能登半島地震 自らの手で見舞金をお年寄りに届ける
能登半島地震の被災者は、市役所から慈済が「見舞金」を配付する由の通知を受け取ったが、疑念と期待が入り交じった心境にあった。
会場に着いてみると、本当に生活の助けになる現金を受け取ることができた。
驚きと嬉しさに感動する以上に、台湾の慈済が花蓮の地震の後も、依然として彼らを忘れずにいてくれたことに感謝した。
(撮影・王孟専)
今年の元日に発生した石川県能登半島地震は、二百六十人が死亡し、一千二百人が負傷、八万棟の住宅が損壊する被害をもたらした。県全体ではすでに水道が復旧しているが、六月上旬の統計によると、依然として二千八百人が避難所で生活をしている。
地震は能登半島を出入りする唯一の道路を寸断したため、救援活動と建物の解体作業を遅延させた。道路が修復されても、ホテルや旅館が甚大な被害を受けたため、解体業者は泊まる所がない状態にある。また、修復が必要な住宅の数量が膨大なため、解体と再建が遅々として進まないのだ。震源地に最も近い珠洲市を例に挙げると、約四千棟の住宅が全壊し、千人が政府に公費解体を申請しているが、実際に完了したのはわずか数棟である。
今の段階で、住民が最も必要としているのは、現金の補助と再建支援である。県政府と町役場は、「災害義援金」や「生活再建支援金」の支給を公表して、さまざまな補助措置を講じているが、住民は高齢者が多く、申請方法がわからないのだ。更に、甚大被災地はどこも交通が不便な田舎であり、市や町の行政人員が不足しているため、大量の申請案件を一度に処理することができない。
慈済が被災地で見舞金を配付するという情報が住民の耳に入った時、多くの人は半信半疑だった。しかし、五月十七日から十九日にかけて穴水町で初めて千九十一世帯が封筒に入った現金の「見舞金」を受け取った時、住民は信じられない気持ちだった。それは正に恵みの雨だった。
慈済は五月中旬から七月にかけて、穴水、能登、中能登、輪島、志賀、珠洲の六市町で見舞金を順次配付する。対象は地震によって家屋が半壊以上で、且つ六十五歳以上の高齢者がいる世帯である。家族構成の人数に応じて、それぞれ十三万円、十五万円、十七万円が贈られる。
6月9日、ボランティアは台湾の町役場に似た能登町役場で、被災した住民に見舞金を届けて励ました。(撮影・顔婉婷)
地方政府と慈済が協力
第一回の配付は穴水町で完了した。そこは地震発生後、慈済が長期にわたって駐在し、ケアして来た重点地区である。一月十三日から三月三十日まで、二万食余りの温かい食事と飲み物を提供し、延べ七百人以上のボランティアが動員された。
第二回の配付は、六月七日から九日にかけて能登町で行われ、七百二十二世帯が見舞金を受け取った。能登町は北陸でも端の方に位置し、能登半島に囲まれた内海にある。自然との共生を強調した農耕様式が特徴で、世界農業遺産に登録されている。地震の時、震度六強を記録したため、多くの古民家は強い揺れに耐えられなくなり、倒壊したり、傾いたり、崩落したりした。また、地盤が軟弱な所は住宅全体が傾き、液化現象が起きた地域では地盤沈下が続いた。そして、地震によって火災が発生し、複合災害を起こした所もある。
能登町災害対策本部は運営を続けて、十二の避難所が開設され、百人以上が避難生活を送っている。町全体の高齢者人口はほぼ半数を占め、人口密度も低いため、集落同士の距離がかなりある。そのため、慈済と町役場は五つの会場で配付することを決め、高齢者が近くで受け取れるようにした。ボランティアは各会場に早めに行き、配置や整理を行ったが、既に外で待っている住民がいた。
地方政府は、慈済の「重点的、直接、具体的」という災害支援の原則は理解しているが、日本ではプライバシーを重視するため、被災者名簿を提供することはできないと言った。そこで、役場の人が受付で住民の確認を行い、その後に、慈済ボランティアが配付窓口に案内して、罹災証明などの資料を確認することで、見舞金を受け取れるようにした。そして最後に、「住民交流ゾーン」で休憩してもらった。
七十六歳の横地善松さんは、町役場から通知を受け取った時、半信半疑で、先ず会場に行ってみようと思った。彼は会場で、「本当に現金なのですか?振り込みではないのですね?」と何度も確認した。十五万円を受け取ることができたことに驚きを隠せなかった。
「市役所が家を解体してくれるのを待っていますが、何時の事になるやら」と友人の家に身を寄せている横地お爺さんは、「見舞金の出所を聞いて、とても感動しました。このお金は大切に使います。妻や子供たちのために心温まる家を建てます。たとえ平屋建てでも十分です」と言った。子供や孫は年に一度か二度しか帰って来ないが、それでも家族のために家を持ちたいと願っている。
横地お爺さんは続けて、「今日受け取った見舞金の由来を皆に伝え、子供たちも感謝の気持ちを持って社会に還元するよう言います。あなたたちから温かさを感じ、自分の新しい家を建てるための力が湧くと同時に、期待が持てるようになりました」と言った。彼は奥さんと共に優しい笑顔を浮かべながら、「あなたたちの訪問を楽しみにしています」とボランティアに言った。
6月9日、ボランティアは漁村の鵜川を訪れ、公民館に向かう途中で多くの被害を受けた家の前を通った。あたかも時間が元旦の地震後で止まっているように感じられた。(撮影・顔婉婷)
重点的に直接配付する緊急支援の現金
慈済が直接現金を住民に手渡していることについて、多くの人は驚きを隠せず、会場ではしばしば「もったいないことです」という言葉が聞かれた。八十一歳の松田幸子お婆さんは何度も繰り返した。
お婆さんは、八十四歳の夫である松田外紀男さんと娘、そして二十四歳の孫娘と同居している。見舞金を受け取った時、彼女は涙を拭い続けていたが、家までボランティアが同行することを喜んで受け入れた。山林のある小高い丘に位置する日本式建築の家に着くと、ボランティアはお婆さんの家の被災状況がよく分かった。「地震が起きた時、私は台所で調理をしていて、急いで玄関に走ったのですが、揺れが激しくて全く立っていられませんでした。夫は玄関の扉にしっかり掴まってはいましたが、立っていることも外に出ることもできませんでした。私は彼の腰にきつく抱きつき、娘と孫娘はさらに私の腰に抱きつきました。四人が一緒にその場で支え合うのが精一杯で、逃げることができなかったのです!」未だ恐怖が残る幸子お婆さんは、当時を振り返り、天が崩れて地が裂けるように感じ、どこへ逃げればいいのか分からなかったと言った。
家の中の壁は地震で裂けて、一面が崩落し、一家は近くの「小間生公民館」に避難した。被災後、水も電気もなく、女性たちが集まって小さなガスコンロで調理して、何とか十日間を過ごした。一家はとりあえず、金沢市にいる妹の家の近くに借家したが、どうしても自分たちの家に戻りたくて、なんとか整理して住むことにした。
「家が倒れたら、もうだめだ!」と外紀男さんは地震の時、それだけを考えていた。「だから今生きていて、家族も無事なので、本当に幸運です」と語った。幸子お婆さんは、業者に頼んで寝室と台所を修繕してもらったが、二百八十万円余り掛った。全部修繕したら、少なくとも一千万円は必要だろう。「修繕業者からまだ請求して来ませんが、慈済が送って来てくれたこのお金で一部を支払えます。これで私たちの生活も少しは楽になります」。
ボランティアの心温まる慰問と傾聴に、多くの住民は深く感動したと言った。「お金の多い少ないではなく、あなたたちが遠くから来てくれたことで、私たちが得たのは、かけがえのない『温もり』と『情』です!」。
本谷志麻子さんは、6月中旬に能登町公民館の2階にある避難所を離れる予定だ。彼女は、ボランティアが遠方から来て、力を与えてくれたことに感謝した。(撮影・楊景卉)
住む場所があれば、心が安らぐ
本谷志麻子さんは見舞金を受け取った後、ボランティアを避難所に案内した。それは市役所の隣にある「能登町公民館」の二階にあり、彼女は数枚の段ボールで囲った寝室に五カ月余り住んでいた。六月中旬に友人の家に引っ越す予定で、「見舞金をいただきありがとうございます。日用品を買います。来ていただいたことで力をもらいました」と感謝の意を表した。
六十七歳の漁師、山本政広さんもボランティアが彼の仮住まいを見学することに同意した。藤波運動公園に建てられた仮設住宅で、約百二十世帯が住んでいる。一戸当たり約七から八坪の広さで、風呂場とトイレ、そして小さいキッチンには冷蔵庫や電子レンジなどの家電が備わり、小さい長テーブルもある。奥には小部屋が二つあり、一つはリビングとして使っている。山本さんの奥さんは、「今の生活にとても満足しています」と言った。
山本さんの自宅前の道路は三・五メートル陥没し、家は表の方に傾いてしまった。被災後、集会所から移って能登中学で避難生活を送っていたが、五月に仮設住宅に移ってから、ようやく生活が安定してきた。「私はこれまで、懸命に働いて、大勢の子供や孫に囲まれた人生を送って来ましたが、この歳でこんなことに遭うとは思いも寄りませんでした。でも仕方ありません……。三十年間住んでいた家は、見た目には損壊していないのですが、間もなく解体されると思うと、言葉に表せない悲しみがこみ上げてきます」。
仮設住宅には二年間しか住むことができないため、山本さんは政府の災害復興住宅に申請することを検討している。毎月費用はかかるが、年金を受給しているため、負担は軽くなる。慈済から見舞金を受け取れたことについて、彼は「日本では非常に珍しいことで、被災地では初めてです。唯一の現金支援なので、とても驚くと共に、嬉しく思っています」と言った。
七十歳の上野実喜雄さんは、金沢市からバスで故郷に戻り、見舞金を受け取った。彼は地震当時のことを振り返り、二度の強い揺れの後、町役場から津波が来るというアナウンスを聞いて、急いで避難するよう住民に呼びかけた。しかし、自分の家が変形して傾き、ドアが開かなくなった。細身の上野さんの奥さんは、どこにそんな力があったのか、素手で強化ガラスの窓を割り、二人は脱出することができた。裸足のまま、近くの寺まで歩いて靴を二足借り、更に高台に避難した。
家主は高齢者への賃貸を渋り、彼らは息子の名義で金沢に家を借りることにした。かつて魚貝類の取引をしていた上野さんは、今は失業中だが、見舞金を使って家電を買うつもりだ。「遠くから来てくれたボランティアに感謝しています。見舞金を配付するだけでなく、熱いお茶やお菓子を出して頂いた上に、平安のお守りまでいただきました。こんなに多くの支援を受けられるとは思ってもいませんでした……」と言いながら、奥さんは涙を抑えきれなかった。
能登町役場の入口には、各地から寄せられたカードや布がいっぱい掲げられ、励ましのメッセージが書かれてあった。(撮影・顔婉婷)
能登の人々は情に厚く、誠実で親切
この半年間、ボランティアは被災地を行き来して、関係者と配付活動の打ち合わせを行った。證厳法師に災害状況を報告した時、日本の住宅被害の「全壊、半壊、準半壊、一部損壊」などの程度に応じて異なる金額の支援を計画してはどうか、と提案した。法師は「全壊でも半壊でも壊れたことに変わりはありません。区別すべきではありません。また、被災者が六十四歳で、六十五歳に少し足りないからといって助けないでいいのでしょうか?目の前に困っている人がいれば、個別案件にして助けるべきです」と指摘した。
慈済日本支部の執行長である許麗香師姐によると、東京と大阪からのボランティアが交替で被災地に赴いて炊き出しをすると共に、「仕事を与えて支援に代える」活動に参加した地元の人々を食事に招待した。慈済カフェは今でも穴水総合病院で運営されており、今回の見舞金配付に繋がっている。東京に戻るたびに、地元の人々の感動の涙が脳裏に焼き付いているそうだ。
「老いた農夫は、『銀行の預金が底をつき、農地の水も尽きてしまいました。数日前に川から二トンの水を運んで来ましたが、これで野菜が芽を出すかどうかは分かりません。このような大金を受け取ることができ、正に恵みの雨です』と言いました。私たちは、能登には美しい山と水があるだけでなく、厚い人情という美徳もあることを目にしました。地元の人々は涙を流しながら、『四月三日に花蓮で地震が起き、台湾自身も被災しているにも関わらず、私たちの最も必要な時に自ら支援に来てくれたことに感動せずにはおれません』と話してくれました」。
六月中旬、輪島市の公式メディアが、慈済が月末に見舞金を配付することを伝えると、問い合わせの電話が慈済日本支部に殺到した。東京や大阪のボランティアが誠意をもって輪島に向かうと聞いた、遠くに避難している住民は、何としてでも戻って受け取りたい、と感動しながら言った。次から次にかかって来る電話に対応しながら、ボランティアたちは、「世界中の愛と祝福を地元の人々に伝えることができて、とても嬉しいです!」と感想を述べた。(資料提供・顔婉婷、呂瑩瑩、黄静蘊、王孟専、呉恵珍、朱秀蓮)
(慈済月刊六九二期より)
能登半島地震の被災者は、市役所から慈済が「見舞金」を配付する由の通知を受け取ったが、疑念と期待が入り交じった心境にあった。
会場に着いてみると、本当に生活の助けになる現金を受け取ることができた。
驚きと嬉しさに感動する以上に、台湾の慈済が花蓮の地震の後も、依然として彼らを忘れずにいてくれたことに感謝した。
(撮影・王孟専)
今年の元日に発生した石川県能登半島地震は、二百六十人が死亡し、一千二百人が負傷、八万棟の住宅が損壊する被害をもたらした。県全体ではすでに水道が復旧しているが、六月上旬の統計によると、依然として二千八百人が避難所で生活をしている。
地震は能登半島を出入りする唯一の道路を寸断したため、救援活動と建物の解体作業を遅延させた。道路が修復されても、ホテルや旅館が甚大な被害を受けたため、解体業者は泊まる所がない状態にある。また、修復が必要な住宅の数量が膨大なため、解体と再建が遅々として進まないのだ。震源地に最も近い珠洲市を例に挙げると、約四千棟の住宅が全壊し、千人が政府に公費解体を申請しているが、実際に完了したのはわずか数棟である。
今の段階で、住民が最も必要としているのは、現金の補助と再建支援である。県政府と町役場は、「災害義援金」や「生活再建支援金」の支給を公表して、さまざまな補助措置を講じているが、住民は高齢者が多く、申請方法がわからないのだ。更に、甚大被災地はどこも交通が不便な田舎であり、市や町の行政人員が不足しているため、大量の申請案件を一度に処理することができない。
慈済が被災地で見舞金を配付するという情報が住民の耳に入った時、多くの人は半信半疑だった。しかし、五月十七日から十九日にかけて穴水町で初めて千九十一世帯が封筒に入った現金の「見舞金」を受け取った時、住民は信じられない気持ちだった。それは正に恵みの雨だった。
慈済は五月中旬から七月にかけて、穴水、能登、中能登、輪島、志賀、珠洲の六市町で見舞金を順次配付する。対象は地震によって家屋が半壊以上で、且つ六十五歳以上の高齢者がいる世帯である。家族構成の人数に応じて、それぞれ十三万円、十五万円、十七万円が贈られる。
6月9日、ボランティアは台湾の町役場に似た能登町役場で、被災した住民に見舞金を届けて励ました。(撮影・顔婉婷)
地方政府と慈済が協力
第一回の配付は穴水町で完了した。そこは地震発生後、慈済が長期にわたって駐在し、ケアして来た重点地区である。一月十三日から三月三十日まで、二万食余りの温かい食事と飲み物を提供し、延べ七百人以上のボランティアが動員された。
第二回の配付は、六月七日から九日にかけて能登町で行われ、七百二十二世帯が見舞金を受け取った。能登町は北陸でも端の方に位置し、能登半島に囲まれた内海にある。自然との共生を強調した農耕様式が特徴で、世界農業遺産に登録されている。地震の時、震度六強を記録したため、多くの古民家は強い揺れに耐えられなくなり、倒壊したり、傾いたり、崩落したりした。また、地盤が軟弱な所は住宅全体が傾き、液化現象が起きた地域では地盤沈下が続いた。そして、地震によって火災が発生し、複合災害を起こした所もある。
能登町災害対策本部は運営を続けて、十二の避難所が開設され、百人以上が避難生活を送っている。町全体の高齢者人口はほぼ半数を占め、人口密度も低いため、集落同士の距離がかなりある。そのため、慈済と町役場は五つの会場で配付することを決め、高齢者が近くで受け取れるようにした。ボランティアは各会場に早めに行き、配置や整理を行ったが、既に外で待っている住民がいた。
地方政府は、慈済の「重点的、直接、具体的」という災害支援の原則は理解しているが、日本ではプライバシーを重視するため、被災者名簿を提供することはできないと言った。そこで、役場の人が受付で住民の確認を行い、その後に、慈済ボランティアが配付窓口に案内して、罹災証明などの資料を確認することで、見舞金を受け取れるようにした。そして最後に、「住民交流ゾーン」で休憩してもらった。
七十六歳の横地善松さんは、町役場から通知を受け取った時、半信半疑で、先ず会場に行ってみようと思った。彼は会場で、「本当に現金なのですか?振り込みではないのですね?」と何度も確認した。十五万円を受け取ることができたことに驚きを隠せなかった。
「市役所が家を解体してくれるのを待っていますが、何時の事になるやら」と友人の家に身を寄せている横地お爺さんは、「見舞金の出所を聞いて、とても感動しました。このお金は大切に使います。妻や子供たちのために心温まる家を建てます。たとえ平屋建てでも十分です」と言った。子供や孫は年に一度か二度しか帰って来ないが、それでも家族のために家を持ちたいと願っている。
横地お爺さんは続けて、「今日受け取った見舞金の由来を皆に伝え、子供たちも感謝の気持ちを持って社会に還元するよう言います。あなたたちから温かさを感じ、自分の新しい家を建てるための力が湧くと同時に、期待が持てるようになりました」と言った。彼は奥さんと共に優しい笑顔を浮かべながら、「あなたたちの訪問を楽しみにしています」とボランティアに言った。
6月9日、ボランティアは漁村の鵜川を訪れ、公民館に向かう途中で多くの被害を受けた家の前を通った。あたかも時間が元旦の地震後で止まっているように感じられた。(撮影・顔婉婷)
重点的に直接配付する緊急支援の現金
慈済が直接現金を住民に手渡していることについて、多くの人は驚きを隠せず、会場ではしばしば「もったいないことです」という言葉が聞かれた。八十一歳の松田幸子お婆さんは何度も繰り返した。
お婆さんは、八十四歳の夫である松田外紀男さんと娘、そして二十四歳の孫娘と同居している。見舞金を受け取った時、彼女は涙を拭い続けていたが、家までボランティアが同行することを喜んで受け入れた。山林のある小高い丘に位置する日本式建築の家に着くと、ボランティアはお婆さんの家の被災状況がよく分かった。「地震が起きた時、私は台所で調理をしていて、急いで玄関に走ったのですが、揺れが激しくて全く立っていられませんでした。夫は玄関の扉にしっかり掴まってはいましたが、立っていることも外に出ることもできませんでした。私は彼の腰にきつく抱きつき、娘と孫娘はさらに私の腰に抱きつきました。四人が一緒にその場で支え合うのが精一杯で、逃げることができなかったのです!」未だ恐怖が残る幸子お婆さんは、当時を振り返り、天が崩れて地が裂けるように感じ、どこへ逃げればいいのか分からなかったと言った。
家の中の壁は地震で裂けて、一面が崩落し、一家は近くの「小間生公民館」に避難した。被災後、水も電気もなく、女性たちが集まって小さなガスコンロで調理して、何とか十日間を過ごした。一家はとりあえず、金沢市にいる妹の家の近くに借家したが、どうしても自分たちの家に戻りたくて、なんとか整理して住むことにした。
「家が倒れたら、もうだめだ!」と外紀男さんは地震の時、それだけを考えていた。「だから今生きていて、家族も無事なので、本当に幸運です」と語った。幸子お婆さんは、業者に頼んで寝室と台所を修繕してもらったが、二百八十万円余り掛った。全部修繕したら、少なくとも一千万円は必要だろう。「修繕業者からまだ請求して来ませんが、慈済が送って来てくれたこのお金で一部を支払えます。これで私たちの生活も少しは楽になります」。
ボランティアの心温まる慰問と傾聴に、多くの住民は深く感動したと言った。「お金の多い少ないではなく、あなたたちが遠くから来てくれたことで、私たちが得たのは、かけがえのない『温もり』と『情』です!」。
本谷志麻子さんは、6月中旬に能登町公民館の2階にある避難所を離れる予定だ。彼女は、ボランティアが遠方から来て、力を与えてくれたことに感謝した。(撮影・楊景卉)
住む場所があれば、心が安らぐ
本谷志麻子さんは見舞金を受け取った後、ボランティアを避難所に案内した。それは市役所の隣にある「能登町公民館」の二階にあり、彼女は数枚の段ボールで囲った寝室に五カ月余り住んでいた。六月中旬に友人の家に引っ越す予定で、「見舞金をいただきありがとうございます。日用品を買います。来ていただいたことで力をもらいました」と感謝の意を表した。
六十七歳の漁師、山本政広さんもボランティアが彼の仮住まいを見学することに同意した。藤波運動公園に建てられた仮設住宅で、約百二十世帯が住んでいる。一戸当たり約七から八坪の広さで、風呂場とトイレ、そして小さいキッチンには冷蔵庫や電子レンジなどの家電が備わり、小さい長テーブルもある。奥には小部屋が二つあり、一つはリビングとして使っている。山本さんの奥さんは、「今の生活にとても満足しています」と言った。
山本さんの自宅前の道路は三・五メートル陥没し、家は表の方に傾いてしまった。被災後、集会所から移って能登中学で避難生活を送っていたが、五月に仮設住宅に移ってから、ようやく生活が安定してきた。「私はこれまで、懸命に働いて、大勢の子供や孫に囲まれた人生を送って来ましたが、この歳でこんなことに遭うとは思いも寄りませんでした。でも仕方ありません……。三十年間住んでいた家は、見た目には損壊していないのですが、間もなく解体されると思うと、言葉に表せない悲しみがこみ上げてきます」。
仮設住宅には二年間しか住むことができないため、山本さんは政府の災害復興住宅に申請することを検討している。毎月費用はかかるが、年金を受給しているため、負担は軽くなる。慈済から見舞金を受け取れたことについて、彼は「日本では非常に珍しいことで、被災地では初めてです。唯一の現金支援なので、とても驚くと共に、嬉しく思っています」と言った。
七十歳の上野実喜雄さんは、金沢市からバスで故郷に戻り、見舞金を受け取った。彼は地震当時のことを振り返り、二度の強い揺れの後、町役場から津波が来るというアナウンスを聞いて、急いで避難するよう住民に呼びかけた。しかし、自分の家が変形して傾き、ドアが開かなくなった。細身の上野さんの奥さんは、どこにそんな力があったのか、素手で強化ガラスの窓を割り、二人は脱出することができた。裸足のまま、近くの寺まで歩いて靴を二足借り、更に高台に避難した。
家主は高齢者への賃貸を渋り、彼らは息子の名義で金沢に家を借りることにした。かつて魚貝類の取引をしていた上野さんは、今は失業中だが、見舞金を使って家電を買うつもりだ。「遠くから来てくれたボランティアに感謝しています。見舞金を配付するだけでなく、熱いお茶やお菓子を出して頂いた上に、平安のお守りまでいただきました。こんなに多くの支援を受けられるとは思ってもいませんでした……」と言いながら、奥さんは涙を抑えきれなかった。
能登町役場の入口には、各地から寄せられたカードや布がいっぱい掲げられ、励ましのメッセージが書かれてあった。(撮影・顔婉婷)
能登の人々は情に厚く、誠実で親切
この半年間、ボランティアは被災地を行き来して、関係者と配付活動の打ち合わせを行った。證厳法師に災害状況を報告した時、日本の住宅被害の「全壊、半壊、準半壊、一部損壊」などの程度に応じて異なる金額の支援を計画してはどうか、と提案した。法師は「全壊でも半壊でも壊れたことに変わりはありません。区別すべきではありません。また、被災者が六十四歳で、六十五歳に少し足りないからといって助けないでいいのでしょうか?目の前に困っている人がいれば、個別案件にして助けるべきです」と指摘した。
慈済日本支部の執行長である許麗香師姐によると、東京と大阪からのボランティアが交替で被災地に赴いて炊き出しをすると共に、「仕事を与えて支援に代える」活動に参加した地元の人々を食事に招待した。慈済カフェは今でも穴水総合病院で運営されており、今回の見舞金配付に繋がっている。東京に戻るたびに、地元の人々の感動の涙が脳裏に焼き付いているそうだ。
「老いた農夫は、『銀行の預金が底をつき、農地の水も尽きてしまいました。数日前に川から二トンの水を運んで来ましたが、これで野菜が芽を出すかどうかは分かりません。このような大金を受け取ることができ、正に恵みの雨です』と言いました。私たちは、能登には美しい山と水があるだけでなく、厚い人情という美徳もあることを目にしました。地元の人々は涙を流しながら、『四月三日に花蓮で地震が起き、台湾自身も被災しているにも関わらず、私たちの最も必要な時に自ら支援に来てくれたことに感動せずにはおれません』と話してくれました」。
六月中旬、輪島市の公式メディアが、慈済が月末に見舞金を配付することを伝えると、問い合わせの電話が慈済日本支部に殺到した。東京や大阪のボランティアが誠意をもって輪島に向かうと聞いた、遠くに避難している住民は、何としてでも戻って受け取りたい、と感動しながら言った。次から次にかかって来る電話に対応しながら、ボランティアたちは、「世界中の愛と祝福を地元の人々に伝えることができて、とても嬉しいです!」と感想を述べた。(資料提供・顔婉婷、呂瑩瑩、黄静蘊、王孟専、呉恵珍、朱秀蓮)
(慈済月刊六九二期より)
地面が痛まないようにそっと歩こう
編集者の言葉
四月三日に台湾東部の花蓮県沖で発生した強い地震は、地震に慣れている花蓮の人々を恐怖に陥れ、今も苦しめている。当日、静思精舎に到着したネパールの慈済ボランティア一行は、それでも日程を変えず、直ぐ花蓮ボランティアと一緒に災害支援活動に投入した。ボランティアのユニシュさんは、二〇一五年のネパール地震の後、慈済人が遠くカトマンズまで出向いて支援した諸々のことを思い出した。
「あの地震で、私は家も何もかも無くしました。慈済人が福慧ベッドと毛布を持って来てくれたので、床で寝なくて済みました。被災後四、五年間、一家皆、福慧ベッドで寝ていました。そして九年が経った今も、そのベッドは家にあります。地域の人にとってそのベッドは記憶として留まっています。それは、私たちの最も困難な時に、慈済の援助を受けた記念の品なのです」。
福慧ベッドは片手で持ち上げることができるが、彼の心の中ではずっしりとした存在である。人生で最も困難な時に温めてくれたものだからだ。ユニシュさんは目を潤ませた。それは今回花蓮で恩返しできたことをとても幸せだと思ったからだ。
ネパールボランティアに付き添って台湾に来たマレーシアの慈惟(ツーウェイ)さんによれば、余震が続く中でも逃げ出そうとは思わなかった。心霊の故郷で一緒に天地が揺れ動く経験をし、大地の響きを聴いたことで、「歩く時はそっと、地面が痛まないように」という法師のお言葉を思い出した。一歩一歩傷ついたこの世を労るように慎重に足を運ぶのだ。
この二年間、マレーシアとシンガポールの慈済ボランティアは「仏陀の故郷への恩返し」プロジェクトで先行している。ネパールのルンビニとインドのブッダガヤに交替で長期滞在して、苦難の人々を救済すると同時に、善行して福を作るよう導いている。現地に大乗菩薩法を根付かせ、仏陀の理想を実現するのが目標である。
仏陀は当時の古代インドで衆生に説法をしていた。しかし、「衆生の平等」という生命観を持った仏教思想を説いても、十二、十三世紀にはその土地から消失した。インドのカースト制度は、古代バラモン教のヴェーダ思想に基づくものだが、この制度が早い時期に、インドの憲法の父であり、インド佛教復興者でもあるアンベードカル博士によって廃棄が起草されたが、世襲されるカーストの観念は、未だに現地の人々の日常生活に深く根付いている。
「慈済」月刊誌のチームは、取材でインドに滞在していた一カ月間、伝統的な風土と人情を理解すると共に、今まさに起きている変化も目の当たりにした。シンガポールとマレーシアのボランティアは、仏法の理や慈善活動、人文的な情を取り入れ、身分の差によって区別することなく接することで、少しずつ村民に影響を与えている。少なくとも現地ボランティアは、人と人の交流において、カースト制度に左右されないよう取り計っている。衆生への慈悲こそが、今期号で伝えたい二つの重要な報道の主旨である。
(慈済月刊六九〇期より)
編集者の言葉
四月三日に台湾東部の花蓮県沖で発生した強い地震は、地震に慣れている花蓮の人々を恐怖に陥れ、今も苦しめている。当日、静思精舎に到着したネパールの慈済ボランティア一行は、それでも日程を変えず、直ぐ花蓮ボランティアと一緒に災害支援活動に投入した。ボランティアのユニシュさんは、二〇一五年のネパール地震の後、慈済人が遠くカトマンズまで出向いて支援した諸々のことを思い出した。
「あの地震で、私は家も何もかも無くしました。慈済人が福慧ベッドと毛布を持って来てくれたので、床で寝なくて済みました。被災後四、五年間、一家皆、福慧ベッドで寝ていました。そして九年が経った今も、そのベッドは家にあります。地域の人にとってそのベッドは記憶として留まっています。それは、私たちの最も困難な時に、慈済の援助を受けた記念の品なのです」。
福慧ベッドは片手で持ち上げることができるが、彼の心の中ではずっしりとした存在である。人生で最も困難な時に温めてくれたものだからだ。ユニシュさんは目を潤ませた。それは今回花蓮で恩返しできたことをとても幸せだと思ったからだ。
ネパールボランティアに付き添って台湾に来たマレーシアの慈惟(ツーウェイ)さんによれば、余震が続く中でも逃げ出そうとは思わなかった。心霊の故郷で一緒に天地が揺れ動く経験をし、大地の響きを聴いたことで、「歩く時はそっと、地面が痛まないように」という法師のお言葉を思い出した。一歩一歩傷ついたこの世を労るように慎重に足を運ぶのだ。
この二年間、マレーシアとシンガポールの慈済ボランティアは「仏陀の故郷への恩返し」プロジェクトで先行している。ネパールのルンビニとインドのブッダガヤに交替で長期滞在して、苦難の人々を救済すると同時に、善行して福を作るよう導いている。現地に大乗菩薩法を根付かせ、仏陀の理想を実現するのが目標である。
仏陀は当時の古代インドで衆生に説法をしていた。しかし、「衆生の平等」という生命観を持った仏教思想を説いても、十二、十三世紀にはその土地から消失した。インドのカースト制度は、古代バラモン教のヴェーダ思想に基づくものだが、この制度が早い時期に、インドの憲法の父であり、インド佛教復興者でもあるアンベードカル博士によって廃棄が起草されたが、世襲されるカーストの観念は、未だに現地の人々の日常生活に深く根付いている。
「慈済」月刊誌のチームは、取材でインドに滞在していた一カ月間、伝統的な風土と人情を理解すると共に、今まさに起きている変化も目の当たりにした。シンガポールとマレーシアのボランティアは、仏法の理や慈善活動、人文的な情を取り入れ、身分の差によって区別することなく接することで、少しずつ村民に影響を与えている。少なくとも現地ボランティアは、人と人の交流において、カースト制度に左右されないよう取り計っている。衆生への慈悲こそが、今期号で伝えたい二つの重要な報道の主旨である。
(慈済月刊六九〇期より)
インドの慈済
撮影・蕭耀華
訳・葉美娥
村民の雇用の機会を創出するため、ボランティアが村に入って、参加希望者を募った。ガンジス河沿いのビハール村の足に障害がある夫婦は、裁縫のプロなので、3月から福慧袋の縫製を受注した。
文・朱秀蓮、林静君(慈済ボランティア) 、黄釈玉(マレーシア慈済ボランティア)
撮影・蕭耀華
訳・施燕芬
慈済が支援建設する第一期住宅の「シロンガ大愛村」の起工式が、今年の二月二十五日、多数の僧侶や来賓及び慈済基金会林静憪(リン・ジンシェン) 副執行長、熊士民(ション・スーミン) 副執行長の立会いの下に行われた。
三十六戸の住宅からなる大愛村は、シロンガ政府学校と道路を隔てた場所にある。古い家屋が取り壊された一部の住民は、近くに仮住まいの家を建て、一部は親戚の家に頼っている。かつてのような土レンガ造りや茅葺き屋根の家は、空き地さえ見つければすぐ建てられ、住居番号もなかったが、レンガ造りの恒久的な家を建てるにあたっては、多くの法的手続きと準備作業が必要であることを、村人は知らず、二月に起工式が終わると、直ぐにでも家の建設が始まると思っていた。
今年の三月十日、建築会社がシロンガ大愛村の予定地を訪れ、区画割り、杭立て、レンガの運搬を行った。そして三月二十三日に、各世帯は家屋に関連する書類に署名した。慈済が委託した地元弁護士のパンカジ・クマール氏は、村民に公文書を読み上げて知らせた。その内容は、各区画の位置、建物の仕様、室内の間取りや設備などである。同意のサインができない人は、母印を押してもらった。村民のジャヤンティ・クマリさんは、 「私たちのために、レンガ造りで二部屋とキッチン、バスルームのほか、電気設備や照明器具などが揃った家を建ててくれることに、感謝の気持ちでいっぱいです」と合掌して言った。
衛生環境の悪さが農村部における病気の根源になっている。シロンガ村の老若男女がボランティアのリードで環境の清掃を行った。
シロンガ村で慈済志業を促進するにあたって、シロンガ政府学校で歴史の教師をしているジャヤンティさんは重要な連絡窓口である。昨年の四月、シロンガ村で大火災が発生した時、慈済ボランティアは食糧や物資を持って来た。そして、家々の清掃を行った他、大規模な物資の配付活動、健康診断、ケア世帯への支援などを実施した。ジャヤンティさんは慈済の活動に参加するよう村人に呼びかけた。見知らぬ相手から知り合うようになるまで、共に歩んできた様々な心温まる記憶が残っている。
「私の給料では、自分の家を持つなど想像さえできませんでした」。ジャヤンティさん一家十人は、土レンガ作りの家に住んでいて、彼女の教師としての給料二万二千ルピー(約四万一千円)に頼って生活している。シロンガ村の人口は八百人余りだが、大人の半数以上が失業している。慈済は、「仕事を与えて支援に換える」プロジェクトで、村民が住宅建設に従事することで収入が増えることを願っている。
大愛住宅の引き渡し書類にサインしてもらう時、慈済マレーシア・セランゴール支部の副執行長である蘇祈逢(スー・チーフォン)さんは、大愛住宅を清潔に保つために、壁を使って牛糞ケーキを作ってはいけない、と念を押した。また、これから用を足す場合は室内のトイレを使うこと、至る所勝手にゴミを捨てない、皆で健康的且つ衛生的な生活環境を維持していこうと呼びかけた。
蘇さんの注意の言葉には理由があった。ブッダガヤ市街地と周辺の村落においては、表通りから路地裏、用水路や池から尼連禅河に至るまで、見渡す限りのゴミ山だったため、蚊やブト、ハエが群がって異臭を放っており、野放しにされた牛、羊、豚、犬といった動物たちが餌を漁る場所となっているのだ。つまり、マハーボディ寺院や各国が建立した寺院の清らかさと荘厳さを除けば、周囲は殆ど汚いままである。
三月下旬、慈済ボランティアがシロンガ村で、「證厳法師が語り継ぐ」という催しを行った時、特別に「床掃除には五つの徳がある」というテーマを選んだ。百人を超える大人と子供が集まり、青いビニールシートいっぱいに座って、カリンの木の下で涼しい風に吹かれながら、真剣に話を聞いていた。お釈迦様の教えによれば、清潔な環境で得られる五つの功徳とは、自分の心が清らかになり、人々が喜びを覚え、諸仏から称賛され、端正な姿で生まれ変われる善の因に恵まれ、そして往生後は清浄な天界へ行くことができるのだ。熱心に聞き入れた子どもたちは、ボランティアの後について、喜んで一袋、また一袋とゴミを拾い、クナル・クマル君は、「ここのゴミを拾えば、僕たちの村はきれいな状態を維持できて、心もきれいなままでいられるのですね」と言った。清浄の種が村人の心に根付くことを願ってやまない。
(慈済月刊六九〇期より)
教育志業ボランティアチームは、毎週12校の生徒に人文講座を提供し、ボランティアの黃さん(左)が静思語を教えている。生徒たちはヒンディー語と英語、中国語を同時に学んでいる。
マハカラ山にある留影窟は、仏陀苦行の地と伝えられている。山のふもとには幾つかの村があり、中の1つのラフルナガル村には約300世帯が散在している。健康診断のために村を訪れたボランティアは、血圧や身長、体重を測定し、尿の検査も行った。
撮影・蕭耀華
訳・葉美娥
村民の雇用の機会を創出するため、ボランティアが村に入って、参加希望者を募った。ガンジス河沿いのビハール村の足に障害がある夫婦は、裁縫のプロなので、3月から福慧袋の縫製を受注した。
文・朱秀蓮、林静君(慈済ボランティア) 、黄釈玉(マレーシア慈済ボランティア)
撮影・蕭耀華
訳・施燕芬
慈済が支援建設する第一期住宅の「シロンガ大愛村」の起工式が、今年の二月二十五日、多数の僧侶や来賓及び慈済基金会林静憪(リン・ジンシェン) 副執行長、熊士民(ション・スーミン) 副執行長の立会いの下に行われた。
三十六戸の住宅からなる大愛村は、シロンガ政府学校と道路を隔てた場所にある。古い家屋が取り壊された一部の住民は、近くに仮住まいの家を建て、一部は親戚の家に頼っている。かつてのような土レンガ造りや茅葺き屋根の家は、空き地さえ見つければすぐ建てられ、住居番号もなかったが、レンガ造りの恒久的な家を建てるにあたっては、多くの法的手続きと準備作業が必要であることを、村人は知らず、二月に起工式が終わると、直ぐにでも家の建設が始まると思っていた。
今年の三月十日、建築会社がシロンガ大愛村の予定地を訪れ、区画割り、杭立て、レンガの運搬を行った。そして三月二十三日に、各世帯は家屋に関連する書類に署名した。慈済が委託した地元弁護士のパンカジ・クマール氏は、村民に公文書を読み上げて知らせた。その内容は、各区画の位置、建物の仕様、室内の間取りや設備などである。同意のサインができない人は、母印を押してもらった。村民のジャヤンティ・クマリさんは、 「私たちのために、レンガ造りで二部屋とキッチン、バスルームのほか、電気設備や照明器具などが揃った家を建ててくれることに、感謝の気持ちでいっぱいです」と合掌して言った。
衛生環境の悪さが農村部における病気の根源になっている。シロンガ村の老若男女がボランティアのリードで環境の清掃を行った。
シロンガ村で慈済志業を促進するにあたって、シロンガ政府学校で歴史の教師をしているジャヤンティさんは重要な連絡窓口である。昨年の四月、シロンガ村で大火災が発生した時、慈済ボランティアは食糧や物資を持って来た。そして、家々の清掃を行った他、大規模な物資の配付活動、健康診断、ケア世帯への支援などを実施した。ジャヤンティさんは慈済の活動に参加するよう村人に呼びかけた。見知らぬ相手から知り合うようになるまで、共に歩んできた様々な心温まる記憶が残っている。
「私の給料では、自分の家を持つなど想像さえできませんでした」。ジャヤンティさん一家十人は、土レンガ作りの家に住んでいて、彼女の教師としての給料二万二千ルピー(約四万一千円)に頼って生活している。シロンガ村の人口は八百人余りだが、大人の半数以上が失業している。慈済は、「仕事を与えて支援に換える」プロジェクトで、村民が住宅建設に従事することで収入が増えることを願っている。
大愛住宅の引き渡し書類にサインしてもらう時、慈済マレーシア・セランゴール支部の副執行長である蘇祈逢(スー・チーフォン)さんは、大愛住宅を清潔に保つために、壁を使って牛糞ケーキを作ってはいけない、と念を押した。また、これから用を足す場合は室内のトイレを使うこと、至る所勝手にゴミを捨てない、皆で健康的且つ衛生的な生活環境を維持していこうと呼びかけた。
蘇さんの注意の言葉には理由があった。ブッダガヤ市街地と周辺の村落においては、表通りから路地裏、用水路や池から尼連禅河に至るまで、見渡す限りのゴミ山だったため、蚊やブト、ハエが群がって異臭を放っており、野放しにされた牛、羊、豚、犬といった動物たちが餌を漁る場所となっているのだ。つまり、マハーボディ寺院や各国が建立した寺院の清らかさと荘厳さを除けば、周囲は殆ど汚いままである。
三月下旬、慈済ボランティアがシロンガ村で、「證厳法師が語り継ぐ」という催しを行った時、特別に「床掃除には五つの徳がある」というテーマを選んだ。百人を超える大人と子供が集まり、青いビニールシートいっぱいに座って、カリンの木の下で涼しい風に吹かれながら、真剣に話を聞いていた。お釈迦様の教えによれば、清潔な環境で得られる五つの功徳とは、自分の心が清らかになり、人々が喜びを覚え、諸仏から称賛され、端正な姿で生まれ変われる善の因に恵まれ、そして往生後は清浄な天界へ行くことができるのだ。熱心に聞き入れた子どもたちは、ボランティアの後について、喜んで一袋、また一袋とゴミを拾い、クナル・クマル君は、「ここのゴミを拾えば、僕たちの村はきれいな状態を維持できて、心もきれいなままでいられるのですね」と言った。清浄の種が村人の心に根付くことを願ってやまない。
(慈済月刊六九〇期より)
教育志業ボランティアチームは、毎週12校の生徒に人文講座を提供し、ボランティアの黃さん(左)が静思語を教えている。生徒たちはヒンディー語と英語、中国語を同時に学んでいる。
マハカラ山にある留影窟は、仏陀苦行の地と伝えられている。山のふもとには幾つかの村があり、中の1つのラフルナガル村には約300世帯が散在している。健康診断のために村を訪れたボランティアは、血圧や身長、体重を測定し、尿の検査も行った。
日本能登半島強震 親送長者見舞金♫
(攝影/王孟專)
能登半島強震受災戶收到市役所通知書,
告知慈濟將發放「見舞金」,既懷疑又期待;
來到現場,居然能領到現金補助生活,驚喜感動,
更感恩臺灣慈濟在遭遇花蓮強震後,依然惦記著他們!
能登半島強震受災戶收到市役所通知書,告知慈濟將發放「見舞金」,既懷疑又期待;來到現場,居然能領到現金補助生活,驚喜感動,更感恩臺灣慈濟在遭遇花蓮強震後,依然惦記著他們!
本文提供有聲書,歡迎播放聆聽,期待能給您不一樣的感受,用聽的來讀月刊。本篇由慈濟大學通識教育中心謝文蓉老師協助錄製。
感恩「慈大之聲實習廣播電臺」協助錄製,感謝慈濟大學劉怡均校長、王秀芳臺長大力支持。
發生在今年新年第一天的石川縣能登半島地震,造成兩百六十人罹難、一千兩百人受傷,八萬棟房屋損壞;全縣雖已恢復供水,但六月上旬統計,仍有兩千八百人續住收容所避難。
地震震毀能登半島唯一聯外道路,不利救援行動與建物拆除;道路修復後,又由於旅店受災嚴重,拆除業者沒有場所可以過夜,需要修復的房屋又為數甚多,因此拆遷重建進度緩慢。以最靠近震央的珠洲市為例,約有四千棟房屋全壞,有一千人向政府申請公費拆除,但實際完成的卻是個位數。
在此階段,居民最需要現金補助,支應重建。縣府和町公所公告發放「災害義援金」、「生活再建支援金」,補助措施多元,但居民普遍年邁,不懂得如何申請;加上重災區皆為偏鄉,市町行政人力薄弱,一時無法處理大量申請案件。
當慈濟要到災區發放見舞金的訊息,傳到居民耳中時,許多人半信半疑。直到五月十七日到十九日在穴水町,首次有一千零九十一戶領到用信封裝著、打開來是現金的「見舞金」時,他們簡直不敢相信,這正是及時雨!
慈濟從五月中旬起到七月,將陸續向穴水、能登、中能登、輪島、志賀和珠洲六個市町發放,對象為因地震住宅半壞以上、且家中有六十五歲以上長者的家庭;依照家戶人口數,分別致贈日幣十三萬、十五萬、十七萬。
志工六月九日於類似臺灣鎮公所的能登町役所,致贈見舞金鼓舞受災鄉親。
地方政府與慈濟合作
首梯次發放於穴水町完成,這裏也是強震發生後,慈濟長期駐守關懷的重點區域,從元月十三日到三月三十日,供應熱食與熱飲超過兩萬餘份,志工動員逾七百人次。
第二梯次發放,六月七日到九日於能登町展開,有七百二十二戶領取。能登町位處北陸地區盡頭,被能登半島包圍的內海處;有著強調與自然共生息的耕作模式,為世界農業遺產。地震時當地測得震度六強,許多古宅堪不起強烈搖晃,傾倒、歪斜、崩塌,或是地盤鬆軟脆弱,房屋整個傾斜,甚至因土壤液化而不斷下陷,還有震後再遇海嘯、火災,釀出複合式災難。
能登町災害對策本部此際保持運作,有十二處避難所維持營運,超過百人居住中。全町高齡人口占了近半數,人口密度也不高,聚落分布有段距離,因此慈濟與町政府規畫五場次發放,讓長者就近領取;每場志工都提早抵達布置場地,總有鄉親已經在外等候。
日本重視隱私,地方政府也理解慈濟「重點、直接、務實」的賑災原則,雖然無法提供災戶名單,但安排公務人員於受付處核對身分,再由慈濟志工引導到服務窗口,確認罹災證明書等資料,即可領取見舞金;最後來到「鄉親互動區」休息。
七十六歲的橫地善松說,收到町役所寄來的通知信,半信半疑,心想先來看看再說。他現場再三確認:「真的是現金嗎?不是匯款嗎?」他不敢相信可以領到十五萬日幣!
「我們還在等待市役所來拆房子,但不知道會是什麼時候。」借宿友人家的橫地阿公無奈表示,「我很感動你們見舞金的來源,我會很珍惜地利用這筆錢,給老伴和孩子們蓋一間很溫暖的家,即使只有一層就足夠了。」雖然兒孫一年只回來一、兩次,但他還是希望讓他們有個家。
橫地阿公繼續說:「我會把今天領到善款的由來告訴大家,讓孩子們也帶著感恩的心回饋社會。因為我在你們的身上感受到溫暖,也對自己未來建新家,有了動力和期待。」他和橫地夫人同時露出慈祥笑容對志工說:「期待你們來做客。」
志工六月九日來到漁村鵜川,前往公民館發放途中經過一幢幢受創房舍,時光彷彿靜止在元旦地震後。(攝影/顏婉婷)
重點直接的現金應急
對於慈濟親自把現金送交到居民手中,許多人覺得不可思議,不時在現場聽到:「もったいない(無法言喻的感謝)!」八十一歲的松田幸子阿嬤就說了好幾回。
阿嬤和八十四歲的先生松田外紀男、女兒及二十四歲的孫女同住;她在領到見舞金時頻頻拭淚,欣然同意讓志工陪伴回家。抵達位於山林小坡上的日式建築,志工對阿嬤家受災情形也有更多了解。「地震時,我正在廚房煮飯,趕快衝到門口,但因晃動劇烈完全站不住,先生只能緊抓住大門,站不住也出不去,我就緊抱著他的腰,女兒和孫女再抱著我的腰,四人抱在一起,根本無法逃!」餘悸猶存的幸子阿嬤,回想當時只覺得天崩地裂,不知道能往哪裏去!
屋內牆壁被震裂、整片掉下來,他們全家搬到附近的「小間生公民館」避難,災後沒有水也沒有電,婆婆媽媽們集合起來,分工合作用小瓦斯爐煮食,勉強度過了十天。一家人先去石川縣首府金澤市的妹妹家附近租房,但實在很想回到自己的家,勉強整理後住下。
「房子要倒了!沒救了!」外紀男先生說,地震當下只有這個念頭,「所以現在還活著,家人還在,實在太幸運了。」幸子阿嬤說,請業者修繕一間睡房及廚房,就花了二百八十多萬日幣;若是全部修好,少說要千萬。「修繕的業者還沒請款,慈濟送來的這筆錢剛好可以支付,這樣對我們生活也能寬鬆一些。」
對於志工的溫暖慰問與傾聽,許多居民表示深受感動,「不是錢多寡,而是你們千里迢迢來到,我們得到的是無可取代的『温もり』(溫度)及『情』!」
本谷志麻子計畫六月中旬遷離能登町公民館二樓的避難所,她感恩志工遠途來此,給予大家力量。(攝影/楊景卉)
有住的地方就能安心
本谷志麻子領取見舞金後,引領志工回到避難所,就在市公所旁的「能登町公民館」二樓。她用幾塊紙板圍起來當成臥室,一住就五個多月;六月中旬將搬到朋友的家,「謝謝你們的見舞金,我會購買生活用品;更要謝謝你們的到來,讓我有力量。」
六十七歲的漁夫山本政廣,也同意志工參觀他的臨時住房。建在藤波運動公園的組合屋,約有一百二十戶家庭;每戶約七到八坪,有乾溼分離的衛浴,小巧的廚房配有冰箱、微波爐等家電,還有個小長桌,再往裏走有二間小房間,一間作為客廳。山本太太說,很滿足現在的生活。
山本先生舊屋前的道路下陷三點五公尺,他的房子往前傾斜;災後輾轉在集會所、能登中學避難,五月搬到組合屋後,生活才較安定。「我奮鬥一輩子,兒孫滿堂,沒想到在這歲數遇到這事,不過也是沒辦法……看到自己居住三十年的房子外觀完好,但是過陣子就要被拆解,心中有一種說不出來的憂傷。」
組合屋只能住兩年,山本先生考慮向政府申請災害復興住宅;雖然每個月要付費,但他有領取老年年金,負擔會比較小。對於能夠收到慈濟見舞金,他說這在日本非常少見,是災區第一個也是唯一一個慈善團體補助現金,他感覺受寵若驚。
七十歲的上野實喜雄,專程從金澤市搭巴士重回家園領取見舞金。他回憶地震當時,兩次強烈搖晃後,隨即聽到町役所廣播海嘯即將來襲,請居民快點逃命。然而房屋變形傾斜,門打不開;瘦弱的上野太太不知哪來的力氣,竟然徒手打破強化玻璃窗,兩人才得以逃出。赤著腳的他們,徒步到附近寺廟借了兩雙鞋,再逃向高處避難。
房東不太願意將房子租給老年人,於是他們以兒子名義租房在金澤;以往從事魚貨買賣、如今失業的上野先生,計畫以見舞金購買家電用品。「感謝志工遠道前來,不僅發放見舞金,還奉上熱茶、糕點及平安吊飾,萬萬沒想到能獲得這麼多……」說著說著,上野太太不禁哽咽。
能登町役所入口處,掛滿了來自各地的卡片或布條,寫滿了加油與祝福。(攝影/顏婉婷)
能登人的溫暖及敦厚
半年來,志工往返災區與相關單位研商發放;向證嚴上人報告災況,提議是否要依日本房屋受損的「全壞、半壞、準半壞、一部損壞」等程度,規畫不等金額發放。上人點醒大家:「房子不管全壞或半壞,就是壞了,不應有分別;而且有些受災者,他若六十四歲,差一點沒滿六十五歲,難道就不幫助嗎?有需要的苦難人就在眼前,可以用專案方式去幫助。」
慈濟日本分會執行長許麗香說,志工分別從東京、大阪分梯去災區煮熱食,也邀約以工代賑的鄉親一起供餐,慈濟咖啡屋仍在穴水綜合醫院續緣,再串聯到這次見舞金的發放;每次回到東京,腦海中仍是鄉親感動的淚水。
「老農夫說,銀行的錢見底了,農田的水要斷了,幾天前從河邊帶來兩噸的水,不知道能否讓蔬菜發芽?領到這麼多的錢,真的是及時雨。我們看到能登不只有好山好水,還有人情敦厚的美德;鄉親不斷流著淚說,四月三日花蓮強震後,臺灣自己也受災了,你們仍然親自來幫助我們,而且是在我們最需要的時候,我們怎麼能不感動呢?」
六月中旬,輪島市官方媒體發布慈濟月底將來發放見舞金,詢問的電話湧入慈濟日本分會;當聽聞東京、大阪志工很誠意地前往輪島,在外地避難的鄉親感動地說,會設法回鄉領取。接不完的來電,讓志工有感而發:「能將全球的愛心與祝福說明給鄉親了解,很歡喜!」(資料提供/顏婉婷、呂瑩瑩、黃靜蘊、王孟專、吳惠珍、朱秀蓮)
(攝影/王孟專)
能登半島強震受災戶收到市役所通知書,
告知慈濟將發放「見舞金」,既懷疑又期待;
來到現場,居然能領到現金補助生活,驚喜感動,
更感恩臺灣慈濟在遭遇花蓮強震後,依然惦記著他們!
能登半島強震受災戶收到市役所通知書,告知慈濟將發放「見舞金」,既懷疑又期待;來到現場,居然能領到現金補助生活,驚喜感動,更感恩臺灣慈濟在遭遇花蓮強震後,依然惦記著他們!
本文提供有聲書,歡迎播放聆聽,期待能給您不一樣的感受,用聽的來讀月刊。本篇由慈濟大學通識教育中心謝文蓉老師協助錄製。
感恩「慈大之聲實習廣播電臺」協助錄製,感謝慈濟大學劉怡均校長、王秀芳臺長大力支持。
發生在今年新年第一天的石川縣能登半島地震,造成兩百六十人罹難、一千兩百人受傷,八萬棟房屋損壞;全縣雖已恢復供水,但六月上旬統計,仍有兩千八百人續住收容所避難。
地震震毀能登半島唯一聯外道路,不利救援行動與建物拆除;道路修復後,又由於旅店受災嚴重,拆除業者沒有場所可以過夜,需要修復的房屋又為數甚多,因此拆遷重建進度緩慢。以最靠近震央的珠洲市為例,約有四千棟房屋全壞,有一千人向政府申請公費拆除,但實際完成的卻是個位數。
在此階段,居民最需要現金補助,支應重建。縣府和町公所公告發放「災害義援金」、「生活再建支援金」,補助措施多元,但居民普遍年邁,不懂得如何申請;加上重災區皆為偏鄉,市町行政人力薄弱,一時無法處理大量申請案件。
當慈濟要到災區發放見舞金的訊息,傳到居民耳中時,許多人半信半疑。直到五月十七日到十九日在穴水町,首次有一千零九十一戶領到用信封裝著、打開來是現金的「見舞金」時,他們簡直不敢相信,這正是及時雨!
慈濟從五月中旬起到七月,將陸續向穴水、能登、中能登、輪島、志賀和珠洲六個市町發放,對象為因地震住宅半壞以上、且家中有六十五歲以上長者的家庭;依照家戶人口數,分別致贈日幣十三萬、十五萬、十七萬。
志工六月九日於類似臺灣鎮公所的能登町役所,致贈見舞金鼓舞受災鄉親。
地方政府與慈濟合作
首梯次發放於穴水町完成,這裏也是強震發生後,慈濟長期駐守關懷的重點區域,從元月十三日到三月三十日,供應熱食與熱飲超過兩萬餘份,志工動員逾七百人次。
第二梯次發放,六月七日到九日於能登町展開,有七百二十二戶領取。能登町位處北陸地區盡頭,被能登半島包圍的內海處;有著強調與自然共生息的耕作模式,為世界農業遺產。地震時當地測得震度六強,許多古宅堪不起強烈搖晃,傾倒、歪斜、崩塌,或是地盤鬆軟脆弱,房屋整個傾斜,甚至因土壤液化而不斷下陷,還有震後再遇海嘯、火災,釀出複合式災難。
能登町災害對策本部此際保持運作,有十二處避難所維持營運,超過百人居住中。全町高齡人口占了近半數,人口密度也不高,聚落分布有段距離,因此慈濟與町政府規畫五場次發放,讓長者就近領取;每場志工都提早抵達布置場地,總有鄉親已經在外等候。
日本重視隱私,地方政府也理解慈濟「重點、直接、務實」的賑災原則,雖然無法提供災戶名單,但安排公務人員於受付處核對身分,再由慈濟志工引導到服務窗口,確認罹災證明書等資料,即可領取見舞金;最後來到「鄉親互動區」休息。
七十六歲的橫地善松說,收到町役所寄來的通知信,半信半疑,心想先來看看再說。他現場再三確認:「真的是現金嗎?不是匯款嗎?」他不敢相信可以領到十五萬日幣!
「我們還在等待市役所來拆房子,但不知道會是什麼時候。」借宿友人家的橫地阿公無奈表示,「我很感動你們見舞金的來源,我會很珍惜地利用這筆錢,給老伴和孩子們蓋一間很溫暖的家,即使只有一層就足夠了。」雖然兒孫一年只回來一、兩次,但他還是希望讓他們有個家。
橫地阿公繼續說:「我會把今天領到善款的由來告訴大家,讓孩子們也帶著感恩的心回饋社會。因為我在你們的身上感受到溫暖,也對自己未來建新家,有了動力和期待。」他和橫地夫人同時露出慈祥笑容對志工說:「期待你們來做客。」
志工六月九日來到漁村鵜川,前往公民館發放途中經過一幢幢受創房舍,時光彷彿靜止在元旦地震後。(攝影/顏婉婷)
重點直接的現金應急
對於慈濟親自把現金送交到居民手中,許多人覺得不可思議,不時在現場聽到:「もったいない(無法言喻的感謝)!」八十一歲的松田幸子阿嬤就說了好幾回。
阿嬤和八十四歲的先生松田外紀男、女兒及二十四歲的孫女同住;她在領到見舞金時頻頻拭淚,欣然同意讓志工陪伴回家。抵達位於山林小坡上的日式建築,志工對阿嬤家受災情形也有更多了解。「地震時,我正在廚房煮飯,趕快衝到門口,但因晃動劇烈完全站不住,先生只能緊抓住大門,站不住也出不去,我就緊抱著他的腰,女兒和孫女再抱著我的腰,四人抱在一起,根本無法逃!」餘悸猶存的幸子阿嬤,回想當時只覺得天崩地裂,不知道能往哪裏去!
屋內牆壁被震裂、整片掉下來,他們全家搬到附近的「小間生公民館」避難,災後沒有水也沒有電,婆婆媽媽們集合起來,分工合作用小瓦斯爐煮食,勉強度過了十天。一家人先去石川縣首府金澤市的妹妹家附近租房,但實在很想回到自己的家,勉強整理後住下。
「房子要倒了!沒救了!」外紀男先生說,地震當下只有這個念頭,「所以現在還活著,家人還在,實在太幸運了。」幸子阿嬤說,請業者修繕一間睡房及廚房,就花了二百八十多萬日幣;若是全部修好,少說要千萬。「修繕的業者還沒請款,慈濟送來的這筆錢剛好可以支付,這樣對我們生活也能寬鬆一些。」
對於志工的溫暖慰問與傾聽,許多居民表示深受感動,「不是錢多寡,而是你們千里迢迢來到,我們得到的是無可取代的『温もり』(溫度)及『情』!」
本谷志麻子計畫六月中旬遷離能登町公民館二樓的避難所,她感恩志工遠途來此,給予大家力量。(攝影/楊景卉)
有住的地方就能安心
本谷志麻子領取見舞金後,引領志工回到避難所,就在市公所旁的「能登町公民館」二樓。她用幾塊紙板圍起來當成臥室,一住就五個多月;六月中旬將搬到朋友的家,「謝謝你們的見舞金,我會購買生活用品;更要謝謝你們的到來,讓我有力量。」
六十七歲的漁夫山本政廣,也同意志工參觀他的臨時住房。建在藤波運動公園的組合屋,約有一百二十戶家庭;每戶約七到八坪,有乾溼分離的衛浴,小巧的廚房配有冰箱、微波爐等家電,還有個小長桌,再往裏走有二間小房間,一間作為客廳。山本太太說,很滿足現在的生活。
山本先生舊屋前的道路下陷三點五公尺,他的房子往前傾斜;災後輾轉在集會所、能登中學避難,五月搬到組合屋後,生活才較安定。「我奮鬥一輩子,兒孫滿堂,沒想到在這歲數遇到這事,不過也是沒辦法……看到自己居住三十年的房子外觀完好,但是過陣子就要被拆解,心中有一種說不出來的憂傷。」
組合屋只能住兩年,山本先生考慮向政府申請災害復興住宅;雖然每個月要付費,但他有領取老年年金,負擔會比較小。對於能夠收到慈濟見舞金,他說這在日本非常少見,是災區第一個也是唯一一個慈善團體補助現金,他感覺受寵若驚。
七十歲的上野實喜雄,專程從金澤市搭巴士重回家園領取見舞金。他回憶地震當時,兩次強烈搖晃後,隨即聽到町役所廣播海嘯即將來襲,請居民快點逃命。然而房屋變形傾斜,門打不開;瘦弱的上野太太不知哪來的力氣,竟然徒手打破強化玻璃窗,兩人才得以逃出。赤著腳的他們,徒步到附近寺廟借了兩雙鞋,再逃向高處避難。
房東不太願意將房子租給老年人,於是他們以兒子名義租房在金澤;以往從事魚貨買賣、如今失業的上野先生,計畫以見舞金購買家電用品。「感謝志工遠道前來,不僅發放見舞金,還奉上熱茶、糕點及平安吊飾,萬萬沒想到能獲得這麼多……」說著說著,上野太太不禁哽咽。
能登町役所入口處,掛滿了來自各地的卡片或布條,寫滿了加油與祝福。(攝影/顏婉婷)
能登人的溫暖及敦厚
半年來,志工往返災區與相關單位研商發放;向證嚴上人報告災況,提議是否要依日本房屋受損的「全壞、半壞、準半壞、一部損壞」等程度,規畫不等金額發放。上人點醒大家:「房子不管全壞或半壞,就是壞了,不應有分別;而且有些受災者,他若六十四歲,差一點沒滿六十五歲,難道就不幫助嗎?有需要的苦難人就在眼前,可以用專案方式去幫助。」
慈濟日本分會執行長許麗香說,志工分別從東京、大阪分梯去災區煮熱食,也邀約以工代賑的鄉親一起供餐,慈濟咖啡屋仍在穴水綜合醫院續緣,再串聯到這次見舞金的發放;每次回到東京,腦海中仍是鄉親感動的淚水。
「老農夫說,銀行的錢見底了,農田的水要斷了,幾天前從河邊帶來兩噸的水,不知道能否讓蔬菜發芽?領到這麼多的錢,真的是及時雨。我們看到能登不只有好山好水,還有人情敦厚的美德;鄉親不斷流著淚說,四月三日花蓮強震後,臺灣自己也受災了,你們仍然親自來幫助我們,而且是在我們最需要的時候,我們怎麼能不感動呢?」
六月中旬,輪島市官方媒體發布慈濟月底將來發放見舞金,詢問的電話湧入慈濟日本分會;當聽聞東京、大阪志工很誠意地前往輪島,在外地避難的鄉親感動地說,會設法回鄉領取。接不完的來電,讓志工有感而發:「能將全球的愛心與祝福說明給鄉親了解,很歡喜!」(資料提供/顏婉婷、呂瑩瑩、黃靜蘊、王孟專、吳惠珍、朱秀蓮)
692期—慈濟誌 天下事
日本
- 針對能登半島震災戶的見舞金發放自5月下旬啟動,預計至7月共發放4個梯次、超過萬戶受惠→完整報導
緬甸
- 4月底遭熱浪席捲,面臨56年來最高溫,多個城市被列為「全球最熱」。由於內戰毀損基礎設施,仰光省德拉區卡南昌華村面臨缺水危機,慈濟與消防局合作向700戶供應7,000加侖生活用水及飲用水490公升,並提供防水布鋪蓋村內唯一還可使用的蓄水池,防止遭受污染(5/23)
斯里蘭卡
- 6月初南部大雨引發洪災,污染民眾日常用水的井水水源;洪水退去後,志工租賃3臺幫浦並帶來清潔用品,協助帕塔卡達(Pathakada)共49戶居民清理水井(6/10~6/11)
臺灣
- 慈濟基金會與花蓮縣政府合作興建「中繼永久屋」,提供○四○三花蓮強震受災鄉親2至3年的中繼居所,預計1年後完工(6/2)→完整報導
- 高雄志工籌集150個攤位,於凹仔底花園市集廣場舉辦「大愛共善˙救拔苦難—馳援○四○三花蓮地震」募心募愛園遊會(6/9)
- 基隆市潮境公園路口發生土石崩落,崩坍面積約有4個籃球場大,志工備妥麵包及飲水供救災人員,並前往醫院關懷傷患(6/3)
- 新竹東區住宅深夜火警,2位消防員殉職;志工提供飲水及食物予脫困住戶,前往殯儀館及醫院關懷家屬及受傷住戶(5/27)
- 慈濟科技大學今年共有50名專班公費生畢業,即將履約分發至8所慈濟醫院及長照機構服務;自1996年起迄今,慈濟基金會已幫助2,244位原住民、新住民子女、菲律賓外籍生專班學子,挹注金額超過6億4千500萬元(5/31)
- 臺中慈濟醫院創院18年以來,持續為信望愛智能發展中心院生提供年度健康檢查,今年共服務139位院生(5/26)
- 臺中慈院腎臟內科陳一心醫師研究發現,治療過動症藥物阿托莫西汀(Atomoxetine)能成功改善血液透析時的低血壓問題,為雙腎切除而長期低血壓的病人尋得解方,研究成果通過美國國家腎臟基金會期刊《腎臟醫學》(Kidney Medicine)審核發表,助益全臺9萬名及全球約300萬名透析病人
【1月~5月臺灣慈善數據】
*提報個案6,108件
* 長期濟助62,117戶次
* 居家關懷85,167戶次
* 急難補助6,472件
* 居住環境改善224件
* 關懷災害意外2,106戶次
*發放應急慰問金1,662戶
*動員志工逾3,981人次
菲律賓
- 三寶顏慈濟大愛復健暨義肢中心首度於南三寶顏首府帕加迪安(Pagadian)舉辦單腳訓練營,為近百位肢障者安裝事前量身訂做的義肢,並陪伴練習行走(5/16~5/17)
印尼
- 印尼分會首度推動「健康早餐計畫」,每個上課日為清寒學生提供牛奶與麵包,5月14日起與本札令安鎮軍警合作,供應拉烏拉圖勒伊斯蘭學校(Madrasah Ibtidaiyah Raudlatul Islamiyah);5月20日增加雅加達卡布河口(Kapuk Muara)凱利亞小學(SD Al Khairiyah)發放
馬來西亞
- 吉隆坡慈濟國際學校學生獲ITEX’24國際發明創新科技展「國際青年創意科技發明銀獎」,作品「防災堡壘(Flood Blox)」以如何適應氣候變遷為題,研發防止農作物遭洪水及旱災毀壞的裝置(5/30)
紐西蘭
- 彌多摩基金會(Middlemore Foundation)發起「6月睡衣計畫(Jammies for June)」,以減緩貧童因冬季好發呼吸道疾病而住院的情形;紐西蘭分會收到請求,捐助809套冬季睡衣(5/30)
肯亞
- 4月底起連續暴雨,首都奈洛比河岸貧民區等地水患嚴重,慈濟與當地NGO合作發放糧食生活包共1,000戶(5/28~5/30)
南非
- 南非冬季將屆,志工5月中旬前往豪登省(Highveld)10所學校發放3,000份糧食包,讓貧困學童即使假日沒有學校供餐,全家也有足夠過冬的糧食
日本
- 針對能登半島震災戶的見舞金發放自5月下旬啟動,預計至7月共發放4個梯次、超過萬戶受惠→完整報導
緬甸
- 4月底遭熱浪席捲,面臨56年來最高溫,多個城市被列為「全球最熱」。由於內戰毀損基礎設施,仰光省德拉區卡南昌華村面臨缺水危機,慈濟與消防局合作向700戶供應7,000加侖生活用水及飲用水490公升,並提供防水布鋪蓋村內唯一還可使用的蓄水池,防止遭受污染(5/23)
斯里蘭卡
- 6月初南部大雨引發洪災,污染民眾日常用水的井水水源;洪水退去後,志工租賃3臺幫浦並帶來清潔用品,協助帕塔卡達(Pathakada)共49戶居民清理水井(6/10~6/11)
臺灣
- 慈濟基金會與花蓮縣政府合作興建「中繼永久屋」,提供○四○三花蓮強震受災鄉親2至3年的中繼居所,預計1年後完工(6/2)→完整報導
- 高雄志工籌集150個攤位,於凹仔底花園市集廣場舉辦「大愛共善˙救拔苦難—馳援○四○三花蓮地震」募心募愛園遊會(6/9)
- 基隆市潮境公園路口發生土石崩落,崩坍面積約有4個籃球場大,志工備妥麵包及飲水供救災人員,並前往醫院關懷傷患(6/3)
- 新竹東區住宅深夜火警,2位消防員殉職;志工提供飲水及食物予脫困住戶,前往殯儀館及醫院關懷家屬及受傷住戶(5/27)
- 慈濟科技大學今年共有50名專班公費生畢業,即將履約分發至8所慈濟醫院及長照機構服務;自1996年起迄今,慈濟基金會已幫助2,244位原住民、新住民子女、菲律賓外籍生專班學子,挹注金額超過6億4千500萬元(5/31)
- 臺中慈濟醫院創院18年以來,持續為信望愛智能發展中心院生提供年度健康檢查,今年共服務139位院生(5/26)
- 臺中慈院腎臟內科陳一心醫師研究發現,治療過動症藥物阿托莫西汀(Atomoxetine)能成功改善血液透析時的低血壓問題,為雙腎切除而長期低血壓的病人尋得解方,研究成果通過美國國家腎臟基金會期刊《腎臟醫學》(Kidney Medicine)審核發表,助益全臺9萬名及全球約300萬名透析病人
【1月~5月臺灣慈善數據】
*提報個案6,108件
* 長期濟助62,117戶次
* 居家關懷85,167戶次
* 急難補助6,472件
* 居住環境改善224件
* 關懷災害意外2,106戶次
*發放應急慰問金1,662戶
*動員志工逾3,981人次
菲律賓
- 三寶顏慈濟大愛復健暨義肢中心首度於南三寶顏首府帕加迪安(Pagadian)舉辦單腳訓練營,為近百位肢障者安裝事前量身訂做的義肢,並陪伴練習行走(5/16~5/17)
印尼
- 印尼分會首度推動「健康早餐計畫」,每個上課日為清寒學生提供牛奶與麵包,5月14日起與本札令安鎮軍警合作,供應拉烏拉圖勒伊斯蘭學校(Madrasah Ibtidaiyah Raudlatul Islamiyah);5月20日增加雅加達卡布河口(Kapuk Muara)凱利亞小學(SD Al Khairiyah)發放
馬來西亞
- 吉隆坡慈濟國際學校學生獲ITEX’24國際發明創新科技展「國際青年創意科技發明銀獎」,作品「防災堡壘(Flood Blox)」以如何適應氣候變遷為題,研發防止農作物遭洪水及旱災毀壞的裝置(5/30)
紐西蘭
- 彌多摩基金會(Middlemore Foundation)發起「6月睡衣計畫(Jammies for June)」,以減緩貧童因冬季好發呼吸道疾病而住院的情形;紐西蘭分會收到請求,捐助809套冬季睡衣(5/30)
肯亞
- 4月底起連續暴雨,首都奈洛比河岸貧民區等地水患嚴重,慈濟與當地NGO合作發放糧食生活包共1,000戶(5/28~5/30)
南非
- 南非冬季將屆,志工5月中旬前往豪登省(Highveld)10所學校發放3,000份糧食包,讓貧困學童即使假日沒有學校供餐,全家也有足夠過冬的糧食
惡消、善增、結好緣♫
(畫作-紫豔香風/陳九熹)
不念舊惡,往善的方向造福人群,善用時間,忙得忘記恩恩怨怨;把每個人當成我的道場,用心修行,成就每分生命的善因緣。
天天看天下事,從氣候變遷到國與國相爭,看見人間悲苦,也看見危機與無常。同一時間,慈濟人在許多國度活動,和國際NGO會合、聯繫、合作,火災、水災、震災……哪裏需要關懷就往哪裏去。看到傳回來的災區畫面,真苦!心生不忍,也會想到,能生活在乾淨、明亮、整齊的環境,真的很有福。
夏天有冷氣、冬天有暖氣,生活無虞、衣食無缺、居處乾淨、出入方便,應該要很滿足。有福不是理所當然,過去造平安、富有、有愛的因,才有今日的果報。常常知足,就會有餘,天天輕安自在,不求福自來;若總是不滿足,那就永遠不夠。有福還要自我祝福,少欲知足多付出,不斷造福和增福。
在佛陀的時代,他的故鄉很窮,出了城門,看到一般人的生活,生、老、病、死之苦,如何去救助這樣的苦難?一個人力量有限,所以他離開王宮,尋找一條永恆救助天下眾生、讓人人解脫的道路,不再受無明煩惱綁住。
回饋佛陀的故鄉,是我這輩子的心願,新加坡和馬來西亞的弟子們了解師父的心意,代替我行願,放下事業,專心去尼泊爾、印度長住,慈善、醫療、教育,要做事就要有人,從無到有,就要與當地社會有很扎實的會合。
原本他們的生活是很舒適,但去到佛陀的故鄉,放下身段,耐熱耐冷,要很有勇氣;在那裏看很多、也做很多,真正是行經之路。佛陀來人間的一大事就是要教菩薩法,慈濟人不只走到佛陀的故鄉,早先就把佛陀所說法廣披在所生活的國度;先做到了,然後才走到。不只是有形的做到,也身體力行無形的教育,教導人人做好事。
看見慈濟人的「真」與「誠」,會讓我覺得這輩子來人間很有成就感。大家志同道合,同行在一條菩薩道上,這條路很長遠,前面的人鋪路引導,後面的人也要步步精進。一代一代,步驟不要偏差,從分而寸,從寸而尺,還要踏得穩。
學無止境,要學的實在是愈來愈多,若所學一知半解,永遠都無法徹底。人生無常,時間有限,所要學的就是覺,向著佛法求覺悟。從學到覺,一定要行菩薩道,以赤子之心一學再學,知「道」、學到、見道,還能牽著、帶著人一起來走這條大道。
把握分秒造福,
預防無明造業,
就是修行的重點。
自我盤點每一天的生活,總是忙忙碌碌,但歸納起來又能成就多少事?總是無奈,只能期望著明天。人間修行,修得日日淡泊,也是享受;但又自問能嗎?天天總是掛慮很多事情。
每天八萬六千四百秒,一秒秒滴答過去,時間其實不算多;把握當下最實在,每一分秒鐘過後,不要讓自己有後悔,這一生能如此,也是問心無愧。所以常用「是日已過,命亦隨減」,來自我勉勵和警惕。
佛陀對人間的教育是「諸惡莫作,眾善奉行」,也是我們修行的兩個重點,一是改善我們的生命,一是預防無明造業。
很多人總是人與事過不去,時常記得人家對不起我、這筆帳我非討不可,卻很少記得我對不起人家、我該如何來彌補他。覺得對方虧欠我的這種心念不斷累積,不僅過去的惡因惡緣沒有消除,反而又再增加惡念,心的無明愈來愈多,業障愈升愈高。
惡消善增,自我消業障。不念舊惡,往善的方向造福人群,善用時間,忙得忘記恩恩怨怨。每一個人都是我的道場,給予人家好觀感,就是我今天對這個人的修行,成就了一分生命的善因緣。人與人之間相互為道場,彼此尊重與敬愛,多結好緣,人間就會和樂融融。
這一生培養善種子,讓它成熟,陪伴、照顧與我們有緣的人,把這個善良的種子帶到來生。把握時間、善用人間,站穩在每一個空間,請大家時時多用心!
(畫作-紫豔香風/陳九熹)
不念舊惡,往善的方向造福人群,善用時間,忙得忘記恩恩怨怨;把每個人當成我的道場,用心修行,成就每分生命的善因緣。
天天看天下事,從氣候變遷到國與國相爭,看見人間悲苦,也看見危機與無常。同一時間,慈濟人在許多國度活動,和國際NGO會合、聯繫、合作,火災、水災、震災……哪裏需要關懷就往哪裏去。看到傳回來的災區畫面,真苦!心生不忍,也會想到,能生活在乾淨、明亮、整齊的環境,真的很有福。
夏天有冷氣、冬天有暖氣,生活無虞、衣食無缺、居處乾淨、出入方便,應該要很滿足。有福不是理所當然,過去造平安、富有、有愛的因,才有今日的果報。常常知足,就會有餘,天天輕安自在,不求福自來;若總是不滿足,那就永遠不夠。有福還要自我祝福,少欲知足多付出,不斷造福和增福。
在佛陀的時代,他的故鄉很窮,出了城門,看到一般人的生活,生、老、病、死之苦,如何去救助這樣的苦難?一個人力量有限,所以他離開王宮,尋找一條永恆救助天下眾生、讓人人解脫的道路,不再受無明煩惱綁住。
回饋佛陀的故鄉,是我這輩子的心願,新加坡和馬來西亞的弟子們了解師父的心意,代替我行願,放下事業,專心去尼泊爾、印度長住,慈善、醫療、教育,要做事就要有人,從無到有,就要與當地社會有很扎實的會合。
原本他們的生活是很舒適,但去到佛陀的故鄉,放下身段,耐熱耐冷,要很有勇氣;在那裏看很多、也做很多,真正是行經之路。佛陀來人間的一大事就是要教菩薩法,慈濟人不只走到佛陀的故鄉,早先就把佛陀所說法廣披在所生活的國度;先做到了,然後才走到。不只是有形的做到,也身體力行無形的教育,教導人人做好事。
看見慈濟人的「真」與「誠」,會讓我覺得這輩子來人間很有成就感。大家志同道合,同行在一條菩薩道上,這條路很長遠,前面的人鋪路引導,後面的人也要步步精進。一代一代,步驟不要偏差,從分而寸,從寸而尺,還要踏得穩。
學無止境,要學的實在是愈來愈多,若所學一知半解,永遠都無法徹底。人生無常,時間有限,所要學的就是覺,向著佛法求覺悟。從學到覺,一定要行菩薩道,以赤子之心一學再學,知「道」、學到、見道,還能牽著、帶著人一起來走這條大道。
把握分秒造福,
預防無明造業,
就是修行的重點。
自我盤點每一天的生活,總是忙忙碌碌,但歸納起來又能成就多少事?總是無奈,只能期望著明天。人間修行,修得日日淡泊,也是享受;但又自問能嗎?天天總是掛慮很多事情。
每天八萬六千四百秒,一秒秒滴答過去,時間其實不算多;把握當下最實在,每一分秒鐘過後,不要讓自己有後悔,這一生能如此,也是問心無愧。所以常用「是日已過,命亦隨減」,來自我勉勵和警惕。
佛陀對人間的教育是「諸惡莫作,眾善奉行」,也是我們修行的兩個重點,一是改善我們的生命,一是預防無明造業。
很多人總是人與事過不去,時常記得人家對不起我、這筆帳我非討不可,卻很少記得我對不起人家、我該如何來彌補他。覺得對方虧欠我的這種心念不斷累積,不僅過去的惡因惡緣沒有消除,反而又再增加惡念,心的無明愈來愈多,業障愈升愈高。
惡消善增,自我消業障。不念舊惡,往善的方向造福人群,善用時間,忙得忘記恩恩怨怨。每一個人都是我的道場,給予人家好觀感,就是我今天對這個人的修行,成就了一分生命的善因緣。人與人之間相互為道場,彼此尊重與敬愛,多結好緣,人間就會和樂融融。
這一生培養善種子,讓它成熟,陪伴、照顧與我們有緣的人,把這個善良的種子帶到來生。把握時間、善用人間,站穩在每一個空間,請大家時時多用心!
知道,走到,做到
║證嚴上人.靜思晨語 ║
見苦知福,喚起善念;
濟世拔苦,行人間路;
學無窮盡,身體力行;
步步踏實,走到做到;
見道覺悟,成佛之道。
║證嚴上人.靜思晨語 ║
見苦知福,喚起善念;
濟世拔苦,行人間路;
學無窮盡,身體力行;
步步踏實,走到做到;
見道覺悟,成佛之道。
○四○三花蓮強震 援建中繼永久屋♫
(模擬圖提供/慈濟基金會)
慈濟與花蓮縣政府合作興建集合式住宅,
協助○四○三強震受災戶過渡之用,安心等待房屋重建或修繕完成。
慈濟與花蓮縣政府合作興建集合式住宅,協助○四○三強震受災戶過渡之用,安心等待房屋重建或修繕完成。
六月二日的花蓮陰雨綿綿,但對○四○三強震受災戶來說,卻如曙光初現─慈濟基金會與花蓮縣政府簽署興建中繼永久屋的合作契約書;這是慈濟在發祥地花蓮,首次為受災及弱勢者興建現代化集合式住宅。
根據當日統計,花蓮縣內建築結構嚴重受損、不堪居住的紅單受災戶有七百戶,而被貼上黃單待修復者則有一千一百多戶;拆除重建作業已經開始進行,另有三十多棟受損建築申請「弱層補強」。安置部分,受災鄉親或依親或住進特約旅宿,政府也提供租屋補貼,但還有些人需要中繼住屋的幫助,以度過房屋重建或修繕完成前的過渡期。
「上人在第一時間就想蓋永久屋。」慈濟基金會執行長顏博文表示,「就硬體來講,它是非常堅固的永久屋,目的是幫助需要短期安置的人。」
中繼永久屋不收租金,優先讓低收及中低收入戶、獨居長者、身心障礙者等入住;居住期兩年,視房屋重建及修繕進度,得延長一年。待住戶搬回後,即交予花蓮縣政府作為社會住宅使用,庇護弱勢者。
建築基地位在花蓮市信義國小附近,由花蓮縣府提供。這座ㄇ字型的建築預計興建五層樓,一樓包含社區中心及機房、梯廳及停車場;二樓以上的居住區共有一百一十二間套房,以及雙房三十二間,可容納三百五十二人;並設置電梯與無障礙設施等。
每戶都設有一個「工作陽臺」,慈濟基金會營建處主任張正助說明,花蓮縣境內沒有天然氣管線,民眾主要使用桶裝瓦斯,若把瓦斯桶擺在陽臺通風處,可空出室內空間並降低瓦斯中毒、氣爆的風險;在結構安全方面,相較於一般住宅的「用途係數」為一,中繼永久屋加強至一點二五,儘管結構體採用傳統的鋼筋混凝土,但可承受震度六強的強震。
「社區整體造型朝向典雅、簡潔、圓融設計,並留設景觀中庭,綠蔭乘涼的空間,供長者休憩及孩童遊玩、鄰居交流。」張正助補充道。
中繼安居的模式,可追溯自一九九九年九二一大地震後,慈濟運用現成工地組合屋材料,在南投、臺中等地興建大愛村,協助受災民眾安身的經驗。但這次為○四○三震災所建的,卻是強固的永久性建築。張正助提到,中繼永久屋讓住戶安身也安心,同時避免臨時中繼屋後續處理問題。面對大環境缺工、原物料成本上揚等問題,「預定合作的營造廠和慈濟已有默契,我們也會全力協助提供資源、調配人力,以一年完成為目標。」
(模擬圖提供/慈濟基金會)
慈濟與花蓮縣政府合作興建集合式住宅,
協助○四○三強震受災戶過渡之用,安心等待房屋重建或修繕完成。
慈濟與花蓮縣政府合作興建集合式住宅,協助○四○三強震受災戶過渡之用,安心等待房屋重建或修繕完成。
六月二日的花蓮陰雨綿綿,但對○四○三強震受災戶來說,卻如曙光初現─慈濟基金會與花蓮縣政府簽署興建中繼永久屋的合作契約書;這是慈濟在發祥地花蓮,首次為受災及弱勢者興建現代化集合式住宅。
根據當日統計,花蓮縣內建築結構嚴重受損、不堪居住的紅單受災戶有七百戶,而被貼上黃單待修復者則有一千一百多戶;拆除重建作業已經開始進行,另有三十多棟受損建築申請「弱層補強」。安置部分,受災鄉親或依親或住進特約旅宿,政府也提供租屋補貼,但還有些人需要中繼住屋的幫助,以度過房屋重建或修繕完成前的過渡期。
「上人在第一時間就想蓋永久屋。」慈濟基金會執行長顏博文表示,「就硬體來講,它是非常堅固的永久屋,目的是幫助需要短期安置的人。」
中繼永久屋不收租金,優先讓低收及中低收入戶、獨居長者、身心障礙者等入住;居住期兩年,視房屋重建及修繕進度,得延長一年。待住戶搬回後,即交予花蓮縣政府作為社會住宅使用,庇護弱勢者。
建築基地位在花蓮市信義國小附近,由花蓮縣府提供。這座ㄇ字型的建築預計興建五層樓,一樓包含社區中心及機房、梯廳及停車場;二樓以上的居住區共有一百一十二間套房,以及雙房三十二間,可容納三百五十二人;並設置電梯與無障礙設施等。
每戶都設有一個「工作陽臺」,慈濟基金會營建處主任張正助說明,花蓮縣境內沒有天然氣管線,民眾主要使用桶裝瓦斯,若把瓦斯桶擺在陽臺通風處,可空出室內空間並降低瓦斯中毒、氣爆的風險;在結構安全方面,相較於一般住宅的「用途係數」為一,中繼永久屋加強至一點二五,儘管結構體採用傳統的鋼筋混凝土,但可承受震度六強的強震。
「社區整體造型朝向典雅、簡潔、圓融設計,並留設景觀中庭,綠蔭乘涼的空間,供長者休憩及孩童遊玩、鄰居交流。」張正助補充道。
中繼安居的模式,可追溯自一九九九年九二一大地震後,慈濟運用現成工地組合屋材料,在南投、臺中等地興建大愛村,協助受災民眾安身的經驗。但這次為○四○三震災所建的,卻是強固的永久性建築。張正助提到,中繼永久屋讓住戶安身也安心,同時避免臨時中繼屋後續處理問題。面對大環境缺工、原物料成本上揚等問題,「預定合作的營造廠和慈濟已有默契,我們也會全力協助提供資源、調配人力,以一年完成為目標。」
行動早已開始!慈濟與SDGs
(攝影、相片提供/林炎煌、吳佩珊、花蓮慈濟中學、陳惠如、張美玲、Raj Kumar、Hlengisile Jiyane、海克特、鄧亦絢、龍嘉文、黃筱哲、顏霖沼、蕭耀華)
聯合國永續發展目標(SDGs),
八年來成為全球各界解決人類生存危機的指引;
與慈濟近一甲子致力努力的志業行動不謀而合,
共同在經濟、社會、環境議題中,為當代與後代找出平衡之道。
聯合國永續發展目標(SDGs),八年來成為全球各界解決人類生存危機的指引;與慈濟近一甲子致力努力的志業行動不謀而合,共同在經濟、社會、環境議題中,為當代與後代找出平衡之道。
「永續發展」,近年來成為國際間的重要議題,許多人對色彩繽紛的永續發展目標(Sustainable Development Goals,簡稱SDGs)圖表都不陌生,上過環境教育課程的學生,甚至能背誦出「消除貧窮」、「消除飢餓」、「氣候行動」等目標。
然而什麼是永續發展?人們大多從自己比較熟悉或關心的面向去理解,因而產生各自不同的看法。
「過去大家談到永續發展,都覺得就是環保,事實上遠不只如此。聯合國談永續發展一直都把收入這件事放在前面,這跟臺灣一般人從環境的角度去理解是不一樣的。聯合國是用全球視角在看整件事情。」國立臺灣師範大學永續管理與環境教育研究所教授葉欣誠指出,聯合國「世界環境與發展委員會」早在一九八七年發布《我們共同的未來》報告時就指出,「永續發展」,是既能滿足當代的需求,同時又不損及後代滿足其需求的發展模式。涵蓋的範圍,除了一九六○年代興起的環保議題,還有社會及經濟面向。
為了實踐永續發展,聯合國在公元兩千年,推動了第一個十五年計畫「千禧年發展目標」(Millennium Development Goals,MDGs),設定在二○一五年前達成八項目標,其中第一項就是消除極端貧窮和飢餓,接著是普及基礎教育、促進性別平等並賦予婦女權力,確保環境永續則是排在第七項。
而現今推動的永續發展目標,也就是舉世皆知的SDGs十七項目標,是聯合國繼「千禧年發展目標」後,於二○一五年通過《二○三○年永續發展議程》制定的擴大永續實踐方略。SDGs從二○一六年開始推動,相較於針對開發中國家制定的八項千禧年發展目標,其適用範圍遍及全球開發中及已開發國家,目標的設定也更為細緻周全。
例如讓人們取得負擔得起的能源、提高對氣候變遷的調適能力,以及如何面對「地球邊界」(Planetary Boundaries)等,都在十七項永續發展目標中一一羅列,同樣涵蓋社會、經濟、環境三大面向。十七項主目標下,再分出一百六十九項細項目標,各國同意在二○三○年達成。
「二十年前,聯合國祕書長安南就已經強調,永續發展最大的敵人是貧窮。」葉欣誠解說,「聯合國以全球角度來看永續發展,最優先的是最基本的生存問題:例如貧窮、飢餓、教育、健康這些議題,環境則是擺在比較後面,畢竟人要先活下來,才能去保護環境。」
由此不難理解,十七項永續發展目標當中,前十二項幾乎都屬社會與經濟層面;也唯有兼顧社會、經濟與環境三大面向才可能實踐永續。
核心原則:不遺落任何人
永續發展以解決人類生存問題為起點,而確保地球環境生態不致崩毀,方可言生存發展。
聯合國世界氣象組織(WMO)最新的全球氣候狀況報告指出,二○二三年是有史以來最熱的一年,但二○二四年氣溫很可能持續上升。人類活動造成的影響,在全球暖化、生物多樣性喪失、土地利用的變化、新化學物質釋出等九項限度中,已有六項跨越地球邊界;落實永續發展目標第十三項氣候行動、守護第十四項水下生命與第十五項陸域生命,正是當務之急。
不少企業組織為符合國際規範,已努力讓自己的本業經營和公益活動,與SDGs相結合,為此採取的節能減碳、降低污染、促進勞工福祉等作為,對人與自然有助益。但落實永續發展,除了從各目標的對應,找到自己可以發揮的面向之外,更重要的是理解並奉行背後的核心原則:多樣化、包容,以及「不遺落任何人」(Leave no one behind)。
「世界上的人們,其宗教信仰、種族、膚色、語言,甚至政治、文化都是不一樣的,不可歧視,不能因為這個人跟你不一樣就不救他,這是整個SDGs強調的核心精神。」葉欣誠提醒道。
長期關注永續發展議題,葉欣誠肯定慈濟:「一直符合這些原則,包括濟貧、救災,都在解決最根本的問題,也倡議包容。」
從十七項永續發展目標的次序來看,前十二項恰與慈濟慈善、醫療、教育、人文四大志業的內涵與理念高度契合。慈濟人為「與地球共生息」而提倡的環保回收、蔬食護生、簡樸生活等作為,則與氣候行動的環境項目相呼應。
而堅信眾生平等,本著不分種族、宗教、文化的大愛精神,與天主教、伊斯蘭等不同宗教的夥伴,合作援助國際難民,也與永續發展的核心價值不謀而合。
慈濟基金會執行長顏博文以累積到二○二三年的志業成果為例說明:目前慈濟已在四十個國家地區,照顧了五百多萬個家庭;於十八個國家地區建蓋二萬二千多間永久屋;慈濟人醫會足跡業已踏遍五十八國,開辦一萬八千多場義診,幫助超過四百萬人解除病苦。針對氣候變遷、環境災難等,推動減災工程及防災教育,建置災害救援資訊平臺,降低災害衝擊;廣邀合作夥伴共同打造「安居」生活環境,扶持社區高風險與弱勢家庭。
「現在大家廣泛討論永續發展議題,其中聯合國的十七項永續發展目標,慈濟志業都能很完整地覆蓋。」顏博文認為慈濟在環境及社會層面的表現,與SDGs目標的連結,正是一步一腳印長期耕耘的印證。
二○二四年七月起,《慈濟》月刊推出「慈濟與SDGs」系列報導,依照消除貧窮與飢餓、應對氣候變遷、關懷高齡少子、實踐環境教育,以及與全球夥伴共行永續發展五大面向,敘寫近六十年來各項志業行動如何實踐、推進永續發展。
就如證嚴上人靜思語所言:「只要找到路就不怕路遙遠。」當我們參照SDGs的理想與願景自我盤點,展望世界,就能更清楚地看到既有的成果,與未來精進努力的方向。
(攝影、相片提供/林炎煌、吳佩珊、花蓮慈濟中學、陳惠如、張美玲、Raj Kumar、Hlengisile Jiyane、海克特、鄧亦絢、龍嘉文、黃筱哲、顏霖沼、蕭耀華)
聯合國永續發展目標(SDGs),
八年來成為全球各界解決人類生存危機的指引;
與慈濟近一甲子致力努力的志業行動不謀而合,
共同在經濟、社會、環境議題中,為當代與後代找出平衡之道。
聯合國永續發展目標(SDGs),八年來成為全球各界解決人類生存危機的指引;與慈濟近一甲子致力努力的志業行動不謀而合,共同在經濟、社會、環境議題中,為當代與後代找出平衡之道。
「永續發展」,近年來成為國際間的重要議題,許多人對色彩繽紛的永續發展目標(Sustainable Development Goals,簡稱SDGs)圖表都不陌生,上過環境教育課程的學生,甚至能背誦出「消除貧窮」、「消除飢餓」、「氣候行動」等目標。
然而什麼是永續發展?人們大多從自己比較熟悉或關心的面向去理解,因而產生各自不同的看法。
「過去大家談到永續發展,都覺得就是環保,事實上遠不只如此。聯合國談永續發展一直都把收入這件事放在前面,這跟臺灣一般人從環境的角度去理解是不一樣的。聯合國是用全球視角在看整件事情。」國立臺灣師範大學永續管理與環境教育研究所教授葉欣誠指出,聯合國「世界環境與發展委員會」早在一九八七年發布《我們共同的未來》報告時就指出,「永續發展」,是既能滿足當代的需求,同時又不損及後代滿足其需求的發展模式。涵蓋的範圍,除了一九六○年代興起的環保議題,還有社會及經濟面向。
為了實踐永續發展,聯合國在公元兩千年,推動了第一個十五年計畫「千禧年發展目標」(Millennium Development Goals,MDGs),設定在二○一五年前達成八項目標,其中第一項就是消除極端貧窮和飢餓,接著是普及基礎教育、促進性別平等並賦予婦女權力,確保環境永續則是排在第七項。
而現今推動的永續發展目標,也就是舉世皆知的SDGs十七項目標,是聯合國繼「千禧年發展目標」後,於二○一五年通過《二○三○年永續發展議程》制定的擴大永續實踐方略。SDGs從二○一六年開始推動,相較於針對開發中國家制定的八項千禧年發展目標,其適用範圍遍及全球開發中及已開發國家,目標的設定也更為細緻周全。
例如讓人們取得負擔得起的能源、提高對氣候變遷的調適能力,以及如何面對「地球邊界」(Planetary Boundaries)等,都在十七項永續發展目標中一一羅列,同樣涵蓋社會、經濟、環境三大面向。十七項主目標下,再分出一百六十九項細項目標,各國同意在二○三○年達成。
「二十年前,聯合國祕書長安南就已經強調,永續發展最大的敵人是貧窮。」葉欣誠解說,「聯合國以全球角度來看永續發展,最優先的是最基本的生存問題:例如貧窮、飢餓、教育、健康這些議題,環境則是擺在比較後面,畢竟人要先活下來,才能去保護環境。」
由此不難理解,十七項永續發展目標當中,前十二項幾乎都屬社會與經濟層面;也唯有兼顧社會、經濟與環境三大面向才可能實踐永續。
核心原則:不遺落任何人
永續發展以解決人類生存問題為起點,而確保地球環境生態不致崩毀,方可言生存發展。
聯合國世界氣象組織(WMO)最新的全球氣候狀況報告指出,二○二三年是有史以來最熱的一年,但二○二四年氣溫很可能持續上升。人類活動造成的影響,在全球暖化、生物多樣性喪失、土地利用的變化、新化學物質釋出等九項限度中,已有六項跨越地球邊界;落實永續發展目標第十三項氣候行動、守護第十四項水下生命與第十五項陸域生命,正是當務之急。
不少企業組織為符合國際規範,已努力讓自己的本業經營和公益活動,與SDGs相結合,為此採取的節能減碳、降低污染、促進勞工福祉等作為,對人與自然有助益。但落實永續發展,除了從各目標的對應,找到自己可以發揮的面向之外,更重要的是理解並奉行背後的核心原則:多樣化、包容,以及「不遺落任何人」(Leave no one behind)。
「世界上的人們,其宗教信仰、種族、膚色、語言,甚至政治、文化都是不一樣的,不可歧視,不能因為這個人跟你不一樣就不救他,這是整個SDGs強調的核心精神。」葉欣誠提醒道。
長期關注永續發展議題,葉欣誠肯定慈濟:「一直符合這些原則,包括濟貧、救災,都在解決最根本的問題,也倡議包容。」
從十七項永續發展目標的次序來看,前十二項恰與慈濟慈善、醫療、教育、人文四大志業的內涵與理念高度契合。慈濟人為「與地球共生息」而提倡的環保回收、蔬食護生、簡樸生活等作為,則與氣候行動的環境項目相呼應。
而堅信眾生平等,本著不分種族、宗教、文化的大愛精神,與天主教、伊斯蘭等不同宗教的夥伴,合作援助國際難民,也與永續發展的核心價值不謀而合。
慈濟基金會執行長顏博文以累積到二○二三年的志業成果為例說明:目前慈濟已在四十個國家地區,照顧了五百多萬個家庭;於十八個國家地區建蓋二萬二千多間永久屋;慈濟人醫會足跡業已踏遍五十八國,開辦一萬八千多場義診,幫助超過四百萬人解除病苦。針對氣候變遷、環境災難等,推動減災工程及防災教育,建置災害救援資訊平臺,降低災害衝擊;廣邀合作夥伴共同打造「安居」生活環境,扶持社區高風險與弱勢家庭。
「現在大家廣泛討論永續發展議題,其中聯合國的十七項永續發展目標,慈濟志業都能很完整地覆蓋。」顏博文認為慈濟在環境及社會層面的表現,與SDGs目標的連結,正是一步一腳印長期耕耘的印證。
二○二四年七月起,《慈濟》月刊推出「慈濟與SDGs」系列報導,依照消除貧窮與飢餓、應對氣候變遷、關懷高齡少子、實踐環境教育,以及與全球夥伴共行永續發展五大面向,敘寫近六十年來各項志業行動如何實踐、推進永續發展。
就如證嚴上人靜思語所言:「只要找到路就不怕路遙遠。」當我們參照SDGs的理想與願景自我盤點,展望世界,就能更清楚地看到既有的成果,與未來精進努力的方向。