感謝、尊重、愛

感謝があれば、福を造る機会ができますが、
それ以上にあらゆる人助けにおいて、
細やかな尊重と愛が示されなければなりません。

リサイクルボランティアは日々、福を拾い集めている

十一月十日午後の歳末祝福会は主に高雄区のリサイクルボランティアが参加し、上人が次のように語りました。「高雄岡山志業パークはエコ毛布製造の重要な拠点の一つで、師兄や師姐たちが心を込めて裁断し、縫製して作り上げています。既に多くの国と地域に送られ、慈済の慈善支援活動に伴って、数多くの被災者や貧しい人、病人など支援を得られない人たちの心身を温めて来ました」。

「これらの毛布は、私たちが環境保全活動で回収したPETボトルから作られたもので、品質がとても良く、暖かいです。今日、日本から来客があり、十二年前の東日本大震災の時、慈済が被災者を支援したことに感謝の気持ちを述べられました。その時に日本と台湾の慈済人が、被災地の避難所でその毛布をお年寄りに掛け、優しく抱擁し、彼らを慰めていたことをまだ覚えているそうです。たとえお互いに知り合いではなくても、成す術もなく慄いているお年寄りを目の前にすると、慈済人は直ちに愛の心を発揮しました。そのような愛は、とても誠意のあるものです」。

「ですから、この世には無用のものはありません。皆さんが普段回収しているボトルや缶類には、とても価値があるのです。心掛けさえあれば、この世に奉仕できない人はいません。進んで奉仕できるのです。誰もが心して愛でもって奉仕すれば、力が集まり、人間(じんかん)に幸福をもたらします」。上人は、付け加えました。「皆さんが地域でリサイクル活動に参加する時、環境をきれいにするだけでなく、現地の住民と交流しつつ、人心を浄化する機会を逃してはなりません。様々な年齢の人々がリサイクルセンターへ参観に訪れ、実際に分別を体験していますが、慈済人やリサイクルボランティアが人間(じんかん)に幸福をもたらしていることを目の当たりにすると、感謝と喜びの気持ちが起こり、投入していくのです。リサイクルセンターは即ち菩薩道場なのです」。

上人はリサイクルボランティアが心して回収し、細かく分別して、整理していることに感謝しました。たとえ、回収プラスチックの価格が低くても、皆さんがご存じのように、プラスチックを回収するのは地球を守るためなのです。リサイクルボランティアの毎日の回収作業は、物を惜しみ、福を集める行為であり、福を回収しているのです。またそれと同時に、大衆に環境問題を重視して自前の買い物袋の携帯を勧め、大量のプラスチックゴミを作ることで福を無くしてはならないと教育しています。慈悲喜捨の菩薩精神を発揮して絶えず大地を愛おしみ、衆生を愛し護ることで互いに睦まじくなり、大愛を結集してこの世に奉仕し、人間(じんかん)に幸福をもたらしましょう。

観世音菩薩の化身

上人は、こうして慈済に集まっている因縁を大切にするようにと語りかけました。「慈済があるから、私たちは大きく発心し、立願することができるのです。諸々の愛を結集し、世界中の貧しい人や苦しんでいる人に奉仕する慈済人は、苦しみを聞きつければ、どこであろうと愛を携えて助けに行きます」。

また、上人はこう言いました。「慈済の志業は、三十人の主婦が竹筒に貯金したことから始まりました。彼女たちは観世音菩薩の化身であり、市場や隣近所で口伝えに広めました。一日に五十銭貯金することが人助けになるなら自分にもできる、と誰もが感じ、その反響は益々広まり、『私も参加したい』と皆が言い始めました。五十数年前の、あの『私も』という善行への反響は、今日まで途切れることなく続き、益々多くの人が慈済の善行を目にして『私も』、『私にもできる』と言いながら、世に善と愛を促し、百三十を超える国と地域で慈悲の善行を行うまでに至っています」。

台湾であれ海外であれ、苦しんでいる人を支援する慈済人には、誠意が溢れています。配付する物資は全て丁寧に整理して梱包し、それらを自ら布施し、深々とお辞儀して、両手で差し出すと共に、受け取る人にお礼を言います。被害調査から配付まで、あらゆる段階で丁寧に尊重と愛を示しています。「感謝、尊重、愛」は、慈済人が永遠に伝承して行かなければならない精神と態度なのです。

「人助けする時は、相手から感謝されたいがためではなく、逆に相手が私たちに福を造る機会を与えてくれたのだと感謝しなければなりません。福の因を造り、福縁を結ぶことができれば、そこから福の果報をもたらすことができるのです」。慈済人は様々な土地で苦難にある人を支援すると同時に、善と福の種子を植えています。そして、人間(じんかん)菩薩を募って、あらゆる種が「一から無量」へ増えるようにと、丁寧に耕しています。人間(じんかん)に無数の菩薩がいれば、無量の福がもたらされるのです。

(慈済月刊六八六期より)

感謝があれば、福を造る機会ができますが、
それ以上にあらゆる人助けにおいて、
細やかな尊重と愛が示されなければなりません。

リサイクルボランティアは日々、福を拾い集めている

十一月十日午後の歳末祝福会は主に高雄区のリサイクルボランティアが参加し、上人が次のように語りました。「高雄岡山志業パークはエコ毛布製造の重要な拠点の一つで、師兄や師姐たちが心を込めて裁断し、縫製して作り上げています。既に多くの国と地域に送られ、慈済の慈善支援活動に伴って、数多くの被災者や貧しい人、病人など支援を得られない人たちの心身を温めて来ました」。

「これらの毛布は、私たちが環境保全活動で回収したPETボトルから作られたもので、品質がとても良く、暖かいです。今日、日本から来客があり、十二年前の東日本大震災の時、慈済が被災者を支援したことに感謝の気持ちを述べられました。その時に日本と台湾の慈済人が、被災地の避難所でその毛布をお年寄りに掛け、優しく抱擁し、彼らを慰めていたことをまだ覚えているそうです。たとえお互いに知り合いではなくても、成す術もなく慄いているお年寄りを目の前にすると、慈済人は直ちに愛の心を発揮しました。そのような愛は、とても誠意のあるものです」。

「ですから、この世には無用のものはありません。皆さんが普段回収しているボトルや缶類には、とても価値があるのです。心掛けさえあれば、この世に奉仕できない人はいません。進んで奉仕できるのです。誰もが心して愛でもって奉仕すれば、力が集まり、人間(じんかん)に幸福をもたらします」。上人は、付け加えました。「皆さんが地域でリサイクル活動に参加する時、環境をきれいにするだけでなく、現地の住民と交流しつつ、人心を浄化する機会を逃してはなりません。様々な年齢の人々がリサイクルセンターへ参観に訪れ、実際に分別を体験していますが、慈済人やリサイクルボランティアが人間(じんかん)に幸福をもたらしていることを目の当たりにすると、感謝と喜びの気持ちが起こり、投入していくのです。リサイクルセンターは即ち菩薩道場なのです」。

上人はリサイクルボランティアが心して回収し、細かく分別して、整理していることに感謝しました。たとえ、回収プラスチックの価格が低くても、皆さんがご存じのように、プラスチックを回収するのは地球を守るためなのです。リサイクルボランティアの毎日の回収作業は、物を惜しみ、福を集める行為であり、福を回収しているのです。またそれと同時に、大衆に環境問題を重視して自前の買い物袋の携帯を勧め、大量のプラスチックゴミを作ることで福を無くしてはならないと教育しています。慈悲喜捨の菩薩精神を発揮して絶えず大地を愛おしみ、衆生を愛し護ることで互いに睦まじくなり、大愛を結集してこの世に奉仕し、人間(じんかん)に幸福をもたらしましょう。

観世音菩薩の化身

上人は、こうして慈済に集まっている因縁を大切にするようにと語りかけました。「慈済があるから、私たちは大きく発心し、立願することができるのです。諸々の愛を結集し、世界中の貧しい人や苦しんでいる人に奉仕する慈済人は、苦しみを聞きつければ、どこであろうと愛を携えて助けに行きます」。

また、上人はこう言いました。「慈済の志業は、三十人の主婦が竹筒に貯金したことから始まりました。彼女たちは観世音菩薩の化身であり、市場や隣近所で口伝えに広めました。一日に五十銭貯金することが人助けになるなら自分にもできる、と誰もが感じ、その反響は益々広まり、『私も参加したい』と皆が言い始めました。五十数年前の、あの『私も』という善行への反響は、今日まで途切れることなく続き、益々多くの人が慈済の善行を目にして『私も』、『私にもできる』と言いながら、世に善と愛を促し、百三十を超える国と地域で慈悲の善行を行うまでに至っています」。

台湾であれ海外であれ、苦しんでいる人を支援する慈済人には、誠意が溢れています。配付する物資は全て丁寧に整理して梱包し、それらを自ら布施し、深々とお辞儀して、両手で差し出すと共に、受け取る人にお礼を言います。被害調査から配付まで、あらゆる段階で丁寧に尊重と愛を示しています。「感謝、尊重、愛」は、慈済人が永遠に伝承して行かなければならない精神と態度なのです。

「人助けする時は、相手から感謝されたいがためではなく、逆に相手が私たちに福を造る機会を与えてくれたのだと感謝しなければなりません。福の因を造り、福縁を結ぶことができれば、そこから福の果報をもたらすことができるのです」。慈済人は様々な土地で苦難にある人を支援すると同時に、善と福の種子を植えています。そして、人間(じんかん)菩薩を募って、あらゆる種が「一から無量」へ増えるようにと、丁寧に耕しています。人間(じんかん)に無数の菩薩がいれば、無量の福がもたらされるのです。

(慈済月刊六八六期より)

關鍵字

日本能登半島地震─大雪に見舞われた半野外の仮設厨房

新年を迎えた最初の日に、石川県能登半島で地震が発生した。雪の降る季節でもあり、穴水町では、住民の生活が一層困難になった。

それを知って、現地で十七日間、夜明けと共に、最も貴重な飲料水と野菜、豆腐などを携え、大雪に見舞われながらも住民の為に炊き出しを続けたグループがいた。

穴水町さわやか交流館プルートに設置された仮設厨房のブルーシートを、風雪が吹き上げた。 (撮影・呉惠珍)

本来なら正月の光景と言えば、「初詣」の人で賑わうお寺や神社、大勢の人が都会から帰郷して親や親戚と過ごす団欒である。しかし、令和六年の第一日目は、午後四時十分に石川県能登半島で、地表から十キロという浅い所で地震が発生し、地上を大きく揺らした。

マグニチュード七・六という強い地震だったので、遠く離れた私たち東京の慈済人たちも震度三の揺れを感じた。続いて大津波警報が発令され、皆益々心配になった。その時、海の向こうから「ボランティアや会員の皆さんは無事でしょうか」という慈悲深い證厳法師の声が届いた。

日本海に面した風光明媚な能登半島は、海産物や漆器で有名な観光地だが、慈済ボランティアにとっては見知らぬ土地である。一回目の炊き出しは、一月十三日に穴水町のさわやか交流館プルートで始まった。避難所には外壁沿いにブルーシートで囲った仮設厨房が設けられていて、既に他の団体が来て使っていたが、昼食の前後は慈済人のために空けてくれた。それでやっと、その団体も一息つけたそうだ。というのは、彼らは二人だけで毎日千人分の朝食と夕食を作っていたのだ。

厨房は仮設だったため、風や雨、雪の降る寒い日には耐え忍ぶしかなかった。交流館に避難していた住民は大半が高齢者だったので、ボランティアは慎重に調理した。繊維を多く含んだ野菜を食べてもらえるように小さく切って柔らかめに炊いたり、タンパク質の豊富な豆腐料理にしたり、ご飯は少なめにしてもおかずの量は減らさないようにしたりと配慮した。有田さんという女性の話では、どういう訳か私たちの作った食事を食べたら、口内炎が治ってしまったそうだ。ボランティアはそれを聞いてとても嬉しくなった。これこそ菜食のパワーなのだろう。

一日目の炊き出しを振り返ると、住民の感謝と称賛の声の中で、細心の注意を払いながら任務を完了することができたが、その後は「炊き出し」がボランティアにとって悪夢となってしまった。二日目は雪が降り、これほどの寒さを経験したことがないボランティアは、プロパンガスが凍ってしまうなど考えもしなかったので、ご飯が炊き上がらなかったのだ。

その半煮えのご飯を見て、災害支援の炊き出し経験が豊富なボランティアたちは、ひどく挫折感を味わった。幸いにも現地のボランティアがうどんを提供してくれたので、二日目の食事は解決した。しかし、三日目に同じ問題が起きたので、別の炊き出し拠点である穴水病院から支援してもらい、また、避難所が提供してくれた電気釜を使うようにして、その後もご飯の問題を解決することができた。

しかし、第三グループが被災地を訪れた時、電気釜が故障してしまった。現地のボランティア団体が私たちに、直接ガスで炊飯するよう教えてくれたので、日頃から電子炊飯器で少人数分のご飯を炊いている私たちにとっては、それが新たな挑戦となった。だが、困難を乗り越えた後は、誰もが悦びに浸った。というのも、ご飯炊きの達人になれたからだ。

被災地は交通と宿泊地の制限があるので、第一グループは人数を十四人に制限した。もし、一カ所で炊き出しするのであれば、人数はそれで充分である。しかし、石川県台湾交流促進協会理事長の陳文筆(チェン・ウェンビー)医師の要請でさわやか交流館プルートを訪ねた際に、穴水総合病院の島中公志院長から病院スタッフと避難してきた患者の家族、町役場に避難している住民、そして県外から来た救助隊員たちにも炊き出しをしてもらえないか、という要請があった。彼らは地震が発生してから今まで、即席ラーメンとおむすびが主食で、温かい食事を摂っていなかったのだ。私たちは一も二もなく、引き受けた。

島中院長は慈済人の支援を非常に歓迎してくれて、毎日ほぼ三回挨拶に来られた。朗らかでユーモアに富む人で、男性ボランティアを見かけると必ず抱擁して感謝の言葉を掛け、女性たちに対しても親切に話しかけてくれた。食事を受け取りに来るのは若くて仕事に体力を必要としている人たちだが、炊き出しの一日目は、後に続く人の分が足りなくなることを恐れて、ご飯の量を多めにして欲しいと言えず、遠慮していたそうだ。二日目からはボランティアの誠意に負けて、小声で「多めに」と言うようになった。男性だけでなく、女性たちも勇気を出して、小声で「大盛り」と言ってくれた。

ボランティアは、2組に分かれて交流館と穴水病院で炊き出しを行った。上の写真は、数人のボランティアが交流館に設置された仮設厨房で、毎食数百人分の食事を作る様子。(写真1撮影・周利貞)。夜間は零度まで冷え込み、プロパンガスのボンベに毛布を被せても、ガスは凍ってしまった(写真2撮影・高晙喆)。

炊き出しの列を縫ってお茶を提供

少人数で、しかも二カ所で炊き出しを行うことになり、ボランティアたちは挑戦を重ねた。二つの地点は車で五分の距離だが、前夜に物資や食材をきちんと分けて混乱が起きないようにした。二カ所での支援が軌道に乗ると、交代してやって来た女性ボランティアらが本領を発揮して温かいウーロン茶を提供した。飲んだ後で眠れなくなってはいけないので少し薄めに、香ばしい香りはそのままに淹れた。張好(ヅァンハオ)師姐(スージエ)はわざわざ東京から大きめのディスペンサーを持って来て、交流会館でお茶を提供し、住民に大変喜ばれた。

また張師姐は、夜なべして買って来たガーゼを縫って茶こし袋を作り、この急ごしらえの方法で、穴水病院でもお茶を提供した。お茶の香りは人々の心を和ませた。食事を受け取る列に並んでいた人たちに真心を込めてお茶を提供したことで話が弾み、自分の感情を控えめにするという日本人の心の壁を取り除くことができた。数日前から絶えず感謝を言葉に表してくれていたが、人々はやはり緊張した雰囲気の中にいた。それが一杯のお茶のおかげで、遠慮がちな顔に笑顔を浮かべるようになり、「もう一杯頂いてもよろしいでしょうか」という言葉も聞かれるようになった。こんなに美味しくて、温かくて、香ばしくて、喉越しの良いウーロン茶を飲んだのは初めてだという人もいた。ボランティアは、このジンスーウーロン茶は有機栽培で、慈済は環境を大切にしていることを紹介した。人々はより深く私たちの団体に興味を持つようになってくれた。

真っ赤な「平安」の文字のストラップも住民たちの注目を集めた。日本の「御守り」のような物ですか、と尋ねられたので、ボランティアは、これは祝福を意味していて、皆さんが一日も早く元の生活に戻れるようにという願いを込めて差し上げるのです、と答えた。彼らは皆、それを友人にあげたいと言い、ユーモア溢れる院長先生は、両方の耳にそれを掛け、慈済の宣伝をするのだ、と言った。

1月22日、公立穴水総合病院で麻婆豆腐を提供したところ、多くの人が列を作った。

不思議な縁に感謝したい

日本政府はその頃、国外からの支援はおろか、県外からのボランティア団体も受け入れていなかった。私たちがいち早く動員できたのは、各方面からの恩人の協力と長年の炊き出し経験、そして、證厳法師の指導があったからである。法師は、被災者の助けを得られない苦しみを見て忍びなく思い、早く栄養のある温かい食事を作ってあげたい、出来立てを食べてもらいたいと思う気持ちを募らせていた。NHKや朝日テレビ、北陸、北国、産経新聞などメディアは皆、この台湾の慈善団体は、なぜやって来たのかを知りたがったが、それは、そういう単純な思いからでしかなかったのだ。

昨年、大阪で開かれた医師会の集いに、関西連絡所のリーダーの一人である陳静慧(チェン・ジンフェイ)師姐が出席したが、その時に短い時間を使って、證厳法師の『行願して半世紀』のストーリーをシェアした。陳文筆医師夫妻は石川県に在住しているが、縁があってその集いに参加していたので、静慧師姐のシェアを聞いて法師の考えを大方理解し、慈済が大愛を携えた団体であることを分かってくれた。

陳医師は患者にはまるで家族のように接している人で、自宅前に名前の書いていない、患者からの贈り物を見つけることがよくあるそうだ。地震発生後、彼は石川県台湾交流促進協会の理事と一緒に、二十一回も援助物資を被災地に運んだ。

一月五日、北陸新幹線が運行していることを確認してから、台湾から来た陳金発(チェン・ジンファ)師兄は、陳思道師兄、盧建安(ルー・ジエンアン)師兄、池田浩一師兄らを伴って石川県に行き、七尾病院で陳医師と面会し、夫人の案内で穴水町を訪れた。

七尾市から穴水町までの道路はひび割れ、自治体は大至急補修して開通させたが、救助と物資補給の車を優先にしていたため、普通車の所要時間は普段の三倍近くかかった。寒い中で苦しんでいる住民のことを思い、思道師兄と井田龍成師兄は一月十一日、再び被災地を訪れ、炊き出しを行う場所について調整した。

慈済日本支部は長年、日本ボランティア・プラットフォームと交流があり、今回支援を申し出たことで良縁が結ばれ、穴水町さわやか交流館プルートの避難所で炊き出しをすることが決まった。

十二日、炊き出しを始める前夜だが、ボランティアは宿泊先がまだ見つかっていなかった。その時、静慧師姐のご主人が陳医師から中能登町の町長に聞いてもらうことを提案した。すると、十分足らずで古民家の宿泊先を見つけてくれたのだった。陳医師は一日目の炊き出しに同行していた時も、私たちを北国新聞の編集長に引き会わせてくれた。そして、慈済の善行はもっと多くの人に知ってもらうべきだ、と紹介してくれた。

古民家が調理場になった

中能登町にある百年余り前に建てられた古民家に宿泊することになったボランティアたちは、東京で偶に降る雪には慣れていたが、北陸の寒さは全く経験したことがなかった。夜は暖房が入っていても温まるまでには至らず、二晩の間、大半の人は寝袋に入っても寒さで眠れなかった。三日目に町長が人を派遣して、一人につき毛布二枚と断熱ベッドパッドなどの緊急災害用防寒物資を持って来てくれた。その後のグループで人数が増えると、皆で分けあって使った。寝る時にダウンジャケットを着ながら寝ると、やっと寒い夜でも眠ることができた、と経験をシェアする人もいた。

中能登町は穴水町から五十キロも離れていたが、炊き出しに使う水不足の問題は、解決することができた。ボランティアは毎日、夜のうちに袋に水をいっぱいまで入れ、野菜は洗って切って置き、翌日に持って行った。トントンと野菜を切る音は、翌日の炊き出しに使う五百人分のものだが、メニューによって異なり、時には深夜まで準備が続いた。翌日はまだ夜が明ける前の六時頃に出発しなければならなかった。このような災害支援は経験したことがなく、十三年前の東日本大震災で見舞金を配付した時でさえ、これほど疲れたことはない、とシニアボランティアが苦笑したほどだ。体の凝りや筋肉痛には何カ所も湿布を貼ったが、顔には頑張った後の喜びが現れていた。

毎晩八時半には災害支援のオンライン会議が開かれるため、野菜を切る時間と競争しなければならなかったので、ボランティアは野菜が切り終わらないことを心配した。そこで、ある人はごぼうの皮を削りながら、他にもジャガイモを切ったり、キャベツの葉を剥いたりしながら、会議に参加することになった。会議では当日の心温まる出来事や緊張した場面をシェアするため、笑い声が絶えず、それが一日の疲労を癒し、何が起きるか分からない翌日に備える勇気をもたらしてくれた。

被災地では1月下旬、連日の風雪が強く立ち込め、早朝、ボランティアは出発の準備に、食材を車にいっぱい詰め込んで、足元に注意して歩き、転倒防止に努めた。

二カ所で炊き出しを行う場合、八人が厨房に入る必要があった。日本支部は二〇〇五年の新潟中越地震で初めて炊き出しをした後も、熊本地震、西日本豪雨、長野と倉敷でも炊き出しの支援を行ったことがあり、ホームレスへの炊き出しと大愛食堂での弁当の提供も毎月恒例の行事だ。炊き出しは、すでに日本支部の重要支援項目なのだ。普段は女性たちが厨房に入っているが、休日になると、コックをしている男性ボランティアたちが来てくれる。今回の能登半島地震支援でも、三人のプロのコックが休暇を取って応援に来てくれた。

プロにはそれなりの迫力と味があるが、女性ボランティアたちのパワーも引けを取らない。大阪から来た人も、東京で普段から調理ボランティアをしている人も、皆、家庭の主婦であり、これほど多くの人に炊き出しをするのは、初めての挑戦である。厨房を取り仕切って欲しいと言われて、緊張の余り何日も眠れなかった人もいたが、それを乗り越えた時の喜びは言葉にならなかった。

宿泊地から炊き出し拠点までは車で片道約二時間かかるため、運転できるボランティアを優先的に採用した。しかし、普段は自家用の小型車を運転しているだけなので、八人乗りのバンの運転に挑戦する必要があった。

去年の経蔵劇が終わった時、慈済青年ボランティアの先輩たちは皆、「やっと仕事に専念できる!」と言った。しかし、今年の一日目に、続けてもっと大きな任務に就くことになるとは、思ってもいなかっただろう。彼らは真っ先に駆けつけ、他のボランティアが交代しても、引き続き邁進することになった。

井田龍成さんは日本で育ち、慈済ボランティアの両親を持ち、語学力と調整力を活かして様々な団体と交渉し、新聞社やメディアとも交流をしている。

盧建安さんは会社を経営しているが、被害状況の視察から支援の終了まで、バンを運転して東京と石川県の被災地を往復しただけでなく、情報収集を手伝ったり、夜遅くまで報告を書いたり、ビデオ画像の編集をしたり、と数多くの能力を発揮してくれた。

鍾佳玲(ヅォン・ジアリン)さんは、日本支部で育ったと言える女性で、性格が良くて物分かりも早く、心細やかで責任を全うしてくれている。普段は支部の事務をしているが、さまざまな活動の時は、良き助っ人でもある。東日本大地震を支援した経験から、災害が発生すると直ちに、自発的に多方面から情報を集めるようになった。事務と調整の仕事以外に、報告を書き、夜中になってもパソコンで資料を整理しており、明け方の四時に寝て、五時に起床して他の人と一緒に活動したこともある。

宿泊所から炊き出しの場所まで約50キロあり、道沿いの田畑に積もった雪は溶け始めたが、道路が損傷していて片側通行しかできず、救急車両も頻繁に行き来するため、毎朝交通渋滞に直面した。(撮影・周利貞)

雪国で頑張る

何度も支援ボランティアが入れ替わって往復するのを見ながら、被災地に行くことができないボランティアは、支部の留守番役として恒例のホームレスへの炊き出しや大愛食堂への弁当の提供、ケア世帯への寄り添いをいつも通りに行っていた。また、石巻や新宿、大阪、群馬などで、同時に愛を募る街頭募金を行った。そのおかげで、毎年の一大行事である「祝福感謝会」は、予定通り円満に行われた。

寒い雪国で苦しんでいる人々を助けるボランティアと、支部に残るボランティア。互いに協力して物事を成し遂げ、和気藹々と助け合う。これこそが慈済という大家族の最も美しい姿ではないだろうか。

第一回目の支援は一月十三日から二十九日まで行われたが、風光明媚な能登半島での炊き出しの六日目、稀に見る赤い朝日が日本海から昇って、「けあらし」と呼ばれる霧が立ち込めた。それはあたかもボランティアへのご褒美のようだった。数日前の大雪の後は、あとどのくらいその硬くて冷たい雪を踏まなければならないかわからないが、これからも多くの人が私たちの温かい手を待っているのだから、強くなろうと自分に言い聞かせたものだ。

ボランティアチームは中能登町の歴史ある古民家に宿泊していた。毎晩、翌日の食材の準備や報告の作成に忙しかったが、それでも一堂に集まって、翌日の予定を話し合った。(撮影・周利貞)

二月十六日、私たちは再び穴水病院に戻って、慈済が日本で初めて行う「仕事に就いて復興に参加する」活動を展開し、失業した四人の被災者を招いて炊き出しの手伝いをしてもらった。午後十二時きっかりに食事の提供を始めたが、その時には既に長い行列ができ、それぞれの診療科の代表者が大きなお盆を持って並んでいた。「また慈済人に会えて、本当に嬉しいです!」と口々に言った。一方、病院側は、私たちがお茶を入れるために、使われていなかったコーヒーラウンジを提供してくれた。診察待ちの患者や病院スタッフは皆、「心に沁みるウーロン茶と皆さんの笑顔は、この世の美しさを表しています」と言った。「熱々の美味しいお昼ごはんを頂いた上に、今日はホットココアまで出してくれました。ありがとうございました」。

法師が一月の行脚の間も、私たちとオンラインで連絡に応えて下さり、私は何度も注意されたことを思い出した。

「遠くまで支援に出かけるために、近くの人を疎かにしてはいけません。政府の規定には従わなければなりませんが、縁があれば、それを大切にして直ちに行動しなさい」と私たちに念を押したのだ。法師の心のこもった指導があったからこそ、雪国のどんな寒い中でも、私たちの心の灯は消えることなく、絶えず法師の言葉を胸に携えて進むことができた。私たちは風雪に負けず、進み続けるのだ!

1月20日、東京の支部で留守番をしていたボランティアが、愛を募る、街頭募金活動の箱とポスターを準備していた。(撮影・林真子)

一億回悩めば良くなる

◎公立穴水総合病院、島中公志院長のお話

島中院長(左から四人目)は調理室でボランティアと記念撮影をした。(撮影・周利貞)

元日の朝でしたが、私は病院で仕事をしていました。あと一時間で帰宅しようと思ったその時、午後四時十分に、地震が発生して建物が揺れました。それから休む間もなく働き続け、地震発生後の四日間で眠ったのは、二時間ぐらいだったと思います。

私たちの病院は、断水で患者さんのケアが難しくなり、食事も提供できなくなったので、退院できる人には早めに退院してもらい、退院が困難で治療を続けなければならない患者さんには、金沢市に転院してもらいました。困難を極めたのは、人工透析の患者さんです。最も遠いケースでは、片道六時間もかけて小松市まで送り届けました。転院を告げた時、多くの患者さんはこの町に残って治療を続けたいと涙していました。

わたしたち医療スタッフも殆どの人が被災し、住む家を失った人もいました。約半数の職員は輪島に住んでおり、そのうちの五分の一は、職場に戻ることができていません。日本各地から医師の派遣が始まったのは、被災から四日目でした。

これほど大きな災害を経験すると、誰でも気持ちが落ち込んでしまうものです。応援に来られた精神科医に、職員や避難している住民の心のケアを依頼しました。悩みは誰にでもありますが、もし一億回悩めば元気になるのなら、一億回悩めばいいのです。

慈済の皆さんが来られて炊き出しが始まると、連日食事を受け取る長い行列ができました。みんなとても楽しみにして、出来立ての食事を頂き、予想通り、食事の前よりも心が晴れやかになっていました。避難生活に辛さを感じていた人も、笑顔を取り戻すことができました。

食事を配る間、慈済の皆さんはいつも笑顔で親切に接してくれました。被災地というと、気分的に暗くなるものですが、皆さん方が明るい雰囲気を持って来てくれたのです。本当に有り難いと思いました。日本にはこんな諺があります。「笑う門には福来る」。笑顔を取り戻して、いつの日か、それが何年後であろうと、もう一度笑顔で皆さんと再会したいと願っています。(整理・編集部 資料の提供・大愛テレビ局)

(慈済月刊六八八期より)

新年を迎えた最初の日に、石川県能登半島で地震が発生した。雪の降る季節でもあり、穴水町では、住民の生活が一層困難になった。

それを知って、現地で十七日間、夜明けと共に、最も貴重な飲料水と野菜、豆腐などを携え、大雪に見舞われながらも住民の為に炊き出しを続けたグループがいた。

穴水町さわやか交流館プルートに設置された仮設厨房のブルーシートを、風雪が吹き上げた。 (撮影・呉惠珍)

本来なら正月の光景と言えば、「初詣」の人で賑わうお寺や神社、大勢の人が都会から帰郷して親や親戚と過ごす団欒である。しかし、令和六年の第一日目は、午後四時十分に石川県能登半島で、地表から十キロという浅い所で地震が発生し、地上を大きく揺らした。

マグニチュード七・六という強い地震だったので、遠く離れた私たち東京の慈済人たちも震度三の揺れを感じた。続いて大津波警報が発令され、皆益々心配になった。その時、海の向こうから「ボランティアや会員の皆さんは無事でしょうか」という慈悲深い證厳法師の声が届いた。

日本海に面した風光明媚な能登半島は、海産物や漆器で有名な観光地だが、慈済ボランティアにとっては見知らぬ土地である。一回目の炊き出しは、一月十三日に穴水町のさわやか交流館プルートで始まった。避難所には外壁沿いにブルーシートで囲った仮設厨房が設けられていて、既に他の団体が来て使っていたが、昼食の前後は慈済人のために空けてくれた。それでやっと、その団体も一息つけたそうだ。というのは、彼らは二人だけで毎日千人分の朝食と夕食を作っていたのだ。

厨房は仮設だったため、風や雨、雪の降る寒い日には耐え忍ぶしかなかった。交流館に避難していた住民は大半が高齢者だったので、ボランティアは慎重に調理した。繊維を多く含んだ野菜を食べてもらえるように小さく切って柔らかめに炊いたり、タンパク質の豊富な豆腐料理にしたり、ご飯は少なめにしてもおかずの量は減らさないようにしたりと配慮した。有田さんという女性の話では、どういう訳か私たちの作った食事を食べたら、口内炎が治ってしまったそうだ。ボランティアはそれを聞いてとても嬉しくなった。これこそ菜食のパワーなのだろう。

一日目の炊き出しを振り返ると、住民の感謝と称賛の声の中で、細心の注意を払いながら任務を完了することができたが、その後は「炊き出し」がボランティアにとって悪夢となってしまった。二日目は雪が降り、これほどの寒さを経験したことがないボランティアは、プロパンガスが凍ってしまうなど考えもしなかったので、ご飯が炊き上がらなかったのだ。

その半煮えのご飯を見て、災害支援の炊き出し経験が豊富なボランティアたちは、ひどく挫折感を味わった。幸いにも現地のボランティアがうどんを提供してくれたので、二日目の食事は解決した。しかし、三日目に同じ問題が起きたので、別の炊き出し拠点である穴水病院から支援してもらい、また、避難所が提供してくれた電気釜を使うようにして、その後もご飯の問題を解決することができた。

しかし、第三グループが被災地を訪れた時、電気釜が故障してしまった。現地のボランティア団体が私たちに、直接ガスで炊飯するよう教えてくれたので、日頃から電子炊飯器で少人数分のご飯を炊いている私たちにとっては、それが新たな挑戦となった。だが、困難を乗り越えた後は、誰もが悦びに浸った。というのも、ご飯炊きの達人になれたからだ。

被災地は交通と宿泊地の制限があるので、第一グループは人数を十四人に制限した。もし、一カ所で炊き出しするのであれば、人数はそれで充分である。しかし、石川県台湾交流促進協会理事長の陳文筆(チェン・ウェンビー)医師の要請でさわやか交流館プルートを訪ねた際に、穴水総合病院の島中公志院長から病院スタッフと避難してきた患者の家族、町役場に避難している住民、そして県外から来た救助隊員たちにも炊き出しをしてもらえないか、という要請があった。彼らは地震が発生してから今まで、即席ラーメンとおむすびが主食で、温かい食事を摂っていなかったのだ。私たちは一も二もなく、引き受けた。

島中院長は慈済人の支援を非常に歓迎してくれて、毎日ほぼ三回挨拶に来られた。朗らかでユーモアに富む人で、男性ボランティアを見かけると必ず抱擁して感謝の言葉を掛け、女性たちに対しても親切に話しかけてくれた。食事を受け取りに来るのは若くて仕事に体力を必要としている人たちだが、炊き出しの一日目は、後に続く人の分が足りなくなることを恐れて、ご飯の量を多めにして欲しいと言えず、遠慮していたそうだ。二日目からはボランティアの誠意に負けて、小声で「多めに」と言うようになった。男性だけでなく、女性たちも勇気を出して、小声で「大盛り」と言ってくれた。

ボランティアは、2組に分かれて交流館と穴水病院で炊き出しを行った。上の写真は、数人のボランティアが交流館に設置された仮設厨房で、毎食数百人分の食事を作る様子。(写真1撮影・周利貞)。夜間は零度まで冷え込み、プロパンガスのボンベに毛布を被せても、ガスは凍ってしまった(写真2撮影・高晙喆)。

炊き出しの列を縫ってお茶を提供

少人数で、しかも二カ所で炊き出しを行うことになり、ボランティアたちは挑戦を重ねた。二つの地点は車で五分の距離だが、前夜に物資や食材をきちんと分けて混乱が起きないようにした。二カ所での支援が軌道に乗ると、交代してやって来た女性ボランティアらが本領を発揮して温かいウーロン茶を提供した。飲んだ後で眠れなくなってはいけないので少し薄めに、香ばしい香りはそのままに淹れた。張好(ヅァンハオ)師姐(スージエ)はわざわざ東京から大きめのディスペンサーを持って来て、交流会館でお茶を提供し、住民に大変喜ばれた。

また張師姐は、夜なべして買って来たガーゼを縫って茶こし袋を作り、この急ごしらえの方法で、穴水病院でもお茶を提供した。お茶の香りは人々の心を和ませた。食事を受け取る列に並んでいた人たちに真心を込めてお茶を提供したことで話が弾み、自分の感情を控えめにするという日本人の心の壁を取り除くことができた。数日前から絶えず感謝を言葉に表してくれていたが、人々はやはり緊張した雰囲気の中にいた。それが一杯のお茶のおかげで、遠慮がちな顔に笑顔を浮かべるようになり、「もう一杯頂いてもよろしいでしょうか」という言葉も聞かれるようになった。こんなに美味しくて、温かくて、香ばしくて、喉越しの良いウーロン茶を飲んだのは初めてだという人もいた。ボランティアは、このジンスーウーロン茶は有機栽培で、慈済は環境を大切にしていることを紹介した。人々はより深く私たちの団体に興味を持つようになってくれた。

真っ赤な「平安」の文字のストラップも住民たちの注目を集めた。日本の「御守り」のような物ですか、と尋ねられたので、ボランティアは、これは祝福を意味していて、皆さんが一日も早く元の生活に戻れるようにという願いを込めて差し上げるのです、と答えた。彼らは皆、それを友人にあげたいと言い、ユーモア溢れる院長先生は、両方の耳にそれを掛け、慈済の宣伝をするのだ、と言った。

1月22日、公立穴水総合病院で麻婆豆腐を提供したところ、多くの人が列を作った。

不思議な縁に感謝したい

日本政府はその頃、国外からの支援はおろか、県外からのボランティア団体も受け入れていなかった。私たちがいち早く動員できたのは、各方面からの恩人の協力と長年の炊き出し経験、そして、證厳法師の指導があったからである。法師は、被災者の助けを得られない苦しみを見て忍びなく思い、早く栄養のある温かい食事を作ってあげたい、出来立てを食べてもらいたいと思う気持ちを募らせていた。NHKや朝日テレビ、北陸、北国、産経新聞などメディアは皆、この台湾の慈善団体は、なぜやって来たのかを知りたがったが、それは、そういう単純な思いからでしかなかったのだ。

昨年、大阪で開かれた医師会の集いに、関西連絡所のリーダーの一人である陳静慧(チェン・ジンフェイ)師姐が出席したが、その時に短い時間を使って、證厳法師の『行願して半世紀』のストーリーをシェアした。陳文筆医師夫妻は石川県に在住しているが、縁があってその集いに参加していたので、静慧師姐のシェアを聞いて法師の考えを大方理解し、慈済が大愛を携えた団体であることを分かってくれた。

陳医師は患者にはまるで家族のように接している人で、自宅前に名前の書いていない、患者からの贈り物を見つけることがよくあるそうだ。地震発生後、彼は石川県台湾交流促進協会の理事と一緒に、二十一回も援助物資を被災地に運んだ。

一月五日、北陸新幹線が運行していることを確認してから、台湾から来た陳金発(チェン・ジンファ)師兄は、陳思道師兄、盧建安(ルー・ジエンアン)師兄、池田浩一師兄らを伴って石川県に行き、七尾病院で陳医師と面会し、夫人の案内で穴水町を訪れた。

七尾市から穴水町までの道路はひび割れ、自治体は大至急補修して開通させたが、救助と物資補給の車を優先にしていたため、普通車の所要時間は普段の三倍近くかかった。寒い中で苦しんでいる住民のことを思い、思道師兄と井田龍成師兄は一月十一日、再び被災地を訪れ、炊き出しを行う場所について調整した。

慈済日本支部は長年、日本ボランティア・プラットフォームと交流があり、今回支援を申し出たことで良縁が結ばれ、穴水町さわやか交流館プルートの避難所で炊き出しをすることが決まった。

十二日、炊き出しを始める前夜だが、ボランティアは宿泊先がまだ見つかっていなかった。その時、静慧師姐のご主人が陳医師から中能登町の町長に聞いてもらうことを提案した。すると、十分足らずで古民家の宿泊先を見つけてくれたのだった。陳医師は一日目の炊き出しに同行していた時も、私たちを北国新聞の編集長に引き会わせてくれた。そして、慈済の善行はもっと多くの人に知ってもらうべきだ、と紹介してくれた。

古民家が調理場になった

中能登町にある百年余り前に建てられた古民家に宿泊することになったボランティアたちは、東京で偶に降る雪には慣れていたが、北陸の寒さは全く経験したことがなかった。夜は暖房が入っていても温まるまでには至らず、二晩の間、大半の人は寝袋に入っても寒さで眠れなかった。三日目に町長が人を派遣して、一人につき毛布二枚と断熱ベッドパッドなどの緊急災害用防寒物資を持って来てくれた。その後のグループで人数が増えると、皆で分けあって使った。寝る時にダウンジャケットを着ながら寝ると、やっと寒い夜でも眠ることができた、と経験をシェアする人もいた。

中能登町は穴水町から五十キロも離れていたが、炊き出しに使う水不足の問題は、解決することができた。ボランティアは毎日、夜のうちに袋に水をいっぱいまで入れ、野菜は洗って切って置き、翌日に持って行った。トントンと野菜を切る音は、翌日の炊き出しに使う五百人分のものだが、メニューによって異なり、時には深夜まで準備が続いた。翌日はまだ夜が明ける前の六時頃に出発しなければならなかった。このような災害支援は経験したことがなく、十三年前の東日本大震災で見舞金を配付した時でさえ、これほど疲れたことはない、とシニアボランティアが苦笑したほどだ。体の凝りや筋肉痛には何カ所も湿布を貼ったが、顔には頑張った後の喜びが現れていた。

毎晩八時半には災害支援のオンライン会議が開かれるため、野菜を切る時間と競争しなければならなかったので、ボランティアは野菜が切り終わらないことを心配した。そこで、ある人はごぼうの皮を削りながら、他にもジャガイモを切ったり、キャベツの葉を剥いたりしながら、会議に参加することになった。会議では当日の心温まる出来事や緊張した場面をシェアするため、笑い声が絶えず、それが一日の疲労を癒し、何が起きるか分からない翌日に備える勇気をもたらしてくれた。

被災地では1月下旬、連日の風雪が強く立ち込め、早朝、ボランティアは出発の準備に、食材を車にいっぱい詰め込んで、足元に注意して歩き、転倒防止に努めた。

二カ所で炊き出しを行う場合、八人が厨房に入る必要があった。日本支部は二〇〇五年の新潟中越地震で初めて炊き出しをした後も、熊本地震、西日本豪雨、長野と倉敷でも炊き出しの支援を行ったことがあり、ホームレスへの炊き出しと大愛食堂での弁当の提供も毎月恒例の行事だ。炊き出しは、すでに日本支部の重要支援項目なのだ。普段は女性たちが厨房に入っているが、休日になると、コックをしている男性ボランティアたちが来てくれる。今回の能登半島地震支援でも、三人のプロのコックが休暇を取って応援に来てくれた。

プロにはそれなりの迫力と味があるが、女性ボランティアたちのパワーも引けを取らない。大阪から来た人も、東京で普段から調理ボランティアをしている人も、皆、家庭の主婦であり、これほど多くの人に炊き出しをするのは、初めての挑戦である。厨房を取り仕切って欲しいと言われて、緊張の余り何日も眠れなかった人もいたが、それを乗り越えた時の喜びは言葉にならなかった。

宿泊地から炊き出し拠点までは車で片道約二時間かかるため、運転できるボランティアを優先的に採用した。しかし、普段は自家用の小型車を運転しているだけなので、八人乗りのバンの運転に挑戦する必要があった。

去年の経蔵劇が終わった時、慈済青年ボランティアの先輩たちは皆、「やっと仕事に専念できる!」と言った。しかし、今年の一日目に、続けてもっと大きな任務に就くことになるとは、思ってもいなかっただろう。彼らは真っ先に駆けつけ、他のボランティアが交代しても、引き続き邁進することになった。

井田龍成さんは日本で育ち、慈済ボランティアの両親を持ち、語学力と調整力を活かして様々な団体と交渉し、新聞社やメディアとも交流をしている。

盧建安さんは会社を経営しているが、被害状況の視察から支援の終了まで、バンを運転して東京と石川県の被災地を往復しただけでなく、情報収集を手伝ったり、夜遅くまで報告を書いたり、ビデオ画像の編集をしたり、と数多くの能力を発揮してくれた。

鍾佳玲(ヅォン・ジアリン)さんは、日本支部で育ったと言える女性で、性格が良くて物分かりも早く、心細やかで責任を全うしてくれている。普段は支部の事務をしているが、さまざまな活動の時は、良き助っ人でもある。東日本大地震を支援した経験から、災害が発生すると直ちに、自発的に多方面から情報を集めるようになった。事務と調整の仕事以外に、報告を書き、夜中になってもパソコンで資料を整理しており、明け方の四時に寝て、五時に起床して他の人と一緒に活動したこともある。

宿泊所から炊き出しの場所まで約50キロあり、道沿いの田畑に積もった雪は溶け始めたが、道路が損傷していて片側通行しかできず、救急車両も頻繁に行き来するため、毎朝交通渋滞に直面した。(撮影・周利貞)

雪国で頑張る

何度も支援ボランティアが入れ替わって往復するのを見ながら、被災地に行くことができないボランティアは、支部の留守番役として恒例のホームレスへの炊き出しや大愛食堂への弁当の提供、ケア世帯への寄り添いをいつも通りに行っていた。また、石巻や新宿、大阪、群馬などで、同時に愛を募る街頭募金を行った。そのおかげで、毎年の一大行事である「祝福感謝会」は、予定通り円満に行われた。

寒い雪国で苦しんでいる人々を助けるボランティアと、支部に残るボランティア。互いに協力して物事を成し遂げ、和気藹々と助け合う。これこそが慈済という大家族の最も美しい姿ではないだろうか。

第一回目の支援は一月十三日から二十九日まで行われたが、風光明媚な能登半島での炊き出しの六日目、稀に見る赤い朝日が日本海から昇って、「けあらし」と呼ばれる霧が立ち込めた。それはあたかもボランティアへのご褒美のようだった。数日前の大雪の後は、あとどのくらいその硬くて冷たい雪を踏まなければならないかわからないが、これからも多くの人が私たちの温かい手を待っているのだから、強くなろうと自分に言い聞かせたものだ。

ボランティアチームは中能登町の歴史ある古民家に宿泊していた。毎晩、翌日の食材の準備や報告の作成に忙しかったが、それでも一堂に集まって、翌日の予定を話し合った。(撮影・周利貞)

二月十六日、私たちは再び穴水病院に戻って、慈済が日本で初めて行う「仕事に就いて復興に参加する」活動を展開し、失業した四人の被災者を招いて炊き出しの手伝いをしてもらった。午後十二時きっかりに食事の提供を始めたが、その時には既に長い行列ができ、それぞれの診療科の代表者が大きなお盆を持って並んでいた。「また慈済人に会えて、本当に嬉しいです!」と口々に言った。一方、病院側は、私たちがお茶を入れるために、使われていなかったコーヒーラウンジを提供してくれた。診察待ちの患者や病院スタッフは皆、「心に沁みるウーロン茶と皆さんの笑顔は、この世の美しさを表しています」と言った。「熱々の美味しいお昼ごはんを頂いた上に、今日はホットココアまで出してくれました。ありがとうございました」。

法師が一月の行脚の間も、私たちとオンラインで連絡に応えて下さり、私は何度も注意されたことを思い出した。

「遠くまで支援に出かけるために、近くの人を疎かにしてはいけません。政府の規定には従わなければなりませんが、縁があれば、それを大切にして直ちに行動しなさい」と私たちに念を押したのだ。法師の心のこもった指導があったからこそ、雪国のどんな寒い中でも、私たちの心の灯は消えることなく、絶えず法師の言葉を胸に携えて進むことができた。私たちは風雪に負けず、進み続けるのだ!

1月20日、東京の支部で留守番をしていたボランティアが、愛を募る、街頭募金活動の箱とポスターを準備していた。(撮影・林真子)

一億回悩めば良くなる

◎公立穴水総合病院、島中公志院長のお話

島中院長(左から四人目)は調理室でボランティアと記念撮影をした。(撮影・周利貞)

元日の朝でしたが、私は病院で仕事をしていました。あと一時間で帰宅しようと思ったその時、午後四時十分に、地震が発生して建物が揺れました。それから休む間もなく働き続け、地震発生後の四日間で眠ったのは、二時間ぐらいだったと思います。

私たちの病院は、断水で患者さんのケアが難しくなり、食事も提供できなくなったので、退院できる人には早めに退院してもらい、退院が困難で治療を続けなければならない患者さんには、金沢市に転院してもらいました。困難を極めたのは、人工透析の患者さんです。最も遠いケースでは、片道六時間もかけて小松市まで送り届けました。転院を告げた時、多くの患者さんはこの町に残って治療を続けたいと涙していました。

わたしたち医療スタッフも殆どの人が被災し、住む家を失った人もいました。約半数の職員は輪島に住んでおり、そのうちの五分の一は、職場に戻ることができていません。日本各地から医師の派遣が始まったのは、被災から四日目でした。

これほど大きな災害を経験すると、誰でも気持ちが落ち込んでしまうものです。応援に来られた精神科医に、職員や避難している住民の心のケアを依頼しました。悩みは誰にでもありますが、もし一億回悩めば元気になるのなら、一億回悩めばいいのです。

慈済の皆さんが来られて炊き出しが始まると、連日食事を受け取る長い行列ができました。みんなとても楽しみにして、出来立ての食事を頂き、予想通り、食事の前よりも心が晴れやかになっていました。避難生活に辛さを感じていた人も、笑顔を取り戻すことができました。

食事を配る間、慈済の皆さんはいつも笑顔で親切に接してくれました。被災地というと、気分的に暗くなるものですが、皆さん方が明るい雰囲気を持って来てくれたのです。本当に有り難いと思いました。日本にはこんな諺があります。「笑う門には福来る」。笑顔を取り戻して、いつの日か、それが何年後であろうと、もう一度笑顔で皆さんと再会したいと願っています。(整理・編集部 資料の提供・大愛テレビ局)

(慈済月刊六八八期より)

關鍵字

弘法で衆生を利し、仏恩に報いる

経蔵劇「無量義 法髄頌」の舞台は、あたかも2500年余り前に戻ったかのように、古代インド・ラージャグリハの霊鷲山で、仏が法華経を説く前に《無量義経》を説き、十方から仏法を聞こうとする衆生が、敬虔な心で静かに待っていた。(撮影・黄筱哲)

慈済は既に五十八年目を迎え、仏陀の教えに基づいた菩薩精神が定着し、慈済人は六十七の国と地域に到達している。現代は科学技術が発達して、便利な交通機関があり、普く仏法を広めるのに役立っており、慈済人はこの時代を逃さず、人々に悟りの道を説いている。

経蔵劇「無量義 法髄頌」は、仏法を広める一つの形である。仏陀が導いてくれることに感謝し、この二年間、一歩一歩着実に仏陀の故郷に歩みを進め、インドとネパールで貧困に苦しむ人を救済して癒し、住民に善行と人助けすることを呼びかけている。

経蔵劇で世界に発信する

《無量義經》は《法華經》の精髄であるが、経蔵劇は、それを更に精煉した内容である。二〇二一年、花蓮での上演を皮切りに、修正とリハーサルを繰り返す中で、出演者たちは法髄の中に浸り、法益を受けて来た。

この経蔵劇は、二〇二二年十二月に高雄アリーナの公演が円満に終了してから二〇二三年七月の彰化県立体育館での公演、同年十二月の台北アリーナ公演まで合計二十三回、毎回三時間、仏陀の一生と慈済史実を演じてきた。

優人神鼓と唐美雲台湾オペラ歌劇団、台北愛楽合唱団等といった芸術文化団体が舞台上を受け持った。

慈済ボランティアは、慈済手話と動作、朗唱で呼応した 。中でも、台北アリーナでの十回の公演は、観客数が延べ十一万人に上り、八回のライブ配信の視聴者は延べ五十万人を超えた。(撮影・黄筱哲)

仏法を再び仏陀の故郷へ

二〇二二年四月から、シンガポールとマレーシアのボランティアは、仏心師志の心掛けを携えて仏陀生誕の地に入り、遊化(ゆけ)の足跡をたどって苦しむ人々を訪ね、貧困と病に支援の手を差し伸べた。同時に、安定した生活、学校の建設支援、職業訓練クラスの開設と共に、「竹筒歳月」の教えも広め、いつの日か、仏陀の正法をその故郷へ返したいと願っている。

ボランティアはネパール•ルンビニの或る家庭を訪れ、もうすぐ小学校に進学する小さい姉妹に学校の制服を届けた。姉妹二人は、ボランティアとしっかり勉強することを約束した(下の撮影・李麗心)。

インドブッダガヤのスジャータ村の学校で、ボランティアが静思語教育の授業を行った。教師と生徒は一緒に、「最も美しいのは笑顔」というポーズを取った( 下の写真 撮影・鄧亦絢)。

二〇二二年八月二十五日、ネパールの慈済ルンビニ連絡所が業務を開始し、二〇二三年七月にNGOの登録を完了した。

慈済のインドブッダガヤ連絡所は、二〇二二年にNGO登録が完了し、二〇二三年九月十三日より業務を開始した。

.慈善志業:ケア世帯支援、職業訓練講座(裁縫教室、手作り石けん教室)、ケア世帶への補助(思いやりキッチン、住宅修繕支援、仕事を与えて支援に代える)

.医療志業:健康診断、医療補助、衛生教育の推進。

.教育志業:静思語教育を学校に導入、教師懇親会の設立、中途退学者ゼロ計画の推進。

経蔵劇「無量義 法髄頌」の舞台は、あたかも2500年余り前に戻ったかのように、古代インド・ラージャグリハの霊鷲山で、仏が法華経を説く前に《無量義経》を説き、十方から仏法を聞こうとする衆生が、敬虔な心で静かに待っていた。(撮影・黄筱哲)

慈済は既に五十八年目を迎え、仏陀の教えに基づいた菩薩精神が定着し、慈済人は六十七の国と地域に到達している。現代は科学技術が発達して、便利な交通機関があり、普く仏法を広めるのに役立っており、慈済人はこの時代を逃さず、人々に悟りの道を説いている。

経蔵劇「無量義 法髄頌」は、仏法を広める一つの形である。仏陀が導いてくれることに感謝し、この二年間、一歩一歩着実に仏陀の故郷に歩みを進め、インドとネパールで貧困に苦しむ人を救済して癒し、住民に善行と人助けすることを呼びかけている。

経蔵劇で世界に発信する

《無量義經》は《法華經》の精髄であるが、経蔵劇は、それを更に精煉した内容である。二〇二一年、花蓮での上演を皮切りに、修正とリハーサルを繰り返す中で、出演者たちは法髄の中に浸り、法益を受けて来た。

この経蔵劇は、二〇二二年十二月に高雄アリーナの公演が円満に終了してから二〇二三年七月の彰化県立体育館での公演、同年十二月の台北アリーナ公演まで合計二十三回、毎回三時間、仏陀の一生と慈済史実を演じてきた。

優人神鼓と唐美雲台湾オペラ歌劇団、台北愛楽合唱団等といった芸術文化団体が舞台上を受け持った。

慈済ボランティアは、慈済手話と動作、朗唱で呼応した 。中でも、台北アリーナでの十回の公演は、観客数が延べ十一万人に上り、八回のライブ配信の視聴者は延べ五十万人を超えた。(撮影・黄筱哲)

仏法を再び仏陀の故郷へ

二〇二二年四月から、シンガポールとマレーシアのボランティアは、仏心師志の心掛けを携えて仏陀生誕の地に入り、遊化(ゆけ)の足跡をたどって苦しむ人々を訪ね、貧困と病に支援の手を差し伸べた。同時に、安定した生活、学校の建設支援、職業訓練クラスの開設と共に、「竹筒歳月」の教えも広め、いつの日か、仏陀の正法をその故郷へ返したいと願っている。

ボランティアはネパール•ルンビニの或る家庭を訪れ、もうすぐ小学校に進学する小さい姉妹に学校の制服を届けた。姉妹二人は、ボランティアとしっかり勉強することを約束した(下の撮影・李麗心)。

インドブッダガヤのスジャータ村の学校で、ボランティアが静思語教育の授業を行った。教師と生徒は一緒に、「最も美しいのは笑顔」というポーズを取った( 下の写真 撮影・鄧亦絢)。

二〇二二年八月二十五日、ネパールの慈済ルンビニ連絡所が業務を開始し、二〇二三年七月にNGOの登録を完了した。

慈済のインドブッダガヤ連絡所は、二〇二二年にNGO登録が完了し、二〇二三年九月十三日より業務を開始した。

.慈善志業:ケア世帯支援、職業訓練講座(裁縫教室、手作り石けん教室)、ケア世帶への補助(思いやりキッチン、住宅修繕支援、仕事を与えて支援に代える)

.医療志業:健康診断、医療補助、衛生教育の推進。

.教育志業:静思語教育を学校に導入、教師懇親会の設立、中途退学者ゼロ計画の推進。

關鍵字

New Homes, Better Lives

Text and photos by Chen Yi-qing
Edited and translated by Wu Hsiao-ting

A group of people walked through fields carrying mattresses and buckets and arrived at new houses built of bricks and cement in Metuchira, Sofala Province, Mozambique. Upon reaching their new home, Avelina and one of her children patiently waited as Tzu Chi volunteers set up their new bed. Then they lay down to try out the bed, happy to no longer have to sleep on the floor.

Many crudely built, simple structures in rural Mozambique succumbed to the destructive force of Cyclone Idai in 2019. In response, Tzu Chi committed to rebuilding schools and constructing four housing villages for survivors in Sofala Province, one of the hardest-hit areas. Unfortunately, the reconstruction efforts were delayed due to the COVID-19 pandemic. In late November 2023, the third batch of houses—nine in total—for the Metuchira Tzu Chi Great Love Village was finally handed over to beneficiary households. With gratitude in their hearts, the families moved into their new homes.

Avelina is from one of these families. She has six family members. The sturdy home Tzu Chi built for them gave her hope for the future. She knew it would provide far safer shelter than their old home, freeing them from worries about strong winds and relentless rain.

Text and photos by Chen Yi-qing
Edited and translated by Wu Hsiao-ting

A group of people walked through fields carrying mattresses and buckets and arrived at new houses built of bricks and cement in Metuchira, Sofala Province, Mozambique. Upon reaching their new home, Avelina and one of her children patiently waited as Tzu Chi volunteers set up their new bed. Then they lay down to try out the bed, happy to no longer have to sleep on the floor.

Many crudely built, simple structures in rural Mozambique succumbed to the destructive force of Cyclone Idai in 2019. In response, Tzu Chi committed to rebuilding schools and constructing four housing villages for survivors in Sofala Province, one of the hardest-hit areas. Unfortunately, the reconstruction efforts were delayed due to the COVID-19 pandemic. In late November 2023, the third batch of houses—nine in total—for the Metuchira Tzu Chi Great Love Village was finally handed over to beneficiary households. With gratitude in their hearts, the families moved into their new homes.

Avelina is from one of these families. She has six family members. The sturdy home Tzu Chi built for them gave her hope for the future. She knew it would provide far safer shelter than their old home, freeing them from worries about strong winds and relentless rain.

關鍵字

日本能登震災 雪地裏的臨時廚房♫

新年第一天,石川縣能登半島的強震,讓進入雪季的穴水町居民更辛苦了;連續十七天,有一群人拂曉即至,帶來災區最匱乏的飲用水和蔬菜、豆腐,在低溫霜雪中為大家做一頓飯……

月刊有聲書

本文提供有聲書,歡迎播放聆聽,期待能給您不一樣的感受,用聽的來讀月刊。本篇由慈大之聲實習廣播電臺王秀芳臺長協助錄製。

感恩「慈大之聲實習廣播電臺」協助錄製,感謝慈濟大學劉怡均校長、王秀芳臺長大力支持。

原本過新年的光景,是寺廟前「初詣」的人潮,還有從大都會返鄉,與年邁的父母或親友相聚的和樂。但進入令和六年的第一天下午四點十分,在石川縣的能登半島,離地表十公里的淺層地震,震醒了天地人間。

芮氏規模七點六的強震,連遠在東京的慈濟人也感受到三級的震度;隨著海嘯警報發布,大家的心愈揪愈緊。此時電話彼端傳來了上人慈悲的聲音,心繫著志工、會員大德們是否平安。

靠近日本海,風景秀麗的能登半島,是以海產與漆器聞名的觀光地區,對慈濟志工來說,卻非常陌生。元月十三日,我們第一個熱食發放點在穴水町的冥王星交流會館展開;臨時廚房設在避難所外圍,用藍色塑膠布沿著牆壁搭起來,已經有團體駐站,並且讓出了午餐時段給慈濟人承擔。這樣的安排,讓這個團體歡喜地鬆了一口氣,因為他們只有兩個人,每天要提供一千份早晚餐。

因為是臨時搭的棚子,志工要忍受颳風、下雨、下雪的天寒地凍;冥王星交流會館避難的鄉親,高齡者占多數,志工很用心地考量到,除了要切寸菜,也要將菜煮得軟一點,儘量提供纖維足夠的蔬菜,還有蛋白質豐富的豆腐料理,飯可以少量,但是菜量不用減。有田太太說,不知道為什麼吃了我們的熱食,她的口內炎好了。這讓志工非常歡喜,這應該是素食的力量吧!

日本政府婉拒國際支援,也尚未接受外縣市志工團體進入災區,而我們能夠停留當地服務,除了來自各方貴人相助,還有我們長年在日本的慈善經驗;最重要的是上人不忍受災鄉親的無助與苦痛,這也是NHK、朝日電視臺以及北陸、北國、產經等新聞媒體訪問時,所想要了解的─我們為何而來?

回想起第一天供餐,在鄉親的感恩與讚歎聲中,志工戰戰兢兢完成任務,然而之後「煮飯」卻成為志工的惡夢。第二天下雪,對不熟悉嚴寒的志工,從沒有想過,會因為瓦斯桶的瓦斯凍結,飯煮不熟!

這一鍋鍋半生不熟的飯,讓有多年熱食賑災經驗的志工,感到非常挫敗!還好有當地志工適時提供烏龍麵,解決第二天的供餐。但是第三天,問題同樣出現,除了由另一處熱食發放點的穴水綜合醫院支援之外,避難所提供電飯鍋,讓志工在往後的梯次解決了煮飯的問題。

但是到了第三梯,電飯鍋竟然故障了!當地志工團體教我們直接用瓦斯煮飯,這對小家庭的家庭主婦、平時用電子鍋煮少人份的志工,又是另一個考驗。但是超越了困難過後,大家都很開心,因為變成煮飯高手了。

由於交通與住宿空間有限,第一梯次開放了十四位志工。如果只有一個定點發放,志工人數足足有餘,感恩石川縣臺灣交流促進協會理事長陳文筆醫師引介,穴水綜合醫院院長島中公志專程來到冥王星交流會館,問我們是否也能提供熱食,給該院醫護人員、避難家屬、町公所避難民眾,還有外地來的救難隊成員,因為他們從地震發生到現在,以泡麵和飯糰為主,沒有吃過熱食。我們毫不猶豫地答應了!

島中院長很肯定慈濟人的協助,一天幾乎來探望三次;他非常開朗幽默,碰到男眾志工一定擁抱致意,對師姊們也熱情互動。在這裏領熱食的鄉親相對年輕,需要力氣去工作,但發放的第一天都不好意思開口說要加量,因為怕不夠給後面的人;感受到志工的真誠,第二天開始小聲說,想加量大碗……不只是男士,女士們也鼓起勇氣,輕輕地說:要大碗的!

少少幾位志工在交流會館簡單環境下料理每餐數百人餐點(圖1攝影/周利貞);清晨攝氏零度,液態瓦斯即使有毛毯保護也結冰了。(圖2攝影/高晙喆)

穿梭領餐隊伍中奉茶

少少的人力,同時兩個發放點,是志工的挑戰與突破。第二天兵分兩路,兩個發放點車程相距五分鐘,前一晚的物資分類要很清楚,才不會混亂。兩梯次的發放穩定之後,第三梯的師姊開始展開軟實力,提供熱熱的淨斯烏龍茶。擔心避難鄉親喝了茶睡不著,泡的茶要淡,但仍要有茶香跟茶味。張好師姊專程從東京帶來大茶桶,在冥王星交流會館開始奉茶,受到鄉親極度的喜愛。

張好師姊又連夜去買了紗布縫製茶袋,用克難式的泡茶法,在穴水醫院也開始奉茶。茶香暖人心,在等待領餐的隊伍中,師姊們真誠地一一奉茶,話匣子就打開了,除去了大和民族常見的內斂與壓抑,前幾日即使不斷聽到感恩的話,總是覺得很緊繃;然而小小一杯茶,讓拘謹的臉龐展開笑容問說可不可以續杯,因為從來沒喝過這麼好喝的烏龍茶,茶熱熱的又香又順口。志工從淨斯烏龍茶的有機栽培,分享到慈濟的環保理念,讓人開始想了解我們的團體。

紅紅的平安吊飾,引起受災鄉親的注意,紛紛問這個是否等於日本的「御守」?志工回答說,這代表慈濟人的祝福,祝福他們平安幸福,早日恢復往日的生活;他們都說這要跟朋友結緣,可愛的院長更將之掛在兩耳,替我們宣傳。

元月二十二日於穴水綜合醫院提供的菜色是麻婆豆腐,吸引許多人排隊取餐。

感恩不可思議的因緣

在日本政府仍然婉拒國際支援,以及尚未接受外縣市的志工團體,我們能夠及時動員,除了來自各方貴人相助,以及我們長年煮熱食的經驗,最重要的是有上人的指導,不忍受災鄉親的無助與苦痛,只想在第一時間給予熱熱的、營養溫飽的一碗飯,這是NHK、朝日電視臺以及北陸、北國、產經等新聞媒體,想要了解這來自臺灣的慈善團體,為何而來。而我們就只是這麼單純的一念心而已。

去年一場在大阪的醫師聚會,關西協力組長陳靜慧師姊跟著任職臺北駐大阪辦事處副處長的先生出席,在會中把握短短的時間,分享了上人行願半世紀的故事。陳文筆醫師夫婦自石川縣而來,因緣參加了這場僑會活動,聽到靜慧師姊的分享,也因此有了概念,肯定慈濟是一個很有愛心的團體。

陳醫師視病如親,常在自家門口發現未具名的病人送來的禮物;震災發生後,他和石川臺灣促進會的理事,更載著物資送入災區二十一趟。

元月五日,當我們確認北陸新幹線正常行駛了,來自臺灣的陳金發師兄,帶著陳思道、盧建安與池田浩一三位師兄出發到石川縣,在七尾醫院與陳文筆醫師碰面,由陳夫人陪伴進入穴水町。

從七尾進入穴水町的道路柔腸寸斷,政府快速搶通中,並且讓救災與物資補給車輛優先通過,車程時間因此要比平常多三倍;心繫寒冬中受苦的鄉親,陳思道與井田龍成師兄元月十一日再度抵達災區,接洽熱食發放地點。

慈濟日本分會多年來與日本的志工平臺互動,在此時從該平臺有了好因緣,得以進入穴水町冥王星交流會館的避難所,確定了熱食發放的地點。

十二日熱食發放團隊啟程前夕,志工住宿處卻還沒有著落;就在大家為此緊張的時候,靜慧的先生突然提醒可以請陳醫師問問中能登町的町長;就這樣十分鐘內,為我們找到了在古民宅的住宿處。陳醫師還陪著我們進行第一天的熱食發放,也接引我們拜會北國新聞社社長,他說慈濟的善行應該要讓更多人知道。

古民宅成為切菜工廠

志工駐紮在中能登町有一百多年歷史的古民宅,即使東京偶有下雪天,我們對北陸的清冷卻不熟悉。晚上雖有暖氣,卻不足夠,連續兩夜,多數人躲在睡袋內卻仍冷得睡不著;第三天町長派人帶來了緊急災難用的防寒物資,每人兩件毛毯、一套隔熱墊。之後的梯次志工比預定人數多,大家分著使用,還有人經驗分享,晚上要穿著暖暖的羽絨衣入睡,改善了寒夜的難眠。

中能登町雖然與穴水町有五十公里之遙,但因此解決了在災區煮熱食的缺水問題。志工每晚將水袋裝滿,還將菜蔬切好洗好,隔天帶去。咚咚咚的切菜聲,是為了翌日五百多人份的熱食,隨著菜單的需求,有時候忙到子夜過後,隔天清晨六點就摸黑出發。這是沒有過的賑災經驗,資深志工笑笑地說,將近十三年前的三一一東日本大震災發放見舞金時也沒有這麼累;即使身上的痠痛貼布貼了好幾處,但是臉上的表情是甘願又歡喜!

每晚八點半重要的賑災連線會議,必須跟切菜搶時間;志工擔心切不完,於是有了一面削牛蒡、切馬鈴薯、手撕高麗菜,一面參加會議的光景。會中也分享當天溫馨點滴,還有緊張的滋味,常常笑聲不斷,消解了一天的疲憊,為未知的明天增添勇氣。

四個梯次兩個發放點,需要八位掌廚人。日本分會從二○○五年新潟中越地震的熱食發放,還有熊本地震、西日本水患後,到長野與倉敷熱食發放,以及每個月例行的街友發放與大愛食堂,熱食發放成為日本分會的強項。這其中有幾位大廚師兄利用休假日來協助,平常就是女人當家。這次能登賑災,有三位專業大廚請假來協助,專業有專業的氣勢跟口味,但是師姊的力量也不讓鬚眉。

無論來自大阪或是東京的掌廚師姊,平時都是家庭主婦,面對這麼多人數的煮食,都是首次的挑戰。聽說需要掌廚,有人緊張得好幾天睡不著,但是過後的歡喜是無法言喻。

從住宿地到熱食發放點,開車單程約兩小時,因此優先接受會開車的志工報名;即使平常只開家用小客車,也要挑戰駕駛八人座的物資車。

忙完去年的入經藏演繹,慈青學長姊紛紛喘一口氣說,終於可以專心工作了!沒想到龍年一開始,繼續更大的承擔。第一階段的賑災,他們走在最前、做到最後,還要往第二階段延續邁進。

井田龍成,在日本長大的慈二代,善用他的語言優勢及溝通能力,和各團體協調與新聞媒體互動。

盧建安,自行經營企業,從勘災開始到最後撤場,除了駕駛物資車來回東京與石川災區,還要協助收集資訊,以及熬夜做簡報、剪輯影帶,發揮了多功能。

鍾佳玲,可說是在日本分會長大的孩子,乖巧懂事、細心盡責,平常就是分會行政以及各種活動的好幫手。有過三一一賑災經驗,災難發生後隨即主動收集各種訊息;除了行政與協調,也承擔簡報製作,三更半夜還坐在電腦前整理資料,有一次四點才躺上床,五點就跟著大家起床工作。

圖1:災區一月下旬連日大雪瀰漫,志工滿載食材清晨出發,小心翼翼避免打滑危險。

圖2:從寄宿地到熱食點約五十公里,沿途田間積雪已融化,由於道路受損僅容單線通行,救災車輛密集,志工行程每天從塞車開始。(攝影/周利貞)

在雪國必須堅強起來

當前方一梯梯交替,留守後方無法到災區的志工,讓例行的街友發放、大愛食堂以及個案關懷,如常進行;同時在東北石卷、東京新宿、大阪、群馬等地,志工走上街頭募心募愛。年度大活動「祈福感恩會」,也如期圓滿舉辦。

前方人員在寒冷的雪國為了苦難的眾生相互照顧,後方人力彼此成就、合和互協,這不就是最美好的慈濟大家庭!

第一階段賑災從元月十二日到二十九日,在風光旖旎的能登半島發放的第六天,難得一見紅紅的旭日從日本海東昇,氤氳的水氣,在海面上朦朦朧朧,似乎是給志工僅有的賞賜。嚐過了前幾天的大雪,過後不知道還會有多少的堅硬雪白冰冷,等著我們踏過踩過,不知覺地告訴自己要堅強起來,因為還有許多人等待著我們溫暖的手。

二月十六日,我們再度回到穴水醫院,啟動慈濟在日本首次的「以工代賑」,邀請四位受災失業居民協助煮食。午間十二點準時供餐,已見長長的人龍隊伍,各科室代表拿著大托盤前來等候領餐,大家紛紛表示:「再次看到慈濟人,非常歡喜!」院方還提供了閒置咖啡室讓我們製作熱飲,候診病人和院內同仁紛紛留言:「沁入心的烏龍茶還有大家的笑容,是人間的美好!」「感恩熱熱的美味午飯後,今天竟然還提供了熱可可!」

想起上人在元月行腳中,多次與我們連線叮嚀,要我們不要捨近求遠,要遵守政府的法令規定,但是有機會就要把握,趕快去做。因為有上人的諄諄指導,即使在北國的大冷天,我們的心是熱的,時時把上人的話放在心中,無畏風雪,往前邁進!

志工團隊駐紮在中能登町有百年歷史的古民宅,每晚在備料、回傳資料的忙碌中,仍會齊聚一堂討論明天計畫。(攝影/周利貞)

留守東京會所的志工,元月二十日製作街頭募款箱與標語,準備上街募心募愛。(攝影/林真子)

附錄

煩惱一億次就好

撰文/島中公志(公立穴水綜合醫院院長 )

島中院長(左四)在院內料理室與志工合影留念。(攝影/周利貞)

元旦當天上午開始,我就在醫院工作了;當我計畫再一個小時後就能下班回家,結果下午四點十分開始搖晃,地震發生了!從那時開始就沒有休息,震後四天我大概只睡了兩小時。

我們的醫院停水,難以照顧病人,無法供餐,於是安排能出院的先出院;再來就是不能出院需要治療的病患,轉院到金澤;最不好處理的,就是需要洗腎的病患,最遠的有送到小松,單程就花了六小時!轉院讓很多病人都哭了,很希望留在穴水町治病。

我們所有醫護人員幾乎都受災,甚至失去了家園;有一半的職員是來自於輪島,其中五分之一無法回來上班。日本各地的醫師抵達石川縣幫忙,也是第四天的事情了。

在經歷這麼嚴重的災情後,大家心情低落;有外地的精神科醫師過來,我們就請他們照顧職員和避難所民眾的心理健康。煩惱是難免的,但是如果煩惱一億次後,可以恢復元氣的話,就煩惱一億次吧!

自從慈濟過來煮熱食,每天都有排得很長的隊伍取餐,大家非常期待餐點,吃到熱騰騰的食物之後,果然變得比較開朗。受災後過得很辛苦的人,又重新有了笑容。

發放熱食時,慈濟的每一位都很親切,而且充滿笑容;受災地本來氣氛就比較低潮,很謝謝大家把開朗的氣氛帶進來。日本有一句諺語叫做「打開笑門福自來」,所以希望用笑容面對。總有一天─就算還要幾年之後,我們可以再次笑著跟大家見面!(整理/編輯部  資料提供/大愛新聞)

新年第一天,石川縣能登半島的強震,讓進入雪季的穴水町居民更辛苦了;連續十七天,有一群人拂曉即至,帶來災區最匱乏的飲用水和蔬菜、豆腐,在低溫霜雪中為大家做一頓飯……

月刊有聲書

本文提供有聲書,歡迎播放聆聽,期待能給您不一樣的感受,用聽的來讀月刊。本篇由慈大之聲實習廣播電臺王秀芳臺長協助錄製。

感恩「慈大之聲實習廣播電臺」協助錄製,感謝慈濟大學劉怡均校長、王秀芳臺長大力支持。

原本過新年的光景,是寺廟前「初詣」的人潮,還有從大都會返鄉,與年邁的父母或親友相聚的和樂。但進入令和六年的第一天下午四點十分,在石川縣的能登半島,離地表十公里的淺層地震,震醒了天地人間。

芮氏規模七點六的強震,連遠在東京的慈濟人也感受到三級的震度;隨著海嘯警報發布,大家的心愈揪愈緊。此時電話彼端傳來了上人慈悲的聲音,心繫著志工、會員大德們是否平安。

靠近日本海,風景秀麗的能登半島,是以海產與漆器聞名的觀光地區,對慈濟志工來說,卻非常陌生。元月十三日,我們第一個熱食發放點在穴水町的冥王星交流會館展開;臨時廚房設在避難所外圍,用藍色塑膠布沿著牆壁搭起來,已經有團體駐站,並且讓出了午餐時段給慈濟人承擔。這樣的安排,讓這個團體歡喜地鬆了一口氣,因為他們只有兩個人,每天要提供一千份早晚餐。

因為是臨時搭的棚子,志工要忍受颳風、下雨、下雪的天寒地凍;冥王星交流會館避難的鄉親,高齡者占多數,志工很用心地考量到,除了要切寸菜,也要將菜煮得軟一點,儘量提供纖維足夠的蔬菜,還有蛋白質豐富的豆腐料理,飯可以少量,但是菜量不用減。有田太太說,不知道為什麼吃了我們的熱食,她的口內炎好了。這讓志工非常歡喜,這應該是素食的力量吧!

日本政府婉拒國際支援,也尚未接受外縣市志工團體進入災區,而我們能夠停留當地服務,除了來自各方貴人相助,還有我們長年在日本的慈善經驗;最重要的是上人不忍受災鄉親的無助與苦痛,這也是NHK、朝日電視臺以及北陸、北國、產經等新聞媒體訪問時,所想要了解的─我們為何而來?

回想起第一天供餐,在鄉親的感恩與讚歎聲中,志工戰戰兢兢完成任務,然而之後「煮飯」卻成為志工的惡夢。第二天下雪,對不熟悉嚴寒的志工,從沒有想過,會因為瓦斯桶的瓦斯凍結,飯煮不熟!

這一鍋鍋半生不熟的飯,讓有多年熱食賑災經驗的志工,感到非常挫敗!還好有當地志工適時提供烏龍麵,解決第二天的供餐。但是第三天,問題同樣出現,除了由另一處熱食發放點的穴水綜合醫院支援之外,避難所提供電飯鍋,讓志工在往後的梯次解決了煮飯的問題。

但是到了第三梯,電飯鍋竟然故障了!當地志工團體教我們直接用瓦斯煮飯,這對小家庭的家庭主婦、平時用電子鍋煮少人份的志工,又是另一個考驗。但是超越了困難過後,大家都很開心,因為變成煮飯高手了。

由於交通與住宿空間有限,第一梯次開放了十四位志工。如果只有一個定點發放,志工人數足足有餘,感恩石川縣臺灣交流促進協會理事長陳文筆醫師引介,穴水綜合醫院院長島中公志專程來到冥王星交流會館,問我們是否也能提供熱食,給該院醫護人員、避難家屬、町公所避難民眾,還有外地來的救難隊成員,因為他們從地震發生到現在,以泡麵和飯糰為主,沒有吃過熱食。我們毫不猶豫地答應了!

島中院長很肯定慈濟人的協助,一天幾乎來探望三次;他非常開朗幽默,碰到男眾志工一定擁抱致意,對師姊們也熱情互動。在這裏領熱食的鄉親相對年輕,需要力氣去工作,但發放的第一天都不好意思開口說要加量,因為怕不夠給後面的人;感受到志工的真誠,第二天開始小聲說,想加量大碗……不只是男士,女士們也鼓起勇氣,輕輕地說:要大碗的!

少少幾位志工在交流會館簡單環境下料理每餐數百人餐點(圖1攝影/周利貞);清晨攝氏零度,液態瓦斯即使有毛毯保護也結冰了。(圖2攝影/高晙喆)

穿梭領餐隊伍中奉茶

少少的人力,同時兩個發放點,是志工的挑戰與突破。第二天兵分兩路,兩個發放點車程相距五分鐘,前一晚的物資分類要很清楚,才不會混亂。兩梯次的發放穩定之後,第三梯的師姊開始展開軟實力,提供熱熱的淨斯烏龍茶。擔心避難鄉親喝了茶睡不著,泡的茶要淡,但仍要有茶香跟茶味。張好師姊專程從東京帶來大茶桶,在冥王星交流會館開始奉茶,受到鄉親極度的喜愛。

張好師姊又連夜去買了紗布縫製茶袋,用克難式的泡茶法,在穴水醫院也開始奉茶。茶香暖人心,在等待領餐的隊伍中,師姊們真誠地一一奉茶,話匣子就打開了,除去了大和民族常見的內斂與壓抑,前幾日即使不斷聽到感恩的話,總是覺得很緊繃;然而小小一杯茶,讓拘謹的臉龐展開笑容問說可不可以續杯,因為從來沒喝過這麼好喝的烏龍茶,茶熱熱的又香又順口。志工從淨斯烏龍茶的有機栽培,分享到慈濟的環保理念,讓人開始想了解我們的團體。

紅紅的平安吊飾,引起受災鄉親的注意,紛紛問這個是否等於日本的「御守」?志工回答說,這代表慈濟人的祝福,祝福他們平安幸福,早日恢復往日的生活;他們都說這要跟朋友結緣,可愛的院長更將之掛在兩耳,替我們宣傳。

元月二十二日於穴水綜合醫院提供的菜色是麻婆豆腐,吸引許多人排隊取餐。

感恩不可思議的因緣

在日本政府仍然婉拒國際支援,以及尚未接受外縣市的志工團體,我們能夠及時動員,除了來自各方貴人相助,以及我們長年煮熱食的經驗,最重要的是有上人的指導,不忍受災鄉親的無助與苦痛,只想在第一時間給予熱熱的、營養溫飽的一碗飯,這是NHK、朝日電視臺以及北陸、北國、產經等新聞媒體,想要了解這來自臺灣的慈善團體,為何而來。而我們就只是這麼單純的一念心而已。

去年一場在大阪的醫師聚會,關西協力組長陳靜慧師姊跟著任職臺北駐大阪辦事處副處長的先生出席,在會中把握短短的時間,分享了上人行願半世紀的故事。陳文筆醫師夫婦自石川縣而來,因緣參加了這場僑會活動,聽到靜慧師姊的分享,也因此有了概念,肯定慈濟是一個很有愛心的團體。

陳醫師視病如親,常在自家門口發現未具名的病人送來的禮物;震災發生後,他和石川臺灣促進會的理事,更載著物資送入災區二十一趟。

元月五日,當我們確認北陸新幹線正常行駛了,來自臺灣的陳金發師兄,帶著陳思道、盧建安與池田浩一三位師兄出發到石川縣,在七尾醫院與陳文筆醫師碰面,由陳夫人陪伴進入穴水町。

從七尾進入穴水町的道路柔腸寸斷,政府快速搶通中,並且讓救災與物資補給車輛優先通過,車程時間因此要比平常多三倍;心繫寒冬中受苦的鄉親,陳思道與井田龍成師兄元月十一日再度抵達災區,接洽熱食發放地點。

慈濟日本分會多年來與日本的志工平臺互動,在此時從該平臺有了好因緣,得以進入穴水町冥王星交流會館的避難所,確定了熱食發放的地點。

十二日熱食發放團隊啟程前夕,志工住宿處卻還沒有著落;就在大家為此緊張的時候,靜慧的先生突然提醒可以請陳醫師問問中能登町的町長;就這樣十分鐘內,為我們找到了在古民宅的住宿處。陳醫師還陪著我們進行第一天的熱食發放,也接引我們拜會北國新聞社社長,他說慈濟的善行應該要讓更多人知道。

古民宅成為切菜工廠

志工駐紮在中能登町有一百多年歷史的古民宅,即使東京偶有下雪天,我們對北陸的清冷卻不熟悉。晚上雖有暖氣,卻不足夠,連續兩夜,多數人躲在睡袋內卻仍冷得睡不著;第三天町長派人帶來了緊急災難用的防寒物資,每人兩件毛毯、一套隔熱墊。之後的梯次志工比預定人數多,大家分著使用,還有人經驗分享,晚上要穿著暖暖的羽絨衣入睡,改善了寒夜的難眠。

中能登町雖然與穴水町有五十公里之遙,但因此解決了在災區煮熱食的缺水問題。志工每晚將水袋裝滿,還將菜蔬切好洗好,隔天帶去。咚咚咚的切菜聲,是為了翌日五百多人份的熱食,隨著菜單的需求,有時候忙到子夜過後,隔天清晨六點就摸黑出發。這是沒有過的賑災經驗,資深志工笑笑地說,將近十三年前的三一一東日本大震災發放見舞金時也沒有這麼累;即使身上的痠痛貼布貼了好幾處,但是臉上的表情是甘願又歡喜!

每晚八點半重要的賑災連線會議,必須跟切菜搶時間;志工擔心切不完,於是有了一面削牛蒡、切馬鈴薯、手撕高麗菜,一面參加會議的光景。會中也分享當天溫馨點滴,還有緊張的滋味,常常笑聲不斷,消解了一天的疲憊,為未知的明天增添勇氣。

四個梯次兩個發放點,需要八位掌廚人。日本分會從二○○五年新潟中越地震的熱食發放,還有熊本地震、西日本水患後,到長野與倉敷熱食發放,以及每個月例行的街友發放與大愛食堂,熱食發放成為日本分會的強項。這其中有幾位大廚師兄利用休假日來協助,平常就是女人當家。這次能登賑災,有三位專業大廚請假來協助,專業有專業的氣勢跟口味,但是師姊的力量也不讓鬚眉。

無論來自大阪或是東京的掌廚師姊,平時都是家庭主婦,面對這麼多人數的煮食,都是首次的挑戰。聽說需要掌廚,有人緊張得好幾天睡不著,但是過後的歡喜是無法言喻。

從住宿地到熱食發放點,開車單程約兩小時,因此優先接受會開車的志工報名;即使平常只開家用小客車,也要挑戰駕駛八人座的物資車。

忙完去年的入經藏演繹,慈青學長姊紛紛喘一口氣說,終於可以專心工作了!沒想到龍年一開始,繼續更大的承擔。第一階段的賑災,他們走在最前、做到最後,還要往第二階段延續邁進。

井田龍成,在日本長大的慈二代,善用他的語言優勢及溝通能力,和各團體協調與新聞媒體互動。

盧建安,自行經營企業,從勘災開始到最後撤場,除了駕駛物資車來回東京與石川災區,還要協助收集資訊,以及熬夜做簡報、剪輯影帶,發揮了多功能。

鍾佳玲,可說是在日本分會長大的孩子,乖巧懂事、細心盡責,平常就是分會行政以及各種活動的好幫手。有過三一一賑災經驗,災難發生後隨即主動收集各種訊息;除了行政與協調,也承擔簡報製作,三更半夜還坐在電腦前整理資料,有一次四點才躺上床,五點就跟著大家起床工作。

圖1:災區一月下旬連日大雪瀰漫,志工滿載食材清晨出發,小心翼翼避免打滑危險。

圖2:從寄宿地到熱食點約五十公里,沿途田間積雪已融化,由於道路受損僅容單線通行,救災車輛密集,志工行程每天從塞車開始。(攝影/周利貞)

在雪國必須堅強起來

當前方一梯梯交替,留守後方無法到災區的志工,讓例行的街友發放、大愛食堂以及個案關懷,如常進行;同時在東北石卷、東京新宿、大阪、群馬等地,志工走上街頭募心募愛。年度大活動「祈福感恩會」,也如期圓滿舉辦。

前方人員在寒冷的雪國為了苦難的眾生相互照顧,後方人力彼此成就、合和互協,這不就是最美好的慈濟大家庭!

第一階段賑災從元月十二日到二十九日,在風光旖旎的能登半島發放的第六天,難得一見紅紅的旭日從日本海東昇,氤氳的水氣,在海面上朦朦朧朧,似乎是給志工僅有的賞賜。嚐過了前幾天的大雪,過後不知道還會有多少的堅硬雪白冰冷,等著我們踏過踩過,不知覺地告訴自己要堅強起來,因為還有許多人等待著我們溫暖的手。

二月十六日,我們再度回到穴水醫院,啟動慈濟在日本首次的「以工代賑」,邀請四位受災失業居民協助煮食。午間十二點準時供餐,已見長長的人龍隊伍,各科室代表拿著大托盤前來等候領餐,大家紛紛表示:「再次看到慈濟人,非常歡喜!」院方還提供了閒置咖啡室讓我們製作熱飲,候診病人和院內同仁紛紛留言:「沁入心的烏龍茶還有大家的笑容,是人間的美好!」「感恩熱熱的美味午飯後,今天竟然還提供了熱可可!」

想起上人在元月行腳中,多次與我們連線叮嚀,要我們不要捨近求遠,要遵守政府的法令規定,但是有機會就要把握,趕快去做。因為有上人的諄諄指導,即使在北國的大冷天,我們的心是熱的,時時把上人的話放在心中,無畏風雪,往前邁進!

志工團隊駐紮在中能登町有百年歷史的古民宅,每晚在備料、回傳資料的忙碌中,仍會齊聚一堂討論明天計畫。(攝影/周利貞)

留守東京會所的志工,元月二十日製作街頭募款箱與標語,準備上街募心募愛。(攝影/林真子)

附錄

煩惱一億次就好

撰文/島中公志(公立穴水綜合醫院院長 )

島中院長(左四)在院內料理室與志工合影留念。(攝影/周利貞)

元旦當天上午開始,我就在醫院工作了;當我計畫再一個小時後就能下班回家,結果下午四點十分開始搖晃,地震發生了!從那時開始就沒有休息,震後四天我大概只睡了兩小時。

我們的醫院停水,難以照顧病人,無法供餐,於是安排能出院的先出院;再來就是不能出院需要治療的病患,轉院到金澤;最不好處理的,就是需要洗腎的病患,最遠的有送到小松,單程就花了六小時!轉院讓很多病人都哭了,很希望留在穴水町治病。

我們所有醫護人員幾乎都受災,甚至失去了家園;有一半的職員是來自於輪島,其中五分之一無法回來上班。日本各地的醫師抵達石川縣幫忙,也是第四天的事情了。

在經歷這麼嚴重的災情後,大家心情低落;有外地的精神科醫師過來,我們就請他們照顧職員和避難所民眾的心理健康。煩惱是難免的,但是如果煩惱一億次後,可以恢復元氣的話,就煩惱一億次吧!

自從慈濟過來煮熱食,每天都有排得很長的隊伍取餐,大家非常期待餐點,吃到熱騰騰的食物之後,果然變得比較開朗。受災後過得很辛苦的人,又重新有了笑容。

發放熱食時,慈濟的每一位都很親切,而且充滿笑容;受災地本來氣氛就比較低潮,很謝謝大家把開朗的氣氛帶進來。日本有一句諺語叫做「打開笑門福自來」,所以希望用笑容面對。總有一天─就算還要幾年之後,我們可以再次笑著跟大家見面!(整理/編輯部  資料提供/大愛新聞)

媽媽的竹筒♫

鄭淑文家中佛堂,佛像旁兩個方形竹筒,盛裝著綿長的思念與祝福。

拿起竹筒時那種沉甸甸的感覺,我體會到, 也許那是媽媽每天禮佛,想念爸爸、想念我們時,為我們投下的硬幣和祝福;也是她每次感到孤單時,把小愛轉為大愛的努力。

月刊有聲書

本文提供有聲書,歡迎播放聆聽,期待能給您不一樣的感受,用聽的來讀月刊。本篇由懿宣師姊協助錄製。

感恩「慈大之聲實習廣播電臺」協助錄製,感謝慈濟大學劉怡均校長、王秀芳臺長大力支持。

媽媽過世後,我們才發現家裏有好多竹筒沉甸甸的。一對在進門的觀世音菩薩像旁,一對在佛像旁。弟弟和我將它們捐了出去,具體裏面有多少錢,因為沒有打開來算,所以並不清楚。

記得之前讀過上人開始募款的故事,那些第一批跟著上人的弟子們都是菜籃族的家庭主婦,她們每天買菜時省下一點零錢,投入竹筒中,發願一天一點,隨分隨力地去布施,讓師父能夠救人。

瓊㺿師姑告訴我,她想關心我們姊弟,又怕給我們壓力,於是想起我們時,就投一個硬幣進去竹筒裏,為我們祈福。她說那是上人教她的方式。

整理佛堂時,也看見有些硬幣用塑膠袋裝著,或是放在盒子裏,感覺好像定課一樣,媽媽一天會投幾個進竹筒;盒子裏的硬幣方便拿取,而旁邊用塑膠袋裝的是備用,等盒子裏的硬幣投完,可以繼續倒進去投的。

想起自己拿起竹筒時那種沉甸甸的感覺,突然體會到,也許那是媽媽每天禮佛時,想念爸爸、想念我們時,為我們投下的硬幣。也是她每次感到孤單時,把小愛轉為大愛的努力。

每一個硬幣都代表著思念和祝福,每天每天,累積到最後,就是這麼厚重的竹筒。而在這之前,媽媽已經不知道捐了多少個竹筒了。

媽媽一個人面對生活時,每天想著我們、想著爸爸時,是什麼樣的心情?在投下每一個硬幣時,又是什麼樣的心情?

媽媽對爸爸的愛、對我們的愛如此深重,就如同拿在手裏的竹筒,飽滿扎實,深厚如斯。每一個硬幣,代表著媽媽綿長的思念,密密不斷。

相比我們出門在外,為自己的事情而開心、難過,有多少時候想著爸媽?而媽媽無論遇到什麼事情,無論我們身在何處,都恆常不斷地關心著我們。

竹筒不僅串接著媽媽的思念,也代表著媽媽的智慧。因為媽媽用布施承載她對我們的關愛,來為我們植福,讓更多需要幫助的人能受益。所以媽媽的關愛,牽起了上人和佛菩薩對千千萬萬人的關愛;如今透過這些竹筒,媽媽更是把我們帶到了靜思堂,帶到了上人身邊,當直接發願布施的人。

媽媽說過,有福的人有責任要多付出。爸爸說過,被多少人需要,就是我們生命的價值。

想起媽媽談到慈濟在日本、四川乃至最近的尼泊爾時,那種捨我其誰,拚命想去第一線拔苦予樂的神情,突然我對媽媽所投下的每一個硬幣生起了深深的敬意,那承載著一位人間菩薩殷切而珍貴的發心。

而這位菩薩不在別處,就在我的身邊。這個發心不是偶爾才發起,而是每日不間斷的善念延續。

善巧啟發人們善種子的媽媽,是否也在身後利用她所留下的各種東西,來啟發我們的善根,擴大我們的心量呢?她不僅用關愛串起自己與眾生的緣,乃至她的竹筒,如今依然帶我們與無數受苦的眾生結緣,讓我們學習當那個手心向下的人,懂得去關心別人的苦樂。

滴滴小善流入眾人善力的大海,點點思念編織為帶我們走上菩薩道的康莊大道。媽媽菩薩般的願力透過竹筒,傳遞給了我們,教我們也不知不覺地學會布施。這一生能夠擁有如此愛我們又如此有智慧的菩薩媽媽,我們何其幸運!

附錄

絕響的滋味

撰文‧靜淇(臺中慈濟志工)

鄭淑文(左)與同修林漢宗(右)的慈悲身行,啟發兒女懂得去關心別人的苦樂。(攝影/章宏達)

淑文留給我一條麵包,那淡淡的清香令齒頰留芳,而嚼勁富層次的軟Q,恰如她的優雅、溫和以及內方外圓的特質。這已成絕響的滋味,將永遠埋藏在我內心深處。

冰箱冷凍庫還有半條麵包,想吃又捨不得吃,每次拿出來又放回去,深怕吃完了,那僅存的味道會從此消失。因為,於我而言,那是鄭淑文在世最後做的一條麵包。

淑文師姊的手做麵包,在中區慈濟圈夙負盛名,吃過的人都讚不絕口。身為人文推廣志工的她,很是自豪麵包食材除了麵粉外,其他諸如榖粉、椰糖、堅果、莓果乾等等,都是淨斯產品。

兩年前第一次吃到麵包時,我向她說:「這不只是一個味道,也是一種感覺。」特別是那淡淡的清香,常令齒頰留芳,而嚼勁富層次的軟Q,恰如她的優雅、溫和以及內方外圓的特質。當時,她非常開心有人懂她的麵包,而我也因為這番肺腑之言,從此每隔一段時間,就會收到她做的麵包。

記得去年十一月底,她要回花蓮擔任海外營工作人員,特地在出門前兩天做麵包,寄放在臺中靜思堂給我。她告訴我,營隊十二月初結束回來,接著要忙社區歲末祝福等等,還說,也許這是她今年最後做的一條麵包。

沒想到無常竟然比明天先到,她在營隊結束隔天,毫無預警地、瀟灑地離開人世,令眾人錯愕、哀傷不已。細細回想她的話「今年最後做的一條麵包」,是否意味著向我告別?

做到自己的發願

淑文做事明快,思慮周到,在慈濟法親眼中,她是積極熱情的,與她相處,如沐春風;而在子女的心中,媽媽的家庭教育是「品行第一,成績其次」,也因此教養出一對在專業及人際關係上都非常傑出的子女。

她是一位堅強、智慧又善解人意的女性。尤其五年前,同為慈濟志工的先生林漢宗因病往生,她收起眼淚,挺起肩膀,更加精進聞法,讀書會、懿德媽媽、人文推廣,慈濟事從不缺席,甚至帶著車禍受傷的膝蓋,一跛一跛地完成《無量義 法髓頌》經藏演繹。她發願要把先生的那一份也一併做回來,她真的做到了。

停靈於慈濟東大園區附近的禮儀社,淑文的追思會於二○二三年十二月二十四日舉行;此前,將近三週期間,溫春蘆、林文秀師姊還有法親們,就近天天送餐陪伴,慈濟大家庭滿滿的愛與溫暖,讓失怙失恃的姊弟倆,更感恩在他們負笈國外時,媽媽因依止在慈濟而讓生命更豐足。

雖然世事虛幻無常,但回顧淑文六十四載的人生,在家庭、在慈濟所發揮的生命良能,已踏踏實實留下人間菩薩行跡,此生應已無憾了。而那已成絕響的麵包滋味,也將永遠埋藏在我的內心深處。

鄭淑文家中佛堂,佛像旁兩個方形竹筒,盛裝著綿長的思念與祝福。

拿起竹筒時那種沉甸甸的感覺,我體會到, 也許那是媽媽每天禮佛,想念爸爸、想念我們時,為我們投下的硬幣和祝福;也是她每次感到孤單時,把小愛轉為大愛的努力。

月刊有聲書

本文提供有聲書,歡迎播放聆聽,期待能給您不一樣的感受,用聽的來讀月刊。本篇由懿宣師姊協助錄製。

感恩「慈大之聲實習廣播電臺」協助錄製,感謝慈濟大學劉怡均校長、王秀芳臺長大力支持。

媽媽過世後,我們才發現家裏有好多竹筒沉甸甸的。一對在進門的觀世音菩薩像旁,一對在佛像旁。弟弟和我將它們捐了出去,具體裏面有多少錢,因為沒有打開來算,所以並不清楚。

記得之前讀過上人開始募款的故事,那些第一批跟著上人的弟子們都是菜籃族的家庭主婦,她們每天買菜時省下一點零錢,投入竹筒中,發願一天一點,隨分隨力地去布施,讓師父能夠救人。

瓊㺿師姑告訴我,她想關心我們姊弟,又怕給我們壓力,於是想起我們時,就投一個硬幣進去竹筒裏,為我們祈福。她說那是上人教她的方式。

整理佛堂時,也看見有些硬幣用塑膠袋裝著,或是放在盒子裏,感覺好像定課一樣,媽媽一天會投幾個進竹筒;盒子裏的硬幣方便拿取,而旁邊用塑膠袋裝的是備用,等盒子裏的硬幣投完,可以繼續倒進去投的。

想起自己拿起竹筒時那種沉甸甸的感覺,突然體會到,也許那是媽媽每天禮佛時,想念爸爸、想念我們時,為我們投下的硬幣。也是她每次感到孤單時,把小愛轉為大愛的努力。

每一個硬幣都代表著思念和祝福,每天每天,累積到最後,就是這麼厚重的竹筒。而在這之前,媽媽已經不知道捐了多少個竹筒了。

媽媽一個人面對生活時,每天想著我們、想著爸爸時,是什麼樣的心情?在投下每一個硬幣時,又是什麼樣的心情?

媽媽對爸爸的愛、對我們的愛如此深重,就如同拿在手裏的竹筒,飽滿扎實,深厚如斯。每一個硬幣,代表著媽媽綿長的思念,密密不斷。

相比我們出門在外,為自己的事情而開心、難過,有多少時候想著爸媽?而媽媽無論遇到什麼事情,無論我們身在何處,都恆常不斷地關心著我們。

竹筒不僅串接著媽媽的思念,也代表著媽媽的智慧。因為媽媽用布施承載她對我們的關愛,來為我們植福,讓更多需要幫助的人能受益。所以媽媽的關愛,牽起了上人和佛菩薩對千千萬萬人的關愛;如今透過這些竹筒,媽媽更是把我們帶到了靜思堂,帶到了上人身邊,當直接發願布施的人。

媽媽說過,有福的人有責任要多付出。爸爸說過,被多少人需要,就是我們生命的價值。

想起媽媽談到慈濟在日本、四川乃至最近的尼泊爾時,那種捨我其誰,拚命想去第一線拔苦予樂的神情,突然我對媽媽所投下的每一個硬幣生起了深深的敬意,那承載著一位人間菩薩殷切而珍貴的發心。

而這位菩薩不在別處,就在我的身邊。這個發心不是偶爾才發起,而是每日不間斷的善念延續。

善巧啟發人們善種子的媽媽,是否也在身後利用她所留下的各種東西,來啟發我們的善根,擴大我們的心量呢?她不僅用關愛串起自己與眾生的緣,乃至她的竹筒,如今依然帶我們與無數受苦的眾生結緣,讓我們學習當那個手心向下的人,懂得去關心別人的苦樂。

滴滴小善流入眾人善力的大海,點點思念編織為帶我們走上菩薩道的康莊大道。媽媽菩薩般的願力透過竹筒,傳遞給了我們,教我們也不知不覺地學會布施。這一生能夠擁有如此愛我們又如此有智慧的菩薩媽媽,我們何其幸運!

附錄

絕響的滋味

撰文‧靜淇(臺中慈濟志工)

鄭淑文(左)與同修林漢宗(右)的慈悲身行,啟發兒女懂得去關心別人的苦樂。(攝影/章宏達)

淑文留給我一條麵包,那淡淡的清香令齒頰留芳,而嚼勁富層次的軟Q,恰如她的優雅、溫和以及內方外圓的特質。這已成絕響的滋味,將永遠埋藏在我內心深處。

冰箱冷凍庫還有半條麵包,想吃又捨不得吃,每次拿出來又放回去,深怕吃完了,那僅存的味道會從此消失。因為,於我而言,那是鄭淑文在世最後做的一條麵包。

淑文師姊的手做麵包,在中區慈濟圈夙負盛名,吃過的人都讚不絕口。身為人文推廣志工的她,很是自豪麵包食材除了麵粉外,其他諸如榖粉、椰糖、堅果、莓果乾等等,都是淨斯產品。

兩年前第一次吃到麵包時,我向她說:「這不只是一個味道,也是一種感覺。」特別是那淡淡的清香,常令齒頰留芳,而嚼勁富層次的軟Q,恰如她的優雅、溫和以及內方外圓的特質。當時,她非常開心有人懂她的麵包,而我也因為這番肺腑之言,從此每隔一段時間,就會收到她做的麵包。

記得去年十一月底,她要回花蓮擔任海外營工作人員,特地在出門前兩天做麵包,寄放在臺中靜思堂給我。她告訴我,營隊十二月初結束回來,接著要忙社區歲末祝福等等,還說,也許這是她今年最後做的一條麵包。

沒想到無常竟然比明天先到,她在營隊結束隔天,毫無預警地、瀟灑地離開人世,令眾人錯愕、哀傷不已。細細回想她的話「今年最後做的一條麵包」,是否意味著向我告別?

做到自己的發願

淑文做事明快,思慮周到,在慈濟法親眼中,她是積極熱情的,與她相處,如沐春風;而在子女的心中,媽媽的家庭教育是「品行第一,成績其次」,也因此教養出一對在專業及人際關係上都非常傑出的子女。

她是一位堅強、智慧又善解人意的女性。尤其五年前,同為慈濟志工的先生林漢宗因病往生,她收起眼淚,挺起肩膀,更加精進聞法,讀書會、懿德媽媽、人文推廣,慈濟事從不缺席,甚至帶著車禍受傷的膝蓋,一跛一跛地完成《無量義 法髓頌》經藏演繹。她發願要把先生的那一份也一併做回來,她真的做到了。

停靈於慈濟東大園區附近的禮儀社,淑文的追思會於二○二三年十二月二十四日舉行;此前,將近三週期間,溫春蘆、林文秀師姊還有法親們,就近天天送餐陪伴,慈濟大家庭滿滿的愛與溫暖,讓失怙失恃的姊弟倆,更感恩在他們負笈國外時,媽媽因依止在慈濟而讓生命更豐足。

雖然世事虛幻無常,但回顧淑文六十四載的人生,在家庭、在慈濟所發揮的生命良能,已踏踏實實留下人間菩薩行跡,此生應已無憾了。而那已成絕響的麵包滋味,也將永遠埋藏在我的內心深處。

掛心七年 將衛浴送進阿嬤家

志工敬佩阿嬤的樂觀與勤儉,也不捨她和孫子長年在屋外塑膠棚下沐浴,耐心奔走直到「簡易衛浴設備」就定位,七年的等待,終於放下擔憂!

「他們住的地方沒有衛浴設備,也沒有水,平常用『水拹仔』提水、燒熱水洗澡,上廁所也不方便。」雲林縣土庫鎮慈濟訪視志工李惠玲、楊智欽,陪伴吳阿嬤七年了,不捨祖孫長期在克難的環境中生活,一直希望為他們改善基本生活條件,卻因土地因素一直無法如願。

六十八歲的吳阿嬤住在大哥提供的簡陋鐵皮屋,女兒改嫁後,由她承擔起照顧外孫的責任。祖孫生活有女兒資助,還有阿嬤撿拾回收物補貼家用,鐵皮屋前面的紅磚瓦房,堆滿她撿回來的物資。磚房前有個老一輩人很熟悉的「水拹仔」,也就是手壓泵浦,是阿嬤汲水的主要來源;平常如廁,就到屋前巷弄角落的行動廁所,後來連這個廁所也故障,阿嬤不得已只好跟住在隔壁的二哥借用。

屋外用黑色塑膠布搭建矮棚,權充洗澡間;提水燒水,再小心翼翼端到棚內,孫子在冬天沐浴常常冷到發抖。阿嬤遲遲不願意讓慈濟安裝衛浴設備,是因為土地是大哥的。不怕吃苦也不喜歡麻煩別人的阿嬤說:「地不是自己的,不好意思占用。」

小工程大專業

李惠玲、楊智欽、林緞等多位志工鍥而不捨,多次拜訪阿嬤的兄長和里長吳秋嬌協助,於二○二三年底,大哥簽署修繕同意書,二哥也立刻將自來水管裝好;緊接著慈濟基金會營建處專業人員場勘,二○二四年元月二十一日施工。

彰化修繕團隊和營建處同仁陳文亮一早即抵達,計畫將衛浴設備安裝在鐵皮屋與紅磚房之間。他們用電鑽挖開堅硬的柏油路面,埋管、填土、鋪上水泥、瀝青,讓排水管穿過倉庫延伸到外面的溝渠。

志工清除紅磚房的回收雜物,準備騰出空間安裝熱水爐、水管、電表;再合力將「整體式衛浴設備」放置在屋前定點,緊接著分工挖鑿衛浴排水管的通路,用水泥固定衛浴設備,安裝熱水爐。放置衛浴設備的地面不平,用水泥墊高後,又鋪設臺階銜接衛浴與地面的落差。

修繕志工來自員林、彰化、西螺等地,各具有油漆、防水工程等專才。黃榮聰說,雖然只是拉管線、安裝熱水器,做的是小事卻很歡喜。二○二二年自台電退休的程正哲表示:「以前只有修繕相關知識,退休後是實務上的工作,到過苗栗、嘉義、臺南等地,與志工、受助者結好緣,生活很充實;因此也看到不同家庭的苦相,會很珍惜現在。」

范光文的專長是園藝,卻是修繕團隊不可缺少的人才,因為搭鐵皮屋等工事時不免需要鋸樹,漸漸地他也鍛鍊出各種功能,每次出勤都有收穫,「能做就盡量做,舉凡鋪水泥、打地基、接水管、做水電,雖然不是專長,但做中學、學中覺,感恩有機會學習。」昨天他還在彰化參加慈濟歲末祝福,和照顧戶圍爐,「今天來到雲林修繕,看了這樣的環境蠻心痛的。」

吳阿嬤的遮棚浴室

衛浴間有熱水

多年來,陳文亮配合臺中、彰化、南投、雲林等訪視團隊為受助戶修繕,再小的工程也是勞心勞力。這次看似簡易的衛浴安裝,也要克服種種障礙,最困難的是附近產權複雜,排水管路要通到公所的排水系統,也要跟鄰居做一些溝通,歷經多次會勘才能夠完成。

十一點多,施工接近尾聲,陳文亮為祖孫二人示範熱水爐操作及衛浴設備使用;他特別叮嚀阿嬤:「等一下先打開水龍頭,讓水流十分鐘,順暢後再關起來,過一會兒就可以安心使用衛浴了。」

「浴室有熱水可以洗澡,這樣有方便嗎?」志工問。

「很方便,感謝你們大家。謝謝!」阿嬤開心地笑了。

志工李惠玲也笑了,因為氣象局預測,隔天將有一波冷氣團來襲,最低溫降到攝氏七度。想到就讀國三的外孫,不用再彎腰躲進帳棚吹著寒風洗澡,每日最重要的生理需求也獲得解決,這是志工團隊在迎接龍年到來時,送給祖孫最好的新年禮物。

志工敬佩阿嬤的樂觀與勤儉,也不捨她和孫子長年在屋外塑膠棚下沐浴,耐心奔走直到「簡易衛浴設備」就定位,七年的等待,終於放下擔憂!

「他們住的地方沒有衛浴設備,也沒有水,平常用『水拹仔』提水、燒熱水洗澡,上廁所也不方便。」雲林縣土庫鎮慈濟訪視志工李惠玲、楊智欽,陪伴吳阿嬤七年了,不捨祖孫長期在克難的環境中生活,一直希望為他們改善基本生活條件,卻因土地因素一直無法如願。

六十八歲的吳阿嬤住在大哥提供的簡陋鐵皮屋,女兒改嫁後,由她承擔起照顧外孫的責任。祖孫生活有女兒資助,還有阿嬤撿拾回收物補貼家用,鐵皮屋前面的紅磚瓦房,堆滿她撿回來的物資。磚房前有個老一輩人很熟悉的「水拹仔」,也就是手壓泵浦,是阿嬤汲水的主要來源;平常如廁,就到屋前巷弄角落的行動廁所,後來連這個廁所也故障,阿嬤不得已只好跟住在隔壁的二哥借用。

屋外用黑色塑膠布搭建矮棚,權充洗澡間;提水燒水,再小心翼翼端到棚內,孫子在冬天沐浴常常冷到發抖。阿嬤遲遲不願意讓慈濟安裝衛浴設備,是因為土地是大哥的。不怕吃苦也不喜歡麻煩別人的阿嬤說:「地不是自己的,不好意思占用。」

小工程大專業

李惠玲、楊智欽、林緞等多位志工鍥而不捨,多次拜訪阿嬤的兄長和里長吳秋嬌協助,於二○二三年底,大哥簽署修繕同意書,二哥也立刻將自來水管裝好;緊接著慈濟基金會營建處專業人員場勘,二○二四年元月二十一日施工。

彰化修繕團隊和營建處同仁陳文亮一早即抵達,計畫將衛浴設備安裝在鐵皮屋與紅磚房之間。他們用電鑽挖開堅硬的柏油路面,埋管、填土、鋪上水泥、瀝青,讓排水管穿過倉庫延伸到外面的溝渠。

志工清除紅磚房的回收雜物,準備騰出空間安裝熱水爐、水管、電表;再合力將「整體式衛浴設備」放置在屋前定點,緊接著分工挖鑿衛浴排水管的通路,用水泥固定衛浴設備,安裝熱水爐。放置衛浴設備的地面不平,用水泥墊高後,又鋪設臺階銜接衛浴與地面的落差。

修繕志工來自員林、彰化、西螺等地,各具有油漆、防水工程等專才。黃榮聰說,雖然只是拉管線、安裝熱水器,做的是小事卻很歡喜。二○二二年自台電退休的程正哲表示:「以前只有修繕相關知識,退休後是實務上的工作,到過苗栗、嘉義、臺南等地,與志工、受助者結好緣,生活很充實;因此也看到不同家庭的苦相,會很珍惜現在。」

范光文的專長是園藝,卻是修繕團隊不可缺少的人才,因為搭鐵皮屋等工事時不免需要鋸樹,漸漸地他也鍛鍊出各種功能,每次出勤都有收穫,「能做就盡量做,舉凡鋪水泥、打地基、接水管、做水電,雖然不是專長,但做中學、學中覺,感恩有機會學習。」昨天他還在彰化參加慈濟歲末祝福,和照顧戶圍爐,「今天來到雲林修繕,看了這樣的環境蠻心痛的。」

吳阿嬤的遮棚浴室

衛浴間有熱水

多年來,陳文亮配合臺中、彰化、南投、雲林等訪視團隊為受助戶修繕,再小的工程也是勞心勞力。這次看似簡易的衛浴安裝,也要克服種種障礙,最困難的是附近產權複雜,排水管路要通到公所的排水系統,也要跟鄰居做一些溝通,歷經多次會勘才能夠完成。

十一點多,施工接近尾聲,陳文亮為祖孫二人示範熱水爐操作及衛浴設備使用;他特別叮嚀阿嬤:「等一下先打開水龍頭,讓水流十分鐘,順暢後再關起來,過一會兒就可以安心使用衛浴了。」

「浴室有熱水可以洗澡,這樣有方便嗎?」志工問。

「很方便,感謝你們大家。謝謝!」阿嬤開心地笑了。

志工李惠玲也笑了,因為氣象局預測,隔天將有一波冷氣團來襲,最低溫降到攝氏七度。想到就讀國三的外孫,不用再彎腰躲進帳棚吹著寒風洗澡,每日最重要的生理需求也獲得解決,這是志工團隊在迎接龍年到來時,送給祖孫最好的新年禮物。

最優設計─讓科技回歸慈悲

行動廚房、淨水器、摺疊床、環保毛毯……
基於救苦救難所研發的種種工具,
該如何追上天災人禍發生的頻率?

年輕人跑得快,
慈濟連結資源、創造平臺讓他們練功,
帶動新世代逆轉當代危機。

行動廚房、淨水器、摺疊床、環保毛毯……基於救苦救難所研發的種種工具,該如何追上天災人禍發生的頻率?

年輕人跑得快,慈濟連結資源、創造平臺讓他們練功,帶動新世代逆轉當代危機。

隨著氣候變遷加劇,全球重災頻率升高,慈濟近二十年來積極研發各種應對緊急災害的用品,從機具類的行動廚房、行動淨水器,居住類的組合屋、摺疊式「福慧床」、「福慧桌椅」,到用回收寶特瓶製成的環保毛毯,用水沖泡即可食用的香積飯,每一項資材,都是為了救苦救難而研發。

「慈悲科技」的名稱與內涵,就在這些「為眾生」的研發歷程中,愈發成熟而充實。時至今日,不僅「出社會」的慈濟志工與志同道合的產學界人士積極合作,推出許多成熟產品並投入賑災濟貧第一線,許多高中職學生與大專青年,也在慈濟舉辦的慈悲科技創新競賽中,發表許多有助於慈善賑災與醫療長照的優秀設計方案。

從救災實際經驗中所研發改良的慈濟行動廚房,把炊具與爐具裝在一輛車上,能就近且快速為救災現場提供大量熱食;圖為二○一八年「救將!防救災體驗營」,志工簡介防救災設備。(攝影/黃筱哲)

化極微光為極亮光

二○二三年十一月中旬,慈悲科技創新競賽熱烈進行之際,世界氣象組織提出警告,全球平均氣溫已比工業革命前升高攝氏一點四度,二氧化碳總量則多出百分之五十,氣候變遷危機距離「不可逆轉」的臨界點近在咫尺;俄烏戰爭烽火未歇,以巴戰禍又起,傷亡及流離的悲歌不知何時方可止息。

「科技到底是幫助人,還是把人帶往毀滅之途?這個答案存乎一心。」慈濟基金會副執行長劉效成,在競賽開幕式上語重心長地提醒。

戰爭衝突、環境破壞等影響人類生存的危機,是盤根錯節的系統性問題,不免令人感到灰心,卻也必須加緊腳步應對。

「過去我們談氣候變遷,現在已經是全球沸騰(global boiling)的生存威脅了。這一代如果不採取行動,留給下一代的將是一個沒有希望的環境。」劉效成表示,慈濟已經展開全臺靜思堂建築的碳盤查,並建置太陽光電設備、能源管理系統,借重數位科技降低溫室氣體排放,矢志成為NGO淨零排放的先行者。

「慈濟基金會也推動『企業共善』,例如結合貨運公司專業的物流體系,賑災時能更快、更有序地把物資送給需要的人。」劉效成補充說明,每一個企業、每一個人都有強項,而慈濟做的是把人才、資源連結到同一個平臺上,一起做對人類、環境有益的事;在慈濟青年公益實踐計畫中,創造業師與年輕人之間的連結,則是讓年輕人有機會學習業界的專業思維與做法。

「科技如何運用還是在人,如果想的是競爭或是壓倒對方,就會往壞的方向去走。就如上人常說,善惡拔河誰會贏?答案是人多的一方會勝利。」每個人都像是一隻螢火蟲,聚在一起就會放出極大的光芒,就有可能翻轉世界,這需要大家相互影響、彼此協作。舉辦慈悲科技競賽等青年公益相關活動、接引不同世代的初衷則是,「希望能啟發更多年輕人,以善念發揮更貼近這個世代需求的想法。」劉效成指出,科技本身是中性的,以善為出發才是最重要的。

劉效成進一步說明,現今的社會價值多半影響年輕人力求快速成功致富,但慈濟希望透過慈悲科技的平臺,讓彼此看見科技在社會關懷方面的應用,科技並非只是功利的,「我們希望大專甚至高中校內都有慈悲科技的獎勵與引導;初發心是好的也要給予肯定,告訴他怎樣可以更好;希望他不是只把成果用來得獎,而是可以產生更大的影響力。」

組合屋與福慧床的設計便於收納運輸,亦可快速搭建完成、展開使用,兼顧環保及賑災效益(圖2攝影/顏霖沼);二○二○年慈濟基金會舉辦「國際青年防救災研習營」中,學員實作體驗提供受災者的暫居空間。(圖1攝影/陳誼謙)

創新是復古再出發

「創新」研發是進步,其實也可視為一種「復古」,是對佛法「五明」思想的回歸與再出發。慈濟大學宗教與人文研究所林建德所長說明:「五明是大乘菩薩道很重要的概念,彰顯了知識的重要,其中也包括技能、技術;菩薩當於五明中學,他們是為眾生而學,要遍學一切眾道法,智慧深入眾生根,才能度盡一切眾。」

從學佛、修行菩薩道的角度來看,其中「醫方明」的醫藥保健學問,「工巧明」的工藝技術能力,「聲明」的溝通、論述與傳播技巧,以及「因明」識別因果的邏輯思辯,都是為了成就「內明」而修習的輔助法門。

「佛學又稱為內學,內在心性之學,內明就是從內在心性明白佛法的教導。」林建德換另一種角度說明,菩薩必須明瞭這五項知識或能力,方能廣結善緣進而度化眾生,「佛教看待科技,是將它當成一種善巧方便,科技的運用、研發是弘法利生的方法與工具,最終是以苦痛的解脫為目的。」

歷史上的僧眾典範,如唐朝的鑑真大師發願赴日傳法,不惜身命,六度跨海方得成功,也為日本引入當時中土先進的醫藥知識;約莫同時期的日本僧人行基法師,則是發揮土木工程專長,率領民眾造橋、鋪路、興修水利設施,因此倍受百姓愛戴,得以將佛法廣傳。

證嚴上人一九七二年於花蓮成立貧民施醫義診所、推動興建慈濟醫院,是以「醫方明」濟世救人;諸如日後的九二一希望工程、減災希望工程等建設及多項慈悲科技的發明,則是「工巧明」的展現。

林建德說,科技發展日新月異,例如現在不會使用3C等於中斷了與世界和眾生的連結,特別是大乘佛教認為,度眾生就必須與眾生保持交流互動,因此從過往的各種工藝技術到現代的科技都十分重視,「慈悲加上科技,我覺得就是菩薩悲願情懷的展現。科技和人類的理智發展有關;注入了美善,就彰顯了慈濟人文的特色。」

關於科技的發展與應用,林建德也提醒:「如果我們投入很多心血在科技研發,卻沒有終極性的關懷,一味地求創新其實會產生很多社會問題;科技研發跟經濟發展不該只是以利益為導向,也應顧及人文關懷與道德責任。」

回溯佛法的智慧,找尋當代問題的解方,以「五明」去「無明」,讓科技回歸慈悲。這是慈濟正在努力的,也是胸懷天下的有志者值得投入的方向。

行動廚房、淨水器、摺疊床、環保毛毯……
基於救苦救難所研發的種種工具,
該如何追上天災人禍發生的頻率?

年輕人跑得快,
慈濟連結資源、創造平臺讓他們練功,
帶動新世代逆轉當代危機。

行動廚房、淨水器、摺疊床、環保毛毯……基於救苦救難所研發的種種工具,該如何追上天災人禍發生的頻率?

年輕人跑得快,慈濟連結資源、創造平臺讓他們練功,帶動新世代逆轉當代危機。

隨著氣候變遷加劇,全球重災頻率升高,慈濟近二十年來積極研發各種應對緊急災害的用品,從機具類的行動廚房、行動淨水器,居住類的組合屋、摺疊式「福慧床」、「福慧桌椅」,到用回收寶特瓶製成的環保毛毯,用水沖泡即可食用的香積飯,每一項資材,都是為了救苦救難而研發。

「慈悲科技」的名稱與內涵,就在這些「為眾生」的研發歷程中,愈發成熟而充實。時至今日,不僅「出社會」的慈濟志工與志同道合的產學界人士積極合作,推出許多成熟產品並投入賑災濟貧第一線,許多高中職學生與大專青年,也在慈濟舉辦的慈悲科技創新競賽中,發表許多有助於慈善賑災與醫療長照的優秀設計方案。

從救災實際經驗中所研發改良的慈濟行動廚房,把炊具與爐具裝在一輛車上,能就近且快速為救災現場提供大量熱食;圖為二○一八年「救將!防救災體驗營」,志工簡介防救災設備。(攝影/黃筱哲)

化極微光為極亮光

二○二三年十一月中旬,慈悲科技創新競賽熱烈進行之際,世界氣象組織提出警告,全球平均氣溫已比工業革命前升高攝氏一點四度,二氧化碳總量則多出百分之五十,氣候變遷危機距離「不可逆轉」的臨界點近在咫尺;俄烏戰爭烽火未歇,以巴戰禍又起,傷亡及流離的悲歌不知何時方可止息。

「科技到底是幫助人,還是把人帶往毀滅之途?這個答案存乎一心。」慈濟基金會副執行長劉效成,在競賽開幕式上語重心長地提醒。

戰爭衝突、環境破壞等影響人類生存的危機,是盤根錯節的系統性問題,不免令人感到灰心,卻也必須加緊腳步應對。

「過去我們談氣候變遷,現在已經是全球沸騰(global boiling)的生存威脅了。這一代如果不採取行動,留給下一代的將是一個沒有希望的環境。」劉效成表示,慈濟已經展開全臺靜思堂建築的碳盤查,並建置太陽光電設備、能源管理系統,借重數位科技降低溫室氣體排放,矢志成為NGO淨零排放的先行者。

「慈濟基金會也推動『企業共善』,例如結合貨運公司專業的物流體系,賑災時能更快、更有序地把物資送給需要的人。」劉效成補充說明,每一個企業、每一個人都有強項,而慈濟做的是把人才、資源連結到同一個平臺上,一起做對人類、環境有益的事;在慈濟青年公益實踐計畫中,創造業師與年輕人之間的連結,則是讓年輕人有機會學習業界的專業思維與做法。

「科技如何運用還是在人,如果想的是競爭或是壓倒對方,就會往壞的方向去走。就如上人常說,善惡拔河誰會贏?答案是人多的一方會勝利。」每個人都像是一隻螢火蟲,聚在一起就會放出極大的光芒,就有可能翻轉世界,這需要大家相互影響、彼此協作。舉辦慈悲科技競賽等青年公益相關活動、接引不同世代的初衷則是,「希望能啟發更多年輕人,以善念發揮更貼近這個世代需求的想法。」劉效成指出,科技本身是中性的,以善為出發才是最重要的。

劉效成進一步說明,現今的社會價值多半影響年輕人力求快速成功致富,但慈濟希望透過慈悲科技的平臺,讓彼此看見科技在社會關懷方面的應用,科技並非只是功利的,「我們希望大專甚至高中校內都有慈悲科技的獎勵與引導;初發心是好的也要給予肯定,告訴他怎樣可以更好;希望他不是只把成果用來得獎,而是可以產生更大的影響力。」

組合屋與福慧床的設計便於收納運輸,亦可快速搭建完成、展開使用,兼顧環保及賑災效益(圖2攝影/顏霖沼);二○二○年慈濟基金會舉辦「國際青年防救災研習營」中,學員實作體驗提供受災者的暫居空間。(圖1攝影/陳誼謙)

創新是復古再出發

「創新」研發是進步,其實也可視為一種「復古」,是對佛法「五明」思想的回歸與再出發。慈濟大學宗教與人文研究所林建德所長說明:「五明是大乘菩薩道很重要的概念,彰顯了知識的重要,其中也包括技能、技術;菩薩當於五明中學,他們是為眾生而學,要遍學一切眾道法,智慧深入眾生根,才能度盡一切眾。」

從學佛、修行菩薩道的角度來看,其中「醫方明」的醫藥保健學問,「工巧明」的工藝技術能力,「聲明」的溝通、論述與傳播技巧,以及「因明」識別因果的邏輯思辯,都是為了成就「內明」而修習的輔助法門。

「佛學又稱為內學,內在心性之學,內明就是從內在心性明白佛法的教導。」林建德換另一種角度說明,菩薩必須明瞭這五項知識或能力,方能廣結善緣進而度化眾生,「佛教看待科技,是將它當成一種善巧方便,科技的運用、研發是弘法利生的方法與工具,最終是以苦痛的解脫為目的。」

歷史上的僧眾典範,如唐朝的鑑真大師發願赴日傳法,不惜身命,六度跨海方得成功,也為日本引入當時中土先進的醫藥知識;約莫同時期的日本僧人行基法師,則是發揮土木工程專長,率領民眾造橋、鋪路、興修水利設施,因此倍受百姓愛戴,得以將佛法廣傳。

證嚴上人一九七二年於花蓮成立貧民施醫義診所、推動興建慈濟醫院,是以「醫方明」濟世救人;諸如日後的九二一希望工程、減災希望工程等建設及多項慈悲科技的發明,則是「工巧明」的展現。

林建德說,科技發展日新月異,例如現在不會使用3C等於中斷了與世界和眾生的連結,特別是大乘佛教認為,度眾生就必須與眾生保持交流互動,因此從過往的各種工藝技術到現代的科技都十分重視,「慈悲加上科技,我覺得就是菩薩悲願情懷的展現。科技和人類的理智發展有關;注入了美善,就彰顯了慈濟人文的特色。」

關於科技的發展與應用,林建德也提醒:「如果我們投入很多心血在科技研發,卻沒有終極性的關懷,一味地求創新其實會產生很多社會問題;科技研發跟經濟發展不該只是以利益為導向,也應顧及人文關懷與道德責任。」

回溯佛法的智慧,找尋當代問題的解方,以「五明」去「無明」,讓科技回歸慈悲。這是慈濟正在努力的,也是胸懷天下的有志者值得投入的方向。

道歉與原諒

她曾是我此生不想再見的人,五年後我們彼此擁抱祝福,她說:「很抱歉,年輕的時候不懂事,傷害了單純善良的你!」我淚流滿面,是委屈也是感謝。道歉與原諒,都需要極大的勇氣。

許多年前,我在職場上遭遇霸凌。當時「霸凌」這個詞在社會上並不引起注意,我也不知道該如何保護自己。理智上,我安慰自己,或許是我上輩子欠她的,趕快還一還就好,但身體卻如實地呈現心裏完全過不去那個坎。

每天起床睜開眼,想到要上班就感到痛苦;到公司門口,更有種快要無法呼吸的壓迫感。當我無意間觸碰到頭皮竟有一整塊十元硬幣大小的光禿,我嚇壞了,這才第一次認識圓形禿這個名詞,形成的原因是「壓力」。

剛好有了孩子,我藉此提了離職,理由是專心養胎。我以為離開那個環境就好了,殊不知心裏受過的傷,潛意識會記住。

離職後的五年間,我數度在夢中,夢到自己與那位同事吵架,把現實生活中隱忍的話,在夢裏盡情宣洩,淚溼枕巾地醒來。我跟自己說,此生我再也不要遇見她,她是我生命中最恐怖的惡夢。

不知道什麼原因,對方在我離職後,態度大幅轉變。她會每年寫訊息祝我生日快樂,遇到節慶也不忘捎來問候。或許是她承接了我的工作,知道我的甘苦,開始能同理了。透過共同的前同事,我聽到她接觸了身心靈課程,有了不少改變。

但是,我還是沒準備好面對她。許多次前同事邀約聚會,只要有她在,我就婉拒出席。直到一位同事對我說:「大家都當媽媽了,心都變得更柔軟。過去的事情,要想辦法走過去。」我才鼓起勇氣,答應參加聚會。

時隔五年,當我再度見到那位傷害我的人,一開始非常緊張不安,掛著禮貌的客套笑容還帶著微微顫抖。幾小時後,我們之間的尷尬,就在大夥嘻笑分享彼此的媽媽經中,一點一滴消融。

聚會結束,她擁抱了我道別,當下好像有一股電流竄過我的全身。一個我說過此生不想再見的人,如今不只見到了,還彼此擁抱。

回到家不久,我接到她的簡訊:「今天見到你,很開心!很抱歉,年輕的時候不懂事,傷害了單純善良的你!」

克制不住眼淚,我淚流滿面。眼淚流的,是委屈總算被看見。當年她在我心上挖了一個大洞,她用誠意,一匙一匙努力填補。那一個擁抱、那一封簡訊,填平了洞、撫平了傷。眼淚流的,更是深深的感謝。

多少人傷了人而不自知,多少人獨自舔舐傷口過日。我何其有幸,傷我的人能有自覺,更擁有強大的勇氣面對過去所做,並且真誠地道歉。

一直在心裏的疙瘩,瞬間消失,取而代之的是放鬆與喜悅。當下我知道,我們彼此已經化解惡緣為善緣了!

近期聽到上人對海外志工的一段開示:「過去也許人與人之間有不調和,要結好緣,所以回去也可以跟有摩擦的人,打通電話,跟他們分享,曾經有一點彼此之間的成見,也許都是我不對,向你道個歉。過去的恩恩怨怨解開了,心安了,也是把自己的結鬆綁。該還的還了,人與人清清楚楚。」

人生路上,我們難免有時候傷害人,有時候被人傷害。最要避免的,就是與人結惡緣。一旦想到要踏進棺材的那一天,留在世上的人,想起我的時候會是一陣溫暖,還是會被恨得牙癢癢,就不禁提醒自己:「要成佛前,先結好人緣。」

道歉與原諒,都需要極大的勇氣。願我們心的空間,只留給愛,沒有恨。

她曾是我此生不想再見的人,五年後我們彼此擁抱祝福,她說:「很抱歉,年輕的時候不懂事,傷害了單純善良的你!」我淚流滿面,是委屈也是感謝。道歉與原諒,都需要極大的勇氣。

許多年前,我在職場上遭遇霸凌。當時「霸凌」這個詞在社會上並不引起注意,我也不知道該如何保護自己。理智上,我安慰自己,或許是我上輩子欠她的,趕快還一還就好,但身體卻如實地呈現心裏完全過不去那個坎。

每天起床睜開眼,想到要上班就感到痛苦;到公司門口,更有種快要無法呼吸的壓迫感。當我無意間觸碰到頭皮竟有一整塊十元硬幣大小的光禿,我嚇壞了,這才第一次認識圓形禿這個名詞,形成的原因是「壓力」。

剛好有了孩子,我藉此提了離職,理由是專心養胎。我以為離開那個環境就好了,殊不知心裏受過的傷,潛意識會記住。

離職後的五年間,我數度在夢中,夢到自己與那位同事吵架,把現實生活中隱忍的話,在夢裏盡情宣洩,淚溼枕巾地醒來。我跟自己說,此生我再也不要遇見她,她是我生命中最恐怖的惡夢。

不知道什麼原因,對方在我離職後,態度大幅轉變。她會每年寫訊息祝我生日快樂,遇到節慶也不忘捎來問候。或許是她承接了我的工作,知道我的甘苦,開始能同理了。透過共同的前同事,我聽到她接觸了身心靈課程,有了不少改變。

但是,我還是沒準備好面對她。許多次前同事邀約聚會,只要有她在,我就婉拒出席。直到一位同事對我說:「大家都當媽媽了,心都變得更柔軟。過去的事情,要想辦法走過去。」我才鼓起勇氣,答應參加聚會。

時隔五年,當我再度見到那位傷害我的人,一開始非常緊張不安,掛著禮貌的客套笑容還帶著微微顫抖。幾小時後,我們之間的尷尬,就在大夥嘻笑分享彼此的媽媽經中,一點一滴消融。

聚會結束,她擁抱了我道別,當下好像有一股電流竄過我的全身。一個我說過此生不想再見的人,如今不只見到了,還彼此擁抱。

回到家不久,我接到她的簡訊:「今天見到你,很開心!很抱歉,年輕的時候不懂事,傷害了單純善良的你!」

克制不住眼淚,我淚流滿面。眼淚流的,是委屈總算被看見。當年她在我心上挖了一個大洞,她用誠意,一匙一匙努力填補。那一個擁抱、那一封簡訊,填平了洞、撫平了傷。眼淚流的,更是深深的感謝。

多少人傷了人而不自知,多少人獨自舔舐傷口過日。我何其有幸,傷我的人能有自覺,更擁有強大的勇氣面對過去所做,並且真誠地道歉。

一直在心裏的疙瘩,瞬間消失,取而代之的是放鬆與喜悅。當下我知道,我們彼此已經化解惡緣為善緣了!

近期聽到上人對海外志工的一段開示:「過去也許人與人之間有不調和,要結好緣,所以回去也可以跟有摩擦的人,打通電話,跟他們分享,曾經有一點彼此之間的成見,也許都是我不對,向你道個歉。過去的恩恩怨怨解開了,心安了,也是把自己的結鬆綁。該還的還了,人與人清清楚楚。」

人生路上,我們難免有時候傷害人,有時候被人傷害。最要避免的,就是與人結惡緣。一旦想到要踏進棺材的那一天,留在世上的人,想起我的時候會是一陣溫暖,還是會被恨得牙癢癢,就不禁提醒自己:「要成佛前,先結好人緣。」

道歉與原諒,都需要極大的勇氣。願我們心的空間,只留給愛,沒有恨。

內行看門道

志工分工合作,仔細清理慈悲迴廊天花板、內外窗框等處。

鑽入溝渠、爬上高梯,仔細清理天花板和牆角,回家不只做事,還能夠學做事;上人叮嚀大家,要常常回精舍,「不一定要做工作才回來,回家可聞法或傳道;希望大家日日行在道中,自覺也能覺他。」

「靜思精舍是我們的家,回家打掃是理所當然該做的本分事。」志工甘清文感恩地說。

連續七年,中區志工在過年前「回家」大掃除。今年元月五日到九日,五十四位志工與常住師父一起清理大殿、大寮、齋堂,剷除排水溝污泥;師父們不時叮嚀,打掃時一定要注意安全。

「回家大掃除,從師父的言行學習到很多做事的方法,也清除了內心的無明。」志工沈信雄看到德傳師父恭敬謹慎地移動佛像,細心緩慢地擦拭佛像細微處,體悟到一定要改進自己急躁行事的習慣。

「師父還提醒大家,清理環境時要特別留意蜘蛛網和土蜂的窩巢。」沈信雄清除蜘蛛網時,先看清楚是否有蜘蛛停留,讓牠們離開後,才動手清潔。屋頂或牆角若有土蜂窩巢,也不要急著剷除,先觀察窩巢周圍,如果發現有小孔洞,表示幼蜂已經飛離巢穴,就可以直接清除;如果沒有小孔洞,就將這個窩巢保留下來,「一切都要以保護生靈為優先。」沈信雄感受到精舍師父尊重萬物的慈悲心與智慧,更學習到做事的方法。

志工們直接跳入水溝,徹底清乾淨;七十二歲的鄒顯亮,手腳靈活,遁入排水溝內,爬行約四十公尺,全身沾滿了泥巴,不畏辛勞與異味,使命必達。

一個月前才從職場退休的林美琴,第一次回精舍參與大掃除,就勇於承擔副領隊的任務。她自詡是一張白紙,回家跟著師父和資深志工學習,如何環扣事務和規畫打掃動線,要用對的方法做事。

靜思書軒前方的文化走廊,有一長列圍籬,細縫累積灰塵;林美琴和多位志工試著用不同的工具,還是無法徹底清理。經過資深志工提醒,將毛巾捲在手上,在內外兩兩相對,相互翻面擦拭,終於將圍籬的縫隙清理乾淨了。

「厚重的塵埃,如同累積的煩惱和無明的習性。」林美琴體悟到:「心鏡髒了,要勤於擦拭,才能看清真實的自己。」

與志工座談時,上人感恩大家回家做本分事,體恤地問起:「打掃很累喔!」

「身累心不累,做得滿心歡喜。」志工齊聲回應著。

上人慈示,以歡喜心做事,時間過得很快,也不覺得辛苦。有空間就會有灰塵,不管時間長短,就是要勤於清理,才會有整潔的環境;心境也是一樣,要每天清除不良的習氣,時常保持清淨心,才能斷除煩惱與無明。

上人鼓勵,「要常常回家,不一定要做工作才回家,回家來可以聞法或傳道,希望大家日日行在道中,自覺也能覺他。」

志工分工合作,仔細清理慈悲迴廊天花板、內外窗框等處。

鑽入溝渠、爬上高梯,仔細清理天花板和牆角,回家不只做事,還能夠學做事;上人叮嚀大家,要常常回精舍,「不一定要做工作才回來,回家可聞法或傳道;希望大家日日行在道中,自覺也能覺他。」

「靜思精舍是我們的家,回家打掃是理所當然該做的本分事。」志工甘清文感恩地說。

連續七年,中區志工在過年前「回家」大掃除。今年元月五日到九日,五十四位志工與常住師父一起清理大殿、大寮、齋堂,剷除排水溝污泥;師父們不時叮嚀,打掃時一定要注意安全。

「回家大掃除,從師父的言行學習到很多做事的方法,也清除了內心的無明。」志工沈信雄看到德傳師父恭敬謹慎地移動佛像,細心緩慢地擦拭佛像細微處,體悟到一定要改進自己急躁行事的習慣。

「師父還提醒大家,清理環境時要特別留意蜘蛛網和土蜂的窩巢。」沈信雄清除蜘蛛網時,先看清楚是否有蜘蛛停留,讓牠們離開後,才動手清潔。屋頂或牆角若有土蜂窩巢,也不要急著剷除,先觀察窩巢周圍,如果發現有小孔洞,表示幼蜂已經飛離巢穴,就可以直接清除;如果沒有小孔洞,就將這個窩巢保留下來,「一切都要以保護生靈為優先。」沈信雄感受到精舍師父尊重萬物的慈悲心與智慧,更學習到做事的方法。

志工們直接跳入水溝,徹底清乾淨;七十二歲的鄒顯亮,手腳靈活,遁入排水溝內,爬行約四十公尺,全身沾滿了泥巴,不畏辛勞與異味,使命必達。

一個月前才從職場退休的林美琴,第一次回精舍參與大掃除,就勇於承擔副領隊的任務。她自詡是一張白紙,回家跟著師父和資深志工學習,如何環扣事務和規畫打掃動線,要用對的方法做事。

靜思書軒前方的文化走廊,有一長列圍籬,細縫累積灰塵;林美琴和多位志工試著用不同的工具,還是無法徹底清理。經過資深志工提醒,將毛巾捲在手上,在內外兩兩相對,相互翻面擦拭,終於將圍籬的縫隙清理乾淨了。

「厚重的塵埃,如同累積的煩惱和無明的習性。」林美琴體悟到:「心鏡髒了,要勤於擦拭,才能看清真實的自己。」

與志工座談時,上人感恩大家回家做本分事,體恤地問起:「打掃很累喔!」

「身累心不累,做得滿心歡喜。」志工齊聲回應著。

上人慈示,以歡喜心做事,時間過得很快,也不覺得辛苦。有空間就會有灰塵,不管時間長短,就是要勤於清理,才會有整潔的環境;心境也是一樣,要每天清除不良的習氣,時常保持清淨心,才能斷除煩惱與無明。

上人鼓勵,「要常常回家,不一定要做工作才回家,回家來可以聞法或傳道,希望大家日日行在道中,自覺也能覺他。」