自分の仕事を熱愛している

かつて貧乏の辛さを経験したので、
いつか貧しい人を助けようと発願した。
私は介護を神聖な仕事と考え、
相手を家族のように思っている。
この収入があるからこそ献金ができる。
決して楽な仕事ではないが、苦労を厭わない。

―――劉美連

「介護をしながら慈済に入会して、お金を寄付できるようになるなんて、思ってもいませんでした」。劉美連(リュウ・メイレン)さんは介護の仕事を二十数年間続けてきた。六十四歳になった今も、最前線に立って仕事をこなし、高齢者や患者とその家族にとって、「家族の一員」のような存在になっている。

一九八○年代、台湾経済が高度成長を遂げ、苗栗県には四百軒以上の装飾用陶磁器工場ができ、その多くの製品は輸出された。しかし、好況は十年も続かず、工場は転出し始めた。そのような工場の一つに勤め、絵付けの仕事をしていた劉さんも転職を余儀なくされ、介護士の資格を取得した。

「介護の仕事は決して楽ではありません。運が良ければ仮眠できますが、悪ければ一晩中起きていなければなりません」。劉さんは続けた。「もし手間のかかるお年寄りを担当すると、一晩に何回も起きることになります。その人はわざとしているわけではなく、ただ眠れないだけなのです。また、オムツに慣れないお年寄りは、何回もトイレのために起きます」。

彼女は、食費まで節約して、三年分割で、ご主人名義で百万元(約四百万円)を寄付した。「栄誉董事になるための寄付はとても価値があると思いました。それに神聖な仕事なので、不満はありません」。

患者や高齢者がトイレに間に合わず、排泄物が自分の手や顔にかかることは日常茶飯事だ。「患者を家族のように思えば、不思議と、汚いとか臭いとは思いません」。

劉美連さん(左)は慈済苗栗志業パークのデイケアセンターで介護士をしている。彼女の母親も介護対象の一人だ。(撮影・梁漢南)

親子二代とも病故に貧しくなった

一九五九年、苗栗山城公館に生まれた劉さんは、六人兄弟の三番目である。両親とも客家人で、いつも早起きして暗いうちから豆腐を作って売っていた。冬は骨身に沁みるほど寒く、夏は薪の火が顔に焼けつくほど暑い。四季を通じて忙しく、豆腐の濃い香りが深く記憶に刻まれている。

「祖父が病に倒れると、まずまずだった家計が借金漬けになりました。祖父が亡くなり、父と叔父は財産ではなく、債務を相続しました」。劉さんは、七歳の年、父親が八万元の債務を背負っていたことを今も覚えている。この金額は、当時としては天文学的数字だった。

彼女が中学校を卒業した時、高校に進学する経済的余裕がなかったため、仕方なく桃園にある東隆紡績工場に就職し、そこで今のご主人、羅時源(ロ・スーユェン)さんと出会った。彼は初め、同僚の見合い相手だったが、同僚が気に入らなかったらしい。「正直の頭に神宿るという諺があります。私は本当の宝を拾ったのです!彼は思いやりがあって、正直で、悪い習慣もない人ですから」と彼女は笑いながら話した。

劉さんは二十一歳で結婚し、間もなく、羅さんは基隆に出稼ぎに行き、ショベルカーの運転手になった。彼女は苗栗のご主人の実家に戻って、農作業を手伝った。一九九一年になってやっと、羅さんが苗栗に戻って職に就き、一緒に二人の子供を育てるようになった。

ある日、劉さんが美容院へシャンプーに行った時、美容師の羅採雲(ロ・ツァイユン)さんから渡された新聞を広げると、證厳法師が総統から表彰されたという写真記事が載っていて、思わず歓声をあげた。

「次の機会に、法師に会いに貴方を連れて行きますよ」と採雲さんが嬉しそうに言った。

「本当ですか?本当に法師を知っているのですか?」と彼女は驚いて尋ねた。その二カ月後、慈済ボランティアの採雲さんは彼女を連れて、「慈済列車」に乗り、花蓮を訪れた。中央山脈の麓にある慈済看護専門学校を見て、彼女は慈済道場に来る決心をした。

「当時、上人は自ら福慧お年玉を配っていらっしゃいました。もうすぐ上人の前にたどり着くという時、心の中で、貴方こそが私の探し求めていた師匠だと思いました」。今でも上人に近づいた、あの瞬間の心臓の鼓動を覚えている。あれは一九九八年のことだった。

何事も初めは困難を乗り越えなければならない

当時を振り返ると、花蓮から戻って来た後、リサイクル活動に参加したのだが、その時の連絡所は十五階にあり、回収拠点を設置することができなかった。そこで、苗栗の街角や西山、後龍、卓蘭などの地区で資源回収をしていた。

「秀梅さんは、私にとってリサイクル活動への参加を啓発してくれた先生です」と劉さんが微笑んだ。葉秀梅(イェ・シユウメイ)さんが彼女をリサイクル活動に誘ったのだった。あまり教育を受けていない彼女も、地球環境を良くできることは分かり、すればするほど楽しくなった。その一年後、九二一大地震に遭遇した。「大地が大きく揺れた後、早朝五時に主人が運転するトラックで被災地区に向かいました。電話が通じなくなっていたので、私たちは街中を回って、支援が必要な人を探しました」。

臨時の遺体安置所となっていた、林務局東勢林区管理所に到着すると、彼女は採雲さんと先ず助念に行った。「当時、私は慈済では新米で、遺体に近付くことができず、ただ、陳炎星(チェン・イェンシン)さんと曽錦梅(ヅン・ジンメイ)さんが死者の顔に化粧を施したり、洋服を着せたりするのを見ているだけでした」。地震から二十日間余り、彼女は毎朝五時頃に車でボランティアを載せて被災地域に行って炊き出しを行い、拠点を撤収するまで続けた。

二〇〇二年、苗栗志業パークの建設に向けて準備が始まった。「あの土地は雑草が生え、蛇もよく出る場所でした。整地を手伝うだけでなく、リサイクル活動することも忘れませんでした」。同じ年の暮れ、劉さんは慈済委員になった。委員証を身につけた時、皆が泣き出したのを忘れることができない。何故なら、師匠を見つけたからだ。

苗栗志業パークの前身は古い工場だった。ボランティアは或るトタン屋根の建物をリサイクルステーションにした。建物は老朽化していて、屋根には大きな穴が空き、雨の日は雨合羽を着て作業した。「リサイクルステーションはかなり粗末でしたが、皆、忙しくても楽しく作業をしていました。一番多い時で百人以上いました」。その後はボランティアが増え、回収資源の量も増えたため、もっと大きな場所に移り、環境保全教育ステーションになってから、様々な団体が訪れるようになった。

劉美連さん(左)と羅時源さん(右)夫婦は慈済に投入して20数年になり、互いに励まし合って善行をしてきた。(撮影・傅台娟)

怨みはなく、願があるのみ

「仏教を学ぶ前、私は文句ばかり言っていました。小さい頃は家が貧しかったので、十歳から働き始め、大人になって結婚してからも、同じように働き詰めでした」。劉さんは静かに語った。慈済に入ってから、前世と今世の因縁であることを知り、仏法を学んでからは、何事も善い方に考えるようになった。

「仏教を学ぶ過程で、壁に当たったことがないと言えば嘘です」。彼女自身、真直ぐな性格だと思っており、他人の一言で後戻りするようなことはない。「正しいことは、やり通します」。彼女は、「自分に私心がなく、人には愛があると信じている」という法師の言葉が最も好きである。「人から疑いの目で見られた時、私はこの言葉で自分を励まします」。

幼い頃、台風で大雨が降った後、熱心な性格の父親はいつも道の補修をしたり、排水溝の掃除をしたりしていた。父親が背中を丸めて作業する姿は心の中に焼き付いている。貧しく、苦労した経験があったため、いつか自分に能力ができた時は、自分よりも貧しい人を助けたいと考えていた。二〇一四年にやっと、息子のために栄誉董事の寄付を終え、今は自分が栄誉董事になることを目指して頑張っている。

子どもたちが結婚した時、長年菜食をしてきた彼女は、披露宴は菜食でもてなしたいと固持した。ご主人は彼女よりも一年早く慈誠委員になっており、彼女は、「来世は夫婦ではなく、法縁者になりましょうね」とご主人に言った。

「私は来世も上人に追随し、いつの世もついて行くと発願しました。弱い立場の人たちを助けるのが、私の若い頃から今に至るまでの願であり、健康な体がある限り、この目標に向かって進み続けます」。

(慈済月刊六七九期より)

かつて貧乏の辛さを経験したので、
いつか貧しい人を助けようと発願した。
私は介護を神聖な仕事と考え、
相手を家族のように思っている。
この収入があるからこそ献金ができる。
決して楽な仕事ではないが、苦労を厭わない。

―――劉美連

「介護をしながら慈済に入会して、お金を寄付できるようになるなんて、思ってもいませんでした」。劉美連(リュウ・メイレン)さんは介護の仕事を二十数年間続けてきた。六十四歳になった今も、最前線に立って仕事をこなし、高齢者や患者とその家族にとって、「家族の一員」のような存在になっている。

一九八○年代、台湾経済が高度成長を遂げ、苗栗県には四百軒以上の装飾用陶磁器工場ができ、その多くの製品は輸出された。しかし、好況は十年も続かず、工場は転出し始めた。そのような工場の一つに勤め、絵付けの仕事をしていた劉さんも転職を余儀なくされ、介護士の資格を取得した。

「介護の仕事は決して楽ではありません。運が良ければ仮眠できますが、悪ければ一晩中起きていなければなりません」。劉さんは続けた。「もし手間のかかるお年寄りを担当すると、一晩に何回も起きることになります。その人はわざとしているわけではなく、ただ眠れないだけなのです。また、オムツに慣れないお年寄りは、何回もトイレのために起きます」。

彼女は、食費まで節約して、三年分割で、ご主人名義で百万元(約四百万円)を寄付した。「栄誉董事になるための寄付はとても価値があると思いました。それに神聖な仕事なので、不満はありません」。

患者や高齢者がトイレに間に合わず、排泄物が自分の手や顔にかかることは日常茶飯事だ。「患者を家族のように思えば、不思議と、汚いとか臭いとは思いません」。

劉美連さん(左)は慈済苗栗志業パークのデイケアセンターで介護士をしている。彼女の母親も介護対象の一人だ。(撮影・梁漢南)

親子二代とも病故に貧しくなった

一九五九年、苗栗山城公館に生まれた劉さんは、六人兄弟の三番目である。両親とも客家人で、いつも早起きして暗いうちから豆腐を作って売っていた。冬は骨身に沁みるほど寒く、夏は薪の火が顔に焼けつくほど暑い。四季を通じて忙しく、豆腐の濃い香りが深く記憶に刻まれている。

「祖父が病に倒れると、まずまずだった家計が借金漬けになりました。祖父が亡くなり、父と叔父は財産ではなく、債務を相続しました」。劉さんは、七歳の年、父親が八万元の債務を背負っていたことを今も覚えている。この金額は、当時としては天文学的数字だった。

彼女が中学校を卒業した時、高校に進学する経済的余裕がなかったため、仕方なく桃園にある東隆紡績工場に就職し、そこで今のご主人、羅時源(ロ・スーユェン)さんと出会った。彼は初め、同僚の見合い相手だったが、同僚が気に入らなかったらしい。「正直の頭に神宿るという諺があります。私は本当の宝を拾ったのです!彼は思いやりがあって、正直で、悪い習慣もない人ですから」と彼女は笑いながら話した。

劉さんは二十一歳で結婚し、間もなく、羅さんは基隆に出稼ぎに行き、ショベルカーの運転手になった。彼女は苗栗のご主人の実家に戻って、農作業を手伝った。一九九一年になってやっと、羅さんが苗栗に戻って職に就き、一緒に二人の子供を育てるようになった。

ある日、劉さんが美容院へシャンプーに行った時、美容師の羅採雲(ロ・ツァイユン)さんから渡された新聞を広げると、證厳法師が総統から表彰されたという写真記事が載っていて、思わず歓声をあげた。

「次の機会に、法師に会いに貴方を連れて行きますよ」と採雲さんが嬉しそうに言った。

「本当ですか?本当に法師を知っているのですか?」と彼女は驚いて尋ねた。その二カ月後、慈済ボランティアの採雲さんは彼女を連れて、「慈済列車」に乗り、花蓮を訪れた。中央山脈の麓にある慈済看護専門学校を見て、彼女は慈済道場に来る決心をした。

「当時、上人は自ら福慧お年玉を配っていらっしゃいました。もうすぐ上人の前にたどり着くという時、心の中で、貴方こそが私の探し求めていた師匠だと思いました」。今でも上人に近づいた、あの瞬間の心臓の鼓動を覚えている。あれは一九九八年のことだった。

何事も初めは困難を乗り越えなければならない

当時を振り返ると、花蓮から戻って来た後、リサイクル活動に参加したのだが、その時の連絡所は十五階にあり、回収拠点を設置することができなかった。そこで、苗栗の街角や西山、後龍、卓蘭などの地区で資源回収をしていた。

「秀梅さんは、私にとってリサイクル活動への参加を啓発してくれた先生です」と劉さんが微笑んだ。葉秀梅(イェ・シユウメイ)さんが彼女をリサイクル活動に誘ったのだった。あまり教育を受けていない彼女も、地球環境を良くできることは分かり、すればするほど楽しくなった。その一年後、九二一大地震に遭遇した。「大地が大きく揺れた後、早朝五時に主人が運転するトラックで被災地区に向かいました。電話が通じなくなっていたので、私たちは街中を回って、支援が必要な人を探しました」。

臨時の遺体安置所となっていた、林務局東勢林区管理所に到着すると、彼女は採雲さんと先ず助念に行った。「当時、私は慈済では新米で、遺体に近付くことができず、ただ、陳炎星(チェン・イェンシン)さんと曽錦梅(ヅン・ジンメイ)さんが死者の顔に化粧を施したり、洋服を着せたりするのを見ているだけでした」。地震から二十日間余り、彼女は毎朝五時頃に車でボランティアを載せて被災地域に行って炊き出しを行い、拠点を撤収するまで続けた。

二〇〇二年、苗栗志業パークの建設に向けて準備が始まった。「あの土地は雑草が生え、蛇もよく出る場所でした。整地を手伝うだけでなく、リサイクル活動することも忘れませんでした」。同じ年の暮れ、劉さんは慈済委員になった。委員証を身につけた時、皆が泣き出したのを忘れることができない。何故なら、師匠を見つけたからだ。

苗栗志業パークの前身は古い工場だった。ボランティアは或るトタン屋根の建物をリサイクルステーションにした。建物は老朽化していて、屋根には大きな穴が空き、雨の日は雨合羽を着て作業した。「リサイクルステーションはかなり粗末でしたが、皆、忙しくても楽しく作業をしていました。一番多い時で百人以上いました」。その後はボランティアが増え、回収資源の量も増えたため、もっと大きな場所に移り、環境保全教育ステーションになってから、様々な団体が訪れるようになった。

劉美連さん(左)と羅時源さん(右)夫婦は慈済に投入して20数年になり、互いに励まし合って善行をしてきた。(撮影・傅台娟)

怨みはなく、願があるのみ

「仏教を学ぶ前、私は文句ばかり言っていました。小さい頃は家が貧しかったので、十歳から働き始め、大人になって結婚してからも、同じように働き詰めでした」。劉さんは静かに語った。慈済に入ってから、前世と今世の因縁であることを知り、仏法を学んでからは、何事も善い方に考えるようになった。

「仏教を学ぶ過程で、壁に当たったことがないと言えば嘘です」。彼女自身、真直ぐな性格だと思っており、他人の一言で後戻りするようなことはない。「正しいことは、やり通します」。彼女は、「自分に私心がなく、人には愛があると信じている」という法師の言葉が最も好きである。「人から疑いの目で見られた時、私はこの言葉で自分を励まします」。

幼い頃、台風で大雨が降った後、熱心な性格の父親はいつも道の補修をしたり、排水溝の掃除をしたりしていた。父親が背中を丸めて作業する姿は心の中に焼き付いている。貧しく、苦労した経験があったため、いつか自分に能力ができた時は、自分よりも貧しい人を助けたいと考えていた。二〇一四年にやっと、息子のために栄誉董事の寄付を終え、今は自分が栄誉董事になることを目指して頑張っている。

子どもたちが結婚した時、長年菜食をしてきた彼女は、披露宴は菜食でもてなしたいと固持した。ご主人は彼女よりも一年早く慈誠委員になっており、彼女は、「来世は夫婦ではなく、法縁者になりましょうね」とご主人に言った。

「私は来世も上人に追随し、いつの世もついて行くと発願しました。弱い立場の人たちを助けるのが、私の若い頃から今に至るまでの願であり、健康な体がある限り、この目標に向かって進み続けます」。

(慈済月刊六七九期より)

關鍵字

助け合う未来を願って─共生(上編)

富山県富山市にある「デイサービスこのゆびとーまれ」に来る人は、高齢者も子供も身障者もいる。

このように入所者を分けずにケアする方式は、後に政府から「地域共生」の模範とみなされるようになった。

超高齢化社会に直面して、益々多くの国民が、将来は政府に頼るだけでは生活できないので、各自が貢献して助け合う地域社会を作ることで、自分のためにも大衆のためにも帰属感を見つけなければならないと感じている。

秋風が吹く二〇二二年十一月、日本はまだ、コロナ禍が深く影を落としていた。北陸の富山県にあるデイサービスセンターは従業員がコロナに感染したため、十日間の運営停止を余儀なくされた。

「構わん!センターに連れてってくれ!」、「そこに行かなきゃ、寂しいんだよ!」……介護スタッフが全利用者の健康状態をチェックしていた時、家族が諭すのも聞かず、大声でセンターに行くと言い張る人もいれば、自分の気持ちを話すうちに涙を流す一人暮らしの人もいた。

「毎日、当然のことのように通うデイサービスセンターは、本当になくてはならない場所なんだなぁ!」と当時、高熱を出して二日間寝込んでいた、阪井由佳子さんは心の中で思った。彼女は「デイケアハウスにぎやか」の責任者で、利用者全員が無事だと聞いてホッとすると同時に、自分の肩に載った責任の重さを感じた。

この設立されて二十五年になるデイサービスセンターには、どんな魔法があるのだろう?利用者は一日も欠かさず訪れたがっているのである。豪華で配慮の行き届いたスペースと設備?それとも多種多様なクラス?または全方位的な完璧なサービス?これら全て、「デイケアハウスにぎやか」にはない。ここにあるのは、大家族のような「にぎやかさ」だけである。

彼らの一日はこうやって始まる。「おはよう!」「帰ってきたの?」朝早くから続々と家族たちに送られて来て、皆が挨拶を交わす。或る職員らしき中年男性が機転を利かせてコーヒーを持って来た。各自、自分たちで体温を計って受付でサインすると、座り慣れた場所に座って世間話をしたり、新聞を読んだり、静かに窓の外を照らす日光を見つめたりしながら、自分のしたいことをしていて、皆で集まって講座を受けたり、活動に参加したりする必要はない。

「みんな、家に居るように気ままです。家では予定表なんて要らないでしょ?」阪井さんは、ここは一般的なデイサービスセンターのように日課表通りに体操をしたりするのとは違う、と説明しながら、絶えず周囲に気を配り、或るお年寄りのために針に糸を通してあげたと思ったら、或る脳性麻痺の中年女性がヨロヨロしながら立ち上がったので、駆け寄って手を貸していた。

「混合ケア」がこのセンターの最大の特色である。一般のところは利用者を分類している。高齢者は高齢者のデイケア、身障者は身障者、特殊児童は特殊児童というように。しかし、「デイケアハウスにぎやか」の利用者十人には、認知症の高齢者や中高年の身障者もいれば、学校が終わるとやって来る小学生など、年齢も障害のある無しも区別されることはない。「ごった混ぜ」がごく日常的なのである。

正午近く、「菅母さん、人参の皮むきを手伝ってくれませんか?」と厨房で大忙しの職員が訊いた。九十三歳の菅母さんは直ぐゆっくりした足取りで食事の準備に参加した。普通のセンターなら、ケアするのは職員であり、利用者はサービスを受けるだけである。しかしここは、能力があって、その気さえあれば、利用者も貢献することができ、改めて「必要とされている」という自分の価値を感じることができるのだ。

また、阪井さんはこう付け加えた。例えば朝、皆にコーヒーを入れている村川さんは、当初は体に障害があって、「ケアされるために」ここに来ていたのである。しかし、何か手伝うことが好きな性格で、職員たちも彼の「ケア(お手伝い)」に感謝している。

「にぎやか」に来る楽しみは何か、と利用者に訊いたところ、「ここのお風呂が気持ちいいのです」とか「昼食にビールが飲めることです」と言う人がいたが、「皆さんと一緒にいるのがとても楽しいんです」と言う人が何人もいた。それはむしろ「体の養生」よりも「心の養生」に近いと言える。

陽が差し込む「デイケアハウスにぎやか」の温かい雰囲気は、木を使った空間設計によってもたらされただけでなく、それ以上に、「家」にいるような生活ができるからだ(上)。

2人で生活している、99歳のお婆さんと64歳で脳性麻痺を患う彼女の娘さんは、毎日職員が送り迎えしている(下)。

「デイケアハウスにぎやか」に通って10年以上になる、93歳の菅母さんは、食後に針と糸で縫いものを始めた。彼女が使っていた晒しが男物のパンツだと知った時、皆しばらく大笑いした。

あらゆる人を混合ケアする

こういうコミュニティーの中にあって、少人数(十から二十人)で、家庭の雰囲気があり、高齢者も身障者も子供も同じ空間で過ごし、互いに助け合う関係が出来上がるデイサービスを「富山型デイサービス」方式と呼んでいる。目下、富山県には百三十カ所あり、日本全国には二千七百十二カ所ある。

富山型デイサービスを始めたのは、一九九三年に設立された「デイサービスこのゆびとーまれ」である。初めは幾つかのサービスは法律では規定外であったが、後に制度に取り入れられるようになった。二十九年前、三人の介護師が歩き始めた小さな一歩が、国の制度を動かしたのである。

「介護師は、特別に高齢者や身障者または子供を区別することなく、ケアの必要があれば、皆喜んで手を貸します」。七十一歳で少し猫背の惣万佳代子さんは「デイサービスこのゆびとーまれ」の責任者の一人である。センターの創設時はまだ若かったが、今は彼女もシルバー世代である。変わっていないのは「どんな人も受け入れる」という初心である。

ただ、政府の社会保障制度は以前から分類別になっていて、異なったグループには異なった法律を適用し、デイサービスセンターは一つのグループを引き受けるしかなかった。例えば、同じスペースで高齢者や身障者、子供を一緒に受け入れた場合、政府の補助が申請できなかったのである。それでも、彼女ら三人は理念を実現させるために、制度の限界を超えて、「デイサービスこのゆびとーまれ」を立ち上げたのである。

視察に来た人たちからよくこんな質問が出る。「まず高齢者のデイケアサービスから始めて、その次に身障者と子供を受け入れるという順番にしなかったのはなぜですか?」もう一人の責任者である西村和美さんが、「コミュニティーでケアを必要としているのは高齢者だけではありません。最初の利用者は障害を持った子供でした」と説明した。

「最初は政府の認可が下りませんでしたが、それでも私たちは方向が間違っているとは思わず、こういう形式のケアはあって当然だと信じていました」と惣万さんが言った。それは介護師の使命感がそうさせたのでなく、彼女たちは、子供の頃に地域の人がお年寄りや特殊な人たちと交流していた光景を取り戻したかっただけだったのだ。

「もし、ここを続けることができなかったら、富山の恥ですからね」。民間からの支持の声が次第に高まると共に、混合ケアの利用者に対する効果が加わり、富山県政府は法令の改正を始めた。「デイサービスこのゆびとーまれ」に補助金が出るようになったことが、富山型デイサービス方式を生み出す後押しとなった。二○一八年、政府は正式に、富山型デイサービスをモデルとして「共生型サービス」を推進した。それによって、福祉施設が同時に高齢者と身障者の社会福祉保険を適用し、柔軟に多種多様なケアのニーズに応えることができるようになった。

「デイサービスこのゆびとーまれ」は設立当初、どんな補助も受けられなかった時、利用料は一日二千五百円で、半日で千五百円だった。後に制度に組み入れられ、二○○○年に全国でデイサービスが保険の適用を認められるようになった。高齢者の利用料は「要介護」の等級に沿って、利用者の自己負担が一割から三割までとなり、ケア施設が地方自治体に残りの七割から九割を申請できるため、双方とも負担をかなり軽減できるようになった。

だが地方によって内容は異なり、費用も違う。富山県の或る「要介護二」(立ち上がりや歩行が自力では困難、排泄や入浴ケアなど部分的に介護が必要)という高齢者を例にとると、一日の利用料は七〜八時間で合計九千三百四十八円にもなるが、個人の自己負担は九百三十五円で済む。

今年、デイケアハウスにぎやかに来たばかりで、ゼロから介護を学び出した職員の田中さんは、持ち前の朗らかさと優しさで、高齢者たちからの評判を得ている(写真1)。あだ名が「ジャンちゃん」という脳性麻痺の女性は、不意にむせて咳き込み、側にいた二人の高齢者が急いで面倒を見た(写真2)。

「デイサービスこのゆびとーまれ」では、高齢者は世話をされるだけでなく、子供たちとの交流によって、生きている意義を感じ取ることができる。

お年寄りは介護されるだけでなく、必要とされている

「デイサービスこのゆびとーまれ」の午後は、かしましく走ったり飛び跳ねたりする光景と、休息している光景が入り混じっていた。ダウン症の男の子が急に、認知症のお婆さんに駆け寄って甘えると、お婆さんは彼の頭を撫でながら、言葉を掛けた。また、身障者の青年と職員があちこち駆け回って他の人の手伝いをしたり、センターの事務整理をしたりしていたが、皆、顔が輝いていた。

「高齢者福祉に関する研究をしている学者が最も心配しているのは、体が弱っている高齢者と精力旺盛な子供が同じ空間にいれば、事故が起き易いということですが、『起きない』と私は断言できます」。惣万さんによれば、二十九年前に創設して以来、一度だけ認知症の高齢者が不注意で転んで骨折したことがある。この数字は一般のデイサービスセンターと比べても非常に低い。「混在しているがために、職員は一層警戒心を高めているのかもしれません」。

介護士の惣万佳代子さん(右)と西村和美さん(左)が29年前に「デイサービスこのゆびとーまれ」を立ち上げた。

高齢者にとっては、ケアされる以外に、子供たちと触れ合い、彼らの成長を目にすることで「必要とされる」ことを感じ、「生きていく」意義を見出しているのである。身障者の青年は、自分に合った労働で、そこに帰属感を感じている。そして、子供は大人の指導の下に、高齢者や身障者との付き合い方を学んでいる。

宮崎弘美さんも十一年前、先輩介護士である惣万佳代子さんの感化を受けて、富山型デイサービス「大空と大地のぽぴー村」を立ち上げた。それ以前は大きいデイサービスセンターで働いていたが、その一般的な施設では、一年に一、二回幼稚園児が来て、高齢者のために演技するぐらいで、それは一時的な活動に過ぎず、真の交流とは言えなかった。大人でも、小家庭で育った子供たちに、どうやってお年寄りと接し、お年寄りを避けないようにさせるかを教える術を持っていないのだ。

宮崎さんは毎日、十数人の高齢者と特殊児童の世話をしている。「それは大変ですよ。でも楽しいんです」。六十六歳の彼女は笑顔でこう言った、「子供たちにはいつも、『私がここに座るようになった時は、美味しいものを持って会いに来てね!』と言います」。

もちろん、富山型デイサービスに疑問を持つ人もいる。「高齢者や身障者、子供は皆それぞれ異なったケアを必要としているのに、職員はそれに対応する能力を全て持っているのですか?」。

「大人と子供のニーズは七割方似通っています。コミュニティーのクリニックが大人も子供も診るようなものです」。以前、病院で二十数年間看護師を務めた惣万佳代子さんは、「ここは『生活の場』です。基礎的なケアテクニック以外に、もっと大事なのはさまざまな人と上手に接することです」と言った。

加藤愛理子さん(写真1、左)と同僚の水野薰さん(写真1、右)は、庭に「みやの森カフェ」を開き、木曜日から土曜日まで一般のカフェとして営業し、月曜日から水曜日までは登校拒否の子供が自分を見つける場所として開放している(写真2)。

「デイケアハウスにぎやか」の責任者である阪井由佳子さんによれば、もし、職員が何もかもしてあげたら、逆に利用者が本来持っている機能を奪うことになるため、本人がその能力を発揮した上で他の人が適時に手伝うようにすべきだという。どうやってケアするかは、人それぞれの状況から学び取り、それを進化させるのである。「プロのテクニックよりも、私は『その人のことを考えてケアする能力』を重視しています」。

例を挙げると、今年二十一歳で、幼児教育専門学校を卒業したばかりの田中來都さんは、介護をゼロから学び始めたのだが、彼の持ち前の朗らかさと思いやりは、デイサービスセンターのあらゆる人が賞賛している。「僕は『仕事』しているという感じはなく、皆さんと一緒に生活している感じですかねー」。田中さんは、「僕はゼロから出発して、今では一日に八人のお年寄りをお風呂に入れるまでになりました。充実感を得ています」と言った。

住宅街にあって、コミュニティーの介護サービスニーズを満たしている富山型デイサービスは、地元との関係は密接だが、直ちに達成できるわけではなく、時間を掛ける必要があった。阪井さんによれば、初め向かいに住んでいる人はとても反対していたそうだ。自分の家のお年寄りが一般の介護施設に行き始めてから、「デイケアハウスにぎやか」の特色に気づき、最後にはお年寄りを彼女たちに預けるようになり、双方の関係が良好になったという。(続く)

(経典雑誌二九三期より)

富山県富山市にある「デイサービスこのゆびとーまれ」に来る人は、高齢者も子供も身障者もいる。

このように入所者を分けずにケアする方式は、後に政府から「地域共生」の模範とみなされるようになった。

超高齢化社会に直面して、益々多くの国民が、将来は政府に頼るだけでは生活できないので、各自が貢献して助け合う地域社会を作ることで、自分のためにも大衆のためにも帰属感を見つけなければならないと感じている。

秋風が吹く二〇二二年十一月、日本はまだ、コロナ禍が深く影を落としていた。北陸の富山県にあるデイサービスセンターは従業員がコロナに感染したため、十日間の運営停止を余儀なくされた。

「構わん!センターに連れてってくれ!」、「そこに行かなきゃ、寂しいんだよ!」……介護スタッフが全利用者の健康状態をチェックしていた時、家族が諭すのも聞かず、大声でセンターに行くと言い張る人もいれば、自分の気持ちを話すうちに涙を流す一人暮らしの人もいた。

「毎日、当然のことのように通うデイサービスセンターは、本当になくてはならない場所なんだなぁ!」と当時、高熱を出して二日間寝込んでいた、阪井由佳子さんは心の中で思った。彼女は「デイケアハウスにぎやか」の責任者で、利用者全員が無事だと聞いてホッとすると同時に、自分の肩に載った責任の重さを感じた。

この設立されて二十五年になるデイサービスセンターには、どんな魔法があるのだろう?利用者は一日も欠かさず訪れたがっているのである。豪華で配慮の行き届いたスペースと設備?それとも多種多様なクラス?または全方位的な完璧なサービス?これら全て、「デイケアハウスにぎやか」にはない。ここにあるのは、大家族のような「にぎやかさ」だけである。

彼らの一日はこうやって始まる。「おはよう!」「帰ってきたの?」朝早くから続々と家族たちに送られて来て、皆が挨拶を交わす。或る職員らしき中年男性が機転を利かせてコーヒーを持って来た。各自、自分たちで体温を計って受付でサインすると、座り慣れた場所に座って世間話をしたり、新聞を読んだり、静かに窓の外を照らす日光を見つめたりしながら、自分のしたいことをしていて、皆で集まって講座を受けたり、活動に参加したりする必要はない。

「みんな、家に居るように気ままです。家では予定表なんて要らないでしょ?」阪井さんは、ここは一般的なデイサービスセンターのように日課表通りに体操をしたりするのとは違う、と説明しながら、絶えず周囲に気を配り、或るお年寄りのために針に糸を通してあげたと思ったら、或る脳性麻痺の中年女性がヨロヨロしながら立ち上がったので、駆け寄って手を貸していた。

「混合ケア」がこのセンターの最大の特色である。一般のところは利用者を分類している。高齢者は高齢者のデイケア、身障者は身障者、特殊児童は特殊児童というように。しかし、「デイケアハウスにぎやか」の利用者十人には、認知症の高齢者や中高年の身障者もいれば、学校が終わるとやって来る小学生など、年齢も障害のある無しも区別されることはない。「ごった混ぜ」がごく日常的なのである。

正午近く、「菅母さん、人参の皮むきを手伝ってくれませんか?」と厨房で大忙しの職員が訊いた。九十三歳の菅母さんは直ぐゆっくりした足取りで食事の準備に参加した。普通のセンターなら、ケアするのは職員であり、利用者はサービスを受けるだけである。しかしここは、能力があって、その気さえあれば、利用者も貢献することができ、改めて「必要とされている」という自分の価値を感じることができるのだ。

また、阪井さんはこう付け加えた。例えば朝、皆にコーヒーを入れている村川さんは、当初は体に障害があって、「ケアされるために」ここに来ていたのである。しかし、何か手伝うことが好きな性格で、職員たちも彼の「ケア(お手伝い)」に感謝している。

「にぎやか」に来る楽しみは何か、と利用者に訊いたところ、「ここのお風呂が気持ちいいのです」とか「昼食にビールが飲めることです」と言う人がいたが、「皆さんと一緒にいるのがとても楽しいんです」と言う人が何人もいた。それはむしろ「体の養生」よりも「心の養生」に近いと言える。

陽が差し込む「デイケアハウスにぎやか」の温かい雰囲気は、木を使った空間設計によってもたらされただけでなく、それ以上に、「家」にいるような生活ができるからだ(上)。

2人で生活している、99歳のお婆さんと64歳で脳性麻痺を患う彼女の娘さんは、毎日職員が送り迎えしている(下)。

「デイケアハウスにぎやか」に通って10年以上になる、93歳の菅母さんは、食後に針と糸で縫いものを始めた。彼女が使っていた晒しが男物のパンツだと知った時、皆しばらく大笑いした。

あらゆる人を混合ケアする

こういうコミュニティーの中にあって、少人数(十から二十人)で、家庭の雰囲気があり、高齢者も身障者も子供も同じ空間で過ごし、互いに助け合う関係が出来上がるデイサービスを「富山型デイサービス」方式と呼んでいる。目下、富山県には百三十カ所あり、日本全国には二千七百十二カ所ある。

富山型デイサービスを始めたのは、一九九三年に設立された「デイサービスこのゆびとーまれ」である。初めは幾つかのサービスは法律では規定外であったが、後に制度に取り入れられるようになった。二十九年前、三人の介護師が歩き始めた小さな一歩が、国の制度を動かしたのである。

「介護師は、特別に高齢者や身障者または子供を区別することなく、ケアの必要があれば、皆喜んで手を貸します」。七十一歳で少し猫背の惣万佳代子さんは「デイサービスこのゆびとーまれ」の責任者の一人である。センターの創設時はまだ若かったが、今は彼女もシルバー世代である。変わっていないのは「どんな人も受け入れる」という初心である。

ただ、政府の社会保障制度は以前から分類別になっていて、異なったグループには異なった法律を適用し、デイサービスセンターは一つのグループを引き受けるしかなかった。例えば、同じスペースで高齢者や身障者、子供を一緒に受け入れた場合、政府の補助が申請できなかったのである。それでも、彼女ら三人は理念を実現させるために、制度の限界を超えて、「デイサービスこのゆびとーまれ」を立ち上げたのである。

視察に来た人たちからよくこんな質問が出る。「まず高齢者のデイケアサービスから始めて、その次に身障者と子供を受け入れるという順番にしなかったのはなぜですか?」もう一人の責任者である西村和美さんが、「コミュニティーでケアを必要としているのは高齢者だけではありません。最初の利用者は障害を持った子供でした」と説明した。

「最初は政府の認可が下りませんでしたが、それでも私たちは方向が間違っているとは思わず、こういう形式のケアはあって当然だと信じていました」と惣万さんが言った。それは介護師の使命感がそうさせたのでなく、彼女たちは、子供の頃に地域の人がお年寄りや特殊な人たちと交流していた光景を取り戻したかっただけだったのだ。

「もし、ここを続けることができなかったら、富山の恥ですからね」。民間からの支持の声が次第に高まると共に、混合ケアの利用者に対する効果が加わり、富山県政府は法令の改正を始めた。「デイサービスこのゆびとーまれ」に補助金が出るようになったことが、富山型デイサービス方式を生み出す後押しとなった。二○一八年、政府は正式に、富山型デイサービスをモデルとして「共生型サービス」を推進した。それによって、福祉施設が同時に高齢者と身障者の社会福祉保険を適用し、柔軟に多種多様なケアのニーズに応えることができるようになった。

「デイサービスこのゆびとーまれ」は設立当初、どんな補助も受けられなかった時、利用料は一日二千五百円で、半日で千五百円だった。後に制度に組み入れられ、二○○○年に全国でデイサービスが保険の適用を認められるようになった。高齢者の利用料は「要介護」の等級に沿って、利用者の自己負担が一割から三割までとなり、ケア施設が地方自治体に残りの七割から九割を申請できるため、双方とも負担をかなり軽減できるようになった。

だが地方によって内容は異なり、費用も違う。富山県の或る「要介護二」(立ち上がりや歩行が自力では困難、排泄や入浴ケアなど部分的に介護が必要)という高齢者を例にとると、一日の利用料は七〜八時間で合計九千三百四十八円にもなるが、個人の自己負担は九百三十五円で済む。

今年、デイケアハウスにぎやかに来たばかりで、ゼロから介護を学び出した職員の田中さんは、持ち前の朗らかさと優しさで、高齢者たちからの評判を得ている(写真1)。あだ名が「ジャンちゃん」という脳性麻痺の女性は、不意にむせて咳き込み、側にいた二人の高齢者が急いで面倒を見た(写真2)。

「デイサービスこのゆびとーまれ」では、高齢者は世話をされるだけでなく、子供たちとの交流によって、生きている意義を感じ取ることができる。

お年寄りは介護されるだけでなく、必要とされている

「デイサービスこのゆびとーまれ」の午後は、かしましく走ったり飛び跳ねたりする光景と、休息している光景が入り混じっていた。ダウン症の男の子が急に、認知症のお婆さんに駆け寄って甘えると、お婆さんは彼の頭を撫でながら、言葉を掛けた。また、身障者の青年と職員があちこち駆け回って他の人の手伝いをしたり、センターの事務整理をしたりしていたが、皆、顔が輝いていた。

「高齢者福祉に関する研究をしている学者が最も心配しているのは、体が弱っている高齢者と精力旺盛な子供が同じ空間にいれば、事故が起き易いということですが、『起きない』と私は断言できます」。惣万さんによれば、二十九年前に創設して以来、一度だけ認知症の高齢者が不注意で転んで骨折したことがある。この数字は一般のデイサービスセンターと比べても非常に低い。「混在しているがために、職員は一層警戒心を高めているのかもしれません」。

介護士の惣万佳代子さん(右)と西村和美さん(左)が29年前に「デイサービスこのゆびとーまれ」を立ち上げた。

高齢者にとっては、ケアされる以外に、子供たちと触れ合い、彼らの成長を目にすることで「必要とされる」ことを感じ、「生きていく」意義を見出しているのである。身障者の青年は、自分に合った労働で、そこに帰属感を感じている。そして、子供は大人の指導の下に、高齢者や身障者との付き合い方を学んでいる。

宮崎弘美さんも十一年前、先輩介護士である惣万佳代子さんの感化を受けて、富山型デイサービス「大空と大地のぽぴー村」を立ち上げた。それ以前は大きいデイサービスセンターで働いていたが、その一般的な施設では、一年に一、二回幼稚園児が来て、高齢者のために演技するぐらいで、それは一時的な活動に過ぎず、真の交流とは言えなかった。大人でも、小家庭で育った子供たちに、どうやってお年寄りと接し、お年寄りを避けないようにさせるかを教える術を持っていないのだ。

宮崎さんは毎日、十数人の高齢者と特殊児童の世話をしている。「それは大変ですよ。でも楽しいんです」。六十六歳の彼女は笑顔でこう言った、「子供たちにはいつも、『私がここに座るようになった時は、美味しいものを持って会いに来てね!』と言います」。

もちろん、富山型デイサービスに疑問を持つ人もいる。「高齢者や身障者、子供は皆それぞれ異なったケアを必要としているのに、職員はそれに対応する能力を全て持っているのですか?」。

「大人と子供のニーズは七割方似通っています。コミュニティーのクリニックが大人も子供も診るようなものです」。以前、病院で二十数年間看護師を務めた惣万佳代子さんは、「ここは『生活の場』です。基礎的なケアテクニック以外に、もっと大事なのはさまざまな人と上手に接することです」と言った。

加藤愛理子さん(写真1、左)と同僚の水野薰さん(写真1、右)は、庭に「みやの森カフェ」を開き、木曜日から土曜日まで一般のカフェとして営業し、月曜日から水曜日までは登校拒否の子供が自分を見つける場所として開放している(写真2)。

「デイケアハウスにぎやか」の責任者である阪井由佳子さんによれば、もし、職員が何もかもしてあげたら、逆に利用者が本来持っている機能を奪うことになるため、本人がその能力を発揮した上で他の人が適時に手伝うようにすべきだという。どうやってケアするかは、人それぞれの状況から学び取り、それを進化させるのである。「プロのテクニックよりも、私は『その人のことを考えてケアする能力』を重視しています」。

例を挙げると、今年二十一歳で、幼児教育専門学校を卒業したばかりの田中來都さんは、介護をゼロから学び始めたのだが、彼の持ち前の朗らかさと思いやりは、デイサービスセンターのあらゆる人が賞賛している。「僕は『仕事』しているという感じはなく、皆さんと一緒に生活している感じですかねー」。田中さんは、「僕はゼロから出発して、今では一日に八人のお年寄りをお風呂に入れるまでになりました。充実感を得ています」と言った。

住宅街にあって、コミュニティーの介護サービスニーズを満たしている富山型デイサービスは、地元との関係は密接だが、直ちに達成できるわけではなく、時間を掛ける必要があった。阪井さんによれば、初め向かいに住んでいる人はとても反対していたそうだ。自分の家のお年寄りが一般の介護施設に行き始めてから、「デイケアハウスにぎやか」の特色に気づき、最後にはお年寄りを彼女たちに預けるようになり、双方の関係が良好になったという。(続く)

(経典雑誌二九三期より)

關鍵字

智慧で雑音を消す

雑音を聞いただけで意気消沈してはならず、
そこから勇猛に進み続けるのです。

家系図を整理する

八月十九日九時半に関渡志業パークに着きました。静思書軒の大人や子どもボランティアと四十人のガイドボランティア及び人文志業センターの職員たちが無量義ホールで上人を出迎えました。静思書軒、大愛感恩科技、「常不軽」レストランを見て回った後、七階にあるニュース報道室と同心円オフィスを参観しました。そして、十一時半頃に関渡を離れて、新店静思堂に戻りました。

八月二十日、上人は前日に訪れた関渡志業パークのことに触れました。「魏杏娟(ウェイ・シンジュェン)師姐たちがお供する中、活気に満ち、人文に富んだその荘厳な殿堂を見て、当初、その土地を見に来た時の情景が思い浮かびました。当時は周りに何もなく、そこには数棟の古い建物があるだけでしたが、今は人文志業センターがそそり立っています。その過程を思い出すたび、初期のあの瞬間に頭に浮かんだ思いに感謝せずにはいられません。それが今の人文志業を成就させた結果となり、メディアによって清流が世界を巡っているのです」。

北部には、四十年以上、上人に従って慈済志業に打ち込んできた古参慈済人がたくさんいます。上人は、皆が過去に遡って回顧し、慈済の歴史を整理するよう望んでいます。その作業は膨大で、長い道のりではあっても、何事においても第一歩があります。さもなければ、いつまでも目的地には着けません。「人々を感動させる、慈済の真実は、書き留めて本にするのでなければ、口でその貴重な記録や素晴らしいストーリーを話すだけとなり、時間が経って当事者たちがこの世にいなくなると、それ以上、慈済の出来事を記憶し、話すことができる人の無いまま途絶えてしまいます。この世の善い出来事は伝えられるべきで、『菩薩の家系図』を書かなければなりません。一人ひとりの慈済人に感動的な歴史があり、それらを集めてとてつもなく大きい『家系図』を編集するのです」。

上人は、人文志業が当世で起きている天災や人災及び慈済人の善い行いなどを報道するだけでなく、メディアの力を発揮して、過去の菩薩の足跡をきちんと収録して編集し、大衆に慈済の歴史を伝え、それらが人の模範となることを期待しています。「今の発達したテクノロジーは私たちの伝法に役立っていますが、一人ひとりが経蔵を深く理解すべきであり、慈済人なら尚更、《無量義経》を心して体得しなければなりません。仏法の道理はとても深遠で、法海は広くても、その経典は生活に融け込むことができます。もし、それに通じ、その道理を実践できるなら、それこそ深い修行となるでしょう」。

漢方薬の研究開発は営利目的ではない

上人は、精舎に戻って、出迎えた慈済病院の林欣栄院長、王志鴻副院長及び林静憪師姐たちと談話した時、漢方薬の研究に言及し、本当にこの世に有益な成分を見つけてください、と言いました。「天と地と人は一体であり、人の病を治す薬は必ずあります。ただ非常に多くの、病を治療することができる成分がまだ、発見されていないだけですが、発見されてからも深く探究し、分析する必要があります」。

「私たちは営利目的で行うのではなく、絶えず人材を育成し、研究開発を続け、的確で安定した成果が出て、誰もが使用できるようになれば、それを世に広めることができるのです」。

上人はこう言いました。「真空妙有と言われるように、世間にある一切の物質は分析していくと、最後には『空』に辿り着き、その『空』こそが真理であり、道理は元々存在しているのです。様々な植物や鉱物から抽出された成分は、融合されることで、有益な物質になります。哲学者も同じで、仔細に道理を分析するのは、玉ねぎの皮を剥くように、人間(じんかん)の様々な事相を一枚一枚剥がして行くと、最後には何もない『空』になるのです。台北から宜蘭を経て花蓮に帰って来た時、何の障害もなく、とてもスムーズでしたが、前進するには道が必要であり、道路標識の指示に従わなければなりません。全ては軌道や道理に沿って初めて、順調に営まれるのです」。

「医療志業は慈済病院でその良能が発揮されるだけでなく、介護ケアも必要で、人体の健康範囲内は全て医療体系に属します。そして、法脈の精神を発揮し、生命と健康を守り、愛を守る責任を果たさなければいけません」。

「この世で事を成す時、雑音が聞こえるのは避けられません。私たちは自分の心と脳を非常に健康な状態に保ち、智慧で以ってそれら雑音を浄化するのです。医療志業の法髄はあなたたちが頑強なものにすべきで、雑音を聞いて意気消沈してはいけません」。上人は風船を例に取って、こう言いました。「風船はガスをいっぱい入れれば、自ずと上に向かいますが、もし、砂粒ほどの小さな穴でも開いていたら、すぐ萎んで落ちてきます。ですから、一気に元気を出して前進するのです。さもなければ、人の寿命は有限なため、少しでも怠けたら、再び前進しようとする時、余計に時間が掛かって、一層疲れてしまいます」。

(慈済月刊六八三期より)

雑音を聞いただけで意気消沈してはならず、
そこから勇猛に進み続けるのです。

家系図を整理する

八月十九日九時半に関渡志業パークに着きました。静思書軒の大人や子どもボランティアと四十人のガイドボランティア及び人文志業センターの職員たちが無量義ホールで上人を出迎えました。静思書軒、大愛感恩科技、「常不軽」レストランを見て回った後、七階にあるニュース報道室と同心円オフィスを参観しました。そして、十一時半頃に関渡を離れて、新店静思堂に戻りました。

八月二十日、上人は前日に訪れた関渡志業パークのことに触れました。「魏杏娟(ウェイ・シンジュェン)師姐たちがお供する中、活気に満ち、人文に富んだその荘厳な殿堂を見て、当初、その土地を見に来た時の情景が思い浮かびました。当時は周りに何もなく、そこには数棟の古い建物があるだけでしたが、今は人文志業センターがそそり立っています。その過程を思い出すたび、初期のあの瞬間に頭に浮かんだ思いに感謝せずにはいられません。それが今の人文志業を成就させた結果となり、メディアによって清流が世界を巡っているのです」。

北部には、四十年以上、上人に従って慈済志業に打ち込んできた古参慈済人がたくさんいます。上人は、皆が過去に遡って回顧し、慈済の歴史を整理するよう望んでいます。その作業は膨大で、長い道のりではあっても、何事においても第一歩があります。さもなければ、いつまでも目的地には着けません。「人々を感動させる、慈済の真実は、書き留めて本にするのでなければ、口でその貴重な記録や素晴らしいストーリーを話すだけとなり、時間が経って当事者たちがこの世にいなくなると、それ以上、慈済の出来事を記憶し、話すことができる人の無いまま途絶えてしまいます。この世の善い出来事は伝えられるべきで、『菩薩の家系図』を書かなければなりません。一人ひとりの慈済人に感動的な歴史があり、それらを集めてとてつもなく大きい『家系図』を編集するのです」。

上人は、人文志業が当世で起きている天災や人災及び慈済人の善い行いなどを報道するだけでなく、メディアの力を発揮して、過去の菩薩の足跡をきちんと収録して編集し、大衆に慈済の歴史を伝え、それらが人の模範となることを期待しています。「今の発達したテクノロジーは私たちの伝法に役立っていますが、一人ひとりが経蔵を深く理解すべきであり、慈済人なら尚更、《無量義経》を心して体得しなければなりません。仏法の道理はとても深遠で、法海は広くても、その経典は生活に融け込むことができます。もし、それに通じ、その道理を実践できるなら、それこそ深い修行となるでしょう」。

漢方薬の研究開発は営利目的ではない

上人は、精舎に戻って、出迎えた慈済病院の林欣栄院長、王志鴻副院長及び林静憪師姐たちと談話した時、漢方薬の研究に言及し、本当にこの世に有益な成分を見つけてください、と言いました。「天と地と人は一体であり、人の病を治す薬は必ずあります。ただ非常に多くの、病を治療することができる成分がまだ、発見されていないだけですが、発見されてからも深く探究し、分析する必要があります」。

「私たちは営利目的で行うのではなく、絶えず人材を育成し、研究開発を続け、的確で安定した成果が出て、誰もが使用できるようになれば、それを世に広めることができるのです」。

上人はこう言いました。「真空妙有と言われるように、世間にある一切の物質は分析していくと、最後には『空』に辿り着き、その『空』こそが真理であり、道理は元々存在しているのです。様々な植物や鉱物から抽出された成分は、融合されることで、有益な物質になります。哲学者も同じで、仔細に道理を分析するのは、玉ねぎの皮を剥くように、人間(じんかん)の様々な事相を一枚一枚剥がして行くと、最後には何もない『空』になるのです。台北から宜蘭を経て花蓮に帰って来た時、何の障害もなく、とてもスムーズでしたが、前進するには道が必要であり、道路標識の指示に従わなければなりません。全ては軌道や道理に沿って初めて、順調に営まれるのです」。

「医療志業は慈済病院でその良能が発揮されるだけでなく、介護ケアも必要で、人体の健康範囲内は全て医療体系に属します。そして、法脈の精神を発揮し、生命と健康を守り、愛を守る責任を果たさなければいけません」。

「この世で事を成す時、雑音が聞こえるのは避けられません。私たちは自分の心と脳を非常に健康な状態に保ち、智慧で以ってそれら雑音を浄化するのです。医療志業の法髄はあなたたちが頑強なものにすべきで、雑音を聞いて意気消沈してはいけません」。上人は風船を例に取って、こう言いました。「風船はガスをいっぱい入れれば、自ずと上に向かいますが、もし、砂粒ほどの小さな穴でも開いていたら、すぐ萎んで落ちてきます。ですから、一気に元気を出して前進するのです。さもなければ、人の寿命は有限なため、少しでも怠けたら、再び前進しようとする時、余計に時間が掛かって、一層疲れてしまいます」。

(慈済月刊六八三期より)

關鍵字

十一月の出来事

11・04

マレーシア・ケダ州ペンダン県Taman Seri Delima住宅地区は2日、強風によって20世帯の家屋に被害が出た。慈済ボランティアは報告を受けて視察に向かい、4日に再度被災者を見舞い、臨時の支援として見舞金を届けた。

11・05

◎チリの慈済ボランティアは、ウエンテアルト地区のマリアレイナ学校で、150世帯に貧困支援の配付を行った。

◎マレーシア・マラッカ西区の慈済ボランティアは、アローガジャ小学校(SJK(T)Alor Gajah)で、ディーワーリーの感謝祭を催した。伝統舞踊や菜食料理、エコ花瓶作り競争などで36世帯のインド系ケア対象をもてなし、早めのお祝いをした。

◎パラグアイのシウダ・デル・エステ市は、連日の豪雨で河が増水し、低い土地の住宅に浸水した。慈済ボランティアは2日、被害が大きかった地区を視察し、被災世帯を見舞った。そして本日、サンラファエルとサン・アグスティン地区にある臨時避難所で支援活動を行い、毛布と食糧などの物資を配付した。
◎毎月第一日曜日は慈済基金会インド・ブッダガヤ慈善配付日である。今日はディーワーリー感謝祭に当たり、ボランティアが会所で冬季の配付活動を行い、22世帯に感謝祭を祝う食糧と防寒服を配付すると共に、施療と無料散髪を行い、世帯ごとに記念写真を撮った。

11・06

◎モスリム長老会(MCE)は6日と7日、アラブ首長国連邦の首都アブダビで、COP28の前夜祭イベントとして、「世界信仰リーダーサミット」を開催した。慈済基金会からはアメリカ総支部CEOの曽慈慧師姐が代表で参加し、「仏教界の行動‥サステナブル未来のために気候変動への適応能力を身に付ける」と題したテーマで講演を行うと共に、「世界の善を結集・地球を蘇らせる実践協力」の共同声明にサインした。

◎ポーランド・ワルシャワの慈済ボランティアは、2023年4月からNGOのDaj Herbatę基金会の配付活動に参加し、毎月第一月曜日にワルシャワ・セントラルステーションで、ウクライナからの避難民とポーランドのホームレスにサンドイッチを提供している。本日、約300食のサンドイッチの提供及び520個の物資の包装と配付を手伝った。

11・07

慈済インド・ブッダガヤ会所でのコンピュータークラスと英語クラスが7日と8日に続けてオープンし、若者に学習の機会を与え、コンピューターの使用と言語能力の向上によって、より良い生計を立てる機会に恵まれることを期待した。

11・08

モロッコ西部のマラケシュ市は9月初め、真夜中にマグニチュード6・8の強い地震に襲われ、3000人近くが死亡し、5000人余りが負傷した。慈済基金会は、現地の慈善団体であるジュード協会と協力して災害支援を行っている。慈済が資金を出し、当協会に委託して物資の買い付けや梱包、配付を行っている。本日、タメロット村で初歩的な物資の支援を行い、世帯の人数に応じて食糧と毛布、衛生管理用品を配付した。この他、慈済は移動式シャワー車2台を寄付し、被災者に使用してもらっている。

11・14

メキシコ南部の太平洋沿岸は10月25日、カテゴリー5のハリケーン・オーティスに襲われ、甚大な被害が出た。アメリカの慈済ボランティアは、メキシコのボランティアと合流して、11月14日からゲレロ州アカプルコ市とピエ・デ・ラ・クエスタ町など大きな被害を被った地区を視察すると共に、現地のカリタス基金会とメルセス修道女会などを訪ね、災害支援に関する協力を話し合った。

11・15

慈済基金会は長期的にウクライナからの避難民を支援し、15日と17日、ポーランドのワルシャワで冬季の配付活動を行った。また、長期ケア世帯と、協力関係にある団体のケア対象に、厳冬を過ごすために必要なものを買うためのプリペイドカードを77世帯に配付した。

11・16

メルデカ・イノベーションサミット2023が16日と17日、インドネシアのジャカルタで開かれ、慈済基金会の何日生副執行長が招かれて、初日に「善の経済と慈済」というテーマで講演した。

11・17

11月3日、ネパール西部の山岳地帯でマグニチュード5・6の地震が発生し、150人余りが死亡した。慈済基金会は近年、当地で志業を進めているが、シンガポールとマレーシアの慈済ボランティア及び現地ボランティアの一行5人が17日、ルクム県など震源地に近い地区を訪れて被害状況を調査し、被災者に毛布や毛糸の帽子を配付すると共に、現地政府を訪ねて災害支援方法を話し合った。

11・18

花蓮慈済病院は世界針灸学会の会議に出席した。18日と19日にタイ・バンコクで開かれたセミナーで、会員証を受け取った。19日、花蓮病院の林欣栄院長と何宗融副院長が、「動ける歩ける・針灸で寿命と活力を延ばす」というテーマで、花蓮病院の中医・西洋医合同診療の成果を報告し、20余りの国と地域の専門家や学者たちと交流した。

11・20

花蓮慈済病院骨髄移植チームがインドネシア慈済病院を訪れ、初めての小児骨髄移植治療を行うと共に、インドネシア慈済病院の医療チームと5日間にわたる骨髄移植とケアに関する交流を行った。

11・04

マレーシア・ケダ州ペンダン県Taman Seri Delima住宅地区は2日、強風によって20世帯の家屋に被害が出た。慈済ボランティアは報告を受けて視察に向かい、4日に再度被災者を見舞い、臨時の支援として見舞金を届けた。

11・05

◎チリの慈済ボランティアは、ウエンテアルト地区のマリアレイナ学校で、150世帯に貧困支援の配付を行った。

◎マレーシア・マラッカ西区の慈済ボランティアは、アローガジャ小学校(SJK(T)Alor Gajah)で、ディーワーリーの感謝祭を催した。伝統舞踊や菜食料理、エコ花瓶作り競争などで36世帯のインド系ケア対象をもてなし、早めのお祝いをした。

◎パラグアイのシウダ・デル・エステ市は、連日の豪雨で河が増水し、低い土地の住宅に浸水した。慈済ボランティアは2日、被害が大きかった地区を視察し、被災世帯を見舞った。そして本日、サンラファエルとサン・アグスティン地区にある臨時避難所で支援活動を行い、毛布と食糧などの物資を配付した。
◎毎月第一日曜日は慈済基金会インド・ブッダガヤ慈善配付日である。今日はディーワーリー感謝祭に当たり、ボランティアが会所で冬季の配付活動を行い、22世帯に感謝祭を祝う食糧と防寒服を配付すると共に、施療と無料散髪を行い、世帯ごとに記念写真を撮った。

11・06

◎モスリム長老会(MCE)は6日と7日、アラブ首長国連邦の首都アブダビで、COP28の前夜祭イベントとして、「世界信仰リーダーサミット」を開催した。慈済基金会からはアメリカ総支部CEOの曽慈慧師姐が代表で参加し、「仏教界の行動‥サステナブル未来のために気候変動への適応能力を身に付ける」と題したテーマで講演を行うと共に、「世界の善を結集・地球を蘇らせる実践協力」の共同声明にサインした。

◎ポーランド・ワルシャワの慈済ボランティアは、2023年4月からNGOのDaj Herbatę基金会の配付活動に参加し、毎月第一月曜日にワルシャワ・セントラルステーションで、ウクライナからの避難民とポーランドのホームレスにサンドイッチを提供している。本日、約300食のサンドイッチの提供及び520個の物資の包装と配付を手伝った。

11・07

慈済インド・ブッダガヤ会所でのコンピュータークラスと英語クラスが7日と8日に続けてオープンし、若者に学習の機会を与え、コンピューターの使用と言語能力の向上によって、より良い生計を立てる機会に恵まれることを期待した。

11・08

モロッコ西部のマラケシュ市は9月初め、真夜中にマグニチュード6・8の強い地震に襲われ、3000人近くが死亡し、5000人余りが負傷した。慈済基金会は、現地の慈善団体であるジュード協会と協力して災害支援を行っている。慈済が資金を出し、当協会に委託して物資の買い付けや梱包、配付を行っている。本日、タメロット村で初歩的な物資の支援を行い、世帯の人数に応じて食糧と毛布、衛生管理用品を配付した。この他、慈済は移動式シャワー車2台を寄付し、被災者に使用してもらっている。

11・14

メキシコ南部の太平洋沿岸は10月25日、カテゴリー5のハリケーン・オーティスに襲われ、甚大な被害が出た。アメリカの慈済ボランティアは、メキシコのボランティアと合流して、11月14日からゲレロ州アカプルコ市とピエ・デ・ラ・クエスタ町など大きな被害を被った地区を視察すると共に、現地のカリタス基金会とメルセス修道女会などを訪ね、災害支援に関する協力を話し合った。

11・15

慈済基金会は長期的にウクライナからの避難民を支援し、15日と17日、ポーランドのワルシャワで冬季の配付活動を行った。また、長期ケア世帯と、協力関係にある団体のケア対象に、厳冬を過ごすために必要なものを買うためのプリペイドカードを77世帯に配付した。

11・16

メルデカ・イノベーションサミット2023が16日と17日、インドネシアのジャカルタで開かれ、慈済基金会の何日生副執行長が招かれて、初日に「善の経済と慈済」というテーマで講演した。

11・17

11月3日、ネパール西部の山岳地帯でマグニチュード5・6の地震が発生し、150人余りが死亡した。慈済基金会は近年、当地で志業を進めているが、シンガポールとマレーシアの慈済ボランティア及び現地ボランティアの一行5人が17日、ルクム県など震源地に近い地区を訪れて被害状況を調査し、被災者に毛布や毛糸の帽子を配付すると共に、現地政府を訪ねて災害支援方法を話し合った。

11・18

花蓮慈済病院は世界針灸学会の会議に出席した。18日と19日にタイ・バンコクで開かれたセミナーで、会員証を受け取った。19日、花蓮病院の林欣栄院長と何宗融副院長が、「動ける歩ける・針灸で寿命と活力を延ばす」というテーマで、花蓮病院の中医・西洋医合同診療の成果を報告し、20余りの国と地域の専門家や学者たちと交流した。

11・20

花蓮慈済病院骨髄移植チームがインドネシア慈済病院を訪れ、初めての小児骨髄移植治療を行うと共に、インドネシア慈済病院の医療チームと5日間にわたる骨髄移植とケアに関する交流を行った。

關鍵字

二十一日 常思無常

10.21《農九月‧初七》

【靜思小語】將「無常」記在心頭。感恩過去平安,把握現在造福,更要謹慎未來。

《證嚴上人衲履足跡》有聲書,由慈濟人文志業廣播內容創作中心提供,更多精彩的廣播節目,歡迎到「大愛網路電台」收聽。

美國北加州分會三十周年

美國北加州分會三十周年,一百零二位師兄師姊返臺尋根,並與上人座談。謝明晉師兄回顧北加州分會歷史,起於「矽谷阿嬤」林王秀琴師姊受上人感召,一九八九年開始,在十坪大的車庫開始做慈濟;一九九三年承租辦公室,正式成立聯絡處;一九九八年買下第一個會所;二○○九年買下六百五十坪的新園區,於二○一六年正式啟用。

經過三十年,北加州分會有十二個分支聯絡點,從北到南,最遠距離一千二百公里,美國總會在南加州,是北加州分會最強而有力的後盾。此外,一九九七年在灣區的聖馬刁成立第一所慈濟人文學校,之後陸續發展出七所人文學校,一所遠在西雅圖,一所在波特蘭,五所在灣區,學生有一千多人,為北加州的人文教育向下扎根。北加州目前有七個和氣組隊,十四個互愛組隊,二十八個協力組隊,七百四十七位已受證的慈誠委員,一千八百多位社區志工,以及逾一萬位慈濟會員。

上人開示:「美國北加州分會三十年,在座資深的菩薩們已經投入超過三十年了,這一分情很深。我們的年齡隨著時間增長,時間帶走了我們的一切,也帶走了人間的悲歡離合。佛陀說,人間是苦,自從出生,總是哭著來,這一生幾十年,沒有人會說這一生都是很快樂、沒有煩惱、沒有得失的感受,包括我出家修行六十年了,但是我還是苦在『有』─有我現在的擔憂。」

「過去有多少人做慈濟,如今已往生、不在了,這群已經過去很久的人,還有過去的事,最近一直浮現在記憶中、腦海中。最近看大愛臺,回顧『歷史上的今天』,歷年都有很豐富的故事呈現在螢幕上,讓我一直想到了許多人事物,或是有對錯,被批評的、被讚歎的,都隨著一幕幕畫面想起。」

上人說,過去有許多人幫助、成就自己做慈濟事,想起來總是感恩;事,就如九二一大地震之後,慈濟認養幾十所學校的重建工程,讓師生很快就能在安全舒適的校舍上課。決定承擔希望工程之時,並非先準備好了資金才這麼做,而是「信己無私、信人有愛」,同樣在所有慈濟人的護持以及募心募愛之下,讓每一所學校順利完工。

「若有人問:『慈濟為何那麼有錢,可以做這麼多建設?』我就說:『慈濟的錢在哪裏?大家捐的。』我如果不做事,需要人捐錢嗎?有事要做,力量不可能憑空而來。面對不了解的人有此批評,慈濟人不只要有認知、認識,還要用智慧思考。慈濟為臺灣做了不少事,只說九二一大地震在凌晨發生,災區的慈濟人就開始安撫受災鄉親,一大早就供應熱騰騰的粥、豆漿,接著各地慈濟志工開始湧入災區支援,甚至還有海外慈濟志工搭飛機回來幫忙搭簡易屋。」

上人談到九二一大地震發生之前,慈濟志工的人數不像現在這麼多,地震發生後,許多臺灣民眾發心投入志工行列,真如經典所形容的,菩薩從地涌出,而且是從四面八方而來,做這麼多臺灣社會所需要的事,也才能在各社區呼籲、募集民眾的愛心,讓慈濟有力量為臺灣社會做這麼多建設,在嚴重的災難過後,迅速安定社會人心。

上人提起大約三十年前,有旅居海外的慈濟人返臺,當時問他們:「你們住在山區別墅,生活很享受,但是慈濟人這麼少,萬一有災難、意外發生,要做慈善救助會很吃力。」他們回答:「師父,我們那裏沒有災難。」當時聽了這句話,心中一震,立刻教導他們不可以這麼想,每天能夠平安度過,要感恩,但還是要提高警覺,日日要將「無常」記在心頭。

「感恩平安的過去,更要謹慎於未來,因為人生無常,要把握現在,在慈濟有機會造福;還要自我警覺,不要有一念偏差錯誤,不要與我們本具的清淨佛性愈離愈遠,或是用無明污垢層層掩蓋佛性,也讓善念、造福之心被蓋住。」上人說,有福的人更要造福,有福要及時造,有智慧要及時付出。

眾生都有佛性,不需要分別上下高低,所以不需比較,如果要比較,不是比誰更富有、誰更有權勢,而是要比誰更發心,大家見賢思齊。要比良能,不是比功能,與人計較著自己做得更多、付出更多,其實默默付出的人,真誠發願而甘願做、歡喜受,才是做得最多的人。

上人提到很多貼心的弟子,持續不斷地護持志業,有形的一直付出,無形的也不斷在供養。用什麼供養?弟子聽師父的話,能夠合心,做師父想要做的利益人間之事,對師父來說就是最好的供養,而且大家身體力行菩薩道,是生生世世的永恆供養。

本專欄為靜思人文出版之《證嚴上人衲履足跡》精簡版;更完整的慈濟脈動與開示內容,以及師徒之間的感人對談,請展閱每季出版的《證嚴上人衲履足跡》

10.21《農九月‧初七》

【靜思小語】將「無常」記在心頭。感恩過去平安,把握現在造福,更要謹慎未來。

《證嚴上人衲履足跡》有聲書,由慈濟人文志業廣播內容創作中心提供,更多精彩的廣播節目,歡迎到「大愛網路電台」收聽。

美國北加州分會三十周年

美國北加州分會三十周年,一百零二位師兄師姊返臺尋根,並與上人座談。謝明晉師兄回顧北加州分會歷史,起於「矽谷阿嬤」林王秀琴師姊受上人感召,一九八九年開始,在十坪大的車庫開始做慈濟;一九九三年承租辦公室,正式成立聯絡處;一九九八年買下第一個會所;二○○九年買下六百五十坪的新園區,於二○一六年正式啟用。

經過三十年,北加州分會有十二個分支聯絡點,從北到南,最遠距離一千二百公里,美國總會在南加州,是北加州分會最強而有力的後盾。此外,一九九七年在灣區的聖馬刁成立第一所慈濟人文學校,之後陸續發展出七所人文學校,一所遠在西雅圖,一所在波特蘭,五所在灣區,學生有一千多人,為北加州的人文教育向下扎根。北加州目前有七個和氣組隊,十四個互愛組隊,二十八個協力組隊,七百四十七位已受證的慈誠委員,一千八百多位社區志工,以及逾一萬位慈濟會員。

上人開示:「美國北加州分會三十年,在座資深的菩薩們已經投入超過三十年了,這一分情很深。我們的年齡隨著時間增長,時間帶走了我們的一切,也帶走了人間的悲歡離合。佛陀說,人間是苦,自從出生,總是哭著來,這一生幾十年,沒有人會說這一生都是很快樂、沒有煩惱、沒有得失的感受,包括我出家修行六十年了,但是我還是苦在『有』─有我現在的擔憂。」

「過去有多少人做慈濟,如今已往生、不在了,這群已經過去很久的人,還有過去的事,最近一直浮現在記憶中、腦海中。最近看大愛臺,回顧『歷史上的今天』,歷年都有很豐富的故事呈現在螢幕上,讓我一直想到了許多人事物,或是有對錯,被批評的、被讚歎的,都隨著一幕幕畫面想起。」

上人說,過去有許多人幫助、成就自己做慈濟事,想起來總是感恩;事,就如九二一大地震之後,慈濟認養幾十所學校的重建工程,讓師生很快就能在安全舒適的校舍上課。決定承擔希望工程之時,並非先準備好了資金才這麼做,而是「信己無私、信人有愛」,同樣在所有慈濟人的護持以及募心募愛之下,讓每一所學校順利完工。

「若有人問:『慈濟為何那麼有錢,可以做這麼多建設?』我就說:『慈濟的錢在哪裏?大家捐的。』我如果不做事,需要人捐錢嗎?有事要做,力量不可能憑空而來。面對不了解的人有此批評,慈濟人不只要有認知、認識,還要用智慧思考。慈濟為臺灣做了不少事,只說九二一大地震在凌晨發生,災區的慈濟人就開始安撫受災鄉親,一大早就供應熱騰騰的粥、豆漿,接著各地慈濟志工開始湧入災區支援,甚至還有海外慈濟志工搭飛機回來幫忙搭簡易屋。」

上人談到九二一大地震發生之前,慈濟志工的人數不像現在這麼多,地震發生後,許多臺灣民眾發心投入志工行列,真如經典所形容的,菩薩從地涌出,而且是從四面八方而來,做這麼多臺灣社會所需要的事,也才能在各社區呼籲、募集民眾的愛心,讓慈濟有力量為臺灣社會做這麼多建設,在嚴重的災難過後,迅速安定社會人心。

上人提起大約三十年前,有旅居海外的慈濟人返臺,當時問他們:「你們住在山區別墅,生活很享受,但是慈濟人這麼少,萬一有災難、意外發生,要做慈善救助會很吃力。」他們回答:「師父,我們那裏沒有災難。」當時聽了這句話,心中一震,立刻教導他們不可以這麼想,每天能夠平安度過,要感恩,但還是要提高警覺,日日要將「無常」記在心頭。

「感恩平安的過去,更要謹慎於未來,因為人生無常,要把握現在,在慈濟有機會造福;還要自我警覺,不要有一念偏差錯誤,不要與我們本具的清淨佛性愈離愈遠,或是用無明污垢層層掩蓋佛性,也讓善念、造福之心被蓋住。」上人說,有福的人更要造福,有福要及時造,有智慧要及時付出。

眾生都有佛性,不需要分別上下高低,所以不需比較,如果要比較,不是比誰更富有、誰更有權勢,而是要比誰更發心,大家見賢思齊。要比良能,不是比功能,與人計較著自己做得更多、付出更多,其實默默付出的人,真誠發願而甘願做、歡喜受,才是做得最多的人。

上人提到很多貼心的弟子,持續不斷地護持志業,有形的一直付出,無形的也不斷在供養。用什麼供養?弟子聽師父的話,能夠合心,做師父想要做的利益人間之事,對師父來說就是最好的供養,而且大家身體力行菩薩道,是生生世世的永恆供養。

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二十九日 清水之力

10.29《農九月‧十五》

【靜思小語】增強善與福,淡化惡與濁。

《證嚴上人衲履足跡》有聲書,由慈濟人文志業廣播內容創作中心提供,更多精彩的廣播節目,歡迎到「大愛網路電台」收聽。

法髓移植,法脈流傳

造血幹細胞關懷團隊、慈濟人醫會團隊及北彰化慈誠委員與上人座談,上人欣言,人間菩薩互為典範,相互感動、共同出力、彼此讚歎,展現出慈濟團隊合和互協的精神;慈濟人為社會人群付出無所求,並且真誠感恩,是名副其實的慈悲喜捨。

「最真、最誠的一念心,還要經過時間的鍛鍊;慈濟在臺灣快要六十年了,從最初每人每天存五毛錢克難起步,從花蓮那個隔著山、隔著海的小地方,從菜市場喊出『五毛錢可以救人』,現在不只是臺灣,經藏演繹是全球連線,科技傳播突破了地理隔閡,也沒有晝夜之分,全球各地的人同時參與靈山法會。」

談及七月在彰化體育館舉辦的八場經藏演繹,上人說,經藏演繹發揮了人文能量,就像人體的骨髓,是維持健康不可或缺的重要精髓;若骨髓病變就會影響造血功能;而健康的人生不只要有健康的身體,還要有健康的腦力,要有正知、正見。大家吸收了佛法,與其他人會合起來排練,用真誠的心、善良的行動,用聲音與肢體形態展現了整體之美,透過科技傳播,引起全球各地的觀看者共鳴,不是只有一時的感動而啟發愛心,演繹圓滿之後許久,都還能聽到感動的迴響。

「若沒有這一群慈濟人,慈濟無法在全球發聲,讓人願意聽、願意接受、願意付出;少了你們的心不可,少了你們的動作不可,少了你們那一分的覺有情不可。自己發心,還要再讓普天下的人聽得到、看得到、感動得到;受感動的有情人,還要有覺悟,才會響應慈濟的呼籲與帶動,讓慈濟從少少的三十個人開始,在小小的菜市場呼籲,從很微小直到現在志業遍及國際。這都是有智慧的人不斷聞聲、見形而發心,不斷凝聚力量而成就。」

上人表示,臺灣大型經藏演繹透過連線,讓全球聽到、看到有這麼多人響應慈濟呼籲,參與慈濟要為人間做的事,如同菩薩雲來集,可以庇護天下。期待因為經藏演繹而受啟發的一念心,要不斷地連接起來;新發意菩薩就像剛進入「序曲」而已,還要繼續跟著曲譜不斷深入,也為自己的人生舞臺譜出美好的曲目。

「眾生共業,共善業就能庇蔭世間風調雨順;假如善業太微弱,惡業已經很沉重,即使世間有善的人,也抵擋不過污濁的惡業。污濁的惡業會掩蓋清淨的善與福,所以必定要增強乾淨的善業、福業,可以淡化污濁;乾淨的水不只要多,還要如湧泉不斷湧出,沖淡骯髒的污垢,有朝一日污水也會變得清澈。」

上人期勉人間菩薩大招生,雖然你我都是慈濟人,但不認識慈濟的人更多,能夠淨化污垢的清水之力太弱,要不斷啟發、帶動人,凝聚更多清澈無染的愛。「不要輕視自己微小的力量,就如你們在座談中的分享,已經透過網路,讓許多國家的慈濟志工看到你們的身影、聽到你們所說的話,也許就能讓他們受感動而投入。所以說菩薩廣度眾生不是神話,而是佛陀的智慧;佛陀說法時,菩薩自十方世界雲來集,有天空就有雲,有空間就有佛法,菩薩在人間身體力行佛法,就能普遍淨化人間。」

上人進一步說,人間菩薩將佛陀正法用在人間,還要讓人接受,並且吸收入骨髓,還要能夠「配型相合」,才能源源不斷地正常造血。「我們對大家分享實踐佛法的心得,十方菩薩來見證,有時間、有地點,有說的人、有聽的人,相互接受、彼此受教,皆大歡喜,法髓就移植成功,法脈也就能在人間流傳。」

上人說,要傳佛法入人心,也要因緣會合,才能發揮功能。慈濟人與師父有緣,所以能夠歡喜接受師父說的話,還能發心動起來,對人間就有用,慈濟精神理念、法髓就入心中;如果與師父無緣,話聽一聽就「作禮而退」,也就無法投入慈濟。「就像骨髓捐贈是『救人一命,無損己身』,慈濟人救助天下苦難人,不僅不損自己,還會成就自己的菩薩道業。感恩各位菩薩用愛的能量付出,成就天下有心人,願意成為幫助人的人,祝福大家!」

 

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10.29《農九月‧十五》

【靜思小語】增強善與福,淡化惡與濁。

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法髓移植,法脈流傳

造血幹細胞關懷團隊、慈濟人醫會團隊及北彰化慈誠委員與上人座談,上人欣言,人間菩薩互為典範,相互感動、共同出力、彼此讚歎,展現出慈濟團隊合和互協的精神;慈濟人為社會人群付出無所求,並且真誠感恩,是名副其實的慈悲喜捨。

「最真、最誠的一念心,還要經過時間的鍛鍊;慈濟在臺灣快要六十年了,從最初每人每天存五毛錢克難起步,從花蓮那個隔著山、隔著海的小地方,從菜市場喊出『五毛錢可以救人』,現在不只是臺灣,經藏演繹是全球連線,科技傳播突破了地理隔閡,也沒有晝夜之分,全球各地的人同時參與靈山法會。」

談及七月在彰化體育館舉辦的八場經藏演繹,上人說,經藏演繹發揮了人文能量,就像人體的骨髓,是維持健康不可或缺的重要精髓;若骨髓病變就會影響造血功能;而健康的人生不只要有健康的身體,還要有健康的腦力,要有正知、正見。大家吸收了佛法,與其他人會合起來排練,用真誠的心、善良的行動,用聲音與肢體形態展現了整體之美,透過科技傳播,引起全球各地的觀看者共鳴,不是只有一時的感動而啟發愛心,演繹圓滿之後許久,都還能聽到感動的迴響。

「若沒有這一群慈濟人,慈濟無法在全球發聲,讓人願意聽、願意接受、願意付出;少了你們的心不可,少了你們的動作不可,少了你們那一分的覺有情不可。自己發心,還要再讓普天下的人聽得到、看得到、感動得到;受感動的有情人,還要有覺悟,才會響應慈濟的呼籲與帶動,讓慈濟從少少的三十個人開始,在小小的菜市場呼籲,從很微小直到現在志業遍及國際。這都是有智慧的人不斷聞聲、見形而發心,不斷凝聚力量而成就。」

上人表示,臺灣大型經藏演繹透過連線,讓全球聽到、看到有這麼多人響應慈濟呼籲,參與慈濟要為人間做的事,如同菩薩雲來集,可以庇護天下。期待因為經藏演繹而受啟發的一念心,要不斷地連接起來;新發意菩薩就像剛進入「序曲」而已,還要繼續跟著曲譜不斷深入,也為自己的人生舞臺譜出美好的曲目。

「眾生共業,共善業就能庇蔭世間風調雨順;假如善業太微弱,惡業已經很沉重,即使世間有善的人,也抵擋不過污濁的惡業。污濁的惡業會掩蓋清淨的善與福,所以必定要增強乾淨的善業、福業,可以淡化污濁;乾淨的水不只要多,還要如湧泉不斷湧出,沖淡骯髒的污垢,有朝一日污水也會變得清澈。」

上人期勉人間菩薩大招生,雖然你我都是慈濟人,但不認識慈濟的人更多,能夠淨化污垢的清水之力太弱,要不斷啟發、帶動人,凝聚更多清澈無染的愛。「不要輕視自己微小的力量,就如你們在座談中的分享,已經透過網路,讓許多國家的慈濟志工看到你們的身影、聽到你們所說的話,也許就能讓他們受感動而投入。所以說菩薩廣度眾生不是神話,而是佛陀的智慧;佛陀說法時,菩薩自十方世界雲來集,有天空就有雲,有空間就有佛法,菩薩在人間身體力行佛法,就能普遍淨化人間。」

上人進一步說,人間菩薩將佛陀正法用在人間,還要讓人接受,並且吸收入骨髓,還要能夠「配型相合」,才能源源不斷地正常造血。「我們對大家分享實踐佛法的心得,十方菩薩來見證,有時間、有地點,有說的人、有聽的人,相互接受、彼此受教,皆大歡喜,法髓就移植成功,法脈也就能在人間流傳。」

上人說,要傳佛法入人心,也要因緣會合,才能發揮功能。慈濟人與師父有緣,所以能夠歡喜接受師父說的話,還能發心動起來,對人間就有用,慈濟精神理念、法髓就入心中;如果與師父無緣,話聽一聽就「作禮而退」,也就無法投入慈濟。「就像骨髓捐贈是『救人一命,無損己身』,慈濟人救助天下苦難人,不僅不損自己,還會成就自己的菩薩道業。感恩各位菩薩用愛的能量付出,成就天下有心人,願意成為幫助人的人,祝福大家!」

 

本專欄為靜思人文出版之《證嚴上人衲履足跡》精簡版;更完整的慈濟脈動與開示內容,以及師徒之間的感人對談,請展閱每季出版的《證嚴上人衲履足跡》

二十二至二十三日 弘法護法

10.22~23《農九月‧初八至初九》

【靜思小語】道理再好、故事再感人,也要有人分享與弘揚,這是弘法也是護法。

《證嚴上人衲履足跡》有聲書,由慈濟人文志業廣播內容創作中心提供,更多精彩的廣播節目,歡迎到「大愛網路電台」收聽。

過得精彩,做得充分

日前因病往生的臺中慈濟醫院耳鼻喉部吳弘斌主任父母、妻兒,十月二十二日在簡守信院長等人陪伴下,前來與上人談話。簡院長說,在吳主任對抗病魔的過程中,看到他對家人的愛、對同事的愛、對病人的愛;大家對他的往生很不捨,但也受到他的精神感動。

上人說:「他雖然年紀不大,但是他的生命很紮實,他是好兒子,也是好父親,更是同仁們的好同事,也是師父的好弟子,他這一輩子真的是做得很足夠,只是我們不捨他英年早逝,不過他的人生精華都表達出來了,我們為他祝福。」

吳爸爸說,上人賜給弘斌的法號是濟弘,所以寫了一首短詩送給他─濟世的胸懷歡喜做,懸壺行菩薩道;弘法志堅甘願受,大愛乃慈濟人。簡院長補充,臺中慈院在十月十四日為吳主任舉辦追思會,六樓國際會議廳坐得滿滿,很多裝了人工電子耳的小朋友唱歌送給吳主任,令人感動落淚。相信他換一副健康的身體再來的時候,會繼續發揮這分大愛,走這條為人間奉獻的道路。

上人說:「我行腳到臺中時,也看到他醫過的小病人,有的是天生耳朵聽不見,但是經過吳醫師很用心的治療,讓他們聽到聲音。那群孩子跟他很親近,他一張開雙手,孩子就湧上來抱著他,很溫馨。」

上人表示吳主任的一生,在家庭、在職場、在慈濟大家庭,各種人生角色都扮演得很好,盡到了各種身分的責任,所以大家都很捨不得他;他這一生過得很精彩,做得很充分,相信他再來人間,會出生在好家庭裏,是人見人愛的小菩薩。因為他種了很好的因,結了很好的緣,將來也會是大醫王,繼續完成他行醫的心願,請家屬放心,大家共同為他祝福,讓他輕安無掛礙地乘著好因緣而來。

難行能行,難能可貴

印尼劉素美師姊、郭再源師兄、黃榮年師兄把握因緣,偕同志工及同仁一行四十人,返臺與上人座談,並觀看臺北小巨蛋的《無量義 法髓頌》經藏演繹。聆聽師兄師姊分享後,上人開示,認同慈濟的人要更多,才能普遍走入印尼社會,讓整體社會體質提升。

上人說,一九九七、一九九八年亞洲金融危機,印尼經濟蕭條、社會動盪,自己對黃奕聰老先生說,要用愛化解仇恨、撫平傷痛,隨後印尼企業家大力支持慈濟對貧苦居民的救濟,並且親自投入發放、賑災等慈濟行動,以大企業家的大影響力做慈善,二十多年來對印尼社會的貢獻,真正做到安邦定國。

雖然曾經有過民生凋蔽、困苦不堪的景象,還有雅加達大水之後,慈濟人前往勘查,看見紅溪河髒污,違章住戶在髒水中生活的景象,這些都有錄影畫面,與現在的繁榮整潔景象相較,實為天壤之別。

上人勉勵印尼慈濟人,「英雄不怕出身低」,不要顧忌別人看到過去落魄的一面而不願提起,反而要坦露一切,讓人知道如今的風光亮麗,是許多人合和互協,經過一段時間的努力奉獻而成就。

為了整治紅溪河而為違章住戶興建的金卡蓮慈濟大愛村,以及金卡蓮慈濟大愛學校,徹底改善許多家庭的生活。上人說,最早入學的這群孩子已經出社會,為社會運作注入一股堅定的力量。所以,對的事,就要很用心去做;探討每個國家的歷史,都有興與衰,如今印尼的繁榮不可缺少企業家對社會的貢獻,這是很值得讓人學習的典範,真實的歷史可以教育人間。

上人教師兄師姊盤點過往,「莫忘那一年、莫忘那一人」,不要忘記最初在印尼開拓、耕耘志業的幾位師兄師姊,尤其像創立金光集團的黃奕聰老先生等大企業家,在社會上已經很有成就,願意如此親力親為做慈善,實在難能可貴、難行能行,這就是人生的價值所在。

「若說多富有、權位多高,這些我不大在意,最在意的是,平常人沒有辦法做到,而他們願意投入去做,發揮愛的能量。印尼可以轉變得這麼快,而且才二十多年,四大志業就建設完成了,做得比師父在臺灣更好,我真的很讚歎,因為你們合和互協,相敬相愛、相互勉勵,真正安定了社會,所以功德無量,要長久保持。」

下午一時三十分搭車至臺北小巨蛋觀看經藏演繹。傍晚五點半返回。

經藏演繹,莊嚴法會

十月二十三日,訪客分享昨天觀看經藏演繹後的心得,上人說,在演繹中看到慈濟早期的影像,或大動員在國際間賑災的畫面,一幕幕都好像才剛發生不久,但其實已經過了幾十年。臺上所能呈現的,只是慈濟五十八年歷史中的一小部分而已,了解慈濟的人看了很感動、很入戲,不太知道慈濟歷史的人,也會讚歎臺上二個藝術團隊及表演藝術家的表現。

上人說,唐美雲歌仔戲團與優人神鼓專心致志投入經藏演繹,每一位都很真誠,尤其二個團隊的創辦人都皈依了,更能融入慈濟情。「他們對慈濟很了解,真誠的心用肢體語言表達,尤其這麼多入經藏菩薩,幾百人、上千人能夠合和互協,動作很整齊,看了真的是很感動。」

上人提到早期臺灣民俗有「五年二醮」之說,「建醮」是為了祈求平安,期間整個區域的民眾都要素食,禁止屠宰。為了經藏演繹,所有的入經藏菩薩亦皆茹素,而且是長達好幾個月,有人因此決定此生都要茹素。「慈濟人視經藏演繹為莊嚴法會,人人的心很虔誠,而且慈濟人是走入人間幫助苦難的菩薩,這分虔誠心很純粹,所以這麼多人才有辦法這麼整齊。」

人能弘道,非道弘人

臺北慈濟醫院主管同仁分享參與經藏演繹心得,吳福川、黃秋良師兄等人分享在新店這片土地建院過程,以及志工在簡陋鐵皮屋帶動工地人文的溫馨點滴。上人說,醫院還沒有蓋之前,志工活動的空間很簡陋,不過大家都很歡喜,因為臺北要有慈濟醫院了!師兄師姊們盡己所能而付出,且積極勸募建院基金,得到很多民眾的愛心響應。

「吳居士(吳福川師兄)的同修(徐潤蓮師姊,已往生)也是菩薩,她在這片土地要開始動工,就來照顧工地,一群慈濟人在簡陋的環境裏守護著,把內外空間布置得很有人文,邀請鄰里居民來參訪,他們用心導覽,或是分享慈濟故事,勸募愛心。所以這所醫院真的是很有愛的醫院,這分愛是慈濟人從這片土地還是荒蕪一片的時候,就帶動出來了。」

上人期勉同仁們與慈濟委員、慈誠多互動,多聽分享,多了解過去的慈濟歷史,以及慈濟人為人間、為大地的付出。「人能弘道、非道弘人」,道理再好、故事再感人,若沒有人說,真相就被道聽塗說的謠言掩蓋。親身經歷過這段慈濟歷史的人要多分享,把典範弘揚出來,這也是在護法。

上人說,慈濟人修六度萬行,真誠布施身心力量,做到「頭目髓腦悉施人」;慈院同仁都有醫療知識,參與經藏演繹,對這些經文詞句感觸更深。即使經藏演繹圓滿,大家仍然要持續深入體會《無量義經》的道理。

本專欄為靜思人文出版之《證嚴上人衲履足跡》精簡版;更完整的慈濟脈動與開示內容,以及師徒之間的感人對談,請展閱每季出版的《證嚴上人衲履足跡》

10.22~23《農九月‧初八至初九》

【靜思小語】道理再好、故事再感人,也要有人分享與弘揚,這是弘法也是護法。

《證嚴上人衲履足跡》有聲書,由慈濟人文志業廣播內容創作中心提供,更多精彩的廣播節目,歡迎到「大愛網路電台」收聽。

過得精彩,做得充分

日前因病往生的臺中慈濟醫院耳鼻喉部吳弘斌主任父母、妻兒,十月二十二日在簡守信院長等人陪伴下,前來與上人談話。簡院長說,在吳主任對抗病魔的過程中,看到他對家人的愛、對同事的愛、對病人的愛;大家對他的往生很不捨,但也受到他的精神感動。

上人說:「他雖然年紀不大,但是他的生命很紮實,他是好兒子,也是好父親,更是同仁們的好同事,也是師父的好弟子,他這一輩子真的是做得很足夠,只是我們不捨他英年早逝,不過他的人生精華都表達出來了,我們為他祝福。」

吳爸爸說,上人賜給弘斌的法號是濟弘,所以寫了一首短詩送給他─濟世的胸懷歡喜做,懸壺行菩薩道;弘法志堅甘願受,大愛乃慈濟人。簡院長補充,臺中慈院在十月十四日為吳主任舉辦追思會,六樓國際會議廳坐得滿滿,很多裝了人工電子耳的小朋友唱歌送給吳主任,令人感動落淚。相信他換一副健康的身體再來的時候,會繼續發揮這分大愛,走這條為人間奉獻的道路。

上人說:「我行腳到臺中時,也看到他醫過的小病人,有的是天生耳朵聽不見,但是經過吳醫師很用心的治療,讓他們聽到聲音。那群孩子跟他很親近,他一張開雙手,孩子就湧上來抱著他,很溫馨。」

上人表示吳主任的一生,在家庭、在職場、在慈濟大家庭,各種人生角色都扮演得很好,盡到了各種身分的責任,所以大家都很捨不得他;他這一生過得很精彩,做得很充分,相信他再來人間,會出生在好家庭裏,是人見人愛的小菩薩。因為他種了很好的因,結了很好的緣,將來也會是大醫王,繼續完成他行醫的心願,請家屬放心,大家共同為他祝福,讓他輕安無掛礙地乘著好因緣而來。

難行能行,難能可貴

印尼劉素美師姊、郭再源師兄、黃榮年師兄把握因緣,偕同志工及同仁一行四十人,返臺與上人座談,並觀看臺北小巨蛋的《無量義 法髓頌》經藏演繹。聆聽師兄師姊分享後,上人開示,認同慈濟的人要更多,才能普遍走入印尼社會,讓整體社會體質提升。

上人說,一九九七、一九九八年亞洲金融危機,印尼經濟蕭條、社會動盪,自己對黃奕聰老先生說,要用愛化解仇恨、撫平傷痛,隨後印尼企業家大力支持慈濟對貧苦居民的救濟,並且親自投入發放、賑災等慈濟行動,以大企業家的大影響力做慈善,二十多年來對印尼社會的貢獻,真正做到安邦定國。

雖然曾經有過民生凋蔽、困苦不堪的景象,還有雅加達大水之後,慈濟人前往勘查,看見紅溪河髒污,違章住戶在髒水中生活的景象,這些都有錄影畫面,與現在的繁榮整潔景象相較,實為天壤之別。

上人勉勵印尼慈濟人,「英雄不怕出身低」,不要顧忌別人看到過去落魄的一面而不願提起,反而要坦露一切,讓人知道如今的風光亮麗,是許多人合和互協,經過一段時間的努力奉獻而成就。

為了整治紅溪河而為違章住戶興建的金卡蓮慈濟大愛村,以及金卡蓮慈濟大愛學校,徹底改善許多家庭的生活。上人說,最早入學的這群孩子已經出社會,為社會運作注入一股堅定的力量。所以,對的事,就要很用心去做;探討每個國家的歷史,都有興與衰,如今印尼的繁榮不可缺少企業家對社會的貢獻,這是很值得讓人學習的典範,真實的歷史可以教育人間。

上人教師兄師姊盤點過往,「莫忘那一年、莫忘那一人」,不要忘記最初在印尼開拓、耕耘志業的幾位師兄師姊,尤其像創立金光集團的黃奕聰老先生等大企業家,在社會上已經很有成就,願意如此親力親為做慈善,實在難能可貴、難行能行,這就是人生的價值所在。

「若說多富有、權位多高,這些我不大在意,最在意的是,平常人沒有辦法做到,而他們願意投入去做,發揮愛的能量。印尼可以轉變得這麼快,而且才二十多年,四大志業就建設完成了,做得比師父在臺灣更好,我真的很讚歎,因為你們合和互協,相敬相愛、相互勉勵,真正安定了社會,所以功德無量,要長久保持。」

下午一時三十分搭車至臺北小巨蛋觀看經藏演繹。傍晚五點半返回。

經藏演繹,莊嚴法會

十月二十三日,訪客分享昨天觀看經藏演繹後的心得,上人說,在演繹中看到慈濟早期的影像,或大動員在國際間賑災的畫面,一幕幕都好像才剛發生不久,但其實已經過了幾十年。臺上所能呈現的,只是慈濟五十八年歷史中的一小部分而已,了解慈濟的人看了很感動、很入戲,不太知道慈濟歷史的人,也會讚歎臺上二個藝術團隊及表演藝術家的表現。

上人說,唐美雲歌仔戲團與優人神鼓專心致志投入經藏演繹,每一位都很真誠,尤其二個團隊的創辦人都皈依了,更能融入慈濟情。「他們對慈濟很了解,真誠的心用肢體語言表達,尤其這麼多入經藏菩薩,幾百人、上千人能夠合和互協,動作很整齊,看了真的是很感動。」

上人提到早期臺灣民俗有「五年二醮」之說,「建醮」是為了祈求平安,期間整個區域的民眾都要素食,禁止屠宰。為了經藏演繹,所有的入經藏菩薩亦皆茹素,而且是長達好幾個月,有人因此決定此生都要茹素。「慈濟人視經藏演繹為莊嚴法會,人人的心很虔誠,而且慈濟人是走入人間幫助苦難的菩薩,這分虔誠心很純粹,所以這麼多人才有辦法這麼整齊。」

人能弘道,非道弘人

臺北慈濟醫院主管同仁分享參與經藏演繹心得,吳福川、黃秋良師兄等人分享在新店這片土地建院過程,以及志工在簡陋鐵皮屋帶動工地人文的溫馨點滴。上人說,醫院還沒有蓋之前,志工活動的空間很簡陋,不過大家都很歡喜,因為臺北要有慈濟醫院了!師兄師姊們盡己所能而付出,且積極勸募建院基金,得到很多民眾的愛心響應。

「吳居士(吳福川師兄)的同修(徐潤蓮師姊,已往生)也是菩薩,她在這片土地要開始動工,就來照顧工地,一群慈濟人在簡陋的環境裏守護著,把內外空間布置得很有人文,邀請鄰里居民來參訪,他們用心導覽,或是分享慈濟故事,勸募愛心。所以這所醫院真的是很有愛的醫院,這分愛是慈濟人從這片土地還是荒蕪一片的時候,就帶動出來了。」

上人期勉同仁們與慈濟委員、慈誠多互動,多聽分享,多了解過去的慈濟歷史,以及慈濟人為人間、為大地的付出。「人能弘道、非道弘人」,道理再好、故事再感人,若沒有人說,真相就被道聽塗說的謠言掩蓋。親身經歷過這段慈濟歷史的人要多分享,把典範弘揚出來,這也是在護法。

上人說,慈濟人修六度萬行,真誠布施身心力量,做到「頭目髓腦悉施人」;慈院同仁都有醫療知識,參與經藏演繹,對這些經文詞句感觸更深。即使經藏演繹圓滿,大家仍然要持續深入體會《無量義經》的道理。

本專欄為靜思人文出版之《證嚴上人衲履足跡》精簡版;更完整的慈濟脈動與開示內容,以及師徒之間的感人對談,請展閱每季出版的《證嚴上人衲履足跡》

二十四日 不結怨,結好緣

10.24《農九月‧初十》

【靜思小語】轉心念也轉變人生,不只不結怨,還能化解惡緣結善緣。

《證嚴上人衲履足跡》有聲書,由慈濟人文志業廣播內容創作中心提供,更多精彩的廣播節目,歡迎到「大愛網路電台」收聽。

法髓中的精髓

上人行腳南下,於新竹聯絡處與新竹區「合心福緣組」幹事、演繹團隊座談,有師兄師姊雖然患病不適,但仍把握因緣投入經藏演繹。上人說,生老病死是人生的自然法則,自己也時常感嘆歲月不留人,不過會再自我教育:即使年事已高,體力衰退,但是心仍要精進,而且比過去更認真。

「我們有因緣接觸佛法,不是一生一世就能有所成就,要經過長遠劫的修行。佛陀也是歷經無數劫,不斷地學習佛法、救度眾生,才能在此生福慧圓滿而覺悟成佛,所以我們還有很長的路要走,我們要認識的道理還很多。」

「聽到大家分享入經藏的心得,我真的為你們慶幸,也為你們祝福。《無量義經》是《法華經》的髓,而經藏演繹更是精煉,煉出精髓。雖然經藏演繹只有三個小時,這三個小時只是蜻蜓點水的一角、一部分而已,卻能看見法髓中的精髓。」

「假如只是誦經,不見得記得住經文,你們投入經藏演繹,一次又一次練習,一句一句用心了解,剛開始是很辛苦,但是法入你們的筋骨中、入你們的心腦中,哪一段音樂響起,你們就可以立刻背誦出來,這是真正法入髓。」

上人說,佛陀說《法華經》之前入定,眉間出毫相光,入無量義三昧,就是把他深心覺悟的精髓,完全集中在心腦而發出毫光,當中有很深的意義。毫光發出去,天地萬物、宇宙之間所有的道理則吸收入心,在佛陀的一念間,散發出廣闊無邊的覺悟智慧。「佛陀的智慧精髓,很值得我們深入去探討,希望大家用虔誠、尊敬的心去研討經文中甚深無量義、無量法。」

上人指出,佛陀說法四十九年,不論是說《華嚴經》、《阿含經》、《方等經》、《般若經》,不分大中小乘,其實都不離《法華經》的真實法,而《無量義經》是《法華經》的精髓。慈濟將《無量義經》的精髓從文字整理到舞臺演繹,再從舞臺普及人間,還有很大的空間要努力。

「慈濟為人間,尤其是為臺灣,幾十年來發揮愛的能量,做了不少利益社會人間的好事。假如大家用心入法,將二千五百多年前佛陀在世時的歷史與世間的生態,連貫到現在這個科技時代,可以整理出很豐富的真實史料,表達出佛法可以融通不同的社會背景與人間生態。」

「生在這個時代,我覺得很有價值,可以借重科技,把佛陀的精神理念,用各種方式普遍弘傳於人間;只要傳播工具開啟,全球都可以聽到慈濟人的分享,他們走入佛法以後,如何改變自己?每一位的人生轉變,都是能夠教育人間的經典。」上人說,常聽師兄師姊說他們過去斤斤計較,常與別人發生摩擦、起衝突;現在走入佛法轉心念,自己改變了,也影響過去經常與自己發生不愉快的人,或是主動去度這些人。

「與人計較或度人,同樣一個人,但是兩樣情─計較的時候,總是為了我對你錯而爭執、誰也不讓誰,因而結怨、結仇;現在我們學佛、行菩薩道,菩薩要發揮『六度』的功夫,其中就有忍辱,不只要忍讓,還要度對方,接引他同行菩薩道,化解惡緣,廣結善緣。」上人說,菩薩要與眾生結好緣,否則無法度眾生;大家要在人群中不斷地淬鍊自己的修行功夫,現在努力度眾生、結好緣,才能再度未來眾。

上人勉勵大家要用心精進,雖然目前還在凡夫地,人與人之間難免有善緣也有惡緣,不過現在發心入佛門,修行過程中一定要與人結好緣。「入佛門一定要度眾生,否則無法說自己在修行。如果沒有行菩薩道,就無法度眾生;要度眾生一定要入佛法,佛法要吸收,才能用法接引眾生;欲接引眾生,我們就要堪忍一切,堅定行正道,不能有偏差,才能讓受我們接引的人步步跟進,不會走偏。」

地藏王菩薩發大願度盡眾生,連最苦的地獄眾生也要救度。上人說,如果學佛者能自度度人,帶動人人「諸惡莫作,眾善奉行」,就能遠離地獄,減輕地藏王菩薩的負擔;此外,觀世音菩薩在久遠劫前早已成佛,是因為不忍眾生悲苦而倒駕慈航來人間,聞聲救苦。所以這二位菩薩與眾生最親近,地藏王菩薩指引、保護眾生不要犯錯,觀世音菩薩教導人們行善,菩薩都希望眾生善惡分明,去惡向善。請師兄師姊用心讀誦《無量義經》,這是走入佛法、行菩薩道必備的經典;大家要持續精進,法親也要相互關懷與照顧。

本專欄為靜思人文出版之《證嚴上人衲履足跡》精簡版;更完整的慈濟脈動與開示內容,以及師徒之間的感人對談,請展閱每季出版的《證嚴上人衲履足跡》

10.24《農九月‧初十》

【靜思小語】轉心念也轉變人生,不只不結怨,還能化解惡緣結善緣。

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法髓中的精髓

上人行腳南下,於新竹聯絡處與新竹區「合心福緣組」幹事、演繹團隊座談,有師兄師姊雖然患病不適,但仍把握因緣投入經藏演繹。上人說,生老病死是人生的自然法則,自己也時常感嘆歲月不留人,不過會再自我教育:即使年事已高,體力衰退,但是心仍要精進,而且比過去更認真。

「我們有因緣接觸佛法,不是一生一世就能有所成就,要經過長遠劫的修行。佛陀也是歷經無數劫,不斷地學習佛法、救度眾生,才能在此生福慧圓滿而覺悟成佛,所以我們還有很長的路要走,我們要認識的道理還很多。」

「聽到大家分享入經藏的心得,我真的為你們慶幸,也為你們祝福。《無量義經》是《法華經》的髓,而經藏演繹更是精煉,煉出精髓。雖然經藏演繹只有三個小時,這三個小時只是蜻蜓點水的一角、一部分而已,卻能看見法髓中的精髓。」

「假如只是誦經,不見得記得住經文,你們投入經藏演繹,一次又一次練習,一句一句用心了解,剛開始是很辛苦,但是法入你們的筋骨中、入你們的心腦中,哪一段音樂響起,你們就可以立刻背誦出來,這是真正法入髓。」

上人說,佛陀說《法華經》之前入定,眉間出毫相光,入無量義三昧,就是把他深心覺悟的精髓,完全集中在心腦而發出毫光,當中有很深的意義。毫光發出去,天地萬物、宇宙之間所有的道理則吸收入心,在佛陀的一念間,散發出廣闊無邊的覺悟智慧。「佛陀的智慧精髓,很值得我們深入去探討,希望大家用虔誠、尊敬的心去研討經文中甚深無量義、無量法。」

上人指出,佛陀說法四十九年,不論是說《華嚴經》、《阿含經》、《方等經》、《般若經》,不分大中小乘,其實都不離《法華經》的真實法,而《無量義經》是《法華經》的精髓。慈濟將《無量義經》的精髓從文字整理到舞臺演繹,再從舞臺普及人間,還有很大的空間要努力。

「慈濟為人間,尤其是為臺灣,幾十年來發揮愛的能量,做了不少利益社會人間的好事。假如大家用心入法,將二千五百多年前佛陀在世時的歷史與世間的生態,連貫到現在這個科技時代,可以整理出很豐富的真實史料,表達出佛法可以融通不同的社會背景與人間生態。」

「生在這個時代,我覺得很有價值,可以借重科技,把佛陀的精神理念,用各種方式普遍弘傳於人間;只要傳播工具開啟,全球都可以聽到慈濟人的分享,他們走入佛法以後,如何改變自己?每一位的人生轉變,都是能夠教育人間的經典。」上人說,常聽師兄師姊說他們過去斤斤計較,常與別人發生摩擦、起衝突;現在走入佛法轉心念,自己改變了,也影響過去經常與自己發生不愉快的人,或是主動去度這些人。

「與人計較或度人,同樣一個人,但是兩樣情─計較的時候,總是為了我對你錯而爭執、誰也不讓誰,因而結怨、結仇;現在我們學佛、行菩薩道,菩薩要發揮『六度』的功夫,其中就有忍辱,不只要忍讓,還要度對方,接引他同行菩薩道,化解惡緣,廣結善緣。」上人說,菩薩要與眾生結好緣,否則無法度眾生;大家要在人群中不斷地淬鍊自己的修行功夫,現在努力度眾生、結好緣,才能再度未來眾。

上人勉勵大家要用心精進,雖然目前還在凡夫地,人與人之間難免有善緣也有惡緣,不過現在發心入佛門,修行過程中一定要與人結好緣。「入佛門一定要度眾生,否則無法說自己在修行。如果沒有行菩薩道,就無法度眾生;要度眾生一定要入佛法,佛法要吸收,才能用法接引眾生;欲接引眾生,我們就要堪忍一切,堅定行正道,不能有偏差,才能讓受我們接引的人步步跟進,不會走偏。」

地藏王菩薩發大願度盡眾生,連最苦的地獄眾生也要救度。上人說,如果學佛者能自度度人,帶動人人「諸惡莫作,眾善奉行」,就能遠離地獄,減輕地藏王菩薩的負擔;此外,觀世音菩薩在久遠劫前早已成佛,是因為不忍眾生悲苦而倒駕慈航來人間,聞聲救苦。所以這二位菩薩與眾生最親近,地藏王菩薩指引、保護眾生不要犯錯,觀世音菩薩教導人們行善,菩薩都希望眾生善惡分明,去惡向善。請師兄師姊用心讀誦《無量義經》,這是走入佛法、行菩薩道必備的經典;大家要持續精進,法親也要相互關懷與照顧。

本專欄為靜思人文出版之《證嚴上人衲履足跡》精簡版;更完整的慈濟脈動與開示內容,以及師徒之間的感人對談,請展閱每季出版的《證嚴上人衲履足跡》

二十五日 讓福靠近

10.25《農九月‧十一》

【靜思小語】寒冬過去,溫暖春陽將會到來;寬容過去,接納的是未來的幸福。

《證嚴上人衲履足跡》有聲書,由慈濟人文志業廣播內容創作中心提供,更多精彩的廣播節目,歡迎到「大愛網路電台」收聽。

互為貴人,感恩彼此

十月二十二至二十四日,土耳其滿納海國際學校團隊至臺南慈濟中學進行教育交流,並締結姊妹校。二十五日於臺中靜思堂,土耳其胡光中師兄、周如意師姊及滿納海團隊分享此行見聞。

上人表示,從大家的分享看到了純真的愛;幾位都談到過去的生活與現在的心靈感受,過去的讓它過去,面對現況要心平氣和,發揮人類的本性之愛,也就是不分宗教的開闊、寬諒與體恤等美德。「佛法說因緣,不如意的境界已經過去,只要心平氣和迎接著未來,福也會不斷接近;痛苦的過去,已經寬容也接納─寬容過去,接納的是未來的幸福。」

上人說,滿納海團隊來到臺灣,不只見證慈濟人真誠長情,也感受到臺灣慈濟學校師長與學生的真情互愛。滿納海學校的師長分享敘利亞難民孩童失學之苦,讓臺灣的師生更加珍惜自己的平安,深刻體會平安就是福,而能珍惜現有的生活。

「普天之下,人人可以互為老師,當彼此的貴人,所以我們要相知、相愛,彼此感恩。我天天所說的話不離開感恩,感恩就是我最真實的生命感受;大家若感覺幸福、快樂,也要有感恩、滿足的心。」

「雖然世間有很多災難,有天災,也有人心不調和引起的衝突,導致大範圍的許多民眾受苦,不過這就像天氣一樣,有春夏秋冬的轉變,冷風刺骨的寒冬終究會過去,溫暖的春陽會到來。」

位於阿爾納武特的滿納海國際學校新校地,規畫興建滿納海高中、中小學以及一所招收當地貧困家庭學子的土耳其大愛高中。上人說,慈濟援助苦難、援建學校的心念很單純,不過每個國家有不同的法規,慈濟人在各國做慈濟事,都要如法、守法不違規。所以要靠長久生活在當地的土耳其慈濟人承擔重任,會很「幸福」,不過也是因為師兄師姊們有福,才能結大福緣,共同成就這件事。

上人說,世間的正信宗教都在教育、引導大眾,要靠信仰者把好的道理傳到人間,讓人心從雜念、貪念、惡念轉向愛與善,而且是大善、大愛,人人都用大善、大愛會合起來,世間就沒有困難的事。上人鼓勵滿納海學校團隊要合心出力,主管同仁們齊聲發願:「上人,我願意!」

人心福田,布善種子

與美國北加州團隊談話,上人勉眾,慈濟人的慧命共為一體,無論是哪一位承擔幹部,資深者將責任傳給承接者,也要傳承做事經驗、慈濟慧命,所以要一路陪伴與護持;執行長、負責人或功能幹事等頭銜,是方便菩薩在人間做事的名相,即使卸下這些名相,大家仍然還在菩薩道上修行,永遠精進不退轉。

上人談到現在國際間的慈善機構很多,慈濟的無私大愛、真誠關懷,以及評估苦難人所需而付出,除了急難救助之外,也對於特別困苦的家庭做長期援助與關懷,這分精神與慈善救濟的方法要永遠維持。「我們用很真誠的心,因應苦難人的需要而救助,並且用感恩、尊重的態度去愛他們,讓受助者覺得自己不是被施捨。我們是發自內心擁抱蒼生,真誠幫助他們的生活,還要邀請他們走入慈濟,共同行善。」

上人表示受助者並非永遠接受救濟,慈濟人要鼓勵他們成為會員,運用「竹筒歲月」日存點滴的方式,天天發一念要幫助別人的善心。這就是佛法所說的「布善種子」,在人間的大福田播善種子,發心的人心中就有一片小福田,可以發揮真誠的心造福,如此擴展開來,人間的大福田就有無量善種子,能夠成長為茂盛的菩提林。

上人提到土耳其教育團隊的分享,因敘利亞內戰而逃難到土耳其的人心有不甘,慈濟人接觸到這群難民,除了在生活上幫助他們,也用愛陪伴關懷。「內戰剛發生的那一段時間,包括主麻教授等人,心中充滿了痛苦與恨,孩子還會有長大以後要報復的心態,如果放任這分仇恨增長,人間的戰爭永遠不會結束,人禍的災難只會愈來愈嚴重。」

「我們現在有因緣幫助他們,這一群人的怨恨消弭,他們所教育的孩子就不會有復仇的心態。這些人與我們有緣,我們可以做到多少就算多少,減少一些仇恨對立,讓愛與善代代相傳。」

上人說,在美國的國際舞臺上,慈濟人一定要站穩;有舞臺可以站,才真正對人間「有法度」;若沒有舞臺可站,即使力量很大,對人間也「沒法度」,無法在國際上發揮力量。而現在慈濟為人間的付出,已經被當地人士看到了,對慈濟的信心建立起來了,不能讓這分信心轉弱。所以資深者即使沒有幹部頭銜,志業仍然需要人人共同承擔,要持續培養人才、陪伴後進,讓他們發自真誠的心願意接續承擔。

本專欄為靜思人文出版之《證嚴上人衲履足跡》精簡版;更完整的慈濟脈動與開示內容,以及師徒之間的感人對談,請展閱每季出版的《證嚴上人衲履足跡》

10.25《農九月‧十一》

【靜思小語】寒冬過去,溫暖春陽將會到來;寬容過去,接納的是未來的幸福。

《證嚴上人衲履足跡》有聲書,由慈濟人文志業廣播內容創作中心提供,更多精彩的廣播節目,歡迎到「大愛網路電台」收聽。

互為貴人,感恩彼此

十月二十二至二十四日,土耳其滿納海國際學校團隊至臺南慈濟中學進行教育交流,並締結姊妹校。二十五日於臺中靜思堂,土耳其胡光中師兄、周如意師姊及滿納海團隊分享此行見聞。

上人表示,從大家的分享看到了純真的愛;幾位都談到過去的生活與現在的心靈感受,過去的讓它過去,面對現況要心平氣和,發揮人類的本性之愛,也就是不分宗教的開闊、寬諒與體恤等美德。「佛法說因緣,不如意的境界已經過去,只要心平氣和迎接著未來,福也會不斷接近;痛苦的過去,已經寬容也接納─寬容過去,接納的是未來的幸福。」

上人說,滿納海團隊來到臺灣,不只見證慈濟人真誠長情,也感受到臺灣慈濟學校師長與學生的真情互愛。滿納海學校的師長分享敘利亞難民孩童失學之苦,讓臺灣的師生更加珍惜自己的平安,深刻體會平安就是福,而能珍惜現有的生活。

「普天之下,人人可以互為老師,當彼此的貴人,所以我們要相知、相愛,彼此感恩。我天天所說的話不離開感恩,感恩就是我最真實的生命感受;大家若感覺幸福、快樂,也要有感恩、滿足的心。」

「雖然世間有很多災難,有天災,也有人心不調和引起的衝突,導致大範圍的許多民眾受苦,不過這就像天氣一樣,有春夏秋冬的轉變,冷風刺骨的寒冬終究會過去,溫暖的春陽會到來。」

位於阿爾納武特的滿納海國際學校新校地,規畫興建滿納海高中、中小學以及一所招收當地貧困家庭學子的土耳其大愛高中。上人說,慈濟援助苦難、援建學校的心念很單純,不過每個國家有不同的法規,慈濟人在各國做慈濟事,都要如法、守法不違規。所以要靠長久生活在當地的土耳其慈濟人承擔重任,會很「幸福」,不過也是因為師兄師姊們有福,才能結大福緣,共同成就這件事。

上人說,世間的正信宗教都在教育、引導大眾,要靠信仰者把好的道理傳到人間,讓人心從雜念、貪念、惡念轉向愛與善,而且是大善、大愛,人人都用大善、大愛會合起來,世間就沒有困難的事。上人鼓勵滿納海學校團隊要合心出力,主管同仁們齊聲發願:「上人,我願意!」

人心福田,布善種子

與美國北加州團隊談話,上人勉眾,慈濟人的慧命共為一體,無論是哪一位承擔幹部,資深者將責任傳給承接者,也要傳承做事經驗、慈濟慧命,所以要一路陪伴與護持;執行長、負責人或功能幹事等頭銜,是方便菩薩在人間做事的名相,即使卸下這些名相,大家仍然還在菩薩道上修行,永遠精進不退轉。

上人談到現在國際間的慈善機構很多,慈濟的無私大愛、真誠關懷,以及評估苦難人所需而付出,除了急難救助之外,也對於特別困苦的家庭做長期援助與關懷,這分精神與慈善救濟的方法要永遠維持。「我們用很真誠的心,因應苦難人的需要而救助,並且用感恩、尊重的態度去愛他們,讓受助者覺得自己不是被施捨。我們是發自內心擁抱蒼生,真誠幫助他們的生活,還要邀請他們走入慈濟,共同行善。」

上人表示受助者並非永遠接受救濟,慈濟人要鼓勵他們成為會員,運用「竹筒歲月」日存點滴的方式,天天發一念要幫助別人的善心。這就是佛法所說的「布善種子」,在人間的大福田播善種子,發心的人心中就有一片小福田,可以發揮真誠的心造福,如此擴展開來,人間的大福田就有無量善種子,能夠成長為茂盛的菩提林。

上人提到土耳其教育團隊的分享,因敘利亞內戰而逃難到土耳其的人心有不甘,慈濟人接觸到這群難民,除了在生活上幫助他們,也用愛陪伴關懷。「內戰剛發生的那一段時間,包括主麻教授等人,心中充滿了痛苦與恨,孩子還會有長大以後要報復的心態,如果放任這分仇恨增長,人間的戰爭永遠不會結束,人禍的災難只會愈來愈嚴重。」

「我們現在有因緣幫助他們,這一群人的怨恨消弭,他們所教育的孩子就不會有復仇的心態。這些人與我們有緣,我們可以做到多少就算多少,減少一些仇恨對立,讓愛與善代代相傳。」

上人說,在美國的國際舞臺上,慈濟人一定要站穩;有舞臺可以站,才真正對人間「有法度」;若沒有舞臺可站,即使力量很大,對人間也「沒法度」,無法在國際上發揮力量。而現在慈濟為人間的付出,已經被當地人士看到了,對慈濟的信心建立起來了,不能讓這分信心轉弱。所以資深者即使沒有幹部頭銜,志業仍然需要人人共同承擔,要持續培養人才、陪伴後進,讓他們發自真誠的心願意接續承擔。

本專欄為靜思人文出版之《證嚴上人衲履足跡》精簡版;更完整的慈濟脈動與開示內容,以及師徒之間的感人對談,請展閱每季出版的《證嚴上人衲履足跡》

二十六至二十八日 無量的「我」

10.26~28《農九月‧十二至十四》

【靜思小語】人與人相互疼愛、勉勵、提攜,從小我超越到大我。

《證嚴上人衲履足跡》有聲書,由慈濟人文志業廣播內容創作中心提供,更多精彩的廣播節目,歡迎到「大愛網路電台」收聽。

自來水其實來之不易

十月二十六日與台灣自來水公司李嘉榮董事長等人談話,上人談到水是人間的大生命,人沒有水無法活下去。慈濟在國際間做慈善救助,常常看到貧困國度的居民,因為居住地乾旱無水,也沒有供水管道等設施,每天都要走很遠的路去提回髒污的水使用,慈濟志工設法為他們鑿井,但即使有地下水可使用,有些地區的地下水也因為各種因素受污染,無法飲用,所以希望有專家可與慈濟合作,協助改善水質,或研發淨水設備。

海水淡化成本高,內陸國家也不易運用海水,但若長久乾旱無雨,迫不得已還是要使用海水淡化技術以維持生存。還有些工廠是將污水處理過後再利用,此法若能普遍運用,也可以減輕水資源的耗損。

上人說,其實最重要的是宣導人人珍惜用水,盡量不要浪費,慈濟人也有責任向大眾呼籲,讓人人了解氣候變化愈來愈劇烈,將來極可能出現水資源普遍缺乏的大問題。「人心一定要調適,不只是節約用水,要珍惜一切物資,不要為了追求新鮮,不斷淘汰還可以使用的物品,使得資源消耗愈來愈大,產生的垃圾也愈來愈多。」

「只要大家把欲念降低一些,智慧良能自然會提高,就不會製造出這麼多垃圾。我們要懂得守舊,舊法新知,只要好好用心,很多舊的物品比新的更好用。同理,大家如今能使用便利的自來水,是經過智慧設計,許多人辛苦架設管道。要讓大眾普遍認知自來水其實來之不易,能夠節約使用,也帶動其他人省水。人間社會哪裏有缺點,我們要用道理去引導,讓人將欠缺的心態轉變為滿足,知道自己很有福,就能夠提起感恩心,天天輕安快樂,少欲知足就是富有的人生。」

一粒種子到茂密成林

十月二十七日與彰化慈濟人、榮董實業家座談,黃蔡寬師姊亦在座。上人說,每次到彰化靜思堂,就在人群中找蔡寬師姊,看到她才會覺得圓滿。彰化分會這個「家」,現在有很多家人,是起於最初的那顆慈濟種子,不斷在彰化接引人間菩薩,讓廣闊的土地上有茂盛菩提林;彰化靜思堂這個家,有粒粒飽滿的種子,因為大家都用真誠的心投入,真誠的心就是種子。

上人說,自己教大家向民眾募心募愛,主要是為了牽起因緣,邀約大家來了解慈濟,也能成為人間菩薩,是一顆可以從「一」生無量的飽滿種子,不斷接引人同行菩薩道。「自從拜師皈依,師父給我『為佛教,為眾生』這六個字,我此生依教奉行。一路走來,過程是很辛苦,不過我自己覺得,這條路走得很正,沒有偏差,所以現在才能看到這麼多發心人,看到師父、聽到師父說的話,大家見聞歡喜,很甘願為師父出力,要為佛教還要為眾生。」

「為佛教,佛教需要我們做什麼呢?佛教不是需要我們做什麼,只需要我們聽從佛陀的教育,依照佛法的真理身體力行。為眾生,我們付出無所求,不著相。」上人談到慈濟會有榮譽董事,是籌建花蓮慈濟醫院當時,既無人、無土地也無資金,但是看見人間貧病之苦,實在不忍心,雖然什麼都沒有,也要發願做到,從此開始到各地邀約人人共同出力,利益人間。

「我本來想要獨自修行,但是我覺得要先利益天下,才有辦法成就自己。經過時間的驗證,那時候起的那一念是正確的,我如果獨善其身,只顧自己修行,永遠不認識人;走出去認識人,就開始邀約人人共同利益人間,人人都出力,不斷成就許多好事,投入的人也不斷增長自己的慧命。」

上人叮嚀,慈濟人向大眾募心募愛,只要有人願意發心成為每月捐款的慈濟會員,包括榮董,都要用感恩心帶動他們,將他們帶入慈濟的法門,也能夠聞法受益,同行菩薩道而福慧雙修。

讓人人都有機會造福

十月二十八日舉辦彰化區第一場,也是今年度全臺第一場授證暨歲末祝福典禮。上人開示,此時看見這麼多莊嚴的人間菩薩,大家平安健康,內心無限歡喜與感恩,感恩平平安安度過每一天;難得人身、難聞佛法,更難得的是走入人間菩薩道,真的是百千萬劫難遭遇的好因緣,大家要珍惜與把握。

「每天看著氣候不調、人心紛亂,實在很憂心,不過又奈何呢?天下這麼大,很多事無可奈何,菩薩覺有情,總是不捨眾生受苦難,所以只要有因緣接觸、救助得到,就會啟動慈善救助。」

「我們愛護眾生,並且要廣度眾生,接引眾生同行菩薩道,讓人人有造福的因緣。佛陀要弟子去托缽化緣,是讓眾生有接觸佛法的因緣,也讓眾生有造福的機會。」上人說,接受善法入心,讓心不起惡念,還會督促自己行善、造福人間,這就是菩薩;菩薩在人間有緣、有福,在人間看很多人間事,累積了很多的智慧,所以福慧雙修。

「我們若是不造福,只顧自家,顧著家裏的一口鍋子,照顧孩子、孫子;顧事業,心腦裏只有我、我、我。我們要超越,不只顧及小我,在個人的『我』前面有無量的『我』─有你們每一個『我』,還有全球各地每一個人的每一個『我』,合為普天之下的一個『大我』,所以要相互疼愛、勉勵、提攜與修行。」

本專欄為靜思人文出版之《證嚴上人衲履足跡》精簡版;更完整的慈濟脈動與開示內容,以及師徒之間的感人對談,請展閱每季出版的《證嚴上人衲履足跡》

10.26~28《農九月‧十二至十四》

【靜思小語】人與人相互疼愛、勉勵、提攜,從小我超越到大我。

《證嚴上人衲履足跡》有聲書,由慈濟人文志業廣播內容創作中心提供,更多精彩的廣播節目,歡迎到「大愛網路電台」收聽。

自來水其實來之不易

十月二十六日與台灣自來水公司李嘉榮董事長等人談話,上人談到水是人間的大生命,人沒有水無法活下去。慈濟在國際間做慈善救助,常常看到貧困國度的居民,因為居住地乾旱無水,也沒有供水管道等設施,每天都要走很遠的路去提回髒污的水使用,慈濟志工設法為他們鑿井,但即使有地下水可使用,有些地區的地下水也因為各種因素受污染,無法飲用,所以希望有專家可與慈濟合作,協助改善水質,或研發淨水設備。

海水淡化成本高,內陸國家也不易運用海水,但若長久乾旱無雨,迫不得已還是要使用海水淡化技術以維持生存。還有些工廠是將污水處理過後再利用,此法若能普遍運用,也可以減輕水資源的耗損。

上人說,其實最重要的是宣導人人珍惜用水,盡量不要浪費,慈濟人也有責任向大眾呼籲,讓人人了解氣候變化愈來愈劇烈,將來極可能出現水資源普遍缺乏的大問題。「人心一定要調適,不只是節約用水,要珍惜一切物資,不要為了追求新鮮,不斷淘汰還可以使用的物品,使得資源消耗愈來愈大,產生的垃圾也愈來愈多。」

「只要大家把欲念降低一些,智慧良能自然會提高,就不會製造出這麼多垃圾。我們要懂得守舊,舊法新知,只要好好用心,很多舊的物品比新的更好用。同理,大家如今能使用便利的自來水,是經過智慧設計,許多人辛苦架設管道。要讓大眾普遍認知自來水其實來之不易,能夠節約使用,也帶動其他人省水。人間社會哪裏有缺點,我們要用道理去引導,讓人將欠缺的心態轉變為滿足,知道自己很有福,就能夠提起感恩心,天天輕安快樂,少欲知足就是富有的人生。」

一粒種子到茂密成林

十月二十七日與彰化慈濟人、榮董實業家座談,黃蔡寬師姊亦在座。上人說,每次到彰化靜思堂,就在人群中找蔡寬師姊,看到她才會覺得圓滿。彰化分會這個「家」,現在有很多家人,是起於最初的那顆慈濟種子,不斷在彰化接引人間菩薩,讓廣闊的土地上有茂盛菩提林;彰化靜思堂這個家,有粒粒飽滿的種子,因為大家都用真誠的心投入,真誠的心就是種子。

上人說,自己教大家向民眾募心募愛,主要是為了牽起因緣,邀約大家來了解慈濟,也能成為人間菩薩,是一顆可以從「一」生無量的飽滿種子,不斷接引人同行菩薩道。「自從拜師皈依,師父給我『為佛教,為眾生』這六個字,我此生依教奉行。一路走來,過程是很辛苦,不過我自己覺得,這條路走得很正,沒有偏差,所以現在才能看到這麼多發心人,看到師父、聽到師父說的話,大家見聞歡喜,很甘願為師父出力,要為佛教還要為眾生。」

「為佛教,佛教需要我們做什麼呢?佛教不是需要我們做什麼,只需要我們聽從佛陀的教育,依照佛法的真理身體力行。為眾生,我們付出無所求,不著相。」上人談到慈濟會有榮譽董事,是籌建花蓮慈濟醫院當時,既無人、無土地也無資金,但是看見人間貧病之苦,實在不忍心,雖然什麼都沒有,也要發願做到,從此開始到各地邀約人人共同出力,利益人間。

「我本來想要獨自修行,但是我覺得要先利益天下,才有辦法成就自己。經過時間的驗證,那時候起的那一念是正確的,我如果獨善其身,只顧自己修行,永遠不認識人;走出去認識人,就開始邀約人人共同利益人間,人人都出力,不斷成就許多好事,投入的人也不斷增長自己的慧命。」

上人叮嚀,慈濟人向大眾募心募愛,只要有人願意發心成為每月捐款的慈濟會員,包括榮董,都要用感恩心帶動他們,將他們帶入慈濟的法門,也能夠聞法受益,同行菩薩道而福慧雙修。

讓人人都有機會造福

十月二十八日舉辦彰化區第一場,也是今年度全臺第一場授證暨歲末祝福典禮。上人開示,此時看見這麼多莊嚴的人間菩薩,大家平安健康,內心無限歡喜與感恩,感恩平平安安度過每一天;難得人身、難聞佛法,更難得的是走入人間菩薩道,真的是百千萬劫難遭遇的好因緣,大家要珍惜與把握。

「每天看著氣候不調、人心紛亂,實在很憂心,不過又奈何呢?天下這麼大,很多事無可奈何,菩薩覺有情,總是不捨眾生受苦難,所以只要有因緣接觸、救助得到,就會啟動慈善救助。」

「我們愛護眾生,並且要廣度眾生,接引眾生同行菩薩道,讓人人有造福的因緣。佛陀要弟子去托缽化緣,是讓眾生有接觸佛法的因緣,也讓眾生有造福的機會。」上人說,接受善法入心,讓心不起惡念,還會督促自己行善、造福人間,這就是菩薩;菩薩在人間有緣、有福,在人間看很多人間事,累積了很多的智慧,所以福慧雙修。

「我們若是不造福,只顧自家,顧著家裏的一口鍋子,照顧孩子、孫子;顧事業,心腦裏只有我、我、我。我們要超越,不只顧及小我,在個人的『我』前面有無量的『我』─有你們每一個『我』,還有全球各地每一個人的每一個『我』,合為普天之下的一個『大我』,所以要相互疼愛、勉勵、提攜與修行。」

本專欄為靜思人文出版之《證嚴上人衲履足跡》精簡版;更完整的慈濟脈動與開示內容,以及師徒之間的感人對談,請展閱每季出版的《證嚴上人衲履足跡》