NO.304 世界に目を向ける

台湾南投
心がすっきりする初めの一歩

文・陳雪玉(南投慈済ボランティア)
撮影・陳秋燕(南投慈済ボランティア)
訳・御山凛

この一戸建てには、一階から三階まで雑多な物とゴミがいっぱい積み上げられていた。リビング、キッチン、トイレ、部屋がほとんど足の踏み場もないほどだった。邦さんはどうやって日常生活を送っているのだろうか?五十数人のボランティアは、考えることもなく、隙間から入って清掃を始めた。一回目に中に入ったメンバーには耐えきれず外へ飛び出して吐いてしまった人もいたが、他の人は怯むことなく清掃を続けた。

クレジットカードの支払い滞納と失業で家が差し押さえられたが、幸いにも姉が家を買い戻してくれた。しかし、その時から物を溜めるようになった。廃棄物を拾う生活では三食を満たすことはできず、慈済が生活を補助し、またリサイクルステーションに連れて行って回収物の分別をさせると共に、食事を与えた。二〇二一年十一月に二度目の清掃をした時、台中慈済病院の医療人員は邦さんの心身検査を勧め、ボランティアも邦さんに、「旧正月前にまた見に来ます。家を清潔なままに保っていてくださいね!」と念を押した。

ミャンマー
物価上・昇川を渡って米を届ける支援

文・黄露発(慈済ミャンマー連絡処職員)
訳・御山凛
撮影・ミン・トゥ(ミャンマー慈青)

ヤンゴン市に近い、ヤンゴン川両岸を跨ぐチミンダイン地区の住民は、毎日川を渡ってヤンゴン市海鮮市場に行き、運搬や工業区での仕事をしている。その日、二十一艘の小船が、列をなして二千袋の米と食用油を対岸に運んだ。それらは住民が首を長くして待ちのぞんでいたものだった。

ミャンマーのコロナ禍は次第に落ち着いて来ていたが、いくつかの村は未だ通行止めになっており、工場は大量雇用の見通しが立っていなかった。ボランティアは救済措置として配付活動を継続し、十月にはチミンダイン地区で八千三百余りの生活困窮世帯に物資を届けた。住民は老若男女を問わず、自主的に米を配付地点まで運ぶ手伝いをした。住民のチョー・ミン・ナインさんは、毎日未明の三時半に川を渡って、市場で運搬工として働いている。「コロナ禍で物価が上がり、生活は厳しくなりましたが、慈済からお米をいただくことができて、とても感謝しています。ですから、お米を運ぶのは、ちっとも大変ではありません!」と言った。

フィリピン
医療スタッフが私に微笑んだ

資料の提供・慈済フィリピン支部
訳・御山凛

(撮影・李佳美 )

六十三歳のリリアさん(左側写真・中央)は、フィリピン慈済眼科センターで左目の白内障手術を受けて、やっと物がはっきり見えるようになった。彼女は嬉しくて仕方がなく、医師への感謝を抑えきれなかった。

マニラの慈済志業パーク(慈済の施設が集まった場所)にある慈済眼科センターは十四年間、病院に見放された貧困層の患者のために、無料で診察を続けてきた。慈済人医会メンバーは奉仕を信条としており、コロナ禍でも手術は継続して行われ、二〇二一年通年の手術回数はコロナ禍前と同等だった。一般的な麻酔手術は、本来なら近隣の二つの病院が協力して行っていたが、厳しさを増したコロナ禍では、作業の申請が複雑になっていた。そんな中、麻酔医師の陳少青(チェン・サオチン)さんは、慈済が手術室を借りる費用の節約ができるよう、自主的に慈済眼科センターに来て、患者のために麻酔を施した。(右側写真提供・慈済フィリピン支部)

インドネシア
洪水に阻まれた街 万を数える世帯を支援

文、写真・慈済インドネシア支部
訳・御山凛

二〇二一年十月末、インドネシアは雨季が始まり、多くの州で驚くべき雨量を記録した。西カリマンタン州のシンタン県、メラウィ県等は、浸水して一カ月以上経っても水が引かず、交通が中断したままで、全州八万を超える人が被災した。多くの住民は家に閉じ込められ、早急に薬とベビー用品、生活物資の支援が必要になっていた。

十一月上旬から、ジャカルタ、カリマンタン各地区の慈済ボランティアは、軍や警察の協力の下に、船による配付を行い、浸水した地域の被災世帯に米と即席麺、食用油などを届けると共に、避難所に食糧と日用品を提供した。水が引いた後も、軍の協力で各村落で継続して配付活動を行い、合計約二万四千世帯を支援した。

(慈済月刊六六二期より)

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