人々の心に愛があれば、人助けをすることができる

(絵・陳九熹)

足ることを知り、常に楽しければ、生命はとても豊かになります。 しかし、一人で善行するだけでは足りず、生命の教育を始めなければなりません。 一人ひとりの良知良能を啓発すれば、人助けのできない人はいません。

世界では依然としてコロナ禍が深刻で、新たな変異株がまた一波、拡散しています。皆さんも敬虔に戒を護り、心を一つにして世の中の平安を祈り、謙虚な心で新型コロナの「大いなる教育」を受け止めなければいけません。

以前によくこう言いました。世を脅かす災難が差し迫った時、人は皆、世に警告を発する覚悟を持ち、欲念に溺れていてはなりません、と。多くの人は、自分は無欲無念で、悪業を造っていないと思っているでしょう。しかし、欲念は心の奥に潜んでおり、気が付かないほど微細で、境地に伴って頭をもたげるのです。もし、誰もがそのような心で行動を起こしたなら、造られた業力は長年にわたって蓄積されて、「衆生の共業」となり、大半の人に影響を及ぼすほどの大災難になるのです。

心に起きた念は僅かなものでも軽んじてはなりません。自分の小愛や私心から差別の気持ちを抱いてしまう凡夫のように、愛する人、事、物に対しては格別に関心を寄せ、自分とは関係がないと思うことには全く気にかけなかったり、或いは嫌いだからといった憎悪から特定の人、事、物を排除するようになります。いつも気がつかないうちに煩悩を溜めてしまい、その煩悩に伴って行動することで業力を積み上げてしまうのです。欲念によって造り出された環境破壊と汚染は、気候変動をもたらし、多くの国と地域で異常気象による災害が発生しています。

天下の平穏と、人々が以前のように健康で自由であるよう願うならば、その妙薬は自らが目覚めることです。人としての規律、斎戒、菜食、戒律を守るのです。私たちが万物の生命を愛惜して肉さえ食さなければ、動物は私たちの口の欲のために屠殺されることはなくなります。全ての衆生が安泰に暮らせるようになれば、人間(じんかん)は吉祥に満ちるでしょう。

いまだコロナ禍は過ぎておらず、入国者は検疫のための隔離や自主健康管理が必要なことから、台湾への訪問を控えている人が少なくありません。今年の春節が以前と違っていたのは、人と人の距離が保たれていても、情は濃く、心と心はとても近くにありました。現実の地理的な距離は何千キロも離れていても、科学技術が発達していますから、オンラインですぐにつながることができます。春節の間、応接室に座ったままで世界を旅することができ、慈済の全家族が共に、温かい新年の雰囲気に包まれていました。

師弟間はお互いに心がつながっており、同門者は同じ心と志で菩薩道を歩んでいます。この法髄の情は清浄無私の大愛であり、この深い情は遠く広く続けていくことができます。モザンビークのボランティアと精舎の会議と新年の挨拶はオンラインで行われましたが、師父を敬い愛している誠意のある供養を感じることができました。テーブル一つ、椅子一つ、カップ一つにしても、置かれた様子に心温まるものが感じられました。また、私の席の前にある世界地図を模倣して、テーブルの上に砂絵の地図を描き、石を並べて国境にし、花びらが慈済の連絡所を表しており、とても感心しました。

彼らには煩悩がなく、智慧が人間(じんかん)の物欲を超越しています。生活の貧しさが彼らの障害になることはありません。慈済の道場は天をもって屋根とし、地面に座り、心はこのように広々としています。

足ることを知って、生命はとても豊かなのです。ただ、自分の身だけを清め、自分一人で善行するだけでは足りません。自分の生活を安定させた上で、人々の生活をも安定させ、心身の糧を分かち合い、生命教育を展開して、人々の良知良能を啓発するのです。人助けのできない人はいません。誰もが人助けできる人になれるのです。

慈済の竹筒歳月は三十名の会員から始まり、「五十銭」が積み重なって、近くから遠くへ、少しずつ世界に広がり、菩薩たちは数十カ国に至りました。どんな災害や苦難が起こっても、自分一人の愛でも欠けてはならないという暗黙の了解の下に、世の中の苦難にある人を助けています。

苦しんでいる人がいるから、心と願と力のある人は奉仕する機会があり、眼の前にどんな困難が立ちはだかっていても、菩薩道を成就させることができるのです。ですから、人を助ける場合、助ける対象に対して尊敬の念を持って感謝すべきですし、助けられた人はその恩を忘れてはいけません。お互いに恩人になり、お互いに感謝することが、人間(じんかん)で最も美しい境地なのです。全ての人が楽しく暮らすことができるようになり、五濁の悪世が極楽世界に変わります。

この世に来ることができた自分の今生を大切にし、さらに自分の生命がこの世で役に立っていると認めましょう。近頃いつも、皆で自分の生命のたな卸しをするよう呼びかけていますが、世の中に奉仕する生活が価値のある人生なのです。私も自分の人生はとても価値があると思っています。その価値は、世の中にこれほど多くの人が私と心を一つに同じ方向を歩んできたことにあります。毎回慈済人はオンラインの会が終わると「生生世世師に追従します」と発願しますが、私も彼らにこう言います。共にその心願を抱いてこの大道を力強く進み、広く衆生が菩薩になるよう悟りに導き、生生世世、連綿と菩薩道を受け継いでいきましょう。皆さんの精進を願っております。

(慈済月刊六六四期より)

(絵・陳九熹)

足ることを知り、常に楽しければ、生命はとても豊かになります。 しかし、一人で善行するだけでは足りず、生命の教育を始めなければなりません。 一人ひとりの良知良能を啓発すれば、人助けのできない人はいません。

世界では依然としてコロナ禍が深刻で、新たな変異株がまた一波、拡散しています。皆さんも敬虔に戒を護り、心を一つにして世の中の平安を祈り、謙虚な心で新型コロナの「大いなる教育」を受け止めなければいけません。

以前によくこう言いました。世を脅かす災難が差し迫った時、人は皆、世に警告を発する覚悟を持ち、欲念に溺れていてはなりません、と。多くの人は、自分は無欲無念で、悪業を造っていないと思っているでしょう。しかし、欲念は心の奥に潜んでおり、気が付かないほど微細で、境地に伴って頭をもたげるのです。もし、誰もがそのような心で行動を起こしたなら、造られた業力は長年にわたって蓄積されて、「衆生の共業」となり、大半の人に影響を及ぼすほどの大災難になるのです。

心に起きた念は僅かなものでも軽んじてはなりません。自分の小愛や私心から差別の気持ちを抱いてしまう凡夫のように、愛する人、事、物に対しては格別に関心を寄せ、自分とは関係がないと思うことには全く気にかけなかったり、或いは嫌いだからといった憎悪から特定の人、事、物を排除するようになります。いつも気がつかないうちに煩悩を溜めてしまい、その煩悩に伴って行動することで業力を積み上げてしまうのです。欲念によって造り出された環境破壊と汚染は、気候変動をもたらし、多くの国と地域で異常気象による災害が発生しています。

天下の平穏と、人々が以前のように健康で自由であるよう願うならば、その妙薬は自らが目覚めることです。人としての規律、斎戒、菜食、戒律を守るのです。私たちが万物の生命を愛惜して肉さえ食さなければ、動物は私たちの口の欲のために屠殺されることはなくなります。全ての衆生が安泰に暮らせるようになれば、人間(じんかん)は吉祥に満ちるでしょう。

いまだコロナ禍は過ぎておらず、入国者は検疫のための隔離や自主健康管理が必要なことから、台湾への訪問を控えている人が少なくありません。今年の春節が以前と違っていたのは、人と人の距離が保たれていても、情は濃く、心と心はとても近くにありました。現実の地理的な距離は何千キロも離れていても、科学技術が発達していますから、オンラインですぐにつながることができます。春節の間、応接室に座ったままで世界を旅することができ、慈済の全家族が共に、温かい新年の雰囲気に包まれていました。

師弟間はお互いに心がつながっており、同門者は同じ心と志で菩薩道を歩んでいます。この法髄の情は清浄無私の大愛であり、この深い情は遠く広く続けていくことができます。モザンビークのボランティアと精舎の会議と新年の挨拶はオンラインで行われましたが、師父を敬い愛している誠意のある供養を感じることができました。テーブル一つ、椅子一つ、カップ一つにしても、置かれた様子に心温まるものが感じられました。また、私の席の前にある世界地図を模倣して、テーブルの上に砂絵の地図を描き、石を並べて国境にし、花びらが慈済の連絡所を表しており、とても感心しました。

彼らには煩悩がなく、智慧が人間(じんかん)の物欲を超越しています。生活の貧しさが彼らの障害になることはありません。慈済の道場は天をもって屋根とし、地面に座り、心はこのように広々としています。

足ることを知って、生命はとても豊かなのです。ただ、自分の身だけを清め、自分一人で善行するだけでは足りません。自分の生活を安定させた上で、人々の生活をも安定させ、心身の糧を分かち合い、生命教育を展開して、人々の良知良能を啓発するのです。人助けのできない人はいません。誰もが人助けできる人になれるのです。

慈済の竹筒歳月は三十名の会員から始まり、「五十銭」が積み重なって、近くから遠くへ、少しずつ世界に広がり、菩薩たちは数十カ国に至りました。どんな災害や苦難が起こっても、自分一人の愛でも欠けてはならないという暗黙の了解の下に、世の中の苦難にある人を助けています。

苦しんでいる人がいるから、心と願と力のある人は奉仕する機会があり、眼の前にどんな困難が立ちはだかっていても、菩薩道を成就させることができるのです。ですから、人を助ける場合、助ける対象に対して尊敬の念を持って感謝すべきですし、助けられた人はその恩を忘れてはいけません。お互いに恩人になり、お互いに感謝することが、人間(じんかん)で最も美しい境地なのです。全ての人が楽しく暮らすことができるようになり、五濁の悪世が極楽世界に変わります。

この世に来ることができた自分の今生を大切にし、さらに自分の生命がこの世で役に立っていると認めましょう。近頃いつも、皆で自分の生命のたな卸しをするよう呼びかけていますが、世の中に奉仕する生活が価値のある人生なのです。私も自分の人生はとても価値があると思っています。その価値は、世の中にこれほど多くの人が私と心を一つに同じ方向を歩んできたことにあります。毎回慈済人はオンラインの会が終わると「生生世世師に追従します」と発願しますが、私も彼らにこう言います。共にその心願を抱いてこの大道を力強く進み、広く衆生が菩薩になるよう悟りに導き、生生世世、連綿と菩薩道を受け継いでいきましょう。皆さんの精進を願っております。

(慈済月刊六六四期より)

關鍵字

ソフィアンの成功創業記

五回も台湾の花蓮慈済病院で腫瘍の治療を受けたことがあるソフィアンさんは、今ではすでに家庭を持って独立している。妻の支持のもとに、視覚障害者向けのコンピューター塾を開き、専門知識を生かして人のために希望の明かりを灯している。

「これは視覚障害者たちが普段使っているスクリーンリーダープログラムです。もし二〇二一年ポケット版のダウンロード方法を知りたければ、動画を最後までご覧ください」。ソフィアンさんは、自ら開設したチャンネルに動画をアップロードする準備をしていた。

テーマの絞り込みから、録音、録画、テロップ入れ、動画のアップロードまで、ほとんど目の見えない彼が如何にして一人で完成させたのか、想像し難い。彼が運営している「Dunia Netra(視覚障害者の世界)」というチャンネルは、今年一月に運営を始め、八カ月で二千百人を超えるフォロワーがいる。実に素晴らしい。

自分のYouTubeチャンネルの動画を更新するソフィアンさん。今年1月に運営を始めたが、既に2千人余りのフォロワーがいる。

視覚障害者にパソコンを教える

ソフィアンさんは幼児期に「線維性骨異形成症」を患い、右の顔面にできた十五センチの大きな腫瘍に圧迫されて、右眼が酷く突出し、両眼とも視力に影響が出た。十五歳の時、インドネシアの慈済ボランティアが施療の際に彼の病気を発見し、二〇〇五年から多数回にわたって、台湾の花蓮慈済病院で治療することを支援した。

ソフィアンさんは僅かな視力しかなくても、勉強が好きで、自分の潜在能力を探り続け、努力によって自立した生活ができることを望んだ。今年三十四歳になるが、かつては銀行のセールスマン、国営の海運会社の仕事、小さな商売をしたこともあった。

北ジャカルタに住んでいた時は、南ジャカルタのミトラネトラ盲人基金会で学習するために、何回もバスを乗り継がなければならなかったが、堅持し続けた。「パソコンが使えるようになれば、仕事を見つけ、大学に行くこともできるのです。私が学んだ知識は視覚障害者にとって非常に重要なもので、彼らにも学習の場所を提供しようと考えています」。

二〇一八年、ジャカルタにあるインドラプラスタPGRI大学(Universitas Indraprasta)の心理カウンセリング学科を卒業したソフィアンさんは、チェンカレン慈済大愛一村で視覚障害者のためのパソコン教室、「希望の灯」を立ち上げ、視覚障害者用パソコンで各種文書ソフトの使い方を教えている。希望者がとても多いので、幼稚園、小学校、中学校のクラスも増やし、妻のアナワティーさんも授業を手伝っている。

昨年、新型コロナウイルス感染症が出現すると、塾の学生数が急減し、元来五十名いたクラスが、今は五名しか残っていない。「パラシュートで飛び降りたように、いなくなってしまいました。急に暇な時間が多くなったので、何をしたらいいかを考えています」と彼は笑って言った。

彼はネット教室を試み、インドネシア政府通信部(Kominfo)の協力プロジェクトを通じて、インドネシア東部、スマトラ島、バリ島の視覚障害者が受講できるようになった。オンラインで授業する時、学生たちが既に彼のことを知っていると気がついた。学生は皆、ソフィアンさんのユーチューブチャンネルのフォロワーだったのだ。

ソフィアンさんは最初、ユーチューブチャンネルを使って授業データを保存するだけのつもりだったが、思いも寄らず、アップロードした動画に対して多くの好評を得た。今では定期的に受講する人が十人いる。中部ジャワ州のペカロンガン市に住むファイジンさんは、スプレッドシートの作成を勉強している。「ソフィアン先生は分かりやすい言葉で説明してくれるので、楽しく面白く授業を受けています。私たちは時には話をしたり笑ったりしています」。

ソフィアンさんは視覚障害者のためにパソコン教室を経営している。妻もよく授業を手伝っている。

障害とは実は踏み台

ソフィアンさんの精神力には感服させられる。幼少期、両親は彼のために財産をはたいて積極的に病院に連れて行き、二回手術したが、病気はなかなか好転しなかった。台湾で治療を受けるチャンスもあったが、言葉が通じないという悩みと心配もあった。腫瘍が再発する度に手術を受け、視力は回復したが、また次第に失われていった。辛い経験をしてきた彼は、「私は見えませんが、周りの人の愛は感じます」と言った。彼は夢を捨てなかった。いつの日にか専門知識でもって人助けをしたい。

「私には座右の銘があります。体の障害をつまずく石ではなく、明るい未来へのかけ橋になる踏み台にするのです」。彼は自分の座右の銘が他の心身障害者の励ましにもなることを期待している。今、自分の現状を受け入れることがとても大切で、心を調整してこそ、新しい生活を平穏に暮らすことができるのだ、と言った。

常に寄り添ってくれているボランティアの梁国瑞(リャン・グオルイ)さんは、ソフィアンさんの前向きな考えと、学習し続ける精神を大いに褒めている。「ソフィアンさんは本当に立派です。もっと多くの若者が彼と同じような向上心を持てば、インドネシアは一層繁栄し、進歩すると信じています」。

ソフィアンさんは、慈済と證厳法師が彼と家族に対して良くしてくれたことを永遠に心に銘記している、とボランティアに語った。彼は十五歳から十一年間に何度も台湾へ来て、花蓮慈済病院で手術を受けた。ボランティアは今に至っても家族のように親切に寄り添ってくれている。「信念を堅く持つようにと生前の父に励まされました。多くの人が支えてくれているから、自分の可能性を證明したいのです」。

ソフィアンさんは、證厳法師に会ってとても感動した年のことを振り返った。「證厳法師は『あなたに見える世界は真っ暗闇かもしれませんが、心を明るく保たなければいけせん』と諭されました。私はその言葉を永遠に心に銘記しています」。

(慈済月刊六六〇期より)

五回も台湾の花蓮慈済病院で腫瘍の治療を受けたことがあるソフィアンさんは、今ではすでに家庭を持って独立している。妻の支持のもとに、視覚障害者向けのコンピューター塾を開き、専門知識を生かして人のために希望の明かりを灯している。

「これは視覚障害者たちが普段使っているスクリーンリーダープログラムです。もし二〇二一年ポケット版のダウンロード方法を知りたければ、動画を最後までご覧ください」。ソフィアンさんは、自ら開設したチャンネルに動画をアップロードする準備をしていた。

テーマの絞り込みから、録音、録画、テロップ入れ、動画のアップロードまで、ほとんど目の見えない彼が如何にして一人で完成させたのか、想像し難い。彼が運営している「Dunia Netra(視覚障害者の世界)」というチャンネルは、今年一月に運営を始め、八カ月で二千百人を超えるフォロワーがいる。実に素晴らしい。

自分のYouTubeチャンネルの動画を更新するソフィアンさん。今年1月に運営を始めたが、既に2千人余りのフォロワーがいる。

視覚障害者にパソコンを教える

ソフィアンさんは幼児期に「線維性骨異形成症」を患い、右の顔面にできた十五センチの大きな腫瘍に圧迫されて、右眼が酷く突出し、両眼とも視力に影響が出た。十五歳の時、インドネシアの慈済ボランティアが施療の際に彼の病気を発見し、二〇〇五年から多数回にわたって、台湾の花蓮慈済病院で治療することを支援した。

ソフィアンさんは僅かな視力しかなくても、勉強が好きで、自分の潜在能力を探り続け、努力によって自立した生活ができることを望んだ。今年三十四歳になるが、かつては銀行のセールスマン、国営の海運会社の仕事、小さな商売をしたこともあった。

北ジャカルタに住んでいた時は、南ジャカルタのミトラネトラ盲人基金会で学習するために、何回もバスを乗り継がなければならなかったが、堅持し続けた。「パソコンが使えるようになれば、仕事を見つけ、大学に行くこともできるのです。私が学んだ知識は視覚障害者にとって非常に重要なもので、彼らにも学習の場所を提供しようと考えています」。

二〇一八年、ジャカルタにあるインドラプラスタPGRI大学(Universitas Indraprasta)の心理カウンセリング学科を卒業したソフィアンさんは、チェンカレン慈済大愛一村で視覚障害者のためのパソコン教室、「希望の灯」を立ち上げ、視覚障害者用パソコンで各種文書ソフトの使い方を教えている。希望者がとても多いので、幼稚園、小学校、中学校のクラスも増やし、妻のアナワティーさんも授業を手伝っている。

昨年、新型コロナウイルス感染症が出現すると、塾の学生数が急減し、元来五十名いたクラスが、今は五名しか残っていない。「パラシュートで飛び降りたように、いなくなってしまいました。急に暇な時間が多くなったので、何をしたらいいかを考えています」と彼は笑って言った。

彼はネット教室を試み、インドネシア政府通信部(Kominfo)の協力プロジェクトを通じて、インドネシア東部、スマトラ島、バリ島の視覚障害者が受講できるようになった。オンラインで授業する時、学生たちが既に彼のことを知っていると気がついた。学生は皆、ソフィアンさんのユーチューブチャンネルのフォロワーだったのだ。

ソフィアンさんは最初、ユーチューブチャンネルを使って授業データを保存するだけのつもりだったが、思いも寄らず、アップロードした動画に対して多くの好評を得た。今では定期的に受講する人が十人いる。中部ジャワ州のペカロンガン市に住むファイジンさんは、スプレッドシートの作成を勉強している。「ソフィアン先生は分かりやすい言葉で説明してくれるので、楽しく面白く授業を受けています。私たちは時には話をしたり笑ったりしています」。

ソフィアンさんは視覚障害者のためにパソコン教室を経営している。妻もよく授業を手伝っている。

障害とは実は踏み台

ソフィアンさんの精神力には感服させられる。幼少期、両親は彼のために財産をはたいて積極的に病院に連れて行き、二回手術したが、病気はなかなか好転しなかった。台湾で治療を受けるチャンスもあったが、言葉が通じないという悩みと心配もあった。腫瘍が再発する度に手術を受け、視力は回復したが、また次第に失われていった。辛い経験をしてきた彼は、「私は見えませんが、周りの人の愛は感じます」と言った。彼は夢を捨てなかった。いつの日にか専門知識でもって人助けをしたい。

「私には座右の銘があります。体の障害をつまずく石ではなく、明るい未来へのかけ橋になる踏み台にするのです」。彼は自分の座右の銘が他の心身障害者の励ましにもなることを期待している。今、自分の現状を受け入れることがとても大切で、心を調整してこそ、新しい生活を平穏に暮らすことができるのだ、と言った。

常に寄り添ってくれているボランティアの梁国瑞(リャン・グオルイ)さんは、ソフィアンさんの前向きな考えと、学習し続ける精神を大いに褒めている。「ソフィアンさんは本当に立派です。もっと多くの若者が彼と同じような向上心を持てば、インドネシアは一層繁栄し、進歩すると信じています」。

ソフィアンさんは、慈済と證厳法師が彼と家族に対して良くしてくれたことを永遠に心に銘記している、とボランティアに語った。彼は十五歳から十一年間に何度も台湾へ来て、花蓮慈済病院で手術を受けた。ボランティアは今に至っても家族のように親切に寄り添ってくれている。「信念を堅く持つようにと生前の父に励まされました。多くの人が支えてくれているから、自分の可能性を證明したいのです」。

ソフィアンさんは、證厳法師に会ってとても感動した年のことを振り返った。「證厳法師は『あなたに見える世界は真っ暗闇かもしれませんが、心を明るく保たなければいけせん』と諭されました。私はその言葉を永遠に心に銘記しています」。

(慈済月刊六六〇期より)

關鍵字

フィリピン・三万世帯の心配

スーパー台風「ライ」が上陸し、中南部の群島を横なぎにした。

ボランティアは、三手に分かれて三万世帯余りを支援し、被災者は瓦礫と化した大地に希望の一歩を踏み出した。

フィリピン中部のボホール島は、台風22号によって深刻な被害を受けた地域の1つだ。台風上陸地点に位置する北部沿岸の村や町は、至る所が酷く損壊していた。

セブ州ラプラプ市の損壊した、ある学校で、校庭に静かに並んで待っていた千人余りの住民から、突然大きな拍手がわき起こり、多くの人が喜びのあまり涙さえ流した。

家族構成に応じて一万から二万フィリピン・ペソのお見舞い金を送るという慈済ボランティアの発表を聞いたのだ。ノルメリタ・ノダロさんは、大粒の涙を流して言った。「見ず知らずの人から、こんなに助けてもらえるなんて。胸が一杯です」。

小児マヒの障害を持つルノーさんも、目を潤ませた。「働いていた家具店は停電して、復旧まで三カ月かかるらしいです。収入がなく、三人の子どもを満足に食べさせることもできません」。台風で仕事を失ったが、そのお金で目前の困難を乗り切れると言う。

二○二一年の年の瀬に、一年を通して最も勢力の強い台風二十二号「ライ」(フィリピン名:オデット)がフィリピンを襲った。七つの州が甚大な被害を受け、四百人以上が死亡し、六百万人以上が被災した。

フィリピンは台風が多い。災害管理システムから警報が発令され、危険地域の住民を事前に避難させてはいたが、それでもこの台風の被害は甚大だった。三日間で熱帯低気圧からスーパー台風へと急速に変わった「ライ」は、縦に細長いフィリピンの中南部の群島を横なぎにした。停電が連鎖反応を引き起こし、多くの被災地で通信が途絶えた。

深刻な被害を受けたボホール州、セブ州、南レイテ州を重点的に被害調査した慈済は、沿海地域の惨状を目の当たりにした。激しい暴風雨や高波に見舞われた村は、まるで廃墟のようになり、感染対策など気にする余裕もなく、住民が給水ステーションの前に長蛇の列を作っていた。ボホール島北部の被災した村に大きな船が流されて村に突進してきた。飢えた人々が道沿いに、「おなかが空いています」と書いた段ボールを掲げ、支援を求めた。

被災地では飲み水や食糧が不足し、燃料の価格も暴騰した。慈済は急遽四百トンの白米を購入し、企業や市民から寄せられた物資と一緒に被災地へ運んだ。一月上旬には、延べ三万世帯余りに対して大規模な配付を実施すると共に、きれいな飲み水を得るための発電機と浄水器を提供した。

新年の初めに、住民は食糧やお見舞金を受け取り、ようやく一息つくことができた。復興の道のりは長いが、愛はずっとそこにある。

海路で迅速に食糧を輸送

台風被害の大きかった地域では断水や停電が起き、食糧や飲み水が不足していた。慈済がマニラで購入した白米、浄水器と市民から寄付された物資が、海運会社による無償のコンテナで、迅速にボホール州、セブ州、南レイテ州に輸送され、配付された。ボホール州ウバイ町では、住民が1000世帯余りに配付する白米を運ぶ手伝いをした。

寄付された物資を間違いなく被災者に届けるために、ボランティアは先ず災害状況を調査し、配付名簿を作成した。セブ州の配付会場では、被災者が配付物資の引換券を掲げていた(写真提供・フィリピン支部)。見舞金が受け取れると知った被災者たちは喜びに沸いた。災害後は多くの業種が運営を停止したことで収入の途絶えた被災者世帯は、銀行でお見舞金を受け取って家屋を修築したり、必要な物資を購入することができた。

停電が続いたボホール州の被災地では、ボランティアがリレー式に物資を配付した。1月中旬までの統計によると、既に1万5千世帯が20キロの白米を受け取り、食糧不足の危機を緩和することができた。その後、トタン板と見舞い金も配付された。

(慈済月刊六六三期より)

スーパー台風「ライ」が上陸し、中南部の群島を横なぎにした。

ボランティアは、三手に分かれて三万世帯余りを支援し、被災者は瓦礫と化した大地に希望の一歩を踏み出した。

フィリピン中部のボホール島は、台風22号によって深刻な被害を受けた地域の1つだ。台風上陸地点に位置する北部沿岸の村や町は、至る所が酷く損壊していた。

セブ州ラプラプ市の損壊した、ある学校で、校庭に静かに並んで待っていた千人余りの住民から、突然大きな拍手がわき起こり、多くの人が喜びのあまり涙さえ流した。

家族構成に応じて一万から二万フィリピン・ペソのお見舞い金を送るという慈済ボランティアの発表を聞いたのだ。ノルメリタ・ノダロさんは、大粒の涙を流して言った。「見ず知らずの人から、こんなに助けてもらえるなんて。胸が一杯です」。

小児マヒの障害を持つルノーさんも、目を潤ませた。「働いていた家具店は停電して、復旧まで三カ月かかるらしいです。収入がなく、三人の子どもを満足に食べさせることもできません」。台風で仕事を失ったが、そのお金で目前の困難を乗り切れると言う。

二○二一年の年の瀬に、一年を通して最も勢力の強い台風二十二号「ライ」(フィリピン名:オデット)がフィリピンを襲った。七つの州が甚大な被害を受け、四百人以上が死亡し、六百万人以上が被災した。

フィリピンは台風が多い。災害管理システムから警報が発令され、危険地域の住民を事前に避難させてはいたが、それでもこの台風の被害は甚大だった。三日間で熱帯低気圧からスーパー台風へと急速に変わった「ライ」は、縦に細長いフィリピンの中南部の群島を横なぎにした。停電が連鎖反応を引き起こし、多くの被災地で通信が途絶えた。

深刻な被害を受けたボホール州、セブ州、南レイテ州を重点的に被害調査した慈済は、沿海地域の惨状を目の当たりにした。激しい暴風雨や高波に見舞われた村は、まるで廃墟のようになり、感染対策など気にする余裕もなく、住民が給水ステーションの前に長蛇の列を作っていた。ボホール島北部の被災した村に大きな船が流されて村に突進してきた。飢えた人々が道沿いに、「おなかが空いています」と書いた段ボールを掲げ、支援を求めた。

被災地では飲み水や食糧が不足し、燃料の価格も暴騰した。慈済は急遽四百トンの白米を購入し、企業や市民から寄せられた物資と一緒に被災地へ運んだ。一月上旬には、延べ三万世帯余りに対して大規模な配付を実施すると共に、きれいな飲み水を得るための発電機と浄水器を提供した。

新年の初めに、住民は食糧やお見舞金を受け取り、ようやく一息つくことができた。復興の道のりは長いが、愛はずっとそこにある。

海路で迅速に食糧を輸送

台風被害の大きかった地域では断水や停電が起き、食糧や飲み水が不足していた。慈済がマニラで購入した白米、浄水器と市民から寄付された物資が、海運会社による無償のコンテナで、迅速にボホール州、セブ州、南レイテ州に輸送され、配付された。ボホール州ウバイ町では、住民が1000世帯余りに配付する白米を運ぶ手伝いをした。

寄付された物資を間違いなく被災者に届けるために、ボランティアは先ず災害状況を調査し、配付名簿を作成した。セブ州の配付会場では、被災者が配付物資の引換券を掲げていた(写真提供・フィリピン支部)。見舞金が受け取れると知った被災者たちは喜びに沸いた。災害後は多くの業種が運営を停止したことで収入の途絶えた被災者世帯は、銀行でお見舞金を受け取って家屋を修築したり、必要な物資を購入することができた。

停電が続いたボホール州の被災地では、ボランティアがリレー式に物資を配付した。1月中旬までの統計によると、既に1万5千世帯が20キロの白米を受け取り、食糧不足の危機を緩和することができた。その後、トタン板と見舞い金も配付された。

(慈済月刊六六三期より)

關鍵字

セランゴール州の大水害 マレーシア・ 九千人が一斉に支援に赴く

年末が雨季になるのは例年と同じだが、洪水が瞬時に、繁栄している街に流れ込むのは稀なことだった。

温かい食事の提供、家々の清掃、配付者名簿の作成など、慈済は年末年始に支援活動を完了した。

フル・ランガッ地区のスリ・ナンディン公園周辺はひどく被災し、損壊した家具が家々の前に山積みになっていた。ボランティアは12月25日だというのにまだ廃棄物を運び出し、街の清掃を続けていた。(撮影・黎日泉)

マレー半島は毎年年末になると、北東の季節風の影響で雨季になる。二〇二一年十二月十七日から豪雨が続き、十八日は一日の雨量が一カ月の総雨量を超えた。八つの州で水害が発生し、パハン州の被害面積が最も広く、セランゴール州も稀に見る洪水に見舞われ、甚大な被害が出た。クアラルンプール市内を流れる河川が氾濫し、夜中に発生した洪水は、年長者に五十年前の大水害を思い起こさせた。まるで大洪水が再来したかのように。

水は腰の高さから一階の軒下まで増え続け、住民はパニック状態で高い所に上ったが、海のようになった街に向かって助けを求める声があちこちで聞こえた。慈済支部とボランティアの携帯にも、助けを求める電話が鳴り続けた。パハン州( Pahang)とセランゴール州のボランティアは、なんとか被災地や避難所にたどり着くことができ、被害状況を調査しながら、水の中を徒歩やボートで温かい食事を配付した。そして、即席食品、毛布、衣服、ゴザ、飲料水などの物資を届けた。

被災地は停電のため、夜になると避難所は真っ暗になったが、それ以上に多くの人が被災地から出られず、雨が断続的に降り続いた。二十二日の午前中になってやっと、「水が完全に引いた」という奮い立つような知らせが入った。分厚い泥を被った市街地や住宅から、廃棄される家具や壊れた物が運び出され、路地や道にはいくつも山のように積まれていた。地面の水たまりやゴミを見ると衛生面が心配になった。

主な被災地の大掃除をしようと、二十四日から三日続けて、各界の善行者とマレーシア全土からの慈済ボランティア、そして軍隊を合わせた延べ六千人が清掃したエリアは三十三萬平方メートルに及んだ。参加した人は近隣の州からのボランティアだけでなく、北部と南部のボランティアも、清掃用具を持って数百キロ離れた所から駆けつけた。北部のペナン州から来たエンジニアのニマ・ショコファーさんは、「災害はいつ発生するか分かりません。今日は他の人であっても次は自分が遭遇するかもしれません。お互いに助け合うべきです。今日は私にとって一カ月分の労働量で、疲れましたが、良い一日でした」と語った。

二〇二二年の元旦と二日には、延べ二千人のボランティアが再度主な被災地に入って一万世帯以上を訪問し、見舞金を配付するための名簿を作成した。

水と泥の中を行く

マレーシアは12月中旬から年始にかけて豪雨に見舞われ、多くの州で程度の差こそあれ、水害が発生し、各地の慈済ボランティアは緊急支援を始めた。セランゴール州の雨は特に激しく、住宅の2階の高さまで水位が達した地区もあった。大半の住民は何日も水で外出を阻まれていたため、慈済は緊急に温かい食事を届けた。(撮影・許音包玲)

東海岸のパハン州は、低地のため、雨が降ると必ず浸水する。スンガイ・ニュービレッジ(Sungai New Village)は全地域が被災し、被災から2週間たっても依然として復旧が進まず、泥まみれの10世帯が慈済に支援を求めた。1月5日にセランゴール州やラウブ郡(Daerah Raub)、ペナン洲から駆けつけたボランティア100人余りが清掃にあたった。(撮影・黎日泉)

セランゴール州は洪水が引いた後、ボランティアが州都シャー・アラム(Shah Alam)のスリ・ムダ公園(Taman Sri Muda)とクアラ・ランガッ地区(Hulu Langat District)にあるスリ・ナンデイン公園周辺で集中して、3日続けて大規模な清掃活動を行った。軍隊と住民、慈済の三者が協力して、人種の分け隔てなく、被災地の復旧を行動で応援した。住民は人手が足りず、数日清掃してもあまり進展が見られなかったので、これで早く元の生活に戻れる、と協力してくれたチームに感謝した。(撮影・黄麗霓)

(慈済月刊六六三期より)

年末が雨季になるのは例年と同じだが、洪水が瞬時に、繁栄している街に流れ込むのは稀なことだった。

温かい食事の提供、家々の清掃、配付者名簿の作成など、慈済は年末年始に支援活動を完了した。

フル・ランガッ地区のスリ・ナンディン公園周辺はひどく被災し、損壊した家具が家々の前に山積みになっていた。ボランティアは12月25日だというのにまだ廃棄物を運び出し、街の清掃を続けていた。(撮影・黎日泉)

マレー半島は毎年年末になると、北東の季節風の影響で雨季になる。二〇二一年十二月十七日から豪雨が続き、十八日は一日の雨量が一カ月の総雨量を超えた。八つの州で水害が発生し、パハン州の被害面積が最も広く、セランゴール州も稀に見る洪水に見舞われ、甚大な被害が出た。クアラルンプール市内を流れる河川が氾濫し、夜中に発生した洪水は、年長者に五十年前の大水害を思い起こさせた。まるで大洪水が再来したかのように。

水は腰の高さから一階の軒下まで増え続け、住民はパニック状態で高い所に上ったが、海のようになった街に向かって助けを求める声があちこちで聞こえた。慈済支部とボランティアの携帯にも、助けを求める電話が鳴り続けた。パハン州( Pahang)とセランゴール州のボランティアは、なんとか被災地や避難所にたどり着くことができ、被害状況を調査しながら、水の中を徒歩やボートで温かい食事を配付した。そして、即席食品、毛布、衣服、ゴザ、飲料水などの物資を届けた。

被災地は停電のため、夜になると避難所は真っ暗になったが、それ以上に多くの人が被災地から出られず、雨が断続的に降り続いた。二十二日の午前中になってやっと、「水が完全に引いた」という奮い立つような知らせが入った。分厚い泥を被った市街地や住宅から、廃棄される家具や壊れた物が運び出され、路地や道にはいくつも山のように積まれていた。地面の水たまりやゴミを見ると衛生面が心配になった。

主な被災地の大掃除をしようと、二十四日から三日続けて、各界の善行者とマレーシア全土からの慈済ボランティア、そして軍隊を合わせた延べ六千人が清掃したエリアは三十三萬平方メートルに及んだ。参加した人は近隣の州からのボランティアだけでなく、北部と南部のボランティアも、清掃用具を持って数百キロ離れた所から駆けつけた。北部のペナン州から来たエンジニアのニマ・ショコファーさんは、「災害はいつ発生するか分かりません。今日は他の人であっても次は自分が遭遇するかもしれません。お互いに助け合うべきです。今日は私にとって一カ月分の労働量で、疲れましたが、良い一日でした」と語った。

二〇二二年の元旦と二日には、延べ二千人のボランティアが再度主な被災地に入って一万世帯以上を訪問し、見舞金を配付するための名簿を作成した。

水と泥の中を行く

マレーシアは12月中旬から年始にかけて豪雨に見舞われ、多くの州で程度の差こそあれ、水害が発生し、各地の慈済ボランティアは緊急支援を始めた。セランゴール州の雨は特に激しく、住宅の2階の高さまで水位が達した地区もあった。大半の住民は何日も水で外出を阻まれていたため、慈済は緊急に温かい食事を届けた。(撮影・許音包玲)

東海岸のパハン州は、低地のため、雨が降ると必ず浸水する。スンガイ・ニュービレッジ(Sungai New Village)は全地域が被災し、被災から2週間たっても依然として復旧が進まず、泥まみれの10世帯が慈済に支援を求めた。1月5日にセランゴール州やラウブ郡(Daerah Raub)、ペナン洲から駆けつけたボランティア100人余りが清掃にあたった。(撮影・黎日泉)

セランゴール州は洪水が引いた後、ボランティアが州都シャー・アラム(Shah Alam)のスリ・ムダ公園(Taman Sri Muda)とクアラ・ランガッ地区(Hulu Langat District)にあるスリ・ナンデイン公園周辺で集中して、3日続けて大規模な清掃活動を行った。軍隊と住民、慈済の三者が協力して、人種の分け隔てなく、被災地の復旧を行動で応援した。住民は人手が足りず、数日清掃してもあまり進展が見られなかったので、これで早く元の生活に戻れる、と協力してくれたチームに感謝した。(撮影・黄麗霓)

(慈済月刊六六三期より)

關鍵字

アメリカ・配付と寒波の競争

稀に見る冬の竜巻が八つの州を直撃した。

十数万戸が厳冬の中で停電し、街路はまるで戦地のようになった。

住民は、壊れた家に戻ると、クリスマスイブ前に予想外のプレゼントを受け取った。

ケンタッキー州ボーリンググリーン市にある住宅街は、僅か数時間のうちに竜巻によって家屋が半分にちぎられ、残骸が散乱していた。

三十以上の猛烈な冬の竜巻が、二〇二一年十二月十日から十一日にかけて、アメリカ中部と南部を次々に直撃し、その悪天候がもたらした災害により街は壊滅的な打撃を受けた。その内の一つは三百二十キロメートル以上を走り、ケンタッキー州の人口が密集した都市を横切った。多くの住民は、竜巻の警報サイレンが鳴るのを聞いても避難が間に合わず、子供を抱きしめてうずくまるしかなかったことを思い起こした。メイフィールド市に住んでいるデイステイン・ホマスさんは、「クレージー」という言葉で、被災後の様子を形容した。「住民の中には家を無くし、仕事場も無くし、命まで落とした人もいます。私の住んでいる所にこのようなことが起こるとは、今まで思ってもみませんでした」。

アメリカ中西部では、竜巻といえば四月から五月にかけて発生することが多く、十二月にこのように凶暴な竜巻が発生するなど滅多にないことである。被害の大きかった地区では建物が倒壊し、火災が発生して多くの人が亡くなった。慈済は連邦緊急事態管理庁(FEMA)及び赤十字社と協力して、三つの州で配付支援活動を展開し、全壊した四百五十五世帯と深刻な被害にみまわれた世帯に、一世帯当たりの緊急支援として千ドル分のプリペイドカードと支援物資の入ったバッグを贈った。気丈に災害に立ち向かうメイフィールド市のキャシー・オーナン市長は、初めて会った慈済ボランティアの前でポロポロと涙をこぼした。「ここ数日のインタビューや会議では感情が昂らないようにして、毎日泣いてはいけないと自分に言い聞かせていました。皆さんの団体が市民に物資を届けてくれると聞いて、特にお見舞金まであるとは信じられませんでしたが、今私は本当に感無量です」と語った。

気温が摂氏零度を下回り、慈済の配付は時間との競争になった。ミシガン州、インディアナ州、オハイオ州、ミズーリ州、ウィスコンシン州、イリノイ州のボランティアは協力しあって任務を成し遂げた。最後の配付活動も十二月二十四日に円満に終了し、各州から来たボランティアはホテルでクリスマスイブを過ごし、家族との団欒の時間を犠牲にしてまで、被災者に温かい祝福を届けたのである。

亡き人を共に偲ぶ

稀に見る冬の竜巻が八つの州を直撃し、シカゴの慈済ボランティアチームは早急に甚大な被害を被った地区に駆けつけて被害状況を調査し、クリスマス前に支援ができるよう急いだ。甚大な被害を受けたケンタッキー州のメイフィールド市では、建物の瓦礫の前で幸いにも生き残った人たちが亡くなった肉親に花束と写真を捧げていた。慈済ボランティアも犠牲者の冥福を敬虔に祈った。(撮影・李侑達)

発生後は気温が急激に下がり、何もかも失った被災者たちは同時に停電という苦境に陥ったので、慈済ボランティアは赤十字社と協力して、六回の配付活動を行った。メイフィールド市の配付会場では、住民が竜巻来襲の恐怖と無力感を思い出していた。

ボランティアは被災者が遭遇した恐怖に耳を傾け、心の痛みを慰めた。涙を拭くと住民は、愛と善の循環でより多くの人を助けられるよう、愛の募金を竹筒貯金箱に入れた。

慈済から千ドルの現金カードと支援物資の入ったバッグを受け取り、多少とも被災後の生活は落ち着いた。

(慈済月刊六六三期より)

稀に見る冬の竜巻が八つの州を直撃した。

十数万戸が厳冬の中で停電し、街路はまるで戦地のようになった。

住民は、壊れた家に戻ると、クリスマスイブ前に予想外のプレゼントを受け取った。

ケンタッキー州ボーリンググリーン市にある住宅街は、僅か数時間のうちに竜巻によって家屋が半分にちぎられ、残骸が散乱していた。

三十以上の猛烈な冬の竜巻が、二〇二一年十二月十日から十一日にかけて、アメリカ中部と南部を次々に直撃し、その悪天候がもたらした災害により街は壊滅的な打撃を受けた。その内の一つは三百二十キロメートル以上を走り、ケンタッキー州の人口が密集した都市を横切った。多くの住民は、竜巻の警報サイレンが鳴るのを聞いても避難が間に合わず、子供を抱きしめてうずくまるしかなかったことを思い起こした。メイフィールド市に住んでいるデイステイン・ホマスさんは、「クレージー」という言葉で、被災後の様子を形容した。「住民の中には家を無くし、仕事場も無くし、命まで落とした人もいます。私の住んでいる所にこのようなことが起こるとは、今まで思ってもみませんでした」。

アメリカ中西部では、竜巻といえば四月から五月にかけて発生することが多く、十二月にこのように凶暴な竜巻が発生するなど滅多にないことである。被害の大きかった地区では建物が倒壊し、火災が発生して多くの人が亡くなった。慈済は連邦緊急事態管理庁(FEMA)及び赤十字社と協力して、三つの州で配付支援活動を展開し、全壊した四百五十五世帯と深刻な被害にみまわれた世帯に、一世帯当たりの緊急支援として千ドル分のプリペイドカードと支援物資の入ったバッグを贈った。気丈に災害に立ち向かうメイフィールド市のキャシー・オーナン市長は、初めて会った慈済ボランティアの前でポロポロと涙をこぼした。「ここ数日のインタビューや会議では感情が昂らないようにして、毎日泣いてはいけないと自分に言い聞かせていました。皆さんの団体が市民に物資を届けてくれると聞いて、特にお見舞金まであるとは信じられませんでしたが、今私は本当に感無量です」と語った。

気温が摂氏零度を下回り、慈済の配付は時間との競争になった。ミシガン州、インディアナ州、オハイオ州、ミズーリ州、ウィスコンシン州、イリノイ州のボランティアは協力しあって任務を成し遂げた。最後の配付活動も十二月二十四日に円満に終了し、各州から来たボランティアはホテルでクリスマスイブを過ごし、家族との団欒の時間を犠牲にしてまで、被災者に温かい祝福を届けたのである。

亡き人を共に偲ぶ

稀に見る冬の竜巻が八つの州を直撃し、シカゴの慈済ボランティアチームは早急に甚大な被害を被った地区に駆けつけて被害状況を調査し、クリスマス前に支援ができるよう急いだ。甚大な被害を受けたケンタッキー州のメイフィールド市では、建物の瓦礫の前で幸いにも生き残った人たちが亡くなった肉親に花束と写真を捧げていた。慈済ボランティアも犠牲者の冥福を敬虔に祈った。(撮影・李侑達)

発生後は気温が急激に下がり、何もかも失った被災者たちは同時に停電という苦境に陥ったので、慈済ボランティアは赤十字社と協力して、六回の配付活動を行った。メイフィールド市の配付会場では、住民が竜巻来襲の恐怖と無力感を思い出していた。

ボランティアは被災者が遭遇した恐怖に耳を傾け、心の痛みを慰めた。涙を拭くと住民は、愛と善の循環でより多くの人を助けられるよう、愛の募金を竹筒貯金箱に入れた。

慈済から千ドルの現金カードと支援物資の入ったバッグを受け取り、多少とも被災後の生活は落ち着いた。

(慈済月刊六六三期より)

關鍵字

NO.304 世界に目を向ける

台湾南投
心がすっきりする初めの一歩

文・陳雪玉(南投慈済ボランティア)
撮影・陳秋燕(南投慈済ボランティア)
訳・御山凛

この一戸建てには、一階から三階まで雑多な物とゴミがいっぱい積み上げられていた。リビング、キッチン、トイレ、部屋がほとんど足の踏み場もないほどだった。邦さんはどうやって日常生活を送っているのだろうか?五十数人のボランティアは、考えることもなく、隙間から入って清掃を始めた。一回目に中に入ったメンバーには耐えきれず外へ飛び出して吐いてしまった人もいたが、他の人は怯むことなく清掃を続けた。

クレジットカードの支払い滞納と失業で家が差し押さえられたが、幸いにも姉が家を買い戻してくれた。しかし、その時から物を溜めるようになった。廃棄物を拾う生活では三食を満たすことはできず、慈済が生活を補助し、またリサイクルステーションに連れて行って回収物の分別をさせると共に、食事を与えた。二〇二一年十一月に二度目の清掃をした時、台中慈済病院の医療人員は邦さんの心身検査を勧め、ボランティアも邦さんに、「旧正月前にまた見に来ます。家を清潔なままに保っていてくださいね!」と念を押した。

ミャンマー
物価上・昇川を渡って米を届ける支援

文・黄露発(慈済ミャンマー連絡処職員)
訳・御山凛
撮影・ミン・トゥ(ミャンマー慈青)

ヤンゴン市に近い、ヤンゴン川両岸を跨ぐチミンダイン地区の住民は、毎日川を渡ってヤンゴン市海鮮市場に行き、運搬や工業区での仕事をしている。その日、二十一艘の小船が、列をなして二千袋の米と食用油を対岸に運んだ。それらは住民が首を長くして待ちのぞんでいたものだった。

ミャンマーのコロナ禍は次第に落ち着いて来ていたが、いくつかの村は未だ通行止めになっており、工場は大量雇用の見通しが立っていなかった。ボランティアは救済措置として配付活動を継続し、十月にはチミンダイン地区で八千三百余りの生活困窮世帯に物資を届けた。住民は老若男女を問わず、自主的に米を配付地点まで運ぶ手伝いをした。住民のチョー・ミン・ナインさんは、毎日未明の三時半に川を渡って、市場で運搬工として働いている。「コロナ禍で物価が上がり、生活は厳しくなりましたが、慈済からお米をいただくことができて、とても感謝しています。ですから、お米を運ぶのは、ちっとも大変ではありません!」と言った。

フィリピン
医療スタッフが私に微笑んだ

資料の提供・慈済フィリピン支部
訳・御山凛

(撮影・李佳美 )

六十三歳のリリアさん(左側写真・中央)は、フィリピン慈済眼科センターで左目の白内障手術を受けて、やっと物がはっきり見えるようになった。彼女は嬉しくて仕方がなく、医師への感謝を抑えきれなかった。

マニラの慈済志業パーク(慈済の施設が集まった場所)にある慈済眼科センターは十四年間、病院に見放された貧困層の患者のために、無料で診察を続けてきた。慈済人医会メンバーは奉仕を信条としており、コロナ禍でも手術は継続して行われ、二〇二一年通年の手術回数はコロナ禍前と同等だった。一般的な麻酔手術は、本来なら近隣の二つの病院が協力して行っていたが、厳しさを増したコロナ禍では、作業の申請が複雑になっていた。そんな中、麻酔医師の陳少青(チェン・サオチン)さんは、慈済が手術室を借りる費用の節約ができるよう、自主的に慈済眼科センターに来て、患者のために麻酔を施した。(右側写真提供・慈済フィリピン支部)

インドネシア
洪水に阻まれた街 万を数える世帯を支援

文、写真・慈済インドネシア支部
訳・御山凛

二〇二一年十月末、インドネシアは雨季が始まり、多くの州で驚くべき雨量を記録した。西カリマンタン州のシンタン県、メラウィ県等は、浸水して一カ月以上経っても水が引かず、交通が中断したままで、全州八万を超える人が被災した。多くの住民は家に閉じ込められ、早急に薬とベビー用品、生活物資の支援が必要になっていた。

十一月上旬から、ジャカルタ、カリマンタン各地区の慈済ボランティアは、軍や警察の協力の下に、船による配付を行い、浸水した地域の被災世帯に米と即席麺、食用油などを届けると共に、避難所に食糧と日用品を提供した。水が引いた後も、軍の協力で各村落で継続して配付活動を行い、合計約二万四千世帯を支援した。

(慈済月刊六六二期より)

台湾南投
心がすっきりする初めの一歩

文・陳雪玉(南投慈済ボランティア)
撮影・陳秋燕(南投慈済ボランティア)
訳・御山凛

この一戸建てには、一階から三階まで雑多な物とゴミがいっぱい積み上げられていた。リビング、キッチン、トイレ、部屋がほとんど足の踏み場もないほどだった。邦さんはどうやって日常生活を送っているのだろうか?五十数人のボランティアは、考えることもなく、隙間から入って清掃を始めた。一回目に中に入ったメンバーには耐えきれず外へ飛び出して吐いてしまった人もいたが、他の人は怯むことなく清掃を続けた。

クレジットカードの支払い滞納と失業で家が差し押さえられたが、幸いにも姉が家を買い戻してくれた。しかし、その時から物を溜めるようになった。廃棄物を拾う生活では三食を満たすことはできず、慈済が生活を補助し、またリサイクルステーションに連れて行って回収物の分別をさせると共に、食事を与えた。二〇二一年十一月に二度目の清掃をした時、台中慈済病院の医療人員は邦さんの心身検査を勧め、ボランティアも邦さんに、「旧正月前にまた見に来ます。家を清潔なままに保っていてくださいね!」と念を押した。

ミャンマー
物価上・昇川を渡って米を届ける支援

文・黄露発(慈済ミャンマー連絡処職員)
訳・御山凛
撮影・ミン・トゥ(ミャンマー慈青)

ヤンゴン市に近い、ヤンゴン川両岸を跨ぐチミンダイン地区の住民は、毎日川を渡ってヤンゴン市海鮮市場に行き、運搬や工業区での仕事をしている。その日、二十一艘の小船が、列をなして二千袋の米と食用油を対岸に運んだ。それらは住民が首を長くして待ちのぞんでいたものだった。

ミャンマーのコロナ禍は次第に落ち着いて来ていたが、いくつかの村は未だ通行止めになっており、工場は大量雇用の見通しが立っていなかった。ボランティアは救済措置として配付活動を継続し、十月にはチミンダイン地区で八千三百余りの生活困窮世帯に物資を届けた。住民は老若男女を問わず、自主的に米を配付地点まで運ぶ手伝いをした。住民のチョー・ミン・ナインさんは、毎日未明の三時半に川を渡って、市場で運搬工として働いている。「コロナ禍で物価が上がり、生活は厳しくなりましたが、慈済からお米をいただくことができて、とても感謝しています。ですから、お米を運ぶのは、ちっとも大変ではありません!」と言った。

フィリピン
医療スタッフが私に微笑んだ

資料の提供・慈済フィリピン支部
訳・御山凛

(撮影・李佳美 )

六十三歳のリリアさん(左側写真・中央)は、フィリピン慈済眼科センターで左目の白内障手術を受けて、やっと物がはっきり見えるようになった。彼女は嬉しくて仕方がなく、医師への感謝を抑えきれなかった。

マニラの慈済志業パーク(慈済の施設が集まった場所)にある慈済眼科センターは十四年間、病院に見放された貧困層の患者のために、無料で診察を続けてきた。慈済人医会メンバーは奉仕を信条としており、コロナ禍でも手術は継続して行われ、二〇二一年通年の手術回数はコロナ禍前と同等だった。一般的な麻酔手術は、本来なら近隣の二つの病院が協力して行っていたが、厳しさを増したコロナ禍では、作業の申請が複雑になっていた。そんな中、麻酔医師の陳少青(チェン・サオチン)さんは、慈済が手術室を借りる費用の節約ができるよう、自主的に慈済眼科センターに来て、患者のために麻酔を施した。(右側写真提供・慈済フィリピン支部)

インドネシア
洪水に阻まれた街 万を数える世帯を支援

文、写真・慈済インドネシア支部
訳・御山凛

二〇二一年十月末、インドネシアは雨季が始まり、多くの州で驚くべき雨量を記録した。西カリマンタン州のシンタン県、メラウィ県等は、浸水して一カ月以上経っても水が引かず、交通が中断したままで、全州八万を超える人が被災した。多くの住民は家に閉じ込められ、早急に薬とベビー用品、生活物資の支援が必要になっていた。

十一月上旬から、ジャカルタ、カリマンタン各地区の慈済ボランティアは、軍や警察の協力の下に、船による配付を行い、浸水した地域の被災世帯に米と即席麺、食用油などを届けると共に、避難所に食糧と日用品を提供した。水が引いた後も、軍の協力で各村落で継続して配付活動を行い、合計約二万四千世帯を支援した。

(慈済月刊六六二期より)

關鍵字

上の子に成りたくない

問:

いつもパパやママが、あなたは一番大きいのだから、弟や妹の手本になるようにと言うのです。でも、それでは私が疲れてしまいます。

答:私個人としては、上の子は苦労とやるせなさが付きまとうことを深く理解しています。特に両親がいつも、「あなたは一番上なんだから、弟と争わず、面倒を見てあげなさい」、「妹はまだ分からないのよ。あなたはお姉さんなのにそれではダメでしょ! 」このような言い方では、上の子は無意識のうちにストレスが増えるばかりで、無力感さえ漂うようになり、両親はえこひいきだと感じるため、子供にとって不公平なのです!

どうすれば、上の子が楽しく過ごせ、ストレスを減らし、悩みをなくすことができるでしょうか。

親へのアドバイス

平等な扱い:子供が喧嘩したりおもちゃを奪い合ったりした時、理由を問わず、直ぐに上の子を叱ったりすれば、二番目や三番目の子は尊重することを学ぶことはできません。

子供が幼い時、同じ性別であれば、おもちゃや洋服などは、比較する気持ちを起こさないために、同じものを買うのが最善です。性別が異なる場合は、買う前に子供たちに欲しいものを選ばせれば、おもちゃや洋服の取り合いで喧嘩するようなことはなくなり、平等に対応することで、兄弟同士が尊重し合うことを学ぶようになります。

新しい家族が増えた時には、先ず上の子に伝えることです。二番目の子供を妊娠した時、上の子に受け入れてもらうために、妊娠した時から新しい弟や妹がこの家に誕生することを伝えましょう。胎児が動いた時にお腹を触らせて、小さな赤ちゃんの存在を感じさせてあげるのです。赤ちゃんが生まれたら、オムツの取り換えや哺乳瓶を渡す手伝いをしてもらうと、無意識のうちに新しい家族メンバーを受け入れるようになります。そうすれば、自分が取って代わられるという心配はなくなります。

そして、上の子が成長したからと言って、構わなくなるのはいけません。一番好ましい家庭教育とは、上の子が孤立しないように、週に一回、その子と単独で食事やおやつを食べたり、買い物に行ったり、内緒話をするのです。一緒に過ごす時間は長さよりも内容の濃さが大切ですから、一時間程度でも十分です。そうすれば、上の子は弟や妹をもっと愛するようになります。

もし、週に一回も時間が作れない場合は、少なくとも月に一回は実行すれば、上の子はそういう時間をとても大切にするはずです。それによって親子関係はより親密になり、兄弟関係ももっと良くなります。

日頃から上の子を褒めたり励ましたりしましょう。人の目は、見栄えの良い人や事、物に自然に引き付けられるようになっています。日常から、親は注意して子供たちの特徴や長所を見つけ、子供たちが揃った時に、友人が特定の一人だけを褒めたとしたら、親が率先して友人に「褒めてくれてありがとうございます。うちの上の子は歯並びがとても綺麗で、笑うと魅力的で、話上手なの」と言いましょう。自分の親からそんな褒め言葉を聞くと、上の子はその場では嬉しくなって笑わなくても、心の中では笑顔で喜んでいること間違いなしです!

上の子へのアドバイス

両親に「上の子なのだから…」という言い方が本当に嫌だと正直に伝え、そして適切な時間を選んで、自分の本当の気持ちを表すようにしましょう。

但し、「妹がパパやママの愛を独り占めにした」、「あいつは大嫌い」、「上の子になりたくない」と言うのはいけません。代わりに「弟がとても好きだ。でも、どうすればお兄さんになれるかは、少しずつ学んで行くから。プレッシャーをかけないでね」と伝えましょう。親はあなたの告白を聞いて自分たちも気づくはずで、あなたへの態度も変わるはずです。

結局、子供は子供であり、誰も上の子として生まれてくる人はいないのです。親も生まれつきパパやママになれる訳ではありません。上の子の立場を思いやることを忘れないでください。そして、親が永遠に愛していることを知ってもらいましょう。日頃から親は下の子に上の子の手伝いをさせる機会を作ることで、兄弟姉妹はいがみ合ったり、競争するのではなく、「互いに面倒を見る」べきだと分ってもらうのです。

「上の子は親の後ろ姿を見て育ち、二番目の子は上の子の後ろ姿を見て育つ」と言われます。上の子と下の子を仲良くさせるのは知恵の使いどころであり、芸術でさえあるのです。親としてそれを重視する必要があり、そうすれば、子供たちは将来、仲良くなり、兄弟姉妹の間にトラブルはなくなります!

(慈済月刊六五〇期より)

問:

いつもパパやママが、あなたは一番大きいのだから、弟や妹の手本になるようにと言うのです。でも、それでは私が疲れてしまいます。

答:私個人としては、上の子は苦労とやるせなさが付きまとうことを深く理解しています。特に両親がいつも、「あなたは一番上なんだから、弟と争わず、面倒を見てあげなさい」、「妹はまだ分からないのよ。あなたはお姉さんなのにそれではダメでしょ! 」このような言い方では、上の子は無意識のうちにストレスが増えるばかりで、無力感さえ漂うようになり、両親はえこひいきだと感じるため、子供にとって不公平なのです!

どうすれば、上の子が楽しく過ごせ、ストレスを減らし、悩みをなくすことができるでしょうか。

親へのアドバイス

平等な扱い:子供が喧嘩したりおもちゃを奪い合ったりした時、理由を問わず、直ぐに上の子を叱ったりすれば、二番目や三番目の子は尊重することを学ぶことはできません。

子供が幼い時、同じ性別であれば、おもちゃや洋服などは、比較する気持ちを起こさないために、同じものを買うのが最善です。性別が異なる場合は、買う前に子供たちに欲しいものを選ばせれば、おもちゃや洋服の取り合いで喧嘩するようなことはなくなり、平等に対応することで、兄弟同士が尊重し合うことを学ぶようになります。

新しい家族が増えた時には、先ず上の子に伝えることです。二番目の子供を妊娠した時、上の子に受け入れてもらうために、妊娠した時から新しい弟や妹がこの家に誕生することを伝えましょう。胎児が動いた時にお腹を触らせて、小さな赤ちゃんの存在を感じさせてあげるのです。赤ちゃんが生まれたら、オムツの取り換えや哺乳瓶を渡す手伝いをしてもらうと、無意識のうちに新しい家族メンバーを受け入れるようになります。そうすれば、自分が取って代わられるという心配はなくなります。

そして、上の子が成長したからと言って、構わなくなるのはいけません。一番好ましい家庭教育とは、上の子が孤立しないように、週に一回、その子と単独で食事やおやつを食べたり、買い物に行ったり、内緒話をするのです。一緒に過ごす時間は長さよりも内容の濃さが大切ですから、一時間程度でも十分です。そうすれば、上の子は弟や妹をもっと愛するようになります。

もし、週に一回も時間が作れない場合は、少なくとも月に一回は実行すれば、上の子はそういう時間をとても大切にするはずです。それによって親子関係はより親密になり、兄弟関係ももっと良くなります。

日頃から上の子を褒めたり励ましたりしましょう。人の目は、見栄えの良い人や事、物に自然に引き付けられるようになっています。日常から、親は注意して子供たちの特徴や長所を見つけ、子供たちが揃った時に、友人が特定の一人だけを褒めたとしたら、親が率先して友人に「褒めてくれてありがとうございます。うちの上の子は歯並びがとても綺麗で、笑うと魅力的で、話上手なの」と言いましょう。自分の親からそんな褒め言葉を聞くと、上の子はその場では嬉しくなって笑わなくても、心の中では笑顔で喜んでいること間違いなしです!

上の子へのアドバイス

両親に「上の子なのだから…」という言い方が本当に嫌だと正直に伝え、そして適切な時間を選んで、自分の本当の気持ちを表すようにしましょう。

但し、「妹がパパやママの愛を独り占めにした」、「あいつは大嫌い」、「上の子になりたくない」と言うのはいけません。代わりに「弟がとても好きだ。でも、どうすればお兄さんになれるかは、少しずつ学んで行くから。プレッシャーをかけないでね」と伝えましょう。親はあなたの告白を聞いて自分たちも気づくはずで、あなたへの態度も変わるはずです。

結局、子供は子供であり、誰も上の子として生まれてくる人はいないのです。親も生まれつきパパやママになれる訳ではありません。上の子の立場を思いやることを忘れないでください。そして、親が永遠に愛していることを知ってもらいましょう。日頃から親は下の子に上の子の手伝いをさせる機会を作ることで、兄弟姉妹はいがみ合ったり、競争するのではなく、「互いに面倒を見る」べきだと分ってもらうのです。

「上の子は親の後ろ姿を見て育ち、二番目の子は上の子の後ろ姿を見て育つ」と言われます。上の子と下の子を仲良くさせるのは知恵の使いどころであり、芸術でさえあるのです。親としてそれを重視する必要があり、そうすれば、子供たちは将来、仲良くなり、兄弟姉妹の間にトラブルはなくなります!

(慈済月刊六五〇期より)

關鍵字

謝ることはそんなに難しいの?

問:

子供は結局ごめんなさいと言えないのでしょうか。 それとも自分の過ちを理解していないのでしょうか。

答:過失にしろ故意にしろ、誰でも過ちを犯すものです。過ちを犯した時に謝るのは美徳です。謝罪は深く反省した後に、心の底から出た、改心するという懺悔です。子供は成長過程で、過ちを犯すのは避けられません。素早く過ちに気づいて謝る子供も居れば、簡単には認めない子供も居ます。一体どんな原因で子供が謝らないのでしょうか。

親が模範行為を示していない

家は子供の最初の学校と言えます。親でも過ちを犯すものです。その時、必ずごめんなさいと言わなければなりません。何事も無かったかのような態度を取らないことです。親が模範行動を示さなければ、それを見ている子供は過ちを犯した時、同じように、様々な言い訳で過ちを隠そうとします。

ですから、親が良い手本になって、子供に過ちを犯した時に謝るという正直さを学ばせてください。将来、団体の中で共同生活の規則が守れないような影響が出てはいけません。

子供は罰せられることを怖がる

子供が過ちを犯した時、急いで子供に過ちを認めさせる親がいますが、脅したり叱ったりする親もいます。また、子供が過ちを認めても親から理解が得られず、逆に叱られてしまうと、次回からは罰せられることを避けるようになります。そういうことにならないように、親は心を静めて原因を理解することです。先ず、追咎したり癇癪を起こしたりしてはならず、柔和な口調で子供の過ちを指摘し、子供が愛と関心を感じるようになれば、拒絶することもなく、勇気を持って認めることができるようになります。

正直に謝るという社会の気風

最近、ある新聞記事が印象に残りました。ある子供がレストランで食事をした時、こっそりトイレクリーナーを化粧室にあった魚の水槽に入れたため、魚は全部死んでしまいました。店のオーナーは悲しみと怒りで、声明文を出し、死んだ魚の写真と事件の全容がネットで広がりました。ある母親はそれを見て、自分の子供がやったのではないかと思い、問い詰めたところ、子供は悲しくなって認めました。面白遊び半分でやったが、魚が死ぬとは思っていなかった。その後、親子は店に行って正直に話し、丁寧に謝ったため、店のオーナーに許して貰えました。

この心温まる誠実な事件がマスコミに報道されると、賛美の声が一斉に上がった。私たちのニュースやメディアにこのような実例がたくさん報道されれば、子供は謝ることでポジティブな反応が得られることを知るでしょう。しかしもし、社会全体が真心で過ちを認める気風がなければ、弁解するだけ得をし、子供たちが見聞きするうちに悪い影響を受け、弁解することを身につけてしまうでしょう。

自尊心を守るために

子供が次第に成長し、青春期に入ると益々、同年代の人からの視線を気にするようになり、多分、面子の為に、過ちを隠せるだけ隠し、結果は後で考えるようになります。特に過ちが兄弟や同級生との間に発生した時、個人的な自尊心を守る為に一層、隠したがります。

以前、クラスのある男子生徒が鼻くそを丸めて女子生徒に向かって弾くという遊びをしていました。女子生徒は私のところに訴えてきました。私はその男子生徒を呼んで事情を聞くと、彼は「女子たちは僕に偏見を持っていて、僕に濡れ衣を着せているのです。その鼻くそが僕のものだという証拠があるのですか」と言いました。しかし、三人もの生徒が、彼が鼻くそを弾いた時間と授業科目をはっきり指摘したので、彼は弁解を止めました。私は彼の自尊心を守るために、謝らせることはしませんでしたが、そのような行為を止めるようにと期待して、鼻くそ事件はそれで幕を閉じました。

静思語:「人は誰もが良知を持っています。現実に立ち向かう勇気を持って、懺悔と反省をすれば、自らの過ちに気づくでしょう」。私たちが子供に何の過ちを犯したかを指摘する時、子供は内心、既に過ちに気づいているはずです。その後に置くべき重点は、如何にして過ちを正すかで、謝るだけではありません。深く反省し、改めることができれば、謝るのはただの形式に過ぎません。親として形式にこだわる必要はないのです。

(慈済月刊六五二期より)

問:

子供は結局ごめんなさいと言えないのでしょうか。 それとも自分の過ちを理解していないのでしょうか。

答:過失にしろ故意にしろ、誰でも過ちを犯すものです。過ちを犯した時に謝るのは美徳です。謝罪は深く反省した後に、心の底から出た、改心するという懺悔です。子供は成長過程で、過ちを犯すのは避けられません。素早く過ちに気づいて謝る子供も居れば、簡単には認めない子供も居ます。一体どんな原因で子供が謝らないのでしょうか。

親が模範行為を示していない

家は子供の最初の学校と言えます。親でも過ちを犯すものです。その時、必ずごめんなさいと言わなければなりません。何事も無かったかのような態度を取らないことです。親が模範行動を示さなければ、それを見ている子供は過ちを犯した時、同じように、様々な言い訳で過ちを隠そうとします。

ですから、親が良い手本になって、子供に過ちを犯した時に謝るという正直さを学ばせてください。将来、団体の中で共同生活の規則が守れないような影響が出てはいけません。

子供は罰せられることを怖がる

子供が過ちを犯した時、急いで子供に過ちを認めさせる親がいますが、脅したり叱ったりする親もいます。また、子供が過ちを認めても親から理解が得られず、逆に叱られてしまうと、次回からは罰せられることを避けるようになります。そういうことにならないように、親は心を静めて原因を理解することです。先ず、追咎したり癇癪を起こしたりしてはならず、柔和な口調で子供の過ちを指摘し、子供が愛と関心を感じるようになれば、拒絶することもなく、勇気を持って認めることができるようになります。

正直に謝るという社会の気風

最近、ある新聞記事が印象に残りました。ある子供がレストランで食事をした時、こっそりトイレクリーナーを化粧室にあった魚の水槽に入れたため、魚は全部死んでしまいました。店のオーナーは悲しみと怒りで、声明文を出し、死んだ魚の写真と事件の全容がネットで広がりました。ある母親はそれを見て、自分の子供がやったのではないかと思い、問い詰めたところ、子供は悲しくなって認めました。面白遊び半分でやったが、魚が死ぬとは思っていなかった。その後、親子は店に行って正直に話し、丁寧に謝ったため、店のオーナーに許して貰えました。

この心温まる誠実な事件がマスコミに報道されると、賛美の声が一斉に上がった。私たちのニュースやメディアにこのような実例がたくさん報道されれば、子供は謝ることでポジティブな反応が得られることを知るでしょう。しかしもし、社会全体が真心で過ちを認める気風がなければ、弁解するだけ得をし、子供たちが見聞きするうちに悪い影響を受け、弁解することを身につけてしまうでしょう。

自尊心を守るために

子供が次第に成長し、青春期に入ると益々、同年代の人からの視線を気にするようになり、多分、面子の為に、過ちを隠せるだけ隠し、結果は後で考えるようになります。特に過ちが兄弟や同級生との間に発生した時、個人的な自尊心を守る為に一層、隠したがります。

以前、クラスのある男子生徒が鼻くそを丸めて女子生徒に向かって弾くという遊びをしていました。女子生徒は私のところに訴えてきました。私はその男子生徒を呼んで事情を聞くと、彼は「女子たちは僕に偏見を持っていて、僕に濡れ衣を着せているのです。その鼻くそが僕のものだという証拠があるのですか」と言いました。しかし、三人もの生徒が、彼が鼻くそを弾いた時間と授業科目をはっきり指摘したので、彼は弁解を止めました。私は彼の自尊心を守るために、謝らせることはしませんでしたが、そのような行為を止めるようにと期待して、鼻くそ事件はそれで幕を閉じました。

静思語:「人は誰もが良知を持っています。現実に立ち向かう勇気を持って、懺悔と反省をすれば、自らの過ちに気づくでしょう」。私たちが子供に何の過ちを犯したかを指摘する時、子供は内心、既に過ちに気づいているはずです。その後に置くべき重点は、如何にして過ちを正すかで、謝るだけではありません。深く反省し、改めることができれば、謝るのはただの形式に過ぎません。親として形式にこだわる必要はないのです。

(慈済月刊六五二期より)

關鍵字

人生を以て人生を記録する

時代の証を立て、慈済の歴史を残し、社會の模範を打ち立てた、全ての「人文真善美」のボランティアに感謝したい。

皆で力を合わせて完成させた作品は、わたしたちの命より長く引き継がれ、いつの世でも、あの時、あの地、あの人の証となって、かつてあった刹那の感動を与えてくれるだろう。

初めて慈済ボランティアが収録した映像を目にした時、私は泣いてしまった!あの映像は全く「化粧していない素肌」のように揺れ動き、声音も途切れ途切れだった。テレビ番組のプ口デュ―サ―の目から見れば、恐らく使える代物ではなかった。しかし、あの映像は、ボランティァが災害現場に奥深く入り、苦難に見舞われた人々に寄り添って記録したものである。

映像の中から、被災者か記録した人かは分からないが、嗚咽の声が聞こえた。画面から、人々が互いに抱き合って湯気が立ち込め、レンズが曇っていたのが分かった。映像を見ていた時、グッと来るのを感じ、そのセリフのないビデオテープが心の中の軟らかい部分を揺り動かした。後で、それは「慈悲」なのだと分かった。そして、これらを記録した人たちに共通する名称があることも初めて知った‥「人文真善美ボランティア」。

私と真善美ボランティアの関係を表す一番良い名称は、「同級生」或いは「同門生」であろう。二○○三年に慈済基金会に就職した時、私はただの「慈済の人間」に過ぎず、慈済については半分も理解していなかった。その年、私が担当したのは、「文化三合一ボランティア」の発展と人員の養成だった。慈済のことをよく理解していなかったその頃、経験豊富な「文化三合一ボランティア」たちが手引をし、いろはの先生となって仏教儀式、慈済精神、コミュニティ運営及びボランティアの生態などを教えてくれた。私は数年間の番組制作に関わった経験を代わりに分かち合った。プロの撮影方法、カッティングテクニック、題材の選び方と取材、プ口ジェクトの企画経験などである。

『真実を語る人』

01 真実の人生を拝見
02 善の力を自分の目で確かめる

ここ数年間、真善美ボランティアに益々、多くのことを教えられ、彼らの名称も「文化三合一」から「人文真善美」に改められた。私たちはずっと一緒に成長し、私の専門で教えられることがなくなった時、プロの先生を招いて講義を受け持ってもらったが、彼らはいつも素早く学び取った。そして、私が提供できるのが専門知識ではなく、慧命の分かち合いになった時、そして、私も彼らのような人間になりたいと思った故に、養成コースに参加し始め、慈済委員の認証を受けた。

私は、慈済で人文記録に携わっている多くの職員やボランティアは、慈済精神に心を動かされ、一つまた一つと取材を重ねて、自分の生命で生命の記録をしているのだと思う。私たちと記録に残る人の間では、互いに話に耳を傾けることで力となった。私たちは彼らの身の上から一部を取り上げて、答えを見つけるだけでなく、慰め合い、目の前の苦境を切り拔けて来た。いつも互いを思いやり、共感を持つことで、時代の真、善、美の証人となり、私たちのチ―ムを成長させて来た。

生命には終わりがあるが、慧命は窮まるところを知らない。時代の証を立て、慈済の歴史を残し、社会の模範を打ち立ててくれた、全ての「人文真善美」ボランティアに感謝したい。私も、皆が力を合わせて作った作品は、私たちの命より長く引き継がれ、いつまでも、あの時、あの地、あの人の証となって、かつてあった刹那の感動を与えてくれると信じている。

謹んで、この本で以て歴史を記録した人に感謝したい。彼らの姿も慈済の歴史の一部であり、彼らは万難を排して使命を果たすことで、人間仏教に欠かせない大切な部分を書きあげたのである。
(『真実を語る人』の序文より)

(慈済月刊六五三期より)

時代の証を立て、慈済の歴史を残し、社會の模範を打ち立てた、全ての「人文真善美」のボランティアに感謝したい。

皆で力を合わせて完成させた作品は、わたしたちの命より長く引き継がれ、いつの世でも、あの時、あの地、あの人の証となって、かつてあった刹那の感動を与えてくれるだろう。

初めて慈済ボランティアが収録した映像を目にした時、私は泣いてしまった!あの映像は全く「化粧していない素肌」のように揺れ動き、声音も途切れ途切れだった。テレビ番組のプ口デュ―サ―の目から見れば、恐らく使える代物ではなかった。しかし、あの映像は、ボランティァが災害現場に奥深く入り、苦難に見舞われた人々に寄り添って記録したものである。

映像の中から、被災者か記録した人かは分からないが、嗚咽の声が聞こえた。画面から、人々が互いに抱き合って湯気が立ち込め、レンズが曇っていたのが分かった。映像を見ていた時、グッと来るのを感じ、そのセリフのないビデオテープが心の中の軟らかい部分を揺り動かした。後で、それは「慈悲」なのだと分かった。そして、これらを記録した人たちに共通する名称があることも初めて知った‥「人文真善美ボランティア」。

私と真善美ボランティアの関係を表す一番良い名称は、「同級生」或いは「同門生」であろう。二○○三年に慈済基金会に就職した時、私はただの「慈済の人間」に過ぎず、慈済については半分も理解していなかった。その年、私が担当したのは、「文化三合一ボランティア」の発展と人員の養成だった。慈済のことをよく理解していなかったその頃、経験豊富な「文化三合一ボランティア」たちが手引をし、いろはの先生となって仏教儀式、慈済精神、コミュニティ運営及びボランティアの生態などを教えてくれた。私は数年間の番組制作に関わった経験を代わりに分かち合った。プロの撮影方法、カッティングテクニック、題材の選び方と取材、プ口ジェクトの企画経験などである。

『真実を語る人』

01 真実の人生を拝見
02 善の力を自分の目で確かめる

ここ数年間、真善美ボランティアに益々、多くのことを教えられ、彼らの名称も「文化三合一」から「人文真善美」に改められた。私たちはずっと一緒に成長し、私の専門で教えられることがなくなった時、プロの先生を招いて講義を受け持ってもらったが、彼らはいつも素早く学び取った。そして、私が提供できるのが専門知識ではなく、慧命の分かち合いになった時、そして、私も彼らのような人間になりたいと思った故に、養成コースに参加し始め、慈済委員の認証を受けた。

私は、慈済で人文記録に携わっている多くの職員やボランティアは、慈済精神に心を動かされ、一つまた一つと取材を重ねて、自分の生命で生命の記録をしているのだと思う。私たちと記録に残る人の間では、互いに話に耳を傾けることで力となった。私たちは彼らの身の上から一部を取り上げて、答えを見つけるだけでなく、慰め合い、目の前の苦境を切り拔けて来た。いつも互いを思いやり、共感を持つことで、時代の真、善、美の証人となり、私たちのチ―ムを成長させて来た。

生命には終わりがあるが、慧命は窮まるところを知らない。時代の証を立て、慈済の歴史を残し、社会の模範を打ち立ててくれた、全ての「人文真善美」ボランティアに感謝したい。私も、皆が力を合わせて作った作品は、私たちの命より長く引き継がれ、いつまでも、あの時、あの地、あの人の証となって、かつてあった刹那の感動を与えてくれると信じている。

謹んで、この本で以て歴史を記録した人に感謝したい。彼らの姿も慈済の歴史の一部であり、彼らは万難を排して使命を果たすことで、人間仏教に欠かせない大切な部分を書きあげたのである。
(『真実を語る人』の序文より)

(慈済月刊六五三期より)

關鍵字

福を積み、造る

人間(じんかん)では、利益を得たなら、それ以上に社会に幸せをもたらして 福の因と縁を途絶えさせないことです。

心が軽やかになる秘訣

上人は、北部の第十三回目の認証式兼歳末祝福会で、皆に人生の価値を「棚卸し」して、人間(じんかん)を利したかどうか、それともボーッとして無駄に過ごして来たかを振り返るように、と言いました。生命を無駄に過ごすことは人生の価値を失うことでもあります。力があれば、奉仕に努めるべきであり、この世を気遣わなければなりません。

「私たちは家庭を守り、事業に専念し、社会を利するような真っ当な事をすべきです。また、一歩踏み込んで、事業で得た利益を社会に還元してこそ、お金儲けに本当の価値が現れるのです」。また上人は、人間(じんかん)に来たのは滅多にない縁であるから、生命の良能を発揮して奉仕すべきであり、この世を利すると共に、社会に福をもたらさなければならない、と言いました。

「この人生で事業に努め、お金儲けできるのは、過去生で福の因を作ったことによるのであり、今生では人と縁が結ばれ、選択によって、成したことが正しければ、お金が儲ります。これを『時應運』(機運に乗じる)または『運應時(時勢に乗じる)』と呼び、時と生命と運命のどれ一つが欠けても成り立ちません。適時に運命に沿えば、過去に植えた福の因によって福が積み重なります。過去に植えた木の種類に従って、それ相応の種子が実り、今この時にこの土地に落ちて日光や空気、水分が得られるのです。そこで因縁と適時の命運によって芽が出て、適時に人間(じんかん)に福をもたらすようになります。そこに人生の価値があるのです。福の因、福の縁があって初めて福を造ることができるのですから、時間を無駄にせず、善の種子を蒔きましょう」。

上人が軽やかな心境を保つ秘訣を語りました。つまり、毎日起きた時に手足を動かし、自由自在に動かせるならば、先ず「感謝」の気持ちが出てきます。昨夜を無事に過ごし、今日も健康に仕事ができることへの感謝です。今日の方向からはぐれず、自分がすべきことをし、仏や法に接し、頂礼(ちょうらい)して仏法を敬い、仏の教育に従うのです。自分の部屋を出て、本堂に向かう時、普通はまだ夜が明けていません。その時、明月を空に見ることもあり、月の満ち欠けを見ながら、時の流れを感じます。人生も世事も無常で、あらゆる物事は時間と共に変化していくため、一刻一刻が平安であることに感謝しなければなりません。

「一日の計は夜明けにあり。毎日朝早く起きた後。心をちゃんと整理するのです。昨日または以前に思う通りにいかなかったことがあっても、それを忘れ、今日も新しい一日が始まり、温かくて明るい朝の光が心の中を照らすようにするのです」。また上人は、「晨語を開示する前はまだ夜が明けていませんが、開示が終わって本堂を出る時は既に、太陽が海面上に顔を出しており、赤みがかった黄色の太陽を見ることができます。その時の光はまだ眩しいものではなく、朝日が山肌や大地を照らし、とても美しい景観を創り出します。それ故、毎日とても満足な気持ちになり、自分は幸福だと感じます。年月が過ぎて歳をとったと感じ、山の向こうに日が沈みかけているものの、それでも時間を無駄にしないよう、自分を励ましています」。

「行脚で移動する際に、車で北から南に向かって海岸線を走っていると、太陽が海の向こうに沈むのを目にすることがあります。その時、私は太陽がいつ完全に沈むのかを注視します。しかし、どんなに注意していても、家に遮られた後、再び海が見えた時、太陽は既に沈んでしまっており、日没はこんなにも速いのかという感じを受けます。ですから、常に太陽の位置に注意していれば、移動している感じがしません。ちょっとでも注意を逸らすと、海面に沈んでしまうのです。その実、人生も同じようなもので、毎日が平安に過ぎて行くことに感謝すべきであり、今を逃さず、未来のために道を切り開くべきです」。

上人は大衆をこう励ましました。「人生は無常で短いものですが、この人生と一個人の力を軽く見てはいけません。小さい蟻は弱くても、方向さえ定まれば、精進して前に進み、何代にもわたってその志は変わらず、最後には須弥山を超えることさえできるのです。慈済人は小さな蟻のように、この五十数年間、こまごました力を結集して四大志業と八大法印を成就させ、人間(じんかん)を利してきました」。

慈済人はまた、淡い光を放つ蛍のようです。数多くの蛍が集まれば、暗い夜は美しいものになります。「自分を大きく見せようとすれば、傲慢になりますが、そうかと言って卑下し、自分を軽く見てもいけません。それは、私たちも生命を使って暗闇を照らす光を放つことができるからです」。また、「『前人が木を植え、後人が涼を取る』と言うように、前人が繁栄する社会の基礎を打ち立ててくれたことに感謝し、今の人がそれを心して繁栄を持続させ、更に次世代にバトンタッチして行くのです。若い人も感謝し、絶えず感謝の気持ちの中で循環する世界を造らなければいけません。

(慈済月刊六六三期より)

人間(じんかん)では、利益を得たなら、それ以上に社会に幸せをもたらして 福の因と縁を途絶えさせないことです。

心が軽やかになる秘訣

上人は、北部の第十三回目の認証式兼歳末祝福会で、皆に人生の価値を「棚卸し」して、人間(じんかん)を利したかどうか、それともボーッとして無駄に過ごして来たかを振り返るように、と言いました。生命を無駄に過ごすことは人生の価値を失うことでもあります。力があれば、奉仕に努めるべきであり、この世を気遣わなければなりません。

「私たちは家庭を守り、事業に専念し、社会を利するような真っ当な事をすべきです。また、一歩踏み込んで、事業で得た利益を社会に還元してこそ、お金儲けに本当の価値が現れるのです」。また上人は、人間(じんかん)に来たのは滅多にない縁であるから、生命の良能を発揮して奉仕すべきであり、この世を利すると共に、社会に福をもたらさなければならない、と言いました。

「この人生で事業に努め、お金儲けできるのは、過去生で福の因を作ったことによるのであり、今生では人と縁が結ばれ、選択によって、成したことが正しければ、お金が儲ります。これを『時應運』(機運に乗じる)または『運應時(時勢に乗じる)』と呼び、時と生命と運命のどれ一つが欠けても成り立ちません。適時に運命に沿えば、過去に植えた福の因によって福が積み重なります。過去に植えた木の種類に従って、それ相応の種子が実り、今この時にこの土地に落ちて日光や空気、水分が得られるのです。そこで因縁と適時の命運によって芽が出て、適時に人間(じんかん)に福をもたらすようになります。そこに人生の価値があるのです。福の因、福の縁があって初めて福を造ることができるのですから、時間を無駄にせず、善の種子を蒔きましょう」。

上人が軽やかな心境を保つ秘訣を語りました。つまり、毎日起きた時に手足を動かし、自由自在に動かせるならば、先ず「感謝」の気持ちが出てきます。昨夜を無事に過ごし、今日も健康に仕事ができることへの感謝です。今日の方向からはぐれず、自分がすべきことをし、仏や法に接し、頂礼(ちょうらい)して仏法を敬い、仏の教育に従うのです。自分の部屋を出て、本堂に向かう時、普通はまだ夜が明けていません。その時、明月を空に見ることもあり、月の満ち欠けを見ながら、時の流れを感じます。人生も世事も無常で、あらゆる物事は時間と共に変化していくため、一刻一刻が平安であることに感謝しなければなりません。

「一日の計は夜明けにあり。毎日朝早く起きた後。心をちゃんと整理するのです。昨日または以前に思う通りにいかなかったことがあっても、それを忘れ、今日も新しい一日が始まり、温かくて明るい朝の光が心の中を照らすようにするのです」。また上人は、「晨語を開示する前はまだ夜が明けていませんが、開示が終わって本堂を出る時は既に、太陽が海面上に顔を出しており、赤みがかった黄色の太陽を見ることができます。その時の光はまだ眩しいものではなく、朝日が山肌や大地を照らし、とても美しい景観を創り出します。それ故、毎日とても満足な気持ちになり、自分は幸福だと感じます。年月が過ぎて歳をとったと感じ、山の向こうに日が沈みかけているものの、それでも時間を無駄にしないよう、自分を励ましています」。

「行脚で移動する際に、車で北から南に向かって海岸線を走っていると、太陽が海の向こうに沈むのを目にすることがあります。その時、私は太陽がいつ完全に沈むのかを注視します。しかし、どんなに注意していても、家に遮られた後、再び海が見えた時、太陽は既に沈んでしまっており、日没はこんなにも速いのかという感じを受けます。ですから、常に太陽の位置に注意していれば、移動している感じがしません。ちょっとでも注意を逸らすと、海面に沈んでしまうのです。その実、人生も同じようなもので、毎日が平安に過ぎて行くことに感謝すべきであり、今を逃さず、未来のために道を切り開くべきです」。

上人は大衆をこう励ましました。「人生は無常で短いものですが、この人生と一個人の力を軽く見てはいけません。小さい蟻は弱くても、方向さえ定まれば、精進して前に進み、何代にもわたってその志は変わらず、最後には須弥山を超えることさえできるのです。慈済人は小さな蟻のように、この五十数年間、こまごました力を結集して四大志業と八大法印を成就させ、人間(じんかん)を利してきました」。

慈済人はまた、淡い光を放つ蛍のようです。数多くの蛍が集まれば、暗い夜は美しいものになります。「自分を大きく見せようとすれば、傲慢になりますが、そうかと言って卑下し、自分を軽く見てもいけません。それは、私たちも生命を使って暗闇を照らす光を放つことができるからです」。また、「『前人が木を植え、後人が涼を取る』と言うように、前人が繁栄する社会の基礎を打ち立ててくれたことに感謝し、今の人がそれを心して繁栄を持続させ、更に次世代にバトンタッチして行くのです。若い人も感謝し、絶えず感謝の気持ちの中で循環する世界を造らなければいけません。

(慈済月刊六六三期より)

關鍵字