どの家庭にも模範となる人がいます

仏陀は『法華経』の中で、仏法は五十人目まで受け継がれるべきだと教えました。私も五十代目まで代々伝わっていくことを願っております。

私たちがやってきたことを人々と共有すれば、菩薩が菩薩を誘い、福を知って、更に福を作り、家庭が睦まじく幸せになり、それぞれの家庭に模範となる人がいるようにするのです。

皆さんは感謝、尊重、愛を確実に実践してきました。私は、皆さんから充実して着実に歩んできた話を聞き、深い感動を覚えました。私が皆さんに感謝の意を表すと、皆さんも直ちに「師父に感謝しています」と返事をしてくれることにお礼を言います。その実、皆さんは見返りを求めず奉仕しているのです。お互いに感謝し合うのは、なんと美しい姿でしょう!

雲林、嘉義、台南地域の土地柄はとても純朴です。大林や斗南に行くといつも、分かち合いのために集まってくる大勢の「草の根」のような素朴な菩薩たちは、あたかもススキの中の大木一本一本が大地を守っているかのようで、感動せずにはいられません。それに、以前からずっと私と共に歩みを進め、私を護持し、今も精進している多くの年配の慈済人たち、また、先輩の高齢者を敬うことを知っている中年の慈誠や委員の姿も見てきました。人々が意気投合し、心から協力し合えば、菩薩の心に出会うことができるのです。

菩提心を持って菩薩道を歩み、同じ心、同じ志を以って行動する相手のことを、「同修」と呼びますが、夫婦だけが「同修」なのではありません。夫婦ですから、ご主人が慈済の奉仕に出かけても、奥様は反対しないばかりかいつも協力的です。ご主人も奥様を連れて慈済に参加し、手を取り合って菩薩道を歩むのです。そのようにペアで心を一つにして修行していれば、家庭はとても幸福且つ平和であり、子供たちに対しても模範的な教育となっていると感じています。「家族が仲睦まじければ、全てがうまくいき、家庭も心も円満になる」と常に言っているのはそういう意味なのです。

この時代、若者は家を離れて就職したり、海外に進学したりして、あらゆる分野で若者も壮年層もそれぞれにやるべきことがありますが、田舎の年長者は年老いていきます。そして、若い世代が故郷を離れたため、彼らは孤独を感じています。もし、菩薩のネットワークとチームがあれば、地域でケアをし、付き添うことができます。特に、慈済は各地にリサイクルステーションがありますから、彼らを資源回収に誘い、慈済の大家庭に来てもらうことができます。

「ゴミが黄金に変り、黄金が愛になり、愛は清流と化して、全世界を巡る」。慈済がリサイクルを行うのは、大愛テレビ局を支援し、弘法して衆生を利するだけでなく、この世で良いことをしているのであり、あたかも海が一滴一滴の水から成っているように、一人ひとりの愛が功徳の海に集まれば、より多くの人を助けることができるのです。

誰もが時間を善用し、私たちが行ってきたことを皆さんと共有することを願っています。これまで誰が私たちを慈済に導いてくれたのでしょうか?全ては菩薩が菩薩を誘って来たのです。仏陀は『法華経』の中でこう教えています。「仏法は、五十人目まで伝授すべきである」。私も五十代目まで代々伝えていくことを願っています。そうなれば、ベテラン慈済人が益々増え、どの家庭にも良い模範がいて、家族に子供と孫が大勢いるだけでなく、家庭が愛に満ちるようにしたいのです。

家庭が平安で、子供や孫が立派になれば、もちろん幸せです。しかし、その福は、過去に積み重ねてきたものであり、その福を作って来たからこそ、今それが得られているのです。今引き続き縁を惜しんで、それを大切にしなければなりません。慈済人が精舎に帰ってくる度に私は、「戻ったら必ず私の代わりに、年配の慈済人たちに挨拶をし、これまでの貢献に感謝していることを、忘れないで伝えてください」と言付けます。また機会があれば、彼らと手を取り合って出かけましょう。分かち合いを聞くことは、彼らの記憶力を保ち、脳の働きを助けることにもなるでしょう。

人生の舞台に立って、この人生でどのような役割を果たしてきただろうかと、自分自身を見つめ直してください。もし役割を充分に果たせたなら、自己肯定し、皆に褒められ、家庭も幸せならば、なんとあり難いことだと感謝してください。私も自分自身を振り返りながらこう思います。「幸いにも私はあの時、慈済志業を始めようと一念発心し、幸運にもこの道を歩んで来ました」。今、慈済人は全世界に広まり、百三十六の国と地域で、慈済の慈善ケア活動が行われています。私たちの縁はとても広く、深くつながっているので、慈済に参加することは幸福であり、広く福縁を結ぶことができるのです。この世に生きているのですから、慈済を語り、行動する機会を逃さず、菩薩道を歩まなければなりません。

福祉用具のリサイクルや読書会の開催について、皆さんの分かち合いを聞いていると、深い感動を覚えます。それは、福を惜しんで、慧命を修めている姿です。しかし、本を読んだり、福祉用具を届けたりするだけでなく、人々の中に交わることが重要です。「学」と「覚」の文字は似ていますが、「学」と「覚」の間には菩薩道という道があります。絶えず学習し、行動に移して励めば、この正道を歩む方法を理解することができます。菩薩道の終着は悟りであり、人には誰でも仏性が備わっています。もし菩薩道を歩まなければ、人生の苦しみが見えず、自分の福も感じないため、その「正道」も見えません。その道は正しいのですから、私たちは時間を惜しんで精進し、励まし合い、互いに認め合いましょう。

今回、皆さんは帰ってきて、たくさんの人と知り合うことができました。他人の精進を見て手本として受け止め、「追いかけよう」と自分自身を励ましてください。そうすれば進歩できるのです。時間がある時には、いつでも帰ってきてください。最も重要なのは、法を聞くことを中断しないということです。皆さんの分かち合いを聞いていると、私の話を本当に聞き入れていることが分かります。私の言葉をできるだけ重複して使い、良い言葉は共有すれば、それが人々を悟りに導くようになるのです。雲林、嘉義、台南地区の皆さんに感謝すると共に、祝福します。

(慈済月刊六九五期より)

仏陀は『法華経』の中で、仏法は五十人目まで受け継がれるべきだと教えました。私も五十代目まで代々伝わっていくことを願っております。

私たちがやってきたことを人々と共有すれば、菩薩が菩薩を誘い、福を知って、更に福を作り、家庭が睦まじく幸せになり、それぞれの家庭に模範となる人がいるようにするのです。

皆さんは感謝、尊重、愛を確実に実践してきました。私は、皆さんから充実して着実に歩んできた話を聞き、深い感動を覚えました。私が皆さんに感謝の意を表すと、皆さんも直ちに「師父に感謝しています」と返事をしてくれることにお礼を言います。その実、皆さんは見返りを求めず奉仕しているのです。お互いに感謝し合うのは、なんと美しい姿でしょう!

雲林、嘉義、台南地域の土地柄はとても純朴です。大林や斗南に行くといつも、分かち合いのために集まってくる大勢の「草の根」のような素朴な菩薩たちは、あたかもススキの中の大木一本一本が大地を守っているかのようで、感動せずにはいられません。それに、以前からずっと私と共に歩みを進め、私を護持し、今も精進している多くの年配の慈済人たち、また、先輩の高齢者を敬うことを知っている中年の慈誠や委員の姿も見てきました。人々が意気投合し、心から協力し合えば、菩薩の心に出会うことができるのです。

菩提心を持って菩薩道を歩み、同じ心、同じ志を以って行動する相手のことを、「同修」と呼びますが、夫婦だけが「同修」なのではありません。夫婦ですから、ご主人が慈済の奉仕に出かけても、奥様は反対しないばかりかいつも協力的です。ご主人も奥様を連れて慈済に参加し、手を取り合って菩薩道を歩むのです。そのようにペアで心を一つにして修行していれば、家庭はとても幸福且つ平和であり、子供たちに対しても模範的な教育となっていると感じています。「家族が仲睦まじければ、全てがうまくいき、家庭も心も円満になる」と常に言っているのはそういう意味なのです。

この時代、若者は家を離れて就職したり、海外に進学したりして、あらゆる分野で若者も壮年層もそれぞれにやるべきことがありますが、田舎の年長者は年老いていきます。そして、若い世代が故郷を離れたため、彼らは孤独を感じています。もし、菩薩のネットワークとチームがあれば、地域でケアをし、付き添うことができます。特に、慈済は各地にリサイクルステーションがありますから、彼らを資源回収に誘い、慈済の大家庭に来てもらうことができます。

「ゴミが黄金に変り、黄金が愛になり、愛は清流と化して、全世界を巡る」。慈済がリサイクルを行うのは、大愛テレビ局を支援し、弘法して衆生を利するだけでなく、この世で良いことをしているのであり、あたかも海が一滴一滴の水から成っているように、一人ひとりの愛が功徳の海に集まれば、より多くの人を助けることができるのです。

誰もが時間を善用し、私たちが行ってきたことを皆さんと共有することを願っています。これまで誰が私たちを慈済に導いてくれたのでしょうか?全ては菩薩が菩薩を誘って来たのです。仏陀は『法華経』の中でこう教えています。「仏法は、五十人目まで伝授すべきである」。私も五十代目まで代々伝えていくことを願っています。そうなれば、ベテラン慈済人が益々増え、どの家庭にも良い模範がいて、家族に子供と孫が大勢いるだけでなく、家庭が愛に満ちるようにしたいのです。

家庭が平安で、子供や孫が立派になれば、もちろん幸せです。しかし、その福は、過去に積み重ねてきたものであり、その福を作って来たからこそ、今それが得られているのです。今引き続き縁を惜しんで、それを大切にしなければなりません。慈済人が精舎に帰ってくる度に私は、「戻ったら必ず私の代わりに、年配の慈済人たちに挨拶をし、これまでの貢献に感謝していることを、忘れないで伝えてください」と言付けます。また機会があれば、彼らと手を取り合って出かけましょう。分かち合いを聞くことは、彼らの記憶力を保ち、脳の働きを助けることにもなるでしょう。

人生の舞台に立って、この人生でどのような役割を果たしてきただろうかと、自分自身を見つめ直してください。もし役割を充分に果たせたなら、自己肯定し、皆に褒められ、家庭も幸せならば、なんとあり難いことだと感謝してください。私も自分自身を振り返りながらこう思います。「幸いにも私はあの時、慈済志業を始めようと一念発心し、幸運にもこの道を歩んで来ました」。今、慈済人は全世界に広まり、百三十六の国と地域で、慈済の慈善ケア活動が行われています。私たちの縁はとても広く、深くつながっているので、慈済に参加することは幸福であり、広く福縁を結ぶことができるのです。この世に生きているのですから、慈済を語り、行動する機会を逃さず、菩薩道を歩まなければなりません。

福祉用具のリサイクルや読書会の開催について、皆さんの分かち合いを聞いていると、深い感動を覚えます。それは、福を惜しんで、慧命を修めている姿です。しかし、本を読んだり、福祉用具を届けたりするだけでなく、人々の中に交わることが重要です。「学」と「覚」の文字は似ていますが、「学」と「覚」の間には菩薩道という道があります。絶えず学習し、行動に移して励めば、この正道を歩む方法を理解することができます。菩薩道の終着は悟りであり、人には誰でも仏性が備わっています。もし菩薩道を歩まなければ、人生の苦しみが見えず、自分の福も感じないため、その「正道」も見えません。その道は正しいのですから、私たちは時間を惜しんで精進し、励まし合い、互いに認め合いましょう。

今回、皆さんは帰ってきて、たくさんの人と知り合うことができました。他人の精進を見て手本として受け止め、「追いかけよう」と自分自身を励ましてください。そうすれば進歩できるのです。時間がある時には、いつでも帰ってきてください。最も重要なのは、法を聞くことを中断しないということです。皆さんの分かち合いを聞いていると、私の話を本当に聞き入れていることが分かります。私の言葉をできるだけ重複して使い、良い言葉は共有すれば、それが人々を悟りに導くようになるのです。雲林、嘉義、台南地区の皆さんに感謝すると共に、祝福します。

(慈済月刊六九五期より)

關鍵字

The Appliance Doctor

By Chiu Chuan Peinn
Translated by Wu Hsiao-ting
Photos by Hsiao Yiu-hwa

Guo Shang-yi finds purpose in repairing old appliances, reducing waste while forming good affinities with those who benefit from his skills.

The screws were loosened and removed one by one until the fan’s back cover could be removed, exposing the motor wrapped in copper wires. Guo Shang-yi (郭尚一), 86, carefully applied lubricant to the motor to reduce its noise while running. “Nowadays, people don’t have the tools to repair appliances themselves, nor the knowledge to do so,” he remarked.

Guo’s workbench for repairing electrical appliances at the Tzu Chi Ankang Recycling Station in Xindian, New Taipei City, northern Taiwan, was cluttered with parts and surrounded by various spare components. In the early days of his volunteering, he primarily focused on fixing fans and clocks. However, as the number of second-hand appliances he repaired grew, space became limited. To make room, he began salvaging usable parts from broken electrical and electronic items for future repairs.

“A cheap fan costs 500 NT dollars, less even than a large pizza. At that price, who’s going to bother getting a fan repaired these days?” he said with a hint of frustration, pointing out how few people are willing to maintain or repair their appliances. With a wry smile, he added, “Those who come to me for fan repairs are either deeply sentimental about their things or have lived through hard times.”

Repaired 2,000 fans in 16 years

Guo’s hair was neatly styled with pomade on the day of our interview. He looked polished and comfortable, wearing a short-sleeved white shirt tucked into black trousers secured with a brown belt. He resembled a craftsman at work or a dedicated factory worker, standing by the workbench where he repairs electrical items.

Guo is a regular volunteer at the recycling station, giving new life to recycled electronics and appliances. Some have dubbed him the “appliance doctor” because he previously served as the factory director of a well-known electronics company. In fact, he had an even longer history as a senior executive at a brake system company. His wife, Wang Mei-sha (王美紗), chuckled, saying, “Many people think he has always worked in repairs, but fixing appliances is just his hobby.”

Guo and his wife became Tzu Chi recycling volunteers not long after he retired at 70. They volunteer five days a week—a routine they’ve maintained for 16 years. The appliance doctor has repaired over 300 clocks and more than 2,000 electric fans during this time, mostly discarded items at the station. Volunteers also bring him electrical items from home to fix. As the number of repaired appliances grew, space in the thrift store at the recycling station became limited. To create more room, fellow volunteer Chen Wen-xian (陳文憲) reached out to nearby Ankeng Elementary School and two rural schools in Yilan to see if they could use the items. So far, nearly a hundred fans and wall clocks have been donated.

With his wealth of experience in manufacturing, Guo views modern industry trends with concern. While repairing fans, he’s noticed that some cheaper models use copper wires as thin as hair; others substitute copper with aluminum, which shortens the lifespan of the appliances. The declining manufacturing quality, despite reducing the cost of electronics, troubles him. He fears people have developed a mindset of replacing rather than repairing, losing appreciation for their possessions.

In contrast to this throwaway mentality, Guo proudly stated that one of his wife’s dowry items was a fan that’s now over 60 years old and still in use. Wang added, “He repairs that fan and replaces parts. It still looks as good as new!”

Guo’s passion for repairing electrical items began in childhood. He recalls being six or seven years old during the final years of World War II. After the war, resources were scarce. Even though his father was a civil servant, providing for a family with eight children was financially challenging.

As the eldest son, Guo began helping with the family’s side businesses at a young age. He remembers milking goats with his grandmother, mother, and aunt to provide milk for tuberculosis patients, as well as running the family’s grocery store with his younger brother during his teenage years—memories that remain vivid to this day.

“The environment you grow up in shapes your character,” Guo remarked, believing that the era of scarcity he experienced fostered frugality in his generation. At least, that’s how he sees himself and the older volunteers at the recycling station.

The simplicity and thriftiness of the past stand in stark contrast to the blatant consumerism of modern society. To Guo, today’s industrial model and rampant consumerism are unfortunate yet inevitable. “If people didn’t waste so much, many would be out of work and couldn’t put food on their tables,” he concluded.

Guo Shang-yi repairs clocks and appliances that volunteers collect for recycling or bring from their homes. If an item is beyond repair, he dismantles it for recycling or salvages parts for future use.

Free community “gym”

Surprisingly, Guo is also not optimistic about the development of green energy. He raised concerns about whether discarded solar panels and electric vehicle batteries can be properly recycled. Shifting topics, he remarked on the growing accumulation of space debris, asking, “Do you know how much space junk is flying around up there?”

While his extensive reading has heightened his environmental awareness and concern, he admits that his commitment to recycling work is not driven by lofty ideals of making the world a better place; instead, he volunteers mostly to stay active and socially connected.

After retiring, he found himself idle at home. Sitting for too long led to severe lower back pain. Moreover, he and his wife spent much of their time at home with little social interaction, which he realized wasn’t a sustainable way to live. Eventually, through Sister You Cai-xia’s (游彩霞) introduction, they began volunteering at the Ankang Recycling Station.

The couple used to hike on Sundays until Wang’s knee pain prevented it. Although they no longer hike to help themselves stay fit, the recycling station became their free community “gym,” allowing them to remain physically active. Volunteers there engage in various forms of “exercise”: some train their arms by tossing large bags filled with plastic into storage, while others stretch by placing sorted recyclables into nearby baskets. Wang, on the other hand, tones her arm muscles by using a hammer to break apart electronic waste for recycling.

Due to his back pain, Guo repairs appliances while standing. Unexpectedly, after three months of this routine, the pain he had experienced from sitting at home disappeared!

Wang Mei-sha is skilled with her hands. She sewed bags from recycled materials in the past, but now mostly focuses on dismantling appliances.

The happiness that seniors truly want

Machines require regular lubrication and maintenance to function optimally. Likewise, our bodies need exercise to stay fit, and our minds thrive on continuous, positive interactions with others. In contrast, Guo feels his social circle shrinking as he ages. Many of his acquaintances have passed away, while others have moved into nursing homes.

He notices that some fellow volunteers at the recycling station have been asked by their children to stop volunteering because their children want them to take it easy and enjoy retirement. While he understands these children’s intentions, he believes that older people need a community where they can find companionship and a sense of belonging. “Old folks need friends!” he says. “And they need something to do to stay happy.”

Fortunately, Guo’s children and grandchildren do not interfere with his and his wife’s volunteer work at the recycling station. He smiles and says, “I’m quite assertive, so my kids don’t dare to step in.” His wife adds that while Guo is not harsh at home, he is a bit of an authoritative figure.

Guo feels that he and his wife volunteering at the recycling station has helped them live independently, contributing to their children’s happiness. The couple are not a burden on their kids. He hopes to continue what he is doing in the days to come. “My volunteer work at the station helps me build good affinities with others: the Tzu Chi brothers and sisters, people who enlist my help in fixing their appliances, and those who patronize our thrift store,” he says. “The remaining value of my life lies in repairing these small devices.”

A quote from a Hayao Miyazaki film resonates deeply with him: “Life is like a train to the grave, with many stops along the way…. When the people who accompany you get off, even if it’s hard to part, you should wave goodbye with gratitude in your heart for the time spent together.” Guo believes that not only should those remaining on the train bid farewell to their departed loved ones with gratitude, but those preparing to disembark should also embrace a graceful attitude. He aims to contribute whatever he can while still alive, and then gratefully wave goodbye when the time comes for him to get off.

Guo Shang-yi finds it difficult to accept the sight of usable items being discarded. By repairing old fans and other devices and giving them new life, he cultivates a sense of warmth and connection with the people who benefit from his work.

By Chiu Chuan Peinn
Translated by Wu Hsiao-ting
Photos by Hsiao Yiu-hwa

Guo Shang-yi finds purpose in repairing old appliances, reducing waste while forming good affinities with those who benefit from his skills.

The screws were loosened and removed one by one until the fan’s back cover could be removed, exposing the motor wrapped in copper wires. Guo Shang-yi (郭尚一), 86, carefully applied lubricant to the motor to reduce its noise while running. “Nowadays, people don’t have the tools to repair appliances themselves, nor the knowledge to do so,” he remarked.

Guo’s workbench for repairing electrical appliances at the Tzu Chi Ankang Recycling Station in Xindian, New Taipei City, northern Taiwan, was cluttered with parts and surrounded by various spare components. In the early days of his volunteering, he primarily focused on fixing fans and clocks. However, as the number of second-hand appliances he repaired grew, space became limited. To make room, he began salvaging usable parts from broken electrical and electronic items for future repairs.

“A cheap fan costs 500 NT dollars, less even than a large pizza. At that price, who’s going to bother getting a fan repaired these days?” he said with a hint of frustration, pointing out how few people are willing to maintain or repair their appliances. With a wry smile, he added, “Those who come to me for fan repairs are either deeply sentimental about their things or have lived through hard times.”

Repaired 2,000 fans in 16 years

Guo’s hair was neatly styled with pomade on the day of our interview. He looked polished and comfortable, wearing a short-sleeved white shirt tucked into black trousers secured with a brown belt. He resembled a craftsman at work or a dedicated factory worker, standing by the workbench where he repairs electrical items.

Guo is a regular volunteer at the recycling station, giving new life to recycled electronics and appliances. Some have dubbed him the “appliance doctor” because he previously served as the factory director of a well-known electronics company. In fact, he had an even longer history as a senior executive at a brake system company. His wife, Wang Mei-sha (王美紗), chuckled, saying, “Many people think he has always worked in repairs, but fixing appliances is just his hobby.”

Guo and his wife became Tzu Chi recycling volunteers not long after he retired at 70. They volunteer five days a week—a routine they’ve maintained for 16 years. The appliance doctor has repaired over 300 clocks and more than 2,000 electric fans during this time, mostly discarded items at the station. Volunteers also bring him electrical items from home to fix. As the number of repaired appliances grew, space in the thrift store at the recycling station became limited. To create more room, fellow volunteer Chen Wen-xian (陳文憲) reached out to nearby Ankeng Elementary School and two rural schools in Yilan to see if they could use the items. So far, nearly a hundred fans and wall clocks have been donated.

With his wealth of experience in manufacturing, Guo views modern industry trends with concern. While repairing fans, he’s noticed that some cheaper models use copper wires as thin as hair; others substitute copper with aluminum, which shortens the lifespan of the appliances. The declining manufacturing quality, despite reducing the cost of electronics, troubles him. He fears people have developed a mindset of replacing rather than repairing, losing appreciation for their possessions.

In contrast to this throwaway mentality, Guo proudly stated that one of his wife’s dowry items was a fan that’s now over 60 years old and still in use. Wang added, “He repairs that fan and replaces parts. It still looks as good as new!”

Guo’s passion for repairing electrical items began in childhood. He recalls being six or seven years old during the final years of World War II. After the war, resources were scarce. Even though his father was a civil servant, providing for a family with eight children was financially challenging.

As the eldest son, Guo began helping with the family’s side businesses at a young age. He remembers milking goats with his grandmother, mother, and aunt to provide milk for tuberculosis patients, as well as running the family’s grocery store with his younger brother during his teenage years—memories that remain vivid to this day.

“The environment you grow up in shapes your character,” Guo remarked, believing that the era of scarcity he experienced fostered frugality in his generation. At least, that’s how he sees himself and the older volunteers at the recycling station.

The simplicity and thriftiness of the past stand in stark contrast to the blatant consumerism of modern society. To Guo, today’s industrial model and rampant consumerism are unfortunate yet inevitable. “If people didn’t waste so much, many would be out of work and couldn’t put food on their tables,” he concluded.

Guo Shang-yi repairs clocks and appliances that volunteers collect for recycling or bring from their homes. If an item is beyond repair, he dismantles it for recycling or salvages parts for future use.

Free community “gym”

Surprisingly, Guo is also not optimistic about the development of green energy. He raised concerns about whether discarded solar panels and electric vehicle batteries can be properly recycled. Shifting topics, he remarked on the growing accumulation of space debris, asking, “Do you know how much space junk is flying around up there?”

While his extensive reading has heightened his environmental awareness and concern, he admits that his commitment to recycling work is not driven by lofty ideals of making the world a better place; instead, he volunteers mostly to stay active and socially connected.

After retiring, he found himself idle at home. Sitting for too long led to severe lower back pain. Moreover, he and his wife spent much of their time at home with little social interaction, which he realized wasn’t a sustainable way to live. Eventually, through Sister You Cai-xia’s (游彩霞) introduction, they began volunteering at the Ankang Recycling Station.

The couple used to hike on Sundays until Wang’s knee pain prevented it. Although they no longer hike to help themselves stay fit, the recycling station became their free community “gym,” allowing them to remain physically active. Volunteers there engage in various forms of “exercise”: some train their arms by tossing large bags filled with plastic into storage, while others stretch by placing sorted recyclables into nearby baskets. Wang, on the other hand, tones her arm muscles by using a hammer to break apart electronic waste for recycling.

Due to his back pain, Guo repairs appliances while standing. Unexpectedly, after three months of this routine, the pain he had experienced from sitting at home disappeared!

Wang Mei-sha is skilled with her hands. She sewed bags from recycled materials in the past, but now mostly focuses on dismantling appliances.

The happiness that seniors truly want

Machines require regular lubrication and maintenance to function optimally. Likewise, our bodies need exercise to stay fit, and our minds thrive on continuous, positive interactions with others. In contrast, Guo feels his social circle shrinking as he ages. Many of his acquaintances have passed away, while others have moved into nursing homes.

He notices that some fellow volunteers at the recycling station have been asked by their children to stop volunteering because their children want them to take it easy and enjoy retirement. While he understands these children’s intentions, he believes that older people need a community where they can find companionship and a sense of belonging. “Old folks need friends!” he says. “And they need something to do to stay happy.”

Fortunately, Guo’s children and grandchildren do not interfere with his and his wife’s volunteer work at the recycling station. He smiles and says, “I’m quite assertive, so my kids don’t dare to step in.” His wife adds that while Guo is not harsh at home, he is a bit of an authoritative figure.

Guo feels that he and his wife volunteering at the recycling station has helped them live independently, contributing to their children’s happiness. The couple are not a burden on their kids. He hopes to continue what he is doing in the days to come. “My volunteer work at the station helps me build good affinities with others: the Tzu Chi brothers and sisters, people who enlist my help in fixing their appliances, and those who patronize our thrift store,” he says. “The remaining value of my life lies in repairing these small devices.”

A quote from a Hayao Miyazaki film resonates deeply with him: “Life is like a train to the grave, with many stops along the way…. When the people who accompany you get off, even if it’s hard to part, you should wave goodbye with gratitude in your heart for the time spent together.” Guo believes that not only should those remaining on the train bid farewell to their departed loved ones with gratitude, but those preparing to disembark should also embrace a graceful attitude. He aims to contribute whatever he can while still alive, and then gratefully wave goodbye when the time comes for him to get off.

Guo Shang-yi finds it difficult to accept the sight of usable items being discarded. By repairing old fans and other devices and giving them new life, he cultivates a sense of warmth and connection with the people who benefit from his work.

關鍵字

Lost and Found

By Yi Yi
Abridged and translated by Wu Hsiao-ting
Photo by Huang Xiao-zhe

A family’s experience with dementia highlights the importance of love, care, and a proactive approach to maintaining cognitive health.

In an aging society, it’s crucial to strengthen our network of care to better support the elderly.

Recently, Tzu Chi’s Da Ai TV aired the second season of Still Me, a drama inspired by true stories about dementia. Its popularity highlights the growing concern over dementia in Taiwan, where the elderly population is rapidly increasing.

According to Taiwan’s Ministry of Health and Welfare, approximately 350,000 people aged 65 and older are living with dementia. My father is one of them. While he initially managed mild memory loss well, the turning point was the COVID-19 pandemic. His greatest joy was singing karaoke with friends; his eyes would light up at the mention of it, and he would proudly tell us how many songs he could sing.

Unfortunately, social distancing measures during the pandemic led to the closure of karaoke venues. With limited social interaction and being stuck at home watching TV all day, my father’s memory began to decline more rapidly.

One autumn afternoon, after days of rain, he took his bicycle out and got lost. Hours passed without any sign of him, and as it grew dark and more rain began to fall, our anxiety escalated. With his phone likely dead, we couldn’t track him. We reported him missing to the police and enlisted the Taiwan Alzheimer’s Disease Association to post a missing person flyer online. We drove around and around searching for him, but he was nowhere to be found.

We experienced the fear and anxiety that every family of a dementia patient dreads. The wait was agonizing—I don’t know how many tears I cried, and I struggled to eat or sleep.

During this distressing time, I was reminded of a childhood experience when I got lost. A kind woman found me and called my father to pick me up. I felt scared and alone, crying until I finally saw him in the golden light of the setting sun, riding toward me on his bicycle. In his comforting presence, my fears and tears melted away. The memory was still warm and reassuring, even after all the years. Now, in my distress, I prayed to Guan Yin, the Bodhisattva of Compassion, that someone would help guide him back to us.

Nearly 32 hours later, we finally received good news—the police had found him! A passerby, seeing him, sensed something was wrong and gently coaxed him to a nearby police station, where he waited for us to pick him up.

I can only imagine what my father experienced during those 32 hours. He hadn’t spent any of the money he had with him, suggesting he may have gone without food or water. He likely hadn’t slept either. Security footage showed that on the first evening, he had asked a shopkeeper for directions, indicating that at that point, he still knew he was lost. By the time we found him the next night, he had lost awareness of his situation and didn’t even realize we had been frantically searching for him. After hours in the rain, he was dehydrated, shaky, and clearly frightened.

A family effort

Once home, my father rested for two days, and his cognitive abilities and energy gradually improved. To prevent a reoccurrence of such a frightening situation, our family took proactive measures. We implemented multiple tracking methods and made other important adjustments, including changes to his diet.

My father has always loved eating bread, but research suggests that excessive consumption of refined carbohydrates, like bread and pasta, can adversely affect glucose and insulin metabolism. This can impact blood vessels in the brain and can contribute to the buildup of beta-amyloid plaques, which are believed to play a key role in the development of Alzheimer’s disease.

To promote brain health, we introduced brain-boosting foods into my father’s diet, including nuts, pumpkins, tomatoes, dark chocolate, and black coffee. We incorporated vitamins and aromatherapy with essential oils into his daily routine, while cutting back on processed foods.

Once the pandemic eased, my father started walking an hour or more every morning. In the evenings, we engaged him in various activities, including calligraphy, finger exercises, and singing along to songs on the computer. We provided plenty of encouragement and praise during these activities.

We also started taking advantage of government elderly care services and arranged for a caregiver to visit my father for one to two hours each weekday. This caregiver engages him in conversation and cognitive activities, like playing chess. Thanks to these efforts, my father has not only maintained but even improved his cognitive abilities.

In our aging society, creating a close-knit support network for the elderly is crucial. Taiwan’s government provides a broad range of elderly care services, while Tzu Chi has established long-term care service stations in various communities. These venues offer seniors vibrant learning environments where they can stimulate their minds, interact with others, and enjoy their later years. Many seniors have experienced improved memory and moods through these programs.

Ensuring that aging occurs with dignity and quality of life is a challenge every society must address. The COVID-19 pandemic highlighted the essential need for love, care, and meaningful interaction in our relationships. May we support our elders with warmth and may every person with dementia spend their remaining years in safety and love.

By Yi Yi
Abridged and translated by Wu Hsiao-ting
Photo by Huang Xiao-zhe

A family’s experience with dementia highlights the importance of love, care, and a proactive approach to maintaining cognitive health.

In an aging society, it’s crucial to strengthen our network of care to better support the elderly.

Recently, Tzu Chi’s Da Ai TV aired the second season of Still Me, a drama inspired by true stories about dementia. Its popularity highlights the growing concern over dementia in Taiwan, where the elderly population is rapidly increasing.

According to Taiwan’s Ministry of Health and Welfare, approximately 350,000 people aged 65 and older are living with dementia. My father is one of them. While he initially managed mild memory loss well, the turning point was the COVID-19 pandemic. His greatest joy was singing karaoke with friends; his eyes would light up at the mention of it, and he would proudly tell us how many songs he could sing.

Unfortunately, social distancing measures during the pandemic led to the closure of karaoke venues. With limited social interaction and being stuck at home watching TV all day, my father’s memory began to decline more rapidly.

One autumn afternoon, after days of rain, he took his bicycle out and got lost. Hours passed without any sign of him, and as it grew dark and more rain began to fall, our anxiety escalated. With his phone likely dead, we couldn’t track him. We reported him missing to the police and enlisted the Taiwan Alzheimer’s Disease Association to post a missing person flyer online. We drove around and around searching for him, but he was nowhere to be found.

We experienced the fear and anxiety that every family of a dementia patient dreads. The wait was agonizing—I don’t know how many tears I cried, and I struggled to eat or sleep.

During this distressing time, I was reminded of a childhood experience when I got lost. A kind woman found me and called my father to pick me up. I felt scared and alone, crying until I finally saw him in the golden light of the setting sun, riding toward me on his bicycle. In his comforting presence, my fears and tears melted away. The memory was still warm and reassuring, even after all the years. Now, in my distress, I prayed to Guan Yin, the Bodhisattva of Compassion, that someone would help guide him back to us.

Nearly 32 hours later, we finally received good news—the police had found him! A passerby, seeing him, sensed something was wrong and gently coaxed him to a nearby police station, where he waited for us to pick him up.

I can only imagine what my father experienced during those 32 hours. He hadn’t spent any of the money he had with him, suggesting he may have gone without food or water. He likely hadn’t slept either. Security footage showed that on the first evening, he had asked a shopkeeper for directions, indicating that at that point, he still knew he was lost. By the time we found him the next night, he had lost awareness of his situation and didn’t even realize we had been frantically searching for him. After hours in the rain, he was dehydrated, shaky, and clearly frightened.

A family effort

Once home, my father rested for two days, and his cognitive abilities and energy gradually improved. To prevent a reoccurrence of such a frightening situation, our family took proactive measures. We implemented multiple tracking methods and made other important adjustments, including changes to his diet.

My father has always loved eating bread, but research suggests that excessive consumption of refined carbohydrates, like bread and pasta, can adversely affect glucose and insulin metabolism. This can impact blood vessels in the brain and can contribute to the buildup of beta-amyloid plaques, which are believed to play a key role in the development of Alzheimer’s disease.

To promote brain health, we introduced brain-boosting foods into my father’s diet, including nuts, pumpkins, tomatoes, dark chocolate, and black coffee. We incorporated vitamins and aromatherapy with essential oils into his daily routine, while cutting back on processed foods.

Once the pandemic eased, my father started walking an hour or more every morning. In the evenings, we engaged him in various activities, including calligraphy, finger exercises, and singing along to songs on the computer. We provided plenty of encouragement and praise during these activities.

We also started taking advantage of government elderly care services and arranged for a caregiver to visit my father for one to two hours each weekday. This caregiver engages him in conversation and cognitive activities, like playing chess. Thanks to these efforts, my father has not only maintained but even improved his cognitive abilities.

In our aging society, creating a close-knit support network for the elderly is crucial. Taiwan’s government provides a broad range of elderly care services, while Tzu Chi has established long-term care service stations in various communities. These venues offer seniors vibrant learning environments where they can stimulate their minds, interact with others, and enjoy their later years. Many seniors have experienced improved memory and moods through these programs.

Ensuring that aging occurs with dignity and quality of life is a challenge every society must address. The COVID-19 pandemic highlighted the essential need for love, care, and meaningful interaction in our relationships. May we support our elders with warmth and may every person with dementia spend their remaining years in safety and love.

關鍵字

電器醫師 廣結善緣

新北市 郭尚一
  • 我和太太當環保志工,過自己的日子,也算是給後輩添一分幸福。

  • 我生命剩餘的價值,就是修理這些小東西,與人結善緣。

  • 「心存感激地揮手道別」,是我對自己的期許。

螺絲釘一顆顆隨著螺絲起子的轉動脫落,電扇的後殼鬆開,露出裏頭被銅線圍繞的馬達,郭尚一為這顆馬達反覆上潤滑油,以降低運轉時發出的噪音。「現在的人都不會自己修電扇了,家裏也不會有這些工具。」

在新店的慈濟安康環保教育站,郭尚一修理電器的桌臺,前後左右都堆滿了零件;早期他專心維修電扇或鐘錶等,到後期修好的二手電器愈來愈多,他將完全故障的電器電子零件取出,當成備品。

「一個便宜的電扇五百元,一個大披薩六百元,誰還願意送修電扇呢?」郭尚一感慨願意維修及保養電器的人不多,並詼諧地自我調侃:「願意找我修電扇的人,要麼是『戀物』,要麼是經歷過貧苦的人。」

十六年修好兩千臺電扇

採訪當日,八十六歲的郭尚一梳著油頭,穿著短袖襯衫、黑色長褲,配上褐色皮帶,習慣性地紮衣服,看起來得體、舒適;站在桌臺旁,他更像是一個工作室的職人。定時做環保,站著修電器,也像是工廠流水線的基層員工,實實在在地忙活手邊工作。

曾有人稱呼郭尚一為「電器醫師」,原因是他以往擔任過知名電子公司廠長;其實他有更長的工作生涯,是在一間剎車系統公司擔任高層管理要職。他的太太王美紗笑道:「很多人都以為他本來就是從事修理工作的,其實修電器只是他的興趣。」

郭尚一七十歲退休,和王美紗同時成為慈濟環保志工,一週有五天到環保站,持續了十六年。郭尚一已修了三百多個鐘錶及兩千多臺電扇,志工也會帶來各種電器讓他修復。隨著修好的電器變多,惜福區已經沒有位置存放;為了活用空間,志工陳文憲主動聯絡臨近的安坑國小及兩所宜蘭偏鄉國小,自行開貨車將電器送往;至今已贈出近百臺電扇及掛鐘。

有著豐富生產業和技術背景的郭尚一,面對現代產業的發展趨勢並不樂觀。他在維修電扇的過程,注意到一些廉價風扇所使用的銅線細如髮絲,有的則是用鋁線取代銅線;這些改變都縮短了電器的壽命。

電器價格便宜以及隨之下滑的工業品質,都令郭尚一憂心現代人已經養成了買新替舊、不保養、不維修及不珍惜物命的思維。

郭尚一自豪地表示,王美紗的嫁妝中有一支電扇,已有六十年以上歷史,至今仍在使用。王美紗透露說:「那臺電扇他會修,零件會換,看起來像新的一樣。」

郭尚一從小就愛拆電器,試著自行維修。他記得六、七歲的時候,正值二戰末期,空襲不斷,常要到防空洞避難;戰後社會物資匱乏,即使父親是公務員,但對於一個育有八子的家庭,經濟上仍有些負荷。

身為長子的郭尚一,年幼起就幫忙家裏經營副業;過往與祖母、母親、伯母一起擠羊奶提供給肺結核病患,亦或少年時期與弟弟幫忙顧雜貨店鋪的事蹟,至今仍舊記在心上。

「長在什麼環境,就會變出什麼樣的特殊個性!」郭尚一認為早年那「吃不飽,餓不死」的年代,塑造了那一代人較為節儉的個性;至少他是如此認知自己與環保站普遍年長的志工們。

舊時社會簡樸節儉的風氣,與現代人追求奢華的景象,形成了鮮明的對比;如今的產業模式和大量消費,在他看來是無奈又難以避免的結果,「如果人們不浪費,很多人就沒工作、沒飯吃。」

志工從家裏拿來或回收而來的時鐘與電器,由郭尚一接手修復。完全故障的則取出零件,當成備品或分類回收(圖1)。王美紗手工精細,早年車縫袋子,如今分解電器(圖2)。

不用花錢的社區健身房

郭尚一對於綠能的發展也並不樂觀;那些報廢的太陽能板及電動車的電池廢棄物,該如何回收、能否做好回收,他頗為憂慮。談話間,郭尚一將話題一度帶到了宇宙:「你知道太空中有多少太空垃圾在那裏飛嗎?」

郭尚一對環境議題的關心廣泛,這有賴於他的閱讀習慣。不過也不禁令人好奇,他勤快做環保的目的,是否正是渴望讓世界變得更好?

郭尚一坦承自己並沒有如此高遠的志向,他更多是為了健康以及社交。「我來做環保的目的是為了結緣:與做環保的慈濟師兄姊結緣,請我幫忙修電器的人結緣,還有來惜福二手電器的人結緣。」

當年退休後,郭尚一在家中閒閒無事,腰椎出現久坐會嚴重疼痛的症狀;兩老常待家中,少與他人社交,他也覺得非長久之計。後來,經由游彩霞師姊介紹,他們來到安康環保教育站,開始晚年的志工生涯。

過去郭尚一與王美紗週日會去爬山,直到王美紗膝蓋疼痛才停止這項運動。在環保站,正如大部分志工一樣,各自做著「運動」:有人「拋物練習」,將一個成人高、裝滿塑膠袋的大袋子拋入儲存室;有人則做「伸展運動」,將未分類的回收物,分類放到身邊不同位置的大籃子。

王美紗早期做「精細動作訓練」,善用象徵消費的廣告布,縫製成超大回收袋,用來裝分類好的回收物,被志工稱為「寶袋」。如今由於這類廣告布較少見,她便拿起錘子,對著電子廢棄物敲敲打打分類,順便「練手臂肌肉」。

由於腰椎疼痛,郭尚一都站著修理電器。令他意想不到的是,持續站了三個月後,疼痛感居然消失了!

還可以用的東西被丟掉,是郭尚一夫婦最不捨的事情;一臺臺電扇重生物命,與人結緣。

老年人真正想要的快樂

機器持久需要上油保養,身體敏捷需要鍛練肌肉,心智健全則要持續與人有善的接觸。隨著年紀漸長,郭尚一感受到與人緣分愈來愈薄,自己所認識的人愈來愈少;有的離世了,有的則到了養老院。

郭尚一見到有些環保站的師兄師姊,由於家中兒女希望父母待在家「享福」,而被要求不要再去環保站了。雖然知道那些兒女是一片孝心,但郭尚一還是認為,老年人需要的是一個相互陪伴的社群,可以有所依歸的地方。「老頭子要的是朋友!做事情快樂。」

所幸郭尚一的兒孫不會過問他和王美紗做環保的事情。郭尚一笑說:「我比較強勢,孩子們不敢干涉。」王美紗說,郭尚一在家中不會兇,但算是比較威嚴的父親。

郭尚一覺得自己和王美紗到環保站當志工,兩老一起過自己的日子,不拖累後輩,也算是給後輩的生活添了一分幸福。接下來的日子,郭尚一想透過修電器和做環保,繼續與人結善緣。他說:「我生命剩餘的價值,就是修理這些小東西。」

「人生就像一列開往墳墓的列車,路途上會有很多站……當陪你的人要下車時,即使不捨也該心存感激,然後揮手道別。」這是宮崎駿電影中的一句話,郭尚一特別喜歡。但他認為,除了留在車上的人感恩告別至親,準備下車的人也該有這般瀟灑的態度;「心存感激地揮手道別」,這是他的自我期許。

|延伸閱讀|大愛新聞─環保運動忘病痛

新北市 郭尚一
  • 我和太太當環保志工,過自己的日子,也算是給後輩添一分幸福。

  • 我生命剩餘的價值,就是修理這些小東西,與人結善緣。

  • 「心存感激地揮手道別」,是我對自己的期許。

螺絲釘一顆顆隨著螺絲起子的轉動脫落,電扇的後殼鬆開,露出裏頭被銅線圍繞的馬達,郭尚一為這顆馬達反覆上潤滑油,以降低運轉時發出的噪音。「現在的人都不會自己修電扇了,家裏也不會有這些工具。」

在新店的慈濟安康環保教育站,郭尚一修理電器的桌臺,前後左右都堆滿了零件;早期他專心維修電扇或鐘錶等,到後期修好的二手電器愈來愈多,他將完全故障的電器電子零件取出,當成備品。

「一個便宜的電扇五百元,一個大披薩六百元,誰還願意送修電扇呢?」郭尚一感慨願意維修及保養電器的人不多,並詼諧地自我調侃:「願意找我修電扇的人,要麼是『戀物』,要麼是經歷過貧苦的人。」

十六年修好兩千臺電扇

採訪當日,八十六歲的郭尚一梳著油頭,穿著短袖襯衫、黑色長褲,配上褐色皮帶,習慣性地紮衣服,看起來得體、舒適;站在桌臺旁,他更像是一個工作室的職人。定時做環保,站著修電器,也像是工廠流水線的基層員工,實實在在地忙活手邊工作。

曾有人稱呼郭尚一為「電器醫師」,原因是他以往擔任過知名電子公司廠長;其實他有更長的工作生涯,是在一間剎車系統公司擔任高層管理要職。他的太太王美紗笑道:「很多人都以為他本來就是從事修理工作的,其實修電器只是他的興趣。」

郭尚一七十歲退休,和王美紗同時成為慈濟環保志工,一週有五天到環保站,持續了十六年。郭尚一已修了三百多個鐘錶及兩千多臺電扇,志工也會帶來各種電器讓他修復。隨著修好的電器變多,惜福區已經沒有位置存放;為了活用空間,志工陳文憲主動聯絡臨近的安坑國小及兩所宜蘭偏鄉國小,自行開貨車將電器送往;至今已贈出近百臺電扇及掛鐘。

有著豐富生產業和技術背景的郭尚一,面對現代產業的發展趨勢並不樂觀。他在維修電扇的過程,注意到一些廉價風扇所使用的銅線細如髮絲,有的則是用鋁線取代銅線;這些改變都縮短了電器的壽命。

電器價格便宜以及隨之下滑的工業品質,都令郭尚一憂心現代人已經養成了買新替舊、不保養、不維修及不珍惜物命的思維。

郭尚一自豪地表示,王美紗的嫁妝中有一支電扇,已有六十年以上歷史,至今仍在使用。王美紗透露說:「那臺電扇他會修,零件會換,看起來像新的一樣。」

郭尚一從小就愛拆電器,試著自行維修。他記得六、七歲的時候,正值二戰末期,空襲不斷,常要到防空洞避難;戰後社會物資匱乏,即使父親是公務員,但對於一個育有八子的家庭,經濟上仍有些負荷。

身為長子的郭尚一,年幼起就幫忙家裏經營副業;過往與祖母、母親、伯母一起擠羊奶提供給肺結核病患,亦或少年時期與弟弟幫忙顧雜貨店鋪的事蹟,至今仍舊記在心上。

「長在什麼環境,就會變出什麼樣的特殊個性!」郭尚一認為早年那「吃不飽,餓不死」的年代,塑造了那一代人較為節儉的個性;至少他是如此認知自己與環保站普遍年長的志工們。

舊時社會簡樸節儉的風氣,與現代人追求奢華的景象,形成了鮮明的對比;如今的產業模式和大量消費,在他看來是無奈又難以避免的結果,「如果人們不浪費,很多人就沒工作、沒飯吃。」

志工從家裏拿來或回收而來的時鐘與電器,由郭尚一接手修復。完全故障的則取出零件,當成備品或分類回收(圖1)。王美紗手工精細,早年車縫袋子,如今分解電器(圖2)。

不用花錢的社區健身房

郭尚一對於綠能的發展也並不樂觀;那些報廢的太陽能板及電動車的電池廢棄物,該如何回收、能否做好回收,他頗為憂慮。談話間,郭尚一將話題一度帶到了宇宙:「你知道太空中有多少太空垃圾在那裏飛嗎?」

郭尚一對環境議題的關心廣泛,這有賴於他的閱讀習慣。不過也不禁令人好奇,他勤快做環保的目的,是否正是渴望讓世界變得更好?

郭尚一坦承自己並沒有如此高遠的志向,他更多是為了健康以及社交。「我來做環保的目的是為了結緣:與做環保的慈濟師兄姊結緣,請我幫忙修電器的人結緣,還有來惜福二手電器的人結緣。」

當年退休後,郭尚一在家中閒閒無事,腰椎出現久坐會嚴重疼痛的症狀;兩老常待家中,少與他人社交,他也覺得非長久之計。後來,經由游彩霞師姊介紹,他們來到安康環保教育站,開始晚年的志工生涯。

過去郭尚一與王美紗週日會去爬山,直到王美紗膝蓋疼痛才停止這項運動。在環保站,正如大部分志工一樣,各自做著「運動」:有人「拋物練習」,將一個成人高、裝滿塑膠袋的大袋子拋入儲存室;有人則做「伸展運動」,將未分類的回收物,分類放到身邊不同位置的大籃子。

王美紗早期做「精細動作訓練」,善用象徵消費的廣告布,縫製成超大回收袋,用來裝分類好的回收物,被志工稱為「寶袋」。如今由於這類廣告布較少見,她便拿起錘子,對著電子廢棄物敲敲打打分類,順便「練手臂肌肉」。

由於腰椎疼痛,郭尚一都站著修理電器。令他意想不到的是,持續站了三個月後,疼痛感居然消失了!

還可以用的東西被丟掉,是郭尚一夫婦最不捨的事情;一臺臺電扇重生物命,與人結緣。

老年人真正想要的快樂

機器持久需要上油保養,身體敏捷需要鍛練肌肉,心智健全則要持續與人有善的接觸。隨著年紀漸長,郭尚一感受到與人緣分愈來愈薄,自己所認識的人愈來愈少;有的離世了,有的則到了養老院。

郭尚一見到有些環保站的師兄師姊,由於家中兒女希望父母待在家「享福」,而被要求不要再去環保站了。雖然知道那些兒女是一片孝心,但郭尚一還是認為,老年人需要的是一個相互陪伴的社群,可以有所依歸的地方。「老頭子要的是朋友!做事情快樂。」

所幸郭尚一的兒孫不會過問他和王美紗做環保的事情。郭尚一笑說:「我比較強勢,孩子們不敢干涉。」王美紗說,郭尚一在家中不會兇,但算是比較威嚴的父親。

郭尚一覺得自己和王美紗到環保站當志工,兩老一起過自己的日子,不拖累後輩,也算是給後輩的生活添了一分幸福。接下來的日子,郭尚一想透過修電器和做環保,繼續與人結善緣。他說:「我生命剩餘的價值,就是修理這些小東西。」

「人生就像一列開往墳墓的列車,路途上會有很多站……當陪你的人要下車時,即使不捨也該心存感激,然後揮手道別。」這是宮崎駿電影中的一句話,郭尚一特別喜歡。但他認為,除了留在車上的人感恩告別至親,準備下車的人也該有這般瀟灑的態度;「心存感激地揮手道別」,這是他的自我期許。

|延伸閱讀|大愛新聞─環保運動忘病痛

山陀兒風雨後 慈濟賑災記

(攝影/蔡緗羚 高雄三民區)

山陀兒中颱登陸高雄小港,十四級暴風狂襲高屏,
威力減弱後,豪雨卻在北部致災;
志工動員一萬八千人次賑災,協助淹水災戶清理,
為六十所學校及公園整理復原;也為再次見證天災威力而戒慎虔誠。

山陀兒中颱登陸高雄小港,十四級暴風狂襲高屏,威力減弱後,豪雨卻在北部致災;志工動員一萬八千人次賑災,協助淹水災戶清理,為六十所學校及公園整理復原;也為再次見證天災威力而戒慎虔誠。

(攝影/蔡緗羚 高雄三民區)

山陀兒中颱登陸高雄小港,十四級暴風狂襲高屏,
威力減弱後,豪雨卻在北部致災;
志工動員一萬八千人次賑災,協助淹水災戶清理,
為六十所學校及公園整理復原;也為再次見證天災威力而戒慎虔誠。

山陀兒中颱登陸高雄小港,十四級暴風狂襲高屏,威力減弱後,豪雨卻在北部致災;志工動員一萬八千人次賑災,協助淹水災戶清理,為六十所學校及公園整理復原;也為再次見證天災威力而戒慎虔誠。

屏東—超前部署 做到最後

在小琉球三隆宮,黃麗香(右二)與志工討論訪視行程與應變。

九月二十八日才結束高樹鄉凱米風災受災戶訪視,
屏東慈濟人翌日就啟動山陀兒防颱,
期間還遇到東港安泰醫院火災,投入關懷;
持續十一天的行動,護住風雨中的鄉親!

九月二十八日才結束高樹鄉凱米風災受災戶訪視,屏東慈濟人翌日就啟動山陀兒防颱,期間還遇到東港安泰醫院火災,投入關懷;持續十一天的行動,護住風雨中的鄉親!

雨水猶如為屏東市降下一層厚重的白霧,柏油路開始積水,志工將準備給居民的祝福禮放入便利雨衣內緊緊抱著,生怕淋溼這分尚未傳達的心意。

山陀兒颱風降為熱帶性低氣壓後,陸上警報解除,屏東天候仍不穩定,慈濟志工已積極展開幾個重點地區的勘災關懷。十月五日週六午後,志工在屏東市進行安心家訪。

出發之前,晴天轉陰。慈濟屏東災害應變中心召集人黃麗香在靜思堂,與即將出發訪視的志工行前叮嚀:「今天不是去賑災,而是表達關心!」看著雨勢愈來愈強,她試圖聯絡已出發的隊伍,但一時無人回應;她立刻和副召集人謝東憲開車出門找尋志工,畢竟安全最重要。

終於在規畫的動線追上志工,他們正在街道旁店面屋簷下躲雨。黃麗香下車商議是否取消行程,志工們卻希望可以繼續走下去。路人和店家對於志工冒雨逐家逐戶拜訪感到驚喜,也小聊兩句,相互祝福彼此平安。

救災過程原本就充滿需要隨機應變的變數,慶幸的是,此時雨勢緩和,遠方也變得清晰可見,不再是白霧一片。

出發家訪前,每條路線的領隊都會收到路線圖等訪視資訊;志工於屏東十個鄉鎮共訪視三千餘戶。

親自走一趟才安心

回到靜思堂的黃麗香,又搭上另一輛車出門,為一條訪視路線的志工「補給」安心祝福禮。祝福禮大部分是乾糧,有香積麵、香積飯、燕麥粉、素鬆、玉米球餅等,最重要的是一封證嚴上人給鄉親的慰問信。志工不僅送上,也念出信中的關心:「親愛的鄉親,山陀兒颱風帶來的強風豪雨,讓大家擔驚受怕了……」這分關懷透過志工一戶戶走到,親手送出。

早在九月二十九日,山陀兒海上警報發布時,慈濟屏東分會就開始警戒,在會所及各地區環保站做防災準備,九月三十日上午成立災害應變中心,志工動員關懷社區案家、年邁法親,提醒做防災準備。十月三日,山陀兒颱風從高雄小港登陸後,志工展開救災;期間東港安泰醫院發生火災,九人罹難,志工事後也前往關懷家屬。

隨著颱風逼近至後續登陸,屏東縣多處傳出災害;有些災情輾轉聽來,一段時間後證實未發生。歷經凱米颱風淹水災情,本次風災在屏東未出現大規模屋損或淹水情況,但唯有走入社區,才能直接了解實況。

黃麗香仔細說明安心家訪的理念─及時的關懷,讓受災的民眾有感。另外,志工們在送上祝福禮的關懷過程,透過社工製作的表格,記錄下受災狀況,包括水塔、鐵皮屋頂、門窗、採光罩是否因為風災破損;也會關注是否有獨居、身心障礙、單親等弱勢家庭。

有數十年災後訪視經驗的黃麗香特別提到「寧願錯救,也不要失救」,大規模家訪的目的,首要安撫居民的心理,並且要找出確實受災的弱勢家庭,將資源送到他們手中。

小琉球也是本次風災特別需要關注的地方。十月一日颱風尚滯留外海,往返小琉球的渡輪就開始停航。當颱風步步逼近,豪雨巨浪、十四級陣風,民眾經歷了斷電、斷水的不便,有的村落甚至幾天之後才恢復正常生活。

小琉球慈濟人連日來與災害應變中心密切聯繫,回報災情;十月八日週二清晨,屏東志工聚集在東港碼頭,搭船至小琉球家訪,為了走遍島上八個村,共動員兩百一十二位志工及同仁。安排在非假日前往,並將家訪與致贈應急金集中在一天之內完成,就是希望降低對當地居民生活和旅遊業的影響。

志工握著本福村鄉親的手,關心風災期間的日常,屋子是否受損、影響起居,面對面家訪,安鄉親的心。

福佑琉球鄉子民

十月八日,天氣正適合戶外行動,光耀海面,隨著海浪波動交疊閃爍,景色美幻,難以想像前幾日風雨在這碼頭附近肆虐過。抵達小琉球後,志工騎著租來的機車到三隆宮集合,這座歷史悠久且護佑漁民的王爺廟,提供空間,讓慈濟災害應變中心在此駐站。

訪視分成上下午兩階段,早上分四十四條動線,逐家訪視評估,午間陸續回到三隆宮休息用餐,並根據屋損戶受創情形,討論合適的應急金金額,確保善款能善用在需要的人身上,午後立即發出。

獨居在大福村碧雲寺旁的黃阿嬤,向志工提到家裏雖然有淹水,但不嚴重,不過因為停電,好幾天不能使用電話和看電視。路過的友人阿心阿嬤分享起碧雲寺在二戰期間的傳說,觀音菩薩用自己的神衣護住了空襲下的居民;她相信觀音保佑,小琉球才再度平安。迄今,神明信仰在居民心中依舊有著安定力量。

一天之內,志工走訪一千六百五十九戶,送出九百二十四份祝福禮。令志工感覺溫暖的是,有些鄉親招呼大家進門,甚至主動捐出善款助人。

這天正逢島上神明遶境,舞獅、神轎隊伍來到三隆宮前,鑼鼓響聲中,居民生活逐漸回到常軌,然而慈濟關懷行動還未停歇。志工和同仁回到屏東分會後,整理訪視資料,還有幾戶需要後續關注。「我希望讓大家五點前可以準時回家。」黃麗香笑說。

從海警發布前開始,大家十一天以來處於緊繃狀態,準備防災減災各項事宜;志工更在數日內走訪屏東十個鄉鎮、訪視三千七百一十八戶。風雨過後,志工們終於可以喘一口氣。

|延伸閱讀|大愛新聞─小琉球安心家訪 愛與關懷入村莊

在小琉球三隆宮,黃麗香(右二)與志工討論訪視行程與應變。

九月二十八日才結束高樹鄉凱米風災受災戶訪視,
屏東慈濟人翌日就啟動山陀兒防颱,
期間還遇到東港安泰醫院火災,投入關懷;
持續十一天的行動,護住風雨中的鄉親!

九月二十八日才結束高樹鄉凱米風災受災戶訪視,屏東慈濟人翌日就啟動山陀兒防颱,期間還遇到東港安泰醫院火災,投入關懷;持續十一天的行動,護住風雨中的鄉親!

雨水猶如為屏東市降下一層厚重的白霧,柏油路開始積水,志工將準備給居民的祝福禮放入便利雨衣內緊緊抱著,生怕淋溼這分尚未傳達的心意。

山陀兒颱風降為熱帶性低氣壓後,陸上警報解除,屏東天候仍不穩定,慈濟志工已積極展開幾個重點地區的勘災關懷。十月五日週六午後,志工在屏東市進行安心家訪。

出發之前,晴天轉陰。慈濟屏東災害應變中心召集人黃麗香在靜思堂,與即將出發訪視的志工行前叮嚀:「今天不是去賑災,而是表達關心!」看著雨勢愈來愈強,她試圖聯絡已出發的隊伍,但一時無人回應;她立刻和副召集人謝東憲開車出門找尋志工,畢竟安全最重要。

終於在規畫的動線追上志工,他們正在街道旁店面屋簷下躲雨。黃麗香下車商議是否取消行程,志工們卻希望可以繼續走下去。路人和店家對於志工冒雨逐家逐戶拜訪感到驚喜,也小聊兩句,相互祝福彼此平安。

救災過程原本就充滿需要隨機應變的變數,慶幸的是,此時雨勢緩和,遠方也變得清晰可見,不再是白霧一片。

出發家訪前,每條路線的領隊都會收到路線圖等訪視資訊;志工於屏東十個鄉鎮共訪視三千餘戶。

親自走一趟才安心

回到靜思堂的黃麗香,又搭上另一輛車出門,為一條訪視路線的志工「補給」安心祝福禮。祝福禮大部分是乾糧,有香積麵、香積飯、燕麥粉、素鬆、玉米球餅等,最重要的是一封證嚴上人給鄉親的慰問信。志工不僅送上,也念出信中的關心:「親愛的鄉親,山陀兒颱風帶來的強風豪雨,讓大家擔驚受怕了……」這分關懷透過志工一戶戶走到,親手送出。

早在九月二十九日,山陀兒海上警報發布時,慈濟屏東分會就開始警戒,在會所及各地區環保站做防災準備,九月三十日上午成立災害應變中心,志工動員關懷社區案家、年邁法親,提醒做防災準備。十月三日,山陀兒颱風從高雄小港登陸後,志工展開救災;期間東港安泰醫院發生火災,九人罹難,志工事後也前往關懷家屬。

隨著颱風逼近至後續登陸,屏東縣多處傳出災害;有些災情輾轉聽來,一段時間後證實未發生。歷經凱米颱風淹水災情,本次風災在屏東未出現大規模屋損或淹水情況,但唯有走入社區,才能直接了解實況。

黃麗香仔細說明安心家訪的理念─及時的關懷,讓受災的民眾有感。另外,志工們在送上祝福禮的關懷過程,透過社工製作的表格,記錄下受災狀況,包括水塔、鐵皮屋頂、門窗、採光罩是否因為風災破損;也會關注是否有獨居、身心障礙、單親等弱勢家庭。

有數十年災後訪視經驗的黃麗香特別提到「寧願錯救,也不要失救」,大規模家訪的目的,首要安撫居民的心理,並且要找出確實受災的弱勢家庭,將資源送到他們手中。

小琉球也是本次風災特別需要關注的地方。十月一日颱風尚滯留外海,往返小琉球的渡輪就開始停航。當颱風步步逼近,豪雨巨浪、十四級陣風,民眾經歷了斷電、斷水的不便,有的村落甚至幾天之後才恢復正常生活。

小琉球慈濟人連日來與災害應變中心密切聯繫,回報災情;十月八日週二清晨,屏東志工聚集在東港碼頭,搭船至小琉球家訪,為了走遍島上八個村,共動員兩百一十二位志工及同仁。安排在非假日前往,並將家訪與致贈應急金集中在一天之內完成,就是希望降低對當地居民生活和旅遊業的影響。

志工握著本福村鄉親的手,關心風災期間的日常,屋子是否受損、影響起居,面對面家訪,安鄉親的心。

福佑琉球鄉子民

十月八日,天氣正適合戶外行動,光耀海面,隨著海浪波動交疊閃爍,景色美幻,難以想像前幾日風雨在這碼頭附近肆虐過。抵達小琉球後,志工騎著租來的機車到三隆宮集合,這座歷史悠久且護佑漁民的王爺廟,提供空間,讓慈濟災害應變中心在此駐站。

訪視分成上下午兩階段,早上分四十四條動線,逐家訪視評估,午間陸續回到三隆宮休息用餐,並根據屋損戶受創情形,討論合適的應急金金額,確保善款能善用在需要的人身上,午後立即發出。

獨居在大福村碧雲寺旁的黃阿嬤,向志工提到家裏雖然有淹水,但不嚴重,不過因為停電,好幾天不能使用電話和看電視。路過的友人阿心阿嬤分享起碧雲寺在二戰期間的傳說,觀音菩薩用自己的神衣護住了空襲下的居民;她相信觀音保佑,小琉球才再度平安。迄今,神明信仰在居民心中依舊有著安定力量。

一天之內,志工走訪一千六百五十九戶,送出九百二十四份祝福禮。令志工感覺溫暖的是,有些鄉親招呼大家進門,甚至主動捐出善款助人。

這天正逢島上神明遶境,舞獅、神轎隊伍來到三隆宮前,鑼鼓響聲中,居民生活逐漸回到常軌,然而慈濟關懷行動還未停歇。志工和同仁回到屏東分會後,整理訪視資料,還有幾戶需要後續關注。「我希望讓大家五點前可以準時回家。」黃麗香笑說。

從海警發布前開始,大家十一天以來處於緊繃狀態,準備防災減災各項事宜;志工更在數日內走訪屏東十個鄉鎮、訪視三千七百一十八戶。風雨過後,志工們終於可以喘一口氣。

|延伸閱讀|大愛新聞─小琉球安心家訪 愛與關懷入村莊

高雄—從倒樹殘枝中走來

山陀兒颱風在高雄吹倒大量樹木,慈濟志工進入校園清理,協助師生復課。(攝影/池爾杰)

高雄港外巨浪滔天、市區建物受損、巨木倒地……
當颱風北上而去,彷彿刻在DNA的標準救災程序啟動,
慈濟人不等人來求援,分頭主動聲聲關懷:「需要我們幫忙嗎?」

高雄港外巨浪滔天、市區建物受損、巨木倒地……當颱風北上而去,彷彿刻在DNA的標準救災程序啟動,慈濟人不等人來求援,分頭主動聲聲關懷:「需要我們幫忙嗎?」

山陀兒颱風過境後的第一個週六上午,高雄市左營國小傳出高分貝機具聲。為了盡快替師生們清出一個安全的教學環境,慈濟志工不得不動用鏈鋸,切斷校園裏被強風摧折的樹木。從枝幹切口的色澤質地來看,左營國小的校樹大多健壯堅實,少有腐爛中空的朽木,但仍不敵山陀兒帶來的瞬間強風而大量折損。

「志工願意來幫忙,我們實在太感恩!不然善後可能要一個星期。我們昨天已經做了一整天,今天真的沒有辦法再用力了……」左營國小學務主任張玉芬稍稍鬆了一口氣。

十月三日週四中午,颱風登陸高雄,超過十四級強風吹倒樹木、招牌、路燈;週五包括校長在內的二十多位教職員展開善後工作,合力把被風吹倒的校門口活動鐵閘門扶正,清除傾倒樹木及枝葉;從早上八時到下午四點,師長們使勁拖、拉、搬、掃,僅能勉強恢復學校門禁及圍牆外的通學步道,已無餘力處理校內災情。校長陳鼎華一度向軍方求援,但高雄街道充滿雜物,救災兵力優先搶通道路及恢復市容。

週五傍晚,左營慈濟志工主動來電詢問校方是否需要協助?讓校長陳鼎華如見曙光:「我們可望在週一正常上課了!」

包含左營國小在內,慈濟在高雄總計支援了五十餘所學校、公園的復原工作,不僅在地志工卯足全力,還有北部慈濟人搭乘早班高鐵馳援,彰化、嘉義等地也有年輕人自發前來盡一分力。看到眾人井然有序地鋸木頭、搬殘枝、掃落葉,高雄資深志工鄭武南讚歎:「校長們希望慈濟協助清理,週六週日志工們都來幫忙,一起做好事。」

相隔四十七年再次有颱風由高雄登陸,強陣風重創市容。(攝影/賴廷翰)

地毯式家訪,找到受助者

七月下旬侵臺的凱米颱風,是走由東向西穿越的「傳統路徑」,而十月上旬的「怪颱」山陀兒,則是在海上迂迴滯留四天半,才從高雄市小港區登陸北上,高雄人親身經歷這兩個颱風帶來的不同災情。

「凱米那一次帶來豪雨,整個滯洪池都滿了,水灌到地下室去。這次大家有經驗,很早就把閘門預備起來,所以淹水的狀況比較少。」高雄資深訪視志工李琇釧道出自己的觀察心得:「但山陀兒的強風直接從小港進來,高雄地形根本沒有什麼屏障,所以才會造成樹倒得那麼多,建築物的窗戶、落地窗、採光罩破損,比較嚴重的就是太陽能板、水塔整組不見了。」

和凱米颱風相比,山陀兒沒有在高雄山區重演土石流淹沒民宅、山洪沖毀道路的重創,可謂值得慶幸,但轄區內兩千五百多棵樹木傾倒、十八萬戶停電、多處住宅房屋受損,災情也相當嚴重。因此慈濟人協助校園復原的同時,也展開大規模安心家訪行動,除了慰問民眾助其安心,也藉機找出需要幫助的案家,提供應急金、房屋修繕等協助。

「你訪的這一戶就算不在家,地址旁也要註明,評估是否再訪一次。但第一次的記錄,一定要寫清楚!」十月五日下午,李琇釧來到大寮區的靜思堂,仔細地向在地志工解說安心家訪注意事項。

訪視所見的受災狀況如何?是親子同住、兩老相依還是獨居?有沒有低收入戶或中低收入戶補助?如果房子受損,房屋是自有還是租賃也要了解,每一項資訊盡可能地收集,免得漏失掉真正需要幫助的人家。如果對方不需要社福資源協助,那就送上一份安心祝福禮結善緣。

走出仍在停電狀態的大寮靜思堂,志工提起一袋袋祝福禮,兵分多路展開訪視。在十月三日山陀兒颱風吹壞輸電線路,導致高屏大停電的當下,大寮區一度有兩萬多戶無電可用,及至十月五日安心家訪當天,仍有數千戶等待復電。過程中有些志工仍習慣性地按電鈴,都沒人回應,經人提醒才恍然大悟,原來那一整區還在停電中。

「我昨天上去看,都溼漉漉的。」「可能鐵皮屋久了,螺絲孔滲水吧?」「我們才翻修不到六年耶!」來到靜思堂附近的街區,李琇釧遇到了在地鄉親張簡太太,詢問受災情形,如同大部分的大寮居民,她的屋損不算太嚴重,但停電造成困擾。

「冰箱不能冰啊,食物壞掉了!」張簡太太表示,沒電的這幾天吃泡麵度日,由於家裏依靠馬達抽水使用,一旦停電,水龍頭也沒水了,因此得從外面提水回家。對於年已七十、腿腳又不太好的她來說,沒電又停水的日子相當辛苦。

「這裏面有拌麵,很好吃的。」了解家戶狀況後,李琇釧恭敬地遞上大紅色提袋,代表證嚴上人及全球慈濟人送上祝福禮。十月五、六兩日,慈濟志工在高雄就訪視了九百三十八戶居民,並對房屋受損又無法自力修繕的弱勢、獨老或兩老相依者,提供適切的修繕協助。

新民國小操場邊,眾人合力清除倒木枝葉,讓師生在風災隔週有安全的學習環境。災後慈濟協助高雄五十餘所學校及公園清掃復原。(攝影/王忠義)

旗津區修繕,巷弄間大事

談到房屋損毀的狀況,慈濟高雄災害應變中心總召潘機利表示,需要修繕的受災戶以旗津區為最多。其中有位個案是獨居的八十歲楊阿嬤,她住在旗津北端海軍第四造船廠附近,原本的居所是一間只有三面磚牆的小平房,靠馬路的門面僅用薄木板區隔室內室外。

山陀兒颱風肆虐過後,阿嬤的門還在,但面對道路的木板牆卻垮了,熱心的鄰居趕緊拿回收的廣告帆布遮蓋,讓老太太保有基本隱私。潘機利、李琇釧等志工團隊登門造訪,除了送上祝福禮安慰老人家,也馬上聯繫專業的修繕志工,備便烤漆鋼板、C型鋼等材料,就地裁切、焊接、鎖螺絲,趕製房屋正面的牆與窗。

「牆是三點三米高,六點三米寬,上面的窗戶是一米乘一米二,所以我們工班十幾個師傅在那邊做,做到大概晚上六、七點。」潘機利表示,修繕工事在十月十日慈濟志工到旗津勘災後第四天完工,除了把門面修補回來,也丈量室內空間,評估浴廁空間的改善,好讓老人家生活得更舒適、更安全。

在本地志工全體動員、外縣市法親鼎力相助之下,高雄的安心家訪,大致在雙十國慶前告一段落。而家訪後新發掘個案的長期關懷、濟助,業已陸續進行。對於所有完成培訓獲得上人授證,承擔起慈善關懷使命的慈濟人來說,這都已經是深刻印在腦海裏的標準作業程序,不僅要做到,還要精進再精進,並廣結更多的善緣。

「凱米颱風之後,上人特別強調,我們慈濟要跟鄰里長或者公部門密切合作。」李琇釧以旗津區的訪視關懷為例說明,這是高雄慈濟人第一次在這個近海離島區展開災後復原行動,對當地其實還很陌生,有賴在地鄰里長、鄉親帶路穿街走巷,才能找到需要幫助的人。而當慈濟人以具體行動,做出實際成效時,鄉親們的反應也很熱烈。

「當那位阿嬤家修繕完工的時候,里長還有整條巷子的人都跑出來了,給我們很大的鼓掌聲、歡呼聲。」李琇釧語帶振奮地說。

提著安心祝福禮,志工逐戶進行安心家訪。(攝影/王坤河)

大樹區鄉親感恩慈濟人前來關懷,相互祝福。(攝影/郭秋佩)

同理受災戶,面對面關懷

每當颱風來臨期間,擔任災害應變中心召集人的潘機利,幾乎每日駐守高雄靜思堂。他經營成衣商場,七月凱米颱風造成大範圍淹水災情,也影響到他的門市,但他依舊專心投入救災。當六龜居民撤離避難,他考慮鄉親緊急離家,於是發心結緣,安排他們到商場選購合適衣物應急。

他回想二○○九年莫拉克風災,自己位於旗山的成衣商場損失慘重,很多新衣泡水報廢。「當時旗山區還屬於高雄縣,所以我就一直等縣政府的人過來旗山評估補助,那時候想著要把淹水高度報得高一點,就會得到更多補助。」

然而這個不好的念想終究沒有成真,潘機利等了一整天,反倒是慈濟志工先來了,不僅送上熱騰騰的香積飯,還有上人的慰問信,讓他確信,慈濟是實實在在做出來的。

「所以現在投入防救災,我覺得自己比較能同理。知道受災的人需要什麼,受災戶的心情感受,或者失去家人的那種痛。面對面的關懷,真的很重要。」回想受災、救助的心路歷程,再對比凱米、山陀兒颱風的應變情況,潘機利坦言,雖然大家不敢掉以輕心,但看到各地的災情,還是有「嚇到了!」的震撼,他肯定慈濟人走入社區的正面效應;也提醒法親們,面對極端氣候加劇的趨勢,大家不可輕忽,一定要更戒慎虔誠。

「高雄很少有這種強烈的颱風,那種瞬間致災的強風暴,很多居民都受到驚嚇!我們送上安心祝福,就是安他們的心,給他一個安慰一個助力,告訴他,你並不孤單,證嚴上人還有全球慈濟人的愛與你同在。」

|延伸閱讀|大愛新聞─山陀兒颱風襲高雄 慈濟人協助清理道路

山陀兒颱風在高雄吹倒大量樹木,慈濟志工進入校園清理,協助師生復課。(攝影/池爾杰)

高雄港外巨浪滔天、市區建物受損、巨木倒地……
當颱風北上而去,彷彿刻在DNA的標準救災程序啟動,
慈濟人不等人來求援,分頭主動聲聲關懷:「需要我們幫忙嗎?」

高雄港外巨浪滔天、市區建物受損、巨木倒地……當颱風北上而去,彷彿刻在DNA的標準救災程序啟動,慈濟人不等人來求援,分頭主動聲聲關懷:「需要我們幫忙嗎?」

山陀兒颱風過境後的第一個週六上午,高雄市左營國小傳出高分貝機具聲。為了盡快替師生們清出一個安全的教學環境,慈濟志工不得不動用鏈鋸,切斷校園裏被強風摧折的樹木。從枝幹切口的色澤質地來看,左營國小的校樹大多健壯堅實,少有腐爛中空的朽木,但仍不敵山陀兒帶來的瞬間強風而大量折損。

「志工願意來幫忙,我們實在太感恩!不然善後可能要一個星期。我們昨天已經做了一整天,今天真的沒有辦法再用力了……」左營國小學務主任張玉芬稍稍鬆了一口氣。

十月三日週四中午,颱風登陸高雄,超過十四級強風吹倒樹木、招牌、路燈;週五包括校長在內的二十多位教職員展開善後工作,合力把被風吹倒的校門口活動鐵閘門扶正,清除傾倒樹木及枝葉;從早上八時到下午四點,師長們使勁拖、拉、搬、掃,僅能勉強恢復學校門禁及圍牆外的通學步道,已無餘力處理校內災情。校長陳鼎華一度向軍方求援,但高雄街道充滿雜物,救災兵力優先搶通道路及恢復市容。

週五傍晚,左營慈濟志工主動來電詢問校方是否需要協助?讓校長陳鼎華如見曙光:「我們可望在週一正常上課了!」

包含左營國小在內,慈濟在高雄總計支援了五十餘所學校、公園的復原工作,不僅在地志工卯足全力,還有北部慈濟人搭乘早班高鐵馳援,彰化、嘉義等地也有年輕人自發前來盡一分力。看到眾人井然有序地鋸木頭、搬殘枝、掃落葉,高雄資深志工鄭武南讚歎:「校長們希望慈濟協助清理,週六週日志工們都來幫忙,一起做好事。」

相隔四十七年再次有颱風由高雄登陸,強陣風重創市容。(攝影/賴廷翰)

地毯式家訪,找到受助者

七月下旬侵臺的凱米颱風,是走由東向西穿越的「傳統路徑」,而十月上旬的「怪颱」山陀兒,則是在海上迂迴滯留四天半,才從高雄市小港區登陸北上,高雄人親身經歷這兩個颱風帶來的不同災情。

「凱米那一次帶來豪雨,整個滯洪池都滿了,水灌到地下室去。這次大家有經驗,很早就把閘門預備起來,所以淹水的狀況比較少。」高雄資深訪視志工李琇釧道出自己的觀察心得:「但山陀兒的強風直接從小港進來,高雄地形根本沒有什麼屏障,所以才會造成樹倒得那麼多,建築物的窗戶、落地窗、採光罩破損,比較嚴重的就是太陽能板、水塔整組不見了。」

和凱米颱風相比,山陀兒沒有在高雄山區重演土石流淹沒民宅、山洪沖毀道路的重創,可謂值得慶幸,但轄區內兩千五百多棵樹木傾倒、十八萬戶停電、多處住宅房屋受損,災情也相當嚴重。因此慈濟人協助校園復原的同時,也展開大規模安心家訪行動,除了慰問民眾助其安心,也藉機找出需要幫助的案家,提供應急金、房屋修繕等協助。

「你訪的這一戶就算不在家,地址旁也要註明,評估是否再訪一次。但第一次的記錄,一定要寫清楚!」十月五日下午,李琇釧來到大寮區的靜思堂,仔細地向在地志工解說安心家訪注意事項。

訪視所見的受災狀況如何?是親子同住、兩老相依還是獨居?有沒有低收入戶或中低收入戶補助?如果房子受損,房屋是自有還是租賃也要了解,每一項資訊盡可能地收集,免得漏失掉真正需要幫助的人家。如果對方不需要社福資源協助,那就送上一份安心祝福禮結善緣。

走出仍在停電狀態的大寮靜思堂,志工提起一袋袋祝福禮,兵分多路展開訪視。在十月三日山陀兒颱風吹壞輸電線路,導致高屏大停電的當下,大寮區一度有兩萬多戶無電可用,及至十月五日安心家訪當天,仍有數千戶等待復電。過程中有些志工仍習慣性地按電鈴,都沒人回應,經人提醒才恍然大悟,原來那一整區還在停電中。

「我昨天上去看,都溼漉漉的。」「可能鐵皮屋久了,螺絲孔滲水吧?」「我們才翻修不到六年耶!」來到靜思堂附近的街區,李琇釧遇到了在地鄉親張簡太太,詢問受災情形,如同大部分的大寮居民,她的屋損不算太嚴重,但停電造成困擾。

「冰箱不能冰啊,食物壞掉了!」張簡太太表示,沒電的這幾天吃泡麵度日,由於家裏依靠馬達抽水使用,一旦停電,水龍頭也沒水了,因此得從外面提水回家。對於年已七十、腿腳又不太好的她來說,沒電又停水的日子相當辛苦。

「這裏面有拌麵,很好吃的。」了解家戶狀況後,李琇釧恭敬地遞上大紅色提袋,代表證嚴上人及全球慈濟人送上祝福禮。十月五、六兩日,慈濟志工在高雄就訪視了九百三十八戶居民,並對房屋受損又無法自力修繕的弱勢、獨老或兩老相依者,提供適切的修繕協助。

新民國小操場邊,眾人合力清除倒木枝葉,讓師生在風災隔週有安全的學習環境。災後慈濟協助高雄五十餘所學校及公園清掃復原。(攝影/王忠義)

旗津區修繕,巷弄間大事

談到房屋損毀的狀況,慈濟高雄災害應變中心總召潘機利表示,需要修繕的受災戶以旗津區為最多。其中有位個案是獨居的八十歲楊阿嬤,她住在旗津北端海軍第四造船廠附近,原本的居所是一間只有三面磚牆的小平房,靠馬路的門面僅用薄木板區隔室內室外。

山陀兒颱風肆虐過後,阿嬤的門還在,但面對道路的木板牆卻垮了,熱心的鄰居趕緊拿回收的廣告帆布遮蓋,讓老太太保有基本隱私。潘機利、李琇釧等志工團隊登門造訪,除了送上祝福禮安慰老人家,也馬上聯繫專業的修繕志工,備便烤漆鋼板、C型鋼等材料,就地裁切、焊接、鎖螺絲,趕製房屋正面的牆與窗。

「牆是三點三米高,六點三米寬,上面的窗戶是一米乘一米二,所以我們工班十幾個師傅在那邊做,做到大概晚上六、七點。」潘機利表示,修繕工事在十月十日慈濟志工到旗津勘災後第四天完工,除了把門面修補回來,也丈量室內空間,評估浴廁空間的改善,好讓老人家生活得更舒適、更安全。

在本地志工全體動員、外縣市法親鼎力相助之下,高雄的安心家訪,大致在雙十國慶前告一段落。而家訪後新發掘個案的長期關懷、濟助,業已陸續進行。對於所有完成培訓獲得上人授證,承擔起慈善關懷使命的慈濟人來說,這都已經是深刻印在腦海裏的標準作業程序,不僅要做到,還要精進再精進,並廣結更多的善緣。

「凱米颱風之後,上人特別強調,我們慈濟要跟鄰里長或者公部門密切合作。」李琇釧以旗津區的訪視關懷為例說明,這是高雄慈濟人第一次在這個近海離島區展開災後復原行動,對當地其實還很陌生,有賴在地鄰里長、鄉親帶路穿街走巷,才能找到需要幫助的人。而當慈濟人以具體行動,做出實際成效時,鄉親們的反應也很熱烈。

「當那位阿嬤家修繕完工的時候,里長還有整條巷子的人都跑出來了,給我們很大的鼓掌聲、歡呼聲。」李琇釧語帶振奮地說。

提著安心祝福禮,志工逐戶進行安心家訪。(攝影/王坤河)

大樹區鄉親感恩慈濟人前來關懷,相互祝福。(攝影/郭秋佩)

同理受災戶,面對面關懷

每當颱風來臨期間,擔任災害應變中心召集人的潘機利,幾乎每日駐守高雄靜思堂。他經營成衣商場,七月凱米颱風造成大範圍淹水災情,也影響到他的門市,但他依舊專心投入救災。當六龜居民撤離避難,他考慮鄉親緊急離家,於是發心結緣,安排他們到商場選購合適衣物應急。

他回想二○○九年莫拉克風災,自己位於旗山的成衣商場損失慘重,很多新衣泡水報廢。「當時旗山區還屬於高雄縣,所以我就一直等縣政府的人過來旗山評估補助,那時候想著要把淹水高度報得高一點,就會得到更多補助。」

然而這個不好的念想終究沒有成真,潘機利等了一整天,反倒是慈濟志工先來了,不僅送上熱騰騰的香積飯,還有上人的慰問信,讓他確信,慈濟是實實在在做出來的。

「所以現在投入防救災,我覺得自己比較能同理。知道受災的人需要什麼,受災戶的心情感受,或者失去家人的那種痛。面對面的關懷,真的很重要。」回想受災、救助的心路歷程,再對比凱米、山陀兒颱風的應變情況,潘機利坦言,雖然大家不敢掉以輕心,但看到各地的災情,還是有「嚇到了!」的震撼,他肯定慈濟人走入社區的正面效應;也提醒法親們,面對極端氣候加劇的趨勢,大家不可輕忽,一定要更戒慎虔誠。

「高雄很少有這種強烈的颱風,那種瞬間致災的強風暴,很多居民都受到驚嚇!我們送上安心祝福,就是安他們的心,給他一個安慰一個助力,告訴他,你並不孤單,證嚴上人還有全球慈濟人的愛與你同在。」

|延伸閱讀|大愛新聞─山陀兒颱風襲高雄 慈濟人協助清理道路

醫療普遍化 縮短與病人的距離

新加坡慈濟人醫會醫師跨國到斯里蘭卡可倫坡,為貧苦民眾看診。(攝影/蕭耀華)

幾分鐘的白內障手術,解除多年失明;
量身訂製的義肢,讓身障者重獲自由;
一小時內驗光配鏡,弱勢兒童看見黑板上的字……
「確保健康的生活及促進各年齡層的福祉」,
是聯合國SDG3的目標,
也是慈濟慈善結合醫療半世紀以來,
走遍天下的使命與成果。

幾分鐘的白內障手術,解除多年失明;量身訂製的義肢,讓身障者重獲自由;一小時內驗光配鏡,弱勢兒童看見黑板上的字……「確保健康的生活及促進各年齡層的福祉」,是聯合國SDG3的目標,也是慈濟慈善結合醫療半世紀以來,走遍天下的使命與成果。

【慈濟行動X聯合國永續發展目標】系列報導

位於曾文水庫集水區的嘉義縣大埔鄉,因地處偏遠山區,加上水庫蓄水後淹沒大片農田,導致年輕人大量外流謀生,人口數難以支持醫療院所在地營運,多年以來連一間診所都沒有。

為了守護這個「無醫鄉」,慈濟人醫會團隊在當地義診長達十年,期間志工及醫護每月前往開診,但無法長期留守;及至二○○二年,甫啟業兩年的大林慈濟醫院承接政府兩項醫療計畫,開始派遣醫師長駐,鄉親終於獲得最基本的醫療保障。

「我們跟居服員等相關人員建立很好的服務網絡,把大埔鄉裏沒辦法出來的病人找出來,對他們做居家照護。」每週三上山看診的大林慈院中醫部針傷科主任葉明憲表示,這些需要居家照護的長者多半獨居,出外的子女也沒辦法每週帶他們到醫療站來看診,因此有賴醫護及照服員親自上門,提供醫療、復健、送餐等服務。二十二年來,葉明憲每次下診後,都會親自訪視生活無法自理、「走不出家門」的病人。

家醫科林英龍醫師則是大埔鄉現任的長駐醫師兼急診室負責人,八年來每個月平均只放假兩天,處理過數百起蜂螫、蛇咬的中毒意外,也搶救過車禍、工傷、心臟病發等緊急傷病;大林慈院各科別如風溼免疫、心臟血管、皮膚科、牙科等專科醫師,也分批上山來支援。

在慈濟醫療團隊支持下,一些老人家的健康明顯改善了,中風臥床的人可以起身站立,失智長輩恢復言語、動作,甚至可以「講古」。而除了在大埔鄉安排醫師「二十四小時守護」,大林慈院也在嘉義縣的梅山鄉、竹崎鄉,以及雲林縣古坑鄉進行巡迴醫療。

北區慈濟人醫會定期到新北三芝、雙溪、瑞芳、平溪等地關心偏鄉長者健康,互動如老友般熟稔。(攝影/李政明)

服務移工,休診日開診

有病苦的人走不出來,有福的人要走進去,早在一九六六年,證嚴上人就察覺「因病而貧」的現象,並倡導「防貧止病」的根本之道。一九七二年,「慈濟貧民施醫義診所」成立,除了在花蓮市仁愛街定點義診,也到花東偏鄉往診,及至一九八六年,才由新成立的花蓮佛教慈濟綜合醫院接棒。

發展至今,慈濟在臺灣已有兩座醫學中心,兩座區域醫院,五座中小型醫院及診所;慈濟人醫會醫師、護理師、藥劑師、志工超過兩千七百多人,偏鄉長者就醫不易,人醫會醫護志工往診訪視。「行動醫療」不僅在空間上觸及了偏遠不便的鄉村山區,在時間上也照顧到身處繁華都市的弱勢朋友。

「你照顧的阿公幾歲?」「八十歲。」「常睡不好,你會頭暈嗎?晚上可以睡幾個小時?」「四個小時……」週日的臺北車站大廳人聲鼎沸,卻無礙臨床心理師與印尼移工姊妹的諮商對話。北區慈濟人醫會與北市府合辦的「臺北市外籍移工健康關懷活動」已二十年,志願服務的醫護人員在臺北車站開設身心科、內科、牙科、眼科、骨科、婦科及中醫等科別,免費檢查及諮詢。儘管不在現場執行抽血、打針等侵入性醫療行為,取藥則是到特約的診所刷健保卡,但對備極辛勞的移工朋友來說,仍是很大的幫助。

「他們大多是來自印尼的家庭看護工,照顧的對象多半是生活無法自理的長輩。」擔任活動聯絡人的慈濟志工顏渼姈表示,移工朋友體力負荷大,睡眠經常被打斷,週日即使可休假,卻往往是醫院診所休診日,導致求醫困難。也因此慈濟人醫會特別選擇星期天提供服務,便利移工來看診。

除了服務山區離島的偏鄉,照顧身在都市的移工、街友,慈濟醫療院所與人醫會成員並進入機構服務植物人、癱瘓病人等弱勢族群,減輕病苦,也讓家屬安心。

歷經二十年發展,在臺北車站舉行的外籍移工健康關懷活動,已宛如行動醫院。(攝影/江寶清)

白內障手術,影響深遠

「確保健康的生活及促進各年齡層的福祉」,是聯合國第三項永續發展目標,希望於二○三○年前降低孕產婦、嬰兒、五歲以下兒童的死亡率;實現全民「健康覆蓋」,包括財務風險保護、獲得基本衛生保健服務,讓所有人獲得安全、有效、優質和負擔得起的基本藥物和疫苗,這幾項在臺灣幾乎全面達成。

但是,根據世界衛生組織(WHO)和世界銀行統計,全球仍有超過三點八億人因為自費支付醫療費用而陷入極端貧困;能獲得「教學醫院」級以上醫療服務者,不到百分之十。在東南亞、非洲、拉丁美洲等開發中國家,貧苦民眾連上診所都難,遑論住院接受更進一步診治。

走出醫療資源相對豐富的臺灣,慈濟醫療志業與人醫會志工面對的,是更殷切的醫療需求。有時一個再平常不過的小手術,就可能改變一家人的命運。

菲律賓馬尼拉的慈濟眼科中心,清早總是有來自各地的貧苦眼疾患者扶著家人的肩膀走入,接受檢查、診療。凱文‧安得拉德(Kevin Andrade)手術後在恢復區忐忑不安等候著,他因白內障失去視力三年多,卻無力求治,一度輕生,幸好孩子及時發現而救下了他。

「你看到這個了嗎?」在慈濟眼科中心完成手術後,醫師凱瑟琳娜(Dr. Catherina)伸出手指詢問,凱文還是無奈地說:「看不見!」但經過三小時休息後,他竟自行起身如廁,行動和明眼人無異。儘管只救回右眼視力,凱文卻迫不及待要恢復工作養家了!

免費的眼科手術,僅是菲律賓慈濟人在醫療上耕耘近三十年的成果之一。菲律賓有七千多個大、小島嶼,貧富差距大,加上交通不便,許多生活在偏遠離島的貧病患者,甚至一輩子都沒到過醫院;一九九五年,菲律賓慈濟人即組成義診團,下鄉服務。

回想二十九年前邁開第一步的時候,菲國慈濟人醫會資深志工柯賢智醫師不禁感嘆:「那時候什麼都沒有。」

第一臺麻醉機,是美軍淘汰的二手貨。沒有手術用的「無影燈」,就拿幾個普通電燈湊起來照明。下鄉動手術,還得向華校借圖書館或辦公室,拿辦公桌當手術檯。儘管設備克難,但無礙醫療人員與志工的熱忱,大家把救人的能量開到最大。

「護理師、志工投入的人數,隨著每次義診不斷增加。他們沒有任何經濟報酬或名聲承諾,依舊不懈堅持。」柯賢智讚歎道:「儘管幾十年間發生了許多變化,但不變的是愛。」

菲國慈濟人醫會持續進行每年三到四次的大型義診,近三十年來已舉辦二百六十多場,嘉惠超過三十萬人次。在首都馬尼拉的慈濟眼科中心,二○二三年門診逾二萬人次,南部的三寶顏市則有義肢中心,免費為身障者量身製作義肢。

無償付出的義診,不僅嘉惠了病患也鼓舞了醫療人員的熱忱。印尼人醫會成員魯斯比醫師(Dr.Ruzbih Bahtiar)今年參加義診,就做了兩例臉部脂肪瘤切除手術。術後兩位病人都對他表達感恩,但他卻覺得收穫最多的其實是自己,「因為滿足別人的需求,是一種很棒的感覺。」

菲律賓、馬來西亞、印尼、新加坡等地人醫義診行之有年,有時還要跨國支援。今年八月,新加坡結合斯里蘭卡醫護人員及志工共三百五十二人,於卡魯塔拉區(Kalutara District)舉辦大型義診;在斯里蘭卡看醫師是免費的,但藥品必須自費,近年來藥品價格上漲一倍,對收入不高的居民來說是沉重的負擔。

當地公立醫院只有四位醫師,沒有眼科與牙科專科;到私人醫院做牙科根管治療要花費四萬盧比(約新臺幣四千三百元),一般人很難負擔得起。也因此義診雖然上午八點半開始,凌晨三點就有居民來等候,兩天半就服務了四千六百人次。

慈濟菲律賓眼科中心免費治療貧苦患者。醫護志工家訪,眼科中心主任鼓勵患者凱文(圖1);二○二三年,眼科中心手術近三千例(圖2)。(攝影/Jamaica Mae Digo)

富裕國度,仍有邊緣人

東南亞、拉丁美洲及非洲的開發中國家,需要慈善醫療的關懷。為什麼醫療水準領先全球,國民所得位居世界前段的美國,還有許多人需要義診?

「問題出在保險和身分。」慈濟醫療志業執行長、國際慈濟人醫會召集人林俊龍,曾任美國洛杉磯北嶺醫學中心院長,說明在美國一般公民通常會投保基本的醫療險,但無證移民沒有醫療保險,面對突發急重症往往束手無策,而失業落入貧窮的人也無力繳醫療險保費。林俊龍感嘆:「沒有保險的人,連住院割個盲腸都會破產!」

一九九三年十一月,美國慈濟的第一所義診中心,在南加州的阿罕布拉市成立,從內科、牙科、中醫科開始,逐漸增加科別,還設置浴室,讓前來接受義診的街友可以好好洗個澡,恢復乾淨有尊嚴的面貌。及至二○○五年,義診中心轉型為社區門診中心,接受一般民眾付費就醫,擴大了服務範圍,但是為弱勢者提供免費服務,醫療結合慈善的關懷一樣不變。

為了因應幅員廣大的地理特性,美國慈濟人也在「行動醫療」方面投入許多,打造了十二輛的「大愛醫療巡迴車」,這些由巴士改裝的行動醫療車,搭載醫療儀器,可以直接開到有需要的地點,讓醫護志工在車上執行眼科、牙科等醫療任務。

「我們能在一個小時之內測視力並配眼鏡,這在紐約是破天荒的。對低收入戶的學生影響非常大。」美國慈濟人醫會資深志工廖敬興牙醫師表示,很多窮人家子弟不知道自己的視力有問題,他們看不清寫在黑板上的字,間接導致學業成績低落。當人醫志工到校義診,幫他們驗光、配眼鏡後,就能夠清楚看到老師所教的內容。「學業成績就從C衝到A了。」廖敬興笑道。

全美慈濟九大分會,共在二十四個地點設有慈濟人醫會,不只關懷境內,也到墨西哥、海地、多明尼加、厄瓜多、玻利維亞等中南美國家義診。

國際慈濟人醫會成員目前分布於二十八個國家地區,一萬五千多位醫師及護理、醫技、藥劑人員加上行政志工,共同為貧困患者提供全科性義診服務。國際間發生重大災難,他們也積極參與賑災,統計至二○二三年底,已在五十八個國家地區為四百多萬人次提供專業診療。

約旦慈濟人長期關懷貧民及境內敘利亞難民,臺灣義診發放團多次前往支援。二○一九年在果爾莎菲貧困農工鄉村舉行牙科義診,男女老幼耐住高溫,排隊等待看診。(攝影/蕭耀華)

今年美國奧克蘭社區義診中,低收入戶及無醫療保險的民眾在牙科醫療車上接受診治。(攝影/呂宛潔)

善用科技,愛無遠弗屆

隨著海內外醫療大環境的改變,施醫助人的做法也跟著調整。二十一世紀的醫療人員,將會親眼見證劃時代、革命性的進步。

曾任慈濟大學醫學院院長、現任慈濟教育志業執行長的王本榮醫師,就以目前各方都很重視的AI人工智能運用為例說明:「AI影像輔助的診斷,一定會比人類醫師更精準。它可以解決醫療資源不均、供需失衡的情況。運用在遠距醫學就無遠弗屆,照顧到很多偏鄉地區弱勢的人。無論我們要進行精準化或者所謂個人化的醫療、數位療法,AI會給我們相當大的助力。」

然而在追求高科技、先進醫療的同時,仍須守持「以人為本」醫病又醫心的關懷,方能達成增進人類健康福祉的理想,真正予樂拔苦。

妙語如珠的王本榮,以3C闡述醫者的能力與使命:「一個是CURE,有專業的能力診療、守護生命;接著是CARE,能照顧病人;更重要是COMFORT,膚慰病人的苦。這3C是對醫療非常重要的核心價值,也是上人一直告訴我們的,醫療就是人本醫療,要守護生命、守護健康、守護愛!」(資料來源/慈濟醫院、2024年國際慈濟人醫年會、《慈濟美國醫療志業30年特刊》)

|延伸閱讀|大愛新聞─潭美重創呂宋島 眼科義診風雨無阻

新加坡慈濟人醫會醫師跨國到斯里蘭卡可倫坡,為貧苦民眾看診。(攝影/蕭耀華)

幾分鐘的白內障手術,解除多年失明;
量身訂製的義肢,讓身障者重獲自由;
一小時內驗光配鏡,弱勢兒童看見黑板上的字……
「確保健康的生活及促進各年齡層的福祉」,
是聯合國SDG3的目標,
也是慈濟慈善結合醫療半世紀以來,
走遍天下的使命與成果。

幾分鐘的白內障手術,解除多年失明;量身訂製的義肢,讓身障者重獲自由;一小時內驗光配鏡,弱勢兒童看見黑板上的字……「確保健康的生活及促進各年齡層的福祉」,是聯合國SDG3的目標,也是慈濟慈善結合醫療半世紀以來,走遍天下的使命與成果。

【慈濟行動X聯合國永續發展目標】系列報導

位於曾文水庫集水區的嘉義縣大埔鄉,因地處偏遠山區,加上水庫蓄水後淹沒大片農田,導致年輕人大量外流謀生,人口數難以支持醫療院所在地營運,多年以來連一間診所都沒有。

為了守護這個「無醫鄉」,慈濟人醫會團隊在當地義診長達十年,期間志工及醫護每月前往開診,但無法長期留守;及至二○○二年,甫啟業兩年的大林慈濟醫院承接政府兩項醫療計畫,開始派遣醫師長駐,鄉親終於獲得最基本的醫療保障。

「我們跟居服員等相關人員建立很好的服務網絡,把大埔鄉裏沒辦法出來的病人找出來,對他們做居家照護。」每週三上山看診的大林慈院中醫部針傷科主任葉明憲表示,這些需要居家照護的長者多半獨居,出外的子女也沒辦法每週帶他們到醫療站來看診,因此有賴醫護及照服員親自上門,提供醫療、復健、送餐等服務。二十二年來,葉明憲每次下診後,都會親自訪視生活無法自理、「走不出家門」的病人。

家醫科林英龍醫師則是大埔鄉現任的長駐醫師兼急診室負責人,八年來每個月平均只放假兩天,處理過數百起蜂螫、蛇咬的中毒意外,也搶救過車禍、工傷、心臟病發等緊急傷病;大林慈院各科別如風溼免疫、心臟血管、皮膚科、牙科等專科醫師,也分批上山來支援。

在慈濟醫療團隊支持下,一些老人家的健康明顯改善了,中風臥床的人可以起身站立,失智長輩恢復言語、動作,甚至可以「講古」。而除了在大埔鄉安排醫師「二十四小時守護」,大林慈院也在嘉義縣的梅山鄉、竹崎鄉,以及雲林縣古坑鄉進行巡迴醫療。

北區慈濟人醫會定期到新北三芝、雙溪、瑞芳、平溪等地關心偏鄉長者健康,互動如老友般熟稔。(攝影/李政明)

服務移工,休診日開診

有病苦的人走不出來,有福的人要走進去,早在一九六六年,證嚴上人就察覺「因病而貧」的現象,並倡導「防貧止病」的根本之道。一九七二年,「慈濟貧民施醫義診所」成立,除了在花蓮市仁愛街定點義診,也到花東偏鄉往診,及至一九八六年,才由新成立的花蓮佛教慈濟綜合醫院接棒。

發展至今,慈濟在臺灣已有兩座醫學中心,兩座區域醫院,五座中小型醫院及診所;慈濟人醫會醫師、護理師、藥劑師、志工超過兩千七百多人,偏鄉長者就醫不易,人醫會醫護志工往診訪視。「行動醫療」不僅在空間上觸及了偏遠不便的鄉村山區,在時間上也照顧到身處繁華都市的弱勢朋友。

「你照顧的阿公幾歲?」「八十歲。」「常睡不好,你會頭暈嗎?晚上可以睡幾個小時?」「四個小時……」週日的臺北車站大廳人聲鼎沸,卻無礙臨床心理師與印尼移工姊妹的諮商對話。北區慈濟人醫會與北市府合辦的「臺北市外籍移工健康關懷活動」已二十年,志願服務的醫護人員在臺北車站開設身心科、內科、牙科、眼科、骨科、婦科及中醫等科別,免費檢查及諮詢。儘管不在現場執行抽血、打針等侵入性醫療行為,取藥則是到特約的診所刷健保卡,但對備極辛勞的移工朋友來說,仍是很大的幫助。

「他們大多是來自印尼的家庭看護工,照顧的對象多半是生活無法自理的長輩。」擔任活動聯絡人的慈濟志工顏渼姈表示,移工朋友體力負荷大,睡眠經常被打斷,週日即使可休假,卻往往是醫院診所休診日,導致求醫困難。也因此慈濟人醫會特別選擇星期天提供服務,便利移工來看診。

除了服務山區離島的偏鄉,照顧身在都市的移工、街友,慈濟醫療院所與人醫會成員並進入機構服務植物人、癱瘓病人等弱勢族群,減輕病苦,也讓家屬安心。

歷經二十年發展,在臺北車站舉行的外籍移工健康關懷活動,已宛如行動醫院。(攝影/江寶清)

白內障手術,影響深遠

「確保健康的生活及促進各年齡層的福祉」,是聯合國第三項永續發展目標,希望於二○三○年前降低孕產婦、嬰兒、五歲以下兒童的死亡率;實現全民「健康覆蓋」,包括財務風險保護、獲得基本衛生保健服務,讓所有人獲得安全、有效、優質和負擔得起的基本藥物和疫苗,這幾項在臺灣幾乎全面達成。

但是,根據世界衛生組織(WHO)和世界銀行統計,全球仍有超過三點八億人因為自費支付醫療費用而陷入極端貧困;能獲得「教學醫院」級以上醫療服務者,不到百分之十。在東南亞、非洲、拉丁美洲等開發中國家,貧苦民眾連上診所都難,遑論住院接受更進一步診治。

走出醫療資源相對豐富的臺灣,慈濟醫療志業與人醫會志工面對的,是更殷切的醫療需求。有時一個再平常不過的小手術,就可能改變一家人的命運。

菲律賓馬尼拉的慈濟眼科中心,清早總是有來自各地的貧苦眼疾患者扶著家人的肩膀走入,接受檢查、診療。凱文‧安得拉德(Kevin Andrade)手術後在恢復區忐忑不安等候著,他因白內障失去視力三年多,卻無力求治,一度輕生,幸好孩子及時發現而救下了他。

「你看到這個了嗎?」在慈濟眼科中心完成手術後,醫師凱瑟琳娜(Dr. Catherina)伸出手指詢問,凱文還是無奈地說:「看不見!」但經過三小時休息後,他竟自行起身如廁,行動和明眼人無異。儘管只救回右眼視力,凱文卻迫不及待要恢復工作養家了!

免費的眼科手術,僅是菲律賓慈濟人在醫療上耕耘近三十年的成果之一。菲律賓有七千多個大、小島嶼,貧富差距大,加上交通不便,許多生活在偏遠離島的貧病患者,甚至一輩子都沒到過醫院;一九九五年,菲律賓慈濟人即組成義診團,下鄉服務。

回想二十九年前邁開第一步的時候,菲國慈濟人醫會資深志工柯賢智醫師不禁感嘆:「那時候什麼都沒有。」

第一臺麻醉機,是美軍淘汰的二手貨。沒有手術用的「無影燈」,就拿幾個普通電燈湊起來照明。下鄉動手術,還得向華校借圖書館或辦公室,拿辦公桌當手術檯。儘管設備克難,但無礙醫療人員與志工的熱忱,大家把救人的能量開到最大。

「護理師、志工投入的人數,隨著每次義診不斷增加。他們沒有任何經濟報酬或名聲承諾,依舊不懈堅持。」柯賢智讚歎道:「儘管幾十年間發生了許多變化,但不變的是愛。」

菲國慈濟人醫會持續進行每年三到四次的大型義診,近三十年來已舉辦二百六十多場,嘉惠超過三十萬人次。在首都馬尼拉的慈濟眼科中心,二○二三年門診逾二萬人次,南部的三寶顏市則有義肢中心,免費為身障者量身製作義肢。

無償付出的義診,不僅嘉惠了病患也鼓舞了醫療人員的熱忱。印尼人醫會成員魯斯比醫師(Dr.Ruzbih Bahtiar)今年參加義診,就做了兩例臉部脂肪瘤切除手術。術後兩位病人都對他表達感恩,但他卻覺得收穫最多的其實是自己,「因為滿足別人的需求,是一種很棒的感覺。」

菲律賓、馬來西亞、印尼、新加坡等地人醫義診行之有年,有時還要跨國支援。今年八月,新加坡結合斯里蘭卡醫護人員及志工共三百五十二人,於卡魯塔拉區(Kalutara District)舉辦大型義診;在斯里蘭卡看醫師是免費的,但藥品必須自費,近年來藥品價格上漲一倍,對收入不高的居民來說是沉重的負擔。

當地公立醫院只有四位醫師,沒有眼科與牙科專科;到私人醫院做牙科根管治療要花費四萬盧比(約新臺幣四千三百元),一般人很難負擔得起。也因此義診雖然上午八點半開始,凌晨三點就有居民來等候,兩天半就服務了四千六百人次。

慈濟菲律賓眼科中心免費治療貧苦患者。醫護志工家訪,眼科中心主任鼓勵患者凱文(圖1);二○二三年,眼科中心手術近三千例(圖2)。(攝影/Jamaica Mae Digo)

富裕國度,仍有邊緣人

東南亞、拉丁美洲及非洲的開發中國家,需要慈善醫療的關懷。為什麼醫療水準領先全球,國民所得位居世界前段的美國,還有許多人需要義診?

「問題出在保險和身分。」慈濟醫療志業執行長、國際慈濟人醫會召集人林俊龍,曾任美國洛杉磯北嶺醫學中心院長,說明在美國一般公民通常會投保基本的醫療險,但無證移民沒有醫療保險,面對突發急重症往往束手無策,而失業落入貧窮的人也無力繳醫療險保費。林俊龍感嘆:「沒有保險的人,連住院割個盲腸都會破產!」

一九九三年十一月,美國慈濟的第一所義診中心,在南加州的阿罕布拉市成立,從內科、牙科、中醫科開始,逐漸增加科別,還設置浴室,讓前來接受義診的街友可以好好洗個澡,恢復乾淨有尊嚴的面貌。及至二○○五年,義診中心轉型為社區門診中心,接受一般民眾付費就醫,擴大了服務範圍,但是為弱勢者提供免費服務,醫療結合慈善的關懷一樣不變。

為了因應幅員廣大的地理特性,美國慈濟人也在「行動醫療」方面投入許多,打造了十二輛的「大愛醫療巡迴車」,這些由巴士改裝的行動醫療車,搭載醫療儀器,可以直接開到有需要的地點,讓醫護志工在車上執行眼科、牙科等醫療任務。

「我們能在一個小時之內測視力並配眼鏡,這在紐約是破天荒的。對低收入戶的學生影響非常大。」美國慈濟人醫會資深志工廖敬興牙醫師表示,很多窮人家子弟不知道自己的視力有問題,他們看不清寫在黑板上的字,間接導致學業成績低落。當人醫志工到校義診,幫他們驗光、配眼鏡後,就能夠清楚看到老師所教的內容。「學業成績就從C衝到A了。」廖敬興笑道。

全美慈濟九大分會,共在二十四個地點設有慈濟人醫會,不只關懷境內,也到墨西哥、海地、多明尼加、厄瓜多、玻利維亞等中南美國家義診。

國際慈濟人醫會成員目前分布於二十八個國家地區,一萬五千多位醫師及護理、醫技、藥劑人員加上行政志工,共同為貧困患者提供全科性義診服務。國際間發生重大災難,他們也積極參與賑災,統計至二○二三年底,已在五十八個國家地區為四百多萬人次提供專業診療。

約旦慈濟人長期關懷貧民及境內敘利亞難民,臺灣義診發放團多次前往支援。二○一九年在果爾莎菲貧困農工鄉村舉行牙科義診,男女老幼耐住高溫,排隊等待看診。(攝影/蕭耀華)

今年美國奧克蘭社區義診中,低收入戶及無醫療保險的民眾在牙科醫療車上接受診治。(攝影/呂宛潔)

善用科技,愛無遠弗屆

隨著海內外醫療大環境的改變,施醫助人的做法也跟著調整。二十一世紀的醫療人員,將會親眼見證劃時代、革命性的進步。

曾任慈濟大學醫學院院長、現任慈濟教育志業執行長的王本榮醫師,就以目前各方都很重視的AI人工智能運用為例說明:「AI影像輔助的診斷,一定會比人類醫師更精準。它可以解決醫療資源不均、供需失衡的情況。運用在遠距醫學就無遠弗屆,照顧到很多偏鄉地區弱勢的人。無論我們要進行精準化或者所謂個人化的醫療、數位療法,AI會給我們相當大的助力。」

然而在追求高科技、先進醫療的同時,仍須守持「以人為本」醫病又醫心的關懷,方能達成增進人類健康福祉的理想,真正予樂拔苦。

妙語如珠的王本榮,以3C闡述醫者的能力與使命:「一個是CURE,有專業的能力診療、守護生命;接著是CARE,能照顧病人;更重要是COMFORT,膚慰病人的苦。這3C是對醫療非常重要的核心價值,也是上人一直告訴我們的,醫療就是人本醫療,要守護生命、守護健康、守護愛!」(資料來源/慈濟醫院、2024年國際慈濟人醫年會、《慈濟美國醫療志業30年特刊》)

|延伸閱讀|大愛新聞─潭美重創呂宋島 眼科義診風雨無阻

新北—泥濘滿屋 及時助力

山陀兒颱風消散,外圍環流帶來強降雨重創北海岸,十月四日造成多處嚴重淹水、土石流災情,雙北、基隆地區慈濟志工即時動員,家訪關懷新北市金山、萬里、三芝區與基隆等地三百多戶,為清理家園的民眾提供熱食,並為亟需協助的受災戶清理淤泥,幫助災後復原。

|延伸閱讀|大愛新聞─新北三芝遍地泥濘 協助長者清掃家園

山陀兒颱風消散,外圍環流帶來強降雨重創北海岸,十月四日造成多處嚴重淹水、土石流災情,雙北、基隆地區慈濟志工即時動員,家訪關懷新北市金山、萬里、三芝區與基隆等地三百多戶,為清理家園的民眾提供熱食,並為亟需協助的受災戶清理淤泥,幫助災後復原。

|延伸閱讀|大愛新聞─新北三芝遍地泥濘 協助長者清掃家園

能治病的,不只有藥物

記憶保養班亦可成為一種社會處方,多元化課程讓社區長者與人互動,接觸新事物,預防及延緩失智症。(攝影/王翠雲)

SDG3「良好健康和福祉」,與貧窮、飢餓、不平等相關;
要跳脫只有醫療的迷思,
從更宏觀的角度來促進健康,
讓社區民眾的能力增加,把自我照顧落實得更好。

SDG3「良好健康和福祉」,與貧窮、飢餓、不平等相關;要跳脫只有醫療的迷思,從更宏觀的角度來促進健康,讓社區民眾的能力增加,把自我照顧落實得更好。

過去東部偏鄉的醫療可近性不高,所以我們把醫療送到部落、送到社區。但現在民眾生活水準提高了,全民健保普及,交通進步了,醫療可近性也增加了。這時候就要改為針對高風險,且沒辦法走出來的對象提供服務。

除了醫療,也要有人去評估,社區可能更需要的、要花比較長時間做的一些項目。現代公共衛生的概念是希望當地的資源先行整合運用,不夠的再由外界補給,而不是單方面的給予。

世界衛生組織於是推動「社會處方」的概念,花蓮慈濟醫院也正在推動,這在加拿大、澳洲、紐西蘭、新加坡、芬蘭、日本等先進國家已經部分實施。它的概念是,個人的疾病不是只靠醫療藥物就可以全部處置,尚有很多非醫療的社會決定因子。

例如肥胖,醫療的做法是教他怎麼減重;但那人為什麼變胖?可能是收入比較少,所以只能買比較便宜但高熱量、不健康的食物。如果請他運動、改變飲食,實際上只能解決問題的一部分。因為他受到很多社會因素、經濟因素影響,這個時候就要整體系統性考量。

社會處方實際上包括非醫療的處方,如人際互動、社會參與、運動飲食、藝術治療、園藝治療等,透過健康連結者,如受過訓練的志工、公衛護理師、照服員等,把病人連結到各種的資源,同時也能追蹤轉介的成果。

第二個就是「慈悲關懷社區」。這是近年健康社區發展的新觀念。

臺灣人口老化,重症、弱勢的族群,更需要彼此關懷跟尊重。過去幾年,政府希望把高齡友善、失智友善跟慈悲關懷社區的概念結合在一起,使社區除了結構外,加上更多有溫度的互動。

根據統計,末期病人在人生最後一年,有百分之九十五的時間由非醫療專業的家人、朋友、鄰居、社區照顧,只有百分之五的時間是由醫療體系提供服務。如果我們只注重醫療,這個病人是沒辦法好好生活的。

例如老先生罹患重病,老太太在照顧先生的時候,她也需要做些生活上的其他事情。社區鄰居就可以協助老太太,比如買菜或是倒垃圾,或是陪她去辦一些事情。

每個人都有能力助人。慈濟全人、全家、全程、全隊、全社區的「五全」照顧要從整體來看,促進民眾、社區更有能力自我照顧、相互照顧,不足時再由外面的資源協助,這樣才能達到更有效的改善。

SDG3「良好健康和福祉」不是獨立的,它跟貧窮、飢餓、教育、工作、不平等,實際上都有關。跳脫只有醫療的迷思,方能從更宏觀的角度來促進民眾的健康。

比如美國,雖然有高科技醫療,可是很多人沒錢付醫藥費,所以需要慈濟幫助;而菲律賓的慈濟義診,就做很多白內障、小腫瘤或是唇顎裂的手術,當地很多人付不起手術費用,有了義診手術就可以恢復生活品質。

臺灣以前沒有足夠資源的時候,慈濟要義不容辭負責醫療資源的協助,到如今要系統性思考。在社區促進身心健康,環境的健康方面,協助弱勢、全人照顧的精神不變,可是在方式上要因應社會環境的變化而作調整,才能引導社區民眾把自我照顧、健康促進落實得更好。

|延伸閱讀|大愛新聞─慈濟關懷據點成果展 長者”銀”得喝采

記憶保養班亦可成為一種社會處方,多元化課程讓社區長者與人互動,接觸新事物,預防及延緩失智症。(攝影/王翠雲)

SDG3「良好健康和福祉」,與貧窮、飢餓、不平等相關;
要跳脫只有醫療的迷思,
從更宏觀的角度來促進健康,
讓社區民眾的能力增加,把自我照顧落實得更好。

SDG3「良好健康和福祉」,與貧窮、飢餓、不平等相關;要跳脫只有醫療的迷思,從更宏觀的角度來促進健康,讓社區民眾的能力增加,把自我照顧落實得更好。

過去東部偏鄉的醫療可近性不高,所以我們把醫療送到部落、送到社區。但現在民眾生活水準提高了,全民健保普及,交通進步了,醫療可近性也增加了。這時候就要改為針對高風險,且沒辦法走出來的對象提供服務。

除了醫療,也要有人去評估,社區可能更需要的、要花比較長時間做的一些項目。現代公共衛生的概念是希望當地的資源先行整合運用,不夠的再由外界補給,而不是單方面的給予。

世界衛生組織於是推動「社會處方」的概念,花蓮慈濟醫院也正在推動,這在加拿大、澳洲、紐西蘭、新加坡、芬蘭、日本等先進國家已經部分實施。它的概念是,個人的疾病不是只靠醫療藥物就可以全部處置,尚有很多非醫療的社會決定因子。

例如肥胖,醫療的做法是教他怎麼減重;但那人為什麼變胖?可能是收入比較少,所以只能買比較便宜但高熱量、不健康的食物。如果請他運動、改變飲食,實際上只能解決問題的一部分。因為他受到很多社會因素、經濟因素影響,這個時候就要整體系統性考量。

社會處方實際上包括非醫療的處方,如人際互動、社會參與、運動飲食、藝術治療、園藝治療等,透過健康連結者,如受過訓練的志工、公衛護理師、照服員等,把病人連結到各種的資源,同時也能追蹤轉介的成果。

第二個就是「慈悲關懷社區」。這是近年健康社區發展的新觀念。

臺灣人口老化,重症、弱勢的族群,更需要彼此關懷跟尊重。過去幾年,政府希望把高齡友善、失智友善跟慈悲關懷社區的概念結合在一起,使社區除了結構外,加上更多有溫度的互動。

根據統計,末期病人在人生最後一年,有百分之九十五的時間由非醫療專業的家人、朋友、鄰居、社區照顧,只有百分之五的時間是由醫療體系提供服務。如果我們只注重醫療,這個病人是沒辦法好好生活的。

例如老先生罹患重病,老太太在照顧先生的時候,她也需要做些生活上的其他事情。社區鄰居就可以協助老太太,比如買菜或是倒垃圾,或是陪她去辦一些事情。

每個人都有能力助人。慈濟全人、全家、全程、全隊、全社區的「五全」照顧要從整體來看,促進民眾、社區更有能力自我照顧、相互照顧,不足時再由外面的資源協助,這樣才能達到更有效的改善。

SDG3「良好健康和福祉」不是獨立的,它跟貧窮、飢餓、教育、工作、不平等,實際上都有關。跳脫只有醫療的迷思,方能從更宏觀的角度來促進民眾的健康。

比如美國,雖然有高科技醫療,可是很多人沒錢付醫藥費,所以需要慈濟幫助;而菲律賓的慈濟義診,就做很多白內障、小腫瘤或是唇顎裂的手術,當地很多人付不起手術費用,有了義診手術就可以恢復生活品質。

臺灣以前沒有足夠資源的時候,慈濟要義不容辭負責醫療資源的協助,到如今要系統性思考。在社區促進身心健康,環境的健康方面,協助弱勢、全人照顧的精神不變,可是在方式上要因應社會環境的變化而作調整,才能引導社區民眾把自我照顧、健康促進落實得更好。

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