医療の普遍化 誰もが医療にアクセスできる世界へ

スリランカのコロンボで貧しい人々を診察するシンガポール慈済人医会の医師。(撮影・蕭耀華)

数分間の白内障手術で、長年失明していた患者が視力を取り戻した。オーダーメイドの義肢で、身障者が移動の自由を取り戻した。一時間以内に眼鏡ができ、貧困家庭の子どもは黒板の字が見えるようになった……

「あらゆる年齢のすべての人々の健康的な生活を確保し、福祉を促進する」、これは国連SDGsの目標3であると共に、この半世紀、慈済が慈善志業と医療志業を結び付けて実践して来た、世界での使命と成果である。

曽文ダム流域に位置する嘉義県大埔郷は、山奥であることに加え、ダムによって広大な田畑が水没してしまった。それが原因で、多くの若者が働き口を求めて、他の地方に出て行った。少ない人口では医療機関を維持できないだけでなく、小さな診療所さえない状態が長く続いた。

この「無医村」で医療を提供するために、慈済人医会は十年にわたって、毎月、ボランティアと医師、看護師たちが現地を訪れて施療を続けてきたが、常駐はできなかった。二〇〇二年に、開院から二年になる慈済大林病院が政府による二つの医療プロジェクトを受託した。医師が常駐し始めてから、住民はようやく最低限の医療が保障されるようになった。

「ホームヘルパーの皆さんと連携を密にして、大埔郷で診療所まで来られない患者さんを見つけ出し、在宅ケアを行っているのです」。

毎週水曜日に大埔郷で診療を行っている、慈済大林病院中医部針灸外傷科の葉明憲(イエ・ミンシェン)主任によれば、在宅ケアが必要なお年寄りの多くは一人暮らしだという。遠く離れて暮らしている子どもたちが毎週、親を診療所に連れて行くのは不可能である。そこで、医療スタッフや介護ヘルパーに頼って、家庭訪問し、医療やリハビリ、配食等のサービスを提供してもらっている。葉医師は二十二年にわたって、診察が終わった後、いつも、自立した生活ができず、「家を出られない」患者を訪問ケアしている。

総合診療科の林英龍(リン・インロン)医師は現在、大埔郷の常駐医師兼救急外来の責任者であるが、八年間、毎月平均して二日しか休暇を取らず、百件単位の蜂に刺されたり、蛇に噛まれたりした中毒症状に対処している他、交通事故や労働災害、心臓発作などの緊急患者にも対応して来た。大林慈済病院のリュウマチ免疫科や循環器内科、皮膚科、歯科などの専門医もいつも交代で山奥へ支援に来てくれる。

慈済医療チームのサポートの下、何人かのお年寄りは目に見えて健康が改善した。脳卒中で寝たきりになっていた人が起きて立ち上がったり、認知症の高齢者が言語、動作などの面で回復したり、昔のことを話してくれる人まで出た。大埔郷に医師を派遣して「二十四時間守る」以外に、大林慈済病院は嘉義県梅山郷及び竹崎郷、雲林県古坑郷で巡回医療も行っている。

北部慈済人医会は定期的に、新北市三芝区、双渓区、瑞芳区、平渓区などを訪れて、郊外に住む高齢者の健康に関心を寄せると共に、彼らとまるで古くからの友人や知己のように交流している。(撮影・李政明)

外国人労働者のために、休診日も診療

「病気の人が病院に来られないから、奉仕できる人が出向かなければいけない」と、一九六六年という早い時期に、「病と貧困の連鎖」を見抜いた證厳法師は、「貧困と病の双方を防ぐ」という根本的な取り組みを提唱した。一九七二年、花蓮市仁愛街に開院した「慈済施療院」は、診療所で施療するだけでなく、花蓮県や台東県のへき地にも出向いて、往診を行った。その活動は、一九八六年に開院した花蓮仏教慈済総合病院に引き継がれるまで続いた。

現在、慈済は台湾に二つの医学センターと二つの地域病院、五つの中小規模の病院及び診療所を持つまでになり、慈済人医会の医師、看護師、薬剤師、ボランティアなどは二千七百人を超えている。通院が困難なへき地に住んでいるお年寄りには、人医会の医療ボランティアが訪問診療を行っている。「移動診療」は、空間の壁を越えて山間部のへき地に医療を届けているだけでなく、時間の壁を越えて、にぎやかな都会に住む社会的マイノリティにもアプローチしている。

「あなたがケアしているお爺さんは何歳ですか?」
「八十歳です」
「ちゃんと寝られないようですが、眩暈はしますか?夜は何時間ぐらい寝ますか?」
「四時間ぐらいです……」

日曜日の台北駅ロビーは大勢の人の声で騒がしかったが、臨床心理士とインドネシア人労働者姉妹の会話を妨げることはなかった。慈済人医会北部地区と台北市の共催による「台北市外国人労働者ヘルスケア活動」が行われて、もう二十年になる。医療関係のボランティアは、台北駅に心療内科、内科、歯科、眼科、整形外科、産婦人科、中医科などの診療科ごとにブースを設け、無料で検査や相談を行っている。そこでは採血や注射等の侵襲的医療行為は行わず、薬も提携クリニックで健康保険証を提示して初めて、受け取れるが、それでもきつい仕事に耐えている外国人労働者にとっては大きな助けである。

「彼らの多くはインドネシア人の住み込み介護ヘルパーで、介護対象の多くは自立した生活ができないお年寄りです」。この活動で連絡担当係を務める慈済ボランティアの顔渼姈(イエン・メイリン)さんによると、住み込みの介護ヘルパーは体力的にきつい仕事で、夜中に起こされることは日常茶飯事だという。日曜日は休日だが、病院や診療所もほとんどが休みであるため、自分たちはなかなか診察を受けられない。そこで、慈済人医会は、彼らが診療を受け易いよう、あえて日曜日に奉仕しているのである。

このように山間部や離島等のへき地、都市部の外国人労働者、路上生活者に医療奉仕するだけでなく、慈済の医療機関や人医会のメンバーは、施設に出向いて植物状態や半身不随の患者など社会的弱者をケアし、病気の苦しみを緩和すると共に、家族をも安心させている。

台北駅で20年にわたって続けてきた、外国人労働者ヘルスケア活動は、移動病院のようだ。(撮影・江宝清)

白内障手術が人生を変えた

「あらゆる年齢のすべての人々の健康的な生活を確保し、福祉を促進する」、これは国連の持続可能な開発目標(SDGs)の目標3にあたる。この中では、二〇三〇年までに妊婦、新生児、五歳未満の子どもの死亡率を減らすこと、また、財政リスクからの保護を含めて全ての人々を保護すること、基礎的な保健サービスへのアクセス及び安全で効果的かつ質の高い安価な必須医薬品とワクチンへのアクセスを含む、ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)を達成することなどを目指しているが、これらの項目は、台湾においてはほぼ全面的に達成されている。

しかし、世界保健機関(WHO)と世界銀行の統計によると、世界では今なお三億八〇〇〇万人以上が自費で医療費を支払わなければならないために極度の貧困に陥っており、「大学病院」以上のレベルの医療サービスを受けられる人は一割に満たない。東南アジアやアフリカ、中南米など開発途上国の貧困層は、診療所に行くことさえ難しい。まして入院治療など望むべくもない。

医療資源が比較的豊富な台湾から外に出て、慈済医療志業と人医会のボランティアが直面したのは、切実な医療のニーズだった。極ありふれた簡単な手術でさえ、時には一家の運命を変えることがある。

フィリピン・マニラの慈済眼科センターでは、いつも早朝から各地の貧しい眼疾患患者が家族に支えられて訪れ、検査や診療を受けている。手術を終えたケビン・アンドラードさんは不安な気持ちで、回復室で待っていた。彼は三年余り前に白内障で視力を失ったが、治療に行く余裕がなかった。一度は自殺を図ったこともあるが、幸い子どもがすぐに発見して一命を取り留めた。

「これが見えますか?」

慈済眼科センターで手術を終えた後、カテリーナ医師は指を差し出して尋ねたが、ケビンさんは悲しそうに「見えません」と答えた。しかし、三時間ほど経つと、彼はなんと自分で起き上がって、用を足しに行ったのである。それは目が見えている人と同じ動きだった。視力を回復できたのは右目だけだったが、それでもケビンさんは家族を養うために仕事に戻れる日が待ち遠しかった。

無料の眼科手術は、フィリピン慈済人が三十年近くにわたって取り組んできた、医療成果の一つにすぎない。フィリピンには大小合わせて七千以上の島があり、貧富の差が激しい。その上、交通も不便なため、遠い離島に住む貧しい患者の中には、生まれてから一度も病院に行ったことのない人さえいる。一九九五年、フィリピン慈済人は施療チームを立ち上げ、へき地へ奉仕に行った。

フィリピン慈済人医会のベテランボランティアである柯賢智(コー・シエンヅー)医師は、二十九年前に最初の一歩を踏み出した時のことを振り返って、感慨深げに言った、「あの頃は何も設備がありませんでした」。

最初の麻酔器は米軍が廃棄処分にした中古品だった。手術用の「無影灯」もなく、普通のライトを寄せ集めて照明にしていた。田舎で手術を行う時は、華僑学校の図書館や事務室を借りて、事務机を手術台にしなければならなかった。しかし、設備面で寄せ集めであっても、医療スタッフとボランティアの熱意が冷めることはなく、皆で住民を助けるために精一杯、力を尽くした。

「施療活動のたびに、参加する看護師やボランティアの人数は増えて行きました。金銭的な報酬もなく、名誉が約束されているわけでもないのに、彼らはひたすら活動を続けました。この数十年間に変わったことはたくさんありますが、変わっていないのは愛です」と柯医師は賞賛した。

フィリピン慈済人医会は、年に三回から四回の大規模な施療活動を三十年近くにわたって続け、これまで既に二百六十回以上行い、受診した患者は延べ三十万人を超える。首都マニラの慈済眼科センターでは二〇二三年に延べ二万人余りを診察した。また、南部のサンボアンガ市には義肢センターがあり、身障者のために無償でオーダーメイドの義肢を作っている。

施療は対価がないが、患者を助けるだけでなく、医療スタッフたちをも勇気づけている。インドネシア人医会メンバーのルズビー医師は今年施療活動に参加し、顔面脂肪腫切除手術を二件行った。術後、医師は二人の患者から感謝されたが、収穫が最も大きかったのは自分のほうだと感じている。「人の望みを叶えるのは、素晴らしい気持ちです」。

人医会の施療活動はフィリピン、マレーシア、インドネシア、シンガポールなどで長年続いているが、時にはその他の国に支援に行くこともある。今年八月、スリランカのカルタラ県で、シンガポールとスリランカ現地の医療スタッフ及びボランティア合わせて、総勢三百五十二名による大規模な施療が行われた。スリランカでは、診察自体は無料だが、薬は自費である。ここ数年で薬の値段が二倍になり、収入の多くない住民には重い負担となっている。

現地の公立病院には医師が四人しかおらず、眼科も歯科もない。また、私立病院で歯科の根管治療をしようとすれば、四万ルピー(約二万円)もかかり、普通の人には容易に支払える額ではない。そのため、施療の開始時間が午前八時半にも関わらず、明け方の三時ごろから待つ住民もいた。二日半で延べ四千六百人が治療を受けた。

慈済フィリピン眼科センターでは貧しい患者を無償で治療している。医療ボランティアの家庭訪問で、患者のケビンさんを励ます眼科センター主任(写真1)。2023年、眼科センターでは3000件近い手術を行った(写真2)。(撮影・ジャマイカ・メイ・ディゴ)

ヨルダンの慈済人は長期にわたって、現地の貧困層やヨルダンで暮らしているシリア難民を支援しているが、台湾の施療及び配付団も、何度も支援に訪れた。2019年、ゴルシャフィの貧しい農村で行われた歯科の施療では、老若男女が暑さに耐えながら、並んで診察を待っていた。(撮影・蕭耀華)

豊かな国にも医療に恵まれない人がいる

東南アジアや中南米、アフリカなどの開発途上国だけでなく、世界一の医療水準と世界で上位の国民所得を誇るアメリカでも、なお多くの人が施療に来る。一体なぜだろうか。

「問題は健康保険と在留資格にある」と話すのは、慈済医療志業執行長で、国際慈済人医会のまとめ役でもある林俊龍(リン・ジュンロン)医師だ。かつてアメリカ・ロサンゼルスのノースリッジ医学センターで院長を務めた林医師によれば、アメリカ国民は通常、基本的な医療保険に加入しているが、在留資格を持たない移民は医療保険に加入できず、突発的な重病に罹ると、為す術がない。また、失業して貧困になった人も保険料が払えなくなるという。「保険に入っていない人は、盲腸の手術で入院するだけでも破産してしまうのです」と、林医師はため息をついた。

一九九三年十一月、アメリカの慈済人は、南カリフォルニアのアルハンブラ市に最初の施療センターを立ち上げた。内科と歯科、中医科から始まり、徐々に診療科を増やしていった。そして、施療に訪れた路上生活者がシャワーを浴びることで、清潔で尊厳のある面持ちを取り戻せるようにと、バスルームも設置した。二〇〇五年、施療センターは地域外来診療所になり、対象範囲を広げて一般市民も有料で受診できるようになったが、社会的マイノリティを対象とした施療は継続しており、医療と慈善を結び付けた支援をしていることに変わりはない。

広い国土に対応するため、アメリカの慈済人は「移動診療」にも力を入れており、十二台の「大愛医療巡回車」を製造した。バスを改造して、医療機器を搭載したこの医療巡回車は、医療を待つ人々の元へ直接移動し、車内で眼科、歯科などの医療行為をすることができる。

「視力検査から眼鏡ができるまで一時間もかかりません。ニューヨークでは信じられないことです。低所得世帯の子どもにとって、眼鏡はとても重要です」。アメリカ慈済人医会のベテランボランティアである、歯科医の廖敬興(リャオ・ジンシン)さんによれば、貧しい家庭の子どもの多くは視力に問題があっても気付かず、黒板の文字がはっきり見えないことが間接的に成績に影響しているという。人医会ボランティアが学校を訪れて、無料で視力検査をして眼鏡を作ってあげると、先生が書いた字がはっきり見えるようになり、「成績が一気にCからAに上がったのです」と、廖医師は笑顔を見せた。

全米の慈済の九大支部は、二十四の地点に慈済人医会を設けており、国内だけでなく、メキシコ、ハイチ、ドミニカ、エクアドル、ボリビア等の中南米諸国でも施療活動を行っている。

国際慈済人医会メンバーは、現在、二十八の国と地域に及んでいる。一万五千人余りの医師、看護師、臨床検査技師、薬剤師に加え、事務ボランティアがおり、力を合わせて貧しい患者に総合医療を無償で提供している。また、世界で大規模災害が発生した時も、積極的に支援活動に参加しており、二〇二三年末現在、五十八の国と地域で、延べ四百万人以上に専門医療を提供して来た。

今年、アメリカ・オークランドで行われたコミュニティの施療活動で、低所得者と無保険者が歯科診療車の中で治療を受けた。(撮影・呂宛潔)

テクノロジーで世界の隅々に愛を

国内外の医療環境が大きく変化するに従って、医療で人助けをする方法も変わってきた。二十一世紀の医療従事者は、世界を一変させる、革命的な進歩を目の当たりにするだろう。

元慈済大学医学院院長で、現慈済教育志業執行長の王本栄(ワン・ベンロン)医師は、現在各方面で注目されているAIの活用を例に挙げて説明した。「画像認識AIを診断のサポートとして利用すれば、医師の判断に比べて間違いなく精度が向上します。AIは医療資源の偏在や需給の不均衡が解決できます。そして、遠隔医療に使えば、地理的な限界はなくなり、多くの過疎地の弱者住民をケアすることができます。精密医療にせよ、いわゆる個別化医療やデジタル治療にせよ、AIはかなり大きな助けになるでしょう」。

しかし、ハイテク医療や先進医療を追求する一方で、心と体に寄り添う「人間本位」の医療も忘れてはならない。それでこそ、人類の健康と福祉の増進という理想を実現し、真に人を苦しみから救うことができるのである。(資料提供・慈済病院、二〇二四年国際慈済人医会年次総会、『慈済アメリカ医療志業30年特別号』)

(慈済月刊六九六期より)

スリランカのコロンボで貧しい人々を診察するシンガポール慈済人医会の医師。(撮影・蕭耀華)

数分間の白内障手術で、長年失明していた患者が視力を取り戻した。オーダーメイドの義肢で、身障者が移動の自由を取り戻した。一時間以内に眼鏡ができ、貧困家庭の子どもは黒板の字が見えるようになった……

「あらゆる年齢のすべての人々の健康的な生活を確保し、福祉を促進する」、これは国連SDGsの目標3であると共に、この半世紀、慈済が慈善志業と医療志業を結び付けて実践して来た、世界での使命と成果である。

曽文ダム流域に位置する嘉義県大埔郷は、山奥であることに加え、ダムによって広大な田畑が水没してしまった。それが原因で、多くの若者が働き口を求めて、他の地方に出て行った。少ない人口では医療機関を維持できないだけでなく、小さな診療所さえない状態が長く続いた。

この「無医村」で医療を提供するために、慈済人医会は十年にわたって、毎月、ボランティアと医師、看護師たちが現地を訪れて施療を続けてきたが、常駐はできなかった。二〇〇二年に、開院から二年になる慈済大林病院が政府による二つの医療プロジェクトを受託した。医師が常駐し始めてから、住民はようやく最低限の医療が保障されるようになった。

「ホームヘルパーの皆さんと連携を密にして、大埔郷で診療所まで来られない患者さんを見つけ出し、在宅ケアを行っているのです」。

毎週水曜日に大埔郷で診療を行っている、慈済大林病院中医部針灸外傷科の葉明憲(イエ・ミンシェン)主任によれば、在宅ケアが必要なお年寄りの多くは一人暮らしだという。遠く離れて暮らしている子どもたちが毎週、親を診療所に連れて行くのは不可能である。そこで、医療スタッフや介護ヘルパーに頼って、家庭訪問し、医療やリハビリ、配食等のサービスを提供してもらっている。葉医師は二十二年にわたって、診察が終わった後、いつも、自立した生活ができず、「家を出られない」患者を訪問ケアしている。

総合診療科の林英龍(リン・インロン)医師は現在、大埔郷の常駐医師兼救急外来の責任者であるが、八年間、毎月平均して二日しか休暇を取らず、百件単位の蜂に刺されたり、蛇に噛まれたりした中毒症状に対処している他、交通事故や労働災害、心臓発作などの緊急患者にも対応して来た。大林慈済病院のリュウマチ免疫科や循環器内科、皮膚科、歯科などの専門医もいつも交代で山奥へ支援に来てくれる。

慈済医療チームのサポートの下、何人かのお年寄りは目に見えて健康が改善した。脳卒中で寝たきりになっていた人が起きて立ち上がったり、認知症の高齢者が言語、動作などの面で回復したり、昔のことを話してくれる人まで出た。大埔郷に医師を派遣して「二十四時間守る」以外に、大林慈済病院は嘉義県梅山郷及び竹崎郷、雲林県古坑郷で巡回医療も行っている。

北部慈済人医会は定期的に、新北市三芝区、双渓区、瑞芳区、平渓区などを訪れて、郊外に住む高齢者の健康に関心を寄せると共に、彼らとまるで古くからの友人や知己のように交流している。(撮影・李政明)

外国人労働者のために、休診日も診療

「病気の人が病院に来られないから、奉仕できる人が出向かなければいけない」と、一九六六年という早い時期に、「病と貧困の連鎖」を見抜いた證厳法師は、「貧困と病の双方を防ぐ」という根本的な取り組みを提唱した。一九七二年、花蓮市仁愛街に開院した「慈済施療院」は、診療所で施療するだけでなく、花蓮県や台東県のへき地にも出向いて、往診を行った。その活動は、一九八六年に開院した花蓮仏教慈済総合病院に引き継がれるまで続いた。

現在、慈済は台湾に二つの医学センターと二つの地域病院、五つの中小規模の病院及び診療所を持つまでになり、慈済人医会の医師、看護師、薬剤師、ボランティアなどは二千七百人を超えている。通院が困難なへき地に住んでいるお年寄りには、人医会の医療ボランティアが訪問診療を行っている。「移動診療」は、空間の壁を越えて山間部のへき地に医療を届けているだけでなく、時間の壁を越えて、にぎやかな都会に住む社会的マイノリティにもアプローチしている。

「あなたがケアしているお爺さんは何歳ですか?」
「八十歳です」
「ちゃんと寝られないようですが、眩暈はしますか?夜は何時間ぐらい寝ますか?」
「四時間ぐらいです……」

日曜日の台北駅ロビーは大勢の人の声で騒がしかったが、臨床心理士とインドネシア人労働者姉妹の会話を妨げることはなかった。慈済人医会北部地区と台北市の共催による「台北市外国人労働者ヘルスケア活動」が行われて、もう二十年になる。医療関係のボランティアは、台北駅に心療内科、内科、歯科、眼科、整形外科、産婦人科、中医科などの診療科ごとにブースを設け、無料で検査や相談を行っている。そこでは採血や注射等の侵襲的医療行為は行わず、薬も提携クリニックで健康保険証を提示して初めて、受け取れるが、それでもきつい仕事に耐えている外国人労働者にとっては大きな助けである。

「彼らの多くはインドネシア人の住み込み介護ヘルパーで、介護対象の多くは自立した生活ができないお年寄りです」。この活動で連絡担当係を務める慈済ボランティアの顔渼姈(イエン・メイリン)さんによると、住み込みの介護ヘルパーは体力的にきつい仕事で、夜中に起こされることは日常茶飯事だという。日曜日は休日だが、病院や診療所もほとんどが休みであるため、自分たちはなかなか診察を受けられない。そこで、慈済人医会は、彼らが診療を受け易いよう、あえて日曜日に奉仕しているのである。

このように山間部や離島等のへき地、都市部の外国人労働者、路上生活者に医療奉仕するだけでなく、慈済の医療機関や人医会のメンバーは、施設に出向いて植物状態や半身不随の患者など社会的弱者をケアし、病気の苦しみを緩和すると共に、家族をも安心させている。

台北駅で20年にわたって続けてきた、外国人労働者ヘルスケア活動は、移動病院のようだ。(撮影・江宝清)

白内障手術が人生を変えた

「あらゆる年齢のすべての人々の健康的な生活を確保し、福祉を促進する」、これは国連の持続可能な開発目標(SDGs)の目標3にあたる。この中では、二〇三〇年までに妊婦、新生児、五歳未満の子どもの死亡率を減らすこと、また、財政リスクからの保護を含めて全ての人々を保護すること、基礎的な保健サービスへのアクセス及び安全で効果的かつ質の高い安価な必須医薬品とワクチンへのアクセスを含む、ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)を達成することなどを目指しているが、これらの項目は、台湾においてはほぼ全面的に達成されている。

しかし、世界保健機関(WHO)と世界銀行の統計によると、世界では今なお三億八〇〇〇万人以上が自費で医療費を支払わなければならないために極度の貧困に陥っており、「大学病院」以上のレベルの医療サービスを受けられる人は一割に満たない。東南アジアやアフリカ、中南米など開発途上国の貧困層は、診療所に行くことさえ難しい。まして入院治療など望むべくもない。

医療資源が比較的豊富な台湾から外に出て、慈済医療志業と人医会のボランティアが直面したのは、切実な医療のニーズだった。極ありふれた簡単な手術でさえ、時には一家の運命を変えることがある。

フィリピン・マニラの慈済眼科センターでは、いつも早朝から各地の貧しい眼疾患患者が家族に支えられて訪れ、検査や診療を受けている。手術を終えたケビン・アンドラードさんは不安な気持ちで、回復室で待っていた。彼は三年余り前に白内障で視力を失ったが、治療に行く余裕がなかった。一度は自殺を図ったこともあるが、幸い子どもがすぐに発見して一命を取り留めた。

「これが見えますか?」

慈済眼科センターで手術を終えた後、カテリーナ医師は指を差し出して尋ねたが、ケビンさんは悲しそうに「見えません」と答えた。しかし、三時間ほど経つと、彼はなんと自分で起き上がって、用を足しに行ったのである。それは目が見えている人と同じ動きだった。視力を回復できたのは右目だけだったが、それでもケビンさんは家族を養うために仕事に戻れる日が待ち遠しかった。

無料の眼科手術は、フィリピン慈済人が三十年近くにわたって取り組んできた、医療成果の一つにすぎない。フィリピンには大小合わせて七千以上の島があり、貧富の差が激しい。その上、交通も不便なため、遠い離島に住む貧しい患者の中には、生まれてから一度も病院に行ったことのない人さえいる。一九九五年、フィリピン慈済人は施療チームを立ち上げ、へき地へ奉仕に行った。

フィリピン慈済人医会のベテランボランティアである柯賢智(コー・シエンヅー)医師は、二十九年前に最初の一歩を踏み出した時のことを振り返って、感慨深げに言った、「あの頃は何も設備がありませんでした」。

最初の麻酔器は米軍が廃棄処分にした中古品だった。手術用の「無影灯」もなく、普通のライトを寄せ集めて照明にしていた。田舎で手術を行う時は、華僑学校の図書館や事務室を借りて、事務机を手術台にしなければならなかった。しかし、設備面で寄せ集めであっても、医療スタッフとボランティアの熱意が冷めることはなく、皆で住民を助けるために精一杯、力を尽くした。

「施療活動のたびに、参加する看護師やボランティアの人数は増えて行きました。金銭的な報酬もなく、名誉が約束されているわけでもないのに、彼らはひたすら活動を続けました。この数十年間に変わったことはたくさんありますが、変わっていないのは愛です」と柯医師は賞賛した。

フィリピン慈済人医会は、年に三回から四回の大規模な施療活動を三十年近くにわたって続け、これまで既に二百六十回以上行い、受診した患者は延べ三十万人を超える。首都マニラの慈済眼科センターでは二〇二三年に延べ二万人余りを診察した。また、南部のサンボアンガ市には義肢センターがあり、身障者のために無償でオーダーメイドの義肢を作っている。

施療は対価がないが、患者を助けるだけでなく、医療スタッフたちをも勇気づけている。インドネシア人医会メンバーのルズビー医師は今年施療活動に参加し、顔面脂肪腫切除手術を二件行った。術後、医師は二人の患者から感謝されたが、収穫が最も大きかったのは自分のほうだと感じている。「人の望みを叶えるのは、素晴らしい気持ちです」。

人医会の施療活動はフィリピン、マレーシア、インドネシア、シンガポールなどで長年続いているが、時にはその他の国に支援に行くこともある。今年八月、スリランカのカルタラ県で、シンガポールとスリランカ現地の医療スタッフ及びボランティア合わせて、総勢三百五十二名による大規模な施療が行われた。スリランカでは、診察自体は無料だが、薬は自費である。ここ数年で薬の値段が二倍になり、収入の多くない住民には重い負担となっている。

現地の公立病院には医師が四人しかおらず、眼科も歯科もない。また、私立病院で歯科の根管治療をしようとすれば、四万ルピー(約二万円)もかかり、普通の人には容易に支払える額ではない。そのため、施療の開始時間が午前八時半にも関わらず、明け方の三時ごろから待つ住民もいた。二日半で延べ四千六百人が治療を受けた。

慈済フィリピン眼科センターでは貧しい患者を無償で治療している。医療ボランティアの家庭訪問で、患者のケビンさんを励ます眼科センター主任(写真1)。2023年、眼科センターでは3000件近い手術を行った(写真2)。(撮影・ジャマイカ・メイ・ディゴ)

ヨルダンの慈済人は長期にわたって、現地の貧困層やヨルダンで暮らしているシリア難民を支援しているが、台湾の施療及び配付団も、何度も支援に訪れた。2019年、ゴルシャフィの貧しい農村で行われた歯科の施療では、老若男女が暑さに耐えながら、並んで診察を待っていた。(撮影・蕭耀華)

豊かな国にも医療に恵まれない人がいる

東南アジアや中南米、アフリカなどの開発途上国だけでなく、世界一の医療水準と世界で上位の国民所得を誇るアメリカでも、なお多くの人が施療に来る。一体なぜだろうか。

「問題は健康保険と在留資格にある」と話すのは、慈済医療志業執行長で、国際慈済人医会のまとめ役でもある林俊龍(リン・ジュンロン)医師だ。かつてアメリカ・ロサンゼルスのノースリッジ医学センターで院長を務めた林医師によれば、アメリカ国民は通常、基本的な医療保険に加入しているが、在留資格を持たない移民は医療保険に加入できず、突発的な重病に罹ると、為す術がない。また、失業して貧困になった人も保険料が払えなくなるという。「保険に入っていない人は、盲腸の手術で入院するだけでも破産してしまうのです」と、林医師はため息をついた。

一九九三年十一月、アメリカの慈済人は、南カリフォルニアのアルハンブラ市に最初の施療センターを立ち上げた。内科と歯科、中医科から始まり、徐々に診療科を増やしていった。そして、施療に訪れた路上生活者がシャワーを浴びることで、清潔で尊厳のある面持ちを取り戻せるようにと、バスルームも設置した。二〇〇五年、施療センターは地域外来診療所になり、対象範囲を広げて一般市民も有料で受診できるようになったが、社会的マイノリティを対象とした施療は継続しており、医療と慈善を結び付けた支援をしていることに変わりはない。

広い国土に対応するため、アメリカの慈済人は「移動診療」にも力を入れており、十二台の「大愛医療巡回車」を製造した。バスを改造して、医療機器を搭載したこの医療巡回車は、医療を待つ人々の元へ直接移動し、車内で眼科、歯科などの医療行為をすることができる。

「視力検査から眼鏡ができるまで一時間もかかりません。ニューヨークでは信じられないことです。低所得世帯の子どもにとって、眼鏡はとても重要です」。アメリカ慈済人医会のベテランボランティアである、歯科医の廖敬興(リャオ・ジンシン)さんによれば、貧しい家庭の子どもの多くは視力に問題があっても気付かず、黒板の文字がはっきり見えないことが間接的に成績に影響しているという。人医会ボランティアが学校を訪れて、無料で視力検査をして眼鏡を作ってあげると、先生が書いた字がはっきり見えるようになり、「成績が一気にCからAに上がったのです」と、廖医師は笑顔を見せた。

全米の慈済の九大支部は、二十四の地点に慈済人医会を設けており、国内だけでなく、メキシコ、ハイチ、ドミニカ、エクアドル、ボリビア等の中南米諸国でも施療活動を行っている。

国際慈済人医会メンバーは、現在、二十八の国と地域に及んでいる。一万五千人余りの医師、看護師、臨床検査技師、薬剤師に加え、事務ボランティアがおり、力を合わせて貧しい患者に総合医療を無償で提供している。また、世界で大規模災害が発生した時も、積極的に支援活動に参加しており、二〇二三年末現在、五十八の国と地域で、延べ四百万人以上に専門医療を提供して来た。

今年、アメリカ・オークランドで行われたコミュニティの施療活動で、低所得者と無保険者が歯科診療車の中で治療を受けた。(撮影・呂宛潔)

テクノロジーで世界の隅々に愛を

国内外の医療環境が大きく変化するに従って、医療で人助けをする方法も変わってきた。二十一世紀の医療従事者は、世界を一変させる、革命的な進歩を目の当たりにするだろう。

元慈済大学医学院院長で、現慈済教育志業執行長の王本栄(ワン・ベンロン)医師は、現在各方面で注目されているAIの活用を例に挙げて説明した。「画像認識AIを診断のサポートとして利用すれば、医師の判断に比べて間違いなく精度が向上します。AIは医療資源の偏在や需給の不均衡が解決できます。そして、遠隔医療に使えば、地理的な限界はなくなり、多くの過疎地の弱者住民をケアすることができます。精密医療にせよ、いわゆる個別化医療やデジタル治療にせよ、AIはかなり大きな助けになるでしょう」。

しかし、ハイテク医療や先進医療を追求する一方で、心と体に寄り添う「人間本位」の医療も忘れてはならない。それでこそ、人類の健康と福祉の増進という理想を実現し、真に人を苦しみから救うことができるのである。(資料提供・慈済病院、二〇二四年国際慈済人医会年次総会、『慈済アメリカ医療志業30年特別号』)

(慈済月刊六九六期より)

關鍵字

街で歩む真実の道

鉄板焼の店主は、竹筒募金箱に六十一元しか入っていないのを見て、五百元札を取り出して寄付した。

お粥の店の女将さんは、「どうぞ座ってお粥を食べて行って下さい。ご馳走しますから」と声をかけてくれた。

路地を歩いて募金に協力してくれている慈済の「愛ある商店」を訪ねる、というこの修行をしていると、歩きながら社会の温かさも冷淡さも感じ取ることができ、感謝の気持ちで一杯になった。

店の出入り口の横に愛の竹筒募金箱を置いて客に小銭を入れてもらう。愛が伴えば、小銭も愛になる。50銭でも人助けができる。

月末の数日間はいつも、「愛ある商店」に出向いて寄付金を集金するのだが、あの日の夜は、立て続けに十軒回った。徒歩で二時間近く歩いて、汗だくになりながら、重い小銭をリュックに入れて背負っていると、見知らぬ人たちからの愛を感じることができ、私の心はとても感動していた。リュックはとても重たかったが、足取りは軽かった。

旧暦十五日の空に輝くお月様と星々が、車が行き交う街を歩く私に寄り添ってくれた。その柔らかい光は、穏やかさと平和を感じさせ、美しさと哀愁に満ちたこの世を静かに見守ってくれていた。街の至る所を歩いていた私は、正に修行の道を歩んでいたのだ。證厳法師の写真が埋め込まれた数珠を手にして出かける時は、心の中で話しかける。「上人様、散歩に行きますよ。私たち弟子が店主とどう交流しているのかもお見せします。どうか安心してください」。

お粥とおつまみを販売する店の女将さんが、「師姐(女性ボランティアの呼称)!お粥を食べてって!……」と私に呼びかけた。私は「最近、あまり食欲がないのです。テレビのニュースで、戦争の避難民が一日にビスケット二枚しか食べられないのを見て、涙が溢れました。その時からあまり食欲がないのです。ご好意には感謝しています」と答えた。

「お宅で売っている碗粿(ワーグイ)には、ベジタリアンの物がありますか」。私が台南碗粿(ワーグイ)を売っている店の人に尋ねると、「本店から出来たものを届けて来るので難しいですね。私は一日も肉なしには過ごせません」という返事だった。私は「魚も肉も食べるなら、もっと野菜を食べた方が健康にいいですよ」と言った。その店の人とは数カ月間にわたって交流していたため、既に気さくに話をすることができた。続けて私はこう言った。「漢字は奥深いですよ。肉という字はどう書くのかご存知ですか? 肉には人という字が二つ入っていて、肉を食べることは命を食べることなんですよ……」と言った。彼は笑い出した。帰り際に、もっと野菜や果物を食べるよう薦めた。

鉄板焼の店主は、私が寄付金を数えているのを見て、「今日はいくらですか?」と聞いた。六十一元だった。「少ないね」。店主はポケットから五百元札を取り出した。本当に感動した!私が「莒光路にあるお店にも、愛の竹筒募金箱を置かせていただけませんか?」と聞くと、店主は快諾してくれた。ありがたい!店主の真心と行動力に心から感動した。なんと善人の多いことか。

私がいつも店主にありがとうと言うので、今では、多くの店の人が私に会うと、自然にありがとうと言うようになった。あちこちで「ありがとう」という声が聞こえるとは、何と和気藹々とした社会なのだろう。

「明日の次はまた明日、何と明日の多いことか。人生は明日ばかりを待っていれば、時を無駄に過ごすことになる」という詩がある。待っているよりも、直ちに行動に移せばよいのだ。だから、用事で出かける時、いつも竹筒募金箱を持ち歩き、沿道で縁を結ぶ店を探すようにしている。確かにそういう店を募るのは容易ではなく、話を切り出せばそれで結ばれるというものでもないが、一歩踏み出せば、チャンスは訪れるのだ。

その過程で、失敗して挫折したこともあったが、気を静めて原因を考えてみると、私自身の初心が消えていたからだった。一刻も早く竹筒募金箱を押しつけたいという気持ちだけしかなく、店と人とが愛の竹筒募金箱を通して慈済と良縁を結べるようにしたい、という初心を忘れてしまっていた。「毎日が人としての始まりであり、一瞬一瞬が自分への戒めでもある」と「静思語・良い言葉を話す」にあるように、敬虔な気持ちに戻って再出発するのはとても大事なことである。

慈済は「実践」を通して発展して来たのであり、実際に行動して初めて様々な状況を体得することができるのである。慈済の菩薩道は修行の道であり、経典の教えを実践する道であり、 真理への道でもある。前世で自分が努力し、今世でも精進していることに感謝し、来世で仏教に学ぶ因縁に巡り会い、いつの人生でも悟りの道を歩むことを願っている。

(慈済月刊六九〇期より)

㊟お米をすりつぶして蒸し上げた茶碗蒸しのような台湾のB級グルメ。

鉄板焼の店主は、竹筒募金箱に六十一元しか入っていないのを見て、五百元札を取り出して寄付した。

お粥の店の女将さんは、「どうぞ座ってお粥を食べて行って下さい。ご馳走しますから」と声をかけてくれた。

路地を歩いて募金に協力してくれている慈済の「愛ある商店」を訪ねる、というこの修行をしていると、歩きながら社会の温かさも冷淡さも感じ取ることができ、感謝の気持ちで一杯になった。

店の出入り口の横に愛の竹筒募金箱を置いて客に小銭を入れてもらう。愛が伴えば、小銭も愛になる。50銭でも人助けができる。

月末の数日間はいつも、「愛ある商店」に出向いて寄付金を集金するのだが、あの日の夜は、立て続けに十軒回った。徒歩で二時間近く歩いて、汗だくになりながら、重い小銭をリュックに入れて背負っていると、見知らぬ人たちからの愛を感じることができ、私の心はとても感動していた。リュックはとても重たかったが、足取りは軽かった。

旧暦十五日の空に輝くお月様と星々が、車が行き交う街を歩く私に寄り添ってくれた。その柔らかい光は、穏やかさと平和を感じさせ、美しさと哀愁に満ちたこの世を静かに見守ってくれていた。街の至る所を歩いていた私は、正に修行の道を歩んでいたのだ。證厳法師の写真が埋め込まれた数珠を手にして出かける時は、心の中で話しかける。「上人様、散歩に行きますよ。私たち弟子が店主とどう交流しているのかもお見せします。どうか安心してください」。

お粥とおつまみを販売する店の女将さんが、「師姐(女性ボランティアの呼称)!お粥を食べてって!……」と私に呼びかけた。私は「最近、あまり食欲がないのです。テレビのニュースで、戦争の避難民が一日にビスケット二枚しか食べられないのを見て、涙が溢れました。その時からあまり食欲がないのです。ご好意には感謝しています」と答えた。

「お宅で売っている碗粿(ワーグイ)には、ベジタリアンの物がありますか」。私が台南碗粿(ワーグイ)を売っている店の人に尋ねると、「本店から出来たものを届けて来るので難しいですね。私は一日も肉なしには過ごせません」という返事だった。私は「魚も肉も食べるなら、もっと野菜を食べた方が健康にいいですよ」と言った。その店の人とは数カ月間にわたって交流していたため、既に気さくに話をすることができた。続けて私はこう言った。「漢字は奥深いですよ。肉という字はどう書くのかご存知ですか? 肉には人という字が二つ入っていて、肉を食べることは命を食べることなんですよ……」と言った。彼は笑い出した。帰り際に、もっと野菜や果物を食べるよう薦めた。

鉄板焼の店主は、私が寄付金を数えているのを見て、「今日はいくらですか?」と聞いた。六十一元だった。「少ないね」。店主はポケットから五百元札を取り出した。本当に感動した!私が「莒光路にあるお店にも、愛の竹筒募金箱を置かせていただけませんか?」と聞くと、店主は快諾してくれた。ありがたい!店主の真心と行動力に心から感動した。なんと善人の多いことか。

私がいつも店主にありがとうと言うので、今では、多くの店の人が私に会うと、自然にありがとうと言うようになった。あちこちで「ありがとう」という声が聞こえるとは、何と和気藹々とした社会なのだろう。

「明日の次はまた明日、何と明日の多いことか。人生は明日ばかりを待っていれば、時を無駄に過ごすことになる」という詩がある。待っているよりも、直ちに行動に移せばよいのだ。だから、用事で出かける時、いつも竹筒募金箱を持ち歩き、沿道で縁を結ぶ店を探すようにしている。確かにそういう店を募るのは容易ではなく、話を切り出せばそれで結ばれるというものでもないが、一歩踏み出せば、チャンスは訪れるのだ。

その過程で、失敗して挫折したこともあったが、気を静めて原因を考えてみると、私自身の初心が消えていたからだった。一刻も早く竹筒募金箱を押しつけたいという気持ちだけしかなく、店と人とが愛の竹筒募金箱を通して慈済と良縁を結べるようにしたい、という初心を忘れてしまっていた。「毎日が人としての始まりであり、一瞬一瞬が自分への戒めでもある」と「静思語・良い言葉を話す」にあるように、敬虔な気持ちに戻って再出発するのはとても大事なことである。

慈済は「実践」を通して発展して来たのであり、実際に行動して初めて様々な状況を体得することができるのである。慈済の菩薩道は修行の道であり、経典の教えを実践する道であり、 真理への道でもある。前世で自分が努力し、今世でも精進していることに感謝し、来世で仏教に学ぶ因縁に巡り会い、いつの人生でも悟りの道を歩むことを願っている。

(慈済月刊六九〇期より)

㊟お米をすりつぶして蒸し上げた茶碗蒸しのような台湾のB級グルメ。

關鍵字

二十七年間ひたすら心を込めて

(撮影・蕭耀華)

二十七年間、日本語版の月刊誌『慈済ものがたり』は毎月欠かすことなく発行されてきた。裏方の翻訳ボランティアたちが、一筋に行って来た奉仕によるものである。

毎週集まって校正校閲し、互いに日本語力を磨き、慈済の善い行いを日本の読者に紹介している。

ものがたりの始まりは「日本語版の月刊誌を作ってください」。證厳法師が杜張瑤珍(ドゥ・ヅァンヤオヅン)さんにこう指示した時、彼女はただ呆然とするだけだった。「私はただの主婦なのに、出版物の刊行という重責を引き受けられるだろうか」。

杜さんは、花蓮慈済病院の初代院長、杜詩綿(ドゥ・スーミエン)医師の夫人である。皆は敬意を込めて「杜ママ」と呼んでいる。日本と台湾の間を頻繁に行き来していた彼女は、時には日本に見学に行く慈済志業体の人員に同行し、また、静思精舎を訪問する日本人に付き添うこともあった。

当時の慈済日本支部は、東京に設立して間もなかったが、事故に遭ったり病気になったりした台湾人旅行者を支援するだけでなく、定期的に路上生活者のケアも行っていた。杜さんが、ボランティアの活動記録と慈済志業の紹介を日本語に翻訳したことを報告した時、證厳法師は、日本語の刊行物があれば、日本の人々に慈済を紹介するのに便利ではないだろうかと提案した。「日本の人は文庫本に慣れており、ポケットに入れて、いつでもどこでも読んでいます」。すると證厳法師は、「では、どうやって小さいサイズにすればいいかを考えてください」と指示した。杜さんは、その時初めて證厳法師の意図に気付いた。法師は、その役目を自分に引き受けてほしいと言っているのだった。
 
それは一九九六年のことだった。彼女は七十歳で、どこから始めたら良いのか、全く見当がつかなかった。ただ、おぼろげに覚えているのは、それから間もなくして羅美麗(ロー・メイリー)さんと陳靖蜜(チェン・ジンミー)さん、そして三宅教子さんも参加してくれるようになったということだ。「彼女たちがどのようにして現れたのかは覚えていないのですが、その時はとても嬉しかったです。必要な時に、必要な人が来てくれたのです」と彼女は首を傾げながら、微笑んで言った。

「どうやって始めたらよいかと悩んでいたところへ、彼女たちはまるで菩薩のように現れたのです。皆、日本語の基礎がしっかりしていました。特に三宅先生は日本人なので、私たちを指導するには最もふさわしい方でした」。彼女たちを主力として、一九九六年五月十五日、日本語版月刊誌『慈済ものがたり』の創刊号が発行された。

日本語版月刊誌『慈済ものがたり』は、32折り(B6)判、112ページでポケットサイズである。(撮影・陳忠華)

プロとアマチュアが協力し合う

最初の日本語ボランティアチーム(以下、日本語組)の勉強会は、台北市忠孝東路にある旧慈済台北支部の応接間だった。皆、最新号の月刊誌『慈済』と、隔週発行の新聞『慈済道侶』から、最適な記事を選んで翻訳した。その内容は主に證厳法師の開示、慈済の活動内容、ボランティアの体験談などだった。

杜さんは、自分は日本で育ったので、中国語の基礎が弱く、最初の頃、分からない時は娘さんに聞くか、辞書でその意味を調べなければならなかったと語った。幸いなことに、羅さんと陳さんの協力のもとに、三人で互いに原稿を校正し合い、最後に三宅先生に直してもらったそうだ。

羅さんと陳さんは、慈済に出会ってから、自主的に日本語組に参加した。そして、創刊号の少し前から会社の経営者であった陳植英(チェン・ヅーイン)氏が参加するようになり、第二号から正式なメンバーになった。一九九二年に日本語版『静思語』出版の際の協力者だった陳絢暉(チェン・シュエンフェイ)氏は、このプロジェクトに多くの提案をしてくれた。三宅先生が仕事の関係で『慈済ものがたり』の編集に専念できなくなったので、山田智美さんを推薦してくれたのも彼だった。日本大学中国語学科を卒業した山田先生は中国語が堪能で、他の人との交流も全く問題なかった。彼女は原稿の校正と編集職員になった。その後、子供の教育のために日本に帰国した後も、毎月の原稿の校閲作業を続けてくれた。

日本語組に参加する人が増えるにつれ、プロ編集者の協力も得られるようになったことで、翻訳の質も量も段々と向上した。公務員を退職した高碧娥(ガオ・ビーオー)さんは、当時、日本語のタイピングができる数少ないボランティアの一人で、全員の手書きの原稿を持ち帰ってタイプしていた。すでに七十歳になっていた杜さんも、娘さんに教えてもらいながら、ワープロの操作と入力を学び始めた。

原稿は山田さんがリモートで校閲をしてくれているとはいえ、毎週火曜日の勉強会での翻訳学習は、誰が主導したら良いのだろうか?日本語組では年長者が一時的にこの重責を引き受け、黒川章子先生が登場するまで交代で教壇に上がって指導した。

杜さんは、「黒川先生は台湾に嫁いだ日本人です。皆に翻訳の指導をしてくださるだけでなく、月刊誌の校正もしてくださいます。彼女は本当に頑張ってくれていて、大変だと思います。感謝を申し上げたいです」と言った。

日本語組の先生役は、三宅さん、山田さん、黒川さん以外にもう一人、日本天理大学の金子昭教授も引き受けてくださったことがある。金子先生は台湾に滞在した三カ月の間、日本語組を指導しただけでなく、慈済の研究にも投入し、さらに『驚異の仏教ボランティア──台湾の社会参画仏教「慈済会」』を著し、彼が理解していた慈済を紹介した。

「金子先生の推薦で、多くの日本の学識者や団体が、慈済を理解しようと台湾に来るようになりました。先生の本は、慈済を理解しようとしていた日本の人にとても大きな影響を与えたと思います」と黒川さんが言った。

日本語版月刊誌『慈済ものがたり』の勉強会は、毎週火曜日に行われ、先輩が後輩を導いて、一字一句吟味しながら校閲した。(撮影・林鳳琪)

翻訳を通して仏教の世界に触れる

創刊当時の頃を振り返り、杜ママは、證厳法師と人文志業の王端正(ワン・ダンヅン)執行長から「日本語月刊誌を引き受けて、ストレスになっていないですか」とよく尋ねられたことを思い出した。その実、ストレスに思ったのは最初だけで、新たなチャレンジに直面しながらも、ボランティアたちは皆、楽しく勉強し、毎月の出版の前は、逆に無私の喜びを感じるようになった。

二〇〇五年には、慈済人文志業センターが関渡に移転し、日本語組勉強会の場所も引っ越した。多くのメンバーにとっては前より少し遠くなったが、それでも互いに切磋琢磨する機会を大切にしている。二、三十年が経過するうちに、髪の色がグレーからシルバーになった人もいれば、若い世代が参入してくれる一方、もちろん、先にこの世を去る人もいた。変わらないのは、謙虚で礼儀正しい気質、翻訳文を議論する熱心さ、そして勤勉でエネルギッシュな活力である。

彼らが一緒に耕してきた成果は、『慈済ものがたり』を定期的に発行してきたことだけでなく、日本からの訪問者の案内、解説などの任務にも現れていた。そして「杜ママ」は、六十八歳から始まって今、九十八歳になっても、常に頑張り続けているのだ。彼女こそが日本語組の生きた歴史であり、精神的なガイドでもある。「この機会を与えてくださった證厳法師にとても感謝しています。そしてパートナーたちのサポートにも、感謝以外に適切な言葉が見つかりません」。

一人の主婦から翻訳者になった彼女はこう語った。

「以前の私は、仏門の外でぼんやり立っているだけでしたが、日本語版月刊誌がその扉を開いてくれました。おかげさまで、一歩一歩仏教の境地に入るに従って、やっと仏様にお会いできた喜びを感じました」。

(慈済月刊六九二期より)

心した翻訳

日本語版月刊誌『慈済ものがたり』の翻訳ボランティア群像

作者:呉惠晶
出版:慈済伝播人文志業基金会
コールセンター:+886-28989000 内線 2145

「慈済道侶檀施会」への入会を歓迎します。
毎年1200元(約6000円)の寄付で、二カ月ごとに良い本を贈呈。

(撮影・蕭耀華)

二十七年間、日本語版の月刊誌『慈済ものがたり』は毎月欠かすことなく発行されてきた。裏方の翻訳ボランティアたちが、一筋に行って来た奉仕によるものである。

毎週集まって校正校閲し、互いに日本語力を磨き、慈済の善い行いを日本の読者に紹介している。

ものがたりの始まりは「日本語版の月刊誌を作ってください」。證厳法師が杜張瑤珍(ドゥ・ヅァンヤオヅン)さんにこう指示した時、彼女はただ呆然とするだけだった。「私はただの主婦なのに、出版物の刊行という重責を引き受けられるだろうか」。

杜さんは、花蓮慈済病院の初代院長、杜詩綿(ドゥ・スーミエン)医師の夫人である。皆は敬意を込めて「杜ママ」と呼んでいる。日本と台湾の間を頻繁に行き来していた彼女は、時には日本に見学に行く慈済志業体の人員に同行し、また、静思精舎を訪問する日本人に付き添うこともあった。

当時の慈済日本支部は、東京に設立して間もなかったが、事故に遭ったり病気になったりした台湾人旅行者を支援するだけでなく、定期的に路上生活者のケアも行っていた。杜さんが、ボランティアの活動記録と慈済志業の紹介を日本語に翻訳したことを報告した時、證厳法師は、日本語の刊行物があれば、日本の人々に慈済を紹介するのに便利ではないだろうかと提案した。「日本の人は文庫本に慣れており、ポケットに入れて、いつでもどこでも読んでいます」。すると證厳法師は、「では、どうやって小さいサイズにすればいいかを考えてください」と指示した。杜さんは、その時初めて證厳法師の意図に気付いた。法師は、その役目を自分に引き受けてほしいと言っているのだった。
 
それは一九九六年のことだった。彼女は七十歳で、どこから始めたら良いのか、全く見当がつかなかった。ただ、おぼろげに覚えているのは、それから間もなくして羅美麗(ロー・メイリー)さんと陳靖蜜(チェン・ジンミー)さん、そして三宅教子さんも参加してくれるようになったということだ。「彼女たちがどのようにして現れたのかは覚えていないのですが、その時はとても嬉しかったです。必要な時に、必要な人が来てくれたのです」と彼女は首を傾げながら、微笑んで言った。

「どうやって始めたらよいかと悩んでいたところへ、彼女たちはまるで菩薩のように現れたのです。皆、日本語の基礎がしっかりしていました。特に三宅先生は日本人なので、私たちを指導するには最もふさわしい方でした」。彼女たちを主力として、一九九六年五月十五日、日本語版月刊誌『慈済ものがたり』の創刊号が発行された。

日本語版月刊誌『慈済ものがたり』は、32折り(B6)判、112ページでポケットサイズである。(撮影・陳忠華)

プロとアマチュアが協力し合う

最初の日本語ボランティアチーム(以下、日本語組)の勉強会は、台北市忠孝東路にある旧慈済台北支部の応接間だった。皆、最新号の月刊誌『慈済』と、隔週発行の新聞『慈済道侶』から、最適な記事を選んで翻訳した。その内容は主に證厳法師の開示、慈済の活動内容、ボランティアの体験談などだった。

杜さんは、自分は日本で育ったので、中国語の基礎が弱く、最初の頃、分からない時は娘さんに聞くか、辞書でその意味を調べなければならなかったと語った。幸いなことに、羅さんと陳さんの協力のもとに、三人で互いに原稿を校正し合い、最後に三宅先生に直してもらったそうだ。

羅さんと陳さんは、慈済に出会ってから、自主的に日本語組に参加した。そして、創刊号の少し前から会社の経営者であった陳植英(チェン・ヅーイン)氏が参加するようになり、第二号から正式なメンバーになった。一九九二年に日本語版『静思語』出版の際の協力者だった陳絢暉(チェン・シュエンフェイ)氏は、このプロジェクトに多くの提案をしてくれた。三宅先生が仕事の関係で『慈済ものがたり』の編集に専念できなくなったので、山田智美さんを推薦してくれたのも彼だった。日本大学中国語学科を卒業した山田先生は中国語が堪能で、他の人との交流も全く問題なかった。彼女は原稿の校正と編集職員になった。その後、子供の教育のために日本に帰国した後も、毎月の原稿の校閲作業を続けてくれた。

日本語組に参加する人が増えるにつれ、プロ編集者の協力も得られるようになったことで、翻訳の質も量も段々と向上した。公務員を退職した高碧娥(ガオ・ビーオー)さんは、当時、日本語のタイピングができる数少ないボランティアの一人で、全員の手書きの原稿を持ち帰ってタイプしていた。すでに七十歳になっていた杜さんも、娘さんに教えてもらいながら、ワープロの操作と入力を学び始めた。

原稿は山田さんがリモートで校閲をしてくれているとはいえ、毎週火曜日の勉強会での翻訳学習は、誰が主導したら良いのだろうか?日本語組では年長者が一時的にこの重責を引き受け、黒川章子先生が登場するまで交代で教壇に上がって指導した。

杜さんは、「黒川先生は台湾に嫁いだ日本人です。皆に翻訳の指導をしてくださるだけでなく、月刊誌の校正もしてくださいます。彼女は本当に頑張ってくれていて、大変だと思います。感謝を申し上げたいです」と言った。

日本語組の先生役は、三宅さん、山田さん、黒川さん以外にもう一人、日本天理大学の金子昭教授も引き受けてくださったことがある。金子先生は台湾に滞在した三カ月の間、日本語組を指導しただけでなく、慈済の研究にも投入し、さらに『驚異の仏教ボランティア──台湾の社会参画仏教「慈済会」』を著し、彼が理解していた慈済を紹介した。

「金子先生の推薦で、多くの日本の学識者や団体が、慈済を理解しようと台湾に来るようになりました。先生の本は、慈済を理解しようとしていた日本の人にとても大きな影響を与えたと思います」と黒川さんが言った。

日本語版月刊誌『慈済ものがたり』の勉強会は、毎週火曜日に行われ、先輩が後輩を導いて、一字一句吟味しながら校閲した。(撮影・林鳳琪)

翻訳を通して仏教の世界に触れる

創刊当時の頃を振り返り、杜ママは、證厳法師と人文志業の王端正(ワン・ダンヅン)執行長から「日本語月刊誌を引き受けて、ストレスになっていないですか」とよく尋ねられたことを思い出した。その実、ストレスに思ったのは最初だけで、新たなチャレンジに直面しながらも、ボランティアたちは皆、楽しく勉強し、毎月の出版の前は、逆に無私の喜びを感じるようになった。

二〇〇五年には、慈済人文志業センターが関渡に移転し、日本語組勉強会の場所も引っ越した。多くのメンバーにとっては前より少し遠くなったが、それでも互いに切磋琢磨する機会を大切にしている。二、三十年が経過するうちに、髪の色がグレーからシルバーになった人もいれば、若い世代が参入してくれる一方、もちろん、先にこの世を去る人もいた。変わらないのは、謙虚で礼儀正しい気質、翻訳文を議論する熱心さ、そして勤勉でエネルギッシュな活力である。

彼らが一緒に耕してきた成果は、『慈済ものがたり』を定期的に発行してきたことだけでなく、日本からの訪問者の案内、解説などの任務にも現れていた。そして「杜ママ」は、六十八歳から始まって今、九十八歳になっても、常に頑張り続けているのだ。彼女こそが日本語組の生きた歴史であり、精神的なガイドでもある。「この機会を与えてくださった證厳法師にとても感謝しています。そしてパートナーたちのサポートにも、感謝以外に適切な言葉が見つかりません」。

一人の主婦から翻訳者になった彼女はこう語った。

「以前の私は、仏門の外でぼんやり立っているだけでしたが、日本語版月刊誌がその扉を開いてくれました。おかげさまで、一歩一歩仏教の境地に入るに従って、やっと仏様にお会いできた喜びを感じました」。

(慈済月刊六九二期より)

心した翻訳

日本語版月刊誌『慈済ものがたり』の翻訳ボランティア群像

作者:呉惠晶
出版:慈済伝播人文志業基金会
コールセンター:+886-28989000 内線 2145

「慈済道侶檀施会」への入会を歓迎します。
毎年1200元(約6000円)の寄付で、二カ月ごとに良い本を贈呈。

關鍵字

Mother and Daughter—Together in Giving

By Zhang Li-yun
Edited and translated by Wu Hsiao-ting
Photos by Yan Lin-zhao

Chen Lin Shui-jin, though 102 years old, continues to find joy in helping others and working diligently. Her resilience, diligence, and generous spirit have been passed down to her daughter Qia.

Mother and daughter, Chen Lin Shui-jin and Chen Qia, are hardworking, resilient, and share a generous spirit.

Chen Lin Shui-jin’s (陳林水錦) century-long life has been marked by tireless hard work. Born into a farming family in the mountains of Zhushan Township, Nantou County, central Taiwan, she grew up in an era when Taiwan was a relatively impoverished society. In those days, having enough to eat was a blessing, and an education was a luxury beyond reach. Consequently, she never attended school or learned to read.

After marrying, she left the mountains and settled by a waterway, where her husband cultivated water spinach hydroponically. Every morning, around three or four, she would head to the fields in the dark, wading through water to harvest the fresh, tender greens. At daybreak, her husband would take the produce to the market for wholesale.

As their family grew to six, the income from farming and selling water spinach became insufficient to support their household. To make ends meet, her husband started a wood processing factory, and Shui-jin began working there as well. Even after their children grew up and she no longer needed to help support the family, she couldn’t sit idle. She began collecting discarded cardboard and scrap metal to sell, earning a small income for herself. Her daughter Chen Qia (陳洽), who ran a general store in Zhushan, readily gave her the shop’s used boxes.

In the early 2000s, Qia suggested, “Those cardboard boxes don’t bring much money. Why not donate them to Tzu Chi?” Moved by the suggestion, Shui-jin agreed without hesitation, turning her recycling efforts into a meaningful contribution. She even made up the difference herself when the proceeds fell short of a thousand Taiwanese dollars (US$33).

For a time, Shui-jin volunteered at the Tzu Chi Zhushan Recycling Station on Wednesdays and Saturdays. But at home, she remained restless. Over time, signs of memory decline emerged, leaving her confused over simple things. For example, she would often pick up fruits from the table, squeeze them, and ask, “What is this?” Her daughter-in-law, who lived with her, discussed the situation with Qia. Hoping to slow her cognitive decline, they arranged for her to attend a Tzu Chi senior day care center on weekdays. On Saturdays, she continued volunteering at the recycling station.

Now over a hundred years old, Shui-jin continues to work with remarkable precision at the recycling station. She sorts bottles with accuracy and folds newspapers neatly. Qia noted her mother’s deep devotion to recycling. Though Shui-jin may not understand complex philosophies or know how to read, her simple wisdom and heartfelt desire to help others shine through in her words: “Recycling is great—the proceeds can be used for charitable purposes.”

In this childhood photograph, Qia (second from left) nestles against her mother, Shui-jin (third from left). Courtesy of Chen Qia

Willingly repaying her karmic debt

Chen Qia was born in 1953. She remembers helping her father at the wood processing factory even as a young elementary school student. She assisted with tasks like moving lumber, which was turned into everyday items such as clothes hangers, rice spatulas, and spoons. She shared that her father had suffered a severe burn on his right hand in an oil lamp accident during his childhood. The injury required treatment at Camillian Saint Mary’s Hospital Luodong. The hospital, aware of the family’s financial struggles, waived the medical expenses. While her father recovered, four fingers on his injured hand eventually atrophied. In the end, only his thumb remained functional. Undeterred by this disability, he continued to develop new products for the factory, including bamboo fruit baskets, plates, and handbags for export.

Before her marriage, Qia was her father’s right-hand helper, skillfully balancing factory work and household tasks. These experiences shaped her into a hardworking and resilient person, like her mother. These qualities became vital when her life took a new direction after marriage, when she took on the demanding role of caring for her elderly father-in-law and two mothers-in-law. (It was not uncommon for men of earlier generations to practice polygamy.) These caregiving responsibilities made it impossible for her to continue to assist her father at the factory. Around the same time, Taiwan’s rising labor costs and increased global competition led many factories to relocate overseas. Consequently, her family decided to close the factory and open a mom-and-pop store instead.

In 1998, Qia found herself caught in a financial crisis when a member of a private credit group she managed misappropriated funds and disappeared, causing the group to collapse. She told her husband, “I’m the head of this credit group. I can’t betray the trust of those involved. I’ll find a way to fix this. Money can be earned again, and if I work hard, we’ll get through this.” Determined to protect others from the fallout, she took full responsibility for the debts and vowed to repay them. She seized every opportunity to earn money, sacrificing sleep and enduring physical exhaustion to meet her goals.

Her challenges intensified in September 1999, when a massive earthquake struck central Taiwan, devastating Zhushan Township. The earthquake damaged her store and warehouse, leaving goods scattered in disarray across the floor. It took nearly two months to restore order. The strain of repair costs, combined with her existing debts, left her feeling overwhelmed.

Life’s trials didn’t stop there. In 1998, her father-in-law passed away. After that, her older mother-in-law lost her sense of purpose and gradually developed dementia. Then her younger mother-in-law began showing similar symptoms. For over a decade, Qia and her sister-in-law took turns caring for them. Despite these challenges, Qia remained committed to giving back to society. She continued her long-term financial support for the Taiwan Fund for Children and Families, a nonprofit that aids vulnerable children and families. Grateful for the care her father had received years earlier, she also made regular donations to Saint Mary’s Hospital. In addition, she became a Tzu Chi donating member through a recommendation from Xie Jin-mu (謝金木), a wholesaler in southern Taiwan.

One day, Tzu Chi volunteer You Shu-juan (尤淑娟) visited her store and noticed a portrait of Dharma Master Cheng Yen on the wall. Curious about the portrait, You asked about it, and Qia explained that it had been a gift from Xie Jin-mu. The two women quickly bonded, and Qia shared the burdens of her debts and family responsibilities, expressing her frustrations. You offered gentle guidance: “Master Cheng Yen teaches that this is ‘shared karma.’ If you accept and repay karmic debts willingly, you’ll get a discount; if you resist, you’ll pay double. It’s not worth it.” She urged Qia to face her challenges with a positive mindset, reminding her that resistance only deepens suffering.

You also urged her to open her heart: “There are others who suffer even more than you. By focusing less on your difficulties, you’ll feel lighter.” She suggested that Qia inspire goodness in her customers, encouraging them to contribute to worthy causes to help those in need.

You’s words resonated deeply with Qia, sparking a shift in her mindset. From that point on, whenever she felt frustrated or down, she reminded herself to shift her perspective from negativity to positivity. Gradually, she found greater peace of mind. In addition to managing her store, she began volunteering with Tzu Chi, collecting recyclables to support the foundation’s recycling efforts.

Shui-jin, 102, expertly sorts recyclables, placing each item in its designated basket.

Putting oneself to good use

After closing her store in the evenings, Chen Qia and her neighbor would each grab a large plastic bag and take a walk along a local road, collecting recyclables as they went. The evening market proved to be a goldmine, with cardboard boxes, bottles, and cans scattered everywhere, waiting to be collected. By the end of the night, their haul would create a small mountain of recyclables in Qia’s family’s unused factory, giving her mother something productive to do the next morning.

This was in the early 2000s, and Shui-jin, then in her 70s, was still very agile. She would quickly and efficiently sort the paper, metal cans, and plastic bottles. Once everything was organized, she would call her daughter, and no matter how busy Qia was at her store, she’d say, “Hurry up and take the sorted recyclables to the recycling station!” or “Quickly bring more recyclables back so I can sort them!”

Qia often encouraged her mother to volunteer at a local Tzu Chi recycling station, but Shui-jin hesitated and frequently made excuses not to do so. She didn’t know any of the volunteers and was concerned about feeling out of place. However, when she finally visited the station one day, she was greeted warmly by the volunteers there and quickly enjoyed the lively atmosphere. Turning to her daughter, she exclaimed, “Why didn’t you bring me here sooner?” From that day on, she went every day. On occasions when Qia was too busy to drive her, she would complain, “I’m so bored at home! So bored!”

Because Shui-jin had spent long hours in the fields picking water spinach and soaking her feet in the water when she was younger, she often struggled with swollen feet in her later years, which kept her awake at night. Sometimes, she would get up in the middle of the night and walk around to reduce the swelling before finally managing to fall back asleep. Her reliance on sleeping pills grew, and her memory began to fade. Even after taking her pills with dinner, she would ask for more before bed. However, after she started volunteering at the recycling station, she began to fall asleep more easily, and over time, her dependence on sleeping pills greatly decreased.

The most trying but also happy times

Chen Qia inherited not only her mother’s diligence and resilience but also her generosity. Shui-jin consistently donates money to help whenever she hears of someone in need. When impoverished people pass away, she covers the cost of their coffins. Qia said, “Children are often encouraged to perform good deeds to accumulate spiritual merits for their parents, but I believe my mother has already earned countless blessings through her own actions.”

Qia’s father passed away at 89. She feels fortunate that she didn’t marry far from home, as it has enabled her to care for her mother. Her greatest joy has been introducing her mother to Tzu Chi, allowing them to work together as recycling volunteers. Qia has endured some of the most difficult times of her life over the past 20-plus years, yet she remains confident that she has made the most meaningful choices.

Giving has become second nature to her. Despite injuring her right hand while moving recyclables and undergoing three surgeries to treat trigger finger in her left hand, she never hesitates to respond to calls for recycling collections, regardless of the volume or weight of the materials. She approaches the work with gratitude, growing stronger with each challenge and feeling fulfilled through her service. “Recycling feels like my second career,” remarked Qia. “Even if I work as hard as an ox every day, I see it as a form of spiritual practice. I willingly take on these tasks and complete them with a contented heart.”

The thought of retirement has never crossed her mind. She deeply appreciates her husband’s unwavering support, which has been a source of strength. “Tzu Chi is already a part of my life—an essential aspect of who I am,” she affirmed.

Through their shared commitment to recycling and steadfast dedication to helping others, the mother and daughter have not only enriched their own lives but have also left an indelible mark on this Earth. Together, they have found joy in their work—not driven by material rewards, but for the peace and purpose it brings.

By Zhang Li-yun
Edited and translated by Wu Hsiao-ting
Photos by Yan Lin-zhao

Chen Lin Shui-jin, though 102 years old, continues to find joy in helping others and working diligently. Her resilience, diligence, and generous spirit have been passed down to her daughter Qia.

Mother and daughter, Chen Lin Shui-jin and Chen Qia, are hardworking, resilient, and share a generous spirit.

Chen Lin Shui-jin’s (陳林水錦) century-long life has been marked by tireless hard work. Born into a farming family in the mountains of Zhushan Township, Nantou County, central Taiwan, she grew up in an era when Taiwan was a relatively impoverished society. In those days, having enough to eat was a blessing, and an education was a luxury beyond reach. Consequently, she never attended school or learned to read.

After marrying, she left the mountains and settled by a waterway, where her husband cultivated water spinach hydroponically. Every morning, around three or four, she would head to the fields in the dark, wading through water to harvest the fresh, tender greens. At daybreak, her husband would take the produce to the market for wholesale.

As their family grew to six, the income from farming and selling water spinach became insufficient to support their household. To make ends meet, her husband started a wood processing factory, and Shui-jin began working there as well. Even after their children grew up and she no longer needed to help support the family, she couldn’t sit idle. She began collecting discarded cardboard and scrap metal to sell, earning a small income for herself. Her daughter Chen Qia (陳洽), who ran a general store in Zhushan, readily gave her the shop’s used boxes.

In the early 2000s, Qia suggested, “Those cardboard boxes don’t bring much money. Why not donate them to Tzu Chi?” Moved by the suggestion, Shui-jin agreed without hesitation, turning her recycling efforts into a meaningful contribution. She even made up the difference herself when the proceeds fell short of a thousand Taiwanese dollars (US$33).

For a time, Shui-jin volunteered at the Tzu Chi Zhushan Recycling Station on Wednesdays and Saturdays. But at home, she remained restless. Over time, signs of memory decline emerged, leaving her confused over simple things. For example, she would often pick up fruits from the table, squeeze them, and ask, “What is this?” Her daughter-in-law, who lived with her, discussed the situation with Qia. Hoping to slow her cognitive decline, they arranged for her to attend a Tzu Chi senior day care center on weekdays. On Saturdays, she continued volunteering at the recycling station.

Now over a hundred years old, Shui-jin continues to work with remarkable precision at the recycling station. She sorts bottles with accuracy and folds newspapers neatly. Qia noted her mother’s deep devotion to recycling. Though Shui-jin may not understand complex philosophies or know how to read, her simple wisdom and heartfelt desire to help others shine through in her words: “Recycling is great—the proceeds can be used for charitable purposes.”

In this childhood photograph, Qia (second from left) nestles against her mother, Shui-jin (third from left). Courtesy of Chen Qia

Willingly repaying her karmic debt

Chen Qia was born in 1953. She remembers helping her father at the wood processing factory even as a young elementary school student. She assisted with tasks like moving lumber, which was turned into everyday items such as clothes hangers, rice spatulas, and spoons. She shared that her father had suffered a severe burn on his right hand in an oil lamp accident during his childhood. The injury required treatment at Camillian Saint Mary’s Hospital Luodong. The hospital, aware of the family’s financial struggles, waived the medical expenses. While her father recovered, four fingers on his injured hand eventually atrophied. In the end, only his thumb remained functional. Undeterred by this disability, he continued to develop new products for the factory, including bamboo fruit baskets, plates, and handbags for export.

Before her marriage, Qia was her father’s right-hand helper, skillfully balancing factory work and household tasks. These experiences shaped her into a hardworking and resilient person, like her mother. These qualities became vital when her life took a new direction after marriage, when she took on the demanding role of caring for her elderly father-in-law and two mothers-in-law. (It was not uncommon for men of earlier generations to practice polygamy.) These caregiving responsibilities made it impossible for her to continue to assist her father at the factory. Around the same time, Taiwan’s rising labor costs and increased global competition led many factories to relocate overseas. Consequently, her family decided to close the factory and open a mom-and-pop store instead.

In 1998, Qia found herself caught in a financial crisis when a member of a private credit group she managed misappropriated funds and disappeared, causing the group to collapse. She told her husband, “I’m the head of this credit group. I can’t betray the trust of those involved. I’ll find a way to fix this. Money can be earned again, and if I work hard, we’ll get through this.” Determined to protect others from the fallout, she took full responsibility for the debts and vowed to repay them. She seized every opportunity to earn money, sacrificing sleep and enduring physical exhaustion to meet her goals.

Her challenges intensified in September 1999, when a massive earthquake struck central Taiwan, devastating Zhushan Township. The earthquake damaged her store and warehouse, leaving goods scattered in disarray across the floor. It took nearly two months to restore order. The strain of repair costs, combined with her existing debts, left her feeling overwhelmed.

Life’s trials didn’t stop there. In 1998, her father-in-law passed away. After that, her older mother-in-law lost her sense of purpose and gradually developed dementia. Then her younger mother-in-law began showing similar symptoms. For over a decade, Qia and her sister-in-law took turns caring for them. Despite these challenges, Qia remained committed to giving back to society. She continued her long-term financial support for the Taiwan Fund for Children and Families, a nonprofit that aids vulnerable children and families. Grateful for the care her father had received years earlier, she also made regular donations to Saint Mary’s Hospital. In addition, she became a Tzu Chi donating member through a recommendation from Xie Jin-mu (謝金木), a wholesaler in southern Taiwan.

One day, Tzu Chi volunteer You Shu-juan (尤淑娟) visited her store and noticed a portrait of Dharma Master Cheng Yen on the wall. Curious about the portrait, You asked about it, and Qia explained that it had been a gift from Xie Jin-mu. The two women quickly bonded, and Qia shared the burdens of her debts and family responsibilities, expressing her frustrations. You offered gentle guidance: “Master Cheng Yen teaches that this is ‘shared karma.’ If you accept and repay karmic debts willingly, you’ll get a discount; if you resist, you’ll pay double. It’s not worth it.” She urged Qia to face her challenges with a positive mindset, reminding her that resistance only deepens suffering.

You also urged her to open her heart: “There are others who suffer even more than you. By focusing less on your difficulties, you’ll feel lighter.” She suggested that Qia inspire goodness in her customers, encouraging them to contribute to worthy causes to help those in need.

You’s words resonated deeply with Qia, sparking a shift in her mindset. From that point on, whenever she felt frustrated or down, she reminded herself to shift her perspective from negativity to positivity. Gradually, she found greater peace of mind. In addition to managing her store, she began volunteering with Tzu Chi, collecting recyclables to support the foundation’s recycling efforts.

Shui-jin, 102, expertly sorts recyclables, placing each item in its designated basket.

Putting oneself to good use

After closing her store in the evenings, Chen Qia and her neighbor would each grab a large plastic bag and take a walk along a local road, collecting recyclables as they went. The evening market proved to be a goldmine, with cardboard boxes, bottles, and cans scattered everywhere, waiting to be collected. By the end of the night, their haul would create a small mountain of recyclables in Qia’s family’s unused factory, giving her mother something productive to do the next morning.

This was in the early 2000s, and Shui-jin, then in her 70s, was still very agile. She would quickly and efficiently sort the paper, metal cans, and plastic bottles. Once everything was organized, she would call her daughter, and no matter how busy Qia was at her store, she’d say, “Hurry up and take the sorted recyclables to the recycling station!” or “Quickly bring more recyclables back so I can sort them!”

Qia often encouraged her mother to volunteer at a local Tzu Chi recycling station, but Shui-jin hesitated and frequently made excuses not to do so. She didn’t know any of the volunteers and was concerned about feeling out of place. However, when she finally visited the station one day, she was greeted warmly by the volunteers there and quickly enjoyed the lively atmosphere. Turning to her daughter, she exclaimed, “Why didn’t you bring me here sooner?” From that day on, she went every day. On occasions when Qia was too busy to drive her, she would complain, “I’m so bored at home! So bored!”

Because Shui-jin had spent long hours in the fields picking water spinach and soaking her feet in the water when she was younger, she often struggled with swollen feet in her later years, which kept her awake at night. Sometimes, she would get up in the middle of the night and walk around to reduce the swelling before finally managing to fall back asleep. Her reliance on sleeping pills grew, and her memory began to fade. Even after taking her pills with dinner, she would ask for more before bed. However, after she started volunteering at the recycling station, she began to fall asleep more easily, and over time, her dependence on sleeping pills greatly decreased.

The most trying but also happy times

Chen Qia inherited not only her mother’s diligence and resilience but also her generosity. Shui-jin consistently donates money to help whenever she hears of someone in need. When impoverished people pass away, she covers the cost of their coffins. Qia said, “Children are often encouraged to perform good deeds to accumulate spiritual merits for their parents, but I believe my mother has already earned countless blessings through her own actions.”

Qia’s father passed away at 89. She feels fortunate that she didn’t marry far from home, as it has enabled her to care for her mother. Her greatest joy has been introducing her mother to Tzu Chi, allowing them to work together as recycling volunteers. Qia has endured some of the most difficult times of her life over the past 20-plus years, yet she remains confident that she has made the most meaningful choices.

Giving has become second nature to her. Despite injuring her right hand while moving recyclables and undergoing three surgeries to treat trigger finger in her left hand, she never hesitates to respond to calls for recycling collections, regardless of the volume or weight of the materials. She approaches the work with gratitude, growing stronger with each challenge and feeling fulfilled through her service. “Recycling feels like my second career,” remarked Qia. “Even if I work as hard as an ox every day, I see it as a form of spiritual practice. I willingly take on these tasks and complete them with a contented heart.”

The thought of retirement has never crossed her mind. She deeply appreciates her husband’s unwavering support, which has been a source of strength. “Tzu Chi is already a part of my life—an essential aspect of who I am,” she affirmed.

Through their shared commitment to recycling and steadfast dedication to helping others, the mother and daughter have not only enriched their own lives but have also left an indelible mark on this Earth. Together, they have found joy in their work—not driven by material rewards, but for the peace and purpose it brings.

關鍵字

【視力を救う】白内障手術の後 最も美しい作品を描いた

  • 経過:慈済フィリピン支部の施療活動は一九九五年に始まり﹑これまで延べ三十万人が恩恵を受けた。眼科センタ―の外来には、二〇二三年延べ二万人を超える人が訪れ﹑延べ一万四千人に医薬品が配付され﹑手術の件数は三千例近くに上った。延べ千二十三人の慈済人医会の医師と﹑延べ千五百人余りのボランティアが無償で奉仕をした。

白内障手術の後、コンラドさんは客から依頼された絵画の制作に追われていた。

フィリピン慈済眼科センターは、一月二十三日に珍しいプレゼントを受け取った。それは、七十九歳のコンラド・ペニャモラさんからのもので、二カ月間掛けて描いた二枚の油絵は、彼が視力を取り戻してから初めて創作した作品だった。

「私を助けて下さった全ての皆様に感謝します。特に慈済のお陰で、二〇二三年七月に白内障手術を受けることができました。手術後、多くの人から肖像画の作成を依賴されましたが、私は先ず證厳法師と眼科医の李悦民(リー・ユェミン)先生の肖像画を描くことに決めました。これは、私が描いた中で、最も美しい絵です」。

この三年間、彼は白内障に苦しめられて来た。視力が回復してから自分が当時描いた家族の絵を見ると、極端に色が偏っていることが分かった。今彼はやっと仕事に戻り、以前にはなかった活力を感じている。

フィリピンでは貧富の差が大きく、貧しい人は病気になると医療費を負担するのも難しい。慈済は、一九九四年にフィリピン支部を立ちあげ、翌年から施療活動を始めた。二〇〇七年には、マニラの志業パークに施療センターをオープンした。膨大な数の患者が訪れる眼科外来は、二〇一六年にソフトウェアとハードウェアを買い足し、正式に眼科センターをオープンした。慈済人医会の医療スタッフがそこでボランティアとしてシフト制で診察にあたり、更に各地に赴いて眼科の施療を行っている。

眼科センターは、週に平均延べ七百人を診察している。患者が手遅れで失明することによって生計に深刻な影響が出ないよう、患者に無償の検査や手術を行っている。今年二月には、ラモン・マグサイサイ賞基金会(RMAF)の変革統率学院と協力して大規模な施療活動を行った。基金会のスーザン・アヴァン総裁は、「慈済には優秀なボランティアがいて、手術や術後の経過観察のためのマニュアルまで作ってくれただけでなく、指導と経験の分かち合いもしてくれました」と言った。

アジアのノーベル賞とも呼ばれるマグサイサイ賞を、證厳法師は一九九一年に受賞した。今回の二日間の施療では、十二人のフィリピン慈済人医会の医師が、二〇二二年マグサイサイ賞を受賞した服部匤志医師と共に白内障の手術を行い、二百人余りの貧しい患者の目に光明を取り戻した。

午前三時、まだ空が暗いうちの慈済眼科センターには、すでに家族に付き添われた患者が待っていた。その日は彼らにとって大切な日であった。

五十六歳のエステラさんは、夫婦が前後して白内障に罹り、失業してしまった。彼女は既に全く見えなくなっていて、孫のマシュウさんの手にすがって、階段の上り下りをしていた。一家は既に生活が困難になっていたので、白内障の手術費を負担する余裕はなかった。

昨年、エステラさんが慈済眼科センターヘ検査に訪れた時、彼女の病気は病院で検査する必要があったことが分かったが、彼女は再診に訪れなかった。今年二月ボランティアは、眼科センターで検査した後、急いで手術する必要がある患者と一人ずつと連絡を取り、手術は無料であること、内科医による手術前の判断の説明もあることを伝えた。エステラさん親娘はそれを聞いて、嬉しさのあまり飛び上がった。

白内障の障害が取り除かれた後、エステラさんは、かなり歳をとってしまった夫の顔を、もう少しで見分けられないところだった。彼女は孫のマシュウさんに向かって涙を流さずにはいられなかった。「お前の顔が見えるよ」。手術室の外で患者と家族が泣いたり笑ったりして、改めて家族が団欒の機会を得た。

(慈済月刊六八九期より)

  • 経過:慈済フィリピン支部の施療活動は一九九五年に始まり﹑これまで延べ三十万人が恩恵を受けた。眼科センタ―の外来には、二〇二三年延べ二万人を超える人が訪れ﹑延べ一万四千人に医薬品が配付され﹑手術の件数は三千例近くに上った。延べ千二十三人の慈済人医会の医師と﹑延べ千五百人余りのボランティアが無償で奉仕をした。

白内障手術の後、コンラドさんは客から依頼された絵画の制作に追われていた。

フィリピン慈済眼科センターは、一月二十三日に珍しいプレゼントを受け取った。それは、七十九歳のコンラド・ペニャモラさんからのもので、二カ月間掛けて描いた二枚の油絵は、彼が視力を取り戻してから初めて創作した作品だった。

「私を助けて下さった全ての皆様に感謝します。特に慈済のお陰で、二〇二三年七月に白内障手術を受けることができました。手術後、多くの人から肖像画の作成を依賴されましたが、私は先ず證厳法師と眼科医の李悦民(リー・ユェミン)先生の肖像画を描くことに決めました。これは、私が描いた中で、最も美しい絵です」。

この三年間、彼は白内障に苦しめられて来た。視力が回復してから自分が当時描いた家族の絵を見ると、極端に色が偏っていることが分かった。今彼はやっと仕事に戻り、以前にはなかった活力を感じている。

フィリピンでは貧富の差が大きく、貧しい人は病気になると医療費を負担するのも難しい。慈済は、一九九四年にフィリピン支部を立ちあげ、翌年から施療活動を始めた。二〇〇七年には、マニラの志業パークに施療センターをオープンした。膨大な数の患者が訪れる眼科外来は、二〇一六年にソフトウェアとハードウェアを買い足し、正式に眼科センターをオープンした。慈済人医会の医療スタッフがそこでボランティアとしてシフト制で診察にあたり、更に各地に赴いて眼科の施療を行っている。

眼科センターは、週に平均延べ七百人を診察している。患者が手遅れで失明することによって生計に深刻な影響が出ないよう、患者に無償の検査や手術を行っている。今年二月には、ラモン・マグサイサイ賞基金会(RMAF)の変革統率学院と協力して大規模な施療活動を行った。基金会のスーザン・アヴァン総裁は、「慈済には優秀なボランティアがいて、手術や術後の経過観察のためのマニュアルまで作ってくれただけでなく、指導と経験の分かち合いもしてくれました」と言った。

アジアのノーベル賞とも呼ばれるマグサイサイ賞を、證厳法師は一九九一年に受賞した。今回の二日間の施療では、十二人のフィリピン慈済人医会の医師が、二〇二二年マグサイサイ賞を受賞した服部匤志医師と共に白内障の手術を行い、二百人余りの貧しい患者の目に光明を取り戻した。

午前三時、まだ空が暗いうちの慈済眼科センターには、すでに家族に付き添われた患者が待っていた。その日は彼らにとって大切な日であった。

五十六歳のエステラさんは、夫婦が前後して白内障に罹り、失業してしまった。彼女は既に全く見えなくなっていて、孫のマシュウさんの手にすがって、階段の上り下りをしていた。一家は既に生活が困難になっていたので、白内障の手術費を負担する余裕はなかった。

昨年、エステラさんが慈済眼科センターヘ検査に訪れた時、彼女の病気は病院で検査する必要があったことが分かったが、彼女は再診に訪れなかった。今年二月ボランティアは、眼科センターで検査した後、急いで手術する必要がある患者と一人ずつと連絡を取り、手術は無料であること、内科医による手術前の判断の説明もあることを伝えた。エステラさん親娘はそれを聞いて、嬉しさのあまり飛び上がった。

白内障の障害が取り除かれた後、エステラさんは、かなり歳をとってしまった夫の顔を、もう少しで見分けられないところだった。彼女は孫のマシュウさんに向かって涙を流さずにはいられなかった。「お前の顔が見えるよ」。手術室の外で患者と家族が泣いたり笑ったりして、改めて家族が団欒の機会を得た。

(慈済月刊六八九期より)

關鍵字

小学一年の新入生 学校は面白い所

問:

子供が幼稚園から小学校に上がり、始業からしばらく経ってもなお学校に行きたくないと言う場合、どう導いたらいいでしょうか。

答:登校したくない子供は、それぞれの理由を持っていますから、保護者と先生の助けが必要です。

良き友人のHさんのお孫さんは、今年小学校に上がりましたが、每朝登校する時はいつも、泣きながら両親とお爺さん、お婆さんと「おおげさな別れ」をするそうです。その理由は登校したくないからです。

家族全員が心を砕いて「おおげさな別れ」を演じながら、むせび泣く子供にどうして学校に行きたくないのか尋ねました。子供も理由が答えられませんでした。そんな中、担任の先生からいくつか重要なキーワードを聞きました。

前もって準備する

先生はこう言いました。

「学校が始まる前に時間のある時や休みの日に、お子さんを連れて学校の滑り台で遊んだり、一年生の教室を見せたりするといいと思います。もし、教室の扉が開いていれば、中に入って座ってみましょう。そして、ここがこれから通う学校ですよ。新しい先生やクラスメートに会ったり、色んな授業や団体活動があったりするのよ、と子供に話してあげましょう」。

「每日登校する時、お子さんと約束しましょう。お昼十二時の下校時間になったら、お爺さんかお母さんが迎えに行くこと、午後は宿題を書き終えたら、あなたを連れて公園へ遊びにいくこと、これでいいですね、と約束します」。

また、「初めは親と離れることで泣くお子さんが少なくありませんが、暫くすれば、環境にも先生やクラスメートにも馴染んで泣かなくなりますから」と先生は付け加えました。

仲間を捜す

我が家の向かいに双子が住んでいます。去年の九月、彼らも小学一年生になりました。每朝七時半きっかりに、手を繋いで歌を歌いながら家を出て、午後四時半には、手を繋いで帰ってきます。彼らが泣きながら学校に行ったとは、聞いたことがありません。

路地の入り口にある退職した校長先生の家にも、小学一年生になる女のお孫さんがいます。每日笑顔で登校し、おおげさな別れをする必要はありません。というのも、隣に四年生の女の子が住んでいて、毎朝彼女と手を繋いで登校してくれるからです。

別れる不安の気持ちを和らげるには、小学校に上がる前から、同じ幼稚園を卒業したクラスメートや近所に住む子供と一緒に登校してもらえば、泣いたり、登校拒否したりすることは減るでしょう。

先生というお母さん

先生は、子供にとって学校でのお母さんです。

小学一年生の子が登校したくない時、その過程においては家族の付き添いの外に、先生が重要な役割を果たします。家から学校まで、家族が送り届ける間はおおげさな別れが続きますが、教室の前に来ると、突然終わるのです。Hさんによると、「とても不思議です!孫の手を先生に渡すと、先生は軽く孫の手を引いて席に座らせてくれます。孫は涙ぐんだままですが、直ちに号泣は止むのです」。

先生の経験と包容力はとても大事です。Hさんのお孫さんは、授業が始まるとよく、一人で教室の隅に立っていましたが、先生は無理矢理、団体のルールに従わせようとはしませんでした。子供の情緒が落ち着くのを待ってから席に連れ戻し、ゆっくり馴染みのない環境になれるようにしていきました。一カ月経った頃、子供は楽しく登校できるようになりました。

小学一年生は、幼稚園に通い、団体生活を経験してはいるのですが、それでも新しい環境、新しい先生、新しいクラスメートを怖がる子もいます。保護者は子供が成長して適応するまで辛抱強く待ち、先生も心を大きく持って新入生を受け入れると良いでしょう。

基本的に、保護者は約束の時間通りに子供を迎えに行き、子供に安心感と信頼感を与えることが大切です。先生は、子供にとって学校でのお母さんだと言えます。小さい子供は、クラスで良い友達ができれば、親と離れる焦燥感はだんだん消えていきます。每日朝日が上ると意気揚々と登校する子供の姿は、夢ではないのです。

(慈済月刊六八九期より)

問:

子供が幼稚園から小学校に上がり、始業からしばらく経ってもなお学校に行きたくないと言う場合、どう導いたらいいでしょうか。

答:登校したくない子供は、それぞれの理由を持っていますから、保護者と先生の助けが必要です。

良き友人のHさんのお孫さんは、今年小学校に上がりましたが、每朝登校する時はいつも、泣きながら両親とお爺さん、お婆さんと「おおげさな別れ」をするそうです。その理由は登校したくないからです。

家族全員が心を砕いて「おおげさな別れ」を演じながら、むせび泣く子供にどうして学校に行きたくないのか尋ねました。子供も理由が答えられませんでした。そんな中、担任の先生からいくつか重要なキーワードを聞きました。

前もって準備する

先生はこう言いました。

「学校が始まる前に時間のある時や休みの日に、お子さんを連れて学校の滑り台で遊んだり、一年生の教室を見せたりするといいと思います。もし、教室の扉が開いていれば、中に入って座ってみましょう。そして、ここがこれから通う学校ですよ。新しい先生やクラスメートに会ったり、色んな授業や団体活動があったりするのよ、と子供に話してあげましょう」。

「每日登校する時、お子さんと約束しましょう。お昼十二時の下校時間になったら、お爺さんかお母さんが迎えに行くこと、午後は宿題を書き終えたら、あなたを連れて公園へ遊びにいくこと、これでいいですね、と約束します」。

また、「初めは親と離れることで泣くお子さんが少なくありませんが、暫くすれば、環境にも先生やクラスメートにも馴染んで泣かなくなりますから」と先生は付け加えました。

仲間を捜す

我が家の向かいに双子が住んでいます。去年の九月、彼らも小学一年生になりました。每朝七時半きっかりに、手を繋いで歌を歌いながら家を出て、午後四時半には、手を繋いで帰ってきます。彼らが泣きながら学校に行ったとは、聞いたことがありません。

路地の入り口にある退職した校長先生の家にも、小学一年生になる女のお孫さんがいます。每日笑顔で登校し、おおげさな別れをする必要はありません。というのも、隣に四年生の女の子が住んでいて、毎朝彼女と手を繋いで登校してくれるからです。

別れる不安の気持ちを和らげるには、小学校に上がる前から、同じ幼稚園を卒業したクラスメートや近所に住む子供と一緒に登校してもらえば、泣いたり、登校拒否したりすることは減るでしょう。

先生というお母さん

先生は、子供にとって学校でのお母さんです。

小学一年生の子が登校したくない時、その過程においては家族の付き添いの外に、先生が重要な役割を果たします。家から学校まで、家族が送り届ける間はおおげさな別れが続きますが、教室の前に来ると、突然終わるのです。Hさんによると、「とても不思議です!孫の手を先生に渡すと、先生は軽く孫の手を引いて席に座らせてくれます。孫は涙ぐんだままですが、直ちに号泣は止むのです」。

先生の経験と包容力はとても大事です。Hさんのお孫さんは、授業が始まるとよく、一人で教室の隅に立っていましたが、先生は無理矢理、団体のルールに従わせようとはしませんでした。子供の情緒が落ち着くのを待ってから席に連れ戻し、ゆっくり馴染みのない環境になれるようにしていきました。一カ月経った頃、子供は楽しく登校できるようになりました。

小学一年生は、幼稚園に通い、団体生活を経験してはいるのですが、それでも新しい環境、新しい先生、新しいクラスメートを怖がる子もいます。保護者は子供が成長して適応するまで辛抱強く待ち、先生も心を大きく持って新入生を受け入れると良いでしょう。

基本的に、保護者は約束の時間通りに子供を迎えに行き、子供に安心感と信頼感を与えることが大切です。先生は、子供にとって学校でのお母さんだと言えます。小さい子供は、クラスで良い友達ができれば、親と離れる焦燥感はだんだん消えていきます。每日朝日が上ると意気揚々と登校する子供の姿は、夢ではないのです。

(慈済月刊六八九期より)

關鍵字

二〇二四年歳末祝福会のテーマ

(撮影・陳宜青 モザンビーク・メクジ大愛農場にて)

正念を以て学びと悟りを勤修し、
精進して菩薩道を歩みましょう。

正念を以て学びと悟りを勤修し、精進して菩薩道を歩みましょう。

(撮影・陳宜青 モザンビーク・メクジ大愛農場にて)

正念を以て学びと悟りを勤修し、
精進して菩薩道を歩みましょう。

正念を以て学びと悟りを勤修し、精進して菩薩道を歩みましょう。

關鍵字

代々受け継いでいく福と慧

慈済とは、善と愛が出会うところであり、一代目の慈済人によって、それが形となって現れました。

人間(じんかん)菩薩を多く招き入れるだけでなく、各自の家族でも善と愛と福で以て家伝とし、代々受け継がれていかなければなりません。

毎年二回にわたって行われる、認証授与式は、十一月二日、歳末祝福会と共に、新竹で今年第一回が行われました。時間が経つのは早いもので、もう直ぐ新年を迎えようとしています。一分一秒は知らず知らずのうちに過ぎて行き、もし、一日に八万六千四百秒もあるのだから、一秒なんて大したことではないと思うならば、滑り台のようにあっという間に時間は過ぎ去ってしまい、人生も過ぎて行き、その価値は失ってしまいます。一分一秒を大切にし、日々すべきことを心して行ってください。

台北から新竹、桃園、台中へと行きますが、到着すると、直ちに目で出席者を確かめています。そして、創設当時のベテラン慈済人が黒髪から白髪になっても、その道心が退いていない姿を見ると、これこそが最も貴いものだと感じます。もちろんその場に来ていない人もあり、心残りもしますが、既にこの世に生まれ変わり、菩薩精神を携えて、慈済人の家庭に来ていると信じています。

感慨深いものは多々ありますが、一方、とても慰められることもあります。なぜなら、仏法が受け継がれて、三世代、四世代が一緒に暮らし、家族全員が善行し、慈済に参加し、子供たちが親の活動に賛成するだけでなく、一緒に奉仕しているからです。曽祖父母、祖父母、そして両親が幼い子を連れ、手に重い貯金箱を抱えて寄付に来ました。これこそが智慧のある教育の賜物と言えます。子供は自分の好きなお菓子への欲求を克服し、そのお金で人助けをするのです。そのような愛を育むことができれば、一家は幸福と智慧に満ちるでしょう。

慈済は、善と愛が出会うところであり、私たちの世代で形となって現れました。第一世代の慈済人は、人間(じんかん)菩薩を多く招き入れただけでなく、各自の家庭でも善と愛と福で以て、家伝にしています。

皆さんの分かち合いを聞くたびに、どれも皆さんが一歩一歩着実に歩み、チームを結集して歩んできた道のりだと感じます。そして、人に導かれたり、人を導いたりして得た会得の話は尽きず、善行する方法は、お互いに学び、啓発し合っているのです。「彼にできるなら、もちろん私にもできます」と。やる気があれば、成し遂げられない事などありません。

慈済人は日増しに増え、菩薩が続々と集まり、各国で慈済の因縁を拡大し、慈済の志業が広がっています。歳月は過ぎて行きますが、慈済人が居るところには、必ず善人や善事による奉仕が行われています。このテクノロジーが発達した時代に生き、素晴らしい縁で皆さんと一緒にいられることは、「とても幸せなこと!」と私は毎日、自分に言い聞かせています。

五十余年前、慈済の「竹筒歳月」は、三十人の家庭主婦が日々五十銭を貯めて、花蓮の生鮮野菜市場近くに暮らしていた、助けを必要としていた何人かに奉仕することから始まりました。今ではその数は飛躍的に増加し、この世の衆生のために、世界各地で大勢の菩薩が奉仕しています。慈善の足跡は百三十六の国と地域に到達していますが、この力には、あなたや私、彼の両手がなくてはなりません。そして、もっと手を取り合い、菩薩を迎え入れなければなりません。

どこにいても法を伝えることができ、どこでも衆生を済度することができます。誰もが菩薩であり、修養ができている人は良い模範であり、賞賛に値します。またある人は、私の前に来て懺悔し、かつての迷いや過ちを皆さんに告白し、「漏気求進歩」をすることで、人生を改めました。悪い状態からよい状態に変えるために、勇気を持って改めることは、大衆の教育にもなるのです。

たとえ、過ちを犯す悪癖があっても、人は皆、仏性を持っており、正道に回帰し、菩薩になることができます。これら過去の物語がなければ、人々に言い聞かせるこの世の法は存在しないでしょう。それを善用することで、「法薬」にもなりましょう。一滴の法水は甘露のようなもので、喉が渇いた人には、この一滴の水が必要なのです。

慈済の法髄は『法華経』であり、それを拠り所にして菩薩道を切り開いて来ました。『無量義経』は『法華経』の精髄であり、宇宙空間から現代生活に至るまで、分かりやすい道理で、社会の運営や家庭教育の方法を全て示されており、日常生活中で実践することができます。皆さんが自分の一生で仏法を活用するだけでなく、大衆にも使うようになって欲しいのです。そして、すべての家庭や地域で、誰もが仏陀の教えを理解し、仏陀の教育を広めることを理解して、法髄を各家庭に取り入れ、この敬虔な思いを人間(じんかん)に広めるのです。

今回の行脚は、前回よりも体力が落ちています。生命は滑り台から滑り降りるように過ぎるので、一層、時間を無駄にせず、慧命を伸ばさなければいけないと感じ、気力を絞って頑張っています。過去にも説いて来て、今も説いていますが、将来は皆さんが私の教えを受け継いで伝え、慈済の法が人間(じんかん)に根付いていくことを願っています。生老病死は自然の摂理で、世の中は常々集まりや別れがあり、無常の人生の中で、私は何も求めず、今日だけを大切にしています。毎日、目が覚めると、手足が動き、ベッドから下りられるなら、今日すべきことをしっかりしなければなりません。

私の心願は「仏教の為、衆生の為」です。今はこの因縁に恵まれて、共に仏法の中にあり、引き続き歩みやすいように道を切り開き、衆生を済度しなければなりません。菩薩道という軌道があれば、永遠に道に迷うことはなく、より多くの人々を導いて、広い大道を歩んでください。皆さんが心して精進することを願っています。

(慈済月刊六九七期より)

㊟台湾語の言葉で、自分の前非を他人に告白し、悔い改めるという意味。

慈済とは、善と愛が出会うところであり、一代目の慈済人によって、それが形となって現れました。

人間(じんかん)菩薩を多く招き入れるだけでなく、各自の家族でも善と愛と福で以て家伝とし、代々受け継がれていかなければなりません。

毎年二回にわたって行われる、認証授与式は、十一月二日、歳末祝福会と共に、新竹で今年第一回が行われました。時間が経つのは早いもので、もう直ぐ新年を迎えようとしています。一分一秒は知らず知らずのうちに過ぎて行き、もし、一日に八万六千四百秒もあるのだから、一秒なんて大したことではないと思うならば、滑り台のようにあっという間に時間は過ぎ去ってしまい、人生も過ぎて行き、その価値は失ってしまいます。一分一秒を大切にし、日々すべきことを心して行ってください。

台北から新竹、桃園、台中へと行きますが、到着すると、直ちに目で出席者を確かめています。そして、創設当時のベテラン慈済人が黒髪から白髪になっても、その道心が退いていない姿を見ると、これこそが最も貴いものだと感じます。もちろんその場に来ていない人もあり、心残りもしますが、既にこの世に生まれ変わり、菩薩精神を携えて、慈済人の家庭に来ていると信じています。

感慨深いものは多々ありますが、一方、とても慰められることもあります。なぜなら、仏法が受け継がれて、三世代、四世代が一緒に暮らし、家族全員が善行し、慈済に参加し、子供たちが親の活動に賛成するだけでなく、一緒に奉仕しているからです。曽祖父母、祖父母、そして両親が幼い子を連れ、手に重い貯金箱を抱えて寄付に来ました。これこそが智慧のある教育の賜物と言えます。子供は自分の好きなお菓子への欲求を克服し、そのお金で人助けをするのです。そのような愛を育むことができれば、一家は幸福と智慧に満ちるでしょう。

慈済は、善と愛が出会うところであり、私たちの世代で形となって現れました。第一世代の慈済人は、人間(じんかん)菩薩を多く招き入れただけでなく、各自の家庭でも善と愛と福で以て、家伝にしています。

皆さんの分かち合いを聞くたびに、どれも皆さんが一歩一歩着実に歩み、チームを結集して歩んできた道のりだと感じます。そして、人に導かれたり、人を導いたりして得た会得の話は尽きず、善行する方法は、お互いに学び、啓発し合っているのです。「彼にできるなら、もちろん私にもできます」と。やる気があれば、成し遂げられない事などありません。

慈済人は日増しに増え、菩薩が続々と集まり、各国で慈済の因縁を拡大し、慈済の志業が広がっています。歳月は過ぎて行きますが、慈済人が居るところには、必ず善人や善事による奉仕が行われています。このテクノロジーが発達した時代に生き、素晴らしい縁で皆さんと一緒にいられることは、「とても幸せなこと!」と私は毎日、自分に言い聞かせています。

五十余年前、慈済の「竹筒歳月」は、三十人の家庭主婦が日々五十銭を貯めて、花蓮の生鮮野菜市場近くに暮らしていた、助けを必要としていた何人かに奉仕することから始まりました。今ではその数は飛躍的に増加し、この世の衆生のために、世界各地で大勢の菩薩が奉仕しています。慈善の足跡は百三十六の国と地域に到達していますが、この力には、あなたや私、彼の両手がなくてはなりません。そして、もっと手を取り合い、菩薩を迎え入れなければなりません。

どこにいても法を伝えることができ、どこでも衆生を済度することができます。誰もが菩薩であり、修養ができている人は良い模範であり、賞賛に値します。またある人は、私の前に来て懺悔し、かつての迷いや過ちを皆さんに告白し、「漏気求進歩」をすることで、人生を改めました。悪い状態からよい状態に変えるために、勇気を持って改めることは、大衆の教育にもなるのです。

たとえ、過ちを犯す悪癖があっても、人は皆、仏性を持っており、正道に回帰し、菩薩になることができます。これら過去の物語がなければ、人々に言い聞かせるこの世の法は存在しないでしょう。それを善用することで、「法薬」にもなりましょう。一滴の法水は甘露のようなもので、喉が渇いた人には、この一滴の水が必要なのです。

慈済の法髄は『法華経』であり、それを拠り所にして菩薩道を切り開いて来ました。『無量義経』は『法華経』の精髄であり、宇宙空間から現代生活に至るまで、分かりやすい道理で、社会の運営や家庭教育の方法を全て示されており、日常生活中で実践することができます。皆さんが自分の一生で仏法を活用するだけでなく、大衆にも使うようになって欲しいのです。そして、すべての家庭や地域で、誰もが仏陀の教えを理解し、仏陀の教育を広めることを理解して、法髄を各家庭に取り入れ、この敬虔な思いを人間(じんかん)に広めるのです。

今回の行脚は、前回よりも体力が落ちています。生命は滑り台から滑り降りるように過ぎるので、一層、時間を無駄にせず、慧命を伸ばさなければいけないと感じ、気力を絞って頑張っています。過去にも説いて来て、今も説いていますが、将来は皆さんが私の教えを受け継いで伝え、慈済の法が人間(じんかん)に根付いていくことを願っています。生老病死は自然の摂理で、世の中は常々集まりや別れがあり、無常の人生の中で、私は何も求めず、今日だけを大切にしています。毎日、目が覚めると、手足が動き、ベッドから下りられるなら、今日すべきことをしっかりしなければなりません。

私の心願は「仏教の為、衆生の為」です。今はこの因縁に恵まれて、共に仏法の中にあり、引き続き歩みやすいように道を切り開き、衆生を済度しなければなりません。菩薩道という軌道があれば、永遠に道に迷うことはなく、より多くの人々を導いて、広い大道を歩んでください。皆さんが心して精進することを願っています。

(慈済月刊六九七期より)

㊟台湾語の言葉で、自分の前非を他人に告白し、悔い改めるという意味。

關鍵字

福を知って、惜しんで、更に福を作る

平安であることに感謝すれば,心は満たされます。
満足できない人は、永遠に自分が幸福であることを知りません。

この人生を精一杯捧げる

九月九日、基金会主任たちの報告の時間に、洪静原(ホン・ジンユェン)師姐は慈済の献体への取り組みについて言及しました。多くの慈済ボランティアが健康なうちに献体登録を済ませ、重病を患った時には特に花蓮慈済病院に戻って緩和ケアを受け、最後の瞬間を迎えたならば、動かなくなった身体を慈済大学に寄付することで願いを果たしていると述べました。

上人曰く、慈済ボランティアは慈済と縁を結んで以来、「役に立つことに価値がある」という人生観を築き、生死を平然と受け入れることができるようになったので、「心に執着がなく、執着がないからこそ」、だからこそ不断に奉仕し、求めず、執着せず、心身を捧げているのです。

「かけがえのない生命に値段をつけることはできません。我々は方向をしっかり選び、この人生を衆生のために捧げることができれば、この人生は価値ある人生となるのです」。

「慈済の人々の愛は口先だけではなく、それを実践していますから、家庭の模範、地域の模範となり、その瞬間に教師となることができるのです。最後まで待って無言の良師になるのではありません」。上人は慈済大学で「無言の良師」と呼ばれる献体について、世の中で成功を収める人や、子や孫を育てて家庭を成している人の中には、特に慈済ボランティアが多いと語りました。慈済に入って誠心誠意で心身を捧げ、多くの苦しむ人々のために尽くすその姿は、まさに人の模範です。人生の最後に身体までも寄付し、医学のために奉仕しているのです。そうすることで自分の人生を、本当に精一杯、捧げることができたと言えるのです。

日々自分が幸福であると感じる

九月十日、シンガポール支部の劉瑞士(リュウ・ルイシ)執行長と幹部たちが精舎に帰り、人工透析センターの運営やスリランカでの施療、会務への配慮、十周年を迎えた慈済大愛幼児教育センターの成果について共有しました。それに対して上人は、こう開示しました。

「シンガポールは福地であり、社会福祉や一般市民の生活は標準以上ですが、清潔で明るい環境に住んでいる人々の心が純朴であることは、非常に幸運なことです。私はいつも自分が幸運であることに感謝しています。なぜなら、毎日出会える方々が善知識であり、友人や法縁者が互いに励まし合っているからです。私を生んで育ててくれた両親に感謝し、この身を以て人間のために福を施し、大衆に利益をもたらしたいのです」。

仏法を学ぶことは、福を求めることではありません。福は、求める必要がないのです。常日頃から真摯に福を施すことで、自然に福が得られるのです。

「もし奉仕を望まず、福を施さなければ、どんなに求めても何も得られません。農夫が田畑を耕さず、種を蒔かず、苗を植えなければ、当然収穫はないのと同じです。季節ごとの作業に心を込め、種を蒔き、耕作し、収穫を得たら更に種を残し、再び種を蒔き、苗を植えてこそ、十分な食糧が得られ、人々に供給できるのです」。

菩提心を発すること、この一念は一つの種子であり、心を込めて耕し、育てることで「一つ」が無量へと増えるのです。上人は、大きな木も小さな種子から芽を出して成長するのであり、地、水、火、風との良い縁が結ばれてこそ、時間と共に成長し繁茂することができると述べました。福縁を持ち、平安な社会に住むことができても、世界にはたくさんの人々が、生まれた時から厳しい環境に置かれて心が極端な状態になり、絶えず戦渦に巻き込まれ、朝が来るかどうかも分からない中で不安に苛まれています。その苦しみと痛みは耐え難いものです。

上人は、多くの国や地域が動乱に満ちていることを嘆き、人と人との間で争いが起こり、衆生の業力がますます重くなり、同じ空間の中で衝突が引き起こされ、感情が引き裂かれ、一般市民は本当に苦しんでいると語りました。

「平和で安定して繁栄する幸せな社会に住んでいる私たちは、毎日感謝することが大切です。私は毎日感謝を唱え、すべての人を尊重します。誰もが仏性を持っているのですから、心を込めて修行して自分の本性に戻ればそれでよく、外に求める必要はなくなるのです」。

「皆さんは、こうして精舎に幸福と感謝を持ち帰ってくれました。これからも自分に満足し、福を知り、福を惜しむことを期待しています。福を知らない人は、永遠に自分が幸福であることを知らず、外に求め続け、心の中は煩悩でいっぱいになり、欲望がますます強くなり、苦しみが増すのです。実のところ、平安であれば心が満たされて満足するというものです。善を行う志を持つことが大切で、善を行える人こそが福のある人であり、豊かで余裕がある人なのです。もし福を知らなければ、永遠に満足できず、人を助けたいと思わなくなります」。

どんなに裕福な国でも、苦しむ人々は存在します。上人はシンガポールのチームを称賛しました。慈善と施療を結びつけ、外に出られない家庭に入って初診を行い、医療を手配し、その後も長期的にフォローアップを行ってボランティアが定期的に訪問したり、家庭環境の清掃を手伝ったりして、安心して病気を治せるようにしていると、その活動を紹介しました。

「人を助けたいという気持ちがあっても、自分の力は限られています。慈済には多くの志を同じくする法縁者がいますから、互いに福を託し、福縁を共にし、協力して多くの困難な人々を助けることができるのです。私たちはお互いを大切にし、感謝し、祝福し合うべきなのです」。上人はシンガポールのボランティアに、この慈済の思いを広め、地域で慈済のボランティアに参加する人々が増えて各地へ伝わり、人々が凡夫から菩薩となってこの世が浄土へと変わることを願っています。

(慈済月刊六九六期より)

平安であることに感謝すれば,心は満たされます。
満足できない人は、永遠に自分が幸福であることを知りません。

この人生を精一杯捧げる

九月九日、基金会主任たちの報告の時間に、洪静原(ホン・ジンユェン)師姐は慈済の献体への取り組みについて言及しました。多くの慈済ボランティアが健康なうちに献体登録を済ませ、重病を患った時には特に花蓮慈済病院に戻って緩和ケアを受け、最後の瞬間を迎えたならば、動かなくなった身体を慈済大学に寄付することで願いを果たしていると述べました。

上人曰く、慈済ボランティアは慈済と縁を結んで以来、「役に立つことに価値がある」という人生観を築き、生死を平然と受け入れることができるようになったので、「心に執着がなく、執着がないからこそ」、だからこそ不断に奉仕し、求めず、執着せず、心身を捧げているのです。

「かけがえのない生命に値段をつけることはできません。我々は方向をしっかり選び、この人生を衆生のために捧げることができれば、この人生は価値ある人生となるのです」。

「慈済の人々の愛は口先だけではなく、それを実践していますから、家庭の模範、地域の模範となり、その瞬間に教師となることができるのです。最後まで待って無言の良師になるのではありません」。上人は慈済大学で「無言の良師」と呼ばれる献体について、世の中で成功を収める人や、子や孫を育てて家庭を成している人の中には、特に慈済ボランティアが多いと語りました。慈済に入って誠心誠意で心身を捧げ、多くの苦しむ人々のために尽くすその姿は、まさに人の模範です。人生の最後に身体までも寄付し、医学のために奉仕しているのです。そうすることで自分の人生を、本当に精一杯、捧げることができたと言えるのです。

日々自分が幸福であると感じる

九月十日、シンガポール支部の劉瑞士(リュウ・ルイシ)執行長と幹部たちが精舎に帰り、人工透析センターの運営やスリランカでの施療、会務への配慮、十周年を迎えた慈済大愛幼児教育センターの成果について共有しました。それに対して上人は、こう開示しました。

「シンガポールは福地であり、社会福祉や一般市民の生活は標準以上ですが、清潔で明るい環境に住んでいる人々の心が純朴であることは、非常に幸運なことです。私はいつも自分が幸運であることに感謝しています。なぜなら、毎日出会える方々が善知識であり、友人や法縁者が互いに励まし合っているからです。私を生んで育ててくれた両親に感謝し、この身を以て人間のために福を施し、大衆に利益をもたらしたいのです」。

仏法を学ぶことは、福を求めることではありません。福は、求める必要がないのです。常日頃から真摯に福を施すことで、自然に福が得られるのです。

「もし奉仕を望まず、福を施さなければ、どんなに求めても何も得られません。農夫が田畑を耕さず、種を蒔かず、苗を植えなければ、当然収穫はないのと同じです。季節ごとの作業に心を込め、種を蒔き、耕作し、収穫を得たら更に種を残し、再び種を蒔き、苗を植えてこそ、十分な食糧が得られ、人々に供給できるのです」。

菩提心を発すること、この一念は一つの種子であり、心を込めて耕し、育てることで「一つ」が無量へと増えるのです。上人は、大きな木も小さな種子から芽を出して成長するのであり、地、水、火、風との良い縁が結ばれてこそ、時間と共に成長し繁茂することができると述べました。福縁を持ち、平安な社会に住むことができても、世界にはたくさんの人々が、生まれた時から厳しい環境に置かれて心が極端な状態になり、絶えず戦渦に巻き込まれ、朝が来るかどうかも分からない中で不安に苛まれています。その苦しみと痛みは耐え難いものです。

上人は、多くの国や地域が動乱に満ちていることを嘆き、人と人との間で争いが起こり、衆生の業力がますます重くなり、同じ空間の中で衝突が引き起こされ、感情が引き裂かれ、一般市民は本当に苦しんでいると語りました。

「平和で安定して繁栄する幸せな社会に住んでいる私たちは、毎日感謝することが大切です。私は毎日感謝を唱え、すべての人を尊重します。誰もが仏性を持っているのですから、心を込めて修行して自分の本性に戻ればそれでよく、外に求める必要はなくなるのです」。

「皆さんは、こうして精舎に幸福と感謝を持ち帰ってくれました。これからも自分に満足し、福を知り、福を惜しむことを期待しています。福を知らない人は、永遠に自分が幸福であることを知らず、外に求め続け、心の中は煩悩でいっぱいになり、欲望がますます強くなり、苦しみが増すのです。実のところ、平安であれば心が満たされて満足するというものです。善を行う志を持つことが大切で、善を行える人こそが福のある人であり、豊かで余裕がある人なのです。もし福を知らなければ、永遠に満足できず、人を助けたいと思わなくなります」。

どんなに裕福な国でも、苦しむ人々は存在します。上人はシンガポールのチームを称賛しました。慈善と施療を結びつけ、外に出られない家庭に入って初診を行い、医療を手配し、その後も長期的にフォローアップを行ってボランティアが定期的に訪問したり、家庭環境の清掃を手伝ったりして、安心して病気を治せるようにしていると、その活動を紹介しました。

「人を助けたいという気持ちがあっても、自分の力は限られています。慈済には多くの志を同じくする法縁者がいますから、互いに福を託し、福縁を共にし、協力して多くの困難な人々を助けることができるのです。私たちはお互いを大切にし、感謝し、祝福し合うべきなのです」。上人はシンガポールのボランティアに、この慈済の思いを広め、地域で慈済のボランティアに参加する人々が増えて各地へ伝わり、人々が凡夫から菩薩となってこの世が浄土へと変わることを願っています。

(慈済月刊六九六期より)

關鍵字

The Illustrated Jing Si Aphorisms

The Buddha says:

People must help themselves.
Don’t count on gods or luck.
Except for you yourself,
no one else can help you
any more than the stars and the moon in the sky.

People today often think that the Buddha is a god‭. ‬He is not‭.‬

Every living being in the world has an innate buddha-nature‭. ‬The Buddha is that venerable person who transcended this world and‭ ‬entered sainthood‭. ‬He became enlightened and he enlightens others‭. ‬He is our guide to true human life‭.‬

Why do Tzu Chi volunteers always talk about Tzu Chi to everybody, even to people that they don’t even know?

Dharma Master Cheng Yen: “Good deeds need to be promoted so that more people will be moved to join in.”

Translated by E. E. Ho and W. L. Rathje; drawings by Tsai Chih-chung; coloring by May E. Gu

The Buddha says:

People must help themselves.
Don’t count on gods or luck.
Except for you yourself,
no one else can help you
any more than the stars and the moon in the sky.

People today often think that the Buddha is a god‭. ‬He is not‭.‬

Every living being in the world has an innate buddha-nature‭. ‬The Buddha is that venerable person who transcended this world and‭ ‬entered sainthood‭. ‬He became enlightened and he enlightens others‭. ‬He is our guide to true human life‭.‬

Why do Tzu Chi volunteers always talk about Tzu Chi to everybody, even to people that they don’t even know?

Dharma Master Cheng Yen: “Good deeds need to be promoted so that more people will be moved to join in.”

Translated by E. E. Ho and W. L. Rathje; drawings by Tsai Chih-chung; coloring by May E. Gu

關鍵字