愛で以て傷を癒す

編集者の言葉

三月末、慈済基金会はオンラインでトルコ世界医師連盟と契約を結んだ。二月六日のトルコ・シリア大地震におけるシリア領内の被災者に対する医療支援は今後一年間行われ、延べ四万人余りが恩恵を受けると推測される。

これは、慈済がヨルダンのハーシム慈善団体の協力を得て、二月末に台湾の実業家から寄付された防寒具をシリアに送ったことに続き、被災地への更なる支援にあたる。

現在、EUの呼びかけにより、六十数カ国と数百の国際的な団体がトルコの被災地に人道支援を提供している。それに対して、十年以上にわたって頻繁に内戦が発生しているシリアは、国際社会の関心がごく僅かに寄せられているのみで、国内は秩序を失い、外国からの援助も届きにくい。地震に見舞われたシリアの人々は最も弱い立場にあり、苦しみに喘ぐグループだと言える。

トルコは大量のシリア難民を受け入れている国の一つである。しかし、この大地震の後、国境付近に滞在する両国の被災者の間に、生き残りのための衝突が起きている。かつて「ニューヨークタイムズ」は次のように報じたことがある。地震前のトルコ経済はすでに日ごとに衰退の一途を辿っており、外から来たシリア人を排斥する動きは避けられない状態だった。地震後、シリア人が同等の救済を得るのは困難だが、トルコは相対的に住みやすいため、この時期にシリアにいる親戚の元に帰れば、将来トルコに戻るのが困難になる恐れがあるのだ。

この矛盾の中で、如何にしてバランス良く国籍を問わず、被災者に支援を届けられるかが、慈済ボランティアの知恵の見せ所である。トルコ政府の許可を得て、ボランティアはシリア難民キャンプを訪ね、家庭訪問して名簿を作成した。ボランティアが最も未練を残したのは、毎回の配付で全ての被災者に行き届かなかったことである。今期の特別報道では、慈済災害支援チームが段階的に任務を果たし、花蓮の静思精舎に帰って分かち合った内容が掲載されている。しみじみと心に感じる所があった。

曽て或るトルコの被災者が、シリア国籍の慈済ボランティアから物資を受け取った時、「私たちは今、あなたたちが家を失った痛みを感じています」と言った。また当時、戦争で身障者になり、今回また地震で被災した若いシリア人のアナウンサーは、自分は悲惨な世代に生まれ、人生が再び試練に直面しているが、人助けをやめてはならないのだ、と言った。

そのほか今月の特集では、台南市を例に、二年以上前に発足した「安美プロジェクト」を追跡している。プロジェクトの内容は、独り暮らしの高齢者や身障者、弱者世帯を対象に、家の安全対策施工をすることで、転倒防止やそれに伴う医療費、社会サービス費を減らそうとするものである。このプロジェクトはコミュニティを単位として深く関わり、慈善支援を必要とする高齢者を発掘し続けることを目的としている。

清明節が過ぎ、春雨が大地を潤していた頃、静思僧団の最初の五人の大弟子のうち、五番目の徳仰師父が円寂した。今月号には師父の生涯にわたる行誼(こうぎ)に関する特集が掲載されている。師父は長年服飾工房を取り仕切り、器用に作られた僧衣は尼僧の威儀に端厳さを添えた。お人柄は物静かで忍耐強く、その行いは静思家風を現していた。そして、何気ない日常の中で真面目に修行する模範を後輩に残した。

抜苦与楽という慈悲心が連綿と続き、傷ついた人が癒され、愛の力が絶えないことを願っている。

(慈済月刊六七八期より)

編集者の言葉

三月末、慈済基金会はオンラインでトルコ世界医師連盟と契約を結んだ。二月六日のトルコ・シリア大地震におけるシリア領内の被災者に対する医療支援は今後一年間行われ、延べ四万人余りが恩恵を受けると推測される。

これは、慈済がヨルダンのハーシム慈善団体の協力を得て、二月末に台湾の実業家から寄付された防寒具をシリアに送ったことに続き、被災地への更なる支援にあたる。

現在、EUの呼びかけにより、六十数カ国と数百の国際的な団体がトルコの被災地に人道支援を提供している。それに対して、十年以上にわたって頻繁に内戦が発生しているシリアは、国際社会の関心がごく僅かに寄せられているのみで、国内は秩序を失い、外国からの援助も届きにくい。地震に見舞われたシリアの人々は最も弱い立場にあり、苦しみに喘ぐグループだと言える。

トルコは大量のシリア難民を受け入れている国の一つである。しかし、この大地震の後、国境付近に滞在する両国の被災者の間に、生き残りのための衝突が起きている。かつて「ニューヨークタイムズ」は次のように報じたことがある。地震前のトルコ経済はすでに日ごとに衰退の一途を辿っており、外から来たシリア人を排斥する動きは避けられない状態だった。地震後、シリア人が同等の救済を得るのは困難だが、トルコは相対的に住みやすいため、この時期にシリアにいる親戚の元に帰れば、将来トルコに戻るのが困難になる恐れがあるのだ。

この矛盾の中で、如何にしてバランス良く国籍を問わず、被災者に支援を届けられるかが、慈済ボランティアの知恵の見せ所である。トルコ政府の許可を得て、ボランティアはシリア難民キャンプを訪ね、家庭訪問して名簿を作成した。ボランティアが最も未練を残したのは、毎回の配付で全ての被災者に行き届かなかったことである。今期の特別報道では、慈済災害支援チームが段階的に任務を果たし、花蓮の静思精舎に帰って分かち合った内容が掲載されている。しみじみと心に感じる所があった。

曽て或るトルコの被災者が、シリア国籍の慈済ボランティアから物資を受け取った時、「私たちは今、あなたたちが家を失った痛みを感じています」と言った。また当時、戦争で身障者になり、今回また地震で被災した若いシリア人のアナウンサーは、自分は悲惨な世代に生まれ、人生が再び試練に直面しているが、人助けをやめてはならないのだ、と言った。

そのほか今月の特集では、台南市を例に、二年以上前に発足した「安美プロジェクト」を追跡している。プロジェクトの内容は、独り暮らしの高齢者や身障者、弱者世帯を対象に、家の安全対策施工をすることで、転倒防止やそれに伴う医療費、社会サービス費を減らそうとするものである。このプロジェクトはコミュニティを単位として深く関わり、慈善支援を必要とする高齢者を発掘し続けることを目的としている。

清明節が過ぎ、春雨が大地を潤していた頃、静思僧団の最初の五人の大弟子のうち、五番目の徳仰師父が円寂した。今月号には師父の生涯にわたる行誼(こうぎ)に関する特集が掲載されている。師父は長年服飾工房を取り仕切り、器用に作られた僧衣は尼僧の威儀に端厳さを添えた。お人柄は物静かで忍耐強く、その行いは静思家風を現していた。そして、何気ない日常の中で真面目に修行する模範を後輩に残した。

抜苦与楽という慈悲心が連綿と続き、傷ついた人が癒され、愛の力が絶えないことを願っている。

(慈済月刊六七八期より)

關鍵字

一本の手すりが晩年を支える

台南の慈済ボランティアは浴室に入って手すりを取り付けた。年配の家主は付き添いながら、何度も感謝の言葉を繰り返した。

薄暗くて凸凹のある通路、不便な和式トイレ、滑りやすい浴室の床……これらは家の中に隠れているリスクで、お年寄りの日常生活に影響を与えるものだ。

里長のお蔭で、慈済は慈善支援を直接家庭に届けることができた。

里長(里は台湾の行政区画)が提供したリストに従って、四十三人の慈済ボランティアが台南市東山区高原里を訪れ、慈済人でもある現地の七人の住民の案内で、五十世帯の一人暮らしのお年寄りや身障者を訪ねた。

台南市郊外の片田舎、東山区に差し掛かると、道中は稲作の農地や果樹園が山の斜面に広がっていた。ここに工場はなく、若者は就職が容易でないため、大半はよその土地へ働きに行くので、故郷に留まっているのはほとんどがお年寄りである。数年後には、老いた連れ合いを亡くして独りになるか、或いは祖父母で孫の面倒を見る隔世世帯になっているかもしれない。

ボランティアが初めて高原里を訪れた時、そこは名実共に地勢が高く、道路は湾曲していた。里長の羅献龍(ルォ・シエンロン)さんはボランティアに、その里(村)には約二百七十世帯の住民がいると説明した。「戸籍上は八百人強いるが、実際に住んでいる人は半分にも満たないのです。それに一人暮らしの高齢者や老夫婦、隔世代家族が四、五十世帯もあります。家は一軒一軒山に散らばっており、隣人といっても、実際は百メートルあるいはもっと遠く離れていますから、お年寄りの安全が本当に心配です!」。

高原里に住んでいる慈済ボランティアの鄭宗智(ヅン・ヅォンヅー)さんは水道・電気が専門で、「安美プロジェクト」における住環境安全修繕チームのメンバーでもある。彼は「一本の手すりでも命を救うかもしれない」ことをよく知っている。そのため積極的に、年齢が近くて、数年前北部から故郷に戻って来て里長に就任した羅さんにコンタクトし、一緒に高齢者の居住環境の改善を提案した。滑り止め、転倒防止などを施すことで、多くのアクシデントの発生を減らすことができるのである。

「不便な和式トイレ、暗い照明、朽ちかけた扉、凸凹のある通路、緩んだ石やレンガが敷かれた段差など、どれを取ってもお年寄りの日常生活に影響を及ぼすものであり、慈済がコミュニティの安全に関心を寄せている理由です」。鄭さんのこの言葉は、若い時によその土地に行って事業に奮闘していた羅さんにとって、とても感じるところがあり、以前から誠意を込めて里民と交流して来た彼は、実は早くから心の中で多くの修繕が必要な高齢者世帯のリストを作っていた。

羅さんは先ず逐一戸籍調査を行い、慈済の居住環境修繕の条件に合致するかどうかを理解した。二、三日の訪問期間中、住民の中には不在の人もいたが、彼は諦めることなく、日を改めて出直した。または住民の間で支援の要請を互いに連絡でも取っているのか…ボランティアが家庭訪問する当日の午前中になっても、彼が提供してくれた数字は変化を続け、最終的に五十世帯を最初の訪問リストに記載した。

手すりの設置をするのを待っているお年寄りのことを思うと、どんなに重い道具を担いで坂を上ろうとも、慈済修繕チームは歩みを緩めるわけにはいかない。

ボランティアの許茂忠さんは、正確に手すりの設置位置を印し、一本一本の手すりがお年寄りの手に馴染むよう願った。

タオル掛けを手すりの代わりに

張お爺さん夫婦は独身の長兄と同居していて、一家三人は皆七十歳を超えている。行動が不自由な張お爺さんは両方の手に杖を突いて、やっと坂の上にある家に辿り着くことができる。

ボランティアが彼らの部屋から浴室とトイレに行く経路を詳しく調べたところ、浴室のタオル掛けに何本か結び目のある紐があるのに気づいた。それはお爺さんがシャワーを浴びて立ち上がる時の補助道具だったのだ。訪問ケアの経験が豊富なソーシャルワーカーの翁銹雅(オン・シュウヤ―)さんは、直ぐ鄭さんと、縦型の手すりの設置と特注のシャワー用腰掛を提供することを相談した。

鄭さんは張お爺さんに、タオル掛けの紐を使う時は気をつけるように、と念を押すことを忘れなかった。というのも、「紐の耐久性にも限度がある」からだ。そして、慣れた手つきで巻き尺を取り出して測り、それからお爺さんに試しに座ってもらい、手すりを設置する位置を手が届く高さに決めた。部屋を一つ一つ通って行くと、突き当りにトイレがあったが、ボランティアはセメントの床に凸凹があり、何カ所か剥がれて緩んでいるところを見つけた。ボランティアは直ちに次回来て全て修繕することを約束した。

自分の家にも高齢の父親がいる鄭さんは、同郷のために喜んで奉仕したそうだ。「同じ住民ですから互いによく知っていますが、各家庭の条件とニーズは、家庭訪問の時にしか理解する機会がありません。お年寄りの安全を一番に考えて、今できることを先にやれば、設置の進度も少しは早くなります!」。

胡お婆さんは一人暮らしで、彼女の家に行くには先ず、一面に苔が生えた石段を通る必要がある。彼女の手足は敏捷な方なので、ボランティアは実年齢の八十六歳よりも若いと称賛した。彼女に二十八人のひ孫がいるようには見えない。

古民家(閩南式赤レンガの家)の軒下には、何脚か休憩用の椅子が置かれてあった。十数年前、胡お爺さんが家と庭の行き来に便利なようにと自分で作った上がり段があった。そこに上がった時、ボランティアの許茂忠(シュ・マオヅォン)さんは足元がふらついた感じがしたので、直感的に相当危ないな、と思った。

古民家の裏には浴室とトイレがあり、扉を開けると、許さんは直ぐプラスチックの防水マットが滑りやすいことに気づいたが、胡お婆さんは笑いながら、「そうだよ。この間滑ってしまったよ!」と言った。僅かな調査時間だったが、指で数えて既に三カ所に安全面の心配があった。苔に覆われた石段、庭から家への上がり段、浴室の防水プラスチックマットだ。

ボランティアはリストに逐一修繕が必要な項目を記録し、お年寄りに家から一番近い子供たちとの連絡方法を詳しく聞いた後、施工前には里長を通して知らせることを約束した。

住居の修繕は単純そうに見えるが、実は考慮しなければならないことが少なくない。時には壁に穴を開けて手すりを固定する必要があったり、古いバスタブを取り外したり、和式トイレを洋式トイレに変えたりするなどの工事をする。そのため、先ず、持ち家かどうか確認する必要があり、もし賃貸であれば、家主の同意が必要だ。もちろん借家人も然りである。訪問調査の時に施工方法を決めてから、世帯主と里長、ボランティアの三者が確認とサインをして初めて、プロジェクトが成立する。そして工事が終った日、必ず本人または家族に試験的に使ってもらってから検収している。

ボランティアは、張お爺さんと胡お婆さんの住居を修繕すると同時に、新営、塩水、白河、柳営、後壁などの各里も訪問してアセスメントを行った。工事終了後も再度あいさつのために訪問し、日常生活や修繕、補強した部分などに関心を寄せた。お年寄りの立ち居振る舞いが安全であるのを見て初めて、ボランティアは安心するのだ。

この二年間に、大新営地区で計二十九の里長から慈済に訪問調査の要請があり、その数は五百世帯余りを数えた。そして、今までで既に三百七十世帯の修繕を終えた。

台南市東山区へ修繕に訪れたボランティアは、張家のお年寄りの日常生活におけるニーズと健康状態に関心を寄せた。以前、張お爺さんはロープを使って立ち上がっていたが、手すりができてからは、それほど苦労する必要はなくなった。

年配者の機能低下がもう少し遅くなることを願う

今年二月、慈済台南支部のソーシャルワーカーである張育慈(ヅァン・ユーヅ―)さんと徐雅鈴(シュ・ヤ―リン)さんは、修繕チームと一緒に東山区水雲里に来て、五世帯のお年寄りたちのために手すりの設置を行い、それが終った後、更に高原里に向かった。車は草木が生い茂った山道を走り、風光明媚な景色に春の日光が降り注いでいたが、時々遭遇する上り下りが急な坂を見ていると、ボランティアたちには、住民が普段どのようにして外部と往来しているのか想像できなかった。

一行は春の陽が降り注ぐスモモ園に着いた。入り口にあるインド桜が満開だった。坂の上の庭に入るゲートの側で、車椅子に座った張お爺さんと彼のお兄さんが手を振りながらボランティアを出迎えていた。

二年近く会っていないが、当時、お爺さんがシャワーを終えて起き上る時に力を使わなくて済むように、安定した縦型手すりを取り付けたが、ロープはまだ残っていた。張お婆さんによると、お爺さんは老化で少し認知症になっているとのことだった。

張お爺さんは行動が不自由なので、あまり外出しない。親しい友人が家に来ると、お茶を飲みながら座談するだけだ。新型コロナウイルスの感染拡大が酷くなってからは、子供たちが休日に帰ってくる以外、友人と交流する機会はほとんどなくなった。人と接することが少なくなったことで、お爺さんの心身は衰え始めた。

張お婆さんによれば、お爺さんが歩行のために使っていた二本の杖の代わりに車椅子を使うようにしたのは、熟考した結果、その方が良いという結論からだった。歳月は人を待たず、ボランティアは、お年寄りの健康状態が衰える速度はまるで滑り台のようだと嘆いた。

張お婆さんの家からの道を幾つか曲がり、胡お婆さんの家はあまり遠くない場所にあった。広々とした庭は静寂に包まれ、ボランティアは「お婆ちゃん!いらっしゃいますか?」と呼ぶと、胡お婆さんはボランティアが取り付けた手すりに掴まりながら立ち上がったが、明らかに動きは遅くなっていた。

胡お婆さんの軒下に吊るされた、春節の爆竹に似せた飾りと大小様々な赤い提灯を見つけたボランティアが、好奇心から、「子供たちは皆、旧正月に帰ってきたのですね!」と尋ねた。

おばあちゃんは、「そうだよ。私には二人の息子と五人の娘がいて、今年の旧正月にはまた二人のひ孫が増えたので、全部で三十人だよ」と嬉しそうに話した。

ボランティアは、「手すりは使い勝手がいいですか?」と聞くと、まだ手すりを掴んでいたお婆さんは「使いやすいよ。ほら、本当に快適。私のために付けてくれて本当に感謝しているよ!」と言った。ボランティアは設置した設備の安全性に問題がないことを確認した後、名残惜しい気持ちで別れを告げた。

コロナ禍にもかかわらず、台南のボランティアはいつもと変わらずコミュニティで住居の改善を続けた。案件の報告、家庭訪問、視察、施工、検収を経て、二十六地区の百三十三里で七百五十九軒の修繕を終えた。修繕が終わったからと言って、ケアが終わるわけではない。例えばこの二年間、高原里の羅献龍里長は随時、里民に支援が必要だと気付くと、慈済にアセスメントと支援を依頼して来た。

「ここは田舎で、交通が不便な上に社会的リソースも少ない所です。時々廟から配付があるのは少量の米や麺、油、ドライフーズだけで、お年寄りや生活困窮家庭に実質的支援を提供するのは難しいのです。ここにいるお年寄りは私たちの家族同然ですから、里長として私には彼らの安全を考える責任があります。ましてや慈済ボランティアが私たちの隣にいるのですから、證厳上人の『他人をケアできる人には福がある』という言葉通り、私も心から喜びを感じて率先してやっています!」。

台湾はもうすぐ超高齢化社会に突入し、地元でのお年寄りの介護ニーズは増えるばかりだ。基本的な居住の安全を守ることができれば、それに越したことはなく、自立した日常生活を失う予防になるのである。そして、これも慈済が推し進めている「安美プロジェクト」における住居修繕の初心である。

ボランティアは胡お婆さんが庭へ上り降りしやすいように踏み台と手すりを設置した。古い佇まいを守るお年寄りに安心して余生を送ってほしいのだ。

台南の慈済ボランティアは浴室に入って手すりを取り付けた。年配の家主は付き添いながら、何度も感謝の言葉を繰り返した。

薄暗くて凸凹のある通路、不便な和式トイレ、滑りやすい浴室の床……これらは家の中に隠れているリスクで、お年寄りの日常生活に影響を与えるものだ。

里長のお蔭で、慈済は慈善支援を直接家庭に届けることができた。

里長(里は台湾の行政区画)が提供したリストに従って、四十三人の慈済ボランティアが台南市東山区高原里を訪れ、慈済人でもある現地の七人の住民の案内で、五十世帯の一人暮らしのお年寄りや身障者を訪ねた。

台南市郊外の片田舎、東山区に差し掛かると、道中は稲作の農地や果樹園が山の斜面に広がっていた。ここに工場はなく、若者は就職が容易でないため、大半はよその土地へ働きに行くので、故郷に留まっているのはほとんどがお年寄りである。数年後には、老いた連れ合いを亡くして独りになるか、或いは祖父母で孫の面倒を見る隔世世帯になっているかもしれない。

ボランティアが初めて高原里を訪れた時、そこは名実共に地勢が高く、道路は湾曲していた。里長の羅献龍(ルォ・シエンロン)さんはボランティアに、その里(村)には約二百七十世帯の住民がいると説明した。「戸籍上は八百人強いるが、実際に住んでいる人は半分にも満たないのです。それに一人暮らしの高齢者や老夫婦、隔世代家族が四、五十世帯もあります。家は一軒一軒山に散らばっており、隣人といっても、実際は百メートルあるいはもっと遠く離れていますから、お年寄りの安全が本当に心配です!」。

高原里に住んでいる慈済ボランティアの鄭宗智(ヅン・ヅォンヅー)さんは水道・電気が専門で、「安美プロジェクト」における住環境安全修繕チームのメンバーでもある。彼は「一本の手すりでも命を救うかもしれない」ことをよく知っている。そのため積極的に、年齢が近くて、数年前北部から故郷に戻って来て里長に就任した羅さんにコンタクトし、一緒に高齢者の居住環境の改善を提案した。滑り止め、転倒防止などを施すことで、多くのアクシデントの発生を減らすことができるのである。

「不便な和式トイレ、暗い照明、朽ちかけた扉、凸凹のある通路、緩んだ石やレンガが敷かれた段差など、どれを取ってもお年寄りの日常生活に影響を及ぼすものであり、慈済がコミュニティの安全に関心を寄せている理由です」。鄭さんのこの言葉は、若い時によその土地に行って事業に奮闘していた羅さんにとって、とても感じるところがあり、以前から誠意を込めて里民と交流して来た彼は、実は早くから心の中で多くの修繕が必要な高齢者世帯のリストを作っていた。

羅さんは先ず逐一戸籍調査を行い、慈済の居住環境修繕の条件に合致するかどうかを理解した。二、三日の訪問期間中、住民の中には不在の人もいたが、彼は諦めることなく、日を改めて出直した。または住民の間で支援の要請を互いに連絡でも取っているのか…ボランティアが家庭訪問する当日の午前中になっても、彼が提供してくれた数字は変化を続け、最終的に五十世帯を最初の訪問リストに記載した。

手すりの設置をするのを待っているお年寄りのことを思うと、どんなに重い道具を担いで坂を上ろうとも、慈済修繕チームは歩みを緩めるわけにはいかない。

ボランティアの許茂忠さんは、正確に手すりの設置位置を印し、一本一本の手すりがお年寄りの手に馴染むよう願った。

タオル掛けを手すりの代わりに

張お爺さん夫婦は独身の長兄と同居していて、一家三人は皆七十歳を超えている。行動が不自由な張お爺さんは両方の手に杖を突いて、やっと坂の上にある家に辿り着くことができる。

ボランティアが彼らの部屋から浴室とトイレに行く経路を詳しく調べたところ、浴室のタオル掛けに何本か結び目のある紐があるのに気づいた。それはお爺さんがシャワーを浴びて立ち上がる時の補助道具だったのだ。訪問ケアの経験が豊富なソーシャルワーカーの翁銹雅(オン・シュウヤ―)さんは、直ぐ鄭さんと、縦型の手すりの設置と特注のシャワー用腰掛を提供することを相談した。

鄭さんは張お爺さんに、タオル掛けの紐を使う時は気をつけるように、と念を押すことを忘れなかった。というのも、「紐の耐久性にも限度がある」からだ。そして、慣れた手つきで巻き尺を取り出して測り、それからお爺さんに試しに座ってもらい、手すりを設置する位置を手が届く高さに決めた。部屋を一つ一つ通って行くと、突き当りにトイレがあったが、ボランティアはセメントの床に凸凹があり、何カ所か剥がれて緩んでいるところを見つけた。ボランティアは直ちに次回来て全て修繕することを約束した。

自分の家にも高齢の父親がいる鄭さんは、同郷のために喜んで奉仕したそうだ。「同じ住民ですから互いによく知っていますが、各家庭の条件とニーズは、家庭訪問の時にしか理解する機会がありません。お年寄りの安全を一番に考えて、今できることを先にやれば、設置の進度も少しは早くなります!」。

胡お婆さんは一人暮らしで、彼女の家に行くには先ず、一面に苔が生えた石段を通る必要がある。彼女の手足は敏捷な方なので、ボランティアは実年齢の八十六歳よりも若いと称賛した。彼女に二十八人のひ孫がいるようには見えない。

古民家(閩南式赤レンガの家)の軒下には、何脚か休憩用の椅子が置かれてあった。十数年前、胡お爺さんが家と庭の行き来に便利なようにと自分で作った上がり段があった。そこに上がった時、ボランティアの許茂忠(シュ・マオヅォン)さんは足元がふらついた感じがしたので、直感的に相当危ないな、と思った。

古民家の裏には浴室とトイレがあり、扉を開けると、許さんは直ぐプラスチックの防水マットが滑りやすいことに気づいたが、胡お婆さんは笑いながら、「そうだよ。この間滑ってしまったよ!」と言った。僅かな調査時間だったが、指で数えて既に三カ所に安全面の心配があった。苔に覆われた石段、庭から家への上がり段、浴室の防水プラスチックマットだ。

ボランティアはリストに逐一修繕が必要な項目を記録し、お年寄りに家から一番近い子供たちとの連絡方法を詳しく聞いた後、施工前には里長を通して知らせることを約束した。

住居の修繕は単純そうに見えるが、実は考慮しなければならないことが少なくない。時には壁に穴を開けて手すりを固定する必要があったり、古いバスタブを取り外したり、和式トイレを洋式トイレに変えたりするなどの工事をする。そのため、先ず、持ち家かどうか確認する必要があり、もし賃貸であれば、家主の同意が必要だ。もちろん借家人も然りである。訪問調査の時に施工方法を決めてから、世帯主と里長、ボランティアの三者が確認とサインをして初めて、プロジェクトが成立する。そして工事が終った日、必ず本人または家族に試験的に使ってもらってから検収している。

ボランティアは、張お爺さんと胡お婆さんの住居を修繕すると同時に、新営、塩水、白河、柳営、後壁などの各里も訪問してアセスメントを行った。工事終了後も再度あいさつのために訪問し、日常生活や修繕、補強した部分などに関心を寄せた。お年寄りの立ち居振る舞いが安全であるのを見て初めて、ボランティアは安心するのだ。

この二年間に、大新営地区で計二十九の里長から慈済に訪問調査の要請があり、その数は五百世帯余りを数えた。そして、今までで既に三百七十世帯の修繕を終えた。

台南市東山区へ修繕に訪れたボランティアは、張家のお年寄りの日常生活におけるニーズと健康状態に関心を寄せた。以前、張お爺さんはロープを使って立ち上がっていたが、手すりができてからは、それほど苦労する必要はなくなった。

年配者の機能低下がもう少し遅くなることを願う

今年二月、慈済台南支部のソーシャルワーカーである張育慈(ヅァン・ユーヅ―)さんと徐雅鈴(シュ・ヤ―リン)さんは、修繕チームと一緒に東山区水雲里に来て、五世帯のお年寄りたちのために手すりの設置を行い、それが終った後、更に高原里に向かった。車は草木が生い茂った山道を走り、風光明媚な景色に春の日光が降り注いでいたが、時々遭遇する上り下りが急な坂を見ていると、ボランティアたちには、住民が普段どのようにして外部と往来しているのか想像できなかった。

一行は春の陽が降り注ぐスモモ園に着いた。入り口にあるインド桜が満開だった。坂の上の庭に入るゲートの側で、車椅子に座った張お爺さんと彼のお兄さんが手を振りながらボランティアを出迎えていた。

二年近く会っていないが、当時、お爺さんがシャワーを終えて起き上る時に力を使わなくて済むように、安定した縦型手すりを取り付けたが、ロープはまだ残っていた。張お婆さんによると、お爺さんは老化で少し認知症になっているとのことだった。

張お爺さんは行動が不自由なので、あまり外出しない。親しい友人が家に来ると、お茶を飲みながら座談するだけだ。新型コロナウイルスの感染拡大が酷くなってからは、子供たちが休日に帰ってくる以外、友人と交流する機会はほとんどなくなった。人と接することが少なくなったことで、お爺さんの心身は衰え始めた。

張お婆さんによれば、お爺さんが歩行のために使っていた二本の杖の代わりに車椅子を使うようにしたのは、熟考した結果、その方が良いという結論からだった。歳月は人を待たず、ボランティアは、お年寄りの健康状態が衰える速度はまるで滑り台のようだと嘆いた。

張お婆さんの家からの道を幾つか曲がり、胡お婆さんの家はあまり遠くない場所にあった。広々とした庭は静寂に包まれ、ボランティアは「お婆ちゃん!いらっしゃいますか?」と呼ぶと、胡お婆さんはボランティアが取り付けた手すりに掴まりながら立ち上がったが、明らかに動きは遅くなっていた。

胡お婆さんの軒下に吊るされた、春節の爆竹に似せた飾りと大小様々な赤い提灯を見つけたボランティアが、好奇心から、「子供たちは皆、旧正月に帰ってきたのですね!」と尋ねた。

おばあちゃんは、「そうだよ。私には二人の息子と五人の娘がいて、今年の旧正月にはまた二人のひ孫が増えたので、全部で三十人だよ」と嬉しそうに話した。

ボランティアは、「手すりは使い勝手がいいですか?」と聞くと、まだ手すりを掴んでいたお婆さんは「使いやすいよ。ほら、本当に快適。私のために付けてくれて本当に感謝しているよ!」と言った。ボランティアは設置した設備の安全性に問題がないことを確認した後、名残惜しい気持ちで別れを告げた。

コロナ禍にもかかわらず、台南のボランティアはいつもと変わらずコミュニティで住居の改善を続けた。案件の報告、家庭訪問、視察、施工、検収を経て、二十六地区の百三十三里で七百五十九軒の修繕を終えた。修繕が終わったからと言って、ケアが終わるわけではない。例えばこの二年間、高原里の羅献龍里長は随時、里民に支援が必要だと気付くと、慈済にアセスメントと支援を依頼して来た。

「ここは田舎で、交通が不便な上に社会的リソースも少ない所です。時々廟から配付があるのは少量の米や麺、油、ドライフーズだけで、お年寄りや生活困窮家庭に実質的支援を提供するのは難しいのです。ここにいるお年寄りは私たちの家族同然ですから、里長として私には彼らの安全を考える責任があります。ましてや慈済ボランティアが私たちの隣にいるのですから、證厳上人の『他人をケアできる人には福がある』という言葉通り、私も心から喜びを感じて率先してやっています!」。

台湾はもうすぐ超高齢化社会に突入し、地元でのお年寄りの介護ニーズは増えるばかりだ。基本的な居住の安全を守ることができれば、それに越したことはなく、自立した日常生活を失う予防になるのである。そして、これも慈済が推し進めている「安美プロジェクト」における住居修繕の初心である。

ボランティアは胡お婆さんが庭へ上り降りしやすいように踏み台と手すりを設置した。古い佇まいを守るお年寄りに安心して余生を送ってほしいのだ。

關鍵字

簡先生の電子機器レッスン

若かった頃、よく親に少しでも余計に尋ねられると、私は不機嫌になった。自分が中年になった今、両親も老い、いつか互いに別れなければならないと感じるようになった。

私は親との対話を大切にし始め、自分が老いた時、子供たちは私とどう接するだろうか、と思わずにはいられなかった。

毎週木曜日、私は新竹静思堂の受付当番をしている。一週間一回のこの当番のメリットは、異なる区域の師姐(スージェ)たちと知り合い、慈済に入った縁や様々な人生の話を聞くことができることである。

ある日、受付に四人の年配の師姐が当番にやって来た。一人の白髪の師姐が登録手続き用のコンピューターの前に立って、「このコンピューターにどうやって登録するのか、未だに分からないわ」とぶつぶつ独言を言った。

側にいた私はそれを聞いて、好奇心から、「あら、いつもどうやって登録しているのですか」と聞いた。「いつも誰かに手伝ってもらって、受付を済ませているのよ」と師姐が答えた。

瞬時にして私の教師魂が目を覚まし、彼女の手を取って、登録手続きをして見せた。そして彼女に登録の練習をしてもらった。彼女は、登録の仕方が分かると、子供のように嬉しそうな笑顏を浮かべて、「こんなに簡単だったのね。今までいつも、操作ミスをすると、コンピューターを壊してしまうのではないか、と心配していたのです」と言った。

続いて彼女はポケットからスマホを取り出して、「このスマホ、あまりうまく使えないので、使う勇気がないのです」と言った。「これは息子がくれた中古のスマホで、時々操作できないと、息子に聞きに行くのですが、彼はひどく怒るのです。『何度も教えたのに、まだできないの』と言うので、余計に使う勇気がないのです」。師姐は、はけ口を見付けたかのように、あらゆる辛い思いをぶちまけた。

私は彼女を慰めながら、「大丈夫ですよ。よく練習して操作ミスを怖がらないで使えば、どんどん慣れて来ますよ。私が教えてあげますね」と言った。彼女を椅子に座らせ、スマホをオンにして、メッセージの基本的な機能の使い方から教え始めた。

他の三人も集まって来て、一緒に私が教えるのを見ながら、様々な質間をした。私は一人一人個別に教え、繰り返し練習してもらった。メッセージの受信や写真の編集、SNSでのメッセージ削除や設定のしかたなど、彼女たちは不器用に指でその小さなスクリーンをタッチし、押し間違えると、やり直していた。

教える過程で、私は絶えず彼女らを励ました。「間違っても大丈夫ですよ。スマホはそんなに簡単には壊れませんから。よく練習して、何度も試すことです。続ければ、できるようになりますよ」。

簡毓嫺(左)さんは、毎週木曜日に新竹静思堂で受付当番をして、シルバー世代のボランティアと交流している。(撮影・王瓊婉)

このシルバー世代の師姐たちは、実に真面目に学んでいた。彼女たちはできないのではなく、ひどく自信がなかったのだ。日進月歩のハイテク製品に直面して、どうしたらいいのか分からず、質問があっても、聞ける人がいないので、挫折が日増しに深くなり、時代に取り残されたという孤独感が湧いてきたのだ。

若い頃、私は目上に対してこんなに忍耐強くはなかった。よく親に、少しでも余計なことを尋ねられると、不機嫌な口調で返した。さもなければ、イライラしながらインターネットの使い方を教え、よく親を怒らせていた。

自分が中年になった今、親も歳を取った。いつか彼らと別れる日が来ると感じ出した。残りの日々が少なくなると知ってからは、親に電話をかける度に、まだ彼らと会話できる時間を大切にするようになった。優しく語りかけることを心がけるようになり、幼い子どもを相手にするように、辛抱強く彼らと付き合っている。

縁もゆかりもなく出会ったシルバー世代の師姐たちは、まるで年長の家族のように感じた。彼女たちが、自分にはまだ学習能力があり、社会で役に立ち、受け入れてもらえると感じ、操作ができるようになって明るい笑顏を見せた時、私にも大きな達成感がもたらされた。

誰しも時の流れという巨大な歯車から逃れることはできない。師姐と科学技術の距離を感じながら、私が老いた時にこの世界はどうなっているのだろうか、と思わずにはいられなかった。私もその時代の新しいテクノロジーに驚いて戸惑っているかもしれない。
我に返って、「時代がどう変わろうとも、今を把握し、優しくお年寄りたちに接すればいいのだ!」と自分に言い聞かせた。私も老いた時、若い人たちから優しくされたいと思う。

教え終わると、私は今日教えた内容を紙に書き、彼女たちにスマホで写真を撮らせ、家に帰ってから、それを見ながら練習できるようにした。その中の一人が、「お名前を紙の端に書いてください。覚えておきたいのです」と言った。彼女は私が書いた名前を見て、真心から私に、「簡先生、ありがとうございました!」と言った。私の心は、その感謝の言葉で、瞬時にして温もりと感動に満たされた。

教える側と教わる側、その光景はとても美しい!

(慈済月刊六七七期より)

若かった頃、よく親に少しでも余計に尋ねられると、私は不機嫌になった。自分が中年になった今、両親も老い、いつか互いに別れなければならないと感じるようになった。

私は親との対話を大切にし始め、自分が老いた時、子供たちは私とどう接するだろうか、と思わずにはいられなかった。

毎週木曜日、私は新竹静思堂の受付当番をしている。一週間一回のこの当番のメリットは、異なる区域の師姐(スージェ)たちと知り合い、慈済に入った縁や様々な人生の話を聞くことができることである。

ある日、受付に四人の年配の師姐が当番にやって来た。一人の白髪の師姐が登録手続き用のコンピューターの前に立って、「このコンピューターにどうやって登録するのか、未だに分からないわ」とぶつぶつ独言を言った。

側にいた私はそれを聞いて、好奇心から、「あら、いつもどうやって登録しているのですか」と聞いた。「いつも誰かに手伝ってもらって、受付を済ませているのよ」と師姐が答えた。

瞬時にして私の教師魂が目を覚まし、彼女の手を取って、登録手続きをして見せた。そして彼女に登録の練習をしてもらった。彼女は、登録の仕方が分かると、子供のように嬉しそうな笑顏を浮かべて、「こんなに簡単だったのね。今までいつも、操作ミスをすると、コンピューターを壊してしまうのではないか、と心配していたのです」と言った。

続いて彼女はポケットからスマホを取り出して、「このスマホ、あまりうまく使えないので、使う勇気がないのです」と言った。「これは息子がくれた中古のスマホで、時々操作できないと、息子に聞きに行くのですが、彼はひどく怒るのです。『何度も教えたのに、まだできないの』と言うので、余計に使う勇気がないのです」。師姐は、はけ口を見付けたかのように、あらゆる辛い思いをぶちまけた。

私は彼女を慰めながら、「大丈夫ですよ。よく練習して操作ミスを怖がらないで使えば、どんどん慣れて来ますよ。私が教えてあげますね」と言った。彼女を椅子に座らせ、スマホをオンにして、メッセージの基本的な機能の使い方から教え始めた。

他の三人も集まって来て、一緒に私が教えるのを見ながら、様々な質間をした。私は一人一人個別に教え、繰り返し練習してもらった。メッセージの受信や写真の編集、SNSでのメッセージ削除や設定のしかたなど、彼女たちは不器用に指でその小さなスクリーンをタッチし、押し間違えると、やり直していた。

教える過程で、私は絶えず彼女らを励ました。「間違っても大丈夫ですよ。スマホはそんなに簡単には壊れませんから。よく練習して、何度も試すことです。続ければ、できるようになりますよ」。

簡毓嫺(左)さんは、毎週木曜日に新竹静思堂で受付当番をして、シルバー世代のボランティアと交流している。(撮影・王瓊婉)

このシルバー世代の師姐たちは、実に真面目に学んでいた。彼女たちはできないのではなく、ひどく自信がなかったのだ。日進月歩のハイテク製品に直面して、どうしたらいいのか分からず、質問があっても、聞ける人がいないので、挫折が日増しに深くなり、時代に取り残されたという孤独感が湧いてきたのだ。

若い頃、私は目上に対してこんなに忍耐強くはなかった。よく親に、少しでも余計なことを尋ねられると、不機嫌な口調で返した。さもなければ、イライラしながらインターネットの使い方を教え、よく親を怒らせていた。

自分が中年になった今、親も歳を取った。いつか彼らと別れる日が来ると感じ出した。残りの日々が少なくなると知ってからは、親に電話をかける度に、まだ彼らと会話できる時間を大切にするようになった。優しく語りかけることを心がけるようになり、幼い子どもを相手にするように、辛抱強く彼らと付き合っている。

縁もゆかりもなく出会ったシルバー世代の師姐たちは、まるで年長の家族のように感じた。彼女たちが、自分にはまだ学習能力があり、社会で役に立ち、受け入れてもらえると感じ、操作ができるようになって明るい笑顏を見せた時、私にも大きな達成感がもたらされた。

誰しも時の流れという巨大な歯車から逃れることはできない。師姐と科学技術の距離を感じながら、私が老いた時にこの世界はどうなっているのだろうか、と思わずにはいられなかった。私もその時代の新しいテクノロジーに驚いて戸惑っているかもしれない。
我に返って、「時代がどう変わろうとも、今を把握し、優しくお年寄りたちに接すればいいのだ!」と自分に言い聞かせた。私も老いた時、若い人たちから優しくされたいと思う。

教え終わると、私は今日教えた内容を紙に書き、彼女たちにスマホで写真を撮らせ、家に帰ってから、それを見ながら練習できるようにした。その中の一人が、「お名前を紙の端に書いてください。覚えておきたいのです」と言った。彼女は私が書いた名前を見て、真心から私に、「簡先生、ありがとうございました!」と言った。私の心は、その感謝の言葉で、瞬時にして温もりと感動に満たされた。

教える側と教わる側、その光景はとても美しい!

(慈済月刊六七七期より)

關鍵字

徳仰法師を追悼する─「無言」の良師に敬意を表す

徳仰師父の性格は内向的でもの静か。口数が少ないというよりも無口だった。

こうして修行者として後人に残した風格は、身でもって教えたものである。

静かな午後、机の横に置いてあった携帯電話が静寂を破った–静思精舎の徳仰(ドーヤン)師父(スーフ)がこの世を去り、慈済大学解剖センターに献体されたとのこと。長短様々なメッセージが続けて入って来た。

人生にも長短がある。徳仰師父は享年八十四歳で、長寿の方だった。しかし、證厳法師は、人生の価値は寿命の長さにあるのではなく、生命の広さと厚みにある、と私たちに教えた。

徳仰師父の性格は内向的で、もの静かな人だった。口数が少ないというよりも無口といった方がいい。修行者として後人に残した風格は、身でもって教えてくれたものである。

徳仰師父の後に付いて日常の作業をしている時、技術指導を必要とする以外は、作業場には作業の音しか聞こえず、雑談の声が聞こえてくることは全くない。目の前の仕事がどれだけ煩雑でも、師父は精神を集中させて続けていた。整然と秩序を保ち、忍耐強く、口を開くことなく、手だけを動かしていた。それが師父の禅定と精進だった。

晩年は病に苛まれたが、同門の弟子や居士または雇っていた外国籍介護士の手伝いを問わず、誰に対しても感謝し、自分の意見を言うことはなかった。ある日、私は師父に、自分の考えをはっきり伝えてもいいのではないかと助言したことがあるが、師父は、人には夫々のやり方があり、迷惑を掛けてはいけないと言って、全てを受け入れていた。それが師父の「随縁」と「善意に解釈する」姿だった。

徳融師父(右)、徳恩師父(左)と徳仰師父(中)は1970年一緒に出家し、台北臨済護国禅寺にて具足戒を受けた。(写真の提供・花蓮本会)

好学だが、教えることを倦まない

数年前、《修・行・安・住—證厳法師の五人の長老弟子》という本を書くにあたって、資料収集をする為に何度か精舎に帰った。徳仰師父と私は何年も前から知り合いだったので、師父はジャーナリストという仕事の性質をよく知っていた。師父と「雑談」しようと思って近づこうとすると、笑いながら「何しに来たのですか」と聞くか、直接インタビューを断わるのだった。

精舎の師父たちは、とかく自分たちがしていることは多くないので、文字にして残すほどではないと考えている。出版の締切りが目前に迫っていた時、私が徳仰師父と親しくなかったならば、師父が毎週教えている漢文の《楞厳呪(りょうごんしゅ)》朗誦クラスの学生にはなり得なかったと言えるだろう。

師父が自分から口を開く唯一の機会は講義をする時で、生徒としてお年寄りの側にいれば、何かと観察することができた。

徳仰師父の私塾では、私たちは三人、五人、と円座に座る。いつも先ず師父が二回、続いて私たちが声を合わせて朗誦した。《楞厳呪》というお経(陀羅尼)は梵語をそのまま音読みするので発音が特に難しい。徳仰師父によると、幼少の頃、花蓮の慈善院で《楞厳呪》を勉強していた時、一ページ目でもう止めようと思ったことがあるという。

徳仰師父が当時、「難しい」と感じたのは、初心者である私と同じで、まるで「外国語」だったそうだ。漢字の横に付いている発音記号は全く参考にならなかった。ましてやその漢文の発音は閩南語とは異なっていて、思いも寄らず師父も同じような経験をしていたのだ。しかし、今では流れるように誦経するだけでなく、多くの弟子に教えるようになったのである。

陀羅尼(だらに)はまるで連なったパスコードのようなもので、一つ間違えると、間違った暗号のようになる。師父は私たちの誦経を聞いている時、あたかも耳にふるいが付いているかのように、あらゆる発音やアクセント及び段落の位置を厳しく聞き分けた。少しでも間違えると、師父は直ちに私たちを止め、もう一度読んで聞かせた。また、個別に質問するよう私たちを励ました。

徳仰師父は決して厳しい先生ではなかったが、うんざりした表情を見せることは一度もなかった。何時でも私たちからの「もう一回読んで欲しい」というリクエストに応えてくれた。師父は学生の向学心を喜ぶが、唯一不機嫌になるのは、学生が貪欲で早く成就したがる時だった。学生が手順を踏んで、真面目に学べば、師父はいつも無限の忍耐と包容力でもって受け入れてくれた。

徳仰師父は幼少期から漢文を学び、出家後はその漢文で誦経することに秀でていた。(左写真の撮影・蕭耀華)

法師を慕い、共に責務を担う

一昨年十一月、證厳法師の一番弟子である徳慈師父のご遺体が慈済大学の模擬手術授業で起用された。丁度その時、徳仰師父は花蓮慈済病院に入院していた。見舞いに行った時、師父の一刻も早く退院したい気持ちを知って、私は不用意に、せっかく入院しているのだから、体をしっかり治してから精舎に戻るよう勧めた。そうすると師父は厳しい顔付きで私に、他の出家人は皆、仕事がとても忙しいのに、自分一人だけ入院して何もしない訳にはいかない、と言った。ましてや同門の弟子たちに看病してもらうなんて…。

徳仰師父の思いは、私に師父の言葉を思い起こさせた。初期の頃、畑仕事で慢性的な睡眠と栄養不足に陥り、熱中症で倒れそうになったので厨房に駆け込んで水を飲むこともあったという。そういう時、疲労でいくら休憩したいと思っても、きつい日差しの下で作業している同門の弟子のことを思うと、一人だけ楽をする気にはなれなかった。

一番弟子と同様、徳仰師父は同門の弟子を思い、早く精舎に戻って仕事を手伝いたかった。その強靭な精神力は、病院のリハビリ・プログラムに対し、積極的に協力する姿勢に表れていた。ある日、徳侔(ドームー)師父が特別に、精舎の裁縫工房から何本かの細長い布を持って来た。元々裁縫をしていた徳仰師父によると、早期の出家人の服はほとんど師父の手作りだったそうだ。徳侔師父は、その「語りかける生地」に親しんでいる五番弟子の徳仰師父に、布を編むことが手のリハビリになると考えた。

案の定、徳仰師父は布を手にすると、直ぐ縄を編み始めた。徳仰師父の元気な様子を見て、私は小さな経本を開き、徳仰師父に《楞厳呪》を再度指導してもらった。自分が誦経する声はまるで子供が自転車に乗るのを学ぶようなもので、道は真っ直ぐなのに、車体は左右に蛇行し、今にも倒れそうになる。徳仰師父が頭を下げて、私と一緒に経本を読んだ。耳元に響いた声は、私が間違いなく誦経できるよう、願いを込めていたことが感じ取れた。

徳仰師父は長年裁縫と手作りの仕事に従事し、頭を低くしたまま作業していたため、頸部に大きな負担がかかり、顔を上げるのが一苦労だった。晩年は脳梗塞と癌で、四肢のリハビリだけでなく、呑み込む練習までしなければならなかった。それほど健康を害していても、同門の弟子の生活を思い、仕事を分担していた。

晩年は脳梗塞を患ったが、徳仰師父は毎日仕事ができるよう望み、体力が許す限り、厚いサチャインチナッツの皮剥きを手伝った。(撮影・黄筱哲)

最後の一刻まで奉仕する

暫くして、言語療法士が病室にやってきた。療法士は、口数が少ない徳仰師父がお経を朗誦しているのを聞いて、これは最も良いリハビリだと言って、続けて徳仰師父に音階の練習を指導した。まるで音楽クラスにいるように、徳仰師父は言語療法士の手の動きに沿って、顔を上げたり下げたりして、真面目に発声練習をして筋肉を鍛えていた。

私は横で観察していたが、徳仰師父は学生であっても教師である時でも、いつも真面目で厳粛に臨んでいた。円満に一生の修行を終えた後、徳仰師父は未解決の医学問題を医師たちに託した。大学解剖学科の「無言の良師」についてたくさん書いてきたが、徳仰師父は生前から「無言」の良師だったと言える。

この文章でもって、将来徳仰師父のご遺体から学ぶ医師たちが謹んで学習することを祝福し、これが徳仰師父の切実な望みでもあるのだと信じている。

(慈済月刊六七八期より)

徳仰師父の性格は内向的でもの静か。口数が少ないというよりも無口だった。

こうして修行者として後人に残した風格は、身でもって教えたものである。

静かな午後、机の横に置いてあった携帯電話が静寂を破った–静思精舎の徳仰(ドーヤン)師父(スーフ)がこの世を去り、慈済大学解剖センターに献体されたとのこと。長短様々なメッセージが続けて入って来た。

人生にも長短がある。徳仰師父は享年八十四歳で、長寿の方だった。しかし、證厳法師は、人生の価値は寿命の長さにあるのではなく、生命の広さと厚みにある、と私たちに教えた。

徳仰師父の性格は内向的で、もの静かな人だった。口数が少ないというよりも無口といった方がいい。修行者として後人に残した風格は、身でもって教えてくれたものである。

徳仰師父の後に付いて日常の作業をしている時、技術指導を必要とする以外は、作業場には作業の音しか聞こえず、雑談の声が聞こえてくることは全くない。目の前の仕事がどれだけ煩雑でも、師父は精神を集中させて続けていた。整然と秩序を保ち、忍耐強く、口を開くことなく、手だけを動かしていた。それが師父の禅定と精進だった。

晩年は病に苛まれたが、同門の弟子や居士または雇っていた外国籍介護士の手伝いを問わず、誰に対しても感謝し、自分の意見を言うことはなかった。ある日、私は師父に、自分の考えをはっきり伝えてもいいのではないかと助言したことがあるが、師父は、人には夫々のやり方があり、迷惑を掛けてはいけないと言って、全てを受け入れていた。それが師父の「随縁」と「善意に解釈する」姿だった。

徳融師父(右)、徳恩師父(左)と徳仰師父(中)は1970年一緒に出家し、台北臨済護国禅寺にて具足戒を受けた。(写真の提供・花蓮本会)

好学だが、教えることを倦まない

数年前、《修・行・安・住—證厳法師の五人の長老弟子》という本を書くにあたって、資料収集をする為に何度か精舎に帰った。徳仰師父と私は何年も前から知り合いだったので、師父はジャーナリストという仕事の性質をよく知っていた。師父と「雑談」しようと思って近づこうとすると、笑いながら「何しに来たのですか」と聞くか、直接インタビューを断わるのだった。

精舎の師父たちは、とかく自分たちがしていることは多くないので、文字にして残すほどではないと考えている。出版の締切りが目前に迫っていた時、私が徳仰師父と親しくなかったならば、師父が毎週教えている漢文の《楞厳呪(りょうごんしゅ)》朗誦クラスの学生にはなり得なかったと言えるだろう。

師父が自分から口を開く唯一の機会は講義をする時で、生徒としてお年寄りの側にいれば、何かと観察することができた。

徳仰師父の私塾では、私たちは三人、五人、と円座に座る。いつも先ず師父が二回、続いて私たちが声を合わせて朗誦した。《楞厳呪》というお経(陀羅尼)は梵語をそのまま音読みするので発音が特に難しい。徳仰師父によると、幼少の頃、花蓮の慈善院で《楞厳呪》を勉強していた時、一ページ目でもう止めようと思ったことがあるという。

徳仰師父が当時、「難しい」と感じたのは、初心者である私と同じで、まるで「外国語」だったそうだ。漢字の横に付いている発音記号は全く参考にならなかった。ましてやその漢文の発音は閩南語とは異なっていて、思いも寄らず師父も同じような経験をしていたのだ。しかし、今では流れるように誦経するだけでなく、多くの弟子に教えるようになったのである。

陀羅尼(だらに)はまるで連なったパスコードのようなもので、一つ間違えると、間違った暗号のようになる。師父は私たちの誦経を聞いている時、あたかも耳にふるいが付いているかのように、あらゆる発音やアクセント及び段落の位置を厳しく聞き分けた。少しでも間違えると、師父は直ちに私たちを止め、もう一度読んで聞かせた。また、個別に質問するよう私たちを励ました。

徳仰師父は決して厳しい先生ではなかったが、うんざりした表情を見せることは一度もなかった。何時でも私たちからの「もう一回読んで欲しい」というリクエストに応えてくれた。師父は学生の向学心を喜ぶが、唯一不機嫌になるのは、学生が貪欲で早く成就したがる時だった。学生が手順を踏んで、真面目に学べば、師父はいつも無限の忍耐と包容力でもって受け入れてくれた。

徳仰師父は幼少期から漢文を学び、出家後はその漢文で誦経することに秀でていた。(左写真の撮影・蕭耀華)

法師を慕い、共に責務を担う

一昨年十一月、證厳法師の一番弟子である徳慈師父のご遺体が慈済大学の模擬手術授業で起用された。丁度その時、徳仰師父は花蓮慈済病院に入院していた。見舞いに行った時、師父の一刻も早く退院したい気持ちを知って、私は不用意に、せっかく入院しているのだから、体をしっかり治してから精舎に戻るよう勧めた。そうすると師父は厳しい顔付きで私に、他の出家人は皆、仕事がとても忙しいのに、自分一人だけ入院して何もしない訳にはいかない、と言った。ましてや同門の弟子たちに看病してもらうなんて…。

徳仰師父の思いは、私に師父の言葉を思い起こさせた。初期の頃、畑仕事で慢性的な睡眠と栄養不足に陥り、熱中症で倒れそうになったので厨房に駆け込んで水を飲むこともあったという。そういう時、疲労でいくら休憩したいと思っても、きつい日差しの下で作業している同門の弟子のことを思うと、一人だけ楽をする気にはなれなかった。

一番弟子と同様、徳仰師父は同門の弟子を思い、早く精舎に戻って仕事を手伝いたかった。その強靭な精神力は、病院のリハビリ・プログラムに対し、積極的に協力する姿勢に表れていた。ある日、徳侔(ドームー)師父が特別に、精舎の裁縫工房から何本かの細長い布を持って来た。元々裁縫をしていた徳仰師父によると、早期の出家人の服はほとんど師父の手作りだったそうだ。徳侔師父は、その「語りかける生地」に親しんでいる五番弟子の徳仰師父に、布を編むことが手のリハビリになると考えた。

案の定、徳仰師父は布を手にすると、直ぐ縄を編み始めた。徳仰師父の元気な様子を見て、私は小さな経本を開き、徳仰師父に《楞厳呪》を再度指導してもらった。自分が誦経する声はまるで子供が自転車に乗るのを学ぶようなもので、道は真っ直ぐなのに、車体は左右に蛇行し、今にも倒れそうになる。徳仰師父が頭を下げて、私と一緒に経本を読んだ。耳元に響いた声は、私が間違いなく誦経できるよう、願いを込めていたことが感じ取れた。

徳仰師父は長年裁縫と手作りの仕事に従事し、頭を低くしたまま作業していたため、頸部に大きな負担がかかり、顔を上げるのが一苦労だった。晩年は脳梗塞と癌で、四肢のリハビリだけでなく、呑み込む練習までしなければならなかった。それほど健康を害していても、同門の弟子の生活を思い、仕事を分担していた。

晩年は脳梗塞を患ったが、徳仰師父は毎日仕事ができるよう望み、体力が許す限り、厚いサチャインチナッツの皮剥きを手伝った。(撮影・黄筱哲)

最後の一刻まで奉仕する

暫くして、言語療法士が病室にやってきた。療法士は、口数が少ない徳仰師父がお経を朗誦しているのを聞いて、これは最も良いリハビリだと言って、続けて徳仰師父に音階の練習を指導した。まるで音楽クラスにいるように、徳仰師父は言語療法士の手の動きに沿って、顔を上げたり下げたりして、真面目に発声練習をして筋肉を鍛えていた。

私は横で観察していたが、徳仰師父は学生であっても教師である時でも、いつも真面目で厳粛に臨んでいた。円満に一生の修行を終えた後、徳仰師父は未解決の医学問題を医師たちに託した。大学解剖学科の「無言の良師」についてたくさん書いてきたが、徳仰師父は生前から「無言」の良師だったと言える。

この文章でもって、将来徳仰師父のご遺体から学ぶ医師たちが謹んで学習することを祝福し、これが徳仰師父の切実な望みでもあるのだと信じている。

(慈済月刊六七八期より)

關鍵字

震災後の廃墟に 希望の小花が咲いた─トルコへの支援

冬の霜は太陽が出ると、春の農耕に必要な養分になる。

地震で母親と姉を亡くした七歳の女の子は、名も知らない小花を摘んで来て、「貴おじさん」に贈った。

その花は謝景貴さんの心の中に咲き、それを伴って台湾に帰った。「それは震災支援現場でもらった一番大切な贈り物です」。

地震が発生した時、皆慌てて逃げ出し、何百万もの人が大通りに殺到しました。何千という道路に亀裂が入り、何万棟にも上る建物が一瞬のうちに倒壊し、何万もの人が命を落としたなど、とても想像し難いことです」。慈済トルコ災害支援チームのメンバーである謝景貴(シェ・ジングェイ)さんは、二月六日に大地震が発生すると、チームメンバーと共にイスタンブールから何千マイルも離れた被災地へ向かった。もし安全な落ち着き先が見つからない場合は、被災者たちと同じように、毛布にくるまって、車の中で夜を明かそうとまで覚悟していた、と彼は当時を振りかえった。

国際災害支援のベテランとして、これまで数多くの地震後の災害支援を経験してきたが、いつも被災者の心の痛みに心から共感できていないことを感じていた。「難しい、とても難しいことです。私たちが本当に心を静める以外に方法はありません。あたかも世界のあらゆるものが消え去った中で、静まれば静まるほど近づき、もはや八千キロ離れた彼らと無関係ではなくなるのです」。

被害調査、家庭訪問、配付など、どれも容易ではない。建物の損傷があまりにも酷いため、十分なスペースを備えた安全な配付場所を見つけることが困難だった。また、トルコの地方自治体が提供したリストには、往々にして自国人の資料しかなかったので、もっと立場の弱いシリア難民に支援を届けるためには、ボランティア自らがテントエリアを訪れて名簿を作成する必要があった。そうしてやっと、同じように支援を必要としている人々に恩恵を与えることができた。

ボランティアの謝景貴さんは、サイードさんと一緒テントエリアを訪れた。末娘のアイサは、小さな花をお礼に贈った。(撮影‥モハメド・N・M・アルジャマル)

貴おじさんのお願い

テント暮しの家族には、それぞれのストーリーがある。四十三歳のサイードさんは、太陽光発電所の警備員をしていて、二年前にやっと八年間賃貸していた家を買い取った。それは葡萄の蔓がある夢のマイホームだった。

「妻は妊娠していて、やっと男の子に恵まれると楽しみにしていました。地震当日はちょうど夜勤でした。帰路の道路が分断され、元々車で四十分の距離でしたが、三時間以上も掛かってやっと家にたどり着きました」。

謝さんはサイードさんの寂しげな表情を見ながら、地震当時の話を聞いた。妊娠中だった妻と長女が亡くなり、十二歳と七歳の娘だけが残されたことを知った。

「その時、彼は配付現場にいたのですが、大愛テレビ記者の景卉(ジンフイ)さんから、彼の家へ取材に行きませんかと聞かれました。私は躊躇しました」。謝さんは昨年六月に妻を肺腺癌で亡くしていた。自分は二人で癌と闘った道を四年間という準備期間を歩んだのだが、サイードさんは一晩で肉親を失ったのだ。「どう彼を慰めたらいいのだろうか。彼に何をしてあげられるだろうか」。

謝さんは、サイードさんにだけ言った。

「帰ったら私の代りに娘さんを抱擁してあげてください。そして彼女たちに、『貴おじさんが、お父さんの世話をあなたたちにお願いしています』と伝えてください」。

再びサイードさんを見かけた時、彼は老いた父親を伴って慈済の配付会場に来ていた。また、「貴おじさん」に会うために、七歳の末娘も連れて来ていた。その家族の三世代を目にした時、謝さんはやっと肩の荷を下ろし、シリア人の通訳ボランティアと共に、彼らの「家」を訪ねた。

「彼の家に行くと、大家族だと分かりました。何かが起きると、皆で互いに支え合っているのです。それを聞いて私たちは少し安心しました」。サイードさん一家が仮住まいしていたテントエリアに来ると、ボランティアたちは心のこもったもてなしを受けた。生活環境は厳しいものの、トルコ政府から温かい食事と飲み水の提供があり、家族が寄り添い、世帯人数に従って配られた慈済の買い物カードもあるので、当面の生活は心配がなかった。

「この花を差し上げます」とサイードさんの七歳の末娘が、名前も知らない花を摘んで来て、「貴おじさん」に贈った。遠方から来た彼は驚いて、「これは震災支援現場でもらった一番貴重な贈り物です」と感動した。

「これまで雪がすごく降りましたが、太陽が出てきました。私たちも太陽になって、雪を溶かしたいと思っています」と謝さんが言った。春の農耕季節がもうすぐそこで、全ては新たに始まる。「もし何時の日か立ち直ることができたら、あなたたちも私たちのように、周りの人に手を差し伸べ、支援してあげることができるはずです」。

慈済の買い物カードを受け取った被災地の女性たちは、安堵の笑みを浮かべた。 (撮影・余自成)

皆に寄り添う

三月末までに、被害の大きかった三カ所である、トルコ南東部のハタイ県、ガズィアンテプ県及びシャンリウファ市に対する緊急支援段階の配付を終え、十八万人以上の被災者がラマダンを過ごせることを願った。現在、慈済本部はトルコ版「プロジェクト・ホープ」による建設支援を積極的に企画している。また、「世界の医療団」と協力の契約を交わし、彼らがシリアの被災地で移動医療をする資金を提供できるようにした。

トルコ南部レイハンリ市の「台湾世界市民センター」には、大量の被災者が避難しているが、現地では水と電気設備が酷く損傷して苦境に陥っているため、慈済は特別に太陽光発電の大手メーカーと連絡を取って、太陽光発電設備を寄贈することを決め、グリーン・エネルギーを活用して災害に粘り強く耐えることを目指した。

震災直後の緊急支援段階を振り返ると、四十日間で四十回もの大規模配付活動を行ったのは順調そうに見えるが、その裏には多くの困難があった。

慈済の被害調査チームは、地震発生から約一週間後の二月十一日にはトルコに到着したが、ボランティアたちの知る災害状況の情報は限られていた。その中で最も重要なニュースは、トルコ政府の初歩的な統計によるもので、五百万人以上の被災者が支援を必要としているということだった。

「首相府災害緊急対策本部では、スタッフが各地に出向いて情報を報告していましたが、被災地が十一の県に及び、最前線での正確な被害状況の把握が困難でした。そのため、私たちは先ず何処へ行けばいいか分かりませんでした。選択肢は二つしかなく、一つは二週間待って政府が情報を把握してから、支援先を決めること、そしてもう一つは、先遣チームを派遣して、直接現場を視察することでした」。

謝さんは、被災地に入る前の最初の一歩について語った。当時、災害調査チームのリーダーだった慈済基金会の熊士民副執行長は、政府による被災者数の予測に基づき、ウクナイナ避難民の支援経験から、慈済は四パーセント、即ち二十万人、四万世帯を支援することができると推算し、直ちに證厳法師に指示を仰いで、迅速に決断を下した。

厳しい寒さの中、支援は待てない。カイセリ県の前副知事で、トルコ慈済基金会顧問のアリ氏の協力の下、チームメンバーは二月十二日に副大統領と面会し、被災地に入る許可を得た。先遣チームは二月十五日にイスタンブールから被害の大きかった地域に入り、調査、拠点捜し、交渉などを行い、主チームが到着した時、直ぐ支援が展開できるよう準備をした。

一行は三日分の食糧、飲料水、ガソリン及び毛布を用意し、万一宿泊先が見つからない時は、車の中で過ごすことを想定した。幸いにもアリ氏の友人の実業家がハタイ県の北部で経営している温泉ホテルを提供してくれることになり、慈済の拠点も設置することができた。ボランティアたちは地元の立地を生かし、ハタイ県内各地及び近隣県の被害調査に出向き、自治体と交渉し、慈済の支援は宗教や人種の区別はしないと繰り返し説明した。

トルコ慈済ボランティアの胡光中(フー・グアンヅォン)氏は、トルコ語とアラビア語に精通していて、配付会場では、毛布と買い物カードを受け取りに来た被災者に、「手伝いに来ているボランティアのほとんどは、マンナハイ国際学校のシリア難民です。卒業生もいれば、先生やスタッフもいます」と説明した。

「十数年間、トルコが彼らの世話をしてきましたが、トルコが危機に陥っている今、彼らは黙って見ているでしょうか。いいえ。彼らは十四時間から十六時間かけて、車でここにやって来たのです。彼らはあなたたちと一緒にありたいと思っているのです」。

二月十一日にトルコに入り、三月二十八日に台湾に戻った謝さんは、證厳法師の慈悲を身で以て感じることによってのみ、苦しむ人々の泣き声や助けを求める声が真に聞こえ、そして救いの手を差し伸べることを誓うことができるのだ、と語った。

「このように発願することで、上人に感化された世界四十以上の国と地域の慈済ボランティアが一緒に、見知らぬ土地の人々のために愛の募金を募るようになるのです。皆で、あなたたちは孤独ではない、と教えてあげましょう」。

(慈済月刊六七八期より)

トルコ・シリア地震の直後に、慈済は40回もの緊急支援の配付を行い、18万人あまりを支援した。(撮影・Abdulrahman Hritani)

冬の霜は太陽が出ると、春の農耕に必要な養分になる。

地震で母親と姉を亡くした七歳の女の子は、名も知らない小花を摘んで来て、「貴おじさん」に贈った。

その花は謝景貴さんの心の中に咲き、それを伴って台湾に帰った。「それは震災支援現場でもらった一番大切な贈り物です」。

地震が発生した時、皆慌てて逃げ出し、何百万もの人が大通りに殺到しました。何千という道路に亀裂が入り、何万棟にも上る建物が一瞬のうちに倒壊し、何万もの人が命を落としたなど、とても想像し難いことです」。慈済トルコ災害支援チームのメンバーである謝景貴(シェ・ジングェイ)さんは、二月六日に大地震が発生すると、チームメンバーと共にイスタンブールから何千マイルも離れた被災地へ向かった。もし安全な落ち着き先が見つからない場合は、被災者たちと同じように、毛布にくるまって、車の中で夜を明かそうとまで覚悟していた、と彼は当時を振りかえった。

国際災害支援のベテランとして、これまで数多くの地震後の災害支援を経験してきたが、いつも被災者の心の痛みに心から共感できていないことを感じていた。「難しい、とても難しいことです。私たちが本当に心を静める以外に方法はありません。あたかも世界のあらゆるものが消え去った中で、静まれば静まるほど近づき、もはや八千キロ離れた彼らと無関係ではなくなるのです」。

被害調査、家庭訪問、配付など、どれも容易ではない。建物の損傷があまりにも酷いため、十分なスペースを備えた安全な配付場所を見つけることが困難だった。また、トルコの地方自治体が提供したリストには、往々にして自国人の資料しかなかったので、もっと立場の弱いシリア難民に支援を届けるためには、ボランティア自らがテントエリアを訪れて名簿を作成する必要があった。そうしてやっと、同じように支援を必要としている人々に恩恵を与えることができた。

ボランティアの謝景貴さんは、サイードさんと一緒テントエリアを訪れた。末娘のアイサは、小さな花をお礼に贈った。(撮影‥モハメド・N・M・アルジャマル)

貴おじさんのお願い

テント暮しの家族には、それぞれのストーリーがある。四十三歳のサイードさんは、太陽光発電所の警備員をしていて、二年前にやっと八年間賃貸していた家を買い取った。それは葡萄の蔓がある夢のマイホームだった。

「妻は妊娠していて、やっと男の子に恵まれると楽しみにしていました。地震当日はちょうど夜勤でした。帰路の道路が分断され、元々車で四十分の距離でしたが、三時間以上も掛かってやっと家にたどり着きました」。

謝さんはサイードさんの寂しげな表情を見ながら、地震当時の話を聞いた。妊娠中だった妻と長女が亡くなり、十二歳と七歳の娘だけが残されたことを知った。

「その時、彼は配付現場にいたのですが、大愛テレビ記者の景卉(ジンフイ)さんから、彼の家へ取材に行きませんかと聞かれました。私は躊躇しました」。謝さんは昨年六月に妻を肺腺癌で亡くしていた。自分は二人で癌と闘った道を四年間という準備期間を歩んだのだが、サイードさんは一晩で肉親を失ったのだ。「どう彼を慰めたらいいのだろうか。彼に何をしてあげられるだろうか」。

謝さんは、サイードさんにだけ言った。

「帰ったら私の代りに娘さんを抱擁してあげてください。そして彼女たちに、『貴おじさんが、お父さんの世話をあなたたちにお願いしています』と伝えてください」。

再びサイードさんを見かけた時、彼は老いた父親を伴って慈済の配付会場に来ていた。また、「貴おじさん」に会うために、七歳の末娘も連れて来ていた。その家族の三世代を目にした時、謝さんはやっと肩の荷を下ろし、シリア人の通訳ボランティアと共に、彼らの「家」を訪ねた。

「彼の家に行くと、大家族だと分かりました。何かが起きると、皆で互いに支え合っているのです。それを聞いて私たちは少し安心しました」。サイードさん一家が仮住まいしていたテントエリアに来ると、ボランティアたちは心のこもったもてなしを受けた。生活環境は厳しいものの、トルコ政府から温かい食事と飲み水の提供があり、家族が寄り添い、世帯人数に従って配られた慈済の買い物カードもあるので、当面の生活は心配がなかった。

「この花を差し上げます」とサイードさんの七歳の末娘が、名前も知らない花を摘んで来て、「貴おじさん」に贈った。遠方から来た彼は驚いて、「これは震災支援現場でもらった一番貴重な贈り物です」と感動した。

「これまで雪がすごく降りましたが、太陽が出てきました。私たちも太陽になって、雪を溶かしたいと思っています」と謝さんが言った。春の農耕季節がもうすぐそこで、全ては新たに始まる。「もし何時の日か立ち直ることができたら、あなたたちも私たちのように、周りの人に手を差し伸べ、支援してあげることができるはずです」。

慈済の買い物カードを受け取った被災地の女性たちは、安堵の笑みを浮かべた。 (撮影・余自成)

皆に寄り添う

三月末までに、被害の大きかった三カ所である、トルコ南東部のハタイ県、ガズィアンテプ県及びシャンリウファ市に対する緊急支援段階の配付を終え、十八万人以上の被災者がラマダンを過ごせることを願った。現在、慈済本部はトルコ版「プロジェクト・ホープ」による建設支援を積極的に企画している。また、「世界の医療団」と協力の契約を交わし、彼らがシリアの被災地で移動医療をする資金を提供できるようにした。

トルコ南部レイハンリ市の「台湾世界市民センター」には、大量の被災者が避難しているが、現地では水と電気設備が酷く損傷して苦境に陥っているため、慈済は特別に太陽光発電の大手メーカーと連絡を取って、太陽光発電設備を寄贈することを決め、グリーン・エネルギーを活用して災害に粘り強く耐えることを目指した。

震災直後の緊急支援段階を振り返ると、四十日間で四十回もの大規模配付活動を行ったのは順調そうに見えるが、その裏には多くの困難があった。

慈済の被害調査チームは、地震発生から約一週間後の二月十一日にはトルコに到着したが、ボランティアたちの知る災害状況の情報は限られていた。その中で最も重要なニュースは、トルコ政府の初歩的な統計によるもので、五百万人以上の被災者が支援を必要としているということだった。

「首相府災害緊急対策本部では、スタッフが各地に出向いて情報を報告していましたが、被災地が十一の県に及び、最前線での正確な被害状況の把握が困難でした。そのため、私たちは先ず何処へ行けばいいか分かりませんでした。選択肢は二つしかなく、一つは二週間待って政府が情報を把握してから、支援先を決めること、そしてもう一つは、先遣チームを派遣して、直接現場を視察することでした」。

謝さんは、被災地に入る前の最初の一歩について語った。当時、災害調査チームのリーダーだった慈済基金会の熊士民副執行長は、政府による被災者数の予測に基づき、ウクナイナ避難民の支援経験から、慈済は四パーセント、即ち二十万人、四万世帯を支援することができると推算し、直ちに證厳法師に指示を仰いで、迅速に決断を下した。

厳しい寒さの中、支援は待てない。カイセリ県の前副知事で、トルコ慈済基金会顧問のアリ氏の協力の下、チームメンバーは二月十二日に副大統領と面会し、被災地に入る許可を得た。先遣チームは二月十五日にイスタンブールから被害の大きかった地域に入り、調査、拠点捜し、交渉などを行い、主チームが到着した時、直ぐ支援が展開できるよう準備をした。

一行は三日分の食糧、飲料水、ガソリン及び毛布を用意し、万一宿泊先が見つからない時は、車の中で過ごすことを想定した。幸いにもアリ氏の友人の実業家がハタイ県の北部で経営している温泉ホテルを提供してくれることになり、慈済の拠点も設置することができた。ボランティアたちは地元の立地を生かし、ハタイ県内各地及び近隣県の被害調査に出向き、自治体と交渉し、慈済の支援は宗教や人種の区別はしないと繰り返し説明した。

トルコ慈済ボランティアの胡光中(フー・グアンヅォン)氏は、トルコ語とアラビア語に精通していて、配付会場では、毛布と買い物カードを受け取りに来た被災者に、「手伝いに来ているボランティアのほとんどは、マンナハイ国際学校のシリア難民です。卒業生もいれば、先生やスタッフもいます」と説明した。

「十数年間、トルコが彼らの世話をしてきましたが、トルコが危機に陥っている今、彼らは黙って見ているでしょうか。いいえ。彼らは十四時間から十六時間かけて、車でここにやって来たのです。彼らはあなたたちと一緒にありたいと思っているのです」。

二月十一日にトルコに入り、三月二十八日に台湾に戻った謝さんは、證厳法師の慈悲を身で以て感じることによってのみ、苦しむ人々の泣き声や助けを求める声が真に聞こえ、そして救いの手を差し伸べることを誓うことができるのだ、と語った。

「このように発願することで、上人に感化された世界四十以上の国と地域の慈済ボランティアが一緒に、見知らぬ土地の人々のために愛の募金を募るようになるのです。皆で、あなたたちは孤独ではない、と教えてあげましょう」。

(慈済月刊六七八期より)

トルコ・シリア地震の直後に、慈済は40回もの緊急支援の配付を行い、18万人あまりを支援した。(撮影・Abdulrahman Hritani)

關鍵字

仏法は人間に在って、生活の中に根付くものです

(絵・陳九熹)

仏法は人間に在って、生活の中に根付くものです仏法精神や環境保全観念を語ることができるのは、壇上だけとは限りません。 人々の中に交じって、生活の中の行動にあるのです。

清らかで、純真で、自然で、意味があれば、最もよく伝わっているのです。

慈済は再び世界宗教大会に参加しました。この時代に、仏陀の精神と仏法の真諦を国際的な場で発表し、仏教を人間(じんかん)に広めていることは感謝に堪えません。

宗教は人生の宗旨であり、また生き方を教えてくれています。仏法は人間(じんかん)における最高の教育であり、人々のためになるものです。しかし、惜しいことに一般の人は、線香を上げて、平安や財運等の願いを掛ける時に拝むだけのものだと思っており、神格化されているのです。

私たちは因縁と機会を把握して、仏法の精髄を示さなければなりません。中でも現在の気候変動を細心の注意を払って追究すべきで、それは人々の生活様式に大きく関係しています。つまり、人の口の欲を満足させるために飼育されている大量の動物が大きな汚染源になり、環境に悪影響を及ぼしているのです。人口が絶えず増加する中で、口が汚染の源になってはいけません。菜食を勧めて、世間の浄化に努めましょう。仏法は正しい方向を示しているのです。

三年間の新型コロナに対する防疫対策は解除されましたが、所によってはまだマスクの着用が必要です。エアロゾル感染を予防して自分を守ることは、皆を守ることにもなります。即ち自分が感染しなければ、人に感染することはないのです。ですから「自分を愛して他人をも愛する」ことを小さな事と軽々しく見ず、細かいことにも気を配り、自分のためにも他人のためにもなるように、この世の正しい方向に向かって心しなければなりません。

慈済は国連等の国際会議に参加していますが、必ずしも壇上で話す時だけ、仏法精神と環境保護の観念を伝えることができるとは限りません。人々の日常の行いと生活の中に入れば、その観念を伝えることができるのです。わざとらしくない伝え方が最も良い表現方法です。それは、衣食住と行動の全てに意味があり、清らかで、純粋で、自然に現れる品格なのです。

ですから皆さんには、このような国際会議に参加することを重視して欲しいのです。それは「人間(じんかん)のため」、「仏教のため」に発言することなのです。ですが、驕るのでも人目を惹くのでもなく、謙遜して人々と和やかに仲良くし、私たちの親切な気持ちを人々に分かってもらうのです。愛の心を忘れることなく、どこにいても愛を感じてもらうことです。

一介の人間でも
大きな事を成し遂げることができ、
貧しい人は永遠に貧しいのではなく、
発心立願すれば、
世の中に影響を及ぼすことができる。

私たちの行いは営利事業でも職業でもなく、人間(じんかん)を利益する志業なのです。これが私たちの宗教の在り方であり、法を弘めて世を利しているのです。

二千五百年前、仏陀はこの世に生を授かり、この世の全てにおいて、宇宙までも、知らないことのない大覚者でした。仏陀には正知、正見、正解があることを私たちも信じなければなりません。最近よく仏陀の故郷であるネパールに回帰する話をしますが、片田舎の現状は貧しく、経済状態は良くありませんが、住民は欲も要求もなく、素朴な本性を保ったまま、「足ることを知って心には悩みがありません」。

ボランティアが撮影して来た映像を見ると、居住環境は衛生だとは言えず、私たちが心を一つにして初めて、彼らの生活の質を改善することができるのです。また生活を疎かにしたり、消極的であったりしないよう自分に警鐘を鳴らし、社会に対しては一層積極的になって精進しなければなりません。

この世に生れたのは享受するためではなく、生命の価値を高めるためであり、心に愛があれば、最も豊かな人生になれるのです。如何にして裕福な人に施しを教え、貧しい人に心の豊さを教えたら良いか?貧しさのあまり自分を放棄しようとする人がいれば、顔を上げ、胸を張って努力し、自ら貧しい中の豊かな人になるよう励ましてあげましょう。ミャンマーの「米貯金」は、農民たちが毎日ご飯を炊く前に一握りの米をおひつに入れ、それが僅かであっても貯まれば多くなり、延べ八万三千世帯から寄せられた米が、四千世帯近い貧しい人を助けたのです。このような話が、慈済人の支援するネパールの人たちに伝えられ、貧しい人も喜んで人助けするようになりました。

ミャンマーの「一日一握りの米貯金」の話の由来はとても感動的で、多くの宗教に関わる人たちと分かち合うことができます。今年の国連等の国際会議では何を伝えればよいかをじっくり考えてみるべきです。取るに足らないようなストーリーでも、一介の人間であっても大事を成し遂げることができ、貧しい人も永遠に貧しいわけではないのです。発心立願すれば、人間(じんかん)に影響を与えることができ、そのような話で互いに励まし合うことができるのです。

私たちは他人を称賛し、尊重すると同時に、自分の宗教を大切にして尊重すべきです。「感謝、尊重、愛」を心に持つようにと、私は言い続けてきました。「仏教の為、衆生の為」は私の一番の目標ですが、環境保全と菜食も推し進めなければなりません。皆がそれぞれ自分の品格を上げて、仏法が世界の舞台に上がるよう願っています。どうぞ心してください。(世界合作事務発展チームの世界宗教大会への参加に関する報告の後に開示した記録。会議は三年に一度行われ、今年八月はアメリカ・シカゴで開かれる。慈済は二〇一五年から参加を始めた)

(慈済月刊六七九期より)

(絵・陳九熹)

仏法は人間に在って、生活の中に根付くものです仏法精神や環境保全観念を語ることができるのは、壇上だけとは限りません。 人々の中に交じって、生活の中の行動にあるのです。

清らかで、純真で、自然で、意味があれば、最もよく伝わっているのです。

慈済は再び世界宗教大会に参加しました。この時代に、仏陀の精神と仏法の真諦を国際的な場で発表し、仏教を人間(じんかん)に広めていることは感謝に堪えません。

宗教は人生の宗旨であり、また生き方を教えてくれています。仏法は人間(じんかん)における最高の教育であり、人々のためになるものです。しかし、惜しいことに一般の人は、線香を上げて、平安や財運等の願いを掛ける時に拝むだけのものだと思っており、神格化されているのです。

私たちは因縁と機会を把握して、仏法の精髄を示さなければなりません。中でも現在の気候変動を細心の注意を払って追究すべきで、それは人々の生活様式に大きく関係しています。つまり、人の口の欲を満足させるために飼育されている大量の動物が大きな汚染源になり、環境に悪影響を及ぼしているのです。人口が絶えず増加する中で、口が汚染の源になってはいけません。菜食を勧めて、世間の浄化に努めましょう。仏法は正しい方向を示しているのです。

三年間の新型コロナに対する防疫対策は解除されましたが、所によってはまだマスクの着用が必要です。エアロゾル感染を予防して自分を守ることは、皆を守ることにもなります。即ち自分が感染しなければ、人に感染することはないのです。ですから「自分を愛して他人をも愛する」ことを小さな事と軽々しく見ず、細かいことにも気を配り、自分のためにも他人のためにもなるように、この世の正しい方向に向かって心しなければなりません。

慈済は国連等の国際会議に参加していますが、必ずしも壇上で話す時だけ、仏法精神と環境保護の観念を伝えることができるとは限りません。人々の日常の行いと生活の中に入れば、その観念を伝えることができるのです。わざとらしくない伝え方が最も良い表現方法です。それは、衣食住と行動の全てに意味があり、清らかで、純粋で、自然に現れる品格なのです。

ですから皆さんには、このような国際会議に参加することを重視して欲しいのです。それは「人間(じんかん)のため」、「仏教のため」に発言することなのです。ですが、驕るのでも人目を惹くのでもなく、謙遜して人々と和やかに仲良くし、私たちの親切な気持ちを人々に分かってもらうのです。愛の心を忘れることなく、どこにいても愛を感じてもらうことです。

一介の人間でも
大きな事を成し遂げることができ、
貧しい人は永遠に貧しいのではなく、
発心立願すれば、
世の中に影響を及ぼすことができる。

私たちの行いは営利事業でも職業でもなく、人間(じんかん)を利益する志業なのです。これが私たちの宗教の在り方であり、法を弘めて世を利しているのです。

二千五百年前、仏陀はこの世に生を授かり、この世の全てにおいて、宇宙までも、知らないことのない大覚者でした。仏陀には正知、正見、正解があることを私たちも信じなければなりません。最近よく仏陀の故郷であるネパールに回帰する話をしますが、片田舎の現状は貧しく、経済状態は良くありませんが、住民は欲も要求もなく、素朴な本性を保ったまま、「足ることを知って心には悩みがありません」。

ボランティアが撮影して来た映像を見ると、居住環境は衛生だとは言えず、私たちが心を一つにして初めて、彼らの生活の質を改善することができるのです。また生活を疎かにしたり、消極的であったりしないよう自分に警鐘を鳴らし、社会に対しては一層積極的になって精進しなければなりません。

この世に生れたのは享受するためではなく、生命の価値を高めるためであり、心に愛があれば、最も豊かな人生になれるのです。如何にして裕福な人に施しを教え、貧しい人に心の豊さを教えたら良いか?貧しさのあまり自分を放棄しようとする人がいれば、顔を上げ、胸を張って努力し、自ら貧しい中の豊かな人になるよう励ましてあげましょう。ミャンマーの「米貯金」は、農民たちが毎日ご飯を炊く前に一握りの米をおひつに入れ、それが僅かであっても貯まれば多くなり、延べ八万三千世帯から寄せられた米が、四千世帯近い貧しい人を助けたのです。このような話が、慈済人の支援するネパールの人たちに伝えられ、貧しい人も喜んで人助けするようになりました。

ミャンマーの「一日一握りの米貯金」の話の由来はとても感動的で、多くの宗教に関わる人たちと分かち合うことができます。今年の国連等の国際会議では何を伝えればよいかをじっくり考えてみるべきです。取るに足らないようなストーリーでも、一介の人間であっても大事を成し遂げることができ、貧しい人も永遠に貧しいわけではないのです。発心立願すれば、人間(じんかん)に影響を与えることができ、そのような話で互いに励まし合うことができるのです。

私たちは他人を称賛し、尊重すると同時に、自分の宗教を大切にして尊重すべきです。「感謝、尊重、愛」を心に持つようにと、私は言い続けてきました。「仏教の為、衆生の為」は私の一番の目標ですが、環境保全と菜食も推し進めなければなりません。皆がそれぞれ自分の品格を上げて、仏法が世界の舞台に上がるよう願っています。どうぞ心してください。(世界合作事務発展チームの世界宗教大会への参加に関する報告の後に開示した記録。会議は三年に一度行われ、今年八月はアメリカ・シカゴで開かれる。慈済は二〇一五年から参加を始めた)

(慈済月刊六七九期より)

關鍵字

外見を良くする

問:

私は中学生になりました。自分の外見が気に入りません。どうしたらいいでしょうか?

答:私は中学の時、色々な小説を読むのが好きでした。小説の中のヒーローは皆、流行の単行本を抱えて背が百八十センチのお金持ちだったり、武術に長けたハンサムな男性、ヒロインは皆、とても上品な義侠心を持った女性だったり、お金持ちのお嬢様でした。その頃の私にとって、これらの本の中の人物がアイドルでした。自分はというと、大根足に小さな目、おかっぱ頭です。内心悔しくて憂鬱なまま中学を卒業しました。

大学に受かった年、台北へ同級生のいとこと遊びに出かけました。彼女は、カールした長い髪に、薄化粧をして、標準語を話し、白にピンクがかった健康的な肌をしてハイヒールを履いていました。私はと言うと、浅黒い肌にフラットなサンダルを履き、ごく普通の服で、パッとしない大学生でした。いとことお喋りしても舌足らずで、極端にコンプレックスを感じたのを、あの夏休みで一番よく覚えています。

学期が始まってから、私は慈愛社に参加し、孤児院で子供たちの勉強に付き添ったり、刑務所を訪問して受刑者のボール遊びに付き添ったり、中重度養護ホームで病気の子供に付き添ったりしました。本の中のヒロインやいとこへのコンプレックスはもうそこにはなく、私は自信を取り戻していました。

人生では、自分に自信を持って初めて、人を惹きつける魅力のある人になることができるのです。外見は変わっていきますが、自信に満ちて落ち着いた気質は変わりません。自信とは何でしょう?それは、自己肯定であり、他人に影響されない、動揺しない心です。

どのようにして自信を持った自分を作るか? 以下の幾つかを参考にしてください。

教養のある人になる

「価値のある自分を育成すれば、人生の恩人を引き寄せる」、「詩書を読み、学を為すと、才能や品格が自ずと表に表れる」と言われます。

教養のある人が話をすると、自然と人を惹きつけ、魅力します。イギリスのコメディアン「Mr.ビーン」が代表的な例です。イギリスでオリンピックが開催された時、彼のロンドンオーケストラでのおどけた演出は、全世界の注目を集め、人気者になりました。トム・クルーズのようにハンサムではなくても、彼には教養があり、実力があります。従って、国際ステージに立つことができるのです。

では、どうすれば教養を身につけられるでしょうか。身心に有益な書籍を読み漁る、良い映画をたくさん見る、或いは、旅に出て徒歩で万里の道を行き、大地に、また行く先々で人文を学ぶことで教養を高めるのです。身心に関することは全て学ぶに値します。

ポジティブなエネルギーを放つ

人は誰でも、陽気で前向きの人といることを好みます。このような人は、チームメンバーに誘われ、皆、彼とお喋りするのを好み、一緒にいることでポジティブなエネルギーを感じます!

私はよくリハビリクリニックに行きますが、最近新しく二人の人が来ました。一人は良く笑い、前向きで陽気な人で、診察に来る他の患者さんと楽しく付き合っています。もう一人は、声が低くて眉をひそめ、よく人に誤りを指摘されます。誰も外見を気にしませんが、前向きで陽気な性格の人は、外見の良い人よりも好かれます。

生きていく力

「花が咲き誇れば自然と蝶が舞い、魅力ある人には天の導きがある」と言われるように、人は追い求めるのではなく、他の人を惹きつけるべきだと言うことです。

私たちは生きていく力が必要です。一つは自分の得意とするものです。得意な分野で生計を立てます。もう一つは、自分の趣味であり、生活をもっと多彩にします。

Mr.ビーンを演じるイギリスの俳優、ローワン・アトキンソンさんは、オックスフォード大学電機工学修士課程を卒業しましたが、演劇をこよなく愛していたので、芸能界に足を踏み入れました。彼こそが生きていく力を持つ人です。外見は特にハンサムではありませんが、才能がずば抜けており、イギリス女王も彼を重んじていました。

世界的に有名なモデルのキャメロン・ラセッルさんは、TEDの演説で「外見が全てではありません。信じてください、私はファッションモデルです」と言ったことがあります。長い時間という川の流れで、美貌はなくなり、体つきも老い衰えて行きます。それなら、私たちはどうすれば、自分の外見で人を惹きつけずとも人に好かれる、「Mr.ビーン」になれるのでしょうか。

変えなければいけないのは、自己を肯定せずに卑屈になり、諦めてしまう自分の心です。本当に人を惹きつける特質は外見ではなく、自分に対する態度なのです。

證厳法師も「卑屈は自分を殺してしまう敵です」と言っています。私たちは努力して自信を付けることで、自信が外見に打ち勝ち、これ以上外見にとらわれないようになるべきではないでしょうか。

(慈済月刊六七五期より)

問:

私は中学生になりました。自分の外見が気に入りません。どうしたらいいでしょうか?

答:私は中学の時、色々な小説を読むのが好きでした。小説の中のヒーローは皆、流行の単行本を抱えて背が百八十センチのお金持ちだったり、武術に長けたハンサムな男性、ヒロインは皆、とても上品な義侠心を持った女性だったり、お金持ちのお嬢様でした。その頃の私にとって、これらの本の中の人物がアイドルでした。自分はというと、大根足に小さな目、おかっぱ頭です。内心悔しくて憂鬱なまま中学を卒業しました。

大学に受かった年、台北へ同級生のいとこと遊びに出かけました。彼女は、カールした長い髪に、薄化粧をして、標準語を話し、白にピンクがかった健康的な肌をしてハイヒールを履いていました。私はと言うと、浅黒い肌にフラットなサンダルを履き、ごく普通の服で、パッとしない大学生でした。いとことお喋りしても舌足らずで、極端にコンプレックスを感じたのを、あの夏休みで一番よく覚えています。

学期が始まってから、私は慈愛社に参加し、孤児院で子供たちの勉強に付き添ったり、刑務所を訪問して受刑者のボール遊びに付き添ったり、中重度養護ホームで病気の子供に付き添ったりしました。本の中のヒロインやいとこへのコンプレックスはもうそこにはなく、私は自信を取り戻していました。

人生では、自分に自信を持って初めて、人を惹きつける魅力のある人になることができるのです。外見は変わっていきますが、自信に満ちて落ち着いた気質は変わりません。自信とは何でしょう?それは、自己肯定であり、他人に影響されない、動揺しない心です。

どのようにして自信を持った自分を作るか? 以下の幾つかを参考にしてください。

教養のある人になる

「価値のある自分を育成すれば、人生の恩人を引き寄せる」、「詩書を読み、学を為すと、才能や品格が自ずと表に表れる」と言われます。

教養のある人が話をすると、自然と人を惹きつけ、魅力します。イギリスのコメディアン「Mr.ビーン」が代表的な例です。イギリスでオリンピックが開催された時、彼のロンドンオーケストラでのおどけた演出は、全世界の注目を集め、人気者になりました。トム・クルーズのようにハンサムではなくても、彼には教養があり、実力があります。従って、国際ステージに立つことができるのです。

では、どうすれば教養を身につけられるでしょうか。身心に有益な書籍を読み漁る、良い映画をたくさん見る、或いは、旅に出て徒歩で万里の道を行き、大地に、また行く先々で人文を学ぶことで教養を高めるのです。身心に関することは全て学ぶに値します。

ポジティブなエネルギーを放つ

人は誰でも、陽気で前向きの人といることを好みます。このような人は、チームメンバーに誘われ、皆、彼とお喋りするのを好み、一緒にいることでポジティブなエネルギーを感じます!

私はよくリハビリクリニックに行きますが、最近新しく二人の人が来ました。一人は良く笑い、前向きで陽気な人で、診察に来る他の患者さんと楽しく付き合っています。もう一人は、声が低くて眉をひそめ、よく人に誤りを指摘されます。誰も外見を気にしませんが、前向きで陽気な性格の人は、外見の良い人よりも好かれます。

生きていく力

「花が咲き誇れば自然と蝶が舞い、魅力ある人には天の導きがある」と言われるように、人は追い求めるのではなく、他の人を惹きつけるべきだと言うことです。

私たちは生きていく力が必要です。一つは自分の得意とするものです。得意な分野で生計を立てます。もう一つは、自分の趣味であり、生活をもっと多彩にします。

Mr.ビーンを演じるイギリスの俳優、ローワン・アトキンソンさんは、オックスフォード大学電機工学修士課程を卒業しましたが、演劇をこよなく愛していたので、芸能界に足を踏み入れました。彼こそが生きていく力を持つ人です。外見は特にハンサムではありませんが、才能がずば抜けており、イギリス女王も彼を重んじていました。

世界的に有名なモデルのキャメロン・ラセッルさんは、TEDの演説で「外見が全てではありません。信じてください、私はファッションモデルです」と言ったことがあります。長い時間という川の流れで、美貌はなくなり、体つきも老い衰えて行きます。それなら、私たちはどうすれば、自分の外見で人を惹きつけずとも人に好かれる、「Mr.ビーン」になれるのでしょうか。

変えなければいけないのは、自己を肯定せずに卑屈になり、諦めてしまう自分の心です。本当に人を惹きつける特質は外見ではなく、自分に対する態度なのです。

證厳法師も「卑屈は自分を殺してしまう敵です」と言っています。私たちは努力して自信を付けることで、自信が外見に打ち勝ち、これ以上外見にとらわれないようになるべきではないでしょうか。

(慈済月刊六七五期より)

關鍵字

街頭生活者に家庭料理の炊き出し─カナダ

カナダはよく移民天国だと言われる。

私たちは幸いにも社会の日の当たる場所で生活し、豊かさと社会福祉を享受している。

しかし、森の中や車に寝泊まりする街頭生活者たちの存在を、見て見ぬ振りをしてはいけない。

また紅葉の季節がやってきた。雁が金色の夕日に照らされながら、湖水に軽やかに触れ、まるでこの地から去るのを惜しんでいるかのようだった。間もなく遠くの暖かい国に旅立つのだ。

二〇一五年、トロント在住の慈済ボランティアが初めてニューマーケット地区で街頭生活者向けの炊き出しを始めたのも、この金色に実る季節だった。ヨークカウンティにあるニューマーケット地区では、街頭生活者の中にアジア系の顔をあまり見かけないので、当初は果たして彼らが中華風の菜食を受け付けるか否か不安だった。しかし、独自の工夫を凝らす炊き出しチームはその実力で彼らの心を掴んだ。それからは年に少なくとも三回炊き出しをするようになり、彼らから熱烈に歓迎され、次の炊き出しは何時か、とよく聞かれるほどになった。

カナダは裕福な国で、市内の特定区域、特に慈済北トロント支部があるヨークカウンティでは、街を歩いても街頭生活者を目にすることは殆どない。カナダの八割以上の街頭生活者は表立って見ることはできない。彼らは森の奥深くに隠れていたり、車で寝泊まりしたりしているのだ。中には精神疾患や麻薬による精神障害の人もいる。経済的な理由で街頭生活者になった人は割りと少ない。

ここ数年、コロナの感染拡大で、多くの人が心身と経済的にストレスを抱えるようになり、街頭生活者の暮らしや分布にも変化が起きている。二〇二〇年の統計によると、カナダでは街頭生活者の二割が失業によって住宅ローンを払えなくなった人たちである。例年に比べ、八割の街頭生活者は長期間路上生活をしており、政府がいくら努力して宿を提供しても、その増加速度に追い付けず、入居の待ち時間が長くなっている。ヨークカウンティ中心街の保護センターがそれだけの人数を受け入れきれない為、彼らは北部の郊外に移り始めた。

たとえ街頭生活者の現象が、経済危機やコロナ禍によるインパクトに由来しているとしても、私たちの奉仕には影響しない。貧困線が低い国では、慈済の支援対象者は千人を超えており、直接助けを求める人と交流することができる。しかし、カナダはプライバシーを重んじる福祉国家であるため、外見からは困っている人を見分けることは困難だ。そこで、現地の慈善組織と協力することにした。ニューマーケットの保護センターであるイン・フロム・ザ・コールド(以下IFTC)とロフト・アウトリーチ・ヴァン(以下LOFT)は数十年の実績がある団体で、彼らがどこに隠れているかをよく知っている。慈善組織や彼らのニーズを無視して自分が寄付したいものを寄付している人が多い中で、慈済はそうではなく、彼らの不足分を補うことに重点を置くことにした。

目下、保護センターと協力して、年に三、四回の炊き出しと夏・冬の大型配付活動を継続している。また、毎日各地区を巡回するLOFTの車による出張サービスに、随時不足分を支援するようにしている。これらのパートナーから毎月必要品リストを提供してもらったことで、季節が変わると彼らのニーズが変わることに気づいた。彼らは冬には毛布、夏には虫よけと傘が必要で、年間通して必要なのは除臭剤である。

慈済北トロント連絡所は、2015年からニューマーケットのホットフードステーションのスポンサーになり、年3回菜食の炊き出しを街頭生活者に提供している。写真は2018年、北トロント慈済人文学校の生徒が配膳に参加にした時の様子。(撮影・梁延康)

側にいてくれるパートナー

慈済北トロント連絡所は設立して二年で、街頭生活者ケアを任された。限られた人数から始めたが、今では何時でも身を挺して対応する地域ボランティアチームである。

カナダ人の多くはボランティアする習慣があり、経済的に許す限り定期的に寄付もする。私たちは愛に溢れた福田に住んでいるのだ。真心とやる気を持っている人は実に多く、慈済は数多くの慈善団体の中の一つに過ぎない。その為、毎年早めに炊き出しの日程を決めないと希望の日程を貰えない。ここは善の為に競う世界だが、如何にして多くの慈善団体から抜き出るか。「感恩、尊重、愛」という證厳法師の教えが私たちの目標である。

カナダの夜の寒さが真夏でも水のように冷たいことに思い至った。二〇一九年から、北トロントのボランティアは、一般的な家庭にある牛乳パックを集め、それを使ってマットレスに編んで、毎月定期的に配っている。それは長年テント住まいしている彼らにとってとても役に立つものだ。何故なら、牛乳パックのマットレスは柔らかくて、地面の冷気を遮断してくれるからだ。それに加えてリサイクルしたペットボトルで作ったエコ毛布を配付しているので、彼らは一年の三季を過ごすことができる。特別に寒い冬の間だけ保護センターで過ごす。政府は力を尽くしているが、ベッド数はまだ足りない。特にコロナ禍で隔離を要したり、安全距離を保ったりする必要があるため、ベッド数がそれまで以上に大幅に減った。野宿を余儀なくされた時は、マットレスとエコ毛布が役に立つ。

LOFTの責任者であるマリー・アンさんは、慈済は長年側にいてくれるパートナーだと、本心を語った。ホットフードステーションの担当であるマーサさんも、慈済が何時も健康的で美味しい菜食を持ってきてくれることに感謝の意を表した。特に二〇二〇年、コロナ禍の初期に、殆どの組織が活動を中止した時、慈済はいつも通りに活動を続け、街頭生活者を励ました。社会的距離を保つ為に、セントラル・キッチンに入って調理することはできなかったものの、私たちは考えた結果、菜食レストランからテイクアウトすることで、食事の提供を続け、奉仕を疎かにすることはなかった。その真心が伝わり、私たちは慈済の竹筒貯金箱で慈善パートナーと良縁を結ぶことができた。

二〇二一年の統計によると、カナダ全国には二十三万五千人の街頭生活者がいるという。彼らが先進国に存在しているのは、紛れもない事実である。カナダは移民天国だと言われるように、私たちは幸いにも社会で日の当たる場所で暮らし、豊かな社会がもたらした福祉を享受している。しかし、私たちは社会の暗い片隅にいる彼らの存在を見て見ぬ振りをしてはいけない。慈済がいてくれたお陰で、ボランティアの一員として、社会で日の当たらない人々を探し、彼らがどの季節にどのような物資や支援を必要としているのかを把握することができ、これからも心と力を尽くしていく所存である。

北トロント連絡所の慈済ボランティアはLOFTと協力して、定期的に物資を提供している。(撮影・丘啓源)

心が安らぐ場所は我が故郷

證厳法師はいつも海外へ移住した弟子たちに、よその国で暮らすのだから、その地で得たものはその地に返すべきだと言い聞かせている。海外の他の地域に住んでいるボランティアの慈善奉仕の様子を聞いた私たちは、繰り返し考えた結果、規模がどんなに小さくても、各地域の文化の差異を理解すれば、運営の形式も自ずと異なってくるのだと分かった。北トロント連絡所のボランティアは努力してきたのだから、将来はもっと地域文化に溶け込み、様々な面から街頭生活者のケアができるはずだ。

秋の気配が濃くなる時はいつも、「萬里悲秋常作客」(杜甫の詩で、秋の気配が濃くなってくると、故郷への思いで悲しみも濃くなる)を感じる。コロナ対策でなかなか台湾へ帰省できなくも、心はその故郷である花蓮静思精舎と繋がっている。法師が海外のボランティアに呼びかける声は、依然として耳元で響いている。和と合で心の故郷に帰る道を見つけ、法師が私たちが人生の点検をするように、と語った言葉を心に刻んだ。カナダに移住してから既に二十五年が経ち、書類に記入する時の国籍はカナダになった。まるでタンポポの種が飛んだ所に根付くように、私はこの土地に根を下ろし、長い年月をかけてこの地で子供を育て、いつしか一家はここで豊かな暮らしを楽しむようになった。今、カナダは私が居住する場所であり、台湾は故郷である。月は故郷の方が円いと言い、地域がその土地に住む人を育てると言われるように、この地の水を飲んでいるのだから、この土地を守らねばならない。

カナダ東部のボランティアの一員として、心が安らぐ我が故郷に恩返しできることといえば、隣近所を世話し、特に助けを必要としている街頭生活者をケアすることに尽きる。

(慈済月刊六七五期より)

カナダはよく移民天国だと言われる。

私たちは幸いにも社会の日の当たる場所で生活し、豊かさと社会福祉を享受している。

しかし、森の中や車に寝泊まりする街頭生活者たちの存在を、見て見ぬ振りをしてはいけない。

また紅葉の季節がやってきた。雁が金色の夕日に照らされながら、湖水に軽やかに触れ、まるでこの地から去るのを惜しんでいるかのようだった。間もなく遠くの暖かい国に旅立つのだ。

二〇一五年、トロント在住の慈済ボランティアが初めてニューマーケット地区で街頭生活者向けの炊き出しを始めたのも、この金色に実る季節だった。ヨークカウンティにあるニューマーケット地区では、街頭生活者の中にアジア系の顔をあまり見かけないので、当初は果たして彼らが中華風の菜食を受け付けるか否か不安だった。しかし、独自の工夫を凝らす炊き出しチームはその実力で彼らの心を掴んだ。それからは年に少なくとも三回炊き出しをするようになり、彼らから熱烈に歓迎され、次の炊き出しは何時か、とよく聞かれるほどになった。

カナダは裕福な国で、市内の特定区域、特に慈済北トロント支部があるヨークカウンティでは、街を歩いても街頭生活者を目にすることは殆どない。カナダの八割以上の街頭生活者は表立って見ることはできない。彼らは森の奥深くに隠れていたり、車で寝泊まりしたりしているのだ。中には精神疾患や麻薬による精神障害の人もいる。経済的な理由で街頭生活者になった人は割りと少ない。

ここ数年、コロナの感染拡大で、多くの人が心身と経済的にストレスを抱えるようになり、街頭生活者の暮らしや分布にも変化が起きている。二〇二〇年の統計によると、カナダでは街頭生活者の二割が失業によって住宅ローンを払えなくなった人たちである。例年に比べ、八割の街頭生活者は長期間路上生活をしており、政府がいくら努力して宿を提供しても、その増加速度に追い付けず、入居の待ち時間が長くなっている。ヨークカウンティ中心街の保護センターがそれだけの人数を受け入れきれない為、彼らは北部の郊外に移り始めた。

たとえ街頭生活者の現象が、経済危機やコロナ禍によるインパクトに由来しているとしても、私たちの奉仕には影響しない。貧困線が低い国では、慈済の支援対象者は千人を超えており、直接助けを求める人と交流することができる。しかし、カナダはプライバシーを重んじる福祉国家であるため、外見からは困っている人を見分けることは困難だ。そこで、現地の慈善組織と協力することにした。ニューマーケットの保護センターであるイン・フロム・ザ・コールド(以下IFTC)とロフト・アウトリーチ・ヴァン(以下LOFT)は数十年の実績がある団体で、彼らがどこに隠れているかをよく知っている。慈善組織や彼らのニーズを無視して自分が寄付したいものを寄付している人が多い中で、慈済はそうではなく、彼らの不足分を補うことに重点を置くことにした。

目下、保護センターと協力して、年に三、四回の炊き出しと夏・冬の大型配付活動を継続している。また、毎日各地区を巡回するLOFTの車による出張サービスに、随時不足分を支援するようにしている。これらのパートナーから毎月必要品リストを提供してもらったことで、季節が変わると彼らのニーズが変わることに気づいた。彼らは冬には毛布、夏には虫よけと傘が必要で、年間通して必要なのは除臭剤である。

慈済北トロント連絡所は、2015年からニューマーケットのホットフードステーションのスポンサーになり、年3回菜食の炊き出しを街頭生活者に提供している。写真は2018年、北トロント慈済人文学校の生徒が配膳に参加にした時の様子。(撮影・梁延康)

側にいてくれるパートナー

慈済北トロント連絡所は設立して二年で、街頭生活者ケアを任された。限られた人数から始めたが、今では何時でも身を挺して対応する地域ボランティアチームである。

カナダ人の多くはボランティアする習慣があり、経済的に許す限り定期的に寄付もする。私たちは愛に溢れた福田に住んでいるのだ。真心とやる気を持っている人は実に多く、慈済は数多くの慈善団体の中の一つに過ぎない。その為、毎年早めに炊き出しの日程を決めないと希望の日程を貰えない。ここは善の為に競う世界だが、如何にして多くの慈善団体から抜き出るか。「感恩、尊重、愛」という證厳法師の教えが私たちの目標である。

カナダの夜の寒さが真夏でも水のように冷たいことに思い至った。二〇一九年から、北トロントのボランティアは、一般的な家庭にある牛乳パックを集め、それを使ってマットレスに編んで、毎月定期的に配っている。それは長年テント住まいしている彼らにとってとても役に立つものだ。何故なら、牛乳パックのマットレスは柔らかくて、地面の冷気を遮断してくれるからだ。それに加えてリサイクルしたペットボトルで作ったエコ毛布を配付しているので、彼らは一年の三季を過ごすことができる。特別に寒い冬の間だけ保護センターで過ごす。政府は力を尽くしているが、ベッド数はまだ足りない。特にコロナ禍で隔離を要したり、安全距離を保ったりする必要があるため、ベッド数がそれまで以上に大幅に減った。野宿を余儀なくされた時は、マットレスとエコ毛布が役に立つ。

LOFTの責任者であるマリー・アンさんは、慈済は長年側にいてくれるパートナーだと、本心を語った。ホットフードステーションの担当であるマーサさんも、慈済が何時も健康的で美味しい菜食を持ってきてくれることに感謝の意を表した。特に二〇二〇年、コロナ禍の初期に、殆どの組織が活動を中止した時、慈済はいつも通りに活動を続け、街頭生活者を励ました。社会的距離を保つ為に、セントラル・キッチンに入って調理することはできなかったものの、私たちは考えた結果、菜食レストランからテイクアウトすることで、食事の提供を続け、奉仕を疎かにすることはなかった。その真心が伝わり、私たちは慈済の竹筒貯金箱で慈善パートナーと良縁を結ぶことができた。

二〇二一年の統計によると、カナダ全国には二十三万五千人の街頭生活者がいるという。彼らが先進国に存在しているのは、紛れもない事実である。カナダは移民天国だと言われるように、私たちは幸いにも社会で日の当たる場所で暮らし、豊かな社会がもたらした福祉を享受している。しかし、私たちは社会の暗い片隅にいる彼らの存在を見て見ぬ振りをしてはいけない。慈済がいてくれたお陰で、ボランティアの一員として、社会で日の当たらない人々を探し、彼らがどの季節にどのような物資や支援を必要としているのかを把握することができ、これからも心と力を尽くしていく所存である。

北トロント連絡所の慈済ボランティアはLOFTと協力して、定期的に物資を提供している。(撮影・丘啓源)

心が安らぐ場所は我が故郷

證厳法師はいつも海外へ移住した弟子たちに、よその国で暮らすのだから、その地で得たものはその地に返すべきだと言い聞かせている。海外の他の地域に住んでいるボランティアの慈善奉仕の様子を聞いた私たちは、繰り返し考えた結果、規模がどんなに小さくても、各地域の文化の差異を理解すれば、運営の形式も自ずと異なってくるのだと分かった。北トロント連絡所のボランティアは努力してきたのだから、将来はもっと地域文化に溶け込み、様々な面から街頭生活者のケアができるはずだ。

秋の気配が濃くなる時はいつも、「萬里悲秋常作客」(杜甫の詩で、秋の気配が濃くなってくると、故郷への思いで悲しみも濃くなる)を感じる。コロナ対策でなかなか台湾へ帰省できなくも、心はその故郷である花蓮静思精舎と繋がっている。法師が海外のボランティアに呼びかける声は、依然として耳元で響いている。和と合で心の故郷に帰る道を見つけ、法師が私たちが人生の点検をするように、と語った言葉を心に刻んだ。カナダに移住してから既に二十五年が経ち、書類に記入する時の国籍はカナダになった。まるでタンポポの種が飛んだ所に根付くように、私はこの土地に根を下ろし、長い年月をかけてこの地で子供を育て、いつしか一家はここで豊かな暮らしを楽しむようになった。今、カナダは私が居住する場所であり、台湾は故郷である。月は故郷の方が円いと言い、地域がその土地に住む人を育てると言われるように、この地の水を飲んでいるのだから、この土地を守らねばならない。

カナダ東部のボランティアの一員として、心が安らぐ我が故郷に恩返しできることといえば、隣近所を世話し、特に助けを必要としている街頭生活者をケアすることに尽きる。

(慈済月刊六七五期より)

關鍵字

私たちが諦めなければ、彼にチャンスが訪れる─中国

この三年間、アモイのボランティアたちは三百キロの距離を厭わず、連城県まで四十回以上往復してやっと、乾癬症で苦しんでいた羅永華さんを説得し、治療を受けさせることができた。治療で症状が緩和され、彼は再び普通の人と同様の生活ができるようになった。

2020年、コロナ禍が続く中、人々はきれいな水が手に入らなかった。慈済ボランティアが井戸の支援建設を始める前、朱金財さんは、現地の水汲み場である水たまりを調査した。 (撮影・ヘレンジサイル ジヤネ)

その日、空には霞が掛かっていた。羅永華(ルオ・ヨンホア)さんはボランティアたちと共に、貧しさに苦しむ村人たちを訪問するため、畑の片隅にある白い壁と黒い瓦の背の低い家にやってきた。

二十年前、住人の周さんは原因不明の病気で、両足が浮腫んで痛み、関節がこわばって、曲げ伸ばしすることができなくなった。それ以来、ベッドから起き上がることができず、七十歳を過ぎた母親が世話をしている。しかし、年老いた母親も両脚が曲がって変形した重度の障害者で、身長は五歳児ぐらいしかない。

「もしある日、彼の母親が体を壊したら、彼はどうすればいいのか?母親は誰が世話をするのか?」目の前のベッドに横たわっている中年男性を見て、羅さんの心は哀れみと悲しみに襲われ、気持ちが沈んだまま、こっそりと外に出た。

「私も二十年近く病気を患い、毎日が一年のように長く感じられ、地獄にいるかのようでした」。壁の片隅に行くと冷たい風が正面から吹き、目の前には青々とした野原が広がっていたが、新鮮な空気を感じ取ることができず、両目から溢れる涙をこっそりと手で拭った。 周さんの苦しみを、身をもって感じながら、彼は三年前の自分を思い出していた。

羅さんは免疫系疾患で全身の皮膚が炎症を起こし、関節が変形していた。ボランティアは、2019年8月から見舞いに行くようになり、瘡蓋のできた真っ赤な皮膚に軽く手を当てながら見舞った。(撮影・王燕玲)

希望が見えない病の苦しみ

一九八三年、羅さんは龍岩市連城県の揭樂郷魏寨村の山奥で生まれた。二十歳の時に赤い湿疹が発症し、乾癬という完治できない、免疫系統の皮膚病だと診断された。

薬を飲んだり、漢方医に掛かったりして、アモイで働いて稼いだお金をすべて使い果たしてしまったが、症状は良くなる兆しを見せるどころか、益々悪化した。

仕方なく帰郷して、毎日ケータイでインターネット投票による仕事で得られる僅かな収入で生活しながら、独学で漢方を学び、安い漢方薬を買って自分で治療した。

乾癬は、悪化すると頭からつま先まで至る所の皮膚に症状が出る。皮膚のひび割れが起きると、耐え難い痛みに襲われる。また、手足の関節が大きく変形して、つま先が九十度上向きになり、足の爪は最も厚いところで一ミリほどになるので、大きくて幅が広く、甲が高い靴を履くしかない。足は重いだけでなく痛む。まるで重い岩を縛り付けられ、火に焼かれているようで、長時間立ったり歩いたりすることもできない。

容姿が変わり果てた羅さんは、人に見られることを嫌って病床に横になり、秋の落ち葉が落ちるまでひたすら待つかのように、「これが自分の人生であり、両親がいなくなったら餓死するしかない」と思っていた。

二○一九年八月三十一日、慈済が連城県で冬季の配付活動を行った時、村の幹部とボランティアが初めて羅さんの家を訪ねた。そこには壁の隅に無表情な羅さんが座っていた。髪はボサボサで、大小様々な黄色いブツブツが赤くなった全身の皮膚に散らばって、場所によっては厚く積もり、多くの亀裂した傷口には所々血が滲んでいた。

傍にいた羅さんの父親は下を向いて深いため息を漏らし、ボランティアたちに言った。「どうしょうもないのです。彼は一年に半年間ぐらいはベッドで過ごしており、ご飯や水さえも運んであげなければなりません」。

ボランティアは羅さんの側に座り、「こんにちは!私たちに何かお手伝いできることはありませんか?」と彼の真っ赤な皮膚に手を当てながら尋ねた。

「別にありません。もう慣れました。私よりももっと助けを必要としている人を助けてあげてください」と羅さんは悲しそうな眼差しで言った。

重い足取りで羅さんの家を出たボランティアたちは、彼を助ける方法がまだ思いつかないうちに、助けを拒む羅さんからの六百字近いメッセージが届いた。

「あまり私のことを心配しないでください。長年、治療を求めて来ましたが、結果は徒労に終わりました。この歳で何もできず、親のすねをかじっているだけの自分が悔しくてなりません…」。

文脈の中に人生への無力さが表れていた。ボランティアたちは心を痛めたが、諦めていない羅さんの気持ちが読み取れた。他人を煩わせたくない彼の心境がよく分かると余計に、少しでも苦しみが和らぐよう、助けてあげたいと思うようになった。

2021年11月、アモイ漢方医学病院に入院した羅さんを、李医師が病室に来て触診した。(撮影・江采曄)

決して諦めない 
ただの通行人ではない

列車はアモイのボランティアたちを乗せて、次々にトンネルを通過し、遠く離れた約三百キロ先の目的地である連城県に向かった。冠豸山駅を出ると、事前に約束を取っていた連城県政府関連部署の職員と合流した。車で市街地や原野を通り抜けた後、でこぼこの山道に五十分ほど揺られて、羅さんの家に着いた。

摂氏三十度の気温だったが、壁に持たれて座っていた羅さんは、下着とジャケットを着ていても、寒がっている様子だった。彼は思いもよらず、ボランティアがまた来てくれたことに喜びの驚きを感じたが、同じように好意を断った。「私の病気は重症で、皮膚だけではないのです。筋肉にまで達していて、既に方法はありません。あなたたちには、無理ですよ。ここへ来ても時間の無駄です」。

アモイに戻ったボランティアは、豊富な訪問ケアの経験や医療関係のボランティアと話し合って考えた。「乾癬症とは具体的にどんな病気ですか。羅さんは彼に費やすエネルギーを他人に使って欲しいと望んでいます。どうしたものでしょう」。

羅さんは七人家族で、高齢の両親が農業に携わっている他、知的障害を持った義理の姉とまだ喋れない三歳の姪、そして赤ん坊の甥っ子がいて、警備員を務める兄の僅かな収入で一家が生計を立てている。

何回か訪問して、ボランティアたちは羅さん一家の生活状況をこっそり記録した。彼らの三食は殆どサツマイモの葉にご飯で、父親の服とズボンには穴が空いていて、靴も破れ、義理の姉はサイズの合わない男物のTシャツを着ていた。

ボランティアたちは日用品を手にして羅家にやって来た。家族全員に合ったサイズの服、海苔、麺、五穀パウダー、煮込んだ卵と干し豆腐などを持って来たのである。そして、羅さん一家とおしゃべりしたり、甥っ子の爪を切ったり、お風呂に入れたり、洗濯を手伝ったりもした。

「時々、山の気温は氷点下一度まで下がって凍りつくので仕事になりません。この服は暖かくて良いですね」。新しい服とズボン、靴下、靴を身につけた羅さんのお父さんは微笑んで「格好いい」と何度も言った。暫くすると、竹の椅子に座っていた彼は、家の中に久しぶりの笑い声を聞きながら、リラックスして眠りに落ちた。

ボランティアの関心に対して、羅さんはいつも遠慮がちで、「皆さん、うちへ来るなら、物を買わなくても、来てくれるだけで嬉しいです」とボランティアたちにメッセージを送った。

「私は生涯何も持ってなく、友人も恋人も暖かい日差しもありません…あなたたちが私に寄り添ってくれたのは善行のために過ぎません」。

「慈済は私の人生においてはただの通りすがりの人です。慈善の目的を離れたら、あえて私に近づく人なんていませんから」。

その後、羅さんは政府が提供した住居に一人で住むようになったが、アモイの慈済ボランティアは同じように毎月行き来し、頻繁に羅さんに電話をかけたり、日用品を用意したり、家の掃除を手伝ったりした。また、日常生活での利便性を考えて、洗濯機も購入した。ボランティアが見返りを求めず、自分を家族のように接しているのは、表裏が何もなく、ただ自分の回復を願っているだけだと感じた羅さんは、次第に笑顔を見せるようになった。

羅さんはボランティアに、「あなたたちが来ると、とても暖かく感じます。一般の人は私を見ると遠ざかりますが、皆さんは私のことを嫌がらずに会いに来てくれますし、お喋りをしてくれます」。

2022年の初め、羅さん(左)はボランティアと共に、20年あまり寝たきりだというケア世帯を訪ねた。(撮影・范盛花)

アモイで治療し 肩の荷が下りた

羅さんは、自分の変わり果てた姿をこれ以上ボランティアたちに見られたくないと思って、漢方薬に関する本をより真剣に読み、自分で薬を配合して服用した。しかし、頑固な病は改善せず、彼は次第にイラ立ち、「もうここに来ないでください。旧正月が過ぎたら、皆さんが見つからない場所へ行きます」とボランティアに言った。

彼は冷たく拒否し続け、ボランティアは彼の言葉で気が重くなり、諦めようとする人も出て来た。メンバーの一人で、医療スタッフの邱蓮娜(チウ・リエンナ)さんは、諦めてはいけないと自分に言い聞かせながら、経験豊富なボランティアにも相談した。得られた答えは、「彼が私たちのケアを断るならば、彼の家族をケアすればいい」だった。

「永華さん、こんばんは!あなたに大きなプレッシャーを与えてしまったようで、今月から暫くお邪魔するのを控えます。ご両親と二人の子供には会ってもよろしいでしょうか」と、邱さんはケータイのスクリーンを見つめながら、慎重に言葉を選んで、羅さんにメッセージを送った。

邱さんのメッセージは太陽のように、羅さんの心を温かくした。彼は邱さんに本音を語った。「あなたたちを拒むつもりはなく、ただ自分の姿が恥ずかしいだけなのです。私の本意は皆さんにご迷惑をかけたくないのです」 という羅さんからのメッセージが返って来た。邱さんは心の霧が晴れ、途端に嬉しくなったので、再度治療を試みるようにと励ましながら勧めた。

目の前で良い言葉を掛けても、羅さんには効果がなく、邱さんは心が痛むと同時に焦りを感じていた。しかし、上人の言葉を思い出した。「ボランティアは、苦難に喘ぐ衆生のために、請われなくてもやって来る人であるべきなのです。頼まれもしないのに、私たちは自分から出かけて行くのです」。彼女は辛抱強く、真剣な表情で語りかけた。

「後悔しないためにも、自分自身にチャンスを与えてやってください」。

ボランティアが三年間にわたって、困難だと分かっていても諦めないのは、自分が健康になって欲しいと願うからだと羅さんには分かった。治療の結果がどうであれ、ボランティアたちに誠意を見せないわけにはいかない。そこで、「分かりました!」という返事のメッセージを送った。

2回の治療の合間に、羅さん(右)はコロンス島に来て、ボランティアたちと一緒に沿道の資源ゴミ集めの体験をした。(撮影・王慧娜)

二○二一年十一月十八日、羅さんがアモイ駅の改札を出た時、遠くから群衆の中に、一心に改札口を見つめる見慣れた紺色のシャツに白のパンツ姿が見えた。羅さんを病院に連れて行くために、ボランティアが彼に手を貸して地下の駐車場に下りた時、彼は足の痛み忘れていたことに気づいた。

羅さんは心に温もりを感じた。

「今回出かけるときは心配だと全く感じませんでした。本当に気分が良いです」。

病院でバイオ医薬品と漢方薬を配合した薬で治療したところ、思いがけず、皮膚の炎症が徐々に改善され、顔色も健康的になりだした。入院したばかりの時は、指がこわばっていたが、それもかなり良くなった。喜ばしい結果になって、半月間の第一段階の治療を終えると、彼はボランティアの家に泊まり、一週間後の第二段階の治療に備えた。

ボランティアは羅さんに付き添ってリサイクル活動や読書会に参加したり、公園を散歩したり、一緒に餃子作りなどをした。アモイでの一週間の生活は羅さんにとってかけがえのない体験だった。というのも、将来、二度とこのような体験はできないとわかっていたからだ。

羅さんはアモイ漢方医学病院の李依寒(リー・いーハン)医師と邱明山(チウ・ミンシャン)主任医師、看護師長の陳干(チェン・ガン)さんの三人宛に感謝の手紙を書いた。なぜなら、彼らが細心の注意を払って診察し、治療して的確に薬を処方してくれたからこそ、重症だった羅さんの体は「千年の氷が暖かい太陽に照らされて溶け始めたように改善していった」のである。

第一段階の治療を終えると症状が大きく改善した。羅さんは、アモイの静思書軒で暫し休憩した時、「人は方向が分からなくなった時、とても苦しく感じます。それは自分で物事を決められないからです」という静思語を見た。それは正に自分の心境を表しているようだと思った。(撮影・黃德欣)

夏に半袖が着られるようになった

二○二一年十二月二十五日、慈済ボランティアは羅さんに付き添って、退院手続きを終え、故郷の連城に向かう列車に乗った。彼は窓際の席に座り、次々と流れて行く、車窓の景色を見つめていた。十八年間にわたる、病がもたらした耐え難い苦しみが脳裏に浮かんだ。「健康はどんな富でも取って代わることはできない」ことを実感した。

「アモイでの三十七日間で、生まれ変わったように感じました。夏には半袖が着られます」。

羅さんの病気は免疫系統の疾患で、まだ根治することはできないため、毎月病院に通って治療を続けなければならない。しかし、「アモイの慈済ボランティアのおかげで、アモイの漢方医学病院に行くようになってから、私の人生は一変して明るくなりました。病院に戻って治療を続けるのは、単に病気を治すだけでなく、皆さんとの絆を保つことなのです」と羅さんが言った。

二○二二年三月三日、ボランティアは車で羅さんの家を訪れた。車から降りた時、羅さんのお母さんが手を振りながら家の前の坂道まで出迎えに来てくれた。 「皆さんがいなかったら、うちの息子はこんなに元気にはなりませんでした」。七十五歳の母親は長い間ずっと、こっそりと泣いていた。今、元気な姿に戻った息子を見て、彼女は何度もボランティアにお礼を言った。

三年近くが経ち、羅さんは生まれ変わったようになった。全身の肌はしっとりとして、血色も良く、新たに伸びた爪は次第に黄褐色の厚い爪と入れ替わりつつあった。彼は人と接することを恐れなくなり、自撮りした写真を喜んで友人とシェアするようになった。

ボランティアの付き添いの下、羅さんは地域のリサイクル活動や読書会、訪問ケアに参加するようになり、仕事も見つかった。あの日、ボランティアと周家の訪問を終えようとした時、霧雨が青々とした山野を包んで雫を垂らす中で、羅さんは自分の気持ちを整理し、体をかがめて周さんのお母さんの側に行くと彼女の手を取って優しく、「体を大事にしてください」と声をかけた。

(慈済月刊六七二期より)

2021年12月25日、37日間の治療を終えた羅さんは、故郷の連城に向かう列車に乗った。車窓の外の風景が、18年間の苦しみのページを捲るかのように過ぎていった。(撮影・黄德欣)

この三年間、アモイのボランティアたちは三百キロの距離を厭わず、連城県まで四十回以上往復してやっと、乾癬症で苦しんでいた羅永華さんを説得し、治療を受けさせることができた。治療で症状が緩和され、彼は再び普通の人と同様の生活ができるようになった。

2020年、コロナ禍が続く中、人々はきれいな水が手に入らなかった。慈済ボランティアが井戸の支援建設を始める前、朱金財さんは、現地の水汲み場である水たまりを調査した。 (撮影・ヘレンジサイル ジヤネ)

その日、空には霞が掛かっていた。羅永華(ルオ・ヨンホア)さんはボランティアたちと共に、貧しさに苦しむ村人たちを訪問するため、畑の片隅にある白い壁と黒い瓦の背の低い家にやってきた。

二十年前、住人の周さんは原因不明の病気で、両足が浮腫んで痛み、関節がこわばって、曲げ伸ばしすることができなくなった。それ以来、ベッドから起き上がることができず、七十歳を過ぎた母親が世話をしている。しかし、年老いた母親も両脚が曲がって変形した重度の障害者で、身長は五歳児ぐらいしかない。

「もしある日、彼の母親が体を壊したら、彼はどうすればいいのか?母親は誰が世話をするのか?」目の前のベッドに横たわっている中年男性を見て、羅さんの心は哀れみと悲しみに襲われ、気持ちが沈んだまま、こっそりと外に出た。

「私も二十年近く病気を患い、毎日が一年のように長く感じられ、地獄にいるかのようでした」。壁の片隅に行くと冷たい風が正面から吹き、目の前には青々とした野原が広がっていたが、新鮮な空気を感じ取ることができず、両目から溢れる涙をこっそりと手で拭った。 周さんの苦しみを、身をもって感じながら、彼は三年前の自分を思い出していた。

羅さんは免疫系疾患で全身の皮膚が炎症を起こし、関節が変形していた。ボランティアは、2019年8月から見舞いに行くようになり、瘡蓋のできた真っ赤な皮膚に軽く手を当てながら見舞った。(撮影・王燕玲)

希望が見えない病の苦しみ

一九八三年、羅さんは龍岩市連城県の揭樂郷魏寨村の山奥で生まれた。二十歳の時に赤い湿疹が発症し、乾癬という完治できない、免疫系統の皮膚病だと診断された。

薬を飲んだり、漢方医に掛かったりして、アモイで働いて稼いだお金をすべて使い果たしてしまったが、症状は良くなる兆しを見せるどころか、益々悪化した。

仕方なく帰郷して、毎日ケータイでインターネット投票による仕事で得られる僅かな収入で生活しながら、独学で漢方を学び、安い漢方薬を買って自分で治療した。

乾癬は、悪化すると頭からつま先まで至る所の皮膚に症状が出る。皮膚のひび割れが起きると、耐え難い痛みに襲われる。また、手足の関節が大きく変形して、つま先が九十度上向きになり、足の爪は最も厚いところで一ミリほどになるので、大きくて幅が広く、甲が高い靴を履くしかない。足は重いだけでなく痛む。まるで重い岩を縛り付けられ、火に焼かれているようで、長時間立ったり歩いたりすることもできない。

容姿が変わり果てた羅さんは、人に見られることを嫌って病床に横になり、秋の落ち葉が落ちるまでひたすら待つかのように、「これが自分の人生であり、両親がいなくなったら餓死するしかない」と思っていた。

二○一九年八月三十一日、慈済が連城県で冬季の配付活動を行った時、村の幹部とボランティアが初めて羅さんの家を訪ねた。そこには壁の隅に無表情な羅さんが座っていた。髪はボサボサで、大小様々な黄色いブツブツが赤くなった全身の皮膚に散らばって、場所によっては厚く積もり、多くの亀裂した傷口には所々血が滲んでいた。

傍にいた羅さんの父親は下を向いて深いため息を漏らし、ボランティアたちに言った。「どうしょうもないのです。彼は一年に半年間ぐらいはベッドで過ごしており、ご飯や水さえも運んであげなければなりません」。

ボランティアは羅さんの側に座り、「こんにちは!私たちに何かお手伝いできることはありませんか?」と彼の真っ赤な皮膚に手を当てながら尋ねた。

「別にありません。もう慣れました。私よりももっと助けを必要としている人を助けてあげてください」と羅さんは悲しそうな眼差しで言った。

重い足取りで羅さんの家を出たボランティアたちは、彼を助ける方法がまだ思いつかないうちに、助けを拒む羅さんからの六百字近いメッセージが届いた。

「あまり私のことを心配しないでください。長年、治療を求めて来ましたが、結果は徒労に終わりました。この歳で何もできず、親のすねをかじっているだけの自分が悔しくてなりません…」。

文脈の中に人生への無力さが表れていた。ボランティアたちは心を痛めたが、諦めていない羅さんの気持ちが読み取れた。他人を煩わせたくない彼の心境がよく分かると余計に、少しでも苦しみが和らぐよう、助けてあげたいと思うようになった。

2021年11月、アモイ漢方医学病院に入院した羅さんを、李医師が病室に来て触診した。(撮影・江采曄)

決して諦めない 
ただの通行人ではない

列車はアモイのボランティアたちを乗せて、次々にトンネルを通過し、遠く離れた約三百キロ先の目的地である連城県に向かった。冠豸山駅を出ると、事前に約束を取っていた連城県政府関連部署の職員と合流した。車で市街地や原野を通り抜けた後、でこぼこの山道に五十分ほど揺られて、羅さんの家に着いた。

摂氏三十度の気温だったが、壁に持たれて座っていた羅さんは、下着とジャケットを着ていても、寒がっている様子だった。彼は思いもよらず、ボランティアがまた来てくれたことに喜びの驚きを感じたが、同じように好意を断った。「私の病気は重症で、皮膚だけではないのです。筋肉にまで達していて、既に方法はありません。あなたたちには、無理ですよ。ここへ来ても時間の無駄です」。

アモイに戻ったボランティアは、豊富な訪問ケアの経験や医療関係のボランティアと話し合って考えた。「乾癬症とは具体的にどんな病気ですか。羅さんは彼に費やすエネルギーを他人に使って欲しいと望んでいます。どうしたものでしょう」。

羅さんは七人家族で、高齢の両親が農業に携わっている他、知的障害を持った義理の姉とまだ喋れない三歳の姪、そして赤ん坊の甥っ子がいて、警備員を務める兄の僅かな収入で一家が生計を立てている。

何回か訪問して、ボランティアたちは羅さん一家の生活状況をこっそり記録した。彼らの三食は殆どサツマイモの葉にご飯で、父親の服とズボンには穴が空いていて、靴も破れ、義理の姉はサイズの合わない男物のTシャツを着ていた。

ボランティアたちは日用品を手にして羅家にやって来た。家族全員に合ったサイズの服、海苔、麺、五穀パウダー、煮込んだ卵と干し豆腐などを持って来たのである。そして、羅さん一家とおしゃべりしたり、甥っ子の爪を切ったり、お風呂に入れたり、洗濯を手伝ったりもした。

「時々、山の気温は氷点下一度まで下がって凍りつくので仕事になりません。この服は暖かくて良いですね」。新しい服とズボン、靴下、靴を身につけた羅さんのお父さんは微笑んで「格好いい」と何度も言った。暫くすると、竹の椅子に座っていた彼は、家の中に久しぶりの笑い声を聞きながら、リラックスして眠りに落ちた。

ボランティアの関心に対して、羅さんはいつも遠慮がちで、「皆さん、うちへ来るなら、物を買わなくても、来てくれるだけで嬉しいです」とボランティアたちにメッセージを送った。

「私は生涯何も持ってなく、友人も恋人も暖かい日差しもありません…あなたたちが私に寄り添ってくれたのは善行のために過ぎません」。

「慈済は私の人生においてはただの通りすがりの人です。慈善の目的を離れたら、あえて私に近づく人なんていませんから」。

その後、羅さんは政府が提供した住居に一人で住むようになったが、アモイの慈済ボランティアは同じように毎月行き来し、頻繁に羅さんに電話をかけたり、日用品を用意したり、家の掃除を手伝ったりした。また、日常生活での利便性を考えて、洗濯機も購入した。ボランティアが見返りを求めず、自分を家族のように接しているのは、表裏が何もなく、ただ自分の回復を願っているだけだと感じた羅さんは、次第に笑顔を見せるようになった。

羅さんはボランティアに、「あなたたちが来ると、とても暖かく感じます。一般の人は私を見ると遠ざかりますが、皆さんは私のことを嫌がらずに会いに来てくれますし、お喋りをしてくれます」。

2022年の初め、羅さん(左)はボランティアと共に、20年あまり寝たきりだというケア世帯を訪ねた。(撮影・范盛花)

アモイで治療し 肩の荷が下りた

羅さんは、自分の変わり果てた姿をこれ以上ボランティアたちに見られたくないと思って、漢方薬に関する本をより真剣に読み、自分で薬を配合して服用した。しかし、頑固な病は改善せず、彼は次第にイラ立ち、「もうここに来ないでください。旧正月が過ぎたら、皆さんが見つからない場所へ行きます」とボランティアに言った。

彼は冷たく拒否し続け、ボランティアは彼の言葉で気が重くなり、諦めようとする人も出て来た。メンバーの一人で、医療スタッフの邱蓮娜(チウ・リエンナ)さんは、諦めてはいけないと自分に言い聞かせながら、経験豊富なボランティアにも相談した。得られた答えは、「彼が私たちのケアを断るならば、彼の家族をケアすればいい」だった。

「永華さん、こんばんは!あなたに大きなプレッシャーを与えてしまったようで、今月から暫くお邪魔するのを控えます。ご両親と二人の子供には会ってもよろしいでしょうか」と、邱さんはケータイのスクリーンを見つめながら、慎重に言葉を選んで、羅さんにメッセージを送った。

邱さんのメッセージは太陽のように、羅さんの心を温かくした。彼は邱さんに本音を語った。「あなたたちを拒むつもりはなく、ただ自分の姿が恥ずかしいだけなのです。私の本意は皆さんにご迷惑をかけたくないのです」 という羅さんからのメッセージが返って来た。邱さんは心の霧が晴れ、途端に嬉しくなったので、再度治療を試みるようにと励ましながら勧めた。

目の前で良い言葉を掛けても、羅さんには効果がなく、邱さんは心が痛むと同時に焦りを感じていた。しかし、上人の言葉を思い出した。「ボランティアは、苦難に喘ぐ衆生のために、請われなくてもやって来る人であるべきなのです。頼まれもしないのに、私たちは自分から出かけて行くのです」。彼女は辛抱強く、真剣な表情で語りかけた。

「後悔しないためにも、自分自身にチャンスを与えてやってください」。

ボランティアが三年間にわたって、困難だと分かっていても諦めないのは、自分が健康になって欲しいと願うからだと羅さんには分かった。治療の結果がどうであれ、ボランティアたちに誠意を見せないわけにはいかない。そこで、「分かりました!」という返事のメッセージを送った。

2回の治療の合間に、羅さん(右)はコロンス島に来て、ボランティアたちと一緒に沿道の資源ゴミ集めの体験をした。(撮影・王慧娜)

二○二一年十一月十八日、羅さんがアモイ駅の改札を出た時、遠くから群衆の中に、一心に改札口を見つめる見慣れた紺色のシャツに白のパンツ姿が見えた。羅さんを病院に連れて行くために、ボランティアが彼に手を貸して地下の駐車場に下りた時、彼は足の痛み忘れていたことに気づいた。

羅さんは心に温もりを感じた。

「今回出かけるときは心配だと全く感じませんでした。本当に気分が良いです」。

病院でバイオ医薬品と漢方薬を配合した薬で治療したところ、思いがけず、皮膚の炎症が徐々に改善され、顔色も健康的になりだした。入院したばかりの時は、指がこわばっていたが、それもかなり良くなった。喜ばしい結果になって、半月間の第一段階の治療を終えると、彼はボランティアの家に泊まり、一週間後の第二段階の治療に備えた。

ボランティアは羅さんに付き添ってリサイクル活動や読書会に参加したり、公園を散歩したり、一緒に餃子作りなどをした。アモイでの一週間の生活は羅さんにとってかけがえのない体験だった。というのも、将来、二度とこのような体験はできないとわかっていたからだ。

羅さんはアモイ漢方医学病院の李依寒(リー・いーハン)医師と邱明山(チウ・ミンシャン)主任医師、看護師長の陳干(チェン・ガン)さんの三人宛に感謝の手紙を書いた。なぜなら、彼らが細心の注意を払って診察し、治療して的確に薬を処方してくれたからこそ、重症だった羅さんの体は「千年の氷が暖かい太陽に照らされて溶け始めたように改善していった」のである。

第一段階の治療を終えると症状が大きく改善した。羅さんは、アモイの静思書軒で暫し休憩した時、「人は方向が分からなくなった時、とても苦しく感じます。それは自分で物事を決められないからです」という静思語を見た。それは正に自分の心境を表しているようだと思った。(撮影・黃德欣)

夏に半袖が着られるようになった

二○二一年十二月二十五日、慈済ボランティアは羅さんに付き添って、退院手続きを終え、故郷の連城に向かう列車に乗った。彼は窓際の席に座り、次々と流れて行く、車窓の景色を見つめていた。十八年間にわたる、病がもたらした耐え難い苦しみが脳裏に浮かんだ。「健康はどんな富でも取って代わることはできない」ことを実感した。

「アモイでの三十七日間で、生まれ変わったように感じました。夏には半袖が着られます」。

羅さんの病気は免疫系統の疾患で、まだ根治することはできないため、毎月病院に通って治療を続けなければならない。しかし、「アモイの慈済ボランティアのおかげで、アモイの漢方医学病院に行くようになってから、私の人生は一変して明るくなりました。病院に戻って治療を続けるのは、単に病気を治すだけでなく、皆さんとの絆を保つことなのです」と羅さんが言った。

二○二二年三月三日、ボランティアは車で羅さんの家を訪れた。車から降りた時、羅さんのお母さんが手を振りながら家の前の坂道まで出迎えに来てくれた。 「皆さんがいなかったら、うちの息子はこんなに元気にはなりませんでした」。七十五歳の母親は長い間ずっと、こっそりと泣いていた。今、元気な姿に戻った息子を見て、彼女は何度もボランティアにお礼を言った。

三年近くが経ち、羅さんは生まれ変わったようになった。全身の肌はしっとりとして、血色も良く、新たに伸びた爪は次第に黄褐色の厚い爪と入れ替わりつつあった。彼は人と接することを恐れなくなり、自撮りした写真を喜んで友人とシェアするようになった。

ボランティアの付き添いの下、羅さんは地域のリサイクル活動や読書会、訪問ケアに参加するようになり、仕事も見つかった。あの日、ボランティアと周家の訪問を終えようとした時、霧雨が青々とした山野を包んで雫を垂らす中で、羅さんは自分の気持ちを整理し、体をかがめて周さんのお母さんの側に行くと彼女の手を取って優しく、「体を大事にしてください」と声をかけた。

(慈済月刊六七二期より)

2021年12月25日、37日間の治療を終えた羅さんは、故郷の連城に向かう列車に乗った。車窓の外の風景が、18年間の苦しみのページを捲るかのように過ぎていった。(撮影・黄德欣)

關鍵字

痛快にやり過ごす

煩悩の「気」に遮られて足を止めるのも、
あらぬ考えから人生に障害を作るのもよくありません。

草花と語り合う

北部の紀静暘(ジー・ジンヤン)さん、林智慧(リン・ジーフイ)さん、林雅美(リン・ヤーメイ)さん、陳美月(チェン・メイユエ)さんたちと座談した時、上人は言いました。

「皆さんは自分たちのことを『おばさん』と冗談のように言いますが、いたって平凡な主婦なのです。しかし、慈済の志業は、主婦たちの一日五十銭から始まったのです。早期の慈済委員は民衆から募金しましたが、五元や十元という僅かな善意であっても、それは全て愛の心です。少しずつ蓄積されていき、今では世界中に志業を広めるまでになりました」。

「私は毎日、医者の言うことを聞いて、書斎の外の廊下を散歩しています。花壇の側まで来ると、草花に語りかけています」。「花一輪、草一本にも気と質があり、目に見える質はその形を成し、目に見えない気が流れています。昨日芽を吹いたと思ったら、今日は葉を広げているのです。明日また見に行くと、黄色みがかった赤から緑色に変わっていて、目に見えない繊細な変化が絶えず続いているのです。この世は無常で定まることを知らず、人生の本質も同じようなもので、憂慮に値します。道心を永遠に堅持するのは容易なことではありません。私はベテラン委員に会うと、心から労りたくなります。私を見捨てることなく側にいてくれる、その師弟の情は貴いものです。それを手放してはなりません」。

「人生は無常でも、因と縁は永遠です。私たちの因はずっと以前に結ばれており、絶えず縁を長く続けることです。天地が続くように、どこに居ようとも、この慈済の情を手放さなければ、方向が逸れることはありません。もし慈済を離れたなら、僅かな差で千里を失ってしまいます。今生で慈済の情がきちんと結ばれていれば、来世での菩薩道は同じように正しいものになります」。

「この数十年間、私たちは台湾や世界で、どれだけ災害支援をしてきたか、数え切れません。できる限り過去に遡って、あらゆる出来事を整理するしかありませんが、あなたたちも覚えている分だけ話してください。先ほどの話はとても素晴らしく、興味深いものです。当時は大変な苦労でしたが、今思い返すと興味深いものを感じます。苦労は既に過去のものとなり、心に残っているのは喜びだけです」。また、上人は、ベテラン慈済人が過去を振り返って、「甘んじてやり遂げた苦労話」をすれば、脳が活性化されると共に慈済のためにもなり、自分の人生を歴史に残すことになる、と言いました。

「私は毎日自分の行為を振り返り、この人生は価値のあるものだった、といつも自分に言い聞かせています。私は間違ったことをしたことはなく、たとえ望み通りにはならなくても、誰一人傷つけたことはありません。もし、私に対して不満があっても、私は最善を尽くしているのですから、何ら恥じるところはありません。あなたたちは止まるところを知らず、志業を行ってきました。実は『宝は近い』と言われるように、菩薩道を歩む時には止まってはいけないのです。その道中では『化城』で足を休め、体力が回復すれば、再び出発し、『宝城』に向かって進み続けるのです」。

「自分のあらぬ考えで自ら障壁を作ってはいけません。その実、人生の障壁の多くは自分が作ったものなのです。時間は人を待たず、道を歩いても石につまずいて不用意に怪我し、屈んで『痛い』と叫んでも、治るまでには時間が掛かります。もし痛みを我慢して進めば、そのうちに足の痛みは忘れてしまいます。そこに止まって治るのを待っていると、却って益々痛くなるのです。以前にも『痛、快』について話したことがありますが、痛みを早くやり過ごすのは進歩している証拠です。人と摩擦が起き、一度傷つくと、立ち止まって癒えるのを待ちますが、その間に後ろの人が追い越し、いつまで経っても人後に落ちてしまうのです。歩み出そうとする時、既に前の人とはかなりの距離が開き、その『気』に遮られてしまいます。ですから、人生では煩悩の『気』に遮られないようにすべきです。さもなければ、意地になって足を止めることは自分の慧命の成長を止めることに他なりません。慧命は前進し続けなければならないのです」。

「進むか止まるか、または後戻りするにしても、時間は同じように過ぎて行きます。自分でどれを選択するかです。今の行いが正しければ、その方向が逸れないようにすることであり、毎日正しい観念を持って正しい方向に進むのです。『八正道』を守り、精進して『六度』を行われなければなりません」と上人は言いました。

「皆さんはまだ元気なのですから、縁を逃してはいけません。私も皆さんの歳に近いのです。発心立願し、時間を無駄にせず、慈済の志業をたくさん伝えてください。そして、若い人に付き添い、過去の経験を話してあげれば、それが説法になるのです。六根の功能を発揮するには、眼 (げん) ・耳 (に) ・鼻・舌・身・意がはっきりしていなくてはならず、慈済という道を進む過程で、人を導いて付き添うには、心とその方向がしっかりと正しくなければいけません」。

(慈済月刊六七八期より)

煩悩の「気」に遮られて足を止めるのも、
あらぬ考えから人生に障害を作るのもよくありません。

草花と語り合う

北部の紀静暘(ジー・ジンヤン)さん、林智慧(リン・ジーフイ)さん、林雅美(リン・ヤーメイ)さん、陳美月(チェン・メイユエ)さんたちと座談した時、上人は言いました。

「皆さんは自分たちのことを『おばさん』と冗談のように言いますが、いたって平凡な主婦なのです。しかし、慈済の志業は、主婦たちの一日五十銭から始まったのです。早期の慈済委員は民衆から募金しましたが、五元や十元という僅かな善意であっても、それは全て愛の心です。少しずつ蓄積されていき、今では世界中に志業を広めるまでになりました」。

「私は毎日、医者の言うことを聞いて、書斎の外の廊下を散歩しています。花壇の側まで来ると、草花に語りかけています」。「花一輪、草一本にも気と質があり、目に見える質はその形を成し、目に見えない気が流れています。昨日芽を吹いたと思ったら、今日は葉を広げているのです。明日また見に行くと、黄色みがかった赤から緑色に変わっていて、目に見えない繊細な変化が絶えず続いているのです。この世は無常で定まることを知らず、人生の本質も同じようなもので、憂慮に値します。道心を永遠に堅持するのは容易なことではありません。私はベテラン委員に会うと、心から労りたくなります。私を見捨てることなく側にいてくれる、その師弟の情は貴いものです。それを手放してはなりません」。

「人生は無常でも、因と縁は永遠です。私たちの因はずっと以前に結ばれており、絶えず縁を長く続けることです。天地が続くように、どこに居ようとも、この慈済の情を手放さなければ、方向が逸れることはありません。もし慈済を離れたなら、僅かな差で千里を失ってしまいます。今生で慈済の情がきちんと結ばれていれば、来世での菩薩道は同じように正しいものになります」。

「この数十年間、私たちは台湾や世界で、どれだけ災害支援をしてきたか、数え切れません。できる限り過去に遡って、あらゆる出来事を整理するしかありませんが、あなたたちも覚えている分だけ話してください。先ほどの話はとても素晴らしく、興味深いものです。当時は大変な苦労でしたが、今思い返すと興味深いものを感じます。苦労は既に過去のものとなり、心に残っているのは喜びだけです」。また、上人は、ベテラン慈済人が過去を振り返って、「甘んじてやり遂げた苦労話」をすれば、脳が活性化されると共に慈済のためにもなり、自分の人生を歴史に残すことになる、と言いました。

「私は毎日自分の行為を振り返り、この人生は価値のあるものだった、といつも自分に言い聞かせています。私は間違ったことをしたことはなく、たとえ望み通りにはならなくても、誰一人傷つけたことはありません。もし、私に対して不満があっても、私は最善を尽くしているのですから、何ら恥じるところはありません。あなたたちは止まるところを知らず、志業を行ってきました。実は『宝は近い』と言われるように、菩薩道を歩む時には止まってはいけないのです。その道中では『化城』で足を休め、体力が回復すれば、再び出発し、『宝城』に向かって進み続けるのです」。

「自分のあらぬ考えで自ら障壁を作ってはいけません。その実、人生の障壁の多くは自分が作ったものなのです。時間は人を待たず、道を歩いても石につまずいて不用意に怪我し、屈んで『痛い』と叫んでも、治るまでには時間が掛かります。もし痛みを我慢して進めば、そのうちに足の痛みは忘れてしまいます。そこに止まって治るのを待っていると、却って益々痛くなるのです。以前にも『痛、快』について話したことがありますが、痛みを早くやり過ごすのは進歩している証拠です。人と摩擦が起き、一度傷つくと、立ち止まって癒えるのを待ちますが、その間に後ろの人が追い越し、いつまで経っても人後に落ちてしまうのです。歩み出そうとする時、既に前の人とはかなりの距離が開き、その『気』に遮られてしまいます。ですから、人生では煩悩の『気』に遮られないようにすべきです。さもなければ、意地になって足を止めることは自分の慧命の成長を止めることに他なりません。慧命は前進し続けなければならないのです」。

「進むか止まるか、または後戻りするにしても、時間は同じように過ぎて行きます。自分でどれを選択するかです。今の行いが正しければ、その方向が逸れないようにすることであり、毎日正しい観念を持って正しい方向に進むのです。『八正道』を守り、精進して『六度』を行われなければなりません」と上人は言いました。

「皆さんはまだ元気なのですから、縁を逃してはいけません。私も皆さんの歳に近いのです。発心立願し、時間を無駄にせず、慈済の志業をたくさん伝えてください。そして、若い人に付き添い、過去の経験を話してあげれば、それが説法になるのです。六根の功能を発揮するには、眼 (げん) ・耳 (に) ・鼻・舌・身・意がはっきりしていなくてはならず、慈済という道を進む過程で、人を導いて付き添うには、心とその方向がしっかりと正しくなければいけません」。

(慈済月刊六七八期より)

關鍵字