証人となって歴史に記すことは、私たちの世代の責任である。重要なのは、如何にして通り過ぎてきた無数の足跡の中に、一貫した精神の核心と動力を見出し、伝承していくかである。
毎年の年末に、證厳法師から赤い封筒(福慧紅包と呼ばれるお年玉)を授かり、一面に揺れる灯火に囲まれて、立願し、天下に災難の起こらぬよう祈願するが、歳月が年輪の如く積み重なっていく。
毎年の行事なのに、不意に去年とは違う感じがした。私は以前のように舞台に上がって手話劇に参加しなかった。舞台の下に座って「法海区」で手話をして周りを見ると、一回りも二回りも若い世代の同僚が何と多いことか。本当に年をとったと感じた。以前は名実ともに「師姐(スージェ)」と呼ばれる方のそばに座っていたが、今では昇格して、「師姑(スーグー)」(おばさん委員)になっていたのだ。
しかし、ホールの中段に座っていたおかげで、慈済(ツーチー)人が一堂に集まる様子を見渡すことができた。特に今年は初めて、志業体と花蓮地区のボランティア達が共催した。右側に目を向けると、列に並んで活気に満ちて整然と手話を披露している多くの白髪の師兄師姐(スーション・スージェ)たちに、私は心から感服した。
二十数年前、「シリコンバレーお婆ちゃん」として知られたアメリカの慈範さんとは、台北支部の年末祝福会で会ったことを思い出した。そのシルバーヘアのお年寄りはいつもニコニコしていて、何度も振り返って「いい儀式ですね!」と私に言った。法師が認証と赤い封筒を授ける姿、祈願灯を点灯する単純なものだったが、彼女は何回も見ているのに、興味津々に見ていた。
彼女は何を見ていたのだろうか?もしかしたら法師の慈悲の下に集まった無数の菩薩が放つ敬虔さや融和さが溢れる様子、または川の流れのように続く菩薩の列に、自分の心象風景を映して見ていたのかもしれない。彼女は英語を話せないが、北米のハイテクパークに慈済の種をまくことができたのは、素朴で単純な心と彼女の篤行があったからである。気がつけばコンピューターエンジニアの若いグループまでが、彼女について慈済に加わっていた。
以降の歳末祝福会は内容が更に豊富になり、参加者も数千人になった。その彼女はもういないが、今の隆盛な様子を見たら、目を大きく見開いて笑顔を浮かべているかもしれない。或いは別の感慨を持つだろうか?
人や物事は入れ替わり、「世代交代」というメッセージを静かに伝えている。斬新だった静思堂のフロアにはかつてどれだけの人が歩みを進めたことか。今では僅かにきしむ音を出している。歳月と共に徐々に背中が曲がっていく世代を後ろから追い越していく若者はいるだろうか?
年が明けると法師は、「慈濟教育研究センター」のオープニングセレモニーを主催するために慈済大学に来られた。法師は懇ろに現在の人文社会学院は以前の慈済中学校だったことを話し、記憶にある多くの出来事は皆の足跡と共にここに積み重なっているはずだが、初期の頃の足跡は薄れてしまったようだと語り、「皆さんはまだ覚えているでしょうか、『あの年、あの事、あの人』を」と問いかけた。
証人として歴史に記すのは私たちの世代の責任である。大切なのは、どのようにして無数の足跡の中で、その一貫した精神の核と動力を見出し、伝承していくかである。
(慈済月刊六四一期より)