母の大きな心願 来世もこの世で弘法利生したい

私の母、洪玉哖(ホン・ユウニェン)は、出家する縁が三度あったが、願いは叶わなかった。慈済委員の認証を授かってからは、手押し車を押して草屯地区を回り、募金集めやリサイクル活動をした。

腰をかがめる度に「南無阿弥陀仏」と唱えるので、毎日、街角や路地にいても繞仏(にょうぶつ)していることになる。母は仏の弟子であると同時に、模範的な母親であり、私にとってのお手本である。

私の母、洪玉哖(ホン・ユーニエン)は、人生の中で三度、出家して仏道に学ぼうとしたことがあったが、三度とも願いを叶えることができなかった。

彼女は、一九二六年三月十四日に草屯鎮の新庄里の田舎に生まれた。当時の社会は貧しさに加えて男尊女卑の観念があり、勉強したいという彼女の願いは叶わず、長姉と一緒に牛の放牧をしたり、家事に明け暮れたりする日々を送った。母方の祖父は、二男を薬剤師にするために日本に留学させようと、田んぼを売って資金を調達してくれた。後に末の息子も医学部を卒業した。薬剤師と人を救う医師を輩出したことで、洪家は名を揚げた。

母は、病に苦しんでも貧しかったために医者にかかるのは容易でなかったという祖母の姿を、幼い頃から見て育った。人生の苦しみを体験した母は、お寺に行って、法師に剃髪出家の思いを懇願した。しかし、硬く反対した祖父に連れ戻された。こうして、最初の出家の縁は消えてしまった。

一九四五年、母は十九歳で大工職人の謝松釜(シェ・ソンフー)と結婚し、三男四女を儲けた。生活は厳しく、母は出家の願いを断ち切れず、解脱の道を探そうとしたが、子供がまだ幼かったため、父からカンナ削りやノコギリの使い方、ペンキ塗りなどを学び、苦労しながらも夫婦で力を合わせ、家具や勉強机と椅子などを作って生計を立てた。

誠実な性格の父は真面目に仕事をし、手抜きすることがなかったため、収入は多くなかった。母はやりくりして家計を支え、数々の内職をした。後に父が慢性病を患ってから、母は早朝四時に市場に行って、野菜や果物の卸売をしたり、道端で野菜や果物と紙銭を売ったりした。野菜や果物が売れ残った時は、自転車を押して売り歩き、家に帰るのは日が暮れてからだった。

一九九〇年、父が六十六歳で病死し、母は深い悲しみに暮れ、再び人生への未練をなくしてしまった。私たち子供は、母の出家を忍びなく思い、真面目に慈済に打ち込んで、菩薩道を歩むよう勧めた。それ以降、母は慈済に専念するようになり、私たちが帰省する時でも事前に約束しないと会えないこともあった。

仏法を深く信仰した洪玉哖さんと夫の謝松釜さんは、二人とも菩薩戒を受けた仏教徒だった。

毎日手押し車で善行する

読み書きができないことで苦労した母は、教育の重要性を感じ、「たとえ物乞いしてでも、私たちを学校に通わせる」と言ったことがある。新学期の頃になると、いつも七人の子どもの莫大な学費を工面するために、借金したり、頼母子講で資金を調達したりした。草屯鎮で開業医をしていた叔父は、いつも私たちの学費を支援してくれた人で、一家にとって忘れがたい恩人だった。みんなの期待を裏切らず、私たちは全員高等教育を修了し、兄の謝輝龍(シェ・フイロン)は南投竹山秀傳病院の院長を務めるまでになった。

母は、菩薩戒を受けた敬虔な仏教徒で、早くから菜食をしていた。彼女自身の生活は極めて質素だったが、周囲の仏教寺院へ供養したいと尽力し、お経を唱え、法器を叩くことを学び、多くの経典を暗誦することができるようになった。草屯鎮で初めての慈済の種子である張河圳(ヅァン・ホーヅン)師兄は、よく私たちの家に来て慈済の話をした。慈済が花蓮で病院を建設していた頃、母は慈済列車に乗って花蓮を訪れてとても感銘を受け、直ちに病室一つ分の建設費三十万台湾ドルを集めた。一九八九年に慈済委員になった時、私たちは既に成長して自立していたが、母は悠々自適の暮らしに甘んじることなく、證厳法師の後ろについて、人々に奉仕した。

一九九〇年、證厳法師は「拍手する手で環境保護をしましょう」と呼びかけた。母はその教えを実行に移し、道路が彼女の道場となり、四輪車を押して街中を歩きまわった。彼女は、自分で栽培した野菜や仕入れた果物を販売しながら資源を回収したり、募金や会費集めをしたりした。そして、腰をかがめてペットボトルやダンボールなど資源ゴミを拾う度に、「阿弥陀仏」と唱えていた。それが彼女なりの拝仏であった。このようにして、毎日街角や路地で仏法を実践していたので、草屯鎮の多くの人は母のことを知っていて、非常に多くの人が彼女の会員になった。

彼女は、あちこちで資源回収をする途中でバスにぶつけられて入院したことがある。また、バイクに乗った若者が母の後をつけ、ペットボトルを手渡すと同時に首にかけていた金のネックレスを奪ったので、母は転んで怪我をしたこともある。しかし、どんな事があっても、彼女の堅い信念は揺るがなかった。

母は料理が得意で、一度食べた料理は全て調理でき、周囲からコック長と称賛された。私の二人の兄が結婚した時、母は自ら宴席の料理を作って来客をもてなした。そして、国内外で大きな災害が発生し、慈済が支援活動をした時も、ベジタリアンちまきやスープ、昔ながらのタケノコマントウなどを作ってチャリティ販売をした。今でも家族は、母が作ったちまきや薬膳スープの味を懐かしむ。母の右に出る味には出会ったことが無い。

戦争を経験した母は、被災者の苦しみを、身をもって感じていた。平成八年台風九号や921地震、平成二十一年の八八水害の時は、料理のチャリティー販売をしたりした他、誰にでも慈済のことを語り、募金集めをしたりして、あらゆる機会を逃さなかった。毎月、会費を集めに行く日、母は早朝から長男の輝龍、または私の妹の謝素芬(シェ・スーフェン)に頼んで手推し車と一緒に新庄村まで運んでもらい、そこから歩いて会費集めと資源回収をした後、草屯市街地まで歩いて帰宅する。時には夜の十一時を回ることもあって、一日に十数キロを歩いており、その並外れた気力は人々を驚かせた。

洪玉哖さん(中央)は気前よく布施をし、2005年の歳末祝福会で名誉董事の称号を授かった。

七十七歳で海外ボランティア

草屯鎮における母の善行は、多くの人々に感動を与え、集った会員は四、五百人にも達した。最初は募金ノートの記入を人に頼んでいたが、やがて光栄小学校の夜間部に通って読み書きを勉強するようになった。在学の三年間、一度も欠席したことがなく、卒業の時は、成績優秀者に贈られる賞状までもらった。

彼女は慈済病院でボランティアをする事に喜びを感じ、花蓮、大林、台中のどこでも母の姿が見られた。初めは花蓮慈済病院の地下室でシーツの縫製を手伝い、暫くして病室ボランティアをした。彼女は、自身の人生経歴や聞いた仏法をシェアして患者の心を落ち着かせた。患者の笑顔を見られるだけで、母は大きな達成感を感じた。ある日のボランティア朝の会で、母は勇敢にも壇上に上がって自分の人生を分かち合った。その時、人々は初めて、彼女の素晴らしい人生を聞き、仏法が心に入り、それを実践しているのが人間菩薩であることを知った。

彼女は海外での施療活動に参加したかったが、證厳法師は母の年齢を考慮し、長距離移動が負担になるのではないかと心配した。彼女は、大丈夫だということを証明するために、中国の黄山に登り、写真を撮って来て法師に見せた。二〇〇三年、彼女は長男の謝輝龍院長と一緒に、インドネシアでの施療活動に参加した。少し休憩するようボランティアに勧められても、母は「高い航空券を買ってやって来たのは、手伝いをするためです」と言った。

二〇〇五年、母を主人公にした大愛ドラマ『好願連年』が放映された。彼女は、自分が歩んできた人生なのだからその内容をよく知っており、見る必要はないと言って、いつも通り夜遅くまで資源回収をしていた。兄は、母は視力が悪く、夜は危ないと心配して、よく探しに出かけた。私たちの心配を知った法師は、毎晩必ず『好願連年』を見なさいと母に言づけた。法師を深く愛する母は、おとなしく早目に帰宅するようになった。

百歳近い洪玉哖さんが子供や孫たちと一緒に撮った写真。(写真提供・謝輝龍)

善行に導いてくれた母に感謝

母は九十歳を過ぎても仏の教えに従って奉仕し続け、いつも愛を募る募金をすることと仏法を聞いて精進することだけ考えていた。やがて、ほぼ全盲になり、認知症も進んでいたが、耳で仏法を聞いて精進し、亡くなる直前になっても、『心経』や『大悲咒』・『阿弥陀経』を唱えることができた。

看護師である妹の謝素英(シェ・スーイン)は、長庚大学看護学部副教授を務めている。母は、九十一歳で手術を受けて以来、新北市林口区で妹と同居するようになった。素英は母を連れて、念仏会やリサイクルステーションで活動に参加したが、母は募金集めに行きたいとよく口にしていた。

二〇二四年の八月三日、母は自宅で息を引き取った。「何もせずに死ぬよりも、死ぬまで奉仕する方がいい」という自分への約束を守った。六度万行を成し遂げた母は仏の弟子であり、台湾の模範的な母親だと言えよう。全国から推薦された「善人善行」の代表にもなり、私にとってもお手本である。

母は一生、私たち家族のために働き過ぎていたので、三十歳を過ぎた頃、子宮から大量出血した。手術後、父は母を連れて二回も占いに連れて行った。占い師は、「この人はもうこの世にはいない」と断言しながらも、確かに目の前にいる母を見て不思議だと言った。「この世には占いが効かない人が二種類あります。一種類は修行者で、もう一種類は常に善行をしている人です」。

たとえ生活が苦しくても、母は変わらずに善行をしていたので、それが子どもたちに大きく影響して全員が仏教徒になり、人助けに喜びを感じている。私たちは、慈済に導いてくれた母に、心から感謝している。彼女の勇猛な精進ぶりには及ばない。怠けてはいけないと励まし、「上人が担っている責任はとても重く、みんなで分担し合えばその重荷が軽くなり、過去の業も消えるようになる」と母は常に言っていた。

母は生涯にわたって多くの人と良縁を結んで来たため、草屯鎮の自宅で行われた告別式の日には五百人あまりが母を見送ってくれた。母の大いなる心願は、「来世は弘法利生する法師になること」だった。私は、母が既にこの世に生まれ変わっていると信じている。

(慈済月刊六九五期より)

洪玉哖さんは手押し車を押して野菜や果物を売りながら、道すがら資源を回収し、環境保護活動をした。(撮影・林義澤)

私の母、洪玉哖(ホン・ユウニェン)は、出家する縁が三度あったが、願いは叶わなかった。慈済委員の認証を授かってからは、手押し車を押して草屯地区を回り、募金集めやリサイクル活動をした。

腰をかがめる度に「南無阿弥陀仏」と唱えるので、毎日、街角や路地にいても繞仏(にょうぶつ)していることになる。母は仏の弟子であると同時に、模範的な母親であり、私にとってのお手本である。

私の母、洪玉哖(ホン・ユーニエン)は、人生の中で三度、出家して仏道に学ぼうとしたことがあったが、三度とも願いを叶えることができなかった。

彼女は、一九二六年三月十四日に草屯鎮の新庄里の田舎に生まれた。当時の社会は貧しさに加えて男尊女卑の観念があり、勉強したいという彼女の願いは叶わず、長姉と一緒に牛の放牧をしたり、家事に明け暮れたりする日々を送った。母方の祖父は、二男を薬剤師にするために日本に留学させようと、田んぼを売って資金を調達してくれた。後に末の息子も医学部を卒業した。薬剤師と人を救う医師を輩出したことで、洪家は名を揚げた。

母は、病に苦しんでも貧しかったために医者にかかるのは容易でなかったという祖母の姿を、幼い頃から見て育った。人生の苦しみを体験した母は、お寺に行って、法師に剃髪出家の思いを懇願した。しかし、硬く反対した祖父に連れ戻された。こうして、最初の出家の縁は消えてしまった。

一九四五年、母は十九歳で大工職人の謝松釜(シェ・ソンフー)と結婚し、三男四女を儲けた。生活は厳しく、母は出家の願いを断ち切れず、解脱の道を探そうとしたが、子供がまだ幼かったため、父からカンナ削りやノコギリの使い方、ペンキ塗りなどを学び、苦労しながらも夫婦で力を合わせ、家具や勉強机と椅子などを作って生計を立てた。

誠実な性格の父は真面目に仕事をし、手抜きすることがなかったため、収入は多くなかった。母はやりくりして家計を支え、数々の内職をした。後に父が慢性病を患ってから、母は早朝四時に市場に行って、野菜や果物の卸売をしたり、道端で野菜や果物と紙銭を売ったりした。野菜や果物が売れ残った時は、自転車を押して売り歩き、家に帰るのは日が暮れてからだった。

一九九〇年、父が六十六歳で病死し、母は深い悲しみに暮れ、再び人生への未練をなくしてしまった。私たち子供は、母の出家を忍びなく思い、真面目に慈済に打ち込んで、菩薩道を歩むよう勧めた。それ以降、母は慈済に専念するようになり、私たちが帰省する時でも事前に約束しないと会えないこともあった。

仏法を深く信仰した洪玉哖さんと夫の謝松釜さんは、二人とも菩薩戒を受けた仏教徒だった。

毎日手押し車で善行する

読み書きができないことで苦労した母は、教育の重要性を感じ、「たとえ物乞いしてでも、私たちを学校に通わせる」と言ったことがある。新学期の頃になると、いつも七人の子どもの莫大な学費を工面するために、借金したり、頼母子講で資金を調達したりした。草屯鎮で開業医をしていた叔父は、いつも私たちの学費を支援してくれた人で、一家にとって忘れがたい恩人だった。みんなの期待を裏切らず、私たちは全員高等教育を修了し、兄の謝輝龍(シェ・フイロン)は南投竹山秀傳病院の院長を務めるまでになった。

母は、菩薩戒を受けた敬虔な仏教徒で、早くから菜食をしていた。彼女自身の生活は極めて質素だったが、周囲の仏教寺院へ供養したいと尽力し、お経を唱え、法器を叩くことを学び、多くの経典を暗誦することができるようになった。草屯鎮で初めての慈済の種子である張河圳(ヅァン・ホーヅン)師兄は、よく私たちの家に来て慈済の話をした。慈済が花蓮で病院を建設していた頃、母は慈済列車に乗って花蓮を訪れてとても感銘を受け、直ちに病室一つ分の建設費三十万台湾ドルを集めた。一九八九年に慈済委員になった時、私たちは既に成長して自立していたが、母は悠々自適の暮らしに甘んじることなく、證厳法師の後ろについて、人々に奉仕した。

一九九〇年、證厳法師は「拍手する手で環境保護をしましょう」と呼びかけた。母はその教えを実行に移し、道路が彼女の道場となり、四輪車を押して街中を歩きまわった。彼女は、自分で栽培した野菜や仕入れた果物を販売しながら資源を回収したり、募金や会費集めをしたりした。そして、腰をかがめてペットボトルやダンボールなど資源ゴミを拾う度に、「阿弥陀仏」と唱えていた。それが彼女なりの拝仏であった。このようにして、毎日街角や路地で仏法を実践していたので、草屯鎮の多くの人は母のことを知っていて、非常に多くの人が彼女の会員になった。

彼女は、あちこちで資源回収をする途中でバスにぶつけられて入院したことがある。また、バイクに乗った若者が母の後をつけ、ペットボトルを手渡すと同時に首にかけていた金のネックレスを奪ったので、母は転んで怪我をしたこともある。しかし、どんな事があっても、彼女の堅い信念は揺るがなかった。

母は料理が得意で、一度食べた料理は全て調理でき、周囲からコック長と称賛された。私の二人の兄が結婚した時、母は自ら宴席の料理を作って来客をもてなした。そして、国内外で大きな災害が発生し、慈済が支援活動をした時も、ベジタリアンちまきやスープ、昔ながらのタケノコマントウなどを作ってチャリティ販売をした。今でも家族は、母が作ったちまきや薬膳スープの味を懐かしむ。母の右に出る味には出会ったことが無い。

戦争を経験した母は、被災者の苦しみを、身をもって感じていた。平成八年台風九号や921地震、平成二十一年の八八水害の時は、料理のチャリティー販売をしたりした他、誰にでも慈済のことを語り、募金集めをしたりして、あらゆる機会を逃さなかった。毎月、会費を集めに行く日、母は早朝から長男の輝龍、または私の妹の謝素芬(シェ・スーフェン)に頼んで手推し車と一緒に新庄村まで運んでもらい、そこから歩いて会費集めと資源回収をした後、草屯市街地まで歩いて帰宅する。時には夜の十一時を回ることもあって、一日に十数キロを歩いており、その並外れた気力は人々を驚かせた。

洪玉哖さん(中央)は気前よく布施をし、2005年の歳末祝福会で名誉董事の称号を授かった。

七十七歳で海外ボランティア

草屯鎮における母の善行は、多くの人々に感動を与え、集った会員は四、五百人にも達した。最初は募金ノートの記入を人に頼んでいたが、やがて光栄小学校の夜間部に通って読み書きを勉強するようになった。在学の三年間、一度も欠席したことがなく、卒業の時は、成績優秀者に贈られる賞状までもらった。

彼女は慈済病院でボランティアをする事に喜びを感じ、花蓮、大林、台中のどこでも母の姿が見られた。初めは花蓮慈済病院の地下室でシーツの縫製を手伝い、暫くして病室ボランティアをした。彼女は、自身の人生経歴や聞いた仏法をシェアして患者の心を落ち着かせた。患者の笑顔を見られるだけで、母は大きな達成感を感じた。ある日のボランティア朝の会で、母は勇敢にも壇上に上がって自分の人生を分かち合った。その時、人々は初めて、彼女の素晴らしい人生を聞き、仏法が心に入り、それを実践しているのが人間菩薩であることを知った。

彼女は海外での施療活動に参加したかったが、證厳法師は母の年齢を考慮し、長距離移動が負担になるのではないかと心配した。彼女は、大丈夫だということを証明するために、中国の黄山に登り、写真を撮って来て法師に見せた。二〇〇三年、彼女は長男の謝輝龍院長と一緒に、インドネシアでの施療活動に参加した。少し休憩するようボランティアに勧められても、母は「高い航空券を買ってやって来たのは、手伝いをするためです」と言った。

二〇〇五年、母を主人公にした大愛ドラマ『好願連年』が放映された。彼女は、自分が歩んできた人生なのだからその内容をよく知っており、見る必要はないと言って、いつも通り夜遅くまで資源回収をしていた。兄は、母は視力が悪く、夜は危ないと心配して、よく探しに出かけた。私たちの心配を知った法師は、毎晩必ず『好願連年』を見なさいと母に言づけた。法師を深く愛する母は、おとなしく早目に帰宅するようになった。

百歳近い洪玉哖さんが子供や孫たちと一緒に撮った写真。(写真提供・謝輝龍)

善行に導いてくれた母に感謝

母は九十歳を過ぎても仏の教えに従って奉仕し続け、いつも愛を募る募金をすることと仏法を聞いて精進することだけ考えていた。やがて、ほぼ全盲になり、認知症も進んでいたが、耳で仏法を聞いて精進し、亡くなる直前になっても、『心経』や『大悲咒』・『阿弥陀経』を唱えることができた。

看護師である妹の謝素英(シェ・スーイン)は、長庚大学看護学部副教授を務めている。母は、九十一歳で手術を受けて以来、新北市林口区で妹と同居するようになった。素英は母を連れて、念仏会やリサイクルステーションで活動に参加したが、母は募金集めに行きたいとよく口にしていた。

二〇二四年の八月三日、母は自宅で息を引き取った。「何もせずに死ぬよりも、死ぬまで奉仕する方がいい」という自分への約束を守った。六度万行を成し遂げた母は仏の弟子であり、台湾の模範的な母親だと言えよう。全国から推薦された「善人善行」の代表にもなり、私にとってもお手本である。

母は一生、私たち家族のために働き過ぎていたので、三十歳を過ぎた頃、子宮から大量出血した。手術後、父は母を連れて二回も占いに連れて行った。占い師は、「この人はもうこの世にはいない」と断言しながらも、確かに目の前にいる母を見て不思議だと言った。「この世には占いが効かない人が二種類あります。一種類は修行者で、もう一種類は常に善行をしている人です」。

たとえ生活が苦しくても、母は変わらずに善行をしていたので、それが子どもたちに大きく影響して全員が仏教徒になり、人助けに喜びを感じている。私たちは、慈済に導いてくれた母に、心から感謝している。彼女の勇猛な精進ぶりには及ばない。怠けてはいけないと励まし、「上人が担っている責任はとても重く、みんなで分担し合えばその重荷が軽くなり、過去の業も消えるようになる」と母は常に言っていた。

母は生涯にわたって多くの人と良縁を結んで来たため、草屯鎮の自宅で行われた告別式の日には五百人あまりが母を見送ってくれた。母の大いなる心願は、「来世は弘法利生する法師になること」だった。私は、母が既にこの世に生まれ変わっていると信じている。

(慈済月刊六九五期より)

洪玉哖さんは手押し車を押して野菜や果物を売りながら、道すがら資源を回収し、環境保護活動をした。(撮影・林義澤)

關鍵字

The Illustrated Jing Si Aphorisms

The Buddha says:

I never talk about anything
that does not concern people’s well-being,
that does not teach people how to be
free from suffering, mental impurities, and desire,
that does not teach peace, purity, wisdom,
enlightenment, and nirvana.

True religion is based on a righteous mind, which always gives one freedom. Superstition, on the other hand, leads to doubt and fear. If you rely on idols and fortune-telling, you will never really understand the meaning of Buddhism.

True Buddhist teachings never talk about divination or supernatural powers. The Buddha is only in your heart.

How can we make our society more harmonious and peaceful?

Dharma Master Cheng Yen: “The only way is to purify people’s minds and nurture the innate love in their hearts. To purify the mind, we must start with education. No matter what today’s society is like, so long as we do a good job with education, there will be hope for tomorrow’s society.”

Translated by E. E. Ho and W. L. Rathje; drawings by Tsai Chih-chung; coloring by May E. Gu

The Buddha says:

I never talk about anything
that does not concern people’s well-being,
that does not teach people how to be
free from suffering, mental impurities, and desire,
that does not teach peace, purity, wisdom,
enlightenment, and nirvana.

True religion is based on a righteous mind, which always gives one freedom. Superstition, on the other hand, leads to doubt and fear. If you rely on idols and fortune-telling, you will never really understand the meaning of Buddhism.

True Buddhist teachings never talk about divination or supernatural powers. The Buddha is only in your heart.

How can we make our society more harmonious and peaceful?

Dharma Master Cheng Yen: “The only way is to purify people’s minds and nurture the innate love in their hearts. To purify the mind, we must start with education. No matter what today’s society is like, so long as we do a good job with education, there will be hope for tomorrow’s society.”

Translated by E. E. Ho and W. L. Rathje; drawings by Tsai Chih-chung; coloring by May E. Gu

關鍵字

敬虔に祈り、吉祥を呼び込む

福を造る因縁を大切にし、真心をもって助け合い、皆の敬虔な祈りを天に届けるのです。

私たちの心が一つになり、思いがすべて善であるなら、全てに幸運を呼び込むことができるのです。

新年早々、アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス郡で山火事が発生し、被災地の空が真っ赤に染まった映像をニュースで見て、不安になりました。大火に強風が加わり、火が飛んでまた燃え上がり、近隣の居住地区に燃え移って広範囲の災難となり、まるで人間(じんかん)の火宅のようです。

家が全焼した被災者は親戚や友人に頼って、宿泊と生活は安定していても、火事場から急いで脱出したため、経済的に困難に直面しているかもしれません。今、私たちにできることは緊急援助であり、早く駆け付けて、被災者に、彼らにとって役に立つ、「実感が得られる」支援を与えるべきで、表面的なものであってはなりません。

慈済が行った最初の大規模な緊急災害支援を思い返してみると、それは、一九六九年に台湾台東県卑南郷大南村で発生した火災でした。中秋節の夜に台風エルシーが襲来した上、フェーン現象が起きて、村で発生した火災が大惨事になりました。一夜にして百軒以上の家屋が焼失し、七百人余りが家を無くしました。お見舞金の配付だけでなく、寒い冬がやってくるため、慈済は二萬元(十万円相当)の金額を費やして、当時台湾で最高な品質を誇る「台麗」ブランドの毛布を購入し、被災世帯に配付しました。それも、一世帯に一枚ではなく、家族構成に合わせて、二人に一枚を配付することにしました。愛と敬意の心を込めて、最高の物を贈り、私たちの気持ちを感じ取ってもらいました。

私はアメリカの今回の山火事に注目し、どうすれば助けられるかを真剣に考えました。人力と物資の投入以外に、皆の敬虔な祈りを諸仏や天に届けることで、人間(じんかん)の大愛を見てもらうのです。誰もが一緒に大善と大愛で奉仕し、今回の火災が一日も早く鎮火し、危機が安堵に変わることを願うのです。

多くの被災住民は、これまで裕福な暮らしをして来ましたが、一夜にして家も財産も失いました。これは正に仏法の言葉通り、財産は「五家共有する」であり、突然の災難で今まで持っていた全てを無くしてしまったのです。お金持ちであろうと貧しい人であろうと、お腹が空いて食べ物がない時、相手がお金持ちだからといって、ご飯をあげないでいられるでしょうか?緊急時に、飲み水や食事を適時に提供し、また寒い時に暖かい衣服や毛布を提供するのは、とても大事なことです。

㊟五家共有:「財産は、火災、洪水、戦争、強盗(詐欺)、親不孝の子によって無くなる」という仏教での教え。

慈済人は募金活動を開始しましたが、それは復興支援のためというだけでなく、最も重要なのは、皆の警戒心を高め、この世で相互扶助の精神を発揮するよう呼びかけていることです。これこそ私たちが福を造る因縁なのです。ですから、誰もがその機会を逃さないようにしましょう。とても困っている人がいる時、直ちに奉仕するのが、私たちの人生で最も貴い時だと言えます。また奉仕すると同時に、親戚や友人にも、より多くの力を発揮し、共に福田を耕すことを発心するよう、呼びかけましょう。

慈済は明朗な仏教団体であり、仏教精神は、宗教に関係なく、常に心を開き、衆生を抱擁します。慈済がアメリカに根を下ろして三十余年、さらに足場を固め、この因縁を逃さず、実力を発揮して効率良く支援を提供すべきです。誠意を以てこの国際的なプラットフォームに立ち、「仏教の為、衆生の為」という精神を千年百世へ延々と継続させるのです。未来の人間(じんかん)は災害から逃れられないため、災害支援の経験を代々受け継いでいかなければなりません。

今回の火災は、私たちが今学んでいる、大いなる教育なのです。山火事の範囲がとても広いため、誰もが心を静めて、敬虔に祈ることです。もし、複雑な先入観があれば、火災による災害よりもはるかに深刻な事態になるかもしれません。私たちは身で以て模範を示し、誠実な愛で敬虔さを表わさなければいけません。真心の愛とは、生きとし生けるものを慈しむことであり、衆生の命を守ることは、即ち自分の心を養い、自分の心を潤すことなのです。私たちの「心の宅」を、常に愛で潤すことができれば、心が乾くことはなく、小さな火が燃え盛ることはありません。

アメリカ慈済ボランティアの呉如真(ウー・ルーヅン)さんの家はこの火事で全焼しました。しかし、彼女は勇敢に現実に立ち向かい、心念を一転して、暫し自分の境遇を脇に置き、直ちに他人を助ける行動に出ました。なんと素晴らしい、私の良き弟子なのでしょう!このような模範的な法縁者がいるのですから、私たちは彼女の智慧をしっかり学ばなければなりません。

慈済人は人間(じんかん)菩薩であり、菩薩は苦難のあるところならどこでも現れます。人々が神頼みするところに現れるのではありません。私たちは、誰かが助けを求めるのを待っていてはならず、直ちに苦難を助けに行くのです。ここ数日、現地の慈済人は災害支援に尽力しています。皆さんの労を労いつつ、誰もが互いに励まし合い、皆が自信と気力と勇気を結集し、心から菩薩の愛を衆生に奉仕することを願っています。私たちが愛と善でこの道を切り開くことができれば、私たちの心は一つになり、心中に念ずるのは善だけとなって、幸運を呼び込むことができるのです。

今この時、私たちは世界の人々に、敬虔に祈り、敬虔に慎み深く発願し、菜食をするよう、呼びかけなければなりません。アメリカと世界の平和を祈って!

(慈済月刊六九九期より)

福を造る因縁を大切にし、真心をもって助け合い、皆の敬虔な祈りを天に届けるのです。

私たちの心が一つになり、思いがすべて善であるなら、全てに幸運を呼び込むことができるのです。

新年早々、アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス郡で山火事が発生し、被災地の空が真っ赤に染まった映像をニュースで見て、不安になりました。大火に強風が加わり、火が飛んでまた燃え上がり、近隣の居住地区に燃え移って広範囲の災難となり、まるで人間(じんかん)の火宅のようです。

家が全焼した被災者は親戚や友人に頼って、宿泊と生活は安定していても、火事場から急いで脱出したため、経済的に困難に直面しているかもしれません。今、私たちにできることは緊急援助であり、早く駆け付けて、被災者に、彼らにとって役に立つ、「実感が得られる」支援を与えるべきで、表面的なものであってはなりません。

慈済が行った最初の大規模な緊急災害支援を思い返してみると、それは、一九六九年に台湾台東県卑南郷大南村で発生した火災でした。中秋節の夜に台風エルシーが襲来した上、フェーン現象が起きて、村で発生した火災が大惨事になりました。一夜にして百軒以上の家屋が焼失し、七百人余りが家を無くしました。お見舞金の配付だけでなく、寒い冬がやってくるため、慈済は二萬元(十万円相当)の金額を費やして、当時台湾で最高な品質を誇る「台麗」ブランドの毛布を購入し、被災世帯に配付しました。それも、一世帯に一枚ではなく、家族構成に合わせて、二人に一枚を配付することにしました。愛と敬意の心を込めて、最高の物を贈り、私たちの気持ちを感じ取ってもらいました。

私はアメリカの今回の山火事に注目し、どうすれば助けられるかを真剣に考えました。人力と物資の投入以外に、皆の敬虔な祈りを諸仏や天に届けることで、人間(じんかん)の大愛を見てもらうのです。誰もが一緒に大善と大愛で奉仕し、今回の火災が一日も早く鎮火し、危機が安堵に変わることを願うのです。

多くの被災住民は、これまで裕福な暮らしをして来ましたが、一夜にして家も財産も失いました。これは正に仏法の言葉通り、財産は「五家共有する」であり、突然の災難で今まで持っていた全てを無くしてしまったのです。お金持ちであろうと貧しい人であろうと、お腹が空いて食べ物がない時、相手がお金持ちだからといって、ご飯をあげないでいられるでしょうか?緊急時に、飲み水や食事を適時に提供し、また寒い時に暖かい衣服や毛布を提供するのは、とても大事なことです。

㊟五家共有:「財産は、火災、洪水、戦争、強盗(詐欺)、親不孝の子によって無くなる」という仏教での教え。

慈済人は募金活動を開始しましたが、それは復興支援のためというだけでなく、最も重要なのは、皆の警戒心を高め、この世で相互扶助の精神を発揮するよう呼びかけていることです。これこそ私たちが福を造る因縁なのです。ですから、誰もがその機会を逃さないようにしましょう。とても困っている人がいる時、直ちに奉仕するのが、私たちの人生で最も貴い時だと言えます。また奉仕すると同時に、親戚や友人にも、より多くの力を発揮し、共に福田を耕すことを発心するよう、呼びかけましょう。

慈済は明朗な仏教団体であり、仏教精神は、宗教に関係なく、常に心を開き、衆生を抱擁します。慈済がアメリカに根を下ろして三十余年、さらに足場を固め、この因縁を逃さず、実力を発揮して効率良く支援を提供すべきです。誠意を以てこの国際的なプラットフォームに立ち、「仏教の為、衆生の為」という精神を千年百世へ延々と継続させるのです。未来の人間(じんかん)は災害から逃れられないため、災害支援の経験を代々受け継いでいかなければなりません。

今回の火災は、私たちが今学んでいる、大いなる教育なのです。山火事の範囲がとても広いため、誰もが心を静めて、敬虔に祈ることです。もし、複雑な先入観があれば、火災による災害よりもはるかに深刻な事態になるかもしれません。私たちは身で以て模範を示し、誠実な愛で敬虔さを表わさなければいけません。真心の愛とは、生きとし生けるものを慈しむことであり、衆生の命を守ることは、即ち自分の心を養い、自分の心を潤すことなのです。私たちの「心の宅」を、常に愛で潤すことができれば、心が乾くことはなく、小さな火が燃え盛ることはありません。

アメリカ慈済ボランティアの呉如真(ウー・ルーヅン)さんの家はこの火事で全焼しました。しかし、彼女は勇敢に現実に立ち向かい、心念を一転して、暫し自分の境遇を脇に置き、直ちに他人を助ける行動に出ました。なんと素晴らしい、私の良き弟子なのでしょう!このような模範的な法縁者がいるのですから、私たちは彼女の智慧をしっかり学ばなければなりません。

慈済人は人間(じんかん)菩薩であり、菩薩は苦難のあるところならどこでも現れます。人々が神頼みするところに現れるのではありません。私たちは、誰かが助けを求めるのを待っていてはならず、直ちに苦難を助けに行くのです。ここ数日、現地の慈済人は災害支援に尽力しています。皆さんの労を労いつつ、誰もが互いに励まし合い、皆が自信と気力と勇気を結集し、心から菩薩の愛を衆生に奉仕することを願っています。私たちが愛と善でこの道を切り開くことができれば、私たちの心は一つになり、心中に念ずるのは善だけとなって、幸運を呼び込むことができるのです。

今この時、私たちは世界の人々に、敬虔に祈り、敬虔に慎み深く発願し、菜食をするよう、呼びかけなければなりません。アメリカと世界の平和を祈って!

(慈済月刊六九九期より)

關鍵字

あなたに世話してもらうのは私の幸せ

「あなたはとても優しい上に、どんなに忙しくてもエレガントで、目には微笑みを浮かべ、動作がとても軽やかですね。あなたに世話してもらえて、私は幸せです」。

おじさんの言葉で、私は看護師の価値を感じた。世話を必要としている人に奉仕するのも、私の幸せである。

(絵‧温牧)

病室に口腔がんを患ったおじさんが来た。左側の頬は既に腫瘍に圧迫されていて、経鼻胃管を使い、気管切開もしていたので、私たちは筆談を通してコミュニケ―ションを取った。

暫くして、私たちは仲良くなり、家族とも快く付き合った。おじさんは、容態が悪くなってきたので、奥さんと共に覚悟をした。

ある晩、私は夢を見た。白い背景の前におじさんが立っていて、経鼻胃管も気管切開もなくなって頬の腫瘍も治癒していた。夢の中の彼は、身分証明書の写真そのもので、私に向かって「ありがとうございました」と一言だけ言った。

私はその夢が現実のように思えた。一生忘れることはないだろう。数日後、おじさんは円満にこの世を去った。最後に、私は彼の体を洗い清め、遠くへ送り出してあげた。これは運命に定められた良いご縁だったのだろうと思った。

もう一人は、定期的に病院に通って化学療法を受けていたおじさんである。何度か私たちが担当する病棟に入院し、その度に私が世話した。いつも一人でいたので、私は特別に時間を割いて世間話をしながら元気づけた。ある日、おじさんが私に言った。

「あなたは、とても優しい人だ。どんなに忙しくても、目つきからして微笑みが感じられます。それに仕事をしている姿は落ち着いていて、動作が軽やかです。あなたに世話してもらえて、私は幸せです」。その時、私は恥ずかしくなったが、同時に心を打たれた。

この二人の年長者の言葉から、私は看護の価値を悟った。多くの人は、看護の仕事は非常に忙しいと思っているが、どんな仕事でも忙しいのではないだろうか。私は仕事する中で自分の価値を見つけ、喜んでそれに専念することで、続けられるパワーが出てくるのだと思っている。

実際、あらゆる患者さんが私たちの良き師であり、互いの生命の中から学び合うことができるのだ。看護師は患者と家族の身心を支え、彼らの言葉から仕事の姿勢を反省したり、修正したりしているのである。そして、ひいては自分のIQ(知能指数)とEQ(心の知能指数)を高め、看護の仕事をより良くしているのだ。

時々後輩たちが私にこう言う。

「先輩、臨床の仕事はとても疲れます。やめてしまいたいくらいです」。私は、見る角度を変えて考えるようにと励ましている。もし、ベッドで横になっている人や手術室に入っている人、外来の外で待っている人が自分の家族だったらどうだろうか。どんなに忙しくて疲れていても、喜んで世話するはずだ。

心して行えば、患者さんはその温さを感じ取ってくれるので、正しい事を行動に移せばいいのだ。それは、「人生で誰かに必要とされた時、自分の能力で以て奉仕することができるなら、それが最も幸せな人生です」。静思語の言う通りである。

(慈済月刊六九六期より)

「あなたはとても優しい上に、どんなに忙しくてもエレガントで、目には微笑みを浮かべ、動作がとても軽やかですね。あなたに世話してもらえて、私は幸せです」。

おじさんの言葉で、私は看護師の価値を感じた。世話を必要としている人に奉仕するのも、私の幸せである。

(絵‧温牧)

病室に口腔がんを患ったおじさんが来た。左側の頬は既に腫瘍に圧迫されていて、経鼻胃管を使い、気管切開もしていたので、私たちは筆談を通してコミュニケ―ションを取った。

暫くして、私たちは仲良くなり、家族とも快く付き合った。おじさんは、容態が悪くなってきたので、奥さんと共に覚悟をした。

ある晩、私は夢を見た。白い背景の前におじさんが立っていて、経鼻胃管も気管切開もなくなって頬の腫瘍も治癒していた。夢の中の彼は、身分証明書の写真そのもので、私に向かって「ありがとうございました」と一言だけ言った。

私はその夢が現実のように思えた。一生忘れることはないだろう。数日後、おじさんは円満にこの世を去った。最後に、私は彼の体を洗い清め、遠くへ送り出してあげた。これは運命に定められた良いご縁だったのだろうと思った。

もう一人は、定期的に病院に通って化学療法を受けていたおじさんである。何度か私たちが担当する病棟に入院し、その度に私が世話した。いつも一人でいたので、私は特別に時間を割いて世間話をしながら元気づけた。ある日、おじさんが私に言った。

「あなたは、とても優しい人だ。どんなに忙しくても、目つきからして微笑みが感じられます。それに仕事をしている姿は落ち着いていて、動作が軽やかです。あなたに世話してもらえて、私は幸せです」。その時、私は恥ずかしくなったが、同時に心を打たれた。

この二人の年長者の言葉から、私は看護の価値を悟った。多くの人は、看護の仕事は非常に忙しいと思っているが、どんな仕事でも忙しいのではないだろうか。私は仕事する中で自分の価値を見つけ、喜んでそれに専念することで、続けられるパワーが出てくるのだと思っている。

実際、あらゆる患者さんが私たちの良き師であり、互いの生命の中から学び合うことができるのだ。看護師は患者と家族の身心を支え、彼らの言葉から仕事の姿勢を反省したり、修正したりしているのである。そして、ひいては自分のIQ(知能指数)とEQ(心の知能指数)を高め、看護の仕事をより良くしているのだ。

時々後輩たちが私にこう言う。

「先輩、臨床の仕事はとても疲れます。やめてしまいたいくらいです」。私は、見る角度を変えて考えるようにと励ましている。もし、ベッドで横になっている人や手術室に入っている人、外来の外で待っている人が自分の家族だったらどうだろうか。どんなに忙しくて疲れていても、喜んで世話するはずだ。

心して行えば、患者さんはその温さを感じ取ってくれるので、正しい事を行動に移せばいいのだ。それは、「人生で誰かに必要とされた時、自分の能力で以て奉仕することができるなら、それが最も幸せな人生です」。静思語の言う通りである。

(慈済月刊六九六期より)

關鍵字

慈済の出来事 1/15-2/23

台湾
Taiwan

●春節前後、インフルエンザが流行し、台湾全土の病院の救急外来は人でいっぱいになった。花蓮慈済病院は、改めて改修後の第一総合医学救急転送病棟の使用を開始することで、病床不足の解消に努め、より多くの緊急患者が早く治療できるようにした。(2月7日)

●1月21日の嘉義大埔地震に対して、ボランティアは22日から27日まで大埔郷、台南市楠西区、玉井区などで4千世帯を訪問して祝福セットを、240世帯に緊急見舞金を届けると共に、4万食の炊き出しを行った。また、政府が開設した避難所に497台の福慧ベッド、193枚の福慧間仕切りテントを届けた。2月10日から台湾全土の専業ボランティアが楠西区楠西里、東勢里で、構造が安全で、損傷がより軽微な世帯の住居の修繕を行った。(2月10日)

●台湾ランタンフェスティバルが桃園市で行われた。慈済は移動環境教育車を使って「光のゲーム場」エリアに参加した。ゲームを通して環境保護と防災知識を学ぶものである。(2月7日〜23日)

●2月13日11時33分、台中市西屯区にある新光三越デパートでガス爆発事故が起き、死者4人と負傷者34人が出た。低い気温と雨のため、慈済ボランティアは、災害規制区の外の空き地にケア拠点を立ち上げ、生姜茶とパン、ミネラルウォーター、福慧粥、ベジタリアン粽を用意して、警察や消防隊員に提供すると共に、病院へ負傷者と家族を見舞った。(2月13日)

スリランカ
Sri Lanka

●2022年7月、政府が破産宣告した後、社会は次第に落ち着いてきたが、民生物資が不足した。慈済ボランティアは、コロンボ支部で定期的に物資の配付を行っていたため、100世帯余りの貧困家庭は、食糧不足だった時期を無事に過ごすことができた。(1月28日)

アメリカ
United States

●アメリカ南部は北極の寒気の影響で、気温が摂氏ー2から8度まで下がり、飛行機が1000便以上欠航または遅延した。テキサス支部のボランティアは、物資を準備し、1月17日から政府の設置したホームレスを収容する「ウォーミングセンター」に赴き、毛布と飲料水、食料を配付した。(1月17日)

●1月7日にロサンゼルスで発生した、カリフォルニア史上3番目に破壊力のある大規模な山火事で、慈済は第一段階の緊急援助を完了した。1月18日から2月16日までの間に、3832世帯の被災者に、現金カード、エコ毛布、清掃バケツ、衣類、食料パッケージ、防護物資などを配付した。この期間中、ボランティアは山火事資源センターと災害復興センターに駐在し、被災者の登録支援を行った。また、眼科の大愛医療車は延べ183人にサービスを提供した。動員されたボランティアは1157人。(1月18日~2月16日)

山火事の被災者が慈済支部に来て現金カードと清掃用品、食料などを受け取った。(撮影・駱淑麗)

マレーシア
Malaysia

●1月28日からボルネオ島は連日の大雨に見舞われ、ビントゥル、ミリ、サバ州クニンガウ市が順次洪水被害に遭い、一万人以上が被災した。ボランティアは2月6日から16日まで420人を動員して被災者リストを作成すると共に、5494世帯を訪問して食糧を配付した。また、高齢者の家の清掃を手伝い、学生にユニフォーム代を補助し、学校に椅子や机を寄付した。そして、2月23日にビントゥルとミリで夫々、2回祝福金の配付活動を行った。(2月6日)

シエラレオネ
Republic of Sierra Leone

●慈済チームは、2月10日から3週間の訪問プログラムを行い、カリタス・フリータウン基金会、ヒーリー国際救援基金会、ランイ基金会などの協力パートナーと今後の支援について協議すると共に、慈済が既に推進している項目の成果を一歩踏み込んで検討した。2013年、西アフリカのギニア共和国で史上最悪のエボラ熱の流行が勃発し、リベリア共和国やシエラレオネ共和国に広がり、2016年にやっと下火になったが、その間にこの3つの国の公衆衛生システムが壊滅した。慈済は2015年にシエラレオネに入り、ホームレスのエボラ熱生存者と孤児たちを支援した。また、この10年間、協力パートナーと共に洪水被害や土砂災害、スラム街火災など何度も支援を行ってきた。その間、女性の裁縫訓練、コミュニティの水害防止の清掃、水資源と衛生システムの構築、教育などのプロジェクトを実施しており、毎年10万人以上が恩恵を受けている。(2月10日から3週間)

インドネシア
Indonesia

●政府と協力して行う「500軒住居プロジェクト」は、無償で弱者家庭の危険な古い住居を改修し、別に500戸の現代的な家を建設するものである。先ず中ジャカルタのジョハルバル地区から開始し、2月12日にタナティンギ村で調査評価を行った。(2月12日)

●2月9日からの豪雨により南スラウェシ州の河川が増水し、10万人以上が影響を受けた。この3カ月間で2度目の大規模な水害である。近隣の慈済マサッカル連絡所は延べ40人のボランティアを動員して、アンタン地区で400食の温かい食事を提供した。(2月13〜14日)

台湾
Taiwan

●春節前後、インフルエンザが流行し、台湾全土の病院の救急外来は人でいっぱいになった。花蓮慈済病院は、改めて改修後の第一総合医学救急転送病棟の使用を開始することで、病床不足の解消に努め、より多くの緊急患者が早く治療できるようにした。(2月7日)

●1月21日の嘉義大埔地震に対して、ボランティアは22日から27日まで大埔郷、台南市楠西区、玉井区などで4千世帯を訪問して祝福セットを、240世帯に緊急見舞金を届けると共に、4万食の炊き出しを行った。また、政府が開設した避難所に497台の福慧ベッド、193枚の福慧間仕切りテントを届けた。2月10日から台湾全土の専業ボランティアが楠西区楠西里、東勢里で、構造が安全で、損傷がより軽微な世帯の住居の修繕を行った。(2月10日)

●台湾ランタンフェスティバルが桃園市で行われた。慈済は移動環境教育車を使って「光のゲーム場」エリアに参加した。ゲームを通して環境保護と防災知識を学ぶものである。(2月7日〜23日)

●2月13日11時33分、台中市西屯区にある新光三越デパートでガス爆発事故が起き、死者4人と負傷者34人が出た。低い気温と雨のため、慈済ボランティアは、災害規制区の外の空き地にケア拠点を立ち上げ、生姜茶とパン、ミネラルウォーター、福慧粥、ベジタリアン粽を用意して、警察や消防隊員に提供すると共に、病院へ負傷者と家族を見舞った。(2月13日)

スリランカ
Sri Lanka

●2022年7月、政府が破産宣告した後、社会は次第に落ち着いてきたが、民生物資が不足した。慈済ボランティアは、コロンボ支部で定期的に物資の配付を行っていたため、100世帯余りの貧困家庭は、食糧不足だった時期を無事に過ごすことができた。(1月28日)

アメリカ
United States

●アメリカ南部は北極の寒気の影響で、気温が摂氏ー2から8度まで下がり、飛行機が1000便以上欠航または遅延した。テキサス支部のボランティアは、物資を準備し、1月17日から政府の設置したホームレスを収容する「ウォーミングセンター」に赴き、毛布と飲料水、食料を配付した。(1月17日)

●1月7日にロサンゼルスで発生した、カリフォルニア史上3番目に破壊力のある大規模な山火事で、慈済は第一段階の緊急援助を完了した。1月18日から2月16日までの間に、3832世帯の被災者に、現金カード、エコ毛布、清掃バケツ、衣類、食料パッケージ、防護物資などを配付した。この期間中、ボランティアは山火事資源センターと災害復興センターに駐在し、被災者の登録支援を行った。また、眼科の大愛医療車は延べ183人にサービスを提供した。動員されたボランティアは1157人。(1月18日~2月16日)

山火事の被災者が慈済支部に来て現金カードと清掃用品、食料などを受け取った。(撮影・駱淑麗)

マレーシア
Malaysia

●1月28日からボルネオ島は連日の大雨に見舞われ、ビントゥル、ミリ、サバ州クニンガウ市が順次洪水被害に遭い、一万人以上が被災した。ボランティアは2月6日から16日まで420人を動員して被災者リストを作成すると共に、5494世帯を訪問して食糧を配付した。また、高齢者の家の清掃を手伝い、学生にユニフォーム代を補助し、学校に椅子や机を寄付した。そして、2月23日にビントゥルとミリで夫々、2回祝福金の配付活動を行った。(2月6日)

シエラレオネ
Republic of Sierra Leone

●慈済チームは、2月10日から3週間の訪問プログラムを行い、カリタス・フリータウン基金会、ヒーリー国際救援基金会、ランイ基金会などの協力パートナーと今後の支援について協議すると共に、慈済が既に推進している項目の成果を一歩踏み込んで検討した。2013年、西アフリカのギニア共和国で史上最悪のエボラ熱の流行が勃発し、リベリア共和国やシエラレオネ共和国に広がり、2016年にやっと下火になったが、その間にこの3つの国の公衆衛生システムが壊滅した。慈済は2015年にシエラレオネに入り、ホームレスのエボラ熱生存者と孤児たちを支援した。また、この10年間、協力パートナーと共に洪水被害や土砂災害、スラム街火災など何度も支援を行ってきた。その間、女性の裁縫訓練、コミュニティの水害防止の清掃、水資源と衛生システムの構築、教育などのプロジェクトを実施しており、毎年10万人以上が恩恵を受けている。(2月10日から3週間)

インドネシア
Indonesia

●政府と協力して行う「500軒住居プロジェクト」は、無償で弱者家庭の危険な古い住居を改修し、別に500戸の現代的な家を建設するものである。先ず中ジャカルタのジョハルバル地区から開始し、2月12日にタナティンギ村で調査評価を行った。(2月12日)

●2月9日からの豪雨により南スラウェシ州の河川が増水し、10万人以上が影響を受けた。この3カ月間で2度目の大規模な水害である。近隣の慈済マサッカル連絡所は延べ40人のボランティアを動員して、アンタン地区で400食の温かい食事を提供した。(2月13〜14日)

關鍵字

ネットゼロとは

(写真提供・慈済基金会 場所・花蓮慈済志業パーク同心円食堂)

ネットゼロ」が話題になっている昨今だが、生かじりのままでいる人が多いのではないだろうか。

「一年間に世界で排出されている約五百億トンもの温室効果ガスを、ゼロにするのは無理です」。陳哲霖(チェン・ヅェーリン)さんが簡潔に説明した。排出ネットゼロとは、温室効果ガスを全く排出しないのではなく、排出量を最低限に抑える努力を行いつつ、森林や海洋、土壌などが果たす「カーボンシンク」という役割に加えて、二酸化炭素の回収や貯蔵施設などでの「人工的な二酸化炭素の吸収」によって、差し引きゼロに近づけることである。

「ネットゼロ」の意味がわかれば、なぜ肉類を食べずに菜食したり、公共交通機関を利用したり、忘れず電気を消したりするのかが理解できるようになる。「塵も積もれば山となる」と言われるように、個人レベルの小さな行動でも地球と人類の持続可能性に貢献できるのだ。

天然資源の枯渇問題に対応するには、原料の採掘から製造・消費・廃棄・汚染まで一方通行の「線形経済(リニアエコノミー)」システムを改める必要があり、資源の使用や消費を抑え、汚染を減らし、廃棄物をリサイクルする「循環経済」という新たな道を進むべきである。

陳さんは、ある大手の科技工場を例に挙げた。その会社は電球の製造で世界に知られていたが、後に新しいビジネスモデルを開発し、オランダ・アムステルダムのスキポール空港と契約を交わした。空港全体で使われる照明器具の受注とその交換及びメンテナンスを含む業務を請け負ったのである。利益の源が製品の販売からサービスの提供へ移行したので、メンテナンスコストを削減するためにより優れた耐久性のある製品を製造した結果、原材料とエネルギーの消費が削減されたのである。

「ネットゼロは地球温暖化の問題を解決するために必要です。循環経済で地球資源の枯渇問題に対応し、ネットゼロと資源の循環を進めることで、地球と人類は持続することが可能になります。持続的な発展は環境問題に限ったことではなく、経済の発展や社会の進歩も然りであるため、その中核となる精神を知らなければいけません。多様性があって包括的であるためには、何よりも誰も置き去りにしないことが大切です」。陳さんは、慈済の環境教育の要点と順序を語った。

(慈済月刊六九八期より)

太陽光をグリーン電力に変換

太陽光をグリーン電力に変換

慈済は、各地の連絡所の屋上や空き地にソーラーパネルを取り付けるプロジェクトを推進しており、2024年末現在、46カ所で太陽光発電を行っている。その中の34カ所は太陽光発電企業との合作である。慈済が空き地を提供し、業者が出資して建設し、完成後は、慈済が土地の賃貸料を受け取らない代わりに発電量の15〜20%を使用すること、また「グリーン電力証書」を提供してもらうことにしている。

  • 46カ所の太陽光発電所が完成

  • 再生可能エネルギー発電によるグリーン電力:年間738万キロワット

  • 総容量:6524キロワットピーク

  • 炭素排出削減量:年間3647トン

(2024年12月末までの統計)

(写真提供・慈済基金会 場所・花蓮慈済志業パーク同心円食堂)

ネットゼロ」が話題になっている昨今だが、生かじりのままでいる人が多いのではないだろうか。

「一年間に世界で排出されている約五百億トンもの温室効果ガスを、ゼロにするのは無理です」。陳哲霖(チェン・ヅェーリン)さんが簡潔に説明した。排出ネットゼロとは、温室効果ガスを全く排出しないのではなく、排出量を最低限に抑える努力を行いつつ、森林や海洋、土壌などが果たす「カーボンシンク」という役割に加えて、二酸化炭素の回収や貯蔵施設などでの「人工的な二酸化炭素の吸収」によって、差し引きゼロに近づけることである。

「ネットゼロ」の意味がわかれば、なぜ肉類を食べずに菜食したり、公共交通機関を利用したり、忘れず電気を消したりするのかが理解できるようになる。「塵も積もれば山となる」と言われるように、個人レベルの小さな行動でも地球と人類の持続可能性に貢献できるのだ。

天然資源の枯渇問題に対応するには、原料の採掘から製造・消費・廃棄・汚染まで一方通行の「線形経済(リニアエコノミー)」システムを改める必要があり、資源の使用や消費を抑え、汚染を減らし、廃棄物をリサイクルする「循環経済」という新たな道を進むべきである。

陳さんは、ある大手の科技工場を例に挙げた。その会社は電球の製造で世界に知られていたが、後に新しいビジネスモデルを開発し、オランダ・アムステルダムのスキポール空港と契約を交わした。空港全体で使われる照明器具の受注とその交換及びメンテナンスを含む業務を請け負ったのである。利益の源が製品の販売からサービスの提供へ移行したので、メンテナンスコストを削減するためにより優れた耐久性のある製品を製造した結果、原材料とエネルギーの消費が削減されたのである。

「ネットゼロは地球温暖化の問題を解決するために必要です。循環経済で地球資源の枯渇問題に対応し、ネットゼロと資源の循環を進めることで、地球と人類は持続することが可能になります。持続的な発展は環境問題に限ったことではなく、経済の発展や社会の進歩も然りであるため、その中核となる精神を知らなければいけません。多様性があって包括的であるためには、何よりも誰も置き去りにしないことが大切です」。陳さんは、慈済の環境教育の要点と順序を語った。

(慈済月刊六九八期より)

太陽光をグリーン電力に変換

太陽光をグリーン電力に変換

慈済は、各地の連絡所の屋上や空き地にソーラーパネルを取り付けるプロジェクトを推進しており、2024年末現在、46カ所で太陽光発電を行っている。その中の34カ所は太陽光発電企業との合作である。慈済が空き地を提供し、業者が出資して建設し、完成後は、慈済が土地の賃貸料を受け取らない代わりに発電量の15〜20%を使用すること、また「グリーン電力証書」を提供してもらうことにしている。

  • 46カ所の太陽光発電所が完成

  • 再生可能エネルギー発電によるグリーン電力:年間738万キロワット

  • 総容量:6524キロワットピーク

  • 炭素排出削減量:年間3647トン

(2024年12月末までの統計)

關鍵字

人生最大の幸せとは

誰もが愛に満ち、家々で善が伝承され、
絶えず精進し、日々福を作ることなのです。
平穏で仲睦まじく、代々伝承すれば、
心に蓮の花が咲き溢れ、世界が幸せに満たされるのです。

誰もが愛に満ち、家々で善が伝承され、絶えず精進し、日々福を作ることなのです。平穏で仲睦まじく、代々伝承すれば、心に蓮の花が咲き溢れ、世界が幸せに満たされるのです。

誰もが愛に満ち、家々で善が伝承され、
絶えず精進し、日々福を作ることなのです。
平穏で仲睦まじく、代々伝承すれば、
心に蓮の花が咲き溢れ、世界が幸せに満たされるのです。

誰もが愛に満ち、家々で善が伝承され、絶えず精進し、日々福を作ることなのです。平穏で仲睦まじく、代々伝承すれば、心に蓮の花が咲き溢れ、世界が幸せに満たされるのです。

關鍵字

環境教育は口先だけでなく行動で

慈済移動環境教育車が汐止区の長安小学校にやってきた。子どもたちが手にした行動目標プレートは、リサイクル素材でできている。(撮影・蕭耀華)

今や「必修科目」となった環境教育。慈済の環境教育は口先だけではない。三台の移動環境教育車は、二〇二五年上半期の予約がすでに埋まり、「キャンセル待ち」となっている。

多数の静思堂が現在、国の「環境教育施設」の認定を申請している。また、学生たちに広く参加を呼びかけて、第四回環境保護防災ヒーローPK戦も開催中だ。

㊟競技内容:PaGamOプラットフォームにて、クイズ評価式ゲームをオンラインで競うもの。テーマは「環境保護防災知識」で、出題者は台湾師範大学環境教育研究所の葉欣誠教授。

使うとよくない物は何?使い捨て食器と割り箸のような消耗品だよね。じゃあ、私たちが一年間に使うコップを積み重ねると、家が何軒建つかな……?」

慈済ボランティアの曽秀旭(ヅン・シュウシュー)さんが問題を読み終えるよりも早く、反応の速い子どもたちが待ちきれない様子で答えを言った。「環境の5R」について教える時、曽さんは、じっとしていられない子どもたちに、少しの間エネルギーを発散させてから、両手を挙げて復唱してもらった。「使わない、減らす、何度も使う、修理して使う……」。

これは、慈済の移動環境教育車「ネットゼロ未来館」が、新北市汐止区長安小学校で行った巡回展での活気ある一コマだ。広さは屋内の展示スペースとは比べものにならないほど狭いが、内容では決して引けを取らない。「ネットゼロの四大転換項目‥生活、産業、エネルギー、社会」や、自然と人工のカーボンシンクの紹介など、どれも一目で分かる展示になっている。この教育車は古いコンテナを改造したものだ。分かりやすいパネルやビデオがあるので、ボランティアは三時間の講習を受けるだけで、環境保護、ネットゼロ、持続可能性などについて小中学生に説明できる。

長年、汐止の慈済ボランティアと連携してきた長安小学校は、この「秘密道具」を知るや早速申し込み、校門に隣接する空地に駐車場所を設けた。一週間の開催期間中には、各学年がそれぞれ環境学習に訪れたほか、学校に出入りする保護者や業者、近所の人たちにも開放し、一緒に話を聞いたり体験したりすることができた。

一九八〇年代から、員山仔放水路が開通する二〇〇五年までの二十年以上にわたり、台風が来るたびに長安小学校では浸水した。汐止に住む年配の慈済人や、北部の慈済ボランティアたちが数多く校内に集まり、溜まった泥をスコップで少しずつ片付けたものだ。

長安小学校では、災害が最もひどかった当時のことを歴史の教訓としている。洪水で校務が滞ることのないよう、今では事務室やコンピューター教室は三階以上に設置されている。また、環境保護や防災教育には特に力を入れている。包志強(バオ・ヅーチャン)校長は、「本校の運動会や文化祭には千人以上の来訪者を迎えます。活動と組み合わせれば、もっと大きな効果が得られるでしょう」と期待した。

人類の持続可能な未来へ行動を

「ネットゼロ未来館」の他にも、慈済の移動環境教育車には「KOKOのネットゼロ・グリーンライフ館」、二〇二四年十一月に使用が始まったばかりの「循環型経済館」がある。この三台は二〇二五年の半ばまで予約がいっぱいで、多くの団体や学校が「キャンセル待ち」している状態だ。

㊟KOKOは手話を覚えて人間との会話に成功したとされるメスのゴリラの愛称。

関渡静思堂の環境保護防災教育展で、見学に来た子どもたちは、循環型経済など持続可能な開発の知識を学び、楽しい思い出を作った。(撮影・蕭耀華)

台湾でこれほど環境教育が引っ張りだこなのは、なぜだろうか。発端は二〇一一年六月に政府が「環境教育法」を公布したことにあるのかもしれない。世界に先駆けて、環境教育に的を絞った法律を施行したのだ。

環境教育法では、高校以下の生徒と教職員に、毎年四時間以上の環境学習を義務づけている。さらに、二〇一九年の学習指導要領の改訂で、小中学校の学習内容に環境教育の基本的なリテラシーが取り入れられた。持続可能な開発やESGに対する社会の要求も年々高まっている。教育関係者や一般の社会人も環境教育、あるいは持続可能な開発のための教育(ESD)を切実に必要としている。

環境、サステナビリティ、防災分野における教師の指導力向上を支援するため、慈済基金会は嘉義県政府と協力して、環境保護志業及び環境教育を推進しており、現役の教員向けに、三回の「ワークショップ」からなる研修講座を開いている。

講師を務めるのは、慈済基金会専門スタッフで、国家環境教育賞個人の部優秀賞を受賞した陳哲霖(チェン・ツォーリン)さんだ。陳さんが環境保護を学び始めたのは通信業界を退職した後のことで、国立台湾師範大学大学院サステナビリティマネジメントと環境教育研究所で修士号を取得した。現役教師らの親世代に当たる陳さんだが、その授業内容は常に、「簡単、面白い、役に立つ」をモットーとし、たくさんの覚え歌やゲームを取り入れるなど、先生や子どもたちが楽しく、簡単に学べるように工夫されている。

「人類の持続可能性は、校長先生から生徒たちまで、みんなに理解してもらわないといけません。慈済は慈善も環境保護もしていますが、まず環境保護と環境教育を優先してやらなければ、次々に起こる災害に対応しきれません。専門家は、気候変動が悪化し続ければ、人類の文明は終わってしまうと警告しています。どれだけ良い生徒を育て、どれだけ仕事で成功し、いくらお金を稼ぎ、何棟もの豪邸を持ったとしても、ハワイの大火事のように、一夜にして全てが消え去ってしまうかもしれないのです」。

陳さんは慈済人として、国際災害支援活動に参加した時に目の当たりにした驚くべき災害を例に挙げながら、研修に参加した教師や主任に向かって、心を込めて語りかけた。「これからは、環境教育やサステナビリティをどこの部署が担当するかというのではなく、一人一人の先生が教育の責任を担ってください。そして、子どもたちの手本となるよう、学んだ知識を暮らしの中で実践して見せてください」。

2024年、移動環境教育車は嘉義市科学一六八教育博覧会にやってきた。ガイドボランティアは、訪れた先生と生徒に説明し、交流を深め、充実した時間を過ごした。(撮影・蕭智嘉)

生徒は教師を見習う

各校の先生たちは、しばし忙しい校務を忘れ、環境教育の達人と一緒に、手を動かしてゲームを楽しんだ。最新の環境教育の知識と、簡単で面白い実用的なゲーム教材を組み合わせた時、慈済のワークショップは、嘉義県の教育関係者の間で人気の講座になった。

内容面では、慈済の環境教育講座は温故知新と言うことができる。SDGsの十七の目標や環境保護の5R、気候変動などといった重要事項の多くは、すでに学校のカリキュラムに取り入れられており、先生たちも教えたことがあるからだ。しかし、初心に戻り、新しい教材や教授法を学ぶことで、現場ではよりよい授業を行うことができるのだ。

「学びの多いワークショップでした。『気候時計』のことも初めて知りました。秒単位で動いていくので、子どもでも感覚的に理解できると思います」。嘉義県竹崎郷桃源小学校の呂淑女(リュ・スゥーニュ)教務主任は、模範を示した体験を語った。卒業旅行で、羅東夜市を訪れた時、呂さんはマイ弁当箱を持参し、子どもたちもマイ容器に食べたい物を入れ、ホテルに持ち帰って食べたので、使い捨ての食器類は使わなかった。

「私がこうすれば、子どもたちも自然に真似するのです。自分が行動すれば、子どもたちにも通じます。本当にやりたいと思わなければ、子どもたちはやりません。『プラスチックを減らすのって大事なんだな。地球を守るのって大事だな』と、目の前の環境に意識が向けば、自然といろいろやってみようと思えるものです」と呂さんは話している。

国の認定を受けた
静思堂の小さな学び舎

SDGsの十七の目標のうち、環境教育は目標4の「質の高い教育をみんなに」にとって欠かせない部分であり、そのターゲットとして、二〇三〇年までに持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにすることが、全ての学習者に必要だと明確に掲げられている。

現在、台湾の環境教育の内容は、生態系保護や気候変動対策に重点を置いているが、実際に大きな影響力を発揮できるかは、環境学習後に、SDGs目標12の「つくる責任つかう責任」で実践する程度にかかっている。

環境や持続可能な発展について、より多くの子どもや大人に学んでもらうため、慈済では比較的規模の大きいエコセンターに「環境教育センター」として学習展示や体験コーナーを設置した他、国の「環境教育施設場所」認定を目指し、各地の静思堂の設備や展示のレベルアップを図っている。現在すでに高雄静思堂と台中静思堂が認定を受けた他、北部の関渡や双和などの静思堂も申請準備を進めているところだ。

高雄静思堂を見ると、三つの学習ゾーンがあり、そのうちの「低炭素生活館」と「気候変動館」は、環境教育施設で行っているテーマを網羅している。少し変わっているのが「慈悲の科学館」だ。ここは慈済の見所とも言え、福慧間仕切りテントや福慧折り畳み式ベッド、緊急浄水援助艇、全地形対応車(ATV)などが展示され、どれも「現役」で慈済の災害支援活動で活躍しているものだ。

台中静思堂も同じく三つの展示館がある。そのうち、「アースフレンドリー館」では、台湾中部大地震の記録と科学的知識が展示されている。これらの展示と講座「持続可能な生命への道を開く」で、小中学生に地震災害に関する基礎知識を伝えている。また、被災後に建設された大愛の家や希望プロジェクトで建てられた学校に、通気性、緑化、再利用などの「グリーン建築」の理念が、いかに具体化されているかを学ぶことができる。

小辞典 環境教育
  • 2011年、政府は「環境教育法」を施行したが、国連が2016年から17の持続可能な開発目標(SDGs)の推進を始めたことから、現在の環境教育は、「環境」という名前ではあるが、持続可能な開発に関する内容が含まれている。

  • 2019年新学習指導要領では、環境教育を環境倫理、持続可能な開発、気候変動、災害防止、資源とエネルギー持続可能な利用の5つのテーマに分けている。

  • 環境教育法では、公的機関、公営企業、高校以下の学校、政府が基金の50%以上を支援する財団法人に対し、すべての職員、教師、生徒に4時間以上の環境学習講座を受講させるよう義務づけている。

慈済は、嘉義県で小中学校教師向けにワークショップを開いている。陳哲霖さん(中)は覚え歌やゲームで、持続可能な開発に関する知識を分かりやすく教えている。ここで学んだことは授業に活かされている。(撮影・黄筱哲)

ハイスペックで人気の関渡展示場

すでに認定された慈済の環境教育施設と「準」環境教育施設の中でも、関渡静思堂の「環境保護防災教育展」は紛れもなく一番人気のある展示区域である。二〇二四年十月に展示されて以来、毎週様々な学校が校外学習に訪れる。ブリーフレポートを聞き終わって、展示ゾーンで「ゲーム」を始める前に、案内人が生徒たちに、「後で汗をかくことになると思いますから、上着を脱いで椅子の上に置いてください」と言った。

「環境保護防災教育展」の展示区域には、十の関門がある。写真パネルだけでなく、VR、ダンスマシン、防災RUNなどの双方向型展示もある。関門「地球が熱を出している」では、温室効果ガスを一番多く排出する「大魔王」を当てるクイズがある。牛や羊、豚、鶏などの牧畜業だろうか。それとも、飛行機や車、船などの輸送業だろうか。

答えを開けてみると、牧畜業から排出される温室効果ガスが十八パーセントを占め、輸送業の十四パーセントを僅かに上回っている。そこまで来ると、子どもたちは、肉を減らして野菜中心の食事をして、なるべく公共交通機関を利用するようにすれば、一石二鳥で二人の魔王を倒し、地球を守る小さな勇者になれることが理解できるのだ。

ゲームクリアの最大の収穫は、有形の賞品ではなく、目に見えない知識と内省である。明徳小学校五年生の思嘉(スージャ)さんは、「家畜の動物が温室効果ガスを出すから、肉を食べると地球温暖化になるのだと、改めて分かりました」と言った。

クラスメートの尹睿(インルェイ)さんは、どんどん進んでいく「気候時計」にとても深い印象が残ったという。「『世界の終わり』が直ぐそこに来ていると知りました。何百年も先のことだと思っていました」と言った。

気候時計は、地球の気温が一・五度上昇するまで、もう五年も残されていないことを示している。状況が改善されなければ、未来はどうなってしまうのだろうか。尹睿さんは、初めは怖いと思ったけど、「きっと止められると思います。資源をリサイクルしたり、肉をあまり食べないようにしたりして、氷河がこれ以上溶けないようにしようと思います」と言った。

関渡環境保護防災教育展では、VRを使って海亀と一緒に海の中を悠々と泳ぐことができる。講座やアウトドア学習、見学などの方法で環境教育が行われている。(撮影・蕭耀華)

世界と共に緑の人材を育てる

樹を育てるには十年、人を育てるには百年かかる。教育は一朝一夕で成果が出るものではない。環境教育やSDGも同じだ。長期的な視点で見れば、世代が代わり、価値観が変化していけば、二、三十年もかからずに大きな変化が現れるかもしれない。

環境部の統計によると、二○○○年に九・七八パーセントだった台湾の資源回収率は、二〇一一年には五十パーセントを超え、今もそれを維持している。教育啓発と奨励政策の成果だ。国民が持続可能な環境保護において、心を一つにして行動するならば、未来は変わるかもしれない。

すでに世界で百四十以上の国と地域が、二〇五〇年までにネットゼロ目標を達成すると宣言している。さらにEUでは、二〇二六年から炭素国境調整メカニズム(CBAM)、即ち「炭素税」の導入である。様々な変化は、政府も企業もそして個人も、誰もがネットゼロやサステナビリティに無知や無関心ではいられないのだと教えている。

慈済大学サステナビリティ事務局の江允智(ジャン・ユンヅー)主任によると、台湾金融監督管理委員会は二〇二五年末から、台湾の全上場企業に対し、温室効果ガスインベントリの結果とSDGsへの影響力の説明を含めたESGレポートの提出を義務づけることを公布した。「大部分の上場企業はサステナビリティ部門を設置するでしょうし、中小企業はそこまででなくても、従業員に研修を受けさせたりはするでしょう。間接的に関連の雇用機会が生まれるはずです」。

慈済大学では、サステナビリティの基礎教養を必修科目「慈済人文」のシラバスに取り入れた他、「サステナビリティと防災修士課程」でも、大学三、四年生向けの選択科目として、八単位のミニカリキュラムを開設した。これらの正規カリキュラムの他、温室効果ガスインベントリ、ESGレポート作成研修講座も開設している。

「二〇二五年から慈済関渡志業パークで開講します。温室効果ガスインベントリ等が必要な企業はぜひ参加してください」と江さんは話している。

また、慈済基金会環境保護推進チームリーダーの張涵鈞(ヅァン・ハンジュン)さんも、より多くの学生に環境問題を知ってもらい、環境教育を深めるために、慈済が二〇二四年に行った「環境保護防災ヒーロー養成プロジェクト・学校における開拓計画」について説明してくれた。この中では、引き続きESD講師の育成を進めていく他、各学校に慈済環境保護教育センターでの体験実習を呼びかけている。また、環境教育のための教材を提供し、プラスチックを使わず、菜食を普及させる「エコ文化祭」の開催を支援している。「卒業旅行や校外学習でも、ぜひ慈済の環境教育施設を見学に来てください。その際は、公共交通を使い、なるべく使い捨ての物を使わない『グリーン旅行』の概念を実践してほしいと思います」。

「拍手する手でリサイクルをしよう」を合い言葉とする身近な環境保全活動から、世界の舞台や学術の殿堂に出るまで、慈済人は環境保全やサステナビリティを語り、常に「知行合一」、「実践したことを話し、言ったことを実践する」を貫いてきた。みんなが必要な知識を楽しく学び、その知識を日々の暮らしの中で真剣に実践することで、変革の力を発揮できることを願っている。「創意工夫で環境教育をし、行動で影響力を発揮しなければなりません」と環境教育達人の陳さんは、みんなと一緒に励まし合った。

(慈済月刊六九八期より)

台中静思堂の展示館で、「緊急避難袋」を完成させるパズルに取り組む子どもたち。(写真提供・呉麗華)

慈済移動環境教育車が汐止区の長安小学校にやってきた。子どもたちが手にした行動目標プレートは、リサイクル素材でできている。(撮影・蕭耀華)

今や「必修科目」となった環境教育。慈済の環境教育は口先だけではない。三台の移動環境教育車は、二〇二五年上半期の予約がすでに埋まり、「キャンセル待ち」となっている。

多数の静思堂が現在、国の「環境教育施設」の認定を申請している。また、学生たちに広く参加を呼びかけて、第四回環境保護防災ヒーローPK戦も開催中だ。

㊟競技内容:PaGamOプラットフォームにて、クイズ評価式ゲームをオンラインで競うもの。テーマは「環境保護防災知識」で、出題者は台湾師範大学環境教育研究所の葉欣誠教授。

使うとよくない物は何?使い捨て食器と割り箸のような消耗品だよね。じゃあ、私たちが一年間に使うコップを積み重ねると、家が何軒建つかな……?」

慈済ボランティアの曽秀旭(ヅン・シュウシュー)さんが問題を読み終えるよりも早く、反応の速い子どもたちが待ちきれない様子で答えを言った。「環境の5R」について教える時、曽さんは、じっとしていられない子どもたちに、少しの間エネルギーを発散させてから、両手を挙げて復唱してもらった。「使わない、減らす、何度も使う、修理して使う……」。

これは、慈済の移動環境教育車「ネットゼロ未来館」が、新北市汐止区長安小学校で行った巡回展での活気ある一コマだ。広さは屋内の展示スペースとは比べものにならないほど狭いが、内容では決して引けを取らない。「ネットゼロの四大転換項目‥生活、産業、エネルギー、社会」や、自然と人工のカーボンシンクの紹介など、どれも一目で分かる展示になっている。この教育車は古いコンテナを改造したものだ。分かりやすいパネルやビデオがあるので、ボランティアは三時間の講習を受けるだけで、環境保護、ネットゼロ、持続可能性などについて小中学生に説明できる。

長年、汐止の慈済ボランティアと連携してきた長安小学校は、この「秘密道具」を知るや早速申し込み、校門に隣接する空地に駐車場所を設けた。一週間の開催期間中には、各学年がそれぞれ環境学習に訪れたほか、学校に出入りする保護者や業者、近所の人たちにも開放し、一緒に話を聞いたり体験したりすることができた。

一九八〇年代から、員山仔放水路が開通する二〇〇五年までの二十年以上にわたり、台風が来るたびに長安小学校では浸水した。汐止に住む年配の慈済人や、北部の慈済ボランティアたちが数多く校内に集まり、溜まった泥をスコップで少しずつ片付けたものだ。

長安小学校では、災害が最もひどかった当時のことを歴史の教訓としている。洪水で校務が滞ることのないよう、今では事務室やコンピューター教室は三階以上に設置されている。また、環境保護や防災教育には特に力を入れている。包志強(バオ・ヅーチャン)校長は、「本校の運動会や文化祭には千人以上の来訪者を迎えます。活動と組み合わせれば、もっと大きな効果が得られるでしょう」と期待した。

人類の持続可能な未来へ行動を

「ネットゼロ未来館」の他にも、慈済の移動環境教育車には「KOKOのネットゼロ・グリーンライフ館」、二〇二四年十一月に使用が始まったばかりの「循環型経済館」がある。この三台は二〇二五年の半ばまで予約がいっぱいで、多くの団体や学校が「キャンセル待ち」している状態だ。

㊟KOKOは手話を覚えて人間との会話に成功したとされるメスのゴリラの愛称。

関渡静思堂の環境保護防災教育展で、見学に来た子どもたちは、循環型経済など持続可能な開発の知識を学び、楽しい思い出を作った。(撮影・蕭耀華)

台湾でこれほど環境教育が引っ張りだこなのは、なぜだろうか。発端は二〇一一年六月に政府が「環境教育法」を公布したことにあるのかもしれない。世界に先駆けて、環境教育に的を絞った法律を施行したのだ。

環境教育法では、高校以下の生徒と教職員に、毎年四時間以上の環境学習を義務づけている。さらに、二〇一九年の学習指導要領の改訂で、小中学校の学習内容に環境教育の基本的なリテラシーが取り入れられた。持続可能な開発やESGに対する社会の要求も年々高まっている。教育関係者や一般の社会人も環境教育、あるいは持続可能な開発のための教育(ESD)を切実に必要としている。

環境、サステナビリティ、防災分野における教師の指導力向上を支援するため、慈済基金会は嘉義県政府と協力して、環境保護志業及び環境教育を推進しており、現役の教員向けに、三回の「ワークショップ」からなる研修講座を開いている。

講師を務めるのは、慈済基金会専門スタッフで、国家環境教育賞個人の部優秀賞を受賞した陳哲霖(チェン・ツォーリン)さんだ。陳さんが環境保護を学び始めたのは通信業界を退職した後のことで、国立台湾師範大学大学院サステナビリティマネジメントと環境教育研究所で修士号を取得した。現役教師らの親世代に当たる陳さんだが、その授業内容は常に、「簡単、面白い、役に立つ」をモットーとし、たくさんの覚え歌やゲームを取り入れるなど、先生や子どもたちが楽しく、簡単に学べるように工夫されている。

「人類の持続可能性は、校長先生から生徒たちまで、みんなに理解してもらわないといけません。慈済は慈善も環境保護もしていますが、まず環境保護と環境教育を優先してやらなければ、次々に起こる災害に対応しきれません。専門家は、気候変動が悪化し続ければ、人類の文明は終わってしまうと警告しています。どれだけ良い生徒を育て、どれだけ仕事で成功し、いくらお金を稼ぎ、何棟もの豪邸を持ったとしても、ハワイの大火事のように、一夜にして全てが消え去ってしまうかもしれないのです」。

陳さんは慈済人として、国際災害支援活動に参加した時に目の当たりにした驚くべき災害を例に挙げながら、研修に参加した教師や主任に向かって、心を込めて語りかけた。「これからは、環境教育やサステナビリティをどこの部署が担当するかというのではなく、一人一人の先生が教育の責任を担ってください。そして、子どもたちの手本となるよう、学んだ知識を暮らしの中で実践して見せてください」。

2024年、移動環境教育車は嘉義市科学一六八教育博覧会にやってきた。ガイドボランティアは、訪れた先生と生徒に説明し、交流を深め、充実した時間を過ごした。(撮影・蕭智嘉)

生徒は教師を見習う

各校の先生たちは、しばし忙しい校務を忘れ、環境教育の達人と一緒に、手を動かしてゲームを楽しんだ。最新の環境教育の知識と、簡単で面白い実用的なゲーム教材を組み合わせた時、慈済のワークショップは、嘉義県の教育関係者の間で人気の講座になった。

内容面では、慈済の環境教育講座は温故知新と言うことができる。SDGsの十七の目標や環境保護の5R、気候変動などといった重要事項の多くは、すでに学校のカリキュラムに取り入れられており、先生たちも教えたことがあるからだ。しかし、初心に戻り、新しい教材や教授法を学ぶことで、現場ではよりよい授業を行うことができるのだ。

「学びの多いワークショップでした。『気候時計』のことも初めて知りました。秒単位で動いていくので、子どもでも感覚的に理解できると思います」。嘉義県竹崎郷桃源小学校の呂淑女(リュ・スゥーニュ)教務主任は、模範を示した体験を語った。卒業旅行で、羅東夜市を訪れた時、呂さんはマイ弁当箱を持参し、子どもたちもマイ容器に食べたい物を入れ、ホテルに持ち帰って食べたので、使い捨ての食器類は使わなかった。

「私がこうすれば、子どもたちも自然に真似するのです。自分が行動すれば、子どもたちにも通じます。本当にやりたいと思わなければ、子どもたちはやりません。『プラスチックを減らすのって大事なんだな。地球を守るのって大事だな』と、目の前の環境に意識が向けば、自然といろいろやってみようと思えるものです」と呂さんは話している。

国の認定を受けた
静思堂の小さな学び舎

SDGsの十七の目標のうち、環境教育は目標4の「質の高い教育をみんなに」にとって欠かせない部分であり、そのターゲットとして、二〇三〇年までに持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにすることが、全ての学習者に必要だと明確に掲げられている。

現在、台湾の環境教育の内容は、生態系保護や気候変動対策に重点を置いているが、実際に大きな影響力を発揮できるかは、環境学習後に、SDGs目標12の「つくる責任つかう責任」で実践する程度にかかっている。

環境や持続可能な発展について、より多くの子どもや大人に学んでもらうため、慈済では比較的規模の大きいエコセンターに「環境教育センター」として学習展示や体験コーナーを設置した他、国の「環境教育施設場所」認定を目指し、各地の静思堂の設備や展示のレベルアップを図っている。現在すでに高雄静思堂と台中静思堂が認定を受けた他、北部の関渡や双和などの静思堂も申請準備を進めているところだ。

高雄静思堂を見ると、三つの学習ゾーンがあり、そのうちの「低炭素生活館」と「気候変動館」は、環境教育施設で行っているテーマを網羅している。少し変わっているのが「慈悲の科学館」だ。ここは慈済の見所とも言え、福慧間仕切りテントや福慧折り畳み式ベッド、緊急浄水援助艇、全地形対応車(ATV)などが展示され、どれも「現役」で慈済の災害支援活動で活躍しているものだ。

台中静思堂も同じく三つの展示館がある。そのうち、「アースフレンドリー館」では、台湾中部大地震の記録と科学的知識が展示されている。これらの展示と講座「持続可能な生命への道を開く」で、小中学生に地震災害に関する基礎知識を伝えている。また、被災後に建設された大愛の家や希望プロジェクトで建てられた学校に、通気性、緑化、再利用などの「グリーン建築」の理念が、いかに具体化されているかを学ぶことができる。

小辞典 環境教育
  • 2011年、政府は「環境教育法」を施行したが、国連が2016年から17の持続可能な開発目標(SDGs)の推進を始めたことから、現在の環境教育は、「環境」という名前ではあるが、持続可能な開発に関する内容が含まれている。

  • 2019年新学習指導要領では、環境教育を環境倫理、持続可能な開発、気候変動、災害防止、資源とエネルギー持続可能な利用の5つのテーマに分けている。

  • 環境教育法では、公的機関、公営企業、高校以下の学校、政府が基金の50%以上を支援する財団法人に対し、すべての職員、教師、生徒に4時間以上の環境学習講座を受講させるよう義務づけている。

慈済は、嘉義県で小中学校教師向けにワークショップを開いている。陳哲霖さん(中)は覚え歌やゲームで、持続可能な開発に関する知識を分かりやすく教えている。ここで学んだことは授業に活かされている。(撮影・黄筱哲)

ハイスペックで人気の関渡展示場

すでに認定された慈済の環境教育施設と「準」環境教育施設の中でも、関渡静思堂の「環境保護防災教育展」は紛れもなく一番人気のある展示区域である。二〇二四年十月に展示されて以来、毎週様々な学校が校外学習に訪れる。ブリーフレポートを聞き終わって、展示ゾーンで「ゲーム」を始める前に、案内人が生徒たちに、「後で汗をかくことになると思いますから、上着を脱いで椅子の上に置いてください」と言った。

「環境保護防災教育展」の展示区域には、十の関門がある。写真パネルだけでなく、VR、ダンスマシン、防災RUNなどの双方向型展示もある。関門「地球が熱を出している」では、温室効果ガスを一番多く排出する「大魔王」を当てるクイズがある。牛や羊、豚、鶏などの牧畜業だろうか。それとも、飛行機や車、船などの輸送業だろうか。

答えを開けてみると、牧畜業から排出される温室効果ガスが十八パーセントを占め、輸送業の十四パーセントを僅かに上回っている。そこまで来ると、子どもたちは、肉を減らして野菜中心の食事をして、なるべく公共交通機関を利用するようにすれば、一石二鳥で二人の魔王を倒し、地球を守る小さな勇者になれることが理解できるのだ。

ゲームクリアの最大の収穫は、有形の賞品ではなく、目に見えない知識と内省である。明徳小学校五年生の思嘉(スージャ)さんは、「家畜の動物が温室効果ガスを出すから、肉を食べると地球温暖化になるのだと、改めて分かりました」と言った。

クラスメートの尹睿(インルェイ)さんは、どんどん進んでいく「気候時計」にとても深い印象が残ったという。「『世界の終わり』が直ぐそこに来ていると知りました。何百年も先のことだと思っていました」と言った。

気候時計は、地球の気温が一・五度上昇するまで、もう五年も残されていないことを示している。状況が改善されなければ、未来はどうなってしまうのだろうか。尹睿さんは、初めは怖いと思ったけど、「きっと止められると思います。資源をリサイクルしたり、肉をあまり食べないようにしたりして、氷河がこれ以上溶けないようにしようと思います」と言った。

関渡環境保護防災教育展では、VRを使って海亀と一緒に海の中を悠々と泳ぐことができる。講座やアウトドア学習、見学などの方法で環境教育が行われている。(撮影・蕭耀華)

世界と共に緑の人材を育てる

樹を育てるには十年、人を育てるには百年かかる。教育は一朝一夕で成果が出るものではない。環境教育やSDGも同じだ。長期的な視点で見れば、世代が代わり、価値観が変化していけば、二、三十年もかからずに大きな変化が現れるかもしれない。

環境部の統計によると、二○○○年に九・七八パーセントだった台湾の資源回収率は、二〇一一年には五十パーセントを超え、今もそれを維持している。教育啓発と奨励政策の成果だ。国民が持続可能な環境保護において、心を一つにして行動するならば、未来は変わるかもしれない。

すでに世界で百四十以上の国と地域が、二〇五〇年までにネットゼロ目標を達成すると宣言している。さらにEUでは、二〇二六年から炭素国境調整メカニズム(CBAM)、即ち「炭素税」の導入である。様々な変化は、政府も企業もそして個人も、誰もがネットゼロやサステナビリティに無知や無関心ではいられないのだと教えている。

慈済大学サステナビリティ事務局の江允智(ジャン・ユンヅー)主任によると、台湾金融監督管理委員会は二〇二五年末から、台湾の全上場企業に対し、温室効果ガスインベントリの結果とSDGsへの影響力の説明を含めたESGレポートの提出を義務づけることを公布した。「大部分の上場企業はサステナビリティ部門を設置するでしょうし、中小企業はそこまででなくても、従業員に研修を受けさせたりはするでしょう。間接的に関連の雇用機会が生まれるはずです」。

慈済大学では、サステナビリティの基礎教養を必修科目「慈済人文」のシラバスに取り入れた他、「サステナビリティと防災修士課程」でも、大学三、四年生向けの選択科目として、八単位のミニカリキュラムを開設した。これらの正規カリキュラムの他、温室効果ガスインベントリ、ESGレポート作成研修講座も開設している。

「二〇二五年から慈済関渡志業パークで開講します。温室効果ガスインベントリ等が必要な企業はぜひ参加してください」と江さんは話している。

また、慈済基金会環境保護推進チームリーダーの張涵鈞(ヅァン・ハンジュン)さんも、より多くの学生に環境問題を知ってもらい、環境教育を深めるために、慈済が二〇二四年に行った「環境保護防災ヒーロー養成プロジェクト・学校における開拓計画」について説明してくれた。この中では、引き続きESD講師の育成を進めていく他、各学校に慈済環境保護教育センターでの体験実習を呼びかけている。また、環境教育のための教材を提供し、プラスチックを使わず、菜食を普及させる「エコ文化祭」の開催を支援している。「卒業旅行や校外学習でも、ぜひ慈済の環境教育施設を見学に来てください。その際は、公共交通を使い、なるべく使い捨ての物を使わない『グリーン旅行』の概念を実践してほしいと思います」。

「拍手する手でリサイクルをしよう」を合い言葉とする身近な環境保全活動から、世界の舞台や学術の殿堂に出るまで、慈済人は環境保全やサステナビリティを語り、常に「知行合一」、「実践したことを話し、言ったことを実践する」を貫いてきた。みんなが必要な知識を楽しく学び、その知識を日々の暮らしの中で真剣に実践することで、変革の力を発揮できることを願っている。「創意工夫で環境教育をし、行動で影響力を発揮しなければなりません」と環境教育達人の陳さんは、みんなと一緒に励まし合った。

(慈済月刊六九八期より)

台中静思堂の展示館で、「緊急避難袋」を完成させるパズルに取り組む子どもたち。(写真提供・呉麗華)

關鍵字

道に迷った父

高齢化社会に突入して、もっと綿密な愛で織りなしたネットワークが必要である。その過程で、少しでも多く、注意と関心、動作による表現があれば、一家族を救うことができるかもしれないのだ。

父が家を出てから帰るまでの三十二時間の間、認知症患者の家族として焦りと精神的な崩壊を、私たちは全部体験した。

軽度認知症患者は、行動や言語能力を持っており、自分は大丈夫だと思っている。そういう人が道に迷った時、彼らに助けが必要なことを他人が気づくのは難しい……。

大愛劇場「こんにちは!私は誰ですか」という番組は、認知症患者の家庭の苦境を視聴者に理解してもらい、介護者の気持ちになって、一緒にその不可逆的な症状に立ち向かおうと呼びかけている。シリーズ2は去年八月に放送され、視聴率が益々高くなっているということから、視聴者の認知症問題に対する関心の高さが伺える。台湾衛福部の推計によると、六十五歳以上の認知症の人は約三十五万人であるという。私の父もその三十五万人の中の一人である。

父は軽度の記憶力低下があって、よく物忘れをするが、以前と同じように正常な生活をすることができる。彼の最大の趣味は、友だちとカラオケに行って歌うことだ。歌の話になると、彼の目はキラキラ光り、色んな曲が歌えるよ、と自信を持って私たちに話す。

コロナ禍の間、人々はソーシャルディスタンスを保つために、カラオケに行けなくなり、父は一日中、家でテレビを見ていたため、知らず知らずのうちに、記憶力の低下を招いてしまった。秋になると、天気が変わりやすく、台北は何日も続けて雨が降ったので、認知症の年長者にとっては試練だった。ある日の午後、父は自転車に乗って出かけたが、道に迷ってしまい、何時間経っても帰って来なかった。

日暮れを過ぎた上に雨が降っていたので、家族は気が気でなかった。父の携帯はバッテリー切れだったらしく、GPSによる位置情報も消えてしまっていた。交番に届け、認知症協会に人探しサイトにも情報をアップロードしてもらい、車を走らせながら道沿いに探したが、深夜になっても見つからなかった。

認知症患者の家族の焦りを私は全て体験した。探したり待ったりする時間はとても辛いもので、精神的に崩壊してしまう。どれだけ涙を流し、食べ物が喉を通らず、眠れなかったことか。

小さい頃、道に迷った時のことを思い出した。あるお姉さんが見つけてくれて、父に迎えにくるよう電話してくれた。あの恩人の家で待っていた間、不安で堪らず、恐くなって泣いてしまった。父が夕日を浴びながら、自転車で駆け付けて来た時、私のあらゆる感情は一瞬にして救われた。父が温かく慰めてくれたあの光景を振り返ると、それはいつも温かい山吹色だった。その時私は、観世音菩薩が慈悲で以て恩人を派遣し、父を救って平穏無事に家に帰ってくれるよう祈り続けた。

翌日の深夜近くになって、私たちはやっと、交番から良いニュースを受け取った。父が見つかったのだ。ある通りすがりの人が、父の尋常でない様子に気が付き、宥めたり、騙したりしながら、近くの交番まで連れて行き、私たちが迎えに行くのを待ったのだ。

父が家を出てから帰るまでの三十二時間、私は彼がいったい何を体験したのか知らない。持っていたお金は全く減っていなかった。コンビニで食べ物や飲料水を買うことを知らないので、何も食べず、飲まず、寝ていないに違いない。交番で、防犯カメラの録画画像を見ると、一日目の夕方、父が店の人に道を尋ねているのが映っていた。当時の状況を見ると、まだ覚えていて、自分で道を探しているようだった。しかし、二日目の夜に父を迎えに行った時は、自分が道に迷ったことも、皆が心配して捜し回ったことも理解できず、完全に助けを求める能力がなくなっていた。怖かったに違いない。雨の中を自転車に乗り続け、少し脱水症状を起こし、歩き方もよろめいていた。

軽度認知症患者は、まだ行動や会話の能力があって、自律した生活ができ、自分は大丈夫だと思っている。だから、彼らが道に迷っても、他人は、外見から彼らに助けが必要だと判断するのは難しい。

家族全員で健康な心と脳にする

父が無事に帰ってきて、二日間休養した後、頭が次第にはっきりして来て、だいぶ元気になった。一家全員、もう二度と悪夢を見たくなかった。それがきっかけで、積極的に多くのことに変化をもたらした。二種類以上の位置情報が分かる方式を採用したり、食習慣を調整したりするようになった。

父はパンが好きだったが、研究報告によると、パンやパスタなど精製された高炭水化物を摂取し過ぎると、体内のぶどう糖とインスリンの代謝機能に影響を及ぼし、脳の血管とアミロイドβの作用にも影響を及ぼすそうだ。そして、βアミロイド斑こそ、アルツハイマー病を引き起こす重要な要因なのだそうだ。

家族は父に脳を健康にする様々なホールフーズを用意した。例えば、ナッツ、カボチャ、トマト、ダークチョコレート、ブラックコーヒーなどで、加工食品の摂取を減らし、ビタミンを補充し、アロマエッセンシャルオイルテラピー等を行った。

コロナ禍が落ち着いた後、父は每朝、最低一時間散步し、夜は家族が父に付き添って、書道や指の体操、パソコンの曲に合わせて歌うなど、いろいろな事をして一緒に過ごすようにした。それから、よくできたと父を褒めるようにした。

最近、政府は高齢者介護に関する情報を色々と提供しているので、私たちは父に介護の申請をした。介護士は、月曜日から金曜日まで昼間の一、二時間来て、将棋やパズルゲーム、おしゃべりなどの相手をして、父に付き添っている。多方面から生活習慣やリズムを改善したことで、今では、父の脳の退化が止っただけでなく、認知機能もかなり改善した。

高齢化社会は、より綿密な愛で織り成したネットワークによって、助けを必要とする年長者をキャッチする必要がある。その過程では、少しでも多く注意と関心を払い、行動によって表現することが必要であり、それによって一家族を救うことができるかもしれないのだ。慈済は各地の連絡所に介護拠点を設けており、地域の年長者に活力溢れる学習の場を提供することで、彼らが外出できるようになり、生き生きと、安心して晚年を過ごせるようにサポートしている。多くの年長者は、人と交流することで新しい知識を学ぶと共に、元来の記憶力の低下を遅れさせたり、ふさぎ込んだ気持ちを和らげたりすることができる。

如何にすれば、質と尊厳を兼ねた老年時代を過ごすことができるかは、社会全体の課題である。コロナ禍は私たちに、人と人の間で最も重要なこととは、やはり愛と関心であることを気づかせてくれた。心の溫かさが年長者の記憶を温め、認知症の年長者が平穏に温かくて愛のある環境で、晚年を過ごせるようにと願って止まない。

(慈済月刊六九五期より)

高齢化社会に突入して、もっと綿密な愛で織りなしたネットワークが必要である。その過程で、少しでも多く、注意と関心、動作による表現があれば、一家族を救うことができるかもしれないのだ。

父が家を出てから帰るまでの三十二時間の間、認知症患者の家族として焦りと精神的な崩壊を、私たちは全部体験した。

軽度認知症患者は、行動や言語能力を持っており、自分は大丈夫だと思っている。そういう人が道に迷った時、彼らに助けが必要なことを他人が気づくのは難しい……。

大愛劇場「こんにちは!私は誰ですか」という番組は、認知症患者の家庭の苦境を視聴者に理解してもらい、介護者の気持ちになって、一緒にその不可逆的な症状に立ち向かおうと呼びかけている。シリーズ2は去年八月に放送され、視聴率が益々高くなっているということから、視聴者の認知症問題に対する関心の高さが伺える。台湾衛福部の推計によると、六十五歳以上の認知症の人は約三十五万人であるという。私の父もその三十五万人の中の一人である。

父は軽度の記憶力低下があって、よく物忘れをするが、以前と同じように正常な生活をすることができる。彼の最大の趣味は、友だちとカラオケに行って歌うことだ。歌の話になると、彼の目はキラキラ光り、色んな曲が歌えるよ、と自信を持って私たちに話す。

コロナ禍の間、人々はソーシャルディスタンスを保つために、カラオケに行けなくなり、父は一日中、家でテレビを見ていたため、知らず知らずのうちに、記憶力の低下を招いてしまった。秋になると、天気が変わりやすく、台北は何日も続けて雨が降ったので、認知症の年長者にとっては試練だった。ある日の午後、父は自転車に乗って出かけたが、道に迷ってしまい、何時間経っても帰って来なかった。

日暮れを過ぎた上に雨が降っていたので、家族は気が気でなかった。父の携帯はバッテリー切れだったらしく、GPSによる位置情報も消えてしまっていた。交番に届け、認知症協会に人探しサイトにも情報をアップロードしてもらい、車を走らせながら道沿いに探したが、深夜になっても見つからなかった。

認知症患者の家族の焦りを私は全て体験した。探したり待ったりする時間はとても辛いもので、精神的に崩壊してしまう。どれだけ涙を流し、食べ物が喉を通らず、眠れなかったことか。

小さい頃、道に迷った時のことを思い出した。あるお姉さんが見つけてくれて、父に迎えにくるよう電話してくれた。あの恩人の家で待っていた間、不安で堪らず、恐くなって泣いてしまった。父が夕日を浴びながら、自転車で駆け付けて来た時、私のあらゆる感情は一瞬にして救われた。父が温かく慰めてくれたあの光景を振り返ると、それはいつも温かい山吹色だった。その時私は、観世音菩薩が慈悲で以て恩人を派遣し、父を救って平穏無事に家に帰ってくれるよう祈り続けた。

翌日の深夜近くになって、私たちはやっと、交番から良いニュースを受け取った。父が見つかったのだ。ある通りすがりの人が、父の尋常でない様子に気が付き、宥めたり、騙したりしながら、近くの交番まで連れて行き、私たちが迎えに行くのを待ったのだ。

父が家を出てから帰るまでの三十二時間、私は彼がいったい何を体験したのか知らない。持っていたお金は全く減っていなかった。コンビニで食べ物や飲料水を買うことを知らないので、何も食べず、飲まず、寝ていないに違いない。交番で、防犯カメラの録画画像を見ると、一日目の夕方、父が店の人に道を尋ねているのが映っていた。当時の状況を見ると、まだ覚えていて、自分で道を探しているようだった。しかし、二日目の夜に父を迎えに行った時は、自分が道に迷ったことも、皆が心配して捜し回ったことも理解できず、完全に助けを求める能力がなくなっていた。怖かったに違いない。雨の中を自転車に乗り続け、少し脱水症状を起こし、歩き方もよろめいていた。

軽度認知症患者は、まだ行動や会話の能力があって、自律した生活ができ、自分は大丈夫だと思っている。だから、彼らが道に迷っても、他人は、外見から彼らに助けが必要だと判断するのは難しい。

家族全員で健康な心と脳にする

父が無事に帰ってきて、二日間休養した後、頭が次第にはっきりして来て、だいぶ元気になった。一家全員、もう二度と悪夢を見たくなかった。それがきっかけで、積極的に多くのことに変化をもたらした。二種類以上の位置情報が分かる方式を採用したり、食習慣を調整したりするようになった。

父はパンが好きだったが、研究報告によると、パンやパスタなど精製された高炭水化物を摂取し過ぎると、体内のぶどう糖とインスリンの代謝機能に影響を及ぼし、脳の血管とアミロイドβの作用にも影響を及ぼすそうだ。そして、βアミロイド斑こそ、アルツハイマー病を引き起こす重要な要因なのだそうだ。

家族は父に脳を健康にする様々なホールフーズを用意した。例えば、ナッツ、カボチャ、トマト、ダークチョコレート、ブラックコーヒーなどで、加工食品の摂取を減らし、ビタミンを補充し、アロマエッセンシャルオイルテラピー等を行った。

コロナ禍が落ち着いた後、父は每朝、最低一時間散步し、夜は家族が父に付き添って、書道や指の体操、パソコンの曲に合わせて歌うなど、いろいろな事をして一緒に過ごすようにした。それから、よくできたと父を褒めるようにした。

最近、政府は高齢者介護に関する情報を色々と提供しているので、私たちは父に介護の申請をした。介護士は、月曜日から金曜日まで昼間の一、二時間来て、将棋やパズルゲーム、おしゃべりなどの相手をして、父に付き添っている。多方面から生活習慣やリズムを改善したことで、今では、父の脳の退化が止っただけでなく、認知機能もかなり改善した。

高齢化社会は、より綿密な愛で織り成したネットワークによって、助けを必要とする年長者をキャッチする必要がある。その過程では、少しでも多く注意と関心を払い、行動によって表現することが必要であり、それによって一家族を救うことができるかもしれないのだ。慈済は各地の連絡所に介護拠点を設けており、地域の年長者に活力溢れる学習の場を提供することで、彼らが外出できるようになり、生き生きと、安心して晚年を過ごせるようにサポートしている。多くの年長者は、人と交流することで新しい知識を学ぶと共に、元来の記憶力の低下を遅れさせたり、ふさぎ込んだ気持ちを和らげたりすることができる。

如何にすれば、質と尊厳を兼ねた老年時代を過ごすことができるかは、社会全体の課題である。コロナ禍は私たちに、人と人の間で最も重要なこととは、やはり愛と関心であることを気づかせてくれた。心の溫かさが年長者の記憶を温め、認知症の年長者が平穏に温かくて愛のある環境で、晚年を過ごせるようにと願って止まない。

(慈済月刊六九五期より)

關鍵字

Rooted in a Green Vision—The Zhushan Recycling Station

Text and photos by Huang Xiao-zhe
Translated by Wu Hsiao-ting

Volunteers at the Zhushan Recycling Station pose for a photo. From left: Yang Feng-ling (楊鳳玲), Zhang Yue-zhu (張月珠), Huang Lin Mei-yue (黃林美月), Ye Pin-xiu (葉品秀), Huang Jin-man (黃錦滿), Cai Xiu-zhi (蔡秀治), Qiu Luan-ying (邱鑾英), and Cai Wan-zhen (蔡宛真).

Zhushan Township, nestled in Nantou County, central Taiwan, translates to “bamboo mountain” and is celebrated for its abundant bamboo production. With ideal geography and climate, the area yields various varieties of this plant year-round, making its bamboo products well-known far and wide.

On my first visit to the Zhushan Recycling Station, I immediately felt the warmth of the local people and their deep connection to the land. Over the years, more and more locals joined Tzu Chi’s recycling efforts, and numerous recycling points sprang up as a result. However, many changed locations or had to close entirely as circumstances changed. Thankfully, in 2021, a more permanent site—the Zhushan Recycling Station—was established next to the Zhushan Jing Si Hall, providing a stable, central hub for volunteers’ efforts.

Volunteers gather at the recycling station every Wednesday and Saturday, the designated recycling days. Some drive trucks to collect recyclables, others sort materials, and still others prepare snacks and lunch for the team. This group of like-minded people has developed a strong sense of teamwork, each contributing in their own way to a shared mission.

As I took a group photo that day, I imagined each volunteer as a unique bamboo shoot emerging from the soil—each deeply rooted in their commitment to resource recycling and environmental protection. They embody a vibrant spirit, both filling their lives with purpose and nurturing the Earth’s vitality.

Zhushan’s Unique Handcarts

When I entered the recycling station, I was drawn to a handcart used for transporting recyclables. At first glance, it resembled a mini “Transformer”! On closer inspection, I noticed that the cart’s four wheels and the round aluminum rings on its sides had been salvaged from old wheelchairs and bicycles. An aluminum screen window served as its base, while the rest of the frame was assembled from various recycled metal parts. This inventive design redefined my idea of a handcart—it was both creative and an impressive example of resourceful repurposing.

A volunteer later explained that all the handcarts at the station were designed and assembled by Zhang Wei-gao (張維誥), a former craft teacher at Zhushan Junior High School. Dubbed the “Zhushan MacGyver,” Zhang has a unique talent for turning discarded items into practical, functional objects. While many would see broken tools or electronics as waste, he repairs and repurposes them using almost entirely recycled parts. As he put it, “To me, repairing something to extend its life is far better than letting it turn into tomorrow’s waste.” In his view, objects and people hold equal value; when things are treated with care, we begin to see love and gratitude reflected in them.

Steadfast in Their Efforts

It was not yet eight in the morning when Shi Tian-sheng (石添勝) arrived at the recycling station with his 91-year-old mother. A former aviation safety officer, Shi had returned to his hometown after retiring to care for her. What began as an act of filial duty soon evolved into a lifelong commitment to environmental work, a dedication he has maintained for over 20 years. With few volunteers available to drive trucks, Shi took on the responsibility of collecting recyclables along various routes at least six days a week. His mother works in the sorting area at the station, cutting paper and organizing items.

It was already noon by the time Shi returned with a full load of recyclables that day. Despite the heat and his perspiration-soaked clothes, his face showed no trace of fatigue. Another small truck pulled into the station just then. As volunteers helped unload it, a petite woman in a floral-patterned hat stepped out of the driver’s seat. Her name, I learned, is Chen Qia (陳洽). Now 71, she has devoted over 20 years to recycling work. Energetic and determined, she tackles every task with enthusiasm, undeterred even by the demands of driving a manual truck. Years of lifting and physical labor have left her with some aches and old injuries, but she takes them all in stride, saying, “Being able to move and work is a blessing!”

The “Flavor” of the Zhushan Recycling Station

Under the canopy in one corner of the Zhushan Recycling Station, three culinary volunteers of similar age were busy at work preparing lunch for more than 20 recycling volunteers. Despite the outdoor setting, they had all the necessary equipment for cooking. The trio had, over the years, developed a smooth and efficient routine, with Zeng Bi (曾碧) and the petite Lan Cai-hua (藍彩華) preparing the ingredients and Shi Su-qin (石素琴) in charge of cooking. The three of them always work together on recycling days. They begin meal preparations at 8 a.m., and although there are only three of them, their dishes are far from basic. In less than three hours, they manage to prepare eight different vegetarian dishes, each one delicious and visually appealing.

As noon approached that day, the recycling volunteers wrapped up their work and gathered to enjoy the meal. I had the pleasure of dining with them. Though the midday heat surrounded us, we sat on recycled plastic chairs, savoring the meal with great satisfaction. A volunteer even shared a dish made with bamboo shoots she had grown herself. Every face reflected contentment, and I couldn’t help but feel moved. This, I realized, is the “flavor” of the Zhushan Recycling Station—simple yet fulfilling and truly blessed.

Text and photos by Huang Xiao-zhe
Translated by Wu Hsiao-ting

Volunteers at the Zhushan Recycling Station pose for a photo. From left: Yang Feng-ling (楊鳳玲), Zhang Yue-zhu (張月珠), Huang Lin Mei-yue (黃林美月), Ye Pin-xiu (葉品秀), Huang Jin-man (黃錦滿), Cai Xiu-zhi (蔡秀治), Qiu Luan-ying (邱鑾英), and Cai Wan-zhen (蔡宛真).

Zhushan Township, nestled in Nantou County, central Taiwan, translates to “bamboo mountain” and is celebrated for its abundant bamboo production. With ideal geography and climate, the area yields various varieties of this plant year-round, making its bamboo products well-known far and wide.

On my first visit to the Zhushan Recycling Station, I immediately felt the warmth of the local people and their deep connection to the land. Over the years, more and more locals joined Tzu Chi’s recycling efforts, and numerous recycling points sprang up as a result. However, many changed locations or had to close entirely as circumstances changed. Thankfully, in 2021, a more permanent site—the Zhushan Recycling Station—was established next to the Zhushan Jing Si Hall, providing a stable, central hub for volunteers’ efforts.

Volunteers gather at the recycling station every Wednesday and Saturday, the designated recycling days. Some drive trucks to collect recyclables, others sort materials, and still others prepare snacks and lunch for the team. This group of like-minded people has developed a strong sense of teamwork, each contributing in their own way to a shared mission.

As I took a group photo that day, I imagined each volunteer as a unique bamboo shoot emerging from the soil—each deeply rooted in their commitment to resource recycling and environmental protection. They embody a vibrant spirit, both filling their lives with purpose and nurturing the Earth’s vitality.

Zhushan’s Unique Handcarts

When I entered the recycling station, I was drawn to a handcart used for transporting recyclables. At first glance, it resembled a mini “Transformer”! On closer inspection, I noticed that the cart’s four wheels and the round aluminum rings on its sides had been salvaged from old wheelchairs and bicycles. An aluminum screen window served as its base, while the rest of the frame was assembled from various recycled metal parts. This inventive design redefined my idea of a handcart—it was both creative and an impressive example of resourceful repurposing.

A volunteer later explained that all the handcarts at the station were designed and assembled by Zhang Wei-gao (張維誥), a former craft teacher at Zhushan Junior High School. Dubbed the “Zhushan MacGyver,” Zhang has a unique talent for turning discarded items into practical, functional objects. While many would see broken tools or electronics as waste, he repairs and repurposes them using almost entirely recycled parts. As he put it, “To me, repairing something to extend its life is far better than letting it turn into tomorrow’s waste.” In his view, objects and people hold equal value; when things are treated with care, we begin to see love and gratitude reflected in them.

Steadfast in Their Efforts

It was not yet eight in the morning when Shi Tian-sheng (石添勝) arrived at the recycling station with his 91-year-old mother. A former aviation safety officer, Shi had returned to his hometown after retiring to care for her. What began as an act of filial duty soon evolved into a lifelong commitment to environmental work, a dedication he has maintained for over 20 years. With few volunteers available to drive trucks, Shi took on the responsibility of collecting recyclables along various routes at least six days a week. His mother works in the sorting area at the station, cutting paper and organizing items.

It was already noon by the time Shi returned with a full load of recyclables that day. Despite the heat and his perspiration-soaked clothes, his face showed no trace of fatigue. Another small truck pulled into the station just then. As volunteers helped unload it, a petite woman in a floral-patterned hat stepped out of the driver’s seat. Her name, I learned, is Chen Qia (陳洽). Now 71, she has devoted over 20 years to recycling work. Energetic and determined, she tackles every task with enthusiasm, undeterred even by the demands of driving a manual truck. Years of lifting and physical labor have left her with some aches and old injuries, but she takes them all in stride, saying, “Being able to move and work is a blessing!”

The “Flavor” of the Zhushan Recycling Station

Under the canopy in one corner of the Zhushan Recycling Station, three culinary volunteers of similar age were busy at work preparing lunch for more than 20 recycling volunteers. Despite the outdoor setting, they had all the necessary equipment for cooking. The trio had, over the years, developed a smooth and efficient routine, with Zeng Bi (曾碧) and the petite Lan Cai-hua (藍彩華) preparing the ingredients and Shi Su-qin (石素琴) in charge of cooking. The three of them always work together on recycling days. They begin meal preparations at 8 a.m., and although there are only three of them, their dishes are far from basic. In less than three hours, they manage to prepare eight different vegetarian dishes, each one delicious and visually appealing.

As noon approached that day, the recycling volunteers wrapped up their work and gathered to enjoy the meal. I had the pleasure of dining with them. Though the midday heat surrounded us, we sat on recycled plastic chairs, savoring the meal with great satisfaction. A volunteer even shared a dish made with bamboo shoots she had grown herself. Every face reflected contentment, and I couldn’t help but feel moved. This, I realized, is the “flavor” of the Zhushan Recycling Station—simple yet fulfilling and truly blessed.

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