台風18号被害 慈済支援の記録

(撮影・蔡緗羚 高雄市三民区)

中型の台風18号(クラトーン)は、高雄市小港区に上陸し、十四級(秒速約42M)の暴風が高雄と屏東地域を襲った。台風の勢力が弱まった後、逆に豪雨が北部に災害をもたらした。

延べ一万八千人のボランティアが災害支援に駆けつけ、浸水した被災世帯の住宅後片付けや清掃、そして、六十の学校と公園の復旧や清掃を手伝った。改めて天災の威力を目の当たりにし、敬虔に戒め慎まなければならないことが明らかになった。

高雄

倒木や折れた枝を見て

倒木や折れた枝を見て

文/葉子豪(慈済月刊誌執筆者)
訳/御山凛

高雄港の外で荒れ狂う波、損壊した市街地の建物、なぎ倒された巨木……。台風が北上して通り過ぎた後、DNAにマニュアルが刻まれたかのように、災害支援を始動した。慈済人は支援の求めを待つことなく、各自率先して慰問し、「何かお手伝いましょうか?」と声をかけた。

台風十八号が去った後の最初の土曜日の午前、高雄市左営小学校から高いデシベルの機械的な音が響き渡った。教師や生徒のために、できるだけ早く安全な教育環境を整えようと、慈済ボランティアがチェーンソーを使って強風によって倒れた学校内の木を切断していたのだ。木の幹や枝の切り口の色から分かるように、左営小学校の樹木は、殆どが丈夫でしっかりしたもので、腐食して空洞になっていたのは一部だけだったが、この台風がもたらした瞬間的な強風には敵わず、多くの木が倒れてしまった。

「ボランティアが快く手伝いに来てくれたことに、とても感謝しています。さもなければ、後片付けに一週間かかったかもしれません。昨日既に丸一日やりましたが、今日はもう力が出ません」。左営小学校の教頭、張玉芬(ヅァン・ユーフェン)先生が、胸を撫で下ろしながら言った。

十月三日木曜日の正午、台風は高雄市に上陸し、秒速約四十二メートルを超える強風で樹木、看板、街路灯などをなぎ倒した。翌日金曜日には、校長も含めて二十人余りの教職員が、台風の後片付けを行った。力を合わせて、風で倒れた校門の引き戸型門扉を立て直し、傾いた木や枝、葉を撤去した。午前八時から午後四時まで、先生たちは力の限り、引きずったり、運んだり、清掃したりしたが、学校の出入りに関する場所及び塀の外の通学用歩道を元通りにするのがやっとで、校内の被災状況に対応する力はすでに残っていなかった。校長先生の陳鼎華(チェン・ディンフワ)さんは、軍にも支援を要請したが、高雄市の道路は雑多な物で溢れかえっていて、軍の災害支援部隊は、道路の通行確保及び市の復旧を優先していた。

金曜日の夕方、左営区のボランティアは、自主的に電話で支援が必要かどうかを学校側に問い合わせた。陳校長はその時、一筋の光が差したように感じた。「月曜日には平常通り授業ができるかもしれない!」。

左営小学校を含め、慈済は高雄で延べ五十校余りの学校を支援し、公園の復旧作業も手伝った。地元ボランティアの尽力のみならず、北部の慈済ボランティアも高鉄(台湾新幹線)の早朝の便に乗って支援に駆けつけ、彰化、嘉義等からも若者たちが自発的に赴いて尽力した。人々が整然と鋸で木を切ったり、散らかった枝を運んだり、落ち葉を掃いたりしていたのを見て、高雄のベテランボランティア鄭武南(ヅン・ウーナン)さんは、「校長をはじめ先生たちは慈済に後片付けの手伝いを要請してはいましたが、ボランティアたちは土曜と日曜の両日ともやって来て、皆で善いことをしてくれました」と称賛した。

台風18号は高雄で大量の樹木をなぎ倒した。慈済ボランティアはキャンパスを清掃し、授業の再開をサポートした。(撮影・池爾杰)

一戸ずつ訪ね歩いて、支援の必要な人を見つける

十月上旬の「奇妙な」台風十八号は、海上で四日半もうろうろした後でやっと高雄市小港区に上陸し、北上した。高雄のベテラン訪問ケアボランティアの李琇釧(リー・シユウツヮン)さんは、「台風十八号の強い風は直接小港から吹いて来ました。高雄の地形にはバリアとなる場所が全くないため、これだけ多くの木が倒れ、建築物の窓、フランス窓、天窓などが破損しました。比較的甚大な被害を被ったのはソーラーパネルですが、給水塔が消えてしまった家もありました」。

高雄市管轄区内で二千五百本余りの樹木が倒れ、十八万世帯が停電し、多数の住宅が損壊するほど、被害は広がっていた。そのため慈済人はキャンパスの復旧に協力すると同時に、大規模な「安心家庭訪問活動」も展開した。慰問を行って大衆の心を落ち着かせると同時に、支援が必要な案件を見つけ出して、当面の手当の提供や住宅の修繕などを支援した。

では、訪問ケアで見た被災状況はどうだったのだろう。親子が同居しているのか、老夫婦の二人暮らしなのか、又は一人暮らしなのか、低所得又は中低所得世帯の補助は受けているのか、もし家屋が損壊していたら、それは持ち家なのか賃貸なのかなどを聞き出す必要があり、できる限り情報を収集して、本当に助けを必要としている人を見落とさないようにしなければならなかった。仮に社会福祉資源の支援を必要としない人でも、安心祝福ギフトセットを届けて良縁を結んだ。

ボランティアは、依然として停電状態にあった大寮静思堂から外に出て、袋分けした祝福ギフトセットを携え、多ルートに分かれて家庭訪問を展開した。十月三日、台風十八号が送電網に損傷を与えたことで、高雄と屏東地域で大規模な停電が発生した時、大寮区では二万世帯余りが電気を使えなかったこともあり、十月五日の安心家庭訪問の当日になっても、まだ数千世帯が電力の復旧を待っていた。

「冷蔵庫で物を冷やすことができなくなり、食べ物が腐ってしまいました」。静思堂近くに住む主婦の張簡(ヅァン・ジェン)さんによれば、停電していた数日間は即席麺を食べて過ごしていたそうだ。自宅はモーターによる給水ポンプを使用しているため、一旦停電すると、蛇口から水が出なくなるので、外から水を運んでくるほかなかった。すでに七十歳で、足もあまり良くない彼女にとって、停電と断水の日々は相当苦労したことだろう。

「この中にはまぜそばが入っています。とてもおいしいですよ」。彼女の状況を理解すると、李さんは丁重に赤い手提げ袋を手渡した。中には、證厳法師と世界の慈済人からの祝福ギフトが入っていた。十月五日と六日の二日間、慈済ボランティアは高雄だけで、九百三十八世帯を訪問した。そして、住宅が破損しても自力で修繕することができない生活困窮者や一人暮らし或いは夫婦二人暮らしの高齢者に対しては、適切な修繕の支援を提供することにした。

47年ぶりに再び台風が高雄から上陸し、その強風で都市の景観は多大な被害を受けた。(撮影・賴廷翰)

新民小学校の校庭脇で、人々は力を合わせて倒れた木や枝葉を片付け、教師や生徒たちが、台風の翌週から安全な学習環境で学べるよう整えた。被災後、慈済は高雄の50余りの学校及び公園の清掃と復旧に協力した。(撮影・王忠義)

旗津区での修繕
路地が大変なことに

住宅の損壊状況と言えば、慈済高雄災害対応センターの総指揮である潘機利(パン・ジーリー)さんによると、修繕が必要な被災家屋は旗津区が最も多く、そのうちの一人は、一人暮らしで八十歳の楊おばあさんだった。旗津の北端の海軍第四造船所付近に住んでおり、元来の住居は三面だけがレンガ貼りの小さな一部屋しかない平屋で、道路側の戸口は薄い木の板で室内と室外を仕切っているだけだった。

台風十八号が甚大な被害をもたらした後、楊おばあさんの家の戸口の枠はまだ残っていたが、道路に面した木の板は壊れてしまった。親切な近隣住民が、急いで回収資源の中にあった広告用のキャンバス布で仕切りを作り、高齢のおばあちゃんの基本的なプライバシーを守った。潘さんと李さんたちボランティアチームが訪問し、祝福ギフトセットを届けて楊おばあさんを慰めるだけでなく、直ちに専業の修繕ボランティアにも連絡を取り、塗料を焼き付けた鋼板やC形鋼などを用意し、現場で切断や溶接、ネジ締めなどを行って、住宅正面の壁と窓を急ピッチで仕上げた。

潘さんによれば、修繕工事は十月十日、慈済ボランティアが旗津区へ被災視察に向かってから四日目に終わった。扉を修繕したのみならず、お年寄りがより快適で安心して生活できるよう、室内のスペースを測定して浴室スペースの改善も査定した。

地元の全てのボランティアと他の県や市の慈済ボランティアも駆けつけて尽力したおかげで、高雄の「安心家庭訪問」は大方、双十節前に一段落した。そして、家庭訪問後に新たに発見した長期ケアケースへの寄り添いと支援が、既に始まっている。

「台風三号(ケーミー)の後、上人は特に、私たち慈済人が鄰長や里長、公的部門と密接に協力していくようにと念を押しました」。李さんは、旗津区での訪問ケアを例にあげて説明した。高雄の慈済人は、初めて海に面した離島地域で災害復旧活動をしたが、現地をよく知らないこともあり、鄰長や里長、地元住民の案内で路地を歩き回って初めて、助けを必要としている人を見つけることができた。慈済人の実践による成果が目に見えた時、地元住民は熱烈に歓迎した。

「楊おばあさんの家の修繕が終わった時、里長と路地に住んでいる人たちが全員出てきて、私たちに拍手を送ってくれました」と李さんは興奮気味に言った。

被災世帯に寄り添い、対面でケアする

台風が来るたびに、災害対応センターの総指揮者である潘さんは、ほとんど毎日高雄の静思堂に駐在していた。彼は、既製服のショッピングセンターを経営しているが、七月の台風三号がもたらした広範囲の洪水被害は、彼の店舗にも影響を及ぼした。しかし、彼は依然として災害支援に専念した。六亀区の住民が安全な場所に避難した時、彼は地元住民が緊急に自宅を離れたことを考慮して、結縁(けちえん)しようと発心し、彼らをショッピングセンターに招いて、適切な衣服を緊急に購入できるように手配した。

彼は二〇〇九年の台風八号(モーラコット)を思い返した。旗山区にあった自分の既製服のショッピングセンターは大きな損失を被り、多くの新品の衣類が水に浸かって廃棄処分になってしまったのだ。「当時、旗山区はまだ高雄県に属していたので、私はずっと県政府の人が旗山まで補助の査定に来るのを待っていました。あの時は、浸水の高さを少し高めに報告すれば、より多くの補助金がもらえると思っていました」。

しかし、その悪い考えは結局実現することはなかった。潘さんは丸一日待ったが、むしろ慈済ボランティアの方が先に来て、出来立ての即席飯を届けたくれただけでなく、證厳法師のお見舞いの手紙まで持って来てくれたのだ。慈済が着実に取り組んでいることを彼は確信した。

「ですから今、防災と災害支援に取り組んできたことで、自分はより人々に寄り添えるようになったと思っています。被災者が必要としている物や被災世帯の気持ち、または家族を失った時の心の痛みが分かるようになりました。対面でのケアは、本当に大事です」。彼は、慈済人がコミュニティに入ることのプラス効果を肯定している。そして、悪化する傾向にある極端な気候と向き合い、決して軽んじてはならず、これまで以上に、戒め慎み、敬虔にならなければならない、と法縁者に注意を促したいそうだ。

「高雄はあまりこのような強い台風に襲われることはなく、あの瞬間的に災害を引き起こす強い風は、多くの住民を怯えさせました。私たちは『安心祝福ギフトセット』を届けることで、被災者の方に落ち着きを取り戻してもらっています。慰めることは助力となりますから、『あなたは一人ではなく、證厳上人と全世界の慈済人の愛が一緒にいます』と伝えました」。

安心祝福ギフトセットを手に、ボランティアたちは「安心家庭訪問」を行った。(写真1 撮影・王坤河)

大樹区の住民は、慈済人が慰問に来てくれたことに感謝し、お互いに祝福し合った。(写真2 撮影・郭秋佩)

新北市

泥まみれの住宅 タイムリーに支援

泥まみれの住宅 タイムリーに支援

撮影/陳忠華
訳/何慧純

台風18号(クラトーン)は熱帯性低気圧に変わって消滅したが、周辺の気流により豪雨が続き、台湾の北海岸は大きな被害を受けた。十月四日に多くの地区で深刻な浸水や土石流などが起き、台北市と新北市、基隆市の慈済ボランティアが直ちに動員された。そして、新北市の金山区、万里区、三芝区及び基隆市などの被災者三百世帯あまりを訪問し、住宅の後片付けをしていた住民に炊き出しを行うと共に、早急に泥の撤去や復旧を手伝った。

(慈済月刊六九六期より)

(撮影・蔡緗羚 高雄市三民区)

中型の台風18号(クラトーン)は、高雄市小港区に上陸し、十四級(秒速約42M)の暴風が高雄と屏東地域を襲った。台風の勢力が弱まった後、逆に豪雨が北部に災害をもたらした。

延べ一万八千人のボランティアが災害支援に駆けつけ、浸水した被災世帯の住宅後片付けや清掃、そして、六十の学校と公園の復旧や清掃を手伝った。改めて天災の威力を目の当たりにし、敬虔に戒め慎まなければならないことが明らかになった。

高雄

倒木や折れた枝を見て

倒木や折れた枝を見て

文/葉子豪(慈済月刊誌執筆者)
訳/御山凛

高雄港の外で荒れ狂う波、損壊した市街地の建物、なぎ倒された巨木……。台風が北上して通り過ぎた後、DNAにマニュアルが刻まれたかのように、災害支援を始動した。慈済人は支援の求めを待つことなく、各自率先して慰問し、「何かお手伝いましょうか?」と声をかけた。

台風十八号が去った後の最初の土曜日の午前、高雄市左営小学校から高いデシベルの機械的な音が響き渡った。教師や生徒のために、できるだけ早く安全な教育環境を整えようと、慈済ボランティアがチェーンソーを使って強風によって倒れた学校内の木を切断していたのだ。木の幹や枝の切り口の色から分かるように、左営小学校の樹木は、殆どが丈夫でしっかりしたもので、腐食して空洞になっていたのは一部だけだったが、この台風がもたらした瞬間的な強風には敵わず、多くの木が倒れてしまった。

「ボランティアが快く手伝いに来てくれたことに、とても感謝しています。さもなければ、後片付けに一週間かかったかもしれません。昨日既に丸一日やりましたが、今日はもう力が出ません」。左営小学校の教頭、張玉芬(ヅァン・ユーフェン)先生が、胸を撫で下ろしながら言った。

十月三日木曜日の正午、台風は高雄市に上陸し、秒速約四十二メートルを超える強風で樹木、看板、街路灯などをなぎ倒した。翌日金曜日には、校長も含めて二十人余りの教職員が、台風の後片付けを行った。力を合わせて、風で倒れた校門の引き戸型門扉を立て直し、傾いた木や枝、葉を撤去した。午前八時から午後四時まで、先生たちは力の限り、引きずったり、運んだり、清掃したりしたが、学校の出入りに関する場所及び塀の外の通学用歩道を元通りにするのがやっとで、校内の被災状況に対応する力はすでに残っていなかった。校長先生の陳鼎華(チェン・ディンフワ)さんは、軍にも支援を要請したが、高雄市の道路は雑多な物で溢れかえっていて、軍の災害支援部隊は、道路の通行確保及び市の復旧を優先していた。

金曜日の夕方、左営区のボランティアは、自主的に電話で支援が必要かどうかを学校側に問い合わせた。陳校長はその時、一筋の光が差したように感じた。「月曜日には平常通り授業ができるかもしれない!」。

左営小学校を含め、慈済は高雄で延べ五十校余りの学校を支援し、公園の復旧作業も手伝った。地元ボランティアの尽力のみならず、北部の慈済ボランティアも高鉄(台湾新幹線)の早朝の便に乗って支援に駆けつけ、彰化、嘉義等からも若者たちが自発的に赴いて尽力した。人々が整然と鋸で木を切ったり、散らかった枝を運んだり、落ち葉を掃いたりしていたのを見て、高雄のベテランボランティア鄭武南(ヅン・ウーナン)さんは、「校長をはじめ先生たちは慈済に後片付けの手伝いを要請してはいましたが、ボランティアたちは土曜と日曜の両日ともやって来て、皆で善いことをしてくれました」と称賛した。

台風18号は高雄で大量の樹木をなぎ倒した。慈済ボランティアはキャンパスを清掃し、授業の再開をサポートした。(撮影・池爾杰)

一戸ずつ訪ね歩いて、支援の必要な人を見つける

十月上旬の「奇妙な」台風十八号は、海上で四日半もうろうろした後でやっと高雄市小港区に上陸し、北上した。高雄のベテラン訪問ケアボランティアの李琇釧(リー・シユウツヮン)さんは、「台風十八号の強い風は直接小港から吹いて来ました。高雄の地形にはバリアとなる場所が全くないため、これだけ多くの木が倒れ、建築物の窓、フランス窓、天窓などが破損しました。比較的甚大な被害を被ったのはソーラーパネルですが、給水塔が消えてしまった家もありました」。

高雄市管轄区内で二千五百本余りの樹木が倒れ、十八万世帯が停電し、多数の住宅が損壊するほど、被害は広がっていた。そのため慈済人はキャンパスの復旧に協力すると同時に、大規模な「安心家庭訪問活動」も展開した。慰問を行って大衆の心を落ち着かせると同時に、支援が必要な案件を見つけ出して、当面の手当の提供や住宅の修繕などを支援した。

では、訪問ケアで見た被災状況はどうだったのだろう。親子が同居しているのか、老夫婦の二人暮らしなのか、又は一人暮らしなのか、低所得又は中低所得世帯の補助は受けているのか、もし家屋が損壊していたら、それは持ち家なのか賃貸なのかなどを聞き出す必要があり、できる限り情報を収集して、本当に助けを必要としている人を見落とさないようにしなければならなかった。仮に社会福祉資源の支援を必要としない人でも、安心祝福ギフトセットを届けて良縁を結んだ。

ボランティアは、依然として停電状態にあった大寮静思堂から外に出て、袋分けした祝福ギフトセットを携え、多ルートに分かれて家庭訪問を展開した。十月三日、台風十八号が送電網に損傷を与えたことで、高雄と屏東地域で大規模な停電が発生した時、大寮区では二万世帯余りが電気を使えなかったこともあり、十月五日の安心家庭訪問の当日になっても、まだ数千世帯が電力の復旧を待っていた。

「冷蔵庫で物を冷やすことができなくなり、食べ物が腐ってしまいました」。静思堂近くに住む主婦の張簡(ヅァン・ジェン)さんによれば、停電していた数日間は即席麺を食べて過ごしていたそうだ。自宅はモーターによる給水ポンプを使用しているため、一旦停電すると、蛇口から水が出なくなるので、外から水を運んでくるほかなかった。すでに七十歳で、足もあまり良くない彼女にとって、停電と断水の日々は相当苦労したことだろう。

「この中にはまぜそばが入っています。とてもおいしいですよ」。彼女の状況を理解すると、李さんは丁重に赤い手提げ袋を手渡した。中には、證厳法師と世界の慈済人からの祝福ギフトが入っていた。十月五日と六日の二日間、慈済ボランティアは高雄だけで、九百三十八世帯を訪問した。そして、住宅が破損しても自力で修繕することができない生活困窮者や一人暮らし或いは夫婦二人暮らしの高齢者に対しては、適切な修繕の支援を提供することにした。

47年ぶりに再び台風が高雄から上陸し、その強風で都市の景観は多大な被害を受けた。(撮影・賴廷翰)

新民小学校の校庭脇で、人々は力を合わせて倒れた木や枝葉を片付け、教師や生徒たちが、台風の翌週から安全な学習環境で学べるよう整えた。被災後、慈済は高雄の50余りの学校及び公園の清掃と復旧に協力した。(撮影・王忠義)

旗津区での修繕
路地が大変なことに

住宅の損壊状況と言えば、慈済高雄災害対応センターの総指揮である潘機利(パン・ジーリー)さんによると、修繕が必要な被災家屋は旗津区が最も多く、そのうちの一人は、一人暮らしで八十歳の楊おばあさんだった。旗津の北端の海軍第四造船所付近に住んでおり、元来の住居は三面だけがレンガ貼りの小さな一部屋しかない平屋で、道路側の戸口は薄い木の板で室内と室外を仕切っているだけだった。

台風十八号が甚大な被害をもたらした後、楊おばあさんの家の戸口の枠はまだ残っていたが、道路に面した木の板は壊れてしまった。親切な近隣住民が、急いで回収資源の中にあった広告用のキャンバス布で仕切りを作り、高齢のおばあちゃんの基本的なプライバシーを守った。潘さんと李さんたちボランティアチームが訪問し、祝福ギフトセットを届けて楊おばあさんを慰めるだけでなく、直ちに専業の修繕ボランティアにも連絡を取り、塗料を焼き付けた鋼板やC形鋼などを用意し、現場で切断や溶接、ネジ締めなどを行って、住宅正面の壁と窓を急ピッチで仕上げた。

潘さんによれば、修繕工事は十月十日、慈済ボランティアが旗津区へ被災視察に向かってから四日目に終わった。扉を修繕したのみならず、お年寄りがより快適で安心して生活できるよう、室内のスペースを測定して浴室スペースの改善も査定した。

地元の全てのボランティアと他の県や市の慈済ボランティアも駆けつけて尽力したおかげで、高雄の「安心家庭訪問」は大方、双十節前に一段落した。そして、家庭訪問後に新たに発見した長期ケアケースへの寄り添いと支援が、既に始まっている。

「台風三号(ケーミー)の後、上人は特に、私たち慈済人が鄰長や里長、公的部門と密接に協力していくようにと念を押しました」。李さんは、旗津区での訪問ケアを例にあげて説明した。高雄の慈済人は、初めて海に面した離島地域で災害復旧活動をしたが、現地をよく知らないこともあり、鄰長や里長、地元住民の案内で路地を歩き回って初めて、助けを必要としている人を見つけることができた。慈済人の実践による成果が目に見えた時、地元住民は熱烈に歓迎した。

「楊おばあさんの家の修繕が終わった時、里長と路地に住んでいる人たちが全員出てきて、私たちに拍手を送ってくれました」と李さんは興奮気味に言った。

被災世帯に寄り添い、対面でケアする

台風が来るたびに、災害対応センターの総指揮者である潘さんは、ほとんど毎日高雄の静思堂に駐在していた。彼は、既製服のショッピングセンターを経営しているが、七月の台風三号がもたらした広範囲の洪水被害は、彼の店舗にも影響を及ぼした。しかし、彼は依然として災害支援に専念した。六亀区の住民が安全な場所に避難した時、彼は地元住民が緊急に自宅を離れたことを考慮して、結縁(けちえん)しようと発心し、彼らをショッピングセンターに招いて、適切な衣服を緊急に購入できるように手配した。

彼は二〇〇九年の台風八号(モーラコット)を思い返した。旗山区にあった自分の既製服のショッピングセンターは大きな損失を被り、多くの新品の衣類が水に浸かって廃棄処分になってしまったのだ。「当時、旗山区はまだ高雄県に属していたので、私はずっと県政府の人が旗山まで補助の査定に来るのを待っていました。あの時は、浸水の高さを少し高めに報告すれば、より多くの補助金がもらえると思っていました」。

しかし、その悪い考えは結局実現することはなかった。潘さんは丸一日待ったが、むしろ慈済ボランティアの方が先に来て、出来立ての即席飯を届けたくれただけでなく、證厳法師のお見舞いの手紙まで持って来てくれたのだ。慈済が着実に取り組んでいることを彼は確信した。

「ですから今、防災と災害支援に取り組んできたことで、自分はより人々に寄り添えるようになったと思っています。被災者が必要としている物や被災世帯の気持ち、または家族を失った時の心の痛みが分かるようになりました。対面でのケアは、本当に大事です」。彼は、慈済人がコミュニティに入ることのプラス効果を肯定している。そして、悪化する傾向にある極端な気候と向き合い、決して軽んじてはならず、これまで以上に、戒め慎み、敬虔にならなければならない、と法縁者に注意を促したいそうだ。

「高雄はあまりこのような強い台風に襲われることはなく、あの瞬間的に災害を引き起こす強い風は、多くの住民を怯えさせました。私たちは『安心祝福ギフトセット』を届けることで、被災者の方に落ち着きを取り戻してもらっています。慰めることは助力となりますから、『あなたは一人ではなく、證厳上人と全世界の慈済人の愛が一緒にいます』と伝えました」。

安心祝福ギフトセットを手に、ボランティアたちは「安心家庭訪問」を行った。(写真1 撮影・王坤河)

大樹区の住民は、慈済人が慰問に来てくれたことに感謝し、お互いに祝福し合った。(写真2 撮影・郭秋佩)

新北市

泥まみれの住宅 タイムリーに支援

泥まみれの住宅 タイムリーに支援

撮影/陳忠華
訳/何慧純

台風18号(クラトーン)は熱帯性低気圧に変わって消滅したが、周辺の気流により豪雨が続き、台湾の北海岸は大きな被害を受けた。十月四日に多くの地区で深刻な浸水や土石流などが起き、台北市と新北市、基隆市の慈済ボランティアが直ちに動員された。そして、新北市の金山区、万里区、三芝区及び基隆市などの被災者三百世帯あまりを訪問し、住宅の後片付けをしていた住民に炊き出しを行うと共に、早急に泥の撤去や復旧を手伝った。

(慈済月刊六九六期より)

關鍵字

醫療志工領隊 帶著心願再回來

(相片提供/黃郁雯)

擔任臺中慈濟醫院心蓮病房志工十七年,也在心蓮病房走完人生最後一段路,曾益冰的「三慢茶」令人懷念―他常自嘲手慢、腳慢,泡茶也慢; 他是服務超過萬餘小時的醫療志工領隊,也是同仁心中的典範「曾爸」。

九十一歲的曾益冰師兄是臺中慈濟醫院醫療志工團隊的寶,二○二四年十一月十二日下午三點,在他愛護了十七年的臺中慈院心蓮病房安詳往生。醫療志工壓抑悲傷,接力為他念誦佛號回向。

曾益冰是南投埔里人,早期投入慈濟環保志工,也是慈濟環保史上第一部環保回收車的發起人,更接引了數百位環保志工。一九八六年,花蓮慈濟醫院啟業,此後他承擔中區醫療志工領隊,每月往返臺中、花蓮,完成一梯次為期八天的勤務。臺中慈院二○○七年啟業,同年社會服務室在醫療志工功能新增癌症關懷,曾益冰回歸臺中慈院,到病房陪伴癌症病人,在心蓮病房固定輪班,每週三或四必定出現。他是法親稱頌的醫療志工典範,同仁更暱稱他「曾爸」。

在離開慈院最後一刻,志工和家屬唱著他生前最愛的慈誠隊隊歌,期望著「曾爸」乘願再來。

懺悔做得還不夠

曾益冰待過台電工程處,參與花蓮龍澗水力發電廠水壩建造,具有營建專長,在九二一大地震後投入慈濟希望工程好幾年;這輩子四次出國,也都是為了慈濟國際賑災。

曾益冰跟隨上人奉獻慈濟四十年,「我做慈濟不分晝夜,有時做到晚上十二點多,從來沒怨言,也不喊累,早上還是照常五點起來做早課。上人講的每一句話,我都會去實行;雖然沒辦法做得很完美,但就是去做好。」想到高齡的上人每天忙碌的行程,他懺悔自己「還沒做夠」,也不忘叮囑後進:「上人的精神,我們不能忘記。」

臺中慈院動工後,苗栗、東勢、水里、埔里的師兄們紛紛發心送來青草茶原料,曾益冰每日清晨三點起床煮茶,慰勞辛勞的工地人員,直到醫院完工。臺中慈院啟業後,各種活動常看見他的身影,同仁的慈懿日、浴佛典禮等人文活動,配合醫院評鑑等各種勤務。他早已把臺中慈院當成第二個家。

和曾益冰同為臺中慈院癌症關懷志工的劉玉珠說,無論出院病患是在南投縣中寮鄉山上或彰化二林鎮的海邊,只要對方有需要,就有曾益冰帶領團隊志工關懷的足跡,「就像觀世音菩薩一樣,千處祈求千處現。」

頭頸癌病患手術切除下顎,產生嚴重自卑,曾益冰以自己十個月大時嚴重燙傷造成左手掌攣縮變形的生命故事激勵對方,「這殘障的手,摻進了福慧,幾十年來還能開環保車載回收物。」聽得一旁後進志工大受感動。

「永遠沒做夠」的志工精神,是團隊學習的典範。當他在病房關懷,仍不時接到環保定點回收物的載運邀約,劉玉珠後來明白,原來曾益冰載回收時,總不忘順手將回收物放置地點清潔乾淨,做事認真的態度深獲口碑。

曾益冰愛當志工,醫院同仁眾所皆知。社會服務室高專吳宛育還曾阻止他:「不要再來了!」因為他生病後的狀況,讓心蓮病房和社服同仁很擔心,可他依然堅持,自己騎單車來當志工。

雖然曾益冰的這些小固執,讓敬愛他的同仁很頭疼,但如同吳宛育強調:「曾爸真的很靠得住,需要他幫忙,從來不拒絕。」心蓮病房護理長黃美玲體恤他,偷偷讓他到心蓮病房做些少量的志工服務工作,直到二○二四年五月病況變差才停止。

曾益冰是「醫療老兵」,也是「環保尖兵」,不因左手掌攣縮變形而退卻,近四十年全然身心奉獻。(攝影/黃世澤)

穿著西裝去住院

二○二四年五月入住心蓮病房,曾益冰依然保持活力有精神,幾日調養好身體,就出院在家休養。黃美玲護理長和資深癌關志工蔡月女,每週固定到曾家探望,曾益冰暢談當志工的趣事,茶餘飯後還有說有笑。即使在家休養,曾益冰也不懈怠,依舊精進念佛。

黃美玲指出,她沒看過安寧階段的病人,不因即將消逝而失意,還想著當志工的事;曾益冰常說著說著,就問何時可以回慈院當志工。

生老病死皆自然法則,年邁的曾益冰抵擋不住疾病侵蝕,十一月八日再次入住心蓮病房,這一回,同仁心裏都已經有底。心蓮病房護理師王怡蓁回想他第一次入住心蓮病房時,西裝筆挺的模樣,讓人分不清楚他是來做志工,還是要入住病房,「但這就是曾爸呀!總是給人端莊的形象。」

十一月再到心蓮病房,很快進入彌留狀態;王怡蓁冷靜且稱職的持續護理,內心明白這是生命的過程,默默祝願那位口袋總是滿滿糖果餅乾,有活力又幽默的老爺爺,能善終沒有遺憾。

護理部專師黃郁雯說,曾爸經常教導心蓮病房同仁說日文,還會不時抽考;她就有幾次躲起來,怕被考倒。她翻閱照片,看到曾爸推著推車,車上面那支茶壺:「懷念他泡很貴的『三萬茶』……說來好笑,是我們聽錯,其實是『三慢茶』―因為他常自嘲手慢、腳慢,泡茶也慢;可是他不介意自己手部殘疾,總是笑瞇瞇地對病人和同仁雙手奉茶。」

無上榮耀傳家寶

十一月十一日下午,社會服務室主任林怡嘉帶著感謝狀來到心蓮病房,表揚曾益冰醫療志工服務時數達到五千小時。林怡嘉與曾益冰的家人哼著頒獎配樂,大聲念出感謝狀內容―「花蓮、大林和臺中慈院醫療志工服務時數,加總一萬三千個小時,曾爸在臺中就有五千八百個小時,這是臺中慈院全體同仁與病人的福氣!你是第一名啦!獎狀是傳家寶喔。」同修師姊潘連卿代曾益冰領感謝狀,在場眾人賀曾爸無上榮耀,溫暖氣氛暫時驅散沉重心情。

往例每年元月,臺中慈院會舉辦感恩餐會,表揚醫療志工一整年的付出;但二○一九年十二月新冠肺炎疫情爆發至今停辦四年,疫情緩和後,預計二○二五年元月將重啟餐會。社服室提前也可說是遲來的慶祝,感恩曾益冰為臺中慈院的默默奉獻。

十一月隨著上人行腳來臺中的幾位靜思精舍常住師父,前來慈院探望曾益冰及家屬。德寧師父在曾益冰耳邊輕輕說話:「師兄你很精進,這輩子生命很有價值、圓滿,既然身體敗壞了就要放下,輕安自在,睡著後,我們換個健康身體,再回到上人身邊行菩薩道。」彌留狀態的曾益冰,似乎領受到祝福,臉龐輕輕動了一下。

十二日下午,曾益冰帶著行菩薩道的心願,沉沉睡去;十一月二十三日,法親從各處趕來參加追思告別式,現場滿座的殊勝因緣可想而知,他是多麼令人讚歎的典範長者;而他在人間所留下善與愛的腳步,深印永不褪。

(相片提供/黃郁雯)

擔任臺中慈濟醫院心蓮病房志工十七年,也在心蓮病房走完人生最後一段路,曾益冰的「三慢茶」令人懷念―他常自嘲手慢、腳慢,泡茶也慢; 他是服務超過萬餘小時的醫療志工領隊,也是同仁心中的典範「曾爸」。

九十一歲的曾益冰師兄是臺中慈濟醫院醫療志工團隊的寶,二○二四年十一月十二日下午三點,在他愛護了十七年的臺中慈院心蓮病房安詳往生。醫療志工壓抑悲傷,接力為他念誦佛號回向。

曾益冰是南投埔里人,早期投入慈濟環保志工,也是慈濟環保史上第一部環保回收車的發起人,更接引了數百位環保志工。一九八六年,花蓮慈濟醫院啟業,此後他承擔中區醫療志工領隊,每月往返臺中、花蓮,完成一梯次為期八天的勤務。臺中慈院二○○七年啟業,同年社會服務室在醫療志工功能新增癌症關懷,曾益冰回歸臺中慈院,到病房陪伴癌症病人,在心蓮病房固定輪班,每週三或四必定出現。他是法親稱頌的醫療志工典範,同仁更暱稱他「曾爸」。

在離開慈院最後一刻,志工和家屬唱著他生前最愛的慈誠隊隊歌,期望著「曾爸」乘願再來。

懺悔做得還不夠

曾益冰待過台電工程處,參與花蓮龍澗水力發電廠水壩建造,具有營建專長,在九二一大地震後投入慈濟希望工程好幾年;這輩子四次出國,也都是為了慈濟國際賑災。

曾益冰跟隨上人奉獻慈濟四十年,「我做慈濟不分晝夜,有時做到晚上十二點多,從來沒怨言,也不喊累,早上還是照常五點起來做早課。上人講的每一句話,我都會去實行;雖然沒辦法做得很完美,但就是去做好。」想到高齡的上人每天忙碌的行程,他懺悔自己「還沒做夠」,也不忘叮囑後進:「上人的精神,我們不能忘記。」

臺中慈院動工後,苗栗、東勢、水里、埔里的師兄們紛紛發心送來青草茶原料,曾益冰每日清晨三點起床煮茶,慰勞辛勞的工地人員,直到醫院完工。臺中慈院啟業後,各種活動常看見他的身影,同仁的慈懿日、浴佛典禮等人文活動,配合醫院評鑑等各種勤務。他早已把臺中慈院當成第二個家。

和曾益冰同為臺中慈院癌症關懷志工的劉玉珠說,無論出院病患是在南投縣中寮鄉山上或彰化二林鎮的海邊,只要對方有需要,就有曾益冰帶領團隊志工關懷的足跡,「就像觀世音菩薩一樣,千處祈求千處現。」

頭頸癌病患手術切除下顎,產生嚴重自卑,曾益冰以自己十個月大時嚴重燙傷造成左手掌攣縮變形的生命故事激勵對方,「這殘障的手,摻進了福慧,幾十年來還能開環保車載回收物。」聽得一旁後進志工大受感動。

「永遠沒做夠」的志工精神,是團隊學習的典範。當他在病房關懷,仍不時接到環保定點回收物的載運邀約,劉玉珠後來明白,原來曾益冰載回收時,總不忘順手將回收物放置地點清潔乾淨,做事認真的態度深獲口碑。

曾益冰愛當志工,醫院同仁眾所皆知。社會服務室高專吳宛育還曾阻止他:「不要再來了!」因為他生病後的狀況,讓心蓮病房和社服同仁很擔心,可他依然堅持,自己騎單車來當志工。

雖然曾益冰的這些小固執,讓敬愛他的同仁很頭疼,但如同吳宛育強調:「曾爸真的很靠得住,需要他幫忙,從來不拒絕。」心蓮病房護理長黃美玲體恤他,偷偷讓他到心蓮病房做些少量的志工服務工作,直到二○二四年五月病況變差才停止。

曾益冰是「醫療老兵」,也是「環保尖兵」,不因左手掌攣縮變形而退卻,近四十年全然身心奉獻。(攝影/黃世澤)

穿著西裝去住院

二○二四年五月入住心蓮病房,曾益冰依然保持活力有精神,幾日調養好身體,就出院在家休養。黃美玲護理長和資深癌關志工蔡月女,每週固定到曾家探望,曾益冰暢談當志工的趣事,茶餘飯後還有說有笑。即使在家休養,曾益冰也不懈怠,依舊精進念佛。

黃美玲指出,她沒看過安寧階段的病人,不因即將消逝而失意,還想著當志工的事;曾益冰常說著說著,就問何時可以回慈院當志工。

生老病死皆自然法則,年邁的曾益冰抵擋不住疾病侵蝕,十一月八日再次入住心蓮病房,這一回,同仁心裏都已經有底。心蓮病房護理師王怡蓁回想他第一次入住心蓮病房時,西裝筆挺的模樣,讓人分不清楚他是來做志工,還是要入住病房,「但這就是曾爸呀!總是給人端莊的形象。」

十一月再到心蓮病房,很快進入彌留狀態;王怡蓁冷靜且稱職的持續護理,內心明白這是生命的過程,默默祝願那位口袋總是滿滿糖果餅乾,有活力又幽默的老爺爺,能善終沒有遺憾。

護理部專師黃郁雯說,曾爸經常教導心蓮病房同仁說日文,還會不時抽考;她就有幾次躲起來,怕被考倒。她翻閱照片,看到曾爸推著推車,車上面那支茶壺:「懷念他泡很貴的『三萬茶』……說來好笑,是我們聽錯,其實是『三慢茶』―因為他常自嘲手慢、腳慢,泡茶也慢;可是他不介意自己手部殘疾,總是笑瞇瞇地對病人和同仁雙手奉茶。」

無上榮耀傳家寶

十一月十一日下午,社會服務室主任林怡嘉帶著感謝狀來到心蓮病房,表揚曾益冰醫療志工服務時數達到五千小時。林怡嘉與曾益冰的家人哼著頒獎配樂,大聲念出感謝狀內容―「花蓮、大林和臺中慈院醫療志工服務時數,加總一萬三千個小時,曾爸在臺中就有五千八百個小時,這是臺中慈院全體同仁與病人的福氣!你是第一名啦!獎狀是傳家寶喔。」同修師姊潘連卿代曾益冰領感謝狀,在場眾人賀曾爸無上榮耀,溫暖氣氛暫時驅散沉重心情。

往例每年元月,臺中慈院會舉辦感恩餐會,表揚醫療志工一整年的付出;但二○一九年十二月新冠肺炎疫情爆發至今停辦四年,疫情緩和後,預計二○二五年元月將重啟餐會。社服室提前也可說是遲來的慶祝,感恩曾益冰為臺中慈院的默默奉獻。

十一月隨著上人行腳來臺中的幾位靜思精舍常住師父,前來慈院探望曾益冰及家屬。德寧師父在曾益冰耳邊輕輕說話:「師兄你很精進,這輩子生命很有價值、圓滿,既然身體敗壞了就要放下,輕安自在,睡著後,我們換個健康身體,再回到上人身邊行菩薩道。」彌留狀態的曾益冰,似乎領受到祝福,臉龐輕輕動了一下。

十二日下午,曾益冰帶著行菩薩道的心願,沉沉睡去;十一月二十三日,法親從各處趕來參加追思告別式,現場滿座的殊勝因緣可想而知,他是多麼令人讚歎的典範長者;而他在人間所留下善與愛的腳步,深印永不褪。

手足相依 老宅風雨無憂

全家人擠在唯一不會漏水的客廳睡覺,雖然生活不易,但不離不棄的手足情讓人感動;志工發動大掃除,再一點點將殘破的家修補完善,讓每個人都有獨立房間,居室明亮整齊,入厝當天,比主人家更歡喜!

臺南慈濟訪視志工第一次走進張家,難以想像,在繁榮市區竟隱藏暗角—一棟磚造鐵皮骨架的兩層樓老宅,緊鄰鐵道旁,由於長年失修,窗戶殘缺只剩窗框,天花板塌陷崩落,牆基滲水,地面凹凸不平,到處堆滿雜物。前庭參天的大樹,樹枝肆意生竄;廚房天花板破了大洞,枯葉垂掛屋內。殘敗的景象,令人不勝唏噓!

家中唯一不會漏水的地方只剩客廳,全家人擠在這小小空間睡覺,姊姊睡醫療床,妹妹睡行軍床,而弟弟就著桌子底下打地鋪。張家大姊領有重度身心障礙證明,因病纏身,早已不能行走,需有人日夜照料;手足親情,不捨將姊姊送至安養院,弟弟因而離職扛起照護重擔,一家生計落在小妹身上,雖有社會福利支援,但日子還是清苦。

訪視志工每個月關懷,主責志工李幸娟、黃威然,更是走過、路過不錯過,常常進門探視。弟弟原本只想將廚房屋頂破洞修復,後來全然信任,讓愛走進來。

第一階段大清掃,六十多位志工合作,清運堆積多年的雜物,整理出合宜的起居空間。   

集結人力,說做就做

志工二○二四年四月初訪後,考量姊姊必須要有適合安養的環境,於是和慈濟社工、里長商議,大家都認為修繕才能解決根本問題。

幾番周折,才發現房屋土地是由弟弟跟市政府租賃,並無設定地上權,難以修繕施工。志工不放棄,找出稅籍證明及水電單據,協助弟弟向市府陳情,才拿到修繕核准證明。社工葉雅玲說明,為了合法,志工這段過程很辛苦,但一心只想改善張家人的生活品質;社工周珠蘭也補充,王聰明和黃威然兩位師兄為此跑公部門的次數已經難以計算,「因為他們的用心,這個家變得很有溫度。」

七月底凱米颱風來襲,大雨直下,志工著急,致電關心,所幸房子除了漏水滲水,沒有造成更大損害。

修繕前夕,八月三十一日,六十多位志工先來清空堆積的雜物、破舊家具,整理出三間房間,讓三人有獨立的起居空間。數十年未曾大掃除,塵埃瀰漫中,只見志工雙手不停歇地清運廢棄物;烈日當空,長長的搬運人龍從屋內延伸至屋外。連接二樓的,是一座近乎九十度陡峭的鐵樓梯,志工想方設法,從陽臺垂掛帆布,成為一道輸送帶,將陳年物品、櫃子、木板……一件件清運下樓。志工先行分類,不一會兒功夫,屋前就成了垃圾山、回收山;而事前向臺南市環保局申請,垃圾車、資源回收車也來到收取。

一組志工反覆清洗沖刷廚房、廁所,褪去陳年污垢,露出原本的顏色。另一組訪視志工陪伴弟弟和坐著輪椅的大姊到鄰近空地等待。「實在不好意思,這麼多志工來幫忙,慈濟師兄姊沒話講。」憨厚的弟弟語未盡便紅了眼眶,從未曾對外尋求幫助,沒想到慈濟人做得超乎他想像。

張家小妹早在一個月前便開始著手整理環境,她無奈地靦腆提及,自己一天工作十二小時,對於打掃有心無力,多年下來,家就成了這個樣子。

大同里里長侯雲靚看見這麼多志工動員,語帶哽咽激動說著:「張家的案子延宕很多年,若要幫他們搬家,其實困難重重,沒想到師兄姊一來,說做就做;慈濟這麼有愛心,真的是感恩證嚴上人。」

志工找來施作廠商全面修繕,其中廚房天花板更新,鋁門窗更換,安裝排油煙機。(圖1攝影/黃威然 圖2攝影/陳貞桃)

家庭吉慶,迎接新年

在慈濟資助下,九月底開始修繕,拆卸損壞的窗戶,安裝鋁窗;拆除廚房、浴室天花板,改成鍍鋁鋅鋼板;浴室門及廁所門板換新;廚房外牆整理、清潔、抹平;房間、客廳油漆;修剪造成鄰居困擾的參天大樹;騎樓左側破碎的地面挖除鋪平。除了硬體修繕,還安裝電熱水器、排油煙機,添置盥洗用具。

「七個多月來,從清掃到修繕,感恩有這個因緣讓志工來付出;看到現在潔亮的環境,相信他們歡喜,我們也法喜;也感恩社區的里長、鄰長來協助。」十一月三十日,二十多位慈濟志工及二位社工、四位里民,在張家的院子舉辦入厝儀式;志工王聰明在一片掌聲中,感恩所有的好因善緣。

「平安!吉祥!來囉!」志工手捧祝福禮,鍋具、米糧、月曆、碗筷、蘋果、橘子等,人人進門的當下說一句好話。志工也帶來了春聯,上聯「世事亨通皆為福」;下聯「家庭吉慶總是春」,橫批「春風淑氣萬象新」,由張家弟弟及志工貼上門楣,為即將來到的新年迎春納福,祈願一家平安。

「真的足感心,有師兄姊幫忙,今天才能有這樣的房子可以住。」從頭到尾笑容藏不住的張家弟弟,由衷說著感恩。而一掃愁容的妹妹也告訴志工:「以前真的不知道要怎麼整理混亂的家,現在房子不再漏水,空間整齊明亮,我一定會好好打掃,維持下去。」充滿自信的語氣,讓志工不由得感染她的快樂。

黃威然陪同弟弟來到鄰居家,為修繕期間所造成的噪音,致上歉意,也送上甜甜的湯圓,分享入厝喜悅。從探訪、監工到完工,黃威然的懸念與牽掛總算放下。「雖然他們的物質條件不豐,生活不易,但不離不棄的手足情讓人感動!這段時間幾次颱風來襲,修繕工程還沒做好,我都很擔心房子會漏水,但他們非常樂觀,說還有一間不會漏就行!」

李幸娟下班後,時不時就來張家探望關心;只要她摩托車一到,張家弟妹聽聲辨人,便主動開門迎接。真心實意的付出,讓張家已視她為家人。

原本全擠在客廳睡覺的一家人,如今都有各自的房間,環境舒適整潔。志工以操辦自家修繕的心,讓整個家煥然一新,且趕在寒冬來臨前完工;日後也會持續陪伴,期待溫暖一家人的嚴冬。

全家人擠在唯一不會漏水的客廳睡覺,雖然生活不易,但不離不棄的手足情讓人感動;志工發動大掃除,再一點點將殘破的家修補完善,讓每個人都有獨立房間,居室明亮整齊,入厝當天,比主人家更歡喜!

臺南慈濟訪視志工第一次走進張家,難以想像,在繁榮市區竟隱藏暗角—一棟磚造鐵皮骨架的兩層樓老宅,緊鄰鐵道旁,由於長年失修,窗戶殘缺只剩窗框,天花板塌陷崩落,牆基滲水,地面凹凸不平,到處堆滿雜物。前庭參天的大樹,樹枝肆意生竄;廚房天花板破了大洞,枯葉垂掛屋內。殘敗的景象,令人不勝唏噓!

家中唯一不會漏水的地方只剩客廳,全家人擠在這小小空間睡覺,姊姊睡醫療床,妹妹睡行軍床,而弟弟就著桌子底下打地鋪。張家大姊領有重度身心障礙證明,因病纏身,早已不能行走,需有人日夜照料;手足親情,不捨將姊姊送至安養院,弟弟因而離職扛起照護重擔,一家生計落在小妹身上,雖有社會福利支援,但日子還是清苦。

訪視志工每個月關懷,主責志工李幸娟、黃威然,更是走過、路過不錯過,常常進門探視。弟弟原本只想將廚房屋頂破洞修復,後來全然信任,讓愛走進來。

第一階段大清掃,六十多位志工合作,清運堆積多年的雜物,整理出合宜的起居空間。   

集結人力,說做就做

志工二○二四年四月初訪後,考量姊姊必須要有適合安養的環境,於是和慈濟社工、里長商議,大家都認為修繕才能解決根本問題。

幾番周折,才發現房屋土地是由弟弟跟市政府租賃,並無設定地上權,難以修繕施工。志工不放棄,找出稅籍證明及水電單據,協助弟弟向市府陳情,才拿到修繕核准證明。社工葉雅玲說明,為了合法,志工這段過程很辛苦,但一心只想改善張家人的生活品質;社工周珠蘭也補充,王聰明和黃威然兩位師兄為此跑公部門的次數已經難以計算,「因為他們的用心,這個家變得很有溫度。」

七月底凱米颱風來襲,大雨直下,志工著急,致電關心,所幸房子除了漏水滲水,沒有造成更大損害。

修繕前夕,八月三十一日,六十多位志工先來清空堆積的雜物、破舊家具,整理出三間房間,讓三人有獨立的起居空間。數十年未曾大掃除,塵埃瀰漫中,只見志工雙手不停歇地清運廢棄物;烈日當空,長長的搬運人龍從屋內延伸至屋外。連接二樓的,是一座近乎九十度陡峭的鐵樓梯,志工想方設法,從陽臺垂掛帆布,成為一道輸送帶,將陳年物品、櫃子、木板……一件件清運下樓。志工先行分類,不一會兒功夫,屋前就成了垃圾山、回收山;而事前向臺南市環保局申請,垃圾車、資源回收車也來到收取。

一組志工反覆清洗沖刷廚房、廁所,褪去陳年污垢,露出原本的顏色。另一組訪視志工陪伴弟弟和坐著輪椅的大姊到鄰近空地等待。「實在不好意思,這麼多志工來幫忙,慈濟師兄姊沒話講。」憨厚的弟弟語未盡便紅了眼眶,從未曾對外尋求幫助,沒想到慈濟人做得超乎他想像。

張家小妹早在一個月前便開始著手整理環境,她無奈地靦腆提及,自己一天工作十二小時,對於打掃有心無力,多年下來,家就成了這個樣子。

大同里里長侯雲靚看見這麼多志工動員,語帶哽咽激動說著:「張家的案子延宕很多年,若要幫他們搬家,其實困難重重,沒想到師兄姊一來,說做就做;慈濟這麼有愛心,真的是感恩證嚴上人。」

志工找來施作廠商全面修繕,其中廚房天花板更新,鋁門窗更換,安裝排油煙機。(圖1攝影/黃威然 圖2攝影/陳貞桃)

家庭吉慶,迎接新年

在慈濟資助下,九月底開始修繕,拆卸損壞的窗戶,安裝鋁窗;拆除廚房、浴室天花板,改成鍍鋁鋅鋼板;浴室門及廁所門板換新;廚房外牆整理、清潔、抹平;房間、客廳油漆;修剪造成鄰居困擾的參天大樹;騎樓左側破碎的地面挖除鋪平。除了硬體修繕,還安裝電熱水器、排油煙機,添置盥洗用具。

「七個多月來,從清掃到修繕,感恩有這個因緣讓志工來付出;看到現在潔亮的環境,相信他們歡喜,我們也法喜;也感恩社區的里長、鄰長來協助。」十一月三十日,二十多位慈濟志工及二位社工、四位里民,在張家的院子舉辦入厝儀式;志工王聰明在一片掌聲中,感恩所有的好因善緣。

「平安!吉祥!來囉!」志工手捧祝福禮,鍋具、米糧、月曆、碗筷、蘋果、橘子等,人人進門的當下說一句好話。志工也帶來了春聯,上聯「世事亨通皆為福」;下聯「家庭吉慶總是春」,橫批「春風淑氣萬象新」,由張家弟弟及志工貼上門楣,為即將來到的新年迎春納福,祈願一家平安。

「真的足感心,有師兄姊幫忙,今天才能有這樣的房子可以住。」從頭到尾笑容藏不住的張家弟弟,由衷說著感恩。而一掃愁容的妹妹也告訴志工:「以前真的不知道要怎麼整理混亂的家,現在房子不再漏水,空間整齊明亮,我一定會好好打掃,維持下去。」充滿自信的語氣,讓志工不由得感染她的快樂。

黃威然陪同弟弟來到鄰居家,為修繕期間所造成的噪音,致上歉意,也送上甜甜的湯圓,分享入厝喜悅。從探訪、監工到完工,黃威然的懸念與牽掛總算放下。「雖然他們的物質條件不豐,生活不易,但不離不棄的手足情讓人感動!這段時間幾次颱風來襲,修繕工程還沒做好,我都很擔心房子會漏水,但他們非常樂觀,說還有一間不會漏就行!」

李幸娟下班後,時不時就來張家探望關心;只要她摩托車一到,張家弟妹聽聲辨人,便主動開門迎接。真心實意的付出,讓張家已視她為家人。

原本全擠在客廳睡覺的一家人,如今都有各自的房間,環境舒適整潔。志工以操辦自家修繕的心,讓整個家煥然一新,且趕在寒冬來臨前完工;日後也會持續陪伴,期待溫暖一家人的嚴冬。

暖似春陽 我們不只是一所學校

慈濟大學附屬高級中學包括幼兒園、小學、國中、高中,共有六十六班,擁有慈濟大學豐厚資源做後盾;逾十六公頃校地,依傍中央山脈,鄰近美崙溪畔,校園郁郁青青,被形容就像在國家公園內求學。

相對於西部城市,花蓮偏遠,地震頻發,也經常受颱風環流影響,然而慈大附中一千九百多位學生中,就有一半以上來自非花蓮地區甚至海外,中學生以住宿為主。

李玲惠二○一七年從新北市公立中學校長一職提早退休,遷居花蓮,從此以慈大附中為家。李校長受邀撰文,回憶二○二四年○四○三大地震後,全校師生如何互助穩住身心,讓家長放心。

人間四月天,朝陽暖暖亮亮地照拂著校園,孩子們表情雀躍,因為,小學生將迎接兒童節,中學部學生也將度過連續幾天的孝親假,即將返家的愉悅心情寫在臉上,校內瀰漫歡喜與期待的情緒。

四月三日星期三,一如往昔,七點五十分鐘響,小學各班展開晨讀,中學部學生魚貫進入校園清掃,校長室和會議室也正有高二同學在抹桌掃地。突然天搖地動,彷彿地表上的群山峻谷正在捶胸頓足似地,劇烈的搖晃讓人無法安穩站立,我怔了一下:「糟了,是大地震!」

學務處的廣播響起,我抓起「指揮官」背心和手機準備往外衝,「孩子,疏散了,動作快!」沒想到學生回了一句:「我先去通知會議室的同學!」同仁們分頭動起來,我奮力地跑向操場,心裏嘀咕著,這校園真是廣闊,而我的腿為什麼那麼短小!

讓家長少一分驚慌

幼兒園前草坪上,老師牽著一群小娃娃移動後蹲下,他們彼此緊靠,彷彿母雞保護著一群小雞;小學生也安住在指定的疏散空間;操場上,中學部各班已完成集合並進行點名,依循著平日的防救災演練程序,各組同仁各就各位。

慈大附中的同學們竟然在四分鐘內就快速疏散。我在臺上集合班長,叮嚀師生,做好面對餘震的準備,學校將打開校門讓社區民眾可以入校避難;因為在九二一地震後興建的慈大附中,每一棟校舍都是堅固耐震的SRC(鋼骨鋼筋混凝土)結構!

陸續傳來花蓮有大樓傾斜、鐵公路中斷等災情,教務主任和我討論後續因應;而各班導師已通知家長,校舍無損、師生平安。此時,我接到了上人電話:「有平安嗎?」「有!請上人放心,都平安。」

我感恩眼前的大家都平安,但密集的餘震卻讓人憂心與害怕……此刻,耳畔突然響起熟悉的旋律:「我的心在靜思中感恩,我的心念充滿虔誠……」

中學部、小學部、幼兒園雖分散在不同區域,卻不約而同地雙手合十,唱著〈祈禱〉這首歌。整齊嘹亮的歌聲,傳遞著虔誠、恭敬,我抬頭望著蔚藍的天空,默念著:「請天佑臺灣、天佑眾生!」

八點四十四分,教務主任回報,縣政府宣布即刻起停課。這是意料中事,在確定妙膳廳供餐無虞後,我立刻向家長布達:「慈中在十點放學,無法在此時接回孩子的,也不用擔心,學校會將學生安置在安全地方,一定有師長陪伴,並且中午供餐,中學住宿生一律留宿。」

當時雖然無法知道花蓮市區的狀況,但我不忍也不願意,讓家長為了接送孩子,暴露在另一個風險中;相信多一小時緩衝,家長可以少一分驚慌,多一分安定!

救護車鳴笛聲忽遠忽近,小學部教務主任佩茹告知:「校長,我們透過班群布達了,如果家長在醫院或救災相關單位工作,以他們方便的時間接回孩子喔,我們都會陪伴!」

就是要這樣做!慈濟志業體及志工要啟動救災了,一定要讓他們無後顧之憂;我們雖然只是學校,也可以成為慈善的另一雙手!

二○二四年九月國家防災日避難演練警報響起,學生井然有序地就地掩護(圖1)並疏散(圖2)。

當全校親師生靠山

總務處夥伴巡視校舍,回報大多無損,我決定驅車回靜思精舍看看。平常路況順暢,但這天國福橋封了,我東繞西轉地回到精舍。

精舍在空地搭起帳棚作為本會災害應變中心,上人看到我,揮著手,示意我向前:「還好嗎?」此際,我彷彿是在外流浪的孩子,歷經辛苦才回到家、回到母親跟前,不知如何言語!我頂禮後起身,輕輕卻清楚地說:「感恩上人,學校很平安;很感恩上人,給我們這麼堅固的校舍!」上人輕聲說道:「那就好,回去交代老師、學生,還是有餘震,要注意喔。」

原來,上人平常聲聲呼籲的「國土危脆」,離我們這麼近;原來,「平安」從來就不是理所當然,原來,「大小平安」是如此珍貴!

在上午的驚慌之後,午餐時間,中學住校生於宿舍一樓享用四菜一湯。小學部午餐則移到感恩亭,小朋友在老師呵護下用餐完畢;還不能回到教室,正好可以大大方方地和同學在遊樂器材區玩起遊戲。

其中的他們,有些父母正在執行救災緊急任務,還有的家園受創,暫時回不去了。導師與家長以手機聯繫討論時嚴肅的表情,與小朋友純真無憂的嬉戲,形成強烈的對比。

事後統計,當日午間全校逾五百人留校,中學住宿生人數最多。由於北廻、蘇花公路坍方中斷,我們緊盯交通情況,也掌握妙膳廳備糧狀況因應。

依據標準作業流程,在重大天災後召開緊急防災小組會議,檢修校舍、照護住校師生外,我們同時成立了「關懷小組」,掌握每位家長和教職同仁家中災損情況,由人文室每日彙整,聯結慈濟救災中心,以最快速度關懷與慰問。

地震當天,一位小學部導師就接到家長哭泣的電話:「怎麼辦?我家傾斜了,被貼紅單了!」「可不可以先別讓孩子知道,我怕孩子嚇到,我們家快倒了!」「我們的家當都在房子裏面,拿不出來……」導師安撫家長的情緒,同時思索如何在這段時間照護小朋友,以及在何時、以什麼方式讓孩子知曉家中的狀態。

下午,孩子繼續留校,導師則陪著家長,在警察指揮下走過斷垣傾壁,先回到家中取出重要物品和衣物。

平常會接小一學生小君(化名)放學的媽媽,地震當天並沒有出現在校門口;導師詢問來接小君的外婆,才得知媽媽在太魯閣工作,災後失去音訊。隔天,導師看到媒體拍攝的照片,再透過慈濟救災中心居中聯繫,確認小君的母親雖然受困在山區,但是人很平安,馬上轉達請外婆安心。

就讀三年級的轉學生小華(化名),住家大樓受損無法居住,一家人在學校附近租房暫時安身;訪視關懷後,慈濟志工送來「福慧床」,解除祖孫三代共擠一張床的窘境。

小學部老師帶動學生一起祈禱天地平安。

慶幸是警察的女兒

在災後關懷的過程中,每一次伸手,就握住親師生的一分因緣,接住他們的驚慌無助,同時傳遞著溫暖、傳遞出支持的力量。

記得地震那天下午,站在警衛室旁的我接到電話,是我九十一歲高齡母親打來:「電視一直報,你們花蓮地震很嚴重,你有沒有怎樣?學校有沒有怎樣?你都沒消沒息,我足煩惱耶!」我一直對著老媽道歉:「請您放心,平安啦,學校的厝『足勇』耶!」

當我穿上那件指揮官的紅背心時,我真的忘了,我有個高齡的母親,住在南部,而臺北的家,還有一位重要家人,我的先生。

愛本該平等;但災難來臨時,愛也有輕重緩急,考驗著人性,也驗證著慈濟精神的實現。

那幾晚餘震不斷,也住在宿舍的我不敢回房睡覺,就坐在門口的椅子上,一手拉著外套、一手握著手機;夜裏若是震動大了些,就直覺往外衝,立刻打電話到宿舍櫃臺關切。我不禁想起,住在警察宿舍的童年歲月,逢年過節,爸爸不在家,颱風警報響起,爸爸更不在家。我們和媽媽只能縮在一起,望著窗外的花樹在狂風中搖顫,聽媽媽說著「想當年」……

「八七水災的時候,我挺著肚子,一個人在宿舍,水淹進屋子,你爸爸去值勤了,我很害怕;後來是另一位警察拆下門板,把我扛上門板,在大水中推出去……」

不管擔任哪一所學校的老師、校長,我不變的身分是「警察的女兒」,感恩爸爸在我的血液中,留下「勇敢」!感恩穿起慈濟制服的我,更無懼、更勇敢!

強震雖然給美麗的花蓮留下山崩地裂、土石流的傷痕,但是在慈中校園,因為愛,留下親師生美善的印證—學生在地震當下靜定的表現,高二大男孩雙手環抱守護幼兒園的小弟弟、小妹妹;全校祈禱的虔誠;親師以愛陪伴、協力守護的點滴,都是另一種生命的印痕。

人間四月天,春陽暖暖,因為愛轉動、因為善永續,更顯人間美好,教育靜好!

|延伸閱讀|【看見菩提身影】 陪伴你長大 – 李玲惠

慈濟大學附屬高級中學包括幼兒園、小學、國中、高中,共有六十六班,擁有慈濟大學豐厚資源做後盾;逾十六公頃校地,依傍中央山脈,鄰近美崙溪畔,校園郁郁青青,被形容就像在國家公園內求學。

相對於西部城市,花蓮偏遠,地震頻發,也經常受颱風環流影響,然而慈大附中一千九百多位學生中,就有一半以上來自非花蓮地區甚至海外,中學生以住宿為主。

李玲惠二○一七年從新北市公立中學校長一職提早退休,遷居花蓮,從此以慈大附中為家。李校長受邀撰文,回憶二○二四年○四○三大地震後,全校師生如何互助穩住身心,讓家長放心。

人間四月天,朝陽暖暖亮亮地照拂著校園,孩子們表情雀躍,因為,小學生將迎接兒童節,中學部學生也將度過連續幾天的孝親假,即將返家的愉悅心情寫在臉上,校內瀰漫歡喜與期待的情緒。

四月三日星期三,一如往昔,七點五十分鐘響,小學各班展開晨讀,中學部學生魚貫進入校園清掃,校長室和會議室也正有高二同學在抹桌掃地。突然天搖地動,彷彿地表上的群山峻谷正在捶胸頓足似地,劇烈的搖晃讓人無法安穩站立,我怔了一下:「糟了,是大地震!」

學務處的廣播響起,我抓起「指揮官」背心和手機準備往外衝,「孩子,疏散了,動作快!」沒想到學生回了一句:「我先去通知會議室的同學!」同仁們分頭動起來,我奮力地跑向操場,心裏嘀咕著,這校園真是廣闊,而我的腿為什麼那麼短小!

讓家長少一分驚慌

幼兒園前草坪上,老師牽著一群小娃娃移動後蹲下,他們彼此緊靠,彷彿母雞保護著一群小雞;小學生也安住在指定的疏散空間;操場上,中學部各班已完成集合並進行點名,依循著平日的防救災演練程序,各組同仁各就各位。

慈大附中的同學們竟然在四分鐘內就快速疏散。我在臺上集合班長,叮嚀師生,做好面對餘震的準備,學校將打開校門讓社區民眾可以入校避難;因為在九二一地震後興建的慈大附中,每一棟校舍都是堅固耐震的SRC(鋼骨鋼筋混凝土)結構!

陸續傳來花蓮有大樓傾斜、鐵公路中斷等災情,教務主任和我討論後續因應;而各班導師已通知家長,校舍無損、師生平安。此時,我接到了上人電話:「有平安嗎?」「有!請上人放心,都平安。」

我感恩眼前的大家都平安,但密集的餘震卻讓人憂心與害怕……此刻,耳畔突然響起熟悉的旋律:「我的心在靜思中感恩,我的心念充滿虔誠……」

中學部、小學部、幼兒園雖分散在不同區域,卻不約而同地雙手合十,唱著〈祈禱〉這首歌。整齊嘹亮的歌聲,傳遞著虔誠、恭敬,我抬頭望著蔚藍的天空,默念著:「請天佑臺灣、天佑眾生!」

八點四十四分,教務主任回報,縣政府宣布即刻起停課。這是意料中事,在確定妙膳廳供餐無虞後,我立刻向家長布達:「慈中在十點放學,無法在此時接回孩子的,也不用擔心,學校會將學生安置在安全地方,一定有師長陪伴,並且中午供餐,中學住宿生一律留宿。」

當時雖然無法知道花蓮市區的狀況,但我不忍也不願意,讓家長為了接送孩子,暴露在另一個風險中;相信多一小時緩衝,家長可以少一分驚慌,多一分安定!

救護車鳴笛聲忽遠忽近,小學部教務主任佩茹告知:「校長,我們透過班群布達了,如果家長在醫院或救災相關單位工作,以他們方便的時間接回孩子喔,我們都會陪伴!」

就是要這樣做!慈濟志業體及志工要啟動救災了,一定要讓他們無後顧之憂;我們雖然只是學校,也可以成為慈善的另一雙手!

二○二四年九月國家防災日避難演練警報響起,學生井然有序地就地掩護(圖1)並疏散(圖2)。

當全校親師生靠山

總務處夥伴巡視校舍,回報大多無損,我決定驅車回靜思精舍看看。平常路況順暢,但這天國福橋封了,我東繞西轉地回到精舍。

精舍在空地搭起帳棚作為本會災害應變中心,上人看到我,揮著手,示意我向前:「還好嗎?」此際,我彷彿是在外流浪的孩子,歷經辛苦才回到家、回到母親跟前,不知如何言語!我頂禮後起身,輕輕卻清楚地說:「感恩上人,學校很平安;很感恩上人,給我們這麼堅固的校舍!」上人輕聲說道:「那就好,回去交代老師、學生,還是有餘震,要注意喔。」

原來,上人平常聲聲呼籲的「國土危脆」,離我們這麼近;原來,「平安」從來就不是理所當然,原來,「大小平安」是如此珍貴!

在上午的驚慌之後,午餐時間,中學住校生於宿舍一樓享用四菜一湯。小學部午餐則移到感恩亭,小朋友在老師呵護下用餐完畢;還不能回到教室,正好可以大大方方地和同學在遊樂器材區玩起遊戲。

其中的他們,有些父母正在執行救災緊急任務,還有的家園受創,暫時回不去了。導師與家長以手機聯繫討論時嚴肅的表情,與小朋友純真無憂的嬉戲,形成強烈的對比。

事後統計,當日午間全校逾五百人留校,中學住宿生人數最多。由於北廻、蘇花公路坍方中斷,我們緊盯交通情況,也掌握妙膳廳備糧狀況因應。

依據標準作業流程,在重大天災後召開緊急防災小組會議,檢修校舍、照護住校師生外,我們同時成立了「關懷小組」,掌握每位家長和教職同仁家中災損情況,由人文室每日彙整,聯結慈濟救災中心,以最快速度關懷與慰問。

地震當天,一位小學部導師就接到家長哭泣的電話:「怎麼辦?我家傾斜了,被貼紅單了!」「可不可以先別讓孩子知道,我怕孩子嚇到,我們家快倒了!」「我們的家當都在房子裏面,拿不出來……」導師安撫家長的情緒,同時思索如何在這段時間照護小朋友,以及在何時、以什麼方式讓孩子知曉家中的狀態。

下午,孩子繼續留校,導師則陪著家長,在警察指揮下走過斷垣傾壁,先回到家中取出重要物品和衣物。

平常會接小一學生小君(化名)放學的媽媽,地震當天並沒有出現在校門口;導師詢問來接小君的外婆,才得知媽媽在太魯閣工作,災後失去音訊。隔天,導師看到媒體拍攝的照片,再透過慈濟救災中心居中聯繫,確認小君的母親雖然受困在山區,但是人很平安,馬上轉達請外婆安心。

就讀三年級的轉學生小華(化名),住家大樓受損無法居住,一家人在學校附近租房暫時安身;訪視關懷後,慈濟志工送來「福慧床」,解除祖孫三代共擠一張床的窘境。

小學部老師帶動學生一起祈禱天地平安。

慶幸是警察的女兒

在災後關懷的過程中,每一次伸手,就握住親師生的一分因緣,接住他們的驚慌無助,同時傳遞著溫暖、傳遞出支持的力量。

記得地震那天下午,站在警衛室旁的我接到電話,是我九十一歲高齡母親打來:「電視一直報,你們花蓮地震很嚴重,你有沒有怎樣?學校有沒有怎樣?你都沒消沒息,我足煩惱耶!」我一直對著老媽道歉:「請您放心,平安啦,學校的厝『足勇』耶!」

當我穿上那件指揮官的紅背心時,我真的忘了,我有個高齡的母親,住在南部,而臺北的家,還有一位重要家人,我的先生。

愛本該平等;但災難來臨時,愛也有輕重緩急,考驗著人性,也驗證著慈濟精神的實現。

那幾晚餘震不斷,也住在宿舍的我不敢回房睡覺,就坐在門口的椅子上,一手拉著外套、一手握著手機;夜裏若是震動大了些,就直覺往外衝,立刻打電話到宿舍櫃臺關切。我不禁想起,住在警察宿舍的童年歲月,逢年過節,爸爸不在家,颱風警報響起,爸爸更不在家。我們和媽媽只能縮在一起,望著窗外的花樹在狂風中搖顫,聽媽媽說著「想當年」……

「八七水災的時候,我挺著肚子,一個人在宿舍,水淹進屋子,你爸爸去值勤了,我很害怕;後來是另一位警察拆下門板,把我扛上門板,在大水中推出去……」

不管擔任哪一所學校的老師、校長,我不變的身分是「警察的女兒」,感恩爸爸在我的血液中,留下「勇敢」!感恩穿起慈濟制服的我,更無懼、更勇敢!

強震雖然給美麗的花蓮留下山崩地裂、土石流的傷痕,但是在慈中校園,因為愛,留下親師生美善的印證—學生在地震當下靜定的表現,高二大男孩雙手環抱守護幼兒園的小弟弟、小妹妹;全校祈禱的虔誠;親師以愛陪伴、協力守護的點滴,都是另一種生命的印痕。

人間四月天,春陽暖暖,因為愛轉動、因為善永續,更顯人間美好,教育靜好!

|延伸閱讀|【看見菩提身影】 陪伴你長大 – 李玲惠

從學生走向人生 這堂課沒有標準答案

食農教育課程開始進行的前幾年,學生利用回收布袋種植萵苣菜苗。(攝影/徐振家)

從種不出玉米開始,師生發現自己不夠理解大自然,
願意「弄髒雙手」,去鍛鍊解決問題的能力;
學生自主學習,不只完成自己的作業,還與同組同學共好。
與時俱進的課程沒有標準答案,卻是一段驚豔彼此的學習歷程。

從種不出玉米開始,師生發現自己不夠理解大自然,願意「弄髒雙手」,去鍛鍊解決問題的能力;學生自主學習,不只完成自己的作業,還與同組同學共好。

與時俱進的課程沒有標準答案,卻是一段驚豔彼此的學習歷程。

矗立在慈大附中旁的青山,雲層環繞,壯闊而神祕,這般景象令人自覺渺小。慈大附中天文館有張牌匾,寫著「巍峨超越中央山」,取自校歌,大意是期許學生有高遠志向。

慈大附中二○○○年創校招生,為慈濟教育完全化理想的完整實現;辦學初衷以品德為典範,培育品學兼優的學子。在一○八新課綱實施,也就是十二年國教的「素養導向」(competence)教學政策變革中,慈大附中這幾年又如何將品德與素養融入教育之中呢?

承認失敗,不算失敗

「慈濟附中擁有很好的生態,」輔導主任徐振家說:「慈中土地的活用度很高,地面多鋪設透水的連鎖磚,樹木也很多。」他開設了一門食農教育課,才剛起步,師生就面臨挑戰。「我們在校園種玉米,可是土地太硬,小石頭也特別多,勢必要先把土養起來!」短暫的失落中,師生都讓大自然上了一課:「原來我們都沒有認識這片土地與氣候。」

為了嘗試培育有機土,徐振家帶領學生養殖黑水虻,進而分解廚餘、製作堆肥,但黑水虻到了冬天就紛紛死去……他們又轉而設立堆肥區,運用校園裏本來就有的不同物種孕育堆肥,包括黑水虻、蚯蚓、落葉等,「這是一個很好的生態循壞。」

這堂課由跨領域科目的老師們蒐集資料,在慈濟大學「全球永續發展目標教研總中心」邱奕儒老師指導下進行。徐振家帶著學生在失敗中發現問題、找方法,過程看似「充滿失敗」,卻引發了學生對食農議題的興趣。

一○八新課綱將課程分為教育部規畫必修的「部訂課程」,以及依各校願景及特色開設的「校訂課程」;並將必修課程比例降低,提升選修課程的比重。徐振家在高中部開設的這堂「食農藝趣」課,屬於多元選修課程,讓學生依照自己感興趣的方向選讀;課程設計跨科別,有靜態學習,也會有實做、外出參訪,讓學生能從多個角度探索同個問題。

不過,選修課程無法用傳統方式進行評量。慈大附中總務主任蕭湘樺說:「帶領這類課程,就不會有標準答案,而是要看學生實際操作與解決問題的能力。」

二○二四年七月,風災吹倒樹木,師生整地、以連鎖磚建立生態區。(攝影/徐振家)

不夠完美,才是現實

蕭湘樺是慈大附中首批設計選修課的團隊成員之一,他們當時還設計了「樂活花蓮」課程,其中一項作業是要學生撰寫一日旅遊計畫書。

「網路上有很多資料,但是每個地點代表不同的人文歷史,準備介紹哪個時期的花蓮?為什麼選這幾個地點就可以認識花蓮?在這幾個地點停留多久?這是學生要思考的重點。」

蕭湘樺說明,相較於傳統「量化」結果的紙筆測驗,「質化」的評比給予學生更多空間,用自己擅長的方式進行表達。「這不就像是在職場或是研究所寫企畫書的過程嗎?期待學生的作品一出來就會完美,是不實際的;可是學生們透過小組合作、戶外踏查,解決問題和產出作品,他們會有成就感,老師看了也會感動。」

傳統教學上,即使學生有這樣的能力,老師也未必能夠看得見,「過去我們只能看到考試的成績而已。」蕭湘樺說,這就像是將實際社會上的運作,轉化為教育現場的教學設計,看著學生操作、思考以及解決問題,是讓老師很驚豔的過程,師生也會更投入課程;在教與學之間,就會形成一個善循環。

學生不只完成了自己的作品,還因團隊合作而有所交流和相互學習。蕭湘樺十分認同課程改革帶來的影響:「李玲惠校長也帶給我們共好。她作為領導者,會隨時去更新,很願意與時並進,帶著我們前進。」

高三的李念蓁(左)和魏苡涵(右)運用自主學習時間討論校刊編務。(攝影/蕭耀華)

自主學習,學習自主

慈大附中為高一和高二的學生安排了四個學期共一百四十四小時的「自主學習」,是教育部規定高中三年至少十八小時的八倍。

自主學習在傳統教育觀念裏充滿顧慮,擔心學生沒有善用時間的能力,荒廢掉可以用作上課的時段。對此,圖書館吳思寰主任說明,自主學習不等同放任,反而需要更多的準備,老師尋找可以使用的學習資源,包括介紹不同的筆記方法,或是免費的線上學習網站,甚至協助學生商請校外師資支援;引導學生完成完整的學習計畫,未來成為申請大學時的必要審查資料之一。

高二的江祐賢利用陽明交通大學設立的線上開放教育平臺Ewant系統,學習菇類知識,還讀了其中的兩本相關書目,獨自完成了一段充實的生物學知識之旅。

李研頡在高二時運用自主學習時間製作宮廟模型,用A4紙、色筆和毛線,臨摹出一個手掌大小的宮廟旗幟,她逐一介紹:「這是三十六官將,這是枷大將,是負責抓鬼的,這是鎖大將……」豐富的知識、完整的說明,表現出對傳統宮廟文化濃厚的興趣。

高三的李念蓁與魏苡涵,則利用該時段經營校刊。魏苡涵利用線上軟體免費功能輔助,以電子畫板電繪校刊插圖和封面,完成美編;李念蓁則是主編,甚至早上五點就起床投入編務。他們合力編了一本又一本小而精美的刊物,記載著師生投稿的溫馨文字和影像畫面。

學生在自主學習的過程,學習善用時間,利用資源,去探索自身感興趣的事物,這是老師們最樂見的樣子。「這也是他們的權益。」吳思寰說道。

學生們整理鄰近校園的社區環境,以回饋在地的方式慶祝校慶。(相片提供/慈大附中)

國際公民,社區幫手

每週至少一節的慈濟人文課程是創校以來的傳統,內容包含茶道、花道、書法、靜思語教學、志工服務等課程;也在一○八新課綱之下,設為彰顯學校特色的校訂必修課程,並且轉化。

在「全球公民」課程中,以高二的「國際關懷與行動」為例,分別讓五個班各自負責一個永續發展目標(SDGs)主題,例如難民議題、水資源及糧食問題等,進行一學期的討論。

學校也有回應全球飢餓問題的活動,例如一年一度、連續八年的「感飢12送愛國際」,參加的師生從早上六點到下午六點不進食固體食物,體驗十二小時的飢餓,以「我少吃一口,讓他們多吃一餐」的精神,省下當日餐費,捐作慈濟國際賑災。

慈大附中校慶也與眾不同,學生以感恩回饋的方式慶祝學校生日。教務主任洪振斌曾將校慶活動擴大規模,學生不只清掃校園及周邊社區,高年級生還到了花蓮車站、果菜市場、慈濟醫院及旅遊景點如七星潭等地撿垃圾;另一方面,師生也回到慈濟人的心靈故鄉靜思精舍,跟隨常住師父出坡,一同為「家務事」忙碌,體驗一日不做、一日不食的農禪生活。

李玲惠及洪振斌回憶,改變校慶方式的第一年,當學生清掃到警局附近時,警察嚇了一跳,還拿出飲料慰勞學生,互動十分有趣。

二○二二年的「感飢12送愛國際」,串聯大愛感恩科技及部分九一八池上地震受災學校等共三千多人參與,募集款項捐予慈濟基金會援助烏克蘭難民。(攝影/廖文聰)

形象整齊,校風深化

慈大附中與多個海外姊妹校維持線上與實體交流,學生也能在寒暑假自主報名海外修學旅行。李玲惠印象深刻,有次學生們制服筆挺、整齊列隊,日本海關人員主動禮遇師生通關。

還有一次到馬來西亞養老院服務,她叮嚀準備上臺表演才藝的學生不要炫技演出,忘詞、搞笑都沒關係,最重要的是娛樂長者們。而慈大附中的學生也領會了校長的意思,學生洪為亨回憶當時:「要站在婆婆的角度,而不是我們自己的角度。」

學生的善舉與貼心,是李玲惠覺得他們與眾不同的地方;「教育,在學校的校風、環境建築、情境的布置、老師的背影裏,那些可能你看不見實際用處的,都會讓一個人改變。」

食農教育課程開始進行的前幾年,學生利用回收布袋種植萵苣菜苗。(攝影/徐振家)

從種不出玉米開始,師生發現自己不夠理解大自然,
願意「弄髒雙手」,去鍛鍊解決問題的能力;
學生自主學習,不只完成自己的作業,還與同組同學共好。
與時俱進的課程沒有標準答案,卻是一段驚豔彼此的學習歷程。

從種不出玉米開始,師生發現自己不夠理解大自然,願意「弄髒雙手」,去鍛鍊解決問題的能力;學生自主學習,不只完成自己的作業,還與同組同學共好。

與時俱進的課程沒有標準答案,卻是一段驚豔彼此的學習歷程。

矗立在慈大附中旁的青山,雲層環繞,壯闊而神祕,這般景象令人自覺渺小。慈大附中天文館有張牌匾,寫著「巍峨超越中央山」,取自校歌,大意是期許學生有高遠志向。

慈大附中二○○○年創校招生,為慈濟教育完全化理想的完整實現;辦學初衷以品德為典範,培育品學兼優的學子。在一○八新課綱實施,也就是十二年國教的「素養導向」(competence)教學政策變革中,慈大附中這幾年又如何將品德與素養融入教育之中呢?

承認失敗,不算失敗

「慈濟附中擁有很好的生態,」輔導主任徐振家說:「慈中土地的活用度很高,地面多鋪設透水的連鎖磚,樹木也很多。」他開設了一門食農教育課,才剛起步,師生就面臨挑戰。「我們在校園種玉米,可是土地太硬,小石頭也特別多,勢必要先把土養起來!」短暫的失落中,師生都讓大自然上了一課:「原來我們都沒有認識這片土地與氣候。」

為了嘗試培育有機土,徐振家帶領學生養殖黑水虻,進而分解廚餘、製作堆肥,但黑水虻到了冬天就紛紛死去……他們又轉而設立堆肥區,運用校園裏本來就有的不同物種孕育堆肥,包括黑水虻、蚯蚓、落葉等,「這是一個很好的生態循壞。」

這堂課由跨領域科目的老師們蒐集資料,在慈濟大學「全球永續發展目標教研總中心」邱奕儒老師指導下進行。徐振家帶著學生在失敗中發現問題、找方法,過程看似「充滿失敗」,卻引發了學生對食農議題的興趣。

一○八新課綱將課程分為教育部規畫必修的「部訂課程」,以及依各校願景及特色開設的「校訂課程」;並將必修課程比例降低,提升選修課程的比重。徐振家在高中部開設的這堂「食農藝趣」課,屬於多元選修課程,讓學生依照自己感興趣的方向選讀;課程設計跨科別,有靜態學習,也會有實做、外出參訪,讓學生能從多個角度探索同個問題。

不過,選修課程無法用傳統方式進行評量。慈大附中總務主任蕭湘樺說:「帶領這類課程,就不會有標準答案,而是要看學生實際操作與解決問題的能力。」

二○二四年七月,風災吹倒樹木,師生整地、以連鎖磚建立生態區。(攝影/徐振家)

不夠完美,才是現實

蕭湘樺是慈大附中首批設計選修課的團隊成員之一,他們當時還設計了「樂活花蓮」課程,其中一項作業是要學生撰寫一日旅遊計畫書。

「網路上有很多資料,但是每個地點代表不同的人文歷史,準備介紹哪個時期的花蓮?為什麼選這幾個地點就可以認識花蓮?在這幾個地點停留多久?這是學生要思考的重點。」

蕭湘樺說明,相較於傳統「量化」結果的紙筆測驗,「質化」的評比給予學生更多空間,用自己擅長的方式進行表達。「這不就像是在職場或是研究所寫企畫書的過程嗎?期待學生的作品一出來就會完美,是不實際的;可是學生們透過小組合作、戶外踏查,解決問題和產出作品,他們會有成就感,老師看了也會感動。」

傳統教學上,即使學生有這樣的能力,老師也未必能夠看得見,「過去我們只能看到考試的成績而已。」蕭湘樺說,這就像是將實際社會上的運作,轉化為教育現場的教學設計,看著學生操作、思考以及解決問題,是讓老師很驚豔的過程,師生也會更投入課程;在教與學之間,就會形成一個善循環。

學生不只完成了自己的作品,還因團隊合作而有所交流和相互學習。蕭湘樺十分認同課程改革帶來的影響:「李玲惠校長也帶給我們共好。她作為領導者,會隨時去更新,很願意與時並進,帶著我們前進。」

高三的李念蓁(左)和魏苡涵(右)運用自主學習時間討論校刊編務。(攝影/蕭耀華)

自主學習,學習自主

慈大附中為高一和高二的學生安排了四個學期共一百四十四小時的「自主學習」,是教育部規定高中三年至少十八小時的八倍。

自主學習在傳統教育觀念裏充滿顧慮,擔心學生沒有善用時間的能力,荒廢掉可以用作上課的時段。對此,圖書館吳思寰主任說明,自主學習不等同放任,反而需要更多的準備,老師尋找可以使用的學習資源,包括介紹不同的筆記方法,或是免費的線上學習網站,甚至協助學生商請校外師資支援;引導學生完成完整的學習計畫,未來成為申請大學時的必要審查資料之一。

高二的江祐賢利用陽明交通大學設立的線上開放教育平臺Ewant系統,學習菇類知識,還讀了其中的兩本相關書目,獨自完成了一段充實的生物學知識之旅。

李研頡在高二時運用自主學習時間製作宮廟模型,用A4紙、色筆和毛線,臨摹出一個手掌大小的宮廟旗幟,她逐一介紹:「這是三十六官將,這是枷大將,是負責抓鬼的,這是鎖大將……」豐富的知識、完整的說明,表現出對傳統宮廟文化濃厚的興趣。

高三的李念蓁與魏苡涵,則利用該時段經營校刊。魏苡涵利用線上軟體免費功能輔助,以電子畫板電繪校刊插圖和封面,完成美編;李念蓁則是主編,甚至早上五點就起床投入編務。他們合力編了一本又一本小而精美的刊物,記載著師生投稿的溫馨文字和影像畫面。

學生在自主學習的過程,學習善用時間,利用資源,去探索自身感興趣的事物,這是老師們最樂見的樣子。「這也是他們的權益。」吳思寰說道。

學生們整理鄰近校園的社區環境,以回饋在地的方式慶祝校慶。(相片提供/慈大附中)

國際公民,社區幫手

每週至少一節的慈濟人文課程是創校以來的傳統,內容包含茶道、花道、書法、靜思語教學、志工服務等課程;也在一○八新課綱之下,設為彰顯學校特色的校訂必修課程,並且轉化。

在「全球公民」課程中,以高二的「國際關懷與行動」為例,分別讓五個班各自負責一個永續發展目標(SDGs)主題,例如難民議題、水資源及糧食問題等,進行一學期的討論。

學校也有回應全球飢餓問題的活動,例如一年一度、連續八年的「感飢12送愛國際」,參加的師生從早上六點到下午六點不進食固體食物,體驗十二小時的飢餓,以「我少吃一口,讓他們多吃一餐」的精神,省下當日餐費,捐作慈濟國際賑災。

慈大附中校慶也與眾不同,學生以感恩回饋的方式慶祝學校生日。教務主任洪振斌曾將校慶活動擴大規模,學生不只清掃校園及周邊社區,高年級生還到了花蓮車站、果菜市場、慈濟醫院及旅遊景點如七星潭等地撿垃圾;另一方面,師生也回到慈濟人的心靈故鄉靜思精舍,跟隨常住師父出坡,一同為「家務事」忙碌,體驗一日不做、一日不食的農禪生活。

李玲惠及洪振斌回憶,改變校慶方式的第一年,當學生清掃到警局附近時,警察嚇了一跳,還拿出飲料慰勞學生,互動十分有趣。

二○二二年的「感飢12送愛國際」,串聯大愛感恩科技及部分九一八池上地震受災學校等共三千多人參與,募集款項捐予慈濟基金會援助烏克蘭難民。(攝影/廖文聰)

形象整齊,校風深化

慈大附中與多個海外姊妹校維持線上與實體交流,學生也能在寒暑假自主報名海外修學旅行。李玲惠印象深刻,有次學生們制服筆挺、整齊列隊,日本海關人員主動禮遇師生通關。

還有一次到馬來西亞養老院服務,她叮嚀準備上臺表演才藝的學生不要炫技演出,忘詞、搞笑都沒關係,最重要的是娛樂長者們。而慈大附中的學生也領會了校長的意思,學生洪為亨回憶當時:「要站在婆婆的角度,而不是我們自己的角度。」

學生的善舉與貼心,是李玲惠覺得他們與眾不同的地方;「教育,在學校的校風、環境建築、情境的布置、老師的背影裏,那些可能你看不見實際用處的,都會讓一個人改變。」

母親與我

一百零二歲的陳林水錦,在逐漸退化的歲月中,牢記助人和勞動的歡喜;她傳承給女兒陳洽的,不只有刻苦耐勞,還有樂善好施的自在。

細數陳林水錦一世紀的人生,就是不停地做事―出生在南投竹山豬頭棕山上崎仔寮的農家子弟,能填飽肚子就很幸運了,遑論上學識字;婚後下山定居廍堤仔,濱鄰水域,先生以水耕空心菜為業。每天清晨三、四點,她摸黑到田裏,踩在水中採收鮮嫩的空心菜,天亮後,讓先生送去菜市場批發。

孩子一個個出生,販售空心菜已填不飽一家六口的胃,先生開設木頭加工廠,陳林水錦自此身兼菜農和工廠女工。直到卸下養家重擔後,她還是閒不住,有空就四處撿拾廢棄紙箱或破銅爛鐵轉賣,賺自己的零用錢;女兒陳洽在竹山經營百貨店,紙箱理所當然由她收走。

二十餘年前,陳洽問她:「那些紙箱頂多賣幾百元而已,拿來捐給慈濟好嗎?」她不僅欣然同意,如果變賣所得不足千元,還自行湊足捐出。

她每週三和週六去竹山環保站做環保,其餘日子在家裏,手腳也停不下來,看到桌上的水果,就伸手去捏;每走一遍就捏一次,反覆詢問:「這是什麼?」發現她的記憶力漸漸退化,和她同住的二媳婦與陳洽商量後,安排她每週一到週五在慈濟南投竹山日照中心「上學」,週六再去環保站。

高齡已逾百歲的她,在環保站就像設定好的機器,哪個瓶子該放哪個籃子,分類毫不含糊,報紙也摺得整整齊齊,腦筋裏只有環保。陳洽說,母親不懂什麼大道理,也不認識字,但心心念念:「做環保很好啊,能救人!」

心甘情願償還就打八折

陳洽一九五三年出生,幼年的記憶中,還是個小學生就在工廠幫父親推木材,再加工製成衣架、飯勺、勺子的木把手內銷。父親的右手在孩提時被油燈燒傷,傷勢嚴重,送羅東聖母醫院醫治,家境窮困而沒有錢付醫藥費,醫院也沒有為難他們,康復後就給出院了。後來,父親的四根手指頭逐漸萎縮,只剩大拇指可靈活運用,但不影響他研發技術,幾年後還製作水果籃、水果盤和手提袋等竹藝品外銷。

陳林水錦(左三)辛苦操持整個家,陳洽(左二)依偎在母親身旁。(相片提供/陳洽)

未嫁之前,陳洽是父親的左右手,輔助工廠事務和家務事,久而久之養成和母親一樣的個性,吃苦耐勞;婚後,她侍奉年邁的公公和大婆婆、小婆婆,無法再幫忙父親經營工廠,又逢臺灣經濟轉型,工廠外移,娘家只得改行開雜貨店。

一九九八年左右,陳洽被倒會,她對先生說,「我是會頭,不能對繳會錢的人沒有信用。我一定會想辦法擔起這個爛攤子,錢再賺就有,拚一下就過去了。」她不希望這場劫難波及他人,尤其逃避責任不能解決事情,只會斷了往下走的路。

事情既已發生,只有想辦法解決;只要有賺錢的機會,她就勇往直前。為了還債,即使犧牲睡眠、身軀再疲累,她也不畏辛苦。

屋漏偏逢連夜雨。一九九九年九二一強震重創南投竹山,陳洽的百貨店倉庫和房子受損,商品傾覆十四坪大的倉儲空間,花了一、兩個月才整理就緒;修繕費用和欠債的雙重壓力,壓得她幾乎喘不過氣來。

被倒債,又受災,逆境繼續考驗著陳洽。公公在一九九八年往生後,大婆婆生活失去重心,漸漸失智,接著小婆婆也出現症狀,陳洽和大嫂輪流照顧長輩們十餘年。堅忍的她,蠟燭多頭燒,但沒有因此中斷長期對家扶中心的贊助,也在上游批發商臺南謝金木的引薦下,定期捐款成為慈濟會員。

有一天,竹山的慈濟委員尤淑娟來店裏購物,看到牆上懸掛著上人法照,好奇地問她從何而來?陳洽說,是謝金木所結緣。兩人相談甚歡,陳洽聊起自己面臨債務和家務等種種壓力,言談間難免有所怨懟。尤淑娟開導她,「上人說,這就是『共業』,甘願還,打八折,不甘願就得加倍付利息,划不來喔!」

尤淑娟鼓勵陳洽打開心胸,廣結善緣,以職場為道場,向顧客說慈濟,募心募款。「世間還有更苦的人,不要時時糾結在自身的苦,日子才會好過。」陳洽豁然開朗,之後每當有苦有怨,就立刻轉念,漸漸感覺輕安自在。她努力經營百貨店,空暇時也開始投入做慈濟、撿回收物做環保。

閒在家不如做環保救人

陳洽不只承襲母親的勤勉堅毅,還包括了樂善好施。陳林水錦只要聽聞有人需要幫助,就將自己辛苦存下來的私房錢慷慨捐出;窮苦人往生,她將省下的老農年金布施棺柩。

陳洽說:「父親給母親的生活費並不多,所以母親沒有很多錢;為了布施,有時候伸手從爸爸的口袋掏錢去捐;兩人的互動,讓人看了會心一笑!」當得知變賣紙箱可以捐給慈濟助人,陳林水錦加入行列,還學會如何分類資源。

晚間打烊,陳洽把店門關了,和鄰居各拿一個袋子,沿著大明路一邊散步一邊撿回收物,來到黃昏市場更像是挖到寶,紙箱、瓶罐滿地都是,一個袋子不夠裝,隔天再多帶幾個。一個晚上撿回的物資,將父親木材工廠的空地堆得像一座山,讓母親隔天一早就有「工」可做。

當時是二○○二年,陳林水錦七十幾歲,就像在工廠做工,手腳俐落,毫不猶豫地細分紙類、鐵、鋁罐和寶特瓶。當分類完成,她不管陳洽在店裏有多忙,打電話一再催促,「趕快把物資載去環保站!」「快點載回收物回來!」

陳洽常邀母親去慈濟環保站分類,但她找了很多藉口不想去,就是擔心不認識人而感生疏;直到有次感受到環保站志工溫馨招呼,氣氛好熱絡,她回過頭來怪女兒:「怎麼不早點帶我來?」從此日日前往。有時陳洽生意忙,無法載她去環保站,她就吵著:「在家很無聊!有夠無聊!」

年輕時長時間泡在水田裏摘空心菜,陳林水錦晚年常感雙腳腫脹到無法入眠,有時半夜起來走路消腫,才勉強再入睡,甚至去爬學校圍牆或睡在路邊,令家人很困擾。她安眠藥量愈吃愈重,記性也愈來愈差;明明晚飯後已經吃過藥,睡前還嚷著要再吃一次。做環保後,她回家累了就休息,日久安眠藥也少吃了。

一百零二歲的陳林水錦做起環保毫不含糊,每樣物資清清楚楚地放入各自的籃子裏。

最煎熬也最自在的時光

「爸爸八十九歲往生,媽媽已經一百零二歲了,他們都高壽。曾聽說要幫父母積德,我覺得媽媽的福報是她自己做來的!」陳洽很慶幸自己沒有遠嫁,能夠照料母親,這一生最感幸福的就是將母親帶入慈濟,母女攜手做環保。這二十幾年來雖然是陳洽最煎熬的時光,但她肯定自己做了最有價值的選擇。

感念當年羅東聖母醫院救治父親,不問費用,於是她定期捐獻給聖母醫院,「學佛後懂得因緣果報的道理,這一生不欠人,才是智慧的抉擇。」

陳洽說,人生好像一連串的考驗,一開始將心念轉為甘願,現在則是已經習慣付出。即使因搬運回收物資而傷了右手,左手板機指也動過三次手術,但只要有人來電通報載回收物,再多、再重她都不退縮,以感恩的心承擔環保幹事,愈挫愈勇。「環保站就像我的第二個事業,就算每天做得像頭牛,我當成修行,把該做的工作做好,心甘情願。」

她的百貨店像是社區中的慈濟環保點;她也從未想過「休息」二字,先生無怨無悔支持,讓她很滿足,「慈濟是我生活的一部分,是我的人生。」

一百零二歲的陳林水錦,在逐漸退化的歲月中,牢記助人和勞動的歡喜;她傳承給女兒陳洽的,不只有刻苦耐勞,還有樂善好施的自在。

細數陳林水錦一世紀的人生,就是不停地做事―出生在南投竹山豬頭棕山上崎仔寮的農家子弟,能填飽肚子就很幸運了,遑論上學識字;婚後下山定居廍堤仔,濱鄰水域,先生以水耕空心菜為業。每天清晨三、四點,她摸黑到田裏,踩在水中採收鮮嫩的空心菜,天亮後,讓先生送去菜市場批發。

孩子一個個出生,販售空心菜已填不飽一家六口的胃,先生開設木頭加工廠,陳林水錦自此身兼菜農和工廠女工。直到卸下養家重擔後,她還是閒不住,有空就四處撿拾廢棄紙箱或破銅爛鐵轉賣,賺自己的零用錢;女兒陳洽在竹山經營百貨店,紙箱理所當然由她收走。

二十餘年前,陳洽問她:「那些紙箱頂多賣幾百元而已,拿來捐給慈濟好嗎?」她不僅欣然同意,如果變賣所得不足千元,還自行湊足捐出。

她每週三和週六去竹山環保站做環保,其餘日子在家裏,手腳也停不下來,看到桌上的水果,就伸手去捏;每走一遍就捏一次,反覆詢問:「這是什麼?」發現她的記憶力漸漸退化,和她同住的二媳婦與陳洽商量後,安排她每週一到週五在慈濟南投竹山日照中心「上學」,週六再去環保站。

高齡已逾百歲的她,在環保站就像設定好的機器,哪個瓶子該放哪個籃子,分類毫不含糊,報紙也摺得整整齊齊,腦筋裏只有環保。陳洽說,母親不懂什麼大道理,也不認識字,但心心念念:「做環保很好啊,能救人!」

心甘情願償還就打八折

陳洽一九五三年出生,幼年的記憶中,還是個小學生就在工廠幫父親推木材,再加工製成衣架、飯勺、勺子的木把手內銷。父親的右手在孩提時被油燈燒傷,傷勢嚴重,送羅東聖母醫院醫治,家境窮困而沒有錢付醫藥費,醫院也沒有為難他們,康復後就給出院了。後來,父親的四根手指頭逐漸萎縮,只剩大拇指可靈活運用,但不影響他研發技術,幾年後還製作水果籃、水果盤和手提袋等竹藝品外銷。

陳林水錦(左三)辛苦操持整個家,陳洽(左二)依偎在母親身旁。(相片提供/陳洽)

未嫁之前,陳洽是父親的左右手,輔助工廠事務和家務事,久而久之養成和母親一樣的個性,吃苦耐勞;婚後,她侍奉年邁的公公和大婆婆、小婆婆,無法再幫忙父親經營工廠,又逢臺灣經濟轉型,工廠外移,娘家只得改行開雜貨店。

一九九八年左右,陳洽被倒會,她對先生說,「我是會頭,不能對繳會錢的人沒有信用。我一定會想辦法擔起這個爛攤子,錢再賺就有,拚一下就過去了。」她不希望這場劫難波及他人,尤其逃避責任不能解決事情,只會斷了往下走的路。

事情既已發生,只有想辦法解決;只要有賺錢的機會,她就勇往直前。為了還債,即使犧牲睡眠、身軀再疲累,她也不畏辛苦。

屋漏偏逢連夜雨。一九九九年九二一強震重創南投竹山,陳洽的百貨店倉庫和房子受損,商品傾覆十四坪大的倉儲空間,花了一、兩個月才整理就緒;修繕費用和欠債的雙重壓力,壓得她幾乎喘不過氣來。

被倒債,又受災,逆境繼續考驗著陳洽。公公在一九九八年往生後,大婆婆生活失去重心,漸漸失智,接著小婆婆也出現症狀,陳洽和大嫂輪流照顧長輩們十餘年。堅忍的她,蠟燭多頭燒,但沒有因此中斷長期對家扶中心的贊助,也在上游批發商臺南謝金木的引薦下,定期捐款成為慈濟會員。

有一天,竹山的慈濟委員尤淑娟來店裏購物,看到牆上懸掛著上人法照,好奇地問她從何而來?陳洽說,是謝金木所結緣。兩人相談甚歡,陳洽聊起自己面臨債務和家務等種種壓力,言談間難免有所怨懟。尤淑娟開導她,「上人說,這就是『共業』,甘願還,打八折,不甘願就得加倍付利息,划不來喔!」

尤淑娟鼓勵陳洽打開心胸,廣結善緣,以職場為道場,向顧客說慈濟,募心募款。「世間還有更苦的人,不要時時糾結在自身的苦,日子才會好過。」陳洽豁然開朗,之後每當有苦有怨,就立刻轉念,漸漸感覺輕安自在。她努力經營百貨店,空暇時也開始投入做慈濟、撿回收物做環保。

閒在家不如做環保救人

陳洽不只承襲母親的勤勉堅毅,還包括了樂善好施。陳林水錦只要聽聞有人需要幫助,就將自己辛苦存下來的私房錢慷慨捐出;窮苦人往生,她將省下的老農年金布施棺柩。

陳洽說:「父親給母親的生活費並不多,所以母親沒有很多錢;為了布施,有時候伸手從爸爸的口袋掏錢去捐;兩人的互動,讓人看了會心一笑!」當得知變賣紙箱可以捐給慈濟助人,陳林水錦加入行列,還學會如何分類資源。

晚間打烊,陳洽把店門關了,和鄰居各拿一個袋子,沿著大明路一邊散步一邊撿回收物,來到黃昏市場更像是挖到寶,紙箱、瓶罐滿地都是,一個袋子不夠裝,隔天再多帶幾個。一個晚上撿回的物資,將父親木材工廠的空地堆得像一座山,讓母親隔天一早就有「工」可做。

當時是二○○二年,陳林水錦七十幾歲,就像在工廠做工,手腳俐落,毫不猶豫地細分紙類、鐵、鋁罐和寶特瓶。當分類完成,她不管陳洽在店裏有多忙,打電話一再催促,「趕快把物資載去環保站!」「快點載回收物回來!」

陳洽常邀母親去慈濟環保站分類,但她找了很多藉口不想去,就是擔心不認識人而感生疏;直到有次感受到環保站志工溫馨招呼,氣氛好熱絡,她回過頭來怪女兒:「怎麼不早點帶我來?」從此日日前往。有時陳洽生意忙,無法載她去環保站,她就吵著:「在家很無聊!有夠無聊!」

年輕時長時間泡在水田裏摘空心菜,陳林水錦晚年常感雙腳腫脹到無法入眠,有時半夜起來走路消腫,才勉強再入睡,甚至去爬學校圍牆或睡在路邊,令家人很困擾。她安眠藥量愈吃愈重,記性也愈來愈差;明明晚飯後已經吃過藥,睡前還嚷著要再吃一次。做環保後,她回家累了就休息,日久安眠藥也少吃了。

一百零二歲的陳林水錦做起環保毫不含糊,每樣物資清清楚楚地放入各自的籃子裏。

最煎熬也最自在的時光

「爸爸八十九歲往生,媽媽已經一百零二歲了,他們都高壽。曾聽說要幫父母積德,我覺得媽媽的福報是她自己做來的!」陳洽很慶幸自己沒有遠嫁,能夠照料母親,這一生最感幸福的就是將母親帶入慈濟,母女攜手做環保。這二十幾年來雖然是陳洽最煎熬的時光,但她肯定自己做了最有價值的選擇。

感念當年羅東聖母醫院救治父親,不問費用,於是她定期捐獻給聖母醫院,「學佛後懂得因緣果報的道理,這一生不欠人,才是智慧的抉擇。」

陳洽說,人生好像一連串的考驗,一開始將心念轉為甘願,現在則是已經習慣付出。即使因搬運回收物資而傷了右手,左手板機指也動過三次手術,但只要有人來電通報載回收物,再多、再重她都不退縮,以感恩的心承擔環保幹事,愈挫愈勇。「環保站就像我的第二個事業,就算每天做得像頭牛,我當成修行,把該做的工作做好,心甘情願。」

她的百貨店像是社區中的慈濟環保點;她也從未想過「休息」二字,先生無怨無悔支持,讓她很滿足,「慈濟是我生活的一部分,是我的人生。」

志學大愛農場—精舍糧倉 感恩天地餵養

(攝影/釋德倩)

坐落於花蓮縣壽豐鄉鯉魚山腳下的志學大愛農場,是靜思精舍的「糧倉」,也是全球慈濟人的「糧倉」。十二公頃田地,是精舍向台糖承租,從二○一六年開始規畫、耕耘,以友善方式耕作,獲有機認證。

精舍是全球慈濟人的心靈故鄉。包括精舍二百多位常住眾、清修士,與在精舍上班的同仁,加上自海內外歸來的慈濟人,一年用餐約需收成五十噸稻穀。二師兄德昭師父回憶,近十年前未有大愛農場時,他每十天仍需向碾米廠買米,每袋三十公斤的糙米、白米,三十至五十袋不等,應平常日、年節或營隊的需求而調整。

安住精舍修行四十年,主責志學農場的德恆師父表示,耕耘這大片土地,一方面是為了精舍平常需求,一方面作為濟貧之用;上人擔憂未來的糧食危機,多次叮嚀要儲備存糧,以備不時之需。

關懷志學農場團隊之一的德愉師父,謹記上人教誡,「晴天要積雨來糧」,走過早期艱苦歲月,大師兄德慈師父等四位師兄弟,辛勤耕耘九分地的水田,「現在耕耘這片農場,是使命也是傳承。」

(相片提供/甘清文)

荒地成良田

八年多來,屏東、臺中、桃園、苗栗等地慈濟志工,輪流回來插秧、除草等。「當時的水道像一座叢林,上游堵塞,水都流失了。」臺中志工甘清文回想二○一九年,農場有溝無水,草比稻子高,二十八位臺中志工清理長達四百二十公尺的圳溝(上圖2),終於找到源頭,從木瓜溪引來溪水灌溉,志工敬稱這條形狀如一尊觀世音菩薩像的水道為「水觀音」(上圖3);水脈一通,水田水源充足(上圖1)。

更早從整地、撿石頭開始,眾人一步步將荒蕪的溪灘地化為良田。農耕經驗豐富的屏東志工曾天寶、賴松勇師兄最先投入,承擔規畫、種植、機具操作;花蓮康天德居士是志學農場的顧問,何時該插秧、挲草,傾囊相授;桃園團隊負責撿石頭、挲草、拉防護網防雁鴨;臺中團隊承擔開通、維護灌溉水道、施有機肥等粗重工作;每月的田埂除草,由苗栗團隊承擔;臺北團隊搭建農舍;嘉義志工葉麗卿為了農場的行政事務去考證照,花蓮志工陳慕湘也一起承擔行政作業流程……

志工團隊合和互協的接力付出,讓農場的運作更加順暢,並由常住農場五年的賴松勇師兄及同修邱桂珠師姊,與同仁吳紹民日日看顧巡田水。恆師父讚歎大家默默耕耘,守護福田;愉師父也有說不盡的感恩:「志工唯一的心念:這是精舍要用的,一定要顧好。如果沒有那分心力,是辦不到的。」

(攝影/釋德倩)

挲草了!

志學農場距離精舍約半小時車程,前幾年由慈師父與主責農場的恆師父、愉師父、禪師父、寧師父、守師父、勘師父、霈師父、恬師父,帶領常住師父們準備餐點與結緣品,到農場感恩志工。

為讓後輩的常住眾更了解農場的運作與收成、體驗務農辛勞,這兩年八位主責師父也帶領大家加入「挲草」(閩南語:跪行田間除草)的行列。二○二四年八月中旬,常住眾前往農場「挲草」,大家一字排開,踏入田裏的剎那,好像陷入泥沼中,要提起腳來,真的「難以自拔」。

插秧後一星期左右,就要開始「挲草」。「一般農田大多使用慣行農法,透過農藥除病蟲害、遏阻雜草生長。」恆師父說明,使用農藥不必「挲草」,但會破壞生態;有機農法不施農藥、化肥,尊重生命,完好保持生態,所以容易滋生「稗子」,形似水稻的雜草,必須及時拔除。

二○一四年七月二十八日,上人講述《法華經‧譬喻品》,提到「稗子」看起來和秧苗幾乎一樣,如何分別?用手摸,稗子的葉子光滑,稻葉則有一點點粗糙感;「要有經驗,要會選擇;若稗子不拔卻將稻子拔掉,就麻煩了。」

稗子的種子細小緊密,發育得比稻子更快,落入土裏就快速成長。上人再強調,拔掉稗子,田裏的養分會讓稻子成長得更漂亮,「好的朋友是善知識,就像稻子,共同分享這片天地,相互增長;惡知識就像稗子,無益這塊土地,還會占領善種成長的空間。」

「耕耘土地的農夫,要好好珍惜善種子,收獲有益的資糧。」上人愷示,大家要懂得「捨惡知識慎勿近」,「一發現對心田、善種有損的雜草,就要趕快除掉,好好護住善念,不讓惡念生起。」

(攝影/釋德倩)

自造福田,自得福緣

三十多位桃園志工回來挲草,一連七天;接著苗栗團隊每月來除草、撿田螺,稻子逐漸成長,不再下田擾動,十六位師兄揹著十幾公斤的割草機,一步步割除田埂的雜草。

為了不用彎腰挲草,志工發明了長長的「漏勺」,將稗子壓入泥中,一方面除草,同時也幫秧苗扎根、增加含氧量,讓它能承受風雨,穩健成長。

呂春桃六年來邀約志工從桃園到花蓮務農,路途遙遠,必須善用分秒,天剛亮大家就下田,黃昏才收工,水壺就背在身上;挲草期間,每天近二萬步,夏天汗流浹背到眼睛睜不開,還因為穿著雨鞋過久,腳趾頭發紫;不停「挲草」,端碗時手顫抖不停,每晚幾乎要擦痠痛藥品才能入睡。

種種辛苦,只希望減輕一點常住師父的負擔;談到二○二四年十月底,康芮颱風壓倒稻穗,呂春桃不捨哽咽……即使如此,沒有打退志工們守護糧倉的決心,「能夠與全球慈濟法親家人結好緣,再累也甘願。」

(圖1/蕭耀華攝影  圖2/甘清文提供)

盤中飧,粒粒皆辛苦

有機農法的水田生態豐富,也是雁鴨戲水及麻雀覓食的最佳地點。

為了避免尚未扎根的秧苗遭破壞傾倒,插秧之後就要在稻田周圍牽起「愛的防護網」。志工呂春桃分享:「如果沒有牽細線,傍晚到天亮,志工需要徹夜排班輪值趕雁鴨。」

農場一年兩期稻作,上半年在立春、下半年在大暑節氣前後插秧,會牽起防護網防雁鴨;一週後要「挲草」,就將細線收起;二個多月後,稻穀開始黃熟,就再度拉起鋼索、展開間隔三十公分的一條條細線(上圖1),以防麻雀吃了稻穀。支撐鋼索的幾百根鋼管,是二○一九年由臺中、桃園志工人工槌打、牢牢鎖住固定的。

雖然有防護網,恆師父說,小鳥很聰明,牠們會彼此護航,站在細線上,以成群的力量將線壓低,以便上百成千的家族成員闖關成功,大快朵頤。但恆師父也慈悲地說:「就讓牠們吃了,不要全部吃光就好。」這也是上人曾對常住的教誨,「小鳥吃剩的,就是我們的。」

(圖1/蕭耀華攝影  圖2/釋德澡攝影)

資糧飽滿米飯香

二○二四年十一月中旬,連日陰雨,收割延至下旬展開。桃園團隊及屏東、高雄志工前來收整防護網,待到雨停,當收割機開入金黃色稻田中,眾人心中滿是感動,歷經風災考驗,留下的稻穗粒粒結實;將收割機遺落田中的稻穗仔細拾起,手中這把稻穗,得來多麼不易!

在齋堂常聽到訪客對精舍米飯讚歎有加,德倩師父也分享,一位印尼慈濟人在飯桌上詢問,「這米在哪裏買的?煮出來的飯真是好吃!」

這不是形容詞,是真實、真誠用心實踐出來的資糧。大寮中米飯起鍋,飯香四溢,恆師父感恩志工辛勤耕種。「不只是有機,我們自己碾米,現碾現煮,就不易氧化,營養不流失,吃起來又甜又香。」

體驗汗流浹背的「幸福」,每一粒米是長期付出的成果。當我們口中咀嚼米飯香,就要知福、惜福,再造福。

|延伸閱讀|堅持有機無毒 澆灌志學大愛農場

(攝影/釋德倩)

坐落於花蓮縣壽豐鄉鯉魚山腳下的志學大愛農場,是靜思精舍的「糧倉」,也是全球慈濟人的「糧倉」。十二公頃田地,是精舍向台糖承租,從二○一六年開始規畫、耕耘,以友善方式耕作,獲有機認證。

精舍是全球慈濟人的心靈故鄉。包括精舍二百多位常住眾、清修士,與在精舍上班的同仁,加上自海內外歸來的慈濟人,一年用餐約需收成五十噸稻穀。二師兄德昭師父回憶,近十年前未有大愛農場時,他每十天仍需向碾米廠買米,每袋三十公斤的糙米、白米,三十至五十袋不等,應平常日、年節或營隊的需求而調整。

安住精舍修行四十年,主責志學農場的德恆師父表示,耕耘這大片土地,一方面是為了精舍平常需求,一方面作為濟貧之用;上人擔憂未來的糧食危機,多次叮嚀要儲備存糧,以備不時之需。

關懷志學農場團隊之一的德愉師父,謹記上人教誡,「晴天要積雨來糧」,走過早期艱苦歲月,大師兄德慈師父等四位師兄弟,辛勤耕耘九分地的水田,「現在耕耘這片農場,是使命也是傳承。」

(相片提供/甘清文)

荒地成良田

八年多來,屏東、臺中、桃園、苗栗等地慈濟志工,輪流回來插秧、除草等。「當時的水道像一座叢林,上游堵塞,水都流失了。」臺中志工甘清文回想二○一九年,農場有溝無水,草比稻子高,二十八位臺中志工清理長達四百二十公尺的圳溝(上圖2),終於找到源頭,從木瓜溪引來溪水灌溉,志工敬稱這條形狀如一尊觀世音菩薩像的水道為「水觀音」(上圖3);水脈一通,水田水源充足(上圖1)。

更早從整地、撿石頭開始,眾人一步步將荒蕪的溪灘地化為良田。農耕經驗豐富的屏東志工曾天寶、賴松勇師兄最先投入,承擔規畫、種植、機具操作;花蓮康天德居士是志學農場的顧問,何時該插秧、挲草,傾囊相授;桃園團隊負責撿石頭、挲草、拉防護網防雁鴨;臺中團隊承擔開通、維護灌溉水道、施有機肥等粗重工作;每月的田埂除草,由苗栗團隊承擔;臺北團隊搭建農舍;嘉義志工葉麗卿為了農場的行政事務去考證照,花蓮志工陳慕湘也一起承擔行政作業流程……

志工團隊合和互協的接力付出,讓農場的運作更加順暢,並由常住農場五年的賴松勇師兄及同修邱桂珠師姊,與同仁吳紹民日日看顧巡田水。恆師父讚歎大家默默耕耘,守護福田;愉師父也有說不盡的感恩:「志工唯一的心念:這是精舍要用的,一定要顧好。如果沒有那分心力,是辦不到的。」

(攝影/釋德倩)

挲草了!

志學農場距離精舍約半小時車程,前幾年由慈師父與主責農場的恆師父、愉師父、禪師父、寧師父、守師父、勘師父、霈師父、恬師父,帶領常住師父們準備餐點與結緣品,到農場感恩志工。

為讓後輩的常住眾更了解農場的運作與收成、體驗務農辛勞,這兩年八位主責師父也帶領大家加入「挲草」(閩南語:跪行田間除草)的行列。二○二四年八月中旬,常住眾前往農場「挲草」,大家一字排開,踏入田裏的剎那,好像陷入泥沼中,要提起腳來,真的「難以自拔」。

插秧後一星期左右,就要開始「挲草」。「一般農田大多使用慣行農法,透過農藥除病蟲害、遏阻雜草生長。」恆師父說明,使用農藥不必「挲草」,但會破壞生態;有機農法不施農藥、化肥,尊重生命,完好保持生態,所以容易滋生「稗子」,形似水稻的雜草,必須及時拔除。

二○一四年七月二十八日,上人講述《法華經‧譬喻品》,提到「稗子」看起來和秧苗幾乎一樣,如何分別?用手摸,稗子的葉子光滑,稻葉則有一點點粗糙感;「要有經驗,要會選擇;若稗子不拔卻將稻子拔掉,就麻煩了。」

稗子的種子細小緊密,發育得比稻子更快,落入土裏就快速成長。上人再強調,拔掉稗子,田裏的養分會讓稻子成長得更漂亮,「好的朋友是善知識,就像稻子,共同分享這片天地,相互增長;惡知識就像稗子,無益這塊土地,還會占領善種成長的空間。」

「耕耘土地的農夫,要好好珍惜善種子,收獲有益的資糧。」上人愷示,大家要懂得「捨惡知識慎勿近」,「一發現對心田、善種有損的雜草,就要趕快除掉,好好護住善念,不讓惡念生起。」

(攝影/釋德倩)

自造福田,自得福緣

三十多位桃園志工回來挲草,一連七天;接著苗栗團隊每月來除草、撿田螺,稻子逐漸成長,不再下田擾動,十六位師兄揹著十幾公斤的割草機,一步步割除田埂的雜草。

為了不用彎腰挲草,志工發明了長長的「漏勺」,將稗子壓入泥中,一方面除草,同時也幫秧苗扎根、增加含氧量,讓它能承受風雨,穩健成長。

呂春桃六年來邀約志工從桃園到花蓮務農,路途遙遠,必須善用分秒,天剛亮大家就下田,黃昏才收工,水壺就背在身上;挲草期間,每天近二萬步,夏天汗流浹背到眼睛睜不開,還因為穿著雨鞋過久,腳趾頭發紫;不停「挲草」,端碗時手顫抖不停,每晚幾乎要擦痠痛藥品才能入睡。

種種辛苦,只希望減輕一點常住師父的負擔;談到二○二四年十月底,康芮颱風壓倒稻穗,呂春桃不捨哽咽……即使如此,沒有打退志工們守護糧倉的決心,「能夠與全球慈濟法親家人結好緣,再累也甘願。」

(圖1/蕭耀華攝影  圖2/甘清文提供)

盤中飧,粒粒皆辛苦

有機農法的水田生態豐富,也是雁鴨戲水及麻雀覓食的最佳地點。

為了避免尚未扎根的秧苗遭破壞傾倒,插秧之後就要在稻田周圍牽起「愛的防護網」。志工呂春桃分享:「如果沒有牽細線,傍晚到天亮,志工需要徹夜排班輪值趕雁鴨。」

農場一年兩期稻作,上半年在立春、下半年在大暑節氣前後插秧,會牽起防護網防雁鴨;一週後要「挲草」,就將細線收起;二個多月後,稻穀開始黃熟,就再度拉起鋼索、展開間隔三十公分的一條條細線(上圖1),以防麻雀吃了稻穀。支撐鋼索的幾百根鋼管,是二○一九年由臺中、桃園志工人工槌打、牢牢鎖住固定的。

雖然有防護網,恆師父說,小鳥很聰明,牠們會彼此護航,站在細線上,以成群的力量將線壓低,以便上百成千的家族成員闖關成功,大快朵頤。但恆師父也慈悲地說:「就讓牠們吃了,不要全部吃光就好。」這也是上人曾對常住的教誨,「小鳥吃剩的,就是我們的。」

(圖1/蕭耀華攝影  圖2/釋德澡攝影)

資糧飽滿米飯香

二○二四年十一月中旬,連日陰雨,收割延至下旬展開。桃園團隊及屏東、高雄志工前來收整防護網,待到雨停,當收割機開入金黃色稻田中,眾人心中滿是感動,歷經風災考驗,留下的稻穗粒粒結實;將收割機遺落田中的稻穗仔細拾起,手中這把稻穗,得來多麼不易!

在齋堂常聽到訪客對精舍米飯讚歎有加,德倩師父也分享,一位印尼慈濟人在飯桌上詢問,「這米在哪裏買的?煮出來的飯真是好吃!」

這不是形容詞,是真實、真誠用心實踐出來的資糧。大寮中米飯起鍋,飯香四溢,恆師父感恩志工辛勤耕種。「不只是有機,我們自己碾米,現碾現煮,就不易氧化,營養不流失,吃起來又甜又香。」

體驗汗流浹背的「幸福」,每一粒米是長期付出的成果。當我們口中咀嚼米飯香,就要知福、惜福,再造福。

|延伸閱讀|堅持有機無毒 澆灌志學大愛農場

見苦知福,分享幸福

在大愛電視服務二十年,每一次的採訪經歷,看見不同的人間相;在佛陀故鄉,感受到貧困造成的影響,比我想像得更加深遠,也從志工們無私奉獻中,學習利他與布施,是此行最有意義的收穫。

二十年來,在大愛電視服務的職涯中,我隨著許多慈濟志工踏上不同的國度,有強震或颱風肆虐後的災區,也有貧苦或被遺忘的世界一角;每一次都讓我看見不同苦難的人間相。二○二四年十、十一月,我跟隨慈濟人來到佛陀的故鄉─印度與尼泊爾,採訪見證了歷史的時刻。

十月二十七日,慈濟在印度菩提迦耶興建的「思龍加大愛村」,首批三十六戶完工移交。入厝前一天,村民一早歡喜走出家門,要簽署生活公約;一位村民說:「現在我跟每一個人拜託,我們要素食,也不要喝酒,要學習如何幫助其他人。」

低種姓居民向來以茅草、土牆為家,入厝前的這些話是深刻的承諾,他們明白,這個新家得來不易,承載著無數人的愛與期盼。

卡車運來要給居民的入厝禮,還有清潔工具。馬來西亞蘇祈逢師兄和他們相約:「你們喜歡你們的房子,對不對?一年、兩年、三年後,也要一樣漂亮,好不好?」

從印度轉往尼泊爾,十一月五日參加慈濟在藍毘尼援建悉達多學校動工典禮;簡陋的校舍將變身成為一所從幼兒園到高中的學習殿堂,也會是當地孩子們改變命運的起點。

我們也跟隨慈濟志工前往洪災重創的馬漢卡鄉(Mahankal)勘災,車子在顛簸山路上前行,途中遇到一位小女孩,我搖下車窗,遞給她一隻粉紅熊;小女孩接過後,將手裏的小白花送了給我。小小的交換,承載了彼此滿滿的善意與溫暖。

印度菩提迦耶貧民村落,吳志怡(左四)和大愛電視團隊採訪。

為心愛的玩具找新主人

每回出國採訪前,我都會問兒子:「媽媽要去的地方,小朋友沒有玩具,你願意和他們分享自己的玩具嗎?」捐出心愛的玩具,年幼的他總有些不捨,會偷偷把一些才放入行李箱的玩具再拿出來;如今他十四歲了,那些玩具雖然承載著珍貴的童年記憶,但他願意讓它們找到新主人。

在他的愛護和珍惜之下,這些玩具外觀和狀況都保持得很不錯;我們一起整理,把行李箱裝得滿滿地,我也希望把他的愛心和幸福分享出去。

以往我讓小朋友挑選自己喜愛的玩具,有些靦腆的孩子,不敢直接拿取,往往等我主動遞上,方才害羞地伸手接過,並回予我一個開懷的笑容。然而這次在印度,當我掏出袋子裏的玩具,才幾秒的時間,一群孩子蜂擁而至圍著我,在我還來不及反應的瞬間,人群和玩具已消失無蹤。

孩子們渴望的眼神震撼了我,原來貧困造成的影響遠比我所能想像的更加深遠。這短短的剎那讓我目睹了物質的匱乏,也看到了苦;我們的日常是別人冀求不到的天堂;唯有接觸真實的貧窮,才能覺察到我是如何富足。

見苦知福!這讓我更虔敬地感恩所擁有的幸福。雖然看見苦,但同時也看到志工無私的奉獻,從中學習到利他與布施,從證嚴上人的開示中,引動出慈悲與智慧。這是我在工作中的學習與成長,也是此次佛鄉之行最有意義的收穫!

在大愛電視服務二十年,每一次的採訪經歷,看見不同的人間相;在佛陀故鄉,感受到貧困造成的影響,比我想像得更加深遠,也從志工們無私奉獻中,學習利他與布施,是此行最有意義的收穫。

二十年來,在大愛電視服務的職涯中,我隨著許多慈濟志工踏上不同的國度,有強震或颱風肆虐後的災區,也有貧苦或被遺忘的世界一角;每一次都讓我看見不同苦難的人間相。二○二四年十、十一月,我跟隨慈濟人來到佛陀的故鄉─印度與尼泊爾,採訪見證了歷史的時刻。

十月二十七日,慈濟在印度菩提迦耶興建的「思龍加大愛村」,首批三十六戶完工移交。入厝前一天,村民一早歡喜走出家門,要簽署生活公約;一位村民說:「現在我跟每一個人拜託,我們要素食,也不要喝酒,要學習如何幫助其他人。」

低種姓居民向來以茅草、土牆為家,入厝前的這些話是深刻的承諾,他們明白,這個新家得來不易,承載著無數人的愛與期盼。

卡車運來要給居民的入厝禮,還有清潔工具。馬來西亞蘇祈逢師兄和他們相約:「你們喜歡你們的房子,對不對?一年、兩年、三年後,也要一樣漂亮,好不好?」

從印度轉往尼泊爾,十一月五日參加慈濟在藍毘尼援建悉達多學校動工典禮;簡陋的校舍將變身成為一所從幼兒園到高中的學習殿堂,也會是當地孩子們改變命運的起點。

我們也跟隨慈濟志工前往洪災重創的馬漢卡鄉(Mahankal)勘災,車子在顛簸山路上前行,途中遇到一位小女孩,我搖下車窗,遞給她一隻粉紅熊;小女孩接過後,將手裏的小白花送了給我。小小的交換,承載了彼此滿滿的善意與溫暖。

印度菩提迦耶貧民村落,吳志怡(左四)和大愛電視團隊採訪。

為心愛的玩具找新主人

每回出國採訪前,我都會問兒子:「媽媽要去的地方,小朋友沒有玩具,你願意和他們分享自己的玩具嗎?」捐出心愛的玩具,年幼的他總有些不捨,會偷偷把一些才放入行李箱的玩具再拿出來;如今他十四歲了,那些玩具雖然承載著珍貴的童年記憶,但他願意讓它們找到新主人。

在他的愛護和珍惜之下,這些玩具外觀和狀況都保持得很不錯;我們一起整理,把行李箱裝得滿滿地,我也希望把他的愛心和幸福分享出去。

以往我讓小朋友挑選自己喜愛的玩具,有些靦腆的孩子,不敢直接拿取,往往等我主動遞上,方才害羞地伸手接過,並回予我一個開懷的笑容。然而這次在印度,當我掏出袋子裏的玩具,才幾秒的時間,一群孩子蜂擁而至圍著我,在我還來不及反應的瞬間,人群和玩具已消失無蹤。

孩子們渴望的眼神震撼了我,原來貧困造成的影響遠比我所能想像的更加深遠。這短短的剎那讓我目睹了物質的匱乏,也看到了苦;我們的日常是別人冀求不到的天堂;唯有接觸真實的貧窮,才能覺察到我是如何富足。

見苦知福!這讓我更虔敬地感恩所擁有的幸福。雖然看見苦,但同時也看到志工無私的奉獻,從中學習到利他與布施,從證嚴上人的開示中,引動出慈悲與智慧。這是我在工作中的學習與成長,也是此次佛鄉之行最有意義的收穫!

《毫芒微光一念間》

精選書摘

伊人衣情 常在我心

撰文•靜淇

二○二三年接到德仰師父捨報的訊息,我回想四十八年來與師相遇、相處的那段時光,與人無爭、任勞任怨、老實修行、尊師重道的身教,是德仰師父留給世人的風範。

兩套「蝦仔衫(押胸衫的俗稱)」,隨我從花蓮越過中央山脈調職省政府,至定居臺中,歲月匆匆已過了四十年,但那兩套「蝦仔衫」依然珍藏在衣櫃裏。回憶起二○二三年四月六日,接到群組傳來靜思精舍德仰師父捨報的訊息,翻出「衣情」,瞬間淚崩。

記得一九七六年,那個寂靜的週末午後,我一個人尋尋覓覓,初次造訪靜思精舍,見到親切、慈祥的大師兄紹惟師父(德慈師父)出來打招呼之外,還有一位在非常簡陋的工作間裏踩著針車的師父對我點頭微笑;後來才知道他就是「做裁縫很厲害」的五師兄紹惺師父(德仰師父)。

許是宿世因緣,自此虔敬皈依證嚴上人座下,只要是星期假日或下班後,都會往精舍跑。當時,常住師父只有個位數,精舍賴以維生的手工是縫製棉紗手套。

來自臺南後壁鄉下的我,拿針線並不困難,但德仰師父每次看到我縫製的成品總是搖頭,要我拆掉重新再來。經過他不厭其煩地示範調教,終於可以把棉紗手套縫得又快又平整,而一向木訥寡言的他,總會細膩地讚美幾句。

有天,德仰師父叫住我,拿著布尺說要量身長及三圍,我乖乖聽話也沒多問。就在淡忘這件事的一個週末午後,從仁愛街義診所載文瑛師姊回精舍時,德仰師父交給我一個袋子,說袋內的東西是要送我的。打開一看,竟是兩套當時近住女穿的居士服—灰色的「蝦仔衫」。從此,只要是進精舍打佛七或有活動,都會穿上它,即便當時已是人妻人母。

看著已經泛黃的衣服,除了深感內疚外,依稀聽到記憶裏的聲音迴盪在精舍:「五師兄,我回來了。」還有仰師父的回應:「就知道是你,現在會這樣叫我的在家居士,也只有你們這幾位早期的老委員了。」

仰師父中風後,健康狀態每況愈下,曾住院多時;但只要他人在精舍,即便坐在輪椅上,雙手還是沒閒著,一起和德昭師父剝印加果殼。兩位同甘共苦超過半世紀的長老師兄弟,神情專注在一顆顆印加果的畫面,現在想來,也是精舍最美的風景。

看著他勤勉不倦,勸著多休息,回答總是:「上人說過『身雖有病痛,心無有苦受』,我還很好啦。」說話的聲音相當吃力,也有些模糊,但我懂,甚至感恩他願意一口氣說這麼多的話。因為認識他四十多年來,「憨厚寡言,老實做事」,一直是他的標記。

如果這兩套「蝦仔衫」是溯返我走過的慈濟路,更是在衣衫上看到一位與人無爭、任勞任怨、老實修行、忠於慈濟、孝敬上人的人品典範。「伊人,衣情」正在對我無聲說法,說著慈濟的每個故事,都有生生不息、亙古常新的感動。(本文摘自《毫芒微光一念間》)

毫芒微光一念間

⌑ 作者:靜淇
⌑ 插畫:黃逸樵
⌑ 出版:慈濟傳播人文志業基金會
⌑ 客服專線:02-28989000轉1165、2145

※本叢書定期寄贈「慈濟道侶檀施會」會員,歡迎加入,每年1200元,每2個月獲贈一本好書

推薦序

浪漫的時空穿越者

撰文‧簡守信(臺中慈濟醫院院長)

靜淇參與慈濟四十多年,以寫作和主持專長廣傳慈濟人文。(攝影/陳仲銘)

這本文集,時序從一九九一到二○二四年。一篇篇的散文,除了讓人感受到靜淇師姊的文字簡練,一篇篇由人、事、物鋪展出來的「意猶未盡」,不只是動人的故事和讓人好奇的標題,更是讓人千迴百轉的深刻。

臺中慈濟醫院每每有大型活動時,一定會出現在現場,不管是親自主持,或是默默地現身在某個角落,提點院內主持同仁某些細節,這就是靜淇師姊。她的出現,不但是以實際行動表達對醫院的支持,更有著穩定軍心的效果,各種活動因此也得以順利進行。讓人驚奇的是:這些活動種類琳瑯滿目,從歲末祝福、感恩餐會、追思會、賑災義賣、吉祥月到簽書會、幼兒園畢業典禮,都能在她條理分明,國臺語雙聲帶的溫柔細語中感動人心。

秀外慧中、思路清晰、口條便給,可能是許多人對靜淇師姊的印象。

「浪漫的時空穿越者」,我覺得可能更適合形容這位俠女般的師姊。

「慈濟人文」的課程一上二十年,這是何等的不容易!現在的大學生,有些在課堂上,不滑手機、不吃泡麵、不打瞌睡都已經很困難,還要他們聚焦在國際、關懷在鄉里,那是一種光想就會讓老師卻步的無力感。靜淇師姊如果沒有一點浪漫情懷,怎敢二十年不間斷地在擁抱蒼生中擁抱大學生,又怎會推陳出新地運用各種不同的教學互動方式,讓同學們的同理心和慈濟情在熱血奔放的年輕歲月就得以啟發。

這一切的一切,可能就是因為靜淇師姊的浪漫情懷!她的浪漫情懷讓泡麵變成火種,讓滑手機變成直指人心!

溫馨小品,穿越時空

這本文集,時序從一九九一到二○二四年。一篇篇的散文,除了讓人感受到靜淇師姊文字的簡練卻含意深遠外;一篇篇由人、事、物鋪展出來的「意猶未盡」更是讓人佩服。七十元的快樂、一杯來不及的熱牛奶、一條放在冷凍櫃捨不得吃的麵包、會禮讓排隊等吃飯的小貓……不只是動人的故事和讓人好奇的標題,更是讓人千迴百轉的深刻。

「藉事練心 見自性」單元,將她多年在靜思精舍,隨師證嚴上人身邊的法喜感受,讓讀者彷彿身臨其境,有畫面、有微光、有沉澱、有體悟,更是處在現在快轉世界的我們,可以回歸到有自轉更有公轉的人生靜思秩序。

這是本娓娓道來不見激情,卻滿是心情漣漪的穿越時空溫馨小品。讓我們一起來「風簷展書讀,古道照顏色」吧!

精選書摘

伊人衣情 常在我心

撰文•靜淇

二○二三年接到德仰師父捨報的訊息,我回想四十八年來與師相遇、相處的那段時光,與人無爭、任勞任怨、老實修行、尊師重道的身教,是德仰師父留給世人的風範。

兩套「蝦仔衫(押胸衫的俗稱)」,隨我從花蓮越過中央山脈調職省政府,至定居臺中,歲月匆匆已過了四十年,但那兩套「蝦仔衫」依然珍藏在衣櫃裏。回憶起二○二三年四月六日,接到群組傳來靜思精舍德仰師父捨報的訊息,翻出「衣情」,瞬間淚崩。

記得一九七六年,那個寂靜的週末午後,我一個人尋尋覓覓,初次造訪靜思精舍,見到親切、慈祥的大師兄紹惟師父(德慈師父)出來打招呼之外,還有一位在非常簡陋的工作間裏踩著針車的師父對我點頭微笑;後來才知道他就是「做裁縫很厲害」的五師兄紹惺師父(德仰師父)。

許是宿世因緣,自此虔敬皈依證嚴上人座下,只要是星期假日或下班後,都會往精舍跑。當時,常住師父只有個位數,精舍賴以維生的手工是縫製棉紗手套。

來自臺南後壁鄉下的我,拿針線並不困難,但德仰師父每次看到我縫製的成品總是搖頭,要我拆掉重新再來。經過他不厭其煩地示範調教,終於可以把棉紗手套縫得又快又平整,而一向木訥寡言的他,總會細膩地讚美幾句。

有天,德仰師父叫住我,拿著布尺說要量身長及三圍,我乖乖聽話也沒多問。就在淡忘這件事的一個週末午後,從仁愛街義診所載文瑛師姊回精舍時,德仰師父交給我一個袋子,說袋內的東西是要送我的。打開一看,竟是兩套當時近住女穿的居士服—灰色的「蝦仔衫」。從此,只要是進精舍打佛七或有活動,都會穿上它,即便當時已是人妻人母。

看著已經泛黃的衣服,除了深感內疚外,依稀聽到記憶裏的聲音迴盪在精舍:「五師兄,我回來了。」還有仰師父的回應:「就知道是你,現在會這樣叫我的在家居士,也只有你們這幾位早期的老委員了。」

仰師父中風後,健康狀態每況愈下,曾住院多時;但只要他人在精舍,即便坐在輪椅上,雙手還是沒閒著,一起和德昭師父剝印加果殼。兩位同甘共苦超過半世紀的長老師兄弟,神情專注在一顆顆印加果的畫面,現在想來,也是精舍最美的風景。

看著他勤勉不倦,勸著多休息,回答總是:「上人說過『身雖有病痛,心無有苦受』,我還很好啦。」說話的聲音相當吃力,也有些模糊,但我懂,甚至感恩他願意一口氣說這麼多的話。因為認識他四十多年來,「憨厚寡言,老實做事」,一直是他的標記。

如果這兩套「蝦仔衫」是溯返我走過的慈濟路,更是在衣衫上看到一位與人無爭、任勞任怨、老實修行、忠於慈濟、孝敬上人的人品典範。「伊人,衣情」正在對我無聲說法,說著慈濟的每個故事,都有生生不息、亙古常新的感動。(本文摘自《毫芒微光一念間》)

毫芒微光一念間

⌑ 作者:靜淇
⌑ 插畫:黃逸樵
⌑ 出版:慈濟傳播人文志業基金會
⌑ 客服專線:02-28989000轉1165、2145

※本叢書定期寄贈「慈濟道侶檀施會」會員,歡迎加入,每年1200元,每2個月獲贈一本好書

推薦序

浪漫的時空穿越者

撰文‧簡守信(臺中慈濟醫院院長)

靜淇參與慈濟四十多年,以寫作和主持專長廣傳慈濟人文。(攝影/陳仲銘)

這本文集,時序從一九九一到二○二四年。一篇篇的散文,除了讓人感受到靜淇師姊的文字簡練,一篇篇由人、事、物鋪展出來的「意猶未盡」,不只是動人的故事和讓人好奇的標題,更是讓人千迴百轉的深刻。

臺中慈濟醫院每每有大型活動時,一定會出現在現場,不管是親自主持,或是默默地現身在某個角落,提點院內主持同仁某些細節,這就是靜淇師姊。她的出現,不但是以實際行動表達對醫院的支持,更有著穩定軍心的效果,各種活動因此也得以順利進行。讓人驚奇的是:這些活動種類琳瑯滿目,從歲末祝福、感恩餐會、追思會、賑災義賣、吉祥月到簽書會、幼兒園畢業典禮,都能在她條理分明,國臺語雙聲帶的溫柔細語中感動人心。

秀外慧中、思路清晰、口條便給,可能是許多人對靜淇師姊的印象。

「浪漫的時空穿越者」,我覺得可能更適合形容這位俠女般的師姊。

「慈濟人文」的課程一上二十年,這是何等的不容易!現在的大學生,有些在課堂上,不滑手機、不吃泡麵、不打瞌睡都已經很困難,還要他們聚焦在國際、關懷在鄉里,那是一種光想就會讓老師卻步的無力感。靜淇師姊如果沒有一點浪漫情懷,怎敢二十年不間斷地在擁抱蒼生中擁抱大學生,又怎會推陳出新地運用各種不同的教學互動方式,讓同學們的同理心和慈濟情在熱血奔放的年輕歲月就得以啟發。

這一切的一切,可能就是因為靜淇師姊的浪漫情懷!她的浪漫情懷讓泡麵變成火種,讓滑手機變成直指人心!

溫馨小品,穿越時空

這本文集,時序從一九九一到二○二四年。一篇篇的散文,除了讓人感受到靜淇師姊文字的簡練卻含意深遠外;一篇篇由人、事、物鋪展出來的「意猶未盡」更是讓人佩服。七十元的快樂、一杯來不及的熱牛奶、一條放在冷凍櫃捨不得吃的麵包、會禮讓排隊等吃飯的小貓……不只是動人的故事和讓人好奇的標題,更是讓人千迴百轉的深刻。

「藉事練心 見自性」單元,將她多年在靜思精舍,隨師證嚴上人身邊的法喜感受,讓讀者彷彿身臨其境,有畫面、有微光、有沉澱、有體悟,更是處在現在快轉世界的我們,可以回歸到有自轉更有公轉的人生靜思秩序。

這是本娓娓道來不見激情,卻滿是心情漣漪的穿越時空溫馨小品。讓我們一起來「風簷展書讀,古道照顏色」吧!

關鍵字

留學花蓮 慈大附中

(相片提供/慈大附中)

在少子化浪潮下,
花蓮慈濟大學附屬高級中學招生穩定,
甚至迎來歷年高峰;
校長李玲惠帶領全校盡力實現最理想的教學方式,
無論作為老師或學生,「都要活出豪氣!」

在少子化浪潮下,花蓮慈濟大學附屬高級中學招生穩定,甚至迎來歷年高峰;校長李玲惠帶領全校盡力實現最理想的教學方式,無論作為老師或學生,「都要活出豪氣!」

二○二四年十一月,花蓮慈濟大學附屬高級中學校園裏,面向中央山脈的天文樓,校方為高三學生舉辦學測倒數八十天的備考講座。老師們提供學測相關資訊,叮嚀備考注意事項;校長李玲惠壓軸登場,分享讀書方法、心態,以及最重要的—師長對學生全面支持的承諾。

「你們要記得,全校的老師都會支持你們,如果你們有什麼需求,可以跟老師、輔導室說。」李玲惠個子不高,說話中氣十足,洪亮且自信:「如果要校長陪你熬夜讀書也是可以。」講座結束後,幾位女同學上前與校長擁抱,有兩位男同學悄悄折返,靦腆地也要校長抱一下,蹭些勇氣。

「學生在接近考試期間容易緊張、放棄。」李玲惠聲音沙啞,這才顯露出疲憊。日前,她到尼泊爾藍毘尼參與慈濟援建學校事宜,接受採訪的這天早上,剛返回花蓮,儘管尚有不適,但為了準備給高三學生的演講,一直忙碌到現在,「學測階段的高三學生,最需要師長關注。」

李玲惠為我們導覽校園的同時,路過的學生紛紛上前與她打招呼、開玩笑,甚至擁抱。一幕幕,顛覆我對校長威嚴而有距離感的刻板印象。「老師一定要與學生親近,太過潔癖或完美主義,難當好老師。」她突然話鋒一轉,「不過,老師如果不能善待學生,我可不能接受喔!」

二○二四年十一月,大學學測倒數八十天備考講座結束後,學生上前向李玲惠「討抱抱」。(攝影/蕭耀華)

二○一八年李玲惠(左前)與老師們為馬來西亞慈濟國際學校教育團隊導覽,在比鄰中央山脈的校園裏合影。(攝影/詹進德)

傳教士與求道者

二○一七年八月一日,慈大附中王佩茹祕書開車到火車站,迎接新一任校長。在這之前她並不認識新校長,只知道校長被原單位的長官慰留不成。見到隻身前來的校長彷彿就準備開始工作,她忽然想到前一位祕書叮嚀,校長是一個忙起來連飯都會忘記吃的人。

和其他學校一樣,慈大附中也面臨少子化衝擊,當時中學部沒有減班,但人數沒有達標;李玲惠憂心道:「最嚴重的少子化還沒到呢!」

同時為了趕上教育部新頒布的一○八新課綱,李玲惠要求老師們設計出符合「素養導向」的選修課程,即使在慈濟教育志業歷史悠久的茶道、花道課程也不例外,務求讓學生擁有世界觀、跨領域、跨語言的學習。

一連串的改革,讓老師們精神緊繃,有人提議不如暫緩一年再推出新課程,但是李玲惠不為所動,「那活該這些孩子,如果他們晚出生一年,就可以享受到新課程了!」她近乎苛刻地要求主任級同仁帶領各自的團隊前進,甚至不惜花心力,親自帶領課程設計的工作坊,更期許同仁成為能擔任校長的人。

辛苦堅持沒有白費。高中、國中和小學,都被教育部評選為品德教育特色學校,以三滿貫之姿兩度獲此殊榮。還通過教育部核定,為第一批成立雙語實驗班的學校,也是一○八新課綱上路六年來,花東地區的前導學校,有分享課程設計與示範的責任。儘管少子化的大環境浪潮難擋,但慈大附中幼稚園、小學部及中學部的招生人數維持穩定,二○二四年的一一三學年度更達到近二千人,創下歷年高峰。

源於上人宗教情懷的啟發,李玲惠自我定位,教育工作者要像傳教士一樣,必須是奉獻自我、教化他人的求道者。

「第一,要無私。」李玲惠來到慈大附中原先計畫不領薪,但為了符合勞健保制度,月領數千元臺幣。這筆錢對於像她這樣年資超過二十年的校長而言,大概是一場講座的講師費;但她樂在其中,每天一早在門口迎接學生,常為工作忙活到深夜。

「第二,是要讓老師看見價值與成果。」無論是課程獲得教育部肯定,或是招生人數增加,對老師而言都是最直接的回饋;李玲惠笑說:「當然平時還是要找機會請大家吃美食。」

慈大附中學生在寒暑假自主報名修學旅行,二○二四年七月,師生前往英國交流,與志工於倫敦街頭為街友發熱食。(相片提供/慈大附中)

二○一七年七月,師生來到韓國臨皋書院學習傳統樂器。(攝影/許俊吉)

讓孩子感覺被愛

李玲惠擔任校長的經歷,從一九九九年任職平溪國中開始。這所位於北部山區偏鄉的學校,校內設有「慈輝班」,學生占全校三分之一,是從外地安置的住宿生。無論是本地生或慈輝生,「要讓鄉下孩子可以活出豪氣!」這是李玲惠渴望達成的。

她將慈輝專案變成一所能提供「暫代性親情」的學校,也就是下課後,學校改以家的方式經營,讓住宿生感受家庭溫暖;她與留校的孩子一起生活,會到寢室陪伴,唱催眠曲;孩子也會撒嬌,向「阿母」討拍拍。不擔心遭人誤解,她一心想與慈輝生建立親子般的關係,只因她深知這些孩子不曾被家人這樣對待過。

李玲惠也了解,如果一所學校的教師流動率高,師生感情就無法建立。她和老師懇談,留下志同道合的夥伴,請走不看重學生未來的老師,「當老師一定要有宗教情懷、愛的能量,還有正義感,你要看清楚誰是弱勢!」

第二年,李玲惠帶著新加入的老師一起做家庭拜訪,逐一了解每個學生的家庭狀況;她和老師們思考,透過帶孩子掃街,或設計融合當地煤礦文化的相關課程與英語話劇,或協辦天燈節等方式,幫助外來的慈輝生融入社區。

當然也有被學生辜負的時候。有學生偷竊,李玲惠了解後得知,原來是因為羨慕同學有零用錢可以買零食,而選擇了錯誤的方式;她決定提供這些孩子零用錢,但約法三章,孩子必須告知將如何使用這筆錢。這樣做的目的,是為了讓孩子學會負責,以及知道自己有人疼。

慈大附中首重多元發展與品德教育,二○一八年高中部學生獲「IICC智慧鐵人創意競賽」冠軍(圖1);二○二四年小學至高中部獲頒教育部品德教育特色學校(圖2)。(相片提供/慈大附中)

當學生再想起你

「教育不是要教出聖人,如果你讓一名未來的犯罪者在犯罪的當下,因為想到老師而下手輕了,這樣教育就算成功。」李玲惠回想起一九八七年任職臺北縣瑞芳欽賢國中,楊仁華校長所說的話。

當時三十多歲,方才新婚的李玲惠,擔任欽賢國中鼻頭分校主任;隨著校本部楊仁華校長家訪,學生林同學雖然考取高職建教班,但因為父親意外受傷失業,必須輟學分擔家務。

楊仁華為了說服家長,向林家祖宗牌位跪下行禮;林同學的父親痛哭,請楊仁華和李玲惠起身,表示自己也是迫於無奈,實在沒有能力讓孩子升學。最後,林同學還是沒去學校了。這讓李玲惠體悟到,原來不是每一個家庭都以孩子的教育為先;原來一位師長是可以為了學生前途做到膝蓋著地。

在欽賢國中任教的那幾年,李玲惠勤於家訪,還特別徵求家長同意讓孩子留校免費補課;平日教學嚴格,假日和學生出遊,對學生的用心陪伴,贏得了家長們的尊敬。當年的學生中,有人成為老師、有人當上警察局副局長,老師認真教學的樣子,讓他們記憶猶新。

後來李玲惠得知,當年中途輟學的林同學,出社會後又回到學校完成課業,還考取了好幾個證照,她感到特別欣慰。

學生向巡堂路過的李玲惠比出「愛心」招呼。(攝影/蕭耀華)

士不可以不弘毅

在旁人眼裏,李玲惠總是在衝刺,她認為:「做老師就是要有豪氣!」做事不可以不弘毅,她跟緊政府教育政策的腳步,帶領老師們勇敢嘗試、實現心中最理想的教學方式。

「如果明天就是人生的最後一天,我要怎麼過?」大學時期的李玲惠,曾經這樣問過自己。那時她讀存在主義也讀佛學,認真思考想要過一個什麼樣的人生。

剛過六十七歲的她,回顧過往,認為自己遇到很多貴人。高中時,為她抄寫下四十本書單的帥氣國文老師,只因她曾為了不知如何入門閱讀而請教;還有位歐巴桑國文老師,請班上同學朗誦她的小說體文章,只因老師欣賞自己的作文……這些真心對待學生的老師,塑造了李玲惠心中為人師表該有的態度。

還有一路陪伴、在關鍵時刻督促自己的丈夫,以及聽話上進的女兒,都是讓她全心投入慈濟教育志業的貴人。

追溯到李玲惠的原生家庭,她感恩她的警察父親,對她作為長女的期許,不是世俗成功的期待,而是為人正直的道德要求;也感念擔任信用合作社總經理的外公,讓她看見發揮影響力行善的可能性。

「憑什麼我有這麼好的爸爸,這麼好的家世?」這分感恩讓她有更強烈的使命感付出,也令她不敢懈怠,猶如精進的求道者,致力創造愛與尊重的教學環境,讓每個學生都能擁有最好的教育,更期許以自身為學生的榜樣,「在慈濟,我們強調的是:潛移默化。」

「用心的靈魂,值得被尊重。」李玲惠堅定地說,「這就是我想要學生明白的事,我希望學生可以用心地活一輩子。」(資料參考/慈濟人文志業戲劇內容創作中心)

(攝影/蕭耀華)

小檔案—慈濟大學附屬高級中學

  • 2000年9月慈濟中小學正式開學;2002年8月附設幼稚園招生開學;2011年合校為慈大附中,學生包含幼稚園至高中,接續上慈濟大學高等教育,實現慈濟教育「完全化」的理念

  • 2020年及2024年,小學至高中部二度同時獲得教育部「品德教育特色學校」;2022年獲國家環境教育獎優等獎

  • 2024年的113學年度,全校共1988位學生,境外學生有7人;歷屆畢業生共8,618人

    (2024.09.30統計)

|延伸閱讀|慈大附中校慶 運動會暨園遊會

(相片提供/慈大附中)

在少子化浪潮下,
花蓮慈濟大學附屬高級中學招生穩定,
甚至迎來歷年高峰;
校長李玲惠帶領全校盡力實現最理想的教學方式,
無論作為老師或學生,「都要活出豪氣!」

在少子化浪潮下,花蓮慈濟大學附屬高級中學招生穩定,甚至迎來歷年高峰;校長李玲惠帶領全校盡力實現最理想的教學方式,無論作為老師或學生,「都要活出豪氣!」

二○二四年十一月,花蓮慈濟大學附屬高級中學校園裏,面向中央山脈的天文樓,校方為高三學生舉辦學測倒數八十天的備考講座。老師們提供學測相關資訊,叮嚀備考注意事項;校長李玲惠壓軸登場,分享讀書方法、心態,以及最重要的—師長對學生全面支持的承諾。

「你們要記得,全校的老師都會支持你們,如果你們有什麼需求,可以跟老師、輔導室說。」李玲惠個子不高,說話中氣十足,洪亮且自信:「如果要校長陪你熬夜讀書也是可以。」講座結束後,幾位女同學上前與校長擁抱,有兩位男同學悄悄折返,靦腆地也要校長抱一下,蹭些勇氣。

「學生在接近考試期間容易緊張、放棄。」李玲惠聲音沙啞,這才顯露出疲憊。日前,她到尼泊爾藍毘尼參與慈濟援建學校事宜,接受採訪的這天早上,剛返回花蓮,儘管尚有不適,但為了準備給高三學生的演講,一直忙碌到現在,「學測階段的高三學生,最需要師長關注。」

李玲惠為我們導覽校園的同時,路過的學生紛紛上前與她打招呼、開玩笑,甚至擁抱。一幕幕,顛覆我對校長威嚴而有距離感的刻板印象。「老師一定要與學生親近,太過潔癖或完美主義,難當好老師。」她突然話鋒一轉,「不過,老師如果不能善待學生,我可不能接受喔!」

二○二四年十一月,大學學測倒數八十天備考講座結束後,學生上前向李玲惠「討抱抱」。(攝影/蕭耀華)

二○一八年李玲惠(左前)與老師們為馬來西亞慈濟國際學校教育團隊導覽,在比鄰中央山脈的校園裏合影。(攝影/詹進德)

傳教士與求道者

二○一七年八月一日,慈大附中王佩茹祕書開車到火車站,迎接新一任校長。在這之前她並不認識新校長,只知道校長被原單位的長官慰留不成。見到隻身前來的校長彷彿就準備開始工作,她忽然想到前一位祕書叮嚀,校長是一個忙起來連飯都會忘記吃的人。

和其他學校一樣,慈大附中也面臨少子化衝擊,當時中學部沒有減班,但人數沒有達標;李玲惠憂心道:「最嚴重的少子化還沒到呢!」

同時為了趕上教育部新頒布的一○八新課綱,李玲惠要求老師們設計出符合「素養導向」的選修課程,即使在慈濟教育志業歷史悠久的茶道、花道課程也不例外,務求讓學生擁有世界觀、跨領域、跨語言的學習。

一連串的改革,讓老師們精神緊繃,有人提議不如暫緩一年再推出新課程,但是李玲惠不為所動,「那活該這些孩子,如果他們晚出生一年,就可以享受到新課程了!」她近乎苛刻地要求主任級同仁帶領各自的團隊前進,甚至不惜花心力,親自帶領課程設計的工作坊,更期許同仁成為能擔任校長的人。

辛苦堅持沒有白費。高中、國中和小學,都被教育部評選為品德教育特色學校,以三滿貫之姿兩度獲此殊榮。還通過教育部核定,為第一批成立雙語實驗班的學校,也是一○八新課綱上路六年來,花東地區的前導學校,有分享課程設計與示範的責任。儘管少子化的大環境浪潮難擋,但慈大附中幼稚園、小學部及中學部的招生人數維持穩定,二○二四年的一一三學年度更達到近二千人,創下歷年高峰。

源於上人宗教情懷的啟發,李玲惠自我定位,教育工作者要像傳教士一樣,必須是奉獻自我、教化他人的求道者。

「第一,要無私。」李玲惠來到慈大附中原先計畫不領薪,但為了符合勞健保制度,月領數千元臺幣。這筆錢對於像她這樣年資超過二十年的校長而言,大概是一場講座的講師費;但她樂在其中,每天一早在門口迎接學生,常為工作忙活到深夜。

「第二,是要讓老師看見價值與成果。」無論是課程獲得教育部肯定,或是招生人數增加,對老師而言都是最直接的回饋;李玲惠笑說:「當然平時還是要找機會請大家吃美食。」

慈大附中學生在寒暑假自主報名修學旅行,二○二四年七月,師生前往英國交流,與志工於倫敦街頭為街友發熱食。(相片提供/慈大附中)

二○一七年七月,師生來到韓國臨皋書院學習傳統樂器。(攝影/許俊吉)

讓孩子感覺被愛

李玲惠擔任校長的經歷,從一九九九年任職平溪國中開始。這所位於北部山區偏鄉的學校,校內設有「慈輝班」,學生占全校三分之一,是從外地安置的住宿生。無論是本地生或慈輝生,「要讓鄉下孩子可以活出豪氣!」這是李玲惠渴望達成的。

她將慈輝專案變成一所能提供「暫代性親情」的學校,也就是下課後,學校改以家的方式經營,讓住宿生感受家庭溫暖;她與留校的孩子一起生活,會到寢室陪伴,唱催眠曲;孩子也會撒嬌,向「阿母」討拍拍。不擔心遭人誤解,她一心想與慈輝生建立親子般的關係,只因她深知這些孩子不曾被家人這樣對待過。

李玲惠也了解,如果一所學校的教師流動率高,師生感情就無法建立。她和老師懇談,留下志同道合的夥伴,請走不看重學生未來的老師,「當老師一定要有宗教情懷、愛的能量,還有正義感,你要看清楚誰是弱勢!」

第二年,李玲惠帶著新加入的老師一起做家庭拜訪,逐一了解每個學生的家庭狀況;她和老師們思考,透過帶孩子掃街,或設計融合當地煤礦文化的相關課程與英語話劇,或協辦天燈節等方式,幫助外來的慈輝生融入社區。

當然也有被學生辜負的時候。有學生偷竊,李玲惠了解後得知,原來是因為羨慕同學有零用錢可以買零食,而選擇了錯誤的方式;她決定提供這些孩子零用錢,但約法三章,孩子必須告知將如何使用這筆錢。這樣做的目的,是為了讓孩子學會負責,以及知道自己有人疼。

慈大附中首重多元發展與品德教育,二○一八年高中部學生獲「IICC智慧鐵人創意競賽」冠軍(圖1);二○二四年小學至高中部獲頒教育部品德教育特色學校(圖2)。(相片提供/慈大附中)

當學生再想起你

「教育不是要教出聖人,如果你讓一名未來的犯罪者在犯罪的當下,因為想到老師而下手輕了,這樣教育就算成功。」李玲惠回想起一九八七年任職臺北縣瑞芳欽賢國中,楊仁華校長所說的話。

當時三十多歲,方才新婚的李玲惠,擔任欽賢國中鼻頭分校主任;隨著校本部楊仁華校長家訪,學生林同學雖然考取高職建教班,但因為父親意外受傷失業,必須輟學分擔家務。

楊仁華為了說服家長,向林家祖宗牌位跪下行禮;林同學的父親痛哭,請楊仁華和李玲惠起身,表示自己也是迫於無奈,實在沒有能力讓孩子升學。最後,林同學還是沒去學校了。這讓李玲惠體悟到,原來不是每一個家庭都以孩子的教育為先;原來一位師長是可以為了學生前途做到膝蓋著地。

在欽賢國中任教的那幾年,李玲惠勤於家訪,還特別徵求家長同意讓孩子留校免費補課;平日教學嚴格,假日和學生出遊,對學生的用心陪伴,贏得了家長們的尊敬。當年的學生中,有人成為老師、有人當上警察局副局長,老師認真教學的樣子,讓他們記憶猶新。

後來李玲惠得知,當年中途輟學的林同學,出社會後又回到學校完成課業,還考取了好幾個證照,她感到特別欣慰。

學生向巡堂路過的李玲惠比出「愛心」招呼。(攝影/蕭耀華)

士不可以不弘毅

在旁人眼裏,李玲惠總是在衝刺,她認為:「做老師就是要有豪氣!」做事不可以不弘毅,她跟緊政府教育政策的腳步,帶領老師們勇敢嘗試、實現心中最理想的教學方式。

「如果明天就是人生的最後一天,我要怎麼過?」大學時期的李玲惠,曾經這樣問過自己。那時她讀存在主義也讀佛學,認真思考想要過一個什麼樣的人生。

剛過六十七歲的她,回顧過往,認為自己遇到很多貴人。高中時,為她抄寫下四十本書單的帥氣國文老師,只因她曾為了不知如何入門閱讀而請教;還有位歐巴桑國文老師,請班上同學朗誦她的小說體文章,只因老師欣賞自己的作文……這些真心對待學生的老師,塑造了李玲惠心中為人師表該有的態度。

還有一路陪伴、在關鍵時刻督促自己的丈夫,以及聽話上進的女兒,都是讓她全心投入慈濟教育志業的貴人。

追溯到李玲惠的原生家庭,她感恩她的警察父親,對她作為長女的期許,不是世俗成功的期待,而是為人正直的道德要求;也感念擔任信用合作社總經理的外公,讓她看見發揮影響力行善的可能性。

「憑什麼我有這麼好的爸爸,這麼好的家世?」這分感恩讓她有更強烈的使命感付出,也令她不敢懈怠,猶如精進的求道者,致力創造愛與尊重的教學環境,讓每個學生都能擁有最好的教育,更期許以自身為學生的榜樣,「在慈濟,我們強調的是:潛移默化。」

「用心的靈魂,值得被尊重。」李玲惠堅定地說,「這就是我想要學生明白的事,我希望學生可以用心地活一輩子。」(資料參考/慈濟人文志業戲劇內容創作中心)

(攝影/蕭耀華)

小檔案—慈濟大學附屬高級中學

  • 2000年9月慈濟中小學正式開學;2002年8月附設幼稚園招生開學;2011年合校為慈大附中,學生包含幼稚園至高中,接續上慈濟大學高等教育,實現慈濟教育「完全化」的理念

  • 2020年及2024年,小學至高中部二度同時獲得教育部「品德教育特色學校」;2022年獲國家環境教育獎優等獎

  • 2024年的113學年度,全校共1988位學生,境外學生有7人;歷屆畢業生共8,618人

    (2024.09.30統計)

|延伸閱讀|慈大附中校慶 運動會暨園遊會