熱い地球|国連環境総会に出席 菜食とプラスチック使用削減の推進

経過:慈済基金会は二〇〇三年に国連NGOの協力メンバーとなり、二〇一九年には国連環境計画(UNEP)のオブザーバーとなった。また、二〇二三年から二〇二五年にかけての国連環境計画により、信仰に基づく組織の女性委員会及び青年委員会メンバーにも任命された。

二〇二四年二月二十六日から三月一日にかけて、第六回国連環境総会(UNEA6)が、東アフリカの国ケニアの首都ナイロビで開催され、国連加盟国の百九十三カ国が代表を派遣した。慈済は国連環境計画のオブザーバーとして、会議には慈済アメリカ総支部の曽慈慧(ヅン・ツ―フェイ)執行長と慈済のグローバル協力事務発展室スタッフの凃君曄(トゥ・ジュンイェ)さんが代表で出席した。

曽さんは、今回の参加者は明らかに若くなっていることに気づいた。「七千人余りの参加者のうち、六割以上が三十歳以下の若者でした」。その他、これまでは国や有力団体が主導して意見を述べていたが、今回は特に各会議で女性と若者、宗教団体のための席が用意されてあり、あらゆるグループが環境会議で発言できるようになっていた。

曽さんは説明を付け加えた。「より多くの女性や少数派グループ、障害者、先住民など立場の弱い人の声が取り上げられ、理解されれば、各国が環境規制の策定や環境政策を実施する時、より包括的になるのです」。

今年の総会のテーマは、気候変動、生物の多様性の喪失、環境汚染という地球の「三重危機」に焦点を当てた。慈済は事前に準備して、「循環経済」のシンポジウムにおいて、環境保護と慈善の理念を結合した、リサイクルしたペットボトルによる災害支援物資の再生及び近年注目されている「エコ福祉用具プラットフォーム」などについてシェアした。

二〇一九年初めてケニア・ナイロビで国連環境総会に参加した時に比べると、今回もナイロビであるが、会場には使い捨てプラスチック製品が全く見当たらず、食事もベジタリアン食の選択肢が大幅に増えた。これは慈済と多くの環境保護団体の呼びかけが共鳴を得た証と言える。「慈済が長年にわたって様々な機会に繰り返し推し進めてきたことで、多くの人の心に留まり、新たな取り組みと支持が生まれたのでしょう」と、曽さんは、この方向性は努力を続けるに値するものだと断言した。

五年前に訪れたゴミ山スラム街のキベラとダンドラを、今回も再び訪れた。ナイロビの中心部から僅か十キロしか離れていないこの場所は、アフリカ最大級のゴミ捨て場であり、 一日あたり三千トンのペースで蓄積され続けている。その多くがケニアに輸入された「ファーストファッション」の古着で、人々の日常的なニーズを遥かに超えた量である。深刻な環境問題になっており、今回の国連環境総会では議題の一つにまでなった。

ケニア政府と国連は、スラム街の整理と移住計画を何度も進めて来ており、政府による国民住宅は次々とできて来ている。貧困層の月収は三千ケニアシリング(約三千五百円)であるため、二万から四万シリングの家賃を負担するのは困難で、生活は現状維持が精一杯である。「しかし、生活に変化があったかと問われれば、あったと答えます。二〇一九年に訪問した時は、本当に怖い思いをしました。道を行くと、両サイドは全部ゴミに囲まれていましたが、今はそれほど高く積まれていません」と曽さんが言った。

セッションの合間に、彼女たちは南スーダンの聖バキタ女子小学校の教師代表らと交流し、学校の運営や慈済の食糧支援の成果について理解を深めた。アフリカで最も若い国である南スーダンは、長年の内戦と気候変動で打撃を受け、七百万人余りが食糧危機に直面している。その学校は南スーダンで唯一の女子校であり、多くの少女が安心して教育を受けられ、また貧困家庭で児童婚を強いられる運命から逃れられるよう守っているのである。校長のシスター・ジェーン・マシコ氏は、證厳法師に感謝の意を伝えてほしい、と慈済の代表者に託した。

「法師様の慈悲は、まるで母親の愛と同じです。子供たちは毎日学校に通い、充分な食事と勉強をすることができるのです。母親のように彼らを愛してくれていることに感謝を申し上げます!」。

(慈済月刊六八九期より)

会場の外では、少数派グループが環境の正当性を訴えていた。多様性を受け入れると同時に、少数派の意見に耳を傾けることが今回の総会の価値である。

経過:慈済基金会は二〇〇三年に国連NGOの協力メンバーとなり、二〇一九年には国連環境計画(UNEP)のオブザーバーとなった。また、二〇二三年から二〇二五年にかけての国連環境計画により、信仰に基づく組織の女性委員会及び青年委員会メンバーにも任命された。

二〇二四年二月二十六日から三月一日にかけて、第六回国連環境総会(UNEA6)が、東アフリカの国ケニアの首都ナイロビで開催され、国連加盟国の百九十三カ国が代表を派遣した。慈済は国連環境計画のオブザーバーとして、会議には慈済アメリカ総支部の曽慈慧(ヅン・ツ―フェイ)執行長と慈済のグローバル協力事務発展室スタッフの凃君曄(トゥ・ジュンイェ)さんが代表で出席した。

曽さんは、今回の参加者は明らかに若くなっていることに気づいた。「七千人余りの参加者のうち、六割以上が三十歳以下の若者でした」。その他、これまでは国や有力団体が主導して意見を述べていたが、今回は特に各会議で女性と若者、宗教団体のための席が用意されてあり、あらゆるグループが環境会議で発言できるようになっていた。

曽さんは説明を付け加えた。「より多くの女性や少数派グループ、障害者、先住民など立場の弱い人の声が取り上げられ、理解されれば、各国が環境規制の策定や環境政策を実施する時、より包括的になるのです」。

今年の総会のテーマは、気候変動、生物の多様性の喪失、環境汚染という地球の「三重危機」に焦点を当てた。慈済は事前に準備して、「循環経済」のシンポジウムにおいて、環境保護と慈善の理念を結合した、リサイクルしたペットボトルによる災害支援物資の再生及び近年注目されている「エコ福祉用具プラットフォーム」などについてシェアした。

二〇一九年初めてケニア・ナイロビで国連環境総会に参加した時に比べると、今回もナイロビであるが、会場には使い捨てプラスチック製品が全く見当たらず、食事もベジタリアン食の選択肢が大幅に増えた。これは慈済と多くの環境保護団体の呼びかけが共鳴を得た証と言える。「慈済が長年にわたって様々な機会に繰り返し推し進めてきたことで、多くの人の心に留まり、新たな取り組みと支持が生まれたのでしょう」と、曽さんは、この方向性は努力を続けるに値するものだと断言した。

五年前に訪れたゴミ山スラム街のキベラとダンドラを、今回も再び訪れた。ナイロビの中心部から僅か十キロしか離れていないこの場所は、アフリカ最大級のゴミ捨て場であり、 一日あたり三千トンのペースで蓄積され続けている。その多くがケニアに輸入された「ファーストファッション」の古着で、人々の日常的なニーズを遥かに超えた量である。深刻な環境問題になっており、今回の国連環境総会では議題の一つにまでなった。

ケニア政府と国連は、スラム街の整理と移住計画を何度も進めて来ており、政府による国民住宅は次々とできて来ている。貧困層の月収は三千ケニアシリング(約三千五百円)であるため、二万から四万シリングの家賃を負担するのは困難で、生活は現状維持が精一杯である。「しかし、生活に変化があったかと問われれば、あったと答えます。二〇一九年に訪問した時は、本当に怖い思いをしました。道を行くと、両サイドは全部ゴミに囲まれていましたが、今はそれほど高く積まれていません」と曽さんが言った。

セッションの合間に、彼女たちは南スーダンの聖バキタ女子小学校の教師代表らと交流し、学校の運営や慈済の食糧支援の成果について理解を深めた。アフリカで最も若い国である南スーダンは、長年の内戦と気候変動で打撃を受け、七百万人余りが食糧危機に直面している。その学校は南スーダンで唯一の女子校であり、多くの少女が安心して教育を受けられ、また貧困家庭で児童婚を強いられる運命から逃れられるよう守っているのである。校長のシスター・ジェーン・マシコ氏は、證厳法師に感謝の意を伝えてほしい、と慈済の代表者に託した。

「法師様の慈悲は、まるで母親の愛と同じです。子供たちは毎日学校に通い、充分な食事と勉強をすることができるのです。母親のように彼らを愛してくれていることに感謝を申し上げます!」。

(慈済月刊六八九期より)

会場の外では、少数派グループが環境の正当性を訴えていた。多様性を受け入れると同時に、少数派の意見に耳を傾けることが今回の総会の価値である。

關鍵字

五月の出来事

05・01

慈済基金会は、ブータン・ギャリュム慈善信託基金の下部組織であるリニュー(RENEW)のために、首都にあるシンプ―べべナ地区で「ハッピーハウス」を支援建設する。それは、暴力を受けた女性や子供の臨時のシェルターで、栄養に関する相談や法律面、医療面での支援を行う。本日、起工式が行われた。

05・02

アメリカ中南部の6つの州が、4月26日と27日、100余りの竜巻に襲われ、数多くの町が甚大な被害を被った。慈済ダラス連絡所は緊急支援活動を展開し、本日、4人がオクラホマ州の甚大被災地であるソルファー市に出向いて視察した。10日に当州の災害ボランティア機構(VOAD)による計画と連携して、現地のイエス中心教会で緊急の配付活動を行った。13世帯に買い物カードとエコ毛布25枚、20個の竹筒貯金箱が配付された。

05・05

インドネシア慈済人医会と慈済ボランティアは、タンゲラン市とボゴール市にあるプサントレンのヌルル‧イマンで、施療と衛生教育活動を行った。一般内科と歯科の診療の他、疥という皮膚病及び口腔に関する衛生知識を紹介し、1050人が恩恵を受けた。

05・07

◎慈済基金会の役員である林碧玉氏と張宗義副執行長、慈発所の呂芳川主任、營建所の張正助主任、総務所の詹桂棋主任が、花蓮県政府で徐榛蔚知事を訪ね、0403花蓮地震における恒久住宅建設について話し合った。

◎ブラジルのリオグランデ州は4月末からの連日の豪雨で、甚大な被害が出た。400余りの都市が影響を受け、約150万人が被災した。被災者への支援ルートを確保した、慈済パラグアイ・シウダードデルエステ連絡所のボランティアは、大至急500食分の食料を買い付けて、災害救助物資の集荷所に届け、ブラジル・フォズ市の軍に所属する消防隊を通して被災地に輸送した。

05・08

◎慈済基金会はアスース文教基金会と共に、花蓮県38カ所の学校に学習用のコンピューター設備を寄贈し、0403花蓮地震の後、いち早く正常な授業に復帰できるよう支援した。本日、県庁で寄贈式が行われた。

◎マダガスカル・ライオンズクラブのユージーニー氏と弟のティーリー氏、助手のジラ氏及び当クラブ南部地区の責任者、ラライナ氏の4人は、8日、モザンビークで行われる8日間の「志業の学習と交流」活動に参加するために出発した。活動では慈済の勉強会、巡礼、灌仏会などと共に、慈済大愛農場の見学、ケア世帯訪問などが行われる。また、モザンビーク慈済チームと将来のマダガスカルの一年間の活動や展望について話し合う。一行は16日に帰国する。

05・10

インドネシアのマンクヌガラン宮殿当主マンクヌゴロ10世がチームを引率して、初めて慈済支部を訪れ、今後の協力関係を話し合った。

05・12

◎慈済が58周年を迎えた。午前7時に台湾花蓮静思堂前の道侶広場で、世界で最も早い灌仏会「2024年仏誕節、母の日、慈済デイ」が催された。證厳法師は会場で大衆を率いて灌仏を行った。夕方6時には台北市中正紀念堂で、「2024年仏誕灌仏親孝行感謝祈福会」が盛大に行われた。蔡英文総統及び政界の要人たちが、真心で「祈り」を歌い、災害のない平穏な日々と心の平安を祈った。今年の式典では初めて、偈頌《無量義経・徳行品》が唱えられた。

◎證厳法師は国立陽明交通大学の名誉哲学及び医学のダブル博士学位を授与された。本日、花蓮静思堂で授与式が行われ、同大学の林奇宏学長が授与した。

陽明交通大学の林奇宏学長(左)が、證厳法師に名誉博士の学位を授与した。(相片提供・花蓮本会)

世界各地で灌仏会
世の幸福を祈った

オンラインを通じて、世界14の国と地域の37の地域道場と同時に灌仏会を行い、〈徳行品〉の偈頌を朗誦し、人々の心を静めた。式典が荘厳に整然と行われるよう、参加人員は天候に関係なく、「燈燭、香湯、法香」の献上動作のリハーサルを行った。お参りする台は草花で荘厳に飾られ、諸仏に礼敬された。(資料提供・蔡翠容 撮影・廖文聰)

仏誕節、母の日、慈済デイという三節を合わせた式典が、2024年世界45の国と地域の743の会場で行われ、16万人余りが参加した。最も大きいのが台北中正紀念堂で行われたもので、2万人が偈頌を朗誦し、世の幸福を祈った。(撮影・廖世淙)

05・13

慈済基金会志業報告の時に、熊士民副執行長が「慈済のイスラム開発銀行アフリカ眼科疾病予防援助共同プロジェクト支援」における第1段階の成果を報告した。支援対象はアフリカ6カ国で、そのうちのギニアは慈済が慈善支援を行った134番目、ジブチは135番目、ソマリアは136番目の国または地域となった。

05・15

日本の防災専門家である西村文彦氏、大橋麻希子氏、前田宰氏が内政部消防署と衛生福利部のスタッフの案内で、新店静思堂を訪れ、慈済基金会、大愛感恩科技公司のチームと交流した。慈悲の科学製品を見て、災害後の避難所などに関して交流した。16日は花蓮静思堂を訪れ、慈済物資倉庫を見学すると共に、花蓮県及び市政府、民間団体と座談会を設けて、避難所での経験を分かち合った。

05・17

◎慈済基金会は途切れることなく、今年の元日に発生した能登半島地震の被災者に関心を寄せている。ボランティアは穴水町で2万食の炊き出しを行って来たが、家屋が半壊以上で65歳のお年寄りがいる世帯を対象に、5月に見舞金配付活動を展開し、世帯の家族構成によって13万から17万円が配付される。17日から19日まで日本支部のボランティアと現地ボランティア合わせて延べ192人が参加して、1091の穴水町の被災世帯に配付を実施した。6月上旬には能登町で行われる。

證厳法師の心温まるお見舞いの手紙と見舞金の心を尽くした上品な装丁は多くの住民の心を動かした。(撮影・蕭耀華)

慈済が能登半島穴水町で見舞金配付活動を行った。5月19日武道館で行われた様子。(撮影・李月鳳)

05・01

慈済基金会は、ブータン・ギャリュム慈善信託基金の下部組織であるリニュー(RENEW)のために、首都にあるシンプ―べべナ地区で「ハッピーハウス」を支援建設する。それは、暴力を受けた女性や子供の臨時のシェルターで、栄養に関する相談や法律面、医療面での支援を行う。本日、起工式が行われた。

05・02

アメリカ中南部の6つの州が、4月26日と27日、100余りの竜巻に襲われ、数多くの町が甚大な被害を被った。慈済ダラス連絡所は緊急支援活動を展開し、本日、4人がオクラホマ州の甚大被災地であるソルファー市に出向いて視察した。10日に当州の災害ボランティア機構(VOAD)による計画と連携して、現地のイエス中心教会で緊急の配付活動を行った。13世帯に買い物カードとエコ毛布25枚、20個の竹筒貯金箱が配付された。

05・05

インドネシア慈済人医会と慈済ボランティアは、タンゲラン市とボゴール市にあるプサントレンのヌルル‧イマンで、施療と衛生教育活動を行った。一般内科と歯科の診療の他、疥という皮膚病及び口腔に関する衛生知識を紹介し、1050人が恩恵を受けた。

05・07

◎慈済基金会の役員である林碧玉氏と張宗義副執行長、慈発所の呂芳川主任、營建所の張正助主任、総務所の詹桂棋主任が、花蓮県政府で徐榛蔚知事を訪ね、0403花蓮地震における恒久住宅建設について話し合った。

◎ブラジルのリオグランデ州は4月末からの連日の豪雨で、甚大な被害が出た。400余りの都市が影響を受け、約150万人が被災した。被災者への支援ルートを確保した、慈済パラグアイ・シウダードデルエステ連絡所のボランティアは、大至急500食分の食料を買い付けて、災害救助物資の集荷所に届け、ブラジル・フォズ市の軍に所属する消防隊を通して被災地に輸送した。

05・08

◎慈済基金会はアスース文教基金会と共に、花蓮県38カ所の学校に学習用のコンピューター設備を寄贈し、0403花蓮地震の後、いち早く正常な授業に復帰できるよう支援した。本日、県庁で寄贈式が行われた。

◎マダガスカル・ライオンズクラブのユージーニー氏と弟のティーリー氏、助手のジラ氏及び当クラブ南部地区の責任者、ラライナ氏の4人は、8日、モザンビークで行われる8日間の「志業の学習と交流」活動に参加するために出発した。活動では慈済の勉強会、巡礼、灌仏会などと共に、慈済大愛農場の見学、ケア世帯訪問などが行われる。また、モザンビーク慈済チームと将来のマダガスカルの一年間の活動や展望について話し合う。一行は16日に帰国する。

05・10

インドネシアのマンクヌガラン宮殿当主マンクヌゴロ10世がチームを引率して、初めて慈済支部を訪れ、今後の協力関係を話し合った。

05・12

◎慈済が58周年を迎えた。午前7時に台湾花蓮静思堂前の道侶広場で、世界で最も早い灌仏会「2024年仏誕節、母の日、慈済デイ」が催された。證厳法師は会場で大衆を率いて灌仏を行った。夕方6時には台北市中正紀念堂で、「2024年仏誕灌仏親孝行感謝祈福会」が盛大に行われた。蔡英文総統及び政界の要人たちが、真心で「祈り」を歌い、災害のない平穏な日々と心の平安を祈った。今年の式典では初めて、偈頌《無量義経・徳行品》が唱えられた。

◎證厳法師は国立陽明交通大学の名誉哲学及び医学のダブル博士学位を授与された。本日、花蓮静思堂で授与式が行われ、同大学の林奇宏学長が授与した。

陽明交通大学の林奇宏学長(左)が、證厳法師に名誉博士の学位を授与した。(相片提供・花蓮本会)

世界各地で灌仏会
世の幸福を祈った

オンラインを通じて、世界14の国と地域の37の地域道場と同時に灌仏会を行い、〈徳行品〉の偈頌を朗誦し、人々の心を静めた。式典が荘厳に整然と行われるよう、参加人員は天候に関係なく、「燈燭、香湯、法香」の献上動作のリハーサルを行った。お参りする台は草花で荘厳に飾られ、諸仏に礼敬された。(資料提供・蔡翠容 撮影・廖文聰)

仏誕節、母の日、慈済デイという三節を合わせた式典が、2024年世界45の国と地域の743の会場で行われ、16万人余りが参加した。最も大きいのが台北中正紀念堂で行われたもので、2万人が偈頌を朗誦し、世の幸福を祈った。(撮影・廖世淙)

05・13

慈済基金会志業報告の時に、熊士民副執行長が「慈済のイスラム開発銀行アフリカ眼科疾病予防援助共同プロジェクト支援」における第1段階の成果を報告した。支援対象はアフリカ6カ国で、そのうちのギニアは慈済が慈善支援を行った134番目、ジブチは135番目、ソマリアは136番目の国または地域となった。

05・15

日本の防災専門家である西村文彦氏、大橋麻希子氏、前田宰氏が内政部消防署と衛生福利部のスタッフの案内で、新店静思堂を訪れ、慈済基金会、大愛感恩科技公司のチームと交流した。慈悲の科学製品を見て、災害後の避難所などに関して交流した。16日は花蓮静思堂を訪れ、慈済物資倉庫を見学すると共に、花蓮県及び市政府、民間団体と座談会を設けて、避難所での経験を分かち合った。

05・17

◎慈済基金会は途切れることなく、今年の元日に発生した能登半島地震の被災者に関心を寄せている。ボランティアは穴水町で2万食の炊き出しを行って来たが、家屋が半壊以上で65歳のお年寄りがいる世帯を対象に、5月に見舞金配付活動を展開し、世帯の家族構成によって13万から17万円が配付される。17日から19日まで日本支部のボランティアと現地ボランティア合わせて延べ192人が参加して、1091の穴水町の被災世帯に配付を実施した。6月上旬には能登町で行われる。

證厳法師の心温まるお見舞いの手紙と見舞金の心を尽くした上品な装丁は多くの住民の心を動かした。(撮影・蕭耀華)

慈済が能登半島穴水町で見舞金配付活動を行った。5月19日武道館で行われた様子。(撮影・李月鳳)

關鍵字

慈済の世界観

持っているだけの力で奉仕するのではなく、
誠心誠意発願して果敢に責任を担い、
世の人に利他するよう呼びかけましょう。

大自然の生気を循環させる

二月四日、アメリカ・ノースカリフォルニア州の慈誠(認証を受けた男性ボランティア)と委員(女性ボランティア)たちが、オンラインで現地の運用状況と感想を上人と分かち合いました。上人は、師兄(男性ボランティアの呼称)や師姐(女性ボランティアの呼称)たちがハンターズポイントコミュニティーで慈善支援した話と、「ハッピーキャンパス」プロジェクトによる青少年への就学補助や学習サポートの話を聞いて、感嘆してこう言いました。

「人生には苦楽が付きものですが、慈済人は苦難にある立場の弱い人々を支援することで、人間(じんかん)の苦を目にしています。時には危険を冒してでも奉仕に出かけますが、人と人の交流には心温まるものが多く、喜びに満ちています」。

サンフランシスコのハンターズポイントコミュニティーは、以前は全般的に貧困者が多く住んでいて、犯罪事件も多かったため、警察でさえも近づきたくない場所とまで形容されていました。サンフランシスコの慈済人は、二〇〇八年からコミュニティーを支援し、感謝と尊重、愛で以て住民と交流してきました。今では住民は、慈済人の真心を感じ取り、親しみのこもった反応をしてくれるようになりました。「紺のシャツに白のパンツ姿はもう見慣れたもので、その人たちは彼らを支援しに来る善人だと知っているため、彼らも慈済人に親切なのです。そのお蔭で、慈済人は現地で思った通りに奉仕することができ、慈済の志業を行うことができるのです」。

「長年の奉仕が蓄積されて、現地の人々に良い印象を与えています。これは、私たちが植えた良い『因』であり、現地で良縁を結んでいる証です」。上人は、師兄や師姐たちが慈悲済世を行なっていることを称賛しました。これが即ち「慈済」という名称の意義なのです。人間(じんかん)の苦難に対して、「人傷つけば我痛み、人苦しめば我悲しむ」という慈悲心を以て、自発的に支援に行く人が即ち、招かれずとも訪れる菩薩」なのです。

「菩薩が人間(じんかん)で苦難にある人を助けていると聞くと、私は敬服と感謝、尊重の念を抱くと共に、とても敬愛せずにはおれません。この世界に慈済人がいなければ、今あるような慈済の世界観はなかったでしょう。これだけ多くの善人がいて、人間(じんかん)で奉仕することを望んでいるのですから、私は一層自信がつきました。『信ずるは仏道における功徳の母』と言われるように、菩薩道の原点は『信』なのです。私たちに信じる心があって初めて、この大道を敷くことができ、着実に歩むことができるのです。アメリカの慈済人に期待しています。彼らは、既に志業を二、三十年行なって来ており、皆、『正しい事は行動に移せば良い』という信念の下に、互いを愛し、尊重し合っています。そして、愛を広め、それを感じた人たちが慈済を愛し、参加するよう導いているのです」。

また、上人は師兄や師姐たちに、こう開示しました。
「慈済人は、奉仕して人助けすると同時に、助けてもらった人がその力を借りて自助努力し、心底から生活様式を変えて、人生を翻すよう導かなければなりません。つまり教育が苦難の人生を転換させる重点なのです。慈済人はこの二十年でどれだけの子供を支援して来たでしょうか。子供たちが成長し、社会に出てからもまっとうな道を歩み、社会に貢献していることを振り返ってみてください。彼らと連絡を取って現況に関心を寄せ、今就いている仕事を理解すると共に、善行に誘って善の循環を始めるよう促すのです」。

諸々の微弱な力を結集する

春節が過ぎて休暇も終わろうとしていた二月五日、基金会の管理職たちの話を聞いた上人はこう開示しました。「キャリアの長い同僚たちが過去を振り返り、慈済功徳会の早期の困難な時期のことを話すと、皆さんは、どんなにか苦しかったことだろうと思うでしょうが、私自身、苦しかったとは全く思っていません。ただ責任が重かっただけだと感じています」。

「当時、常住師父たちはまだ、定住場所がなかったのですが、慈済の活動を始め、困難を克服しながら世の中の苦難にある人たちを支援していました。精舎はまだ建てられていませんでしたが、私たちは苦しんでいる人に家を建ててあげました。考えてみると、実に身のほど知らずでした。しかし、それが身のほど知らずであっても、その微々たる力が今に至るまで途切れることなく続き、世界のどこかで災害があれば、慈済人は駆け付けて関心を寄せています。ですから、持っているだけの自分の力で奉仕しようと考えるのではなく、誠実な心さえあれば、苦労を恐れず、少しでも多く責任を担えば、絶えず力を結集させることができ、世のためにこんなにも多く奉仕できるのです」。

上人はこう言いました。「初期の頃、人員が少なかったため、力も弱かったのですが、その微弱な力とか細い音でも、揺るがない心で一歩を踏み出しました。バラバラの微弱な力を結集させることは、一匹の蛍の光が人目を惹かなくても、たくさん集まれば、人目を惹かずにはおれない灯りとなるのと同じです。途切れることなく人々を導き、愛のエネルギーを結集させるのです。そして、その清らかで長く続く情を途切れさせず、真心を以て、一人ひとりの微弱な力を集めるのです。日々人に出会う時は、いつでも良い行動や行いをして、人も事も全て良くあるようにすべきです。これこそが私の皆さんに対する祝福です」。

(慈済月刊六八九期より)

持っているだけの力で奉仕するのではなく、
誠心誠意発願して果敢に責任を担い、
世の人に利他するよう呼びかけましょう。

大自然の生気を循環させる

二月四日、アメリカ・ノースカリフォルニア州の慈誠(認証を受けた男性ボランティア)と委員(女性ボランティア)たちが、オンラインで現地の運用状況と感想を上人と分かち合いました。上人は、師兄(男性ボランティアの呼称)や師姐(女性ボランティアの呼称)たちがハンターズポイントコミュニティーで慈善支援した話と、「ハッピーキャンパス」プロジェクトによる青少年への就学補助や学習サポートの話を聞いて、感嘆してこう言いました。

「人生には苦楽が付きものですが、慈済人は苦難にある立場の弱い人々を支援することで、人間(じんかん)の苦を目にしています。時には危険を冒してでも奉仕に出かけますが、人と人の交流には心温まるものが多く、喜びに満ちています」。

サンフランシスコのハンターズポイントコミュニティーは、以前は全般的に貧困者が多く住んでいて、犯罪事件も多かったため、警察でさえも近づきたくない場所とまで形容されていました。サンフランシスコの慈済人は、二〇〇八年からコミュニティーを支援し、感謝と尊重、愛で以て住民と交流してきました。今では住民は、慈済人の真心を感じ取り、親しみのこもった反応をしてくれるようになりました。「紺のシャツに白のパンツ姿はもう見慣れたもので、その人たちは彼らを支援しに来る善人だと知っているため、彼らも慈済人に親切なのです。そのお蔭で、慈済人は現地で思った通りに奉仕することができ、慈済の志業を行うことができるのです」。

「長年の奉仕が蓄積されて、現地の人々に良い印象を与えています。これは、私たちが植えた良い『因』であり、現地で良縁を結んでいる証です」。上人は、師兄や師姐たちが慈悲済世を行なっていることを称賛しました。これが即ち「慈済」という名称の意義なのです。人間(じんかん)の苦難に対して、「人傷つけば我痛み、人苦しめば我悲しむ」という慈悲心を以て、自発的に支援に行く人が即ち、招かれずとも訪れる菩薩」なのです。

「菩薩が人間(じんかん)で苦難にある人を助けていると聞くと、私は敬服と感謝、尊重の念を抱くと共に、とても敬愛せずにはおれません。この世界に慈済人がいなければ、今あるような慈済の世界観はなかったでしょう。これだけ多くの善人がいて、人間(じんかん)で奉仕することを望んでいるのですから、私は一層自信がつきました。『信ずるは仏道における功徳の母』と言われるように、菩薩道の原点は『信』なのです。私たちに信じる心があって初めて、この大道を敷くことができ、着実に歩むことができるのです。アメリカの慈済人に期待しています。彼らは、既に志業を二、三十年行なって来ており、皆、『正しい事は行動に移せば良い』という信念の下に、互いを愛し、尊重し合っています。そして、愛を広め、それを感じた人たちが慈済を愛し、参加するよう導いているのです」。

また、上人は師兄や師姐たちに、こう開示しました。
「慈済人は、奉仕して人助けすると同時に、助けてもらった人がその力を借りて自助努力し、心底から生活様式を変えて、人生を翻すよう導かなければなりません。つまり教育が苦難の人生を転換させる重点なのです。慈済人はこの二十年でどれだけの子供を支援して来たでしょうか。子供たちが成長し、社会に出てからもまっとうな道を歩み、社会に貢献していることを振り返ってみてください。彼らと連絡を取って現況に関心を寄せ、今就いている仕事を理解すると共に、善行に誘って善の循環を始めるよう促すのです」。

諸々の微弱な力を結集する

春節が過ぎて休暇も終わろうとしていた二月五日、基金会の管理職たちの話を聞いた上人はこう開示しました。「キャリアの長い同僚たちが過去を振り返り、慈済功徳会の早期の困難な時期のことを話すと、皆さんは、どんなにか苦しかったことだろうと思うでしょうが、私自身、苦しかったとは全く思っていません。ただ責任が重かっただけだと感じています」。

「当時、常住師父たちはまだ、定住場所がなかったのですが、慈済の活動を始め、困難を克服しながら世の中の苦難にある人たちを支援していました。精舎はまだ建てられていませんでしたが、私たちは苦しんでいる人に家を建ててあげました。考えてみると、実に身のほど知らずでした。しかし、それが身のほど知らずであっても、その微々たる力が今に至るまで途切れることなく続き、世界のどこかで災害があれば、慈済人は駆け付けて関心を寄せています。ですから、持っているだけの自分の力で奉仕しようと考えるのではなく、誠実な心さえあれば、苦労を恐れず、少しでも多く責任を担えば、絶えず力を結集させることができ、世のためにこんなにも多く奉仕できるのです」。

上人はこう言いました。「初期の頃、人員が少なかったため、力も弱かったのですが、その微弱な力とか細い音でも、揺るがない心で一歩を踏み出しました。バラバラの微弱な力を結集させることは、一匹の蛍の光が人目を惹かなくても、たくさん集まれば、人目を惹かずにはおれない灯りとなるのと同じです。途切れることなく人々を導き、愛のエネルギーを結集させるのです。そして、その清らかで長く続く情を途切れさせず、真心を以て、一人ひとりの微弱な力を集めるのです。日々人に出会う時は、いつでも良い行動や行いをして、人も事も全て良くあるようにすべきです。これこそが私の皆さんに対する祝福です」。

(慈済月刊六八九期より)

關鍵字

世界規模の慈善志業が向き合う永続という試練

慈善志業はインフレや気候変動、国際間の紛争等に直面しても、慈済が約束したことは実行し続けるが、時と共に進歩し、AIを活用するなどして、より多くの人の助けになりたいと思っている。

ゼロエミッションへの取り組みをもっと積極的に進める必要がある。

というのも、地球が永続しなければ、国家も社会も組織も永続できないからである。

二〇二四年は、慈済にとって非常に忙しい一年となっています。慈善志業の重点は、證厳法師の「仏陀の故郷であるネパールとインドへの恩返し」の実践です。一方、新たに若者のボランティアを募って養成し、更なるゼロエミッションの推進と組織のガバナンス強化にも取り組まなければなりません。

二〇二三年を振り返ると、地球の温暖化や頻繁に起きる天災、そして戦争、エネルギー危機、食糧危機、インフレ等々、数々の試練に見舞われました。このような環境で、私たちはやるべきことを、以前と変わらず実践してきました。

世界各国の慈済人の協力に感謝しています。昨年、慈済が支援した国と地域は百三十三に達しました。学校の支援建設は十七の国と地域の二百五十四カ所で、大愛恒久住宅の支援建設は、十八の国と地域の二万二千戸余りになりました。台湾では、深刻なコロナ禍の後、昨年から大規模な活動が再開し、延べ千四百万人余りのボランティアが動員され、年間を通して恩恵を受けた人は延べ二千八百万人余りでした。昨年度の基本給で計算すると、慈済人の無償奉仕は百十四億台湾元に達したことになります。

昨年は地球の有史以来、最も暑い一年でした。世界各国が国際的に協力し、平均気温の上昇を摂氏一・五度以内に抑えて、地球に永続の機会を残そうとしていますが、昨年既に一・四八度上昇しています。今後も地表温度が上昇すれば、災害は更に起こりやすくなるでしょう。二〇二三年スイスでの世界経済フォーラムで発行された『グローバルリスク報告書』は、極端な気候や社会二極分化、国際間の紛争を包括していますが、その中の「今日の危機は明日の災難」という文章は、仏教の「菩薩は原因を畏れ、衆生は結果を畏れる」という考え方とほとんど一致しています。

もし地球が永続できなければ、国家も社会も組織もどのようにして永続できるでしょうか?これも、慈済がゼロエミッションによって気温の上昇を抑える取り組みを推し進めている理由です。慈済が選定した十の連絡所の温室効果ガスの排出に対する調査は終わっており、結果が出てから直ちに削減する方向で努力を始めています。慈済は、台北にある複合式活動スペース「植境プランタリウム」に、デルタ電子のエネルギー管理システムを導入し、CO2の排出と電力の使用、電気代を適切に管理し、改善しています。台湾は二〇二四年から炭素税を導入し、一トンのCO2排出につき、三百から五百元(約千四百〜二千二百円)の税金を掛ける予定ですが、これは世界的な趨勢と言えます。

ゼロエミッションへの努力は、地球永続の促進だけでなく、慈済宗門の永続も推進させ、時代と共に進めなくてはなりません。人工知能AIが各方面に導入されているように、慈済の慈善志業も当然影響を受けるでしょう。影響を大きく受けた産業では倒産する企業も出ている故、助けが必要な人が増える可能性があります。世界的な慈善活動の発展も、AIを活用しなければなりません。もう一つの問題はインフォデミック(偽情報の拡散)です。誤情報やフェイクニュースが、世界的な危機の第一位に挙げられ、人的災害が自然災害よりも酷くなる恐れがあります。

以前から今に至るまで、慈済は全て災害に支援の手を差し伸べて来ました。未来の展望としては、一層科学技術を良い方面に活用して、必要としている人に使うと共に、證厳法師が私たちに言い続けてきた、「敬虔に菜食し、環境保全を重視する」ことを着実に行うことです。私たちの「弘法利生」の精神は、「仏教の為、衆生の為」にあり、一緒に法師の後について、人心の浄化と平和な社会、災害のない世の中になるよう励んでいきます。(三月三日グローバルボランティア精進日の講演より)

(慈済月刊六八九期より)

慈善志業はインフレや気候変動、国際間の紛争等に直面しても、慈済が約束したことは実行し続けるが、時と共に進歩し、AIを活用するなどして、より多くの人の助けになりたいと思っている。

ゼロエミッションへの取り組みをもっと積極的に進める必要がある。

というのも、地球が永続しなければ、国家も社会も組織も永続できないからである。

二〇二四年は、慈済にとって非常に忙しい一年となっています。慈善志業の重点は、證厳法師の「仏陀の故郷であるネパールとインドへの恩返し」の実践です。一方、新たに若者のボランティアを募って養成し、更なるゼロエミッションの推進と組織のガバナンス強化にも取り組まなければなりません。

二〇二三年を振り返ると、地球の温暖化や頻繁に起きる天災、そして戦争、エネルギー危機、食糧危機、インフレ等々、数々の試練に見舞われました。このような環境で、私たちはやるべきことを、以前と変わらず実践してきました。

世界各国の慈済人の協力に感謝しています。昨年、慈済が支援した国と地域は百三十三に達しました。学校の支援建設は十七の国と地域の二百五十四カ所で、大愛恒久住宅の支援建設は、十八の国と地域の二万二千戸余りになりました。台湾では、深刻なコロナ禍の後、昨年から大規模な活動が再開し、延べ千四百万人余りのボランティアが動員され、年間を通して恩恵を受けた人は延べ二千八百万人余りでした。昨年度の基本給で計算すると、慈済人の無償奉仕は百十四億台湾元に達したことになります。

昨年は地球の有史以来、最も暑い一年でした。世界各国が国際的に協力し、平均気温の上昇を摂氏一・五度以内に抑えて、地球に永続の機会を残そうとしていますが、昨年既に一・四八度上昇しています。今後も地表温度が上昇すれば、災害は更に起こりやすくなるでしょう。二〇二三年スイスでの世界経済フォーラムで発行された『グローバルリスク報告書』は、極端な気候や社会二極分化、国際間の紛争を包括していますが、その中の「今日の危機は明日の災難」という文章は、仏教の「菩薩は原因を畏れ、衆生は結果を畏れる」という考え方とほとんど一致しています。

もし地球が永続できなければ、国家も社会も組織もどのようにして永続できるでしょうか?これも、慈済がゼロエミッションによって気温の上昇を抑える取り組みを推し進めている理由です。慈済が選定した十の連絡所の温室効果ガスの排出に対する調査は終わっており、結果が出てから直ちに削減する方向で努力を始めています。慈済は、台北にある複合式活動スペース「植境プランタリウム」に、デルタ電子のエネルギー管理システムを導入し、CO2の排出と電力の使用、電気代を適切に管理し、改善しています。台湾は二〇二四年から炭素税を導入し、一トンのCO2排出につき、三百から五百元(約千四百〜二千二百円)の税金を掛ける予定ですが、これは世界的な趨勢と言えます。

ゼロエミッションへの努力は、地球永続の促進だけでなく、慈済宗門の永続も推進させ、時代と共に進めなくてはなりません。人工知能AIが各方面に導入されているように、慈済の慈善志業も当然影響を受けるでしょう。影響を大きく受けた産業では倒産する企業も出ている故、助けが必要な人が増える可能性があります。世界的な慈善活動の発展も、AIを活用しなければなりません。もう一つの問題はインフォデミック(偽情報の拡散)です。誤情報やフェイクニュースが、世界的な危機の第一位に挙げられ、人的災害が自然災害よりも酷くなる恐れがあります。

以前から今に至るまで、慈済は全て災害に支援の手を差し伸べて来ました。未来の展望としては、一層科学技術を良い方面に活用して、必要としている人に使うと共に、證厳法師が私たちに言い続けてきた、「敬虔に菜食し、環境保全を重視する」ことを着実に行うことです。私たちの「弘法利生」の精神は、「仏教の為、衆生の為」にあり、一緒に法師の後について、人心の浄化と平和な社会、災害のない世の中になるよう励んでいきます。(三月三日グローバルボランティア精進日の講演より)

(慈済月刊六八九期より)

關鍵字

国境なき愛

花蓮本部で毎月一回、慈済志業計画推進委員会が開かれるが、二月二十九日は世界中の慈済ボランティアとオンラインで分かち合った。モザンビークからはサイクロン•イダイ後五年目を迎えた再建状況と、慈済が参加した六回目の国連環境大会についての報告、及び中国公益奨を獲得したばかりの「側弯症の赤ちゃんケア」といった内容だ。その翌週は、ちょうどグローバルボランティア精進日にあたり、慈善志業の執行長が、現在の地球環境の下で、慈済がこれら項目を推進するに当たっての困難と切実性を指摘した。

六十七の国と地域に在住する慈済人は、長期的に現地に深く関わり、重大な災害には支援に駆けつけている。「善行に休みはなく、大愛に国境はない」をモットーに世界で活動し、五十八年にわたって慈済の歩みを刻んできた。

花蓮本部で毎月一回、慈済志業計画推進委員会が開かれるが、二月二十九日は世界中の慈済ボランティアとオンラインで分かち合った。モザンビークからはサイクロン•イダイ後五年目を迎えた再建状況と、慈済が参加した六回目の国連環境大会についての報告、及び中国公益奨を獲得したばかりの「側弯症の赤ちゃんケア」といった内容だ。その翌週は、ちょうどグローバルボランティア精進日にあたり、慈善志業の執行長が、現在の地球環境の下で、慈済がこれら項目を推進するに当たっての困難と切実性を指摘した。

六十七の国と地域に在住する慈済人は、長期的に現地に深く関わり、重大な災害には支援に駆けつけている。「善行に休みはなく、大愛に国境はない」をモットーに世界で活動し、五十八年にわたって慈済の歩みを刻んできた。

關鍵字

もっと福を造り、禍転じて福とする

(絵・陳九熹)

今回の地震は、私たちに苦、空、無常を教えくれました。
遭遇しても、過ぎたことを喜び、心から感謝するのです。
平安で、まだ世のために奉仕できることに感謝しましょう。
生命に対しても覚悟が必要で、無常について「真剣に」考え、時を無駄にしてはなりません。

「この世は無常で、国土は脆い」と言います。四月三日、一瞬にして天地が揺らぎ、マグニチュード七‧二の強い地震が発生し、本当に恐ろしく感じました。プレートが動くと、踏みしめている地面も動き、大地はあたかも豆腐のように揺れました。山は裂け、岩が崩れ落ち、どこもしっかりした所はありません。大自然の威力は恐るべきものであり、人間は実に小さいものです。ですから、自分には力があり、偉いので、怖いものはないと思ったりしてはいけません。大自然を畏れ敬い、警戒心を高めて、敬虔に祈るべきです。

ニュースを見ると、多くの人が、家具が移動したり、倒れたりして怖い思いをしていました。慈済人の家でも同じ状況だったはずですが、衆生を最優先にし、直ちに訪問ケアと配付活動に投入しました。このような慈済の菩薩に感謝すると共に、愛おしみ、尊敬しています。皆さんもこの縁を大切にし、お互いに関心を寄せ合いましょう。特に高齢の慈済人や独居、または老老介護の法縁者に対して、近くに住んでいる慈済人が訪ねて地震後の状況を理解し、家の整理整頓などを手伝ってあげましょう。人は老い、家は古くなるため、地域に生活の支援が必要な家庭があるかどうか、密に訪問して関心を寄せ、どうすれば安心して暮らせるかを考えるのです。

今回の地震は私たちへの説法であり、苦、空、無常について教えています。遭遇したら、過ぎたことを喜び、心から感謝するのです。平穏無事であること、世のためにまだ奉仕できることに感謝しましょう。生命に対して覚悟が必要であり、無常について「真剣に」考えなければなりません。人間(じんかん)には生、老、病、死があり、どんなに愛している肉親も親しい友人も、いつか離別する日が訪れます。ですから、一緒に過ごせる時間を大切にし、愛され、大切にされている時間に対して、心から感謝しなければなりません。

地震の後も、体に感じる余震が続いています。専門家によると、大地が自ら調整を行っており、まだ安定していないそうです。私たちは注意を怠ってはいけませんが、心を落ち着けることが大切です。大きな出来事は発生しましたが、今、最も重要なのは、人手と愛と情を募ることです。「覚有情」とは菩薩のことであり、人間(じんかん)菩薩を募り、情を結集させれば、苦しんでいる人が必要としている時に直ちに支援できるのです。募金するだけでなく、機会を逃さず教育し、愛の心を啓発しなければなりません。

人類が共に暮らす天地の間には、天の気、地の気、人の機嫌が、少しずつ蓄積して衆生の共業を作っています。もし悪の方が多ければ、善は弱くなります。誰もが敬虔な心で以て、善に向かって人間(じんかん)に幸福をもたらさなければなりません。愛が多く、善行することが普遍的になり、善の力が強くなれば、自然と「吉祥の気(流れ)」が生まれるのです。もっと福を造れば、災いは吉祥に変わり、常に平安でいることができます。

諸悪を行わず、人々が善行して奉仕するよう、仏陀は教えています。では善行はどこから始めればよいのでしょうか?衆生を愛護し、お互いの智慧を愛おしむのです。命は両親から授かったものですから、両親に感謝しなければなりません。仏陀が人間(じんかん)に来て衆生を済度し、私たちに仏法の真諦を教えてくれたことに感謝しましょう。また、衆生にも感謝すべきです。なぜなら、仏法を学んで悟りを開こうとしても、群衆と接することがなければ、成仏する因縁に恵まれず、苦しんでいる人がいなければ、菩薩の道を究めることはできないからです。

最近「学」と「覚」について話していますが、学ぶことに終わりはなく、幾つになっても同じです。赤子のように清らかで単純な心を保ち、奉仕しながら学び、学ぶうちに目覚めるのです。修行する時、絶えず精を出し、心から仏法を受け入れ、感動すれば直ちに行動に移すのです。奉仕の力が大きければ、人を感動させて、その人生を変えることもでき、真の法悦を感じ取ります。これは修行での真骨頂でもあるのです。

慈済は間もなく六十年を迎えます。一日五十銭の貯金で人助けを始めてから今に至るまで、一路着実に寸分の差もなく歩んで来ました。このことは、私の人生における大きな慰めであり、称賛です。世界地図を手に取ると、慈済人が様々な国に滞在し、どこかで誰かが支援を必要としていれば、直ちに自分の功能を発揮しています。菩薩は人間(じんかん)にいます。これも私の生涯において、最も価値のあることだと思っています。これまで長い道のりを歩んできましたが、今も私たちは存在しているのですから、時間を無駄にせず、もっと心有る人たちに呼びかけ、良い因縁を積み重ねなければなりません。衆生と仏の間にあるのが菩薩道で、成仏するために通らなければならない道です。皆さん、心して精進し、決して放逸してはいけません。

(慈済月刊六九〇期より)

(絵・陳九熹)

今回の地震は、私たちに苦、空、無常を教えくれました。
遭遇しても、過ぎたことを喜び、心から感謝するのです。
平安で、まだ世のために奉仕できることに感謝しましょう。
生命に対しても覚悟が必要で、無常について「真剣に」考え、時を無駄にしてはなりません。

「この世は無常で、国土は脆い」と言います。四月三日、一瞬にして天地が揺らぎ、マグニチュード七‧二の強い地震が発生し、本当に恐ろしく感じました。プレートが動くと、踏みしめている地面も動き、大地はあたかも豆腐のように揺れました。山は裂け、岩が崩れ落ち、どこもしっかりした所はありません。大自然の威力は恐るべきものであり、人間は実に小さいものです。ですから、自分には力があり、偉いので、怖いものはないと思ったりしてはいけません。大自然を畏れ敬い、警戒心を高めて、敬虔に祈るべきです。

ニュースを見ると、多くの人が、家具が移動したり、倒れたりして怖い思いをしていました。慈済人の家でも同じ状況だったはずですが、衆生を最優先にし、直ちに訪問ケアと配付活動に投入しました。このような慈済の菩薩に感謝すると共に、愛おしみ、尊敬しています。皆さんもこの縁を大切にし、お互いに関心を寄せ合いましょう。特に高齢の慈済人や独居、または老老介護の法縁者に対して、近くに住んでいる慈済人が訪ねて地震後の状況を理解し、家の整理整頓などを手伝ってあげましょう。人は老い、家は古くなるため、地域に生活の支援が必要な家庭があるかどうか、密に訪問して関心を寄せ、どうすれば安心して暮らせるかを考えるのです。

今回の地震は私たちへの説法であり、苦、空、無常について教えています。遭遇したら、過ぎたことを喜び、心から感謝するのです。平穏無事であること、世のためにまだ奉仕できることに感謝しましょう。生命に対して覚悟が必要であり、無常について「真剣に」考えなければなりません。人間(じんかん)には生、老、病、死があり、どんなに愛している肉親も親しい友人も、いつか離別する日が訪れます。ですから、一緒に過ごせる時間を大切にし、愛され、大切にされている時間に対して、心から感謝しなければなりません。

地震の後も、体に感じる余震が続いています。専門家によると、大地が自ら調整を行っており、まだ安定していないそうです。私たちは注意を怠ってはいけませんが、心を落ち着けることが大切です。大きな出来事は発生しましたが、今、最も重要なのは、人手と愛と情を募ることです。「覚有情」とは菩薩のことであり、人間(じんかん)菩薩を募り、情を結集させれば、苦しんでいる人が必要としている時に直ちに支援できるのです。募金するだけでなく、機会を逃さず教育し、愛の心を啓発しなければなりません。

人類が共に暮らす天地の間には、天の気、地の気、人の機嫌が、少しずつ蓄積して衆生の共業を作っています。もし悪の方が多ければ、善は弱くなります。誰もが敬虔な心で以て、善に向かって人間(じんかん)に幸福をもたらさなければなりません。愛が多く、善行することが普遍的になり、善の力が強くなれば、自然と「吉祥の気(流れ)」が生まれるのです。もっと福を造れば、災いは吉祥に変わり、常に平安でいることができます。

諸悪を行わず、人々が善行して奉仕するよう、仏陀は教えています。では善行はどこから始めればよいのでしょうか?衆生を愛護し、お互いの智慧を愛おしむのです。命は両親から授かったものですから、両親に感謝しなければなりません。仏陀が人間(じんかん)に来て衆生を済度し、私たちに仏法の真諦を教えてくれたことに感謝しましょう。また、衆生にも感謝すべきです。なぜなら、仏法を学んで悟りを開こうとしても、群衆と接することがなければ、成仏する因縁に恵まれず、苦しんでいる人がいなければ、菩薩の道を究めることはできないからです。

最近「学」と「覚」について話していますが、学ぶことに終わりはなく、幾つになっても同じです。赤子のように清らかで単純な心を保ち、奉仕しながら学び、学ぶうちに目覚めるのです。修行する時、絶えず精を出し、心から仏法を受け入れ、感動すれば直ちに行動に移すのです。奉仕の力が大きければ、人を感動させて、その人生を変えることもでき、真の法悦を感じ取ります。これは修行での真骨頂でもあるのです。

慈済は間もなく六十年を迎えます。一日五十銭の貯金で人助けを始めてから今に至るまで、一路着実に寸分の差もなく歩んで来ました。このことは、私の人生における大きな慰めであり、称賛です。世界地図を手に取ると、慈済人が様々な国に滞在し、どこかで誰かが支援を必要としていれば、直ちに自分の功能を発揮しています。菩薩は人間(じんかん)にいます。これも私の生涯において、最も価値のあることだと思っています。これまで長い道のりを歩んできましたが、今も私たちは存在しているのですから、時間を無駄にせず、もっと心有る人たちに呼びかけ、良い因縁を積み重ねなければなりません。衆生と仏の間にあるのが菩薩道で、成仏するために通らなければならない道です。皆さん、心して精進し、決して放逸してはいけません。

(慈済月刊六九〇期より)

關鍵字

チベットの子供に寄り添う|脊柱側弯症の子供が「体を翻す」

発端:慈済が青海省玉樹チベット族自治州にある熱哇(ローワ)慈善会と協力して「チベット族の子供に寄り添う」プロジェクトに取り組み、チベット地域の子供たちを対象に、脊柱側弯症や先天性股関節脱臼、先天性心疾患の無料検査と治療を行った。

経費:中国慈済基金会が現地で資金を募った。

統計:過去五年間で、脊柱側弯症を患う二百人以上のチベット族の子供に寄り添った。

ニマさんは故郷の四川省カンゼ・チベット族自治州を離れて八百キロ離れた省都の成都市に到着し、電車を降りると直ぐ四一六病院に向かった。二十歳になる彼は、身長わずか百四十五センチで、重度の脊柱側弯症患者だった。

脊柱側弯症とは、脊椎が様々な頻度に曲がっていたり、 S字型で側弯したりしている状態を指す。原因は不明で、医学界の統計によると、発生頻度は約三%で、ニマさんはその百人のうちの一人なのだ。矯正手術後、頭と腰に嵌めた金属製のリングを体の前後左右の四本の支柱に固定し、頭のリングを牽引することで、脊柱の捻れが徐々に改善されるのだ。医療スタッフは彼らに「テレタビーズ」(注)という可愛い名前を付けた。

(注)BBC放送の幼児向け番組に出てくるキャラクター。

ニマさんは肺活量を鍛えるために、毎日二回、十五階まで階段を登らなければならなかった。寝る時はいつも、父親のタポさんの助けを借りてやっと、横になれるのだ。入院してから九カ月の間に矯正手術を三回受けたことで、徐々に真直ぐに立てるようになり、身長も百六十五センチに伸び、やがてリハビリの保護具を着用するだけでよくなった。彼が最も感じたのは「呼吸が苦しくなくなったことです!」。

タポさんによると、子供は生まれた時、既に側弯していて、年を重ねるにつれて酷くなったので、死んでしまうのではないかと心配したそうだ。では、なぜ二十歳になるまで矯正治療を受けなかったのか。

医療スタッフはチベット自治区に入って簡易検査を実施し、子供たちの脊柱側弯症の状況を調査した。(写真提供・花蓮本会)

情報不足が治療に支障をきたした

熱哇慈善会は、長年に亘って脊柱側弯症のチベット族少年の医療に奔走してきた。会長のゲティン・プンツォさんによると、チベット族の村落は、子供たちの成長における健康意識が低く、医療情報が入らないうえに、先進医療からもかけ離れていたため、適時に治療を受けられなかったのが原因だそうだ。

もし全く治療しなければ、時間の経過と共に胸郭も変形し、神経が圧迫されたり、心肺機能に影響したり、更には呼吸不全を引き起こすこともある。平均生存年齢は四十五歳と言われている。早期発見と矯正治療が非常に重要で、手術の効果が最も良く、リハビリも順調にいき、費用負担も大幅に軽減できるのである。

北京と成都に重度の側弯症患者を治療する専門病院が三つある。熱哇慈善会は医療、慈善などの資源と結び付け、定期的に専門医を青蔵高原に招いて、側弯のスクリーニングの実施と治療を手配している。北京朝陽病院の整形外科医である周立仁(ヅォウ・リーレン)医師はこう言う。

「チベット族は側弯症について知識がなく、どこに行ったら治療できるのかも知りません。ですから私たちは、どんなに遠くても僻地に出向いて、側弯症の患者を見つけなければならないのです」。

或る患者家族は病状に対して理解が不足していたため、医師が何度も訪問して、ようやく説得に応じ、治療を受けたというケースもあった。

二〇一九年、四川省成都市の慈済ボランティアは熱哇慈善会を通じて、初めて隣りの青海省のチベット族の患者に会うことができた。標高三、四千メートルの高原で、医療資源の不足や間違った知識、または経済的な理由などによって、その一生が左右されるかもしれない若者を見るに忍びなかったため、個別案件ケアチームを立ち上げ、熱哇慈善会の「チベットの子供に寄り添う」プロジェクトに参加した。それは、これら青少年たちの長くて治療費が高い、「体を翻す」ための治療の道への寄り添いであった。

しかし、慈済ボランティアにとって、今回の旅自体が大変な挑戦であった。平均標高が海抜五百メートルの成都市から標高四千二百メートルにある青海省玉樹自治州に入ると、起こるであろう「高山病」を避けるために、歩行や階段の上り下りに注意を払った。医師は、酸素吸入しながら検査することもあった。

簡易検査の後、熱哇慈善会は、手術が必要な患者を山から下ろす手配をした。普通、比較的重度の側弯症患者は、矯正に数回の手術が必要になることが多く、治療期間は半年から一年掛かるかもしれない。日本円で五百万以上の高額な医療費は、一部は政府からの補助金でまかない、一部は慈済が支援した。患者が入院している間、看病する家族に不便なことがあればボランティアが手を差し伸べた。

四川省成都市の四一六病院で、ボランティアたちは「テレタビーズ」の髪のシャンプーを手伝った。(撮影・邊静)

長期入院 異郷での拠り所

二〇一九年八月二十六日、一回目の治療患者であるニマさんも含めた三人は、家族の付き添いの下に成都に到着した。過去五年間で最も患者が多かった昨年の十月二十三日は、脊柱側弯症患者十三人とその家族、ボランティア計三十九人で、チベットから昼夜兼行で旅路を急ぎ、三十六時間汽車に乗ってやっと着いたのである。

慈済ボランティアの付き添いは、駅の出迎えから始まり、できる限り早く彼らの心身を落ち着かせるようにした。四川省西部、青海省またはチベット出身にしろ、多くの患者と家族は初めて成都に来たため、ボランティアは心を込めてチベット茶と茶菓子を用意した。続いて入院手続きをして、洗面用具やバケツなどの日用品も病室に届け、季節の変化に伴って適切な衣服を提供した。頭を固定されていると、患者はシャンプーをするのがとても不便なので、ボランティアは歯ブラシ、スポンジ、タオルなどを用意し、丁寧に頭を洗ってあげた。チベット族の食生活は漢民族と異なり、ほとんどの家族は共同でアパートを借りて小さなキッチンで食事の準備をした。ボランティアは、彼らの負担を軽減するために、家から調理器具を持ってきて提供した。

ボランティアの紀亜紅(ジー・ヤーホン)さんによると、一部学校に通っている子供は中国語がある程度分かるが、付き添っている親たちは全く通じないという。言語、文化、生活習慣の違いは、医療費や地理的な距離よりも、もっと治療における大きな障害となっている。

「医療スタッフとのコミュニケーションや協力の面でも、誰かの助けが必要なのです!」。

ボランティアは、毎週火曜日に病院へ見舞いに行った。コロナ禍の時も休まず、長期入院での様々な問題を支援した。子供たちは病気で学校に行けないため、ボランティアが付き添って、勉強と中国語を教えた。家族は故郷のお年寄りを気にかけて落ち込んだ時は、ボランティアが話を聞いて慰めたり、温かいスープや水餃子を作ったりして元気付けた。子供たちが痛みで機嫌を悪くした時は、感謝の気持ちを持って、積極的に治療に協力するよう導いた。

患者の中の何人かは出家しており、ゲディン・プンツォ会長は次のようにボランティアに説明した。宗教の教えから、多くのチベット人は、重い病気は「前世からの因果」だと思っている。「業を解消すれば、病気の痛みや苦しみが軽減する」という考えから、先天性疾患や身体障害の子供をお寺に入れたり、出家させたりしているのだそうだ。

僧侶のバザンさんは、三十歳になって初めて矯正を受けたので、治療の過程もかなり大変だったそうだ。他の人のように歩いて退院することができず、退院後一年間、リハビリを続けて、ようやく歩けるようになった。ボランティアの王琳(ワン・リン)さんは、バザンさんの手術服の着替えを手伝った時、側弯症という病気に対して切実に感じたという。

「脊椎がねじれて変形した様子を目にして、かなりショックを受けました。こういう治療は、彼らにとって本当に必要なのです」。子供たちが無事に退院した時、ボランティアたちは親に劣らず嬉しく思った。

慈済と熱哇慈善会は、先天性心疾患と先天性股関節脱臼などを患うチベット族の青少年を調査し、緊急に治療が必要な子供たちが、成都、西寧、北京などの病院で治療を受けられるよう支援し、それらの都市では、全て現地の慈済ボランティアが付き添った。

ところで、ニマさんは今どうしているだろうか?彼は健康を取り戻した後、成都に残って仕事に就いている。新たな患者が病院に来るたびに、ボランティアとして通訳や入院手続きの手伝いに来ている。一年間の治療経験を活かして、背筋を伸ばして立ち上がる可能性が見えるまで、患者に寄り添っている。チベット語の「熱哇」とは、「希望」を意味している。

(慈済月刊六八九期より)

発端:慈済が青海省玉樹チベット族自治州にある熱哇(ローワ)慈善会と協力して「チベット族の子供に寄り添う」プロジェクトに取り組み、チベット地域の子供たちを対象に、脊柱側弯症や先天性股関節脱臼、先天性心疾患の無料検査と治療を行った。

経費:中国慈済基金会が現地で資金を募った。

統計:過去五年間で、脊柱側弯症を患う二百人以上のチベット族の子供に寄り添った。

ニマさんは故郷の四川省カンゼ・チベット族自治州を離れて八百キロ離れた省都の成都市に到着し、電車を降りると直ぐ四一六病院に向かった。二十歳になる彼は、身長わずか百四十五センチで、重度の脊柱側弯症患者だった。

脊柱側弯症とは、脊椎が様々な頻度に曲がっていたり、 S字型で側弯したりしている状態を指す。原因は不明で、医学界の統計によると、発生頻度は約三%で、ニマさんはその百人のうちの一人なのだ。矯正手術後、頭と腰に嵌めた金属製のリングを体の前後左右の四本の支柱に固定し、頭のリングを牽引することで、脊柱の捻れが徐々に改善されるのだ。医療スタッフは彼らに「テレタビーズ」(注)という可愛い名前を付けた。

(注)BBC放送の幼児向け番組に出てくるキャラクター。

ニマさんは肺活量を鍛えるために、毎日二回、十五階まで階段を登らなければならなかった。寝る時はいつも、父親のタポさんの助けを借りてやっと、横になれるのだ。入院してから九カ月の間に矯正手術を三回受けたことで、徐々に真直ぐに立てるようになり、身長も百六十五センチに伸び、やがてリハビリの保護具を着用するだけでよくなった。彼が最も感じたのは「呼吸が苦しくなくなったことです!」。

タポさんによると、子供は生まれた時、既に側弯していて、年を重ねるにつれて酷くなったので、死んでしまうのではないかと心配したそうだ。では、なぜ二十歳になるまで矯正治療を受けなかったのか。

医療スタッフはチベット自治区に入って簡易検査を実施し、子供たちの脊柱側弯症の状況を調査した。(写真提供・花蓮本会)

情報不足が治療に支障をきたした

熱哇慈善会は、長年に亘って脊柱側弯症のチベット族少年の医療に奔走してきた。会長のゲティン・プンツォさんによると、チベット族の村落は、子供たちの成長における健康意識が低く、医療情報が入らないうえに、先進医療からもかけ離れていたため、適時に治療を受けられなかったのが原因だそうだ。

もし全く治療しなければ、時間の経過と共に胸郭も変形し、神経が圧迫されたり、心肺機能に影響したり、更には呼吸不全を引き起こすこともある。平均生存年齢は四十五歳と言われている。早期発見と矯正治療が非常に重要で、手術の効果が最も良く、リハビリも順調にいき、費用負担も大幅に軽減できるのである。

北京と成都に重度の側弯症患者を治療する専門病院が三つある。熱哇慈善会は医療、慈善などの資源と結び付け、定期的に専門医を青蔵高原に招いて、側弯のスクリーニングの実施と治療を手配している。北京朝陽病院の整形外科医である周立仁(ヅォウ・リーレン)医師はこう言う。

「チベット族は側弯症について知識がなく、どこに行ったら治療できるのかも知りません。ですから私たちは、どんなに遠くても僻地に出向いて、側弯症の患者を見つけなければならないのです」。

或る患者家族は病状に対して理解が不足していたため、医師が何度も訪問して、ようやく説得に応じ、治療を受けたというケースもあった。

二〇一九年、四川省成都市の慈済ボランティアは熱哇慈善会を通じて、初めて隣りの青海省のチベット族の患者に会うことができた。標高三、四千メートルの高原で、医療資源の不足や間違った知識、または経済的な理由などによって、その一生が左右されるかもしれない若者を見るに忍びなかったため、個別案件ケアチームを立ち上げ、熱哇慈善会の「チベットの子供に寄り添う」プロジェクトに参加した。それは、これら青少年たちの長くて治療費が高い、「体を翻す」ための治療の道への寄り添いであった。

しかし、慈済ボランティアにとって、今回の旅自体が大変な挑戦であった。平均標高が海抜五百メートルの成都市から標高四千二百メートルにある青海省玉樹自治州に入ると、起こるであろう「高山病」を避けるために、歩行や階段の上り下りに注意を払った。医師は、酸素吸入しながら検査することもあった。

簡易検査の後、熱哇慈善会は、手術が必要な患者を山から下ろす手配をした。普通、比較的重度の側弯症患者は、矯正に数回の手術が必要になることが多く、治療期間は半年から一年掛かるかもしれない。日本円で五百万以上の高額な医療費は、一部は政府からの補助金でまかない、一部は慈済が支援した。患者が入院している間、看病する家族に不便なことがあればボランティアが手を差し伸べた。

四川省成都市の四一六病院で、ボランティアたちは「テレタビーズ」の髪のシャンプーを手伝った。(撮影・邊静)

長期入院 異郷での拠り所

二〇一九年八月二十六日、一回目の治療患者であるニマさんも含めた三人は、家族の付き添いの下に成都に到着した。過去五年間で最も患者が多かった昨年の十月二十三日は、脊柱側弯症患者十三人とその家族、ボランティア計三十九人で、チベットから昼夜兼行で旅路を急ぎ、三十六時間汽車に乗ってやっと着いたのである。

慈済ボランティアの付き添いは、駅の出迎えから始まり、できる限り早く彼らの心身を落ち着かせるようにした。四川省西部、青海省またはチベット出身にしろ、多くの患者と家族は初めて成都に来たため、ボランティアは心を込めてチベット茶と茶菓子を用意した。続いて入院手続きをして、洗面用具やバケツなどの日用品も病室に届け、季節の変化に伴って適切な衣服を提供した。頭を固定されていると、患者はシャンプーをするのがとても不便なので、ボランティアは歯ブラシ、スポンジ、タオルなどを用意し、丁寧に頭を洗ってあげた。チベット族の食生活は漢民族と異なり、ほとんどの家族は共同でアパートを借りて小さなキッチンで食事の準備をした。ボランティアは、彼らの負担を軽減するために、家から調理器具を持ってきて提供した。

ボランティアの紀亜紅(ジー・ヤーホン)さんによると、一部学校に通っている子供は中国語がある程度分かるが、付き添っている親たちは全く通じないという。言語、文化、生活習慣の違いは、医療費や地理的な距離よりも、もっと治療における大きな障害となっている。

「医療スタッフとのコミュニケーションや協力の面でも、誰かの助けが必要なのです!」。

ボランティアは、毎週火曜日に病院へ見舞いに行った。コロナ禍の時も休まず、長期入院での様々な問題を支援した。子供たちは病気で学校に行けないため、ボランティアが付き添って、勉強と中国語を教えた。家族は故郷のお年寄りを気にかけて落ち込んだ時は、ボランティアが話を聞いて慰めたり、温かいスープや水餃子を作ったりして元気付けた。子供たちが痛みで機嫌を悪くした時は、感謝の気持ちを持って、積極的に治療に協力するよう導いた。

患者の中の何人かは出家しており、ゲディン・プンツォ会長は次のようにボランティアに説明した。宗教の教えから、多くのチベット人は、重い病気は「前世からの因果」だと思っている。「業を解消すれば、病気の痛みや苦しみが軽減する」という考えから、先天性疾患や身体障害の子供をお寺に入れたり、出家させたりしているのだそうだ。

僧侶のバザンさんは、三十歳になって初めて矯正を受けたので、治療の過程もかなり大変だったそうだ。他の人のように歩いて退院することができず、退院後一年間、リハビリを続けて、ようやく歩けるようになった。ボランティアの王琳(ワン・リン)さんは、バザンさんの手術服の着替えを手伝った時、側弯症という病気に対して切実に感じたという。

「脊椎がねじれて変形した様子を目にして、かなりショックを受けました。こういう治療は、彼らにとって本当に必要なのです」。子供たちが無事に退院した時、ボランティアたちは親に劣らず嬉しく思った。

慈済と熱哇慈善会は、先天性心疾患と先天性股関節脱臼などを患うチベット族の青少年を調査し、緊急に治療が必要な子供たちが、成都、西寧、北京などの病院で治療を受けられるよう支援し、それらの都市では、全て現地の慈済ボランティアが付き添った。

ところで、ニマさんは今どうしているだろうか?彼は健康を取り戻した後、成都に残って仕事に就いている。新たな患者が病院に来るたびに、ボランティアとして通訳や入院手続きの手伝いに来ている。一年間の治療経験を活かして、背筋を伸ばして立ち上がる可能性が見えるまで、患者に寄り添っている。チベット語の「熱哇」とは、「希望」を意味している。

(慈済月刊六八九期より)

關鍵字

修行者の本分

法器を打ち鳴らしながら、大衆を導いて朗誦するのは、修行者の本分である。勤めて学ぶことと集中することは修行の不二法門である。

早朝三時五十分、大地はまだ静まり返り、中央山脈は眠りの中にあるが、静思精舎では「コン~コン」、「コン、コン~コン」、「コン、コン、コン~コン」という魚板(ぎょばん)の音で、朝の静けさを打ち破る。

仏教の朗誦「梵唄(ぼんばい)」は、仏の徳を讃嘆し、身・口・意の三業を清める音である。道場での梵唄は、共に修行する者を導いて、仏法で心を潤す心身の浄化作用がある。

二〇一二年五月三十一日、證厳法師は次のように開示した。「修行者は三刀六槌を学ぶ必要があります。精舍の二衆弟子であろうと、清修士であろうと、法器を学ばなければなりません」。

「三刀」とは包丁、剃刀、裁縫バサミであり、「六槌」とは鐘槌、鼓槌、磬槌、木魚槌、板槌、鉄槌である。鐘、太鼓、木魚、引磬は仏門の基本法器であり、法器を使いこなせるよう学ぶのは修行者の本分である。

精舍の鐘や鼓は本堂の天井から吊り下げられているため、鼓を叩くにはスキルが要る。私たちの大先輩である徳慈(ドー・ツ―)師父(スーフ)は、鼓の音にエコ―を付ける要領を分ち合ってくれたことがある。「内からの力を使って叩けば、音に澄み切った抑揚が付き、リズム感が出てくるのです。三回通して連続で叩いても、疲れを感じません」。

《敕修百丈清規(ちょくしゅひゃくじょうしんぎ)》にこう書いている。「魚は昼夜を通じて目が覚めているが、木に彫られて叩かれることで、ぼんやりしていてはいけないという警鐘を鳴らす意味がある」。木魚は、修行者に昼夜分かたず精進するようにという警鐘を思い起こさせるものだ。何を学ぶのも同じで、「勤める」のみである。心を尽くして稽古することが、法器を上達させる唯一無二の方法である。

「法器はあたかも修行者を象徴しているかのようです」。精舍梵唄のベテランである徳念(ドー・ニェン)師父は、法器習得の重要性を説いた。「三十年余りにわたって修行していますが、今でも毎日学び続けています」。

精舍で法器の指導をしている徳倍(ドー・ペイ)師父は、法器の伝承に力を注いでいる。「木魚を叩く時、朗誦する一字一句の意味を理解しながら、はっきり発音し、朗誦の声に合わせて、木魚の音が鮮明でなければなりません」。

筆者も感概深いものがあり、木魚を上手に叩いた時は、全身の細胞もそれに連れて躍動し、心が集中して清らかになり、喜びに満ちるのである。

二〇二二年二月、《地蔵経》の修行をした時、筆者は法器の地鐘(梵唄のとき、もとより小さな鐘を床の上に置く)を叩いたが、既に経験済みなので、今回はこれ以上練習する必要はないだろう、という驕りが生じた。修行の時間が終わると、徳倍師父が私に、「あなたはリズム感がなくなっていました」と教えてくれた。「慈済が周年を迎えるにあたり、朝の日課で《法華経》を唱える時、地鐘叩きを担当するのではありませんか。こんな調子で、どうやって叩くのですか?一緒に練習しましょう」と師父はとても心配してくれた。

鐘、太鼓、木魚、引磬は仏門の基本法器で、うまく使いこなすにはよく稽古するしかない。

徳倍師父の言葉は、私の心にとても大きな警鐘を鳴らした。そして、師父は二回、練習に付き添ってくれた。一回目はまだ感覚を取り戻せなかったので、何度も繰り返し、録音した師父の鳴らす音を真剣に聞き返した。二回目、師父は遠くから私の練習する音を聞いて、「リズム感が戻りましたね」と言った。

徳念師父が三十年余りの間、「毎日同じように練習する」という言葉を思い出した。自分はまだ初心者だというのに、驕りが生じたのである。実に懺悔すべきことであり、警鐘を鳴らされたのである。模範となる人が側にいるということは、精進する力になる。その機会を逃してはならない。

證厳法師が懇ろに念を押したことがある。「私たちは学ばなければならないことがとてもたくさんあります。時間を無駄にせず、しっかり学ばなくてはいけません。今日学ばなければ、明日後悔します」。

法師の丁寧な教えと先輩師父の指導、伝承によって、後輩の私たちは、梵唄が修行者に与える意義の深さを理解することができた。法器を鳴らす時、プレッシャーがかかっても、大衆が敬虔で恭しい心をもって、諸仏や菩薩の前で発心立願できるよう導けば、身・口・意を守らせることができるのである。これはなんと殊勝な縁であり、なんと喜ばしいことだろう。

できなかったことができるようになる過程を経て、各自が責任を担って伝承する責任があることが理解でき、新米にバトンを渡すことができるのである。法器が受け継がれることは、同時に仏法の法脈も受け継がれていくことを象徴している。全ての本分をしっかりこなすことは、即ち、仏教の正法を引き継いで、広めることに他ならない。

(慈済月刊六八一期より)

法器を打ち鳴らしながら、大衆を導いて朗誦するのは、修行者の本分である。勤めて学ぶことと集中することは修行の不二法門である。

早朝三時五十分、大地はまだ静まり返り、中央山脈は眠りの中にあるが、静思精舎では「コン~コン」、「コン、コン~コン」、「コン、コン、コン~コン」という魚板(ぎょばん)の音で、朝の静けさを打ち破る。

仏教の朗誦「梵唄(ぼんばい)」は、仏の徳を讃嘆し、身・口・意の三業を清める音である。道場での梵唄は、共に修行する者を導いて、仏法で心を潤す心身の浄化作用がある。

二〇一二年五月三十一日、證厳法師は次のように開示した。「修行者は三刀六槌を学ぶ必要があります。精舍の二衆弟子であろうと、清修士であろうと、法器を学ばなければなりません」。

「三刀」とは包丁、剃刀、裁縫バサミであり、「六槌」とは鐘槌、鼓槌、磬槌、木魚槌、板槌、鉄槌である。鐘、太鼓、木魚、引磬は仏門の基本法器であり、法器を使いこなせるよう学ぶのは修行者の本分である。

精舍の鐘や鼓は本堂の天井から吊り下げられているため、鼓を叩くにはスキルが要る。私たちの大先輩である徳慈(ドー・ツ―)師父(スーフ)は、鼓の音にエコ―を付ける要領を分ち合ってくれたことがある。「内からの力を使って叩けば、音に澄み切った抑揚が付き、リズム感が出てくるのです。三回通して連続で叩いても、疲れを感じません」。

《敕修百丈清規(ちょくしゅひゃくじょうしんぎ)》にこう書いている。「魚は昼夜を通じて目が覚めているが、木に彫られて叩かれることで、ぼんやりしていてはいけないという警鐘を鳴らす意味がある」。木魚は、修行者に昼夜分かたず精進するようにという警鐘を思い起こさせるものだ。何を学ぶのも同じで、「勤める」のみである。心を尽くして稽古することが、法器を上達させる唯一無二の方法である。

「法器はあたかも修行者を象徴しているかのようです」。精舍梵唄のベテランである徳念(ドー・ニェン)師父は、法器習得の重要性を説いた。「三十年余りにわたって修行していますが、今でも毎日学び続けています」。

精舍で法器の指導をしている徳倍(ドー・ペイ)師父は、法器の伝承に力を注いでいる。「木魚を叩く時、朗誦する一字一句の意味を理解しながら、はっきり発音し、朗誦の声に合わせて、木魚の音が鮮明でなければなりません」。

筆者も感概深いものがあり、木魚を上手に叩いた時は、全身の細胞もそれに連れて躍動し、心が集中して清らかになり、喜びに満ちるのである。

二〇二二年二月、《地蔵経》の修行をした時、筆者は法器の地鐘(梵唄のとき、もとより小さな鐘を床の上に置く)を叩いたが、既に経験済みなので、今回はこれ以上練習する必要はないだろう、という驕りが生じた。修行の時間が終わると、徳倍師父が私に、「あなたはリズム感がなくなっていました」と教えてくれた。「慈済が周年を迎えるにあたり、朝の日課で《法華経》を唱える時、地鐘叩きを担当するのではありませんか。こんな調子で、どうやって叩くのですか?一緒に練習しましょう」と師父はとても心配してくれた。

鐘、太鼓、木魚、引磬は仏門の基本法器で、うまく使いこなすにはよく稽古するしかない。

徳倍師父の言葉は、私の心にとても大きな警鐘を鳴らした。そして、師父は二回、練習に付き添ってくれた。一回目はまだ感覚を取り戻せなかったので、何度も繰り返し、録音した師父の鳴らす音を真剣に聞き返した。二回目、師父は遠くから私の練習する音を聞いて、「リズム感が戻りましたね」と言った。

徳念師父が三十年余りの間、「毎日同じように練習する」という言葉を思い出した。自分はまだ初心者だというのに、驕りが生じたのである。実に懺悔すべきことであり、警鐘を鳴らされたのである。模範となる人が側にいるということは、精進する力になる。その機会を逃してはならない。

證厳法師が懇ろに念を押したことがある。「私たちは学ばなければならないことがとてもたくさんあります。時間を無駄にせず、しっかり学ばなくてはいけません。今日学ばなければ、明日後悔します」。

法師の丁寧な教えと先輩師父の指導、伝承によって、後輩の私たちは、梵唄が修行者に与える意義の深さを理解することができた。法器を鳴らす時、プレッシャーがかかっても、大衆が敬虔で恭しい心をもって、諸仏や菩薩の前で発心立願できるよう導けば、身・口・意を守らせることができるのである。これはなんと殊勝な縁であり、なんと喜ばしいことだろう。

できなかったことができるようになる過程を経て、各自が責任を担って伝承する責任があることが理解でき、新米にバトンを渡すことができるのである。法器が受け継がれることは、同時に仏法の法脈も受け継がれていくことを象徴している。全ての本分をしっかりこなすことは、即ち、仏教の正法を引き継いで、広めることに他ならない。

(慈済月刊六八一期より)

關鍵字

被災後の新たな人生|全てを失ってから マイカーとマイホームを持てるようになるまで

モザンビーク:二〇一九年サイクロン・イダイ風災の後、世界中の慈済ボランティアは、再建のためにお金と力を出し、現地の善意を啓発した。現在、首都マプトと中部の被災地には総勢八千人以上の現地ボランティアがいる。

メキシコーク:二〇一七年の地震の後、現地ボランティアが大勢出現した。彼らは二〇二三年のオーティス風災の時に災害支援の主力となり、四カ国からのボランティアが力を合わせ、三千八百十四世帯に買い物カードを配付した。

二〇一九年のサイクロン・イダイ風災の後、私は二回モザンビークを訪れた。一番印象に残ったのは、一面黄砂の上に見渡す限り、NGOから援助を受けた様々なテントでいっぱいだったことである。慈済は緊急支援段階の物資の配付を終えた後も現地に留まり、四つの大愛村と二十三の学校の建設を支援した。コロナ禍などで工事は遅れたが、それでも一つひとつ完成して引き渡しに至り、徐々に住民の生活に改善の兆しが見えてきた。

メドゥシラ大愛村に入居したクィジートさんは、大愛村で初めて認証を授かった慈済ボランティアである。彼は以前、低い土地に住んでいたため、サイクロンで全てを無くした。その後、慈済から胡麻の種と農耕道具をもらった後、精出して耕作し、その収穫によって収入が増え、〇・五ヘクタールだった農地が今では三ヘクタールになった。そして、その家では家具を買い揃えたり、裁縫店を開業したり、自転車を買ったりできるようになった。そして今、彼は自宅を「慈済の連絡所」にして、慈善ケアケースの世話をしている。

慈済が支援建設した、モバンビス中学校は今年一月から使用が始まり、水道と電気が通っているため、現地の暗い夜の中で、唯一燈が点っている場所になっている。

一つの場所が慈済と縁を結び始めると、正しい方法と愛があれば、人は誰でも成長し続けることができるのである。

昨年末、認証を受ける為に十一人のボランティアがメキシコから台湾にやって来た。二〇一七年の大地震の時、現地には慈済ボランティアがいなかったが、災害支援チームが訪れて大愛を残して行ったため、今に至るまで発展してきたのである。

同じく昨年の十月下旬、熱帯低気圧が一日のうちにカテゴリー5のハリケーン・オーティスに発達し、メキシコのリゾート地アカプルコ市に大きな被害をもたらし、二十二万戸の家屋が損壊した。慈済の視察チームは、カリタス基金会の協力の下、支援を受けられていなかった、北西側の甚大被災地に入った。山の斜面にあるスラム地区は道路状況が劣悪で、慈済アメリカボランティアの葛濟覚(ゴ・ヂジュェ)さんと現地ボランティアが手と足を併用してやっと辿り付けるような状態で到着した。負傷した住民が手当を受けられなかったり、家屋が土砂に埋もれたりした様子を見て、支援の手を差し伸べることを決めた。

メドゥシラ大愛村に住むクィジートさん(右)は慈済が配った種を植え、その収穫で生活が改善した。今では自転車も買えるようになり、その村で初めて認証を授かった現地ボランティアとなった。(撮影・ダリオ ニャカリ)

災害状況の視察、支援の決定、パートナーの選定から、一月初めの買い物カードの配付まで、その間にどんなことがあったのだろうか?

一部のメキシコ人ボランティアは丁度、台湾に居たため、メキシコシティーに居たボランティアも被災地とは四百キロ以上離れていたが、現地スタッフのロドリゴさんは先頭に立ってチームをまとめ、被災地の神父とボランティアが協力し合って、僅か一カ月で三千八百世帯余りの名簿を作成し、ダブル・チェックまで済ませた。

あの劣悪な条件の下、全世帯を実地訪問したことは、奇跡に近い。「二〇一七年の地震の後、慈済ボランティアがそうやって支援してくれたのを見て、最も必要としている人を支援しないといけないと思いました」とメキシコのボランティアが言った。

貧しいモザンビークであろうと、地震被害を受けたメキシコであろうと、慈済ボランティアがいなかったところに現地ボランティアが育ち、独自で任務を遂行し、もっと多くの任務を請負えるようになったのである。百千粒の種も一つから生れ、時間が一切を成就させてくれるのだ。

(慈済月刊六八九期より)

モザンビーク:二〇一九年サイクロン・イダイ風災の後、世界中の慈済ボランティアは、再建のためにお金と力を出し、現地の善意を啓発した。現在、首都マプトと中部の被災地には総勢八千人以上の現地ボランティアがいる。

メキシコーク:二〇一七年の地震の後、現地ボランティアが大勢出現した。彼らは二〇二三年のオーティス風災の時に災害支援の主力となり、四カ国からのボランティアが力を合わせ、三千八百十四世帯に買い物カードを配付した。

二〇一九年のサイクロン・イダイ風災の後、私は二回モザンビークを訪れた。一番印象に残ったのは、一面黄砂の上に見渡す限り、NGOから援助を受けた様々なテントでいっぱいだったことである。慈済は緊急支援段階の物資の配付を終えた後も現地に留まり、四つの大愛村と二十三の学校の建設を支援した。コロナ禍などで工事は遅れたが、それでも一つひとつ完成して引き渡しに至り、徐々に住民の生活に改善の兆しが見えてきた。

メドゥシラ大愛村に入居したクィジートさんは、大愛村で初めて認証を授かった慈済ボランティアである。彼は以前、低い土地に住んでいたため、サイクロンで全てを無くした。その後、慈済から胡麻の種と農耕道具をもらった後、精出して耕作し、その収穫によって収入が増え、〇・五ヘクタールだった農地が今では三ヘクタールになった。そして、その家では家具を買い揃えたり、裁縫店を開業したり、自転車を買ったりできるようになった。そして今、彼は自宅を「慈済の連絡所」にして、慈善ケアケースの世話をしている。

慈済が支援建設した、モバンビス中学校は今年一月から使用が始まり、水道と電気が通っているため、現地の暗い夜の中で、唯一燈が点っている場所になっている。

一つの場所が慈済と縁を結び始めると、正しい方法と愛があれば、人は誰でも成長し続けることができるのである。

昨年末、認証を受ける為に十一人のボランティアがメキシコから台湾にやって来た。二〇一七年の大地震の時、現地には慈済ボランティアがいなかったが、災害支援チームが訪れて大愛を残して行ったため、今に至るまで発展してきたのである。

同じく昨年の十月下旬、熱帯低気圧が一日のうちにカテゴリー5のハリケーン・オーティスに発達し、メキシコのリゾート地アカプルコ市に大きな被害をもたらし、二十二万戸の家屋が損壊した。慈済の視察チームは、カリタス基金会の協力の下、支援を受けられていなかった、北西側の甚大被災地に入った。山の斜面にあるスラム地区は道路状況が劣悪で、慈済アメリカボランティアの葛濟覚(ゴ・ヂジュェ)さんと現地ボランティアが手と足を併用してやっと辿り付けるような状態で到着した。負傷した住民が手当を受けられなかったり、家屋が土砂に埋もれたりした様子を見て、支援の手を差し伸べることを決めた。

メドゥシラ大愛村に住むクィジートさん(右)は慈済が配った種を植え、その収穫で生活が改善した。今では自転車も買えるようになり、その村で初めて認証を授かった現地ボランティアとなった。(撮影・ダリオ ニャカリ)

災害状況の視察、支援の決定、パートナーの選定から、一月初めの買い物カードの配付まで、その間にどんなことがあったのだろうか?

一部のメキシコ人ボランティアは丁度、台湾に居たため、メキシコシティーに居たボランティアも被災地とは四百キロ以上離れていたが、現地スタッフのロドリゴさんは先頭に立ってチームをまとめ、被災地の神父とボランティアが協力し合って、僅か一カ月で三千八百世帯余りの名簿を作成し、ダブル・チェックまで済ませた。

あの劣悪な条件の下、全世帯を実地訪問したことは、奇跡に近い。「二〇一七年の地震の後、慈済ボランティアがそうやって支援してくれたのを見て、最も必要としている人を支援しないといけないと思いました」とメキシコのボランティアが言った。

貧しいモザンビークであろうと、地震被害を受けたメキシコであろうと、慈済ボランティアがいなかったところに現地ボランティアが育ち、独自で任務を遂行し、もっと多くの任務を請負えるようになったのである。百千粒の種も一つから生れ、時間が一切を成就させてくれるのだ。

(慈済月刊六八九期より)

關鍵字

作業の流れは踊りのように スローバージョンの交響曲

  • 人生は苦労が多くて短いため、私たちのような歳の人は、もっと頑張って作業しなければならない。さもなければする機会がなくなる。

  • 体は老化して動作が遅くなっても、手足を一緒に使えばまだやれる。

  • リサイクルステーションに来てボランティアすれば、要らぬことを考えることはなく、おしゃべりの相手もいて、互いに面倒を見ることができる。

慈済岡山志業パークの環境保全教育ステーションの隣にあるマンゴーの木の下に建てられたブリキ小屋からは、遠くからでも何かを叩く音が聞こえる。平均年齢八十歳のリサイクルボランティアたちが、急がず休まず歩き回っている。彼らは体は衰え、動作が遅くなっても、手と足を使えば、太い銅線をケーブルから丁寧に取り出すことができる。

七人が一つのラインで作業しているのだが、まるでスローバージョンの交響曲に合わせて、両手と両足がケーブルの上で踊っているように見え、削ったり、切ったり、割ったり、叩いたりしている。彼らは、回収されたものを良い値段で売って、大愛テレビが良い番組を作って放送するのをサポートしたいというシンプルな思いだけで、全身全霊で取り組んでいるのだ。

そのお爺さん、お婆さん世代の人たちは超人的で、電化製品の分解やケーブル剥線作業の達人と言える。最年少は七十一歳で、最年長は八十五歳である。「銅線を引き抜く力がなくなっても、続けます!」と。

リレー式に分解し、ゼロ廃棄物を目指している

八十一歳の杜玉珠(ドゥ・ユーヅゥー)さんは、古着の収集と仕分けを担当しているが、日々の分別とリサイクルを済ませた後、煩雑な事務仕事もこなしており、打ち負かされることはない。彼女が語る、七人のリサイクルボランティアのストーリーを聞きながら、彼らに目を向けると、柔和な話ぶりが、とても温かい気持ちにさせてくれた。

四年余り前、高雄市岡山区の柳橋と後紅にあったリサイクルステーションが、岡山志業パーク内の環境保全教育ステーションに統合されたので、杜さんは柳橋から移されたコンテナハウスに古着を保管した。その後、近くの工場が廃棄した電線のリサイクルを慈済に託したため、リサイクルボランティアは、野外で廃棄電線や電化製品の解体を始めた。

ブリキ、黄銅、青銅、プラスチック……リサイクル業者が回収しないものもあれば、先に分解して売れる部分を取り出す必要があるものもある。極力廃棄物を出さず、地球を汚染しないよう、七人のボランティアは丁寧に分別している。

中肉中背で八十三歳の余蔡秀(ユー・ツァイシユウ)さんは、足にビニール袋で作った乗馬ブーツを履き、リサイクルした古着を着て、油汚れがつかないよう完全武装した。そして、両手に三枚重ねの手袋をつけた。一枚目と二枚目はプラスチック製で、三枚目は軍手である。彼女は小さな腰掛けに座り、足の前に砂利の入った洗面器を置き、ネバネバした黒い油で汚れた長くて硬い電線を洗面器に入れ、こすって汚れを落とした。暫くすると軍手に分厚い油がついた。

余さんが最も満足しているのは、夫の家族のほぼ全員が慈済ボランティアになっていることである。皆から「大師兄」と呼ばれている夫の余益雄(ユー・イーシォン)さんと長年、夫婦一緒にリサイクル活動を毎日朝から午後までやっている。汚れを落としたケーブルは、八十一歳の余邦紹(ユー・ブォンサォ)さんが引き継ぎ、先ず電線を短く切断してから、蔡秀さんと協力して絶縁体を割いて剥がした。その後、七十一歳の陳美玉(ツン・メイユー)さんがより丁寧に削ってから七十六歳の朱陳秀鸞(ヅゥー・ツンシュウアン)さんと八十四歳の黃謝敏(ホワン・シェミン)さんに渡し、最後の工程を行うことで、やっと銅線を引き抜くことができるのだ。皆で宝のように扱っている。陳さんはこの祖父母世代の中では最年少で、いつも黙々と自分の仕事をきちんとこなしている。新型コロナの感染から回復した後も、後遺症が残り、咳をすると背中が痛くなるが、家で退屈にしているよりは、リサイクルステーションに来て何かをする方を好む。

邦紹さんは電線を切り終わると、小さな腰掛けに戻り、電化製品の仕分けを続けた。彼と妻の羅家蓁(ロー・ジャーヅン)さんは、毎日リサイクルステーションに来て、道具を手に取ると、頭を上げることを忘れてしまうほど没頭してしまう。ゆっくりと穏やかに喋る彼は、少し言葉を交わすと、再び仕事に没頭した。

七十五歳の羅さんは、二〇〇三年からリサイクル活動に参加し始め、ハンマーを持って回収物を叩いている。叩く場所は樹齢十年以上のリュウガンの幹で、平らだったものが今ではデコボコになっている。どれほど大変な作業か想像に難くない。腰痛持ちの彼女は、次々と分解対象の回収物が持ち込まれるので、シップを貼りながらも作業を続けている。「私たちは休んだことがありません。もっと頑張らないと本当に間に合わないのです。ですから殆ど毎日朝早く来て、夜遅くまでやっています」。

今年一月からがん治療を始めた羅さんだが、考え方は楽観的で力強く、生死は運命だから、立ち向かえばいいと感じている。化学療法期間中は体力がなく、免疫力も低下しているため、リサイクルステーションでの分解作業は暫くできなかったが、近所から届く回収物が多いので、自宅で分別を続けている。入院中、彼女はリサイクル作業をとても気にしていたが、親孝行な息子が引き継いでおり、中断することなく作業が続いている。

今、彼女は再びリサイクルステーションに戻って、扇風機の分解に専念している。「上人の良い弟子なのですから、できることは何でも、全力でやりたいのです。たとえ病気でも、環境保全活動をやめてはいけないのです。それは、大愛テレビ局を護持するだけでなく、それ以上に地球を愛しているからです」。

平均年齢80歳のボランティアたちは、家庭から廃棄されて回収されたケーブルや電化製品を細かく分解し、中に含まれている金属が再利用できるように、素材に応じて分類していた。これがリサイクル活動の大変なところであり、忍耐と労力を必要とする、純粋な手作業なのである。

作業に集中し、悲しみに浸らない

陳蔡月英(ツン・ツァイユェイン)さんは八十五歳という高齢だが、電気ドリルを使うのは熟練しており、動作が速く、器具の分別も簡単にこなしているように見える。二年前に末の息子さんを癌で亡くしたのだと、彼女はやり場のない悲しみをそっと言葉にした。毎日ボランティア活動に出かけるのも、自分の感情に囚われすぎないようにするためである。

一週間前、夫の陳文雄(ツン・ウェンシュォン)さんがパーキンソン病と診断された。月英さんは感情を表に出さず、インタビューを受けながら作業を続けた。杜さんは、「ご主人と一緒にいてあげなさい」「早く帰宅しなさい」と何度も促したが、彼女は手元の品物を分別し続けた。リサイクル作業に没頭することによってのみ、消えて行く命に対する悲しみを抑えることができるかのようだった。

八十三歳の毛陳秀(マオ・ツンシュウ)さんは、丸い体を小さなプラスチック製の椅子に座らせ、ハンマーで鉄のフレームを叩いて、内部に入っていた細い銅線の束を損傷せずに取り出していた。彼女は口数が少なく、いつも叩くことに没頭している。そして、黄色い細い銅線が見えると、まるで子供が大好きなお菓子を見た時のように笑顔になり、満足そうな楽しい表情になった。

毛さんは、二〇〇三年から医療ボランティアをしており、花蓮と大林慈済病院に交代で行っていた。ご主人が亡くなった後、彼女はご主人が着ていたボランティアベストを着て、「夫のやり残したことも私が一緒にやり遂げます」と言った。コロナ禍の後、高齢化も相まって、彼女は他の都市に出かけて医療ボランティアをすることはなくなった。毎日、午前八時五分のバスに乗って岡山志業パークに行き、定時に午後四時のバスで帰宅する。羅さんの療養中は、分解エリアの開け閉めの仕事も引き受けた。

一人暮らしの毛さんは孤独に感じることはない。二人の息子が迎えにきて同居したことが何度かあったが、最終的にはやはり岡山区の家に戻ってきた。

「私は普段、一人だから、食事はとてもシンプルで、あまりのんびりするのも好きではありません。人生は短くて、私たちの年齢では、いつお迎えが来るか分かりません。もっとやるべきことを、急いでやらなければなりません。さもなければ、やれなくなってしまいます」。

毛さんによると、長男の嫁として夫に嫁いだが、多くのことに責任を負わなければならなかった。夫には二人の弟と六人の妹がいたので、彼らが独立して生計を営んで初めて、自分の時間ができ、ボランティア活動に参加できるようになった。彼女は笑顔を浮かべながら、これらの思い出を語った。

陳蔡月英さん(左上から)、毛陳秀さん、杜玉珠さん、黄謝敏さん、羅家蓁さん、陳美玉さん、余蔡秀さん。次世代が美しい環境を守っていくための幸せな笑顔を見せていた。

物を惜しむ 
ボロ服が雑巾に変わる

ボランティアの孫湘涵(ソン・シャンハン)さんは、リサイクル活動に来るといつも、この愛らしい老人たちに挨拶をする。彼らの素朴な思いやりと行動には本当に感動したと彼女は言う。こんなに高齢なのに一日中ここにいて、時には昼の休みも取らず、午後四時頃にやっと各自の家に帰るのだから。

銅線にこだわるだけでなく、古着も何回も再利用している。着られる服を慎重に選び、梱包して、後で使用できるように保管しておく。一部の再利用できなくなった衣類を、杜さんは宝とみなし、仕立屋の黄さんに、布切れに裁断してもらい、必要としている工場にさしあげている。彼らは物を最大限に活用して、一心にゴミの量を減らし、地球への負担を減らしているのだ。

八十四歳の黄さんは生地の裁断に長けているだけでなく、ケーブルの絶縁体を素早くカッターナイフで切って、剥がしていた。彼女は、普段、一人で家にいるよりも、リサイクルステーションでボランティアをしたほうが良いと言った。要らぬことを考えなくなるし、おしゃべりする相手もいて、お互いに世話できるからだ。

リサイクルステーションを見守っている杜さんは毎日とても忙しく、元気いっぱいである。彼女は微笑みながら、時間があって座り、何もしないと居眠りしてしまう、と言った。彼女は自宅の前でリサイクルをしており、二十年以上精進チームを受け持っており、法縁者の法事にもほとんど欠席しない。なぜ彼女にそんなにエネルギーがあるのかと尋ねると、證厳法師の教えを心に留めているので、全てに立ち向かう力があるのだ、と答えた。

可愛いお年寄りボランティアたちは、マンゴーの木の下の小さなスペースをゆっくりと行き来し、重責を担っているが、尻込みすることはない。マスクをした彼らの目には、確かな幸せと安定感が見えた。

(慈済月刊六八四期より)

  • 人生は苦労が多くて短いため、私たちのような歳の人は、もっと頑張って作業しなければならない。さもなければする機会がなくなる。

  • 体は老化して動作が遅くなっても、手足を一緒に使えばまだやれる。

  • リサイクルステーションに来てボランティアすれば、要らぬことを考えることはなく、おしゃべりの相手もいて、互いに面倒を見ることができる。

慈済岡山志業パークの環境保全教育ステーションの隣にあるマンゴーの木の下に建てられたブリキ小屋からは、遠くからでも何かを叩く音が聞こえる。平均年齢八十歳のリサイクルボランティアたちが、急がず休まず歩き回っている。彼らは体は衰え、動作が遅くなっても、手と足を使えば、太い銅線をケーブルから丁寧に取り出すことができる。

七人が一つのラインで作業しているのだが、まるでスローバージョンの交響曲に合わせて、両手と両足がケーブルの上で踊っているように見え、削ったり、切ったり、割ったり、叩いたりしている。彼らは、回収されたものを良い値段で売って、大愛テレビが良い番組を作って放送するのをサポートしたいというシンプルな思いだけで、全身全霊で取り組んでいるのだ。

そのお爺さん、お婆さん世代の人たちは超人的で、電化製品の分解やケーブル剥線作業の達人と言える。最年少は七十一歳で、最年長は八十五歳である。「銅線を引き抜く力がなくなっても、続けます!」と。

リレー式に分解し、ゼロ廃棄物を目指している

八十一歳の杜玉珠(ドゥ・ユーヅゥー)さんは、古着の収集と仕分けを担当しているが、日々の分別とリサイクルを済ませた後、煩雑な事務仕事もこなしており、打ち負かされることはない。彼女が語る、七人のリサイクルボランティアのストーリーを聞きながら、彼らに目を向けると、柔和な話ぶりが、とても温かい気持ちにさせてくれた。

四年余り前、高雄市岡山区の柳橋と後紅にあったリサイクルステーションが、岡山志業パーク内の環境保全教育ステーションに統合されたので、杜さんは柳橋から移されたコンテナハウスに古着を保管した。その後、近くの工場が廃棄した電線のリサイクルを慈済に託したため、リサイクルボランティアは、野外で廃棄電線や電化製品の解体を始めた。

ブリキ、黄銅、青銅、プラスチック……リサイクル業者が回収しないものもあれば、先に分解して売れる部分を取り出す必要があるものもある。極力廃棄物を出さず、地球を汚染しないよう、七人のボランティアは丁寧に分別している。

中肉中背で八十三歳の余蔡秀(ユー・ツァイシユウ)さんは、足にビニール袋で作った乗馬ブーツを履き、リサイクルした古着を着て、油汚れがつかないよう完全武装した。そして、両手に三枚重ねの手袋をつけた。一枚目と二枚目はプラスチック製で、三枚目は軍手である。彼女は小さな腰掛けに座り、足の前に砂利の入った洗面器を置き、ネバネバした黒い油で汚れた長くて硬い電線を洗面器に入れ、こすって汚れを落とした。暫くすると軍手に分厚い油がついた。

余さんが最も満足しているのは、夫の家族のほぼ全員が慈済ボランティアになっていることである。皆から「大師兄」と呼ばれている夫の余益雄(ユー・イーシォン)さんと長年、夫婦一緒にリサイクル活動を毎日朝から午後までやっている。汚れを落としたケーブルは、八十一歳の余邦紹(ユー・ブォンサォ)さんが引き継ぎ、先ず電線を短く切断してから、蔡秀さんと協力して絶縁体を割いて剥がした。その後、七十一歳の陳美玉(ツン・メイユー)さんがより丁寧に削ってから七十六歳の朱陳秀鸞(ヅゥー・ツンシュウアン)さんと八十四歳の黃謝敏(ホワン・シェミン)さんに渡し、最後の工程を行うことで、やっと銅線を引き抜くことができるのだ。皆で宝のように扱っている。陳さんはこの祖父母世代の中では最年少で、いつも黙々と自分の仕事をきちんとこなしている。新型コロナの感染から回復した後も、後遺症が残り、咳をすると背中が痛くなるが、家で退屈にしているよりは、リサイクルステーションに来て何かをする方を好む。

邦紹さんは電線を切り終わると、小さな腰掛けに戻り、電化製品の仕分けを続けた。彼と妻の羅家蓁(ロー・ジャーヅン)さんは、毎日リサイクルステーションに来て、道具を手に取ると、頭を上げることを忘れてしまうほど没頭してしまう。ゆっくりと穏やかに喋る彼は、少し言葉を交わすと、再び仕事に没頭した。

七十五歳の羅さんは、二〇〇三年からリサイクル活動に参加し始め、ハンマーを持って回収物を叩いている。叩く場所は樹齢十年以上のリュウガンの幹で、平らだったものが今ではデコボコになっている。どれほど大変な作業か想像に難くない。腰痛持ちの彼女は、次々と分解対象の回収物が持ち込まれるので、シップを貼りながらも作業を続けている。「私たちは休んだことがありません。もっと頑張らないと本当に間に合わないのです。ですから殆ど毎日朝早く来て、夜遅くまでやっています」。

今年一月からがん治療を始めた羅さんだが、考え方は楽観的で力強く、生死は運命だから、立ち向かえばいいと感じている。化学療法期間中は体力がなく、免疫力も低下しているため、リサイクルステーションでの分解作業は暫くできなかったが、近所から届く回収物が多いので、自宅で分別を続けている。入院中、彼女はリサイクル作業をとても気にしていたが、親孝行な息子が引き継いでおり、中断することなく作業が続いている。

今、彼女は再びリサイクルステーションに戻って、扇風機の分解に専念している。「上人の良い弟子なのですから、できることは何でも、全力でやりたいのです。たとえ病気でも、環境保全活動をやめてはいけないのです。それは、大愛テレビ局を護持するだけでなく、それ以上に地球を愛しているからです」。

平均年齢80歳のボランティアたちは、家庭から廃棄されて回収されたケーブルや電化製品を細かく分解し、中に含まれている金属が再利用できるように、素材に応じて分類していた。これがリサイクル活動の大変なところであり、忍耐と労力を必要とする、純粋な手作業なのである。

作業に集中し、悲しみに浸らない

陳蔡月英(ツン・ツァイユェイン)さんは八十五歳という高齢だが、電気ドリルを使うのは熟練しており、動作が速く、器具の分別も簡単にこなしているように見える。二年前に末の息子さんを癌で亡くしたのだと、彼女はやり場のない悲しみをそっと言葉にした。毎日ボランティア活動に出かけるのも、自分の感情に囚われすぎないようにするためである。

一週間前、夫の陳文雄(ツン・ウェンシュォン)さんがパーキンソン病と診断された。月英さんは感情を表に出さず、インタビューを受けながら作業を続けた。杜さんは、「ご主人と一緒にいてあげなさい」「早く帰宅しなさい」と何度も促したが、彼女は手元の品物を分別し続けた。リサイクル作業に没頭することによってのみ、消えて行く命に対する悲しみを抑えることができるかのようだった。

八十三歳の毛陳秀(マオ・ツンシュウ)さんは、丸い体を小さなプラスチック製の椅子に座らせ、ハンマーで鉄のフレームを叩いて、内部に入っていた細い銅線の束を損傷せずに取り出していた。彼女は口数が少なく、いつも叩くことに没頭している。そして、黄色い細い銅線が見えると、まるで子供が大好きなお菓子を見た時のように笑顔になり、満足そうな楽しい表情になった。

毛さんは、二〇〇三年から医療ボランティアをしており、花蓮と大林慈済病院に交代で行っていた。ご主人が亡くなった後、彼女はご主人が着ていたボランティアベストを着て、「夫のやり残したことも私が一緒にやり遂げます」と言った。コロナ禍の後、高齢化も相まって、彼女は他の都市に出かけて医療ボランティアをすることはなくなった。毎日、午前八時五分のバスに乗って岡山志業パークに行き、定時に午後四時のバスで帰宅する。羅さんの療養中は、分解エリアの開け閉めの仕事も引き受けた。

一人暮らしの毛さんは孤独に感じることはない。二人の息子が迎えにきて同居したことが何度かあったが、最終的にはやはり岡山区の家に戻ってきた。

「私は普段、一人だから、食事はとてもシンプルで、あまりのんびりするのも好きではありません。人生は短くて、私たちの年齢では、いつお迎えが来るか分かりません。もっとやるべきことを、急いでやらなければなりません。さもなければ、やれなくなってしまいます」。

毛さんによると、長男の嫁として夫に嫁いだが、多くのことに責任を負わなければならなかった。夫には二人の弟と六人の妹がいたので、彼らが独立して生計を営んで初めて、自分の時間ができ、ボランティア活動に参加できるようになった。彼女は笑顔を浮かべながら、これらの思い出を語った。

陳蔡月英さん(左上から)、毛陳秀さん、杜玉珠さん、黄謝敏さん、羅家蓁さん、陳美玉さん、余蔡秀さん。次世代が美しい環境を守っていくための幸せな笑顔を見せていた。

物を惜しむ 
ボロ服が雑巾に変わる

ボランティアの孫湘涵(ソン・シャンハン)さんは、リサイクル活動に来るといつも、この愛らしい老人たちに挨拶をする。彼らの素朴な思いやりと行動には本当に感動したと彼女は言う。こんなに高齢なのに一日中ここにいて、時には昼の休みも取らず、午後四時頃にやっと各自の家に帰るのだから。

銅線にこだわるだけでなく、古着も何回も再利用している。着られる服を慎重に選び、梱包して、後で使用できるように保管しておく。一部の再利用できなくなった衣類を、杜さんは宝とみなし、仕立屋の黄さんに、布切れに裁断してもらい、必要としている工場にさしあげている。彼らは物を最大限に活用して、一心にゴミの量を減らし、地球への負担を減らしているのだ。

八十四歳の黄さんは生地の裁断に長けているだけでなく、ケーブルの絶縁体を素早くカッターナイフで切って、剥がしていた。彼女は、普段、一人で家にいるよりも、リサイクルステーションでボランティアをしたほうが良いと言った。要らぬことを考えなくなるし、おしゃべりする相手もいて、お互いに世話できるからだ。

リサイクルステーションを見守っている杜さんは毎日とても忙しく、元気いっぱいである。彼女は微笑みながら、時間があって座り、何もしないと居眠りしてしまう、と言った。彼女は自宅の前でリサイクルをしており、二十年以上精進チームを受け持っており、法縁者の法事にもほとんど欠席しない。なぜ彼女にそんなにエネルギーがあるのかと尋ねると、證厳法師の教えを心に留めているので、全てに立ち向かう力があるのだ、と答えた。

可愛いお年寄りボランティアたちは、マンゴーの木の下の小さなスペースをゆっくりと行き来し、重責を担っているが、尻込みすることはない。マスクをした彼らの目には、確かな幸せと安定感が見えた。

(慈済月刊六八四期より)

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