感謝の心 戒定慧

人と人はお互いに関心を寄せ、感謝し合うべきです。お互いの間に摩擦が起きても、感謝の気持ちを持ちましょう。

自分が受け入れ難い誰かに対しても、直ちに心を落ち着かせて感謝の気持ちに変えましょう。感謝で戒律を守って心を定められれば、自ずと智慧が生まれます。

時は経ち、秋が過ぎるともう直ぐ冬で、毎日の日照時間も短くなります。一生の時間は知らず知らずのうちに失われていくため、肝心なのは、今この瞬間を大切にして、警戒心を高めて、時間を善用する人になり、発心すべきことは直ちに発心し、すべき事を行動に移すのです。奉仕すれば得るものがあり、実行しさえすれば良いのです。

心は私たちの修行道場であり、誰もが私たちと共に修行している人たちなのです。人はお互いに関心を寄せ、感謝し合うべきです。例えお互いの間に摩擦が起きても、感謝の気持ちを持たなければいけません。自分が受け入れ難い誰かに対しても、直ちに感謝の気持ちに切り替えるのです。それを「即時修行」と言います。心の中で戒を守り、それが定まれば、自ずと智慧が生まれます。誰もが私たちの修行の成就を助けてくれており、また、人は誰でも成仏できるので、決して人を軽視せず、人を慈しんでください。

正常な春夏秋冬を通して、万物は生気に溢れます。最も重要なことは、誰もが道理に従うことです。近頃の気候と社会は劇的に変化しています。昔は、服を縫って繕ったりしながら着ていたものですが、今は皆体裁を気にします。以前は小学校や中学校を卒業するのは容易ではありませんでしたが、今は教育が広く普及し、海外留学も珍しくなくなりました。

時代の変化に伴って生活スタイルが変わり、求めるものも異なって来ました。かつては、一食にご飯と野菜があれば十分でしたが、今では、千から万ほどもの味があっても、満足できないのです。口の欲を追求するのみならず、衣食住、行動において、利便性を享受しようとするため、大地が供給しなければならない資源は増えるばかりです。

生活はいつも欲念のために争い、大小様々で、「全ては自分のもの」と考え、「欲しい」と思ったら手段を選ばず、「もっと良い物を」と、満足することがありません。まるで灼熱の砂漠のように、心が涸れているので、いくら水をあげても、清涼な気持ちや喜びが得られないのです。

欲念があると競争が起こり、人と人、国と国の間で争いと奪い合いが起こり、社会には安らかな時間などありません。自然災害ならば短い時間で過ぎ去りますが、戦争となれば、安らかな日々はなく、どんなに財産が有っても、故郷から逃げなければなりません。難民が目立たない、社会の片隅にいるのを誰が知っているでしょうか。私はいつも心が苦しくなります。一体何処に彼らの身の拠り所があるのでしょうか?

人類は万物の霊長で、世界に平和をもたらすことができるのも人間なのです。もし少しでも心の偏りがあれば、その差が大きくなって、益々遠くへ行ってしまいます。社会の発展につれ、人の集まりがより大きくなった場合、僅かな差こそが大事なのです。心をしっかり管理することが大切で、少しでも偏ったり、欲があったりすると、ほんの一言が、時には人間(じんかん)に悲劇をもたらすかもしれないのです。

歴史を振り返ってみると、幸も不幸も、人々を利するか、害をもたらすか、全ては一念の差から生み出されています。宗教は人々の概念思想をポジティブに導いてくれます。利益を求める時は、先ず天下、大衆の利益を考えるべきであり、人々が平安であれば、自分も平安になれるのです。

人にはそれぞれの見解があります。たとえ同じ家庭で、同じ両親から生まれた兄弟姉妹でも、異なる考え方を持つことがあります。一家が睦まじくないと親は心配して悩みます。家庭から地域、社会に至るまで、もし考えが異なれば、損得勘定が働いて対立するようになり、是々非々が多くなって、世の中に混乱が広がります。

宗教は人心を調和し、一つの方向性を持っています。善と愛はどの宗教にも共通の精神です。信仰を最も簡単に説明すると、愛であり、博愛、仁愛、大愛、その全ては同様に広くて無尽蔵なのです。どの宗教を信仰するにしろ、互いに尊重して感謝し合うだけでなく、それ以上に合流することで、世界は平等で理想的な社会になれるのです。誰もが宗教の理念に従えば、人間(じんかん)は浄土となり、天国になるでしょう。

世界中の慈済人は、異なる肌の色の人々に接していますが、国家を分かたず、純粋な真実の愛で以て臨んでいます。この世に対する愛おしみの情こそが、「覚有情」なのです。目の前の一時的な情ではなく、永遠で長い情のある大愛です。

この世の苦しみは限りがなく、尽きません。また極端な異常気象が、前例のない深刻な災害をもたらしています。人心に争いの感情が起きると、人間(じんかん)には「濁った気」が生じます。争いがなく、欲を追求せず、無量になり、善行して福を作って「福の気」が大きくなればなるほど、この「福の気」は保護膜のように、人間(じんかん)を守ってくれるのです。

誰かが呼びかけて先頭に立てば、愛の心は啓発されます。あらゆる宗教の正念を結集し、大衆を教育して広い大道に導くのです。敬虔な祈りの力を軽く見てはなりません。その「気」の力が悪を追い払い、善の心を集めて人心の調和をはかり、人間(じんかん)に平和をもたらしてくれるのです。皆さんが心して精進することを願っています。

(慈済月刊六九六期より)

人と人はお互いに関心を寄せ、感謝し合うべきです。お互いの間に摩擦が起きても、感謝の気持ちを持ちましょう。

自分が受け入れ難い誰かに対しても、直ちに心を落ち着かせて感謝の気持ちに変えましょう。感謝で戒律を守って心を定められれば、自ずと智慧が生まれます。

時は経ち、秋が過ぎるともう直ぐ冬で、毎日の日照時間も短くなります。一生の時間は知らず知らずのうちに失われていくため、肝心なのは、今この瞬間を大切にして、警戒心を高めて、時間を善用する人になり、発心すべきことは直ちに発心し、すべき事を行動に移すのです。奉仕すれば得るものがあり、実行しさえすれば良いのです。

心は私たちの修行道場であり、誰もが私たちと共に修行している人たちなのです。人はお互いに関心を寄せ、感謝し合うべきです。例えお互いの間に摩擦が起きても、感謝の気持ちを持たなければいけません。自分が受け入れ難い誰かに対しても、直ちに感謝の気持ちに切り替えるのです。それを「即時修行」と言います。心の中で戒を守り、それが定まれば、自ずと智慧が生まれます。誰もが私たちの修行の成就を助けてくれており、また、人は誰でも成仏できるので、決して人を軽視せず、人を慈しんでください。

正常な春夏秋冬を通して、万物は生気に溢れます。最も重要なことは、誰もが道理に従うことです。近頃の気候と社会は劇的に変化しています。昔は、服を縫って繕ったりしながら着ていたものですが、今は皆体裁を気にします。以前は小学校や中学校を卒業するのは容易ではありませんでしたが、今は教育が広く普及し、海外留学も珍しくなくなりました。

時代の変化に伴って生活スタイルが変わり、求めるものも異なって来ました。かつては、一食にご飯と野菜があれば十分でしたが、今では、千から万ほどもの味があっても、満足できないのです。口の欲を追求するのみならず、衣食住、行動において、利便性を享受しようとするため、大地が供給しなければならない資源は増えるばかりです。

生活はいつも欲念のために争い、大小様々で、「全ては自分のもの」と考え、「欲しい」と思ったら手段を選ばず、「もっと良い物を」と、満足することがありません。まるで灼熱の砂漠のように、心が涸れているので、いくら水をあげても、清涼な気持ちや喜びが得られないのです。

欲念があると競争が起こり、人と人、国と国の間で争いと奪い合いが起こり、社会には安らかな時間などありません。自然災害ならば短い時間で過ぎ去りますが、戦争となれば、安らかな日々はなく、どんなに財産が有っても、故郷から逃げなければなりません。難民が目立たない、社会の片隅にいるのを誰が知っているでしょうか。私はいつも心が苦しくなります。一体何処に彼らの身の拠り所があるのでしょうか?

人類は万物の霊長で、世界に平和をもたらすことができるのも人間なのです。もし少しでも心の偏りがあれば、その差が大きくなって、益々遠くへ行ってしまいます。社会の発展につれ、人の集まりがより大きくなった場合、僅かな差こそが大事なのです。心をしっかり管理することが大切で、少しでも偏ったり、欲があったりすると、ほんの一言が、時には人間(じんかん)に悲劇をもたらすかもしれないのです。

歴史を振り返ってみると、幸も不幸も、人々を利するか、害をもたらすか、全ては一念の差から生み出されています。宗教は人々の概念思想をポジティブに導いてくれます。利益を求める時は、先ず天下、大衆の利益を考えるべきであり、人々が平安であれば、自分も平安になれるのです。

人にはそれぞれの見解があります。たとえ同じ家庭で、同じ両親から生まれた兄弟姉妹でも、異なる考え方を持つことがあります。一家が睦まじくないと親は心配して悩みます。家庭から地域、社会に至るまで、もし考えが異なれば、損得勘定が働いて対立するようになり、是々非々が多くなって、世の中に混乱が広がります。

宗教は人心を調和し、一つの方向性を持っています。善と愛はどの宗教にも共通の精神です。信仰を最も簡単に説明すると、愛であり、博愛、仁愛、大愛、その全ては同様に広くて無尽蔵なのです。どの宗教を信仰するにしろ、互いに尊重して感謝し合うだけでなく、それ以上に合流することで、世界は平等で理想的な社会になれるのです。誰もが宗教の理念に従えば、人間(じんかん)は浄土となり、天国になるでしょう。

世界中の慈済人は、異なる肌の色の人々に接していますが、国家を分かたず、純粋な真実の愛で以て臨んでいます。この世に対する愛おしみの情こそが、「覚有情」なのです。目の前の一時的な情ではなく、永遠で長い情のある大愛です。

この世の苦しみは限りがなく、尽きません。また極端な異常気象が、前例のない深刻な災害をもたらしています。人心に争いの感情が起きると、人間(じんかん)には「濁った気」が生じます。争いがなく、欲を追求せず、無量になり、善行して福を作って「福の気」が大きくなればなるほど、この「福の気」は保護膜のように、人間(じんかん)を守ってくれるのです。

誰かが呼びかけて先頭に立てば、愛の心は啓発されます。あらゆる宗教の正念を結集し、大衆を教育して広い大道に導くのです。敬虔な祈りの力を軽く見てはなりません。その「気」の力が悪を追い払い、善の心を集めて人心の調和をはかり、人間(じんかん)に平和をもたらしてくれるのです。皆さんが心して精進することを願っています。

(慈済月刊六九六期より)

關鍵字

ドミニカで見た 教育という魔法の力

(撮影・ヤン・カルロス)

ドミニカのラ・ロマーナにある慈済小中学校で、教育という魔法の力を目の当たりにした。高い中退率に打ち負かされることなく、学校に戻って教鞭を執っている第一期の卒業生の姿があった。夜間成人クラスの母親と小中学校に通う子供が同時に卒業する姿は、現地ではよくあることだが、最も心を打たれる光景でもある。

今年の八月、私と報道カメラマンは、初めてカリブ海の島国であるドミニカ共和国を訪れた。私が想像していたのは、情熱に溢れ、自由を謳歌する国風だった。果てしない海岸線、延々と続くヤシの木、真っ白な砂浜に打ち寄せる青い波しぶきは、欧米の人々がよく思い描くバカンス天国の象徴である。

ドミニカの面積は四万八千平方キロメートルで、台湾の一・三倍の大きさだが、人口は台湾の半分しかない。台湾人にドミニカの話をすると、多くの人は野球で世界に知られた国で、少なからぬメジャーリーグ(MLB)選手の出身地だと答える。実際にメジャーリーグのチームが現地にベースを設立し、子どもから人材を発掘して、養成している。

野球はドミニカの国民的スポーツなので、首都のサントドミンゴには百余りの野球場がある。街でも数人の子供がバットとグローブ、野球ボールを持っているのをよく見かける。空き地であろうと、彼らにとっては心のスタジアムなのだ。低学年の子供にも瞬発力があり、その力強い投球や打撃に、私は立ち止まって見入ってしまった。

スポーツとはいえ、ドミニカの人は野球を「脱貧困への道」だと見なしている。この国では貧富の差が大きく、幼いうちから子供を野球チームに入れる親は少なくない。子供が外でぶらつき、暇を持て余すよりも、しっかり専門的なトレーニングをした方が良いと思っているからだ。また野球チームの監督も、あちらこちらでジュニア選手の発掘に奔走しては子供たちに食事と宿泊施設を提供し、練習に専念できるようにしている。

監督によれば、たとえ参加費が毎月三百ペソ(約六百円)であっても、多くの家庭はそれを支払う能力がないため、監督がリソースと補助金を探すほかないそうだ。割に合わない仕事のように聞こえるが、なぜこれほど多くの人が進んでやるのだろうか?子供にとってこれは出世のチャンスであり、監督も選手を通じて一躍有名になるかもしれないので、子供たちに賭けているのだ。

ただ有名になれる確率はあまりにも低い。代表として国際舞台に立てなかった一部の選手は、奨学金を申請して海外に留学するか、さもなければ、ドミニカに留まって監督になり、有望な選手を育てるしかない。ここからも分かるように、選手としての輝きを失った後は、「教育」だけが、貧困から抜け出る根本の道なのである。今回の取材で、教育が人の一生、一つの家庭から社会までも変えてしまうほど重要であるということを、強く実感した。

サントドミンゴの或る野球場で、子供たちが出番を待っていた。ここでは、野球が出世のチャンスなのである。(撮影・呂思萱)

スラム街のエコ教育センター

私たちはサントドミンゴのロスリオス地区へ取材に訪れたが、目に映ったのは連なって立ち並ぶブリキ屋根の家だった。地形に合わせて建てられ、立て込んでいて狭く、間隔はほとんど無いに等しい。ここで暮らしている人の多くは隣国ハイチからの不法移民である。

二〇二二年の豪雨によってロスリオスは洪水に見舞われ、水位は一階が水没する高さにまでなったこともあり、あらゆる家財道具が水に浸かった。水害の後、現地の慈済ボランティアが被災地の視察に行くと、排水溝はゴミで溢れていた。以前から、家庭の廃水、排泄物、廃棄衣類、時にはマットレスや家具なども、全て排水溝に捨てられていた。排水システム等の公共インフラが不足しているため、豪雨に見舞われれば、排水は間に合わず、住宅に押し寄せてくる。

ボランティアは先ず食糧バッグを配付し、同時に「エコで住まいを浄化するプロジェクト」を押し進め、現地の主婦たちに参加を呼びかけ、正しい概念を住民の脳に深く根付くようにした。この野外でのエコ教育授業は、一つの理念から始まり、現地の至る所に広がり、二年間をかけてコミュニティで成果を上げた。コスタリカ公立学校もこの活動に参加し、定期的に曜日を決めて資源回収を行い、エコ・コンテストなどを企画して慈済が提供した文房具やカバンを賞品とした。善い競争によって、子供が着実にエコ活動することを奨励した。これは早期の台湾のリサイクル活動で提唱するゴミを地面に置かない運動を思い起こさせ、このような歴史背景の下で推進してきたのである。

ロスリオス地区でもう一つ印象深かったことは、多くの若い母親が、一人で二、三人の子供の面倒を見ており、コミュニティ内は子供たちのはしゃぐ声でいっぱいだったことである。二十四歳のラファエリナさんは、十五歳で妊娠し、妊娠期間は学業に専念することができず休学し、三年後また二人の子供を次々に出産した。彼女と夫はあまりにも若かったため、子供の世話や生計の問題で意見が合わなくなり、最後は離婚で幕を閉じた。

ドミニカの教育制度は、小学校六年、中学校六年で、公立学校の学費は無償である。近年、政府は制服代を補助するようになり、就学率が上がると見込んでいたが、中退率は依然として高止まりしたままである。貧困と未成年の妊娠が未だにその主因で、子供は教育を受ける機会を犠牲にし、アルバイトをして、家計を助けている。

私がラフェエリナさんに、学校に戻って勉強したいかと尋ねると、彼女は「とてもそう思います。以前は文学と作文がとても好きでした。もしもう一度勉強できるチャンスがあるなら、知識を得られるので、子供を指導することができ、彼らの手本になれます」と答えた。

風災をきっかけに、慈済の足跡はドミニカ共和国に踏み入れた。ラ・ロマーナのゴミ山に住む子どもたちに、教育の光と未来への希望をもたらした。2017年9月13日、ボランティアたちはラ・ロマーナの慈済中学校を訪れ、学生たちに制服や文房具を配り、みんながもっと一生懸命に勉強できるよう励ました。

ロスリオス地区にあるコスタリカ公立学校はエコ教育を行っている。生徒は、登校する時にペットボトルを持っていき、回収・分類をしている。

人生の半ばで再び学業に戻る

サントドミンゴの東、約百キロ余りのところにあるラ・ロマーナ州を訪れ、私は四十八歳のフィオールさんと出会った。彼女は二度の結婚を経験し、四人の子供を育てた。妊娠期間中は休学し、やっと子供たちが成長したので自分の時間が持てるようになったため、再び学校に戻って学業を続けているのだった。

彼女の一番好きな科目は社会と自然科学で、知識は自分に新しい視野を持たせてくれると話してくれた。以前は彼女が子供たちに勉強を教えていたが、今は母親と娘が一緒に勉強し、学習している。現地ではよく見かけるが、心打たれる光景である。「教科書を再び手に取ることができてとても嬉しいです。勉強が私に何の影響ももたらしていないと言えば、嘘になります」。そこまで話した彼女は、これ以上涙を抑えることができなかった。

台湾に生まれた私たちにとって、義務教育を受けることはすでに当たり前だ。地球の向こう側では勉強することが手に入れ難い夢だなどとは、想像もできない。彼らがその夢を叶えるには、自分で努力するしかない。経済的困難を克服し、家庭環境の束縛から逃れ、さらに周囲の親戚や友人たちのサポートがあって初めて、一歩前進することができるのだ。

今年八月、フィオールさんはラ・ロマーナ慈済小中学校の成人クラスを卒業した。彼女は「結婚して子供ができると、すべての時間を家庭に捧げました。でも、教育は人生を逆転させる方法の一つだと今でも信じています」と述べた。卒業式の日、アカデミックガウンをまとった彼女は、卒業生として輝かしく自信に満ちていた。彼女は卒業式スピーチを任され、もし慈済学校の養成がなかったら、今の自分はいないと述べた。彼女のケースは、教育が人生を変えることの、最も良い実例である。

ラ・ロマーナ慈済小中学校の場所は、それ以前はゴミ捨て場だった。一九九八年ハリケーン・ジョージが現地を襲い、大きな災難に見舞われた。慈済ボランティアが被災地を視察した時、スラム街の多くの子供が大人と一緒にゴミを漁って食べ物を探していたのを見て、心が痛んだ。緊急支援を終えた後、ラ・ロマーナ慈済小中学校の設立を促し、二〇〇〇年に一期生の募集が始まった。

カリナさんはラ・ロマーナ慈済小中学校の第一期生で、コミュニティの変化をとても身近に感じていた。以前は遠くにある学校まで通わなければならなかったため、学校に行くことを止めた人もいたそうだ。「慈済の学校ができてから、子供たちは家の近くで勉強できるようになりました。学校がコミュニティセンターのような役割を果たし、子供たちは放課後も学校内にいる方が安全なので、保護者もとても安心しています。さらに慈済が長期的に制服や教材、文房具を提供してくれているので、保護者の経済的負担は大幅に軽減しました」。

カリナさんは、卒業後も努力して教員資格を取得し、二〇一一年に母校に戻ると臨時教師を担当し、二〇二二年、正式に教員免許を取得した。

「慈済が、教師と生徒は互いに助け合い、愛し合わなければならない、ということを教えてくれました。ほかにも、環境を大事にする概念などがありました。私はこれからも使命を果たし、ラ・ロマーナの子供たちが人生を逆転できるよう、サポートし続けて行きます」。

この二十日間の取材の旅を振り返ると、苦労は多かったが、ドミニカのボランティアたちに希望を感じた。ニュースが配信されると、その後には笑顔を見せてくれた。その笑顔は、努力の積み重ねがやっと目に見える形となって現れたという達成感だった。私の仕事も、慈済の現地における慈善志業を後押しする力になるのだ、と分かった。私は一種の使命感を感じ、どんなに疲れてもやりがいがある、と思った。

一九九八年のハリケーン・ジョージから今に至るまで、健康の問題で台湾に帰国して休養している中華系の人は少なくないが、過去二十五年にわたる彼らの貢献には価値がある。なぜなら現地ボランティアが育ち始めたからだ。慈善はラ・ロマーナで教育のみならず、女性と青年も慈善奉仕に投入し、一人暮らしや身障者のために、炊き出しプロジェクトを始め、ハイチ移民のために食糧バッグを配付するようになったのだ。

私はドミニカボランティアの情熱に感化された。それは一種の「善いことをする時、私一人が欠けてはいけない」という精神である。私も彼らに、「他人のために奉仕できる人は、福がある人」という上人の言葉を分かち合った。このように慈善の種が芽を出したことを目の当たりにしたので、数年後にはきっと森林に成長していると信じている。

(慈済月刊六九五期より)

慈済ドミニカ連絡所二十五周年を迎えて

咲き乱れる清らかな蓮を見て嬉しく思う

慈済ドミニカ連絡所二十五周年を迎えて—咲き乱れる清らかな蓮を見て嬉しく思う

一九九八年十一月、アメリカ慈済ボランティアの林慮瑢(リン・リュロン)さんが、チームと共にハリケーン・ジョージで被災したドミニカ共和国へ災害視察に向かった。そして、十二月に激甚被災地のポロとラ・ロマーナで千世帯に食糧を配付した。一九九九年二月、慈済のカリブ海地域初の拠点である、ドミニカ連絡所が設立された。二〇〇〇年、ラ・ロマーナ慈済小中学校が設立され、その十年後、夜間及び土曜日の成人クラスが開設され、識字率が上昇した。成人クラスでは「八年生国家検定試験」に合格した学生もいた。

二十五年間、現地の台商(台湾の企業家など)と華僑系の人が志業の推進を担い、林さんと夫の陳濟弘(チェン・ジーホン)さんも慈済学校の支援を続けてきた。今までに千人以上の卒業生が巣立ち、社会で奉仕している。ドミニカ連絡所の初代責任者である蔡慈力(ツァィ・ツーリー)さんは、現地で認証を授かったボランティアのうちで慈済学校の卒業生と生徒の親が占める割合は少なくない、と胸をなでおろしながら言った。

政府は、以前貧しい人が生計を立てていたゴミ山を平地にして、大規模なコミュニティを築いた。評判を聞いて人口が増え続けたので、元の慈済学校を五百人の中学生用とし、政府が八百人の小学生が通える新しい校舎を新設し、今年中には使用が始まる予定である。校内は、ホウオウボク(鳳凰木)の枝が伸びて葉が生い茂り、当時の「ゴミだらけだった土地を清らかな蓮の花でいっぱいにする」という願いは、既に開花し、実を結んだのだ。(編集部整理)

(撮影・ヤン・カルロス)

ドミニカのラ・ロマーナにある慈済小中学校で、教育という魔法の力を目の当たりにした。高い中退率に打ち負かされることなく、学校に戻って教鞭を執っている第一期の卒業生の姿があった。夜間成人クラスの母親と小中学校に通う子供が同時に卒業する姿は、現地ではよくあることだが、最も心を打たれる光景でもある。

今年の八月、私と報道カメラマンは、初めてカリブ海の島国であるドミニカ共和国を訪れた。私が想像していたのは、情熱に溢れ、自由を謳歌する国風だった。果てしない海岸線、延々と続くヤシの木、真っ白な砂浜に打ち寄せる青い波しぶきは、欧米の人々がよく思い描くバカンス天国の象徴である。

ドミニカの面積は四万八千平方キロメートルで、台湾の一・三倍の大きさだが、人口は台湾の半分しかない。台湾人にドミニカの話をすると、多くの人は野球で世界に知られた国で、少なからぬメジャーリーグ(MLB)選手の出身地だと答える。実際にメジャーリーグのチームが現地にベースを設立し、子どもから人材を発掘して、養成している。

野球はドミニカの国民的スポーツなので、首都のサントドミンゴには百余りの野球場がある。街でも数人の子供がバットとグローブ、野球ボールを持っているのをよく見かける。空き地であろうと、彼らにとっては心のスタジアムなのだ。低学年の子供にも瞬発力があり、その力強い投球や打撃に、私は立ち止まって見入ってしまった。

スポーツとはいえ、ドミニカの人は野球を「脱貧困への道」だと見なしている。この国では貧富の差が大きく、幼いうちから子供を野球チームに入れる親は少なくない。子供が外でぶらつき、暇を持て余すよりも、しっかり専門的なトレーニングをした方が良いと思っているからだ。また野球チームの監督も、あちらこちらでジュニア選手の発掘に奔走しては子供たちに食事と宿泊施設を提供し、練習に専念できるようにしている。

監督によれば、たとえ参加費が毎月三百ペソ(約六百円)であっても、多くの家庭はそれを支払う能力がないため、監督がリソースと補助金を探すほかないそうだ。割に合わない仕事のように聞こえるが、なぜこれほど多くの人が進んでやるのだろうか?子供にとってこれは出世のチャンスであり、監督も選手を通じて一躍有名になるかもしれないので、子供たちに賭けているのだ。

ただ有名になれる確率はあまりにも低い。代表として国際舞台に立てなかった一部の選手は、奨学金を申請して海外に留学するか、さもなければ、ドミニカに留まって監督になり、有望な選手を育てるしかない。ここからも分かるように、選手としての輝きを失った後は、「教育」だけが、貧困から抜け出る根本の道なのである。今回の取材で、教育が人の一生、一つの家庭から社会までも変えてしまうほど重要であるということを、強く実感した。

サントドミンゴの或る野球場で、子供たちが出番を待っていた。ここでは、野球が出世のチャンスなのである。(撮影・呂思萱)

スラム街のエコ教育センター

私たちはサントドミンゴのロスリオス地区へ取材に訪れたが、目に映ったのは連なって立ち並ぶブリキ屋根の家だった。地形に合わせて建てられ、立て込んでいて狭く、間隔はほとんど無いに等しい。ここで暮らしている人の多くは隣国ハイチからの不法移民である。

二〇二二年の豪雨によってロスリオスは洪水に見舞われ、水位は一階が水没する高さにまでなったこともあり、あらゆる家財道具が水に浸かった。水害の後、現地の慈済ボランティアが被災地の視察に行くと、排水溝はゴミで溢れていた。以前から、家庭の廃水、排泄物、廃棄衣類、時にはマットレスや家具なども、全て排水溝に捨てられていた。排水システム等の公共インフラが不足しているため、豪雨に見舞われれば、排水は間に合わず、住宅に押し寄せてくる。

ボランティアは先ず食糧バッグを配付し、同時に「エコで住まいを浄化するプロジェクト」を押し進め、現地の主婦たちに参加を呼びかけ、正しい概念を住民の脳に深く根付くようにした。この野外でのエコ教育授業は、一つの理念から始まり、現地の至る所に広がり、二年間をかけてコミュニティで成果を上げた。コスタリカ公立学校もこの活動に参加し、定期的に曜日を決めて資源回収を行い、エコ・コンテストなどを企画して慈済が提供した文房具やカバンを賞品とした。善い競争によって、子供が着実にエコ活動することを奨励した。これは早期の台湾のリサイクル活動で提唱するゴミを地面に置かない運動を思い起こさせ、このような歴史背景の下で推進してきたのである。

ロスリオス地区でもう一つ印象深かったことは、多くの若い母親が、一人で二、三人の子供の面倒を見ており、コミュニティ内は子供たちのはしゃぐ声でいっぱいだったことである。二十四歳のラファエリナさんは、十五歳で妊娠し、妊娠期間は学業に専念することができず休学し、三年後また二人の子供を次々に出産した。彼女と夫はあまりにも若かったため、子供の世話や生計の問題で意見が合わなくなり、最後は離婚で幕を閉じた。

ドミニカの教育制度は、小学校六年、中学校六年で、公立学校の学費は無償である。近年、政府は制服代を補助するようになり、就学率が上がると見込んでいたが、中退率は依然として高止まりしたままである。貧困と未成年の妊娠が未だにその主因で、子供は教育を受ける機会を犠牲にし、アルバイトをして、家計を助けている。

私がラフェエリナさんに、学校に戻って勉強したいかと尋ねると、彼女は「とてもそう思います。以前は文学と作文がとても好きでした。もしもう一度勉強できるチャンスがあるなら、知識を得られるので、子供を指導することができ、彼らの手本になれます」と答えた。

風災をきっかけに、慈済の足跡はドミニカ共和国に踏み入れた。ラ・ロマーナのゴミ山に住む子どもたちに、教育の光と未来への希望をもたらした。2017年9月13日、ボランティアたちはラ・ロマーナの慈済中学校を訪れ、学生たちに制服や文房具を配り、みんながもっと一生懸命に勉強できるよう励ました。

ロスリオス地区にあるコスタリカ公立学校はエコ教育を行っている。生徒は、登校する時にペットボトルを持っていき、回収・分類をしている。

人生の半ばで再び学業に戻る

サントドミンゴの東、約百キロ余りのところにあるラ・ロマーナ州を訪れ、私は四十八歳のフィオールさんと出会った。彼女は二度の結婚を経験し、四人の子供を育てた。妊娠期間中は休学し、やっと子供たちが成長したので自分の時間が持てるようになったため、再び学校に戻って学業を続けているのだった。

彼女の一番好きな科目は社会と自然科学で、知識は自分に新しい視野を持たせてくれると話してくれた。以前は彼女が子供たちに勉強を教えていたが、今は母親と娘が一緒に勉強し、学習している。現地ではよく見かけるが、心打たれる光景である。「教科書を再び手に取ることができてとても嬉しいです。勉強が私に何の影響ももたらしていないと言えば、嘘になります」。そこまで話した彼女は、これ以上涙を抑えることができなかった。

台湾に生まれた私たちにとって、義務教育を受けることはすでに当たり前だ。地球の向こう側では勉強することが手に入れ難い夢だなどとは、想像もできない。彼らがその夢を叶えるには、自分で努力するしかない。経済的困難を克服し、家庭環境の束縛から逃れ、さらに周囲の親戚や友人たちのサポートがあって初めて、一歩前進することができるのだ。

今年八月、フィオールさんはラ・ロマーナ慈済小中学校の成人クラスを卒業した。彼女は「結婚して子供ができると、すべての時間を家庭に捧げました。でも、教育は人生を逆転させる方法の一つだと今でも信じています」と述べた。卒業式の日、アカデミックガウンをまとった彼女は、卒業生として輝かしく自信に満ちていた。彼女は卒業式スピーチを任され、もし慈済学校の養成がなかったら、今の自分はいないと述べた。彼女のケースは、教育が人生を変えることの、最も良い実例である。

ラ・ロマーナ慈済小中学校の場所は、それ以前はゴミ捨て場だった。一九九八年ハリケーン・ジョージが現地を襲い、大きな災難に見舞われた。慈済ボランティアが被災地を視察した時、スラム街の多くの子供が大人と一緒にゴミを漁って食べ物を探していたのを見て、心が痛んだ。緊急支援を終えた後、ラ・ロマーナ慈済小中学校の設立を促し、二〇〇〇年に一期生の募集が始まった。

カリナさんはラ・ロマーナ慈済小中学校の第一期生で、コミュニティの変化をとても身近に感じていた。以前は遠くにある学校まで通わなければならなかったため、学校に行くことを止めた人もいたそうだ。「慈済の学校ができてから、子供たちは家の近くで勉強できるようになりました。学校がコミュニティセンターのような役割を果たし、子供たちは放課後も学校内にいる方が安全なので、保護者もとても安心しています。さらに慈済が長期的に制服や教材、文房具を提供してくれているので、保護者の経済的負担は大幅に軽減しました」。

カリナさんは、卒業後も努力して教員資格を取得し、二〇一一年に母校に戻ると臨時教師を担当し、二〇二二年、正式に教員免許を取得した。

「慈済が、教師と生徒は互いに助け合い、愛し合わなければならない、ということを教えてくれました。ほかにも、環境を大事にする概念などがありました。私はこれからも使命を果たし、ラ・ロマーナの子供たちが人生を逆転できるよう、サポートし続けて行きます」。

この二十日間の取材の旅を振り返ると、苦労は多かったが、ドミニカのボランティアたちに希望を感じた。ニュースが配信されると、その後には笑顔を見せてくれた。その笑顔は、努力の積み重ねがやっと目に見える形となって現れたという達成感だった。私の仕事も、慈済の現地における慈善志業を後押しする力になるのだ、と分かった。私は一種の使命感を感じ、どんなに疲れてもやりがいがある、と思った。

一九九八年のハリケーン・ジョージから今に至るまで、健康の問題で台湾に帰国して休養している中華系の人は少なくないが、過去二十五年にわたる彼らの貢献には価値がある。なぜなら現地ボランティアが育ち始めたからだ。慈善はラ・ロマーナで教育のみならず、女性と青年も慈善奉仕に投入し、一人暮らしや身障者のために、炊き出しプロジェクトを始め、ハイチ移民のために食糧バッグを配付するようになったのだ。

私はドミニカボランティアの情熱に感化された。それは一種の「善いことをする時、私一人が欠けてはいけない」という精神である。私も彼らに、「他人のために奉仕できる人は、福がある人」という上人の言葉を分かち合った。このように慈善の種が芽を出したことを目の当たりにしたので、数年後にはきっと森林に成長していると信じている。

(慈済月刊六九五期より)

慈済ドミニカ連絡所二十五周年を迎えて

咲き乱れる清らかな蓮を見て嬉しく思う

慈済ドミニカ連絡所二十五周年を迎えて—咲き乱れる清らかな蓮を見て嬉しく思う

一九九八年十一月、アメリカ慈済ボランティアの林慮瑢(リン・リュロン)さんが、チームと共にハリケーン・ジョージで被災したドミニカ共和国へ災害視察に向かった。そして、十二月に激甚被災地のポロとラ・ロマーナで千世帯に食糧を配付した。一九九九年二月、慈済のカリブ海地域初の拠点である、ドミニカ連絡所が設立された。二〇〇〇年、ラ・ロマーナ慈済小中学校が設立され、その十年後、夜間及び土曜日の成人クラスが開設され、識字率が上昇した。成人クラスでは「八年生国家検定試験」に合格した学生もいた。

二十五年間、現地の台商(台湾の企業家など)と華僑系の人が志業の推進を担い、林さんと夫の陳濟弘(チェン・ジーホン)さんも慈済学校の支援を続けてきた。今までに千人以上の卒業生が巣立ち、社会で奉仕している。ドミニカ連絡所の初代責任者である蔡慈力(ツァィ・ツーリー)さんは、現地で認証を授かったボランティアのうちで慈済学校の卒業生と生徒の親が占める割合は少なくない、と胸をなでおろしながら言った。

政府は、以前貧しい人が生計を立てていたゴミ山を平地にして、大規模なコミュニティを築いた。評判を聞いて人口が増え続けたので、元の慈済学校を五百人の中学生用とし、政府が八百人の小学生が通える新しい校舎を新設し、今年中には使用が始まる予定である。校内は、ホウオウボク(鳳凰木)の枝が伸びて葉が生い茂り、当時の「ゴミだらけだった土地を清らかな蓮の花でいっぱいにする」という願いは、既に開花し、実を結んだのだ。(編集部整理)

關鍵字

心のわだかまりを解く

生命の心にわだかまりができると、直線が曲線になる。
心の扉を開け放てば、世界は広くなる。

広い大道を真っ直ぐに進めばいい

八月三十日、上人は年配の慈済人たちと歓談した。

「まだ凡夫の皆さんが仏に学ぶのは、凡夫の無明の煩悩を取り除いて悟りを開くためです。しかし、どのようにして学び、何を学べば良いのでしょうか?それには仏法を学び、菩薩道を歩むことです。この道は広くて真っ直ぐな大道です。純粋な心で仏法を学ぶのであれば、その方向に従って、その道を真っ直ぐ進めばいいのです。直線を曲線にしてはいけません。

仏陀は三界を火宅と比喩しており、凡夫は欲念によって様々な煩悩を引き起こします。欲界と色界、無色界を合わせた三界とは、火事になった大邸宅のようなものだと喩えています。上人は、「地球の至る所に凡夫の欲念が溢れ、ひどい環境汚染を引き起こしています。そして、人同士のいがみ合いによって、この世は不穏になっています。人が多く集まる分だけいがみ合いも雑多になり、お互いの間に「わだかまり」ができます。人と人のいがみ合いを解くには、先ず自分の心のわだかまりを解くことです」と言いました。

また、静思人文社が毎年出版している四冊の『衲履足跡』(春、夏、秋、冬)は、師に随行している常住尼僧たちが法師の日々の開示や訪問客との談話を記録したものです。最も早期のものは『齋後錄』で、朝食後、大衆に対して話したことをまとめたものです。その後、徳宣(ドーシュエン)師父が記録した随行の見聞が『随師行記』となって出版され、その後に『衲履足跡』になりました。即ち日記であり、毎日の人とのやり取りと出来事です。

「『衲履足跡』が私の足跡の記録だとしたら、精舎しかなかった頃から始まります。花蓮の狭い範囲で行動していましたが、やがて台湾全土に出かけるようになりました。初期の文章は少なく、内容も豊富ではありませんでしたが、当時の来客や話をした相手は皆、慈済の歴史の始まりの一部であり、その内容は各県や市、地域で行われた慈済の事柄です。慈済人はいつも、師匠である私がしたいことを彼らが代わりに行うのだ、と言います。後に慈済人が増えるにつれ、慈済の志業も増え、その範囲も広くなり、紐のように益々長くなりました。そして、時間の流れと共に、関連する人も事も多くなったため、緩んでしまうのは避けられません。それを急に力いっぱい引っ張ると、その紐は切れてしまうかもしれません。ですから、あらゆる段階ではっきり理解してから引っ張り上げ、そこで事の源から終わりまでの障害をなくすのです」。

上人はこう言いました。「各国の慈済志業は全て単純な一念と真心から始まりました。世界各国との紐も益々長くなり、元来は単純な一直線だったのが、人々の考え方や習慣が違うために摩擦が起き、その紐は曲がりくねったものになったのです。その時に紐を引っ張れば、絡まってしまいます」。

「慈済人と慈済の事、人も事も全て私と関係があるのですから、どうして心配しないでいられるでしょうか。誰かと誰かが合わないと聞くと、憂いは増えるのです。お互いに縁があるのですから、お互いに成就させるべきです。皆、若くないのですから、『ここで私を必要としなくても、他に行くところはある』などと頑固になってはいけません。ここは皆さんが一歩一歩基礎を作りあげたもので、場所も種も揃っています。さもなければ森に成長していません。大木は小木が寄り添い、地面は草が土壌の流出を防いでくれています。人は社会でお互いに頼り、愛し合わなければいけません。もし、本当にわだかまりがあるのであれば、早くそれを解きほぐしてください」。

「人にはそれぞれの考え方があり、口に出さなければ、他の人は知ることができませんし、もし話し合わなければ、人も事も円満に解決できません。人の世はとかく複雑で、それは心に由来しているため、『広い心と純粋な思い』と『善に解釈し、度量を大きくする』ことを学ばなければいけません」。

「皆さんが私を愛しているのなら、私を護り、喜ばせるべきであり、心を一つに和気藹々として協力し合うべきです。私が最も心配しているのは、いつか私がいなくなった時、慈済の志業が止まってしまうのではないか、ということです。苦難にある人にとって、慈済はなくてはならないのです」。

「『衲履足跡』のどこを見ても、仏陀の講釈は出てきません。しかし、その大覚者の因縁によって、私は仏門に入り、仏門がこの慈済という扉を開けてくれたのです」。上人は、静思法脈が途絶えることなく、宗門が永遠に開かれ、永久に人間(じんかん)を利することを期待しています。この目標を達成するには、各自が心を開け放つ必要があります。さもなければ、大勢の人を受け入れることはできません。善に解釈すること、心の度量を大きくすることを学んで、心を正しい方向に調整するのです。自分を小さくすれば、生命の世界は開けます。

(慈済月刊六九五期より)

生命の心にわだかまりができると、直線が曲線になる。
心の扉を開け放てば、世界は広くなる。

広い大道を真っ直ぐに進めばいい

八月三十日、上人は年配の慈済人たちと歓談した。

「まだ凡夫の皆さんが仏に学ぶのは、凡夫の無明の煩悩を取り除いて悟りを開くためです。しかし、どのようにして学び、何を学べば良いのでしょうか?それには仏法を学び、菩薩道を歩むことです。この道は広くて真っ直ぐな大道です。純粋な心で仏法を学ぶのであれば、その方向に従って、その道を真っ直ぐ進めばいいのです。直線を曲線にしてはいけません。

仏陀は三界を火宅と比喩しており、凡夫は欲念によって様々な煩悩を引き起こします。欲界と色界、無色界を合わせた三界とは、火事になった大邸宅のようなものだと喩えています。上人は、「地球の至る所に凡夫の欲念が溢れ、ひどい環境汚染を引き起こしています。そして、人同士のいがみ合いによって、この世は不穏になっています。人が多く集まる分だけいがみ合いも雑多になり、お互いの間に「わだかまり」ができます。人と人のいがみ合いを解くには、先ず自分の心のわだかまりを解くことです」と言いました。

また、静思人文社が毎年出版している四冊の『衲履足跡』(春、夏、秋、冬)は、師に随行している常住尼僧たちが法師の日々の開示や訪問客との談話を記録したものです。最も早期のものは『齋後錄』で、朝食後、大衆に対して話したことをまとめたものです。その後、徳宣(ドーシュエン)師父が記録した随行の見聞が『随師行記』となって出版され、その後に『衲履足跡』になりました。即ち日記であり、毎日の人とのやり取りと出来事です。

「『衲履足跡』が私の足跡の記録だとしたら、精舎しかなかった頃から始まります。花蓮の狭い範囲で行動していましたが、やがて台湾全土に出かけるようになりました。初期の文章は少なく、内容も豊富ではありませんでしたが、当時の来客や話をした相手は皆、慈済の歴史の始まりの一部であり、その内容は各県や市、地域で行われた慈済の事柄です。慈済人はいつも、師匠である私がしたいことを彼らが代わりに行うのだ、と言います。後に慈済人が増えるにつれ、慈済の志業も増え、その範囲も広くなり、紐のように益々長くなりました。そして、時間の流れと共に、関連する人も事も多くなったため、緩んでしまうのは避けられません。それを急に力いっぱい引っ張ると、その紐は切れてしまうかもしれません。ですから、あらゆる段階ではっきり理解してから引っ張り上げ、そこで事の源から終わりまでの障害をなくすのです」。

上人はこう言いました。「各国の慈済志業は全て単純な一念と真心から始まりました。世界各国との紐も益々長くなり、元来は単純な一直線だったのが、人々の考え方や習慣が違うために摩擦が起き、その紐は曲がりくねったものになったのです。その時に紐を引っ張れば、絡まってしまいます」。

「慈済人と慈済の事、人も事も全て私と関係があるのですから、どうして心配しないでいられるでしょうか。誰かと誰かが合わないと聞くと、憂いは増えるのです。お互いに縁があるのですから、お互いに成就させるべきです。皆、若くないのですから、『ここで私を必要としなくても、他に行くところはある』などと頑固になってはいけません。ここは皆さんが一歩一歩基礎を作りあげたもので、場所も種も揃っています。さもなければ森に成長していません。大木は小木が寄り添い、地面は草が土壌の流出を防いでくれています。人は社会でお互いに頼り、愛し合わなければいけません。もし、本当にわだかまりがあるのであれば、早くそれを解きほぐしてください」。

「人にはそれぞれの考え方があり、口に出さなければ、他の人は知ることができませんし、もし話し合わなければ、人も事も円満に解決できません。人の世はとかく複雑で、それは心に由来しているため、『広い心と純粋な思い』と『善に解釈し、度量を大きくする』ことを学ばなければいけません」。

「皆さんが私を愛しているのなら、私を護り、喜ばせるべきであり、心を一つに和気藹々として協力し合うべきです。私が最も心配しているのは、いつか私がいなくなった時、慈済の志業が止まってしまうのではないか、ということです。苦難にある人にとって、慈済はなくてはならないのです」。

「『衲履足跡』のどこを見ても、仏陀の講釈は出てきません。しかし、その大覚者の因縁によって、私は仏門に入り、仏門がこの慈済という扉を開けてくれたのです」。上人は、静思法脈が途絶えることなく、宗門が永遠に開かれ、永久に人間(じんかん)を利することを期待しています。この目標を達成するには、各自が心を開け放つ必要があります。さもなければ、大勢の人を受け入れることはできません。善に解釈すること、心の度量を大きくすることを学んで、心を正しい方向に調整するのです。自分を小さくすれば、生命の世界は開けます。

(慈済月刊六九五期より)

關鍵字

私は慈済のソーシャルワーカー

台南の慈済ソーシャルワーカーは、安全な住まい改善プログラムを進め、新営区にいる年長者に母の日のプレゼントを届けた。(撮影・温宝琴)

慈済ソーシャルワーカーは、通常数十人の訪問ケアボランティアと協力して訪問ケアを行います。一人ひとりのボランティアは幾つかの背景が異なるケア世帯を受け持っていますから、ソーシャルワーカーの仕事量は多く、責任も重いと言えます」。かつて慈済大学社会福祉学部で主任を務めていた頼月蜜(ライ・ユエミー)教授は、慈済のソーシャルワーカーの仕事は簡単ではないと言う。

「慈済ソーシャルワーカーは、職業と志業を兼ねた精神を有していると私は思います。專門知識の他に、奉仕精神も持っています」と、二十年余りの訪問ケア経験を持つ慈済ボランティアの林素娟(リン・スゥージュエン)さんが説明した。

この五十八年間、慈済の慈善志業は、時代の趨勢と社会の変化に伴って、その社会的責任は益々重くなっている。專門のソーシャルワーカーは、慈善志業の制度化及び專業化の転換期において重要な役割を果たしている。ボランティアと訪問に同行するだけでなく、支援の評価において話し合いからその後のことを進め、ケアプロジェクトを作成して、ボランティアと一緒に協力して推進している。

ここ数年よく慈済ボランティアの講座に要請されている頼教授の考察によると、慈済は益々ボランティアトレ―ニングを重視するようになって、国際的な資格取得の流れに合わせており、ソーシャルワーカーの参加する割合は益々高くなっている。

一般の福祉団体とは異なり、慈済ではソーシャルワーカーはボランティアと緊密に協力し合っているが、彼らが全てを指揮している訳ではない。このようなパタ―ンは、一般と異なるとは言え、優れた点もあり、訪問経験を積み重ねている途中のソーシャルワーカーは、人生経験豊かなボランティアと共に行動することで、プラスの効果を生み出している、と頼教授は考えている。この過程で、若いソーシャルワーカーが、ボランティアの人助けをしたいという善の心と善良な考えを目の当たりにし、ボランティアの訪問経験を自分の知識に取り入れるべきである。また、自信を持って、学校でトレ―ニングして来たことをボランティアと分かちあう必要もある。

林さんは、社会福祉に関する資源は豊富にあるが、ボランティアが全てを理解しているとは限らないので、場合によっては、ソーシャルワーカーが団体の枠を超えて適切なサポ―トを導入することで、支援する必要があると言った。彼女は、社会が複雑になり、人助けは益々困難を伴うようになってきたが、「助ける側は初心を保つことが大切です。志業であろうと職業であろうと、私たちは自分の善良な気持ちと愛の心で、社会をより良くしなければならないのです」と言った。

社会の暗がりで、ソーシャルワーカーはボランティアと共に黙々と恵まれない人々に手を差し伸べている。今月の『慈済月刊』では彼らの声を特集した。そこから、彼らとボランティアの人助けの様子、そして人助けを通じての学びを読み取ることができる。

台南の慈済ソーシャルワーカーは、安全な住まい改善プログラムを進め、新営区にいる年長者に母の日のプレゼントを届けた。(撮影・温宝琴)

慈済ソーシャルワーカーは、通常数十人の訪問ケアボランティアと協力して訪問ケアを行います。一人ひとりのボランティアは幾つかの背景が異なるケア世帯を受け持っていますから、ソーシャルワーカーの仕事量は多く、責任も重いと言えます」。かつて慈済大学社会福祉学部で主任を務めていた頼月蜜(ライ・ユエミー)教授は、慈済のソーシャルワーカーの仕事は簡単ではないと言う。

「慈済ソーシャルワーカーは、職業と志業を兼ねた精神を有していると私は思います。專門知識の他に、奉仕精神も持っています」と、二十年余りの訪問ケア経験を持つ慈済ボランティアの林素娟(リン・スゥージュエン)さんが説明した。

この五十八年間、慈済の慈善志業は、時代の趨勢と社会の変化に伴って、その社会的責任は益々重くなっている。專門のソーシャルワーカーは、慈善志業の制度化及び專業化の転換期において重要な役割を果たしている。ボランティアと訪問に同行するだけでなく、支援の評価において話し合いからその後のことを進め、ケアプロジェクトを作成して、ボランティアと一緒に協力して推進している。

ここ数年よく慈済ボランティアの講座に要請されている頼教授の考察によると、慈済は益々ボランティアトレ―ニングを重視するようになって、国際的な資格取得の流れに合わせており、ソーシャルワーカーの参加する割合は益々高くなっている。

一般の福祉団体とは異なり、慈済ではソーシャルワーカーはボランティアと緊密に協力し合っているが、彼らが全てを指揮している訳ではない。このようなパタ―ンは、一般と異なるとは言え、優れた点もあり、訪問経験を積み重ねている途中のソーシャルワーカーは、人生経験豊かなボランティアと共に行動することで、プラスの効果を生み出している、と頼教授は考えている。この過程で、若いソーシャルワーカーが、ボランティアの人助けをしたいという善の心と善良な考えを目の当たりにし、ボランティアの訪問経験を自分の知識に取り入れるべきである。また、自信を持って、学校でトレ―ニングして来たことをボランティアと分かちあう必要もある。

林さんは、社会福祉に関する資源は豊富にあるが、ボランティアが全てを理解しているとは限らないので、場合によっては、ソーシャルワーカーが団体の枠を超えて適切なサポ―トを導入することで、支援する必要があると言った。彼女は、社会が複雑になり、人助けは益々困難を伴うようになってきたが、「助ける側は初心を保つことが大切です。志業であろうと職業であろうと、私たちは自分の善良な気持ちと愛の心で、社会をより良くしなければならないのです」と言った。

社会の暗がりで、ソーシャルワーカーはボランティアと共に黙々と恵まれない人々に手を差し伸べている。今月の『慈済月刊』では彼らの声を特集した。そこから、彼らとボランティアの人助けの様子、そして人助けを通じての学びを読み取ることができる。

關鍵字

慈済の出来事 10/20-11/25

10/20-11/25

台湾
Taiwan

●「慈済新芽奨学金」は、長期ケア世帯の学齢児童の勉学向上を応援するものだが、今年は31回の奨学金授与式が行われ、約9千人の学生が受け取った。創設から17年の間に、台湾全土で延べ10万人以上に授与された。 (10月19日〜11月10日)
●慈済は環境教育によって人材を育成しているが、公的部門と「共善」で協力する仕組みを立ち上げた。ネットゼロ教育として全国で初めて嘉義県政府によって行われ、3会場に82校から95人の教員が代表で参加した。 (10月25日〜11月15日)
●国際的認証機関SGSによる今年度の表彰式と産業間交流フォーラムにおいて、慈済基金会がESGアワードの「サステナブルガバナンス賞」を獲得した。(10月30日)
●史上初めて10月下旬に台湾に上陸した台風21号(コンレイ)が花蓮県玉里と富里などに甚大な被害をもたらした。慈済は家庭訪問をして慰問し、被災した学校や恵まれない家庭で清掃の手伝いなどを行った。また、延べ2081戸を見舞い、172世帯に緊急手当や慰問金を届けた。今回、延べ6696人のボランティアが動員された。(10月31日〜11月20日)
●「経典Odyssey映像・体験」特別展覧会が高雄駁二芸術特区で開かれた。その内容は、雑誌『経典』の26年間における主要トピックと高雄深堀り記事である。また、中学・高校における読書プロジェクトとして、高雄市内4千クラスに課外図書として雑誌『経典』を一年間贈呈することを発表した。(11月7日〜12月8日)
●イギリスのESGアワード「The ESG & Sustainability Awards 2024」で、慈済がPaGamO環境保全防災PK戦で「教育の改善と機會における最優秀ESG活動」のゴールド賞を獲得し、環境保全菜食オーダー・配達プラットフォームの「VO2をオーダーして、CO2を削減」が「責任ある消費と生産の改善と奨励における最優秀ESG活動」のシルバー賞を獲得した。(11月8日)

ミャンマー
Myanmar

●台風11号(ヤギ)による豪雨で洪水が発生し、国内64の町や村が被災した。慈済は首都ネピドーのテゴン地方で「仕事を与えて支援に替える」活動を行い、延べ5546人の被災住民が住居を清掃し、198世帯が見舞金を受け取った。(10月8日〜27日)

インドネシア
Indonesia

●10月の豪雨でアチェ州アチェタミアン県が水害に見舞われた。ボランティアは激甚被災地であるカランバル町とサイルべ町で300戸の被災世帯に米を配付した。(10月20日)

フィリピン
Philippines

●台風24号(マンニィ)が10月下旬、ルソン島の南部を襲った。慈済はビコール州で延べ1000人分の炊き出しを行い、3213世帯に生活物資を配付した。(10月24日〜11月8日)

インド
India

●仏陀成道の地であるブッダガヤで、慈済はカースト制下級階層の貧しい人々に、現代的なコンクリート製家屋の建設を支援した。第1期として36世帯がシロンガ大愛村に入居した。(10月27日)

タイ
Thailand

●季節的な大雨と台風11号(ヤギ)の相乗効果で、チェンライ県とチェンマイ市は酷い水害に見舞われた。慈済は炊き出しを行い、医療物資と日用品を提供した。10月末と11月中旬には2160世帯に見舞金を配付した。(10月末及び11月中下旬)

カンボジア
Cambodia

●台湾、シンガポール、マレーシア、カンボジアから454人の医療人員とボランティアたちが集まり、バタンバン州で大規模な施療活動を行った。内科、外科、歯科、眼科、中医科などが延べ3480人の経済的に貧しい患者に奉仕した。(11月1日〜3日)

ネパール
Nepal

●仏陀の生誕地であるルンビニで、慈済は支援建設するシッダールタ学校の起工式を行った。元来のシッダールタ小学校の教室を13に増やし、小学校だけだった学校を1年生から10年生までとする教育制度に切り替えた。(11月5日)

アメリカ
United States

●9月、ハリケーン・ヘレンがフロリダ州に上陸し、東海岸6つの州を襲ったが、10月にはカテゴリー5のハリケーン・ミルトンがノースカロライナ州とフロリダ州に甚大な被害をもたらした。慈済はフロリダ州タンパ市とフォートピアスで425人に買い物カードと毛布を配付した。(11月9日〜16日)

ベトナム
Vietnam

●9月、スーパー台風ヤギ(11号)が東南アジアの国々を襲った。ベトナムの慈済人はラオカイ省とイェンバイ省で2671世帯に見舞金を届けた。(11月15日〜19日)

ブラジル
Brazil

●リオグランデ・ド・スル州は4月末に大水害に見舞われた。慈済人は何度も視察し、政府の協力の下に被災者リストを入手し、被災地のコミュニティ代表を通して、11月下旬に2100世帯を対象に配付活動を行った。(11月下旬)

10/20-11/25

台湾
Taiwan

●「慈済新芽奨学金」は、長期ケア世帯の学齢児童の勉学向上を応援するものだが、今年は31回の奨学金授与式が行われ、約9千人の学生が受け取った。創設から17年の間に、台湾全土で延べ10万人以上に授与された。 (10月19日〜11月10日)
●慈済は環境教育によって人材を育成しているが、公的部門と「共善」で協力する仕組みを立ち上げた。ネットゼロ教育として全国で初めて嘉義県政府によって行われ、3会場に82校から95人の教員が代表で参加した。 (10月25日〜11月15日)
●国際的認証機関SGSによる今年度の表彰式と産業間交流フォーラムにおいて、慈済基金会がESGアワードの「サステナブルガバナンス賞」を獲得した。(10月30日)
●史上初めて10月下旬に台湾に上陸した台風21号(コンレイ)が花蓮県玉里と富里などに甚大な被害をもたらした。慈済は家庭訪問をして慰問し、被災した学校や恵まれない家庭で清掃の手伝いなどを行った。また、延べ2081戸を見舞い、172世帯に緊急手当や慰問金を届けた。今回、延べ6696人のボランティアが動員された。(10月31日〜11月20日)
●「経典Odyssey映像・体験」特別展覧会が高雄駁二芸術特区で開かれた。その内容は、雑誌『経典』の26年間における主要トピックと高雄深堀り記事である。また、中学・高校における読書プロジェクトとして、高雄市内4千クラスに課外図書として雑誌『経典』を一年間贈呈することを発表した。(11月7日〜12月8日)
●イギリスのESGアワード「The ESG & Sustainability Awards 2024」で、慈済がPaGamO環境保全防災PK戦で「教育の改善と機會における最優秀ESG活動」のゴールド賞を獲得し、環境保全菜食オーダー・配達プラットフォームの「VO2をオーダーして、CO2を削減」が「責任ある消費と生産の改善と奨励における最優秀ESG活動」のシルバー賞を獲得した。(11月8日)

ミャンマー
Myanmar

●台風11号(ヤギ)による豪雨で洪水が発生し、国内64の町や村が被災した。慈済は首都ネピドーのテゴン地方で「仕事を与えて支援に替える」活動を行い、延べ5546人の被災住民が住居を清掃し、198世帯が見舞金を受け取った。(10月8日〜27日)

インドネシア
Indonesia

●10月の豪雨でアチェ州アチェタミアン県が水害に見舞われた。ボランティアは激甚被災地であるカランバル町とサイルべ町で300戸の被災世帯に米を配付した。(10月20日)

フィリピン
Philippines

●台風24号(マンニィ)が10月下旬、ルソン島の南部を襲った。慈済はビコール州で延べ1000人分の炊き出しを行い、3213世帯に生活物資を配付した。(10月24日〜11月8日)

インド
India

●仏陀成道の地であるブッダガヤで、慈済はカースト制下級階層の貧しい人々に、現代的なコンクリート製家屋の建設を支援した。第1期として36世帯がシロンガ大愛村に入居した。(10月27日)

タイ
Thailand

●季節的な大雨と台風11号(ヤギ)の相乗効果で、チェンライ県とチェンマイ市は酷い水害に見舞われた。慈済は炊き出しを行い、医療物資と日用品を提供した。10月末と11月中旬には2160世帯に見舞金を配付した。(10月末及び11月中下旬)

カンボジア
Cambodia

●台湾、シンガポール、マレーシア、カンボジアから454人の医療人員とボランティアたちが集まり、バタンバン州で大規模な施療活動を行った。内科、外科、歯科、眼科、中医科などが延べ3480人の経済的に貧しい患者に奉仕した。(11月1日〜3日)

ネパール
Nepal

●仏陀の生誕地であるルンビニで、慈済は支援建設するシッダールタ学校の起工式を行った。元来のシッダールタ小学校の教室を13に増やし、小学校だけだった学校を1年生から10年生までとする教育制度に切り替えた。(11月5日)

アメリカ
United States

●9月、ハリケーン・ヘレンがフロリダ州に上陸し、東海岸6つの州を襲ったが、10月にはカテゴリー5のハリケーン・ミルトンがノースカロライナ州とフロリダ州に甚大な被害をもたらした。慈済はフロリダ州タンパ市とフォートピアスで425人に買い物カードと毛布を配付した。(11月9日〜16日)

ベトナム
Vietnam

●9月、スーパー台風ヤギ(11号)が東南アジアの国々を襲った。ベトナムの慈済人はラオカイ省とイェンバイ省で2671世帯に見舞金を届けた。(11月15日〜19日)

ブラジル
Brazil

●リオグランデ・ド・スル州は4月末に大水害に見舞われた。慈済人は何度も視察し、政府の協力の下に被災者リストを入手し、被災地のコミュニティ代表を通して、11月下旬に2100世帯を対象に配付活動を行った。(11月下旬)

關鍵字

淨水を探して、命の渇きを解決する

ジンバブエ・東マショナランド州ゴロモンジの村。露天の水場にある濁った水に頼って住民たちは暮らしている。(撮影・ジンバブエ慈済ボランティア・フレンギシレ・ジヤネ)

水、それは万物を生かし育む、欠かすことのできないものだ。世界中で相次ぐ干ばつと洪水。気候変動は世界に水危機をもたらしている。

水源が涸れた地域では一杯の水を手に入れることさえ容易ではない。地表に存在する淡水は想像するよりもずっと少ない。水道の恩恵にあずかる私たちも、水をもっと大切にしなければならない。

(撮影・フレンギシレ・ジヤネ)

すみません。ウォーターサーバーはどこですか?」「あちらですよ」

台湾の駅やスポーツ施設、商業施設、病院といった公共施設には、必ずと言っていいほど無料のウォーターサーバーが設置してあり、今やトイレと同様に基本的な設備となっている。ボトルさえあれば、どこでも飲み水が手に入る。

豊かな先進国では飲み水の心配をする必要はなく、人々の話題は「何を飲む?」である。しかし、同じ地球上には、一杯のきれいで安全な水さえ手に入れることができない人が今なお億単位で存在している。

国連経済社会局が二〇二三年に発表したSDGs報告によれば、世界で安全に管理された飲料水を利用できない人は二十二億人いる。また、水不足もますます深刻さを増しており、毎年世界の半分以上の人が一カ月以上の深刻な水不足を経験することになる、と国連は警告を発している。

ジンバブエで百万人に千本の井戸

干ばつで非常事態に陥ったアフリカ南東部のジンバブエ。太陽の照りつける中、首都ハラレに程近いドンボシャワでは、井戸の周りに水汲みの行列ができていた。赤ん坊を背負った母親や小さな子どもたちが重いバケツを下げ、歩いて家まで帰っていた。自転車のある人はごくわずかだ。

大変そうに見えるが、以前に比べれば、はるかに良くなった。井戸ができる前は、水を汲むために十キロ以上歩かなければならなかった。しかし、今は二、三キロで済む。

ジンバブエに在住して三十年になる朱金財(ヅゥ・ジンツァイ)さんは、井戸がない地域や井戸が壊れてしまった地域では、川や荒れ野のくぼ地まで水を汲みにいかねばならないという。

「とても遠い不衛生なくぼ地に溜まった水を探しに出かけるのです。そこでは多くの悲劇が起きています」と朱さんは唇を噛んだ。

川に潜むワニ、途中でたむろするハイエナイヌや水牛、草むらに隠れている毒蛇など、水汲みは命がけだ。おまけに危険を冒して持ち帰った水も安全ではない。野晒しの水場には野生動物もやってくるので、濁った水には動物の排泄物も混じっている。しかし、水不足の人には選択肢はないのだ。水源の不足に給水システムの機能不全が重なって、下痢やコレラの流行がしばしば発生する。

「ですから、私は現地ボランティアによく言うのです。井戸掘りは命を救う仕事なのだ、と。井戸がなければ予測できない細菌で多くの命が奪われてしまいます」と語る朱さんは、二〇〇八年に、一人の患者がコレラを発症して病院に運ばれてから、たった七時間で息を引き取るのをその目で見たという。

二〇〇八年、ジンバブエではコレラの流行で、七万九千人以上が感染し、三千七百人余りの死者が出た。それから十五年後の二〇二三年十月、再びコレラが流行し始めた。しかし、朱さんは病魔から人々を守る切り札を手にしていた。二〇一三年以降、朱さんは井戸掘り専門チームを立ち上げて深井戸を掘り、住民はきれいな地下水を飲むことができるようになったのだ。そのため、コレラが再流行し出した時、五つの州知事が助けを求めてきたという。

「工業汚染のないジンバブエの地下水は、基本的にきれいなのです」と朱さんは言う。朱さんの説明によれば、新しい井戸を掘ったり、古い井戸を修理したりする時、候補地の地下に帯水層があること、公有地であること、村から遠すぎないことをあらかじめ確認しておく必要があるという。このような場所でなければ住民はきれいな水に容易にアクセスできないのである。

「以前、井戸チームは一チームだけでしたが、昨年、コレラの大流行を受けて五チームに増やし、今年八月末までに千八十本の井戸を修理し、これまでに修理した井戸の数は全部で二千三十本になります。以前は井戸を一つ掘るのに十九時間かかっていましたが、今は五時間ほどで掘れます」。

慈済チームの掘る井戸は十分な深さがあるため、地表の汚染物が混ざりやすい浅井戸や池の水よりもきれいで安全であり、なおかつ水量も安定している。新しい井戸ができたり、修理が終わったりするたびに、近隣の住民たちから大きな歓声が上がるという。

深井戸ができて、以前よりもはるかに水が豊富になった今も、住民たちは相当、水を節約している。一家を五人として計算すると、一戸あたり一日に使う水はおよそバケツ五~七杯ほどであるから、一人当たりでは一日二十リットルにも満たない。しかも、それらの水を使うのは人間だけではない。

「鍋や食器を洗った後の汚れた水は、鶏や家畜に与えます。鶏たちがその水を、首を長くして待っているのを見るたびに、私は水を渇望するその様子に衝撃を覚えます」。

ジンバブエでは井戸事業は救命活動に等しい。仮に一本の井戸で千人から五千人分の水をまかなえるとすると、朱さんたちが新たに掘削したり、修理したりした二千本以上の井戸は、少なく見積もっても二百万人以上の命を救っていることになる。

国連SDGs6「安全な水とトイレを世界中に」のターゲットの第一項は、「二〇三〇年までに、全ての人々の、安全で安価な飲料水の普遍的かつ平等なアクセスを達成する」である。国際人道支援組織は長年にわたり水の確保、浄化、節水、水源保護など水をめぐる課題に努力を傾けてきた。慈済でも洪水と干ばつに襲われるアフリカで、複数の支援プロジェクトを進めてきたが、二〇二四年八月下旬にはモザンビークで初の「緩速ろ過池」が運用を開始し、水質浄化は次のステージに進んだ。

サイクロン・イダイに襲われたモザンビーク。現地ボランティアが被災したニャマタンダ郡ティカを訪れると、住民が簡素な井戸から水を汲んでいた。(撮影・蔡凱帆)

モザンビークで浄水技術を活用

「ルルルル……」

モザンビーク・ソファラ州クラ大愛村の住民たちは巻き舌で喜びを表現すると、ろ過された水を容器に汲むために列を作った。遠く台湾からやってきた慰問団が、代表してこの命の池の使用開始を告げた。

サイクロン・イダイの後、慈済によって建設が始まったクラ大愛村は、昨年から徐々に住民の入居が始まり、今年は住民の飲み水となる緩速ろ過池が建設された。主任技師の謝曜聯(シェ・ヤオリエン)さんによると、大愛村には電気が通っていないため、太陽光発電で揚水モーターを回して貯水槽に水を貯め、その水を緩速ろ過池に送って浄化するという。日が沈めばモーターは止まり、二十四時間動かして水位を保つことができない。万一、水を使い切ってろ過池が干上がってしまえば、浄水機能を回復させるのに一カ月ほどかかる。そのため、住民には節水を呼びかける必要がある。

緩速ろ過は決して新しい技術ではなく、十九世紀には既にイギリスで実用化されていた。現代の塩素で消毒する水道水と違って、緩速ろ過池は自然の「アレロパシー(生物阻害作用)」を利用して、水中にある人体に有害な病原菌を除去する。

慈済は台湾自来水公司(台湾の水道会社)と連携協定を締結し、技術提供と建設指導を受けた。同社の陳文祥水質処長の説明によると、緩速ろ過池のろ過層は砂、砂利、レンガの層を重ねてできている。そこに水を通した後、ある程度の時間が必要で、最上の砂の層に微生物群や藻類が生えてくるまで待ち、「生物ろ過膜」が形成されると、病原菌を除去したり、不純物を吸着したりできるようになる。

「この生態システムはアフリカの熱帯雨林に似ています。本来の住処と異なる環境に入ってきたコレラ菌などの病原細菌は、エサにされるのです」と陳処長は緩速ろ過池の仕組みを弱肉強食のジャングルの法則に例えた。「天敵」を利用する緩速ろ過池は塩素消毒の必要がなく、フィルターを交換する必要もないため、電気機械や技術者への依存が大幅に減る。砂と砂利とレンガ、そして家を建てられる職人さえいればよいのだ。原水を緩速ろ過池でろ過すると、大腸菌群の数は七千余りから二十未満に減少し、台湾の飲料水の基準である六未満に近い数値になる。浄水の除菌性能は十分であり、これで住民をコレラの脅威からかなり遠ざけることができる。

実のところ、慈済はこれまでに様々なハイテク技術を活用した浄水設備を開発している。たとえば、有害な細菌をろ過する「限外ろ過膜」と逆浸透(RO)膜を組み合わせ、海水を淡水化して飲み水にする設備もある。しかし、これらの設備を維持していくためには精密部品や技術者を必要とするため、開発途上の国や地域で長期間使用するのに必ずしも適しているとは言えない。それに比べて、緩速ろ過池ははるかに扱いやすい。材料はすべて身近にある物で、誰でも維持管理ができる。「定期的に砂層表面を削り取って、ろ過砂を補充し、手入れするだけでいいのです」と陳処長は補足した。

緩速ろ過池の技術は今後、ジンバブエ、ネパール、インドでも徐々に導入される予定だ。モザンビークで最初の緩速ろ過池が完成し、次の計画も進んでいる。ジンバブエの慈済も現在政府に設置申請中であり、早く承認されることを願っている。

同じく水道の普及していないジンバブエのハラレ州エプワース。慈済が掘削した井戸で水を汲む住民(写真提供・ジンバブエ連絡所)。

モザンビークのクラ大愛村。慈済が建設した四角の緩速ろ過池は自然の力で水を浄化しており、長く使い続けることができる(写真、撮影・謝曜聯)。

「重量級」の雨水利用

干ばつの地域は水不足に苦しんでいるが、台風や洪水になると、海のようになった濁った水しかないため、同じように安全な飲料水が確保できない。フィリピンの台風ハイエンやラオスのダム決壊による洪水被害の時、慈済ボランティアは浄水装置や貯水装置を携えて行った。きれいな水は困難を乗り越える希望になる。

それに比べて水道網が高度に普及した台湾では、水がなくなる心配はほとんどない。しかしながら、地形の関係(山地が多く急勾配である)や豊水期と渇水期の差が大きいことなどから、地上に留まる水は年間降水量のわずか約十八%である。二〇二一年の歴史的な水不足も記憶に新しい。そのため、節水をいかにして暮らしの中に根付かせ、かつ企業や市民が一丸となって取り組むかが重要な課題となっている。

慈済基金会営建処の林敏朝(リン・ミンツァオ)顧問は、慈済の建築物に雨水利用や節水設備を設置し始めたきっかけについて振り返った。「あの日、花蓮は大雨が降り、私たちは慈済花蓮病院の会議室で会議をしていたのですが、会議の後、師兄の一人が、『花蓮で一日に降る雨は甘粛省の干ばつ地帯で一年に降る雨量よりも多いのです』と言いました。すると、證厳法師は、『雨水は天然の資源ですから、大切にしなければなりません』とおっしゃいました」。

一九九〇年代後半は、雨水利用や節水、グリーン建築などの概念が台湾でようやく知られ始めたばかりの頃で、参考となる前例もほとんどなかった。そこで、慈済建設チームは慈済花蓮病院から試行錯誤を始めることにした。

「トイレを一回流せば十二リットルの水を使うため、一回九リットルの節水トイレに換えて、三リットルの水を節約しました」。林さんは続けて雨水利用について説明した。普通は、建物に降った雨水をベタ基礎の貯水槽に引き込み、モーターで揚水して上層階の貯水槽に蓄える方式を採るが、慈済では貯水設備を上層階に分散して設置したという。

「たとえば、五階から三階まで流れ落ちれば、モーターで汲み上げる必要はありません」。

「各業界における水の利用効率を大幅に改善し、淡水の持続可能な供給と再利用を確保することで、水不足を解決する」ことも、SDGs6のターゲットの一つである。慈済花蓮病院の雨水利用システムは早くも二〇〇〇年に完成し、水や電気の浪費をかなり抑えることができた。このような革新的かつ実用的な節水方式は、時代の先駆けと言えるだろう。

二〇〇〇年以降に建設された慈済の学校や病院のうち、比較的大規模な建築物には、すべて節水および雨水利用システムが備え付けられている。中でも慈済台中病院は節水と省エネで優れた成果を上げ、二〇一五年に「グリーン建築シルバー認証」を取得した。

「集めた雨水の使い途は、以前は植物の水やりだけでしたが、今は空調にも使われています」。

慈済台中病院工務室の余許富(ユゥ・シュウフー)上級職員は、屋根裏の狭い空間を、身をかがめて通り抜け、敷地左手の建物の屋根裏部屋に入った。外からは慈済独特の「人」の字形の屋根が見えるだけで、中に特別な工夫があると気づく人はほとんどいない。

「三トンの貯水槽が二十六基、左右合わせて五十二基あり、貯水量は百五十六トンにも上る」と、余さんは黒いプラスチックの貯水槽を指差しながら説明してくれた。以前は貯水槽が雨水で満タンになってしまえばそれまでだったが、一部を空調に利用し始めてからは、貯水槽が満タンになったことはないという。

「エアコンは毎日使います。特に夏場は使用量が増えて、毎日五、六百トンの水が必要になります」。

大型公共建築の入念に設計された「見えない」貯水槽に比べ、慈済リサイクルセンターの雨水利用設備は、その「容量の大きさ」が一目瞭然だ。

南投県草屯鎮南埔リサイクルセンター責任者の林金国(リン・ジングォ)さんは、同センターの貯水設備について、誇らしげに説明してくれた。大小九つの貯水槽に加え、容量六トンの地下貯水庫もあり、満タンになれば雨が降らなくても半年は持つという。「七月末には残り四、五十トンまで減ったのですが、台風三号のおかげで満タンどころか、溢れてしまいました。でも、仕方がありません。最大容量が九十六トンしかないのですから」。

雨水利用によって水道水を大幅に節約できたことで、同センターでは水道料金を二カ月で僅か二百元余り(約千円弱)に抑えることができた。その成果は水道の「検針票」に表れただけでなく、その後、林さんは経済部水利署からも節水の達人として「節水公益賞」を授与された。政府関係者や慈済の法縁者が多数見学に訪れた時や静思精舎や他のリサイクルセンターの雨水利用設備の設置の際も、経験を活かして協力した。

林さんは、「リサイクルセンターの設立当初から、私たちは環境教育をすべきだと考えていました。天の恵みである雨水を大切にし、大いに貯水して活用することを子々孫々にまで伝えていきたいと思いました」と話した。

慈済台中病院の雨水利用設備は外から見えないように、巧妙に建物の陰に設置されている。上層階の露天スペースに大型の雨水集水タンクを設置しているため、揚水するための電力も不要で、水の使用効率も向上した。(撮影・蕭耀華)

南投県南埔リサイクルセンターのボランティア林金国さんは、大小の貯水槽で雨水を回収して利用するシステムを作った。ろ過処理した雨水をセンター内で使用することで、水道水の使用量は大幅に減った。(撮影・蕭耀華)

思っているより少ない地球上の水資源

水道の普及率が高く、水道料金も安い台湾では実感しづらいが、実は台湾は世界の水不足の国ワースト二十に入る。また、地球上では水不足のため故郷を離れざるを得ない人が、今なお億単位もいる。国家環境教育賞優秀賞を受賞した慈済ボランティアの陳哲霖(チェン·ヅーリン)さんは、水資源がいかに貴重であるかを「見える化」するため、千本のペットボトルを使ったインスタレーションアート作品「水キューブ」を制作した。

千本のペットボトルは地球上のすべての水を表している。そのうち淡水は二十五本だけで、残りは海水である。しかし、その二十五本のうち、十七本は南極と北極の氷、七本が地下水で、人類が実際に利用できる地表水はたった「一本」だけである。

「地球の水は一見多いと思われがちですが、私たちが利用できる淡水はその千分の一しかありません。ペットボトル千本と一本を見比べてみれば、水資源がいかに少ないかがわかるでしょう。だからこそ、『水を黄金のように大切に』しなければなりません」と陳さんは呼びかけた。

法師が「水は大いなる生命の源」とおっしゃる通り、どんな生き物も水なしでは生きられない。国連でも「水は持続可能な発展の核であり、社会や経済の発展、エネルギーと食糧生産、健全な生態系、人類の生存そのものにとってきわめて重要である」と強調している。

気候変動の衝撃と日増しに深刻さを増す水危機に対して、私たち人間は今、水の使い方を見直す必要に迫られている。貴重な水資源を永遠に残していくために、まず一滴一滴の水を大切に使うことから始めようではないか。(一部資料提供・古継紅)

(慈済月刊六九五期より)

水不足による災害 慈済の緊急援助

水不足による災害
慈済の緊急援助

干ばつ支援
  • 貯水槽の建設支援
    1998年から2009年まで中国甘粛省の6県で19,060基の貯水槽を建設、10万人が恩恵を受けた。
  • 井戸やポンプの設置
    ジンバブエ、シエラレオネ、インドネシア、ネパール。
    ジンバブエでは、2013年以降2,000本以上の井戸を掘削・修理し、200万人以上の生活を支援した。
緊急災害支援
  • 給水設備や浄水システムの支援
    ベネズエラ、インドネシア・アチェ州、フィリピンの台風30号ハイエン被災地、ラオスのダム決壊被災地、台湾新北市烏来の台風ソウデロア被災地、台湾蘭嶼等の台風コイヌ被災地。
水源の改善
  • 緩速ろ過池
    2024年、モザンビーク・ソファラ州クラ大愛村に海外初の緩速ろ過池を建設。
  • 雨水収集
    ラブビンティ・インターナショナルと協力し、ウガンダに11基の雨水収集システムを建設。
    ベトナム・ベンチェー省に貯水槽とろ過装置3000台を寄贈。
  • 学校にウォーターサーバーを寄贈
    2021年、四川涼山州喜徳県の30校にウォーターサーバーを寄贈、教師や生徒14,000名が利用。

ジンバブエ・東マショナランド州ゴロモンジの村。露天の水場にある濁った水に頼って住民たちは暮らしている。(撮影・ジンバブエ慈済ボランティア・フレンギシレ・ジヤネ)

水、それは万物を生かし育む、欠かすことのできないものだ。世界中で相次ぐ干ばつと洪水。気候変動は世界に水危機をもたらしている。

水源が涸れた地域では一杯の水を手に入れることさえ容易ではない。地表に存在する淡水は想像するよりもずっと少ない。水道の恩恵にあずかる私たちも、水をもっと大切にしなければならない。

(撮影・フレンギシレ・ジヤネ)

すみません。ウォーターサーバーはどこですか?」「あちらですよ」

台湾の駅やスポーツ施設、商業施設、病院といった公共施設には、必ずと言っていいほど無料のウォーターサーバーが設置してあり、今やトイレと同様に基本的な設備となっている。ボトルさえあれば、どこでも飲み水が手に入る。

豊かな先進国では飲み水の心配をする必要はなく、人々の話題は「何を飲む?」である。しかし、同じ地球上には、一杯のきれいで安全な水さえ手に入れることができない人が今なお億単位で存在している。

国連経済社会局が二〇二三年に発表したSDGs報告によれば、世界で安全に管理された飲料水を利用できない人は二十二億人いる。また、水不足もますます深刻さを増しており、毎年世界の半分以上の人が一カ月以上の深刻な水不足を経験することになる、と国連は警告を発している。

ジンバブエで百万人に千本の井戸

干ばつで非常事態に陥ったアフリカ南東部のジンバブエ。太陽の照りつける中、首都ハラレに程近いドンボシャワでは、井戸の周りに水汲みの行列ができていた。赤ん坊を背負った母親や小さな子どもたちが重いバケツを下げ、歩いて家まで帰っていた。自転車のある人はごくわずかだ。

大変そうに見えるが、以前に比べれば、はるかに良くなった。井戸ができる前は、水を汲むために十キロ以上歩かなければならなかった。しかし、今は二、三キロで済む。

ジンバブエに在住して三十年になる朱金財(ヅゥ・ジンツァイ)さんは、井戸がない地域や井戸が壊れてしまった地域では、川や荒れ野のくぼ地まで水を汲みにいかねばならないという。

「とても遠い不衛生なくぼ地に溜まった水を探しに出かけるのです。そこでは多くの悲劇が起きています」と朱さんは唇を噛んだ。

川に潜むワニ、途中でたむろするハイエナイヌや水牛、草むらに隠れている毒蛇など、水汲みは命がけだ。おまけに危険を冒して持ち帰った水も安全ではない。野晒しの水場には野生動物もやってくるので、濁った水には動物の排泄物も混じっている。しかし、水不足の人には選択肢はないのだ。水源の不足に給水システムの機能不全が重なって、下痢やコレラの流行がしばしば発生する。

「ですから、私は現地ボランティアによく言うのです。井戸掘りは命を救う仕事なのだ、と。井戸がなければ予測できない細菌で多くの命が奪われてしまいます」と語る朱さんは、二〇〇八年に、一人の患者がコレラを発症して病院に運ばれてから、たった七時間で息を引き取るのをその目で見たという。

二〇〇八年、ジンバブエではコレラの流行で、七万九千人以上が感染し、三千七百人余りの死者が出た。それから十五年後の二〇二三年十月、再びコレラが流行し始めた。しかし、朱さんは病魔から人々を守る切り札を手にしていた。二〇一三年以降、朱さんは井戸掘り専門チームを立ち上げて深井戸を掘り、住民はきれいな地下水を飲むことができるようになったのだ。そのため、コレラが再流行し出した時、五つの州知事が助けを求めてきたという。

「工業汚染のないジンバブエの地下水は、基本的にきれいなのです」と朱さんは言う。朱さんの説明によれば、新しい井戸を掘ったり、古い井戸を修理したりする時、候補地の地下に帯水層があること、公有地であること、村から遠すぎないことをあらかじめ確認しておく必要があるという。このような場所でなければ住民はきれいな水に容易にアクセスできないのである。

「以前、井戸チームは一チームだけでしたが、昨年、コレラの大流行を受けて五チームに増やし、今年八月末までに千八十本の井戸を修理し、これまでに修理した井戸の数は全部で二千三十本になります。以前は井戸を一つ掘るのに十九時間かかっていましたが、今は五時間ほどで掘れます」。

慈済チームの掘る井戸は十分な深さがあるため、地表の汚染物が混ざりやすい浅井戸や池の水よりもきれいで安全であり、なおかつ水量も安定している。新しい井戸ができたり、修理が終わったりするたびに、近隣の住民たちから大きな歓声が上がるという。

深井戸ができて、以前よりもはるかに水が豊富になった今も、住民たちは相当、水を節約している。一家を五人として計算すると、一戸あたり一日に使う水はおよそバケツ五~七杯ほどであるから、一人当たりでは一日二十リットルにも満たない。しかも、それらの水を使うのは人間だけではない。

「鍋や食器を洗った後の汚れた水は、鶏や家畜に与えます。鶏たちがその水を、首を長くして待っているのを見るたびに、私は水を渇望するその様子に衝撃を覚えます」。

ジンバブエでは井戸事業は救命活動に等しい。仮に一本の井戸で千人から五千人分の水をまかなえるとすると、朱さんたちが新たに掘削したり、修理したりした二千本以上の井戸は、少なく見積もっても二百万人以上の命を救っていることになる。

国連SDGs6「安全な水とトイレを世界中に」のターゲットの第一項は、「二〇三〇年までに、全ての人々の、安全で安価な飲料水の普遍的かつ平等なアクセスを達成する」である。国際人道支援組織は長年にわたり水の確保、浄化、節水、水源保護など水をめぐる課題に努力を傾けてきた。慈済でも洪水と干ばつに襲われるアフリカで、複数の支援プロジェクトを進めてきたが、二〇二四年八月下旬にはモザンビークで初の「緩速ろ過池」が運用を開始し、水質浄化は次のステージに進んだ。

サイクロン・イダイに襲われたモザンビーク。現地ボランティアが被災したニャマタンダ郡ティカを訪れると、住民が簡素な井戸から水を汲んでいた。(撮影・蔡凱帆)

モザンビークで浄水技術を活用

「ルルルル……」

モザンビーク・ソファラ州クラ大愛村の住民たちは巻き舌で喜びを表現すると、ろ過された水を容器に汲むために列を作った。遠く台湾からやってきた慰問団が、代表してこの命の池の使用開始を告げた。

サイクロン・イダイの後、慈済によって建設が始まったクラ大愛村は、昨年から徐々に住民の入居が始まり、今年は住民の飲み水となる緩速ろ過池が建設された。主任技師の謝曜聯(シェ・ヤオリエン)さんによると、大愛村には電気が通っていないため、太陽光発電で揚水モーターを回して貯水槽に水を貯め、その水を緩速ろ過池に送って浄化するという。日が沈めばモーターは止まり、二十四時間動かして水位を保つことができない。万一、水を使い切ってろ過池が干上がってしまえば、浄水機能を回復させるのに一カ月ほどかかる。そのため、住民には節水を呼びかける必要がある。

緩速ろ過は決して新しい技術ではなく、十九世紀には既にイギリスで実用化されていた。現代の塩素で消毒する水道水と違って、緩速ろ過池は自然の「アレロパシー(生物阻害作用)」を利用して、水中にある人体に有害な病原菌を除去する。

慈済は台湾自来水公司(台湾の水道会社)と連携協定を締結し、技術提供と建設指導を受けた。同社の陳文祥水質処長の説明によると、緩速ろ過池のろ過層は砂、砂利、レンガの層を重ねてできている。そこに水を通した後、ある程度の時間が必要で、最上の砂の層に微生物群や藻類が生えてくるまで待ち、「生物ろ過膜」が形成されると、病原菌を除去したり、不純物を吸着したりできるようになる。

「この生態システムはアフリカの熱帯雨林に似ています。本来の住処と異なる環境に入ってきたコレラ菌などの病原細菌は、エサにされるのです」と陳処長は緩速ろ過池の仕組みを弱肉強食のジャングルの法則に例えた。「天敵」を利用する緩速ろ過池は塩素消毒の必要がなく、フィルターを交換する必要もないため、電気機械や技術者への依存が大幅に減る。砂と砂利とレンガ、そして家を建てられる職人さえいればよいのだ。原水を緩速ろ過池でろ過すると、大腸菌群の数は七千余りから二十未満に減少し、台湾の飲料水の基準である六未満に近い数値になる。浄水の除菌性能は十分であり、これで住民をコレラの脅威からかなり遠ざけることができる。

実のところ、慈済はこれまでに様々なハイテク技術を活用した浄水設備を開発している。たとえば、有害な細菌をろ過する「限外ろ過膜」と逆浸透(RO)膜を組み合わせ、海水を淡水化して飲み水にする設備もある。しかし、これらの設備を維持していくためには精密部品や技術者を必要とするため、開発途上の国や地域で長期間使用するのに必ずしも適しているとは言えない。それに比べて、緩速ろ過池ははるかに扱いやすい。材料はすべて身近にある物で、誰でも維持管理ができる。「定期的に砂層表面を削り取って、ろ過砂を補充し、手入れするだけでいいのです」と陳処長は補足した。

緩速ろ過池の技術は今後、ジンバブエ、ネパール、インドでも徐々に導入される予定だ。モザンビークで最初の緩速ろ過池が完成し、次の計画も進んでいる。ジンバブエの慈済も現在政府に設置申請中であり、早く承認されることを願っている。

同じく水道の普及していないジンバブエのハラレ州エプワース。慈済が掘削した井戸で水を汲む住民(写真提供・ジンバブエ連絡所)。

モザンビークのクラ大愛村。慈済が建設した四角の緩速ろ過池は自然の力で水を浄化しており、長く使い続けることができる(写真、撮影・謝曜聯)。

「重量級」の雨水利用

干ばつの地域は水不足に苦しんでいるが、台風や洪水になると、海のようになった濁った水しかないため、同じように安全な飲料水が確保できない。フィリピンの台風ハイエンやラオスのダム決壊による洪水被害の時、慈済ボランティアは浄水装置や貯水装置を携えて行った。きれいな水は困難を乗り越える希望になる。

それに比べて水道網が高度に普及した台湾では、水がなくなる心配はほとんどない。しかしながら、地形の関係(山地が多く急勾配である)や豊水期と渇水期の差が大きいことなどから、地上に留まる水は年間降水量のわずか約十八%である。二〇二一年の歴史的な水不足も記憶に新しい。そのため、節水をいかにして暮らしの中に根付かせ、かつ企業や市民が一丸となって取り組むかが重要な課題となっている。

慈済基金会営建処の林敏朝(リン・ミンツァオ)顧問は、慈済の建築物に雨水利用や節水設備を設置し始めたきっかけについて振り返った。「あの日、花蓮は大雨が降り、私たちは慈済花蓮病院の会議室で会議をしていたのですが、会議の後、師兄の一人が、『花蓮で一日に降る雨は甘粛省の干ばつ地帯で一年に降る雨量よりも多いのです』と言いました。すると、證厳法師は、『雨水は天然の資源ですから、大切にしなければなりません』とおっしゃいました」。

一九九〇年代後半は、雨水利用や節水、グリーン建築などの概念が台湾でようやく知られ始めたばかりの頃で、参考となる前例もほとんどなかった。そこで、慈済建設チームは慈済花蓮病院から試行錯誤を始めることにした。

「トイレを一回流せば十二リットルの水を使うため、一回九リットルの節水トイレに換えて、三リットルの水を節約しました」。林さんは続けて雨水利用について説明した。普通は、建物に降った雨水をベタ基礎の貯水槽に引き込み、モーターで揚水して上層階の貯水槽に蓄える方式を採るが、慈済では貯水設備を上層階に分散して設置したという。

「たとえば、五階から三階まで流れ落ちれば、モーターで汲み上げる必要はありません」。

「各業界における水の利用効率を大幅に改善し、淡水の持続可能な供給と再利用を確保することで、水不足を解決する」ことも、SDGs6のターゲットの一つである。慈済花蓮病院の雨水利用システムは早くも二〇〇〇年に完成し、水や電気の浪費をかなり抑えることができた。このような革新的かつ実用的な節水方式は、時代の先駆けと言えるだろう。

二〇〇〇年以降に建設された慈済の学校や病院のうち、比較的大規模な建築物には、すべて節水および雨水利用システムが備え付けられている。中でも慈済台中病院は節水と省エネで優れた成果を上げ、二〇一五年に「グリーン建築シルバー認証」を取得した。

「集めた雨水の使い途は、以前は植物の水やりだけでしたが、今は空調にも使われています」。

慈済台中病院工務室の余許富(ユゥ・シュウフー)上級職員は、屋根裏の狭い空間を、身をかがめて通り抜け、敷地左手の建物の屋根裏部屋に入った。外からは慈済独特の「人」の字形の屋根が見えるだけで、中に特別な工夫があると気づく人はほとんどいない。

「三トンの貯水槽が二十六基、左右合わせて五十二基あり、貯水量は百五十六トンにも上る」と、余さんは黒いプラスチックの貯水槽を指差しながら説明してくれた。以前は貯水槽が雨水で満タンになってしまえばそれまでだったが、一部を空調に利用し始めてからは、貯水槽が満タンになったことはないという。

「エアコンは毎日使います。特に夏場は使用量が増えて、毎日五、六百トンの水が必要になります」。

大型公共建築の入念に設計された「見えない」貯水槽に比べ、慈済リサイクルセンターの雨水利用設備は、その「容量の大きさ」が一目瞭然だ。

南投県草屯鎮南埔リサイクルセンター責任者の林金国(リン・ジングォ)さんは、同センターの貯水設備について、誇らしげに説明してくれた。大小九つの貯水槽に加え、容量六トンの地下貯水庫もあり、満タンになれば雨が降らなくても半年は持つという。「七月末には残り四、五十トンまで減ったのですが、台風三号のおかげで満タンどころか、溢れてしまいました。でも、仕方がありません。最大容量が九十六トンしかないのですから」。

雨水利用によって水道水を大幅に節約できたことで、同センターでは水道料金を二カ月で僅か二百元余り(約千円弱)に抑えることができた。その成果は水道の「検針票」に表れただけでなく、その後、林さんは経済部水利署からも節水の達人として「節水公益賞」を授与された。政府関係者や慈済の法縁者が多数見学に訪れた時や静思精舎や他のリサイクルセンターの雨水利用設備の設置の際も、経験を活かして協力した。

林さんは、「リサイクルセンターの設立当初から、私たちは環境教育をすべきだと考えていました。天の恵みである雨水を大切にし、大いに貯水して活用することを子々孫々にまで伝えていきたいと思いました」と話した。

慈済台中病院の雨水利用設備は外から見えないように、巧妙に建物の陰に設置されている。上層階の露天スペースに大型の雨水集水タンクを設置しているため、揚水するための電力も不要で、水の使用効率も向上した。(撮影・蕭耀華)

南投県南埔リサイクルセンターのボランティア林金国さんは、大小の貯水槽で雨水を回収して利用するシステムを作った。ろ過処理した雨水をセンター内で使用することで、水道水の使用量は大幅に減った。(撮影・蕭耀華)

思っているより少ない地球上の水資源

水道の普及率が高く、水道料金も安い台湾では実感しづらいが、実は台湾は世界の水不足の国ワースト二十に入る。また、地球上では水不足のため故郷を離れざるを得ない人が、今なお億単位もいる。国家環境教育賞優秀賞を受賞した慈済ボランティアの陳哲霖(チェン·ヅーリン)さんは、水資源がいかに貴重であるかを「見える化」するため、千本のペットボトルを使ったインスタレーションアート作品「水キューブ」を制作した。

千本のペットボトルは地球上のすべての水を表している。そのうち淡水は二十五本だけで、残りは海水である。しかし、その二十五本のうち、十七本は南極と北極の氷、七本が地下水で、人類が実際に利用できる地表水はたった「一本」だけである。

「地球の水は一見多いと思われがちですが、私たちが利用できる淡水はその千分の一しかありません。ペットボトル千本と一本を見比べてみれば、水資源がいかに少ないかがわかるでしょう。だからこそ、『水を黄金のように大切に』しなければなりません」と陳さんは呼びかけた。

法師が「水は大いなる生命の源」とおっしゃる通り、どんな生き物も水なしでは生きられない。国連でも「水は持続可能な発展の核であり、社会や経済の発展、エネルギーと食糧生産、健全な生態系、人類の生存そのものにとってきわめて重要である」と強調している。

気候変動の衝撃と日増しに深刻さを増す水危機に対して、私たち人間は今、水の使い方を見直す必要に迫られている。貴重な水資源を永遠に残していくために、まず一滴一滴の水を大切に使うことから始めようではないか。(一部資料提供・古継紅)

(慈済月刊六九五期より)

水不足による災害 慈済の緊急援助

水不足による災害
慈済の緊急援助

干ばつ支援
  • 貯水槽の建設支援
    1998年から2009年まで中国甘粛省の6県で19,060基の貯水槽を建設、10万人が恩恵を受けた。
  • 井戸やポンプの設置
    ジンバブエ、シエラレオネ、インドネシア、ネパール。
    ジンバブエでは、2013年以降2,000本以上の井戸を掘削・修理し、200万人以上の生活を支援した。
緊急災害支援
  • 給水設備や浄水システムの支援
    ベネズエラ、インドネシア・アチェ州、フィリピンの台風30号ハイエン被災地、ラオスのダム決壊被災地、台湾新北市烏来の台風ソウデロア被災地、台湾蘭嶼等の台風コイヌ被災地。
水源の改善
  • 緩速ろ過池
    2024年、モザンビーク・ソファラ州クラ大愛村に海外初の緩速ろ過池を建設。
  • 雨水収集
    ラブビンティ・インターナショナルと協力し、ウガンダに11基の雨水収集システムを建設。
    ベトナム・ベンチェー省に貯水槽とろ過装置3000台を寄贈。
  • 学校にウォーターサーバーを寄贈
    2021年、四川涼山州喜徳県の30校にウォーターサーバーを寄贈、教師や生徒14,000名が利用。
關鍵字

水は大いなる生命の源

編集者の言葉

台湾に住む人々にとって、蛇口をひねりさえすれば清浄な水が「自然に」出てくるのは、当たり前のことである。水道料金はというと、十元(約五十円)硬貨一枚で千リットル(重さにすると一トン)の水道水を購入することができる。このようなお手頃の平均価格で使っているのだが、人々は「ありがたさ」を感じているだろうか。

意外にも、世界の二十二億人もの人たちは、衛生的な飲料用水にアクセスすることができないでいる。中でも、アフリカ諸国が最も深刻な状況にある。ユネスコは「二〇二四年国連世界水開発報告書」の中で、水資源の不足が深刻な地域では紛争が激化しており、長期的に平和を維持したいと願うならば、資源をめぐる競争や紛争の拡大を避けるために、各国が協力を強化する必要があると警告を発した。

證厳法師は長年にわたって、水を黄金のように大切にしなさい、と言ってきた。「水は大いなる生命の源」であり、水がなければ生き物は生きていけないのだ。世界は今、異常気象によって頻繁に起きる干ばつと洪水という脅威にさらされている。慈済が国際災害支援を行う際も、現地の水不足問題への対応方法を熟考している。

今期の「慈済とSDGsシリーズ」では、SDGs6「安全な水とトイレを世界中に」に焦点を当てている。執筆者の葉子豪(イェ・ヅーハオ)氏は、慈済の人道支援活動における水資源問題へのアプローチとその効果を分析し、SDGs6のターゲットである「二〇三〇年までに、全ての人々の、安全で安価な飲料水への普遍的かつ平等なアクセスを達成する」と「二〇三〇年までに、全ての人々の、適切かつ平等な下水施設・衛生施設へのアクセスを達成する」について、慈済がどのように努力しているかを説明している。

また、ジンバブエから最新のレポートを持ち帰った大愛テレビ局のシニアプロデューサー許斐莉(シュ・フェイリ)氏に感謝したい。そのレポートから、女性と子供たちが毎日多くの時間を割き、歩いて水汲みをしていることや、その過程でさまざまな危険に直面する可能性があることについて、理解を深めることができた。

同じく、大愛テレビ局の放送記者が持ち帰った慈済の善い話の中には、ドミニカ共和国で学校を支援建設したという感動的な成果や、過去三十年間に亘って貧しい人や病人に施療を提供してきたフィリピンのボランティアの慈悲心と気力の記録などがある。これら第一線での見聞は、時が経ってもその史実の善美を伝えている。

今号では、慈済ソーシャルワーカーの話も紹介した。一般的に彼らの仕事があまり理解されていない中で、慈済の六十年近くにわたる慈善志業において、彼らはその発展に欠かせない存在である。今、台湾で毎月定期的にケアを受けている恵まれない家庭は少なくとも二万世帯余りだが、ケアケースとして立案するかどうかや、その補助方法などについては、長年地域に深く関わってきた訪問ケアボランティアと資格のある慈済ソーシャルワーカーたちとが話し合いを重ね、判定して合意に達した上で実施されているのだ。

この部分の執筆者、周伝斌(ヅォウ・ツゥァンビン)氏は、数カ月間の取材を通じて多数の慈済ソーシャルワーカーたちについて理解を深め、ベテランボランティアにも単独インタビューし、その仕事ぶりと双方の交流体験をプロファイリングしている。志業や職業に打ち込む彼らだが、更にもう一つ、「この社会をより良くしたい」という純粋な思いを持っていると感じたそうだ。これこそ、他者を助ける者の初心である。

(慈済月刊六九五期より)

編集者の言葉

台湾に住む人々にとって、蛇口をひねりさえすれば清浄な水が「自然に」出てくるのは、当たり前のことである。水道料金はというと、十元(約五十円)硬貨一枚で千リットル(重さにすると一トン)の水道水を購入することができる。このようなお手頃の平均価格で使っているのだが、人々は「ありがたさ」を感じているだろうか。

意外にも、世界の二十二億人もの人たちは、衛生的な飲料用水にアクセスすることができないでいる。中でも、アフリカ諸国が最も深刻な状況にある。ユネスコは「二〇二四年国連世界水開発報告書」の中で、水資源の不足が深刻な地域では紛争が激化しており、長期的に平和を維持したいと願うならば、資源をめぐる競争や紛争の拡大を避けるために、各国が協力を強化する必要があると警告を発した。

證厳法師は長年にわたって、水を黄金のように大切にしなさい、と言ってきた。「水は大いなる生命の源」であり、水がなければ生き物は生きていけないのだ。世界は今、異常気象によって頻繁に起きる干ばつと洪水という脅威にさらされている。慈済が国際災害支援を行う際も、現地の水不足問題への対応方法を熟考している。

今期の「慈済とSDGsシリーズ」では、SDGs6「安全な水とトイレを世界中に」に焦点を当てている。執筆者の葉子豪(イェ・ヅーハオ)氏は、慈済の人道支援活動における水資源問題へのアプローチとその効果を分析し、SDGs6のターゲットである「二〇三〇年までに、全ての人々の、安全で安価な飲料水への普遍的かつ平等なアクセスを達成する」と「二〇三〇年までに、全ての人々の、適切かつ平等な下水施設・衛生施設へのアクセスを達成する」について、慈済がどのように努力しているかを説明している。

また、ジンバブエから最新のレポートを持ち帰った大愛テレビ局のシニアプロデューサー許斐莉(シュ・フェイリ)氏に感謝したい。そのレポートから、女性と子供たちが毎日多くの時間を割き、歩いて水汲みをしていることや、その過程でさまざまな危険に直面する可能性があることについて、理解を深めることができた。

同じく、大愛テレビ局の放送記者が持ち帰った慈済の善い話の中には、ドミニカ共和国で学校を支援建設したという感動的な成果や、過去三十年間に亘って貧しい人や病人に施療を提供してきたフィリピンのボランティアの慈悲心と気力の記録などがある。これら第一線での見聞は、時が経ってもその史実の善美を伝えている。

今号では、慈済ソーシャルワーカーの話も紹介した。一般的に彼らの仕事があまり理解されていない中で、慈済の六十年近くにわたる慈善志業において、彼らはその発展に欠かせない存在である。今、台湾で毎月定期的にケアを受けている恵まれない家庭は少なくとも二万世帯余りだが、ケアケースとして立案するかどうかや、その補助方法などについては、長年地域に深く関わってきた訪問ケアボランティアと資格のある慈済ソーシャルワーカーたちとが話し合いを重ね、判定して合意に達した上で実施されているのだ。

この部分の執筆者、周伝斌(ヅォウ・ツゥァンビン)氏は、数カ月間の取材を通じて多数の慈済ソーシャルワーカーたちについて理解を深め、ベテランボランティアにも単独インタビューし、その仕事ぶりと双方の交流体験をプロファイリングしている。志業や職業に打ち込む彼らだが、更にもう一つ、「この社会をより良くしたい」という純粋な思いを持っていると感じたそうだ。これこそ、他者を助ける者の初心である。

(慈済月刊六九五期より)

關鍵字

水源不足  農作物の不作—ジンバブエの井戸掘り人

1つの井戸で、半径3キロメートル内の数百世帯に安全な飲み水を提供できる。ダンブサワ地区で慈済が修理した井戸の前に長蛇の列ができていた。(空撮・李文傑)

ジンバブエは国家級の災害に直面し、全人口千六百万人のうち、半数以上が食糧不足に陥っている。その原因は、干ばつにある。

慈済は五十二の炊き出し拠点を立ち上げ、毎日一万六千人に食事を提供している。中には、その日唯一の食事を得るために二時間かけて歩いてくる人もいる。

大愛テレビの取材チームと慈済基金会のアフリカ支援チーム一行は、今年八月中旬、ジンバブエを訪れ、台湾の企業家、朱金財(ヅゥ・ジンツァイ)さんの家に滞在した。私たちを出迎えてくれたのは、チーム全員を満腹にするほどの大きな鍋に入った野菜スープで、新鮮なトウモロコシやシイタケ、大根などが入っていた。私は思わず涙がこぼれそうになった。

台湾ではごく普通の料理であるが、サハラ砂漠以南のアフリカの国では得難いものだ。その前に滞在したモザンビークでは、新鮮なトウモロコシを食べることができなかった。というのは、現地の人はトウモロコシを乾燥させて粉にし、食べる時に、水を加えてペースト状に煮て食べるので、味はなく、ただ「お腹を満たした」だけだった。このような荒れた土地では、食事は文化とは言えず、基本的に、満腹にするだけでも人々は疲れ果てている。

歴史上、すでに千年以上も記録に載っている「エルニーニョ現象」だが、二十世紀以降に発生した何回かのエルニーニョ現象が人類に与えた影響は、非常に明白で、特にジンバブエでは大きな影響が出ている。政府は二〇二四年に国家級の災害を宣言したが、全人口一千六百万のうち、半数以上が食糧不足に陥っている。その原因は、何年も続いている干ばつである。

朱さんによると、これまで慈済のチームが井戸を掘った時、地下五十メートルまで掘れば、水源が見つかっていたが、今では八十メートル掘らないと水がないそうだ。このことからも、地表の乾燥状態が分かる。そして、私たちが田舎に向かう途中で見たのは、黄土の大地と、河床に巨大な岩石がむき出しになった光景だった。

慈済は、ジンバブエに五十二カ所の炊き出し拠点を立ち上げ、毎日一万六千人が昼食を取ることができるようにしている。実際に現場に行くと、その光景に衝撃を受けた!ハラレ周辺のダンブサワでは、人々が殺到していた。家から二時間かけて歩いて、食事の配付を待っている人もいた。多くの人は農地を持っているが、深刻な干ばつのため、トウモロコシなどの作物が収穫できないのだ。

食事の配付対象は主に子供たちなので、地域の親たちは小さな子供でも連れて来ていた。子供をおんぶしたり、抱き抱えたり、手を引いたりした女性の姿が多く、子供たちは、皆大きな弁当箱を持っていた。中には迷子になった子供もいて、慈済ボランティアのところに連れて行かれて、母親を探すアナウンスをしていた。子供は名前さえ言えず、頬に涙を流していたが、手にはしっかりと弁当箱を持っていた。その一食は一家全員が共有する唯一の食事なのかもしれないからだ。

私たちのドローンが空に舞い上がり、井戸の前に長い行列ができている様子を捉えた。ニュース報道の後、證厳法師は花蓮から関心を寄せ、ジンバブエの干ばつと食糧危機の現状をより正確に理解したいと言った。また、慈済が支援の規模をどのように最適化したら良いか、食事の回数や人数についても考慮する必要があると指摘した。

炊き出し拠点での食事の提供量が多いため、往々にして一日かけて準備しなければならない。地元ボランティアのアイザックさんは、たった一食を配付し終えるのに二時間もかかると語った。主食のトウモロコシペーストに加えて、慈済ボランティアはご飯、ジャガイモ、豆ペースト、キャベツなどの温かい料理も用意した。現地の人々にとって、まさに豪華な食事と言えるだろう。

女性たちは1日にバケツ5つから7つ分の水を運ばなければ、一家の必要量を満たすことができない。(写真・許斐莉)

首都でも、給水は週に一回

私たちは朱さんの家に滞在していたため、現地の窮迫した水不足や食糧不足を感じることはなかった。首都ハラレでも水道の給水は週に一回である。朱さんによると、「でも、それがいつになるのか、分からないのです」。また、水道管から出てくる水はコーヒー色で、出ても使いにくいとのことだった。

二〇〇八年はコレラが大流行したが、病原菌は水や食べ物を介して感染した。朱さんはやむを得ず一万二千ドルを投資して、自宅の前庭に深さ五十五メートルの井戸を掘った。汲み上げられた地下水は比較的きれいで、生活用水として使用できるが、「飲み水はやはりミネラルウォーターを買うしかありません」。

朱さんはジンバブエに三十年近く住んでいるが、自宅の生活用水を確保するだけでも多くの心労を費やした。今年のコレラがピークを過ぎた後は、一つの井戸を修理するのに三千ドル掛かり、新たな井戸を掘るには七千から八千ドルかかるそうだ。一般の人がそのような費用を負担できるだろうか?

慈済井戸チームは、この十一年間に二千以上の井戸を修理したり、掘削したりしてきた。連絡を受けると、どこでもチームは直ちに駆けつける。あの日、私たちはハラレを離れて、井戸チームと合流した。途中の道はガタガタで、体に痛みを感じるほど揺れた。舗装道路から黄土の道になり、木はまばらで、荒れ地が果てしなく広がっていた。

マシンガイゼの井戸修理現場に到着した。ここは村も店もないのに、一体誰が来るというのだろうか。地元住民によると、この井戸は移動の中間地点に位置しており、旅の途中で渇きを癒すことができるという。しかし、壊れてから誰も修理せず、すでに二十四年間も放置されたままだった。

朱さんがチームを率いて井戸のポンプを解体し始めた。チームが事前に調査に来た時、井戸の中に大きな蜂の巣ができているのを発見した。しかし、これは彼らにとって最もびっくりするような状況ではなく、以前、井戸の近くに野生動物がいたこともある。動物による攻撃を警戒することも、井戸チームの挑戦の一つである。

井戸チームは、地元政府に蜂の巣を取り除いてくれるよう通報して、やっと修理に来ることができたのである。驚いたことに、チームには女性メンバーもいた。彼女たちは大型のペンチを使ってポンプを解体し、手際よく作業を進めていた。男性に劣らない腕前だ。ボランティアのパオチーさんは、これらの解体技術は朱金財さんが教えてくれたもので、解体後に故障の原因を見つけ、どの部品を交換するかを決めるのだ、と語った。

長期間の訓練と経験を経ているので、彼らは一日で二箇所の井戸修理を完了することができるが、実際にはもっと時間がかかることが多い。なぜなら、井戸の修理だけでなく、村人との交流や慈済の精神理念を共有するからだ。特に、彼らと同じジンバブエ人は、慈済の支援を受けて自らの力で立ち上がることができるようになっている。

乾燥した河床に座る朱金財さん。目の前には、住民が水を得るために掘った穴がある。給水設備が不足しているジンバブエでは、井戸の修理は人々を救うことに等しい。(撮影・フレンギシレ・ジヤネ)

五つのチームがへき地で井戸を修理し、泉が湧いた

朱さんが忍耐強く統率したので、井戸チームの規模は着実に拡大し、現在五つのチームが毎日へき地へ出かけ、無料で井戸の修理を行っている。今ではジンバブエでその名を馳せる存在になっていると言える。

帰り道、大愛テレビの取材チームは井戸チームの作業車に乗り込み、車内で取材をした。車内には大型の機械が所狭しと積まれていた。デコボコ道が続き、私たちは体が振動で痺れてしまったが、ボランティアたちが集まって手拍子を打ちながら、高らかに歌っている姿には感動させられた。彼らがあのような厳しい環境にあっても、活力に満ち、ジンバブエを覆す希望を諦めていない、その姿に敬服した。

台湾に戻ると、静思精舎の徳浩(ドーハオ)師父が、ジンバブエのバナナは非常に高価で、一般の人は手が出ないが、「上人は一日にバナナを一本食べて、ジンバブエを好転させなければならないことをご自身に言い聞かせているのですよ」と教えてくれた。私はとても驚き、今回のジンバブエの旅で、確かにバナナを見たことがなかった、と思い返した。

法師は、「アフリカの苦難を覆すのは非常に難しいことです。慈済の支援だけでなく、現地の人々が自発的に力を生み出すことが必要です。それによって、気候変動による環境の大きな変化に、一緒に立ち向かうことが可能になるのです」と語っている。

私は、朱さんが言っていたことを思い出した。

「ジンバブエに三十年近く住んでいますが、出家人に出会う機会は滅多にありません」。その場所こそが、仏法で言う「辺地」ではないのだろうか?そのような仏法に触れることが難しい場所で、私たちはすでに慈済の種がその土地に撒かれているのを目にした。いつの日か、そこでも仏法が聞け、インフラが整備され、あらゆる人が衣食共に豊かになり、災難から遠ざかることを切に願った。

(慈済月刊六九五期より)

1つの井戸で、半径3キロメートル内の数百世帯に安全な飲み水を提供できる。ダンブサワ地区で慈済が修理した井戸の前に長蛇の列ができていた。(空撮・李文傑)

ジンバブエは国家級の災害に直面し、全人口千六百万人のうち、半数以上が食糧不足に陥っている。その原因は、干ばつにある。

慈済は五十二の炊き出し拠点を立ち上げ、毎日一万六千人に食事を提供している。中には、その日唯一の食事を得るために二時間かけて歩いてくる人もいる。

大愛テレビの取材チームと慈済基金会のアフリカ支援チーム一行は、今年八月中旬、ジンバブエを訪れ、台湾の企業家、朱金財(ヅゥ・ジンツァイ)さんの家に滞在した。私たちを出迎えてくれたのは、チーム全員を満腹にするほどの大きな鍋に入った野菜スープで、新鮮なトウモロコシやシイタケ、大根などが入っていた。私は思わず涙がこぼれそうになった。

台湾ではごく普通の料理であるが、サハラ砂漠以南のアフリカの国では得難いものだ。その前に滞在したモザンビークでは、新鮮なトウモロコシを食べることができなかった。というのは、現地の人はトウモロコシを乾燥させて粉にし、食べる時に、水を加えてペースト状に煮て食べるので、味はなく、ただ「お腹を満たした」だけだった。このような荒れた土地では、食事は文化とは言えず、基本的に、満腹にするだけでも人々は疲れ果てている。

歴史上、すでに千年以上も記録に載っている「エルニーニョ現象」だが、二十世紀以降に発生した何回かのエルニーニョ現象が人類に与えた影響は、非常に明白で、特にジンバブエでは大きな影響が出ている。政府は二〇二四年に国家級の災害を宣言したが、全人口一千六百万のうち、半数以上が食糧不足に陥っている。その原因は、何年も続いている干ばつである。

朱さんによると、これまで慈済のチームが井戸を掘った時、地下五十メートルまで掘れば、水源が見つかっていたが、今では八十メートル掘らないと水がないそうだ。このことからも、地表の乾燥状態が分かる。そして、私たちが田舎に向かう途中で見たのは、黄土の大地と、河床に巨大な岩石がむき出しになった光景だった。

慈済は、ジンバブエに五十二カ所の炊き出し拠点を立ち上げ、毎日一万六千人が昼食を取ることができるようにしている。実際に現場に行くと、その光景に衝撃を受けた!ハラレ周辺のダンブサワでは、人々が殺到していた。家から二時間かけて歩いて、食事の配付を待っている人もいた。多くの人は農地を持っているが、深刻な干ばつのため、トウモロコシなどの作物が収穫できないのだ。

食事の配付対象は主に子供たちなので、地域の親たちは小さな子供でも連れて来ていた。子供をおんぶしたり、抱き抱えたり、手を引いたりした女性の姿が多く、子供たちは、皆大きな弁当箱を持っていた。中には迷子になった子供もいて、慈済ボランティアのところに連れて行かれて、母親を探すアナウンスをしていた。子供は名前さえ言えず、頬に涙を流していたが、手にはしっかりと弁当箱を持っていた。その一食は一家全員が共有する唯一の食事なのかもしれないからだ。

私たちのドローンが空に舞い上がり、井戸の前に長い行列ができている様子を捉えた。ニュース報道の後、證厳法師は花蓮から関心を寄せ、ジンバブエの干ばつと食糧危機の現状をより正確に理解したいと言った。また、慈済が支援の規模をどのように最適化したら良いか、食事の回数や人数についても考慮する必要があると指摘した。

炊き出し拠点での食事の提供量が多いため、往々にして一日かけて準備しなければならない。地元ボランティアのアイザックさんは、たった一食を配付し終えるのに二時間もかかると語った。主食のトウモロコシペーストに加えて、慈済ボランティアはご飯、ジャガイモ、豆ペースト、キャベツなどの温かい料理も用意した。現地の人々にとって、まさに豪華な食事と言えるだろう。

女性たちは1日にバケツ5つから7つ分の水を運ばなければ、一家の必要量を満たすことができない。(写真・許斐莉)

首都でも、給水は週に一回

私たちは朱さんの家に滞在していたため、現地の窮迫した水不足や食糧不足を感じることはなかった。首都ハラレでも水道の給水は週に一回である。朱さんによると、「でも、それがいつになるのか、分からないのです」。また、水道管から出てくる水はコーヒー色で、出ても使いにくいとのことだった。

二〇〇八年はコレラが大流行したが、病原菌は水や食べ物を介して感染した。朱さんはやむを得ず一万二千ドルを投資して、自宅の前庭に深さ五十五メートルの井戸を掘った。汲み上げられた地下水は比較的きれいで、生活用水として使用できるが、「飲み水はやはりミネラルウォーターを買うしかありません」。

朱さんはジンバブエに三十年近く住んでいるが、自宅の生活用水を確保するだけでも多くの心労を費やした。今年のコレラがピークを過ぎた後は、一つの井戸を修理するのに三千ドル掛かり、新たな井戸を掘るには七千から八千ドルかかるそうだ。一般の人がそのような費用を負担できるだろうか?

慈済井戸チームは、この十一年間に二千以上の井戸を修理したり、掘削したりしてきた。連絡を受けると、どこでもチームは直ちに駆けつける。あの日、私たちはハラレを離れて、井戸チームと合流した。途中の道はガタガタで、体に痛みを感じるほど揺れた。舗装道路から黄土の道になり、木はまばらで、荒れ地が果てしなく広がっていた。

マシンガイゼの井戸修理現場に到着した。ここは村も店もないのに、一体誰が来るというのだろうか。地元住民によると、この井戸は移動の中間地点に位置しており、旅の途中で渇きを癒すことができるという。しかし、壊れてから誰も修理せず、すでに二十四年間も放置されたままだった。

朱さんがチームを率いて井戸のポンプを解体し始めた。チームが事前に調査に来た時、井戸の中に大きな蜂の巣ができているのを発見した。しかし、これは彼らにとって最もびっくりするような状況ではなく、以前、井戸の近くに野生動物がいたこともある。動物による攻撃を警戒することも、井戸チームの挑戦の一つである。

井戸チームは、地元政府に蜂の巣を取り除いてくれるよう通報して、やっと修理に来ることができたのである。驚いたことに、チームには女性メンバーもいた。彼女たちは大型のペンチを使ってポンプを解体し、手際よく作業を進めていた。男性に劣らない腕前だ。ボランティアのパオチーさんは、これらの解体技術は朱金財さんが教えてくれたもので、解体後に故障の原因を見つけ、どの部品を交換するかを決めるのだ、と語った。

長期間の訓練と経験を経ているので、彼らは一日で二箇所の井戸修理を完了することができるが、実際にはもっと時間がかかることが多い。なぜなら、井戸の修理だけでなく、村人との交流や慈済の精神理念を共有するからだ。特に、彼らと同じジンバブエ人は、慈済の支援を受けて自らの力で立ち上がることができるようになっている。

乾燥した河床に座る朱金財さん。目の前には、住民が水を得るために掘った穴がある。給水設備が不足しているジンバブエでは、井戸の修理は人々を救うことに等しい。(撮影・フレンギシレ・ジヤネ)

五つのチームがへき地で井戸を修理し、泉が湧いた

朱さんが忍耐強く統率したので、井戸チームの規模は着実に拡大し、現在五つのチームが毎日へき地へ出かけ、無料で井戸の修理を行っている。今ではジンバブエでその名を馳せる存在になっていると言える。

帰り道、大愛テレビの取材チームは井戸チームの作業車に乗り込み、車内で取材をした。車内には大型の機械が所狭しと積まれていた。デコボコ道が続き、私たちは体が振動で痺れてしまったが、ボランティアたちが集まって手拍子を打ちながら、高らかに歌っている姿には感動させられた。彼らがあのような厳しい環境にあっても、活力に満ち、ジンバブエを覆す希望を諦めていない、その姿に敬服した。

台湾に戻ると、静思精舎の徳浩(ドーハオ)師父が、ジンバブエのバナナは非常に高価で、一般の人は手が出ないが、「上人は一日にバナナを一本食べて、ジンバブエを好転させなければならないことをご自身に言い聞かせているのですよ」と教えてくれた。私はとても驚き、今回のジンバブエの旅で、確かにバナナを見たことがなかった、と思い返した。

法師は、「アフリカの苦難を覆すのは非常に難しいことです。慈済の支援だけでなく、現地の人々が自発的に力を生み出すことが必要です。それによって、気候変動による環境の大きな変化に、一緒に立ち向かうことが可能になるのです」と語っている。

私は、朱さんが言っていたことを思い出した。

「ジンバブエに三十年近く住んでいますが、出家人に出会う機会は滅多にありません」。その場所こそが、仏法で言う「辺地」ではないのだろうか?そのような仏法に触れることが難しい場所で、私たちはすでに慈済の種がその土地に撒かれているのを目にした。いつの日か、そこでも仏法が聞け、インフラが整備され、あらゆる人が衣食共に豊かになり、災難から遠ざかることを切に願った。

(慈済月刊六九五期より)

關鍵字

ホスピス病棟のアロマテラピスト

末期癌患者が経験する痛みを家族が取って代わることはできないが、皮膚に触れることで愛を伝えることはできる。

台中慈済病院でアロマテラピーをしているボランティア、李玉錦(リー・ユージン)さんは、アロマオイルの香りで癌患者のストレスを解消したり、マッサージでケアしていることを感じてもらったり、お互いに気持ちを落ち着かせたりする方法を模範で示した。

Aさんは台中慈済病院のホスピス病棟に入院して六日経った頃、癌が脳、肺、肝及び腹腔に転移し、痛みと息切れ、吐き気等の症状が出ていた。彼女は不安と恐怖を感じて憂鬱になり、怒りっぽかったが、やがておかしな事を言ったり、混乱して大声で叫んだり騒いだり、睡眠障害も出てきたので、彼女に付き添っていたご主人は、心配して眠れなくなった。

李さんは、調合したアロマオイルを持って病室に入った。「マッサージをしますよ。とても楽になりますから、怖がらないでくださいね」。十分も経たない内にAさんは静かに眠りに落ちた。李さんは、彼女の浮腫んで硬い下肢にマッサージを続けた。

アロマオイルの香りが患者の恐怖心と焦りを和らげた。李さんは両手で豊かな愛と温かさを伝えながら、患者の命のラスト・マイルに付き添った。

「危篤の患者にアロマテラピーを施すのは怖くありませんか?とよく聞かれます。あなたが彼女の家族だったら怖くないでしょう。私も患者さんを自分の家族だと思っています」。また、自分はボランティアになって既に二十年になり、使っているアロマオイルは全て愛の寄付によるもので、いろんな人がそれぞれ金銭や力を出し合って、一緒に患者さんを助けているのだと話すと、Aさんのご主人はそれを聴いて、直ちに自分も愛を奉仕して人助けをしたいと表明した。

李玉錦(写真1・右)は、アロマテラピーを受ける患者の病歴を詳細にチェックし、個別にオイルの配合を考え、ボランティアの仲間に手伝ってもらって調合する(写真2)。

神がかった指先

李さんは三十三歳の時にアロマオイルに出会った。中華芳香療法教育振興学会の講座で、海外ではアロマテラピーは既に広く臨床に使われており、体の様々な不快症状を緩和することができ、美容の領域にだけ使われているわけではない、と講師が話していたのを聞いた。そんなに良いのだったら、私もアロマオイルを使って、助けを必要としている人の役に立てるのではないかと思った。

李さんは先ず、芳香療法学会の講師に付いて病院のホスピス病棟で奉仕した。今では、毎週水曜日に中国医薬大学付属病院、隔週の水曜日に台中慈済病院のホスピス病棟で奉仕している。試驗や海外渡航の時を除き、一度も休んだことがない。

「マッサージがこれほど良いとは知りませんでした」とBさんが何度も言った。マッサージが始まってからは、いつも明るい笑顔を見せていたので、彼女は耳下腺癌が肺に転移している末期患者だということを、誰もが忘れるほどだった。「私は市場で商売をしていました。実家で栽培したパイナップルやエノコログサ、生姜も売っていました」。Bさんはお喋りを始めると、暫くの間、痛みを忘れてしまう。

「ホスピス病棟に入院するのは、これ以上治療ができない人や、早く後の事を託したい人だ、と言う人がいます。しかし、私が毎日薬を飲んだり注射してもらったりするのは、いつか家に帰れると思っているからです」とBさんが言った。

末期癌患者の特質の一つは、自己ケアを疎かにするようになることだ。マッサージやリンパといった経脈の理学療法の効果で、リラックスや心地良さが得られると、患者が愛を感じる、というメリットがある。「玉錦先生の指先は神がかっていて、相手が抱えている問題や気持ちを察することができるのです。多くの患者によると、これほどの気持ちよさは今までに経験したことがなく、嬉しくなって、自然に笑顔になるそうです。人によっては心を開くようになり、特に乳癌患者に対しては、心に溜まっていた感情を引き出すことができるのです」と台中慈済病院ホスピス病棟の看護師長である黄美玲(フォン・メイリン)さんが言った。

「ここ数年、病院はアロマテラピーができるボランティアを探していますが、なかなか見つかりません。アロマテラピーの資格を持っているのは今でも、玉錦さん一人だけです」。アロマテラピーボランティアの劉䕒儀(リュウ・ジアイー)さんは、五、六年前、中国医薬大学附属病院の受付でボランティアをしていた時、ボランティアチームのリーダーがホスピス病棟で長い期間、患者の入浴を手伝っていた話を聞いて、とても感動した。当時、丁度ホスピス病棟のアロマテラピーボランティアが不足していたため、それに申し込み、その時から李玉錦さんに学ぶようになった。

劉さんがこう回想した。初めて頭頸部癌や口腔癌の患者の変形した顔や爛れた傷口を見た時、ショックと恐怖を覚えたので、李さんが落ち着いた態度で患者に挨拶していた光景だけを見ていたそうだ。「彼女はとても落ち着いていて、彼女について行くと、私も次第に怖くなくなりました」。

「アロマテラピーボランティアとして、まさか自分の母親を世話する日が来るとは思ってもいませんでした!」 劉さんの母親は末期癌で、腹水が溜まって歩くことができず、診断されてからこの世を去るまで僅か四カ月だった。劉さんは李さんにアロマオイルを配合してもらい、毎日実家に帰って、自ら母親にオイルマッサージを施した。「お母さんのお見舞いをしたいのです」とコロナ期間中でも李さんは家まで来てくれて、母親にマッサージをしたり、話し相手になってくれたりした。「あの日、久しぶりに母親の笑顔が見られました。とても心地よくて私よりもマッサージが上手だと先生を褒めていました!」

触合うことで愛を表わす

看病する家族がいない患者は、李さんが特に関心を寄せる対象である。或るお婆さんは入浴していなくて、オムツも看護師に取り換えてもらっていたが、それでも李さんはお婆さんの全身をマッサージした。マッサージすると、黒い垢が出てきた。

「家族は私の病気がうつるからと言って、私を見捨てたのです。それなのに、あなたたちは私の世話をしてくれています。それにあなたはどうして手袋もせず、直接触れてくれるのですか」とお婆さんは涙を流しながら言った。普段マッサージする時、李さんは手袋を嵌めないことにしている。「手洗いすればいいのです。マッサージは肌に触れることが大切で、そうすれば心地よくなるのです。手に傷がある時だけは、手袋を嵌めます」。

家族は痛みを分かち合うことはできないが、触れ合うことで、愛情を表現できるのだ。「病室に入ると、私はいつも看病している人に、患者さんとの関係を聞くことにしています。息子さんだったら、こっちに来て親に恩返ししなさい、私マッサージの仕方を教えてあげるから、と言います」。この二十年間、李さんは千人以上の患者を送り出した。彼女は死に直面しても、平常心でいられる。最近のある時、患者が酷く息切れしているのを見て、もう時間が余りないことを知った。「私が半分マッサージするから、残り半分はあなたがマッサージしてあげてください」と彼女は患者の娘さんに言った。マッサージが終わって間もなく、患者は息を引き取った。「彼はとても苦しんでいました。死は彼にとって解脱だったので、私は静かに祝福してあげました。どうぞ安らかに、と」。

結合組織疾患のある四十歳過ぎの男性は、太ももに大小様々な腫瘍ができていて、傷口から異臭が漂い、他の患者は彼との相部屋を嫌った。一人部屋に居た彼はとても憂鬱で、異臭が漂うのを恐れるのと同時に、人に会いたくなかったので、いつも布団を被っていた。

李さんはマスクを二枚重ねにすると共に、事前にマスクにアロマオイルを垂らし、落ち着いて病室に入った。彼女が配合したのは、フルーティーな柑橘類の精油にヒマラヤスギ、ラベンダー、レモンなどを加えたもので、殺菌と炎症を抑える作用がある。一週間後、異臭は緩和された。「無口な方ですが、もう布団を被ることはなくなり、人にも会うようになりました。アロマテラピーがこれらの人の役に立つことは、最大の慰めです」。

手に傷がある時だけ、李さんは手袋を着用する。マッサージによる触れ合いを通して、患者に愛のポジティブなエネルギーを伝えたいと願っているからだ。

李玉錦さんはアロマテラピーのボランティアになることを誓った。体力が続く限り、彼女はいつまでも続けるつもりだ。

初心と願力が李さんの熱意を支え、彼女は諦めることなく、努力し続けることができた。彼女は、自分のアロマテラピーの仕事を続けながら、資格取得試験の準備に取り掛かる一方、ボランティアも続けている。体力的に続かなくなった時、彼女はいつも初心を思い出す。「アロマテラピーボランティアになることが私の願いでした。もし私がやらなければ、患者にオイルの配合をするアロマテラピストがいなくなるので、どうしたらいいか分かりません。『まだ来ないのだろうかと、長い間待っていました』という声をたくさん聞きます。そうすると、直ぐに力が湧いてきます」。

李さんと三人のアロマテラピーボランティアは皆、五十歳を超えているので、若い人を増やすのが急務である。「私がいつまで続けられるかは答えられません。今は真面目に仕事をし、一人でも多く伝授して、一緒に続けられることを期待するしかありません。体力が続く限り、いくつになってもやり続けたいと思っています」と李さんが言った。

(慈済月刊六八六期より)

末期癌患者が経験する痛みを家族が取って代わることはできないが、皮膚に触れることで愛を伝えることはできる。

台中慈済病院でアロマテラピーをしているボランティア、李玉錦(リー・ユージン)さんは、アロマオイルの香りで癌患者のストレスを解消したり、マッサージでケアしていることを感じてもらったり、お互いに気持ちを落ち着かせたりする方法を模範で示した。

Aさんは台中慈済病院のホスピス病棟に入院して六日経った頃、癌が脳、肺、肝及び腹腔に転移し、痛みと息切れ、吐き気等の症状が出ていた。彼女は不安と恐怖を感じて憂鬱になり、怒りっぽかったが、やがておかしな事を言ったり、混乱して大声で叫んだり騒いだり、睡眠障害も出てきたので、彼女に付き添っていたご主人は、心配して眠れなくなった。

李さんは、調合したアロマオイルを持って病室に入った。「マッサージをしますよ。とても楽になりますから、怖がらないでくださいね」。十分も経たない内にAさんは静かに眠りに落ちた。李さんは、彼女の浮腫んで硬い下肢にマッサージを続けた。

アロマオイルの香りが患者の恐怖心と焦りを和らげた。李さんは両手で豊かな愛と温かさを伝えながら、患者の命のラスト・マイルに付き添った。

「危篤の患者にアロマテラピーを施すのは怖くありませんか?とよく聞かれます。あなたが彼女の家族だったら怖くないでしょう。私も患者さんを自分の家族だと思っています」。また、自分はボランティアになって既に二十年になり、使っているアロマオイルは全て愛の寄付によるもので、いろんな人がそれぞれ金銭や力を出し合って、一緒に患者さんを助けているのだと話すと、Aさんのご主人はそれを聴いて、直ちに自分も愛を奉仕して人助けをしたいと表明した。

李玉錦(写真1・右)は、アロマテラピーを受ける患者の病歴を詳細にチェックし、個別にオイルの配合を考え、ボランティアの仲間に手伝ってもらって調合する(写真2)。

神がかった指先

李さんは三十三歳の時にアロマオイルに出会った。中華芳香療法教育振興学会の講座で、海外ではアロマテラピーは既に広く臨床に使われており、体の様々な不快症状を緩和することができ、美容の領域にだけ使われているわけではない、と講師が話していたのを聞いた。そんなに良いのだったら、私もアロマオイルを使って、助けを必要としている人の役に立てるのではないかと思った。

李さんは先ず、芳香療法学会の講師に付いて病院のホスピス病棟で奉仕した。今では、毎週水曜日に中国医薬大学付属病院、隔週の水曜日に台中慈済病院のホスピス病棟で奉仕している。試驗や海外渡航の時を除き、一度も休んだことがない。

「マッサージがこれほど良いとは知りませんでした」とBさんが何度も言った。マッサージが始まってからは、いつも明るい笑顔を見せていたので、彼女は耳下腺癌が肺に転移している末期患者だということを、誰もが忘れるほどだった。「私は市場で商売をしていました。実家で栽培したパイナップルやエノコログサ、生姜も売っていました」。Bさんはお喋りを始めると、暫くの間、痛みを忘れてしまう。

「ホスピス病棟に入院するのは、これ以上治療ができない人や、早く後の事を託したい人だ、と言う人がいます。しかし、私が毎日薬を飲んだり注射してもらったりするのは、いつか家に帰れると思っているからです」とBさんが言った。

末期癌患者の特質の一つは、自己ケアを疎かにするようになることだ。マッサージやリンパといった経脈の理学療法の効果で、リラックスや心地良さが得られると、患者が愛を感じる、というメリットがある。「玉錦先生の指先は神がかっていて、相手が抱えている問題や気持ちを察することができるのです。多くの患者によると、これほどの気持ちよさは今までに経験したことがなく、嬉しくなって、自然に笑顔になるそうです。人によっては心を開くようになり、特に乳癌患者に対しては、心に溜まっていた感情を引き出すことができるのです」と台中慈済病院ホスピス病棟の看護師長である黄美玲(フォン・メイリン)さんが言った。

「ここ数年、病院はアロマテラピーができるボランティアを探していますが、なかなか見つかりません。アロマテラピーの資格を持っているのは今でも、玉錦さん一人だけです」。アロマテラピーボランティアの劉䕒儀(リュウ・ジアイー)さんは、五、六年前、中国医薬大学附属病院の受付でボランティアをしていた時、ボランティアチームのリーダーがホスピス病棟で長い期間、患者の入浴を手伝っていた話を聞いて、とても感動した。当時、丁度ホスピス病棟のアロマテラピーボランティアが不足していたため、それに申し込み、その時から李玉錦さんに学ぶようになった。

劉さんがこう回想した。初めて頭頸部癌や口腔癌の患者の変形した顔や爛れた傷口を見た時、ショックと恐怖を覚えたので、李さんが落ち着いた態度で患者に挨拶していた光景だけを見ていたそうだ。「彼女はとても落ち着いていて、彼女について行くと、私も次第に怖くなくなりました」。

「アロマテラピーボランティアとして、まさか自分の母親を世話する日が来るとは思ってもいませんでした!」 劉さんの母親は末期癌で、腹水が溜まって歩くことができず、診断されてからこの世を去るまで僅か四カ月だった。劉さんは李さんにアロマオイルを配合してもらい、毎日実家に帰って、自ら母親にオイルマッサージを施した。「お母さんのお見舞いをしたいのです」とコロナ期間中でも李さんは家まで来てくれて、母親にマッサージをしたり、話し相手になってくれたりした。「あの日、久しぶりに母親の笑顔が見られました。とても心地よくて私よりもマッサージが上手だと先生を褒めていました!」

触合うことで愛を表わす

看病する家族がいない患者は、李さんが特に関心を寄せる対象である。或るお婆さんは入浴していなくて、オムツも看護師に取り換えてもらっていたが、それでも李さんはお婆さんの全身をマッサージした。マッサージすると、黒い垢が出てきた。

「家族は私の病気がうつるからと言って、私を見捨てたのです。それなのに、あなたたちは私の世話をしてくれています。それにあなたはどうして手袋もせず、直接触れてくれるのですか」とお婆さんは涙を流しながら言った。普段マッサージする時、李さんは手袋を嵌めないことにしている。「手洗いすればいいのです。マッサージは肌に触れることが大切で、そうすれば心地よくなるのです。手に傷がある時だけは、手袋を嵌めます」。

家族は痛みを分かち合うことはできないが、触れ合うことで、愛情を表現できるのだ。「病室に入ると、私はいつも看病している人に、患者さんとの関係を聞くことにしています。息子さんだったら、こっちに来て親に恩返ししなさい、私マッサージの仕方を教えてあげるから、と言います」。この二十年間、李さんは千人以上の患者を送り出した。彼女は死に直面しても、平常心でいられる。最近のある時、患者が酷く息切れしているのを見て、もう時間が余りないことを知った。「私が半分マッサージするから、残り半分はあなたがマッサージしてあげてください」と彼女は患者の娘さんに言った。マッサージが終わって間もなく、患者は息を引き取った。「彼はとても苦しんでいました。死は彼にとって解脱だったので、私は静かに祝福してあげました。どうぞ安らかに、と」。

結合組織疾患のある四十歳過ぎの男性は、太ももに大小様々な腫瘍ができていて、傷口から異臭が漂い、他の患者は彼との相部屋を嫌った。一人部屋に居た彼はとても憂鬱で、異臭が漂うのを恐れるのと同時に、人に会いたくなかったので、いつも布団を被っていた。

李さんはマスクを二枚重ねにすると共に、事前にマスクにアロマオイルを垂らし、落ち着いて病室に入った。彼女が配合したのは、フルーティーな柑橘類の精油にヒマラヤスギ、ラベンダー、レモンなどを加えたもので、殺菌と炎症を抑える作用がある。一週間後、異臭は緩和された。「無口な方ですが、もう布団を被ることはなくなり、人にも会うようになりました。アロマテラピーがこれらの人の役に立つことは、最大の慰めです」。

手に傷がある時だけ、李さんは手袋を着用する。マッサージによる触れ合いを通して、患者に愛のポジティブなエネルギーを伝えたいと願っているからだ。

李玉錦さんはアロマテラピーのボランティアになることを誓った。体力が続く限り、彼女はいつまでも続けるつもりだ。

初心と願力が李さんの熱意を支え、彼女は諦めることなく、努力し続けることができた。彼女は、自分のアロマテラピーの仕事を続けながら、資格取得試験の準備に取り掛かる一方、ボランティアも続けている。体力的に続かなくなった時、彼女はいつも初心を思い出す。「アロマテラピーボランティアになることが私の願いでした。もし私がやらなければ、患者にオイルの配合をするアロマテラピストがいなくなるので、どうしたらいいか分かりません。『まだ来ないのだろうかと、長い間待っていました』という声をたくさん聞きます。そうすると、直ぐに力が湧いてきます」。

李さんと三人のアロマテラピーボランティアは皆、五十歳を超えているので、若い人を増やすのが急務である。「私がいつまで続けられるかは答えられません。今は真面目に仕事をし、一人でも多く伝授して、一緒に続けられることを期待するしかありません。体力が続く限り、いくつになってもやり続けたいと思っています」と李さんが言った。

(慈済月刊六八六期より)

關鍵字

共善で苦を楽に変える

この世の苦の源は無明であり、
幸福と不幸は一考のわずかな差なのです
人の本性は純真であり、平等性智を持っています。
幸福を知って惜しんで共善すれば、
愛のエネルギーは結集し、苦が楽に変わって大愛が花開きます。

この世の苦の源は無明であり、幸福と不幸は一考のわずかな差なのです

人の本性は純真であり、平等性智を持っています。幸福を知って惜しんで共善すれば、愛のエネルギーは結集し、苦が楽に変わって大愛が花開きます。

この世の苦の源は無明であり、
幸福と不幸は一考のわずかな差なのです
人の本性は純真であり、平等性智を持っています。
幸福を知って惜しんで共善すれば、
愛のエネルギーは結集し、苦が楽に変わって大愛が花開きます。

この世の苦の源は無明であり、幸福と不幸は一考のわずかな差なのです

人の本性は純真であり、平等性智を持っています。幸福を知って惜しんで共善すれば、愛のエネルギーは結集し、苦が楽に変わって大愛が花開きます。

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