生命の心にわだかまりができると、直線が曲線になる。
心の扉を開け放てば、世界は広くなる。
広い大道を真っ直ぐに進めばいい
八月三十日、上人は年配の慈済人たちと歓談した。
「まだ凡夫の皆さんが仏に学ぶのは、凡夫の無明の煩悩を取り除いて悟りを開くためです。しかし、どのようにして学び、何を学べば良いのでしょうか?それには仏法を学び、菩薩道を歩むことです。この道は広くて真っ直ぐな大道です。純粋な心で仏法を学ぶのであれば、その方向に従って、その道を真っ直ぐ進めばいいのです。直線を曲線にしてはいけません。
仏陀は三界を火宅と比喩しており、凡夫は欲念によって様々な煩悩を引き起こします。欲界と色界、無色界を合わせた三界とは、火事になった大邸宅のようなものだと喩えています。上人は、「地球の至る所に凡夫の欲念が溢れ、ひどい環境汚染を引き起こしています。そして、人同士のいがみ合いによって、この世は不穏になっています。人が多く集まる分だけいがみ合いも雑多になり、お互いの間に「わだかまり」ができます。人と人のいがみ合いを解くには、先ず自分の心のわだかまりを解くことです」と言いました。
また、静思人文社が毎年出版している四冊の『衲履足跡』(春、夏、秋、冬)は、師に随行している常住尼僧たちが法師の日々の開示や訪問客との談話を記録したものです。最も早期のものは『齋後錄』で、朝食後、大衆に対して話したことをまとめたものです。その後、徳宣(ドーシュエン)師父が記録した随行の見聞が『随師行記』となって出版され、その後に『衲履足跡』になりました。即ち日記であり、毎日の人とのやり取りと出来事です。
「『衲履足跡』が私の足跡の記録だとしたら、精舎しかなかった頃から始まります。花蓮の狭い範囲で行動していましたが、やがて台湾全土に出かけるようになりました。初期の文章は少なく、内容も豊富ではありませんでしたが、当時の来客や話をした相手は皆、慈済の歴史の始まりの一部であり、その内容は各県や市、地域で行われた慈済の事柄です。慈済人はいつも、師匠である私がしたいことを彼らが代わりに行うのだ、と言います。後に慈済人が増えるにつれ、慈済の志業も増え、その範囲も広くなり、紐のように益々長くなりました。そして、時間の流れと共に、関連する人も事も多くなったため、緩んでしまうのは避けられません。それを急に力いっぱい引っ張ると、その紐は切れてしまうかもしれません。ですから、あらゆる段階ではっきり理解してから引っ張り上げ、そこで事の源から終わりまでの障害をなくすのです」。
上人はこう言いました。「各国の慈済志業は全て単純な一念と真心から始まりました。世界各国との紐も益々長くなり、元来は単純な一直線だったのが、人々の考え方や習慣が違うために摩擦が起き、その紐は曲がりくねったものになったのです。その時に紐を引っ張れば、絡まってしまいます」。
「慈済人と慈済の事、人も事も全て私と関係があるのですから、どうして心配しないでいられるでしょうか。誰かと誰かが合わないと聞くと、憂いは増えるのです。お互いに縁があるのですから、お互いに成就させるべきです。皆、若くないのですから、『ここで私を必要としなくても、他に行くところはある』などと頑固になってはいけません。ここは皆さんが一歩一歩基礎を作りあげたもので、場所も種も揃っています。さもなければ森に成長していません。大木は小木が寄り添い、地面は草が土壌の流出を防いでくれています。人は社会でお互いに頼り、愛し合わなければいけません。もし、本当にわだかまりがあるのであれば、早くそれを解きほぐしてください」。
「人にはそれぞれの考え方があり、口に出さなければ、他の人は知ることができませんし、もし話し合わなければ、人も事も円満に解決できません。人の世はとかく複雑で、それは心に由来しているため、『広い心と純粋な思い』と『善に解釈し、度量を大きくする』ことを学ばなければいけません」。
「皆さんが私を愛しているのなら、私を護り、喜ばせるべきであり、心を一つに和気藹々として協力し合うべきです。私が最も心配しているのは、いつか私がいなくなった時、慈済の志業が止まってしまうのではないか、ということです。苦難にある人にとって、慈済はなくてはならないのです」。
「『衲履足跡』のどこを見ても、仏陀の講釈は出てきません。しかし、その大覚者の因縁によって、私は仏門に入り、仏門がこの慈済という扉を開けてくれたのです」。上人は、静思法脈が途絶えることなく、宗門が永遠に開かれ、永久に人間(じんかん)を利することを期待しています。この目標を達成するには、各自が心を開け放つ必要があります。さもなければ、大勢の人を受け入れることはできません。善に解釈すること、心の度量を大きくすることを学んで、心を正しい方向に調整するのです。自分を小さくすれば、生命の世界は開けます。
(慈済月刊六九五期より)