小さな町の医師 常に初心に戻る

玉里慈済病院の林志晏(リン・ジーイエン)副院長は自分の整形外科領域を越えて、怪我、蜂や毒魚に刺された患者、火傷などの治療も行っている。地方の医師は、「如何に患者を助けるか」を考えるだけである。「慈済医学部に入った時、『苦を抜き、楽を与える』のが目標でした。自分が役に立つとしたら、相手がどの科の患者なのかは考えないものです」と彼は語った。

台湾の花蓮と台東の県境に位置する、人口が僅か二万人の玉里鎮は、医療資源に乏しい山奥に比べて、相対的に医療資源は豊富である。しかし、玉里慈済病院は内科、外科、産婦人科、小児科、漢方内科、歯科を備えているものの、病床数は三十床余りで、規模から見ればミニだと言える。歯科を除いて、全病院の外来医師の三分の一は、慈済大学の医学部あるいは学士後漢方医学部の卒業生で、整形外科の林志晏医師もその一人である。

彼が玉里に定住してから十一年が経ち、主治医から救急外来の主任を経て今は副院長である。赴任した当時は毎日休む暇もなかったことを思い出す。月・火・木は一般外来、水・金・日は救急外来の当直に入り、会議の予定には、やむをえず一般外来の時間を調節して出席した。そして、時間があれば患者の手術を行わなければならず、唯一の休みである土曜日に組み込むこともあった。

時を一九九七年に戻すと、苗栗県竹南鎮に住んでいた林さんは花蓮に来て、当時の慈済医学院に入学した。幼い時から、医師になるとは思ったこともなく、花蓮には一回しか来たことがなかったが、気がつけば東部に落ち着いて二十数年が過ぎていた。

忘れ難い遺体先生

林さんが医学部に合格した時、郷里の両親や先生、先輩たちは彼を誇りに思ったが、苗栗から花蓮に来た彼を迎えたのは、山ほどある勉強のプレッシャーだった。

「テストの前、多くのテキストは『熟読』することはおろか、一回「目を通す」こともできませんでした」。大学三年の時に解剖学の講義が始まった後、日々の勉強は更に大変になり、人体の構造や各部位を覚えなければならないだけでなく、何百何千もの難しい医学専門用語を外国語で暗記しなければならなかった。授業や自習に加えて、よく解剖教室で「居残り」をした。

医学生から「神にしか解らない」と冗談を言われる神経解剖学は、神様でも理解できない学問に見えた。人体の神経伝逹経路の殆どは肉眼では見えず、図解から推測するだけである。脳内部の神経構造も非常に細かく密集していて、コンピュータのIC回路のように、どれがどれに繋がっているのかは見ただけでは見分けることができない。

当時、林さんが学んだ時の医学部では、学科の授業と見習い、実習を含めて七年かけて、ようやく卒業証書をもらうことができた。途中で挫折した人もいたが、大部分の学生は何とかそれを乗り越え、自分に適した領域に進むことができた。「手術が苦手で内科を選んだ同級生もいました。また、お宅系の人は、病理学を選んで、器官や組織のサンプリングに関する研究をしていました」と林さんは言った。彼は医学生だった間に模索し続け、最後に進路を外科に決めた。

解剖学の講義を受けた年、彼は遺体先生と遺族に深く感動した。彼の遺体先生だった劉芳菖(リウ・ファンチャン)さんは、当時の自分と同じくらいの年齢で、二十二歳の時に肝臓がんで亡くなっていた。がん末期に献体同意書にサインしていたので、両親と弟もその遺志を尊重して、若い遺体を医学生の教育のために慈済医学部に献体したのだった。

林さんは大学三年生の時、学校が催した遺体先生の起用式と追悼式に参加したほか、同じ解剖チームのクラスメートと一緒に、冬休みのランタン・フェスティバルの時に、台南市塩水区にある劉さんの実家を訪問した。劉さんの家族は、彼らを塩水ロケット花火祭りに案内してくれた。「劉さんのお母さんは、私たちを自分の子供のように見てくれ、私たちも『おばさん』と呼んでいました。劉さんは私たちと一、二歳違うだけですから、自分の子供の献体については、親として心の中では大変辛かっただろうと思います」。その忍びない心の葛藤を、林さんは医療行為をする時、よく思い出す。

林志晏さんは大学三年生の時、遺体先生(献体者に対する尊称)の追悼式典で劉芳菖さんの断捨離精神を語った。彼は後に、その時の感動を患者への思いやりに変えた。(写真・左:慈済大学、右:玉里慈済病院)

志と興味に一致した仕事

林さんは卒業後、整形外科を選んだ。初期臨床研修医であっても専修医になっても、常時「睡眠も休暇も取れない」多忙をきわめても、彼は一言も文句を言わなかった。臨床勤務の合間を利用してもっと勉強する計画を止め、自分の志と興味に合わせ、そして患者から頼りにされたこともあり、台湾の東部に残って医療を続けることにした。

農業が主体の玉里鎮では、多くの住民が農耕で怪我をしたり、よく転んで手足を骨折したりする等の事故が発生した。人口の高齢化と共に関節老化の問題も非常に多いため、この町には整形外科医師が必要なのである。

田舎の病院では一つの科を一人の医師で支える場合が多く、「その医師がいなければ、その科は存在しません。そして、いないからと言って、別の医師に診てもらうこともできず、遠くまで行って医師を探さなければならないのです」と林さんは、その町に残った理由を簡単に説明した。

玉里に来てから数年の間、救急外来に勤務していた時には、あらゆる種類の外科の患者を殆ど一手に引き受けていた。一般の外傷や骨折から蜂や毒魚に刺された患者、火傷して皮膚の移植を必要とした患者まで、丁寧に処置しなければならなかった。「整形外科の訓練を終えた後で火傷の患者まで受け持つとは思いも寄りませんでした」と林さんは笑いながら言った。彼の専門領域は整形外科から救急外来にまで広がっただけでなく、一般外科と形成外科にまで及んでいる。

「私の初心は整形外科の患者を治療することだけではなかったからです」。それなら初心は何だったのか?「私たちが十八や十九歳だった頃、医学部を選んだ理由は、患者の『苦を抜き、楽を与える』ことだったはずです。もし役に立とうと思うのなら、患者を診療科別に分けるわけにはいかないでしょう」と林さんが言った。

変化球はいつでも飛んでくる。あらゆる状況や傷口を処置できるとは限らないが、医師として他に責任を転嫁するのではなく、努力して患者を助ける方法を見つけるべきだ、と林さんは強調した。「ある人に、整形外科医なのに、救急外来に来て、困難や適応できないことはないのですか、と聞かれました。私はいつもこう答えています。例えば、交通事故で骨折した人は何科の医者に診てもらいますか。整形外科でしょう。今、救急車で運ばれてきた患者を、骨折していないからといって私が診なくてもいいのでしょうか。私たちの一般外来にはもっと重い症状の患者もいます」と彼が言った。

先輩の模範を忘れず、医業に励む

林志晏さんは、慈済医学教育が重んじている医学人文を振り返り、「言葉での教育よりも身を以て教える教育の方が大事なのです。まだ、初期臨床研修医だった頃、先生たちは皆そうしていました」と言った。医学人文と言えるものが、慈済大学の「無言の良師(献体者の尊称)」の解剖授業に含む人文的な振る舞いから、全ての臨床医が患者にあなたを尊重し関心を寄せていると自然と感じ取ってもらえるように至るまで、一つ一つ林さんの目の前で繰り広げられたのだった。

病院の管理職という重責を担い、林さんが財務諸表を見ていた時、多くの患者が入院して治療も順調であっても、病院がいつも赤字であることに気がついた。ましてや、治療過程が複雑で、手術を繰り返したり入院日数が増えたりした場合、あるいは家族のいない患者が退院を迎えて治療費が支払えない場合は尚更、病院の経営を圧迫する。「それでも私たちは、患者を入院させ、きちんと治療します。患者にお金がないからとか、社会的弱者だからという理由で、医者が回診を疎かにすることはありません。逆に彼らの病状は複雑なので、より多くの時間をかけて世話します」。

林さんは更にこう語った。「そのような患者はもしかしたら別の病院で拒否され、遠いところからここまで来たのかもしれません」。「たとえ赤字になっても、その患者を断ってはいけません。医師としての初心は金儲けではなく、患者の治療なのですから」。

家族全員で引っ越す

林さんが最初に玉里に赴任することを打ち明けた時、家族にはかなり反対された。両親にとっては花蓮でも十分遠いと感じられたのが、今度は玉里である。いつ苗栗に帰って来るのかと思ったのだ。妻は、玉里は山奥で不便なところなのではないか、子供の将来の就学はどうなるのかと心配した。そこで両親は一歩譲って、「それなら三、四年だけにしたらどうか?」と聞いた。

「正直言うと、家族の支えがなければ、医師は一人では頑張れません」。林さんは、家事一切を担い、彼が仕事で余計なことを考えなくても済むようにしてくれている妻に感謝している。両親も息子の苦労を理解しており、時々、旅行を兼ねて玉里へ孫に会いに来る。一家が和気藹々としていることに、林さんはこの上ない喜びを感じている。

「家族が仲良く一緒に暮らすことは、何よりも重要な事です」と林さんが笑顔で言った。「仕事の全てが待遇も良くて仕事量も少なく家から近いなどありえませんから、ここに引っ越して来るのも一つの選択肢でした」。

小さい町は人情味に溢れていて、医療人員がこんな地方に来て働くのは容易なことではないと、みんなが分かっているので、彼らの奉仕を格別に大切にし、感謝している。林さんが家族連れで町を歩いていると、いつも住民は陽気に彼に挨拶してくれるし、外来の診療では患者が「先生、暫くショッピングセンターに行ってないでしょう」と冗談を言って、林さんを笑わせることもある。

「額入りの感謝状ではありませんが、文旦をくれる人がいます」と林さんがユーモラスに言った。

「人生が楽しいのは、所有物がたくさんあるからではなく、不満が少ないからです」と彼は自分の心境を静思語で表した。

気骨のある整形外科医師である林志晏さんは、「当初、都市から田舎に来たことさえ不満に思わなかったのですから、他に何も気にすることはありませんよ」と言った。愛で玉里を照らし続ければいいのだ。

(資料提供・慈済医療人文月刊誌の「人醫心傳」)

(慈済月刊六五一期より)

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