重病の父親の看病を通して、戴瑞瑩さんは患者とその家族の気持ちをより理解するようになった。また、大学の先生に付いて部落の住民に農産物の生産販売を指導したことで、彼女は農業の苦労を知った。看護師のキャリアを始める前から、彼女の進路ははっきりしていた。それは、いつの日か片田舎に医療を根付かせることであった。
慈済科技大学看護学部に在籍していた戴瑞瑩(ダイ・ルイイン)さんにとって、就学が苦しくて悲しい旅路であったのは疑う余地はなかったが、それは早くにして彼女の人生の方向を固めることにつながった。
戴さんが三歳の時、両親は離婚し、母親が家を出た。父親は力仕事をして一家の生計を立てた。思いも寄らず、父親はリストラされた後で股関節を負傷した。両側とも人工股関節に交換したため、重い物を持つことができなくなり、二度と力仕事で収入を得ることができなくなった。祖母が脳卒中で倒れた後、親戚はお金を出しあって、父親に祖母の「看護」をしてもらうことにした。叔母は時折彼らの家計の足しになるようにと、父親が裏庭に栽培していた野菜を収穫して売ってくれた。「小さい頃いつも、私が何か悪いことしたから母が私を残して家を出たのではないか、と思っていました」。父親が悲しがるといけないので、その思いを胸の内に秘めておくしかなかった。
戴家は「慈済」や「家扶基金会」のような慈善組織から援助を受けてきた。戴さんも中学校に入った時からアルバイトをしながら学校に通い、家計を助けてきた。高校の時は良い成績を取って奨学金をもらった。クラスメートが休日に遊びに出かけたり映画を見に行ったりしているのを見ると、苦学していた彼女は悔しいと感じたこともあった。「しかし私は涙を拭って自分に言い聞かせました。今、勉強しなければ、何も変えることはできない。頑張れば、変わるかも知れない、と」。
戴さんはひたすら学問に励み、優秀な成績で先生に認められた。しかし、思いも寄らず、大学の統一試験の直前に、父親の視力が大幅に低下して失明してしまったのだ。彼女は大きなショックを受け、受験結果は予想以上に良くなかった。
幼い時から父親のことで病院をよく出入りした関係で、彼女は患者を世話する看護師の後ろ姿を見ては憧れるようになった。父親の応援もあって、二〇一六年、彼女は慈済科技大学看護学部に進学した。
大学に入学する前、父親は彼女に十万元(約三十八万円)を渡した。何故、父がこんな大金を持っているのかと彼女は驚いた。小さい頃から大きくなるまで、彼女が渡したお金を少しずつ貯めてきたものだ、と父が言った。父は何故そのお金を使って自分の生活を楽にしなかったのだろう、と彼女は心が痛むと同時に腹が立った。父親はこう言った、「今生はお前に何もしてあげられない。あげられるのは生命の意志力だけだ。それがあれば、あらゆる難関を乗り越えることができることを信じなさい」。
看護学生が地元で地に足をつける
大学一年の必修科目である解剖学は、最もきつい学科だ、と同級生が異口同音に言っていた。また、担当の耿念慈(ゴン・ニェンツー)先生は厳しかったので「不合格者」も多く、クラスメートたちは単位が取れないことを心配した。しかし、戴さんはただ成績が良いだけではなく、彼女の人格も先生に好印象を与えた。「一般的に成績が良いと自分のことしか見えませんが、彼女はクラスメートに対してとても熱心なのです」。彼女は忙しい学業の中でも暇を見つけて、勉強が遅れていたクラスメートの面倒を見ていたのだ。耿先生は彼女に、慈科大農業バイオ実験室でアルバイトする機会を与えた。彼女は慈済やスポンサーから資金援助を受けただけでなく、異なる領域の世界を目にすることができた。
先生と一緒に農作物の研究で、標本採集の為に出かけたり、部落で農作物栽培の指導をしたりしたほか、多くのイベントの開催を手伝った。実家が宜蘭にある戴さんは、花蓮県内の奇美、佳民、織羅部落、瑞穗の有機農場だけでなく、遠く台東県の達仁村にある土坂部落にまで足を運んだことがある。
多くの部落でごく普通と思われていた農作物が、科学分析のおかげで珍しい品種だと分かった。例えば「雨来茸」と呼ばれるイシクラゲ(陸棲藍藻の一種)は通常雨上がりの後、芝生から生えてくる。この食物繊維とタンパク質が豊富でカロリーが低い植物は、先住民が部落で特別食として使って来たものである。
慈科大のバイオチームはその中からタンパク質成分を取り出した。それは保湿と修復機能を必要とする湿潤療法に使うことができ、傷口の回復や美容面で活用できる。また、彼らはイシクラゲの「無土壌栽培」の技術を開発することで、生産量を十倍上げただけでなく、本来キクラゲのような平たい形状のイシクラゲを丸い形になるよう栽培し、「タピオカ」や「ビーガン・キャビア」のような食品にしたり、その成分を抽出して他に応用したりした。その大挙によって慈科大チームは二〇一七年の「高雄KIDE国際発明及び設計大会」で金メダルを獲得した。
「私の研究室に残るのはそう簡単なことではありません」と耿先生が言った。学生は普通、授業のない時や週末の時間を利用してバイオチームの手伝いをしているので、農作物の処理や実験、部落に出かけてイベントを行うなど、休みはないと言える。しかし、この試練を経て、持続力が身につけば、人よりも大きな未来が待っている。メンバーの中でやっているうちに興味が湧いた者は、卒業してから慈済の慈善農耕志業に身を捧げた。看護学部を卒業してから専門を超え、大学院で生化学を専攻する人もいた。
戴さんは終始、看護師を目指すと決めていた。チームメンバーとフィールドワークに行ったり、教育部の「大学の社会責任プロジェクト」に参加して、片田舎でボランティア活動をしたりした経験から、彼女は看護の仕事にも想像を膨らませた。「私は将来、看護の仕事に部落の要望を取り入れ、もっと看護と医療を現地に根付かせ、人道的に行いたいと願うようになりました」。
戴瑞瑩さん(右)は授業の合間を縫って、農業バイオチームの実験に参加した他、先生やクラスメートについてフィールドワークに出掛けた。(写真提供・慈済科技大学)
人生の再出発
大学二年から三年に上がった時、家から肝臓癌末期の父親が危篤状態だという知らせが入った。戴さんは、バイオチームが数日間海外遠征するのを機に、心の痛みに堪えて休学手続きを取った。さよならさえ言わない別れ方に、耿先生自身大きく驚いただけでなく、彼女を知っている学部の先生も信じられなかった。「彼女は自分に高い目標を設定していて、クラスメートたちと一緒に卒業すると約束していたのに、休学するなんて信じられません」と看護学部の張紀萍(チャン・ジーピン)主任が言った。
父親が亡くなった直後のあの頃は、戴さんにとって人生で最も悲しい時期だったのだ。「以前、生活の重心と目標はいつも父でした。父がこの世を去った時、私は彼の後を追おうとまで思いました」。彼女と連絡を保っていた耿先生は、どれほど心配しても、お菓子を送ったり、電話で関心を寄せたりすることしかできず、たとえ電話がつながっても会話は少ないことが多かったという。「食事はちゃんと取りなさいよ」というのが、耿先生がよく口にした言葉だった。
父親の葬式を終えた後、戴さんは復学手続きをした。学校に戻ってから、先生の紹介で彼女は静思精舎でボランティアとして、尼僧たちと一緒に働いた。静思精舎の田畑や加工工場で働き、よく汗と埃まみれになった。体が労働でクタクタになることで、心は次第に静まっていった。
「師父(スーフ、出家者の呼び名)たちは、私には仏法について多くを話さないのです。話してくれても私には理解できなかったでしょう。身でもって説法し、大地や植物、人の全てに対して無私と公平の愛を捧げています。無条件で私を受け入れてくれたので、私は格別に温かさを感じました」。彼女はその時に、堅持、意志力、勇気、愛とは何かを身でもって学んだ。
重病の父親を看病した過程を経て、彼女は患者やその家族の気持ちをより理解できるようになった。また、先生に学んで研究し、農民の指導をした経験から、部落が直面している苦労と困難を理解することができた。「病院に勤めてからは、もっと多くの臨床経験を積んで、将来は片田舎に行って部落で奉仕するだけでなく、医療資源を整合したいと願うようになりました」。
二〇二〇年十月、彼女は優秀な成績を修め、コンテストと社会奉仕での卓越した成果によって、玉山ボランティア基金会の「看護人材育成奨学金」を獲得した。その賞は同基金と公立、私立科技大学十校及び専門学校の看護学部とが共同で設けたもので、参加者は予め学部の推薦を受け、その後、各校から推薦された優秀な学生たちの中から、厳しい書類審査と面接を経て受賞者が選出される。
「この賞を受賞したことで、私の人生はリセットされたような気がしました」と戴さんが打ち明けた。それまでは疑いと躊躇いを感じたこともあったが、諦めなかったのが幸いだった。六月に卒業した後、彼女は公費奨学生の義務を果たす為に慈済の医療機関に赴任することになり、看護師としての第一歩を踏み出すことになった。その後は片田舎での医療という目標に向けて進むことになる。
「看護の仕事はとても大変で、長続きしないと思われがちです。私もそう思うことがありましたが、看護師になったことで、私は生命の大切さを思い知ったのです。また父を看病した経験を通して、この仕事は私の志と使命だと考えています」と戴さんがきっぱりと言った。
- 悔しい時、私は自分にこう言い聞かせた。学生である間に勉強しなければ、
何も変えることはできない。堅持すれば、変われるかも知れない、と。 - 貴方が意志力と勇気、愛がどういうものかを体得したなら、
もっと人の気持ちを理解し、未来に対してももっと夢が持てるようになる。
(慈済月刊六五一期より)