賢く菜食する方法 栄養士が重点指導

  • 植物性飲食は、炭素の排出を削減する上に健康的であり、慢性疾患リスクを下げる。
  • 菜食だからお腹が空きやすいわけではなく、正確な比率で食事を摂ることポイント。
  • 211プレートは覚えやすい。半分が野菜と果物、後の半分がタンパク質とデンプン。
  • 年齢が異なれば、栄養補給の重点も異なってくる。

陳婷鈺(台湾菜食栄養学会執行部長)

現在、世界中でサステナビリティとESG或いはSDGsの発展が推進され、各国が飲食面での炭素排出削減に努力しているが、台湾では、外食が多いため、一人当りの年間肉類消費量が八十七キロに達し、飲食面での炭素排出量は依然としてとても高い。そこで、多くの民間団体が菜食の推進に努め、菜食で食生活における炭素排出量を削減しようとしている。

植物性飲食は栄養が高く、カロリーが低いという特徴があり、消化が速くて体内に長く留まらないのも良いことである。しかし、菜食すれば、お腹が空き易くなるのではないだろうか?その可能性はあるが、ポイントはコツをつかんでいるかどうかだと思う。

最近よく見られる菜食の問題としては、野菜と果物の摂取量が足りず、タンパク質も不足しているが、ご飯やめん類のような精製デンプンを食べすぎていることである。たとえば台湾のお弁当容器にはおかずを載せるスペースが三つに仕切られているが、ご飯と比べると、その比率は少なすぎる。そして、豆類、大豆製品の摂取も足りていないので、確かに空腹になりやすい。

「211プレート」は、菜食を始めて間もない人が、健康的な食事をする手っ取り早い方法である。まずプレートのスペースを二等分し、半分に野菜と果物を載せ、野菜を果物より多くする。というのは、ベジタリアンは鉄とカルシウムが不足しやすいので、深緑色の野菜をベースにすることで、少しでもそれらを多く摂取することができる。たとえばカラシ菜、ヒユナ、水前寺菜などである。白菜は深緑の野菜ではないが、カルシウムの含有量が高い。他に、パプリカ、トマト、ナスを飾りにすればよい。

プレートのもう半分には、タンパク質と主食を載せる。比率は1対1。タンパク質の摂取源は原型豆類が好ましい。もしビュッフェで食事をする場合、油脂分の少ない木綿豆腐や煮込み臭豆腐、豆類を勧める。油揚げの類はなるべく取らないようにする。油揚げは油で揚げた物が多いからだ。最後に、プレートの四分の一は主食類だが、玄米、五穀ご飯は滿腹感があって長持ちするからお勧めだ。さつまいもやカボチャなどの根菜類も主食の代わりになる。

活動量の多い子供には、速やかなエネルギー補給のために、精製されたデンプンを加えてもよい。子供が玄米の食感に慣れるよう幼い頃から、玄米と白米を半分ずつ混ぜて炊くことを勧めたい。

高齢者の場合は、サルコペニアを防ぐために、タンパク質の摂取が大変重要になる。多くの高齡者は食欲がなく、タンパク質不足になり、筋肉が急速に失われる。一般的に、一日に必要なタンパク質のグラム数は、だいたい体重(キロ)かける一・二で計算すればよい。そこで、私たちは植物性タンパク質パウダーを水で溶かしたものを高齡者に推奨している。濃度が高く、体積が小さいので、効率的に摂取できるのだ。

高齢者の健康には、もう一つ問題がある。それは、骨粗鬆症である。骨密度のピークは三十歳前後で、その後は低下し始める。そして、女性は更年期を過ぎると、骨質流失は男性より深刻になる。そこで、食生活では特にタンパク質、カルシウム、ビタミンD及びB12の摂取に気をつける必要がある。しかし、筋肉量の増加と骨密度を維持するには、飲食に頼るだけでなく、運動も必要だ。高齢者の中にはジムに通って適切な筋トレをしているが、これはいい方法である。

多くの研究によると、肉類の摂取量が多い人たちは普通、肥滿になりやすく、慢性疾患にかかる比率が高い。例えば、赤身の肉は第二級発癌性物質で、ヘムに含まれる鉄分が多過ぎて、インスリン抵抗性が起きやすく、健康に良くないのだ。

この面で、菜食と健康に関した研究で、数多くの実証があるが、社会と大衆を利するには、私たちの研究よりも自発的に行動する方が有効的だと思う。たとえば、慈済ボランティアが催した「健康への挑戦・二十一日」という活動のように、飲食を提供してくれる業者、栄養師、医師、参加者が一緒になって、全植物性飲食をしてもらうことによる変化を実証している。私も菜食を推進するには、本当に心の底から、そうしたいと思い、地域の人々も喜んで参加して初めて、達成できるのだと思う。栄養師と医師は栄養に関する知識上の協力はできるが、実際に活動をして推進する力の方が重要だ。

(慈済月刊七〇六期より)

「健康への挑戦・21日」の食事内容は全て、新鮮な食材を丸ごと使うので、脂っこくなく、過度な調理も施されず、様々な色のものが入っていて、食べ終わっても、胃にもたれるようなことは全くなかった。(撮影・洪徳謙)

  • 植物性飲食は、炭素の排出を削減する上に健康的であり、慢性疾患リスクを下げる。
  • 菜食だからお腹が空きやすいわけではなく、正確な比率で食事を摂ることポイント。
  • 211プレートは覚えやすい。半分が野菜と果物、後の半分がタンパク質とデンプン。
  • 年齢が異なれば、栄養補給の重点も異なってくる。

陳婷鈺(台湾菜食栄養学会執行部長)

現在、世界中でサステナビリティとESG或いはSDGsの発展が推進され、各国が飲食面での炭素排出削減に努力しているが、台湾では、外食が多いため、一人当りの年間肉類消費量が八十七キロに達し、飲食面での炭素排出量は依然としてとても高い。そこで、多くの民間団体が菜食の推進に努め、菜食で食生活における炭素排出量を削減しようとしている。

植物性飲食は栄養が高く、カロリーが低いという特徴があり、消化が速くて体内に長く留まらないのも良いことである。しかし、菜食すれば、お腹が空き易くなるのではないだろうか?その可能性はあるが、ポイントはコツをつかんでいるかどうかだと思う。

最近よく見られる菜食の問題としては、野菜と果物の摂取量が足りず、タンパク質も不足しているが、ご飯やめん類のような精製デンプンを食べすぎていることである。たとえば台湾のお弁当容器にはおかずを載せるスペースが三つに仕切られているが、ご飯と比べると、その比率は少なすぎる。そして、豆類、大豆製品の摂取も足りていないので、確かに空腹になりやすい。

「211プレート」は、菜食を始めて間もない人が、健康的な食事をする手っ取り早い方法である。まずプレートのスペースを二等分し、半分に野菜と果物を載せ、野菜を果物より多くする。というのは、ベジタリアンは鉄とカルシウムが不足しやすいので、深緑色の野菜をベースにすることで、少しでもそれらを多く摂取することができる。たとえばカラシ菜、ヒユナ、水前寺菜などである。白菜は深緑の野菜ではないが、カルシウムの含有量が高い。他に、パプリカ、トマト、ナスを飾りにすればよい。

プレートのもう半分には、タンパク質と主食を載せる。比率は1対1。タンパク質の摂取源は原型豆類が好ましい。もしビュッフェで食事をする場合、油脂分の少ない木綿豆腐や煮込み臭豆腐、豆類を勧める。油揚げの類はなるべく取らないようにする。油揚げは油で揚げた物が多いからだ。最後に、プレートの四分の一は主食類だが、玄米、五穀ご飯は滿腹感があって長持ちするからお勧めだ。さつまいもやカボチャなどの根菜類も主食の代わりになる。

活動量の多い子供には、速やかなエネルギー補給のために、精製されたデンプンを加えてもよい。子供が玄米の食感に慣れるよう幼い頃から、玄米と白米を半分ずつ混ぜて炊くことを勧めたい。

高齢者の場合は、サルコペニアを防ぐために、タンパク質の摂取が大変重要になる。多くの高齡者は食欲がなく、タンパク質不足になり、筋肉が急速に失われる。一般的に、一日に必要なタンパク質のグラム数は、だいたい体重(キロ)かける一・二で計算すればよい。そこで、私たちは植物性タンパク質パウダーを水で溶かしたものを高齡者に推奨している。濃度が高く、体積が小さいので、効率的に摂取できるのだ。

高齢者の健康には、もう一つ問題がある。それは、骨粗鬆症である。骨密度のピークは三十歳前後で、その後は低下し始める。そして、女性は更年期を過ぎると、骨質流失は男性より深刻になる。そこで、食生活では特にタンパク質、カルシウム、ビタミンD及びB12の摂取に気をつける必要がある。しかし、筋肉量の増加と骨密度を維持するには、飲食に頼るだけでなく、運動も必要だ。高齢者の中にはジムに通って適切な筋トレをしているが、これはいい方法である。

多くの研究によると、肉類の摂取量が多い人たちは普通、肥滿になりやすく、慢性疾患にかかる比率が高い。例えば、赤身の肉は第二級発癌性物質で、ヘムに含まれる鉄分が多過ぎて、インスリン抵抗性が起きやすく、健康に良くないのだ。

この面で、菜食と健康に関した研究で、数多くの実証があるが、社会と大衆を利するには、私たちの研究よりも自発的に行動する方が有効的だと思う。たとえば、慈済ボランティアが催した「健康への挑戦・二十一日」という活動のように、飲食を提供してくれる業者、栄養師、医師、参加者が一緒になって、全植物性飲食をしてもらうことによる変化を実証している。私も菜食を推進するには、本当に心の底から、そうしたいと思い、地域の人々も喜んで参加して初めて、達成できるのだと思う。栄養師と医師は栄養に関する知識上の協力はできるが、実際に活動をして推進する力の方が重要だ。

(慈済月刊七〇六期より)

「健康への挑戦・21日」の食事内容は全て、新鮮な食材を丸ごと使うので、脂っこくなく、過度な調理も施されず、様々な色のものが入っていて、食べ終わっても、胃にもたれるようなことは全くなかった。(撮影・洪徳謙)

關鍵字

阮義忠|《印順導師與證嚴法師》攝影展

印順導師與證嚴上人二○○二年一月於臺中華雨精舍。

印順導師與證嚴法師之間的師徒情誼深厚,
既是思想啟蒙,也是行動導引。

懷著摯誠的敬意,
我將攝影紀錄組成《印順導師與證嚴法師》展覽,
將所見證的兩位偉人師徒之情,
呈現於更多社會大眾之前。

印順導師與證嚴法師之間的師徒情誼深厚,既是思想啟蒙,也是行動導引。

懷著摯誠的敬意,我將攝影紀錄組成《印順導師與證嚴法師》展覽,將所見證的兩位偉人師徒之情,呈現於更多社會大眾之前。

時間飛快,「人間佛教」引航者印順導師已圓寂二十年了。記得九二一大地震二十周年時,我寫過一篇文章「人生的轉捩點,創作的分水嶺」,開頭是這麼寫的:

「人生道路渺不可測,走到十字路口,一個前行或轉彎的念頭,往往就決定了大半輩子的命運。藝術創作者在風格上的追求也是如此;牽一髮而動全身,有的人總在求新求變,有的人則能堅持信念,守之不動。」在九二一地震發生之前,我的攝影全是以臺灣平凡老百姓的日常生活為主軸。平凡的事常被忽略,但平凡人的尊嚴、平凡人的可貴特質必須有人準確地捕捉、有力地傳達。

「發現與肯定」是我的攝影哲學;攝影不只是記錄,還要透過構圖、光線、快門瞬間的選擇,把表象下的內在意義彰顯出來。攝影也不只是按快門,而是將時間與空間的交叉點化剎那為永恆。當我將慈濟在九二一震災後所援建的五十所「希望工程」學校,從廢墟到重建,有學生從新學校畢業的全紀錄圓滿之後,本想繼續專注於教職以及出版事業,沒想到卻被證嚴法師留下來。我與老伴袁瑤瑤除了成為固定隨師行腳人員,也攜手為慈濟資深志工作傳,她寫文章我拍照,完成一系列《看見菩薩身影》叢書。

更有福報的是,在隨法師行腳的十五年期間,記錄到他與印順導師師徒之間的互動。這樣的機遇,可不是一般攝影工作者能夠幸運獲得的。導師被譽為二十世紀漢傳佛教最重要的思想家,奠定了臺灣佛教現代化的理論基礎。生平著作七百餘萬字,代表作包括《成佛之道》、《佛法概論》、《印度之佛教》、《中國之佛教》、《華雨集》等。《初期大乘佛教之起源與開展》為學術界公認的重要研究,對大乘佛教歷史分期與思想源流提出深具影響的見解。

導師推動漢傳佛教研究現代化、科學化,提倡「人間佛教」理念,認為佛法應落實於現實人生、社會關懷,而非僅止於死後解脫或神祕崇拜。他的思想對當代華人佛教改革產生深刻影響,培養出多位影響全球華人佛教的領袖與弘法者。

二○○二年上人行腳來到臺中,與導師端詳早年師徒合影。

二○二一年在花蓮靜思精舍,阮義忠敬呈上人《台灣民間影像史冊》經典攝影集。(照片提供/花蓮本會)

為佛教,為眾生

證嚴法師於一九六六年創立「佛教克難慈濟功德會」,將佛教精神轉化為具體社會服務,強調「佛法生活化、慈悲行動化」,以日常修行結合慈善工作,落實「佛法在人間」的理念。法師提倡「竹筒歲月」精神,強調微小力量匯聚成大愛,並透過「靜思語」廣為弘法,用簡明語句啟發人心。慈濟將佛教從寺院擴展至全球人道與公益領域,形成慈善跨國網絡,國際賑災足跡遍及全球超過一百三十餘個國家地區,包括海嘯、地震、戰爭與饑荒救援,為佛教樹立了「以行動證佛法」的國際典範。

印順導師於二○○五年六月四日以百歲嵩壽圓寂。慈濟人文志業於一個多月後出版紀念專書《禮敬‧追思人間佛教導航師——印順導師》。證嚴法師在〈我思‧我師‧人間導師〉一文中,對師徒之間的獨特因緣,有令人深刻的描述:

和導師的因緣,說來不可思議。四十多年前,父親因為腦溢血突然往生,給我很大的打擊,好幾天哭不出來,心都空了。父親往生後很快就下葬,入土那一刻我想著:父親去了哪裏?誰跟他作伴?世間怎麼會如此無常?人生的價值又是什麼?對人生產生很大的困惑。

為了探究人生種種,我慢慢走入佛法,也離開了家庭,二十五歲在花蓮許聰敏居士家自行落髮。一九六三年,為了受戒,我來到臺北。進了戒場,卻因為沒有皈依師父,資格不符,不能受戒。我準備離開時,幾位法師知道了,覺得可惜,告訴我可以當場擇師皈依。但我認為師父是精神導師、慧命的依止,一定要慎重,我寧可先不受戒,慢慢找。

由於當時我學佛的工具只有《法華經》,想請一部《太虛大師全書》帶回花蓮好好研讀。回到我前一晚借住的臺北菩提講堂,慧音法師知道我要請書,告訴我慧日講堂有,於是帶我去。

到了講堂,慧音法師說:「我們的導師正好在講堂中,要不要見一面?」我說那很好啊。在那之前,我只看過導師的《佛法概論》,但印象很深。歡喜來到導師的會客室,頂禮之後,慧音法師跟導師說:「他原本來受戒的,但現在要回去了。」「還沒有受戒,怎麼要回去呢?」「因為他還沒有師父。」

簡短的回答後,我們就出來了。書打包好,正要離開時,卻下起大雨;監院印海法師讓我們稍等一下,他去叫車來載這些書。在門口等待的時候,我看到導師剛好從方丈室出來,於是問慧音法師:「我能不能皈依你們的導師?」他說,這是不可能的,導師現在很少收弟子。我請他去幫我說說看:「有緣的話,我就拜在導師座下;沒緣的話,我就回去了。」於是慧音法師上前去問導師,兩人說了一下話,導師就看看我,微微笑、點個頭,讓我過去。

那時近中午十二點,導師說:「戒場快關閉了,你就在佛前磕頭吧!」我趕緊禮佛,然後向導師頂禮。導師說:「你我因緣特殊,既然要出家,就要發心『為佛教,為眾生』。我給你法號,你快去吧!」

領了導師給的法號,當下我立下心願:「我這一生,一定要『為佛教,為眾生』。」

三年後,我成立佛教克難慈濟功德會。在人間,不做事便罷,真正有心要做事,不免困難重重;但一路走來四十多年,無論碰到如何艱鉅的難關,我心裏都會浮現這六個字。

印順導師與證嚴法師之間的師徒情誼深厚,既是思想啟蒙,也是行動導引,對臺灣佛教發展影響深遠。印順導師贈予的「為佛教,為眾生」六字箴言,證嚴法師終生奉行,並將其作為慈濟精神核心。

回望二十年來,導師雖遠離塵世,卻從未離開我們的心。懷著摯誠的緬懷與敬意,我將當年的攝影紀錄組成《印順導師與證嚴法師》展覽,於二○二五年十月在台灣故事館推出,期望將我所見證的兩位偉人的師徒之情,呈現於更多社會大眾之前。

阮義忠台灣故事館中一幀幀影像,傳達印順導師與證嚴法師互動的師徒之情。(攝影/黃筱哲)

印順導師與證嚴上人二○○二年一月於臺中華雨精舍。

印順導師與證嚴法師之間的師徒情誼深厚,
既是思想啟蒙,也是行動導引。

懷著摯誠的敬意,
我將攝影紀錄組成《印順導師與證嚴法師》展覽,
將所見證的兩位偉人師徒之情,
呈現於更多社會大眾之前。

印順導師與證嚴法師之間的師徒情誼深厚,既是思想啟蒙,也是行動導引。

懷著摯誠的敬意,我將攝影紀錄組成《印順導師與證嚴法師》展覽,將所見證的兩位偉人師徒之情,呈現於更多社會大眾之前。

時間飛快,「人間佛教」引航者印順導師已圓寂二十年了。記得九二一大地震二十周年時,我寫過一篇文章「人生的轉捩點,創作的分水嶺」,開頭是這麼寫的:

「人生道路渺不可測,走到十字路口,一個前行或轉彎的念頭,往往就決定了大半輩子的命運。藝術創作者在風格上的追求也是如此;牽一髮而動全身,有的人總在求新求變,有的人則能堅持信念,守之不動。」在九二一地震發生之前,我的攝影全是以臺灣平凡老百姓的日常生活為主軸。平凡的事常被忽略,但平凡人的尊嚴、平凡人的可貴特質必須有人準確地捕捉、有力地傳達。

「發現與肯定」是我的攝影哲學;攝影不只是記錄,還要透過構圖、光線、快門瞬間的選擇,把表象下的內在意義彰顯出來。攝影也不只是按快門,而是將時間與空間的交叉點化剎那為永恆。當我將慈濟在九二一震災後所援建的五十所「希望工程」學校,從廢墟到重建,有學生從新學校畢業的全紀錄圓滿之後,本想繼續專注於教職以及出版事業,沒想到卻被證嚴法師留下來。我與老伴袁瑤瑤除了成為固定隨師行腳人員,也攜手為慈濟資深志工作傳,她寫文章我拍照,完成一系列《看見菩薩身影》叢書。

更有福報的是,在隨法師行腳的十五年期間,記錄到他與印順導師師徒之間的互動。這樣的機遇,可不是一般攝影工作者能夠幸運獲得的。導師被譽為二十世紀漢傳佛教最重要的思想家,奠定了臺灣佛教現代化的理論基礎。生平著作七百餘萬字,代表作包括《成佛之道》、《佛法概論》、《印度之佛教》、《中國之佛教》、《華雨集》等。《初期大乘佛教之起源與開展》為學術界公認的重要研究,對大乘佛教歷史分期與思想源流提出深具影響的見解。

導師推動漢傳佛教研究現代化、科學化,提倡「人間佛教」理念,認為佛法應落實於現實人生、社會關懷,而非僅止於死後解脫或神祕崇拜。他的思想對當代華人佛教改革產生深刻影響,培養出多位影響全球華人佛教的領袖與弘法者。

二○○二年上人行腳來到臺中,與導師端詳早年師徒合影。

二○二一年在花蓮靜思精舍,阮義忠敬呈上人《台灣民間影像史冊》經典攝影集。(照片提供/花蓮本會)

為佛教,為眾生

證嚴法師於一九六六年創立「佛教克難慈濟功德會」,將佛教精神轉化為具體社會服務,強調「佛法生活化、慈悲行動化」,以日常修行結合慈善工作,落實「佛法在人間」的理念。法師提倡「竹筒歲月」精神,強調微小力量匯聚成大愛,並透過「靜思語」廣為弘法,用簡明語句啟發人心。慈濟將佛教從寺院擴展至全球人道與公益領域,形成慈善跨國網絡,國際賑災足跡遍及全球超過一百三十餘個國家地區,包括海嘯、地震、戰爭與饑荒救援,為佛教樹立了「以行動證佛法」的國際典範。

印順導師於二○○五年六月四日以百歲嵩壽圓寂。慈濟人文志業於一個多月後出版紀念專書《禮敬‧追思人間佛教導航師——印順導師》。證嚴法師在〈我思‧我師‧人間導師〉一文中,對師徒之間的獨特因緣,有令人深刻的描述:

和導師的因緣,說來不可思議。四十多年前,父親因為腦溢血突然往生,給我很大的打擊,好幾天哭不出來,心都空了。父親往生後很快就下葬,入土那一刻我想著:父親去了哪裏?誰跟他作伴?世間怎麼會如此無常?人生的價值又是什麼?對人生產生很大的困惑。

為了探究人生種種,我慢慢走入佛法,也離開了家庭,二十五歲在花蓮許聰敏居士家自行落髮。一九六三年,為了受戒,我來到臺北。進了戒場,卻因為沒有皈依師父,資格不符,不能受戒。我準備離開時,幾位法師知道了,覺得可惜,告訴我可以當場擇師皈依。但我認為師父是精神導師、慧命的依止,一定要慎重,我寧可先不受戒,慢慢找。

由於當時我學佛的工具只有《法華經》,想請一部《太虛大師全書》帶回花蓮好好研讀。回到我前一晚借住的臺北菩提講堂,慧音法師知道我要請書,告訴我慧日講堂有,於是帶我去。

到了講堂,慧音法師說:「我們的導師正好在講堂中,要不要見一面?」我說那很好啊。在那之前,我只看過導師的《佛法概論》,但印象很深。歡喜來到導師的會客室,頂禮之後,慧音法師跟導師說:「他原本來受戒的,但現在要回去了。」「還沒有受戒,怎麼要回去呢?」「因為他還沒有師父。」

簡短的回答後,我們就出來了。書打包好,正要離開時,卻下起大雨;監院印海法師讓我們稍等一下,他去叫車來載這些書。在門口等待的時候,我看到導師剛好從方丈室出來,於是問慧音法師:「我能不能皈依你們的導師?」他說,這是不可能的,導師現在很少收弟子。我請他去幫我說說看:「有緣的話,我就拜在導師座下;沒緣的話,我就回去了。」於是慧音法師上前去問導師,兩人說了一下話,導師就看看我,微微笑、點個頭,讓我過去。

那時近中午十二點,導師說:「戒場快關閉了,你就在佛前磕頭吧!」我趕緊禮佛,然後向導師頂禮。導師說:「你我因緣特殊,既然要出家,就要發心『為佛教,為眾生』。我給你法號,你快去吧!」

領了導師給的法號,當下我立下心願:「我這一生,一定要『為佛教,為眾生』。」

三年後,我成立佛教克難慈濟功德會。在人間,不做事便罷,真正有心要做事,不免困難重重;但一路走來四十多年,無論碰到如何艱鉅的難關,我心裏都會浮現這六個字。

印順導師與證嚴法師之間的師徒情誼深厚,既是思想啟蒙,也是行動導引,對臺灣佛教發展影響深遠。印順導師贈予的「為佛教,為眾生」六字箴言,證嚴法師終生奉行,並將其作為慈濟精神核心。

回望二十年來,導師雖遠離塵世,卻從未離開我們的心。懷著摯誠的緬懷與敬意,我將當年的攝影紀錄組成《印順導師與證嚴法師》展覽,於二○二五年十月在台灣故事館推出,期望將我所見證的兩位偉人的師徒之情,呈現於更多社會大眾之前。

阮義忠台灣故事館中一幀幀影像,傳達印順導師與證嚴法師互動的師徒之情。(攝影/黃筱哲)

散播美善散播愛

即使世間喧囂、衝突又灰暗,但總有人用溫暖行動點亮希望。當我們願意在生活中多一分感恩、少一分苛責,多一句關懷、少一聲抱怨,我們就成為愛與美善的種子。

在慈濟大學服務近二十年,身為慈濟志業的佛教學者,同時也是慈誠、委員,高度認同慈濟的佛教理念;然或和我的個性有關,常喜歡安靜獨處,猶似一些人文學者沉浸在個人的閱讀、思考和寫作中,有時會刻意與外界保持距離,希望學術研究不被其他事物分心或干擾,也因此實際參與志工活動的頻率並不高。

「慈濟人當知慈濟事」,長期以來我對慈濟的發展和動態仍一直保持關注,以一種靜態的方式參與慈濟、護持慈濟。例如我定期閱讀《慈濟》月刊等刊物,幾乎每天收看大愛電視《人間菩提》,也喜歡《行動現場》、《大愛全紀實》等節目,每每看到證嚴上人開示,以及慈濟志工在第一線救人、助人事蹟,內心常深受感動,同時也成為我「人間佛教」暨慈濟研究的素材。

這個世界每天都在喧囂吵鬧中運轉,媒體輿論充斥人與人間的猜忌與衝突,常讓人不免心感沉重。然就在這些灰暗的訊息中,總有人用溫暖行動點亮希望。

慈濟人文志業多年來即「散播美善散播愛」,記錄無數動人的人性光輝,讓人知道「美善」不是遙不可及的理想,而是藏在平凡生活裏的真切行動;「愛」不是口號,而是在別人需要時即時現身,傳遞最樸直的陪伴、關懷。

所幸我對慈濟的理解因著慈濟人文志業而開闊、深化。相對的,一些慈濟志工遵循著「做就對了」,投入服務的時間多,反未必有餘暇閱讀或觀賞優質的刊物或節目,或許有些可惜。我們當試著在實踐和閱覽中取得平衡,才能更全面、完整地領會慈濟的良善與美好。

淨化人心、祥和社會,不只是媒體的使命,也是每一個人的責任。當我們願意在生活中多一分感恩、少一分苛責,多一句關懷、少一聲抱怨,我們也成了愛與美善的種子。願每個人都能以自己的方式,把美善化為日常行動,把愛散播在世界的每一個角落,永無止息地生根發芽、開花結果。

即使世間喧囂、衝突又灰暗,但總有人用溫暖行動點亮希望。當我們願意在生活中多一分感恩、少一分苛責,多一句關懷、少一聲抱怨,我們就成為愛與美善的種子。

在慈濟大學服務近二十年,身為慈濟志業的佛教學者,同時也是慈誠、委員,高度認同慈濟的佛教理念;然或和我的個性有關,常喜歡安靜獨處,猶似一些人文學者沉浸在個人的閱讀、思考和寫作中,有時會刻意與外界保持距離,希望學術研究不被其他事物分心或干擾,也因此實際參與志工活動的頻率並不高。

「慈濟人當知慈濟事」,長期以來我對慈濟的發展和動態仍一直保持關注,以一種靜態的方式參與慈濟、護持慈濟。例如我定期閱讀《慈濟》月刊等刊物,幾乎每天收看大愛電視《人間菩提》,也喜歡《行動現場》、《大愛全紀實》等節目,每每看到證嚴上人開示,以及慈濟志工在第一線救人、助人事蹟,內心常深受感動,同時也成為我「人間佛教」暨慈濟研究的素材。

這個世界每天都在喧囂吵鬧中運轉,媒體輿論充斥人與人間的猜忌與衝突,常讓人不免心感沉重。然就在這些灰暗的訊息中,總有人用溫暖行動點亮希望。

慈濟人文志業多年來即「散播美善散播愛」,記錄無數動人的人性光輝,讓人知道「美善」不是遙不可及的理想,而是藏在平凡生活裏的真切行動;「愛」不是口號,而是在別人需要時即時現身,傳遞最樸直的陪伴、關懷。

所幸我對慈濟的理解因著慈濟人文志業而開闊、深化。相對的,一些慈濟志工遵循著「做就對了」,投入服務的時間多,反未必有餘暇閱讀或觀賞優質的刊物或節目,或許有些可惜。我們當試著在實踐和閱覽中取得平衡,才能更全面、完整地領會慈濟的良善與美好。

淨化人心、祥和社會,不只是媒體的使命,也是每一個人的責任。當我們願意在生活中多一分感恩、少一分苛責,多一句關懷、少一聲抱怨,我們也成了愛與美善的種子。願每個人都能以自己的方式,把美善化為日常行動,把愛散播在世界的每一個角落,永無止息地生根發芽、開花結果。

體力活  靜思精舍常住基本功

靜思精舍法師們扮演「袈裟超人」角色,苦受災戶之苦,成為鏟亮光復的生力軍。(攝影/詹進德)

靜思精舍自力「耕」生的訓練與底蘊,
師父們對粗重工作都有扎實基礎;
儘管使盡力氣,鏟起的淤泥只有一點點,
但點點滴滴都能成為受災戶恢復如常生活最厚實的能量。

靜思精舍自力「耕」生的訓練與底蘊,師父們對粗重工作都有扎實基礎;儘管使盡力氣,鏟起的淤泥只有一點點,但點點滴滴都能成為受災戶恢復如常生活最厚實的能量。

風災後第一時間,靜思精舍常住師父們開始動員―關懷受災的慈濟志工、進入災戶打掃,到鳳林靜思堂打包安心祝福禮、在瑞穗靜思堂幫忙製作便當,或是關懷罹難者家屬,緊接著在慰問金發放時傾聽災戶心聲,並增強他們重建家園的信心。

期間兩百零四人次參與救災,這些都是我們修行人的使命,也希望能為上人分憂。過程中,德寧師父扮演舉足輕重的角色,他負責與慈濟基金會同仁對接、調度人力、統籌交通等等,「這是一種責任,也是讓大家的付出有一個明確的方向。」

七十二歲的德如師父身為典範,九月二十六日帶領十二位師父前往清掃,他老當益壯,清起淤泥不落人後:「雖然很重,但大家可以輪替,清掃一下、休息一下,一定可以做得到的。」

災後第五天,我也加入清掃行列。前二天,精舍師父六點二十分出門,那一天改為五點四十分出發,陰錯陽差,我落單了,但不想錯失這付出的機會,積極詢問精舍執勤志工是否有人即將前往,還有下一車班時間;終於到了光復火車站,人生地不熟,非常緊張,感恩德宿師父與我保持聯繫,一路幫忙,八點多我終於與師父們會合。心想如此大費周折,我一定要盡全力清掃,才能不虛此行。

宿師父、榕師父、我及慈濟志工、青年志工、社會人士等十二位有緣成軍,責任範圍的是一家原住民服飾店,產品幾乎全沖走了,留下的則淹沒在日漸乾掉的泥濘中。好幾位年輕人承擔了推獨輪車的大任,讓我們的「鏟」出有了強力的後盾。

七十多歲的服飾店老闆娘餘悸猶存,她被大水追著跑,使盡力氣才跑到圖書館避難,「我來到光復五十多年,不曾遇到這麼嚴重的天災,所以大家都覺得應該不會發生。這次是不幸中的大幸,大家千萬不能再心存僥倖。」

精舍一甲子以來,「一日不作,一日不食」,自力「耕」生的訓練與底蘊,師父們對粗重工作都有扎實基礎,但很多人都說這次的爛泥「又細、又黏、又硬」,儘管使盡力氣,鏟起的只有一點點,但一鏟、一桶、一車、一推,點點滴滴都是力量,都是受災戶恢復如常生活最厚實的能量。

上人說:「人生最踏實的事,是今日有多少力量,就盡快付出。」花蓮是我慧命的故鄉,而光復鄉受災戶就是我的鄉親,如同我的家人;能為家人付出,我覺得很踏實與心安。一個人的力量可能微如螢火,但是「群」的力量,就能照亮光復的黑暗。

靜思精舍法師們扮演「袈裟超人」角色,苦受災戶之苦,成為鏟亮光復的生力軍。(攝影/詹進德)

靜思精舍自力「耕」生的訓練與底蘊,
師父們對粗重工作都有扎實基礎;
儘管使盡力氣,鏟起的淤泥只有一點點,
但點點滴滴都能成為受災戶恢復如常生活最厚實的能量。

靜思精舍自力「耕」生的訓練與底蘊,師父們對粗重工作都有扎實基礎;儘管使盡力氣,鏟起的淤泥只有一點點,但點點滴滴都能成為受災戶恢復如常生活最厚實的能量。

風災後第一時間,靜思精舍常住師父們開始動員―關懷受災的慈濟志工、進入災戶打掃,到鳳林靜思堂打包安心祝福禮、在瑞穗靜思堂幫忙製作便當,或是關懷罹難者家屬,緊接著在慰問金發放時傾聽災戶心聲,並增強他們重建家園的信心。

期間兩百零四人次參與救災,這些都是我們修行人的使命,也希望能為上人分憂。過程中,德寧師父扮演舉足輕重的角色,他負責與慈濟基金會同仁對接、調度人力、統籌交通等等,「這是一種責任,也是讓大家的付出有一個明確的方向。」

七十二歲的德如師父身為典範,九月二十六日帶領十二位師父前往清掃,他老當益壯,清起淤泥不落人後:「雖然很重,但大家可以輪替,清掃一下、休息一下,一定可以做得到的。」

災後第五天,我也加入清掃行列。前二天,精舍師父六點二十分出門,那一天改為五點四十分出發,陰錯陽差,我落單了,但不想錯失這付出的機會,積極詢問精舍執勤志工是否有人即將前往,還有下一車班時間;終於到了光復火車站,人生地不熟,非常緊張,感恩德宿師父與我保持聯繫,一路幫忙,八點多我終於與師父們會合。心想如此大費周折,我一定要盡全力清掃,才能不虛此行。

宿師父、榕師父、我及慈濟志工、青年志工、社會人士等十二位有緣成軍,責任範圍的是一家原住民服飾店,產品幾乎全沖走了,留下的則淹沒在日漸乾掉的泥濘中。好幾位年輕人承擔了推獨輪車的大任,讓我們的「鏟」出有了強力的後盾。

七十多歲的服飾店老闆娘餘悸猶存,她被大水追著跑,使盡力氣才跑到圖書館避難,「我來到光復五十多年,不曾遇到這麼嚴重的天災,所以大家都覺得應該不會發生。這次是不幸中的大幸,大家千萬不能再心存僥倖。」

精舍一甲子以來,「一日不作,一日不食」,自力「耕」生的訓練與底蘊,師父們對粗重工作都有扎實基礎,但很多人都說這次的爛泥「又細、又黏、又硬」,儘管使盡力氣,鏟起的只有一點點,但一鏟、一桶、一車、一推,點點滴滴都是力量,都是受災戶恢復如常生活最厚實的能量。

上人說:「人生最踏實的事,是今日有多少力量,就盡快付出。」花蓮是我慧命的故鄉,而光復鄉受災戶就是我的鄉親,如同我的家人;能為家人付出,我覺得很踏實與心安。一個人的力量可能微如螢火,但是「群」的力量,就能照亮光復的黑暗。

三日 不辛苦是幸福

9.3《農七月‧十二》

【靜思小語】志願實現,再疲累也感覺幸福;心甘情願,就沒有苦的感受。

護理的貼心之愛

聆聽花蓮慈濟醫院護理部團隊分享工作上與同仁、病患和家屬的溫馨互動,上人感恩醫護同仁細心照護病人,耐心膚慰傷病:「人生的苦以病苦為最,而且現在人口老化,老人偏多,老病衰弱更需要醫療照護。」

常聽訪客感嘆,即使自己的事業做得很好,但是子孫不想承接,不願接受長輩對他們的安排。新人類有新方向,讓現在這個時代更添變數,上人教導主管們要用情將同仁們的心與志向牽好,共同用心為人間付出。

「最初從五毛錢起步,將慈善、醫療、教育、人文四大志業一一建立完成,且普及在人間。能有這樣的成果,是因為人心和合,願力平齊,不會有高低拉扯,大家都是平等互愛,相互勉勵,讓志業平穩向前推進。」上人表示自己年紀大了,看著志業體同仁們,就如同家庭中的長輩看子孫後輩,一家人都很親和,讓大家長覺得很欣慰。

上人表示,醫護同仁升學時就選擇醫療為此後人生志願,立下志願要從事的工作,就是志業。既已立志,就要守志奉道,這也是此生生命價值所在;若覺得生命有價值,做事才能做得很歡喜、很輕鬆。

「師父每天自我盤點,都感到很歡喜;即使一路走來很辛苦,但是看到大家合和互協,造福人間,我更感到自己的生命很有價值,再怎樣辛苦都甘願,這樣的感受就是幸福。」上人說,慈濟人付出無所求,認真盡力地做慈濟事,做得汗流浹背,承受再大的身心壓力也不說辛苦,而是「幸福」─心甘情願,就沒有苦的感受,只有甘甜;就如良藥苦口,但是在苦味當中,也有藥草的甘味,若能嘗出甘甜的氣味就不苦。

上人勉勵大家共同為人間付出,不只為了慈濟志業,還要做出醫界、護理界的典範;要成為別人的典範,自己就要更加努力,不斷精進。「感恩醫師診治病人,加上護理同仁用愛照護病人,你們都不怕髒、不怕臭,輕柔地去幫病人照護身體。有的病人行動不方便,你們也不怕重,扶著、抱著他們起身。每一次看到大愛臺的畫面,可以感受到同仁真誠的貼心之愛,也貼住了我的心。」

慈濟的特殊語言

暑假即將結束,在新學年開始之前,慈濟大學為行政暨學術主管舉辦合心共識營,劉怡均校長領八十多位主管同仁返回精舍與上人座談。上人期許慈濟學校的每一位老師都能了解慈濟面對著人間的使命,就是度化眾生;教育的任務,就是承擔起人間大家庭的教化。

「慈濟將近六十年來,都在為社會人群付出,而且是應苦難人的需要而給予幫助。所以我盤點自己,總是感恩,感恩有這麼多人支持著我做慈濟。慈濟人都有充滿感恩的慈濟品質,能夠展現優雅,即使是在環保站做分類,做得全身流汗,也是滿心歡喜而不失優雅,這分歡喜是法喜。」

「若是因為有所求而有所得,只是浮於表面的歡喜,而法喜是無所求,所得無量。這就是慈濟人,做慈濟做得身體很疲憊,但若問他們是否累了?慰問他們的辛苦,他們都會回答:『不會累,我們很幸福!』慈濟人彼此之間也會用『幸福、美滿』相互問候與打氣。不說苦而說福,是慈濟人的特殊語言,也是表達大家願意付出,『甘願做,歡喜受』。」

上人表示,「甘願做,歡喜受」與「歡喜做,甘願受」的意義不同。歡喜做,不一定做對的事,倘若明知是不好的事,卻憑著自己高興而做,將來面對不好的結果,後悔也來不及,只好甘願承受。而有智慧的人做對的事,即使很辛苦也很甘願,成就人間善事以後,即感受到法喜。慈濟人共同往這個方向精進,要相互勉勵,也要相互鞭策,彼此都是好友知己,而且要用誠意相互接引,教導別人的同時也在學習,教學相長。

「菩薩遊戲人間,用這樣的心態,就不會對於不如意事耿耿於懷,沒有仇也沒有怨,不過我們要在人間遊戲,也要遊戲得很有成就,要讓心靈開闊。在天下的大家庭中,大家都是一家人,老者是我們的長輩,年紀差不多的是兄弟姊妹,幼小的學子們都是我們的孩子,疼他們、愛他們,也要教他們,『愛之深,教之切』,要適應其根機而用方便法引導。」

「為人師者,要當人人的老師,不是只在課堂上當學生的老師;人人都要彼此尊重,因為人人都是我師,人人也都是我的學生,要做好典範,讓人學習。這些愛的能量凝聚起來,就是慈濟特殊教育。」上人說,其實年幼孩子的純真言行也會啟發大人,有時大人也要向孩子學習,接受孩子的教育。例如馬來西亞慈濟人推素,許多家庭都是由孩子教育父母、影響阿公阿嬤茹素。學無止境,只要對人間有益,都要受教奉行。就如師父聽老師們的分享,覺得老師們說得很好,師父也是受教奉行,平時就要這樣相互勉勵。

上人表示,慈濟科技大學和慈濟大學兩校合併為「一」,其實是一加一,有雙倍的人力,要發揮雙倍的良師教育。期待團隊不負學生家長付託的使命,教好他們的子弟,更要為社會培育良才。「這就是我們的使命,作為如來使者,代替釋迦牟尼佛來人間教育眾生,為他們作典範,不分老少都要教育。」

《證嚴上人衲履足跡》,是「上人之日記」。

靜思精舍常住每日敬侍師側、記錄言行,經融會貫通於心,轉化為字字珠璣,由靜思人文彙整結集,每年四冊,依春、夏、秋、冬四季出版。

本專欄即精簡摘錄自《證嚴上人衲履足跡》,完整版本請關注每季最新出版品。

《二〇二五年【夏之卷】》
裝訂:精裝本
定價:400元

9.3《農七月‧十二》

【靜思小語】志願實現,再疲累也感覺幸福;心甘情願,就沒有苦的感受。

護理的貼心之愛

聆聽花蓮慈濟醫院護理部團隊分享工作上與同仁、病患和家屬的溫馨互動,上人感恩醫護同仁細心照護病人,耐心膚慰傷病:「人生的苦以病苦為最,而且現在人口老化,老人偏多,老病衰弱更需要醫療照護。」

常聽訪客感嘆,即使自己的事業做得很好,但是子孫不想承接,不願接受長輩對他們的安排。新人類有新方向,讓現在這個時代更添變數,上人教導主管們要用情將同仁們的心與志向牽好,共同用心為人間付出。

「最初從五毛錢起步,將慈善、醫療、教育、人文四大志業一一建立完成,且普及在人間。能有這樣的成果,是因為人心和合,願力平齊,不會有高低拉扯,大家都是平等互愛,相互勉勵,讓志業平穩向前推進。」上人表示自己年紀大了,看著志業體同仁們,就如同家庭中的長輩看子孫後輩,一家人都很親和,讓大家長覺得很欣慰。

上人表示,醫護同仁升學時就選擇醫療為此後人生志願,立下志願要從事的工作,就是志業。既已立志,就要守志奉道,這也是此生生命價值所在;若覺得生命有價值,做事才能做得很歡喜、很輕鬆。

「師父每天自我盤點,都感到很歡喜;即使一路走來很辛苦,但是看到大家合和互協,造福人間,我更感到自己的生命很有價值,再怎樣辛苦都甘願,這樣的感受就是幸福。」上人說,慈濟人付出無所求,認真盡力地做慈濟事,做得汗流浹背,承受再大的身心壓力也不說辛苦,而是「幸福」─心甘情願,就沒有苦的感受,只有甘甜;就如良藥苦口,但是在苦味當中,也有藥草的甘味,若能嘗出甘甜的氣味就不苦。

上人勉勵大家共同為人間付出,不只為了慈濟志業,還要做出醫界、護理界的典範;要成為別人的典範,自己就要更加努力,不斷精進。「感恩醫師診治病人,加上護理同仁用愛照護病人,你們都不怕髒、不怕臭,輕柔地去幫病人照護身體。有的病人行動不方便,你們也不怕重,扶著、抱著他們起身。每一次看到大愛臺的畫面,可以感受到同仁真誠的貼心之愛,也貼住了我的心。」

慈濟的特殊語言

暑假即將結束,在新學年開始之前,慈濟大學為行政暨學術主管舉辦合心共識營,劉怡均校長領八十多位主管同仁返回精舍與上人座談。上人期許慈濟學校的每一位老師都能了解慈濟面對著人間的使命,就是度化眾生;教育的任務,就是承擔起人間大家庭的教化。

「慈濟將近六十年來,都在為社會人群付出,而且是應苦難人的需要而給予幫助。所以我盤點自己,總是感恩,感恩有這麼多人支持著我做慈濟。慈濟人都有充滿感恩的慈濟品質,能夠展現優雅,即使是在環保站做分類,做得全身流汗,也是滿心歡喜而不失優雅,這分歡喜是法喜。」

「若是因為有所求而有所得,只是浮於表面的歡喜,而法喜是無所求,所得無量。這就是慈濟人,做慈濟做得身體很疲憊,但若問他們是否累了?慰問他們的辛苦,他們都會回答:『不會累,我們很幸福!』慈濟人彼此之間也會用『幸福、美滿』相互問候與打氣。不說苦而說福,是慈濟人的特殊語言,也是表達大家願意付出,『甘願做,歡喜受』。」

上人表示,「甘願做,歡喜受」與「歡喜做,甘願受」的意義不同。歡喜做,不一定做對的事,倘若明知是不好的事,卻憑著自己高興而做,將來面對不好的結果,後悔也來不及,只好甘願承受。而有智慧的人做對的事,即使很辛苦也很甘願,成就人間善事以後,即感受到法喜。慈濟人共同往這個方向精進,要相互勉勵,也要相互鞭策,彼此都是好友知己,而且要用誠意相互接引,教導別人的同時也在學習,教學相長。

「菩薩遊戲人間,用這樣的心態,就不會對於不如意事耿耿於懷,沒有仇也沒有怨,不過我們要在人間遊戲,也要遊戲得很有成就,要讓心靈開闊。在天下的大家庭中,大家都是一家人,老者是我們的長輩,年紀差不多的是兄弟姊妹,幼小的學子們都是我們的孩子,疼他們、愛他們,也要教他們,『愛之深,教之切』,要適應其根機而用方便法引導。」

「為人師者,要當人人的老師,不是只在課堂上當學生的老師;人人都要彼此尊重,因為人人都是我師,人人也都是我的學生,要做好典範,讓人學習。這些愛的能量凝聚起來,就是慈濟特殊教育。」上人說,其實年幼孩子的純真言行也會啟發大人,有時大人也要向孩子學習,接受孩子的教育。例如馬來西亞慈濟人推素,許多家庭都是由孩子教育父母、影響阿公阿嬤茹素。學無止境,只要對人間有益,都要受教奉行。就如師父聽老師們的分享,覺得老師們說得很好,師父也是受教奉行,平時就要這樣相互勉勵。

上人表示,慈濟科技大學和慈濟大學兩校合併為「一」,其實是一加一,有雙倍的人力,要發揮雙倍的良師教育。期待團隊不負學生家長付託的使命,教好他們的子弟,更要為社會培育良才。「這就是我們的使命,作為如來使者,代替釋迦牟尼佛來人間教育眾生,為他們作典範,不分老少都要教育。」

《證嚴上人衲履足跡》,是「上人之日記」。

靜思精舍常住每日敬侍師側、記錄言行,經融會貫通於心,轉化為字字珠璣,由靜思人文彙整結集,每年四冊,依春、夏、秋、冬四季出版。

本專欄即精簡摘錄自《證嚴上人衲履足跡》,完整版本請關注每季最新出版品。

《二〇二五年【夏之卷】》
裝訂:精裝本
定價:400元

南橫受創   關山慈院背藥入深山

吳勝騰副院長(左一)領軍,攜帶針劑藥品進入海端鄉部落。

背著藥品搭上海端鄉公所安排的小巴,
抵達下馬後再一路跋涉,越過風災後地基掏空處,
再由部落居民接送至霧鹿和利稻―
持續二十四年的醫療關懷,
關山慈濟醫院醫療團隊如期送到。

背著藥品搭上海端鄉公所安排的小巴,抵達下馬後再一路跋涉,越過風災後地基掏空處,再由部落居民接送至霧鹿和利稻―持續二十四年的醫療關懷,關山慈濟醫院醫療團隊如期送到。

每週兩天,進入南橫公路沿途的下馬、霧鹿、利稻等布農族聚落看診和送藥,是臺東關山慈濟醫院二十四年來固定的行程。今年九月二十二日,臺東被列為樺加沙颱風超大豪雨警戒區,翌日的巡迴醫療服務因之暫停;後續南橫公路部分地基被嚴重掏空,導致全線無法通行,原定二十六日的行程也無法進行。

山區網路及電力全斷,王愛倫與馬秀美護理師立即透過醫療系統查詢,發現有七位慢性病患者藥品即將用罄,立即回報潘永謙院長,請李宗晉醫師協助續開處方,並由海端鄉衛生所與消防隊支援,當天下午就以直升機和徒步方式將藥品送進部落。

儘管如此,同樣為霧鹿部落人的王愛倫還是很不放心。有些村民固定在診所或其他醫院拿慢性病用藥,院內系統無法查詢,「萬一他們斷藥了怎麼辦?」

關山慈濟醫院二○○一年九月承接「海端鄉醫療給付效益提升計畫」(Integrated Delivery System,簡稱IDS),提供鄉民緊急及重大疾病醫療照護。IDS醫療團隊九月二十六日商議,王愛倫和胡竹妗都有家庭醫學專科護理師資格,或可先徒步進入霧鹿與利稻部落駐點,幫病人進行生理評估,透過衛星電話請院內醫師開立藥物後,再送到部落。雖然路況不明,但兩位護理師都有一樣的心情:「如果病人有需要,我們就上山!」

九月二十七日週六清晨五點,天還未亮,王愛倫護理師背著重重的藥品和物資,與弟弟走回部落;七點抵達後,馬不停蹄了解居民的健康狀況和醫療需求,再帶著在部落錄製的病人影像趕下山,回到診間與吳勝騰副院長討論病情。

吳勝騰評估後,決定隔天早上帶著針劑及藥品親自上山,同行的包括王愛倫和黃馨儀醫檢師。他們搭上海端鄉公所安排的小巴,抵達下馬後再一路跋涉,越過地基掏空處,請王愛倫的家人開貨車接送至霧鹿和利稻。沿途山路陡峭,但他們不畏辛苦,當天共為十二位病人看診。

南橫道路陸續搶通,但路況依舊險峻,必須仰賴四輪傳動車輛才能進入,且仍有道路管制,增加巡迴醫療的挑戰性。九月三十日上午,關山慈濟醫院啟動IDS視訊診療,由王愛倫與胡竹妗在山區現場協助,委請花蓮慈濟醫院邱雲柯醫師在診間視訊看診開藥。

去年取得家庭專科護理師資格的王愛倫與胡竹妗,在此次山區居民面臨慢性病藥物短缺及健康風險中挺身而出,也實現當初選擇投入此專業工作的初心與使命。

慈濟援助大事記

🔎點圖放大)

吳勝騰副院長(左一)領軍,攜帶針劑藥品進入海端鄉部落。

背著藥品搭上海端鄉公所安排的小巴,
抵達下馬後再一路跋涉,越過風災後地基掏空處,
再由部落居民接送至霧鹿和利稻―
持續二十四年的醫療關懷,
關山慈濟醫院醫療團隊如期送到。

背著藥品搭上海端鄉公所安排的小巴,抵達下馬後再一路跋涉,越過風災後地基掏空處,再由部落居民接送至霧鹿和利稻―持續二十四年的醫療關懷,關山慈濟醫院醫療團隊如期送到。

每週兩天,進入南橫公路沿途的下馬、霧鹿、利稻等布農族聚落看診和送藥,是臺東關山慈濟醫院二十四年來固定的行程。今年九月二十二日,臺東被列為樺加沙颱風超大豪雨警戒區,翌日的巡迴醫療服務因之暫停;後續南橫公路部分地基被嚴重掏空,導致全線無法通行,原定二十六日的行程也無法進行。

山區網路及電力全斷,王愛倫與馬秀美護理師立即透過醫療系統查詢,發現有七位慢性病患者藥品即將用罄,立即回報潘永謙院長,請李宗晉醫師協助續開處方,並由海端鄉衛生所與消防隊支援,當天下午就以直升機和徒步方式將藥品送進部落。

儘管如此,同樣為霧鹿部落人的王愛倫還是很不放心。有些村民固定在診所或其他醫院拿慢性病用藥,院內系統無法查詢,「萬一他們斷藥了怎麼辦?」

關山慈濟醫院二○○一年九月承接「海端鄉醫療給付效益提升計畫」(Integrated Delivery System,簡稱IDS),提供鄉民緊急及重大疾病醫療照護。IDS醫療團隊九月二十六日商議,王愛倫和胡竹妗都有家庭醫學專科護理師資格,或可先徒步進入霧鹿與利稻部落駐點,幫病人進行生理評估,透過衛星電話請院內醫師開立藥物後,再送到部落。雖然路況不明,但兩位護理師都有一樣的心情:「如果病人有需要,我們就上山!」

九月二十七日週六清晨五點,天還未亮,王愛倫護理師背著重重的藥品和物資,與弟弟走回部落;七點抵達後,馬不停蹄了解居民的健康狀況和醫療需求,再帶著在部落錄製的病人影像趕下山,回到診間與吳勝騰副院長討論病情。

吳勝騰評估後,決定隔天早上帶著針劑及藥品親自上山,同行的包括王愛倫和黃馨儀醫檢師。他們搭上海端鄉公所安排的小巴,抵達下馬後再一路跋涉,越過地基掏空處,請王愛倫的家人開貨車接送至霧鹿和利稻。沿途山路陡峭,但他們不畏辛苦,當天共為十二位病人看診。

南橫道路陸續搶通,但路況依舊險峻,必須仰賴四輪傳動車輛才能進入,且仍有道路管制,增加巡迴醫療的挑戰性。九月三十日上午,關山慈濟醫院啟動IDS視訊診療,由王愛倫與胡竹妗在山區現場協助,委請花蓮慈濟醫院邱雲柯醫師在診間視訊看診開藥。

去年取得家庭專科護理師資格的王愛倫與胡竹妗,在此次山區居民面臨慢性病藥物短缺及健康風險中挺身而出,也實現當初選擇投入此專業工作的初心與使命。

慈濟援助大事記

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愛是一種雙向奔赴

高中生林洛頡(中)參與救災。(攝影/李彥緰)

居民沒有坐在泥水裏哀嘆,而是拿起工具並肩清理,
甚至把僅存的飲用水分給外地來的志工。
我感受到救災是一種雙向的力量―
居民的堅強支撐著現場的氣氛,也讓我們更有動力繼續付出。

居民沒有坐在泥水裏哀嘆,而是拿起工具並肩清理,甚至把僅存的飲用水分給外地來的志工。我感受到救災是一種雙向的力量―居民的堅強支撐著現場的氣氛,也讓我們更有動力繼續付出。

在災區的泥濘裏揮動鏟子這件事,老實說,我從沒想過會發生在自己身上。對我而言,假日通常是窩在家裏的時光—書桌、椅子、冷氣、再加上手機,這就是我最熟悉的生活範圍。要說體力?我並不算差,但與「能在烈日下長時間勞動」還有很遠的距離。也正因如此,當家教老師提起去光復幫忙時,我閃過的念頭是:「這應該不適合我!」

然而,命運常常不是靠我們自己安排的。那天,我原本計畫照常在家裏補眠兼看書,一個朋友突然傳訊息問我要不要一起去光復?他的語氣輕描淡寫,好像那是週末散步般自然。

我愣了很久,本想找個理由推掉。但就在回訊息的瞬間,不知道哪裏來的一股衝動—也許是善心大發,也許只是單純不想被朋友笑,我竟然回覆「好啊」。就這樣,我帶著半分忐忑、半分莫名的熱血,搭上了前往光復的列車。

進入災區,我才明白螢幕永遠無法傳遞真正受災的重量。道路兩旁的房子如同被撕裂的紙張,牆體殘破、家具散落,空氣裏瀰漫著泥水與潮溼混合的味道。那不是「震撼」兩個字可以形容的,而是一種壓在心頭的沉重。當下我突然覺得,自己的到來或許不只是「幫忙」,更像是一場必須面對的見證。

工作過程並不輕鬆。我的雙臂在幾十分鐘內就開始痠軟,鞋底也一次次被泥濘死死黏住,走一步都要費盡氣力。和旁邊那些志工比起來,我顯得笨拙又緩慢。但奇妙的是,沒有人因此皺眉或嫌棄,有人默默把比較重的部分接下來,有人則在旁邊提醒我該怎麼省力。大家之間沒有多餘的對話,卻有一種默契,好像我們早就是同一個團隊。

更讓我印象深刻的,是當地居民的身影。明明自己的家園早已毀損得不成樣子,卻沒有坐在瓦礫堆裏哀嘆,而是拿起工具和志工們並肩清理。他們的表情裏有疲憊,也有堅毅。

有人一邊挖泥土,一邊還不忘提醒大家小心腳下;有人甚至把僅存的飲用水分給外地來的志工。那一刻我深深感受到,救災並不只是我們「去幫助他們」,而是一種雙向的力量—居民的堅強支撐著現場的氣氛,也讓我們這些外來的人更有動力繼續付出。

最後當我脫下滿是泥濘的手套,我忽然覺得,這趟旅程改變的不只是光復的土地,也悄悄改變我這個再普通不過的男生。雖然我沒有健壯的體格,也沒有特別的專長,但只要願意跨出一步,就能與無數陌生人一同拼湊出一種名為「團結」的力量。

那天回家後,我想了很久。或許真正的力量,從來不是來自於我們有多強,而是來自於我們願不願意把「自己」放在共同的土地上。

附錄

我十八歲,走入電影場景

口述‧林展毅(明倫高中學生)
整理‧王孟加(慈濟志工)

雖然做足心理準備,但一出光復車站仍然被震驚到—住家一樓幾乎全毀,電影場景在眼前真實上演。志工們從四面八方而來,雖然不相識,卻很有默契地分配工作;還有很多人捐贈飲食、提供醫療服務,讓我們無憂無慮地幫忙。

我從小打球運動,體能負荷還好,但那裏淤泥的黏稠跟我熟悉的不一樣,常常腳被卡住,要花一番功夫才能把自己救出來。出發前我猶豫過,擔心因此耽誤讀書,但我十八歲體力正好,應該為修復光復盡一分心力!

高中生林洛頡(中)參與救災。(攝影/李彥緰)

居民沒有坐在泥水裏哀嘆,而是拿起工具並肩清理,
甚至把僅存的飲用水分給外地來的志工。
我感受到救災是一種雙向的力量―
居民的堅強支撐著現場的氣氛,也讓我們更有動力繼續付出。

居民沒有坐在泥水裏哀嘆,而是拿起工具並肩清理,甚至把僅存的飲用水分給外地來的志工。我感受到救災是一種雙向的力量―居民的堅強支撐著現場的氣氛,也讓我們更有動力繼續付出。

在災區的泥濘裏揮動鏟子這件事,老實說,我從沒想過會發生在自己身上。對我而言,假日通常是窩在家裏的時光—書桌、椅子、冷氣、再加上手機,這就是我最熟悉的生活範圍。要說體力?我並不算差,但與「能在烈日下長時間勞動」還有很遠的距離。也正因如此,當家教老師提起去光復幫忙時,我閃過的念頭是:「這應該不適合我!」

然而,命運常常不是靠我們自己安排的。那天,我原本計畫照常在家裏補眠兼看書,一個朋友突然傳訊息問我要不要一起去光復?他的語氣輕描淡寫,好像那是週末散步般自然。

我愣了很久,本想找個理由推掉。但就在回訊息的瞬間,不知道哪裏來的一股衝動—也許是善心大發,也許只是單純不想被朋友笑,我竟然回覆「好啊」。就這樣,我帶著半分忐忑、半分莫名的熱血,搭上了前往光復的列車。

進入災區,我才明白螢幕永遠無法傳遞真正受災的重量。道路兩旁的房子如同被撕裂的紙張,牆體殘破、家具散落,空氣裏瀰漫著泥水與潮溼混合的味道。那不是「震撼」兩個字可以形容的,而是一種壓在心頭的沉重。當下我突然覺得,自己的到來或許不只是「幫忙」,更像是一場必須面對的見證。

工作過程並不輕鬆。我的雙臂在幾十分鐘內就開始痠軟,鞋底也一次次被泥濘死死黏住,走一步都要費盡氣力。和旁邊那些志工比起來,我顯得笨拙又緩慢。但奇妙的是,沒有人因此皺眉或嫌棄,有人默默把比較重的部分接下來,有人則在旁邊提醒我該怎麼省力。大家之間沒有多餘的對話,卻有一種默契,好像我們早就是同一個團隊。

更讓我印象深刻的,是當地居民的身影。明明自己的家園早已毀損得不成樣子,卻沒有坐在瓦礫堆裏哀嘆,而是拿起工具和志工們並肩清理。他們的表情裏有疲憊,也有堅毅。

有人一邊挖泥土,一邊還不忘提醒大家小心腳下;有人甚至把僅存的飲用水分給外地來的志工。那一刻我深深感受到,救災並不只是我們「去幫助他們」,而是一種雙向的力量—居民的堅強支撐著現場的氣氛,也讓我們這些外來的人更有動力繼續付出。

最後當我脫下滿是泥濘的手套,我忽然覺得,這趟旅程改變的不只是光復的土地,也悄悄改變我這個再普通不過的男生。雖然我沒有健壯的體格,也沒有特別的專長,但只要願意跨出一步,就能與無數陌生人一同拼湊出一種名為「團結」的力量。

那天回家後,我想了很久。或許真正的力量,從來不是來自於我們有多強,而是來自於我們願不願意把「自己」放在共同的土地上。

附錄

我十八歲,走入電影場景

口述‧林展毅(明倫高中學生)
整理‧王孟加(慈濟志工)

雖然做足心理準備,但一出光復車站仍然被震驚到—住家一樓幾乎全毀,電影場景在眼前真實上演。志工們從四面八方而來,雖然不相識,卻很有默契地分配工作;還有很多人捐贈飲食、提供醫療服務,讓我們無憂無慮地幫忙。

我從小打球運動,體能負荷還好,但那裏淤泥的黏稠跟我熟悉的不一樣,常常腳被卡住,要花一番功夫才能把自己救出來。出發前我猶豫過,擔心因此耽誤讀書,但我十八歲體力正好,應該為修復光復盡一分心力!

泥地裏的臨時診所—花蓮慈濟醫院守護災區十八天

九月二十六日在臨時第二醫療區設置不到十分鐘,就有一名志工由臺南市特搜大隊協助送來,診斷後先給予點滴藥物治療,再轉送醫院。(相片提供/花蓮慈院)

從第一時間的日夜守護,到二度延長駐診,
花蓮慈濟醫院將災區醫療效能最大化,
包含現場縫合手術、雲端開藥、無人機送藥、視訊看診,
還有越野車隊傳送醫材,
把醫療送到最需要的地方,送到人心深處。

從第一時間的日夜守護,到二度延長駐診,花蓮慈濟醫院將災區醫療效能最大化,包含現場縫合手術、雲端開藥、無人機送藥、視訊看診,還有越野車隊傳送醫材,把醫療送到最需要的地方,送到人心深處。

午後,設置於光復鄉大賣場外空地的花蓮慈濟醫學中心第三醫療站,一群年輕人合力抬著一名傷患走了進來。新北市的余先生專程來此當志工,在清理淤泥時,突然覺得腳底一陣刺痛―一片破碎的玻璃穿透雨鞋,深深插入腳掌!

在這只是臨時搭建的戶外急救站,護理師周桂君細心詢問余先生的身體狀況與平時用藥情形;骨科劉冠麟醫師謹慎移除余先生的鞋襪與刺傷腳底的玻璃,確認傷口狀況後,迅速完成縫合。過程中,有志工悄悄撐起一把傘,為余先生遮擋烈日。

在旁的慈濟志工羅美珠,細聲安慰並主動商請救護車送余先生到光復火車站,也貼心拜託慈濟志工古德美購買有座位的火車票返北。雖然余先生一人前來,但整個現場的人們都成了他的依靠。

另一名傷患是來自瑞穗鄉的楊先生,在推開一扇卡住的門時,以鏟子敲擊門框,不料整片玻璃應聲碎裂,碎片劃傷鼻梁,當場血流不止。劉冠麟評估傷勢,決定立即縫合與施打破傷風,以免他再舟車往返受折騰。

花蓮慈濟醫院團隊九月二十四日進入光復鄉成立臨時醫療站,二十五日起於花蓮糖廠設立醫療站,連續三天二十四小時不打烊;並因應鏟子超人與救災英雄湧進,向受災嚴重的地方延伸成立二站、三站,以及走進居民家中往診。十八天來共出動包括內科、外科、兒科、身心科、中醫、復健科、院內送藥、視訊看診,以及慈濟大學的物理治療系、護理系師生支援,累計至十月十一日交棒,一千二百二十一人次醫療人員動員,服務四千六百人次。

經驗疊加,急難醫療啟動

花蓮慈院醫療團隊兩度延長災區駐診時間,陪伴鄉親與救災人員們一起過中秋、慶雙十。「加開醫療站不是因為人手多,而是因為現場需要,剛好我們經驗比較多。」花蓮慈院院長林欣榮表示,花蓮醫護人員長年來招募不易,能在第一時間組成醫療隊,很大原因是花蓮慈院有多次海內外救災義診的經驗,而且與東區慈濟人醫會多年來維持著每月偏鄉義診的傳統,所以災害發生時就能啟動,並且分工明確。

災區現場條件有限,要將醫療效能最大化,花蓮慈院醫療團隊使出渾身解數,包含現場縫合手術、雲端開藥、無人機送藥、視訊看診,還有越野車隊支援傳遞醫材等。醫療隊組成也在內、外、兒科的基礎上,持續加入感染科、老年醫學科及精神科,提供慢性病照護、急性外傷處置與身心健康安心關懷服務。

醫療站設置首日診治的全是內科問題,有許多必須每天規律服藥的慢性病鄉親,家裏的藥物被大水沖走;隨著進入復原階段,開始出現清理過程中受傷的傷患,醫療需求轉成外科增多。

厚重的淤泥裏什麼東西都可能會有,釘子、鐵片、樹枝或者碎玻璃,都可能造成傷害。在醫療站執行外科手術,光有專科醫護人力還不夠,還要麻醉、消炎等藥物,以及縫合器械、傷口敷料、破傷風疫苗等;如何準備及補充各醫療站的醫材,對團隊來說也是一大挑戰。

花蓮慈院藥學部主任劉采艷表示,有些藥物需要特定的保存方式,例如破傷風疫苗就必須保存在攝氏二至八度的環境內,還要避免陽光直射,無論備料數量和溫度監測都很重要。

除了西醫內外科之外,花蓮慈院醫療站也整合了中醫科。何宗融副院長表示,救災人員在連續多日的高強度任務後,很容易出現風寒感冒與肌肉痠痛等症狀;還有些人想著把醫療資源留給鄉親,就忽略了照顧自己。所以,中醫團隊為救災人員加開醫療區,提供針灸、推拿及藥物調理,協助舒緩不適、補充體力。

醫療站現場藥品數量有限,為滿足內科與慢性病領藥需求,花蓮慈院結合遠傳電信團隊,在光復架設5G遠距診療平臺,十月一日起讓鄉親在醫療站透過視訊連線接受診療,同仁在場協助量測血壓、血氧、心跳等數據,上傳花蓮慈濟醫院端,再由家醫科醫師同步視訊問診並查詢健保署雲端藥歷,確認過往用藥與處方正確性,由醫院調配送藥,隔日鄉親即可就近在醫療站取藥,讓治療不中斷。

帶隊設置醫療站的花蓮慈院院長室資深顧問許文林表示,災區有很多不同的狀況,基本上人人都有事做;但在花蓮慈院醫療隊最棒的一點,就是「事事有人做」。

位於糖廠的第一醫療站可以看診、領藥,還是中正路第二站與仁愛路、中山路二段第三站的後盾,隨時提供醫療資源與行政支持。部分鄉親因為行動不便無法來到醫療站,後續協調內外科組成巡迴醫療隊,進入佛祖街等重災區,醫師前方帶頭一直救,護理師最強輔助一直跟,行政團隊隨時補給藥物及傷口縫合包。

醫療站設立前五天,醫療團隊就在災區現場完成五百例清創、縫合等外傷手術。(攝影/陳李少民)

一手拿鏟,一手護理傷口

「受傷請找我!」的掛牌,跟著花蓮慈院傷口造口護理師的背影深入光復鄉大街小巷,第一時間提供小擦傷、小傷口護理與敷料保護,避免傷口擴大或感染,另一方面經評估需進一步治療的傷者,立即轉介到醫療站。機動而可靠的背影,被稱為災區「行走的天使」。

傷口造口小組護理師鄒明耘,看到母親連續三天從臺北到光復協助重整家園的熱血,以及擔任消防隊員的先生好幾天都在災區值勤,於是利用醫院休假日和同事加入「鏟子超人」的行列。

出發前,鄒明耘以臨床傷口護理經驗聯想到,志工們在滿室淤泥潮溼的環境打掃,勢必會有長時間拿鏟子與穿雨鞋造成摩擦的小傷口、水泡;另外,離醫療站比較遠的居民,一心只想快速清掃家園,常會忽略水泡、擦傷及身體的不適。

於是她發起一個以「清掃為主、換藥為輔」的「行動傷口照護小組」,由她和許美玉、徐小惠三位傷口造口護理師,加上其他自發加入的護理師組成團隊;他們試想可能會遇到的各種傷口形態,先採買敷料和消毒用品,在前一晚加工剪裁成不同的大小並分類分裝,在清掃的同時若遇有人受傷,可馬上協助保護水泡、處理簡單傷口,並即時評估是否須轉到醫療站治療。

九月二十七日和二十八日,災區湧入數萬名「鏟子超人」;行動傷口照護小組二十幾人次繞行走訪災區,總共處理一百一十個以上的傷口,避免小傷惡化或感染。

護理部主任鍾惠君表示,行動傷口照護小組的敷料和耗材,是這群熱血的護理師自掏腰包購買,自行裁剪加工,全是自動自發的護理精神。資深顧問許文林也指出,這群傷口造口護理師除了提供即時護理,也同時提醒志工「打掃時小心不要受傷,以及穿雨鞋要放鞋墊,小小的調整就能讓重建家園的工作更順手,也避免受傷」,同時把嚴重的傷患轉到醫療站治療,並施打破傷風疫苗。

花蓮慈院傷口造口小組護理師照顧災區人員的小水泡、刮傷和擦傷,立即清洗消毒、紗布擦乾、貼敷料。(相片提供/花蓮慈院)

接住眼淚,病床邊的溫柔

災區復原同時,花蓮慈院照顧十餘位在風災中受傷的鄉親,以及原本住院、此刻卻無法回家的光復鄉民。慈濟訪視志工、社工與院方社工師十月一日院訪,致贈慰問金和上人慰問信。

「大水來襲時,我正在午睡,只穿著內褲,拿起手機就爬上屋頂,看見汪洋一片,底下的羊和狗都在哀號……電話撥不通,直到天黑,水慢慢消退,我看到了手電筒的光。」腹膜透析患者曾先生請二樓鄰居先借他衣褲,再讓新北市搜救隊隊員背他下來,先南下玉里慈院,再轉院到花蓮慈院。

「一閉上眼睛就想到水漫家園,看到新聞畫面就想哭,跟日本三一一海嘯沒兩樣,真的很淒慘!」曾先生感恩慈濟人來訪,讓他心裏很溫暖;志工沈思彤鼓勵曾先生照顧好身體,身體交給醫師,心交給天主,向天主禱告。

災後清淤時受傷,感染蜂窩性組織炎的莊先生,不斷向志工詢問光復災情,很擔心年邁的媽媽在家打掃,哽咽地說:「雖然哥哥也來幫忙,但是我受傷了,就剩他一人。」沈思彤請他安心,青年志工都來了,慈濟也會陪伴到底。

一看到慈濟人走入病房,郭女士就掉下眼淚,志工李思蓓趕緊上前輕拍並擁抱,讓她盡情哭訴。「雨下得很大,先生出門移車,泥流就直灌入家,我驚慌失措,趕快跑上二樓才倖免於難,至今仍噩夢連連。」因災後清淤滑倒,造成股骨骨折,郭女士來到花蓮慈院治療,也感恩李思蓓教她念佛,消除腦海中恐懼的畫面,「我現在有了安定的力量。」

花蓮慈院社工師卓依蒨表示,災害發生時,許多傷患先送到玉里慈院或玉里榮民醫院急救,再根據病情陸續轉診至花蓮慈院,「我們先了解傷患家裏有沒有什麼需要幫忙的地方,如果病況穩定準備出院,就詢問他們回去有沒有安身的地方?還有本來就住在醫院的光復鄉親,一時回不了家,就要設法為他們尋求資源。」

卓依蒨很不捨洗腎的曾伯伯,受到很大的驚嚇,兩天都沒辦法睡覺;當時前去關懷,曾伯伯的眼淚馬上掉下來。她說:「曾伯伯的眼淚不是脆弱,而是被接住了;慈濟醫院讓光復鄉親安心,這分同理心就是慈濟送給他們的禮物。」(感恩人文真善美志工陳秋華、白如璐提供資料)

九月二十六日在臨時第二醫療區設置不到十分鐘,就有一名志工由臺南市特搜大隊協助送來,診斷後先給予點滴藥物治療,再轉送醫院。(相片提供/花蓮慈院)

從第一時間的日夜守護,到二度延長駐診,
花蓮慈濟醫院將災區醫療效能最大化,
包含現場縫合手術、雲端開藥、無人機送藥、視訊看診,
還有越野車隊傳送醫材,
把醫療送到最需要的地方,送到人心深處。

從第一時間的日夜守護,到二度延長駐診,花蓮慈濟醫院將災區醫療效能最大化,包含現場縫合手術、雲端開藥、無人機送藥、視訊看診,還有越野車隊傳送醫材,把醫療送到最需要的地方,送到人心深處。

午後,設置於光復鄉大賣場外空地的花蓮慈濟醫學中心第三醫療站,一群年輕人合力抬著一名傷患走了進來。新北市的余先生專程來此當志工,在清理淤泥時,突然覺得腳底一陣刺痛―一片破碎的玻璃穿透雨鞋,深深插入腳掌!

在這只是臨時搭建的戶外急救站,護理師周桂君細心詢問余先生的身體狀況與平時用藥情形;骨科劉冠麟醫師謹慎移除余先生的鞋襪與刺傷腳底的玻璃,確認傷口狀況後,迅速完成縫合。過程中,有志工悄悄撐起一把傘,為余先生遮擋烈日。

在旁的慈濟志工羅美珠,細聲安慰並主動商請救護車送余先生到光復火車站,也貼心拜託慈濟志工古德美購買有座位的火車票返北。雖然余先生一人前來,但整個現場的人們都成了他的依靠。

另一名傷患是來自瑞穗鄉的楊先生,在推開一扇卡住的門時,以鏟子敲擊門框,不料整片玻璃應聲碎裂,碎片劃傷鼻梁,當場血流不止。劉冠麟評估傷勢,決定立即縫合與施打破傷風,以免他再舟車往返受折騰。

花蓮慈濟醫院團隊九月二十四日進入光復鄉成立臨時醫療站,二十五日起於花蓮糖廠設立醫療站,連續三天二十四小時不打烊;並因應鏟子超人與救災英雄湧進,向受災嚴重的地方延伸成立二站、三站,以及走進居民家中往診。十八天來共出動包括內科、外科、兒科、身心科、中醫、復健科、院內送藥、視訊看診,以及慈濟大學的物理治療系、護理系師生支援,累計至十月十一日交棒,一千二百二十一人次醫療人員動員,服務四千六百人次。

經驗疊加,急難醫療啟動

花蓮慈院醫療團隊兩度延長災區駐診時間,陪伴鄉親與救災人員們一起過中秋、慶雙十。「加開醫療站不是因為人手多,而是因為現場需要,剛好我們經驗比較多。」花蓮慈院院長林欣榮表示,花蓮醫護人員長年來招募不易,能在第一時間組成醫療隊,很大原因是花蓮慈院有多次海內外救災義診的經驗,而且與東區慈濟人醫會多年來維持著每月偏鄉義診的傳統,所以災害發生時就能啟動,並且分工明確。

災區現場條件有限,要將醫療效能最大化,花蓮慈院醫療團隊使出渾身解數,包含現場縫合手術、雲端開藥、無人機送藥、視訊看診,還有越野車隊支援傳遞醫材等。醫療隊組成也在內、外、兒科的基礎上,持續加入感染科、老年醫學科及精神科,提供慢性病照護、急性外傷處置與身心健康安心關懷服務。

醫療站設置首日診治的全是內科問題,有許多必須每天規律服藥的慢性病鄉親,家裏的藥物被大水沖走;隨著進入復原階段,開始出現清理過程中受傷的傷患,醫療需求轉成外科增多。

厚重的淤泥裏什麼東西都可能會有,釘子、鐵片、樹枝或者碎玻璃,都可能造成傷害。在醫療站執行外科手術,光有專科醫護人力還不夠,還要麻醉、消炎等藥物,以及縫合器械、傷口敷料、破傷風疫苗等;如何準備及補充各醫療站的醫材,對團隊來說也是一大挑戰。

花蓮慈院藥學部主任劉采艷表示,有些藥物需要特定的保存方式,例如破傷風疫苗就必須保存在攝氏二至八度的環境內,還要避免陽光直射,無論備料數量和溫度監測都很重要。

除了西醫內外科之外,花蓮慈院醫療站也整合了中醫科。何宗融副院長表示,救災人員在連續多日的高強度任務後,很容易出現風寒感冒與肌肉痠痛等症狀;還有些人想著把醫療資源留給鄉親,就忽略了照顧自己。所以,中醫團隊為救災人員加開醫療區,提供針灸、推拿及藥物調理,協助舒緩不適、補充體力。

醫療站現場藥品數量有限,為滿足內科與慢性病領藥需求,花蓮慈院結合遠傳電信團隊,在光復架設5G遠距診療平臺,十月一日起讓鄉親在醫療站透過視訊連線接受診療,同仁在場協助量測血壓、血氧、心跳等數據,上傳花蓮慈濟醫院端,再由家醫科醫師同步視訊問診並查詢健保署雲端藥歷,確認過往用藥與處方正確性,由醫院調配送藥,隔日鄉親即可就近在醫療站取藥,讓治療不中斷。

帶隊設置醫療站的花蓮慈院院長室資深顧問許文林表示,災區有很多不同的狀況,基本上人人都有事做;但在花蓮慈院醫療隊最棒的一點,就是「事事有人做」。

位於糖廠的第一醫療站可以看診、領藥,還是中正路第二站與仁愛路、中山路二段第三站的後盾,隨時提供醫療資源與行政支持。部分鄉親因為行動不便無法來到醫療站,後續協調內外科組成巡迴醫療隊,進入佛祖街等重災區,醫師前方帶頭一直救,護理師最強輔助一直跟,行政團隊隨時補給藥物及傷口縫合包。

醫療站設立前五天,醫療團隊就在災區現場完成五百例清創、縫合等外傷手術。(攝影/陳李少民)

一手拿鏟,一手護理傷口

「受傷請找我!」的掛牌,跟著花蓮慈院傷口造口護理師的背影深入光復鄉大街小巷,第一時間提供小擦傷、小傷口護理與敷料保護,避免傷口擴大或感染,另一方面經評估需進一步治療的傷者,立即轉介到醫療站。機動而可靠的背影,被稱為災區「行走的天使」。

傷口造口小組護理師鄒明耘,看到母親連續三天從臺北到光復協助重整家園的熱血,以及擔任消防隊員的先生好幾天都在災區值勤,於是利用醫院休假日和同事加入「鏟子超人」的行列。

出發前,鄒明耘以臨床傷口護理經驗聯想到,志工們在滿室淤泥潮溼的環境打掃,勢必會有長時間拿鏟子與穿雨鞋造成摩擦的小傷口、水泡;另外,離醫療站比較遠的居民,一心只想快速清掃家園,常會忽略水泡、擦傷及身體的不適。

於是她發起一個以「清掃為主、換藥為輔」的「行動傷口照護小組」,由她和許美玉、徐小惠三位傷口造口護理師,加上其他自發加入的護理師組成團隊;他們試想可能會遇到的各種傷口形態,先採買敷料和消毒用品,在前一晚加工剪裁成不同的大小並分類分裝,在清掃的同時若遇有人受傷,可馬上協助保護水泡、處理簡單傷口,並即時評估是否須轉到醫療站治療。

九月二十七日和二十八日,災區湧入數萬名「鏟子超人」;行動傷口照護小組二十幾人次繞行走訪災區,總共處理一百一十個以上的傷口,避免小傷惡化或感染。

護理部主任鍾惠君表示,行動傷口照護小組的敷料和耗材,是這群熱血的護理師自掏腰包購買,自行裁剪加工,全是自動自發的護理精神。資深顧問許文林也指出,這群傷口造口護理師除了提供即時護理,也同時提醒志工「打掃時小心不要受傷,以及穿雨鞋要放鞋墊,小小的調整就能讓重建家園的工作更順手,也避免受傷」,同時把嚴重的傷患轉到醫療站治療,並施打破傷風疫苗。

花蓮慈院傷口造口小組護理師照顧災區人員的小水泡、刮傷和擦傷,立即清洗消毒、紗布擦乾、貼敷料。(相片提供/花蓮慈院)

接住眼淚,病床邊的溫柔

災區復原同時,花蓮慈院照顧十餘位在風災中受傷的鄉親,以及原本住院、此刻卻無法回家的光復鄉民。慈濟訪視志工、社工與院方社工師十月一日院訪,致贈慰問金和上人慰問信。

「大水來襲時,我正在午睡,只穿著內褲,拿起手機就爬上屋頂,看見汪洋一片,底下的羊和狗都在哀號……電話撥不通,直到天黑,水慢慢消退,我看到了手電筒的光。」腹膜透析患者曾先生請二樓鄰居先借他衣褲,再讓新北市搜救隊隊員背他下來,先南下玉里慈院,再轉院到花蓮慈院。

「一閉上眼睛就想到水漫家園,看到新聞畫面就想哭,跟日本三一一海嘯沒兩樣,真的很淒慘!」曾先生感恩慈濟人來訪,讓他心裏很溫暖;志工沈思彤鼓勵曾先生照顧好身體,身體交給醫師,心交給天主,向天主禱告。

災後清淤時受傷,感染蜂窩性組織炎的莊先生,不斷向志工詢問光復災情,很擔心年邁的媽媽在家打掃,哽咽地說:「雖然哥哥也來幫忙,但是我受傷了,就剩他一人。」沈思彤請他安心,青年志工都來了,慈濟也會陪伴到底。

一看到慈濟人走入病房,郭女士就掉下眼淚,志工李思蓓趕緊上前輕拍並擁抱,讓她盡情哭訴。「雨下得很大,先生出門移車,泥流就直灌入家,我驚慌失措,趕快跑上二樓才倖免於難,至今仍噩夢連連。」因災後清淤滑倒,造成股骨骨折,郭女士來到花蓮慈院治療,也感恩李思蓓教她念佛,消除腦海中恐懼的畫面,「我現在有了安定的力量。」

花蓮慈院社工師卓依蒨表示,災害發生時,許多傷患先送到玉里慈院或玉里榮民醫院急救,再根據病情陸續轉診至花蓮慈院,「我們先了解傷患家裏有沒有什麼需要幫忙的地方,如果病況穩定準備出院,就詢問他們回去有沒有安身的地方?還有本來就住在醫院的光復鄉親,一時回不了家,就要設法為他們尋求資源。」

卓依蒨很不捨洗腎的曾伯伯,受到很大的驚嚇,兩天都沒辦法睡覺;當時前去關懷,曾伯伯的眼淚馬上掉下來。她說:「曾伯伯的眼淚不是脆弱,而是被接住了;慈濟醫院讓光復鄉親安心,這分同理心就是慈濟送給他們的禮物。」(感恩人文真善美志工陳秋華、白如璐提供資料)

感恩鏟子超人們

(花蓮光復鄉  2025.9.28  攝影/蔡麗瑜)

超人們不是已在災區,就是正在路上;
這是一場跨越百里路、與時間賽跑的「鏟泥總動員」。

超人們不是已在災區,就是正在路上;這是一場跨越百里路、與時間賽跑的「鏟泥總動員」。

超人湧現 開出復原之路

災後隔日至雙十節連假,臺鐵統計光復站近五十萬人次進出;包含國軍與自發性前來的民眾投入救災,單日最高超過五萬人次。從各地出發的「鏟子超人」在各站湧現,每車次車廂走道、地板上坐滿了人,身旁還有各種掃除工具;沒坐票沒關係,站票也要去,此刻,大家都是花蓮人。(攝影/許永豐)

花蓮「鏟」地  泥中有我有你

牆上水痕逾半人高,山貓、怪手進不了的屋內,須靠人力;在高溫與異味中,清淤是個快速消耗體力的苦差事,但不同身分、年齡各異、互不相識的志工們彼此打氣,與居民一起奮戰;用水桶接力運出淤泥,後續加上高壓水槍、小山貓等利器接連到位輔助,清空地板後,復原之路才要開始。(圖1/陳李少民攝影 圖2/魏國林攝影)

(花蓮光復鄉  2025.9.28  攝影/蔡麗瑜)

超人們不是已在災區,就是正在路上;
這是一場跨越百里路、與時間賽跑的「鏟泥總動員」。

超人們不是已在災區,就是正在路上;這是一場跨越百里路、與時間賽跑的「鏟泥總動員」。

超人湧現 開出復原之路

災後隔日至雙十節連假,臺鐵統計光復站近五十萬人次進出;包含國軍與自發性前來的民眾投入救災,單日最高超過五萬人次。從各地出發的「鏟子超人」在各站湧現,每車次車廂走道、地板上坐滿了人,身旁還有各種掃除工具;沒坐票沒關係,站票也要去,此刻,大家都是花蓮人。(攝影/許永豐)

花蓮「鏟」地  泥中有我有你

牆上水痕逾半人高,山貓、怪手進不了的屋內,須靠人力;在高溫與異味中,清淤是個快速消耗體力的苦差事,但不同身分、年齡各異、互不相識的志工們彼此打氣,與居民一起奮戰;用水桶接力運出淤泥,後續加上高壓水槍、小山貓等利器接連到位輔助,清空地板後,復原之路才要開始。(圖1/陳李少民攝影 圖2/魏國林攝影)

一至二日 人人都能做慈濟

9.1~2《農七月‧初十至十一》

【靜思小語】無所求,得無量;得到的是自在的歡喜、人生的價值。

動人的美景,動人的故事

九月一日週一,在慈善志業溫馨分享中,聆聽豐富而感人的慈濟事,上人遂言,慈濟是愛的世界,也是因為愛才成立慈濟。雖然剛成立時,只有很微弱的力量,如少少的幾隻螢火蟲在黑夜,一點一點極微光在夜空閃閃發亮,也是動人的美景;即使慈濟剛成立時是如此微不足道,可是每一則故事都很動人。

「我經常想著剛開始跟著我做慈濟的那幾位,慈濟事要如何做起?需要大家貼近我的心、體會我的心念,更進一步發揮能量去做我想做的事。早期的慈濟委員大多是平凡的市井小民,沒有什麼豐功偉業,但若沒有他們一路跟隨,也沒有今天在國際間的慈濟志業,能讓我們有許多感人的故事可說。沒有過去,哪有今天?」

上人談到玉里榮民醫院曹葦醫師,會與自己相識,並大力襄助慈濟的傷病個案就醫治療,起因是其夫人靜枝師姊先認識師父並皈依,有不少病症嚴重的慈濟個案,是委請曹醫師幫忙收治,且曹醫師每個月都會來參加慈濟義診。「那時花蓮的醫療資源很欠缺,所以我辦義診是愈辦愈多場,範圍愈來愈遠,從花蓮市往南到玉里鎮、光復鄉,直到臺東;只要辦義診,曹醫師都承擔很多,幫忙安排病症比較嚴重的病患轉診到玉里榮民醫院,這分情很深。」

曹醫師病重時,請求上人,在他往生後,由慈濟承接他創辦的玉里鴻德醫院。玉里鎮距離花蓮市、臺東市各約有二小時車程,是狹長的花東縱谷中間重要的據點,在醫療上承擔很重要的角色。

上人表示,慈濟承接鴻德醫院,後來成為玉里慈濟醫院,過程中有一段段的因緣,感恩有好醫師、有好人,大家來共同成就與照顧這所醫院,連同關山慈濟醫院,讓慈濟醫療在花東能夠更及時、更全面地照顧花東民眾的生命健康。

「醫療我不在行,不過我一心想要守護生命,就要靠醫療志業主管同仁們,牽緊慈濟精神,連通靜思法脈,彼此有法親的連結,人人都是師父的弟子,守護師父創辦醫療志業的慧命。」

點滴入大海,濟天下苦難

九月二日,聆聽高雄蔡薛美雲師姊、林維揚師兄等人報告九月中旬第八十期全球靜思生活營之課程規畫,上人提到,可以鼓勵人人發揮愛心,但不需要刻意招募榮董。發心行善,是自己做、自己得,要讓大家知道自己的付出,點滴如入大海,與其他人的力量合起來,能為人間做許多好事,可謂功德無量。

「我們願意付出,能讓苦難人得到幫助,而付出的人得到法喜;捐得多、捐得少,都是看各自的能力與意願而歡喜付出,不要勉強。慈濟事,誰都可以做,要讓人輕鬆自在做慈濟。」相較於捐款圓滿榮董,上人表示,慈誠與委員是無價,無所求付出,做無量事,己做己得;不要讓人有壓力,認為走進慈濟一定要捐款成就榮董,讓人有錯誤的觀念與訛傳。

不少慈濟人用生命做慈濟,盡其身心力量護持志業。如臺北高愛師姊,從年輕就靠著勞力辛苦工作養家,為了護持醫療志業,天未亮就去清掃華中橋,累積微薄工資並捐出;也有志工到他人家中幫傭,賺取工資護持志業。「慈濟人文精神就從這裏開始,所謂人文,不是只有做活動的快樂,而是身心付出,成就造福人間的慈濟志業,人人做得很歡喜,也做出人生的價值。」

「盤點我的生命,我也覺得很有價值,心念正、方向正,就開步走,精進向前行,將這條路開得很大也鋪得很平,讓大家都來走。就如《法華經‧譬喻品》所說的『三車』,有牛車、鹿車、羊車,牛車有大力量可以度許多人。我們從獨善其身的修行,在做慈濟之後改為兼利他人,如同從羊車轉為鹿車,除了改變自己,也讓一個家庭、一個小範圍的群眾得以圓滿;更進一步成為大白牛車,會合大家的力量,承擔起人間的慈善志業,救助許多苦難人。」上人指出,從獨善其身,進而兼利他人,及至為天下眾生而付出,慈濟人都知道也做到這三乘法,還能說給更多人聽,師父就會很安心。

《證嚴上人衲履足跡》,是「上人之日記」。

靜思精舍常住每日敬侍師側、記錄言行,經融會貫通於心,轉化為字字珠璣,由靜思人文彙整結集,每年四冊,依春、夏、秋、冬四季出版。

本專欄即精簡摘錄自《證嚴上人衲履足跡》,完整版本請關注每季最新出版品。

《二〇二五年【夏之卷】》
裝訂:精裝本
定價:400元

9.1~2《農七月‧初十至十一》

【靜思小語】無所求,得無量;得到的是自在的歡喜、人生的價值。

動人的美景,動人的故事

九月一日週一,在慈善志業溫馨分享中,聆聽豐富而感人的慈濟事,上人遂言,慈濟是愛的世界,也是因為愛才成立慈濟。雖然剛成立時,只有很微弱的力量,如少少的幾隻螢火蟲在黑夜,一點一點極微光在夜空閃閃發亮,也是動人的美景;即使慈濟剛成立時是如此微不足道,可是每一則故事都很動人。

「我經常想著剛開始跟著我做慈濟的那幾位,慈濟事要如何做起?需要大家貼近我的心、體會我的心念,更進一步發揮能量去做我想做的事。早期的慈濟委員大多是平凡的市井小民,沒有什麼豐功偉業,但若沒有他們一路跟隨,也沒有今天在國際間的慈濟志業,能讓我們有許多感人的故事可說。沒有過去,哪有今天?」

上人談到玉里榮民醫院曹葦醫師,會與自己相識,並大力襄助慈濟的傷病個案就醫治療,起因是其夫人靜枝師姊先認識師父並皈依,有不少病症嚴重的慈濟個案,是委請曹醫師幫忙收治,且曹醫師每個月都會來參加慈濟義診。「那時花蓮的醫療資源很欠缺,所以我辦義診是愈辦愈多場,範圍愈來愈遠,從花蓮市往南到玉里鎮、光復鄉,直到臺東;只要辦義診,曹醫師都承擔很多,幫忙安排病症比較嚴重的病患轉診到玉里榮民醫院,這分情很深。」

曹醫師病重時,請求上人,在他往生後,由慈濟承接他創辦的玉里鴻德醫院。玉里鎮距離花蓮市、臺東市各約有二小時車程,是狹長的花東縱谷中間重要的據點,在醫療上承擔很重要的角色。

上人表示,慈濟承接鴻德醫院,後來成為玉里慈濟醫院,過程中有一段段的因緣,感恩有好醫師、有好人,大家來共同成就與照顧這所醫院,連同關山慈濟醫院,讓慈濟醫療在花東能夠更及時、更全面地照顧花東民眾的生命健康。

「醫療我不在行,不過我一心想要守護生命,就要靠醫療志業主管同仁們,牽緊慈濟精神,連通靜思法脈,彼此有法親的連結,人人都是師父的弟子,守護師父創辦醫療志業的慧命。」

點滴入大海,濟天下苦難

九月二日,聆聽高雄蔡薛美雲師姊、林維揚師兄等人報告九月中旬第八十期全球靜思生活營之課程規畫,上人提到,可以鼓勵人人發揮愛心,但不需要刻意招募榮董。發心行善,是自己做、自己得,要讓大家知道自己的付出,點滴如入大海,與其他人的力量合起來,能為人間做許多好事,可謂功德無量。

「我們願意付出,能讓苦難人得到幫助,而付出的人得到法喜;捐得多、捐得少,都是看各自的能力與意願而歡喜付出,不要勉強。慈濟事,誰都可以做,要讓人輕鬆自在做慈濟。」相較於捐款圓滿榮董,上人表示,慈誠與委員是無價,無所求付出,做無量事,己做己得;不要讓人有壓力,認為走進慈濟一定要捐款成就榮董,讓人有錯誤的觀念與訛傳。

不少慈濟人用生命做慈濟,盡其身心力量護持志業。如臺北高愛師姊,從年輕就靠著勞力辛苦工作養家,為了護持醫療志業,天未亮就去清掃華中橋,累積微薄工資並捐出;也有志工到他人家中幫傭,賺取工資護持志業。「慈濟人文精神就從這裏開始,所謂人文,不是只有做活動的快樂,而是身心付出,成就造福人間的慈濟志業,人人做得很歡喜,也做出人生的價值。」

「盤點我的生命,我也覺得很有價值,心念正、方向正,就開步走,精進向前行,將這條路開得很大也鋪得很平,讓大家都來走。就如《法華經‧譬喻品》所說的『三車』,有牛車、鹿車、羊車,牛車有大力量可以度許多人。我們從獨善其身的修行,在做慈濟之後改為兼利他人,如同從羊車轉為鹿車,除了改變自己,也讓一個家庭、一個小範圍的群眾得以圓滿;更進一步成為大白牛車,會合大家的力量,承擔起人間的慈善志業,救助許多苦難人。」上人指出,從獨善其身,進而兼利他人,及至為天下眾生而付出,慈濟人都知道也做到這三乘法,還能說給更多人聽,師父就會很安心。

《證嚴上人衲履足跡》,是「上人之日記」。

靜思精舍常住每日敬侍師側、記錄言行,經融會貫通於心,轉化為字字珠璣,由靜思人文彙整結集,每年四冊,依春、夏、秋、冬四季出版。

本專欄即精簡摘錄自《證嚴上人衲履足跡》,完整版本請關注每季最新出版品。

《二〇二五年【夏之卷】》
裝訂:精裝本
定價:400元