雑音を聞いただけで意気消沈してはならず、
そこから勇猛に進み続けるのです。
家系図を整理する
八月十九日九時半に関渡志業パークに着きました。静思書軒の大人や子どもボランティアと四十人のガイドボランティア及び人文志業センターの職員たちが無量義ホールで上人を出迎えました。静思書軒、大愛感恩科技、「常不軽」レストランを見て回った後、七階にあるニュース報道室と同心円オフィスを参観しました。そして、十一時半頃に関渡を離れて、新店静思堂に戻りました。
八月二十日、上人は前日に訪れた関渡志業パークのことに触れました。「魏杏娟(ウェイ・シンジュェン)師姐たちがお供する中、活気に満ち、人文に富んだその荘厳な殿堂を見て、当初、その土地を見に来た時の情景が思い浮かびました。当時は周りに何もなく、そこには数棟の古い建物があるだけでしたが、今は人文志業センターがそそり立っています。その過程を思い出すたび、初期のあの瞬間に頭に浮かんだ思いに感謝せずにはいられません。それが今の人文志業を成就させた結果となり、メディアによって清流が世界を巡っているのです」。
北部には、四十年以上、上人に従って慈済志業に打ち込んできた古参慈済人がたくさんいます。上人は、皆が過去に遡って回顧し、慈済の歴史を整理するよう望んでいます。その作業は膨大で、長い道のりではあっても、何事においても第一歩があります。さもなければ、いつまでも目的地には着けません。「人々を感動させる、慈済の真実は、書き留めて本にするのでなければ、口でその貴重な記録や素晴らしいストーリーを話すだけとなり、時間が経って当事者たちがこの世にいなくなると、それ以上、慈済の出来事を記憶し、話すことができる人の無いまま途絶えてしまいます。この世の善い出来事は伝えられるべきで、『菩薩の家系図』を書かなければなりません。一人ひとりの慈済人に感動的な歴史があり、それらを集めてとてつもなく大きい『家系図』を編集するのです」。
上人は、人文志業が当世で起きている天災や人災及び慈済人の善い行いなどを報道するだけでなく、メディアの力を発揮して、過去の菩薩の足跡をきちんと収録して編集し、大衆に慈済の歴史を伝え、それらが人の模範となることを期待しています。「今の発達したテクノロジーは私たちの伝法に役立っていますが、一人ひとりが経蔵を深く理解すべきであり、慈済人なら尚更、《無量義経》を心して体得しなければなりません。仏法の道理はとても深遠で、法海は広くても、その経典は生活に融け込むことができます。もし、それに通じ、その道理を実践できるなら、それこそ深い修行となるでしょう」。
漢方薬の研究開発は営利目的ではない
上人は、精舎に戻って、出迎えた慈済病院の林欣栄院長、王志鴻副院長及び林静憪師姐たちと談話した時、漢方薬の研究に言及し、本当にこの世に有益な成分を見つけてください、と言いました。「天と地と人は一体であり、人の病を治す薬は必ずあります。ただ非常に多くの、病を治療することができる成分がまだ、発見されていないだけですが、発見されてからも深く探究し、分析する必要があります」。
「私たちは営利目的で行うのではなく、絶えず人材を育成し、研究開発を続け、的確で安定した成果が出て、誰もが使用できるようになれば、それを世に広めることができるのです」。
上人はこう言いました。「真空妙有と言われるように、世間にある一切の物質は分析していくと、最後には『空』に辿り着き、その『空』こそが真理であり、道理は元々存在しているのです。様々な植物や鉱物から抽出された成分は、融合されることで、有益な物質になります。哲学者も同じで、仔細に道理を分析するのは、玉ねぎの皮を剥くように、人間(じんかん)の様々な事相を一枚一枚剥がして行くと、最後には何もない『空』になるのです。台北から宜蘭を経て花蓮に帰って来た時、何の障害もなく、とてもスムーズでしたが、前進するには道が必要であり、道路標識の指示に従わなければなりません。全ては軌道や道理に沿って初めて、順調に営まれるのです」。
「医療志業は慈済病院でその良能が発揮されるだけでなく、介護ケアも必要で、人体の健康範囲内は全て医療体系に属します。そして、法脈の精神を発揮し、生命と健康を守り、愛を守る責任を果たさなければいけません」。
「この世で事を成す時、雑音が聞こえるのは避けられません。私たちは自分の心と脳を非常に健康な状態に保ち、智慧で以ってそれら雑音を浄化するのです。医療志業の法髄はあなたたちが頑強なものにすべきで、雑音を聞いて意気消沈してはいけません」。上人は風船を例に取って、こう言いました。「風船はガスをいっぱい入れれば、自ずと上に向かいますが、もし、砂粒ほどの小さな穴でも開いていたら、すぐ萎んで落ちてきます。ですから、一気に元気を出して前進するのです。さもなければ、人の寿命は有限なため、少しでも怠けたら、再び前進しようとする時、余計に時間が掛かって、一層疲れてしまいます」。
(慈済月刊六八三期より)