能登半島地震 自らの手で見舞金をお年寄りに届ける

能登半島地震の被災者は、市役所から慈済が「見舞金」を配付する由の通知を受け取ったが、疑念と期待が入り交じった心境にあった。

会場に着いてみると、本当に生活の助けになる現金を受け取ることができた。

驚きと嬉しさに感動する以上に、台湾の慈済が花蓮の地震の後も、依然として彼らを忘れずにいてくれたことに感謝した。

(撮影・王孟専)

今年の元日に発生した石川県能登半島地震は、二百六十人が死亡し、一千二百人が負傷、八万棟の住宅が損壊する被害をもたらした。県全体ではすでに水道が復旧しているが、六月上旬の統計によると、依然として二千八百人が避難所で生活をしている。

地震は能登半島を出入りする唯一の道路を寸断したため、救援活動と建物の解体作業を遅延させた。道路が修復されても、ホテルや旅館が甚大な被害を受けたため、解体業者は泊まる所がない状態にある。また、修復が必要な住宅の数量が膨大なため、解体と再建が遅々として進まないのだ。震源地に最も近い珠洲市を例に挙げると、約四千棟の住宅が全壊し、千人が政府に公費解体を申請しているが、実際に完了したのはわずか数棟である。

今の段階で、住民が最も必要としているのは、現金の補助と再建支援である。県政府と町役場は、「災害義援金」や「生活再建支援金」の支給を公表して、さまざまな補助措置を講じているが、住民は高齢者が多く、申請方法がわからないのだ。更に、甚大被災地はどこも交通が不便な田舎であり、市や町の行政人員が不足しているため、大量の申請案件を一度に処理することができない。

慈済が被災地で見舞金を配付するという情報が住民の耳に入った時、多くの人は半信半疑だった。しかし、五月十七日から十九日にかけて穴水町で初めて千九十一世帯が封筒に入った現金の「見舞金」を受け取った時、住民は信じられない気持ちだった。それは正に恵みの雨だった。

慈済は五月中旬から七月にかけて、穴水、能登、中能登、輪島、志賀、珠洲の六市町で見舞金を順次配付する。対象は地震によって家屋が半壊以上で、且つ六十五歳以上の高齢者がいる世帯である。家族構成の人数に応じて、それぞれ十三万円、十五万円、十七万円が贈られる。

6月9日、ボランティアは台湾の町役場に似た能登町役場で、被災した住民に見舞金を届けて励ました。(撮影・顔婉婷)

地方政府と慈済が協力

第一回の配付は穴水町で完了した。そこは地震発生後、慈済が長期にわたって駐在し、ケアして来た重点地区である。一月十三日から三月三十日まで、二万食余りの温かい食事と飲み物を提供し、延べ七百人以上のボランティアが動員された。

第二回の配付は、六月七日から九日にかけて能登町で行われ、七百二十二世帯が見舞金を受け取った。能登町は北陸でも端の方に位置し、能登半島に囲まれた内海にある。自然との共生を強調した農耕様式が特徴で、世界農業遺産に登録されている。地震の時、震度六強を記録したため、多くの古民家は強い揺れに耐えられなくなり、倒壊したり、傾いたり、崩落したりした。また、地盤が軟弱な所は住宅全体が傾き、液化現象が起きた地域では地盤沈下が続いた。そして、地震によって火災が発生し、複合災害を起こした所もある。

能登町災害対策本部は運営を続けて、十二の避難所が開設され、百人以上が避難生活を送っている。町全体の高齢者人口はほぼ半数を占め、人口密度も低いため、集落同士の距離がかなりある。そのため、慈済と町役場は五つの会場で配付することを決め、高齢者が近くで受け取れるようにした。ボランティアは各会場に早めに行き、配置や整理を行ったが、既に外で待っている住民がいた。

地方政府は、慈済の「重点的、直接、具体的」という災害支援の原則は理解しているが、日本ではプライバシーを重視するため、被災者名簿を提供することはできないと言った。そこで、役場の人が受付で住民の確認を行い、その後に、慈済ボランティアが配付窓口に案内して、罹災証明などの資料を確認することで、見舞金を受け取れるようにした。そして最後に、「住民交流ゾーン」で休憩してもらった。

七十六歳の横地善松さんは、町役場から通知を受け取った時、半信半疑で、先ず会場に行ってみようと思った。彼は会場で、「本当に現金なのですか?振り込みではないのですね?」と何度も確認した。十五万円を受け取ることができたことに驚きを隠せなかった。

「市役所が家を解体してくれるのを待っていますが、何時の事になるやら」と友人の家に身を寄せている横地お爺さんは、「見舞金の出所を聞いて、とても感動しました。このお金は大切に使います。妻や子供たちのために心温まる家を建てます。たとえ平屋建てでも十分です」と言った。子供や孫は年に一度か二度しか帰って来ないが、それでも家族のために家を持ちたいと願っている。

横地お爺さんは続けて、「今日受け取った見舞金の由来を皆に伝え、子供たちも感謝の気持ちを持って社会に還元するよう言います。あなたたちから温かさを感じ、自分の新しい家を建てるための力が湧くと同時に、期待が持てるようになりました」と言った。彼は奥さんと共に優しい笑顔を浮かべながら、「あなたたちの訪問を楽しみにしています」とボランティアに言った。

6月9日、ボランティアは漁村の鵜川を訪れ、公民館に向かう途中で多くの被害を受けた家の前を通った。あたかも時間が元旦の地震後で止まっているように感じられた。(撮影・顔婉婷)

重点的に直接配付する緊急支援の現金

慈済が直接現金を住民に手渡していることについて、多くの人は驚きを隠せず、会場ではしばしば「もったいないことです」という言葉が聞かれた。八十一歳の松田幸子お婆さんは何度も繰り返した。

お婆さんは、八十四歳の夫である松田外紀男さんと娘、そして二十四歳の孫娘と同居している。見舞金を受け取った時、彼女は涙を拭い続けていたが、家までボランティアが同行することを喜んで受け入れた。山林のある小高い丘に位置する日本式建築の家に着くと、ボランティアはお婆さんの家の被災状況がよく分かった。「地震が起きた時、私は台所で調理をしていて、急いで玄関に走ったのですが、揺れが激しくて全く立っていられませんでした。夫は玄関の扉にしっかり掴まってはいましたが、立っていることも外に出ることもできませんでした。私は彼の腰にきつく抱きつき、娘と孫娘はさらに私の腰に抱きつきました。四人が一緒にその場で支え合うのが精一杯で、逃げることができなかったのです!」未だ恐怖が残る幸子お婆さんは、当時を振り返り、天が崩れて地が裂けるように感じ、どこへ逃げればいいのか分からなかったと言った。

家の中の壁は地震で裂けて、一面が崩落し、一家は近くの「小間生公民館」に避難した。被災後、水も電気もなく、女性たちが集まって小さなガスコンロで調理して、何とか十日間を過ごした。一家はとりあえず、金沢市にいる妹の家の近くに借家したが、どうしても自分たちの家に戻りたくて、なんとか整理して住むことにした。

「家が倒れたら、もうだめだ!」と外紀男さんは地震の時、それだけを考えていた。「だから今生きていて、家族も無事なので、本当に幸運です」と語った。幸子お婆さんは、業者に頼んで寝室と台所を修繕してもらったが、二百八十万円余り掛った。全部修繕したら、少なくとも一千万円は必要だろう。「修繕業者からまだ請求して来ませんが、慈済が送って来てくれたこのお金で一部を支払えます。これで私たちの生活も少しは楽になります」。

ボランティアの心温まる慰問と傾聴に、多くの住民は深く感動したと言った。「お金の多い少ないではなく、あなたたちが遠くから来てくれたことで、私たちが得たのは、かけがえのない『温もり』と『情』です!」。

本谷志麻子さんは、6月中旬に能登町公民館の2階にある避難所を離れる予定だ。彼女は、ボランティアが遠方から来て、力を与えてくれたことに感謝した。(撮影・楊景卉)

住む場所があれば、心が安らぐ

本谷志麻子さんは見舞金を受け取った後、ボランティアを避難所に案内した。それは市役所の隣にある「能登町公民館」の二階にあり、彼女は数枚の段ボールで囲った寝室に五カ月余り住んでいた。六月中旬に友人の家に引っ越す予定で、「見舞金をいただきありがとうございます。日用品を買います。来ていただいたことで力をもらいました」と感謝の意を表した。

六十七歳の漁師、山本政広さんもボランティアが彼の仮住まいを見学することに同意した。藤波運動公園に建てられた仮設住宅で、約百二十世帯が住んでいる。一戸当たり約七から八坪の広さで、風呂場とトイレ、そして小さいキッチンには冷蔵庫や電子レンジなどの家電が備わり、小さい長テーブルもある。奥には小部屋が二つあり、一つはリビングとして使っている。山本さんの奥さんは、「今の生活にとても満足しています」と言った。

山本さんの自宅前の道路は三・五メートル陥没し、家は表の方に傾いてしまった。被災後、集会所から移って能登中学で避難生活を送っていたが、五月に仮設住宅に移ってから、ようやく生活が安定してきた。「私はこれまで、懸命に働いて、大勢の子供や孫に囲まれた人生を送って来ましたが、この歳でこんなことに遭うとは思いも寄りませんでした。でも仕方ありません……。三十年間住んでいた家は、見た目には損壊していないのですが、間もなく解体されると思うと、言葉に表せない悲しみがこみ上げてきます」。

仮設住宅には二年間しか住むことができないため、山本さんは政府の災害復興住宅に申請することを検討している。毎月費用はかかるが、年金を受給しているため、負担は軽くなる。慈済から見舞金を受け取れたことについて、彼は「日本では非常に珍しいことで、被災地では初めてです。唯一の現金支援なので、とても驚くと共に、嬉しく思っています」と言った。

七十歳の上野実喜雄さんは、金沢市からバスで故郷に戻り、見舞金を受け取った。彼は地震当時のことを振り返り、二度の強い揺れの後、町役場から津波が来るというアナウンスを聞いて、急いで避難するよう住民に呼びかけた。しかし、自分の家が変形して傾き、ドアが開かなくなった。細身の上野さんの奥さんは、どこにそんな力があったのか、素手で強化ガラスの窓を割り、二人は脱出することができた。裸足のまま、近くの寺まで歩いて靴を二足借り、更に高台に避難した。

家主は高齢者への賃貸を渋り、彼らは息子の名義で金沢に家を借りることにした。かつて魚貝類の取引をしていた上野さんは、今は失業中だが、見舞金を使って家電を買うつもりだ。「遠くから来てくれたボランティアに感謝しています。見舞金を配付するだけでなく、熱いお茶やお菓子を出して頂いた上に、平安のお守りまでいただきました。こんなに多くの支援を受けられるとは思ってもいませんでした……」と言いながら、奥さんは涙を抑えきれなかった。

能登町役場の入口には、各地から寄せられたカードや布がいっぱい掲げられ、励ましのメッセージが書かれてあった。(撮影・顔婉婷)

能登の人々は情に厚く、誠実で親切

この半年間、ボランティアは被災地を行き来して、関係者と配付活動の打ち合わせを行った。證厳法師に災害状況を報告した時、日本の住宅被害の「全壊、半壊、準半壊、一部損壊」などの程度に応じて異なる金額の支援を計画してはどうか、と提案した。法師は「全壊でも半壊でも壊れたことに変わりはありません。区別すべきではありません。また、被災者が六十四歳で、六十五歳に少し足りないからといって助けないでいいのでしょうか?目の前に困っている人がいれば、個別案件にして助けるべきです」と指摘した。

慈済日本支部の執行長である許麗香師姐によると、東京と大阪からのボランティアが交替で被災地に赴いて炊き出しをすると共に、「仕事を与えて支援に代える」活動に参加した地元の人々を食事に招待した。慈済カフェは今でも穴水総合病院で運営されており、今回の見舞金配付に繋がっている。東京に戻るたびに、地元の人々の感動の涙が脳裏に焼き付いているそうだ。

「老いた農夫は、『銀行の預金が底をつき、農地の水も尽きてしまいました。数日前に川から二トンの水を運んで来ましたが、これで野菜が芽を出すかどうかは分かりません。このような大金を受け取ることができ、正に恵みの雨です』と言いました。私たちは、能登には美しい山と水があるだけでなく、厚い人情という美徳もあることを目にしました。地元の人々は涙を流しながら、『四月三日に花蓮で地震が起き、台湾自身も被災しているにも関わらず、私たちの最も必要な時に自ら支援に来てくれたことに感動せずにはおれません』と話してくれました」。

六月中旬、輪島市の公式メディアが、慈済が月末に見舞金を配付することを伝えると、問い合わせの電話が慈済日本支部に殺到した。東京や大阪のボランティアが誠意をもって輪島に向かうと聞いた、遠くに避難している住民は、何としてでも戻って受け取りたい、と感動しながら言った。次から次にかかって来る電話に対応しながら、ボランティアたちは、「世界中の愛と祝福を地元の人々に伝えることができて、とても嬉しいです!」と感想を述べた。(資料提供・顔婉婷、呂瑩瑩、黄静蘊、王孟専、呉恵珍、朱秀蓮)

(慈済月刊六九二期より)

能登半島地震の被災者は、市役所から慈済が「見舞金」を配付する由の通知を受け取ったが、疑念と期待が入り交じった心境にあった。

会場に着いてみると、本当に生活の助けになる現金を受け取ることができた。

驚きと嬉しさに感動する以上に、台湾の慈済が花蓮の地震の後も、依然として彼らを忘れずにいてくれたことに感謝した。

(撮影・王孟専)

今年の元日に発生した石川県能登半島地震は、二百六十人が死亡し、一千二百人が負傷、八万棟の住宅が損壊する被害をもたらした。県全体ではすでに水道が復旧しているが、六月上旬の統計によると、依然として二千八百人が避難所で生活をしている。

地震は能登半島を出入りする唯一の道路を寸断したため、救援活動と建物の解体作業を遅延させた。道路が修復されても、ホテルや旅館が甚大な被害を受けたため、解体業者は泊まる所がない状態にある。また、修復が必要な住宅の数量が膨大なため、解体と再建が遅々として進まないのだ。震源地に最も近い珠洲市を例に挙げると、約四千棟の住宅が全壊し、千人が政府に公費解体を申請しているが、実際に完了したのはわずか数棟である。

今の段階で、住民が最も必要としているのは、現金の補助と再建支援である。県政府と町役場は、「災害義援金」や「生活再建支援金」の支給を公表して、さまざまな補助措置を講じているが、住民は高齢者が多く、申請方法がわからないのだ。更に、甚大被災地はどこも交通が不便な田舎であり、市や町の行政人員が不足しているため、大量の申請案件を一度に処理することができない。

慈済が被災地で見舞金を配付するという情報が住民の耳に入った時、多くの人は半信半疑だった。しかし、五月十七日から十九日にかけて穴水町で初めて千九十一世帯が封筒に入った現金の「見舞金」を受け取った時、住民は信じられない気持ちだった。それは正に恵みの雨だった。

慈済は五月中旬から七月にかけて、穴水、能登、中能登、輪島、志賀、珠洲の六市町で見舞金を順次配付する。対象は地震によって家屋が半壊以上で、且つ六十五歳以上の高齢者がいる世帯である。家族構成の人数に応じて、それぞれ十三万円、十五万円、十七万円が贈られる。

6月9日、ボランティアは台湾の町役場に似た能登町役場で、被災した住民に見舞金を届けて励ました。(撮影・顔婉婷)

地方政府と慈済が協力

第一回の配付は穴水町で完了した。そこは地震発生後、慈済が長期にわたって駐在し、ケアして来た重点地区である。一月十三日から三月三十日まで、二万食余りの温かい食事と飲み物を提供し、延べ七百人以上のボランティアが動員された。

第二回の配付は、六月七日から九日にかけて能登町で行われ、七百二十二世帯が見舞金を受け取った。能登町は北陸でも端の方に位置し、能登半島に囲まれた内海にある。自然との共生を強調した農耕様式が特徴で、世界農業遺産に登録されている。地震の時、震度六強を記録したため、多くの古民家は強い揺れに耐えられなくなり、倒壊したり、傾いたり、崩落したりした。また、地盤が軟弱な所は住宅全体が傾き、液化現象が起きた地域では地盤沈下が続いた。そして、地震によって火災が発生し、複合災害を起こした所もある。

能登町災害対策本部は運営を続けて、十二の避難所が開設され、百人以上が避難生活を送っている。町全体の高齢者人口はほぼ半数を占め、人口密度も低いため、集落同士の距離がかなりある。そのため、慈済と町役場は五つの会場で配付することを決め、高齢者が近くで受け取れるようにした。ボランティアは各会場に早めに行き、配置や整理を行ったが、既に外で待っている住民がいた。

地方政府は、慈済の「重点的、直接、具体的」という災害支援の原則は理解しているが、日本ではプライバシーを重視するため、被災者名簿を提供することはできないと言った。そこで、役場の人が受付で住民の確認を行い、その後に、慈済ボランティアが配付窓口に案内して、罹災証明などの資料を確認することで、見舞金を受け取れるようにした。そして最後に、「住民交流ゾーン」で休憩してもらった。

七十六歳の横地善松さんは、町役場から通知を受け取った時、半信半疑で、先ず会場に行ってみようと思った。彼は会場で、「本当に現金なのですか?振り込みではないのですね?」と何度も確認した。十五万円を受け取ることができたことに驚きを隠せなかった。

「市役所が家を解体してくれるのを待っていますが、何時の事になるやら」と友人の家に身を寄せている横地お爺さんは、「見舞金の出所を聞いて、とても感動しました。このお金は大切に使います。妻や子供たちのために心温まる家を建てます。たとえ平屋建てでも十分です」と言った。子供や孫は年に一度か二度しか帰って来ないが、それでも家族のために家を持ちたいと願っている。

横地お爺さんは続けて、「今日受け取った見舞金の由来を皆に伝え、子供たちも感謝の気持ちを持って社会に還元するよう言います。あなたたちから温かさを感じ、自分の新しい家を建てるための力が湧くと同時に、期待が持てるようになりました」と言った。彼は奥さんと共に優しい笑顔を浮かべながら、「あなたたちの訪問を楽しみにしています」とボランティアに言った。

6月9日、ボランティアは漁村の鵜川を訪れ、公民館に向かう途中で多くの被害を受けた家の前を通った。あたかも時間が元旦の地震後で止まっているように感じられた。(撮影・顔婉婷)

重点的に直接配付する緊急支援の現金

慈済が直接現金を住民に手渡していることについて、多くの人は驚きを隠せず、会場ではしばしば「もったいないことです」という言葉が聞かれた。八十一歳の松田幸子お婆さんは何度も繰り返した。

お婆さんは、八十四歳の夫である松田外紀男さんと娘、そして二十四歳の孫娘と同居している。見舞金を受け取った時、彼女は涙を拭い続けていたが、家までボランティアが同行することを喜んで受け入れた。山林のある小高い丘に位置する日本式建築の家に着くと、ボランティアはお婆さんの家の被災状況がよく分かった。「地震が起きた時、私は台所で調理をしていて、急いで玄関に走ったのですが、揺れが激しくて全く立っていられませんでした。夫は玄関の扉にしっかり掴まってはいましたが、立っていることも外に出ることもできませんでした。私は彼の腰にきつく抱きつき、娘と孫娘はさらに私の腰に抱きつきました。四人が一緒にその場で支え合うのが精一杯で、逃げることができなかったのです!」未だ恐怖が残る幸子お婆さんは、当時を振り返り、天が崩れて地が裂けるように感じ、どこへ逃げればいいのか分からなかったと言った。

家の中の壁は地震で裂けて、一面が崩落し、一家は近くの「小間生公民館」に避難した。被災後、水も電気もなく、女性たちが集まって小さなガスコンロで調理して、何とか十日間を過ごした。一家はとりあえず、金沢市にいる妹の家の近くに借家したが、どうしても自分たちの家に戻りたくて、なんとか整理して住むことにした。

「家が倒れたら、もうだめだ!」と外紀男さんは地震の時、それだけを考えていた。「だから今生きていて、家族も無事なので、本当に幸運です」と語った。幸子お婆さんは、業者に頼んで寝室と台所を修繕してもらったが、二百八十万円余り掛った。全部修繕したら、少なくとも一千万円は必要だろう。「修繕業者からまだ請求して来ませんが、慈済が送って来てくれたこのお金で一部を支払えます。これで私たちの生活も少しは楽になります」。

ボランティアの心温まる慰問と傾聴に、多くの住民は深く感動したと言った。「お金の多い少ないではなく、あなたたちが遠くから来てくれたことで、私たちが得たのは、かけがえのない『温もり』と『情』です!」。

本谷志麻子さんは、6月中旬に能登町公民館の2階にある避難所を離れる予定だ。彼女は、ボランティアが遠方から来て、力を与えてくれたことに感謝した。(撮影・楊景卉)

住む場所があれば、心が安らぐ

本谷志麻子さんは見舞金を受け取った後、ボランティアを避難所に案内した。それは市役所の隣にある「能登町公民館」の二階にあり、彼女は数枚の段ボールで囲った寝室に五カ月余り住んでいた。六月中旬に友人の家に引っ越す予定で、「見舞金をいただきありがとうございます。日用品を買います。来ていただいたことで力をもらいました」と感謝の意を表した。

六十七歳の漁師、山本政広さんもボランティアが彼の仮住まいを見学することに同意した。藤波運動公園に建てられた仮設住宅で、約百二十世帯が住んでいる。一戸当たり約七から八坪の広さで、風呂場とトイレ、そして小さいキッチンには冷蔵庫や電子レンジなどの家電が備わり、小さい長テーブルもある。奥には小部屋が二つあり、一つはリビングとして使っている。山本さんの奥さんは、「今の生活にとても満足しています」と言った。

山本さんの自宅前の道路は三・五メートル陥没し、家は表の方に傾いてしまった。被災後、集会所から移って能登中学で避難生活を送っていたが、五月に仮設住宅に移ってから、ようやく生活が安定してきた。「私はこれまで、懸命に働いて、大勢の子供や孫に囲まれた人生を送って来ましたが、この歳でこんなことに遭うとは思いも寄りませんでした。でも仕方ありません……。三十年間住んでいた家は、見た目には損壊していないのですが、間もなく解体されると思うと、言葉に表せない悲しみがこみ上げてきます」。

仮設住宅には二年間しか住むことができないため、山本さんは政府の災害復興住宅に申請することを検討している。毎月費用はかかるが、年金を受給しているため、負担は軽くなる。慈済から見舞金を受け取れたことについて、彼は「日本では非常に珍しいことで、被災地では初めてです。唯一の現金支援なので、とても驚くと共に、嬉しく思っています」と言った。

七十歳の上野実喜雄さんは、金沢市からバスで故郷に戻り、見舞金を受け取った。彼は地震当時のことを振り返り、二度の強い揺れの後、町役場から津波が来るというアナウンスを聞いて、急いで避難するよう住民に呼びかけた。しかし、自分の家が変形して傾き、ドアが開かなくなった。細身の上野さんの奥さんは、どこにそんな力があったのか、素手で強化ガラスの窓を割り、二人は脱出することができた。裸足のまま、近くの寺まで歩いて靴を二足借り、更に高台に避難した。

家主は高齢者への賃貸を渋り、彼らは息子の名義で金沢に家を借りることにした。かつて魚貝類の取引をしていた上野さんは、今は失業中だが、見舞金を使って家電を買うつもりだ。「遠くから来てくれたボランティアに感謝しています。見舞金を配付するだけでなく、熱いお茶やお菓子を出して頂いた上に、平安のお守りまでいただきました。こんなに多くの支援を受けられるとは思ってもいませんでした……」と言いながら、奥さんは涙を抑えきれなかった。

能登町役場の入口には、各地から寄せられたカードや布がいっぱい掲げられ、励ましのメッセージが書かれてあった。(撮影・顔婉婷)

能登の人々は情に厚く、誠実で親切

この半年間、ボランティアは被災地を行き来して、関係者と配付活動の打ち合わせを行った。證厳法師に災害状況を報告した時、日本の住宅被害の「全壊、半壊、準半壊、一部損壊」などの程度に応じて異なる金額の支援を計画してはどうか、と提案した。法師は「全壊でも半壊でも壊れたことに変わりはありません。区別すべきではありません。また、被災者が六十四歳で、六十五歳に少し足りないからといって助けないでいいのでしょうか?目の前に困っている人がいれば、個別案件にして助けるべきです」と指摘した。

慈済日本支部の執行長である許麗香師姐によると、東京と大阪からのボランティアが交替で被災地に赴いて炊き出しをすると共に、「仕事を与えて支援に代える」活動に参加した地元の人々を食事に招待した。慈済カフェは今でも穴水総合病院で運営されており、今回の見舞金配付に繋がっている。東京に戻るたびに、地元の人々の感動の涙が脳裏に焼き付いているそうだ。

「老いた農夫は、『銀行の預金が底をつき、農地の水も尽きてしまいました。数日前に川から二トンの水を運んで来ましたが、これで野菜が芽を出すかどうかは分かりません。このような大金を受け取ることができ、正に恵みの雨です』と言いました。私たちは、能登には美しい山と水があるだけでなく、厚い人情という美徳もあることを目にしました。地元の人々は涙を流しながら、『四月三日に花蓮で地震が起き、台湾自身も被災しているにも関わらず、私たちの最も必要な時に自ら支援に来てくれたことに感動せずにはおれません』と話してくれました」。

六月中旬、輪島市の公式メディアが、慈済が月末に見舞金を配付することを伝えると、問い合わせの電話が慈済日本支部に殺到した。東京や大阪のボランティアが誠意をもって輪島に向かうと聞いた、遠くに避難している住民は、何としてでも戻って受け取りたい、と感動しながら言った。次から次にかかって来る電話に対応しながら、ボランティアたちは、「世界中の愛と祝福を地元の人々に伝えることができて、とても嬉しいです!」と感想を述べた。(資料提供・顔婉婷、呂瑩瑩、黄静蘊、王孟専、呉恵珍、朱秀蓮)

(慈済月刊六九二期より)

關鍵字

古いジーンズがニューファッションに

紡績アパレル産業は、石油産業に次いで二番目に環境を汚染する産業である。ジーンズを一本作るだけで、三千七百リットルの水を必要とするのだ。

消費パターンを変えたり、古着を購入したり、古着を仕立て直して新しい服にすべきであり、「今日のファッション」を簡単に「明日のゴミ」にしてはならない。

数年前、或る友人がジーンズを捨てきれず、呉玉(ウー・ユー)さんに渡して、自分の考えも話した上で、それを仕立て直してもらった。それは、呉玉さんのデザインと器用な手を経て、デニム生地のリュックに変わった。友人はそれを見て、大いに喜んだ。そして、それがきっかけで、呉玉さんは古着を仕立て直してファッションバッグを作り始めた。

七十六歳の呉さんは、普段一輪車を押してコミュニティで資源を回収し、他人のいらない物を宝に変えているが、十年前、自宅の前に回収拠点を設けた。回収した古着の中によい品質で、しかもまだ利用できるジーンズや布地、捨てられた様々なバッグなどを見て、異なったサイズと機能のバッグに作り変えている。例えば、リュックや手提げ、小銭入れなどである。そして古着のボタンやファスナー、肩紐などの部品を取り外して再利用する。名実共に中から外まで、エコな再生バッグなのである。

彼女は、製品が出来上がると、とても嬉しくなるが、ただ時間が足りないと言う。古希を迎えた彼女にとって、裁縫は目と集中力をかなり消耗する作業である。それに、デニム生地は厚いので、普通のミシンでは役に立たない。彼女は、自分でデニム生地用の中古ミシンを二台購入して対応した。

🔎 Zoom in picture)

縫う前にはジーンズをきれいに洗い、元のデザインに沿った構想で裁断し、それから縫製と装飾に取り掛かる。その工程は細かく繁雑だ。だが、デザインが異なるバッグはどれもすぐに売れてしまうので、彼女は嬉しくなり、それが微力ながら続けていく励みになっている。回収した衣類を再利用するだけでなく、環境保護で地球を愛し、更にその収入を慈済に寄付することで、愛の奉仕をしているのだ。

「私は若い頃に苦労したので、物をとても大切にするようになりました。ですから、生地が傷んでなくて、ファスナーが使えれば、全部取り外して、また使います。古着でもとてもエコになり、とてもおしゃれなものになります」。呉さんは、好きでやっているから、疲れを感じることはなく、今でも続けているのである。

あらゆる家庭または個人には、着られないものや着古したジーンズがあるだろう。体に合わなかったり、時代遅れになったりしたもので、捨てるのは惜しいが、残しておいても着ることのないジーンズでも、アイディアを発揮して工夫すれば、シンプルな裁断と仕立て直しによって、唯一無二の実用的なファッションバッグになるのだ。

(慈済月刊六八七期より)

紡績アパレル産業は、石油産業に次いで二番目に環境を汚染する産業である。ジーンズを一本作るだけで、三千七百リットルの水を必要とするのだ。

消費パターンを変えたり、古着を購入したり、古着を仕立て直して新しい服にすべきであり、「今日のファッション」を簡単に「明日のゴミ」にしてはならない。

数年前、或る友人がジーンズを捨てきれず、呉玉(ウー・ユー)さんに渡して、自分の考えも話した上で、それを仕立て直してもらった。それは、呉玉さんのデザインと器用な手を経て、デニム生地のリュックに変わった。友人はそれを見て、大いに喜んだ。そして、それがきっかけで、呉玉さんは古着を仕立て直してファッションバッグを作り始めた。

七十六歳の呉さんは、普段一輪車を押してコミュニティで資源を回収し、他人のいらない物を宝に変えているが、十年前、自宅の前に回収拠点を設けた。回収した古着の中によい品質で、しかもまだ利用できるジーンズや布地、捨てられた様々なバッグなどを見て、異なったサイズと機能のバッグに作り変えている。例えば、リュックや手提げ、小銭入れなどである。そして古着のボタンやファスナー、肩紐などの部品を取り外して再利用する。名実共に中から外まで、エコな再生バッグなのである。

彼女は、製品が出来上がると、とても嬉しくなるが、ただ時間が足りないと言う。古希を迎えた彼女にとって、裁縫は目と集中力をかなり消耗する作業である。それに、デニム生地は厚いので、普通のミシンでは役に立たない。彼女は、自分でデニム生地用の中古ミシンを二台購入して対応した。

🔎 Zoom in picture)

縫う前にはジーンズをきれいに洗い、元のデザインに沿った構想で裁断し、それから縫製と装飾に取り掛かる。その工程は細かく繁雑だ。だが、デザインが異なるバッグはどれもすぐに売れてしまうので、彼女は嬉しくなり、それが微力ながら続けていく励みになっている。回収した衣類を再利用するだけでなく、環境保護で地球を愛し、更にその収入を慈済に寄付することで、愛の奉仕をしているのだ。

「私は若い頃に苦労したので、物をとても大切にするようになりました。ですから、生地が傷んでなくて、ファスナーが使えれば、全部取り外して、また使います。古着でもとてもエコになり、とてもおしゃれなものになります」。呉さんは、好きでやっているから、疲れを感じることはなく、今でも続けているのである。

あらゆる家庭または個人には、着られないものや着古したジーンズがあるだろう。体に合わなかったり、時代遅れになったりしたもので、捨てるのは惜しいが、残しておいても着ることのないジーンズでも、アイディアを発揮して工夫すれば、シンプルな裁断と仕立て直しによって、唯一無二の実用的なファッションバッグになるのだ。

(慈済月刊六八七期より)

關鍵字

この瞬間の敬虔さを忘れないように

(絵・陳九熹)

手を合わせて心を一つにし、心願をかけるのです─
その瞬間の思いと敬虔さを忘れてはなりません。
日々、時時刻刻心掛けていれば、智慧は常に明瞭で汚れなく無垢のままで在ります。

二千五百年余り前に、仏陀は人間(じんかん)に生まれました。修行し、悟りを開き、世の中の衆生が真理を理解できるようにと説法しました。それ故に、私たちは仏陀のことを謹んで「大覚者」と呼んでいます。しかし、真理がどれほど良いものであっても、それを弘めなければ、そこに留まったままです。人が道理を弘めるのであり、道理が人を弘めるのではありません。仏法は弘めなければならず、仏陀の願いと智慧を弘めて、人間(じんかん)に善の道を切り開き、誰もが歩めるようにしなければなりません。そして、仏法を末長く、広く人間(じんかん)に伝承していくのです。

仏誕節と母の日と慈済デーの三節を合わせた灌仏会は、五月十二日の朝、花蓮の道侶広場を主会場に開催されました。世界十四の国と地域の三十七の地域道場とオンラインで結ばれ、同時参加が叶いました。花蓮静思堂の高い位置から俯瞰すると、チームの団結と整然としたその動きの美しさが分かります。これは誠実な心で行わなければ達成できないものです。同日の夕方、台北中正記念堂のメイン広場に二万人近い人が集まりました。五百二名の各宗派の法師たちが整然かつ荘重な様子で会場に入場すると、人々の心を動かすと同時に、世界に仏法の真、善、美を示すことができました。仏教を広めるために、灌仏会にご参加くださった大師たちに心から感謝申し上げます。

第一回の式典が終わる頃、雨が降ってきました。司会者が参加者たちに事前に用意したレインコートを着るようアナウンスすると、皆は素早く整然と行動しましたが、広場に描き出される図柄もそれに伴って変化しました。この美しい場面を世界中が同時に見ることができたのです。無数の人が敬虔に手を合わせ、同じ思いが諸仏に届くよう祈りました。この瞬間の敬虔さを覚えておいてください。日々、時時刻刻心掛けていれば、智慧は常に明瞭であり、清らかな水のように無垢のままで在ります。

一時間の灌仏会は、慈済人が数日間心と労力を費やし、このような荘厳な道場が出現して欲しい一心で、努力して成し遂げたものです。それこそが慈済精神であり、菩薩道から仏心に向かって歩み、より多くの衆生を済度することを願ったものです。

同じ時間に多くの国や地域で朝山と灌仏会が行われました。マレーシアでは、老若男女が長蛇の列を成して支部の周囲を巡り、「平穏無事で、世界の平和を願う」と祈る声が聞こえました。私も同じことを毎日祈っています。人心から無明が取り除かれ、誰もが発心立願し、愛の心で人々に交じれば、人間(じんかん)は平安になり、世の中に災害は無くなるのです。

㊟朝山・三歩毎に五体投地する礼拝。

仏陀は四十九年間説法をしました。四十二年目から霊鷲山で『法華経』を説き始めました。慈済は、『法華経』と共に歩み、困難も多かったのですが、今は五十九年目に入りました。一つ目の志業は人間(じんかん)に慈善を実践することであり、貧困のために病気になり、または病が原因で貧しくなる人々を見て、病院を設立しようと発心しました。そして、医療志業では教育が欠かせないため、看護師や医師を育み始めました。教育志業の次は、人文という清流で世界を包むことを考えました。世界各地の菩薩の皆さんが、心して愛を以て、四大志業をこの世に広く行き渡らせていることに感謝しています。歩んできた道を振り返ってみて、方向が正しく、道に迷ってなければ、今、軽やかな心でいることができ、自分に対して「価値のある人生だ!」と称賛することができます。

仏陀の時代で、霊山法会は永遠に終わることはないと言われたように、今、菩薩が地中から湧き出るのを目にします。この二年間余り、シンガポールとマレーシアのボランティアが仏陀の故郷に足を踏み入れ、現地で心を込めて多くの縁を結び、善行を行って来ました。五十八周年の慈済デー当日のボランティア朝会の時、オンラインで繋がりました。一心に精舎と歩調を合わせたいがために、インドの霊鷲山まで光ファイバーを引く作業で忙しかったそうです。花蓮と現地は三千七百キロ余り離れていて、時差は二時間半で、時間と空間に距離があっても、心さえあれば、つながることができるのです。これが即ち「神通」なのです。精神的なつながりは、「心が虚空を包み込むほど広く、数え切れない世界に達する」が如く、一秒で霊鷲山に到達することができるのです。

時間とは秒、分、時、日とあって、一分が六十秒、一日が二十四時間となっていて、一日で八万六千四百秒過ぎたと聞くと、とても多いように感じますが、あっという間に気配もないまま過ぎ去ってしまいます。生活に忙しく、どうしたものかと嘆いても、やはり警戒心を持たなければなりません。もし無意識のうちに自分のことだけを考え、思い通りにいかない、自分が得られない、或いは自分は人よりも多く仕事をしているなど、人と比べるのであれば、それは他人の無明を見ているだけであり、自分がどれだけの時間を無駄にしているか気づかずにいるのです。何事も比較して、計算高くなるのは、実に苦しい人生です。この苦しみの道理を悟らなければ、あなたは迷った凡夫なのです。

人は誰でも仏と同等の智慧を持っていますが、一念の迷いで、幾重もの煩悩を抱えて解くことができないのです。それが人生における最大の障害なのです。仏法は、志の有る人が深く探究するに値します。修行とは心を清めることで、心が明るく澄み切ったものにして、初めて歩むべき道筋が見えるのです。

仏陀がこの世に現れたのは、菩薩を教育し、菩薩法を伝承するためなのです。ですから私たちは、赤子のような清らかな心で学ばなければなりません。もし、中央にこの菩薩道がなければ、永遠に正道が「見」えず、そうなれば「悟る」ことはできません。気が付いた時は既に遅いため、心して分秒を善用して、「学」と「覚」の間にあるこの真直ぐな大道を進めば、生生世世行き交う時に迷うことはありません。

(慈済月刊六九一期より)

(絵・陳九熹)

手を合わせて心を一つにし、心願をかけるのです─
その瞬間の思いと敬虔さを忘れてはなりません。
日々、時時刻刻心掛けていれば、智慧は常に明瞭で汚れなく無垢のままで在ります。

二千五百年余り前に、仏陀は人間(じんかん)に生まれました。修行し、悟りを開き、世の中の衆生が真理を理解できるようにと説法しました。それ故に、私たちは仏陀のことを謹んで「大覚者」と呼んでいます。しかし、真理がどれほど良いものであっても、それを弘めなければ、そこに留まったままです。人が道理を弘めるのであり、道理が人を弘めるのではありません。仏法は弘めなければならず、仏陀の願いと智慧を弘めて、人間(じんかん)に善の道を切り開き、誰もが歩めるようにしなければなりません。そして、仏法を末長く、広く人間(じんかん)に伝承していくのです。

仏誕節と母の日と慈済デーの三節を合わせた灌仏会は、五月十二日の朝、花蓮の道侶広場を主会場に開催されました。世界十四の国と地域の三十七の地域道場とオンラインで結ばれ、同時参加が叶いました。花蓮静思堂の高い位置から俯瞰すると、チームの団結と整然としたその動きの美しさが分かります。これは誠実な心で行わなければ達成できないものです。同日の夕方、台北中正記念堂のメイン広場に二万人近い人が集まりました。五百二名の各宗派の法師たちが整然かつ荘重な様子で会場に入場すると、人々の心を動かすと同時に、世界に仏法の真、善、美を示すことができました。仏教を広めるために、灌仏会にご参加くださった大師たちに心から感謝申し上げます。

第一回の式典が終わる頃、雨が降ってきました。司会者が参加者たちに事前に用意したレインコートを着るようアナウンスすると、皆は素早く整然と行動しましたが、広場に描き出される図柄もそれに伴って変化しました。この美しい場面を世界中が同時に見ることができたのです。無数の人が敬虔に手を合わせ、同じ思いが諸仏に届くよう祈りました。この瞬間の敬虔さを覚えておいてください。日々、時時刻刻心掛けていれば、智慧は常に明瞭であり、清らかな水のように無垢のままで在ります。

一時間の灌仏会は、慈済人が数日間心と労力を費やし、このような荘厳な道場が出現して欲しい一心で、努力して成し遂げたものです。それこそが慈済精神であり、菩薩道から仏心に向かって歩み、より多くの衆生を済度することを願ったものです。

同じ時間に多くの国や地域で朝山と灌仏会が行われました。マレーシアでは、老若男女が長蛇の列を成して支部の周囲を巡り、「平穏無事で、世界の平和を願う」と祈る声が聞こえました。私も同じことを毎日祈っています。人心から無明が取り除かれ、誰もが発心立願し、愛の心で人々に交じれば、人間(じんかん)は平安になり、世の中に災害は無くなるのです。

㊟朝山・三歩毎に五体投地する礼拝。

仏陀は四十九年間説法をしました。四十二年目から霊鷲山で『法華経』を説き始めました。慈済は、『法華経』と共に歩み、困難も多かったのですが、今は五十九年目に入りました。一つ目の志業は人間(じんかん)に慈善を実践することであり、貧困のために病気になり、または病が原因で貧しくなる人々を見て、病院を設立しようと発心しました。そして、医療志業では教育が欠かせないため、看護師や医師を育み始めました。教育志業の次は、人文という清流で世界を包むことを考えました。世界各地の菩薩の皆さんが、心して愛を以て、四大志業をこの世に広く行き渡らせていることに感謝しています。歩んできた道を振り返ってみて、方向が正しく、道に迷ってなければ、今、軽やかな心でいることができ、自分に対して「価値のある人生だ!」と称賛することができます。

仏陀の時代で、霊山法会は永遠に終わることはないと言われたように、今、菩薩が地中から湧き出るのを目にします。この二年間余り、シンガポールとマレーシアのボランティアが仏陀の故郷に足を踏み入れ、現地で心を込めて多くの縁を結び、善行を行って来ました。五十八周年の慈済デー当日のボランティア朝会の時、オンラインで繋がりました。一心に精舎と歩調を合わせたいがために、インドの霊鷲山まで光ファイバーを引く作業で忙しかったそうです。花蓮と現地は三千七百キロ余り離れていて、時差は二時間半で、時間と空間に距離があっても、心さえあれば、つながることができるのです。これが即ち「神通」なのです。精神的なつながりは、「心が虚空を包み込むほど広く、数え切れない世界に達する」が如く、一秒で霊鷲山に到達することができるのです。

時間とは秒、分、時、日とあって、一分が六十秒、一日が二十四時間となっていて、一日で八万六千四百秒過ぎたと聞くと、とても多いように感じますが、あっという間に気配もないまま過ぎ去ってしまいます。生活に忙しく、どうしたものかと嘆いても、やはり警戒心を持たなければなりません。もし無意識のうちに自分のことだけを考え、思い通りにいかない、自分が得られない、或いは自分は人よりも多く仕事をしているなど、人と比べるのであれば、それは他人の無明を見ているだけであり、自分がどれだけの時間を無駄にしているか気づかずにいるのです。何事も比較して、計算高くなるのは、実に苦しい人生です。この苦しみの道理を悟らなければ、あなたは迷った凡夫なのです。

人は誰でも仏と同等の智慧を持っていますが、一念の迷いで、幾重もの煩悩を抱えて解くことができないのです。それが人生における最大の障害なのです。仏法は、志の有る人が深く探究するに値します。修行とは心を清めることで、心が明るく澄み切ったものにして、初めて歩むべき道筋が見えるのです。

仏陀がこの世に現れたのは、菩薩を教育し、菩薩法を伝承するためなのです。ですから私たちは、赤子のような清らかな心で学ばなければなりません。もし、中央にこの菩薩道がなければ、永遠に正道が「見」えず、そうなれば「悟る」ことはできません。気が付いた時は既に遅いため、心して分秒を善用して、「学」と「覚」の間にあるこの真直ぐな大道を進めば、生生世世行き交う時に迷うことはありません。

(慈済月刊六九一期より)

關鍵字

0403台湾花蓮地震

花蓮市にある天王星ビルは4月3日の強い地震で傾き、捜索救助隊員が到着した。(撮影・羅明道)

🔎 Zoom in picture)

地震の後、台湾全土で百棟以上の建物に赤(危険)や黄色(要注意)の紙が貼られた。

甚大被災地の花蓮では、慈済が公共機関と協力して第一線の救助人員のニーズに合わせて支援し、避難所の設置を効率よく行った。

そして、地震発生から二十四時間以内に一回目のお見舞金が届けられ、四月半ばまでに千四百世帯余りに配付を終えた。

続いて家屋の修繕に着手し、被災者の心身を落ち着かせた。

四月三日、清明節連休前日の早朝、マグニチュード七・二の強い地震が台湾全土を襲い、震源に近い花蓮県は大きな被害を受けた。県北部の秀林、新城、吉安の三つの町と花蓮市では、多くの家屋が損壊し、タロコ国立公園の遊歩道でがけ崩れや落石が発生した。政府は特捜隊を派遣し、全力で捜索と救助に当たった。

政府が「一級災害対応」を開始すると、慈済基金会は唯一の民間団体として、花蓮県消防局に設置された「花蓮県政府災害対策本部」に駐在した。そして、人的、物的資源を投入し、「前線部隊を援護する後方部隊の先鋒」となり、政府や他のNGOと協力して、全力で被災者を支え、最前線の救助活動を支援した。

花蓮慈済病院では、多数の負傷者を受け入れる体制を取った。医療スタッフが患者を支えてストレッチャーに乗せていた。(撮影・劉明繐)

孤立した山間部に空から物資を供給

震度六の激しい揺れにより、花蓮北部では、程度の差こそあれ、どの家でも家具が傾いたり倒れたりするなどの被害があった。また、避難中に転倒した人もいて、地震により台湾全土で千百人余りが負傷した。魏嘉彦(ウェイ・ジアイェン)花蓮市長もそのうちの一人だ。

「タンスが足の上に倒れてきたのです。幸い骨折までには至りませんでした」。
左足がタンスの下敷きになって怪我をした魏市長が松葉杖をつきながら避難所で陣頭指揮に当たっていた姿は、図らずも震災をまざまざと見せつけるものとなった。

花蓮慈済病院のボランティアをしている李思蓓(リー・スーペイ)さんは、二人の娘に、家の中の倒れた物を片付けたら入院している負傷者を見舞うよう念を押した。一回目に病院に運ばれた負傷者は八人だったと彼女は記憶している。そのうちの一人である陳さんという女性は、地震が起きた時、自分で栽培した野菜を友人に届けるために家を出ようとした矢先だった。ところが玄関で棚が倒れてきて、腰骨を折ってしまった。

「彼女は救急車を待てなかったので、タクシーで病院に行きました。立つことさえできなかったので、救急外来の医師が抱えて降ろしたそうです」と李さんが言った。

タロコ峡谷は、がけ崩れで道路が寸断され、数百人が山間部に取り残された。車両が通行できなかったため、人員や物資の輸送はヘリコプター頼みとなった。花蓮県警察局は内政部空中勤務総隊に救援を要請し、慈済にも支援物資の提供を求めた。

「ヘリコプターで支援物資を運んだのは初めてです」。
定年退職した元警察官で、花蓮慈警会の合心チームの幹事を務めるボランティアの許志賢(シユウ・ヅ―シエン)さんは、日頃から地域の警察や消防と連絡を取り合っており、連絡を受けるとすぐに手配を始めた。四月五日の朝六時には物資の準備が完了し、一行の立ち入りが許可された。警察官と共にパトカー三台とトラック一台に分乗して、立入規制区域のタロコヘリポートに向かい、待機した。

「一回目は、ヘリコプターで天祥のホテルに足止めされていたシンガポールや香港からの観光客九人を下山させました。徳勱(ドーマイ)師父がボランティアたちを伴って現地を訪れ、見舞ったので、彼らは感動のあまり涙を流していました」。

許さんによると、山間部に足止めされていたのは、観光客とホテル従業員、住民の他、天祥派出所や保安警察など公的機関の職員で、合計六百人余りが食糧と水を必要としていた。慈済は花蓮県警察、内政部空中勤務総隊と協力して、二回ヘリでの輸送を行い、道路が通行できるようになるまでの間、足止めされていた人々を支えると共に、世界中の慈済人の思いやりを救援活動の最前線に届けた。

4月3日午後、證厳法師が花蓮市街地の傾斜したビル現場で、ボランティアと救助人員を見舞った。(写真提供・花蓮本部)

官民が協力し合って避難住民を支援

花蓮県政府の統計によると、地震により七十七棟の建物が傾くか損壊して危険な状態になり、千七百戸余りの住宅に影響が出たという。県、市、郷(町)の役所は、県立体育館、徳興野球場、中華小学校、化仁中学校など八カ所に避難所を設け、慈済も支援に加わった。

吉安郷では化仁中学校が主な避難所となり、グラウンドには赤十字社から提供された大きなテントが張られた。七年前に慈済の支援で建設された多機能体育館内には、青や灰色の「ジンスー福慧間仕切りテント」が設置された。中には福慧ベッドとエコ毛布が用意され、被災者のプライバシーを守ると同時に、快適に過ごせるようになっていた。

避難した人々の様々な不便に対応するため、公的部門や民間団体が避難所に人員を派遣して奉仕した。例えば、中華小学校の避難所では、健康保険署の職員が、着の身着のままで建物を飛び出して保険証を持っていない住民のために保険証を再発行し、通信業者は避難者が無料で市内電話をかけられるよう電話機を設置した。また、不動産業者は賃貸物件を仲介し、国軍はグラウンドの一角に野戦シャワーテントを設置した。操作担当の士官は、「一度に十二人がシャワーを使用することができ、毎日、使用時間帯を二分して、男女を入れ替えています」と言った。

各方面の人々の善意に支えられ、各避難所は物資が十分にあった。しかし、どれだけ完璧な支援も、元来の穏やかな家庭生活に代わるものではない。魏市長は当時の状況を振り返って、「『何もかもなくしてしまった……』と気落ちしていた高齢者を、うちの職員とソーシャルワーカーが励まし続けました」と言った。

市長は、東華大学の顧(グー)教授に心から感謝した。教授は、このような被災者の気が晴れるようにと、車で景色の美しいキャンパスに連れて行き、精神的な傷を癒そうとしたそうだ。

また、数多くの震災支援の経験から、慈済は被災者の苦しみや心の痛みをよく理解しているため、経験豊富なボランティアを避難所に派遣し、専門のソーシャルワーカーや衛生機関の特約カウンセラーと共に、被災者のケアに当たってもらった。

慈済基金会慈善志業発展処総合企画室防災チームの専属スタッフ、黄玉琪(フワォン・ユーチー)さんの話によると、避難所で心のケアに当たっているボランティアは、被災者が二次被害を受けないよう訓練を受けているため、一緒に働く専門のカウンセラーも喜んで協力しているという。

4月5日午前7時半、1機目のヘリコプターが着陸し、慈済が支援した物資を受け取った(上)。天祥地区に留まっていた外国人観光客たちは機内から降りても動悸が止まらず、ボランティアが関心を寄せた(下)。(撮影・陳光華)

被災者に寄り添い、宗教の力で心のケア

台湾全土で倒壊する危険性のある建物は四十カ所余りあり、主要構造上の損壊ではない建物は七十カ所以上ある。慈済は家屋が損壊した避難世帯を見舞い、一日でも早く安心した生活ができるよう、北部と花蓮の千四百世帯余りを対象に、世帯人数と被災の程度に応じて、二万元から五万元の災害見舞金を手渡した。

花蓮慈済ボランティアは、災害見舞金と慰問品を手渡す時の会場の移動経路にも気を配った。台北から来たボランティアの王宣方(ワン・イーフォン)さんによると、住民は先ず一つ目の丸テーブルでボランティアやソーシャルワーカーの協力の下に、書類に記入してから、災害見舞金や結縁品(縁結びの品)を受け取る。それから、二つ目の丸テーブルで休憩してもらうが、この時はボランティアと精舎の師父が付き添う。「師父と話をすれば、心が落ち着くのです」と王さんが補足した。

小さい丸テーブルでは、ボランティアと精舎の師父が住民の話に耳を傾けていた。
「私は一人だから、せいぜい何日か友人の家をはしごすればいいのですが、お年寄りがいたり、子どもがいて学校に通っていたり、特殊な事情のある家庭はどうしたらいいのでしょう」。頼さんは住居が地震で損壊した上、働いていた店も仕事がほとんどないため、休業に追い込まれた。一時的に収入がなくなっても、家のローンは待ってくれない。それに、被災者が多いため、適当なアパートを借りられるかどうかも心配だという。配付を受け取った後で、彼女はそのような問題と不安を語った。

地震翌日の午前、ボランティアは天王星ビル近くの東浄寺で最初の災害見舞金配付を実施した。(撮影・劉秋伶)

校舎の支援建設で減災防災と災害支援

慈済大学と慈済科技大学の教師と学生、東部の慈済青年懇親会の若者たちも、地震の後、積極的にボランティアに応募した。慈済の支援計画に従い、慈済大学の学生三十人余りと引率の教師たちは、まず中華小学校、化仁中学校、徳興野球場へ支援に向かった。

「テントや福慧ベッドの設置、被災者に配付する物資の袋詰めなど、ボランティアとしてできることはたくさんありました。僕たちは力を合わせて無事に仕事をやり遂げました」。
こう話す慈済大学理学療法学科修士課程の楊景湧(ヤン・ジンヨン)さんは、インドネシア出身の留学生だ。故郷ではほとんど地震がないため、当初は激しい揺れにかなりショックを受けたが、その後、勇気を奮ってボランティアに参加した。それで清明節の連休は忙しく過ごした。

楊さんはある時、雨が降っていたため、駐車場に行く住民のために傘を差して付き添った。

「苦労して手に入れたマイホームが一瞬にして無くなってしまってね……」
被災者はため息交じりに言ったが、彼は心が痛んでならなかった。

「ありがとう。あなたたちがいなかったら、この先どうやって暮らして行けばいいか分かりませんでした」。被災者の言葉に、彼は強く胸を打たれた。
「あの時、一人の人間として、人の役に立っていると実感しました」と、彼はしみじみと語った。

慈済大学学士再入学中医学科の林世峰(リン・スーフォン)さんは、簡単な英語を使って、震災当日の心の変化を見事に表現して見せた。

「Taker(もらう人)からGiver(与える人)に、Victim(被災者)からVolunteer(ボランティア)になったのです。午前中は動揺していましたが、午後はボランティアになって人々が安心できるよう慰めたので、自分も落ち着きを取り戻しました」。

被害を最小限に抑えるには、日頃から訓練を繰り返して災害に備えることが必要だ。「災害を最小限に止めるには、源からリスクを最低限まで抑えることです。備えるということは、自然に逆らうのではなく、災害は必ずやってくると予想して、災害状況に合わせて訓練することで準備ができるのです」。呂学正(リュ・シュエヅン)さんは、防災マネジメントの四つの段階におけるサイクルについて大まかに説明した。「三番目は臨機応変な対応によって、実際に災害が発生した時、様々な支援活動をすることです。復興と再建は最後の段階です」。

二〇一八年の〇二〇六花蓮地震の後、防災支援の能力を強化するため、慈済基金会は、花蓮県政府と「共善協力覚書」を交わすと同時に、新城、秀林、吉安の三つの町及び花蓮市との間に 「防災・災害支援協力協定」を結んだ。関連業務に携わる多くの公務員は、慈済の避難所運営研修に参加したことがある。また、県消防局と慈済が共催した防災士養成研修にも参加し、内政部認定防災士の資格を取得した人もいる。

花蓮市社会・労働課の蕭子蔚(シャオ・ヅ―ウェイ)課長はこう話す。
「私たちは地域発展協会の会員研修も実施しました。昨年の中央政府の水害対策訓練で、全員、実際に操作して練習したので、今回は皆落ち着いて対応できました」。

花蓮北部の慈済減災希望プロジェクトで建設された六つの校舎は、今回の地震を想定通りに耐え、プロジェクトの狙いを見事に体現した。即ち、老朽化した校舎を建て替えたことが、防災、減災を図るだけでなく、災害時の避難所確保になったのである。これは防災マネジメントの四段階のうちの「減災」と「臨機応変な対応」の良いモデルともなった。

大規模な配付が5回行われ、精舎の師父やボランティアが被災者の声に耳を傾けた(撮影・邱俊誠)

地震が発生した当日の昼、慈済は政府が立ち上げた避難所を支援した。その晩、精舎の師父が訪れて被災者を見舞った。(撮影・陳榮欽)

真剣に対応し、災害を防ぐ

「一般に学校の体育館は、安全係数を校舎の一・二倍にしていますが、私たちはそれよりも高い一・七倍に設計しています」。慈済基金会営建処顧問の林敏朝(リン・ミンツァオ)さんは、かつて減災希望プロジェクトの責任者を務めていた。化仁中学校の多機能体育館を建設した時、採光をよくするためにガラス窓の面積を広くとる一方で、SRC構造にすることで、軽量の屋根と壁を採用することができ、高い耐震性を確保したという。

「学校の建築物に関しては、地震が来ても倒壊しないのが前提ですが、そればかりでなく、住民の避難所としての役割も果たせるよう設計しています」と林さんが補足した。

同じく減災希望プロジェクトで建設された国風中学校は、防災と臨機応変な対応を具体的な行動で示した。四月八日午前九時三十一分、花蓮県秀林郷でマグニチュード三・三の地震が発生したが、震源の深さは僅か六・二キロメートルで、学校との距離も近かったため、校内では激しい揺れを感じた。

地震警報が鳴るや否や、全校生徒千九百人余りは直ちにその場で身をかがめ、その後、速やかに校舎を離れてグラウンドに集合した。車椅子の身障者生徒も教師やクラスメートの手を借りてグラウンド脇に避難した。クラスごとに人数を数え、教師も生徒も全員無事だと確認した後、劉文彦(リュウ・ウェンイェン)校長が朝礼台に上がって再度、注意を促した。

「地震が起きる度に、初めてまたは新たな地震だと思うようにしてください。『狼が来た』という物語のように、どうせ何も起きないだろうと、高を括ってはいけません。地震が起きた時はいつも落ち着いて、冷静に行動してください」。

小さな地震だからと軽視したり、建物が丈夫だからといって安心したりしてはいけない。老朽化した国風中学校の校舎は、慈済によって耐震性の高い新校舎に建て替えられ、倒壊の心配はなくなったが、学校では今でも、いつ何時襲ってくるかわからない地震に対応する準備をしている。起こり得る災害に備えて真剣に考え、万全を期しておくことが、減災の唯一の方法なのである。慈済は、被災世帯への災害見舞金の配付、入院している負傷者への慰問、葬儀場での「助念」、支援物資の準備といった第一段階の緊急援助が終わると、第二段階の生活再建支援を始める。慈済は、四月中旬に花蓮県政府、TSMC慈善基金会と役割分担を話し合った結果、主に新城、秀林、吉安の三つの町で住居の修繕を受け持つことになり、低所得者、病人、身寄りのないお年寄り、幼い子どもなど、弱者世帯を優先した。台湾全土から参加した専門ボランティアは、四月十八日から被災状況の調査と施工を始めた。そして、世界中の慈済人は、被災者の生活再建を支援するために、愛を募る募金活動に取り組んでいる。

(慈済月刊六九〇期より)

花蓮市にある天王星ビルは4月3日の強い地震で傾き、捜索救助隊員が到着した。(撮影・羅明道)

🔎 Zoom in picture)

地震の後、台湾全土で百棟以上の建物に赤(危険)や黄色(要注意)の紙が貼られた。

甚大被災地の花蓮では、慈済が公共機関と協力して第一線の救助人員のニーズに合わせて支援し、避難所の設置を効率よく行った。

そして、地震発生から二十四時間以内に一回目のお見舞金が届けられ、四月半ばまでに千四百世帯余りに配付を終えた。

続いて家屋の修繕に着手し、被災者の心身を落ち着かせた。

四月三日、清明節連休前日の早朝、マグニチュード七・二の強い地震が台湾全土を襲い、震源に近い花蓮県は大きな被害を受けた。県北部の秀林、新城、吉安の三つの町と花蓮市では、多くの家屋が損壊し、タロコ国立公園の遊歩道でがけ崩れや落石が発生した。政府は特捜隊を派遣し、全力で捜索と救助に当たった。

政府が「一級災害対応」を開始すると、慈済基金会は唯一の民間団体として、花蓮県消防局に設置された「花蓮県政府災害対策本部」に駐在した。そして、人的、物的資源を投入し、「前線部隊を援護する後方部隊の先鋒」となり、政府や他のNGOと協力して、全力で被災者を支え、最前線の救助活動を支援した。

花蓮慈済病院では、多数の負傷者を受け入れる体制を取った。医療スタッフが患者を支えてストレッチャーに乗せていた。(撮影・劉明繐)

孤立した山間部に空から物資を供給

震度六の激しい揺れにより、花蓮北部では、程度の差こそあれ、どの家でも家具が傾いたり倒れたりするなどの被害があった。また、避難中に転倒した人もいて、地震により台湾全土で千百人余りが負傷した。魏嘉彦(ウェイ・ジアイェン)花蓮市長もそのうちの一人だ。

「タンスが足の上に倒れてきたのです。幸い骨折までには至りませんでした」。
左足がタンスの下敷きになって怪我をした魏市長が松葉杖をつきながら避難所で陣頭指揮に当たっていた姿は、図らずも震災をまざまざと見せつけるものとなった。

花蓮慈済病院のボランティアをしている李思蓓(リー・スーペイ)さんは、二人の娘に、家の中の倒れた物を片付けたら入院している負傷者を見舞うよう念を押した。一回目に病院に運ばれた負傷者は八人だったと彼女は記憶している。そのうちの一人である陳さんという女性は、地震が起きた時、自分で栽培した野菜を友人に届けるために家を出ようとした矢先だった。ところが玄関で棚が倒れてきて、腰骨を折ってしまった。

「彼女は救急車を待てなかったので、タクシーで病院に行きました。立つことさえできなかったので、救急外来の医師が抱えて降ろしたそうです」と李さんが言った。

タロコ峡谷は、がけ崩れで道路が寸断され、数百人が山間部に取り残された。車両が通行できなかったため、人員や物資の輸送はヘリコプター頼みとなった。花蓮県警察局は内政部空中勤務総隊に救援を要請し、慈済にも支援物資の提供を求めた。

「ヘリコプターで支援物資を運んだのは初めてです」。
定年退職した元警察官で、花蓮慈警会の合心チームの幹事を務めるボランティアの許志賢(シユウ・ヅ―シエン)さんは、日頃から地域の警察や消防と連絡を取り合っており、連絡を受けるとすぐに手配を始めた。四月五日の朝六時には物資の準備が完了し、一行の立ち入りが許可された。警察官と共にパトカー三台とトラック一台に分乗して、立入規制区域のタロコヘリポートに向かい、待機した。

「一回目は、ヘリコプターで天祥のホテルに足止めされていたシンガポールや香港からの観光客九人を下山させました。徳勱(ドーマイ)師父がボランティアたちを伴って現地を訪れ、見舞ったので、彼らは感動のあまり涙を流していました」。

許さんによると、山間部に足止めされていたのは、観光客とホテル従業員、住民の他、天祥派出所や保安警察など公的機関の職員で、合計六百人余りが食糧と水を必要としていた。慈済は花蓮県警察、内政部空中勤務総隊と協力して、二回ヘリでの輸送を行い、道路が通行できるようになるまでの間、足止めされていた人々を支えると共に、世界中の慈済人の思いやりを救援活動の最前線に届けた。

4月3日午後、證厳法師が花蓮市街地の傾斜したビル現場で、ボランティアと救助人員を見舞った。(写真提供・花蓮本部)

官民が協力し合って避難住民を支援

花蓮県政府の統計によると、地震により七十七棟の建物が傾くか損壊して危険な状態になり、千七百戸余りの住宅に影響が出たという。県、市、郷(町)の役所は、県立体育館、徳興野球場、中華小学校、化仁中学校など八カ所に避難所を設け、慈済も支援に加わった。

吉安郷では化仁中学校が主な避難所となり、グラウンドには赤十字社から提供された大きなテントが張られた。七年前に慈済の支援で建設された多機能体育館内には、青や灰色の「ジンスー福慧間仕切りテント」が設置された。中には福慧ベッドとエコ毛布が用意され、被災者のプライバシーを守ると同時に、快適に過ごせるようになっていた。

避難した人々の様々な不便に対応するため、公的部門や民間団体が避難所に人員を派遣して奉仕した。例えば、中華小学校の避難所では、健康保険署の職員が、着の身着のままで建物を飛び出して保険証を持っていない住民のために保険証を再発行し、通信業者は避難者が無料で市内電話をかけられるよう電話機を設置した。また、不動産業者は賃貸物件を仲介し、国軍はグラウンドの一角に野戦シャワーテントを設置した。操作担当の士官は、「一度に十二人がシャワーを使用することができ、毎日、使用時間帯を二分して、男女を入れ替えています」と言った。

各方面の人々の善意に支えられ、各避難所は物資が十分にあった。しかし、どれだけ完璧な支援も、元来の穏やかな家庭生活に代わるものではない。魏市長は当時の状況を振り返って、「『何もかもなくしてしまった……』と気落ちしていた高齢者を、うちの職員とソーシャルワーカーが励まし続けました」と言った。

市長は、東華大学の顧(グー)教授に心から感謝した。教授は、このような被災者の気が晴れるようにと、車で景色の美しいキャンパスに連れて行き、精神的な傷を癒そうとしたそうだ。

また、数多くの震災支援の経験から、慈済は被災者の苦しみや心の痛みをよく理解しているため、経験豊富なボランティアを避難所に派遣し、専門のソーシャルワーカーや衛生機関の特約カウンセラーと共に、被災者のケアに当たってもらった。

慈済基金会慈善志業発展処総合企画室防災チームの専属スタッフ、黄玉琪(フワォン・ユーチー)さんの話によると、避難所で心のケアに当たっているボランティアは、被災者が二次被害を受けないよう訓練を受けているため、一緒に働く専門のカウンセラーも喜んで協力しているという。

4月5日午前7時半、1機目のヘリコプターが着陸し、慈済が支援した物資を受け取った(上)。天祥地区に留まっていた外国人観光客たちは機内から降りても動悸が止まらず、ボランティアが関心を寄せた(下)。(撮影・陳光華)

被災者に寄り添い、宗教の力で心のケア

台湾全土で倒壊する危険性のある建物は四十カ所余りあり、主要構造上の損壊ではない建物は七十カ所以上ある。慈済は家屋が損壊した避難世帯を見舞い、一日でも早く安心した生活ができるよう、北部と花蓮の千四百世帯余りを対象に、世帯人数と被災の程度に応じて、二万元から五万元の災害見舞金を手渡した。

花蓮慈済ボランティアは、災害見舞金と慰問品を手渡す時の会場の移動経路にも気を配った。台北から来たボランティアの王宣方(ワン・イーフォン)さんによると、住民は先ず一つ目の丸テーブルでボランティアやソーシャルワーカーの協力の下に、書類に記入してから、災害見舞金や結縁品(縁結びの品)を受け取る。それから、二つ目の丸テーブルで休憩してもらうが、この時はボランティアと精舎の師父が付き添う。「師父と話をすれば、心が落ち着くのです」と王さんが補足した。

小さい丸テーブルでは、ボランティアと精舎の師父が住民の話に耳を傾けていた。
「私は一人だから、せいぜい何日か友人の家をはしごすればいいのですが、お年寄りがいたり、子どもがいて学校に通っていたり、特殊な事情のある家庭はどうしたらいいのでしょう」。頼さんは住居が地震で損壊した上、働いていた店も仕事がほとんどないため、休業に追い込まれた。一時的に収入がなくなっても、家のローンは待ってくれない。それに、被災者が多いため、適当なアパートを借りられるかどうかも心配だという。配付を受け取った後で、彼女はそのような問題と不安を語った。

地震翌日の午前、ボランティアは天王星ビル近くの東浄寺で最初の災害見舞金配付を実施した。(撮影・劉秋伶)

校舎の支援建設で減災防災と災害支援

慈済大学と慈済科技大学の教師と学生、東部の慈済青年懇親会の若者たちも、地震の後、積極的にボランティアに応募した。慈済の支援計画に従い、慈済大学の学生三十人余りと引率の教師たちは、まず中華小学校、化仁中学校、徳興野球場へ支援に向かった。

「テントや福慧ベッドの設置、被災者に配付する物資の袋詰めなど、ボランティアとしてできることはたくさんありました。僕たちは力を合わせて無事に仕事をやり遂げました」。
こう話す慈済大学理学療法学科修士課程の楊景湧(ヤン・ジンヨン)さんは、インドネシア出身の留学生だ。故郷ではほとんど地震がないため、当初は激しい揺れにかなりショックを受けたが、その後、勇気を奮ってボランティアに参加した。それで清明節の連休は忙しく過ごした。

楊さんはある時、雨が降っていたため、駐車場に行く住民のために傘を差して付き添った。

「苦労して手に入れたマイホームが一瞬にして無くなってしまってね……」
被災者はため息交じりに言ったが、彼は心が痛んでならなかった。

「ありがとう。あなたたちがいなかったら、この先どうやって暮らして行けばいいか分かりませんでした」。被災者の言葉に、彼は強く胸を打たれた。
「あの時、一人の人間として、人の役に立っていると実感しました」と、彼はしみじみと語った。

慈済大学学士再入学中医学科の林世峰(リン・スーフォン)さんは、簡単な英語を使って、震災当日の心の変化を見事に表現して見せた。

「Taker(もらう人)からGiver(与える人)に、Victim(被災者)からVolunteer(ボランティア)になったのです。午前中は動揺していましたが、午後はボランティアになって人々が安心できるよう慰めたので、自分も落ち着きを取り戻しました」。

被害を最小限に抑えるには、日頃から訓練を繰り返して災害に備えることが必要だ。「災害を最小限に止めるには、源からリスクを最低限まで抑えることです。備えるということは、自然に逆らうのではなく、災害は必ずやってくると予想して、災害状況に合わせて訓練することで準備ができるのです」。呂学正(リュ・シュエヅン)さんは、防災マネジメントの四つの段階におけるサイクルについて大まかに説明した。「三番目は臨機応変な対応によって、実際に災害が発生した時、様々な支援活動をすることです。復興と再建は最後の段階です」。

二〇一八年の〇二〇六花蓮地震の後、防災支援の能力を強化するため、慈済基金会は、花蓮県政府と「共善協力覚書」を交わすと同時に、新城、秀林、吉安の三つの町及び花蓮市との間に 「防災・災害支援協力協定」を結んだ。関連業務に携わる多くの公務員は、慈済の避難所運営研修に参加したことがある。また、県消防局と慈済が共催した防災士養成研修にも参加し、内政部認定防災士の資格を取得した人もいる。

花蓮市社会・労働課の蕭子蔚(シャオ・ヅ―ウェイ)課長はこう話す。
「私たちは地域発展協会の会員研修も実施しました。昨年の中央政府の水害対策訓練で、全員、実際に操作して練習したので、今回は皆落ち着いて対応できました」。

花蓮北部の慈済減災希望プロジェクトで建設された六つの校舎は、今回の地震を想定通りに耐え、プロジェクトの狙いを見事に体現した。即ち、老朽化した校舎を建て替えたことが、防災、減災を図るだけでなく、災害時の避難所確保になったのである。これは防災マネジメントの四段階のうちの「減災」と「臨機応変な対応」の良いモデルともなった。

大規模な配付が5回行われ、精舎の師父やボランティアが被災者の声に耳を傾けた(撮影・邱俊誠)

地震が発生した当日の昼、慈済は政府が立ち上げた避難所を支援した。その晩、精舎の師父が訪れて被災者を見舞った。(撮影・陳榮欽)

真剣に対応し、災害を防ぐ

「一般に学校の体育館は、安全係数を校舎の一・二倍にしていますが、私たちはそれよりも高い一・七倍に設計しています」。慈済基金会営建処顧問の林敏朝(リン・ミンツァオ)さんは、かつて減災希望プロジェクトの責任者を務めていた。化仁中学校の多機能体育館を建設した時、採光をよくするためにガラス窓の面積を広くとる一方で、SRC構造にすることで、軽量の屋根と壁を採用することができ、高い耐震性を確保したという。

「学校の建築物に関しては、地震が来ても倒壊しないのが前提ですが、そればかりでなく、住民の避難所としての役割も果たせるよう設計しています」と林さんが補足した。

同じく減災希望プロジェクトで建設された国風中学校は、防災と臨機応変な対応を具体的な行動で示した。四月八日午前九時三十一分、花蓮県秀林郷でマグニチュード三・三の地震が発生したが、震源の深さは僅か六・二キロメートルで、学校との距離も近かったため、校内では激しい揺れを感じた。

地震警報が鳴るや否や、全校生徒千九百人余りは直ちにその場で身をかがめ、その後、速やかに校舎を離れてグラウンドに集合した。車椅子の身障者生徒も教師やクラスメートの手を借りてグラウンド脇に避難した。クラスごとに人数を数え、教師も生徒も全員無事だと確認した後、劉文彦(リュウ・ウェンイェン)校長が朝礼台に上がって再度、注意を促した。

「地震が起きる度に、初めてまたは新たな地震だと思うようにしてください。『狼が来た』という物語のように、どうせ何も起きないだろうと、高を括ってはいけません。地震が起きた時はいつも落ち着いて、冷静に行動してください」。

小さな地震だからと軽視したり、建物が丈夫だからといって安心したりしてはいけない。老朽化した国風中学校の校舎は、慈済によって耐震性の高い新校舎に建て替えられ、倒壊の心配はなくなったが、学校では今でも、いつ何時襲ってくるかわからない地震に対応する準備をしている。起こり得る災害に備えて真剣に考え、万全を期しておくことが、減災の唯一の方法なのである。慈済は、被災世帯への災害見舞金の配付、入院している負傷者への慰問、葬儀場での「助念」、支援物資の準備といった第一段階の緊急援助が終わると、第二段階の生活再建支援を始める。慈済は、四月中旬に花蓮県政府、TSMC慈善基金会と役割分担を話し合った結果、主に新城、秀林、吉安の三つの町で住居の修繕を受け持つことになり、低所得者、病人、身寄りのないお年寄り、幼い子どもなど、弱者世帯を優先した。台湾全土から参加した専門ボランティアは、四月十八日から被災状況の調査と施工を始めた。そして、世界中の慈済人は、被災者の生活再建を支援するために、愛を募る募金活動に取り組んでいる。

(慈済月刊六九〇期より)

關鍵字

六月の出来事

06・02

◎慈済インドネシア支部は2003年、北スマトラ州メダン市の低海抜地域に位置し、洪水被害に遭った、国立六十六、六十七、六十八べラワン小学校の支援建設を進め、2004年に竣工した。本日、学校の20周年記念として、インドネシア慈済人医会メンバーとボランティアから成るチームが、学校で施療を行った。歯科、耳鼻咽喉科、皮膚科、一般内科の診療に加えて、行動が不便な人の家に往診した。543人の保護者や教師、生徒及び住民に祝福を届けた。

◎慈済基金会は、0403花蓮地震被災者ケアプロジェクトにおける「安住計画」を本日、県庁舎において花蓮県政府と協力する由の契約を交わした。広東街と信義街の交差点付近に被災者が一時的に入居可能な集合住宅を再建する案で、低層の集合住宅様式が採用された。初歩段階では122戸の1LDK、32戸の2LDKの建設が計画されており、双方が手を携えて被災地の復旧と再建に尽す。

06・05

慈済基金会と台湾モバイルは、「企業共善」における協力覚書を交わした。「活動ごとに企業が支援する」共善プロジェクトで、台湾モバイルの「OP店の立ち上げパッケージ」という新規出店サポートの推進、そして同社の5180にダイヤルすると簡単に寄付と通話料と一緒に支払いができる「5180即寄付」という支援と合わせ、3つの行動を通してデジタルエンパワーメント、高齢者介護、地方の創生という慈善における三大領域に力を入れている。

06・07

慈済基金会は能登半島地震の被災者ケアを続けている。7日から9日まで石川県鳳珠郡能登町で第二回の見舞金配付活動が行われ、5つの会場で722世帯に祝福を届けた。(詳細ページ8から27ページ)

06・08

◎ドミニカの慈済ボランティアは、アンカー財団の要請に応じて、UFHEC大学歯学部と共同でサントドミンゴ市オリンピックパークにおいて、無料の歯科検査サービスを50人のアスリートに提供すると共に、歯学部の教師や学生に慈済と竹筒歳月の精神を紹介した。

◎慈済インドネシア支部は、ノースジャカルタ・ペンジャリンガン町のカマルムアラ村で、「貧困支援建設プロジェクト」を実施しているが、これまでステップ4が完成し、30世帯の住民が新居に移った。ステップ5は2024年3月16日に始動し、ボランティアが村で視察し、8世帯に対する支援建設を行う。本日、支援を受ける村民が同意書に署名した。

06・09

◎慈済アルゼンチン連絡所は、市民社会団体「国境なき太陽と緑の会」(Asociacion Sol Y Verde Sin Frontera)と本年度第一回冬季配付活動を催し、現地の32の貧困世帯に米と食糧セットを配付し、171人に祝福を届けた。

◎インドネシア・アチェ州の慈済ボランティアは、メラボー大愛村で1100袋(1袋5キロ)の米を配付して、住民が安心して祝日を過ごせるようにした。当大愛村は2004年のスマトラ島沖大地震の後に建てられたもので、近年はコロナ禍の後、通貨の下落とインフレに見舞われ、慈済ボランティアが途切れることなく、村民のケアを続けて来た。

06・14

慈済基金会は長期的にモザンビークのサイクロン・イダイ被害における支援建設プロジェクトを展開しているが、本日、EPCエストゥーロ小学校で、再建される13校の合同起工式が行われた。243の教室が建設される予定である。

06・17

本日、慈済基金会モザンビーク、サイクロン・イダイ被害長期支援建設プロジェクトの1つである、メトゥシラ大愛村の移管式典が催され、フィリップ・ニュシ大統領の主催で記念碑の除幕とテープカットが行われた。当大愛村はファソラ州ニャマタンダ郡メトゥシラにあり、2022年4月12日に工事が始まり、今411戸の恒久住宅が完成した。

06・18

◎慈済基金会は政府の農業部食糧署に「食糧の人道支援」を申請し、本年度分として1200トンの米をハイチへの支援に充てる。一回目の300トンは本日、現地の通関手続きが終わり、順次学校、病院、孤児院及びコミュニティに届けられ、貧しい高齢者や病人、子供など社会的弱者を支援する。

◎慈済ネパール初めてのコミュニティセンターがルンビニ文化都市第11里にあるマハーデーヴァで運用を開始した。現地ボランティアのサントシュさんが自主的に住居の一階を提供し、慈済のコミュニティセンターとした。中には仏堂、多用途室、職能養成・裁縫クラスがあり、村の女性が自宅の近くで手に職を付けるスキルを学ぶことができるようにした。

06・22

スリランカは南西の季節風の影響による豪雨と強風で被害が出た。12日まで既に37人が死亡し、23万人が影響を受け、1万6千棟余りの家屋が損壊した。慈済スリランカ連絡所のボランティア6人が7日、政府の許可を得て、被災地のカルタラを視察し、一軒一軒訪ね、政府から受け取った被災者名簿と照らし合わせた。本日、572の被災世帯に米、ヒラ豆、麺、粥、茶葉、食用油、ミネラルウォーター、石鹸、毛布などの物資が入った生活パックを配付した。

06・02

◎慈済インドネシア支部は2003年、北スマトラ州メダン市の低海抜地域に位置し、洪水被害に遭った、国立六十六、六十七、六十八べラワン小学校の支援建設を進め、2004年に竣工した。本日、学校の20周年記念として、インドネシア慈済人医会メンバーとボランティアから成るチームが、学校で施療を行った。歯科、耳鼻咽喉科、皮膚科、一般内科の診療に加えて、行動が不便な人の家に往診した。543人の保護者や教師、生徒及び住民に祝福を届けた。

◎慈済基金会は、0403花蓮地震被災者ケアプロジェクトにおける「安住計画」を本日、県庁舎において花蓮県政府と協力する由の契約を交わした。広東街と信義街の交差点付近に被災者が一時的に入居可能な集合住宅を再建する案で、低層の集合住宅様式が採用された。初歩段階では122戸の1LDK、32戸の2LDKの建設が計画されており、双方が手を携えて被災地の復旧と再建に尽す。

06・05

慈済基金会と台湾モバイルは、「企業共善」における協力覚書を交わした。「活動ごとに企業が支援する」共善プロジェクトで、台湾モバイルの「OP店の立ち上げパッケージ」という新規出店サポートの推進、そして同社の5180にダイヤルすると簡単に寄付と通話料と一緒に支払いができる「5180即寄付」という支援と合わせ、3つの行動を通してデジタルエンパワーメント、高齢者介護、地方の創生という慈善における三大領域に力を入れている。

06・07

慈済基金会は能登半島地震の被災者ケアを続けている。7日から9日まで石川県鳳珠郡能登町で第二回の見舞金配付活動が行われ、5つの会場で722世帯に祝福を届けた。(詳細ページ8から27ページ)

06・08

◎ドミニカの慈済ボランティアは、アンカー財団の要請に応じて、UFHEC大学歯学部と共同でサントドミンゴ市オリンピックパークにおいて、無料の歯科検査サービスを50人のアスリートに提供すると共に、歯学部の教師や学生に慈済と竹筒歳月の精神を紹介した。

◎慈済インドネシア支部は、ノースジャカルタ・ペンジャリンガン町のカマルムアラ村で、「貧困支援建設プロジェクト」を実施しているが、これまでステップ4が完成し、30世帯の住民が新居に移った。ステップ5は2024年3月16日に始動し、ボランティアが村で視察し、8世帯に対する支援建設を行う。本日、支援を受ける村民が同意書に署名した。

06・09

◎慈済アルゼンチン連絡所は、市民社会団体「国境なき太陽と緑の会」(Asociacion Sol Y Verde Sin Frontera)と本年度第一回冬季配付活動を催し、現地の32の貧困世帯に米と食糧セットを配付し、171人に祝福を届けた。

◎インドネシア・アチェ州の慈済ボランティアは、メラボー大愛村で1100袋(1袋5キロ)の米を配付して、住民が安心して祝日を過ごせるようにした。当大愛村は2004年のスマトラ島沖大地震の後に建てられたもので、近年はコロナ禍の後、通貨の下落とインフレに見舞われ、慈済ボランティアが途切れることなく、村民のケアを続けて来た。

06・14

慈済基金会は長期的にモザンビークのサイクロン・イダイ被害における支援建設プロジェクトを展開しているが、本日、EPCエストゥーロ小学校で、再建される13校の合同起工式が行われた。243の教室が建設される予定である。

06・17

本日、慈済基金会モザンビーク、サイクロン・イダイ被害長期支援建設プロジェクトの1つである、メトゥシラ大愛村の移管式典が催され、フィリップ・ニュシ大統領の主催で記念碑の除幕とテープカットが行われた。当大愛村はファソラ州ニャマタンダ郡メトゥシラにあり、2022年4月12日に工事が始まり、今411戸の恒久住宅が完成した。

06・18

◎慈済基金会は政府の農業部食糧署に「食糧の人道支援」を申請し、本年度分として1200トンの米をハイチへの支援に充てる。一回目の300トンは本日、現地の通関手続きが終わり、順次学校、病院、孤児院及びコミュニティに届けられ、貧しい高齢者や病人、子供など社会的弱者を支援する。

◎慈済ネパール初めてのコミュニティセンターがルンビニ文化都市第11里にあるマハーデーヴァで運用を開始した。現地ボランティアのサントシュさんが自主的に住居の一階を提供し、慈済のコミュニティセンターとした。中には仏堂、多用途室、職能養成・裁縫クラスがあり、村の女性が自宅の近くで手に職を付けるスキルを学ぶことができるようにした。

06・22

スリランカは南西の季節風の影響による豪雨と強風で被害が出た。12日まで既に37人が死亡し、23万人が影響を受け、1万6千棟余りの家屋が損壊した。慈済スリランカ連絡所のボランティア6人が7日、政府の許可を得て、被災地のカルタラを視察し、一軒一軒訪ね、政府から受け取った被災者名簿と照らし合わせた。本日、572の被災世帯に米、ヒラ豆、麺、粥、茶葉、食用油、ミネラルウォーター、石鹸、毛布などの物資が入った生活パックを配付した。

關鍵字

Words From Dharma Master Cheng Yen—The Path to Benefit All

Translated by Teresa Chang

Every day, I observe the world’s events—from climate change to conflicts between nations—witnessing crises, human suffering, and impermanence. I also see Tzu Chi volunteers active in many countries, working independently or with other non-governmental organizations to provide care in areas affected by fires, floods, earthquakes, or other disasters. Seeing the images from these disaster areas is truly heart-wrenching. At the same time, it reminds me of how fortunate we are to live in safe, clean, and orderly environments.

In summer, we have air conditioning; in winter, we have heating. We live financially carefree lives, with no shortage of food and clothing, and enjoy convenient transportation. We should feel very content. However, blessings do not happen without a reason; they are the result of past deeds that created safety, wealth, and other good circumstances. As we count our blessings, it is important to create more blessings. We can do this by reducing our desires and by giving more.

More than 2,500 years ago, Prince Siddhartha—later known as the Buddha—witnessed the grim realities of human existence when he ventured beyond his palace walls, including poverty, aging, sickness, and death. In response, he renounced his comfortable life in the palace to seek an end to suffering. Recognizing the limits of individual effort, he embarked on a quest to discover a universal path that could liberate all beings from the suffering and afflictions of life.

As a follower and proponent of Buddhism, I have always aspired to honor the Buddha by contributing to the welfare of his birthplace and other significant locations in his life journey. My disciples in Malaysia and Singapore understand my aspirations and are helping me fulfill this goal. They have been dedicated to this mission for more than two years now. Setting aside their jobs and careers, they spend extended periods of time in Nepal and India, where they engage in charitable, medical, and educational work. It is crucial for them to establish a deep and lasting connection with local communities to create a meaningful impact; this is why extended stays are essential. They have willingly sacrificed the comforts they could have enjoyed in Malaysia and Singapore to volunteer in Nepal and India, adapting to local climates and overcoming various challenges to serve local needy people. Their commitment reflects great courage.

I feel that my life is truly worthwhile when I see how our volunteers walk together on the Bodhisattva Path, sharing the same altruistic aspirations. I hope that our dedication to this path will be lasting. Those who led the way diligently served people in need, while those that follow must do the same, moving forward with mindful resolve. Generation after generation, we must ensure that our steps remain steady and firm, always staying true to our path.

Time passes from seconds to minutes, hours, and days. With 60 seconds in a minute and 24 hours in a day, 86,400 seconds tick by each day. While this seems like a lot, it slips away quickly and silently. The best approach is to make the most of the present moment and avoid letting a single second pass by with regret. Living this way leaves us with a clear conscience. Therefore, we must stay vigilant. If we remain unaware and constantly think about ourselves, what we lack, or compare ourselves with others, we will miss the essence of time. Living in comparison and calculation is truly bitter and a waste of time.

Everyone possesses the same wisdom as the Buddha, but deluded thinking and inner impurities prevent us from realizing this inherent potential. This is the greatest obstacle in life. The teachings of Buddhism are truly worth exploring. They guide us to purify our hearts and minds. By eliminating mental pollutants, such as greed, hatred, ignorance, arrogance, and doubt, we can uncover our clear and true nature. Only then can we clearly see our way and know how to follow it.

The Buddha came to this world to teach the Bodhisattva Path and share its wisdom with us, and we are now learning it. To truly learn, we must have a simple and childlike heart. The Bodhisattva Path leads to Buddhahood, and without following it, true awakening is unattainable. We must be aware that our lives become shorter with each passing day. Recognizing the fleeting nature of time, we should use it wisely by embracing goodness and creating blessings for humanity. Let’s focus on pursuing learning, self-cultivation, and altruism. Please be ever more mindful.

Dharma Master Cheng Yen encourages all Tzu Chi volunteers to remain steadfast on the Bodhisattva Path, continually cultivating themselves and contributing to the common good.   Huang Xiao-zhe     

Translated by Teresa Chang

Every day, I observe the world’s events—from climate change to conflicts between nations—witnessing crises, human suffering, and impermanence. I also see Tzu Chi volunteers active in many countries, working independently or with other non-governmental organizations to provide care in areas affected by fires, floods, earthquakes, or other disasters. Seeing the images from these disaster areas is truly heart-wrenching. At the same time, it reminds me of how fortunate we are to live in safe, clean, and orderly environments.

In summer, we have air conditioning; in winter, we have heating. We live financially carefree lives, with no shortage of food and clothing, and enjoy convenient transportation. We should feel very content. However, blessings do not happen without a reason; they are the result of past deeds that created safety, wealth, and other good circumstances. As we count our blessings, it is important to create more blessings. We can do this by reducing our desires and by giving more.

More than 2,500 years ago, Prince Siddhartha—later known as the Buddha—witnessed the grim realities of human existence when he ventured beyond his palace walls, including poverty, aging, sickness, and death. In response, he renounced his comfortable life in the palace to seek an end to suffering. Recognizing the limits of individual effort, he embarked on a quest to discover a universal path that could liberate all beings from the suffering and afflictions of life.

As a follower and proponent of Buddhism, I have always aspired to honor the Buddha by contributing to the welfare of his birthplace and other significant locations in his life journey. My disciples in Malaysia and Singapore understand my aspirations and are helping me fulfill this goal. They have been dedicated to this mission for more than two years now. Setting aside their jobs and careers, they spend extended periods of time in Nepal and India, where they engage in charitable, medical, and educational work. It is crucial for them to establish a deep and lasting connection with local communities to create a meaningful impact; this is why extended stays are essential. They have willingly sacrificed the comforts they could have enjoyed in Malaysia and Singapore to volunteer in Nepal and India, adapting to local climates and overcoming various challenges to serve local needy people. Their commitment reflects great courage.

I feel that my life is truly worthwhile when I see how our volunteers walk together on the Bodhisattva Path, sharing the same altruistic aspirations. I hope that our dedication to this path will be lasting. Those who led the way diligently served people in need, while those that follow must do the same, moving forward with mindful resolve. Generation after generation, we must ensure that our steps remain steady and firm, always staying true to our path.

Time passes from seconds to minutes, hours, and days. With 60 seconds in a minute and 24 hours in a day, 86,400 seconds tick by each day. While this seems like a lot, it slips away quickly and silently. The best approach is to make the most of the present moment and avoid letting a single second pass by with regret. Living this way leaves us with a clear conscience. Therefore, we must stay vigilant. If we remain unaware and constantly think about ourselves, what we lack, or compare ourselves with others, we will miss the essence of time. Living in comparison and calculation is truly bitter and a waste of time.

Everyone possesses the same wisdom as the Buddha, but deluded thinking and inner impurities prevent us from realizing this inherent potential. This is the greatest obstacle in life. The teachings of Buddhism are truly worth exploring. They guide us to purify our hearts and minds. By eliminating mental pollutants, such as greed, hatred, ignorance, arrogance, and doubt, we can uncover our clear and true nature. Only then can we clearly see our way and know how to follow it.

The Buddha came to this world to teach the Bodhisattva Path and share its wisdom with us, and we are now learning it. To truly learn, we must have a simple and childlike heart. The Bodhisattva Path leads to Buddhahood, and without following it, true awakening is unattainable. We must be aware that our lives become shorter with each passing day. Recognizing the fleeting nature of time, we should use it wisely by embracing goodness and creating blessings for humanity. Let’s focus on pursuing learning, self-cultivation, and altruism. Please be ever more mindful.

Dharma Master Cheng Yen encourages all Tzu Chi volunteers to remain steadfast on the Bodhisattva Path, continually cultivating themselves and contributing to the common good.   Huang Xiao-zhe     

關鍵字

謝罪と許し

彼女は、以前もう二度と会いたくない人だと思っていた。
五年後、私たちは互いに抱擁し、祝福し合った。
「ごめんなさい。若い頃の私は何も分かっていなかったので、単純で善良なあなたを傷つけてしまいました!」。
そう言われて、私は涙が止まらなかった。辛くもあり、感謝も感じた。
謝罪し、許しを得るには、大きな勇気が要る。

大分前のことだが、私は職場でいじめに遭った。当時、「いじめ」という言葉は、社会であまり認識されてなく、私もどのように自分を守れば良いのか分からなかった。頭で、自分を慰めたり、前世で「借り」があったのだから、早く返せば良くなると思ったりしていたが、体は正直にそれに反応し、心の中にあの事がわだかまりとなった。

毎朝目を開けて起きた時、出勤するのが辛いと感じた。会社の入り口に来ると、呼吸が苦しくなるくらいの圧迫感があった。そして、何気なく頭皮に触った時、十元玉くらいの大きさのハゲたところが見つかった。私はびっくりした。その時初めて、円形脱毛という言葉を知った。主な原因は「ストレス」である。

丁度妊娠したことをきっかけに、辞表を提出した。理由は育児に専念したいからと書いた。私はあの環境を離れれば良くなると思っていた。ところが、心の傷は潜在意識に記憶されていた。

退職して五年間、私は何度も、自分があの同僚と言い争いをする夢を見た。実生活で抑えていた言葉を夢の中で思う存分吐き出し、淚が枕カバーを濡らして目が覚めた。もう二度と彼女に会いたくない、あの同僚は私の生涯で一番恐ろしい悪夢のような存在だ、と自分に言い聞かせた。

どういうわけか、私が退職した後、相手の態度が大きく方向転換した。每年誕生日にお祝いのメッセージを送ってくれたり、祝祭日の時に必ず挨拶の言葉を送って来たりした。彼女が私の仕事を引き受けてから、私の苦楽を知り、思いやりが芽生えたのかもしれない。共通の元同僚を通じて、彼女は「心の講座」に参加してから大きく変わったと聞いた。

しかし、私はまだ彼女に向き合う準備は出来ていなかった。元同僚に集まろうと何度も誘われたが、彼女が来るのなら、私は参加を断った。ある日、同僚は私にこう言った。「みんな、母親になって、態度も柔らかくなったわ。過去の事は何とかして乗り越えなければならないのよ」と。私はやっと勇気を出して参加することにした。

五年ぶりに、私は再び自分を傷つけた人に会った。初めはとても緊張して笑顏もぎこちなく、少し震えていた。何時間か経つと、私たちの間のわだかまりは、皆が楽しそうに子育ての経験を互いに分かち合う中で、少しずつ消えていった。

会の終わりに、彼女は私を抱擁して別れを告げた。その瞬間、電流が私の体を駆け抜けるような感じがした。二度と会いたくないと思っていた人と会っただけでなく、互いに抱擁したのだ。

家に帰って間もなく、彼女からメッセージが届いた。「今日あなたに会えてとても嬉しかった!本当にごめんなさい。若い頃の私は何もわかっていなかったので、単純で善良なあなたを傷つけてしまったわ!」。

私は淚がぼろぼろと出て、抑えられなかった。淚を流したのは、遂につらい思いを分かってくれた、という思いからだった。当時、彼女は私の心に大きな穴を開けたが、彼女は誠意で少しずつ埋めてくれた。あの抱擁とメッセージが穴を埋め、傷を癒してくれた。また淚を流したのは、それ以上に深い感謝の気持ちだった。

人を傷つけても気づいていない人は多く、自分で傷を舐めて暮らしている人も多い。私は幸運だった。私を傷つけた人は自覚し、大きな勇気を持って過去に向き合い、私に誠実に謝ってくれたのだ。

ずっと心の中にあった腫れ物が瞬時にして消えてしまい、代わりに、リラックスした感じと喜びが訪れた。その瞬間、私たちはお互いに悪縁を解消して善縁を結んだのだと知った。

近頃、證厳法師の海外ボランティアに向けたある開示を聞いた。「過去に人との間に調和が取れないことがあっても、良縁を結ばなければいけません。ですから、帰宅してから気の合わない人に電話を掛けて分かち合うのです。お互いに意見の違いがあったのは、自分が悪かったのかもしれません。あなたに謝ります、と話してみてください。過去の憎しみが解ければ、心も落ち着き、わだかまりは解けるでしょう。返すべきものを返せば、人と人の間は清らかになるものです」。

人生には、時に人を傷つけたり、人に傷つけられたりすることがあるものだ。避けなければならないのは、人と悪縁を結ぶことである。自分の最期の日を思い浮かべてみよう。後の人が抱くのは私の温かさだろうか、或いは私への恨みだろうか。そうすれば、思わず自分に「仏になる前に、人と良縁を結ぼう」と注意を促すだろう。

謝罪と許しは共に大きな勇気が要る。私たちの心に愛だけが残り、恨みが無いようにしたいものだ。

(慈済月刊六八八期より)

彼女は、以前もう二度と会いたくない人だと思っていた。
五年後、私たちは互いに抱擁し、祝福し合った。
「ごめんなさい。若い頃の私は何も分かっていなかったので、単純で善良なあなたを傷つけてしまいました!」。
そう言われて、私は涙が止まらなかった。辛くもあり、感謝も感じた。
謝罪し、許しを得るには、大きな勇気が要る。

大分前のことだが、私は職場でいじめに遭った。当時、「いじめ」という言葉は、社会であまり認識されてなく、私もどのように自分を守れば良いのか分からなかった。頭で、自分を慰めたり、前世で「借り」があったのだから、早く返せば良くなると思ったりしていたが、体は正直にそれに反応し、心の中にあの事がわだかまりとなった。

毎朝目を開けて起きた時、出勤するのが辛いと感じた。会社の入り口に来ると、呼吸が苦しくなるくらいの圧迫感があった。そして、何気なく頭皮に触った時、十元玉くらいの大きさのハゲたところが見つかった。私はびっくりした。その時初めて、円形脱毛という言葉を知った。主な原因は「ストレス」である。

丁度妊娠したことをきっかけに、辞表を提出した。理由は育児に専念したいからと書いた。私はあの環境を離れれば良くなると思っていた。ところが、心の傷は潜在意識に記憶されていた。

退職して五年間、私は何度も、自分があの同僚と言い争いをする夢を見た。実生活で抑えていた言葉を夢の中で思う存分吐き出し、淚が枕カバーを濡らして目が覚めた。もう二度と彼女に会いたくない、あの同僚は私の生涯で一番恐ろしい悪夢のような存在だ、と自分に言い聞かせた。

どういうわけか、私が退職した後、相手の態度が大きく方向転換した。每年誕生日にお祝いのメッセージを送ってくれたり、祝祭日の時に必ず挨拶の言葉を送って来たりした。彼女が私の仕事を引き受けてから、私の苦楽を知り、思いやりが芽生えたのかもしれない。共通の元同僚を通じて、彼女は「心の講座」に参加してから大きく変わったと聞いた。

しかし、私はまだ彼女に向き合う準備は出来ていなかった。元同僚に集まろうと何度も誘われたが、彼女が来るのなら、私は参加を断った。ある日、同僚は私にこう言った。「みんな、母親になって、態度も柔らかくなったわ。過去の事は何とかして乗り越えなければならないのよ」と。私はやっと勇気を出して参加することにした。

五年ぶりに、私は再び自分を傷つけた人に会った。初めはとても緊張して笑顏もぎこちなく、少し震えていた。何時間か経つと、私たちの間のわだかまりは、皆が楽しそうに子育ての経験を互いに分かち合う中で、少しずつ消えていった。

会の終わりに、彼女は私を抱擁して別れを告げた。その瞬間、電流が私の体を駆け抜けるような感じがした。二度と会いたくないと思っていた人と会っただけでなく、互いに抱擁したのだ。

家に帰って間もなく、彼女からメッセージが届いた。「今日あなたに会えてとても嬉しかった!本当にごめんなさい。若い頃の私は何もわかっていなかったので、単純で善良なあなたを傷つけてしまったわ!」。

私は淚がぼろぼろと出て、抑えられなかった。淚を流したのは、遂につらい思いを分かってくれた、という思いからだった。当時、彼女は私の心に大きな穴を開けたが、彼女は誠意で少しずつ埋めてくれた。あの抱擁とメッセージが穴を埋め、傷を癒してくれた。また淚を流したのは、それ以上に深い感謝の気持ちだった。

人を傷つけても気づいていない人は多く、自分で傷を舐めて暮らしている人も多い。私は幸運だった。私を傷つけた人は自覚し、大きな勇気を持って過去に向き合い、私に誠実に謝ってくれたのだ。

ずっと心の中にあった腫れ物が瞬時にして消えてしまい、代わりに、リラックスした感じと喜びが訪れた。その瞬間、私たちはお互いに悪縁を解消して善縁を結んだのだと知った。

近頃、證厳法師の海外ボランティアに向けたある開示を聞いた。「過去に人との間に調和が取れないことがあっても、良縁を結ばなければいけません。ですから、帰宅してから気の合わない人に電話を掛けて分かち合うのです。お互いに意見の違いがあったのは、自分が悪かったのかもしれません。あなたに謝ります、と話してみてください。過去の憎しみが解ければ、心も落ち着き、わだかまりは解けるでしょう。返すべきものを返せば、人と人の間は清らかになるものです」。

人生には、時に人を傷つけたり、人に傷つけられたりすることがあるものだ。避けなければならないのは、人と悪縁を結ぶことである。自分の最期の日を思い浮かべてみよう。後の人が抱くのは私の温かさだろうか、或いは私への恨みだろうか。そうすれば、思わず自分に「仏になる前に、人と良縁を結ぼう」と注意を促すだろう。

謝罪と許しは共に大きな勇気が要る。私たちの心に愛だけが残り、恨みが無いようにしたいものだ。

(慈済月刊六八八期より)

關鍵字

Healthcare at Their Doorstep

By Zhu Xiu-lian and Lin Jing-jun
Translated by Siri Su
Photos by Hsiao Yiu-hwa

Tzu Chi’s medical team visits families one by one, providing physical checkups and caring for their health.

Volunteers conduct health checkups in Rahul Nagar, taking blood pressure, measuring height and weight, and offering urine tests.

During his quest for enlightenment, the Buddha is believed to have practiced asceticism in a cave on Pragbodhi Hill, near Bodh Gaya. At the foot of the hill are several villages, including Rahul Nagar, home to around 300 households.

Many families in Rahul Nagar raise cows and sheep. Most villagers follow the Hindu faith and consider cows sacred. Consequently, they do not raise cows for meat but primarily for milk production, assistance with farming tasks, and the creation of cow dung cakes. (Cow dung cakes are a type of biofuel, made by mixing dung with hay, then letting the mixture dry until it is hard.)

Moringa trees provide abundant shade outdoors in the village, and wheat stalks hang heavy and full before harvest. The sounds of chickens and dogs mingle, while cows and sheep roam freely. Residents, adults and children alike, bathe openly in the fresh air, lending a carefree ambiance to the village. It feels like a place disconnected from the modern world.

One day, several strangers entered the village, drawing curious villagers to gather and observe. Some children extended their hands to them, asking for things. These strangers were Tzu Chi volunteers.

For over a year, Tzu Chi has been conducting health checkups in villages in and near Bodh Gaya. Rahul Nagar is the ninth village to receive these services. Similar checkups have been done for monks from 12 temples and teachers from eight schools. The checkups include measuring villagers’ height, weight, and blood pressure, as well as administering urine tests for protein, occult blood, and glucose. If abnormalities are found, medical referral forms are filled out for villagers to seek treatment at a community health center in Bodh Gaya. If a resident’s body mass index falls below 16, they are provided with beans or milk to improve their nutrition.

Volunteers conduct door-to-door visits for these medical efforts and establish “Tzu Chi house numbers.” Lim Kim Yan, a retired nurse from Singapore staying long-term in Bodh Gaya, created this house-number system after noticing the lack of doorplates and addresses in local villages. Recycled cardboard is used to make doorplates carrying Tzu Chi house numbers. The results of the checkups are entered into a computer and organized by house number. This allows health data to be easily accessed to monitor long-term health conditions.

India’s summers are often unbearably hot, with temperatures soaring past 40°C (104°F). Some asked Lim why she didn’t just choose a fixed location where villagers could go to receive checkups, instead of going door-to-door. She explained, “I prefer to go house-to-house because it allows me to get a better understanding of their living conditions and family situations. The information I gather can be shared with our charity team to offer further assistance if needed.” Plus, Lim doesn’t mind the added workload. Helping one more villager regain their health means they can better fulfill their responsibilities, preventing their family from falling into poverty. These thoughts keep her going.

Volunteer Lim Kim Yan creates hand-drawn maps of the households she visits and establishes “Tzu Chi house numbers” to facilitate further care in villages without doorplates.

Door-to-door dedication

Tan Siew Choo (陳秀珠), who worked with Lim Kim Yan at the Tzu Chi Day Rehabilitation Centre in Singapore for several years, commended Lim’s decisiveness in handling matters and attributed this quality to her early experience as a nurse in the operating room. “She later worked as deputy director for Tzu Chi Singapore’s Western medicine department, responsible for the family clinic and home care,” Tan said of Lim. “She is applying her years of experience here [in India].” Tan added that Lim has strong willpower—when faced with problems, she always finds a way to overcome them instead of giving up easily. “This is something I need to learn from her,” Tan asserted.

Lim is turning 72 this July. Since March 2023, she has spent most of her time in Bodh Gaya, dedicating herself to Tzu Chi’s mission there. Inspired by her commitment to serving the local needy, Tan decided to follow her to India. Sometimes, when Lim visits villages to conduct health checkups, Tan accompanies patients to their appointments or follow-ups. The two of them make a great team, seamlessly working together and sharing the workload.

Going door-to-door to conduct health checkups has allowed Tan to better understand the local living conditions. She particularly empathizes with the local women. Coming from Singapore, she said that women in Singapore are very fortunate, almost like living in paradise. “Many go out to work,” she said, “but there are people to take care of their children.” In contrast, “some women here, if their husbands are present, do not even dare to speak up.” Since they can afford only simple meals, many rural women weigh less than 40 kilograms (88 pounds). Due to constant toil, women in their 40s and 50s appear as aged as those in their 60s or 70s.

Tan continued to talk about the local conditions. The climate is either too cold or too hot and tends to be dry. The Niranjana River often runs dry, so water for daily use is drawn directly from underground and used without filtration. Villagers burn branches, leaves, cow dung, and even plastic waste for cooking or heating, causing severe air pollution. Because residents believe it is unclean to relieve themselves at home, they prefer to walk some distance to the riverbed instead. This likely contributes to many not drinking enough water and suffering from kidney stones. Alcohol consumption also poses a problem for some villagers. Volunteers have striven to raise residents’ awareness of the harm of alcohol. Some villagers have health conditions, but they refuse to seek treatment in government hospitals. “If only we had the help of trustworthy local doctors and nurses,” Tan said. “They would be able to communicate more effectively with the villagers and help ensure that they receive timely medical treatment.”

Supporting younger patients

Tan has accompanied several patients through their surgeries, experiencing a mix of joy and sorrow. “I was especially gratified by Mithun’s recovery from his burns,” said Tan. “He can now squat deeply, and his hair has grown back. He happily returned to school and is getting along well with his classmates.”

 Five-year-old Raju is another burn patient. He suffered facial burns, and his left-hand fingers were severely twisted. Last July, Tan and Lim took him and Mithun to Patna, the capital of Bihar, for surgeries and escorted them home when they were discharged from the hospital. Both children showed rare smiles at the time.

Raju’s family was supposed to provide massages and rehabilitation for him after his surgery, but they neglected to do so, leaving his fingers stiff. When Tan visited the village of Bakraur at the end of March to advise villagers to choose tea over alcohol, she coincidentally met Raju. When she held up his hand to check, she noticed that it was still deformed. Tears instantly welled up in her eyes.

Tetari Kumari, 20, is another patient Tan has helped. When Tzu Chi volunteers first met her in May 2023, her right leg had been amputated from the ankle down due to a congenital illness. Despite the surgery, her leg swelled to the size of an elephant’s leg, a condition she endured for several years due to her impoverished family’s inability to address it. Volunteers stepped in and arranged for her to undergo another amputation surgery. Following the procedure, they tended to her surgical wound, changing her dressings every other day for over three months. Finally, on January 22 of this year, she was fitted with a prosthetic leg.

It wasn’t all smooth sailing after that, however. Tetari’s eagerness to walk led to prolonged use of the prosthetic; that, coupled with a lack of sensation in her right leg, resulted in skin breakdown. Volunteers resumed wound care for her, provided a lightweight crutch, and offered exercises to strengthen her leg muscles while waiting for her skin to heal and thicken enough for her to wear the prosthesis again.

Tan first arrived in Bodh Gaya in May last year. After spending three months there, she returned to Singapore. When she woke up the morning after her return and saw her comfortable room, she thought about the villagers in India and broke into tears. “Observing the challenges faced by some patients in India, I wished I were a miracle-working doctor who could alleviate their suffering,” she said. “Although I can’t provide medical treatment, I can offer them comfort.”

Persistence brings hope. Tan recognizes that immediately transforming the lives of the underprivileged people in Bodh Gaya may be impossible, but she remains optimistic, saying, “We hope everyone can see some improvement.” She doesn’t expect luxury for those living in the sacred place of the Buddha’s enlightenment but hopes they can at least have enough to eat, better sanitation, and healthier, more dignified lives. If these goals are attained, it would undoubtedly bring solace to the Buddha.

By Zhu Xiu-lian and Lin Jing-jun
Translated by Siri Su
Photos by Hsiao Yiu-hwa

Tzu Chi’s medical team visits families one by one, providing physical checkups and caring for their health.

Volunteers conduct health checkups in Rahul Nagar, taking blood pressure, measuring height and weight, and offering urine tests.

During his quest for enlightenment, the Buddha is believed to have practiced asceticism in a cave on Pragbodhi Hill, near Bodh Gaya. At the foot of the hill are several villages, including Rahul Nagar, home to around 300 households.

Many families in Rahul Nagar raise cows and sheep. Most villagers follow the Hindu faith and consider cows sacred. Consequently, they do not raise cows for meat but primarily for milk production, assistance with farming tasks, and the creation of cow dung cakes. (Cow dung cakes are a type of biofuel, made by mixing dung with hay, then letting the mixture dry until it is hard.)

Moringa trees provide abundant shade outdoors in the village, and wheat stalks hang heavy and full before harvest. The sounds of chickens and dogs mingle, while cows and sheep roam freely. Residents, adults and children alike, bathe openly in the fresh air, lending a carefree ambiance to the village. It feels like a place disconnected from the modern world.

One day, several strangers entered the village, drawing curious villagers to gather and observe. Some children extended their hands to them, asking for things. These strangers were Tzu Chi volunteers.

For over a year, Tzu Chi has been conducting health checkups in villages in and near Bodh Gaya. Rahul Nagar is the ninth village to receive these services. Similar checkups have been done for monks from 12 temples and teachers from eight schools. The checkups include measuring villagers’ height, weight, and blood pressure, as well as administering urine tests for protein, occult blood, and glucose. If abnormalities are found, medical referral forms are filled out for villagers to seek treatment at a community health center in Bodh Gaya. If a resident’s body mass index falls below 16, they are provided with beans or milk to improve their nutrition.

Volunteers conduct door-to-door visits for these medical efforts and establish “Tzu Chi house numbers.” Lim Kim Yan, a retired nurse from Singapore staying long-term in Bodh Gaya, created this house-number system after noticing the lack of doorplates and addresses in local villages. Recycled cardboard is used to make doorplates carrying Tzu Chi house numbers. The results of the checkups are entered into a computer and organized by house number. This allows health data to be easily accessed to monitor long-term health conditions.

India’s summers are often unbearably hot, with temperatures soaring past 40°C (104°F). Some asked Lim why she didn’t just choose a fixed location where villagers could go to receive checkups, instead of going door-to-door. She explained, “I prefer to go house-to-house because it allows me to get a better understanding of their living conditions and family situations. The information I gather can be shared with our charity team to offer further assistance if needed.” Plus, Lim doesn’t mind the added workload. Helping one more villager regain their health means they can better fulfill their responsibilities, preventing their family from falling into poverty. These thoughts keep her going.

Volunteer Lim Kim Yan creates hand-drawn maps of the households she visits and establishes “Tzu Chi house numbers” to facilitate further care in villages without doorplates.

Door-to-door dedication

Tan Siew Choo (陳秀珠), who worked with Lim Kim Yan at the Tzu Chi Day Rehabilitation Centre in Singapore for several years, commended Lim’s decisiveness in handling matters and attributed this quality to her early experience as a nurse in the operating room. “She later worked as deputy director for Tzu Chi Singapore’s Western medicine department, responsible for the family clinic and home care,” Tan said of Lim. “She is applying her years of experience here [in India].” Tan added that Lim has strong willpower—when faced with problems, she always finds a way to overcome them instead of giving up easily. “This is something I need to learn from her,” Tan asserted.

Lim is turning 72 this July. Since March 2023, she has spent most of her time in Bodh Gaya, dedicating herself to Tzu Chi’s mission there. Inspired by her commitment to serving the local needy, Tan decided to follow her to India. Sometimes, when Lim visits villages to conduct health checkups, Tan accompanies patients to their appointments or follow-ups. The two of them make a great team, seamlessly working together and sharing the workload.

Going door-to-door to conduct health checkups has allowed Tan to better understand the local living conditions. She particularly empathizes with the local women. Coming from Singapore, she said that women in Singapore are very fortunate, almost like living in paradise. “Many go out to work,” she said, “but there are people to take care of their children.” In contrast, “some women here, if their husbands are present, do not even dare to speak up.” Since they can afford only simple meals, many rural women weigh less than 40 kilograms (88 pounds). Due to constant toil, women in their 40s and 50s appear as aged as those in their 60s or 70s.

Tan continued to talk about the local conditions. The climate is either too cold or too hot and tends to be dry. The Niranjana River often runs dry, so water for daily use is drawn directly from underground and used without filtration. Villagers burn branches, leaves, cow dung, and even plastic waste for cooking or heating, causing severe air pollution. Because residents believe it is unclean to relieve themselves at home, they prefer to walk some distance to the riverbed instead. This likely contributes to many not drinking enough water and suffering from kidney stones. Alcohol consumption also poses a problem for some villagers. Volunteers have striven to raise residents’ awareness of the harm of alcohol. Some villagers have health conditions, but they refuse to seek treatment in government hospitals. “If only we had the help of trustworthy local doctors and nurses,” Tan said. “They would be able to communicate more effectively with the villagers and help ensure that they receive timely medical treatment.”

Supporting younger patients

Tan has accompanied several patients through their surgeries, experiencing a mix of joy and sorrow. “I was especially gratified by Mithun’s recovery from his burns,” said Tan. “He can now squat deeply, and his hair has grown back. He happily returned to school and is getting along well with his classmates.”

 Five-year-old Raju is another burn patient. He suffered facial burns, and his left-hand fingers were severely twisted. Last July, Tan and Lim took him and Mithun to Patna, the capital of Bihar, for surgeries and escorted them home when they were discharged from the hospital. Both children showed rare smiles at the time.

Raju’s family was supposed to provide massages and rehabilitation for him after his surgery, but they neglected to do so, leaving his fingers stiff. When Tan visited the village of Bakraur at the end of March to advise villagers to choose tea over alcohol, she coincidentally met Raju. When she held up his hand to check, she noticed that it was still deformed. Tears instantly welled up in her eyes.

Tetari Kumari, 20, is another patient Tan has helped. When Tzu Chi volunteers first met her in May 2023, her right leg had been amputated from the ankle down due to a congenital illness. Despite the surgery, her leg swelled to the size of an elephant’s leg, a condition she endured for several years due to her impoverished family’s inability to address it. Volunteers stepped in and arranged for her to undergo another amputation surgery. Following the procedure, they tended to her surgical wound, changing her dressings every other day for over three months. Finally, on January 22 of this year, she was fitted with a prosthetic leg.

It wasn’t all smooth sailing after that, however. Tetari’s eagerness to walk led to prolonged use of the prosthetic; that, coupled with a lack of sensation in her right leg, resulted in skin breakdown. Volunteers resumed wound care for her, provided a lightweight crutch, and offered exercises to strengthen her leg muscles while waiting for her skin to heal and thicken enough for her to wear the prosthesis again.

Tan first arrived in Bodh Gaya in May last year. After spending three months there, she returned to Singapore. When she woke up the morning after her return and saw her comfortable room, she thought about the villagers in India and broke into tears. “Observing the challenges faced by some patients in India, I wished I were a miracle-working doctor who could alleviate their suffering,” she said. “Although I can’t provide medical treatment, I can offer them comfort.”

Persistence brings hope. Tan recognizes that immediately transforming the lives of the underprivileged people in Bodh Gaya may be impossible, but she remains optimistic, saying, “We hope everyone can see some improvement.” She doesn’t expect luxury for those living in the sacred place of the Buddha’s enlightenment but hopes they can at least have enough to eat, better sanitation, and healthier, more dignified lives. If these goals are attained, it would undoubtedly bring solace to the Buddha.

關鍵字

Smooth Sailing to School

By Li Qiu-yue, Tzu Chi Teachers Association
Edited and translated by Wu Hsiao-ting
Graphic by Zhong Ting-jia

Is your child still resisting school, even after spending time in elementary? Learn practical tips to ease separation anxiety and foster enjoyable learning experiences.

A concerned mother asked, “Even after some time in elementary school, my child still resists going every day. What can we do?”

Every child who exhibits reluctance towards attending school has their own reasons. They need support from caregivers and educators.

When my friend’s grandson began first grade, he would cry every morning before school, expressing a strong reluctance to attend. All of the family’s efforts to comfort him proved futile. When they asked why he disliked school, he couldn’t articulate a clear answer. The family turned to the child’s homeroom teacher for advice, and she offered several helpful tips that parents could employ with new first graders.

The teacher recommended that before the school year starts, parents should take their new first graders to the elementary school campus to familiarize them with the environment. This could include playing on playground equipment and visiting a first-grade classroom. If a classroom door is open, they could step inside and sit down for a bit. Parents could explain to the child, “This is where you’ll be going to school in the future. There will be new teachers, classmates, and lots of new activities and things to learn.” This initial exposure can lay the foundation for the upcoming school experience and may significantly ease the child’s transition.

Furthermore, after school begins, parents or older members of the family should establish a daily routine with the child. This could mean saying something like, “You’ll finish school at noon, and either Grandpa or I will pick you up and take you home. Then, we can head to the park to play after you finish your homework in the afternoon. How does that sound?” Laying out these plans will give the child a sense of structure and comfort.

The teacher also offered reassurance, remarking that many children initially cry due to separation anxiety. However, as they become more familiar with their teachers, surroundings, and peers over time, these tears typically stop.

Finding a companion

Across the street from my house, there’s a set of twins who began first grade last September. Every morning at 7:30 a.m., they’d hold hands and sing nursery rhymes as they headed off to school, returning home hand in hand at 4:30 p.m. I never once heard them cry or refuse to go to school. Similarly, at the end of our lane, a retired school principal had a granddaughter who started first grade with ease. She went to school with a smile every day, thanks to a fourth grader living next door who held her hand and escorted her to school each morning.

To help ease separation anxiety before your child starts first grade, consider arranging for him or her to go to school with neighbors or classmates from the same kindergarten. This can greatly reduce crying and resistance towards attending school.

The vital role of teachers

When first-grade students don’t want to go to school, teachers play a vital role along with family members. If a teacher provides enough support, the struggle against going to school might stop right at the classroom door. My friend shared, “It was like magic! I handed my grandson to the teacher, who gently guided him to his seat. Even though my grandson still had tears in his eyes, the crying and resistance suddenly disappeared.” A teacher’s experience and understanding are pivotal. When my friend’s grandson first started school, he’d spend class time alone in a corner instead of at his desk. However, the teacher didn’t compel him to return to his seat. Instead, she waited until he felt better before helping him to his seat, allowing him to gradually acclimate to the unfamiliar environment. After a month, the child was able to attend school happily.

While many first graders have experience with kindergarten and group settings, some may still feel anxious about new places, teachers, and peers. Parents should be patient as their child adjusts and ensure they stick to agreed-upon pick-up times to build a sense of security and trust. At the same time, teachers must be accommodating to new students and provide reassurance in the school setting. With supportive parents, understanding teachers, and the little ones making friends in class, their separation anxiety will gradually fade away, leading to a happier and more enjoyable school experience.

By Li Qiu-yue, Tzu Chi Teachers Association
Edited and translated by Wu Hsiao-ting
Graphic by Zhong Ting-jia

Is your child still resisting school, even after spending time in elementary? Learn practical tips to ease separation anxiety and foster enjoyable learning experiences.

A concerned mother asked, “Even after some time in elementary school, my child still resists going every day. What can we do?”

Every child who exhibits reluctance towards attending school has their own reasons. They need support from caregivers and educators.

When my friend’s grandson began first grade, he would cry every morning before school, expressing a strong reluctance to attend. All of the family’s efforts to comfort him proved futile. When they asked why he disliked school, he couldn’t articulate a clear answer. The family turned to the child’s homeroom teacher for advice, and she offered several helpful tips that parents could employ with new first graders.

The teacher recommended that before the school year starts, parents should take their new first graders to the elementary school campus to familiarize them with the environment. This could include playing on playground equipment and visiting a first-grade classroom. If a classroom door is open, they could step inside and sit down for a bit. Parents could explain to the child, “This is where you’ll be going to school in the future. There will be new teachers, classmates, and lots of new activities and things to learn.” This initial exposure can lay the foundation for the upcoming school experience and may significantly ease the child’s transition.

Furthermore, after school begins, parents or older members of the family should establish a daily routine with the child. This could mean saying something like, “You’ll finish school at noon, and either Grandpa or I will pick you up and take you home. Then, we can head to the park to play after you finish your homework in the afternoon. How does that sound?” Laying out these plans will give the child a sense of structure and comfort.

The teacher also offered reassurance, remarking that many children initially cry due to separation anxiety. However, as they become more familiar with their teachers, surroundings, and peers over time, these tears typically stop.

Finding a companion

Across the street from my house, there’s a set of twins who began first grade last September. Every morning at 7:30 a.m., they’d hold hands and sing nursery rhymes as they headed off to school, returning home hand in hand at 4:30 p.m. I never once heard them cry or refuse to go to school. Similarly, at the end of our lane, a retired school principal had a granddaughter who started first grade with ease. She went to school with a smile every day, thanks to a fourth grader living next door who held her hand and escorted her to school each morning.

To help ease separation anxiety before your child starts first grade, consider arranging for him or her to go to school with neighbors or classmates from the same kindergarten. This can greatly reduce crying and resistance towards attending school.

The vital role of teachers

When first-grade students don’t want to go to school, teachers play a vital role along with family members. If a teacher provides enough support, the struggle against going to school might stop right at the classroom door. My friend shared, “It was like magic! I handed my grandson to the teacher, who gently guided him to his seat. Even though my grandson still had tears in his eyes, the crying and resistance suddenly disappeared.” A teacher’s experience and understanding are pivotal. When my friend’s grandson first started school, he’d spend class time alone in a corner instead of at his desk. However, the teacher didn’t compel him to return to his seat. Instead, she waited until he felt better before helping him to his seat, allowing him to gradually acclimate to the unfamiliar environment. After a month, the child was able to attend school happily.

While many first graders have experience with kindergarten and group settings, some may still feel anxious about new places, teachers, and peers. Parents should be patient as their child adjusts and ensure they stick to agreed-upon pick-up times to build a sense of security and trust. At the same time, teachers must be accommodating to new students and provide reassurance in the school setting. With supportive parents, understanding teachers, and the little ones making friends in class, their separation anxiety will gradually fade away, leading to a happier and more enjoyable school experience.

關鍵字

暗闇で蛍が道案内

災害に見舞われて生活が困難に陥った人は、
助けを必要としています。
彼らの一時的な困難を解決するうちに、
長期的に支援を必要としている人に出会うことができます。

今年の元日、能登半島で強い地震が発生しました。日本の慈済人は一月半ばから現地で炊き出しを行い、最初の緊急援助は一月末で一段落しました。旧暦の正月(二月上旬)の後、二月中下旬からは、第二段階の炊き出しを始めました。そして、「仕事を与えて救済に代える」方式に取り組み、加えてカフェを立ち上げました。すると、被災者と医療スタッフの不安定な心も、落ち着きを取り戻していきました。

台湾チームも二月二十七日から三月十四日まで、日本の慈済人と共に奉仕と取材をし、三月二十二日に精舎に戻って報告しました。その後、日本の慈済人は、東京と大阪と、能登半島で拠点にしていた古民家をオンラインで結び、今回の活動に関して上人に報告すると共に、今後の支援について指示を仰ぎました。

上人はこう指示しました。「生計に困っている家庭や、病気の人で子供を学校に通わせる負担が重くなった家庭は、全て慈済の長期ケア対象にすべきです。日本の社会福祉は健全で、大衆の生活は全般的に裕福ですが、やはり貧しい人はいるのですから、今回の地震で、慈済人は支援を必要としている人たちを見つけたら、縁を逃さず奉仕してください」。

「私たちは慈善団体として、支援が必要な人に奉仕するのが使命であり、責任だと考えています。日本の慈済会員の数に従って、その分だけ奉仕するのではありません。慈済は国際的な人道組織ですから、被災して困難があって、助けを必要としていれば、駆けつけます。緊急援助を行ってこそ、長期的支援が必要な人に出会えるのです」。

「私たちは行動で以って奉仕し、人々にこのような団体があることを知ってもらうのです。何事も『蛍が道案内する』ように、蛍の光がどんなに弱くても、暗闇では人の目で見ることができ、誘導することで徐々に結集して力は大きくなり、元々は狭かった道が大道に切り開かれるというものです。慈済が世の中を照らす光を明るくし、人間(じんかん)菩薩を導くためにしていることは、募金集めだけではありません。その主旨は心を募ることです。暗闇の中で蛍の光が見えるようにするには、蛍の群れが必要であり、あらゆる蛍が元気を出せば、光が強くなり、道案内ができるのです」。

「私たちは先ず現地を見て、よく考えてから支援を行動に移しています。台湾であれ日本であれ、皆が一致協力して、生活に困難をきたしている人や高齢者、行動が不便な人に生活上の支援を提供するのです」。

許麗香(シュー・リーシアン)師姐は慈済日本支部を代表して、上人が日本の弱者を思いやり、現地の志業に大きく力添えしてくれたことに感謝しました。「私は遍く世の衆生を大切にします。もっとボランティアを募らなければなりません。日本の慈済人は、後続の支援を準備する一方で、自分たちの肉親や友人たちに慈済が支援活動に乗り出していることを話し、皆で善行するよう呼びかけるのです。そして、慈済がこの六十年近くの間にやってきたことを話し、人々に慈済の会員になるよう励ますのです。要は、人心を浄化して、正しい方向に菩薩道を歩んでくれるように願っているのです」。

「仏陀の故郷に恩返し」プロジェクトの価値

三月五日、「仏陀の故郷に恩返し」プロジェクトに投入しているマレーシアとシンガポールの慈済人たちが精舎に帰り、上人に報告しました。上人は、それに応えて言いました。

「皆、師父の心願を聞き入れ、私の心の声と共鳴して、積極的にネパールのルンビニとインドのブッダガヤで奉仕してくれています。以前から貧しい生活をしてきた住民を助け、仏教の正法を仏陀の故郷に回帰させていることに感謝します」。

「私たちが今世で願力を発揮して成し遂げれば、未来へと続き、未来の人が今の歴史を目にすることができます。彼らもその方向に則って更に引き継いでいくでしょう。仏陀の故郷の人々が心身ともに安住し、安定した良い生活ができるようになれば、仏陀の正法が世に根付いたと言えます。これこそ私たちが今このプロジェクトを始めた価値なのです」。

インド・ブッダガヤに建てられるシロンガ大愛村は、二月二十五日に起工式が行われ、六カ月後に完成する予定です。「これが起点となり、慈済の決意を現すことになるでしょう。先ず現地の最も貧しい人たちの身と心を落ち着かせ、生活を安定させなければなりません。彼らが安心して生活ができるようになった姿を目にすれば、他の人たちにも期待が高まります。彼らがニーズを示せば、慈済はそれに応えることができ、村全体を完璧なものに建て替えることができるのです」。

「現地の人々が、慈済は心から貧しい人が安住できるように、安定した生活ができるようにと願って助けているのだと分かれば、自信が湧き、皆が結集してより大きな力となるのです。そして、彼らの一人ひとりが慈済の会員になることを期待しています。募金は目的ではなく、彼らが慈済と自分との繋がりを見つけるための方法です。そこから慈済を自分の人生の方向として受け入れ、仏法が正しい道であると確信すれば、菩薩行を現地に根付かせることができるのです」。

(慈済月刊六九〇期より)

災害に見舞われて生活が困難に陥った人は、
助けを必要としています。
彼らの一時的な困難を解決するうちに、
長期的に支援を必要としている人に出会うことができます。

今年の元日、能登半島で強い地震が発生しました。日本の慈済人は一月半ばから現地で炊き出しを行い、最初の緊急援助は一月末で一段落しました。旧暦の正月(二月上旬)の後、二月中下旬からは、第二段階の炊き出しを始めました。そして、「仕事を与えて救済に代える」方式に取り組み、加えてカフェを立ち上げました。すると、被災者と医療スタッフの不安定な心も、落ち着きを取り戻していきました。

台湾チームも二月二十七日から三月十四日まで、日本の慈済人と共に奉仕と取材をし、三月二十二日に精舎に戻って報告しました。その後、日本の慈済人は、東京と大阪と、能登半島で拠点にしていた古民家をオンラインで結び、今回の活動に関して上人に報告すると共に、今後の支援について指示を仰ぎました。

上人はこう指示しました。「生計に困っている家庭や、病気の人で子供を学校に通わせる負担が重くなった家庭は、全て慈済の長期ケア対象にすべきです。日本の社会福祉は健全で、大衆の生活は全般的に裕福ですが、やはり貧しい人はいるのですから、今回の地震で、慈済人は支援を必要としている人たちを見つけたら、縁を逃さず奉仕してください」。

「私たちは慈善団体として、支援が必要な人に奉仕するのが使命であり、責任だと考えています。日本の慈済会員の数に従って、その分だけ奉仕するのではありません。慈済は国際的な人道組織ですから、被災して困難があって、助けを必要としていれば、駆けつけます。緊急援助を行ってこそ、長期的支援が必要な人に出会えるのです」。

「私たちは行動で以って奉仕し、人々にこのような団体があることを知ってもらうのです。何事も『蛍が道案内する』ように、蛍の光がどんなに弱くても、暗闇では人の目で見ることができ、誘導することで徐々に結集して力は大きくなり、元々は狭かった道が大道に切り開かれるというものです。慈済が世の中を照らす光を明るくし、人間(じんかん)菩薩を導くためにしていることは、募金集めだけではありません。その主旨は心を募ることです。暗闇の中で蛍の光が見えるようにするには、蛍の群れが必要であり、あらゆる蛍が元気を出せば、光が強くなり、道案内ができるのです」。

「私たちは先ず現地を見て、よく考えてから支援を行動に移しています。台湾であれ日本であれ、皆が一致協力して、生活に困難をきたしている人や高齢者、行動が不便な人に生活上の支援を提供するのです」。

許麗香(シュー・リーシアン)師姐は慈済日本支部を代表して、上人が日本の弱者を思いやり、現地の志業に大きく力添えしてくれたことに感謝しました。「私は遍く世の衆生を大切にします。もっとボランティアを募らなければなりません。日本の慈済人は、後続の支援を準備する一方で、自分たちの肉親や友人たちに慈済が支援活動に乗り出していることを話し、皆で善行するよう呼びかけるのです。そして、慈済がこの六十年近くの間にやってきたことを話し、人々に慈済の会員になるよう励ますのです。要は、人心を浄化して、正しい方向に菩薩道を歩んでくれるように願っているのです」。

「仏陀の故郷に恩返し」プロジェクトの価値

三月五日、「仏陀の故郷に恩返し」プロジェクトに投入しているマレーシアとシンガポールの慈済人たちが精舎に帰り、上人に報告しました。上人は、それに応えて言いました。

「皆、師父の心願を聞き入れ、私の心の声と共鳴して、積極的にネパールのルンビニとインドのブッダガヤで奉仕してくれています。以前から貧しい生活をしてきた住民を助け、仏教の正法を仏陀の故郷に回帰させていることに感謝します」。

「私たちが今世で願力を発揮して成し遂げれば、未来へと続き、未来の人が今の歴史を目にすることができます。彼らもその方向に則って更に引き継いでいくでしょう。仏陀の故郷の人々が心身ともに安住し、安定した良い生活ができるようになれば、仏陀の正法が世に根付いたと言えます。これこそ私たちが今このプロジェクトを始めた価値なのです」。

インド・ブッダガヤに建てられるシロンガ大愛村は、二月二十五日に起工式が行われ、六カ月後に完成する予定です。「これが起点となり、慈済の決意を現すことになるでしょう。先ず現地の最も貧しい人たちの身と心を落ち着かせ、生活を安定させなければなりません。彼らが安心して生活ができるようになった姿を目にすれば、他の人たちにも期待が高まります。彼らがニーズを示せば、慈済はそれに応えることができ、村全体を完璧なものに建て替えることができるのです」。

「現地の人々が、慈済は心から貧しい人が安住できるように、安定した生活ができるようにと願って助けているのだと分かれば、自信が湧き、皆が結集してより大きな力となるのです。そして、彼らの一人ひとりが慈済の会員になることを期待しています。募金は目的ではなく、彼らが慈済と自分との繋がりを見つけるための方法です。そこから慈済を自分の人生の方向として受け入れ、仏法が正しい道であると確信すれば、菩薩行を現地に根付かせることができるのです」。

(慈済月刊六九〇期より)

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