能登半島地震の被災者は、市役所から慈済が「見舞金」を配付する由の通知を受け取ったが、疑念と期待が入り交じった心境にあった。
会場に着いてみると、本当に生活の助けになる現金を受け取ることができた。
驚きと嬉しさに感動する以上に、台湾の慈済が花蓮の地震の後も、依然として彼らを忘れずにいてくれたことに感謝した。
(撮影・王孟専)
今年の元日に発生した石川県能登半島地震は、二百六十人が死亡し、一千二百人が負傷、八万棟の住宅が損壊する被害をもたらした。県全体ではすでに水道が復旧しているが、六月上旬の統計によると、依然として二千八百人が避難所で生活をしている。
地震は能登半島を出入りする唯一の道路を寸断したため、救援活動と建物の解体作業を遅延させた。道路が修復されても、ホテルや旅館が甚大な被害を受けたため、解体業者は泊まる所がない状態にある。また、修復が必要な住宅の数量が膨大なため、解体と再建が遅々として進まないのだ。震源地に最も近い珠洲市を例に挙げると、約四千棟の住宅が全壊し、千人が政府に公費解体を申請しているが、実際に完了したのはわずか数棟である。
今の段階で、住民が最も必要としているのは、現金の補助と再建支援である。県政府と町役場は、「災害義援金」や「生活再建支援金」の支給を公表して、さまざまな補助措置を講じているが、住民は高齢者が多く、申請方法がわからないのだ。更に、甚大被災地はどこも交通が不便な田舎であり、市や町の行政人員が不足しているため、大量の申請案件を一度に処理することができない。
慈済が被災地で見舞金を配付するという情報が住民の耳に入った時、多くの人は半信半疑だった。しかし、五月十七日から十九日にかけて穴水町で初めて千九十一世帯が封筒に入った現金の「見舞金」を受け取った時、住民は信じられない気持ちだった。それは正に恵みの雨だった。
慈済は五月中旬から七月にかけて、穴水、能登、中能登、輪島、志賀、珠洲の六市町で見舞金を順次配付する。対象は地震によって家屋が半壊以上で、且つ六十五歳以上の高齢者がいる世帯である。家族構成の人数に応じて、それぞれ十三万円、十五万円、十七万円が贈られる。
6月9日、ボランティアは台湾の町役場に似た能登町役場で、被災した住民に見舞金を届けて励ました。(撮影・顔婉婷)
地方政府と慈済が協力
第一回の配付は穴水町で完了した。そこは地震発生後、慈済が長期にわたって駐在し、ケアして来た重点地区である。一月十三日から三月三十日まで、二万食余りの温かい食事と飲み物を提供し、延べ七百人以上のボランティアが動員された。
第二回の配付は、六月七日から九日にかけて能登町で行われ、七百二十二世帯が見舞金を受け取った。能登町は北陸でも端の方に位置し、能登半島に囲まれた内海にある。自然との共生を強調した農耕様式が特徴で、世界農業遺産に登録されている。地震の時、震度六強を記録したため、多くの古民家は強い揺れに耐えられなくなり、倒壊したり、傾いたり、崩落したりした。また、地盤が軟弱な所は住宅全体が傾き、液化現象が起きた地域では地盤沈下が続いた。そして、地震によって火災が発生し、複合災害を起こした所もある。
能登町災害対策本部は運営を続けて、十二の避難所が開設され、百人以上が避難生活を送っている。町全体の高齢者人口はほぼ半数を占め、人口密度も低いため、集落同士の距離がかなりある。そのため、慈済と町役場は五つの会場で配付することを決め、高齢者が近くで受け取れるようにした。ボランティアは各会場に早めに行き、配置や整理を行ったが、既に外で待っている住民がいた。
地方政府は、慈済の「重点的、直接、具体的」という災害支援の原則は理解しているが、日本ではプライバシーを重視するため、被災者名簿を提供することはできないと言った。そこで、役場の人が受付で住民の確認を行い、その後に、慈済ボランティアが配付窓口に案内して、罹災証明などの資料を確認することで、見舞金を受け取れるようにした。そして最後に、「住民交流ゾーン」で休憩してもらった。
七十六歳の横地善松さんは、町役場から通知を受け取った時、半信半疑で、先ず会場に行ってみようと思った。彼は会場で、「本当に現金なのですか?振り込みではないのですね?」と何度も確認した。十五万円を受け取ることができたことに驚きを隠せなかった。
「市役所が家を解体してくれるのを待っていますが、何時の事になるやら」と友人の家に身を寄せている横地お爺さんは、「見舞金の出所を聞いて、とても感動しました。このお金は大切に使います。妻や子供たちのために心温まる家を建てます。たとえ平屋建てでも十分です」と言った。子供や孫は年に一度か二度しか帰って来ないが、それでも家族のために家を持ちたいと願っている。
横地お爺さんは続けて、「今日受け取った見舞金の由来を皆に伝え、子供たちも感謝の気持ちを持って社会に還元するよう言います。あなたたちから温かさを感じ、自分の新しい家を建てるための力が湧くと同時に、期待が持てるようになりました」と言った。彼は奥さんと共に優しい笑顔を浮かべながら、「あなたたちの訪問を楽しみにしています」とボランティアに言った。
6月9日、ボランティアは漁村の鵜川を訪れ、公民館に向かう途中で多くの被害を受けた家の前を通った。あたかも時間が元旦の地震後で止まっているように感じられた。(撮影・顔婉婷)
重点的に直接配付する緊急支援の現金
慈済が直接現金を住民に手渡していることについて、多くの人は驚きを隠せず、会場ではしばしば「もったいないことです」という言葉が聞かれた。八十一歳の松田幸子お婆さんは何度も繰り返した。
お婆さんは、八十四歳の夫である松田外紀男さんと娘、そして二十四歳の孫娘と同居している。見舞金を受け取った時、彼女は涙を拭い続けていたが、家までボランティアが同行することを喜んで受け入れた。山林のある小高い丘に位置する日本式建築の家に着くと、ボランティアはお婆さんの家の被災状況がよく分かった。「地震が起きた時、私は台所で調理をしていて、急いで玄関に走ったのですが、揺れが激しくて全く立っていられませんでした。夫は玄関の扉にしっかり掴まってはいましたが、立っていることも外に出ることもできませんでした。私は彼の腰にきつく抱きつき、娘と孫娘はさらに私の腰に抱きつきました。四人が一緒にその場で支え合うのが精一杯で、逃げることができなかったのです!」未だ恐怖が残る幸子お婆さんは、当時を振り返り、天が崩れて地が裂けるように感じ、どこへ逃げればいいのか分からなかったと言った。
家の中の壁は地震で裂けて、一面が崩落し、一家は近くの「小間生公民館」に避難した。被災後、水も電気もなく、女性たちが集まって小さなガスコンロで調理して、何とか十日間を過ごした。一家はとりあえず、金沢市にいる妹の家の近くに借家したが、どうしても自分たちの家に戻りたくて、なんとか整理して住むことにした。
「家が倒れたら、もうだめだ!」と外紀男さんは地震の時、それだけを考えていた。「だから今生きていて、家族も無事なので、本当に幸運です」と語った。幸子お婆さんは、業者に頼んで寝室と台所を修繕してもらったが、二百八十万円余り掛った。全部修繕したら、少なくとも一千万円は必要だろう。「修繕業者からまだ請求して来ませんが、慈済が送って来てくれたこのお金で一部を支払えます。これで私たちの生活も少しは楽になります」。
ボランティアの心温まる慰問と傾聴に、多くの住民は深く感動したと言った。「お金の多い少ないではなく、あなたたちが遠くから来てくれたことで、私たちが得たのは、かけがえのない『温もり』と『情』です!」。
本谷志麻子さんは、6月中旬に能登町公民館の2階にある避難所を離れる予定だ。彼女は、ボランティアが遠方から来て、力を与えてくれたことに感謝した。(撮影・楊景卉)
住む場所があれば、心が安らぐ
本谷志麻子さんは見舞金を受け取った後、ボランティアを避難所に案内した。それは市役所の隣にある「能登町公民館」の二階にあり、彼女は数枚の段ボールで囲った寝室に五カ月余り住んでいた。六月中旬に友人の家に引っ越す予定で、「見舞金をいただきありがとうございます。日用品を買います。来ていただいたことで力をもらいました」と感謝の意を表した。
六十七歳の漁師、山本政広さんもボランティアが彼の仮住まいを見学することに同意した。藤波運動公園に建てられた仮設住宅で、約百二十世帯が住んでいる。一戸当たり約七から八坪の広さで、風呂場とトイレ、そして小さいキッチンには冷蔵庫や電子レンジなどの家電が備わり、小さい長テーブルもある。奥には小部屋が二つあり、一つはリビングとして使っている。山本さんの奥さんは、「今の生活にとても満足しています」と言った。
山本さんの自宅前の道路は三・五メートル陥没し、家は表の方に傾いてしまった。被災後、集会所から移って能登中学で避難生活を送っていたが、五月に仮設住宅に移ってから、ようやく生活が安定してきた。「私はこれまで、懸命に働いて、大勢の子供や孫に囲まれた人生を送って来ましたが、この歳でこんなことに遭うとは思いも寄りませんでした。でも仕方ありません……。三十年間住んでいた家は、見た目には損壊していないのですが、間もなく解体されると思うと、言葉に表せない悲しみがこみ上げてきます」。
仮設住宅には二年間しか住むことができないため、山本さんは政府の災害復興住宅に申請することを検討している。毎月費用はかかるが、年金を受給しているため、負担は軽くなる。慈済から見舞金を受け取れたことについて、彼は「日本では非常に珍しいことで、被災地では初めてです。唯一の現金支援なので、とても驚くと共に、嬉しく思っています」と言った。
七十歳の上野実喜雄さんは、金沢市からバスで故郷に戻り、見舞金を受け取った。彼は地震当時のことを振り返り、二度の強い揺れの後、町役場から津波が来るというアナウンスを聞いて、急いで避難するよう住民に呼びかけた。しかし、自分の家が変形して傾き、ドアが開かなくなった。細身の上野さんの奥さんは、どこにそんな力があったのか、素手で強化ガラスの窓を割り、二人は脱出することができた。裸足のまま、近くの寺まで歩いて靴を二足借り、更に高台に避難した。
家主は高齢者への賃貸を渋り、彼らは息子の名義で金沢に家を借りることにした。かつて魚貝類の取引をしていた上野さんは、今は失業中だが、見舞金を使って家電を買うつもりだ。「遠くから来てくれたボランティアに感謝しています。見舞金を配付するだけでなく、熱いお茶やお菓子を出して頂いた上に、平安のお守りまでいただきました。こんなに多くの支援を受けられるとは思ってもいませんでした……」と言いながら、奥さんは涙を抑えきれなかった。
能登町役場の入口には、各地から寄せられたカードや布がいっぱい掲げられ、励ましのメッセージが書かれてあった。(撮影・顔婉婷)
能登の人々は情に厚く、誠実で親切
この半年間、ボランティアは被災地を行き来して、関係者と配付活動の打ち合わせを行った。證厳法師に災害状況を報告した時、日本の住宅被害の「全壊、半壊、準半壊、一部損壊」などの程度に応じて異なる金額の支援を計画してはどうか、と提案した。法師は「全壊でも半壊でも壊れたことに変わりはありません。区別すべきではありません。また、被災者が六十四歳で、六十五歳に少し足りないからといって助けないでいいのでしょうか?目の前に困っている人がいれば、個別案件にして助けるべきです」と指摘した。
慈済日本支部の執行長である許麗香師姐によると、東京と大阪からのボランティアが交替で被災地に赴いて炊き出しをすると共に、「仕事を与えて支援に代える」活動に参加した地元の人々を食事に招待した。慈済カフェは今でも穴水総合病院で運営されており、今回の見舞金配付に繋がっている。東京に戻るたびに、地元の人々の感動の涙が脳裏に焼き付いているそうだ。
「老いた農夫は、『銀行の預金が底をつき、農地の水も尽きてしまいました。数日前に川から二トンの水を運んで来ましたが、これで野菜が芽を出すかどうかは分かりません。このような大金を受け取ることができ、正に恵みの雨です』と言いました。私たちは、能登には美しい山と水があるだけでなく、厚い人情という美徳もあることを目にしました。地元の人々は涙を流しながら、『四月三日に花蓮で地震が起き、台湾自身も被災しているにも関わらず、私たちの最も必要な時に自ら支援に来てくれたことに感動せずにはおれません』と話してくれました」。
六月中旬、輪島市の公式メディアが、慈済が月末に見舞金を配付することを伝えると、問い合わせの電話が慈済日本支部に殺到した。東京や大阪のボランティアが誠意をもって輪島に向かうと聞いた、遠くに避難している住民は、何としてでも戻って受け取りたい、と感動しながら言った。次から次にかかって来る電話に対応しながら、ボランティアたちは、「世界中の愛と祝福を地元の人々に伝えることができて、とても嬉しいです!」と感想を述べた。(資料提供・顔婉婷、呂瑩瑩、黄静蘊、王孟専、呉恵珍、朱秀蓮)
(慈済月刊六九二期より)