ドミニカで見た 教育という魔法の力

(撮影・ヤン・カルロス)

ドミニカのラ・ロマーナにある慈済小中学校で、教育という魔法の力を目の当たりにした。高い中退率に打ち負かされることなく、学校に戻って教鞭を執っている第一期の卒業生の姿があった。夜間成人クラスの母親と小中学校に通う子供が同時に卒業する姿は、現地ではよくあることだが、最も心を打たれる光景でもある。

今年の八月、私と報道カメラマンは、初めてカリブ海の島国であるドミニカ共和国を訪れた。私が想像していたのは、情熱に溢れ、自由を謳歌する国風だった。果てしない海岸線、延々と続くヤシの木、真っ白な砂浜に打ち寄せる青い波しぶきは、欧米の人々がよく思い描くバカンス天国の象徴である。

ドミニカの面積は四万八千平方キロメートルで、台湾の一・三倍の大きさだが、人口は台湾の半分しかない。台湾人にドミニカの話をすると、多くの人は野球で世界に知られた国で、少なからぬメジャーリーグ(MLB)選手の出身地だと答える。実際にメジャーリーグのチームが現地にベースを設立し、子どもから人材を発掘して、養成している。

野球はドミニカの国民的スポーツなので、首都のサントドミンゴには百余りの野球場がある。街でも数人の子供がバットとグローブ、野球ボールを持っているのをよく見かける。空き地であろうと、彼らにとっては心のスタジアムなのだ。低学年の子供にも瞬発力があり、その力強い投球や打撃に、私は立ち止まって見入ってしまった。

スポーツとはいえ、ドミニカの人は野球を「脱貧困への道」だと見なしている。この国では貧富の差が大きく、幼いうちから子供を野球チームに入れる親は少なくない。子供が外でぶらつき、暇を持て余すよりも、しっかり専門的なトレーニングをした方が良いと思っているからだ。また野球チームの監督も、あちらこちらでジュニア選手の発掘に奔走しては子供たちに食事と宿泊施設を提供し、練習に専念できるようにしている。

監督によれば、たとえ参加費が毎月三百ペソ(約六百円)であっても、多くの家庭はそれを支払う能力がないため、監督がリソースと補助金を探すほかないそうだ。割に合わない仕事のように聞こえるが、なぜこれほど多くの人が進んでやるのだろうか?子供にとってこれは出世のチャンスであり、監督も選手を通じて一躍有名になるかもしれないので、子供たちに賭けているのだ。

ただ有名になれる確率はあまりにも低い。代表として国際舞台に立てなかった一部の選手は、奨学金を申請して海外に留学するか、さもなければ、ドミニカに留まって監督になり、有望な選手を育てるしかない。ここからも分かるように、選手としての輝きを失った後は、「教育」だけが、貧困から抜け出る根本の道なのである。今回の取材で、教育が人の一生、一つの家庭から社会までも変えてしまうほど重要であるということを、強く実感した。

サントドミンゴの或る野球場で、子供たちが出番を待っていた。ここでは、野球が出世のチャンスなのである。(撮影・呂思萱)

スラム街のエコ教育センター

私たちはサントドミンゴのロスリオス地区へ取材に訪れたが、目に映ったのは連なって立ち並ぶブリキ屋根の家だった。地形に合わせて建てられ、立て込んでいて狭く、間隔はほとんど無いに等しい。ここで暮らしている人の多くは隣国ハイチからの不法移民である。

二〇二二年の豪雨によってロスリオスは洪水に見舞われ、水位は一階が水没する高さにまでなったこともあり、あらゆる家財道具が水に浸かった。水害の後、現地の慈済ボランティアが被災地の視察に行くと、排水溝はゴミで溢れていた。以前から、家庭の廃水、排泄物、廃棄衣類、時にはマットレスや家具なども、全て排水溝に捨てられていた。排水システム等の公共インフラが不足しているため、豪雨に見舞われれば、排水は間に合わず、住宅に押し寄せてくる。

ボランティアは先ず食糧バッグを配付し、同時に「エコで住まいを浄化するプロジェクト」を押し進め、現地の主婦たちに参加を呼びかけ、正しい概念を住民の脳に深く根付くようにした。この野外でのエコ教育授業は、一つの理念から始まり、現地の至る所に広がり、二年間をかけてコミュニティで成果を上げた。コスタリカ公立学校もこの活動に参加し、定期的に曜日を決めて資源回収を行い、エコ・コンテストなどを企画して慈済が提供した文房具やカバンを賞品とした。善い競争によって、子供が着実にエコ活動することを奨励した。これは早期の台湾のリサイクル活動で提唱するゴミを地面に置かない運動を思い起こさせ、このような歴史背景の下で推進してきたのである。

ロスリオス地区でもう一つ印象深かったことは、多くの若い母親が、一人で二、三人の子供の面倒を見ており、コミュニティ内は子供たちのはしゃぐ声でいっぱいだったことである。二十四歳のラファエリナさんは、十五歳で妊娠し、妊娠期間は学業に専念することができず休学し、三年後また二人の子供を次々に出産した。彼女と夫はあまりにも若かったため、子供の世話や生計の問題で意見が合わなくなり、最後は離婚で幕を閉じた。

ドミニカの教育制度は、小学校六年、中学校六年で、公立学校の学費は無償である。近年、政府は制服代を補助するようになり、就学率が上がると見込んでいたが、中退率は依然として高止まりしたままである。貧困と未成年の妊娠が未だにその主因で、子供は教育を受ける機会を犠牲にし、アルバイトをして、家計を助けている。

私がラフェエリナさんに、学校に戻って勉強したいかと尋ねると、彼女は「とてもそう思います。以前は文学と作文がとても好きでした。もしもう一度勉強できるチャンスがあるなら、知識を得られるので、子供を指導することができ、彼らの手本になれます」と答えた。

風災をきっかけに、慈済の足跡はドミニカ共和国に踏み入れた。ラ・ロマーナのゴミ山に住む子どもたちに、教育の光と未来への希望をもたらした。2017年9月13日、ボランティアたちはラ・ロマーナの慈済中学校を訪れ、学生たちに制服や文房具を配り、みんながもっと一生懸命に勉強できるよう励ました。

ロスリオス地区にあるコスタリカ公立学校はエコ教育を行っている。生徒は、登校する時にペットボトルを持っていき、回収・分類をしている。

人生の半ばで再び学業に戻る

サントドミンゴの東、約百キロ余りのところにあるラ・ロマーナ州を訪れ、私は四十八歳のフィオールさんと出会った。彼女は二度の結婚を経験し、四人の子供を育てた。妊娠期間中は休学し、やっと子供たちが成長したので自分の時間が持てるようになったため、再び学校に戻って学業を続けているのだった。

彼女の一番好きな科目は社会と自然科学で、知識は自分に新しい視野を持たせてくれると話してくれた。以前は彼女が子供たちに勉強を教えていたが、今は母親と娘が一緒に勉強し、学習している。現地ではよく見かけるが、心打たれる光景である。「教科書を再び手に取ることができてとても嬉しいです。勉強が私に何の影響ももたらしていないと言えば、嘘になります」。そこまで話した彼女は、これ以上涙を抑えることができなかった。

台湾に生まれた私たちにとって、義務教育を受けることはすでに当たり前だ。地球の向こう側では勉強することが手に入れ難い夢だなどとは、想像もできない。彼らがその夢を叶えるには、自分で努力するしかない。経済的困難を克服し、家庭環境の束縛から逃れ、さらに周囲の親戚や友人たちのサポートがあって初めて、一歩前進することができるのだ。

今年八月、フィオールさんはラ・ロマーナ慈済小中学校の成人クラスを卒業した。彼女は「結婚して子供ができると、すべての時間を家庭に捧げました。でも、教育は人生を逆転させる方法の一つだと今でも信じています」と述べた。卒業式の日、アカデミックガウンをまとった彼女は、卒業生として輝かしく自信に満ちていた。彼女は卒業式スピーチを任され、もし慈済学校の養成がなかったら、今の自分はいないと述べた。彼女のケースは、教育が人生を変えることの、最も良い実例である。

ラ・ロマーナ慈済小中学校の場所は、それ以前はゴミ捨て場だった。一九九八年ハリケーン・ジョージが現地を襲い、大きな災難に見舞われた。慈済ボランティアが被災地を視察した時、スラム街の多くの子供が大人と一緒にゴミを漁って食べ物を探していたのを見て、心が痛んだ。緊急支援を終えた後、ラ・ロマーナ慈済小中学校の設立を促し、二〇〇〇年に一期生の募集が始まった。

カリナさんはラ・ロマーナ慈済小中学校の第一期生で、コミュニティの変化をとても身近に感じていた。以前は遠くにある学校まで通わなければならなかったため、学校に行くことを止めた人もいたそうだ。「慈済の学校ができてから、子供たちは家の近くで勉強できるようになりました。学校がコミュニティセンターのような役割を果たし、子供たちは放課後も学校内にいる方が安全なので、保護者もとても安心しています。さらに慈済が長期的に制服や教材、文房具を提供してくれているので、保護者の経済的負担は大幅に軽減しました」。

カリナさんは、卒業後も努力して教員資格を取得し、二〇一一年に母校に戻ると臨時教師を担当し、二〇二二年、正式に教員免許を取得した。

「慈済が、教師と生徒は互いに助け合い、愛し合わなければならない、ということを教えてくれました。ほかにも、環境を大事にする概念などがありました。私はこれからも使命を果たし、ラ・ロマーナの子供たちが人生を逆転できるよう、サポートし続けて行きます」。

この二十日間の取材の旅を振り返ると、苦労は多かったが、ドミニカのボランティアたちに希望を感じた。ニュースが配信されると、その後には笑顔を見せてくれた。その笑顔は、努力の積み重ねがやっと目に見える形となって現れたという達成感だった。私の仕事も、慈済の現地における慈善志業を後押しする力になるのだ、と分かった。私は一種の使命感を感じ、どんなに疲れてもやりがいがある、と思った。

一九九八年のハリケーン・ジョージから今に至るまで、健康の問題で台湾に帰国して休養している中華系の人は少なくないが、過去二十五年にわたる彼らの貢献には価値がある。なぜなら現地ボランティアが育ち始めたからだ。慈善はラ・ロマーナで教育のみならず、女性と青年も慈善奉仕に投入し、一人暮らしや身障者のために、炊き出しプロジェクトを始め、ハイチ移民のために食糧バッグを配付するようになったのだ。

私はドミニカボランティアの情熱に感化された。それは一種の「善いことをする時、私一人が欠けてはいけない」という精神である。私も彼らに、「他人のために奉仕できる人は、福がある人」という上人の言葉を分かち合った。このように慈善の種が芽を出したことを目の当たりにしたので、数年後にはきっと森林に成長していると信じている。

(慈済月刊六九五期より)

慈済ドミニカ連絡所二十五周年を迎えて

咲き乱れる清らかな蓮を見て嬉しく思う

慈済ドミニカ連絡所二十五周年を迎えて—咲き乱れる清らかな蓮を見て嬉しく思う

一九九八年十一月、アメリカ慈済ボランティアの林慮瑢(リン・リュロン)さんが、チームと共にハリケーン・ジョージで被災したドミニカ共和国へ災害視察に向かった。そして、十二月に激甚被災地のポロとラ・ロマーナで千世帯に食糧を配付した。一九九九年二月、慈済のカリブ海地域初の拠点である、ドミニカ連絡所が設立された。二〇〇〇年、ラ・ロマーナ慈済小中学校が設立され、その十年後、夜間及び土曜日の成人クラスが開設され、識字率が上昇した。成人クラスでは「八年生国家検定試験」に合格した学生もいた。

二十五年間、現地の台商(台湾の企業家など)と華僑系の人が志業の推進を担い、林さんと夫の陳濟弘(チェン・ジーホン)さんも慈済学校の支援を続けてきた。今までに千人以上の卒業生が巣立ち、社会で奉仕している。ドミニカ連絡所の初代責任者である蔡慈力(ツァィ・ツーリー)さんは、現地で認証を授かったボランティアのうちで慈済学校の卒業生と生徒の親が占める割合は少なくない、と胸をなでおろしながら言った。

政府は、以前貧しい人が生計を立てていたゴミ山を平地にして、大規模なコミュニティを築いた。評判を聞いて人口が増え続けたので、元の慈済学校を五百人の中学生用とし、政府が八百人の小学生が通える新しい校舎を新設し、今年中には使用が始まる予定である。校内は、ホウオウボク(鳳凰木)の枝が伸びて葉が生い茂り、当時の「ゴミだらけだった土地を清らかな蓮の花でいっぱいにする」という願いは、既に開花し、実を結んだのだ。(編集部整理)

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