング相手が見つかるのだろうか?」

「二人の子どもがまだ幼いのに、どうすればいいのだろう」。

家族の寄り添いが、簡さんにとって強力な支えとなって、前向きに治療の辛さに向き合うことができた。非血縁間のマッチング成功率は僅か十万分の一である。しかし、とても幸運なことに、二カ月も経たないうちに慈済骨髄幹細胞センターで、 100%抗原遺伝子がマッチングしたドナーが見つかったのだ。「私は不運にも病気に罹りましたが、最も幸運な人でもあります。病気が重くて助けてくれる人がいなかったときに、あなたの大いなる献身によって、私は生まれ変わることができました」。自ら書いた感謝の手紙を、ドナーの陳さんに手渡した。

近年、陳さんの定期的なフォローアップレポートは、健康状況が良好であることを示している。彼はよく自分を例に挙げて、親戚や友人に体験を話しているが、妹も妻も心を打たれ、ドナー登録を済ませた。「彼が頑張って生きてくれたことに感謝しています。人の命を救えたことは、私にとって重大な意義があります」。陳さんは、以前はドナーになったことは良いことだ、とぐらいしか思わなかったが、最近母親が癌に罹ってからは、移植希望者とその家族の焦りが、より理解できるようになった。生涯で人の命を救う機会は今回かぎりかもしれないが、それができてとても嬉しいと語ってくれた。

画家の劉豐来(右4)は、自ら手描きした花鳥の水墨画を通じて、彼女の提供者である曽惠平(左2)に感謝の意を表した。

命を救うために灯をともす

曽惠平(ヅン・フエイピン)さんは、台北で採血してHLA型登録をし、十六年後に初めてマッチングの初期通知を受け取った。彼女はそれまでに何度か転職し、台中に引っ越していた。実家にはインターホンがなかったため、慈済ボランティアは誰かがドアを開けてくれるまで待ち続けるしかなかった。幸いにも彼女の弟の妻が外出しようと出てきたので、彼女に電話で伝えてもらった。「慈済ボランティアが二人来ていて、あなたを探していますよ」。

彼女は、ドナーの遺伝子が移植希望者に影響して、髪の質や血液型が相手のものと同じになる可能性があることを知って、感動のあまり涙を流した。新しい赤ん坊を授かったような気持ちになったからだ。白血球を増やす薬剤の注射をしたが、何も副作用はなかった。家族や友人の励ましと付き添いの中で、自分は幸福に満ちた人間だと思った。

曽さんの心の中の「赤ん坊」は、六十八歳の画家である劉豊来(リュウ・フォンライ)さんで、二〇二四年九月に五回目の個展を開いた。劉さんとその家族は皆、「喜びの対面式」に出席して、ドナーである曽さんに感謝の意を伝えた。劉さんは、この六年間、再診に行くたびに「いつ私のドナーに会えるのですか」と訊いた。そして、彼女はステージに上がる前から、曽さんが自分のドナーだと感じた。二人は抱き合った時、曽さんは「私の赤ちゃん、あなたはすごい」と声をかけ、劉さんは「あなたがいなければ、家族はここに集まることはできませんでした」と涙ながらに答えた。

二〇一七年三月、劉さんは急性骨髄性白血病を発症し、妹が三人ともマッチングを試みたが成功しなかった。彼女は病気を患ってから多くの恩人に出会い、好きなことを続けられ、自分の作品をシェアして、精彩のある人生を送って来られたことに感謝した。

当初、曽さんの母親は、娘がドナーになることを心配し、花蓮へ向かう列車の中でも引き止めようとした。しかし、医師と慈済ボランティアが移植希望者を救おうとしていただけでなく、ドナーの健康も大切に守っていることを知って、はじめて安心することができた。今では、娘の選択は正しく、とても立派だと思っている。

「最初、なぜこのような素晴らしいことがネット上で共有されないのか、理解に苦しみました」。曽さんは、自身の骨髄提供の過程や健康フォローアップについてブログやSNSで発信し始めた。経験者として、マッチングに成功したドナーたちに、心の準備や参考情報を提供できればと思ったからだ。

現在、慈済骨髄幹細胞センターには四十八万三千件以上のHLA型登録データがあるが、そのうち半数以上は五十五歳を超えており、間もなく有効期限を迎える。また、ドナー登録者数は減少傾向にあり、マッチングしても実際に提供に至る割合が半数以下になっているという難題に直面している。特に少子化の影響で、親族からの骨髄幹細胞提供の割合が年々減少している。そのため、非親族からの提供を一層努力して呼びかけ、命を救うデータベースを充実させる必要がある。

大きな苦しみには、大きな愛が必要だ。二〇二四年一月から十月までに千百人以上の患者がマッチング対象を探しに来ている。ドナー志願者が集まる骨髄バンクは、救命のための重要なツールとなる。広い世界のどこかで血液疾患患者が探し求めている人は、あなたかもしれない。

(慈済月刊六九七期より)

ドナーと移植希望者の遺伝子の適合は、実の兄弟でさえ達成できないものであり、「喜びの対面」では生命の奇跡として見届けることができる。

そこには、危機から生還した移植希望者の勇気と強靭さ、そして誰かの尊い未来を繋ぎたいという無私のドナーの愛の両方がある。

陳昌隆さん(右)はずっと恩人に会いたい一心だったが、6年後遂にその願いが叶い、自ら造血幹細胞提供者の鄒宜青さん(左)に感謝の意を伝えた。

陳昌隆(チェン・チャンロン)さんは、癌だと診断された時、一つの思いを心に抱いた。「神様、どうかこの命を少し延ばしてください。どうしてもこの世を去らなければならないならば、両親より後にしてください」。陳さんは未婚者なので家庭のしがらみがなく、生まれつき楽天的で親孝行だったが、唯一つ、願いがあった。「親が子を見送る」という胸が張り裂けるような悲しみを、自分の親に経験して欲しくないのだ。

二〇一六年の旧正月前、彼の皮膚に赤い発疹が現れ、全身がかゆく、めまいや下痢に悩まされた。皮膚科、腎臓内科、神経科、リウマチ・免疫内科、血液内科などの外来で受診し、七人もの医師に診てもらったが、病因を突き止めることはできなかった。診察室を出るといつも、「剣を抜いて辺りを見回しては混乱」しながら、真の敵がどこに潜んでいるのかが分からないまま、嘆き悲しんだ。

最終的に血液内科で骨髄穿刺検査を受けた結果、骨髄異形成症候群(MDS)と診断された。彼はあまり悲しむことなく、逆に病巣の正体が分かったことで心が晴れた。二〇一七年八月から化学療法と分子標的治療を開始したが、効果は芳しくなかった。医師から根治には造血幹細胞移植が必要だと言われた。幸いに彼はベストマッチのドナーさんが決まり、二〇一八年三月に自身の骨髄を全て破壊する療法に続いて移植を受けることになった。

移植から数週間後、彼は針で刺されるような激しい頭痛、高い黄疸指数、爆発的な急性肝拒絶反応に見舞われた。大量のステロイド注射を受けることによってなんとか症状を安定させたが、手の震え、黒ずんだ爪、むくみ、歯茎の露出といった副作用が現れた。その後、腎臓の感染症で化膿したため、CTスキャンによる検査をすることになり、その前に造影剤を注射したところ、深刻なアレルギー反応を起こし、四本の強心剤を打ってようやく一命を取り留めた。その後も三叉神経に潜んだウイルスによるヘルペスが発症した。

一年が経過し、アレルギー症状を除く拒絶反応は見られなくなった。徐々に回復した彼は、命の恩人に一目会いたいと強く願った。彼は、ドナーに連絡したいと、自分とドナーのマッチングに協力してくれた慈済骨髄幹細胞センターに手紙を書いたが、双方のプライバシーを守るため、その願いはすぐには叶わなかった。

強く生きてくれて、ありがとう

六年間待ちに待った陳さんは、ついにその日を迎えることができた。彼は台中で金物屋を営んでいるが、前日には台北に到着して宿泊した。十月十九日、慈済三重志業パークで慈済骨髓幹細胞センターの三十一周年記念が行われ、そこでの「喜びの対面」式に参加した。

緊張の瞬間が訪れ、彼がステージに上がる番になった。恩人が現れると、彼は照れくさそうに微笑み、司会者の陳竹琪(チェン・ヅゥ―チー)さんに促されて、二人ははじめて喜びの抱擁を交わした。ドナーの鄒宜青(ヅォウ・イーチン)さんは、彼がこれほど健康に回復しているのを見て、長い間の心配がようやく解消したと言った。陳さんは、マッチングに成功したこと自体がラッキーなので、感謝の気持ちでいっぱいだった。また、拒絶反応による苦痛は試練の過程に過ぎず、耐えることで乗り越えられたと述べた。

鄒さんは、三十歳の時に採血して骨髄バンクに登録したそうだ。マッチングの通知を受けるまで十四年かかったが、移植希望者とのこの出会いに、広い世界に存在する不思議な縁を感じたという。当初、骨髄を提供するかどうか迷ったのは、提供方法を理解していなかったからだった。その後、献血するのと同じようなことだと分かり、夫も家族も賛成してくれた。相手を救えるのは自分しかないことを知って、提供しようと決心した。

鄒さんが花蓮慈済病院で末梢血幹細胞を採取した際に、体調を崩したことを聞いた陳さんは、とても心が痛んだ。鄒さんは、移植希望者が既に白血球の殲滅療法を行い、無菌室で造血幹細胞の移植を待っているのでもう後戻りできないことを知り、その人が生き延びてくれることだけを願った。幸いに、彼女の体調は回復し、健康を取り戻した。

移植後、陳さんの血液型はA型からO型に変わり、性格も以前より明るくなった。今、彼は慈善団体に常々寄付をすることでドナーへ恩返しをしている。「彼女が居てくれたことで、世の中の大愛を知ることができたのです」。すると、鄒さんは陳氏に返した。

「あなたが居てくれたから、私は非凡な人間になれたのです。強く生きてくれて、ありがとう」。

簡聡良さん(右)は、自分と家族が心を込めて書いたカードを送り、陳政彬さん(左)の骨髄提供に感謝した。

やって良かった

対面の日、七組のドナーと移植希望者がステージで体験を分かち合った。式典では、二〇二三年七月から二〇二四年六月までに骨髄を寄贈した八十一名のドナーに対し、感謝を表明して記念プレートが贈られた。慈済骨髄幹細胞センターが設立されて三十一年目を迎えるが、これまでに三十一の国と地域から骨髄が提供され、六千八百件余りの移植が行われた。適合率は非常に低いので大海原で針を探すにも似たこのプロジェクトは、全て献身的に奔走して登録者を募る慈済ボランティアと、ドナーの無私の奉仕によって支えられている。「命を救う」のだから、苦しみなどかえりみないのだ。

二〇一八年、オーストラリアでのワーキングホリデーを終えたばかりの陳政彬(チェン・ヅンビン)さんは、台湾に帰国した翌日に、登録した骨髄がマッチングしたという電話を受け取った。「最初は詐欺かと思いました」。驚いた彼だったが、ボランティアが諦めずに連絡をし続けたことで、高校時代に骨髄ドナーの登録をしたことを思い出した。しかし、最初は「骨髄液」を抽出するのだと考えて少し怖くなった。それからボランティアの説明を受け、ネットで調べた資料を理解すると、それは世間の誤伝だったことが分かった。移植する骨髄幹細胞によって、血液疾患患者に新たな命を与えられることを知った彼は、毅然として寄贈を決心し、家族も全面的に支持してくれた。

ドナーは白血球成長ホルモンの注射(PRP療法)を受けると、献血と同じような方法で末梢血幹細胞を収集する。順調に健康な造血幹細胞が抽出できるようにと陳さんは生活のリズムを整え、夜更かしを避け、定期的にジムに行って体を動かした。移植希望者の体格が大柄であるため、二日間に分けて末梢血幹細胞を収集することになった。一日目は八時間、二日目は更に四時間かけて採取した。陳さんは、それら一連の過程に辛さも体調不良も感じなかった。逆に、普段は仕事が忙しいので、その二日間は休暇のようなものとなり、とてもリラックスできた。

陳さんよりも二十一歳上になる移植希望者の簡聡良(ジエン・ツォンリャン)さんは、移植後の拒絶反応は軽微で、新たな命を手にしたことに感謝の気持ちでいっぱいだと語った。この六年間、彼は誕生日を毎年二回祝っている。一回は本来の誕生日で、もう一回は骨髄移植をして生まれ変わった四月二十四日である。死と隣り合わせという恐怖を体験したことで、彼の人生観も変わったそうだ。

「以前はお金をもっと稼がなければとか、子どもにより良い物質的な生活をさせなければとか考えていました。今は、心が広くなり、あまり物事にこだわらなくなりました。命より貴いものはないと感じています」。

簡さんは、長年、中国の蘇州に駐在している関係で、現地で結婚して家庭を築いている。しかし、二〇一八年一月に体の不調が現れ、帰国して検査を受けたところ、重度の再生不良性貧血(SAA)と診断された。医師から造血幹細胞移植を勧められた彼は、五十歳まではほとんど保険証を使ったことがなかったが、突然大病に見舞われたので、安定していた家族生活を大きく揺さぶられることになった。

「順調にマッチング相手が見つかるのだろうか?」

「二人の子どもがまだ幼いのに、どうすればいいのだろう」。

家族の寄り添いが、簡さんにとって強力な支えとなって、前向きに治療の辛さに向き合うことができた。非血縁間のマッチング成功率は僅か十万分の一である。しかし、とても幸運なことに、二カ月も経たないうちに慈済骨髄幹細胞センターで、 100%抗原遺伝子がマッチングしたドナーが見つかったのだ。「私は不運にも病気に罹りましたが、最も幸運な人でもあります。病気が重くて助けてくれる人がいなかったときに、あなたの大いなる献身によって、私は生まれ変わることができました」。自ら書いた感謝の手紙を、ドナーの陳さんに手渡した。

近年、陳さんの定期的なフォローアップレポートは、健康状況が良好であることを示している。彼はよく自分を例に挙げて、親戚や友人に体験を話しているが、妹も妻も心を打たれ、ドナー登録を済ませた。「彼が頑張って生きてくれたことに感謝しています。人の命を救えたことは、私にとって重大な意義があります」。陳さんは、以前はドナーになったことは良いことだ、とぐらいしか思わなかったが、最近母親が癌に罹ってからは、移植希望者とその家族の焦りが、より理解できるようになった。生涯で人の命を救う機会は今回かぎりかもしれないが、それができてとても嬉しいと語ってくれた。

画家の劉豐来(右4)は、自ら手描きした花鳥の水墨画を通じて、彼女の提供者である曽惠平(左2)に感謝の意を表した。

命を救うために灯をともす

曽惠平(ヅン・フエイピン)さんは、台北で採血してHLA型登録をし、十六年後に初めてマッチングの初期通知を受け取った。彼女はそれまでに何度か転職し、台中に引っ越していた。実家にはインターホンがなかったため、慈済ボランティアは誰かがドアを開けてくれるまで待ち続けるしかなかった。幸いにも彼女の弟の妻が外出しようと出てきたので、彼女に電話で伝えてもらった。「慈済ボランティアが二人来ていて、あなたを探していますよ」。

彼女は、ドナーの遺伝子が移植希望者に影響して、髪の質や血液型が相手のものと同じになる可能性があることを知って、感動のあまり涙を流した。新しい赤ん坊を授かったような気持ちになったからだ。白血球を増やす薬剤の注射をしたが、何も副作用はなかった。家族や友人の励ましと付き添いの中で、自分は幸福に満ちた人間だと思った。

曽さんの心の中の「赤ん坊」は、六十八歳の画家である劉豊来(リュウ・フォンライ)さんで、二〇二四年九月に五回目の個展を開いた。劉さんとその家族は皆、「喜びの対面式」に出席して、ドナーである曽さんに感謝の意を伝えた。劉さんは、この六年間、再診に行くたびに「いつ私のドナーに会えるのですか」と訊いた。そして、彼女はステージに上がる前から、曽さんが自分のドナーだと感じた。二人は抱き合った時、曽さんは「私の赤ちゃん、あなたはすごい」と声をかけ、劉さんは「あなたがいなければ、家族はここに集まることはできませんでした」と涙ながらに答えた。

二〇一七年三月、劉さんは急性骨髄性白血病を発症し、妹が三人ともマッチングを試みたが成功しなかった。彼女は病気を患ってから多くの恩人に出会い、好きなことを続けられ、自分の作品をシェアして、精彩のある人生を送って来られたことに感謝した。

当初、曽さんの母親は、娘がドナーになることを心配し、花蓮へ向かう列車の中でも引き止めようとした。しかし、医師と慈済ボランティアが移植希望者を救おうとしていただけでなく、ドナーの健康も大切に守っていることを知って、はじめて安心することができた。今では、娘の選択は正しく、とても立派だと思っている。

「最初、なぜこのような素晴らしいことがネット上で共有されないのか、理解に苦しみました」。曽さんは、自身の骨髄提供の過程や健康フォローアップについてブログやSNSで発信し始めた。経験者として、マッチングに成功したドナーたちに、心の準備や参考情報を提供できればと思ったからだ。

現在、慈済骨髄幹細胞センターには四十八万三千件以上のHLA型登録データがあるが、そのうち半数以上は五十五歳を超えており、間もなく有効期限を迎える。また、ドナー登録者数は減少傾向にあり、マッチングしても実際に提供に至る割合が半数以下になっているという難題に直面している。特に少子化の影響で、親族からの骨髄幹細胞提供の割合が年々減少している。そのため、非親族からの提供を一層努力して呼びかけ、命を救うデータベースを充実させる必要がある。

大きな苦しみには、大きな愛が必要だ。二〇二四年一月から十月までに千百人以上の患者がマッチング対象を探しに来ている。ドナー志願者が集まる骨髄バンクは、救命のための重要なツールとなる。広い世界のどこかで血液疾患患者が探し求めている人は、あなたかもしれない。

(慈済月刊六九七期より)

關鍵字

慈済の家を開け放ち 心から被災世帯を迎え入れる

慈済アメリカはこの三十五年間、枚挙にいとまがないほど、慈済国際緊急援助の主力となってきた。

家の前で起きたと言っても過言ではないロサンゼルス山火事に対しても、ボランティアは迅速に慈済の家を開け放ち、寄り添いながら、「家」の中に被災者たちを迎え入れてケアした。

 (撮影・蔡松谷)

家」に対する印象は、必ずしも皆が同じではない─思い浮かべるのは祖父の代が庭に植えた木であるかもしれないし、戸棚に置いてあるたくさんの写真立てかもしれない。あるいは家族と囲む暖炉の火の温もりでもあるだろう。そのような、「家」という愛と帰属感に満ちた場所が、ロサンゼルス世紀の山火事により被災した人にとっては、すでに遠い思い出となってしまった。

気候が乾燥しているカリフォルニアは、ほとんど毎年山火事が発生し、その多くは山林地域に止まっていたが、今回の大規模な山火事は、人口が密集し、経済が発達しているロサンゼルス大都市圏で起きた。一月七日パシフィックパリセーズで一番早く火の手が上がり、橙赤(とうせき)色の火先は瞬く間に空一面を赤く染めた。建物の倒壊音と物の爆破音が相次いで聞こえ、繁栄していた大都市は濃煙に覆われ、まるで世の終末のようだった。パリセーズでの山火事は急速に燃え広がり、海に面したコミュニティの山道や、本来なら多くの観光客でにぎわう海岸線は、避難する車で渋滞し、動きが取れない状態だった。

瞬間風速がカテゴリー1を上るサンタアナ風(フェーン現象)が襲う中、ロサンゼルス大都市圏の北部にある多くの地域も、集中的に山火事が発生した。イートン火災、ハースト火災、サンセット火災、ウッドリー火災などである。一月二十二日には、ヒューズ火災も発生した。

「風がとても強く、火の勢いは凄まじいので、今回の災害は止める術がない、と消防隊員が言っていました。それはまるで『天火による町の消滅』です」と慈済ボランティアグローバル総監督の黄思賢(フワォン・スーシェン)さんが言った。

南カリフォルニア全体で発生した山火事による焼失面積は、五万七千エーカー(二万三千ヘクタール弱)を超え、約一万八千棟の建物が全壊或いは損壊し、二十九人が犠牲となり、二十万人が緊急避難を余儀なくされた。火の勢いが最も大きく、かつ最も致命的な二つの火災である、イートン火災とパリセーズ火災は、三週間延焼してようやく完全に制御したが、数万人の一生の蓄えが、見渡す限り、崩れた壁や灰燼(かいじん)と化していた。

被害が大きかったパリセーズ地区とマリブ地区には、高級住宅で働く「アルバイト人」の多くが、家賃の低い住宅をルームシェアしながら暮らしていた。マニュエル・ロドリゲスさんは、「雇い主の庭園、私の園芸道具、それからトラクター、全部がなくなりました。仕事も家も、三、四十年かけて築いた財産も全て失ってしまいました」と語った。

イートン火災の中で、最も被害が大きかったコミュニティはアルタデナである。そこはサラリーマンや労働者が多く暮らしており、一代或いは何代にもわたって懸命に働いて、そこに定住し、家を築いてきたのだが、一夜にして灰と化してしまった。

「二、三十年住んでいた家は、美しい思い出に溢れた場所でしたが、今では灰と焼け残りだけになってしまい、もう何も存在していません」。慈済アメリカ総支部の曽慈慧(ヅン・ツーフウェイ)執行長は胸を痛めた。

慈済連絡所の祈りの壁には、励ましや未来を祝福するメッセージがたくさん貼られていた。(撮影:サラ・ウィンターズ)

最も慈しむ方法で来訪者をもてなす

慈済人の心が被災世帯と深く繋がっているのは、この南カリフォルニアの地が、正に慈済がアメリカで最初に根を下ろした場所だからだ。一九八九年、慈済の種子は海を渡り、アルハンブラの地で慈済初の海外支部が設立された。それ以降、慈済の活動は発展し続け、南カリフォルニアの各コミュニティに深く根付いた。三十五年後、慈済アメリカ総支部を含め、南カリフォルニアには十カ所の、ボランティアが「家」と呼ぶ連絡所が開設されている。

慈済ボランティアグローバル総監督で、アメリカ総支部初代執行長の黃さんは、「今回のロサンゼルスの山火事は、私の三十五年にわたる災害支援の経験の中でも、相当心を痛めた衝撃的な出来事です。アメリカで暮らして五十年近くになりますが、今回の山火事の現場は、私の家から数マイルしか離れていません。とても複雑な心境で、まるで自分のことように感じました」と述べた。

山火事は家に近いだけでなく、南カリフォルニアにある二カ所の「慈済の家」である、サンガブリエルバレー連絡所と西ロサンゼルス連絡所からも車で三十分とかからない。動員されたボランティアは迅速に行動を起こし、「慈済の家」を開け放って、被災者を支援した。

一月八日午前、ボランティアは多くの住民が避難している避難所を訪れ、被災地付近で停電している世帯に水と食事を届けた。一月十一日、慈済アメリカ総支部は、アメリカ全土の各支部と連携して、「ロサンゼルス山火事災害支援指揮センター」を立ち上げると共に、復興支援の「愛を募る募金」活動を始めた。

一月十四日から、慈済は要請を受けて、連邦緊急事態管理庁(FEMA)等の政府機関によって設立された三カ所の「災害復旧センター」(DRC)に人員を派遣し、同日より被災世帯に対して緊急支援金のオンライン申請の受け付けを始めた。

災害発生から十一日目の一月十八日より、慈済はサンガブリエルバレー連絡所と西ロサンゼルス連絡所で同時に、一回目の災害支援配付活動を実施した。アルタデナおよびパシフィックパリセーズ地区の被災世帯に、買い物カードと生活物資を提供した。被災者は、世帯人数に応じて、千ドルから千五百ドルの買い物カードを受け取った。

買い物カードを受け取った後、被災者はそこを離れる前、自分に必要な食料品やバケツ、衣類、靴、毛布などの物資を選んでいた。(撮影・葛済覚)

最初の山火事災害支援の配付活動は終わったが、「慈済」は最も早く手を差し伸べた慈善団体として、ロサンゼルスの被災世帯の間で急速に認知された。オンラインでの申請件数は日に日に増え、配付会場を訪れる被災世帯も倍増した。

二カ所の慈済連絡所で十回にわたる大規模な配付活動を実施した。その期間中、山火事リソースセンターに招かれて人員を派遣し、アメリカ主流の非営利団体と共に連携しながら、連続六日間、買い物カードと生活物資を配付した。

アメリカ国内で二十年にわたる国際災害支援の経験があるボランティアの葛済覚(ゲー・ジージュエ)さんは、「二〇〇七年にサンディエゴで起きた山火事で配付活動を行った時のことを、今でもよく覚えています。あの頃は、まだ誰も慈済を知っている人はいませんでした。でも、今はアメリカの主流社会でも、慈済は本当に人を助ける力がある慈善団体だと認識されるようになりました」と述べた。

大量の支援ニーズに応えるため、慈済アメリカは延べ千三百人のボランティアを動員し、二十六回の大規模な配付活動を実施し、四千三百九十世帯を対象に、四百七十三万ドル分の買い物カードを配付した。

「今回とても心に残ったのは、十数時間も飛行機に乗って他の国に行く必要がないことでした。家の前で被災者を助け、寄り添い、支えられるのです」。葛さんの言葉通り、コミュニティに数十年間根差してきた連絡所は、今回の大きな災害の中で力を発揮し、ボランティアは「家」から被災者をケアできたのである。

曽さんは、「人々が、自分の美しい家が瓦礫と灰に化してしまったのを目にした時、それは彼らの心にとてつもなく大きな衝撃を与えたことでしょう。益々多くの住民が心に傷を負っています。彼らには自分が経験したことについて整理するための安心で安全な空間が必要だと思いました」と述べた。

葛さんは、「自分たちの連絡所で配付活動を行うのは、他の場所で行う時とは全く違い、完全に慈済の方式で実施できます。被災者たちが連絡所に入ってきた瞬間から、ボランティアは最も慈しむことができる方法でもてなしました」と説明した。

「まず、ボランティアは被災者を、温かみが感じられる飾り付けをしたロビーに案内し、飲み物やお菓子、果物を出して、家に帰って来たような温もりを届けました。そして、一人ひとりの痛みに耳を傾けて、ニーズを把握し、買い物カードを贈りました。さらにボランティアは、彼らが緊急支援物資を選ぶのに付き添い、ボランティアが物資を持ってあげて、彼らを見送りました。ほとんどの被災世帯に、このような心のこもったおもてなしをしました」。

ある人は、そこで不安な気持ちを打ち明け、思いきり涙を流したそうだ。またある人は、感動し、笑顔で帰って行った。更にある人は、支援を受け取った後、ボランティアベストを着て、災害支援に加わった。

三月八日、慈済の二カ所の連絡所は、審査は通ったが、配付を受けられなかった被災世帯に対して、最後にもう一回配付を実施した。これで災害緊急支援は完了し、今後は中長期ケアが進められる。曽さんは、こう語った。「被災者は途方に暮れていますが、大丈夫です。彼らには信念があり、信念が道しるべとなって、新たな一歩に導いてくれます。被災した人が日常生活を取り戻せるよう、私たちはサポートしていきます」。(本記事は隔月刊誌『アメリカ慈済世界』(『Tzu Chi USA Journal』より抜粋)

(慈済月刊七〇一期より)

慈済アメリカはこの三十五年間、枚挙にいとまがないほど、慈済国際緊急援助の主力となってきた。

家の前で起きたと言っても過言ではないロサンゼルス山火事に対しても、ボランティアは迅速に慈済の家を開け放ち、寄り添いながら、「家」の中に被災者たちを迎え入れてケアした。

 (撮影・蔡松谷)

家」に対する印象は、必ずしも皆が同じではない─思い浮かべるのは祖父の代が庭に植えた木であるかもしれないし、戸棚に置いてあるたくさんの写真立てかもしれない。あるいは家族と囲む暖炉の火の温もりでもあるだろう。そのような、「家」という愛と帰属感に満ちた場所が、ロサンゼルス世紀の山火事により被災した人にとっては、すでに遠い思い出となってしまった。

気候が乾燥しているカリフォルニアは、ほとんど毎年山火事が発生し、その多くは山林地域に止まっていたが、今回の大規模な山火事は、人口が密集し、経済が発達しているロサンゼルス大都市圏で起きた。一月七日パシフィックパリセーズで一番早く火の手が上がり、橙赤(とうせき)色の火先は瞬く間に空一面を赤く染めた。建物の倒壊音と物の爆破音が相次いで聞こえ、繁栄していた大都市は濃煙に覆われ、まるで世の終末のようだった。パリセーズでの山火事は急速に燃え広がり、海に面したコミュニティの山道や、本来なら多くの観光客でにぎわう海岸線は、避難する車で渋滞し、動きが取れない状態だった。

瞬間風速がカテゴリー1を上るサンタアナ風(フェーン現象)が襲う中、ロサンゼルス大都市圏の北部にある多くの地域も、集中的に山火事が発生した。イートン火災、ハースト火災、サンセット火災、ウッドリー火災などである。一月二十二日には、ヒューズ火災も発生した。

「風がとても強く、火の勢いは凄まじいので、今回の災害は止める術がない、と消防隊員が言っていました。それはまるで『天火による町の消滅』です」と慈済ボランティアグローバル総監督の黄思賢(フワォン・スーシェン)さんが言った。

南カリフォルニア全体で発生した山火事による焼失面積は、五万七千エーカー(二万三千ヘクタール弱)を超え、約一万八千棟の建物が全壊或いは損壊し、二十九人が犠牲となり、二十万人が緊急避難を余儀なくされた。火の勢いが最も大きく、かつ最も致命的な二つの火災である、イートン火災とパリセーズ火災は、三週間延焼してようやく完全に制御したが、数万人の一生の蓄えが、見渡す限り、崩れた壁や灰燼(かいじん)と化していた。

被害が大きかったパリセーズ地区とマリブ地区には、高級住宅で働く「アルバイト人」の多くが、家賃の低い住宅をルームシェアしながら暮らしていた。マニュエル・ロドリゲスさんは、「雇い主の庭園、私の園芸道具、それからトラクター、全部がなくなりました。仕事も家も、三、四十年かけて築いた財産も全て失ってしまいました」と語った。

イートン火災の中で、最も被害が大きかったコミュニティはアルタデナである。そこはサラリーマンや労働者が多く暮らしており、一代或いは何代にもわたって懸命に働いて、そこに定住し、家を築いてきたのだが、一夜にして灰と化してしまった。

「二、三十年住んでいた家は、美しい思い出に溢れた場所でしたが、今では灰と焼け残りだけになってしまい、もう何も存在していません」。慈済アメリカ総支部の曽慈慧(ヅン・ツーフウェイ)執行長は胸を痛めた。

慈済連絡所の祈りの壁には、励ましや未来を祝福するメッセージがたくさん貼られていた。(撮影:サラ・ウィンターズ)

最も慈しむ方法で来訪者をもてなす

慈済人の心が被災世帯と深く繋がっているのは、この南カリフォルニアの地が、正に慈済がアメリカで最初に根を下ろした場所だからだ。一九八九年、慈済の種子は海を渡り、アルハンブラの地で慈済初の海外支部が設立された。それ以降、慈済の活動は発展し続け、南カリフォルニアの各コミュニティに深く根付いた。三十五年後、慈済アメリカ総支部を含め、南カリフォルニアには十カ所の、ボランティアが「家」と呼ぶ連絡所が開設されている。

慈済ボランティアグローバル総監督で、アメリカ総支部初代執行長の黃さんは、「今回のロサンゼルスの山火事は、私の三十五年にわたる災害支援の経験の中でも、相当心を痛めた衝撃的な出来事です。アメリカで暮らして五十年近くになりますが、今回の山火事の現場は、私の家から数マイルしか離れていません。とても複雑な心境で、まるで自分のことように感じました」と述べた。

山火事は家に近いだけでなく、南カリフォルニアにある二カ所の「慈済の家」である、サンガブリエルバレー連絡所と西ロサンゼルス連絡所からも車で三十分とかからない。動員されたボランティアは迅速に行動を起こし、「慈済の家」を開け放って、被災者を支援した。

一月八日午前、ボランティアは多くの住民が避難している避難所を訪れ、被災地付近で停電している世帯に水と食事を届けた。一月十一日、慈済アメリカ総支部は、アメリカ全土の各支部と連携して、「ロサンゼルス山火事災害支援指揮センター」を立ち上げると共に、復興支援の「愛を募る募金」活動を始めた。

一月十四日から、慈済は要請を受けて、連邦緊急事態管理庁(FEMA)等の政府機関によって設立された三カ所の「災害復旧センター」(DRC)に人員を派遣し、同日より被災世帯に対して緊急支援金のオンライン申請の受け付けを始めた。

災害発生から十一日目の一月十八日より、慈済はサンガブリエルバレー連絡所と西ロサンゼルス連絡所で同時に、一回目の災害支援配付活動を実施した。アルタデナおよびパシフィックパリセーズ地区の被災世帯に、買い物カードと生活物資を提供した。被災者は、世帯人数に応じて、千ドルから千五百ドルの買い物カードを受け取った。

買い物カードを受け取った後、被災者はそこを離れる前、自分に必要な食料品やバケツ、衣類、靴、毛布などの物資を選んでいた。(撮影・葛済覚)

最初の山火事災害支援の配付活動は終わったが、「慈済」は最も早く手を差し伸べた慈善団体として、ロサンゼルスの被災世帯の間で急速に認知された。オンラインでの申請件数は日に日に増え、配付会場を訪れる被災世帯も倍増した。

二カ所の慈済連絡所で十回にわたる大規模な配付活動を実施した。その期間中、山火事リソースセンターに招かれて人員を派遣し、アメリカ主流の非営利団体と共に連携しながら、連続六日間、買い物カードと生活物資を配付した。

アメリカ国内で二十年にわたる国際災害支援の経験があるボランティアの葛済覚(ゲー・ジージュエ)さんは、「二〇〇七年にサンディエゴで起きた山火事で配付活動を行った時のことを、今でもよく覚えています。あの頃は、まだ誰も慈済を知っている人はいませんでした。でも、今はアメリカの主流社会でも、慈済は本当に人を助ける力がある慈善団体だと認識されるようになりました」と述べた。

大量の支援ニーズに応えるため、慈済アメリカは延べ千三百人のボランティアを動員し、二十六回の大規模な配付活動を実施し、四千三百九十世帯を対象に、四百七十三万ドル分の買い物カードを配付した。

「今回とても心に残ったのは、十数時間も飛行機に乗って他の国に行く必要がないことでした。家の前で被災者を助け、寄り添い、支えられるのです」。葛さんの言葉通り、コミュニティに数十年間根差してきた連絡所は、今回の大きな災害の中で力を発揮し、ボランティアは「家」から被災者をケアできたのである。

曽さんは、「人々が、自分の美しい家が瓦礫と灰に化してしまったのを目にした時、それは彼らの心にとてつもなく大きな衝撃を与えたことでしょう。益々多くの住民が心に傷を負っています。彼らには自分が経験したことについて整理するための安心で安全な空間が必要だと思いました」と述べた。

葛さんは、「自分たちの連絡所で配付活動を行うのは、他の場所で行う時とは全く違い、完全に慈済の方式で実施できます。被災者たちが連絡所に入ってきた瞬間から、ボランティアは最も慈しむことができる方法でもてなしました」と説明した。

「まず、ボランティアは被災者を、温かみが感じられる飾り付けをしたロビーに案内し、飲み物やお菓子、果物を出して、家に帰って来たような温もりを届けました。そして、一人ひとりの痛みに耳を傾けて、ニーズを把握し、買い物カードを贈りました。さらにボランティアは、彼らが緊急支援物資を選ぶのに付き添い、ボランティアが物資を持ってあげて、彼らを見送りました。ほとんどの被災世帯に、このような心のこもったおもてなしをしました」。

ある人は、そこで不安な気持ちを打ち明け、思いきり涙を流したそうだ。またある人は、感動し、笑顔で帰って行った。更にある人は、支援を受け取った後、ボランティアベストを着て、災害支援に加わった。

三月八日、慈済の二カ所の連絡所は、審査は通ったが、配付を受けられなかった被災世帯に対して、最後にもう一回配付を実施した。これで災害緊急支援は完了し、今後は中長期ケアが進められる。曽さんは、こう語った。「被災者は途方に暮れていますが、大丈夫です。彼らには信念があり、信念が道しるべとなって、新たな一歩に導いてくれます。被災した人が日常生活を取り戻せるよう、私たちはサポートしていきます」。(本記事は隔月刊誌『アメリカ慈済世界』(『Tzu Chi USA Journal』より抜粋)

(慈済月刊七〇一期より)

關鍵字

見て、聴いて尽力しましょう

世の苦難にある人を愛護するには、見て聴いて、手を差し伸べることを、心を込めてやればよいのです。毎日、毎秒、尽力すれば、時間と人生の価値が出てきます。

時は無形、無声のまま素早く過ぎ去り、取り戻そうとしても叶わず、これからまだどれだけの時間が残っているのか知るよしもありません。人生は無常なので、一分一秒を把握してこそ、現在があるのです。この数十年間で感謝しているのは、「仏教の為、衆生の為」という思いです。私の恩師が下さったこの短い二句を、私は謹んで行動に移し、現在に至っています。慈済は間もなく六十年になりますが、どうやって累積するかを考えたことはなく、ただ人間(じんかん)の苦を見て忍びなく感じ、如何にして助けられるかと、今日まで毎日毎秒、奉仕を続けてきた次第です。

時間は人生を成就させます。時間がなければ、四大志業も作り出せません。私は、菩薩たちと四大志業のチームが天下の米櫃を担いで来てくれたことにとても感謝しています。皆さんが心を合わせ、同じ志を持って、私の心に寄り添ってくれていなかったら、今日の慈済はなかったでしょう。私が休むわけには行きません。休めば時間の価値を失うからで、時間さえあれば、私は苦労を厭わず、その一点一滴を惜しんでいるのです。

今の時代と五、六十前とはまったく様子が違います。社会の経済状況は良くなりましたが、貧富の格差はさらに広がりました。私は毎日同じ場所に座り、出歩く範囲もとても小さいのですが、私の心は日々天下を見渡しています。科学の発達によって、指先でタッチするだけで直ちに国際時事が眼の前に現れます。世界の天気が不調をきたし、人心の不安が引き起こされているのを見ると、私はいつも気にかけ、謙虚な気持ちで平穏無事を祈っています。さらに人々が真の愛を培い、苦難にある人を見たら両手を差し伸べ、助け起こして祝福することを願っています。

地球の人口が年々増加するにつれ、思考も益々発展し、若者も自分なりの考えを持つようになっており、私はついていけないと感じることがよくあります。それでも、人は元々善良な心を持っていることを信じ、良い環境さえあれば、縁のある若者が賛同の下に喜んで参加し、彼らが人生の価値観を理解し、共に人間(じんかん)に奉仕して、社会を利するよう教えています。

やるべきことは、やればいいのです。多くの出来事は、見えて、考えが至っても、やり遂げられません。力に限りがあっても、縁の届く範囲内で聴いて、知って、やれるなら、力を尽せばいいのです。毎日、真面目に精神を集中して、自分にできることをやる、それだけなのです。

三月末にミャンマーで強い地震が発生し、被災状況の報告では、六百以上の寺院が倒壊し、多くの人が負傷し、受け入れていた孤児たちも安心して暮らせなくなったと聞きました。どうやって支援すればいいのかと気に掛けても、一番難しいのが物資の搬入です。ミャンマーの慈済人は、直ちに救済活動を開始しました。人数は少なくても諦めることなく、私たちも諦めることなく、努力して方法を考え続けました。今回の救済で、自分の力に応じた救済を、実行していくことにしました。

人間(じんかん)ではままならないことが多く、困難も多くあります。振り返って、平安な所で生活していることに感謝し、大切にしなければなりません。日々、僅かな硬貨で少額の寄付をしても、自分の生活には影響しませんが、毎日人助けしたいと思う気持ちが大切なのです。一点一滴も集まれば川となり、海になります。この海はみなさんの一滴が少しずつ集まったもので、苦難を助ける大きな力になり、そして自分の人生の価値も成就させているのです。

人生を思い返すと、感謝する事が多々ありますが、自分の心に愛があることに感謝しています。幼少から成長して青年になり、中年に入って、老年期を迎えるまで、時は過ぎましたが、「愛」という文字だけは永遠に無くなっていません。また、愛がいつも私の周りにあり、少なくなったことはありません。国内外の菩薩が帰ってくると、毎日私と誠の大愛について語り合っています。このような互いの間にある愛は、清浄無垢なのです。

今年は去年と同様、シンガポールとマレーシアの慈済人が慈済の記念日に、インドの霊鷲山において、昔日に釈迦牟尼仏が説法された場所で、『無量義経』を唱えました。皆が整然とした隊列を組んで一歩一歩、仏を拝みながら登り、『無量義経』を唱える声を聞いていると、その様な境地を思い浮かべながら、今回も感動と羨望を覚えました。今生の私は、そこまで行くことは叶いませんが、毎日早朝、私の心は霊鷲山に向かって拝礼しています。皆が私の敬虔な心を伴って、一歩一歩仏陀の精神世界に近づいていることに感謝します。福を修めて、人間(じんかん)に幸せをもたらすと共に、智慧も修めなければなりません。二千五百年余り前に、仏陀はこの場所で説法して、その慧命は今日に至るまで受け継がれ、霊山法会は永遠に散ることはないのを目にしました。

この時代で非常に需要なことは、皆の心が安定することです。安定した心があれば、自分に対して自信が持て、喜んで善行をすることができるのです。奉仕することで自分を損なうことはなく、人の心の中の泉のように、世の衆生を潤すことができるのです。この心の泉は尽きず、どれだけ汲んでも減ることはなく、世を利するエネルギーは増え続けるのです。愛のエネルギーには、私、あなた、みんなの参加が不可欠で、互いに感謝し合い、一人ひとりの効能と良能が、井戸水のように枯れることはなく、人間に大きな福をもたらして、奉仕しただけ福が得られるのです。皆さんの精進を心より願っております。

(慈済月刊七〇二期より)

世の苦難にある人を愛護するには、見て聴いて、手を差し伸べることを、心を込めてやればよいのです。毎日、毎秒、尽力すれば、時間と人生の価値が出てきます。

時は無形、無声のまま素早く過ぎ去り、取り戻そうとしても叶わず、これからまだどれだけの時間が残っているのか知るよしもありません。人生は無常なので、一分一秒を把握してこそ、現在があるのです。この数十年間で感謝しているのは、「仏教の為、衆生の為」という思いです。私の恩師が下さったこの短い二句を、私は謹んで行動に移し、現在に至っています。慈済は間もなく六十年になりますが、どうやって累積するかを考えたことはなく、ただ人間(じんかん)の苦を見て忍びなく感じ、如何にして助けられるかと、今日まで毎日毎秒、奉仕を続けてきた次第です。

時間は人生を成就させます。時間がなければ、四大志業も作り出せません。私は、菩薩たちと四大志業のチームが天下の米櫃を担いで来てくれたことにとても感謝しています。皆さんが心を合わせ、同じ志を持って、私の心に寄り添ってくれていなかったら、今日の慈済はなかったでしょう。私が休むわけには行きません。休めば時間の価値を失うからで、時間さえあれば、私は苦労を厭わず、その一点一滴を惜しんでいるのです。

今の時代と五、六十前とはまったく様子が違います。社会の経済状況は良くなりましたが、貧富の格差はさらに広がりました。私は毎日同じ場所に座り、出歩く範囲もとても小さいのですが、私の心は日々天下を見渡しています。科学の発達によって、指先でタッチするだけで直ちに国際時事が眼の前に現れます。世界の天気が不調をきたし、人心の不安が引き起こされているのを見ると、私はいつも気にかけ、謙虚な気持ちで平穏無事を祈っています。さらに人々が真の愛を培い、苦難にある人を見たら両手を差し伸べ、助け起こして祝福することを願っています。

地球の人口が年々増加するにつれ、思考も益々発展し、若者も自分なりの考えを持つようになっており、私はついていけないと感じることがよくあります。それでも、人は元々善良な心を持っていることを信じ、良い環境さえあれば、縁のある若者が賛同の下に喜んで参加し、彼らが人生の価値観を理解し、共に人間(じんかん)に奉仕して、社会を利するよう教えています。

やるべきことは、やればいいのです。多くの出来事は、見えて、考えが至っても、やり遂げられません。力に限りがあっても、縁の届く範囲内で聴いて、知って、やれるなら、力を尽せばいいのです。毎日、真面目に精神を集中して、自分にできることをやる、それだけなのです。

三月末にミャンマーで強い地震が発生し、被災状況の報告では、六百以上の寺院が倒壊し、多くの人が負傷し、受け入れていた孤児たちも安心して暮らせなくなったと聞きました。どうやって支援すればいいのかと気に掛けても、一番難しいのが物資の搬入です。ミャンマーの慈済人は、直ちに救済活動を開始しました。人数は少なくても諦めることなく、私たちも諦めることなく、努力して方法を考え続けました。今回の救済で、自分の力に応じた救済を、実行していくことにしました。

人間(じんかん)ではままならないことが多く、困難も多くあります。振り返って、平安な所で生活していることに感謝し、大切にしなければなりません。日々、僅かな硬貨で少額の寄付をしても、自分の生活には影響しませんが、毎日人助けしたいと思う気持ちが大切なのです。一点一滴も集まれば川となり、海になります。この海はみなさんの一滴が少しずつ集まったもので、苦難を助ける大きな力になり、そして自分の人生の価値も成就させているのです。

人生を思い返すと、感謝する事が多々ありますが、自分の心に愛があることに感謝しています。幼少から成長して青年になり、中年に入って、老年期を迎えるまで、時は過ぎましたが、「愛」という文字だけは永遠に無くなっていません。また、愛がいつも私の周りにあり、少なくなったことはありません。国内外の菩薩が帰ってくると、毎日私と誠の大愛について語り合っています。このような互いの間にある愛は、清浄無垢なのです。

今年は去年と同様、シンガポールとマレーシアの慈済人が慈済の記念日に、インドの霊鷲山において、昔日に釈迦牟尼仏が説法された場所で、『無量義経』を唱えました。皆が整然とした隊列を組んで一歩一歩、仏を拝みながら登り、『無量義経』を唱える声を聞いていると、その様な境地を思い浮かべながら、今回も感動と羨望を覚えました。今生の私は、そこまで行くことは叶いませんが、毎日早朝、私の心は霊鷲山に向かって拝礼しています。皆が私の敬虔な心を伴って、一歩一歩仏陀の精神世界に近づいていることに感謝します。福を修めて、人間(じんかん)に幸せをもたらすと共に、智慧も修めなければなりません。二千五百年余り前に、仏陀はこの場所で説法して、その慧命は今日に至るまで受け継がれ、霊山法会は永遠に散ることはないのを目にしました。

この時代で非常に需要なことは、皆の心が安定することです。安定した心があれば、自分に対して自信が持て、喜んで善行をすることができるのです。奉仕することで自分を損なうことはなく、人の心の中の泉のように、世の衆生を潤すことができるのです。この心の泉は尽きず、どれだけ汲んでも減ることはなく、世を利するエネルギーは増え続けるのです。愛のエネルギーには、私、あなた、みんなの参加が不可欠で、互いに感謝し合い、一人ひとりの効能と良能が、井戸水のように枯れることはなく、人間に大きな福をもたらして、奉仕しただけ福が得られるのです。皆さんの精進を心より願っております。

(慈済月刊七〇二期より)

關鍵字

一粒万倍(いちりゅうまんばい)

細かいことにこだわっていたら、生活は辛いのです。
何事にも感謝し、争わず、求めなければ、憂いはなくなります。

愛に満ちた商店が良縁を結ぶ

二月二十四日、基金会の主任たちの報告を聞いた後、上人はこう開示しました。「私は毎日自分を励ましています。残された時間が多くないため、歳に甘えたり、休むことを考えたりしてはいけないと思うのです。あとどのくらい残っているのでしょう。この世で少しでも多く良い話をしたいのです。良い話は人の心に影響を与えます。『静思語』のように、短い言葉でも、それを見たり、聞いたりすれば、役に立つのです」。

「一番大事なのはその時の一念で、私たちはそれを見逃さなかったことです。良い言葉は様々な煩悩を消し、諸々の良い事を成し遂げてくれます。即ち、その一瞬のその言葉には価値があり、進む方向さえ正せば、常に人間(じんかん)を利するのです。もしその瞬間、良い言葉を口にせず、煩悩に満ちていれば、人間(じんかん)で無明に支配された現象を作り出したでしょう。逆に言葉が多ければ多いほど、人間を傷つけ、大自然を破壊してしまいます。良いも悪いも時間の中にあり、人それぞれでそれをどう運用するかにかかっています」。

「慈済の志業はどうしてこれほど多くの部門に分かれて行っているのでしょうか。それは、時間がないからです。一人であれば、万事に精通するのにとても多くの時間がかかりますが、しかし時間がないのです。そこで、多くの部門を作って、各チームの一人ひとりが同時に才能を発揮し、分業と協力によって日々の事を行っているのです」。

上人によれば、それぞれの知識の度合いは異なっても、知識の高い人がたくさんの学問を理解しているとは限りません。そこで、孔子の「廟に入り、何事も尋ねる」という言葉のように、慣れない環境で知らないことに直面した時、謙遜して人に教えを請うことで、知識を増やすのです。人生とは、絶えず学びの過程であり、歳を取っても学び続けるのです。そして、何かを学んだら、それを還元し、自分の生命の価値を世の中で発揮するのです。

「一日八万六千四百秒、生命は秒単位を生きていきます。しかし、時間の経過と共に、知らない間に怠惰になり、歩調が遅くなります。そこで、自分に警鐘を鳴らして調整しなければいけません。人生は自然の法則から逃れることはできず、時間に打ち勝つことはできません。それ故、勝つことを考えるのではなく、自分の本分を発揮すればいいのです。もし、本分を発揮しなければ、時間を無駄に過ごすことになり、生命は時間と共に過ぎ去っていきます。ですから、時間を大切にすることを知り、生命を無駄に過ごしてはいけません」。

また、上人はこう言いました。「現代人は様々な方法で多くの知識を学ぶことができますが、知識があるからといって、傲慢になってはいけません。さもなければ、知識が増えた分だけ傲慢になり、修養はその分だけ失われていきます。人生で修養することで、智慧を増やし、慧命の価値を発揮するのです。皆さんに時間を大切にするよう訴えているのは、別に仕事の時間や収入に意識を向けるためではありません。いつも休暇のことを考えたり、休みたいと怠惰になったりしていたら、累積してきた生命の価値は消えてしまい、人生を充実させるのが難しいからです」。

「一人ひとりが学んだ知識を智慧に変えていくことを願っています。知識だけで物事を成そうとすれば、往々にして計算高くなります。この世で清浄無垢の智慧を使えば、何事に対しても感謝の気持ちがいとも自然に湧いてきます。感謝することを知っている人は、困難に遭遇しても、それを善に解釈するので、広い心で純粋な気持ちになれます。人にも事にも世に対しても争わない、心の大きな人は永遠に楽しいのです」。

「もし、計算高く、感謝の気持ちを持っていなければ、毎日はとても辛いものになるでしょう。時間は誰にとっても公平なものですが、一人ひとりの価値観は異なっており、計算高い人はいつも、多くの時間を使って多くの煩悩を生み出しています。何事も争わない人は、どんなに多く無明の言葉に晒されても問題に思わず、『少ない労力で得るものが多い』ので、いつも軽くやり過ごすことができます。平穏な人生は、心が広く、大愛を世に広め、衆生を抱き締めることができます」。上人は、人々が心を大らかに持ち、心にある愛を奉仕することを学び、多い少ないにかかわらず、いつも自分の能力を発揮し、喜んで奉仕するようにと教えています。人々の愛を結集すれば、大きな力となって世の苦難を助けることができるのです。

また、「愛に満ちた商店」活動は、大衆に呼びかけ、愛を奉仕する方法を示すものです。お客が店で買い物をした時、釣り銭を愛の募金箱に入れてもらうのですが、これは幸福をもたらす行為です。その店がスペースを設けて募金箱を置き、お客に良い言葉をかければ、お互いの間に福が生まれます。このような行為を通して、知らない間に人の心が浄化され、それが自然と社会を平和にするのです。ですから、皆さんが商店に愛の募金箱を置かせてもらう時は、少し時間をかけて、心のこもった説明をした方が良いのです。彼らが理解すれば、自発的にお客に説明するようになり、より多くの人に善行の仕方を理解してもらえるようになります。良い言葉を口にすればするほど、その分だけこの世で善行する縁に恵まれるのです。

(慈済月刊七〇一期より)

春節前、花蓮のボランティアが愛に満ちた商店を訪れ、福慧お年玉を届けた。(撮影・詹進徳)

細かいことにこだわっていたら、生活は辛いのです。
何事にも感謝し、争わず、求めなければ、憂いはなくなります。

愛に満ちた商店が良縁を結ぶ

二月二十四日、基金会の主任たちの報告を聞いた後、上人はこう開示しました。「私は毎日自分を励ましています。残された時間が多くないため、歳に甘えたり、休むことを考えたりしてはいけないと思うのです。あとどのくらい残っているのでしょう。この世で少しでも多く良い話をしたいのです。良い話は人の心に影響を与えます。『静思語』のように、短い言葉でも、それを見たり、聞いたりすれば、役に立つのです」。

「一番大事なのはその時の一念で、私たちはそれを見逃さなかったことです。良い言葉は様々な煩悩を消し、諸々の良い事を成し遂げてくれます。即ち、その一瞬のその言葉には価値があり、進む方向さえ正せば、常に人間(じんかん)を利するのです。もしその瞬間、良い言葉を口にせず、煩悩に満ちていれば、人間(じんかん)で無明に支配された現象を作り出したでしょう。逆に言葉が多ければ多いほど、人間を傷つけ、大自然を破壊してしまいます。良いも悪いも時間の中にあり、人それぞれでそれをどう運用するかにかかっています」。

「慈済の志業はどうしてこれほど多くの部門に分かれて行っているのでしょうか。それは、時間がないからです。一人であれば、万事に精通するのにとても多くの時間がかかりますが、しかし時間がないのです。そこで、多くの部門を作って、各チームの一人ひとりが同時に才能を発揮し、分業と協力によって日々の事を行っているのです」。

上人によれば、それぞれの知識の度合いは異なっても、知識の高い人がたくさんの学問を理解しているとは限りません。そこで、孔子の「廟に入り、何事も尋ねる」という言葉のように、慣れない環境で知らないことに直面した時、謙遜して人に教えを請うことで、知識を増やすのです。人生とは、絶えず学びの過程であり、歳を取っても学び続けるのです。そして、何かを学んだら、それを還元し、自分の生命の価値を世の中で発揮するのです。

「一日八万六千四百秒、生命は秒単位を生きていきます。しかし、時間の経過と共に、知らない間に怠惰になり、歩調が遅くなります。そこで、自分に警鐘を鳴らして調整しなければいけません。人生は自然の法則から逃れることはできず、時間に打ち勝つことはできません。それ故、勝つことを考えるのではなく、自分の本分を発揮すればいいのです。もし、本分を発揮しなければ、時間を無駄に過ごすことになり、生命は時間と共に過ぎ去っていきます。ですから、時間を大切にすることを知り、生命を無駄に過ごしてはいけません」。

また、上人はこう言いました。「現代人は様々な方法で多くの知識を学ぶことができますが、知識があるからといって、傲慢になってはいけません。さもなければ、知識が増えた分だけ傲慢になり、修養はその分だけ失われていきます。人生で修養することで、智慧を増やし、慧命の価値を発揮するのです。皆さんに時間を大切にするよう訴えているのは、別に仕事の時間や収入に意識を向けるためではありません。いつも休暇のことを考えたり、休みたいと怠惰になったりしていたら、累積してきた生命の価値は消えてしまい、人生を充実させるのが難しいからです」。

「一人ひとりが学んだ知識を智慧に変えていくことを願っています。知識だけで物事を成そうとすれば、往々にして計算高くなります。この世で清浄無垢の智慧を使えば、何事に対しても感謝の気持ちがいとも自然に湧いてきます。感謝することを知っている人は、困難に遭遇しても、それを善に解釈するので、広い心で純粋な気持ちになれます。人にも事にも世に対しても争わない、心の大きな人は永遠に楽しいのです」。

「もし、計算高く、感謝の気持ちを持っていなければ、毎日はとても辛いものになるでしょう。時間は誰にとっても公平なものですが、一人ひとりの価値観は異なっており、計算高い人はいつも、多くの時間を使って多くの煩悩を生み出しています。何事も争わない人は、どんなに多く無明の言葉に晒されても問題に思わず、『少ない労力で得るものが多い』ので、いつも軽くやり過ごすことができます。平穏な人生は、心が広く、大愛を世に広め、衆生を抱き締めることができます」。上人は、人々が心を大らかに持ち、心にある愛を奉仕することを学び、多い少ないにかかわらず、いつも自分の能力を発揮し、喜んで奉仕するようにと教えています。人々の愛を結集すれば、大きな力となって世の苦難を助けることができるのです。

また、「愛に満ちた商店」活動は、大衆に呼びかけ、愛を奉仕する方法を示すものです。お客が店で買い物をした時、釣り銭を愛の募金箱に入れてもらうのですが、これは幸福をもたらす行為です。その店がスペースを設けて募金箱を置き、お客に良い言葉をかければ、お互いの間に福が生まれます。このような行為を通して、知らない間に人の心が浄化され、それが自然と社会を平和にするのです。ですから、皆さんが商店に愛の募金箱を置かせてもらう時は、少し時間をかけて、心のこもった説明をした方が良いのです。彼らが理解すれば、自発的にお客に説明するようになり、より多くの人に善行の仕方を理解してもらえるようになります。良い言葉を口にすればするほど、その分だけこの世で善行する縁に恵まれるのです。

(慈済月刊七〇一期より)

春節前、花蓮のボランティアが愛に満ちた商店を訪れ、福慧お年玉を届けた。(撮影・詹進徳)

關鍵字

人生の法則

無明という煩悩は、道を遮って前進を難しくします。
法を得て喜びに満ちれば、
心の障害はなくなり、清らかで明るくなります。

悟りに達した情で以って、
人に対して尊重と感謝の気持ちを持ち、
発心して大衆に分け入って、
広く衆生を悟りに導きましょう。

無明という煩悩は、道を遮って前進を難しくします。法を得て喜びに満ちれば、心の障害はなくなり、清らかで明るくなります。

悟りに達した情で以って、人に対して尊重と感謝の気持ちを持ち、発心して大衆に分け入って、広く衆生を悟りに導きましょう。

無明という煩悩は、道を遮って前進を難しくします。
法を得て喜びに満ちれば、
心の障害はなくなり、清らかで明るくなります。

悟りに達した情で以って、
人に対して尊重と感謝の気持ちを持ち、
発心して大衆に分け入って、
広く衆生を悟りに導きましょう。

無明という煩悩は、道を遮って前進を難しくします。法を得て喜びに満ちれば、心の障害はなくなり、清らかで明るくなります。

悟りに達した情で以って、人に対して尊重と感謝の気持ちを持ち、発心して大衆に分け入って、広く衆生を悟りに導きましょう。

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