ドイツ西部の水害  キッチンカーで復旧を応援

ヨーロッパ各国の作業員がドイツの水害被災地に入り、先の長い復旧工事を支援した。慈済ボランティアはキッチンカーで彼らに食事を提供し、中華式の麺やご飯のメニューで彼らのお腹を満たし、いつもと違うコックが来て料理を美味しく調理したため、マイスターも満足して一括注文した。また住民もガスや水道の復旧を待つ間、温かい食事を摂ることができた。みんな毎日楽しみにしていたのだ——「今日のメニューは何だろう?」

八時にオーストリアの国境を越えてドイツへ入った私たちは陳樹微(チェン・シューウェイ)師姐(女性ボランティア)と合流し、私が九人乗りの小型バスを運転して、ドイツ西部の主要都市、ケルンに向かって出発した。一時間余り後にミュンヘン市に入る前から渋滞し始め、ノロノロ運転になり、午後になって、ドナウ河畔のウルムで昼食をとった。そのあと三百キロ余り走って夜になると、ようやくケルンに着いた。この日は一日で十二時間、約千キロ運転したので、少し自己満足感に浸っていた。まだまだ自分は衰えていない!

翌日の十時半、陳樹微師姐がヴァイラースヴィスト市の社会福祉人員と連絡をとり、一軒のレストランで落ち合うことになった。その女性は、ドイツ各都市とオーストリアから来た私たちに、半月前に起きた水害について話してくれた。

七月十四日から雨が降り始め、次の日の朝方になって突然大洪水になった。その水の勢いは、まるでダムの放流のようで、地勢が低い場所にある家々は瞬く間に浸水し、住民は心の準備をする間もなく、洪水は地域全体にわたって農地、道路、樹木、堤防、車…を押し流した。

街の中心を流れる小さな川が洪水の猛威を振るった。道路のアスファルトを削り取り、家々の壁をもぎとった。家の外観は変わっていなくても、浸水した基礎部分のコンクリートは脆くなり、居住には適さなくなった。(撮影・劉晃汶)

その後、私たちは幾日も被害が甚大な地域を視察し、バート・ノイェンアールやアールヴァイラ、バート・ミュンスターアインフェル等の町を回った。そこで目にした災害後の惨状は、言葉で形容できないほどだった。水の勢いは、河川の両側にある街道を覆い尽くし、家が基礎部分から流されてしまったため、大きな穴が開き、電線、ガス管、水道管の全てが露出していた。商店街は無残にも歩道が泥まみれになり、店は内外共に破壊されてしまった。また、容赦ない洪水は、小さな橋すら見逃さずに破壊した。跡形もなく破壊されてしまった何軒かの家を目の当たりにして、住民は無事に逃げたのだろうかと不安になった。

多くの家は歴史的建築物一覧に載っていて、二、三百年の歴史があるが、建材は現代のように頑丈ではなく、セメントというよりも、土と藁をこねたものでできた壁などは、洪水で溶けてしまった。石膏ボードの壁も洪水の侵食には耐えられず、天井も一緒に落ちてしまっていた。

最も心を痛めたのは、ジンツィッヒにある二十八名のお年寄りと身障者をケアしていた健康センターが被災したことである。洪水の勢いが増した夜、救助隊員は先ず十六名の住民を安全な場所に避難させたが、再びそこに戻った時、すでに目の前で激しく水が流れ、水位は二階の高さまで上り、残りの十二名の住民は逃げ後れてしまった。

あの数日の視察から、すでに半月が経っていたが、道中、空に鳥が飛んでいるのを見たことはなく、草地にも野生の小動物を見かけなかった。その様子から、当時の雨足がどれほど恐ろしいものだったかが想像できよう。

慈済のキッチンカーはバートミュンスターアイフェル市の市政府広場に停車し、ボランティアが車の外に「今日のメニュー」を書いた小さな黒板を置いて、毎日100から500食を提供した。(写真の提供・林美鳳)

さようならを言うのが名残惜しい

被害が大きかった地域では水道、電気、ガス管のどれもが破損していて、住民は三食を作ることもできなかったため、支援者団体がキッチンカーを出して、ドイツソーセージやフライドポテトを提供していた。被災者と作業員はすでに二週間も同じ食べ物を口にし続けていたので、八月四日、私たちがバートミュンスターアイフェル市を訪れた時、ザビーネ市長が慈済にそれまでと異なる昼食を提供してもらえないかと提案した。

八月六日午前中、災害視察を終えて帰る途中にフランクフルト市を通った時、樹微師姐がケルン市にある特殊用途の自動車工場と連絡が取れたというので、私たちは直ちにケルン市に引き返し、その工場へ移動式キッチンカーを見に行き、その場でリースすることを決めた。

そのキッチンカーには、コンロが四つ、シンク、冷蔵庫、オーブン、換気扇、作業台などが全て揃っていた。八月十二日、ボランティアが再びバートミュンスターアイフェル市に向かった。キッチンカーの性能を十分に理解した後、八月十三日、初めてキッチンカーで食事を提供することになり、ドイツに住んでいる三人のシェフ級のボランティア、楊文村(ヤン・ウェンツン)師兄(シーシオン)、林森喜(リン・センシー)師兄、謬連煌(ミウ・リエンホワン)師兄が調理を担当して、二百食の菜食焼きそばを提供した。

ドイツ各都市やオーストリア、オランダからボランティアが交代で手伝いに来てくれたので、住民もバリエーションのある料理に新鮮さを覚えたそうだ。八月二十一日、オーストリア・ウィーンのボランティアチームは劉建国(リウ・ジエングオ)師兄を先頭に、各種調理器具と調味料、米とパスタを携えて出発した。食事を提供する前、キッチンカーの前にある自転車置き場と市役所前の長テーブルや椅子を臨時に置く場所を綺麗に掃除したので、清潔感あふれる環境になったと良い評判をもらった。

住民は慈済の菜食を絶賛し、鍋を持参して昼食用に持ち帰る人もいた。食事を提供していた時間はまるで小さな食事会のようで、とても賑わった。この食事提供サービスは九月十一日に最終日を迎えた。私たちがキッチンカーでそこを離れる時、多くの人は名残惜しく思い、慈済の美味しい昼食やあの和気藹々とした雰囲気を忘れることができなかったそうだ。最後にコンロの火を消したのが私でなくて良かった。なぜなら、彼らの悲しむ表情を見るのは辛かったからだ。災害後の復旧作業は、二年もかかると予想されている。さようなら、友よ!また会う機会まで。

ドイツ政府は規定を緩めたので屋外でマスクを着用する必要がなくなった。各国から来た作業員は、被災地で温かい食事をとれることに感謝し、慈済が広めている菜食は地球にとって有益だと賛同した。(写真提供・林美鳳)

ドイツ西部の水害 慈済の災害支援

7月中旬
• 豪雨が西欧諸国を襲い、ドイツ、ベルギー、オランダは極端な降雨量を記録した。24時間に現地の平年の1カ月分を超える雨が降った。
•ドイツ西部ノルトライン・ヴェストファーレン州とラインラント・プフェルツ州は河川が氾濫して町に浸水し、土石流で建物が倒壊し、死者170人余り、避難した人が数万人に上った。ドイツ気象庁は「世紀の大水害」と発表した。

8月3日〜5日
•ドイツ・ハンブルク、ミュンヘン、フランクフルトとオーストリア慈済人は西部の大都市ケルンで合流し、多くの被災地を視察して、ノルトライン・ヴェストファーレン州のバートミュンスターアイフェル市を重点ケア区域に定めた。

8月13日〜9月11日
•ケルン南方のバートミュンスターアイフェル市は、古城のある風光明媚な歴史ある街だ。人口は約1万7千人で、住民の生活は観光業と小規模の家内工業が主だが、洪水は家屋と経済活動を破壊し、推計で2千5百世帯が被災した。市長によると、今回の水害は第二次世界大戦以来最も深刻な被害をもたらしたそうだ。
•軍隊、エンジニアチーム、民間団体が被災地に駐屯して復旧に協力した。簡単な食事だがボランティアが炊き出しをして人々に寄り添い、励ました。
•ボランティアはドイツのハンブルク、ミュンヘン、フランクフルト、ケルン、そしてオーストリア、オランダから、合計延べ3030人を動員した。
•提供された食事:10021食。

クリニャチャ難民キャンプでの、セルビア難民委員会委員長のクチッチさん(後列中央)と地元ボランティアのタマラさん(後列で挙手)が子供たちと一緒に遊んでいた。コロナ禍に入ってから久しぶりの楽しい笑い声だった。(撮影・王素真)

證厳法師と慈済は一体どのような団体で、なぜ多くの見知らぬ人が難民に関心を寄せて、毎日質の良い物資を提供してくれるのかと、ジャミラさんは不思議に思っていた。

これは全て様々な方面から善意のある人たちからの贈り物で、贈り主全てが裕福とは限らないが、愛に満ちた心で奉仕しており、慈済ボランティアは台湾だけでなく、世界各地にいて、困難にある人々を喜んで支援しているのだと、彼女に説明した。

ジャミラさん夫婦はそれを聞いて、毎日慈済から愛と関心を寄せられていたことが、このキャンプで最も貴重なレッスンだった、と私たちに言った。その後間も無く、ジャミラさん一家は安住の場所を探すためにフランスへ旅立ったことを知った。彼女たちの笑顔を私たちは永遠に忘れない。そして一層證厳法師に感謝の気持ちが湧き上がった。奉仕のチャンスをくださったことで、真の人生価値を見つけることができたのだ。

年を重ねても、幸せを感じる

文・游月英(オーストリア慈済ボランティア)

年半以上になるコロナ禍で、ヨーロッパ慈済人の活動は止まってしまい、今年の七月上旬に、ようやく再度セルビア難民キャンプへケアに行くことができた。嬉しかったのは、夫の劉晃汶(リウ・ホワンウエン)師兄も同行し、ヨーロッパ慈済所属の車の運転を担当してくれたことである。七月中旬、ドイツは百年に一度と言われる水害に見舞われ、私たちは再び被害視察を行った。

八月初め、ミュンヘンからグラサウに向かい、陳樹微師姐と合流して四日間の視察活動を行ったが、心を大きく揺さぶられた。そこでは證厳法師が口を酸っぱくして言っている「時間がない、時間がない…」という言葉が思い起こされた。

被災地は断水と停電が続いていたので、チームはまず温かい食事を提供し、被災者と復旧作業員の心身を温めることを最優先にした。そして、素早く行動に移して帰路にはキッチンカーを選定し、ウィーンに帰った三日目には、陳師姐と共にキッチンカーをリースしに行った。劉師兄は迷うことなく運転を引き受けてくれた。

劉師兄の以前の職業は、船の機械エンジニアだ。キッチンカーを運転するのは初めてだったが、すぐに使用方法を習得した。一回目の炊き出しを担ったハンブルクの三人の師兄に、キッチンカーの機能と使用方法、注意事項を伝え、全ての手はずを整えた後でウィーンへ戻り、炊き出しをしてくれるボランティアを募った。その時コロナ禍で外出できないという返事が大部分だった。

ボランティアがいなかったらどうすればいいのかと焦っていたところ、一本の電話が入った。それは、劉建國師兄が一緒にシェフとして参加し、陳秀花(チェン・シウホア)師姐が調理補助をしてくれる、という連絡だった。私は安心して、応募リストにオーストリアが二回目を担当する、と記入した。

八月二十二日から一週間、私たちは毎日異なる菜食料理を提供した。以前中華料理のレストランを開いたことがある私たちからすれば、外国人が好む味は分かっており、中華風焼きそばにもやしサラダ、キムチ、トマトの卵炒めにガルバンゾを加えたものなど、タンパク質、カルシム等の栄養に気を配った。多くの人が食事を取りに来て、毎日五百食以上も提供した。オーストリアからの五人のボランティアは疲れ切っていたが、住民と作業員たちがみな親指を立てているのを見ると、疲れは吹き飛んだ。

八月二十九日、ハンブルクのボランティアが三回目を担当することになったので、私はそこに残ってサポートした。その後、九月十一日に終了して十三日にウィーンに戻った。

「前例のない」今回のキッチンカーによる炊き出しに参加でき、高齢ながら私はとても幸せだった。八月初旬から九月の半ばまで、千キロの道のりを六回往復して二十三日間、炊き出しを担当した。毎朝七時過ぎからスーパーで必要なものを買うと、急いで食材をキッチンカーに持って行って準備し、八〜九時間立ち続けた。四十六人分の大きな電気鍋で、オーストリアボランティアが担当した週は毎日七から八回、ご飯を炊いた。十一回炊いた日もあった。チームの中で私が一番年長だが、体力はほかの師兄師姐の誰にも負けない。奉仕できる体力があることに感謝している。人生は無常なゆえに、片時も無駄にはできない。そして私を愛し、この輝かしい菩薩道を歩むことを優しく見守ってくれる家族に感謝している。
(慈済月刊六五九期より)

ヨーロッパ各国の作業員がドイツの水害被災地に入り、先の長い復旧工事を支援した。慈済ボランティアはキッチンカーで彼らに食事を提供し、中華式の麺やご飯のメニューで彼らのお腹を満たし、いつもと違うコックが来て料理を美味しく調理したため、マイスターも満足して一括注文した。また住民もガスや水道の復旧を待つ間、温かい食事を摂ることができた。みんな毎日楽しみにしていたのだ——「今日のメニューは何だろう?」

八時にオーストリアの国境を越えてドイツへ入った私たちは陳樹微(チェン・シューウェイ)師姐(女性ボランティア)と合流し、私が九人乗りの小型バスを運転して、ドイツ西部の主要都市、ケルンに向かって出発した。一時間余り後にミュンヘン市に入る前から渋滞し始め、ノロノロ運転になり、午後になって、ドナウ河畔のウルムで昼食をとった。そのあと三百キロ余り走って夜になると、ようやくケルンに着いた。この日は一日で十二時間、約千キロ運転したので、少し自己満足感に浸っていた。まだまだ自分は衰えていない!

翌日の十時半、陳樹微師姐がヴァイラースヴィスト市の社会福祉人員と連絡をとり、一軒のレストランで落ち合うことになった。その女性は、ドイツ各都市とオーストリアから来た私たちに、半月前に起きた水害について話してくれた。

七月十四日から雨が降り始め、次の日の朝方になって突然大洪水になった。その水の勢いは、まるでダムの放流のようで、地勢が低い場所にある家々は瞬く間に浸水し、住民は心の準備をする間もなく、洪水は地域全体にわたって農地、道路、樹木、堤防、車…を押し流した。

街の中心を流れる小さな川が洪水の猛威を振るった。道路のアスファルトを削り取り、家々の壁をもぎとった。家の外観は変わっていなくても、浸水した基礎部分のコンクリートは脆くなり、居住には適さなくなった。(撮影・劉晃汶)

その後、私たちは幾日も被害が甚大な地域を視察し、バート・ノイェンアールやアールヴァイラ、バート・ミュンスターアインフェル等の町を回った。そこで目にした災害後の惨状は、言葉で形容できないほどだった。水の勢いは、河川の両側にある街道を覆い尽くし、家が基礎部分から流されてしまったため、大きな穴が開き、電線、ガス管、水道管の全てが露出していた。商店街は無残にも歩道が泥まみれになり、店は内外共に破壊されてしまった。また、容赦ない洪水は、小さな橋すら見逃さずに破壊した。跡形もなく破壊されてしまった何軒かの家を目の当たりにして、住民は無事に逃げたのだろうかと不安になった。

多くの家は歴史的建築物一覧に載っていて、二、三百年の歴史があるが、建材は現代のように頑丈ではなく、セメントというよりも、土と藁をこねたものでできた壁などは、洪水で溶けてしまった。石膏ボードの壁も洪水の侵食には耐えられず、天井も一緒に落ちてしまっていた。

最も心を痛めたのは、ジンツィッヒにある二十八名のお年寄りと身障者をケアしていた健康センターが被災したことである。洪水の勢いが増した夜、救助隊員は先ず十六名の住民を安全な場所に避難させたが、再びそこに戻った時、すでに目の前で激しく水が流れ、水位は二階の高さまで上り、残りの十二名の住民は逃げ後れてしまった。

あの数日の視察から、すでに半月が経っていたが、道中、空に鳥が飛んでいるのを見たことはなく、草地にも野生の小動物を見かけなかった。その様子から、当時の雨足がどれほど恐ろしいものだったかが想像できよう。

慈済のキッチンカーはバートミュンスターアイフェル市の市政府広場に停車し、ボランティアが車の外に「今日のメニュー」を書いた小さな黒板を置いて、毎日100から500食を提供した。(写真の提供・林美鳳)

さようならを言うのが名残惜しい

被害が大きかった地域では水道、電気、ガス管のどれもが破損していて、住民は三食を作ることもできなかったため、支援者団体がキッチンカーを出して、ドイツソーセージやフライドポテトを提供していた。被災者と作業員はすでに二週間も同じ食べ物を口にし続けていたので、八月四日、私たちがバートミュンスターアイフェル市を訪れた時、ザビーネ市長が慈済にそれまでと異なる昼食を提供してもらえないかと提案した。

八月六日午前中、災害視察を終えて帰る途中にフランクフルト市を通った時、樹微師姐がケルン市にある特殊用途の自動車工場と連絡が取れたというので、私たちは直ちにケルン市に引き返し、その工場へ移動式キッチンカーを見に行き、その場でリースすることを決めた。

そのキッチンカーには、コンロが四つ、シンク、冷蔵庫、オーブン、換気扇、作業台などが全て揃っていた。八月十二日、ボランティアが再びバートミュンスターアイフェル市に向かった。キッチンカーの性能を十分に理解した後、八月十三日、初めてキッチンカーで食事を提供することになり、ドイツに住んでいる三人のシェフ級のボランティア、楊文村(ヤン・ウェンツン)師兄(シーシオン)、林森喜(リン・センシー)師兄、謬連煌(ミウ・リエンホワン)師兄が調理を担当して、二百食の菜食焼きそばを提供した。

ドイツ各都市やオーストリア、オランダからボランティアが交代で手伝いに来てくれたので、住民もバリエーションのある料理に新鮮さを覚えたそうだ。八月二十一日、オーストリア・ウィーンのボランティアチームは劉建国(リウ・ジエングオ)師兄を先頭に、各種調理器具と調味料、米とパスタを携えて出発した。食事を提供する前、キッチンカーの前にある自転車置き場と市役所前の長テーブルや椅子を臨時に置く場所を綺麗に掃除したので、清潔感あふれる環境になったと良い評判をもらった。

住民は慈済の菜食を絶賛し、鍋を持参して昼食用に持ち帰る人もいた。食事を提供していた時間はまるで小さな食事会のようで、とても賑わった。この食事提供サービスは九月十一日に最終日を迎えた。私たちがキッチンカーでそこを離れる時、多くの人は名残惜しく思い、慈済の美味しい昼食やあの和気藹々とした雰囲気を忘れることができなかったそうだ。最後にコンロの火を消したのが私でなくて良かった。なぜなら、彼らの悲しむ表情を見るのは辛かったからだ。災害後の復旧作業は、二年もかかると予想されている。さようなら、友よ!また会う機会まで。

ドイツ政府は規定を緩めたので屋外でマスクを着用する必要がなくなった。各国から来た作業員は、被災地で温かい食事をとれることに感謝し、慈済が広めている菜食は地球にとって有益だと賛同した。(写真提供・林美鳳)

ドイツ西部の水害 慈済の災害支援

7月中旬
• 豪雨が西欧諸国を襲い、ドイツ、ベルギー、オランダは極端な降雨量を記録した。24時間に現地の平年の1カ月分を超える雨が降った。
•ドイツ西部ノルトライン・ヴェストファーレン州とラインラント・プフェルツ州は河川が氾濫して町に浸水し、土石流で建物が倒壊し、死者170人余り、避難した人が数万人に上った。ドイツ気象庁は「世紀の大水害」と発表した。

8月3日〜5日
•ドイツ・ハンブルク、ミュンヘン、フランクフルトとオーストリア慈済人は西部の大都市ケルンで合流し、多くの被災地を視察して、ノルトライン・ヴェストファーレン州のバートミュンスターアイフェル市を重点ケア区域に定めた。

8月13日〜9月11日
•ケルン南方のバートミュンスターアイフェル市は、古城のある風光明媚な歴史ある街だ。人口は約1万7千人で、住民の生活は観光業と小規模の家内工業が主だが、洪水は家屋と経済活動を破壊し、推計で2千5百世帯が被災した。市長によると、今回の水害は第二次世界大戦以来最も深刻な被害をもたらしたそうだ。
•軍隊、エンジニアチーム、民間団体が被災地に駐屯して復旧に協力した。簡単な食事だがボランティアが炊き出しをして人々に寄り添い、励ました。
•ボランティアはドイツのハンブルク、ミュンヘン、フランクフルト、ケルン、そしてオーストリア、オランダから、合計延べ3030人を動員した。
•提供された食事:10021食。

クリニャチャ難民キャンプでの、セルビア難民委員会委員長のクチッチさん(後列中央)と地元ボランティアのタマラさん(後列で挙手)が子供たちと一緒に遊んでいた。コロナ禍に入ってから久しぶりの楽しい笑い声だった。(撮影・王素真)

證厳法師と慈済は一体どのような団体で、なぜ多くの見知らぬ人が難民に関心を寄せて、毎日質の良い物資を提供してくれるのかと、ジャミラさんは不思議に思っていた。

これは全て様々な方面から善意のある人たちからの贈り物で、贈り主全てが裕福とは限らないが、愛に満ちた心で奉仕しており、慈済ボランティアは台湾だけでなく、世界各地にいて、困難にある人々を喜んで支援しているのだと、彼女に説明した。

ジャミラさん夫婦はそれを聞いて、毎日慈済から愛と関心を寄せられていたことが、このキャンプで最も貴重なレッスンだった、と私たちに言った。その後間も無く、ジャミラさん一家は安住の場所を探すためにフランスへ旅立ったことを知った。彼女たちの笑顔を私たちは永遠に忘れない。そして一層證厳法師に感謝の気持ちが湧き上がった。奉仕のチャンスをくださったことで、真の人生価値を見つけることができたのだ。

年を重ねても、幸せを感じる

文・游月英(オーストリア慈済ボランティア)

年半以上になるコロナ禍で、ヨーロッパ慈済人の活動は止まってしまい、今年の七月上旬に、ようやく再度セルビア難民キャンプへケアに行くことができた。嬉しかったのは、夫の劉晃汶(リウ・ホワンウエン)師兄も同行し、ヨーロッパ慈済所属の車の運転を担当してくれたことである。七月中旬、ドイツは百年に一度と言われる水害に見舞われ、私たちは再び被害視察を行った。

八月初め、ミュンヘンからグラサウに向かい、陳樹微師姐と合流して四日間の視察活動を行ったが、心を大きく揺さぶられた。そこでは證厳法師が口を酸っぱくして言っている「時間がない、時間がない…」という言葉が思い起こされた。

被災地は断水と停電が続いていたので、チームはまず温かい食事を提供し、被災者と復旧作業員の心身を温めることを最優先にした。そして、素早く行動に移して帰路にはキッチンカーを選定し、ウィーンに帰った三日目には、陳師姐と共にキッチンカーをリースしに行った。劉師兄は迷うことなく運転を引き受けてくれた。

劉師兄の以前の職業は、船の機械エンジニアだ。キッチンカーを運転するのは初めてだったが、すぐに使用方法を習得した。一回目の炊き出しを担ったハンブルクの三人の師兄に、キッチンカーの機能と使用方法、注意事項を伝え、全ての手はずを整えた後でウィーンへ戻り、炊き出しをしてくれるボランティアを募った。その時コロナ禍で外出できないという返事が大部分だった。

ボランティアがいなかったらどうすればいいのかと焦っていたところ、一本の電話が入った。それは、劉建國師兄が一緒にシェフとして参加し、陳秀花(チェン・シウホア)師姐が調理補助をしてくれる、という連絡だった。私は安心して、応募リストにオーストリアが二回目を担当する、と記入した。

八月二十二日から一週間、私たちは毎日異なる菜食料理を提供した。以前中華料理のレストランを開いたことがある私たちからすれば、外国人が好む味は分かっており、中華風焼きそばにもやしサラダ、キムチ、トマトの卵炒めにガルバンゾを加えたものなど、タンパク質、カルシム等の栄養に気を配った。多くの人が食事を取りに来て、毎日五百食以上も提供した。オーストリアからの五人のボランティアは疲れ切っていたが、住民と作業員たちがみな親指を立てているのを見ると、疲れは吹き飛んだ。

八月二十九日、ハンブルクのボランティアが三回目を担当することになったので、私はそこに残ってサポートした。その後、九月十一日に終了して十三日にウィーンに戻った。

「前例のない」今回のキッチンカーによる炊き出しに参加でき、高齢ながら私はとても幸せだった。八月初旬から九月の半ばまで、千キロの道のりを六回往復して二十三日間、炊き出しを担当した。毎朝七時過ぎからスーパーで必要なものを買うと、急いで食材をキッチンカーに持って行って準備し、八〜九時間立ち続けた。四十六人分の大きな電気鍋で、オーストリアボランティアが担当した週は毎日七から八回、ご飯を炊いた。十一回炊いた日もあった。チームの中で私が一番年長だが、体力はほかの師兄師姐の誰にも負けない。奉仕できる体力があることに感謝している。人生は無常なゆえに、片時も無駄にはできない。そして私を愛し、この輝かしい菩薩道を歩むことを優しく見守ってくれる家族に感謝している。
(慈済月刊六五九期より)

關鍵字

蛍は群れを成してこの世を照らす

(絵・林淑女)

ひとしずくを軽く見ないこと、また、自分も軽視しないことです。 蛍の光は微弱であっても、群れを成せば暗闇を照らすことができます。 お互いに励まし合って、愛で世界を覆いましょう。

年のこの頃、溢れる感謝と敬虔の思いになります。去りゆく年の平穏無事に感謝し、さらに敬虔な心で新たな年を迎えたいものです。毎日のように目を開けた瞬間、私の心にあるのは「感謝」の一言です。手足を動かし、息を整えてからベッドを下り、両足を地に着け、体を真っ直ぐにして立ち、足を踏み出して歩きます。その全ての動作がいつもと変わらないという平穏に、私は改めて感謝するのです。なぜなら今日もまた、この世のために行動することができるからです。

命は一呼吸する間にあり、一秒一秒がとても大切なのです。時間と人の命は密接に関わっているのですが、人は時間に対して無関心です。時は金なりと言われますが、人は平等にその光陰に恵まれているのですから、大切にし、感謝して正しいことをするべきです。心にある福田に善の種を蒔いて大切に耕せば、人生における功徳の林となるのです。

もし、ぼんやりとして、何も知らずに一生を過ごせば、善が僅かで、悪がとても大きく占めるかもしれません。自分の人生を振り返ってみてください。人生の中で、最も価値があったのはどんな事だったのか、どれだけ人を利することをしたか、これが私たちの生命の価値です。

人生の価値を振り返ってみて、生命が役に立ったのであれば、自分に対して感謝し、まだできていないのら、直ちに始めれば間に合います。今、何歳かを気にする必要はなく、まだ奉仕する力があるならば、やれば良いのです。そうすれば、生命の価値が増します。

コロナ禍の期間に、ミャンマーの慈済ボランティアと慈青たちが農村部へ配付に行った時のことです。三輪車夫のウオンミペさんは、以前は一家を養うことができましたが、観光業が不景気になってから、運搬工として働くようになりました。一日あたりの収入は現地貨幣の千九百チャット(約百三十円)です。彼も布施したいと思い、力仕事で得た工賃の半分を献金しました。なぜなら彼は自分よりも貧しい人がいることを知っていたからです。

人助けをしたいという善念とこの工賃の半分(約六十五円)には、とても大きな価値がありす。人助けするのはお金持ちだけでしょうか。救われる人は貧困者に限られたことでしょうか。そうとは限りません。善行しようと思っても、受け取ってくれる人がいなければ、身辺に物資がいっぱいあっても、何の用もなさないのです。必要とする人がいれば、私も施しをすることができ、お互いに喜べるのです。良いことをするのはお金持ちの権利ではありません。手足を動かせば、全てこの世を利することができるのです。

人助けをしない人は心豊かになることはありません。喜捨する気持ちで奉仕すれば、貧しくなったと感じることはありません。ある「米貯金」に呼応したミャンマーのお婆さんは、ご飯に水だけという貧しさにあっても、毎日ご飯を炊く時、その手で一握りのお米を分けて、人助けをしており、そこに彼女は喜びを感じています。人々はその姿に心打たれ、共感を覚えています。

一粒の米だけでも、真心をもって奉仕すれば、そこには功徳があるのです。もし私たちの社会の誰もが僅かでも力を尽くせば、世の中は貧困で飢えに苦しむ人が大きく減るでしょう。貧(ひん)と貪(どん)という字は、僅かに違います。考え方を変えて消費を抑え、福を多く造り、日々小銭を貯めても生活には影響しませんが、それが集まれば人間(じんかん)に大きな福をもたらすことができるのです。

ひとしずくの力量を軽んじてはなりません。慈済は五十五年前に「五十銭」から始まり、互いに励まし合い、災難があるとすかさず奉仕し、生活に困っている人には長期ケアをしました。今日までの慈済の足跡を、台湾を起点に世界地図で見てみると、それはまるで天下にまたたく蛍の光のようです。絶えず暗闇を照らし、地球に愛を敷き詰めています。

また、自分を軽んじてはなりません。蛍が一匹や二匹では明るくならなくても、群れをなして同時に飛び立てば、道を照らして人を導くことができます。群れを成す蟻も須彌山を登る志を持つことができるように、愛が結集すれば、至る所で福を造ることができます。「観世音菩薩聞聲救苦(観世音菩薩は苦しみの声を聞けば救いの手を伸ばす)」。今の私たちは、「千処祈求千処現(千の所で救いを求められれば、千の所に現れる)」まではまだできていませんが、発心立願して、行ける所なら必ずたどり着かなければなりません。世間の状況をよく理解して、人々の苦難に関心を寄せ、日々善念を絶やさないことです。善行して、人助けをするのだ、と自分を祝福する人が福を造るのです。福のある人は魂と生命を永遠に輝かせることができます。皆さんも益々精進なさってください。


(慈済月刊六六一期より)

(絵・林淑女)

ひとしずくを軽く見ないこと、また、自分も軽視しないことです。 蛍の光は微弱であっても、群れを成せば暗闇を照らすことができます。 お互いに励まし合って、愛で世界を覆いましょう。

年のこの頃、溢れる感謝と敬虔の思いになります。去りゆく年の平穏無事に感謝し、さらに敬虔な心で新たな年を迎えたいものです。毎日のように目を開けた瞬間、私の心にあるのは「感謝」の一言です。手足を動かし、息を整えてからベッドを下り、両足を地に着け、体を真っ直ぐにして立ち、足を踏み出して歩きます。その全ての動作がいつもと変わらないという平穏に、私は改めて感謝するのです。なぜなら今日もまた、この世のために行動することができるからです。

命は一呼吸する間にあり、一秒一秒がとても大切なのです。時間と人の命は密接に関わっているのですが、人は時間に対して無関心です。時は金なりと言われますが、人は平等にその光陰に恵まれているのですから、大切にし、感謝して正しいことをするべきです。心にある福田に善の種を蒔いて大切に耕せば、人生における功徳の林となるのです。

もし、ぼんやりとして、何も知らずに一生を過ごせば、善が僅かで、悪がとても大きく占めるかもしれません。自分の人生を振り返ってみてください。人生の中で、最も価値があったのはどんな事だったのか、どれだけ人を利することをしたか、これが私たちの生命の価値です。

人生の価値を振り返ってみて、生命が役に立ったのであれば、自分に対して感謝し、まだできていないのら、直ちに始めれば間に合います。今、何歳かを気にする必要はなく、まだ奉仕する力があるならば、やれば良いのです。そうすれば、生命の価値が増します。

コロナ禍の期間に、ミャンマーの慈済ボランティアと慈青たちが農村部へ配付に行った時のことです。三輪車夫のウオンミペさんは、以前は一家を養うことができましたが、観光業が不景気になってから、運搬工として働くようになりました。一日あたりの収入は現地貨幣の千九百チャット(約百三十円)です。彼も布施したいと思い、力仕事で得た工賃の半分を献金しました。なぜなら彼は自分よりも貧しい人がいることを知っていたからです。

人助けをしたいという善念とこの工賃の半分(約六十五円)には、とても大きな価値がありす。人助けするのはお金持ちだけでしょうか。救われる人は貧困者に限られたことでしょうか。そうとは限りません。善行しようと思っても、受け取ってくれる人がいなければ、身辺に物資がいっぱいあっても、何の用もなさないのです。必要とする人がいれば、私も施しをすることができ、お互いに喜べるのです。良いことをするのはお金持ちの権利ではありません。手足を動かせば、全てこの世を利することができるのです。

人助けをしない人は心豊かになることはありません。喜捨する気持ちで奉仕すれば、貧しくなったと感じることはありません。ある「米貯金」に呼応したミャンマーのお婆さんは、ご飯に水だけという貧しさにあっても、毎日ご飯を炊く時、その手で一握りのお米を分けて、人助けをしており、そこに彼女は喜びを感じています。人々はその姿に心打たれ、共感を覚えています。

一粒の米だけでも、真心をもって奉仕すれば、そこには功徳があるのです。もし私たちの社会の誰もが僅かでも力を尽くせば、世の中は貧困で飢えに苦しむ人が大きく減るでしょう。貧(ひん)と貪(どん)という字は、僅かに違います。考え方を変えて消費を抑え、福を多く造り、日々小銭を貯めても生活には影響しませんが、それが集まれば人間(じんかん)に大きな福をもたらすことができるのです。

ひとしずくの力量を軽んじてはなりません。慈済は五十五年前に「五十銭」から始まり、互いに励まし合い、災難があるとすかさず奉仕し、生活に困っている人には長期ケアをしました。今日までの慈済の足跡を、台湾を起点に世界地図で見てみると、それはまるで天下にまたたく蛍の光のようです。絶えず暗闇を照らし、地球に愛を敷き詰めています。

また、自分を軽んじてはなりません。蛍が一匹や二匹では明るくならなくても、群れをなして同時に飛び立てば、道を照らして人を導くことができます。群れを成す蟻も須彌山を登る志を持つことができるように、愛が結集すれば、至る所で福を造ることができます。「観世音菩薩聞聲救苦(観世音菩薩は苦しみの声を聞けば救いの手を伸ばす)」。今の私たちは、「千処祈求千処現(千の所で救いを求められれば、千の所に現れる)」まではまだできていませんが、発心立願して、行ける所なら必ずたどり着かなければなりません。世間の状況をよく理解して、人々の苦難に関心を寄せ、日々善念を絶やさないことです。善行して、人助けをするのだ、と自分を祝福する人が福を造るのです。福のある人は魂と生命を永遠に輝かせることができます。皆さんも益々精進なさってください。


(慈済月刊六六一期より)

關鍵字

私のホームレスチャイルド

阿侯にとっては街角が彼の家で、
「オバサン」たちは彼の別の意味での家族である。
彼が拗ねると、「オバサン」は彼を叱る。
「あんたが健康に気をつけてくれないと困るのよ。
私たちも若くないから、後は誰があんたの世話をするの?」

い阿侯は一日中街をブラつく。ひどく汚れた服を着て、足に履いている草履は汚れて色が分からないほどだ。歩くと左右のバランスが取れず、体が揺れる。彼は、いつもは静かだが、たまに大声を出し、道行く人をびっくりさせる。 定住先がなく、昼間は街中を彷徨い、夜はアーケードや建物の隅で過ごす。

一九九六年に、基隆信義区東信路の慈済リサイクルステーションが設立された。毎月一回のコミュニティリサイクルデーで、阿侯は資源回収をする人を眺めているが、ボランティアが彼にリサイクル活動を一緒にやろうと誘っても、いつも拒否される。ボランティアは彼に合う服を見つけ、洗ってから、着替えさせた。

それ以来、彼はリサイクルボランティアの家の前を通る時、ガラス戸越しに大声で「オバサン! 」と彼なりの挨拶をして行く。 それでボランティアが扉を開けて「今日は朝ご飯を食べたかい?今日はお粥だけど、食べるのを手伝ってくれる?食べる?」と言った。

かなり頑固な彼は、もしボランティアが「お粥一杯上げるよ」と言ったら、きっと拒否するだろう。食べるのを手伝ってくれるよう頼めば、引き受けてくれるのだ。ボランティアたちと知り合ってから、彼は人と挨拶するようになった。近所の人は、彼の変化を見て、暖かい手を差し伸べ、受け入れるようになった。 彼が人を傷つけたりはしないと分かって、彼と話をする人も多くなった。

二○○七年の夏、ボランティアの呉束満さんが阿侯の側を通り過ぎた時、彼に呼び止められた。「オバサン、僕は死ぬかもしれない。三日間もおしっこが出なくて、気分が悪い」と言った。呉さんは、直ぐに彼を近くの診療所に連れて行き、その後、大病院を紹介された。盲腸破裂と診断され、緊急に手術する必要があった。しかし、彼は身分証明書を持っていなかったし、自分が誰なのかも言えなかったため、どうしたらいいのか分からなかった。ボランティアは医師に、後で必要書類は補填するから先ず治療をしてほしいとお願いした。

阿侯は入院中、退院して帰宅したいと言い続けた。しかし、彼の家はどこにあるのだろう?退院した後は、どこで療養したらいいのか?ある隣人が倉庫の隅を空け、折りたたみ式ベッドを取り付けると言ってくれた。また、別の隣人は体力をつける営養品と食べ物を提供すると言った。彼は言葉にすることはできないが、彼の目付きは柔らかく、人を見ると口角に笑顔を浮かべるようになった。

阿侯の身分証明書を申請するのが最も急を要することだった。訪問ケアボランティアは、以前の彼の隣人を訪ねたが、何も分からなかった。そこで、警察署と市役所の支援を得て、彼の本籍資料を探し出し、その線を辿って遠い親戚と連絡を取ることができ、阿侯本人に間違いがないことを確認してくれた。

この証明書を手にボランティアは、身分証、健康保険カード、身障者カード、低所得証明などの手続きに奔走した。それによって政府からの毎月の補助金で彼は生活していくことができるようになる。

ボランティアの呉束満さん(ウー・スーマン)(右)は、母親の心で阿侯(左)を世話し、彼を連れてリサイクル活動をしている。

見よう見まねで、任務を達成

阿侯は体力が徐々に回復し、たまに呉束満さんについてリサイクル活動をするようになった。暫くして、彼は自主的に決まった店舗から資源の回収をする任務を始めた。

毎週水曜日の午後三時、彼はカートを押して飲食店の前で待ち、四時半にシャッターが開くと、直ぐ中に入り、倉庫に向かう。段ボール箱やオイル缶、ペットボトルを分別し、カートに積んでから縛って、分別する場所に行って整理する。 飲食店のオーナーから従業員まで、皆、彼を褒め、よく飲み物を出してくれる。

ドライクリーニングを経営して二十年以上になる王文祥(ワン・ウェンシアン)さんと黄素媛(ホワン・スーユエン)さん夫妻はこう言った。阿侯は随分変わり、服装もきれいになり、積極的にお年寄りのゴミを出す手伝いをしたり、ホームレスにいじめられているお年寄りを見かけると、助けたりする。リサイクルステーションは、彼が整理してきれいになり、悪臭も野良猫も鼠もいなくなった。実に素晴らしいことだ。

先日の医師の検査では、阿侯は知的障害だったため、自立能力がないと診断された。二○二○年に身体障害者手帳の更新時に再度鑑定した時は、知能が向上していたことに医師が驚いたが、意識障害の症状があり、薬を服用しなければならないと言われた。薬の副作用で阿侯は眠気を催し、気分も悪くなるため、彼は服用を嫌がった。ボランティアはいつも「あんたが体を大事にしてくれなければ困るのよ。私たちはもう歳だから、誰があんたの面倒を見るの?」と言って聞かせる。彼はその時には何も言わないが、時には「何でもないのに何で薬を飲まなければならないの?」と口答えする。

呉さんは阿侯と自分の子供のように接している。彼の姿が見えなくなると、心配でたまらなく、あちこち探し回る。彼が情緒的に不安定な時は、苦労して彼を説得し、リサイクル活動に連れて行く。彼に福を大切にし、福を積むよう教えている。長年、呉さんは一度も諦めたことはなく、彼女はいつも「行動に移せばいいのです 」と言う。
(慈済月刊六五〇期より)

阿侯にとっては街角が彼の家で、
「オバサン」たちは彼の別の意味での家族である。
彼が拗ねると、「オバサン」は彼を叱る。
「あんたが健康に気をつけてくれないと困るのよ。
私たちも若くないから、後は誰があんたの世話をするの?」

い阿侯は一日中街をブラつく。ひどく汚れた服を着て、足に履いている草履は汚れて色が分からないほどだ。歩くと左右のバランスが取れず、体が揺れる。彼は、いつもは静かだが、たまに大声を出し、道行く人をびっくりさせる。 定住先がなく、昼間は街中を彷徨い、夜はアーケードや建物の隅で過ごす。

一九九六年に、基隆信義区東信路の慈済リサイクルステーションが設立された。毎月一回のコミュニティリサイクルデーで、阿侯は資源回収をする人を眺めているが、ボランティアが彼にリサイクル活動を一緒にやろうと誘っても、いつも拒否される。ボランティアは彼に合う服を見つけ、洗ってから、着替えさせた。

それ以来、彼はリサイクルボランティアの家の前を通る時、ガラス戸越しに大声で「オバサン! 」と彼なりの挨拶をして行く。 それでボランティアが扉を開けて「今日は朝ご飯を食べたかい?今日はお粥だけど、食べるのを手伝ってくれる?食べる?」と言った。

かなり頑固な彼は、もしボランティアが「お粥一杯上げるよ」と言ったら、きっと拒否するだろう。食べるのを手伝ってくれるよう頼めば、引き受けてくれるのだ。ボランティアたちと知り合ってから、彼は人と挨拶するようになった。近所の人は、彼の変化を見て、暖かい手を差し伸べ、受け入れるようになった。 彼が人を傷つけたりはしないと分かって、彼と話をする人も多くなった。

二○○七年の夏、ボランティアの呉束満さんが阿侯の側を通り過ぎた時、彼に呼び止められた。「オバサン、僕は死ぬかもしれない。三日間もおしっこが出なくて、気分が悪い」と言った。呉さんは、直ぐに彼を近くの診療所に連れて行き、その後、大病院を紹介された。盲腸破裂と診断され、緊急に手術する必要があった。しかし、彼は身分証明書を持っていなかったし、自分が誰なのかも言えなかったため、どうしたらいいのか分からなかった。ボランティアは医師に、後で必要書類は補填するから先ず治療をしてほしいとお願いした。

阿侯は入院中、退院して帰宅したいと言い続けた。しかし、彼の家はどこにあるのだろう?退院した後は、どこで療養したらいいのか?ある隣人が倉庫の隅を空け、折りたたみ式ベッドを取り付けると言ってくれた。また、別の隣人は体力をつける営養品と食べ物を提供すると言った。彼は言葉にすることはできないが、彼の目付きは柔らかく、人を見ると口角に笑顔を浮かべるようになった。

阿侯の身分証明書を申請するのが最も急を要することだった。訪問ケアボランティアは、以前の彼の隣人を訪ねたが、何も分からなかった。そこで、警察署と市役所の支援を得て、彼の本籍資料を探し出し、その線を辿って遠い親戚と連絡を取ることができ、阿侯本人に間違いがないことを確認してくれた。

この証明書を手にボランティアは、身分証、健康保険カード、身障者カード、低所得証明などの手続きに奔走した。それによって政府からの毎月の補助金で彼は生活していくことができるようになる。

ボランティアの呉束満さん(ウー・スーマン)(右)は、母親の心で阿侯(左)を世話し、彼を連れてリサイクル活動をしている。

見よう見まねで、任務を達成

阿侯は体力が徐々に回復し、たまに呉束満さんについてリサイクル活動をするようになった。暫くして、彼は自主的に決まった店舗から資源の回収をする任務を始めた。

毎週水曜日の午後三時、彼はカートを押して飲食店の前で待ち、四時半にシャッターが開くと、直ぐ中に入り、倉庫に向かう。段ボール箱やオイル缶、ペットボトルを分別し、カートに積んでから縛って、分別する場所に行って整理する。 飲食店のオーナーから従業員まで、皆、彼を褒め、よく飲み物を出してくれる。

ドライクリーニングを経営して二十年以上になる王文祥(ワン・ウェンシアン)さんと黄素媛(ホワン・スーユエン)さん夫妻はこう言った。阿侯は随分変わり、服装もきれいになり、積極的にお年寄りのゴミを出す手伝いをしたり、ホームレスにいじめられているお年寄りを見かけると、助けたりする。リサイクルステーションは、彼が整理してきれいになり、悪臭も野良猫も鼠もいなくなった。実に素晴らしいことだ。

先日の医師の検査では、阿侯は知的障害だったため、自立能力がないと診断された。二○二○年に身体障害者手帳の更新時に再度鑑定した時は、知能が向上していたことに医師が驚いたが、意識障害の症状があり、薬を服用しなければならないと言われた。薬の副作用で阿侯は眠気を催し、気分も悪くなるため、彼は服用を嫌がった。ボランティアはいつも「あんたが体を大事にしてくれなければ困るのよ。私たちはもう歳だから、誰があんたの面倒を見るの?」と言って聞かせる。彼はその時には何も言わないが、時には「何でもないのに何で薬を飲まなければならないの?」と口答えする。

呉さんは阿侯と自分の子供のように接している。彼の姿が見えなくなると、心配でたまらなく、あちこち探し回る。彼が情緒的に不安定な時は、苦労して彼を説得し、リサイクル活動に連れて行く。彼に福を大切にし、福を積むよう教えている。長年、呉さんは一度も諦めたことはなく、彼女はいつも「行動に移せばいいのです 」と言う。
(慈済月刊六五〇期より)

關鍵字

子供がペットに出会った時

問:

子供がペットを飼いたいとせがんだ時、どのようにして「飼う」というこの言葉の真の意味と生きている命に対して責任を負うことを理解してもらえるでしょうか?

:どういうわけか、かなり多くの人は「ペットを飼う」ことに魅力を感じるようですが、私もその一人です。まずペットは可愛いですし、その上遊び相手や話し相手にもなるからです。

テレビでペットが飼い主に甘えている場面を見ると、思わず「私も飼いたい!」と大声をあげてしまいます。その時、私の夫はとても慎重にこう言います。「飼いたいと言うが、えさを与え、散歩に連れて行き、ワクチンの接種やシャンプー、グルーミング、そして病気になったら獣医に連れて行く時間はあるのか?それから寝床も清潔に保たなければいけない」。これらの問題を考えると、まるで頭上から冷たい水を浴びせられたようになり、願望はたちまち覚めてしまうのです。

子供がペットを飼いたいと言い出した時、先ずそういう問題を伝えるべきです。それによってペットの命を尊重し、飼うなら一切の責任を負わなければならないことを分からせましょう。こんなに多くの面倒な事があると聞くと、親に手伝ってもらうようねだるかもしれませんが、その時は絶対に妥協してはいけません。少しでも引いてしまうと、子供に責任を逃れる機会を与えてしまい、結果的にそれらは親の仕事になってしまいます。ですから、あらかじめ話し合って暗黙の了解の下に罰則まで作り、一つでも自分でしなければ罰せられるよう、決めておくのです。

多くの親は、子供のおねだりする、上目遣いの目付きに耐えきれず、ペットを買ってしまいます。そのため、子供はペットと遊ぶばかりで、責任を持って世話をしません。最初は可愛いと思っても直ぐに飽きてしまいます。それでは子供がペットを飼う責任感も生命を大切にする気持ちも育むことはできません。

笑いと涙の光陰

親友とその二人の子供は犬が大好きで、子供は犬の散歩やトイレの世話をし、ペット美容院にも親と一緒に行きます。犬が病気になった時、病院に連れて行って、親と交代で看病し、重篤になった時は犬のために祈っていました。往生した後は納骨堂に納め、今でも皆でよくお参りに行っています。全ての過程は、親だけで行うのではなく、子供も終始参加していました。それは、家族全員が犬に深い愛情を持っていたから出来たことです。

私の二人の子供は、学校の自然科学の授業で、蚕を飼育して、観察してレポ―トを書いたことがあります。その過程で、桑の葉をどのように洗って乾かし、取り換えたらいいかを教えました。そして蚕が繭を作り、蛾となって幼虫を生んで、往生するまで世話しました。蚕が死ぬと、ティッシュでそれを包み、植木鉢の中に葬って、蚕にさようならと声をかけました。

その頃、亀と魚も飼っていました。子供は家に帰ると直ぐにペットにあいさつして話しかけるのです。しかし、暫くすると、ペットが病気になり、子供はとても心配し、クラスメ―トと一緒に、どう世話すればいいのかを相談しました。子供たちは丁寧に水槽を洗い、一週間に一回、亀を日光浴させましたが、それでもその小さな命を救うことができず、さようならを言うしかありませんでした。子供たちは小さな顔いっぱいに悲しみを湛え、それ以降、二度とペットを飼いたい、と言わなくなりました。

買う代わりに里親になる

親子で話し合った結果、やはりペットを飼うと決めたのであれば、子供の年齢に合わせて動物を選ぶことを勧めます。子供が幼い時は先ず小動物を飼いましょう。例えば魚、亀…世話が少なくて済みます。少し大きくなってから初めて猫や犬を飼うといいでしょう。できるだけ、買う代わりに里親になり、多くの飼い主のいない動物に心温まる家庭を見つけてあげることです。或いは、最初に「動物中途之家(保護犬・保護猫の収容保護・譲渡施設)」でボランティアとなって世話すれば、愛の奉仕を学ぶだけでなく、動物の世話を経験することができます。その後でペットを飼うかどうかを考えれば、子供はそのプロセスの中で生命を尊重する意義を学ぶことができるのです。


(慈済月刊六四二期より)

問:

子供がペットを飼いたいとせがんだ時、どのようにして「飼う」というこの言葉の真の意味と生きている命に対して責任を負うことを理解してもらえるでしょうか?

:どういうわけか、かなり多くの人は「ペットを飼う」ことに魅力を感じるようですが、私もその一人です。まずペットは可愛いですし、その上遊び相手や話し相手にもなるからです。

テレビでペットが飼い主に甘えている場面を見ると、思わず「私も飼いたい!」と大声をあげてしまいます。その時、私の夫はとても慎重にこう言います。「飼いたいと言うが、えさを与え、散歩に連れて行き、ワクチンの接種やシャンプー、グルーミング、そして病気になったら獣医に連れて行く時間はあるのか?それから寝床も清潔に保たなければいけない」。これらの問題を考えると、まるで頭上から冷たい水を浴びせられたようになり、願望はたちまち覚めてしまうのです。

子供がペットを飼いたいと言い出した時、先ずそういう問題を伝えるべきです。それによってペットの命を尊重し、飼うなら一切の責任を負わなければならないことを分からせましょう。こんなに多くの面倒な事があると聞くと、親に手伝ってもらうようねだるかもしれませんが、その時は絶対に妥協してはいけません。少しでも引いてしまうと、子供に責任を逃れる機会を与えてしまい、結果的にそれらは親の仕事になってしまいます。ですから、あらかじめ話し合って暗黙の了解の下に罰則まで作り、一つでも自分でしなければ罰せられるよう、決めておくのです。

多くの親は、子供のおねだりする、上目遣いの目付きに耐えきれず、ペットを買ってしまいます。そのため、子供はペットと遊ぶばかりで、責任を持って世話をしません。最初は可愛いと思っても直ぐに飽きてしまいます。それでは子供がペットを飼う責任感も生命を大切にする気持ちも育むことはできません。

笑いと涙の光陰

親友とその二人の子供は犬が大好きで、子供は犬の散歩やトイレの世話をし、ペット美容院にも親と一緒に行きます。犬が病気になった時、病院に連れて行って、親と交代で看病し、重篤になった時は犬のために祈っていました。往生した後は納骨堂に納め、今でも皆でよくお参りに行っています。全ての過程は、親だけで行うのではなく、子供も終始参加していました。それは、家族全員が犬に深い愛情を持っていたから出来たことです。

私の二人の子供は、学校の自然科学の授業で、蚕を飼育して、観察してレポ―トを書いたことがあります。その過程で、桑の葉をどのように洗って乾かし、取り換えたらいいかを教えました。そして蚕が繭を作り、蛾となって幼虫を生んで、往生するまで世話しました。蚕が死ぬと、ティッシュでそれを包み、植木鉢の中に葬って、蚕にさようならと声をかけました。

その頃、亀と魚も飼っていました。子供は家に帰ると直ぐにペットにあいさつして話しかけるのです。しかし、暫くすると、ペットが病気になり、子供はとても心配し、クラスメ―トと一緒に、どう世話すればいいのかを相談しました。子供たちは丁寧に水槽を洗い、一週間に一回、亀を日光浴させましたが、それでもその小さな命を救うことができず、さようならを言うしかありませんでした。子供たちは小さな顔いっぱいに悲しみを湛え、それ以降、二度とペットを飼いたい、と言わなくなりました。

買う代わりに里親になる

親子で話し合った結果、やはりペットを飼うと決めたのであれば、子供の年齢に合わせて動物を選ぶことを勧めます。子供が幼い時は先ず小動物を飼いましょう。例えば魚、亀…世話が少なくて済みます。少し大きくなってから初めて猫や犬を飼うといいでしょう。できるだけ、買う代わりに里親になり、多くの飼い主のいない動物に心温まる家庭を見つけてあげることです。或いは、最初に「動物中途之家(保護犬・保護猫の収容保護・譲渡施設)」でボランティアとなって世話すれば、愛の奉仕を学ぶだけでなく、動物の世話を経験することができます。その後でペットを飼うかどうかを考えれば、子供はそのプロセスの中で生命を尊重する意義を学ぶことができるのです。


(慈済月刊六四二期より)

關鍵字

一番見え難いのは自分

快適な状況に置かれていると、一番直視したくないあの「私」は見えない。

自分の足りなさを認めるのはとても辛いことである。

正直に自分を見つめることは堪え難いが、不思議なことに、自分を癒やす力がだんだん生まれてくる。

が病気になった時、私は十三歳になったばかりだったが、人生の長さはどのぐらいか、どうしたら後悔を最小限に抑えることができるか、どのようにすれば意義のある生活ができるのか、と考えた。母の闘病生活と最近出会った難病患者との触れ合いから、法師の言葉を思い出した。「生命の長さは把握できなくても、自分を深めて人間の幅を広げることはできる」。

難病を患った大学生は、本を出版したいという願望を持っていて、慈済チームの協力によって実現できることになった。ボランティアの「安心して!」という眼差しは、まるで彼に「怖がらないで、私たちがいるから。慈済はずっと寄り添うから」と語りかけているようだった。私は彼の純粋な目が、心から感激して輝くのを見た。ボランティアたちの善意と温かさに私まで感動した。

彼の健康は日に日に下り坂になっていたが、彼は積極的に生き、病気という小悪魔と平和に共存していた。彼は率直に体の欠陥に向き合い、あらゆる試練に適応し、自分を陶冶してくれるどんな機会も逃がさなかった。彼は、ずっと自分に温かく寄り添って、全ての難関を突破できるよう支えてくれた人たちに感謝した。

訪問ケアが終わり、花蓮に帰る汽車の中で彼の太陽のような笑顔がたびたび私の脳裏に浮かび、自分が違った道を歩み始めた諸々を振り返った。父と母の人生の終点が私と姉に修行を始めるよう啓発してくれたので、快適な生活に別れを告げ、二〇二〇年に静思精舎に来て、毎日、それまでしたことない多くのことを学び、多くの人と接する生活環境に慣れるよう努力した。

その時から次第に「我」を捨てて団体に溶け込み、欲望が少なくなり、あらゆる取るに足らなかった喜びがその瞬間に輝き出し、それによって一枚一枚と脱皮し、悟りに向かった。

證厳法師は、「私たちの前に現れるあらゆる出来事から、私たちは学び、受け入れ、理解しようとするのです。これらを経験しなければ智慧は成長しないので、耐え忍ばなければなりません」と開示した。私は難病の青年から真実の自分と向き合うことを学び、勇敢に完璧でない自分を受け入れた。自分に対して誠実になった時、直視したくなかった「自分」や一番認めたくなかった欠点、一番堪えられなかった心の鬱が見え始めた。

修行はまるで玉ねぎの皮を剥くように、一枚一枚深く自分を認識していく。一枚剥き終わると、修復し、また一枚剥けば、辛い感覚が飛び出して抵抗する。自分の足りなさを認めることは非常に辛いことである。精舎に戻って修行しに来なければ、私はずっと自分の快適な状況の中にいて、自分が見えないままになっていただろう。

法師の教えと精舎の尼僧たちが、包容力のある環境の中で、次第に自分の核心が見えて来るのを手助けしてくれたことに感謝している。一朝一夕に成長することはなく、段取りを踏んで、仏法で現実の自分を認識すれば、後戻りしないだけでなく、逆に、より大きな勇気を持って前進し続けることができるのだ。二度とたやすくネガティブな感情に妨げられることなく、試練に遭った時は全てに感謝すれば、不思議と自分を癒やしてくれる力が生まれてくるのである。

誠実と感謝は、私があの難病の青年から学んだ貴重な贈り物である。人にはそれぞれ特性があり、模索と挫折の中から生命の価値を探索し、知らない間に無数の「不可能」を経験する。そして、試練を受けた後、希望の光が見え、益々良い方向に向かって歩んでいることに気づく。

著名な作家である張曼娟(チャン・マンジュエン)さんは、「生命とは永遠の堂々巡りに過ぎず、あなたを初めに戻すためにあるのです」と言った。私と姉は既に初めに戻って歩んでおり、歩みながら発心、立願し、日々、より大きな慈悲心を育くんでいる。他人への奉仕と貢献から仏法の真諦を体得することで、自分で立ち上がり、周りの人を感動させて、共に益々良い菩薩道を歩むことを願うようになる。


(慈済月刊六五〇期より)

快適な状況に置かれていると、一番直視したくないあの「私」は見えない。

自分の足りなさを認めるのはとても辛いことである。

正直に自分を見つめることは堪え難いが、不思議なことに、自分を癒やす力がだんだん生まれてくる。

が病気になった時、私は十三歳になったばかりだったが、人生の長さはどのぐらいか、どうしたら後悔を最小限に抑えることができるか、どのようにすれば意義のある生活ができるのか、と考えた。母の闘病生活と最近出会った難病患者との触れ合いから、法師の言葉を思い出した。「生命の長さは把握できなくても、自分を深めて人間の幅を広げることはできる」。

難病を患った大学生は、本を出版したいという願望を持っていて、慈済チームの協力によって実現できることになった。ボランティアの「安心して!」という眼差しは、まるで彼に「怖がらないで、私たちがいるから。慈済はずっと寄り添うから」と語りかけているようだった。私は彼の純粋な目が、心から感激して輝くのを見た。ボランティアたちの善意と温かさに私まで感動した。

彼の健康は日に日に下り坂になっていたが、彼は積極的に生き、病気という小悪魔と平和に共存していた。彼は率直に体の欠陥に向き合い、あらゆる試練に適応し、自分を陶冶してくれるどんな機会も逃がさなかった。彼は、ずっと自分に温かく寄り添って、全ての難関を突破できるよう支えてくれた人たちに感謝した。

訪問ケアが終わり、花蓮に帰る汽車の中で彼の太陽のような笑顔がたびたび私の脳裏に浮かび、自分が違った道を歩み始めた諸々を振り返った。父と母の人生の終点が私と姉に修行を始めるよう啓発してくれたので、快適な生活に別れを告げ、二〇二〇年に静思精舎に来て、毎日、それまでしたことない多くのことを学び、多くの人と接する生活環境に慣れるよう努力した。

その時から次第に「我」を捨てて団体に溶け込み、欲望が少なくなり、あらゆる取るに足らなかった喜びがその瞬間に輝き出し、それによって一枚一枚と脱皮し、悟りに向かった。

證厳法師は、「私たちの前に現れるあらゆる出来事から、私たちは学び、受け入れ、理解しようとするのです。これらを経験しなければ智慧は成長しないので、耐え忍ばなければなりません」と開示した。私は難病の青年から真実の自分と向き合うことを学び、勇敢に完璧でない自分を受け入れた。自分に対して誠実になった時、直視したくなかった「自分」や一番認めたくなかった欠点、一番堪えられなかった心の鬱が見え始めた。

修行はまるで玉ねぎの皮を剥くように、一枚一枚深く自分を認識していく。一枚剥き終わると、修復し、また一枚剥けば、辛い感覚が飛び出して抵抗する。自分の足りなさを認めることは非常に辛いことである。精舎に戻って修行しに来なければ、私はずっと自分の快適な状況の中にいて、自分が見えないままになっていただろう。

法師の教えと精舎の尼僧たちが、包容力のある環境の中で、次第に自分の核心が見えて来るのを手助けしてくれたことに感謝している。一朝一夕に成長することはなく、段取りを踏んで、仏法で現実の自分を認識すれば、後戻りしないだけでなく、逆に、より大きな勇気を持って前進し続けることができるのだ。二度とたやすくネガティブな感情に妨げられることなく、試練に遭った時は全てに感謝すれば、不思議と自分を癒やしてくれる力が生まれてくるのである。

誠実と感謝は、私があの難病の青年から学んだ貴重な贈り物である。人にはそれぞれ特性があり、模索と挫折の中から生命の価値を探索し、知らない間に無数の「不可能」を経験する。そして、試練を受けた後、希望の光が見え、益々良い方向に向かって歩んでいることに気づく。

著名な作家である張曼娟(チャン・マンジュエン)さんは、「生命とは永遠の堂々巡りに過ぎず、あなたを初めに戻すためにあるのです」と言った。私と姉は既に初めに戻って歩んでおり、歩みながら発心、立願し、日々、より大きな慈悲心を育くんでいる。他人への奉仕と貢献から仏法の真諦を体得することで、自分で立ち上がり、周りの人を感動させて、共に益々良い菩薩道を歩むことを願うようになる。


(慈済月刊六五〇期より)

關鍵字

善行に尽くす社長 病院用ベッドを担ぐ

元はバリバリの営業マンだったが、今はリサイクル福祉用具を配送する「お節介」ボランティアである。「お客様」はケア世帯で、「彼らの笑顔を見るために、一所懸命やらないといけない!」と言った。

型トラックをゆっくりと走らせながら、運転に集中する謝國榮(シャ・グォロン)さんは、若い時に営業をしていた時に、あちこちにいるお客さんを訪ねるために身につけた「道探しの技」を発揮し、GPSを使わなくても、街のあらゆる路地を自由自在に行き来できる。

「もしもし、福祉用具を申請したいのですか?あとで、オンライン申請書を送ります。少し待っていて下さい!」一台のスマホとトラック一台が彼の移動オフィスである。毎日、リサイクル福祉用具を回収したり、届けるだけで忙しい日々を送っている。午前中だけで何度も携帯が鳴り、一旦出かけると、帰宅はいつも夜になり、その翌日早朝には告別式や助念に出かけることもある。

六十五歳の謝さんは高齢者の仲間入りをしたばかりだが、平日は自分の仕事の合間に、ボランティア活動に情熱を注いでいる。年齢では「年寄り」にあたるが、しっかりした足取りと元気いっぱいな様子から、全く年齢を感じさせない。元会社社長が、今は全く違う「お客様」と向き合っている。

謝國榮さんはトラックから病院用電動ベッドと車椅子を下ろした。一日も早く貧困世帯の負担が軽くなればと願いながら。(撮影・蕭耀華)

暮らしの改善 小さな営業マンの願い

貧しい家庭に生まれた謝さんは、十人兄弟の中で育った。幼少期で一番印象に残っているのは、「お腹を空かし、冬に寒さを凌ぐ服がない」ことであった。退役後は、家の暮らしを改善しようと、セールスの仕事を始め、高価な事務機器を販売した。当時、受けた訓練のことを笑いながらこう話した。「店に来たお客さんにポケットのお金を使ってもらえるまでは帰らせないというもので、いわば売り場の『殺し屋』を養成するようなものでした」。

謝さんは事業に打ち込み、学びと成長を怠らず、自分の力で短期間に管理職の座に就いた。どのように売り込むかを覚えた後は、建設会社に職を変え、営業部長にまで上り詰め、一人で十数件の建設案件を任される能力を持つまでになった。

子供の頃の願いは「商売をして家庭環境を改善すること」で、充分な経験を積んだ後、彼は会社を辞めて起業した。水道、電気、木工、塗装などの工事をする人材を育て、お客様との商談から施工の監督まで励み、あらゆる事を自分でこなした。

「内装の仕事は思っている以上に難しいのです。例えば、クーラーの配管をどのように配置すれば美観も損なわないか?です。とても大事なことです」。細かいところまで見逃すことなく、良いものを作るために、時には損をすることがあっても構わず、品質にこだわり続けた。彼は冗談混じりに、「自分はこんな性格だから、あまり儲かりませんでした」と言った。

一介の営業マンから営業販売部のマネージャー、そして会社の社長になった彼は、商売を通じて多くの人と関わり、客の要望を上手く聞き出して、それを業績に繋げていった。しかし、貧しい家庭に育ったことから、常に人助けをすることことを忘れず、積極的に慈善活動に参加するようになった。

「九二一地震の時、初めて身近に『慈済』という慈善団体と触れ合う機会に出会いました。当時、多くの地域の人が、慈済ボランティアを深く信頼していたことに気づきました」。慈善団体と一緒に被害の大きかった中部の被災地に向かった。謝さんはボランティアが霧峰地区で被災者のために仮設住宅を建てているのを目にして、自分がやってきた建築の仕事を活かして被災者を支援することができればと思い、自分から慈済台北支部に連絡を取り、そこから慈済との縁が始まった。

「慈済に入ってから、最初に参加したのが医療ボランティアです。一回で平均して三〜四日、最も多い時で年に二十七回参加しました」。医療ボランティアを始めた時のことを振り返り、「オンライン予約」システムはすでに導入されて久しかったが、多くのお年寄りにとって操作はやはり難しく、「朝の四時、五時頃から、カウンターで予約するために、病院の外で待っているお年寄りたちがいました」。このような状況に遭遇した時、謝さんは根気よく一人ずつお年寄りの予約の手伝いをした。彼は仕事で培った忍耐と気配りを慈善活動に取り入れ、相手のニーズに合わせて、より適切で的確な人助けをした。

二〇二〇年、政府が慈済と協力して進めた多元的就職方案において、謝さんは木工部門の指導を任された。定期的に花蓮の加湾部落を訪れ、部落の若い人たちが木工を学ぶのを手伝った。例えば、椅子、ベンチ、棚など簡単な家具造りから始め、部落の人たちが手に職をつける手伝いをし、そこから彼らが安定した仕事を見つけられることを願った。彼は花蓮までの往復を苦に思わなかった。

謝國榮さんは、花蓮加湾部落の青年に木製家具の作り方を教えているが、手に職をつけられるよう願っている。(撮影・呉金圳)

善行プラットフォーム 行動すれば、感動がある

「ある時、支援を求めていた人から電話が入り、あまりに急いでいたので、バックして駐車する時、後ろを柱にぶつけたことがあります」。謝さんは気まずそうに笑いながら、「恥ずかしい体験」を話してくれた。その様子から、どんなことでも自分にできることはまっすぐにやり遂げる人だということが分かる。

中年になってからボランティアに参加するようになった彼だが、その積極さは若い時のセールスでの意気込みと変わらない。「福祉用具の回収と配送はもう十五年も続けています!」二〇〇六年、彼は、ある慈済ボランティアが古いトラックに老いた母親を乗せて、申請者の元に病院用ベッドなどの福祉用具を届けているのを見てとても感動し、心の中で「自分も病院用ベッドを運ぼう」と思った。

その年から、リサイクル福祉用具を必要としている家庭に届けることを自分の役目としてきた。過去の輝かしい実績と面子へのこだわりで、輸入車や有名ブランド腕時計などで自分の身を固めていた彼が、地域の訪問ケア、人医会の施療、福祉用具の搬送などの過程で、生と死や出会いと離別を目にしたことで、車を小型トラックに変えた。今ではペンキの剥がれた古いトラックは、空で福祉用具を取りに行くか、消毒して修理された福祉用具を満載して、何年も各地を走り回って来た。一番長い距離を移動したのは、台北から屏東に行った時だった。

自分の名前の中国語の発音が、一九七〇年代の有名なアニメ「マジンガーZ」の台湾版の主役「国隆(グオロン)」と似ていることから、あるボランティアが冗談混じりで、謝さんはまるでマジンガーZのようで、体力もボランティア精神も無敵だから、と言ったことがある。「一度やると決めたら、ちゃんとやりたい、というのが私の性格です」。

「慈済は、『善行するプラットフォーム』のようなもので、多くの人を助ける機会を与えてくれています」と謝さんは言う。このように実際に行動して、奉仕する機会があるからこそ、やればやるほど投入するようになったのだそうだ。彼は自嘲気味に、「自分はどちらかというと『お節介』ですから、自分の出来る範囲内で、より人助けができればと思っています」と言った。
  
今の彼は、建設現場に足を運んで工事の進み具合や品質のチェックをする以外に、時間を見つけて助念に参加したり、花蓮に行って木工クラスを教えたりしている。しかし、一番時間を費やしているのは、慈済のリサイクル福祉用具プラットフォームの仕事である。

二〇一七年を皮切りに、慈済のリサイクル福祉用具プラットフォームが各地で立ち上げられ、申請の受理、修理、配送は全てボランティアが担っているが、需要がますます増えるにつれ、ボランティアは申請者たちを待たせたくない気持ちで、申請書が届くと直ちに連絡を取って、車で回収や配送をするようにしている。たとえ、自分の仕事が忙しくても、謝さんは自分で福祉用具を申請者に届けることをモットーにしている。なぜなら、リサイクルした用具を再使用すれば、経済的に余裕のない人たちの負担を減らすことができると共に環境にも優しいことを知っているからだ。

「もっと大事なのは、プラットフォームを通して慈済の温もりを届けることです」。申請者が福祉用具を受け取った時、心から感謝する。その温かいやりとりを見ていると、その全ては、ボランティアがやり続ける強力な支えになっていることが分かる。

妻と家族に感謝 長い道のりでも前に進める

長年、リサイクル福祉用具の流通に携わって来たが、近年ようやく多くの人に認識されたり、注目されるようになった。謝さんは、もっと精を出さないといけない、と言った。

毎日早朝に出かけ、夜遅くに帰ってくるが、スケジュールは事業と志業の双方をこなすことができるように調整している。「妻はもちろん、私が外で忙しすぎることを望まず、家でもっと一緒にいて欲しいと言います」。自分がいつも外を掛け回り、妻一人に家庭を任せっきりにしていることと、妻と娘が自分のハードなスケジュールを心配してくれていることに対して、反省している。「ただ、後悔はしていません。理由は、自分が何をしているかはっきり分かっているからです。家族の支えに感謝しています」。彼は重たい病院用ベッドを担ぎ、再びトラックを走らせた。

商売上での騙し合いへの警戒心を捨て、以前の高度な営業スキルを活かして、人々のニーズを理解して支援するのは、本当のマジンガーZにはなれないかもしれないが、優しい「お節介」な気持ちから慈善に投入し、使命をやり遂げる精神は今でも、「無敵」である。


(慈済月刊六五二期より)

元はバリバリの営業マンだったが、今はリサイクル福祉用具を配送する「お節介」ボランティアである。「お客様」はケア世帯で、「彼らの笑顔を見るために、一所懸命やらないといけない!」と言った。

型トラックをゆっくりと走らせながら、運転に集中する謝國榮(シャ・グォロン)さんは、若い時に営業をしていた時に、あちこちにいるお客さんを訪ねるために身につけた「道探しの技」を発揮し、GPSを使わなくても、街のあらゆる路地を自由自在に行き来できる。

「もしもし、福祉用具を申請したいのですか?あとで、オンライン申請書を送ります。少し待っていて下さい!」一台のスマホとトラック一台が彼の移動オフィスである。毎日、リサイクル福祉用具を回収したり、届けるだけで忙しい日々を送っている。午前中だけで何度も携帯が鳴り、一旦出かけると、帰宅はいつも夜になり、その翌日早朝には告別式や助念に出かけることもある。

六十五歳の謝さんは高齢者の仲間入りをしたばかりだが、平日は自分の仕事の合間に、ボランティア活動に情熱を注いでいる。年齢では「年寄り」にあたるが、しっかりした足取りと元気いっぱいな様子から、全く年齢を感じさせない。元会社社長が、今は全く違う「お客様」と向き合っている。

謝國榮さんはトラックから病院用電動ベッドと車椅子を下ろした。一日も早く貧困世帯の負担が軽くなればと願いながら。(撮影・蕭耀華)

暮らしの改善 小さな営業マンの願い

貧しい家庭に生まれた謝さんは、十人兄弟の中で育った。幼少期で一番印象に残っているのは、「お腹を空かし、冬に寒さを凌ぐ服がない」ことであった。退役後は、家の暮らしを改善しようと、セールスの仕事を始め、高価な事務機器を販売した。当時、受けた訓練のことを笑いながらこう話した。「店に来たお客さんにポケットのお金を使ってもらえるまでは帰らせないというもので、いわば売り場の『殺し屋』を養成するようなものでした」。

謝さんは事業に打ち込み、学びと成長を怠らず、自分の力で短期間に管理職の座に就いた。どのように売り込むかを覚えた後は、建設会社に職を変え、営業部長にまで上り詰め、一人で十数件の建設案件を任される能力を持つまでになった。

子供の頃の願いは「商売をして家庭環境を改善すること」で、充分な経験を積んだ後、彼は会社を辞めて起業した。水道、電気、木工、塗装などの工事をする人材を育て、お客様との商談から施工の監督まで励み、あらゆる事を自分でこなした。

「内装の仕事は思っている以上に難しいのです。例えば、クーラーの配管をどのように配置すれば美観も損なわないか?です。とても大事なことです」。細かいところまで見逃すことなく、良いものを作るために、時には損をすることがあっても構わず、品質にこだわり続けた。彼は冗談混じりに、「自分はこんな性格だから、あまり儲かりませんでした」と言った。

一介の営業マンから営業販売部のマネージャー、そして会社の社長になった彼は、商売を通じて多くの人と関わり、客の要望を上手く聞き出して、それを業績に繋げていった。しかし、貧しい家庭に育ったことから、常に人助けをすることことを忘れず、積極的に慈善活動に参加するようになった。

「九二一地震の時、初めて身近に『慈済』という慈善団体と触れ合う機会に出会いました。当時、多くの地域の人が、慈済ボランティアを深く信頼していたことに気づきました」。慈善団体と一緒に被害の大きかった中部の被災地に向かった。謝さんはボランティアが霧峰地区で被災者のために仮設住宅を建てているのを目にして、自分がやってきた建築の仕事を活かして被災者を支援することができればと思い、自分から慈済台北支部に連絡を取り、そこから慈済との縁が始まった。

「慈済に入ってから、最初に参加したのが医療ボランティアです。一回で平均して三〜四日、最も多い時で年に二十七回参加しました」。医療ボランティアを始めた時のことを振り返り、「オンライン予約」システムはすでに導入されて久しかったが、多くのお年寄りにとって操作はやはり難しく、「朝の四時、五時頃から、カウンターで予約するために、病院の外で待っているお年寄りたちがいました」。このような状況に遭遇した時、謝さんは根気よく一人ずつお年寄りの予約の手伝いをした。彼は仕事で培った忍耐と気配りを慈善活動に取り入れ、相手のニーズに合わせて、より適切で的確な人助けをした。

二〇二〇年、政府が慈済と協力して進めた多元的就職方案において、謝さんは木工部門の指導を任された。定期的に花蓮の加湾部落を訪れ、部落の若い人たちが木工を学ぶのを手伝った。例えば、椅子、ベンチ、棚など簡単な家具造りから始め、部落の人たちが手に職をつける手伝いをし、そこから彼らが安定した仕事を見つけられることを願った。彼は花蓮までの往復を苦に思わなかった。

謝國榮さんは、花蓮加湾部落の青年に木製家具の作り方を教えているが、手に職をつけられるよう願っている。(撮影・呉金圳)

善行プラットフォーム 行動すれば、感動がある

「ある時、支援を求めていた人から電話が入り、あまりに急いでいたので、バックして駐車する時、後ろを柱にぶつけたことがあります」。謝さんは気まずそうに笑いながら、「恥ずかしい体験」を話してくれた。その様子から、どんなことでも自分にできることはまっすぐにやり遂げる人だということが分かる。

中年になってからボランティアに参加するようになった彼だが、その積極さは若い時のセールスでの意気込みと変わらない。「福祉用具の回収と配送はもう十五年も続けています!」二〇〇六年、彼は、ある慈済ボランティアが古いトラックに老いた母親を乗せて、申請者の元に病院用ベッドなどの福祉用具を届けているのを見てとても感動し、心の中で「自分も病院用ベッドを運ぼう」と思った。

その年から、リサイクル福祉用具を必要としている家庭に届けることを自分の役目としてきた。過去の輝かしい実績と面子へのこだわりで、輸入車や有名ブランド腕時計などで自分の身を固めていた彼が、地域の訪問ケア、人医会の施療、福祉用具の搬送などの過程で、生と死や出会いと離別を目にしたことで、車を小型トラックに変えた。今ではペンキの剥がれた古いトラックは、空で福祉用具を取りに行くか、消毒して修理された福祉用具を満載して、何年も各地を走り回って来た。一番長い距離を移動したのは、台北から屏東に行った時だった。

自分の名前の中国語の発音が、一九七〇年代の有名なアニメ「マジンガーZ」の台湾版の主役「国隆(グオロン)」と似ていることから、あるボランティアが冗談混じりで、謝さんはまるでマジンガーZのようで、体力もボランティア精神も無敵だから、と言ったことがある。「一度やると決めたら、ちゃんとやりたい、というのが私の性格です」。

「慈済は、『善行するプラットフォーム』のようなもので、多くの人を助ける機会を与えてくれています」と謝さんは言う。このように実際に行動して、奉仕する機会があるからこそ、やればやるほど投入するようになったのだそうだ。彼は自嘲気味に、「自分はどちらかというと『お節介』ですから、自分の出来る範囲内で、より人助けができればと思っています」と言った。
  
今の彼は、建設現場に足を運んで工事の進み具合や品質のチェックをする以外に、時間を見つけて助念に参加したり、花蓮に行って木工クラスを教えたりしている。しかし、一番時間を費やしているのは、慈済のリサイクル福祉用具プラットフォームの仕事である。

二〇一七年を皮切りに、慈済のリサイクル福祉用具プラットフォームが各地で立ち上げられ、申請の受理、修理、配送は全てボランティアが担っているが、需要がますます増えるにつれ、ボランティアは申請者たちを待たせたくない気持ちで、申請書が届くと直ちに連絡を取って、車で回収や配送をするようにしている。たとえ、自分の仕事が忙しくても、謝さんは自分で福祉用具を申請者に届けることをモットーにしている。なぜなら、リサイクルした用具を再使用すれば、経済的に余裕のない人たちの負担を減らすことができると共に環境にも優しいことを知っているからだ。

「もっと大事なのは、プラットフォームを通して慈済の温もりを届けることです」。申請者が福祉用具を受け取った時、心から感謝する。その温かいやりとりを見ていると、その全ては、ボランティアがやり続ける強力な支えになっていることが分かる。

妻と家族に感謝 長い道のりでも前に進める

長年、リサイクル福祉用具の流通に携わって来たが、近年ようやく多くの人に認識されたり、注目されるようになった。謝さんは、もっと精を出さないといけない、と言った。

毎日早朝に出かけ、夜遅くに帰ってくるが、スケジュールは事業と志業の双方をこなすことができるように調整している。「妻はもちろん、私が外で忙しすぎることを望まず、家でもっと一緒にいて欲しいと言います」。自分がいつも外を掛け回り、妻一人に家庭を任せっきりにしていることと、妻と娘が自分のハードなスケジュールを心配してくれていることに対して、反省している。「ただ、後悔はしていません。理由は、自分が何をしているかはっきり分かっているからです。家族の支えに感謝しています」。彼は重たい病院用ベッドを担ぎ、再びトラックを走らせた。

商売上での騙し合いへの警戒心を捨て、以前の高度な営業スキルを活かして、人々のニーズを理解して支援するのは、本当のマジンガーZにはなれないかもしれないが、優しい「お節介」な気持ちから慈善に投入し、使命をやり遂げる精神は今でも、「無敵」である。


(慈済月刊六五二期より)

關鍵字

あなたが居てくれて良かった

この道にあなたたちが居てくれて感謝しています。 これによって、この世にこんなにも多くの善行が為され、また皆さんの生命にも価値をもたらしているのです。

福の中の福人、善の中の善人

九月二十四日、フイリピンの慈済人がオンラインでグレートマニラ地区とボホール島、ザンボアンガ市、オルモック市で行った貧困世帯に対する慈善配付活動について報告しました。ボランティアは「ジプニー」運転手の失業問題を報告しましたが、上人は、先日の新聞で読んだ記事を思い出しました。それは、タイ・バンコクのタクシー運転手たちがコロナ禍で失業し、生計を立てるためにあらゆる方法を考えた結果、タクシーの屋根の上に野菜を植える、というものでした。

「世界にはお腹いっぱいに食事することができない人がとても多いため、私は毎日、食事する時には必ず心から感謝します。今、オンラインで参加している人たちは皆、福の中の『福人』です。私たちが他人を支援できるということは、支援を受ける人よりも幸せだからです。ミャンマーの農民のように清貧な生活をしていても、彼らは毎日、一握りの米を米貯金しています。皆が貯金した米を持ち寄れば、数多くのより貧しい人を助けることができるのです」。

上人は、「人助けする」善意の念さえ起こせば、助けを必要としている人を支援する行動に出ることができる、と言っています。つまり、人々がそのような心を持ち、その力を寄せ集めれば、この世で飢餓に苦しんでいる人を助けることができるのです。「弟子たちの人助けをする過程や愛の心を募る感動的な話を聞いて、師父としてとても嬉しく思いました。というのも、師父が日頃から言っていることを皆が心に聞き入れて実践している上に、大衆に対して実践した後の感想を分かち合っているからです。また、師弟が同じ心と志、そして共通した慧命を持っていることをつくづく感じました。人それぞれ異なった人生環境があっても、慈済人には共通の心の境地と願力があり、その精神と願力は『愛』から来ているのです」。

「この道にあなたたち皆が居ることに感謝しています。こんなに多くの人が心を一つにしているからこそ、慈済がこれほど多く世を利することができ、また、私たち自身の生命の価値を成就させているのです」。慈済が人間(じんかん)で奉仕して来た力は少しずつ集まったものであり、水滴が河となるように、衆生を潤すようになったものです。今、世界には飢餓に直面している人は非常に多く、慈済人の力だけでは焼け石に水で、その力は弱すぎます。従って、途切れることなく人間(じんかん)菩薩を募って、一人ひとりが善行するよう誘わなければなりません。毎日、少しでも節約できれば、大勢の力と合流して人助けができ、少しでも多く善意を施せば、それだけ多く人助けができるのです。

フィリピンの多くのトラック運転手はコロナ禍で生活に影響を受け、慈済フィリピン支部はケソン市で400人余りの運転手に米と物資を配付した。(攝影・ ジャマカ・ディゴ)

上人は、蔡青山(ツァイ・チンシャン)師兄が頻繁にボホール島で住民に関心を寄せ、ボランティアを導いていることに感謝しました。もし、慈済が一方的に配付ばかりしていたとしたら、その力には限りがあります。それよりも、現地の人が互いに助け合うよう励ませば、貧しい人も貧しい人を助けることができ、そうすれば、人心を落ち着かせることができます。また、貧しい人々に野菜や瓜、果物の栽培方法を教えるのです。勤勉で真面目に働く気さえあれば、生活は安定します。しかし、高齢者や病人、障害者に対しては、愛でケアしなければなりません。従って、現地の企業家と住民を励まして愛の力を発揮させ、多くの奉仕を求めるのではなく、皆に発心を呼びかけて善に向かうよう導くのです。善があれば福が訪れ、災害は少なくなります。

「人間(じんかん)にはこんなにも苦難が多く、その苦難を翻すのはとても重い負担です。しかし、やはり自信を持って、絶えず大衆が発心立願し、共にその重責を担うよう導かなければなりません。福を造る人が多ければ多いほど、福の力は大きくなり、災害を減らすことができるのです。さもなければ、人類の欲は益々大きく膨らみ、業力もどんどん重くなって、人口の増加と共に、想像を絶するような結果をもたらします」。

「ですから今、人々を菜食に導いて、地球の負担を減らし、これ以上牧畜業者が飼育している家畜を増やしてはなりません。また、一人ひとりの愛と善意を啓発しなければならず、生活に支障がなければ、足ることを知って感謝すると同時に布施すべきです」。上人によれば、生活が裕福で愛に富んでいる人は「福の中の福人」ですが、生活が裕福でなくても、足ることを知っていて、いつも楽しく、また、喜んで布施する人が「善の中の善人」なのです。慈済人は人々を「福の中の福人」と「善の中の善人」に導かなければいけません。

「皆が一層尽力し、私自身も頑張らなければなりません。生命は一分一秒と消えていきますが、それを輝かせることが大事です。蝋燭のように、その価値を発揮させるためには、火を付ける必要があります。暗いところを照らす時、一本から数多くの蝋燭に灯すことができ、益々広い範囲を明るく照らすことができるのです」。上人と大衆が共に人々の命の光を啓発すれば、社会に善と福が訪れ、善と福は気流となって、保護膜のように、この世の平安を守ることができるのです。


(慈済月刊六六〇期より)

この道にあなたたちが居てくれて感謝しています。 これによって、この世にこんなにも多くの善行が為され、また皆さんの生命にも価値をもたらしているのです。

福の中の福人、善の中の善人

九月二十四日、フイリピンの慈済人がオンラインでグレートマニラ地区とボホール島、ザンボアンガ市、オルモック市で行った貧困世帯に対する慈善配付活動について報告しました。ボランティアは「ジプニー」運転手の失業問題を報告しましたが、上人は、先日の新聞で読んだ記事を思い出しました。それは、タイ・バンコクのタクシー運転手たちがコロナ禍で失業し、生計を立てるためにあらゆる方法を考えた結果、タクシーの屋根の上に野菜を植える、というものでした。

「世界にはお腹いっぱいに食事することができない人がとても多いため、私は毎日、食事する時には必ず心から感謝します。今、オンラインで参加している人たちは皆、福の中の『福人』です。私たちが他人を支援できるということは、支援を受ける人よりも幸せだからです。ミャンマーの農民のように清貧な生活をしていても、彼らは毎日、一握りの米を米貯金しています。皆が貯金した米を持ち寄れば、数多くのより貧しい人を助けることができるのです」。

上人は、「人助けする」善意の念さえ起こせば、助けを必要としている人を支援する行動に出ることができる、と言っています。つまり、人々がそのような心を持ち、その力を寄せ集めれば、この世で飢餓に苦しんでいる人を助けることができるのです。「弟子たちの人助けをする過程や愛の心を募る感動的な話を聞いて、師父としてとても嬉しく思いました。というのも、師父が日頃から言っていることを皆が心に聞き入れて実践している上に、大衆に対して実践した後の感想を分かち合っているからです。また、師弟が同じ心と志、そして共通した慧命を持っていることをつくづく感じました。人それぞれ異なった人生環境があっても、慈済人には共通の心の境地と願力があり、その精神と願力は『愛』から来ているのです」。

「この道にあなたたち皆が居ることに感謝しています。こんなに多くの人が心を一つにしているからこそ、慈済がこれほど多く世を利することができ、また、私たち自身の生命の価値を成就させているのです」。慈済が人間(じんかん)で奉仕して来た力は少しずつ集まったものであり、水滴が河となるように、衆生を潤すようになったものです。今、世界には飢餓に直面している人は非常に多く、慈済人の力だけでは焼け石に水で、その力は弱すぎます。従って、途切れることなく人間(じんかん)菩薩を募って、一人ひとりが善行するよう誘わなければなりません。毎日、少しでも節約できれば、大勢の力と合流して人助けができ、少しでも多く善意を施せば、それだけ多く人助けができるのです。

フィリピンの多くのトラック運転手はコロナ禍で生活に影響を受け、慈済フィリピン支部はケソン市で400人余りの運転手に米と物資を配付した。(攝影・ ジャマカ・ディゴ)

上人は、蔡青山(ツァイ・チンシャン)師兄が頻繁にボホール島で住民に関心を寄せ、ボランティアを導いていることに感謝しました。もし、慈済が一方的に配付ばかりしていたとしたら、その力には限りがあります。それよりも、現地の人が互いに助け合うよう励ませば、貧しい人も貧しい人を助けることができ、そうすれば、人心を落ち着かせることができます。また、貧しい人々に野菜や瓜、果物の栽培方法を教えるのです。勤勉で真面目に働く気さえあれば、生活は安定します。しかし、高齢者や病人、障害者に対しては、愛でケアしなければなりません。従って、現地の企業家と住民を励まして愛の力を発揮させ、多くの奉仕を求めるのではなく、皆に発心を呼びかけて善に向かうよう導くのです。善があれば福が訪れ、災害は少なくなります。

「人間(じんかん)にはこんなにも苦難が多く、その苦難を翻すのはとても重い負担です。しかし、やはり自信を持って、絶えず大衆が発心立願し、共にその重責を担うよう導かなければなりません。福を造る人が多ければ多いほど、福の力は大きくなり、災害を減らすことができるのです。さもなければ、人類の欲は益々大きく膨らみ、業力もどんどん重くなって、人口の増加と共に、想像を絶するような結果をもたらします」。

「ですから今、人々を菜食に導いて、地球の負担を減らし、これ以上牧畜業者が飼育している家畜を増やしてはなりません。また、一人ひとりの愛と善意を啓発しなければならず、生活に支障がなければ、足ることを知って感謝すると同時に布施すべきです」。上人によれば、生活が裕福で愛に富んでいる人は「福の中の福人」ですが、生活が裕福でなくても、足ることを知っていて、いつも楽しく、また、喜んで布施する人が「善の中の善人」なのです。慈済人は人々を「福の中の福人」と「善の中の善人」に導かなければいけません。

「皆が一層尽力し、私自身も頑張らなければなりません。生命は一分一秒と消えていきますが、それを輝かせることが大事です。蝋燭のように、その価値を発揮させるためには、火を付ける必要があります。暗いところを照らす時、一本から数多くの蝋燭に灯すことができ、益々広い範囲を明るく照らすことができるのです」。上人と大衆が共に人々の命の光を啓発すれば、社会に善と福が訪れ、善と福は気流となって、保護膜のように、この世の平安を守ることができるのです。


(慈済月刊六六〇期より)

關鍵字

十二月の出来事

12・03

慈済基金会はアメリカのNPOカーモダヤから感謝賞を受賞し、アメリカ総支部の職員が代表で受け取った。カーモダヤは長年、インドのNPO・UPAYを支援しているが、慈済はコロナ禍で緊急支援の要請を受けて、百台の酸素濃縮機を寄贈した。また、その団体と協力して3917世帯に貧困支援の配付を行うと共に、5百人分のワクチン接種を支援した。

12・04

大愛テレビ局が製作した番組「熱血青年」と「青春の愛読書」が、台湾メディア観察教育基金会主催の「第21回国内制作子供番組優秀作品」で5スターの賞、また、「子供キャスターが見た世界WOW」と「伯源兄ちゃんのシークレットハウス」、「ドクターストレンジの奇想天外」が、それぞれ4・5スターと4スターを獲得した。

12・06

慈済科技大学に設置された国家試験花蓮地区デジタル化試験会場が、考試院考選部の認証を受け、即日、除幕式が行われた。当会場には380席が設けられており、医療スタッフや心理療法士などの国家試験に使用される。

12・08

慈済基金会は2021年「Buying Power社会イノベーション・奉仕調達奨励メカニズム」の調達部門の一等賞と社会共栄部門の特別賞を獲得し、顏博文執行長と宗教処職員である曹芹甄さんが代表で賞を受け取った。

12・09

9日から12日まで慈済大学模擬医学センターで模擬手術講座が開かれた。本日、18名の医学生と56名の慈済病院の医師が参加して、8名の無言の良師のもとに学習が行われた。そのうちの2名の学生はポーランドの国立ポズナン医科大学とハンガリーのデブレツェン大学から来ている。13日に送霊儀礼と感謝追悼式及び入龕式典が行われる。

12・11

◎慈済基金会の「メキシコ豪雨災害支援チーム」が6日に現地に到着し、現地ボランティアと共に9月の水害被災者に対する配付活動の準備を行い、11日、18日、19日に大きな被害を被ったモレロス州トラヤカパン市とイダルゴ州トゥーラ市、イクスミキルパン市で、約1300世帯に物資交換カードとエコ毛布などの生活用品を提供した。
◎慈済香港大圍連絡所が2019年より建物の修繕を行なっていた「慈済環境保全願行館」が落成し、11月20日に参観が始まった。また、香港ジョッキークラブ慈善信託基金の寄付によるジョッキークラブ「心から始める」環境保全共同プロジェクトが始まり、展示や講座、工房などの活動が行われる。本日、その開幕式典が行われた。

12・12

證厳法師は香港マカオ台湾慈善基金会の第16回「愛心賞」に輝き、慈済基金会の顏博文執行長が代表で授与式に出席し、賞を受け取った。

12・13

花蓮慈済病院は衛生福利部国家中医薬研究所と共同で、中医薬及び新型コロナ肺炎国際合作防疫フォーラムを主催し、50数人の医療従事者がオンラインで参加して、台湾とフィリピンにおけるコロナ禍での中医薬の経験を共有した。

12・14

大愛テレビ局のテーマ報道『消えたゴミ』が第35回呉舜文ニュース賞の「国際ニュース報道賞」を獲得した。また、慈済基金会慈善ニュースネットのカメラマンである蔡哲文氏が、タロコ号列車脱線事故での救出活動を記録した、『救出の第一線・救災と記録を行った英雄の視線』と題した作品で「ニュース撮影賞」を獲得した。

12・17

12月中旬、アメリカは稀に見る冬の大型竜巻が発生し、中西部と南部の州に大きな被害をもたらした。アメリカ中西部の慈済ボランティアは支援活動を展開し、17日、18日、20日、22日に順次ミズーリ州ディファイアンスとヘイティ、ケンタッキー州アミシュコミュニティー、メイフィールド市で被災者にプリペイドカードと毛布、マフラーなどを配付した。

12・18

◎マレーシアは17日から続いた豪雨で、8つの州に水害が発生し、特に首都クアラルンプールと隣接するセランゴール州に甚大な被害がもたらされた。慈済セランゴール支部とクラン支部は18日に支援活動を展開し、被災地に赴いて避難所で炊き出しを行うと共に、毛布と衣類を提供した他、被災者に協力して環境の清掃を行った。
◎16日、猛烈な台風22号がフィリピン中部と南部、ボホール島、セブ島などを襲った。ボホール島の慈済ボランティアは18日から災害調査を開始し、マニラ、タクロバンなどの慈済ボランティアが20日と21日に順次被災地に到着し、現地ボランティアと合流して、支援活動を始めた。

12・20

慈済基金会の何日生副執行長の著作『善の経済・経済の利他思想と実践』が舍衛国(古代インドの都市名)基金会主催の第1回「舍衛国人文賞」(Shravasti Humanity Award)に輝いた。

12・21

慈済大学付属高校は「ハンガー体験12・愛を世界に」と題した活動を主催した。飢餓体験を通して、教師や学生に、この国際的なテーマと物を愛して惜しむ精神を学ぶことに目を向けてもらうのが目的である。活動は慈済大学付属高校の教師と学生以外に、慈誠懿德会及び保護者会も参加し、大愛感恩科技公司、タイ・チェンマイ慈済学校、花蓮光復商工学校などとオンラインで結んで行われ、3423人が国際災害支援に充てられる募金活動に呼応した。

12・03

慈済基金会はアメリカのNPOカーモダヤから感謝賞を受賞し、アメリカ総支部の職員が代表で受け取った。カーモダヤは長年、インドのNPO・UPAYを支援しているが、慈済はコロナ禍で緊急支援の要請を受けて、百台の酸素濃縮機を寄贈した。また、その団体と協力して3917世帯に貧困支援の配付を行うと共に、5百人分のワクチン接種を支援した。

12・04

大愛テレビ局が製作した番組「熱血青年」と「青春の愛読書」が、台湾メディア観察教育基金会主催の「第21回国内制作子供番組優秀作品」で5スターの賞、また、「子供キャスターが見た世界WOW」と「伯源兄ちゃんのシークレットハウス」、「ドクターストレンジの奇想天外」が、それぞれ4・5スターと4スターを獲得した。

12・06

慈済科技大学に設置された国家試験花蓮地区デジタル化試験会場が、考試院考選部の認証を受け、即日、除幕式が行われた。当会場には380席が設けられており、医療スタッフや心理療法士などの国家試験に使用される。

12・08

慈済基金会は2021年「Buying Power社会イノベーション・奉仕調達奨励メカニズム」の調達部門の一等賞と社会共栄部門の特別賞を獲得し、顏博文執行長と宗教処職員である曹芹甄さんが代表で賞を受け取った。

12・09

9日から12日まで慈済大学模擬医学センターで模擬手術講座が開かれた。本日、18名の医学生と56名の慈済病院の医師が参加して、8名の無言の良師のもとに学習が行われた。そのうちの2名の学生はポーランドの国立ポズナン医科大学とハンガリーのデブレツェン大学から来ている。13日に送霊儀礼と感謝追悼式及び入龕式典が行われる。

12・11

◎慈済基金会の「メキシコ豪雨災害支援チーム」が6日に現地に到着し、現地ボランティアと共に9月の水害被災者に対する配付活動の準備を行い、11日、18日、19日に大きな被害を被ったモレロス州トラヤカパン市とイダルゴ州トゥーラ市、イクスミキルパン市で、約1300世帯に物資交換カードとエコ毛布などの生活用品を提供した。
◎慈済香港大圍連絡所が2019年より建物の修繕を行なっていた「慈済環境保全願行館」が落成し、11月20日に参観が始まった。また、香港ジョッキークラブ慈善信託基金の寄付によるジョッキークラブ「心から始める」環境保全共同プロジェクトが始まり、展示や講座、工房などの活動が行われる。本日、その開幕式典が行われた。

12・12

證厳法師は香港マカオ台湾慈善基金会の第16回「愛心賞」に輝き、慈済基金会の顏博文執行長が代表で授与式に出席し、賞を受け取った。

12・13

花蓮慈済病院は衛生福利部国家中医薬研究所と共同で、中医薬及び新型コロナ肺炎国際合作防疫フォーラムを主催し、50数人の医療従事者がオンラインで参加して、台湾とフィリピンにおけるコロナ禍での中医薬の経験を共有した。

12・14

大愛テレビ局のテーマ報道『消えたゴミ』が第35回呉舜文ニュース賞の「国際ニュース報道賞」を獲得した。また、慈済基金会慈善ニュースネットのカメラマンである蔡哲文氏が、タロコ号列車脱線事故での救出活動を記録した、『救出の第一線・救災と記録を行った英雄の視線』と題した作品で「ニュース撮影賞」を獲得した。

12・17

12月中旬、アメリカは稀に見る冬の大型竜巻が発生し、中西部と南部の州に大きな被害をもたらした。アメリカ中西部の慈済ボランティアは支援活動を展開し、17日、18日、20日、22日に順次ミズーリ州ディファイアンスとヘイティ、ケンタッキー州アミシュコミュニティー、メイフィールド市で被災者にプリペイドカードと毛布、マフラーなどを配付した。

12・18

◎マレーシアは17日から続いた豪雨で、8つの州に水害が発生し、特に首都クアラルンプールと隣接するセランゴール州に甚大な被害がもたらされた。慈済セランゴール支部とクラン支部は18日に支援活動を展開し、被災地に赴いて避難所で炊き出しを行うと共に、毛布と衣類を提供した他、被災者に協力して環境の清掃を行った。
◎16日、猛烈な台風22号がフィリピン中部と南部、ボホール島、セブ島などを襲った。ボホール島の慈済ボランティアは18日から災害調査を開始し、マニラ、タクロバンなどの慈済ボランティアが20日と21日に順次被災地に到着し、現地ボランティアと合流して、支援活動を始めた。

12・20

慈済基金会の何日生副執行長の著作『善の経済・経済の利他思想と実践』が舍衛国(古代インドの都市名)基金会主催の第1回「舍衛国人文賞」(Shravasti Humanity Award)に輝いた。

12・21

慈済大学付属高校は「ハンガー体験12・愛を世界に」と題した活動を主催した。飢餓体験を通して、教師や学生に、この国際的なテーマと物を愛して惜しむ精神を学ぶことに目を向けてもらうのが目的である。活動は慈済大学付属高校の教師と学生以外に、慈誠懿德会及び保護者会も参加し、大愛感恩科技公司、タイ・チェンマイ慈済学校、花蓮光復商工学校などとオンラインで結んで行われ、3423人が国際災害支援に充てられる募金活動に呼応した。

關鍵字

ドイツ西部の水害 キッチンカーで復旧を応援

ヨーロッパ各国の作業員がドイツの水害被災地に入り、先の長い復旧工事を支援した。慈済ボランティアはキッチンカーで彼らに食事を提供し、中華式の麺やご飯のメニューで彼らのお腹を満たし、いつもと違うコックが来て料理を美味しく調理したため、マイスターも満足して一括注文した。また住民もガスや水道の復旧を待つ間、温かい食事を摂ることができた。みんな毎日楽しみにしていたのだ—「今日のメニューは何だろう?」

八時にオーストリアの国境を越えてドイツへ入った私たちは陳樹微(チェン・シューウェイ)師姐(女性ボランティア)と合流し、私が九人乗りの小型バスを運転して、ドイツ西部の主要都市、ケルンに向かって出発した。一時間余り後にミュンヘン市に入る前から渋滞し始め、ノロノロ運転になり、午後になって、ドナウ河畔のウルムで昼食をとった。そのあと三百キロ余り走って夜になると、ようやくケルンに着いた。この日は一日で十二時間、約千キロ運転したので、少し自己満足感に浸っていた。まだまだ自分は衰えていない!

翌日の十時半、陳樹微師姐がヴァイラースヴィスト市の社会福祉人員と連絡をとり、一軒のレストランで落ち合うことになった。その女性は、ドイツ各都市とオーストリアから来た私たちに、半月前に起きた水害について話してくれた。

七月十四日から雨が降り始め、次の日の朝方になって突然大洪水になった。その水の勢いは、まるでダムの放流のようで、地勢が低い場所にある家々は瞬く間に浸水し、住民は心の準備をする間もなく、洪水は地域全体にわたって農地、道路、樹木、堤防、車…を押し流した。

街の中心を流れる小さな川が洪水の猛威を振るった。道路のアスファルトを削り取り、家々の壁をもぎとった。家の外観は変わっていなくても、浸水した基礎部分のコンクリートは脆くなり、居住には適さなくなった。(撮影・劉晃汶)

その後、私たちは幾日も被害が甚大な地域を視察し、バート・ノイェンアールやアールヴァイラ、バート・ミュンスターアインフェル等の町を回った。そこで目にした災害後の惨状は、言葉で形容できないほどだった。水の勢いは、河川の両側にある街道を覆い尽くし、家が基礎部分から流されてしまったため、大きな穴が開き、電線、ガス管、水道管の全てが露出していた。商店街は無残にも歩道が泥まみれになり、店は内外共に破壊されてしまった。また、容赦ない洪水は、小さな橋すら見逃さずに破壊した。跡形もなく破壊されてしまった何軒かの家を目の当たりにして、住民は無事に逃げたのだろうかと不安になった。

多くの家は歴史的建築物一覧に載っていて、二、三百年の歴史があるが、建材は現代のように頑丈ではなく、セメントというよりも、土と藁をこねたものでできた壁などは、洪水で溶けてしまった。石膏ボードの壁も洪水の侵食には耐えられず、天井も一緒に落ちてしまっていた。

最も心を痛めたのは、ジンツィッヒにある二十八名のお年寄りと身障者をケアしていた健康センターが被災したことである。洪水の勢いが増した夜、救助隊員は先ず十六名の住民を安全な場所に避難させたが、再びそこに戻った時、すでに目の前で激しく水が流れ、水位は二階の高さまで上り、残りの十二名の住民は逃げ後れてしまった。

あの数日の視察から、すでに半月が経っていたが、道中、空に鳥が飛んでいるのを見たことはなく、草地にも野生の小動物を見かけなかった。その様子から、当時の雨足がどれほど恐ろしいものだったかが想像できよう。

慈済のキッチンカーはバートミュンスターアイフェル市の市政府広場に停車し、ボランティアが車の外に「今日のメニュー」を書いた小さな黒板を置いて、毎日100から500食を提供した。(写真の提供・林美鳳)

さようならを言うのが名残惜しい

被害が大きかった地域では水道、電気、ガス管のどれもが破損していて、住民は三食を作ることもできなかったため、支援者団体がキッチンカーを出して、ドイツソーセージやフライドポテトを提供していた。被災者と作業員はすでに二週間も同じ食べ物を口にし続けていたので、八月四日、私たちがバートミュンスターアイフェル市を訪れた時、ザビーネ市長が慈済にそれまでと異なる昼食を提供してもらえないかと提案した。

八月六日午前中、災害視察を終えて帰る途中にフランクフルト市を通った時、樹微師姐がケルン市にある特殊用途の自動車工場と連絡が取れたというので、私たちは直ちにケルン市に引き返し、その工場へ移動式キッチンカーを見に行き、その場でリースすることを決めた。

そのキッチンカーには、コンロが四つ、シンク、冷蔵庫、オーブン、換気扇、作業台などが全て揃っていた。八月十二日、ボランティアが再びバートミュンスターアイフェル市に向かった。キッチンカーの性能を十分に理解した後、八月十三日、初めてキッチンカーで食事を提供することになり、ドイツに住んでいる三人のシェフ級のボランティア、楊文村(ヤン・ウェンツン)師兄(シーシオン)、林森喜(リン・センシー)師兄、謬連煌(ミウ・リエンホワン)師兄が調理を担当して、二百食の菜食焼きそばを提供した。

ドイツ政府は規定を緩めたので屋外でマスクを着用する必要がなくなった。各国から来た作業員は、被災地で温かい食事をとれることに感謝し、慈済が広めている菜食は地球にとって有益だと賛同した。(写真提供・林美鳳)

ドイツ各都市やオーストリア、オランダからボランティアが交代で手伝いに来てくれたので、住民もバリエーションのある料理に新鮮さを覚えたそうだ。八月二十一日、オーストリア・ウィーンのボランティアチームは劉建国(リウ・ジエングオ)師兄を先頭に、各種調理器具と調味料、米とパスタを携えて出発した。食事を提供する前、キッチンカーの前にある自転車置き場と市役所前の長テーブルや椅子を臨時に置く場所を綺麗に掃除したので、清潔感あふれる環境になったと良い評判をもらった。

住民は慈済の菜食を絶賛し、鍋を持参して昼食用に持ち帰る人もいた。食事を提供していた時間はまるで小さな食事会のようで、とても賑わった。この食事提供サービスは九月十一日に最終日を迎えた。私たちがキッチンカーでそこを離れる時、多くの人は名残惜しく思い、慈済の美味しい昼食やあの和気藹々とした雰囲気を忘れることができなかったそうだ。最後にコンロの火を消したのが私でなくて良かった。なぜなら、彼らの悲しむ表情を見るのは辛かったからだ。災害後の復旧作業は、二年もかかると予想されている。さようなら、友よ!また会う機会まで。

7月中旬

• 豪雨が西欧諸国を襲い、ドイツ、ベルギー、オランダは極端な降雨量を記録した。24時間に現地の平年の1カ月分を超える雨が降った。

•ドイツ西部ノルトライン・ヴェストファーレン州とラインラント・プフェルツ州は河川が氾濫して町に浸水し、土石流で建物が倒壊し、死者170人余り、避難した人が数万人に上った。ドイツ気象庁は「世紀の大水害」と発表した。

8月3日〜5日

•ドイツ・ハンブルク、ミュンヘン、フランクフルトとオーストリア慈済人は西部の大都市ケルンで合流し、多くの被災地を視察して、ノルトライン・ヴェストファーレン州のバートミュンスターアイフェル市を重点ケア区域に定めた。

8月13日〜9月11日

•ケルン南方のバートミュンスターアイフェル市は、古城のある風光明媚な歴史ある街だ。人口は約1万7千人で、住民の生活は観光業と小規模の家内工業が主だが、洪水は家屋と経済活動を破壊し、推計で2千5百世帯が被災した。市長によると、今回の水害は第二次世界大戦以来最も深刻な被害をもたらしたそうだ。

•軍隊、エンジニアチーム、民間団体が被災地に駐屯して復旧に協力した。簡単な食事だがボランティアが炊き出しをして人々に寄り添い、励ました。

•ボランティアはドイツのハンブルク、ミュンヘン、フランクフルト、ケルン、そしてオーストリア、オランダから、合計延べ3030人を動員した。

•提供された食事:10021食。

年を重ねても、幸せを感じる

文/游月英(オーストリア慈済ボランティア)

年半以上になるコロナ禍で、ヨーロッパ慈済人の活動は止まってしまい、今年の七月上旬に、ようやく再度セルビア難民キャンプへケアに行くことができた。嬉しかったのは、夫の劉晃汶(リウ・ホワンウエン)師兄も同行し、ヨーロッパ慈済所属の車の運転を担当してくれたことである。七月中旬、ドイツは百年に一度と言われる水害に見舞われ、私たちは再び被害視察を行った。

八月初め、ミュンヘンからグラサウに向かい、陳樹微師姐と合流して四日間の視察活動を行ったが、心を大きく揺さぶられた。そこでは證厳法師が口を酸っぱくして言っている「時間がない、時間がない…」という言葉が思い起こされた。

被災地は断水と停電が続いていたので、チームはまず温かい食事を提供し、被災者と復旧作業員の心身を温めることを最優先にした。そして、素早く行動に移して帰路にはキッチンカーを選定し、ウィーンに帰った三日目には、陳師姐と共にキッチンカーをリースしに行った。劉師兄は迷うことなく運転を引き受けてくれた。

劉師兄の以前の職業は、船の機械エンジニアだ。キッチンカーを運転するのは初めてだったが、すぐに使用方法を習得した。一回目の炊き出しを担ったハンブルクの三人の師兄に、キッチンカーの機能と使用方法、注意事項を伝え、全ての手はずを整えた後でウィーンへ戻り、炊き出しをしてくれるボランティアを募った。その時コロナ禍で外出できないという返事が大部分だった。

ボランティアがいなかったらどうすればいいのかと焦っていたところ、一本の電話が入った。それは、劉建國師兄が一緒にシェフとして参加し、陳秀花(チェン・シウホア)師姐が調理補助をしてくれる、という連絡だった。私は安心して、応募リストにオーストリアが二回目を担当する、と記入した。

八月二十二日から一週間、私たちは毎日異なる菜食料理を提供した。以前中華料理のレストランを開いたことがある私たちからすれば、外国人が好む味は分かっており、中華風焼きそばにもやしサラダ、キムチ、トマトの卵炒めにガルバンゾを加えたものなど、タンパク質、カルシム等の栄養に気を配った。多くの人が食事を取りに来て、毎日五百食以上も提供した。オーストリアからの五人のボランティアは疲れ切っていたが、住民と作業員たちがみな親指を立てているのを見ると、疲れは吹き飛んだ。

八月二十九日、ハンブルクのボランティアが三回目を担当することになったので、私はそこに残ってサポートした。その後、九月十一日に終了して十三日にウィーンに戻った。

「前例のない」今回のキッチンカーによる炊き出しに参加でき、高齢ながら私はとても幸せだった。八月初旬から九月の半ばまで、千キロの道のりを六回往復して二十三日間、炊き出しを担当した。毎朝七時過ぎからスーパーで必要なものを買うと、急いで食材をキッチンカーに持って行って準備し、八〜九時間立ち続けた。四十六人分の大きな電気鍋で、オーストリアボランティアが担当した週は毎日七から八回、ご飯を炊いた。十一回炊いた日もあった。チームの中で私が一番年長だが、体力はほかの師兄師姐の誰にも負けない。奉仕できる体力があることに感謝している。人生は無常なゆえに、片時も無駄にはできない。そして私を愛し、この輝かしい菩薩道を歩むことを優しく見守ってくれる家族に感謝している。


(慈済月刊六五九期より)

ヨーロッパ各国の作業員がドイツの水害被災地に入り、先の長い復旧工事を支援した。慈済ボランティアはキッチンカーで彼らに食事を提供し、中華式の麺やご飯のメニューで彼らのお腹を満たし、いつもと違うコックが来て料理を美味しく調理したため、マイスターも満足して一括注文した。また住民もガスや水道の復旧を待つ間、温かい食事を摂ることができた。みんな毎日楽しみにしていたのだ—「今日のメニューは何だろう?」

八時にオーストリアの国境を越えてドイツへ入った私たちは陳樹微(チェン・シューウェイ)師姐(女性ボランティア)と合流し、私が九人乗りの小型バスを運転して、ドイツ西部の主要都市、ケルンに向かって出発した。一時間余り後にミュンヘン市に入る前から渋滞し始め、ノロノロ運転になり、午後になって、ドナウ河畔のウルムで昼食をとった。そのあと三百キロ余り走って夜になると、ようやくケルンに着いた。この日は一日で十二時間、約千キロ運転したので、少し自己満足感に浸っていた。まだまだ自分は衰えていない!

翌日の十時半、陳樹微師姐がヴァイラースヴィスト市の社会福祉人員と連絡をとり、一軒のレストランで落ち合うことになった。その女性は、ドイツ各都市とオーストリアから来た私たちに、半月前に起きた水害について話してくれた。

七月十四日から雨が降り始め、次の日の朝方になって突然大洪水になった。その水の勢いは、まるでダムの放流のようで、地勢が低い場所にある家々は瞬く間に浸水し、住民は心の準備をする間もなく、洪水は地域全体にわたって農地、道路、樹木、堤防、車…を押し流した。

街の中心を流れる小さな川が洪水の猛威を振るった。道路のアスファルトを削り取り、家々の壁をもぎとった。家の外観は変わっていなくても、浸水した基礎部分のコンクリートは脆くなり、居住には適さなくなった。(撮影・劉晃汶)

その後、私たちは幾日も被害が甚大な地域を視察し、バート・ノイェンアールやアールヴァイラ、バート・ミュンスターアインフェル等の町を回った。そこで目にした災害後の惨状は、言葉で形容できないほどだった。水の勢いは、河川の両側にある街道を覆い尽くし、家が基礎部分から流されてしまったため、大きな穴が開き、電線、ガス管、水道管の全てが露出していた。商店街は無残にも歩道が泥まみれになり、店は内外共に破壊されてしまった。また、容赦ない洪水は、小さな橋すら見逃さずに破壊した。跡形もなく破壊されてしまった何軒かの家を目の当たりにして、住民は無事に逃げたのだろうかと不安になった。

多くの家は歴史的建築物一覧に載っていて、二、三百年の歴史があるが、建材は現代のように頑丈ではなく、セメントというよりも、土と藁をこねたものでできた壁などは、洪水で溶けてしまった。石膏ボードの壁も洪水の侵食には耐えられず、天井も一緒に落ちてしまっていた。

最も心を痛めたのは、ジンツィッヒにある二十八名のお年寄りと身障者をケアしていた健康センターが被災したことである。洪水の勢いが増した夜、救助隊員は先ず十六名の住民を安全な場所に避難させたが、再びそこに戻った時、すでに目の前で激しく水が流れ、水位は二階の高さまで上り、残りの十二名の住民は逃げ後れてしまった。

あの数日の視察から、すでに半月が経っていたが、道中、空に鳥が飛んでいるのを見たことはなく、草地にも野生の小動物を見かけなかった。その様子から、当時の雨足がどれほど恐ろしいものだったかが想像できよう。

慈済のキッチンカーはバートミュンスターアイフェル市の市政府広場に停車し、ボランティアが車の外に「今日のメニュー」を書いた小さな黒板を置いて、毎日100から500食を提供した。(写真の提供・林美鳳)

さようならを言うのが名残惜しい

被害が大きかった地域では水道、電気、ガス管のどれもが破損していて、住民は三食を作ることもできなかったため、支援者団体がキッチンカーを出して、ドイツソーセージやフライドポテトを提供していた。被災者と作業員はすでに二週間も同じ食べ物を口にし続けていたので、八月四日、私たちがバートミュンスターアイフェル市を訪れた時、ザビーネ市長が慈済にそれまでと異なる昼食を提供してもらえないかと提案した。

八月六日午前中、災害視察を終えて帰る途中にフランクフルト市を通った時、樹微師姐がケルン市にある特殊用途の自動車工場と連絡が取れたというので、私たちは直ちにケルン市に引き返し、その工場へ移動式キッチンカーを見に行き、その場でリースすることを決めた。

そのキッチンカーには、コンロが四つ、シンク、冷蔵庫、オーブン、換気扇、作業台などが全て揃っていた。八月十二日、ボランティアが再びバートミュンスターアイフェル市に向かった。キッチンカーの性能を十分に理解した後、八月十三日、初めてキッチンカーで食事を提供することになり、ドイツに住んでいる三人のシェフ級のボランティア、楊文村(ヤン・ウェンツン)師兄(シーシオン)、林森喜(リン・センシー)師兄、謬連煌(ミウ・リエンホワン)師兄が調理を担当して、二百食の菜食焼きそばを提供した。

ドイツ政府は規定を緩めたので屋外でマスクを着用する必要がなくなった。各国から来た作業員は、被災地で温かい食事をとれることに感謝し、慈済が広めている菜食は地球にとって有益だと賛同した。(写真提供・林美鳳)

ドイツ各都市やオーストリア、オランダからボランティアが交代で手伝いに来てくれたので、住民もバリエーションのある料理に新鮮さを覚えたそうだ。八月二十一日、オーストリア・ウィーンのボランティアチームは劉建国(リウ・ジエングオ)師兄を先頭に、各種調理器具と調味料、米とパスタを携えて出発した。食事を提供する前、キッチンカーの前にある自転車置き場と市役所前の長テーブルや椅子を臨時に置く場所を綺麗に掃除したので、清潔感あふれる環境になったと良い評判をもらった。

住民は慈済の菜食を絶賛し、鍋を持参して昼食用に持ち帰る人もいた。食事を提供していた時間はまるで小さな食事会のようで、とても賑わった。この食事提供サービスは九月十一日に最終日を迎えた。私たちがキッチンカーでそこを離れる時、多くの人は名残惜しく思い、慈済の美味しい昼食やあの和気藹々とした雰囲気を忘れることができなかったそうだ。最後にコンロの火を消したのが私でなくて良かった。なぜなら、彼らの悲しむ表情を見るのは辛かったからだ。災害後の復旧作業は、二年もかかると予想されている。さようなら、友よ!また会う機会まで。

7月中旬

• 豪雨が西欧諸国を襲い、ドイツ、ベルギー、オランダは極端な降雨量を記録した。24時間に現地の平年の1カ月分を超える雨が降った。

•ドイツ西部ノルトライン・ヴェストファーレン州とラインラント・プフェルツ州は河川が氾濫して町に浸水し、土石流で建物が倒壊し、死者170人余り、避難した人が数万人に上った。ドイツ気象庁は「世紀の大水害」と発表した。

8月3日〜5日

•ドイツ・ハンブルク、ミュンヘン、フランクフルトとオーストリア慈済人は西部の大都市ケルンで合流し、多くの被災地を視察して、ノルトライン・ヴェストファーレン州のバートミュンスターアイフェル市を重点ケア区域に定めた。

8月13日〜9月11日

•ケルン南方のバートミュンスターアイフェル市は、古城のある風光明媚な歴史ある街だ。人口は約1万7千人で、住民の生活は観光業と小規模の家内工業が主だが、洪水は家屋と経済活動を破壊し、推計で2千5百世帯が被災した。市長によると、今回の水害は第二次世界大戦以来最も深刻な被害をもたらしたそうだ。

•軍隊、エンジニアチーム、民間団体が被災地に駐屯して復旧に協力した。簡単な食事だがボランティアが炊き出しをして人々に寄り添い、励ました。

•ボランティアはドイツのハンブルク、ミュンヘン、フランクフルト、ケルン、そしてオーストリア、オランダから、合計延べ3030人を動員した。

•提供された食事:10021食。

年を重ねても、幸せを感じる

文/游月英(オーストリア慈済ボランティア)

年半以上になるコロナ禍で、ヨーロッパ慈済人の活動は止まってしまい、今年の七月上旬に、ようやく再度セルビア難民キャンプへケアに行くことができた。嬉しかったのは、夫の劉晃汶(リウ・ホワンウエン)師兄も同行し、ヨーロッパ慈済所属の車の運転を担当してくれたことである。七月中旬、ドイツは百年に一度と言われる水害に見舞われ、私たちは再び被害視察を行った。

八月初め、ミュンヘンからグラサウに向かい、陳樹微師姐と合流して四日間の視察活動を行ったが、心を大きく揺さぶられた。そこでは證厳法師が口を酸っぱくして言っている「時間がない、時間がない…」という言葉が思い起こされた。

被災地は断水と停電が続いていたので、チームはまず温かい食事を提供し、被災者と復旧作業員の心身を温めることを最優先にした。そして、素早く行動に移して帰路にはキッチンカーを選定し、ウィーンに帰った三日目には、陳師姐と共にキッチンカーをリースしに行った。劉師兄は迷うことなく運転を引き受けてくれた。

劉師兄の以前の職業は、船の機械エンジニアだ。キッチンカーを運転するのは初めてだったが、すぐに使用方法を習得した。一回目の炊き出しを担ったハンブルクの三人の師兄に、キッチンカーの機能と使用方法、注意事項を伝え、全ての手はずを整えた後でウィーンへ戻り、炊き出しをしてくれるボランティアを募った。その時コロナ禍で外出できないという返事が大部分だった。

ボランティアがいなかったらどうすればいいのかと焦っていたところ、一本の電話が入った。それは、劉建國師兄が一緒にシェフとして参加し、陳秀花(チェン・シウホア)師姐が調理補助をしてくれる、という連絡だった。私は安心して、応募リストにオーストリアが二回目を担当する、と記入した。

八月二十二日から一週間、私たちは毎日異なる菜食料理を提供した。以前中華料理のレストランを開いたことがある私たちからすれば、外国人が好む味は分かっており、中華風焼きそばにもやしサラダ、キムチ、トマトの卵炒めにガルバンゾを加えたものなど、タンパク質、カルシム等の栄養に気を配った。多くの人が食事を取りに来て、毎日五百食以上も提供した。オーストリアからの五人のボランティアは疲れ切っていたが、住民と作業員たちがみな親指を立てているのを見ると、疲れは吹き飛んだ。

八月二十九日、ハンブルクのボランティアが三回目を担当することになったので、私はそこに残ってサポートした。その後、九月十一日に終了して十三日にウィーンに戻った。

「前例のない」今回のキッチンカーによる炊き出しに参加でき、高齢ながら私はとても幸せだった。八月初旬から九月の半ばまで、千キロの道のりを六回往復して二十三日間、炊き出しを担当した。毎朝七時過ぎからスーパーで必要なものを買うと、急いで食材をキッチンカーに持って行って準備し、八〜九時間立ち続けた。四十六人分の大きな電気鍋で、オーストリアボランティアが担当した週は毎日七から八回、ご飯を炊いた。十一回炊いた日もあった。チームの中で私が一番年長だが、体力はほかの師兄師姐の誰にも負けない。奉仕できる体力があることに感謝している。人生は無常なゆえに、片時も無駄にはできない。そして私を愛し、この輝かしい菩薩道を歩むことを優しく見守ってくれる家族に感謝している。


(慈済月刊六五九期より)

私のホームレスチャイルド

阿侯にとっては街角が彼の家で、「オバサン」たちは彼の別の意味での家族である。

彼が拗ねると、「オバサン」は彼を叱る。

「あんたが健康に気をつけてくれないと困るのよ。私たちも若くないから、後は誰があんたの世話をするの?」

い阿侯は一日中街をブラつく。ひどく汚れた服を着て、足に履いている草履は汚れて色が分からないほどだ。歩くと左右のバランスが取れず、体が揺れる。彼は、いつもは静かだが、たまに大声を出し、道行く人をびっくりさせる。 定住先がなく、昼間は街中を彷徨い、夜はアーケードや建物の隅で過ごす。

一九九六年に、基隆信義区東信路の慈済リサイクルステーションが設立された。毎月一回のコミュニティリサイクルデーで、阿侯は資源回収をする人を眺めているが、ボランティアが彼にリサイクル活動を一緒にやろうと誘っても、いつも拒否される。ボランティアは彼に合う服を見つけ、洗ってから、着替えさせた。

それ以来、彼はリサイクルボランティアの家の前を通る時、ガラス戸越しに大声で「オバサン! 」と彼なりの挨拶をして行く。 それでボランティアが扉を開けて「今日は朝ご飯を食べたかい?今日はお粥だけど、食べるのを手伝ってくれる?食べる?」と言った。

かなり頑固な彼は、もしボランティアが「お粥一杯上げるよ」と言ったら、きっと拒否するだろう。食べるのを手伝ってくれるよう頼めば、引き受けてくれるのだ。ボランティアたちと知り合ってから、彼は人と挨拶するようになった。近所の人は、彼の変化を見て、暖かい手を差し伸べ、受け入れるようになった。 彼が人を傷つけたりはしないと分かって、彼と話をする人も多くなった。

二○○七年の夏、ボランティアの呉束満さんが阿侯の側を通り過ぎた時、彼に呼び止められた。「オバサン、僕は死ぬかもしれない。三日間もおしっこが出なくて、気分が悪い」と言った。呉さんは、直ぐに彼を近くの診療所に連れて行き、その後、大病院を紹介された。盲腸破裂と診断され、緊急に手術する必要があった。しかし、彼は身分証明書を持っていなかったし、自分が誰なのかも言えなかったため、どうしたらいいのか分からなかった。ボランティアは医師に、後で必要書類は補填するから先ず治療をしてほしいとお願いした。

阿侯は入院中、退院して帰宅したいと言い続けた。しかし、彼の家はどこにあるのだろう?退院した後は、どこで療養したらいいのか?ある隣人が倉庫の隅を空け、折りたたみ式ベッドを取り付けると言ってくれた。また、別の隣人は体力をつける営養品と食べ物を提供すると言った。彼は言葉にすることはできないが、彼の目付きは柔らかく、人を見ると口角に笑顔を浮かべるようになった。

阿侯の身分証明書を申請するのが最も急を要することだった。訪問ケアボランティアは、以前の彼の隣人を訪ねたが、何も分からなかった。そこで、警察署と市役所の支援を得て、彼の本籍資料を探し出し、その線を辿って遠い親戚と連絡を取ることができ、阿侯本人に間違いがないことを確認してくれた。

この証明書を手にボランティアは、身分証、健康保険カード、身障者カード、低所得証明などの手続きに奔走した。それによって政府からの毎月の補助金で彼は生活していくことができるようになる。

ボランティアの呉束満さん(ウー・スーマン)(右)は、母親の心で阿侯(左)を世話し、彼を連れてリサイクル活動をしている。

見よう見まねで、任務を達成

阿侯は体力が徐々に回復し、たまに呉束満さんについてリサイクル活動をするようになった。暫くして、彼は自主的に決まった店舗から資源の回収をする任務を始めた。

毎週水曜日の午後三時、彼はカートを押して飲食店の前で待ち、四時半にシャッターが開くと、直ぐ中に入り、倉庫に向かう。段ボール箱やオイル缶、ペットボトルを分別し、カートに積んでから縛って、分別する場所に行って整理する。 飲食店のオーナーから従業員まで、皆、彼を褒め、よく飲み物を出してくれる。

ドライクリーニングを経営して二十年以上になる王文祥(ワン・ウェンシアン)さんと黄素媛(ホワン・スーユエン)さん夫妻はこう言った。阿侯は随分変わり、服装もきれいになり、積極的にお年寄りのゴミを出す手伝いをしたり、ホームレスにいじめられているお年寄りを見かけると、助けたりする。リサイクルステーションは、彼が整理してきれいになり、悪臭も野良猫も鼠もいなくなった。実に素晴らしいことだ。

先日の医師の検査では、阿侯は知的障害だったため、自立能力がないと診断された。二○二○年に身体障害者手帳の更新時に再度鑑定した時は、知能が向上していたことに医師が驚いたが、意識障害の症状があり、薬を服用しなければならないと言われた。薬の副作用で阿侯は眠気を催し、気分も悪くなるため、彼は服用を嫌がった。ボランティアはいつも「あんたが体を大事にしてくれなければ困るのよ。私たちはもう歳だから、誰があんたの面倒を見るの?」と言って聞かせる。彼はその時には何も言わないが、時には「何でもないのに何で薬を飲まなければならないの?」と口答えする。

呉さんは阿侯と自分の子供のように接している。彼の姿が見えなくなると、心配でたまらなく、あちこち探し回る。彼が情緒的に不安定な時は、苦労して彼を説得し、リサイクル活動に連れて行く。彼に福を大切にし、福を積むよう教えている。長年、呉さんは一度も諦めたことはなく、彼女はいつも「行動に移せばいいのです 」と言う。


(慈済月刊六五〇期より)

阿侯にとっては街角が彼の家で、「オバサン」たちは彼の別の意味での家族である。

彼が拗ねると、「オバサン」は彼を叱る。

「あんたが健康に気をつけてくれないと困るのよ。私たちも若くないから、後は誰があんたの世話をするの?」

い阿侯は一日中街をブラつく。ひどく汚れた服を着て、足に履いている草履は汚れて色が分からないほどだ。歩くと左右のバランスが取れず、体が揺れる。彼は、いつもは静かだが、たまに大声を出し、道行く人をびっくりさせる。 定住先がなく、昼間は街中を彷徨い、夜はアーケードや建物の隅で過ごす。

一九九六年に、基隆信義区東信路の慈済リサイクルステーションが設立された。毎月一回のコミュニティリサイクルデーで、阿侯は資源回収をする人を眺めているが、ボランティアが彼にリサイクル活動を一緒にやろうと誘っても、いつも拒否される。ボランティアは彼に合う服を見つけ、洗ってから、着替えさせた。

それ以来、彼はリサイクルボランティアの家の前を通る時、ガラス戸越しに大声で「オバサン! 」と彼なりの挨拶をして行く。 それでボランティアが扉を開けて「今日は朝ご飯を食べたかい?今日はお粥だけど、食べるのを手伝ってくれる?食べる?」と言った。

かなり頑固な彼は、もしボランティアが「お粥一杯上げるよ」と言ったら、きっと拒否するだろう。食べるのを手伝ってくれるよう頼めば、引き受けてくれるのだ。ボランティアたちと知り合ってから、彼は人と挨拶するようになった。近所の人は、彼の変化を見て、暖かい手を差し伸べ、受け入れるようになった。 彼が人を傷つけたりはしないと分かって、彼と話をする人も多くなった。

二○○七年の夏、ボランティアの呉束満さんが阿侯の側を通り過ぎた時、彼に呼び止められた。「オバサン、僕は死ぬかもしれない。三日間もおしっこが出なくて、気分が悪い」と言った。呉さんは、直ぐに彼を近くの診療所に連れて行き、その後、大病院を紹介された。盲腸破裂と診断され、緊急に手術する必要があった。しかし、彼は身分証明書を持っていなかったし、自分が誰なのかも言えなかったため、どうしたらいいのか分からなかった。ボランティアは医師に、後で必要書類は補填するから先ず治療をしてほしいとお願いした。

阿侯は入院中、退院して帰宅したいと言い続けた。しかし、彼の家はどこにあるのだろう?退院した後は、どこで療養したらいいのか?ある隣人が倉庫の隅を空け、折りたたみ式ベッドを取り付けると言ってくれた。また、別の隣人は体力をつける営養品と食べ物を提供すると言った。彼は言葉にすることはできないが、彼の目付きは柔らかく、人を見ると口角に笑顔を浮かべるようになった。

阿侯の身分証明書を申請するのが最も急を要することだった。訪問ケアボランティアは、以前の彼の隣人を訪ねたが、何も分からなかった。そこで、警察署と市役所の支援を得て、彼の本籍資料を探し出し、その線を辿って遠い親戚と連絡を取ることができ、阿侯本人に間違いがないことを確認してくれた。

この証明書を手にボランティアは、身分証、健康保険カード、身障者カード、低所得証明などの手続きに奔走した。それによって政府からの毎月の補助金で彼は生活していくことができるようになる。

ボランティアの呉束満さん(ウー・スーマン)(右)は、母親の心で阿侯(左)を世話し、彼を連れてリサイクル活動をしている。

見よう見まねで、任務を達成

阿侯は体力が徐々に回復し、たまに呉束満さんについてリサイクル活動をするようになった。暫くして、彼は自主的に決まった店舗から資源の回収をする任務を始めた。

毎週水曜日の午後三時、彼はカートを押して飲食店の前で待ち、四時半にシャッターが開くと、直ぐ中に入り、倉庫に向かう。段ボール箱やオイル缶、ペットボトルを分別し、カートに積んでから縛って、分別する場所に行って整理する。 飲食店のオーナーから従業員まで、皆、彼を褒め、よく飲み物を出してくれる。

ドライクリーニングを経営して二十年以上になる王文祥(ワン・ウェンシアン)さんと黄素媛(ホワン・スーユエン)さん夫妻はこう言った。阿侯は随分変わり、服装もきれいになり、積極的にお年寄りのゴミを出す手伝いをしたり、ホームレスにいじめられているお年寄りを見かけると、助けたりする。リサイクルステーションは、彼が整理してきれいになり、悪臭も野良猫も鼠もいなくなった。実に素晴らしいことだ。

先日の医師の検査では、阿侯は知的障害だったため、自立能力がないと診断された。二○二○年に身体障害者手帳の更新時に再度鑑定した時は、知能が向上していたことに医師が驚いたが、意識障害の症状があり、薬を服用しなければならないと言われた。薬の副作用で阿侯は眠気を催し、気分も悪くなるため、彼は服用を嫌がった。ボランティアはいつも「あんたが体を大事にしてくれなければ困るのよ。私たちはもう歳だから、誰があんたの面倒を見るの?」と言って聞かせる。彼はその時には何も言わないが、時には「何でもないのに何で薬を飲まなければならないの?」と口答えする。

呉さんは阿侯と自分の子供のように接している。彼の姿が見えなくなると、心配でたまらなく、あちこち探し回る。彼が情緒的に不安定な時は、苦労して彼を説得し、リサイクル活動に連れて行く。彼に福を大切にし、福を積むよう教えている。長年、呉さんは一度も諦めたことはなく、彼女はいつも「行動に移せばいいのです 」と言う。


(慈済月刊六五〇期より)

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