ボランティアが山を動かした

九十三歳の老人が家で卒倒した。救急人員が現場に着くと、屋内、屋外とも種々雑多な物が山積みにされていたので、腹ばいで中に入ってやっと老人を運び出し、病院に搬送することができた。

ボランティアたちは、塀をのり越え、門扉を外してごみの山を運び出し、老人と地域住民に安全で衛生的な居住環境を取り戻した。

土曜日の朝八時前、新北市永和区秀朗路一段の路地に各地から来た八十人余りのボランティアが集まり、住居の清掃準備をしていた。門扉の向こうは種々雑多な物に遮られ、入ることができなかった。ボランティアは仕方なく、塀を乗り越えてそれらの物の山の上に立ち、少しずつごみを運び出すことでスペースを作り、そして二枚の門扉を取り外した。

得和地区の代表、蔡綉花(ツァイ・シュウフヮ)によると、九十三歳になる住民の張さんは先日、家で卒倒したため、友人が通報した。救急人員が来た時、三十坪の家は種々雑多な物が山積みにされて、僅かに一人が横になるスペースしかなかった。救急人員は中に入ることができず、戻ってから、もう一度体格が小さめの人を派遣してやっと中に入り、患者を運び出して、病院に搬送することができた。

永和区慈済ボランティアの初志堅(ツゥ・ヅージェン)さんは、地区の代表から、張さんの居住環境を改善してあげるために、彼が二、三十年間溜めてきた雑物の清掃を手伝ってもらえないかと聞かれ、六月十五日に行うことになった。参加者は、永利ボランティア消防隊員や得和地区のコミュニティボランティア、般若共修会、慈済ボランティアなどの他、ネットの情報を見て、自発的にやって来た九人の若者が含まれていた。

張さんは、元は塗装屋で、家には木製の梯子だけでも五十数脚ある上に大量の塗料缶を貯蔵しており、その上、資源ごみがいっぱいあった。周辺住民の安全を考えて、十一人の永利ボランティア消防隊員は大声で、「重い物は、私達に任せてください」と呼びかけた。彼らは消火用の「おきかき」まで持って来た。それは火が燻っている時に灰をかき回すためのものだが、それを使わないと、積み重なった雑物を素手で運ぶしかなく、時間と手間がかかるのだ。

玄関の扉を外すと、ボランティアたちは二つの通路を作って、雑物を路地口までリレー式に運んで袋に入れた。数人の若者は、終始笑顔を浮かべながら、きびきびした動作で運んでいた。皆にこの活動を呼びかけた慈済ボランティアの曽彦禎(ヅン・イエンヅン)さんは、こう言った。「体は疲れても、心は充実しています。慈悲によって、私たちは『苦を見て、福を知る』からです。そして、愛があるから、喜んで奉仕できるのです」と言った。

若者の一人、連思怡(リエン・スーイー)さんは不思議そうに言った。「私も永和区の人間ですが、永和区にこんな文明から取り残された所があるとは、想像もできませんでした。そこで直ちに申し込みました。今日の動員力はかなりの規模ですが、大事なことは皆が熱意をもって行動していることです。一緒に善を行うという心がとても大切だと思います」。

年配のボランティアたちは清掃の第一線に立って懸命に行動し、彼らの弛まない勤勉な精神と姿が若いボランティアにとって最良の模範となった。一日、手分けして交代で清掃し、大型のゴミ収集車によって何回も運搬した後、やっとリビングと部屋、そして庭という間取りが現れた。その後は環境局がトラックを派遣して、危険性のある有機溶剤を運び出してくれることになった。

張さんの子供は五十歳過ぎだが、発達障害があるため、父親の医療ケアをすることができない。幸いに友人が手を差し伸べてくれている。これで居住環境が清潔になったので、張さんも家に戻って休養することができる。地区代表の蔡さんによると、二十年前にも慈済ボランティアが関心を寄せ、住居の清掃を申し出たが、ことごとく張さんに拒絶されたそうだ。だが、物を溜め込む癖は日増しに深刻になり、手が付けられなくなってしまった。近所の住民は皆、ボランティアに感謝した。「この問題が解決したので、これから安心して暮らせます」。

(慈済月刊六九三期より)

張さんの家は、種々雑多な物が山積みになり、30坪のスペースは足の踏み場もなく、居住品質は一目瞭然であった。

数回の清掃と整理で、家は少しずつ元来の広々としたスペ―スを取り戻した。

九十三歳の老人が家で卒倒した。救急人員が現場に着くと、屋内、屋外とも種々雑多な物が山積みにされていたので、腹ばいで中に入ってやっと老人を運び出し、病院に搬送することができた。

ボランティアたちは、塀をのり越え、門扉を外してごみの山を運び出し、老人と地域住民に安全で衛生的な居住環境を取り戻した。

土曜日の朝八時前、新北市永和区秀朗路一段の路地に各地から来た八十人余りのボランティアが集まり、住居の清掃準備をしていた。門扉の向こうは種々雑多な物に遮られ、入ることができなかった。ボランティアは仕方なく、塀を乗り越えてそれらの物の山の上に立ち、少しずつごみを運び出すことでスペースを作り、そして二枚の門扉を取り外した。

得和地区の代表、蔡綉花(ツァイ・シュウフヮ)によると、九十三歳になる住民の張さんは先日、家で卒倒したため、友人が通報した。救急人員が来た時、三十坪の家は種々雑多な物が山積みにされて、僅かに一人が横になるスペースしかなかった。救急人員は中に入ることができず、戻ってから、もう一度体格が小さめの人を派遣してやっと中に入り、患者を運び出して、病院に搬送することができた。

永和区慈済ボランティアの初志堅(ツゥ・ヅージェン)さんは、地区の代表から、張さんの居住環境を改善してあげるために、彼が二、三十年間溜めてきた雑物の清掃を手伝ってもらえないかと聞かれ、六月十五日に行うことになった。参加者は、永利ボランティア消防隊員や得和地区のコミュニティボランティア、般若共修会、慈済ボランティアなどの他、ネットの情報を見て、自発的にやって来た九人の若者が含まれていた。

張さんは、元は塗装屋で、家には木製の梯子だけでも五十数脚ある上に大量の塗料缶を貯蔵しており、その上、資源ごみがいっぱいあった。周辺住民の安全を考えて、十一人の永利ボランティア消防隊員は大声で、「重い物は、私達に任せてください」と呼びかけた。彼らは消火用の「おきかき」まで持って来た。それは火が燻っている時に灰をかき回すためのものだが、それを使わないと、積み重なった雑物を素手で運ぶしかなく、時間と手間がかかるのだ。

玄関の扉を外すと、ボランティアたちは二つの通路を作って、雑物を路地口までリレー式に運んで袋に入れた。数人の若者は、終始笑顔を浮かべながら、きびきびした動作で運んでいた。皆にこの活動を呼びかけた慈済ボランティアの曽彦禎(ヅン・イエンヅン)さんは、こう言った。「体は疲れても、心は充実しています。慈悲によって、私たちは『苦を見て、福を知る』からです。そして、愛があるから、喜んで奉仕できるのです」と言った。

若者の一人、連思怡(リエン・スーイー)さんは不思議そうに言った。「私も永和区の人間ですが、永和区にこんな文明から取り残された所があるとは、想像もできませんでした。そこで直ちに申し込みました。今日の動員力はかなりの規模ですが、大事なことは皆が熱意をもって行動していることです。一緒に善を行うという心がとても大切だと思います」。

年配のボランティアたちは清掃の第一線に立って懸命に行動し、彼らの弛まない勤勉な精神と姿が若いボランティアにとって最良の模範となった。一日、手分けして交代で清掃し、大型のゴミ収集車によって何回も運搬した後、やっとリビングと部屋、そして庭という間取りが現れた。その後は環境局がトラックを派遣して、危険性のある有機溶剤を運び出してくれることになった。

張さんの子供は五十歳過ぎだが、発達障害があるため、父親の医療ケアをすることができない。幸いに友人が手を差し伸べてくれている。これで居住環境が清潔になったので、張さんも家に戻って休養することができる。地区代表の蔡さんによると、二十年前にも慈済ボランティアが関心を寄せ、住居の清掃を申し出たが、ことごとく張さんに拒絶されたそうだ。だが、物を溜め込む癖は日増しに深刻になり、手が付けられなくなってしまった。近所の住民は皆、ボランティアに感謝した。「この問題が解決したので、これから安心して暮らせます」。

(慈済月刊六九三期より)

張さんの家は、種々雑多な物が山積みになり、30坪のスペースは足の踏み場もなく、居住品質は一目瞭然であった。

数回の清掃と整理で、家は少しずつ元来の広々としたスペ―スを取り戻した。

關鍵字

世に幸福をもたらす

敬虔な心を持てば、
天と地の気が応じて穏やかになり、
心に愛を培えば、
衆生の業力も好転していくのです。

天を敬い、地を愛し、
福を惜しんで物を愛し、命を護り、
衆生の恩を忘れず、
心を一つにして世に幸福をもたらしましょう。

敬虔な心を持てば、天と地の気が応じて穏やかになり、心に愛を培えば、衆生の業力も好転していくのです。

天を敬い、地を愛し、福を惜しんで物を愛し、命を護り、衆生の恩を忘れず、心を一つにして世に幸福をもたらしましょう。

敬虔な心を持てば、
天と地の気が応じて穏やかになり、
心に愛を培えば、
衆生の業力も好転していくのです。

天を敬い、地を愛し、
福を惜しんで物を愛し、命を護り、
衆生の恩を忘れず、
心を一つにして世に幸福をもたらしましょう。

敬虔な心を持てば、天と地の気が応じて穏やかになり、心に愛を培えば、衆生の業力も好転していくのです。

天を敬い、地を愛し、福を惜しんで物を愛し、命を護り、衆生の恩を忘れず、心を一つにして世に幸福をもたらしましょう。

關鍵字

寄り添いは纏わりつくことではない

問:

子どもが小さい頃は、何でも親の言うことを聞きますが、成長するにつれて自分で時間や行動を計画させ、親が口出ししないようにするには、どうしたらよいでしょうか?

答:暫く前、ある母親が子供に朝六時から夜十一時までの一日の時間割を作っていた、というびっくりするようなニュースを読みました。

そのニュースを見て、私はとても不安になりました。その子供は楽しく学習できるのだろうか。そのようにして学習する生活は長く続くのだろうか。子どもは心身ともに健康なのだろうか。子どもはいつになったら自立できるのだろうか。

こういう問題は、親がゆっくり手放すことでしか解決できません。

話し合い、再確認、尊重

たいていの親は強いエネルギーと自分の意見を持っており、子どもが無駄な道を歩んで、貴重な時間を無駄にすることを心配します。そのため、知らず知らずのうちに子どもの生活の細部にまで手を伸ばしてしまうことがよくあります。それは逆に一種の干渉や束縛になり、子どもの自主的な学習を妨げることになります。

最良の方法は、子ども自身に活動の企画や時間の配分をさせ、その後で、親子でそのスケジュールについて一緒に話し合うのです。例えば、なぜ日曜日の午前十時から十一時までゲームをするのか、なぜ水曜日の夜はテレビドラマを見るのか、などです。

このような話し合いの過程で、親が時間配分や何をして、何を切り捨てるべきかをアドバイスし、子供も自分で段取りを決める権利を持ち、親の段取りを頼りにし過ぎず、思考力を一歩一歩鍛えていくのです。

「親は、六歳までは子どもと親密になるべきで、それ以降では状況を改善するには遅すぎるかもしれません。もし子どもと遊ばないまま十歳を過ぎると、手遅れになります。また、子どもとコミュニケーションを取らないまま、十三歳の思春期を迎えるのも手遅れであり、子どもと話し合わず、子どもが大人になってからでは遅すぎます」。子育ての専門家たちはずっと、このように親たちに言い聞かせてきました。

親友のCさんは、思春期の子どもの情緒が、時に火山のように爆発して抑えることができないため、彼女に対して決裂するほどの嫌悪感を抱いていると感じるそうです。彼女は怖くなって、精神科医に解決策を求めました。精神科医は「心から親子関係を築きなさい」と言うだけでした。

Cさんは家に戻ると、子どもたちと一緒にできる活動を探し始めました。子どもに「私たちはみんな同じ側にいる」という感じを持たせ、そこから心を開いて生活上の様々なことを話し合いました。その家庭は、献身的な愛で溝を埋めた親によって、家庭の隅々に笑い声が戻るようになりました。

寄り添って褒め、そして手放す

子育てで最も美しい結果は、手放すこと!ですが、これは多くの親にはできません。

手放すにはどうすれば良いのでしょう?例えば、自分の部屋の床のモップがけや、洗濯した服を取り込んで、それを畳み、決まった引き出しに入れる、というようなことを一週間自立してやってもらうのです。やり始めは、どうしても上手くできないものですが、お子さんを責めたりせず、出来たことを見つけて褒めてあげることで、お子さんはどんどん自信を持って家事をこなせるようになります。

活動の企画や時間の配分も、このような方式を使うべきで、段階的に指導して、「大を掴んで小を放す」ようにすれば、子どもは自然に、安心して見ていられる、小さな大人になっていきます。

これからも、私たちが子供と一緒に人生で経験することはたくさんあるのですから、親として、決して学業の成績だけにこだわっていてはいけません。私たちの共通の子育て理念の重点は、心から寄り添うことであり、「コントロールする」のではありません。ですから、「自分の魔の手を断ち切る」のが早ければ早いほどいいのです。

家庭教育における最後の「愛の障壁」は「支配欲」です。親は子どもを導き、啓発し、分かち合ったうえで、タイムリーに子ども自身が決断できるようにゆとりを与え、その決断を尊重することであり、子どもの成長の障害になってはいけません。

親は子供を愛しているなら、子供に自分で決めさせることですが、その前提条件は、親が子供を一人の人間として尊重することです。そうすれば、支配欲を捨てることができるようになり、子供の人生を成就させる手伝いができるようになるのです。

(慈済月刊六九四期より)

問:

子どもが小さい頃は、何でも親の言うことを聞きますが、成長するにつれて自分で時間や行動を計画させ、親が口出ししないようにするには、どうしたらよいでしょうか?

答:暫く前、ある母親が子供に朝六時から夜十一時までの一日の時間割を作っていた、というびっくりするようなニュースを読みました。

そのニュースを見て、私はとても不安になりました。その子供は楽しく学習できるのだろうか。そのようにして学習する生活は長く続くのだろうか。子どもは心身ともに健康なのだろうか。子どもはいつになったら自立できるのだろうか。

こういう問題は、親がゆっくり手放すことでしか解決できません。

話し合い、再確認、尊重

たいていの親は強いエネルギーと自分の意見を持っており、子どもが無駄な道を歩んで、貴重な時間を無駄にすることを心配します。そのため、知らず知らずのうちに子どもの生活の細部にまで手を伸ばしてしまうことがよくあります。それは逆に一種の干渉や束縛になり、子どもの自主的な学習を妨げることになります。

最良の方法は、子ども自身に活動の企画や時間の配分をさせ、その後で、親子でそのスケジュールについて一緒に話し合うのです。例えば、なぜ日曜日の午前十時から十一時までゲームをするのか、なぜ水曜日の夜はテレビドラマを見るのか、などです。

このような話し合いの過程で、親が時間配分や何をして、何を切り捨てるべきかをアドバイスし、子供も自分で段取りを決める権利を持ち、親の段取りを頼りにし過ぎず、思考力を一歩一歩鍛えていくのです。

「親は、六歳までは子どもと親密になるべきで、それ以降では状況を改善するには遅すぎるかもしれません。もし子どもと遊ばないまま十歳を過ぎると、手遅れになります。また、子どもとコミュニケーションを取らないまま、十三歳の思春期を迎えるのも手遅れであり、子どもと話し合わず、子どもが大人になってからでは遅すぎます」。子育ての専門家たちはずっと、このように親たちに言い聞かせてきました。

親友のCさんは、思春期の子どもの情緒が、時に火山のように爆発して抑えることができないため、彼女に対して決裂するほどの嫌悪感を抱いていると感じるそうです。彼女は怖くなって、精神科医に解決策を求めました。精神科医は「心から親子関係を築きなさい」と言うだけでした。

Cさんは家に戻ると、子どもたちと一緒にできる活動を探し始めました。子どもに「私たちはみんな同じ側にいる」という感じを持たせ、そこから心を開いて生活上の様々なことを話し合いました。その家庭は、献身的な愛で溝を埋めた親によって、家庭の隅々に笑い声が戻るようになりました。

寄り添って褒め、そして手放す

子育てで最も美しい結果は、手放すこと!ですが、これは多くの親にはできません。

手放すにはどうすれば良いのでしょう?例えば、自分の部屋の床のモップがけや、洗濯した服を取り込んで、それを畳み、決まった引き出しに入れる、というようなことを一週間自立してやってもらうのです。やり始めは、どうしても上手くできないものですが、お子さんを責めたりせず、出来たことを見つけて褒めてあげることで、お子さんはどんどん自信を持って家事をこなせるようになります。

活動の企画や時間の配分も、このような方式を使うべきで、段階的に指導して、「大を掴んで小を放す」ようにすれば、子どもは自然に、安心して見ていられる、小さな大人になっていきます。

これからも、私たちが子供と一緒に人生で経験することはたくさんあるのですから、親として、決して学業の成績だけにこだわっていてはいけません。私たちの共通の子育て理念の重点は、心から寄り添うことであり、「コントロールする」のではありません。ですから、「自分の魔の手を断ち切る」のが早ければ早いほどいいのです。

家庭教育における最後の「愛の障壁」は「支配欲」です。親は子どもを導き、啓発し、分かち合ったうえで、タイムリーに子ども自身が決断できるようにゆとりを与え、その決断を尊重することであり、子どもの成長の障害になってはいけません。

親は子供を愛しているなら、子供に自分で決めさせることですが、その前提条件は、親が子供を一人の人間として尊重することです。そうすれば、支配欲を捨てることができるようになり、子供の人生を成就させる手伝いができるようになるのです。

(慈済月刊六九四期より)

關鍵字

東南アジア—強い台風11号 被災後のドキュメンタリー

八月三十日、台風十一号(ヤギ)は、フィリピンの東方海域で発生し、九月二日に軽度台風となってルソン島に上陸した。そのまま速いスピードで通過し、南シナ海に進みながら勢力を強め続け、中国、ベトナム、ラオスを通過した後、タイとミャンマーに豪雨をもたらした。全体で二千万人以上が被災し、二〇二四年にアジアで発生した台風のうち、最も勢力が強かったと言われている。

(撮影‧シンハラット‧チュンチョム)(場所·タイ北部ムアンチェンライ郡 メーヤオ郷コクリバー)

台風十一号(ヤギ)は九十度近い大きなカーブを描いて台湾を掠めたが、逆に東南アジア諸国が大変な事態に遭遇した。台風は、九月二日にフィリピン・ルソン島に上陸して、土砂災害や洪水被害を引き起こし、首都マニラから約二十五キロの距離にあるリサール州では、山崩れが起きた。毎年二十以上の台風がフィリピンを襲うため、ボランティアは既に、迅速に対応する災害支援マニュアルを確立している。今回は千百世帯余りに白米等の物資を配付し、被害が大きかったアンティポロ市の二つの地域で、家が損壊した世帯に建築材料の購入券を配付して、住民が店舗で引き換えに必要な建材を受け取り、住宅を修繕することができるようにした。

しかし、それは悲劇の幕開けに過ぎず、九月六日、台風十一号は中国・海南省に上陸した後、ベトナムに進んだ。勢力は徐々に弱まっていたが、残留していた雲がインドシナ半島を通過し、インド洋に入る過程で、雨水が豊富な雨季と重なってしまい、ミャンマーとタイでは多くの河川の水位が急上昇して洪水を引き起こし、山沿いで発生した土石流により農地が埋もれた。統計によると、台風十一号による東南アジアでの犠牲者は、七百人以上に上った。

ベトナム政府はこの台風を、近年の三十年間で最も勢力の強い台風であると認定した。慈済人は北部で被害の大きかった地域の一つであるラオカイ省およびイエンバイ省で被害調査を行った。被災者の多くは農民で、家屋がほぼ全壊に等しい被害を受けた人もいた。元々彼らは貧しい上に、災害リスクの高い地域に住んでいて、再建は難しかったので、政府の支援の下に、移住することになった。慈済人は十一月中旬に、二千六百世帯余りに見舞金を配付して、緊急時を乗り切れるよう支援した。

同様にタイ北部のチェンマイ県、チェンライ県でも、ここ八十年間で最も甚大な洪水被害に見舞われた。被災地の近くにあるチェンマイ慈済学校では、先生と生徒たちが自主的に被害調査や配付活動に参加し、清掃を手伝った。首都バンコクにある慈済タイ支部のボランティアは、そのすぐ後に遠隔地の町や村を訪れ、被害調査を行った。

ミャンマーの被害は、より広い範囲に及んだ。首都ネピドーやマンダレー、バゴー、そしてシャン州の低地が洪水で浸水し、その被害は全国六十四の町や郡に広がり、多くの道路と橋が損壊した。現地の慈済会員の協力の下、慈済人はネピドー・ノースダゴン郡の村落に入り、緊急支援として見舞金を配付すると同時に、「仕事を与えて支援に代える」活動を始めた。住民は外部との連絡道路の清掃から始め、続いて泥の中にあった家が本来の姿を取り戻していった。

東南アジアは、世界規模の気候変動に対して最も脆弱な地域の一つである。被災地の多くが農業国であるため、深刻な農業被害が起きると、食糧の安全のみならず、食糧価格の高騰が貧困や飢餓問題を助長するようになる。国内のインフラも深刻な損害を受け、救援活動にも多くの試練が待ち受ける。困難な復興への道は、慈済人の付き添いがあれば、共に困難を乗り切ることができる。

(慈済月刊六九七期より)

被害状況の概要
  • アジアでこの数十年稀に見る地すべりが起きた。
  • 多くの住宅が浸水や停電、或いは村落が水没し、 インフラが損壊した。
  • ミャンマー政府は、緊急事態を宣言し、珍しく国際社会に支援を呼びかけた。

慈済の支援

(2024年11月25日までの統計)

ベトナム

  • 北部のラオカイ省、イエンバイ省での災害視察。(9月25日~28日)
  • ラオカイ省ナムプンコミューン、サンマサオコミューン及びイエンバイ省チャウ・クエ・トゥオン・コミューン、チャウ・クエ・ハ・コミューンにて見舞金を2671世帯に配付。(11月15日~19日)

ベトナムは台風11号が通った終点となったが、この30年間で最大の洪水が発生した。ボランティアは首都ハノイから北部のラオカイ省へ行って訪問ケアを行い、2時間かけて山を上り、荒れた農耕地の中で被災世帯を探した。

ラオカイ省ナムプンコミューンの住民は農業が主体で、5つの村落の382世帯の約65%が貧困か、それに近い状態で、台風の後、3分の1の被災世帯が、政府の支援による移住を待っていた。ボランティアは災害視察と訪問ケアを行い、餅菓子を贈って縁を結び、更に11月には、各世帯の人数に合わせて7万2千〜12万円相当の見舞金を配付した。(撮影‧阮廷雄)

ボランティアは9月25日から28日まで災害視察で、ラオカイ省ナムプンコミューンに向かう途中、何度も土砂崩れが起きた場所に遭遇し、一部の道は車両が通行できず、下車して徒歩するか、バイクでの移動を余儀なくされた。台風通過後の山は脆く、住民の安全が懸念されている。(撮影‧阮廷雄)

タイ

  • チェンマイ慈済学校の先生は、チェンマイ県・ファーン郡、メーアーイ郡ドイレム村およびチェンライ県メーファールワン郡メーサロン村を慰問した。被災視察の後、見舞金を46世帯に配付し、29名の寄宿生がファーン郡政府による被災住宅の清掃活動に参加した。(9月12日~10月5日)
  • 慈済タイ支部はムアンチェンライ郡、メーサイ郡の一部地域で被害視察を行い、薬品500人分、子供用の薬250人分、清掃用具と日用品500セットを配付した。(9月18日~19日)
  • チェンマイ県の慈済ボランティアは、チェンマイ県の市内及びサーラピー郡で2585食の炊き出しを行い、毎日チェンマイ県の社会福祉局と協力して300食を提供した。(9月26日~30日、10月5日~8日)
  • 道路が通行可能になるのを待って、二回ムアンチェンライ郡、メーサイ郡、メーファールワン郡及びウィエンケン郡で被害視察を行った。(10月4日~7日)
  • メーサロン村、タートン川沿岸の村落、ドイレム村で、中長期支援のアセスメントを行った。(10月4日~7日)
  • 慈済タイ支部はムアンチェンライ郡、メーサイ郡で888世帯に見舞金を配付した。(10月29日~30日)
  • 慈済タイ支部は、チェンマイ県メーアーイ郡で66世帯に見舞金を配付した。ムアンチェンライ郡、メーサイ郡、メーファールワン郡では、見舞金とエコ毛布を1206世帯に配付した。(11月19日、11月25日)

今回は、この80年間に北部のチェンマイ県とチェンライ県で起きた最も深刻な水害である。遠隔地の被災者に支援が行き届かないことを心配して、ボランティアは泥の中を歩いて村まで行き、配付活動を行った。山奥で宅地を調査し、地盤の緩い土地で暮らす貧困世帯が、一日も早く安心して暮らせるよう願った。10月初め、チェンライ県メーサイ郡の住民は見舞金を受け取ると笑顔を見せた。(撮影‧蘇品緹)

ミャンマー

  • ネピドー・ダゴン郡で被害視察(9月28日)
  • 「仕事を与えて支援に代える」活動による現地の清掃で、20日間に延べ5546人の住民が参加し、198世帯に見舞金を配付した。(10月8日~27日)

田畑を失い、絶望的になっていた米農家の人々は、廃墟の中から道具を見つけ出し、協力して現地を清掃した。女性たちは調理チームと生活チームに参加し、まばゆい陽の下で村内の道を隈なく清掃していたコミュニティの住民に関心を寄せた。私たちは、「仕事を与えて支援に代える」活動が与えるパワーが、士気を高め、力を合わせて村の復旧に取り組む様子を目の当たりにした。(撮影‧Hein Pyae Sone)

ミャンマーでは、寺院が社会福祉機構のような役割を果たしている。現地のチャン・ミャエ・ミャイン禅修院のウー・ティハ・ニャル・ナ法師が、被災地へ案内してくれたことで、より甚大な被災状況を見た。10月下旬、「仕事を与えて支援に代える」活動による現地の清掃は第一段階が完了し、法師は村人と励まし合った。(撮影‧Hein Pyae Sone)

八月三十日、台風十一号(ヤギ)は、フィリピンの東方海域で発生し、九月二日に軽度台風となってルソン島に上陸した。そのまま速いスピードで通過し、南シナ海に進みながら勢力を強め続け、中国、ベトナム、ラオスを通過した後、タイとミャンマーに豪雨をもたらした。全体で二千万人以上が被災し、二〇二四年にアジアで発生した台風のうち、最も勢力が強かったと言われている。

(撮影‧シンハラット‧チュンチョム)(場所·タイ北部ムアンチェンライ郡 メーヤオ郷コクリバー)

台風十一号(ヤギ)は九十度近い大きなカーブを描いて台湾を掠めたが、逆に東南アジア諸国が大変な事態に遭遇した。台風は、九月二日にフィリピン・ルソン島に上陸して、土砂災害や洪水被害を引き起こし、首都マニラから約二十五キロの距離にあるリサール州では、山崩れが起きた。毎年二十以上の台風がフィリピンを襲うため、ボランティアは既に、迅速に対応する災害支援マニュアルを確立している。今回は千百世帯余りに白米等の物資を配付し、被害が大きかったアンティポロ市の二つの地域で、家が損壊した世帯に建築材料の購入券を配付して、住民が店舗で引き換えに必要な建材を受け取り、住宅を修繕することができるようにした。

しかし、それは悲劇の幕開けに過ぎず、九月六日、台風十一号は中国・海南省に上陸した後、ベトナムに進んだ。勢力は徐々に弱まっていたが、残留していた雲がインドシナ半島を通過し、インド洋に入る過程で、雨水が豊富な雨季と重なってしまい、ミャンマーとタイでは多くの河川の水位が急上昇して洪水を引き起こし、山沿いで発生した土石流により農地が埋もれた。統計によると、台風十一号による東南アジアでの犠牲者は、七百人以上に上った。

ベトナム政府はこの台風を、近年の三十年間で最も勢力の強い台風であると認定した。慈済人は北部で被害の大きかった地域の一つであるラオカイ省およびイエンバイ省で被害調査を行った。被災者の多くは農民で、家屋がほぼ全壊に等しい被害を受けた人もいた。元々彼らは貧しい上に、災害リスクの高い地域に住んでいて、再建は難しかったので、政府の支援の下に、移住することになった。慈済人は十一月中旬に、二千六百世帯余りに見舞金を配付して、緊急時を乗り切れるよう支援した。

同様にタイ北部のチェンマイ県、チェンライ県でも、ここ八十年間で最も甚大な洪水被害に見舞われた。被災地の近くにあるチェンマイ慈済学校では、先生と生徒たちが自主的に被害調査や配付活動に参加し、清掃を手伝った。首都バンコクにある慈済タイ支部のボランティアは、そのすぐ後に遠隔地の町や村を訪れ、被害調査を行った。

ミャンマーの被害は、より広い範囲に及んだ。首都ネピドーやマンダレー、バゴー、そしてシャン州の低地が洪水で浸水し、その被害は全国六十四の町や郡に広がり、多くの道路と橋が損壊した。現地の慈済会員の協力の下、慈済人はネピドー・ノースダゴン郡の村落に入り、緊急支援として見舞金を配付すると同時に、「仕事を与えて支援に代える」活動を始めた。住民は外部との連絡道路の清掃から始め、続いて泥の中にあった家が本来の姿を取り戻していった。

東南アジアは、世界規模の気候変動に対して最も脆弱な地域の一つである。被災地の多くが農業国であるため、深刻な農業被害が起きると、食糧の安全のみならず、食糧価格の高騰が貧困や飢餓問題を助長するようになる。国内のインフラも深刻な損害を受け、救援活動にも多くの試練が待ち受ける。困難な復興への道は、慈済人の付き添いがあれば、共に困難を乗り切ることができる。

(慈済月刊六九七期より)

被害状況の概要
  • アジアでこの数十年稀に見る地すべりが起きた。
  • 多くの住宅が浸水や停電、或いは村落が水没し、 インフラが損壊した。
  • ミャンマー政府は、緊急事態を宣言し、珍しく国際社会に支援を呼びかけた。

慈済の支援

(2024年11月25日までの統計)

ベトナム

  • 北部のラオカイ省、イエンバイ省での災害視察。(9月25日~28日)
  • ラオカイ省ナムプンコミューン、サンマサオコミューン及びイエンバイ省チャウ・クエ・トゥオン・コミューン、チャウ・クエ・ハ・コミューンにて見舞金を2671世帯に配付。(11月15日~19日)

ベトナムは台風11号が通った終点となったが、この30年間で最大の洪水が発生した。ボランティアは首都ハノイから北部のラオカイ省へ行って訪問ケアを行い、2時間かけて山を上り、荒れた農耕地の中で被災世帯を探した。

ラオカイ省ナムプンコミューンの住民は農業が主体で、5つの村落の382世帯の約65%が貧困か、それに近い状態で、台風の後、3分の1の被災世帯が、政府の支援による移住を待っていた。ボランティアは災害視察と訪問ケアを行い、餅菓子を贈って縁を結び、更に11月には、各世帯の人数に合わせて7万2千〜12万円相当の見舞金を配付した。(撮影‧阮廷雄)

ボランティアは9月25日から28日まで災害視察で、ラオカイ省ナムプンコミューンに向かう途中、何度も土砂崩れが起きた場所に遭遇し、一部の道は車両が通行できず、下車して徒歩するか、バイクでの移動を余儀なくされた。台風通過後の山は脆く、住民の安全が懸念されている。(撮影‧阮廷雄)

タイ

  • チェンマイ慈済学校の先生は、チェンマイ県・ファーン郡、メーアーイ郡ドイレム村およびチェンライ県メーファールワン郡メーサロン村を慰問した。被災視察の後、見舞金を46世帯に配付し、29名の寄宿生がファーン郡政府による被災住宅の清掃活動に参加した。(9月12日~10月5日)
  • 慈済タイ支部はムアンチェンライ郡、メーサイ郡の一部地域で被害視察を行い、薬品500人分、子供用の薬250人分、清掃用具と日用品500セットを配付した。(9月18日~19日)
  • チェンマイ県の慈済ボランティアは、チェンマイ県の市内及びサーラピー郡で2585食の炊き出しを行い、毎日チェンマイ県の社会福祉局と協力して300食を提供した。(9月26日~30日、10月5日~8日)
  • 道路が通行可能になるのを待って、二回ムアンチェンライ郡、メーサイ郡、メーファールワン郡及びウィエンケン郡で被害視察を行った。(10月4日~7日)
  • メーサロン村、タートン川沿岸の村落、ドイレム村で、中長期支援のアセスメントを行った。(10月4日~7日)
  • 慈済タイ支部はムアンチェンライ郡、メーサイ郡で888世帯に見舞金を配付した。(10月29日~30日)
  • 慈済タイ支部は、チェンマイ県メーアーイ郡で66世帯に見舞金を配付した。ムアンチェンライ郡、メーサイ郡、メーファールワン郡では、見舞金とエコ毛布を1206世帯に配付した。(11月19日、11月25日)

今回は、この80年間に北部のチェンマイ県とチェンライ県で起きた最も深刻な水害である。遠隔地の被災者に支援が行き届かないことを心配して、ボランティアは泥の中を歩いて村まで行き、配付活動を行った。山奥で宅地を調査し、地盤の緩い土地で暮らす貧困世帯が、一日も早く安心して暮らせるよう願った。10月初め、チェンライ県メーサイ郡の住民は見舞金を受け取ると笑顔を見せた。(撮影‧蘇品緹)

ミャンマー

  • ネピドー・ダゴン郡で被害視察(9月28日)
  • 「仕事を与えて支援に代える」活動による現地の清掃で、20日間に延べ5546人の住民が参加し、198世帯に見舞金を配付した。(10月8日~27日)

田畑を失い、絶望的になっていた米農家の人々は、廃墟の中から道具を見つけ出し、協力して現地を清掃した。女性たちは調理チームと生活チームに参加し、まばゆい陽の下で村内の道を隈なく清掃していたコミュニティの住民に関心を寄せた。私たちは、「仕事を与えて支援に代える」活動が与えるパワーが、士気を高め、力を合わせて村の復旧に取り組む様子を目の当たりにした。(撮影‧Hein Pyae Sone)

ミャンマーでは、寺院が社会福祉機構のような役割を果たしている。現地のチャン・ミャエ・ミャイン禅修院のウー・ティハ・ニャル・ナ法師が、被災地へ案内してくれたことで、より甚大な被災状況を見た。10月下旬、「仕事を与えて支援に代える」活動による現地の清掃は第一段階が完了し、法師は村人と励まし合った。(撮影‧Hein Pyae Sone)

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690期慈濟月刊

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二十八個福慧紅包的祝福

每一封福慧紅包都具有時代背景及意義,可謂是縮小版的慈濟歷史足跡;二○○三年的紅包還有一張「靜思祝福卡」。

從一九九六年到二○二四年,二十八個福慧紅包,見證詹月美將近三十年走在慈濟路上,沒掉隊也沒虛度時光,收穫的是今生無悔的喜悅。

從櫃子裏取出一封封福慧紅包,依照年分擺放在玻璃茶几上。不同款式的福慧紅包,雖經歲月洗禮,依舊熠熠生輝;詹月美凝視著這滿桌的福慧紅包和歡喜有緣卡,感受到上人的祝福年年歲歲都在。

「這是一九九六年的福慧紅包,是我第一次拿到上人的紅包,很珍貴。」詹月美從紅包裏面掏出三個馬幣二角的硬幣,她解釋這象徵六度波羅蜜,是上人送弟子的祝福,期許慈濟人在佛法中修行,讓自己變得更好。

詹月美想起一九九五年,遇到慈濟志工問她要不要做好事:「慈濟很好,幫人會幫到底,甚至會幫對方到善終為止。」這句話震撼了她,也引起她的興趣。

後來,她參與慈濟茶會,被志工比手語的優雅手勢所吸引。有志工邀她隔天一同去訪視,她爽快答應;她難忘那時抵達一間小木屋,是一位獨居阿公的家,屋裏地上處處有排泄物,阿公身上也是;但志工似乎不在乎,如常地幫阿公洗浴,也幫阿公洗好整桶的衣服。她不由得想起很久沒聯繫的父親,心中竟然湧上一股難以形容的酸楚。

詹月美來自貧困的家庭,三歲那年,母親因流產而往生,整個家庭也宣告破裂,五姊妹陸續被親友領養。外婆不諒解詹月美的父親,詹月美此後只要遇到不順心的事,便把責任歸咎給父親,甚至小學二年級就輟學,她也覺得是父親的錯,對他怨念深重。

五歲就離開原生家庭,與姊姊們各奔東西,她的心一直很苦。二十多年不過問父親消息的她,在看到獨居阿公無法自理的淒涼,想著志工對沒有血緣的阿公如親人般照顧,自己真的要將親生父親當陌生人嗎?

第一個紅包見證積怨消弭

好奇慈濟人為何能對阿公這麼好,內向的詹月美竟勇敢地隨同不相識的志工,從雪蘭莪州到慈濟檳城分會參加研習營。

早期,慈濟在雪隆還沒有靜思堂,當時的負責人劉濟雨及簡慈露夫婦騰出位於莎亞南的公寓充當會所。詹月美沒有交通工具,不怕辛苦地搭車、轉車或與志工共乘去參加活動。「在共修或會議中,劉師兄、簡師姊每次從臺灣回來,都會分享上人做了什麼、說了什麼,我就這樣一點一點地聽進去。」

上人說:「行善行孝不能等」、「行善要從家中做起」,她想起獨居阿公的處境,便邀約姊姊回怡保老家見父親,才驚覺在咖啡店工作的父親已經沒有家,棲身在咖啡店廚房一隅,一張帆布床就是他的家。

曾經有二十多年不與父親聯繫,走進慈濟讓詹月美(右)及姊姊重新與父親相認。(相片提供/詹月美)

衰老的父親,無依無靠的模樣,讓她和姊姊深感不忍。她們幫父親租一間房,她也生平第一次和父親用餐。那一年,她們為父親慶生,除夕夜邀他吃團圓飯。後來,遠在沙巴的哥哥把父親接去同住,給予妥善照顧,此後她常搭機前往陪伴。

四年後,父親因跌倒而往生;雖然盡孝的時間只有四年,她卻慶幸加入慈濟,能及時行善行孝。她曾經以為這一世都無法放下對父親的怨恨,甚至在看志工比唱〈普天三無〉的手語時,覺得不可能有人能做到普天下沒有我不愛、我不信任、我不原諒的人;但是,修復父女關係後,才知道要做到普天三無並不難,只要心中有愛……

慈濟讓她找回愛,所以,當她第一次領取福慧紅包,得知這是上人用自己著作的版權費化成紅包,送給志工的祝福時,心中特別感動;她更感恩這一年,她不但走進慈濟大家庭,更祛除積壓多年的怨恨,而且,能做好事的喜悅讓苦的人生變得快樂。

不結惡緣也不要停下腳步

每年參加慈濟歲末祝福、領取福慧紅包,成為詹月美最期待的時刻,即使生病也堅持要去領回;她笑言這是上人的祝福和鼓勵,做弟子的要歡喜去接,接了福慧紅包,會更有力量做慈濟。

面對二十八個福慧紅包,她如數家珍,福慧紅包的設計是一年比一年精緻,而且有當年的時代背景及故事。例如一九九七年的福慧紅包是二元美鈔,象徵慈濟志業走向國際化。一九九八年的福慧紅包,包裝一枚紀念幣,正面是慈濟蓮花標誌,背面是靜思精舍圖像,刻印「慈悲喜捨、福慧雙修」八個字;除此,還有一個一元的硬幣,象徵一年復始,萬象更新。

從那年起,福慧紅包就以紀念幣及一元硬幣為主,但每年紅包封內外的設計,都會因應時代翻新。除了福慧紅包外,上人也會贈送「歡喜有緣福慧紅包」給慈濟會員。

二○○五年耶誕節,詹月美與殘智障院院友互動;慈善服務也改變她的觀念。(攝影/覃平福)

詹月美挑出一個福慧紅包,捧在手心,喜孜孜說道:「這是二○○一年的,也是我格外珍惜的。因為我終於培訓圓滿,回去心靈故鄉花蓮受證為慈濟委員,從上人手裏接過這封紅包。」

在慈濟五年才受證,她不諱言那段歲月是她改變習氣的時候。她自小性格孤僻,言語不饒人,會因堅持己見和志工起爭執,一次次的磨合讓她起煩惱。

「我一參加慈濟,就很愛做慈濟事。我本來是一名車衣女工,為了有自由時間做慈濟,我辭掉工作,很勇敢地在商場租下一個小單位,開起裁縫店。」小小的裁縫店是營生的地方,也提供志工開會或聯誼;如此為慈濟付出,卻因人事摩擦感到灰心,想退出慈濟。

退轉心一起,當晚她就夢見上人從遠方緩緩走來,輕輕告訴她:「怎麼辛苦都要堅持下去,繼續做下去。」醒來後,上人的話清晰迴盪耳邊,給了她繼續做慈濟的力量。後來開始能收看大愛電視,隨時可聆聽上人說法,佛法令她瞭然因緣果報,也領悟到與人爭執是結不好的緣。

她不斷調整情緒,聲色漸漸變得柔和,講話的語氣不再尖銳;她也從靜思語:「人圓事圓理圓」、「知足、善解、感恩、包容」、「不要小看自己,人有無限可能」中學習做人做事,不斷突破自己往前走。二○○○年底受證,領到上人頒發的二○○一年福慧紅包,她發願此生緊隨上人腳步,好好做慈濟,精進在菩薩道上。

詹月美天天聽聞上人開示,薰習佛法轉心念、改習氣,在志工路上不懈怠。

感恩福報滿滿還能做慈濟

受證發的願成了她今生的承諾,自此,任何活動都勇於承擔,樂於配合;不論是做協力組長或是現在承擔互愛組長,從不推辭。正因為受益於佛法而改變人生,她也用心牽引會眾聞法。

「我們社區自幾年前就推動品書會,每月兩次,直到今天仍持續進行。我們也辦午間祈禱,透過分享上人的開示和祈禱天下無災難,啟發大家的善心善念。」她覺得多了解佛法,在成為志工後,才會歡喜做慈濟。

多年承擔組長的經驗,讓她體會到誠與情很重要,她關心志工的身心靈、家庭問題、事業問題等;一位師姊的先生遭逢意外往生,一直走不出來,她在關心之餘,時時邀約對方出來參與活動,也陪伴她看電影散心。

帶人也要帶心,她分享二十年前承擔大水災的賑災協調時,在掃除泥濘的現場,看到社區居民許麗珠很積極配合,感受到她有心付出,當下果斷地委託她承擔小組長,讓她帶動一組人去清掃街道,並隨時給予種種協助。

多年前受證為慈濟委員的許麗珠,最近在一場讀書會遇到詹月美,還歡喜地提起往事,感恩詹月美對她的信任,她深受感動才決定走進慈濟,如今承擔和氣組長的她,也帶了不少人進來做慈濟。

兩年前,詹月美被診斷出腦部小中風,「那一陣子,我奇怪自己為何思緒無法集中。之前聽上人開示,我可以邊聽邊記錄,後來只記得前面一、二句,其他都不記得。」當時連裁衣、畫圖都做不了,歷經一年多治療才慢慢好轉。

她感恩志工們自動分擔工作,讓她有多一點時間休息。她感到生命無常,無畏身體有病,爭取時間做能做的志工事,例如陪伴照顧戶去醫院複診等。

體會到上人常講的時間不夠用,她在這兩年拿到福慧紅包時,虔誠感恩自己還有福報接受上人的祝福。二○二四年十二月底,她領了二○二五年、也是她珍惜的第二十九個福慧紅包,她沒想到做慈濟一晃眼就過了二十九年,但她不感到疲累也不厭倦。

「慈濟在一九六六年成立,我在那年出生;所以,我和慈濟同年。」深感奇妙的緣分將她帶進慈濟,改變人生;她期許自己年年做慈濟,歲歲都能領取福慧紅包!

每一封福慧紅包都具有時代背景及意義,可謂是縮小版的慈濟歷史足跡;二○○三年的紅包還有一張「靜思祝福卡」。

從一九九六年到二○二四年,二十八個福慧紅包,見證詹月美將近三十年走在慈濟路上,沒掉隊也沒虛度時光,收穫的是今生無悔的喜悅。

從櫃子裏取出一封封福慧紅包,依照年分擺放在玻璃茶几上。不同款式的福慧紅包,雖經歲月洗禮,依舊熠熠生輝;詹月美凝視著這滿桌的福慧紅包和歡喜有緣卡,感受到上人的祝福年年歲歲都在。

「這是一九九六年的福慧紅包,是我第一次拿到上人的紅包,很珍貴。」詹月美從紅包裏面掏出三個馬幣二角的硬幣,她解釋這象徵六度波羅蜜,是上人送弟子的祝福,期許慈濟人在佛法中修行,讓自己變得更好。

詹月美想起一九九五年,遇到慈濟志工問她要不要做好事:「慈濟很好,幫人會幫到底,甚至會幫對方到善終為止。」這句話震撼了她,也引起她的興趣。

後來,她參與慈濟茶會,被志工比手語的優雅手勢所吸引。有志工邀她隔天一同去訪視,她爽快答應;她難忘那時抵達一間小木屋,是一位獨居阿公的家,屋裏地上處處有排泄物,阿公身上也是;但志工似乎不在乎,如常地幫阿公洗浴,也幫阿公洗好整桶的衣服。她不由得想起很久沒聯繫的父親,心中竟然湧上一股難以形容的酸楚。

詹月美來自貧困的家庭,三歲那年,母親因流產而往生,整個家庭也宣告破裂,五姊妹陸續被親友領養。外婆不諒解詹月美的父親,詹月美此後只要遇到不順心的事,便把責任歸咎給父親,甚至小學二年級就輟學,她也覺得是父親的錯,對他怨念深重。

五歲就離開原生家庭,與姊姊們各奔東西,她的心一直很苦。二十多年不過問父親消息的她,在看到獨居阿公無法自理的淒涼,想著志工對沒有血緣的阿公如親人般照顧,自己真的要將親生父親當陌生人嗎?

第一個紅包見證積怨消弭

好奇慈濟人為何能對阿公這麼好,內向的詹月美竟勇敢地隨同不相識的志工,從雪蘭莪州到慈濟檳城分會參加研習營。

早期,慈濟在雪隆還沒有靜思堂,當時的負責人劉濟雨及簡慈露夫婦騰出位於莎亞南的公寓充當會所。詹月美沒有交通工具,不怕辛苦地搭車、轉車或與志工共乘去參加活動。「在共修或會議中,劉師兄、簡師姊每次從臺灣回來,都會分享上人做了什麼、說了什麼,我就這樣一點一點地聽進去。」

上人說:「行善行孝不能等」、「行善要從家中做起」,她想起獨居阿公的處境,便邀約姊姊回怡保老家見父親,才驚覺在咖啡店工作的父親已經沒有家,棲身在咖啡店廚房一隅,一張帆布床就是他的家。

曾經有二十多年不與父親聯繫,走進慈濟讓詹月美(右)及姊姊重新與父親相認。(相片提供/詹月美)

衰老的父親,無依無靠的模樣,讓她和姊姊深感不忍。她們幫父親租一間房,她也生平第一次和父親用餐。那一年,她們為父親慶生,除夕夜邀他吃團圓飯。後來,遠在沙巴的哥哥把父親接去同住,給予妥善照顧,此後她常搭機前往陪伴。

四年後,父親因跌倒而往生;雖然盡孝的時間只有四年,她卻慶幸加入慈濟,能及時行善行孝。她曾經以為這一世都無法放下對父親的怨恨,甚至在看志工比唱〈普天三無〉的手語時,覺得不可能有人能做到普天下沒有我不愛、我不信任、我不原諒的人;但是,修復父女關係後,才知道要做到普天三無並不難,只要心中有愛……

慈濟讓她找回愛,所以,當她第一次領取福慧紅包,得知這是上人用自己著作的版權費化成紅包,送給志工的祝福時,心中特別感動;她更感恩這一年,她不但走進慈濟大家庭,更祛除積壓多年的怨恨,而且,能做好事的喜悅讓苦的人生變得快樂。

不結惡緣也不要停下腳步

每年參加慈濟歲末祝福、領取福慧紅包,成為詹月美最期待的時刻,即使生病也堅持要去領回;她笑言這是上人的祝福和鼓勵,做弟子的要歡喜去接,接了福慧紅包,會更有力量做慈濟。

面對二十八個福慧紅包,她如數家珍,福慧紅包的設計是一年比一年精緻,而且有當年的時代背景及故事。例如一九九七年的福慧紅包是二元美鈔,象徵慈濟志業走向國際化。一九九八年的福慧紅包,包裝一枚紀念幣,正面是慈濟蓮花標誌,背面是靜思精舍圖像,刻印「慈悲喜捨、福慧雙修」八個字;除此,還有一個一元的硬幣,象徵一年復始,萬象更新。

從那年起,福慧紅包就以紀念幣及一元硬幣為主,但每年紅包封內外的設計,都會因應時代翻新。除了福慧紅包外,上人也會贈送「歡喜有緣福慧紅包」給慈濟會員。

二○○五年耶誕節,詹月美與殘智障院院友互動;慈善服務也改變她的觀念。(攝影/覃平福)

詹月美挑出一個福慧紅包,捧在手心,喜孜孜說道:「這是二○○一年的,也是我格外珍惜的。因為我終於培訓圓滿,回去心靈故鄉花蓮受證為慈濟委員,從上人手裏接過這封紅包。」

在慈濟五年才受證,她不諱言那段歲月是她改變習氣的時候。她自小性格孤僻,言語不饒人,會因堅持己見和志工起爭執,一次次的磨合讓她起煩惱。

「我一參加慈濟,就很愛做慈濟事。我本來是一名車衣女工,為了有自由時間做慈濟,我辭掉工作,很勇敢地在商場租下一個小單位,開起裁縫店。」小小的裁縫店是營生的地方,也提供志工開會或聯誼;如此為慈濟付出,卻因人事摩擦感到灰心,想退出慈濟。

退轉心一起,當晚她就夢見上人從遠方緩緩走來,輕輕告訴她:「怎麼辛苦都要堅持下去,繼續做下去。」醒來後,上人的話清晰迴盪耳邊,給了她繼續做慈濟的力量。後來開始能收看大愛電視,隨時可聆聽上人說法,佛法令她瞭然因緣果報,也領悟到與人爭執是結不好的緣。

她不斷調整情緒,聲色漸漸變得柔和,講話的語氣不再尖銳;她也從靜思語:「人圓事圓理圓」、「知足、善解、感恩、包容」、「不要小看自己,人有無限可能」中學習做人做事,不斷突破自己往前走。二○○○年底受證,領到上人頒發的二○○一年福慧紅包,她發願此生緊隨上人腳步,好好做慈濟,精進在菩薩道上。

詹月美天天聽聞上人開示,薰習佛法轉心念、改習氣,在志工路上不懈怠。

感恩福報滿滿還能做慈濟

受證發的願成了她今生的承諾,自此,任何活動都勇於承擔,樂於配合;不論是做協力組長或是現在承擔互愛組長,從不推辭。正因為受益於佛法而改變人生,她也用心牽引會眾聞法。

「我們社區自幾年前就推動品書會,每月兩次,直到今天仍持續進行。我們也辦午間祈禱,透過分享上人的開示和祈禱天下無災難,啟發大家的善心善念。」她覺得多了解佛法,在成為志工後,才會歡喜做慈濟。

多年承擔組長的經驗,讓她體會到誠與情很重要,她關心志工的身心靈、家庭問題、事業問題等;一位師姊的先生遭逢意外往生,一直走不出來,她在關心之餘,時時邀約對方出來參與活動,也陪伴她看電影散心。

帶人也要帶心,她分享二十年前承擔大水災的賑災協調時,在掃除泥濘的現場,看到社區居民許麗珠很積極配合,感受到她有心付出,當下果斷地委託她承擔小組長,讓她帶動一組人去清掃街道,並隨時給予種種協助。

多年前受證為慈濟委員的許麗珠,最近在一場讀書會遇到詹月美,還歡喜地提起往事,感恩詹月美對她的信任,她深受感動才決定走進慈濟,如今承擔和氣組長的她,也帶了不少人進來做慈濟。

兩年前,詹月美被診斷出腦部小中風,「那一陣子,我奇怪自己為何思緒無法集中。之前聽上人開示,我可以邊聽邊記錄,後來只記得前面一、二句,其他都不記得。」當時連裁衣、畫圖都做不了,歷經一年多治療才慢慢好轉。

她感恩志工們自動分擔工作,讓她有多一點時間休息。她感到生命無常,無畏身體有病,爭取時間做能做的志工事,例如陪伴照顧戶去醫院複診等。

體會到上人常講的時間不夠用,她在這兩年拿到福慧紅包時,虔誠感恩自己還有福報接受上人的祝福。二○二四年十二月底,她領了二○二五年、也是她珍惜的第二十九個福慧紅包,她沒想到做慈濟一晃眼就過了二十九年,但她不感到疲累也不厭倦。

「慈濟在一九六六年成立,我在那年出生;所以,我和慈濟同年。」深感奇妙的緣分將她帶進慈濟,改變人生;她期許自己年年做慈濟,歲歲都能領取福慧紅包!

《大捨與大愛 慈濟大學模擬手術教學》

精選書摘

溫柔引領我劃下 充滿溫度的每一刀

撰文‧蕭龐軒(中國醫藥大學附設醫院骨科部主治醫師)

身為外科醫師,自落刀開始就有著不容出錯的壓力。在無語良師身上,我們仔細檢視每條神經、每條血管的走向。即便是冰冷的身軀,溫柔的老師卻讓每一刀劃下去都充滿著溫度,成為日後執行其他手術的養分。

從西部的喧囂,經過北海岸交織錯落的古鎮;而後火車轉個彎,龜山島靜靜矗立在不遠的海平面上,似乎在昂首歡迎來這蔚藍東海岸,最後又在山與海的交線之間行了一個多小時,緩緩停靠在地廣人稀的花蓮土地上。已數不清是第幾次造訪這世外桃源,我輕車熟路地來到了離後火車站不遠的慈濟大學,一樣的地點,一樣由無語良師帶領的解剖學課程,這次卻帶給我不一樣的悸動。

回想大學時期,對於解剖學只有粗淺的認知。直到近年,感恩無語良師的捨身奉獻,這次的解剖課程,我特別報名了行前的家屬訪問。師母及兒子細數老師生平,從求學到工作,到如何因機緣而受感召成為一位慈濟人,最後簽署了捐贈同意書。我從這當中看見了一個大千世界中的平凡人,如何成就他的不平凡。人,生而為何?死又何去何從?眾人鎮日在這三千煩惱中不斷追尋人生的意義。我想對於無語良師而言,藉由捨身奉獻皮囊,傾囊相授予學生的這最後過程,足以圓滿闡釋了人生的真諦。

身為一位外科醫師,自落刀開始就有著不容出錯的壓力,即便拜現今科技發達,可從網路影片上不斷臨摹手術過程,然而在真實開刀房裏,面對著各種層出不窮的突發狀況,其中最讓人困擾的,莫過於超出教科書上描述的解剖構造,牽一髮動全身,一條陌生的血管神經總能攸關手術順利與否。

在無語良師身上,允許我們犯錯的老師,讓我們可以再仔細地對照教科書上的解剖結構,拉大傷口,仔細檢視每條神經、每條血管的走向。即便是冰冷的身軀,溫柔的老師卻讓每一刀劃下去都充滿著溫度,滋養著成為日後執行其他手術的養分。

緣起緣滅間,利他奉獻

每年的模擬手術空檔,我都會抽空細看所有老師們的生平簡介,從而發現慈濟人都有股溫暖的特質。即便是生前的生活困苦,抑或是人生不得際遇,老師們總能從容不迫地去應對生命各種苦難,這種精神更能擴散到周遭的人們,進而形成向善的循環。在無語良師的典禮行儀時,有別於坊間的哀傷,我感受到的是莊嚴、隆重,以及充滿感恩的氣氛。振聾發聵的佛法,暮鼓晨鐘的音聲,再再提點了我們萬物諸法空相,緣起緣滅間,藉由捨身奉獻的利他行為,讓此生更顯意義。

若有人間世外桃源,在臺灣莫如花蓮。這兒夜闌人靜時,你可以隱約聽見遠處東海岸的浪濤聲,以及西邊山脈的鳥語蟲鳴。坐落中間則是那穩重如泰山的灰白建築,每天迎接著日出的晨曦,在夜晚燈火闌珊處靜靜守護眾人。如今行之十餘載的模擬手術課程更是澤被全臺,引領了無數醫師在行醫之路可以更踏實。

每次的模擬手術課程,總是第一天來到,隔日傍晚就啟程回西部,伴隨著隆隆的火車鐵軌聲,即便身體十分疲憊,但無語良師所教導我的課程以及慈濟所帶給我的人文體驗卻長留心中。

模擬真實 全人醫療教育啟新頁

撰文‧林俊龍(佛教慈濟醫療財團法人執行長)

慈濟首創全臺唯一甚至是全球醫界少有,以無語良師進行達文西全人模擬手術訓練課程,為臺灣外科醫師訓練拓展新領域。圖為進行「心臟二尖瓣修復術和二尖瓣置換術」。(攝影/李玉如)

感恩無語良師奉獻己身,感恩家屬們的難捨大捨,這些願力都傾注在醫學教育中,讓外科醫師與醫學生們學習更先進的醫術嘉惠病人。

在醫學養成教育當中,非常重要但一直有陰暗面無法突破的解剖學課程,在證嚴上人的引領下,走出一條創新且具溫暖人性的菩提大道。將一般原本位於醫學院地下室的解剖學教室,改至充滿陽光、綠樹縈繞的二樓窗邊教室;改變大體防腐與存放的方式,平放並標明位置,且位於佛堂旁邊。大體老師被尊稱為「無語良師」,從啟用、追思、火化、入龕、安置大捨堂,教師、學生與大體老師家屬皆全程參與,表達敬意與追思之情。

這樣的變革,讓習醫者知道無語良師不是無名氏,拜訪家屬,採訪撰寫老師的生平,讓學生們親耳聽到無語良師無私奉獻,是「想讓醫學生好好學習醫術」。從此,每一次下刀,都是學生讓無語良師達成心願的時刻。

除了解剖學,無語良師還能以冷凍大體的樣貌,作為模擬手術的展現者,讓醫師提升開刀技術專業。醫師經由模擬手術過程中各階段的人文儀式,理解無語良師生前對社會的貢獻,其中大多數是慈濟人,生前投入志工服務,往生後貢獻自身給醫學教育,這是醫療執業生涯中的人文重啟,面對無語良師與家屬的期待,重新找回以人為本的行醫初發心。

自二○一○年慈濟模擬手術課程開啟,慈濟大學醫學院與慈濟醫療志業就提供最新型的手術設備與器材,讓外科醫師學習;待完成課程,離開模擬手術教室之後,立刻能無縫接軌至醫院手術室,直接為病人進行手術治療。

迄今,參加慈濟大體模擬手術的醫師超過一萬二千二百人次,慈濟醫療體系與非慈濟醫療體系參與的醫師人數幾乎各占一半;而參與的醫學生約一千七百人次,包括海內外的外校醫學生四百四十人次。

幾乎全臺灣所有外科系的醫學會都參與過慈濟模擬手術教學,對臺灣整體外科醫術的提升,大有裨益。而來自世界各地的醫師、醫學生亦受慈濟醫療人文影響,大受感動,甚至將無語良師的人文儀式引進至香港、馬來西亞與新加坡的國立大學醫學院。

慈濟醫療志業對於醫學教育的支持,一直以來,初心未改,引進最先進的醫療科技來培訓醫學生與年輕醫師。自達文西手術系統問世後,二○一四年八月花蓮慈院安裝了慈濟醫療體系第一套達文西手術系統,當二○二三年換裝第四代系統,感恩廠商大力支持且完成檢修保養,二○二四年四月達文西手術系統終於進駐慈大模擬手術教室,由臺灣胸腔及心臟血管外科學會進行教學,這是全臺首創的「達文西全人模擬手術訓練」,開啟了臺灣醫學教育新領域。七月初廠商更是將最新的達文西Xi系統與醫材,運送至花蓮慈濟大學安裝,由臺灣喉科醫學會、中華民國口腔顎面外科學會進行模擬手術教學。

感恩無語良師為醫學教育奉獻己身,感恩無語良師家屬們的難捨大捨,這源源不絕的正能量與願力都傾注在醫學教育中,讓外科醫師與醫學生們能持續精進,學習更新、更精湛的醫術技能,嘉惠病人。

大捨與大愛 慈濟大學模擬手術教學

41位醫師從醫界視角解讀,從模擬手術中得到的外科技能、技術創新及人文啟示,實際運用在醫療中造福病患

⌑ 編著:慈濟學校財團法人
⌑ 出版:經典雜誌
⌑ 相關書目:
《以身相許:無語良師的生命教育》
《生命無盡:無語良師照亮慈大模擬醫學中心》

精選書摘

溫柔引領我劃下 充滿溫度的每一刀

撰文‧蕭龐軒(中國醫藥大學附設醫院骨科部主治醫師)

身為外科醫師,自落刀開始就有著不容出錯的壓力。在無語良師身上,我們仔細檢視每條神經、每條血管的走向。即便是冰冷的身軀,溫柔的老師卻讓每一刀劃下去都充滿著溫度,成為日後執行其他手術的養分。

從西部的喧囂,經過北海岸交織錯落的古鎮;而後火車轉個彎,龜山島靜靜矗立在不遠的海平面上,似乎在昂首歡迎來這蔚藍東海岸,最後又在山與海的交線之間行了一個多小時,緩緩停靠在地廣人稀的花蓮土地上。已數不清是第幾次造訪這世外桃源,我輕車熟路地來到了離後火車站不遠的慈濟大學,一樣的地點,一樣由無語良師帶領的解剖學課程,這次卻帶給我不一樣的悸動。

回想大學時期,對於解剖學只有粗淺的認知。直到近年,感恩無語良師的捨身奉獻,這次的解剖課程,我特別報名了行前的家屬訪問。師母及兒子細數老師生平,從求學到工作,到如何因機緣而受感召成為一位慈濟人,最後簽署了捐贈同意書。我從這當中看見了一個大千世界中的平凡人,如何成就他的不平凡。人,生而為何?死又何去何從?眾人鎮日在這三千煩惱中不斷追尋人生的意義。我想對於無語良師而言,藉由捨身奉獻皮囊,傾囊相授予學生的這最後過程,足以圓滿闡釋了人生的真諦。

身為一位外科醫師,自落刀開始就有著不容出錯的壓力,即便拜現今科技發達,可從網路影片上不斷臨摹手術過程,然而在真實開刀房裏,面對著各種層出不窮的突發狀況,其中最讓人困擾的,莫過於超出教科書上描述的解剖構造,牽一髮動全身,一條陌生的血管神經總能攸關手術順利與否。

在無語良師身上,允許我們犯錯的老師,讓我們可以再仔細地對照教科書上的解剖結構,拉大傷口,仔細檢視每條神經、每條血管的走向。即便是冰冷的身軀,溫柔的老師卻讓每一刀劃下去都充滿著溫度,滋養著成為日後執行其他手術的養分。

緣起緣滅間,利他奉獻

每年的模擬手術空檔,我都會抽空細看所有老師們的生平簡介,從而發現慈濟人都有股溫暖的特質。即便是生前的生活困苦,抑或是人生不得際遇,老師們總能從容不迫地去應對生命各種苦難,這種精神更能擴散到周遭的人們,進而形成向善的循環。在無語良師的典禮行儀時,有別於坊間的哀傷,我感受到的是莊嚴、隆重,以及充滿感恩的氣氛。振聾發聵的佛法,暮鼓晨鐘的音聲,再再提點了我們萬物諸法空相,緣起緣滅間,藉由捨身奉獻的利他行為,讓此生更顯意義。

若有人間世外桃源,在臺灣莫如花蓮。這兒夜闌人靜時,你可以隱約聽見遠處東海岸的浪濤聲,以及西邊山脈的鳥語蟲鳴。坐落中間則是那穩重如泰山的灰白建築,每天迎接著日出的晨曦,在夜晚燈火闌珊處靜靜守護眾人。如今行之十餘載的模擬手術課程更是澤被全臺,引領了無數醫師在行醫之路可以更踏實。

每次的模擬手術課程,總是第一天來到,隔日傍晚就啟程回西部,伴隨著隆隆的火車鐵軌聲,即便身體十分疲憊,但無語良師所教導我的課程以及慈濟所帶給我的人文體驗卻長留心中。

模擬真實 全人醫療教育啟新頁

撰文‧林俊龍(佛教慈濟醫療財團法人執行長)

慈濟首創全臺唯一甚至是全球醫界少有,以無語良師進行達文西全人模擬手術訓練課程,為臺灣外科醫師訓練拓展新領域。圖為進行「心臟二尖瓣修復術和二尖瓣置換術」。(攝影/李玉如)

感恩無語良師奉獻己身,感恩家屬們的難捨大捨,這些願力都傾注在醫學教育中,讓外科醫師與醫學生們學習更先進的醫術嘉惠病人。

在醫學養成教育當中,非常重要但一直有陰暗面無法突破的解剖學課程,在證嚴上人的引領下,走出一條創新且具溫暖人性的菩提大道。將一般原本位於醫學院地下室的解剖學教室,改至充滿陽光、綠樹縈繞的二樓窗邊教室;改變大體防腐與存放的方式,平放並標明位置,且位於佛堂旁邊。大體老師被尊稱為「無語良師」,從啟用、追思、火化、入龕、安置大捨堂,教師、學生與大體老師家屬皆全程參與,表達敬意與追思之情。

這樣的變革,讓習醫者知道無語良師不是無名氏,拜訪家屬,採訪撰寫老師的生平,讓學生們親耳聽到無語良師無私奉獻,是「想讓醫學生好好學習醫術」。從此,每一次下刀,都是學生讓無語良師達成心願的時刻。

除了解剖學,無語良師還能以冷凍大體的樣貌,作為模擬手術的展現者,讓醫師提升開刀技術專業。醫師經由模擬手術過程中各階段的人文儀式,理解無語良師生前對社會的貢獻,其中大多數是慈濟人,生前投入志工服務,往生後貢獻自身給醫學教育,這是醫療執業生涯中的人文重啟,面對無語良師與家屬的期待,重新找回以人為本的行醫初發心。

自二○一○年慈濟模擬手術課程開啟,慈濟大學醫學院與慈濟醫療志業就提供最新型的手術設備與器材,讓外科醫師學習;待完成課程,離開模擬手術教室之後,立刻能無縫接軌至醫院手術室,直接為病人進行手術治療。

迄今,參加慈濟大體模擬手術的醫師超過一萬二千二百人次,慈濟醫療體系與非慈濟醫療體系參與的醫師人數幾乎各占一半;而參與的醫學生約一千七百人次,包括海內外的外校醫學生四百四十人次。

幾乎全臺灣所有外科系的醫學會都參與過慈濟模擬手術教學,對臺灣整體外科醫術的提升,大有裨益。而來自世界各地的醫師、醫學生亦受慈濟醫療人文影響,大受感動,甚至將無語良師的人文儀式引進至香港、馬來西亞與新加坡的國立大學醫學院。

慈濟醫療志業對於醫學教育的支持,一直以來,初心未改,引進最先進的醫療科技來培訓醫學生與年輕醫師。自達文西手術系統問世後,二○一四年八月花蓮慈院安裝了慈濟醫療體系第一套達文西手術系統,當二○二三年換裝第四代系統,感恩廠商大力支持且完成檢修保養,二○二四年四月達文西手術系統終於進駐慈大模擬手術教室,由臺灣胸腔及心臟血管外科學會進行教學,這是全臺首創的「達文西全人模擬手術訓練」,開啟了臺灣醫學教育新領域。七月初廠商更是將最新的達文西Xi系統與醫材,運送至花蓮慈濟大學安裝,由臺灣喉科醫學會、中華民國口腔顎面外科學會進行模擬手術教學。

感恩無語良師為醫學教育奉獻己身,感恩無語良師家屬們的難捨大捨,這源源不絕的正能量與願力都傾注在醫學教育中,讓外科醫師與醫學生們能持續精進,學習更新、更精湛的醫術技能,嘉惠病人。

大捨與大愛 慈濟大學模擬手術教學

41位醫師從醫界視角解讀,從模擬手術中得到的外科技能、技術創新及人文啟示,實際運用在醫療中造福病患

⌑ 編著:慈濟學校財團法人
⌑ 出版:經典雜誌
⌑ 相關書目:
《以身相許:無語良師的生命教育》
《生命無盡:無語良師照亮慈大模擬醫學中心》

馬來西亞沙巴—產婦盤山過海 走出生路

安吉莉娜一路顛簸從離島來到慈濟生命關懷之家待產,準備迎接第一個孩子出生,慈濟志工像媽媽般噓寒問暖。

山區部落的產婦,深夜走在蠶叢鳥道,往城市裏的醫院前進。大腹便便的離島準媽媽,搭著一葉小船渡海顛簸、飄搖進城。為了新生,她們甘願受苦;為了守護,慈濟志工與偏鄉醫護願意一路相伴。

您覺得,這件事到今天還有意義嗎?」一位慈濟志工問道。

要探索意義,或許可先溯源、再從時空脈絡中爬梳。有無意義?答案終會浮現。志工思考的這件事,發生在赤道國度馬來西亞的沙巴州。

從高空鳥瞰,蓊鬱雨林、黃水長河、湛藍海岸、點點聚落,大致已經勾勒出沙巴的印象。淅淅瀝瀝的季風雨後,空氣中的溫溼度更讓沙巴充滿赤道之味。

二○二四年底,我帶著紀錄片拍攝小組來到雨季的沙巴採訪。前往山區的途中,突然下起滂沱暴雨;大河瞬間洶湧、洪流淹沒車行便道;高懸搖晃的吊橋上,三兩學生快步而過、全身溼透。看著眼前情景,大家卻深吐一口氣,同時有種壓力釋然之感。因為,就在前一天的同一條路,團隊才剛拍完慈濟志工護送孕婦下山待產的畫面。這一天之差,或許已經改寫這對母嬰的命運。

隨行志工李師雄平時是跑遍全沙巴的貨車職業駕駛;他分析道,沙巴水陸交通與天候相關。尤其熱帶暴雨威力極強、常常釀災。河流漲水是最危險的,因為沒人知道前方究竟是河道還是路面。而原始山區則依靠小船接駁,航行與否同樣取決於水位。

亞洲第一大島,人稱婆羅洲。這個大島分屬三個國家地區—汶萊、印尼加里曼丹省、北邊則屬於大馬沙巴州。婆羅洲擁有全世界最古老的雨林;地形上,可說由山、林、河、島交織而成。更深入內陸,許多原住民部落仍呈現近乎與世隔絕的樣態。在杜順族(Dusun)原住民語中,本文故事發生地比打士(Pitas),即為隔絕之意。

婆羅洲赤道氣候明顯,上半年乾季結束後,下半年雨季常常充滿戲劇性。如前述,隨便一場暴雨,就可能阻斷山區對外交通。部落居民或許早已習慣這樣的天氣,但若遇到緊急狀況,可能就應驗了他們常說的一句話:「不是生,就是死!」

志工與護士來到安吉莉娜(圖1右二)家中,眾人以天主教儀式祈福後,火速將她帶往比打士待產;她臨盆在即加上高血壓,一路可謂驚滔駭浪(圖2)。

難產風險,威脅偏鄉婦女

往下閱讀前,先試想一個畫面—山區部落的產婦,深夜走在蠶叢鳥道上往城市裏的醫院前進。大腹便便的離島準媽媽,搭著一葉小船渡海顛簸、飄搖進城。為了新生,她們甘願受苦;為了守護,慈濟志工與偏鄉醫護願意一路相伴。

在沙巴州北部離島詹博根(Jambongan),二十八歲的安吉莉娜(Anggelina)初次懷胎。她是來自印尼的天主教徒,丈夫在油棕園辛勤工作,月薪約莫一千七百令吉(MYR),折合新臺幣一萬兩千元。由於曾患癲癇與高血壓,安吉莉娜已經被護理師列為高風險產婦。產前二十多天,她被送往比打士附近的醫院,順利產下一個健康的女嬰。

在同屬沙巴的深山,另一位懷有雙胞胎的原住民媽媽難產,家人緊急將她送往城裏的醫院。無奈山路崎嶇迢遙,加上大雨引發河水暴漲,最終阻斷了求生之路—母子三人在途中不幸離世。

前者的幸運發生於二○二四年,而後者的悲劇則是二十多年前的事。兩位母親截然不同的遭遇,深刻反映了偏鄉婦女生育上的困境。慈濟志工張植青歸納出四個難—說服難、交通難、宣導難、偏鄉醫護人力難。

二○二四年年底,來自沙巴首府亞庇(Kota Kinabalu)的慈濟志工,分乘兩船前往詹博根島。傍晚海天一線、斷霞殘紅;但眾人不待欣賞美景,抵達診所稍事整備後,擠上老舊皮卡往內陸前進。

天已黑,從高空鳥瞰,僅剩兩束微弱車燈引出小徑方向。擠在皮卡後方仰望天際,可見一輪皎月與點點星光。森林傳來野獸鳴叫、油棕葉偶爾輕拍訪客臉上,感官體驗十分特殊。半個多小時顛簸後,皮卡終於抵達一座工寮。造訪的對象,是菲律賓籍首胎產婦克勞汀(Claudine)。她年約二十歲,但聽不太懂馬來文。

夜漸深了,駐島護士莉娜(Linah)跟慈濟志工林雪珠寒暄後切入正題,詢問克勞汀準備好沒。隔天一早,就要前往比打士的慈濟生命關懷之家待產了。

莉娜對於島上產婦狀態暸若指掌,也希望克勞汀早點前往比打士。專車來接,就是為了保障她的安全。

描述至此,理應順利吧?其實不然!

克勞汀雖然收好行李,卻不甚開心。原因是—離預產期還有一個月左右,她也幾乎沒離開過詹博根島。面對陌生環境,心中忐忑。小丈夫離情依依、親戚鄰居各有意見;七嘴八舌下,克勞汀拿不定主意。將近晚上九點了,莉娜發現她的態度有點動搖,有默契地與林雪珠一起積極說服。但很可惜,克勞汀的婆婆婉拒了好意。

對於莉娜來說,這樣的挫折感不是第一次。最關鍵的原因,其實是錢。

這些來自鄰邦的產婦因為沒有馬來西亞國籍,只要進到醫院,就必須先繳兩千令吉保證金;如果加上醫療與其他支出,負擔沉重。也因此,多數產婦選擇居家分娩。問題是,順產當然皆大歡喜;但萬一胎位不正、妊娠毒血、高血壓,難產的風險及後果之重,就是嚴肅的公衛人道議題了。

慈濟生命關懷之家原為六腳屋,二○一三年重建為水泥建物,兩間臥室可容納十個床位,配備浴室、客廳、廚房及洗衣間。二○二四年十二月,馬來西亞及臺灣慈濟志工、紀錄片團隊前往探訪。(圖1/歐陽濟緣提供)

臨盆倒數,船夫破浪前行

另一個村子裏,高風險產婦安吉莉娜一早已經準備好,由志工和護士火速送往比打士。

安吉莉娜的肚子大到下垂,也頻繁出現胎動。陪伴在旁的林雪珠說,島上護士都特別受過產科訓練;有次,一位媽媽分娩,子宮竟然脫出產道,護士莉娜能做的就是將它塞回去,再以布條固定後緊急送醫。

護送安吉莉娜這趟路,堪稱步步驚心。海邊碼頭小船備便後,一行人往本島駛去。對產婦來說,船運費用同樣不便宜,動輒就是上百令吉。船夫雖知運送產婦必須維持平穩,但海象無法商量;只要晚個幾分鐘,可能暗流一來又無法行船。

風浪中,船夫在趕路以及志工叮嚀小心的兩難下破浪前行。雖見遠方烏雲密布,但時間不待人。護士猜得到會經過雨區,先體貼地幫安吉莉娜穿上雨衣、並肩陪著。很快地,傾盆驟雨一來,大家身子都溼了。從大海進到紅樹林遍布的雨林河道、靠岸、上陸,安吉莉娜被呵護備至。

幾小時的車船周折後,她終於來到慈濟生命關懷之家。當晚,如護士一直擔心的,安吉莉娜血壓突然飆高。生命關懷之家職員露西(Lucy)與萊多拉(Laidora)母女見狀,立刻送她到幾分鐘車程外的中央醫院。醫師診斷後,將她留院觀察。大家雖然擔心,卻也安心。在醫院,畢竟比島上安全許多。

生命關懷之家距離慈濟亞庇支會單程車程三小時,二十多年來志工持續守護,讓準媽媽們安心待產,也將難產率降低至零;圖為二○二四年十二月,鄰近教會教友前來共度耶誕。

盤山過嶺,把產婦帶出來

比打士沒有慈濟人,從亞庇前往,單趟車程就是三個多小時;雖然舟車勞頓,但志工毫不言苦,只要能將產婦從部落送到生命關懷之家,一切都值得了。歐陽濟緣回憶道,以前還搭過五個多小時快艇到鄰近菲律賓的小島接人。「是苦,但只有親自受苦,才知道什麼是苦。」

慈濟生命關懷之家成立於二○○三年;當時,離亞庇約一百三十七公里遠的比打士,華人醫師鄭榮輝駐診於此,親見許多偏鄉產婦因交通困難枉死於途,心中頻生悲憫。比打士幅員遼闊,光行政區就有一百九十多個部落;而地方政府在亞洲金融危機後經費拮据,能力亦有限。作為亞庇最貧困的區域,比打士難產死亡率高達百分之二十三。

鄭榮輝每年平均面對七位產婦死亡的案例,深感無力;一次慈濟義診中,他向志工提出援建中途之家的請求;而這個家,對偏鄉產婦意義重大。

慈濟基金會副執行長劉濟雨,時任馬六甲與吉隆坡分會負責人;因緣際會下,他將會務延伸到東馬;除了關懷個案之外,也舉辦山區義診。當他理解困境後,立刻允諾鄭醫師的請託;而現任雪隆分會執行長的簡慈露師姊,則為這個機構取名為「慈濟生命關懷之家」。

草創期,志工先租下一棟簡單的六腳屋;細加整修後,隔出兩大房,正式展開服務。二○一三年,志工買下這塊地,申請社福專用,並將房子翻修為水泥建築。至今,已經有一千八百多位寶寶因為這個家平安出生。慈濟亞庇支會負責人張植青回憶,比打士很偏僻;一個小工程光是找包商、材料,都得從亞庇支援,連現場監工也是師兄輪班承擔。

二○二四年,劉濟雨重返比打士。他用手機拍下生命關懷之家周邊的花花草草,也與產婦溫馨互動。「Only one baby, OK?」劉濟雨開玩笑般與產婦打勾勾、做約定,也希望她們節育。因為生愈多,經濟負擔愈重。關於家庭計畫,劉濟雨是認真的。

劉濟雨回憶道,二十多年前,這裏的原住民生活在貧窮線之下。他們世代深居山區,除了沒有出來看病的本錢,也不具備現代醫療的產檢觀念。孕婦真想到比打士就醫,通常得走上兩天的山路。東馬原住民族很多,光方言就可能有上百種。志工們不管是溝通或想獲得認同,都相當困難。

資深志工翁濟隆則說,原住民教育程度低,醫院也不提供產前入住的服務;他們看到這群陌生人帶來好意時,其實充滿疑慮。不過,只要媽媽們願意住進生命關懷之家,在舒適的環境裏過幾天後,安全感也很快建立。翁濟隆如此描述志工們過去的努力:「要盤山過嶺;小船過河,有時水淺下來推、水深才上船。想把產婦帶出來真的很辛苦。」

張植青回憶,過去志工進到部落,得要待上一、兩週,除了準備衛教內容、交通勞頓,也須在村子住上好幾夜。他再次形容,一切就是克難。

安吉莉娜在二○二四年年底平安誕下寶寶,這也是家人與志工最美好的新年禮物。(相片提供/慈濟亞庇支會)

母嬰均安,中繼之家奏效

資深的張雲清師姊說,生命關懷之家走過一段篳路藍縷。成立之初,志工每個月上山一趟,大家透過肢體動作取代語言隔閡,努力安撫產婦的心。部落婦女早婚,常常十四、五歲就懷孕,生個十多胎是常有的事;而媽媽、女兒同時住進生命關懷之家的例子,更不罕見。

在傳統部落環境,婦女分娩多半依賴家人或產婆。曼杜里安村(Mandurian)還有一位僅存的末代產婆;過去接生時,她通常只帶著馬蜂橙葉跟簡單工具,除了默念咒語祝福產婦與寶寶,也會施予安胎儀式。臨娩時,準備熱水、毛巾、雙手接生,再以竹片割斷臍帶。母嬰能否平安?得靠運氣。因為,一個小發炎都會釀成危險。

林雪珠分享道,部落產婦的預產期常常是不準的。對生命關懷之家職員露西來說,照顧起來偶爾也會驚心動魄,因為,有些孕婦真的說生就生。六腳屋時期,一位媽媽突然頻繁如廁,當露西發現時,孩子的頭已經出來一半。產婦送到醫院後,她才回頭清理樓板上那灘血。

另一次,產婦通知露西,直說快生了。待露西火速趕回,產婦已經坐在馬桶上、雙手抱著寶寶。幸好,護士很快過來支援,也速將產婦送院。這些意外如果發生在深山裏,結局難料。

長期與慈濟合作的村診所護士瑪麗斯基亞(Mairiscia)說,孕婦照顧不只有待產;產後複診、寶寶黃疸,都得回到醫院。如果沒有生命關懷之家中繼,她們是不可能願意出來的。衛生所與慈濟的合作,讓兩股愛的力量加乘、守護更多母嬰的健康。

珍惜生命,永恆普世價值

沙巴的宗教色彩除了原始的泛神論信仰,多半以天主教或是基督教為主。早年西方教會把愛帶到雨林國度後,一直延續至今。城市裏,清真寺算是普遍,也看得到華人廟宇。慈濟亞庇支會會所旁,則有基督教堂比鄰。這些宗教、族群的多元融合,反應了大馬的特殊國情與文化。

耶誕節前夕,生命關懷之家附近的牧師帶著教友前來報佳音。同時,志工早已準備好餐點、將空間布置出耶誕氛圍。牆上,除了破蛹飛舞的蝴蝶彩繪,亦有證嚴上人法相陪伴。這幅世界大同般的場景,映襯了何謂大愛、何謂無私。從屋外往內看,暗夜中,門窗透出的光描繪出一扇溫馨浮世繪。雨後氣氛靜謐;鄉村蛙鳴聲中,耶誕福音、慈濟歌〈一家人〉,和諧交織出最美的人間風景。

二○二四年最後一天,志工傳來許多照片。安吉莉娜抱著寶寶哺乳,露出充滿母愛的微笑。這個畫面,暗喻著許多種族世世代代的繁衍與新生。

回顧慈濟志工的提問,二十多年後,這小小的生命關懷之家還有意義嗎?歐陽濟緣道:「極端氣候愈來愈嚴重、河川漲水更兇猛啊。不出來,路斷了怎辦?」嚴格來說,這裏的部落生態跟百年前差不多。交通雖然改善,但生產之路依舊難行。也因為珍惜每個生命,讓生命關懷之家的價值依然重要。與大型慈濟志業相比,它或許只是一個小而美的計畫。但這個家,象徵華人、馬來人、原住民與他國移民不分族群宗教的互愛,也見證非政府組織與醫療系統合作下的雙贏。這個長期合作,終於將百分之二十三的難產致死率降低至零。

亞庇到深山距離遙遠,但劉濟雨的一句話,或許可為本文註腳—「只要有心,路就不遠。」回顧歷史,一九六六年,證嚴上人因為親見花蓮原住民產婦的一攤血而發下大願、創造慈濟世界。東馬的生命關懷之家,正是這個慈悲大願的延伸。

安吉莉娜一路顛簸從離島來到慈濟生命關懷之家待產,準備迎接第一個孩子出生,慈濟志工像媽媽般噓寒問暖。

山區部落的產婦,深夜走在蠶叢鳥道,往城市裏的醫院前進。大腹便便的離島準媽媽,搭著一葉小船渡海顛簸、飄搖進城。為了新生,她們甘願受苦;為了守護,慈濟志工與偏鄉醫護願意一路相伴。

您覺得,這件事到今天還有意義嗎?」一位慈濟志工問道。

要探索意義,或許可先溯源、再從時空脈絡中爬梳。有無意義?答案終會浮現。志工思考的這件事,發生在赤道國度馬來西亞的沙巴州。

從高空鳥瞰,蓊鬱雨林、黃水長河、湛藍海岸、點點聚落,大致已經勾勒出沙巴的印象。淅淅瀝瀝的季風雨後,空氣中的溫溼度更讓沙巴充滿赤道之味。

二○二四年底,我帶著紀錄片拍攝小組來到雨季的沙巴採訪。前往山區的途中,突然下起滂沱暴雨;大河瞬間洶湧、洪流淹沒車行便道;高懸搖晃的吊橋上,三兩學生快步而過、全身溼透。看著眼前情景,大家卻深吐一口氣,同時有種壓力釋然之感。因為,就在前一天的同一條路,團隊才剛拍完慈濟志工護送孕婦下山待產的畫面。這一天之差,或許已經改寫這對母嬰的命運。

隨行志工李師雄平時是跑遍全沙巴的貨車職業駕駛;他分析道,沙巴水陸交通與天候相關。尤其熱帶暴雨威力極強、常常釀災。河流漲水是最危險的,因為沒人知道前方究竟是河道還是路面。而原始山區則依靠小船接駁,航行與否同樣取決於水位。

亞洲第一大島,人稱婆羅洲。這個大島分屬三個國家地區—汶萊、印尼加里曼丹省、北邊則屬於大馬沙巴州。婆羅洲擁有全世界最古老的雨林;地形上,可說由山、林、河、島交織而成。更深入內陸,許多原住民部落仍呈現近乎與世隔絕的樣態。在杜順族(Dusun)原住民語中,本文故事發生地比打士(Pitas),即為隔絕之意。

婆羅洲赤道氣候明顯,上半年乾季結束後,下半年雨季常常充滿戲劇性。如前述,隨便一場暴雨,就可能阻斷山區對外交通。部落居民或許早已習慣這樣的天氣,但若遇到緊急狀況,可能就應驗了他們常說的一句話:「不是生,就是死!」

志工與護士來到安吉莉娜(圖1右二)家中,眾人以天主教儀式祈福後,火速將她帶往比打士待產;她臨盆在即加上高血壓,一路可謂驚滔駭浪(圖2)。

難產風險,威脅偏鄉婦女

往下閱讀前,先試想一個畫面—山區部落的產婦,深夜走在蠶叢鳥道上往城市裏的醫院前進。大腹便便的離島準媽媽,搭著一葉小船渡海顛簸、飄搖進城。為了新生,她們甘願受苦;為了守護,慈濟志工與偏鄉醫護願意一路相伴。

在沙巴州北部離島詹博根(Jambongan),二十八歲的安吉莉娜(Anggelina)初次懷胎。她是來自印尼的天主教徒,丈夫在油棕園辛勤工作,月薪約莫一千七百令吉(MYR),折合新臺幣一萬兩千元。由於曾患癲癇與高血壓,安吉莉娜已經被護理師列為高風險產婦。產前二十多天,她被送往比打士附近的醫院,順利產下一個健康的女嬰。

在同屬沙巴的深山,另一位懷有雙胞胎的原住民媽媽難產,家人緊急將她送往城裏的醫院。無奈山路崎嶇迢遙,加上大雨引發河水暴漲,最終阻斷了求生之路—母子三人在途中不幸離世。

前者的幸運發生於二○二四年,而後者的悲劇則是二十多年前的事。兩位母親截然不同的遭遇,深刻反映了偏鄉婦女生育上的困境。慈濟志工張植青歸納出四個難—說服難、交通難、宣導難、偏鄉醫護人力難。

二○二四年年底,來自沙巴首府亞庇(Kota Kinabalu)的慈濟志工,分乘兩船前往詹博根島。傍晚海天一線、斷霞殘紅;但眾人不待欣賞美景,抵達診所稍事整備後,擠上老舊皮卡往內陸前進。

天已黑,從高空鳥瞰,僅剩兩束微弱車燈引出小徑方向。擠在皮卡後方仰望天際,可見一輪皎月與點點星光。森林傳來野獸鳴叫、油棕葉偶爾輕拍訪客臉上,感官體驗十分特殊。半個多小時顛簸後,皮卡終於抵達一座工寮。造訪的對象,是菲律賓籍首胎產婦克勞汀(Claudine)。她年約二十歲,但聽不太懂馬來文。

夜漸深了,駐島護士莉娜(Linah)跟慈濟志工林雪珠寒暄後切入正題,詢問克勞汀準備好沒。隔天一早,就要前往比打士的慈濟生命關懷之家待產了。

莉娜對於島上產婦狀態暸若指掌,也希望克勞汀早點前往比打士。專車來接,就是為了保障她的安全。

描述至此,理應順利吧?其實不然!

克勞汀雖然收好行李,卻不甚開心。原因是—離預產期還有一個月左右,她也幾乎沒離開過詹博根島。面對陌生環境,心中忐忑。小丈夫離情依依、親戚鄰居各有意見;七嘴八舌下,克勞汀拿不定主意。將近晚上九點了,莉娜發現她的態度有點動搖,有默契地與林雪珠一起積極說服。但很可惜,克勞汀的婆婆婉拒了好意。

對於莉娜來說,這樣的挫折感不是第一次。最關鍵的原因,其實是錢。

這些來自鄰邦的產婦因為沒有馬來西亞國籍,只要進到醫院,就必須先繳兩千令吉保證金;如果加上醫療與其他支出,負擔沉重。也因此,多數產婦選擇居家分娩。問題是,順產當然皆大歡喜;但萬一胎位不正、妊娠毒血、高血壓,難產的風險及後果之重,就是嚴肅的公衛人道議題了。

慈濟生命關懷之家原為六腳屋,二○一三年重建為水泥建物,兩間臥室可容納十個床位,配備浴室、客廳、廚房及洗衣間。二○二四年十二月,馬來西亞及臺灣慈濟志工、紀錄片團隊前往探訪。(圖1/歐陽濟緣提供)

臨盆倒數,船夫破浪前行

另一個村子裏,高風險產婦安吉莉娜一早已經準備好,由志工和護士火速送往比打士。

安吉莉娜的肚子大到下垂,也頻繁出現胎動。陪伴在旁的林雪珠說,島上護士都特別受過產科訓練;有次,一位媽媽分娩,子宮竟然脫出產道,護士莉娜能做的就是將它塞回去,再以布條固定後緊急送醫。

護送安吉莉娜這趟路,堪稱步步驚心。海邊碼頭小船備便後,一行人往本島駛去。對產婦來說,船運費用同樣不便宜,動輒就是上百令吉。船夫雖知運送產婦必須維持平穩,但海象無法商量;只要晚個幾分鐘,可能暗流一來又無法行船。

風浪中,船夫在趕路以及志工叮嚀小心的兩難下破浪前行。雖見遠方烏雲密布,但時間不待人。護士猜得到會經過雨區,先體貼地幫安吉莉娜穿上雨衣、並肩陪著。很快地,傾盆驟雨一來,大家身子都溼了。從大海進到紅樹林遍布的雨林河道、靠岸、上陸,安吉莉娜被呵護備至。

幾小時的車船周折後,她終於來到慈濟生命關懷之家。當晚,如護士一直擔心的,安吉莉娜血壓突然飆高。生命關懷之家職員露西(Lucy)與萊多拉(Laidora)母女見狀,立刻送她到幾分鐘車程外的中央醫院。醫師診斷後,將她留院觀察。大家雖然擔心,卻也安心。在醫院,畢竟比島上安全許多。

生命關懷之家距離慈濟亞庇支會單程車程三小時,二十多年來志工持續守護,讓準媽媽們安心待產,也將難產率降低至零;圖為二○二四年十二月,鄰近教會教友前來共度耶誕。

盤山過嶺,把產婦帶出來

比打士沒有慈濟人,從亞庇前往,單趟車程就是三個多小時;雖然舟車勞頓,但志工毫不言苦,只要能將產婦從部落送到生命關懷之家,一切都值得了。歐陽濟緣回憶道,以前還搭過五個多小時快艇到鄰近菲律賓的小島接人。「是苦,但只有親自受苦,才知道什麼是苦。」

慈濟生命關懷之家成立於二○○三年;當時,離亞庇約一百三十七公里遠的比打士,華人醫師鄭榮輝駐診於此,親見許多偏鄉產婦因交通困難枉死於途,心中頻生悲憫。比打士幅員遼闊,光行政區就有一百九十多個部落;而地方政府在亞洲金融危機後經費拮据,能力亦有限。作為亞庇最貧困的區域,比打士難產死亡率高達百分之二十三。

鄭榮輝每年平均面對七位產婦死亡的案例,深感無力;一次慈濟義診中,他向志工提出援建中途之家的請求;而這個家,對偏鄉產婦意義重大。

慈濟基金會副執行長劉濟雨,時任馬六甲與吉隆坡分會負責人;因緣際會下,他將會務延伸到東馬;除了關懷個案之外,也舉辦山區義診。當他理解困境後,立刻允諾鄭醫師的請託;而現任雪隆分會執行長的簡慈露師姊,則為這個機構取名為「慈濟生命關懷之家」。

草創期,志工先租下一棟簡單的六腳屋;細加整修後,隔出兩大房,正式展開服務。二○一三年,志工買下這塊地,申請社福專用,並將房子翻修為水泥建築。至今,已經有一千八百多位寶寶因為這個家平安出生。慈濟亞庇支會負責人張植青回憶,比打士很偏僻;一個小工程光是找包商、材料,都得從亞庇支援,連現場監工也是師兄輪班承擔。

二○二四年,劉濟雨重返比打士。他用手機拍下生命關懷之家周邊的花花草草,也與產婦溫馨互動。「Only one baby, OK?」劉濟雨開玩笑般與產婦打勾勾、做約定,也希望她們節育。因為生愈多,經濟負擔愈重。關於家庭計畫,劉濟雨是認真的。

劉濟雨回憶道,二十多年前,這裏的原住民生活在貧窮線之下。他們世代深居山區,除了沒有出來看病的本錢,也不具備現代醫療的產檢觀念。孕婦真想到比打士就醫,通常得走上兩天的山路。東馬原住民族很多,光方言就可能有上百種。志工們不管是溝通或想獲得認同,都相當困難。

資深志工翁濟隆則說,原住民教育程度低,醫院也不提供產前入住的服務;他們看到這群陌生人帶來好意時,其實充滿疑慮。不過,只要媽媽們願意住進生命關懷之家,在舒適的環境裏過幾天後,安全感也很快建立。翁濟隆如此描述志工們過去的努力:「要盤山過嶺;小船過河,有時水淺下來推、水深才上船。想把產婦帶出來真的很辛苦。」

張植青回憶,過去志工進到部落,得要待上一、兩週,除了準備衛教內容、交通勞頓,也須在村子住上好幾夜。他再次形容,一切就是克難。

安吉莉娜在二○二四年年底平安誕下寶寶,這也是家人與志工最美好的新年禮物。(相片提供/慈濟亞庇支會)

母嬰均安,中繼之家奏效

資深的張雲清師姊說,生命關懷之家走過一段篳路藍縷。成立之初,志工每個月上山一趟,大家透過肢體動作取代語言隔閡,努力安撫產婦的心。部落婦女早婚,常常十四、五歲就懷孕,生個十多胎是常有的事;而媽媽、女兒同時住進生命關懷之家的例子,更不罕見。

在傳統部落環境,婦女分娩多半依賴家人或產婆。曼杜里安村(Mandurian)還有一位僅存的末代產婆;過去接生時,她通常只帶著馬蜂橙葉跟簡單工具,除了默念咒語祝福產婦與寶寶,也會施予安胎儀式。臨娩時,準備熱水、毛巾、雙手接生,再以竹片割斷臍帶。母嬰能否平安?得靠運氣。因為,一個小發炎都會釀成危險。

林雪珠分享道,部落產婦的預產期常常是不準的。對生命關懷之家職員露西來說,照顧起來偶爾也會驚心動魄,因為,有些孕婦真的說生就生。六腳屋時期,一位媽媽突然頻繁如廁,當露西發現時,孩子的頭已經出來一半。產婦送到醫院後,她才回頭清理樓板上那灘血。

另一次,產婦通知露西,直說快生了。待露西火速趕回,產婦已經坐在馬桶上、雙手抱著寶寶。幸好,護士很快過來支援,也速將產婦送院。這些意外如果發生在深山裏,結局難料。

長期與慈濟合作的村診所護士瑪麗斯基亞(Mairiscia)說,孕婦照顧不只有待產;產後複診、寶寶黃疸,都得回到醫院。如果沒有生命關懷之家中繼,她們是不可能願意出來的。衛生所與慈濟的合作,讓兩股愛的力量加乘、守護更多母嬰的健康。

珍惜生命,永恆普世價值

沙巴的宗教色彩除了原始的泛神論信仰,多半以天主教或是基督教為主。早年西方教會把愛帶到雨林國度後,一直延續至今。城市裏,清真寺算是普遍,也看得到華人廟宇。慈濟亞庇支會會所旁,則有基督教堂比鄰。這些宗教、族群的多元融合,反應了大馬的特殊國情與文化。

耶誕節前夕,生命關懷之家附近的牧師帶著教友前來報佳音。同時,志工早已準備好餐點、將空間布置出耶誕氛圍。牆上,除了破蛹飛舞的蝴蝶彩繪,亦有證嚴上人法相陪伴。這幅世界大同般的場景,映襯了何謂大愛、何謂無私。從屋外往內看,暗夜中,門窗透出的光描繪出一扇溫馨浮世繪。雨後氣氛靜謐;鄉村蛙鳴聲中,耶誕福音、慈濟歌〈一家人〉,和諧交織出最美的人間風景。

二○二四年最後一天,志工傳來許多照片。安吉莉娜抱著寶寶哺乳,露出充滿母愛的微笑。這個畫面,暗喻著許多種族世世代代的繁衍與新生。

回顧慈濟志工的提問,二十多年後,這小小的生命關懷之家還有意義嗎?歐陽濟緣道:「極端氣候愈來愈嚴重、河川漲水更兇猛啊。不出來,路斷了怎辦?」嚴格來說,這裏的部落生態跟百年前差不多。交通雖然改善,但生產之路依舊難行。也因為珍惜每個生命,讓生命關懷之家的價值依然重要。與大型慈濟志業相比,它或許只是一個小而美的計畫。但這個家,象徵華人、馬來人、原住民與他國移民不分族群宗教的互愛,也見證非政府組織與醫療系統合作下的雙贏。這個長期合作,終於將百分之二十三的難產致死率降低至零。

亞庇到深山距離遙遠,但劉濟雨的一句話,或許可為本文註腳—「只要有心,路就不遠。」回顧歷史,一九六六年,證嚴上人因為親見花蓮原住民產婦的一攤血而發下大願、創造慈濟世界。東馬的生命關懷之家,正是這個慈悲大願的延伸。

手語演繹孝道 每天回家作業

(攝影/王忠義 拉胡納加爾政府小學)

慈濟志工以中文、英語、印地語轉譯歌詞,
學生們比出手語,唱出心聲,
每天回家的功課就是抱抱父母!

慈濟志工以中文、英語、印地語轉譯歌詞,學生們比出手語,唱出心聲,每天回家的功課就是抱抱父母!

如圓月般光芒投射在舞臺上,開啟《父母恩重難報經》演繹序幕,學生們姿態柔和、手語整齊,還有四所學校校長參與。歷經一百零八天演練,全程茹素;圓滿謝幕,全體演唱〈最美的笑容〉。

二○二四年十月開始,馬來西亞志工藍葒娟等人入校手語教學,轉換中文、英語、印地語,一字字說明歌詞意境;除了播放影片示範,也請同學們將書包掛在胸前後,體驗母親懷胎辛苦。期間練習高達一百六十八場次,儘管各校空間不盡理想,菩提樹下、沙地上、學校頂樓露臺,但大家跪坐自如,展現音樂天賦,眼神和手勢盡顯情感,再穿上量身製作的服飾,動人心弦。

透過演繹,將文字與情感轉化為肢體動作,學生們更深刻體會親情。牧羊女村的希塔爾(Sheetal Kumari)說:「或許我們無法看到父母的心,但可以看到他們的雙手,曾在烙餅時被燙傷,默默地為了子女辛勤工作。」

帝卡比加政府小學(Primary School Tikabigha)年級導師薇娜(Veena Kumari),在旁也跟著學習手語,下課後交代學生,今天的作業就是回家和父母擁抱、道愛和有禮貌地交談;而她的笑容和感謝,是對志工最大的鼓勵。

蘇利普拉政府學校(Middle School Suryapura)校長拉克沙德維普(Lakshadwep Subods)表示,為了歲末祝福,所有學生全力以赴,「希望學生學到更人性化的一課,並將這些價值觀灌輸到日常生活中,對父母、老師和社會保持謙卑。非常感恩佛教慈濟基金會。」(感恩王承瑄、楊文輝、姚雅美、許麗珠、石慧麗、李美慧、莊玉美提供資料)

(攝影/楊文輝 蘇利普拉政府學校)

(攝影/王忠義 拉胡納加爾政府小學)

慈濟志工以中文、英語、印地語轉譯歌詞,
學生們比出手語,唱出心聲,
每天回家的功課就是抱抱父母!

慈濟志工以中文、英語、印地語轉譯歌詞,學生們比出手語,唱出心聲,每天回家的功課就是抱抱父母!

如圓月般光芒投射在舞臺上,開啟《父母恩重難報經》演繹序幕,學生們姿態柔和、手語整齊,還有四所學校校長參與。歷經一百零八天演練,全程茹素;圓滿謝幕,全體演唱〈最美的笑容〉。

二○二四年十月開始,馬來西亞志工藍葒娟等人入校手語教學,轉換中文、英語、印地語,一字字說明歌詞意境;除了播放影片示範,也請同學們將書包掛在胸前後,體驗母親懷胎辛苦。期間練習高達一百六十八場次,儘管各校空間不盡理想,菩提樹下、沙地上、學校頂樓露臺,但大家跪坐自如,展現音樂天賦,眼神和手勢盡顯情感,再穿上量身製作的服飾,動人心弦。

透過演繹,將文字與情感轉化為肢體動作,學生們更深刻體會親情。牧羊女村的希塔爾(Sheetal Kumari)說:「或許我們無法看到父母的心,但可以看到他們的雙手,曾在烙餅時被燙傷,默默地為了子女辛勤工作。」

帝卡比加政府小學(Primary School Tikabigha)年級導師薇娜(Veena Kumari),在旁也跟著學習手語,下課後交代學生,今天的作業就是回家和父母擁抱、道愛和有禮貌地交談;而她的笑容和感謝,是對志工最大的鼓勵。

蘇利普拉政府學校(Middle School Suryapura)校長拉克沙德維普(Lakshadwep Subods)表示,為了歲末祝福,所有學生全力以赴,「希望學生學到更人性化的一課,並將這些價值觀灌輸到日常生活中,對父母、老師和社會保持謙卑。非常感恩佛教慈濟基金會。」(感恩王承瑄、楊文輝、姚雅美、許麗珠、石慧麗、李美慧、莊玉美提供資料)

(攝影/楊文輝 蘇利普拉政府學校)

印度菩提迦耶歲末祝福—在佛陀故鄉 傳揚佛說法

(攝影/Aayush sharma)

兩千五百多年前,佛說父母恩重難報;
今年元月初,慈濟印度歲末祝福感恩會,
三百位菩提迦耶學子演繹這部經典,
超過五千位居民在場,欣然看到下一代動人的成長。

兩千五百多年前,佛說父母恩重難報;今年元月初,慈濟印度歲末祝福感恩會,三百位菩提迦耶學子演繹這部經典,超過五千位居民在場,欣然看到下一代動人的成長。

印度菩提迦耶摩訶菩提會議中心(Mahabodhi Convention center)大門外,慈濟基金會會旗飄揚,在低溫與濃霧中,一輛輛事前安排好的巴士,從十四個村莊送來居民,準備參加慈濟歲末祝福感恩會。

慈濟回饋佛陀故鄉,二○二三年三月起,新加坡與馬來西亞慈濟人來到印度菩提迦耶,從慈善開始深入貧瘠之地,醫療、教育也漸漸萌芽。二○二四年元月七日,首度舉辦歲末祝福感恩會,三場超過二千人參與,會中〈千手世界〉和〈行願〉手語歌曲演繹震撼人心;二○二五年元月五日,歲末祝福感恩會在摩訶菩提會議中心舉行,七所學校和恆河比哈村(Ganga Bigha)課輔班學生、思龍加村(Silaunja)婦女、慈濟縫紉班學員,三百一十七人共同演繹《父母恩重難報經》音樂手語劇五幕—跪羊圖、序曲、懷胎、因緣、最美的笑容。

晨間八點不到,大廳人潮滿滿,排隊進場;許多鄉親拿著竹筒撲滿回來,零錢叮叮噹噹注入志工準備好的兩個大甕。上、下午兩場歲末祝福,包括法師、民眾、海內外志工、演繹人員,共計五千零五十六人參加。除了經藏演繹、致贈福慧紅包,新加坡退休護理師、慈濟委員林金燕,陪伴數十位戒酒成功的村民上臺分享。

林金燕二○二三年五月來到菩提迦耶,就愛上這片土地,在各村健檢時,發現很多鄉親有酒癮問題,已影響到健康,她決定要幫他們戒酒;每月探訪、並送上馬莎拉茶(Masala Tea),讓他們以茶代酒,目前已有一百零五位戒酒成功。(感恩李麗心、李美慧、莊玉美提供資料)

(攝影/馬俊豪)

(攝影/馬俊豪)

(攝影/Aayush sharma)

兩千五百多年前,佛說父母恩重難報;
今年元月初,慈濟印度歲末祝福感恩會,
三百位菩提迦耶學子演繹這部經典,
超過五千位居民在場,欣然看到下一代動人的成長。

兩千五百多年前,佛說父母恩重難報;今年元月初,慈濟印度歲末祝福感恩會,三百位菩提迦耶學子演繹這部經典,超過五千位居民在場,欣然看到下一代動人的成長。

印度菩提迦耶摩訶菩提會議中心(Mahabodhi Convention center)大門外,慈濟基金會會旗飄揚,在低溫與濃霧中,一輛輛事前安排好的巴士,從十四個村莊送來居民,準備參加慈濟歲末祝福感恩會。

慈濟回饋佛陀故鄉,二○二三年三月起,新加坡與馬來西亞慈濟人來到印度菩提迦耶,從慈善開始深入貧瘠之地,醫療、教育也漸漸萌芽。二○二四年元月七日,首度舉辦歲末祝福感恩會,三場超過二千人參與,會中〈千手世界〉和〈行願〉手語歌曲演繹震撼人心;二○二五年元月五日,歲末祝福感恩會在摩訶菩提會議中心舉行,七所學校和恆河比哈村(Ganga Bigha)課輔班學生、思龍加村(Silaunja)婦女、慈濟縫紉班學員,三百一十七人共同演繹《父母恩重難報經》音樂手語劇五幕—跪羊圖、序曲、懷胎、因緣、最美的笑容。

晨間八點不到,大廳人潮滿滿,排隊進場;許多鄉親拿著竹筒撲滿回來,零錢叮叮噹噹注入志工準備好的兩個大甕。上、下午兩場歲末祝福,包括法師、民眾、海內外志工、演繹人員,共計五千零五十六人參加。除了經藏演繹、致贈福慧紅包,新加坡退休護理師、慈濟委員林金燕,陪伴數十位戒酒成功的村民上臺分享。

林金燕二○二三年五月來到菩提迦耶,就愛上這片土地,在各村健檢時,發現很多鄉親有酒癮問題,已影響到健康,她決定要幫他們戒酒;每月探訪、並送上馬莎拉茶(Masala Tea),讓他們以茶代酒,目前已有一百零五位戒酒成功。(感恩李麗心、李美慧、莊玉美提供資料)

(攝影/馬俊豪)

(攝影/馬俊豪)