かつて貧乏の辛さを経験したので、
いつか貧しい人を助けようと発願した。
私は介護を神聖な仕事と考え、
相手を家族のように思っている。
この収入があるからこそ献金ができる。
決して楽な仕事ではないが、苦労を厭わない。
―――劉美連
「介護をしながら慈済に入会して、お金を寄付できるようになるなんて、思ってもいませんでした」。劉美連(リュウ・メイレン)さんは介護の仕事を二十数年間続けてきた。六十四歳になった今も、最前線に立って仕事をこなし、高齢者や患者とその家族にとって、「家族の一員」のような存在になっている。
一九八○年代、台湾経済が高度成長を遂げ、苗栗県には四百軒以上の装飾用陶磁器工場ができ、その多くの製品は輸出された。しかし、好況は十年も続かず、工場は転出し始めた。そのような工場の一つに勤め、絵付けの仕事をしていた劉さんも転職を余儀なくされ、介護士の資格を取得した。
「介護の仕事は決して楽ではありません。運が良ければ仮眠できますが、悪ければ一晩中起きていなければなりません」。劉さんは続けた。「もし手間のかかるお年寄りを担当すると、一晩に何回も起きることになります。その人はわざとしているわけではなく、ただ眠れないだけなのです。また、オムツに慣れないお年寄りは、何回もトイレのために起きます」。
彼女は、食費まで節約して、三年分割で、ご主人名義で百万元(約四百万円)を寄付した。「栄誉董事になるための寄付はとても価値があると思いました。それに神聖な仕事なので、不満はありません」。
患者や高齢者がトイレに間に合わず、排泄物が自分の手や顔にかかることは日常茶飯事だ。「患者を家族のように思えば、不思議と、汚いとか臭いとは思いません」。
劉美連さん(左)は慈済苗栗志業パークのデイケアセンターで介護士をしている。彼女の母親も介護対象の一人だ。(撮影・梁漢南)
親子二代とも病故に貧しくなった
一九五九年、苗栗山城公館に生まれた劉さんは、六人兄弟の三番目である。両親とも客家人で、いつも早起きして暗いうちから豆腐を作って売っていた。冬は骨身に沁みるほど寒く、夏は薪の火が顔に焼けつくほど暑い。四季を通じて忙しく、豆腐の濃い香りが深く記憶に刻まれている。
「祖父が病に倒れると、まずまずだった家計が借金漬けになりました。祖父が亡くなり、父と叔父は財産ではなく、債務を相続しました」。劉さんは、七歳の年、父親が八万元の債務を背負っていたことを今も覚えている。この金額は、当時としては天文学的数字だった。
彼女が中学校を卒業した時、高校に進学する経済的余裕がなかったため、仕方なく桃園にある東隆紡績工場に就職し、そこで今のご主人、羅時源(ロ・スーユェン)さんと出会った。彼は初め、同僚の見合い相手だったが、同僚が気に入らなかったらしい。「正直の頭に神宿るという諺があります。私は本当の宝を拾ったのです!彼は思いやりがあって、正直で、悪い習慣もない人ですから」と彼女は笑いながら話した。
劉さんは二十一歳で結婚し、間もなく、羅さんは基隆に出稼ぎに行き、ショベルカーの運転手になった。彼女は苗栗のご主人の実家に戻って、農作業を手伝った。一九九一年になってやっと、羅さんが苗栗に戻って職に就き、一緒に二人の子供を育てるようになった。
ある日、劉さんが美容院へシャンプーに行った時、美容師の羅採雲(ロ・ツァイユン)さんから渡された新聞を広げると、證厳法師が総統から表彰されたという写真記事が載っていて、思わず歓声をあげた。
「次の機会に、法師に会いに貴方を連れて行きますよ」と採雲さんが嬉しそうに言った。
「本当ですか?本当に法師を知っているのですか?」と彼女は驚いて尋ねた。その二カ月後、慈済ボランティアの採雲さんは彼女を連れて、「慈済列車」に乗り、花蓮を訪れた。中央山脈の麓にある慈済看護専門学校を見て、彼女は慈済道場に来る決心をした。
「当時、上人は自ら福慧お年玉を配っていらっしゃいました。もうすぐ上人の前にたどり着くという時、心の中で、貴方こそが私の探し求めていた師匠だと思いました」。今でも上人に近づいた、あの瞬間の心臓の鼓動を覚えている。あれは一九九八年のことだった。
何事も初めは困難を乗り越えなければならない
当時を振り返ると、花蓮から戻って来た後、リサイクル活動に参加したのだが、その時の連絡所は十五階にあり、回収拠点を設置することができなかった。そこで、苗栗の街角や西山、後龍、卓蘭などの地区で資源回収をしていた。
「秀梅さんは、私にとってリサイクル活動への参加を啓発してくれた先生です」と劉さんが微笑んだ。葉秀梅(イェ・シユウメイ)さんが彼女をリサイクル活動に誘ったのだった。あまり教育を受けていない彼女も、地球環境を良くできることは分かり、すればするほど楽しくなった。その一年後、九二一大地震に遭遇した。「大地が大きく揺れた後、早朝五時に主人が運転するトラックで被災地区に向かいました。電話が通じなくなっていたので、私たちは街中を回って、支援が必要な人を探しました」。
臨時の遺体安置所となっていた、林務局東勢林区管理所に到着すると、彼女は採雲さんと先ず助念に行った。「当時、私は慈済では新米で、遺体に近付くことができず、ただ、陳炎星(チェン・イェンシン)さんと曽錦梅(ヅン・ジンメイ)さんが死者の顔に化粧を施したり、洋服を着せたりするのを見ているだけでした」。地震から二十日間余り、彼女は毎朝五時頃に車でボランティアを載せて被災地域に行って炊き出しを行い、拠点を撤収するまで続けた。
二〇〇二年、苗栗志業パークの建設に向けて準備が始まった。「あの土地は雑草が生え、蛇もよく出る場所でした。整地を手伝うだけでなく、リサイクル活動することも忘れませんでした」。同じ年の暮れ、劉さんは慈済委員になった。委員証を身につけた時、皆が泣き出したのを忘れることができない。何故なら、師匠を見つけたからだ。
苗栗志業パークの前身は古い工場だった。ボランティアは或るトタン屋根の建物をリサイクルステーションにした。建物は老朽化していて、屋根には大きな穴が空き、雨の日は雨合羽を着て作業した。「リサイクルステーションはかなり粗末でしたが、皆、忙しくても楽しく作業をしていました。一番多い時で百人以上いました」。その後はボランティアが増え、回収資源の量も増えたため、もっと大きな場所に移り、環境保全教育ステーションになってから、様々な団体が訪れるようになった。
劉美連さん(左)と羅時源さん(右)夫婦は慈済に投入して20数年になり、互いに励まし合って善行をしてきた。(撮影・傅台娟)
怨みはなく、願があるのみ
「仏教を学ぶ前、私は文句ばかり言っていました。小さい頃は家が貧しかったので、十歳から働き始め、大人になって結婚してからも、同じように働き詰めでした」。劉さんは静かに語った。慈済に入ってから、前世と今世の因縁であることを知り、仏法を学んでからは、何事も善い方に考えるようになった。
「仏教を学ぶ過程で、壁に当たったことがないと言えば嘘です」。彼女自身、真直ぐな性格だと思っており、他人の一言で後戻りするようなことはない。「正しいことは、やり通します」。彼女は、「自分に私心がなく、人には愛があると信じている」という法師の言葉が最も好きである。「人から疑いの目で見られた時、私はこの言葉で自分を励まします」。
幼い頃、台風で大雨が降った後、熱心な性格の父親はいつも道の補修をしたり、排水溝の掃除をしたりしていた。父親が背中を丸めて作業する姿は心の中に焼き付いている。貧しく、苦労した経験があったため、いつか自分に能力ができた時は、自分よりも貧しい人を助けたいと考えていた。二〇一四年にやっと、息子のために栄誉董事の寄付を終え、今は自分が栄誉董事になることを目指して頑張っている。
子どもたちが結婚した時、長年菜食をしてきた彼女は、披露宴は菜食でもてなしたいと固持した。ご主人は彼女よりも一年早く慈誠委員になっており、彼女は、「来世は夫婦ではなく、法縁者になりましょうね」とご主人に言った。
「私は来世も上人に追随し、いつの世もついて行くと発願しました。弱い立場の人たちを助けるのが、私の若い頃から今に至るまでの願であり、健康な体がある限り、この目標に向かって進み続けます」。
(慈済月刊六七九期より)