The Illustrated Jing Si Aphorisms

The Buddha says:

Whoever sees the Dharma, sees me.
Whoever has not seen the Dharma, cannot see me.
Even if he were gripping my robe,
he still would not be able to see me.

Some people think that so long as they read the sutras‭, ‬the Buddha will protect them from all trouble‭. ‬They‮'‬re wrong‭. ‬Living beings are often confused and go the wrong way‭.‬

The Buddha showed us the right direction in life‭. ‬We should diligently practice what he taught us‭. ‬That is real Buddhism‭.‬

I can hardly believe that my younger brother passed away so quickly. I just can’t accept that it has really happened.

Dharma Master Cheng Yen: “When each of us has played our role on the stage of life, we must step off. Those still onstage must continue to play their roles as best they can. If we do the best we can while we are alive, then our love will remain even after we have left this world.”

Translated by E. E. Ho and W. L. Rathje; drawings by Tsai Chih-chung; coloring by May E. Gu

The Buddha says:

Whoever sees the Dharma, sees me.
Whoever has not seen the Dharma, cannot see me.
Even if he were gripping my robe,
he still would not be able to see me.

Some people think that so long as they read the sutras‭, ‬the Buddha will protect them from all trouble‭. ‬They‮'‬re wrong‭. ‬Living beings are often confused and go the wrong way‭.‬

The Buddha showed us the right direction in life‭. ‬We should diligently practice what he taught us‭. ‬That is real Buddhism‭.‬

I can hardly believe that my younger brother passed away so quickly. I just can’t accept that it has really happened.

Dharma Master Cheng Yen: “When each of us has played our role on the stage of life, we must step off. Those still onstage must continue to play their roles as best they can. If we do the best we can while we are alive, then our love will remain even after we have left this world.”

Translated by E. E. Ho and W. L. Rathje; drawings by Tsai Chih-chung; coloring by May E. Gu

關鍵字

慈済とSDGs—行動は早くに始まっている

国連の持続可能な開発目標(以下SDGs)は、この八年間、世界の各方面で人類生存の危機を解決する指針となって来た。

それは、慈済が六十年近く努力して実践してきた志業と、図らずも一致する。共に経済や社会、環境問題において、現在と将来の世代のためにバランスの取れた道を探り出そうとしている。

持続可能な開発」は近年、国際間の重要な議題となり、持続可能な開発目標(以下SDGs)のカラフルなアイコンは、人々にはもうお馴染みだ。国連「十七の持続可能な開発目標」を順番に見ると、一から十二までが慈済の慈善、医療、教育、人文という四大志業の意義と理念にピッタリ一致している。慈済人は「地球と共に生きていく」ために提唱した環境保全のリサイクル、菜食で衆生を護る、倹約生活を心がけるなどは、気候行動の環境項目に対応している。

そして、衆生の平等を固く信じ、人種、宗教、文化を分け隔てしない大愛精神に基づき、カトリック教やイスラム教等異なった宗教のパートナーと共に、国際的に難民を支援することも、持続可能な開発目標の核心的価値観と図らずも一致している。

慈済基金会の顔博文(イェン・ボーウェン)執行長は、二○二三年までの志業成果を例に挙げて説明した。

「慈済は今まで、四十の国と地域で五百万世帯余りをケアし、十八の国と地域で二万二千戸余りの永久住宅を建ててまいりました。そして、慈済人医会の足跡は五十八カ国に及び、一万八千回余りの施療を行って、四百万人を超える人々の病苦を取り除いてまいりました。また、気候変動と環境災害等の方面では、減災プロジェクトと防災教育を推し進め、災害支援情報プラットフォームを立ち上げ、災害による影響を軽減しています」。広くパートナーを招いて協力し、一緒に「安心して住める」生活環境を作ることで、地域のハイリスク世帯や弱者世帯を支援している。

「現在、世間でも持続可能な開発に関して広く議論されていますが、そのうちの国連『十七の持続可能な開発目標』に関しては、慈済志業はそれら全てを網羅しています」。顔執行長は、慈済の環境と社会方面における取り組みは、SDGsと繋がっており、正に長年にわたってこつこつと努力を続けて来た証しだ、と語った。

二○二四年七月から、月刊誌『慈済』は「慈済とSDGs」という記事をシリーズで掲載しているが、そこには、貧困と飢餓をなくし、気候変動に対処し、高齢少子化に向き合ったケアと環境教育を実践し、グローバルパートナーと協力して持続可能な開発の五つの側面でそれぞれの志業の六十年を振り返り、各志業をどのようにして実践し、持続可能な開発を推進してきたかが語られている。

證厳法師の静思語にこのような言葉がある。「道さえ見つかれば、どれほど遠くても怖くない」。私たちがSDGsの理想とビジョンに照らし合わせて振り返り、世界を展望すれば、これまでの成果とこれから精進する方向が、一層はっきりと見えてくるのだ。

SDGs国連17の持続可能な開発目標

国連の持続可能な開発目標(以下SDGs)は、この八年間、世界の各方面で人類生存の危機を解決する指針となって来た。

それは、慈済が六十年近く努力して実践してきた志業と、図らずも一致する。共に経済や社会、環境問題において、現在と将来の世代のためにバランスの取れた道を探り出そうとしている。

持続可能な開発」は近年、国際間の重要な議題となり、持続可能な開発目標(以下SDGs)のカラフルなアイコンは、人々にはもうお馴染みだ。国連「十七の持続可能な開発目標」を順番に見ると、一から十二までが慈済の慈善、医療、教育、人文という四大志業の意義と理念にピッタリ一致している。慈済人は「地球と共に生きていく」ために提唱した環境保全のリサイクル、菜食で衆生を護る、倹約生活を心がけるなどは、気候行動の環境項目に対応している。

そして、衆生の平等を固く信じ、人種、宗教、文化を分け隔てしない大愛精神に基づき、カトリック教やイスラム教等異なった宗教のパートナーと共に、国際的に難民を支援することも、持続可能な開発目標の核心的価値観と図らずも一致している。

慈済基金会の顔博文(イェン・ボーウェン)執行長は、二○二三年までの志業成果を例に挙げて説明した。

「慈済は今まで、四十の国と地域で五百万世帯余りをケアし、十八の国と地域で二万二千戸余りの永久住宅を建ててまいりました。そして、慈済人医会の足跡は五十八カ国に及び、一万八千回余りの施療を行って、四百万人を超える人々の病苦を取り除いてまいりました。また、気候変動と環境災害等の方面では、減災プロジェクトと防災教育を推し進め、災害支援情報プラットフォームを立ち上げ、災害による影響を軽減しています」。広くパートナーを招いて協力し、一緒に「安心して住める」生活環境を作ることで、地域のハイリスク世帯や弱者世帯を支援している。

「現在、世間でも持続可能な開発に関して広く議論されていますが、そのうちの国連『十七の持続可能な開発目標』に関しては、慈済志業はそれら全てを網羅しています」。顔執行長は、慈済の環境と社会方面における取り組みは、SDGsと繋がっており、正に長年にわたってこつこつと努力を続けて来た証しだ、と語った。

二○二四年七月から、月刊誌『慈済』は「慈済とSDGs」という記事をシリーズで掲載しているが、そこには、貧困と飢餓をなくし、気候変動に対処し、高齢少子化に向き合ったケアと環境教育を実践し、グローバルパートナーと協力して持続可能な開発の五つの側面でそれぞれの志業の六十年を振り返り、各志業をどのようにして実践し、持続可能な開発を推進してきたかが語られている。

證厳法師の静思語にこのような言葉がある。「道さえ見つかれば、どれほど遠くても怖くない」。私たちがSDGsの理想とビジョンに照らし合わせて振り返り、世界を展望すれば、これまでの成果とこれから精進する方向が、一層はっきりと見えてくるのだ。

SDGs国連17の持続可能な開発目標
關鍵字

世界は共善しなければならない失敗は許されない

慈済のベテランボランティア、曾慈慧(ヅン・ツーフエィ)さんは、慈済の国連SDGsにおける活動を推進してきたパイオニアである。長年、慈済の国連担当チームを引率し、国際舞台で慈済の実践してきた人道支援や気候変動、環境保全、宗教間の協力及び女性のエンパワーメント等について紹介し、提言を行ってきた。

アメリカ在住が四十年以上に及ぶ彼女は、現在、慈済アメリカ総支部の執行長を務めている。何度も国連の関連会議に慈済の代表として出席し、地球環境の持続可能性について世界のエリートのコンセンサスと懸念を見極めてきた。彼女の目に映る慈済の発展は、SDGsとどのように関連し、対応し、融合しているのだろうか。

質問:二〇一五年に国連が「持続可能な開発目標」(SDGs)を掲げましたが、慈済志業とどこが通じていると思いますか?またどの項目が自己精進に役立つと思いますか?

回答:慈済は宗教団体の観点から、地域社会に関する慈善活動を推進してまいりましたし、国連は国家規模で、環境政策とリンクしながら持続可能性を推進しています。

二〇一五年のパリ協定以降、気候変動の危機が目に見えるものになってくると、それらを前提として、国連が推進している十七個の目標SDGsに一六九のターゲットが追加され、世界で延べ四千回近い普及活動が行われると共に、様々な国や機構で多種多様な改善プロジェクトが発表されました。

慈済は重点、直接、尊重、実用的等の原則をコミュニティに取り入れ、国連は策略、企画、普及活動を主な方向としています。両者は異なるレベルの運用と考え方で行っていますが、一つに融合できるのです。

例えば、慈済の「仕事を与えて支援に代える」と「腹八分目にして二分で人助け」という慈善活動は、「目標1・貧困をなくそう」に対応していますし、菜食を勧める活動は、「目標3・すべての人に健康と福祉を」と「目標14・海の豊かさを守ろう」と「目標15・陸の豊かさも守ろう」に対応しています。また、アフリカでの井戸掘り及びトイレの建設による衛生の改善は「目標6・安全な水とトイレを世界中に」に、環境保全活動から始まった循環経済の推進は「目標9・産業と技術革新の基盤を作ろう」に当てはまります。そして、慈済が様々な団体と連携して地域社会を守り、国境のない大愛の絆を繋いでいることは、即ち「目標17・パートナーシップで目標を達成しよう」になるのです。

これらSDGs指標のアクションには、深さ、幅、広さにおいて夫々特色があり、如何にしてコミュニティの草の根のデータを用いて説法し、政策面のニーズに呼応し、コミュニティの成長と変革への完全な促進を行うと共に、目安となる運用メカニズムを作り出し、他の組織や国に提供して参考にしてもらう事が、私たちが努力しなければならない方向なのです!

SDGs夫々の目標は相互に影響し合う。ジンバブエでは、一本の井戸が住民に清潔な水源を与えると同時に、健康と福祉、飢餓問題を改善する。(写真提供・朱金財)

質問:慈済のどの志業発展項目がSDGsと結びつき、あなたに深い印象を与えましたか?

回答:慈済志業と国連SDGsの目標及びターゲットとの関係についてですが、私たちがアフリカで実施している様々な貧困支援プロジェクトは、「目標6・安全な水とトイレを世界中に」、「目標5・ジェンダー平等を実現しよう」「目標4・質の高い教育をみんなに」、「目標3・全ての人に福祉と健康を」、「目標2・飢餓をゼロに」と結びつけることができます。シエラレオネ共和国や中南米のハイチ及び南アフリカ等の国々でも、力を入れて取り組んできました。

特にシエラレオネ共和国では、二〇一五年にエボラウイルスの感染が蔓延した時から支援を開始し、緊急段階で香積飯(即席飯)、福慧ベッド(折りたたみ式多機能ベッド)、エコ毛布などを提供すると同時に、公共衛生教育を推進し、現地の食糧生産を増やして飢餓の減少に努めました。更に助産師の養成プロジェクト、婦女の保健及び救済のエンパワーメントにまで支援の範囲を広げ、頻繁に発生する水害や火災等に対応しています。また、ポール盲学校を支援して、井戸をソーラーパネル付きに建て替え、安全な水資源を提供できるようにしました。

シエラレオネ共和国の慈済ボランティアはたいへん少ないのですが、現地の国際カリスタ、ヒーリー国際救援基金会(Healey International Relief Foundation)、ランイ基金会(Lanyi Foundation)、国連人口基金(UNFPA)、ユニセフ及び農業食糧署と連携し、共に地球環境のニーズに対応して一歩ずつ企画を進めて来た結果、現地には改善の兆しが顕著に見られるようになりました。まだ道程は長いですが、学生の学習の場と教育の機会へと広げており、貧しいシエラレオネ共和国には反転するチャンスがあります。

極端な気候災害が頻繁に起きる中、長年国際支援に打ち込んできた曾慈慧さん(中央)は被災地でニーズを聞き取り、NGO組織と連携して、支援を適時に届けている。

質問:慈済は二〇一〇年から「国連経済社会理事会との協議資格を持つNGO」として承認され、国際会議に参加し始めました。更に次々と国連環境計画(UNEP)のオブザーバー、国連信仰に基づく評議会(Multi-faith Advisory Council)の共同議長などを務めて来ました。慈済は台湾でも開発の遅れた地域を拠点にして発展した慈善団体ですが、今は世界の仲間入りを果たしています。各方面でSDGsを推進していくに当たって、あなたはどの経験が参考に値すると思いますか?

回答:慈済は二〇一〇年に「国連経済社会理事会NGO特別諮問委員」に登録され、初めて国連女性の地位委員会に出席しました。この十四年間、慈済の国連担当チームは、創設初期の「竹筒歳月」精神、即ち三十人の専業主婦が毎日買い物のお金の一部を貯金して人助けを行ってきた話を、この委員会で広めています。

毎年三月に開かれる女性の地位委員会は、二百カ国のNGOと私的グループが集まって、世界の女性の権益とジェンダーの平等のために、交流の場を提供しています。慈済は一九六六年に創設された後、證厳法師は花東(花蓮県・台東県)地域の原住民女性の苦境を目の当たりにし、一九八九年に慈済看護専門学校を創設して、少女たちの教育と社会的地位向上に尽くしたことは、既にジェンダーの平等を実践していたのです。

三十人の専業主婦による一日五十銭の貯金から、女性ボランティアによる人道支援に至るまでの歴史の軌跡と、今年の女性の地位委員会のテーマが繋がっているのです。毎年女性の地位委員会に参加しているため、慈済はよく五つの宗教団体と協力して、共同で宗教間会議を開催しています。

ここに至るまで、私たちは證嚴法師の指示に従い、問題の発見をアシストし、共通認識を築き、実際の行動を提案して来ました。例えば気候変動の危機に対し、慈済は二〇一二年に「国連気候変動枠組条約」に加入し、オブザーバーから正式メンバーになり、愛と善で以て、地球環境を変えられるようにと期待して、「111世界ベジタリアン啓発デー」(Ethical Eating Day)を提唱しました。

慈済は国連環境計画のオブザーバーになると、二度にわたり、ケニアで開催された総会に出席し、慈済の環境保護における成果を報告しました。特に重要なのは「この場を借りて、拍手する手でエコ活動しましょう」と呼びかけたことで、アフリカ諸国が次々と自主的にその理念を実行に移したことです。

国連のSDGs目標17は、「パートナーシップで目標を達成しよう」ですが、その詳細は、多元的にパートナシップを作って、持続可能性のビジョンを促すことです。そして、慈済が提案した「世界で共善する」は、正に正信を信仰する原則に基づいていますし、異なる組織と協力する意味を持っています。

慈済はコロナ禍やロシア・ウクライナ戦争の避難民支援という試練の中で、元来の直接行動である「自らの手で布施する」ことから、一千万ドルを提供してユニセフと協力し、辺境で難民の子どもや女性をケアすることまで実践しながら、十一の組織とグローバル・パートナーシップを築き上げました。今年は更にパートナシップを三十にまで広げ、世界医師会(WMA)、シエラレオネ共和国の国際カリタス基金会、カミリアン修道会、ノーバス(NOVUS、ウクライナ食糧組織)等と協力して支援を続けています。彼らとの協力は、国際的に重要な場で慈済を新たなレベルに引き上げるものであり、このようなボーダレスの大愛は、歴史においても重要な意義を持っています。

西アフリカのシエラレオネ共和国で、エボラ出血熱が流行してから9年間、慈済はフリータウンのカリタス基金会、ヒーリー国際救援基金会等と共に、現地に温かい食事を提供し、地域に就学リソースを増やそうと協力している。

慈済は政府に人道支援米を申請して21年間、既に20カ国に食糧支援を行って来た。モザンビークでは、愛の米が現地ボランティアによって定期的に配付され、普遍的に貧しく生活必需品も購入できない人々にとって、大きな助力となっている。そして今、多くの受益者がボランティアになっている。

質問:国際会議に出て、SDGsの趨勢と雰囲気をどのように感じましたか?二〇三〇年まであと六年しかありませんが、多くの目標プロセスの動きが遅いため、悲観的に感じていますか?

回答:二〇一五年九月の国連持続可能な開発サミットの時、一九三の加盟国が「持続可能な開発のための2030アジェンダ」を採決して、二〇三〇年までに精一杯、目標を達成することに同意し、会場で「人類の未来と私たちの地球の未来は、私たちの手中にある!」と宣言したことを覚えています。

今、時間は既に半分が過ぎました。半数以上のSDGsで、確かに具体的な進展は非常に遅く、三割の国は停滞或いは後退さえしています。とりわけ貧困、飢餓及び気候という肝心な目標でそのような状況になっています。

パンデミックとなったコロナ禍を経験し、気候変動、生物多様性の喪失及び汚染という三重の危機により、発展途上国は持続可能な開発目標に向かって、直ちに投資することができない状態です。例えば、健康と福祉、再生可能エネルギーなどで、多くの国と組織が多大な債務に喘いでいます。

持続可能な開発目標は、経済と地政学的な分岐を取り除き、更に信頼の回復と団結の再建に繋がります。しかし、この普遍的に認可されている路線図には、顕著な進展は見られません。つまり不平等が広がり続け、世界の分裂を拡大させるリスクがあるのです。それでも、どの国も2030アジェンダの失敗は許されないのです。

国連SDGsの進捗状況を振り返ると、予期した効果には達しておらず、多くのマイナスの声も聞こえますが、この指標の確立により、世界が協力し合ってこそ、より善い明日を創造するチャンスがあるのだと感じるようになりました。たとえ速度が緩やかで、気候変動の問題が改善できなくても、前に進むことこそが成功への第一歩なのです。

今、危機は転機でもあり、地球と人類の持続可能な開発は、皆で心を一つにして協力する必要があります。慈済が担っている役割は、コミュニティへの取り組みの継続にとどまらず、二〇三〇年になる前に、ビッグデータの成果分析により、学術界を統合し、国連が異なる分野を通して訴え、より多くの変化をもたらすべきなのです。「慈済の論述や国際認証」の提唱は、宗教観において重要な影響力があります。

上人が仰っているように、心して向き合い、一歩一歩着実に取り組んでいきます。前進し続け、正しいことを、実行するのです。

(慈済月刊六九二期より)

慈済のベテランボランティア、曾慈慧(ヅン・ツーフエィ)さんは、慈済の国連SDGsにおける活動を推進してきたパイオニアである。長年、慈済の国連担当チームを引率し、国際舞台で慈済の実践してきた人道支援や気候変動、環境保全、宗教間の協力及び女性のエンパワーメント等について紹介し、提言を行ってきた。

アメリカ在住が四十年以上に及ぶ彼女は、現在、慈済アメリカ総支部の執行長を務めている。何度も国連の関連会議に慈済の代表として出席し、地球環境の持続可能性について世界のエリートのコンセンサスと懸念を見極めてきた。彼女の目に映る慈済の発展は、SDGsとどのように関連し、対応し、融合しているのだろうか。

質問:二〇一五年に国連が「持続可能な開発目標」(SDGs)を掲げましたが、慈済志業とどこが通じていると思いますか?またどの項目が自己精進に役立つと思いますか?

回答:慈済は宗教団体の観点から、地域社会に関する慈善活動を推進してまいりましたし、国連は国家規模で、環境政策とリンクしながら持続可能性を推進しています。

二〇一五年のパリ協定以降、気候変動の危機が目に見えるものになってくると、それらを前提として、国連が推進している十七個の目標SDGsに一六九のターゲットが追加され、世界で延べ四千回近い普及活動が行われると共に、様々な国や機構で多種多様な改善プロジェクトが発表されました。

慈済は重点、直接、尊重、実用的等の原則をコミュニティに取り入れ、国連は策略、企画、普及活動を主な方向としています。両者は異なるレベルの運用と考え方で行っていますが、一つに融合できるのです。

例えば、慈済の「仕事を与えて支援に代える」と「腹八分目にして二分で人助け」という慈善活動は、「目標1・貧困をなくそう」に対応していますし、菜食を勧める活動は、「目標3・すべての人に健康と福祉を」と「目標14・海の豊かさを守ろう」と「目標15・陸の豊かさも守ろう」に対応しています。また、アフリカでの井戸掘り及びトイレの建設による衛生の改善は「目標6・安全な水とトイレを世界中に」に、環境保全活動から始まった循環経済の推進は「目標9・産業と技術革新の基盤を作ろう」に当てはまります。そして、慈済が様々な団体と連携して地域社会を守り、国境のない大愛の絆を繋いでいることは、即ち「目標17・パートナーシップで目標を達成しよう」になるのです。

これらSDGs指標のアクションには、深さ、幅、広さにおいて夫々特色があり、如何にしてコミュニティの草の根のデータを用いて説法し、政策面のニーズに呼応し、コミュニティの成長と変革への完全な促進を行うと共に、目安となる運用メカニズムを作り出し、他の組織や国に提供して参考にしてもらう事が、私たちが努力しなければならない方向なのです!

SDGs夫々の目標は相互に影響し合う。ジンバブエでは、一本の井戸が住民に清潔な水源を与えると同時に、健康と福祉、飢餓問題を改善する。(写真提供・朱金財)

質問:慈済のどの志業発展項目がSDGsと結びつき、あなたに深い印象を与えましたか?

回答:慈済志業と国連SDGsの目標及びターゲットとの関係についてですが、私たちがアフリカで実施している様々な貧困支援プロジェクトは、「目標6・安全な水とトイレを世界中に」、「目標5・ジェンダー平等を実現しよう」「目標4・質の高い教育をみんなに」、「目標3・全ての人に福祉と健康を」、「目標2・飢餓をゼロに」と結びつけることができます。シエラレオネ共和国や中南米のハイチ及び南アフリカ等の国々でも、力を入れて取り組んできました。

特にシエラレオネ共和国では、二〇一五年にエボラウイルスの感染が蔓延した時から支援を開始し、緊急段階で香積飯(即席飯)、福慧ベッド(折りたたみ式多機能ベッド)、エコ毛布などを提供すると同時に、公共衛生教育を推進し、現地の食糧生産を増やして飢餓の減少に努めました。更に助産師の養成プロジェクト、婦女の保健及び救済のエンパワーメントにまで支援の範囲を広げ、頻繁に発生する水害や火災等に対応しています。また、ポール盲学校を支援して、井戸をソーラーパネル付きに建て替え、安全な水資源を提供できるようにしました。

シエラレオネ共和国の慈済ボランティアはたいへん少ないのですが、現地の国際カリスタ、ヒーリー国際救援基金会(Healey International Relief Foundation)、ランイ基金会(Lanyi Foundation)、国連人口基金(UNFPA)、ユニセフ及び農業食糧署と連携し、共に地球環境のニーズに対応して一歩ずつ企画を進めて来た結果、現地には改善の兆しが顕著に見られるようになりました。まだ道程は長いですが、学生の学習の場と教育の機会へと広げており、貧しいシエラレオネ共和国には反転するチャンスがあります。

極端な気候災害が頻繁に起きる中、長年国際支援に打ち込んできた曾慈慧さん(中央)は被災地でニーズを聞き取り、NGO組織と連携して、支援を適時に届けている。

質問:慈済は二〇一〇年から「国連経済社会理事会との協議資格を持つNGO」として承認され、国際会議に参加し始めました。更に次々と国連環境計画(UNEP)のオブザーバー、国連信仰に基づく評議会(Multi-faith Advisory Council)の共同議長などを務めて来ました。慈済は台湾でも開発の遅れた地域を拠点にして発展した慈善団体ですが、今は世界の仲間入りを果たしています。各方面でSDGsを推進していくに当たって、あなたはどの経験が参考に値すると思いますか?

回答:慈済は二〇一〇年に「国連経済社会理事会NGO特別諮問委員」に登録され、初めて国連女性の地位委員会に出席しました。この十四年間、慈済の国連担当チームは、創設初期の「竹筒歳月」精神、即ち三十人の専業主婦が毎日買い物のお金の一部を貯金して人助けを行ってきた話を、この委員会で広めています。

毎年三月に開かれる女性の地位委員会は、二百カ国のNGOと私的グループが集まって、世界の女性の権益とジェンダーの平等のために、交流の場を提供しています。慈済は一九六六年に創設された後、證厳法師は花東(花蓮県・台東県)地域の原住民女性の苦境を目の当たりにし、一九八九年に慈済看護専門学校を創設して、少女たちの教育と社会的地位向上に尽くしたことは、既にジェンダーの平等を実践していたのです。

三十人の専業主婦による一日五十銭の貯金から、女性ボランティアによる人道支援に至るまでの歴史の軌跡と、今年の女性の地位委員会のテーマが繋がっているのです。毎年女性の地位委員会に参加しているため、慈済はよく五つの宗教団体と協力して、共同で宗教間会議を開催しています。

ここに至るまで、私たちは證嚴法師の指示に従い、問題の発見をアシストし、共通認識を築き、実際の行動を提案して来ました。例えば気候変動の危機に対し、慈済は二〇一二年に「国連気候変動枠組条約」に加入し、オブザーバーから正式メンバーになり、愛と善で以て、地球環境を変えられるようにと期待して、「111世界ベジタリアン啓発デー」(Ethical Eating Day)を提唱しました。

慈済は国連環境計画のオブザーバーになると、二度にわたり、ケニアで開催された総会に出席し、慈済の環境保護における成果を報告しました。特に重要なのは「この場を借りて、拍手する手でエコ活動しましょう」と呼びかけたことで、アフリカ諸国が次々と自主的にその理念を実行に移したことです。

国連のSDGs目標17は、「パートナーシップで目標を達成しよう」ですが、その詳細は、多元的にパートナシップを作って、持続可能性のビジョンを促すことです。そして、慈済が提案した「世界で共善する」は、正に正信を信仰する原則に基づいていますし、異なる組織と協力する意味を持っています。

慈済はコロナ禍やロシア・ウクライナ戦争の避難民支援という試練の中で、元来の直接行動である「自らの手で布施する」ことから、一千万ドルを提供してユニセフと協力し、辺境で難民の子どもや女性をケアすることまで実践しながら、十一の組織とグローバル・パートナーシップを築き上げました。今年は更にパートナシップを三十にまで広げ、世界医師会(WMA)、シエラレオネ共和国の国際カリタス基金会、カミリアン修道会、ノーバス(NOVUS、ウクライナ食糧組織)等と協力して支援を続けています。彼らとの協力は、国際的に重要な場で慈済を新たなレベルに引き上げるものであり、このようなボーダレスの大愛は、歴史においても重要な意義を持っています。

西アフリカのシエラレオネ共和国で、エボラ出血熱が流行してから9年間、慈済はフリータウンのカリタス基金会、ヒーリー国際救援基金会等と共に、現地に温かい食事を提供し、地域に就学リソースを増やそうと協力している。

慈済は政府に人道支援米を申請して21年間、既に20カ国に食糧支援を行って来た。モザンビークでは、愛の米が現地ボランティアによって定期的に配付され、普遍的に貧しく生活必需品も購入できない人々にとって、大きな助力となっている。そして今、多くの受益者がボランティアになっている。

質問:国際会議に出て、SDGsの趨勢と雰囲気をどのように感じましたか?二〇三〇年まであと六年しかありませんが、多くの目標プロセスの動きが遅いため、悲観的に感じていますか?

回答:二〇一五年九月の国連持続可能な開発サミットの時、一九三の加盟国が「持続可能な開発のための2030アジェンダ」を採決して、二〇三〇年までに精一杯、目標を達成することに同意し、会場で「人類の未来と私たちの地球の未来は、私たちの手中にある!」と宣言したことを覚えています。

今、時間は既に半分が過ぎました。半数以上のSDGsで、確かに具体的な進展は非常に遅く、三割の国は停滞或いは後退さえしています。とりわけ貧困、飢餓及び気候という肝心な目標でそのような状況になっています。

パンデミックとなったコロナ禍を経験し、気候変動、生物多様性の喪失及び汚染という三重の危機により、発展途上国は持続可能な開発目標に向かって、直ちに投資することができない状態です。例えば、健康と福祉、再生可能エネルギーなどで、多くの国と組織が多大な債務に喘いでいます。

持続可能な開発目標は、経済と地政学的な分岐を取り除き、更に信頼の回復と団結の再建に繋がります。しかし、この普遍的に認可されている路線図には、顕著な進展は見られません。つまり不平等が広がり続け、世界の分裂を拡大させるリスクがあるのです。それでも、どの国も2030アジェンダの失敗は許されないのです。

国連SDGsの進捗状況を振り返ると、予期した効果には達しておらず、多くのマイナスの声も聞こえますが、この指標の確立により、世界が協力し合ってこそ、より善い明日を創造するチャンスがあるのだと感じるようになりました。たとえ速度が緩やかで、気候変動の問題が改善できなくても、前に進むことこそが成功への第一歩なのです。

今、危機は転機でもあり、地球と人類の持続可能な開発は、皆で心を一つにして協力する必要があります。慈済が担っている役割は、コミュニティへの取り組みの継続にとどまらず、二〇三〇年になる前に、ビッグデータの成果分析により、学術界を統合し、国連が異なる分野を通して訴え、より多くの変化をもたらすべきなのです。「慈済の論述や国際認証」の提唱は、宗教観において重要な影響力があります。

上人が仰っているように、心して向き合い、一歩一歩着実に取り組んでいきます。前進し続け、正しいことを、実行するのです。

(慈済月刊六九二期より)

關鍵字

八月の出来事

08・01

◎慈済基金会はブラジル・リオグランデ‧ド‧スル州の水害被災者に関心を寄せた。1日から6日まで二回目の水害視察団がサンレオポルドなど甚大被災地を視察し、被災者リストを作成して配付を行うことを決定した。

◎慈済フィリピン支部のボランティアは、台風3号による被災世帯支援に駆けつけた。本日より配付と衛生教育活動を開始し、順次リサール州ロドリゲス市とサンマテオ市、ケソン市タタロン地区などで食料、日用品などの物資を配付すると共に、住居修繕用の建材費として、3人から4人家族の家庭には500ペソ(約1280円)、5人家族には1000ペソ(約2560円)の買い物券を配付した。11日現在で支援した人数は、被災した現地ボランティアと就学援助を受けた学生及び被災民など、合わせて4359世帯に上る。

08・03

嘉義市にある慈済合心災害対応センターは、台風3号で被災した住民に関心を寄せ、2日間続けて水上郷と新港郷で家庭訪問による寄り添いケアを行った。7月末の支援活動を含めて、1268世帯を支援し、1141世帯に祝福金を配付すると共に、甚大被害を受けた339世帯には緊急支援金を届けた。

08・05

7月24日、アメリカ・カリフォルニア州のチコ市近くで、公園火事が発生し、当州で史上二番目の規模の単一山火事に発展した。慈済ボランティアは1日に被災地の中で外部から出入りできるようになったコハセット市を視察し、5日チコ市に「地域支援センター」を立ち上げて、被災世帯の登録と被災状況に関心を寄せた。そして、10日、11日、17日、18日の四日間に被災世帯への緊急配付活動を行った。目前の困難を乗り越えられるよう、全壊、半壊、軽微損壊など家屋の損壊状況と家族構成に応じて、300ドルから1200ドルまでの現金カードを配付した。

08・07

7月14日フィリピン慈済施療センターは、カビデ州カルモナ市で住民に眼科の施療を提供した。387人が受診し、そのうちの172人が白内障や翼状片手術が必要と診断された。患者はフィリピン慈済施療センターとカルモナ市及び国会議員ロイ・ロヤラ事務所の合同支援プロジェクトによって無料で手術が受けられるようになった。8月7日と17日、21日に手術が行われ、本日までに99人が手術を終えた。

08・08

慈済基金会は第3回アジア太平洋持続可能博覧会で4つの賞を獲得した。台湾持続可能行動賞(TSAA)では、「安穏に暮らせる家・美善コミュニティ」プロジェクトがSDGs11「住み続けられるまちづくりを」において金賞を獲得し、「親子共読・健康ストーリーハウス」プロジェクトがSDGs4「質の高い教育をみんなに」 で銀賞を獲得した。また、アジア太平洋持続可能行動賞(APSAA)では、「不毛の地に愛を植え、慈済がマラウイの人々の自力更生を支援する」プロジェクトがSDGs1「貧困をなくそう」で銀賞を獲得し、顔博文執行長が最優秀持続可能性リーダー賞を獲得した。

08・09

インド慈済仏の国プロジェクトチームは、台北慈済委員兼栄誉董事である呉宜潔さんがブッダガヤの子供たちに寄贈した運動靴を受け取った。コンテナーは6月28日に中国アモイを出航し、8月2日に現地の港に入り、6日に通関を終えて9日にブッダガヤに到着した。本日、33人のボランティアと職員を動員して数量を点検し、6792足の入庫が完了した。8月17日に一回目の配付活動がティカビガ公立小学校で行われ、167人の生徒に手渡された。

08・10

慈済トルコ連絡拠点は本日、スルタンガジ市にあるマンナハイ国際学校で、三日間にわたる買い物カードの配付活動を行い、4500世帯のシリア難民家族を支援した。

08・14

◎慈済基金会がモザンビーク・ソファラ州ニャマタンダ郡のクラ大愛村で行われている住宅建設支援は、2023年末より現地の力で建設する方向に切り替え、「仕事を与えて支援に代える」方式で大愛住宅建設を行うボランティアを養成することにした。8月3日、30戸の住宅の引き渡し式典が行われた。そこには台湾水道局の技術を使った緩速ろ過施設(植物で濾過する貯水池)があり、生活用水の問題が改善された。8月13日に入居式が行われた。

◎モザンビーク・ソファラ州ニャマタンダ郡にある慈済メクジ大愛農場では、毎日60人のボランティアが働いており、収穫したものは地域の貧困家庭支援に使われている。慈済基金会が農場のために購入したトラクターは今日から使用が始まり、人力による農耕の負担を軽くすると共に開墾スピードがアップして自力更生が進んでいる。農場の土地はボランティアのフーディノさんが2021年に提供したもので、約200ヘクタールの面積がある。

08・15

国立中央大学天文研究所は2007年6月6日に、太陽系の火星と木星の間に位置する小惑星帯で、第555802番小惑星を発見し、国際天文学会の審査を受けて「證厳(Chengyen)」と命名され、本日刊行された『国際天文学連合の小天体命名ワーキンググループ会報(WGSBN Bulletin)』に告示した。当惑星は正式に国際永久番号の付いた名称「555802 Chengyen」で登録された。中国語での名称は「證厳小行星」である。

08・18

グアテマラ慈済ボランティアはチュアランチョ市に出向いて、459世帯の貧困家庭に食料と生活用品を配付して支援した。

08・22

日本の衆議院議員と自民党青年局長の鈴木貴子氏が70人の海外研修団員を伴って来訪した。花蓮静思堂で慈済の防災における人的、物的資源及び0403地震での支援内容を理解すると同時に、災害時に非常食となる即席飯を試食した。

08・01

◎慈済基金会はブラジル・リオグランデ‧ド‧スル州の水害被災者に関心を寄せた。1日から6日まで二回目の水害視察団がサンレオポルドなど甚大被災地を視察し、被災者リストを作成して配付を行うことを決定した。

◎慈済フィリピン支部のボランティアは、台風3号による被災世帯支援に駆けつけた。本日より配付と衛生教育活動を開始し、順次リサール州ロドリゲス市とサンマテオ市、ケソン市タタロン地区などで食料、日用品などの物資を配付すると共に、住居修繕用の建材費として、3人から4人家族の家庭には500ペソ(約1280円)、5人家族には1000ペソ(約2560円)の買い物券を配付した。11日現在で支援した人数は、被災した現地ボランティアと就学援助を受けた学生及び被災民など、合わせて4359世帯に上る。

08・03

嘉義市にある慈済合心災害対応センターは、台風3号で被災した住民に関心を寄せ、2日間続けて水上郷と新港郷で家庭訪問による寄り添いケアを行った。7月末の支援活動を含めて、1268世帯を支援し、1141世帯に祝福金を配付すると共に、甚大被害を受けた339世帯には緊急支援金を届けた。

08・05

7月24日、アメリカ・カリフォルニア州のチコ市近くで、公園火事が発生し、当州で史上二番目の規模の単一山火事に発展した。慈済ボランティアは1日に被災地の中で外部から出入りできるようになったコハセット市を視察し、5日チコ市に「地域支援センター」を立ち上げて、被災世帯の登録と被災状況に関心を寄せた。そして、10日、11日、17日、18日の四日間に被災世帯への緊急配付活動を行った。目前の困難を乗り越えられるよう、全壊、半壊、軽微損壊など家屋の損壊状況と家族構成に応じて、300ドルから1200ドルまでの現金カードを配付した。

08・07

7月14日フィリピン慈済施療センターは、カビデ州カルモナ市で住民に眼科の施療を提供した。387人が受診し、そのうちの172人が白内障や翼状片手術が必要と診断された。患者はフィリピン慈済施療センターとカルモナ市及び国会議員ロイ・ロヤラ事務所の合同支援プロジェクトによって無料で手術が受けられるようになった。8月7日と17日、21日に手術が行われ、本日までに99人が手術を終えた。

08・08

慈済基金会は第3回アジア太平洋持続可能博覧会で4つの賞を獲得した。台湾持続可能行動賞(TSAA)では、「安穏に暮らせる家・美善コミュニティ」プロジェクトがSDGs11「住み続けられるまちづくりを」において金賞を獲得し、「親子共読・健康ストーリーハウス」プロジェクトがSDGs4「質の高い教育をみんなに」 で銀賞を獲得した。また、アジア太平洋持続可能行動賞(APSAA)では、「不毛の地に愛を植え、慈済がマラウイの人々の自力更生を支援する」プロジェクトがSDGs1「貧困をなくそう」で銀賞を獲得し、顔博文執行長が最優秀持続可能性リーダー賞を獲得した。

08・09

インド慈済仏の国プロジェクトチームは、台北慈済委員兼栄誉董事である呉宜潔さんがブッダガヤの子供たちに寄贈した運動靴を受け取った。コンテナーは6月28日に中国アモイを出航し、8月2日に現地の港に入り、6日に通関を終えて9日にブッダガヤに到着した。本日、33人のボランティアと職員を動員して数量を点検し、6792足の入庫が完了した。8月17日に一回目の配付活動がティカビガ公立小学校で行われ、167人の生徒に手渡された。

08・10

慈済トルコ連絡拠点は本日、スルタンガジ市にあるマンナハイ国際学校で、三日間にわたる買い物カードの配付活動を行い、4500世帯のシリア難民家族を支援した。

08・14

◎慈済基金会がモザンビーク・ソファラ州ニャマタンダ郡のクラ大愛村で行われている住宅建設支援は、2023年末より現地の力で建設する方向に切り替え、「仕事を与えて支援に代える」方式で大愛住宅建設を行うボランティアを養成することにした。8月3日、30戸の住宅の引き渡し式典が行われた。そこには台湾水道局の技術を使った緩速ろ過施設(植物で濾過する貯水池)があり、生活用水の問題が改善された。8月13日に入居式が行われた。

◎モザンビーク・ソファラ州ニャマタンダ郡にある慈済メクジ大愛農場では、毎日60人のボランティアが働いており、収穫したものは地域の貧困家庭支援に使われている。慈済基金会が農場のために購入したトラクターは今日から使用が始まり、人力による農耕の負担を軽くすると共に開墾スピードがアップして自力更生が進んでいる。農場の土地はボランティアのフーディノさんが2021年に提供したもので、約200ヘクタールの面積がある。

08・15

国立中央大学天文研究所は2007年6月6日に、太陽系の火星と木星の間に位置する小惑星帯で、第555802番小惑星を発見し、国際天文学会の審査を受けて「證厳(Chengyen)」と命名され、本日刊行された『国際天文学連合の小天体命名ワーキンググループ会報(WGSBN Bulletin)』に告示した。当惑星は正式に国際永久番号の付いた名称「555802 Chengyen」で登録された。中国語での名称は「證厳小行星」である。

08・18

グアテマラ慈済ボランティアはチュアランチョ市に出向いて、459世帯の貧困家庭に食料と生活用品を配付して支援した。

08・22

日本の衆議院議員と自民党青年局長の鈴木貴子氏が70人の海外研修団員を伴って来訪した。花蓮静思堂で慈済の防災における人的、物的資源及び0403地震での支援内容を理解すると同時に、災害時に非常食となる即席飯を試食した。

關鍵字

明るい社会にする

慈善で社会を安定させ、医療で生命を守り、
教育で希望をもたらし、
人文で道徳を強固なものにすれば、
社会が高度成長する時、混乱を招くことはない。

学ぶ者が覚者に近づく

五月三十日、教育志策会で二校の合併の話題になると、上人は、「慈済の学校は元々一体です。当時のニーズに応えて慈済看護学校を設立したのであり、その後に医学院ができ、発展するにつれ慈済科技大学と慈済大学ができたのです。今は時代の要求に沿って統合する必要があり、教育の力を結集し、人文精神を一層高めなければなりません」と言いました。

上人は、「学」と「覚」の間には菩薩道があることに触れ、身で以て実践し、地に足をつけて歩んで初めて、徐々に「学ぶ者」から「覚者」に近づくことができるのだ、と言いました。「学生の本分は学ぶことで、教師の責任は教育であり、彼らを正しい方向に導き、立志して社会を利するようになれば、それが菩薩道を歩むことなのです」。

「教師は学生の心が明るくなるよう努め、広い心を持って美しい環境の中で生活させるべきです。心の環境が整えば、彼らが成長し、社会に出て人々と交流する時、真に社会のために種を蒔き、道を整えるようになり、彼らも次の世代に緑の生い茂った大道を残すことができるのです」。

上人はこう言いました、「慈済の学校は、建物の外観や校内の環境から教育の品質に至るまで、仏教精神に基づいているので、私は安心して見ていられます。志業を護持している全ての慈済人と、愛を奉仕している大衆に背いていないと思います」と言いました。

「生命は、一日が過ぎれば一日短くなりますが、私たちが累積した志業は、日増しに成長しています。校長先生や教師、慈済ボランティアの長年の奉仕に感謝しています。また、学生たちも菩薩であり、真面目に勉強し、教師からの教育を進んで受け入れ、師を尊敬して道を重んじる高い品性と人徳を有していることにも感謝しています」。

善で国を定めれば、最も美しい世界になる

五月三十一日、インドネシア慈済人と四大志業体の管理者たちが台湾に帰ってきました。インドネシア慈済人の足跡と心温まる話を振り返ると共に、四大志業の現況と推進成果の報告を受けました。

上人はこう開示しました。「一九九八年を振り返ると、インドネシアは金融危機の影響で経済が低迷し、人々の生活は疲弊していました。その上、現地の人と華僑の間に衝突が起き、社会は不安に陥りました。あれから二十六年が過ぎ、当該国は大きく変わり、現地の実業家たちが慈済に投入してからは、慈善活動の力が大きく発揮され、政府や軍と協力して貧困救済や災害支援を行っており、行動も素早く、全面的なケアをしています。僅か二十数年の間に、現地の慈済人は、慈善・医療・教育・人文の四大志業の拠点を完成させました。中でも、インドネシア大愛テレビ局は十七年前に開設され、メディアを通して愛と善による大愛の清流を広め、絶えず人心を浄化する良能を発揮し続けてきました」。

「インドネシア慈済人がこれほど早く四大志業を完成させ、それも一歩一歩地に足を着けて前進してきたことに、私は心から敬服し、感謝しています。黃奕聰(ホワン・イーツォン)老居士が精舍に来た年のことを覚えています。とても誠意のある方でした。大きな事業を行っているにも関わらず、尊大な振る舞いはなく、親しみがあって素朴な人でした。そして、インドネシア慈済の志業を大きく後押しし、華僑系の企業家たちを慈済に迎え入れました」。

「そして、アンケ川を忘れてはいけません。河川は当時とても汚く、違法建築でいっぱいでしたが、『五つの面から同時に』整備した結果、今は以前とは全く違ったものになっています。それはあなたたちの奉仕によるもので、この時代に、社会に対してどれだけ大きな貢献をしたかが分かります。現地の企業家たちが力を合わせ、社会の安定と経済発展に尽くしたことで、真の意味で安定した国になり、明るい社会になったのです」。

上人は、皆がその相互協力の精神を忘れず、四大志業を守って行くよう期待しています。「慈善は社会の安定を助け、医療は生命を守り、教育は人間(じんかん)に希望をもたらし、人文は仁、義、礼、智、信という人格的特性、即ち道徳性を揺るぎないものにします。そうすれば、社会が高度成長下にあっても、乱れることがないのです」。

また上人は、「これまであれほどの成功を収め、地に足をつけて、的確な方向を進んで来たのですから、これからも歩み続ければ、インドネシアの未来は計り知れないものになるでしょう。しかし、『善から興す』という言葉のように、その善良な心を忘れてはなりません。世界を制覇するのではなく、善を世界に広めるのです。あらゆる国が善から始まり、善で国を定めれば、最も美しい、素晴らしい世界になるでしょう。

(慈済月刊六九二期より)

慈善で社会を安定させ、医療で生命を守り、
教育で希望をもたらし、
人文で道徳を強固なものにすれば、
社会が高度成長する時、混乱を招くことはない。

学ぶ者が覚者に近づく

五月三十日、教育志策会で二校の合併の話題になると、上人は、「慈済の学校は元々一体です。当時のニーズに応えて慈済看護学校を設立したのであり、その後に医学院ができ、発展するにつれ慈済科技大学と慈済大学ができたのです。今は時代の要求に沿って統合する必要があり、教育の力を結集し、人文精神を一層高めなければなりません」と言いました。

上人は、「学」と「覚」の間には菩薩道があることに触れ、身で以て実践し、地に足をつけて歩んで初めて、徐々に「学ぶ者」から「覚者」に近づくことができるのだ、と言いました。「学生の本分は学ぶことで、教師の責任は教育であり、彼らを正しい方向に導き、立志して社会を利するようになれば、それが菩薩道を歩むことなのです」。

「教師は学生の心が明るくなるよう努め、広い心を持って美しい環境の中で生活させるべきです。心の環境が整えば、彼らが成長し、社会に出て人々と交流する時、真に社会のために種を蒔き、道を整えるようになり、彼らも次の世代に緑の生い茂った大道を残すことができるのです」。

上人はこう言いました、「慈済の学校は、建物の外観や校内の環境から教育の品質に至るまで、仏教精神に基づいているので、私は安心して見ていられます。志業を護持している全ての慈済人と、愛を奉仕している大衆に背いていないと思います」と言いました。

「生命は、一日が過ぎれば一日短くなりますが、私たちが累積した志業は、日増しに成長しています。校長先生や教師、慈済ボランティアの長年の奉仕に感謝しています。また、学生たちも菩薩であり、真面目に勉強し、教師からの教育を進んで受け入れ、師を尊敬して道を重んじる高い品性と人徳を有していることにも感謝しています」。

善で国を定めれば、最も美しい世界になる

五月三十一日、インドネシア慈済人と四大志業体の管理者たちが台湾に帰ってきました。インドネシア慈済人の足跡と心温まる話を振り返ると共に、四大志業の現況と推進成果の報告を受けました。

上人はこう開示しました。「一九九八年を振り返ると、インドネシアは金融危機の影響で経済が低迷し、人々の生活は疲弊していました。その上、現地の人と華僑の間に衝突が起き、社会は不安に陥りました。あれから二十六年が過ぎ、当該国は大きく変わり、現地の実業家たちが慈済に投入してからは、慈善活動の力が大きく発揮され、政府や軍と協力して貧困救済や災害支援を行っており、行動も素早く、全面的なケアをしています。僅か二十数年の間に、現地の慈済人は、慈善・医療・教育・人文の四大志業の拠点を完成させました。中でも、インドネシア大愛テレビ局は十七年前に開設され、メディアを通して愛と善による大愛の清流を広め、絶えず人心を浄化する良能を発揮し続けてきました」。

「インドネシア慈済人がこれほど早く四大志業を完成させ、それも一歩一歩地に足を着けて前進してきたことに、私は心から敬服し、感謝しています。黃奕聰(ホワン・イーツォン)老居士が精舍に来た年のことを覚えています。とても誠意のある方でした。大きな事業を行っているにも関わらず、尊大な振る舞いはなく、親しみがあって素朴な人でした。そして、インドネシア慈済の志業を大きく後押しし、華僑系の企業家たちを慈済に迎え入れました」。

「そして、アンケ川を忘れてはいけません。河川は当時とても汚く、違法建築でいっぱいでしたが、『五つの面から同時に』整備した結果、今は以前とは全く違ったものになっています。それはあなたたちの奉仕によるもので、この時代に、社会に対してどれだけ大きな貢献をしたかが分かります。現地の企業家たちが力を合わせ、社会の安定と経済発展に尽くしたことで、真の意味で安定した国になり、明るい社会になったのです」。

上人は、皆がその相互協力の精神を忘れず、四大志業を守って行くよう期待しています。「慈善は社会の安定を助け、医療は生命を守り、教育は人間(じんかん)に希望をもたらし、人文は仁、義、礼、智、信という人格的特性、即ち道徳性を揺るぎないものにします。そうすれば、社会が高度成長下にあっても、乱れることがないのです」。

また上人は、「これまであれほどの成功を収め、地に足をつけて、的確な方向を進んで来たのですから、これからも歩み続ければ、インドネシアの未来は計り知れないものになるでしょう。しかし、『善から興す』という言葉のように、その善良な心を忘れてはなりません。世界を制覇するのではなく、善を世界に広めるのです。あらゆる国が善から始まり、善で国を定めれば、最も美しい、素晴らしい世界になるでしょう。

(慈済月刊六九二期より)

關鍵字

マンナハイ国際学校は単に学校であるだけではない

マンナハイ国際学校で行われた2021年高等部女子クラスの卒業式。21人の卒業生が記念の時を写真に収めた。(撮影・ムハンマド・ニミル・アルジャマル)

トルコのマンナハイ国際学校は、シリア難民の子供を育むだけではなく、避難生活をしている彼らに学業を継続させ、また、シリア人教師たちに人間としての尊厳を取り戻させている。

中学校の校長を務め、立派な家で妻と一緒に四人の可愛い子供を育てていたムニルさんの人生は、三十代である程度の成功を収めていた。しかし、二〇一一年にシリア内戦が勃発すると、彼の故郷である、国境に近い町イドリブは、一夜にして各勢力が争う場所になった。戦火によって彼は恵まれた環境から離れることを余儀なくされ、残酷なことに、妻子と母親に別れを告げなければならなかった。二〇一五年転々した挙句、トルコのイスタンブールに辿り着いたが、彼の専門はまったく役に立たず、パン屋で働くことになった。

その年、慈済がイスタンブールのスルタンガジ市と協力して、シリア難民の子供たちのためにマンナハイ小・中学校を設立したことで、ムニルさんは再び教育界に戻ることができた。そしてボランティアになり、毎月数千世帯のシリア難民家族への配付を手伝った。さらに二〇二三年二月初めにトルコ・シリア地震が起こった時は、遠く被災地に赴いて支援活動に参加した。四十六歳になった時、彼はどうにかトルコで生活基盤ができたかのように見えたが、昨年、病気の母親を見舞いにイドリブヘ里帰りして別れる時に母親は、彼に次のように言った。「家族をしっかり守って、私のことも忘れないでね」。母親にとっても自分にとっても、困難はまだ消えていないのだ。

「マンナハイ」はアラビア語で「砂漠の中の泉」を意味しており、砂漠化とした教育環境にある子供たちに、知識の泉が見つかるようにという意味が込められている。マンナハイ国際学校は、二〇一八年にアメリカの学校認証機構による認定を獲得し、「トルコ・マンナハイ国際学校」と校名を改め、さらにトルコ教育部からも認定されたので、卒業生は各地で進学することができるようになった。去年末の統計によると、三百四十三人の卒業生を送り出し、そのうちの二百六十五人が大学へ進学した。その内訳は、医学関連学部に七十人、理工関連学部に百十四人、文学部と社会科学関連学部に八十一人が進学し、各領域に進学した時の成績は素晴らしいものだった。

生徒数は増え続けており、慈済はすでに校舎を新築するための土地を確保した。マンナハイ国際学校の教師たちは、トルコのボランティア十三人と共に、昨年十月台湾を訪れ、慈済の志業を参観した。教務主任と高校の校長を兼任しているムニルさんは、両校生徒の国際的な視野を広げるために、代表で台南慈済高校と協力覚書を交わした。

トルコに戻る前夜、彼は涙ながらにこう語った。歴史は数多くの人が愛と善の心で、数千人のシリアの子供たちを無知という暗闇から光明へと導いたことを記録するだろう。彼は、證厳法師とボランティアに、自分たちは愛を持ち帰り、いつの日か優れた卒業生を率いて再び台湾に戻り、彼らがどのようにして、慈済のおかげで非凡な人生を手に入れたかを分ち合うと約束した。

マンナハイ国際学校は、シリアの高知識人を招聘して良質な教育を提供している。写真は中等部の昨年11月の授業風景。(写真1 撮影・余自成、写真2 撮影・ムハンマド・ニミル・アルジャマル)

教職員が慈善の主力になった

シリアの内戦は十二年も続き、三十万人以上が亡くなり、約一千三百万人余りが、家を離れて避難している。トルコは世界で最も多くのシリア難民を受け入れている国であり、その数は三百七十万人に達している。

トルコボランティアの胡光中(フー・グォンヅォン)さんと周如意(ヅォウ・ルーイー)さん、余自成(ユー・ヅーチェン)さんの三人は、二〇一四年からシリア人家庭へ支援を始めた。学びの機会を失った子供たちを一軒一軒訪問して探し、彼らのために学校設立に奔走した。子供たちは幼い頃から戦火を逃れ、定住する場所のない生活を強いられ、ひいては異郷で臨時雇いとなって一家の生計を担うまでになった。彼らは所有していたものを失ったが、後に、慈済からの補助金で学業を続けることができ、再びこの世の助け合いと愛を感じたのだった。

「マンナハイは、学校であるだけではありません。私はここで愛の心を身につけ、ボランティアをする機会に恵まれたのです。私たちは、その愛を教師や生徒たちに伝え、一緒に異国で避難生活を乗り越えるのです」。小学校の事務室主任のダナさんは、「内戦の前はゆとりのある暮らしをしていて、そのような生活がいつまでも変わらないと思っていました。しかし、トルコに密入国してから、マンナハイで教職に就くまで、辛い日々を過ごしました」と言った。一般の学校では、シリア人の子供はアラビア語を学ぶことができないが、マンナハイは彼らに、母語での勉強を続けられるようにした。

マンナハイ国際学校は、三カ国語の教育を提供している。アラビア語の学習は、シリアの生徒が母国の文化的ルーツを理解することに繋がる。難民となった教師が、難民の子供たちに母国語で教え、バトンを渡している。一方、トルコ語を身につければ、トルコの社会に溶け込むことができる、英語は世界と接することができるのだ。その他、学校では選択科目として中国語を提供している。中国語を身につけて、證厳法師に直接分かち合いたいと思い、中国語を学ぶ生徒は少なくない。

マンナハイの卒業生や難民の子供が大学に合格した場合、家庭に経済的な困難があれば、慈済は毎月の生活費として、千から三千リラを支援し、学費も三割から五割を補助する。彼らが卒業して、社会に入って安定した仕事に就いてほしいと願っている。

マンナハイは一年生から十二年生まであり、登校する生徒とオンライン授業を受ける者を合わせると五千人を超え、教職員は約三百人いる。遠距離教育の責任者であるイハムさんによると、オンラインで学習している人は三千人に上り、シリアを離れられない子供や出かけられない女性たちも含まれている。

計画中の新校舍には、国際小・中学部と私立高等部を設立する予定であり、トルコの恵まれない生徒を受け入れる。シリア人教師らは、同胞の世話をするだけでなく、慈済が現地で善行をする時の主力ボランティアになっている。彼らは慈済を代表してレバノンやポーランドに赴いて支援をしただけでなく、トルコの貧しい人々にも関心を寄せ、援助を受けた人が人助けする人に変わった。

異郷の日々は辛いことばかり

十月中旬、台湾に来たシリア人教師たちは、既にトルコ国籍を取得しているので、出国することができた。今回の旅の主要な目的は、教育経験の交流であるが、最も期待しているのは、證厳法師との面会である。故郷に戻れない悲しみと愛しい身内と離れ離れになる辛さ、そして先の見えない中で失うことの苦しさも再会の喜びも経験した。それらを法師に打ち明けた時、誰もが涙を禁じ得なかった。

「あの日のことは、生涯忘れることはありません。私の勤めていた学校が爆撃に遭い、多くの人が目の前で亡くなり、至る所が血だらけでした。一体一体の遺体を跨ぎながら、自分の子供がここで見つかるかもしれないことを恐れていました……やっと隅で泣いている娘を見つけ、彼女を懷の中に強く抱きしめ、祖国を離れなければならないことを知りました」。イハムさんは、慈済の支援を受けて、自分の子供がトルコで一番の大学に合格した、と言った。ある時、子供たちの会話を聞いた。「慈済は私たちを助けてくれたけど、どうやってお恩返しをすればいいかな」。「心配しないで。歯学部を卒業したら、私たちも慈済の人医会に参加して、世界各地で人助けをするのよ。これこそが私たちの恩返しよ!」。

学生事務を担当するジヤドさんは、この内戦は全く理解できないと言う。「私たちは平和を愛する人間で、私たちの身の上に戦争が降りかかるとは思ってもいませんでした。二〇一七年、私はトルコに密入国した後、マンナハイ学校に出会って、やっと自分の天職である教師の仕事に戻ることができ、仕事と収入が得られてから、妻と子供を順番にトルコに密入国させることができました。その辛い歳月の中、慈済と皆さんが味方になってくれたことに感謝しています」。

副校長のアフマドさんの兄と叔父は、残酷な拷問で亡くなった。二年後、彼は兄の臨終の写真を受け取った。額には番号が書かれてあった。いつ死ぬのか分からないのが怖く、彼らは国外へ逃亡することを決意した。「イスタンブールに密入国しましたが、私と兄の六人の子供、両親の合計十人で、行く宛はありませんでした。当時私は五十歳近くでしたから、私を雇ってくれる工場はありませんでした。やっと慈済が私にチャンスを与えてくれ、マンナハイの先生になりました」。

出勤の初日、彼はボランティアとなった。毎日午後三時に授業を終えると、難民世帯への訪問ケアを手伝い、夜の十時にやっと帰宅した。二〇二〇年にレバノンの首都べイルートで大爆発事故が起きた後、彼は慈済を代表して被災地支援に赴き、毛布を配付した。「その時、私は何年も前に慈済から毛布を五枚もらったことを思い出しました。あの晩、家族全員は温かさに包まれました」。

現在、教師たちが生活で一番困っているのは、家賃の負担である。トルコ・シリア地震の後、イスタンブールへの流入人ロが増え、さらにインフレなどの要因が加わり、家賃は大幅に上昇した。一日に三度変わることもあり、三倍ひいては七倍にまで上昇し、払えなければ直ちに追い出され、慈済の事務所でさえ同じ境遇を味わった。家賃が給料の金額に近くなっているため、彼らはできるだけ生活費を切り詰めなければ、シリアの家族に仕送りできないので、毎日大変な日々を過ごしている。

訪問に同行した慈済ボランティアの胡光中(フー・グォンヅォン)さんは、次のように述べた。教師たちの人生は、持っていたものを全て無くしたが、慈済に出会ったことで、再び持てる人になれた。人間としての尊厳は、難民登録番号だけではなかったのだ。今回の旅のために、教師たちはそれぞれ取っておきの贈り物を持参した。戦火を逃れた故郷の木の工芸品や母の手編みの芸術作品、また、生徒が描いた絵もあり、彼らの気持ちを表していた。正にダナさんの言うように、「私たちは母国を離れ、トルコで新しい家に辿り着きました。その家は慈済という名前です」。(資料提供・林昱汝、周如意、余自成)

(慈済月刊六八五期より)

トルコのマンナハイ国際学校は、昨年10月に台南慈済高校を訪問し、協力覚書を交わした。人文講座で教師と生徒が交流し、記念写真を撮っていた。(攝影・陳達生)

マンナハイ国際学校で行われた2021年高等部女子クラスの卒業式。21人の卒業生が記念の時を写真に収めた。(撮影・ムハンマド・ニミル・アルジャマル)

トルコのマンナハイ国際学校は、シリア難民の子供を育むだけではなく、避難生活をしている彼らに学業を継続させ、また、シリア人教師たちに人間としての尊厳を取り戻させている。

中学校の校長を務め、立派な家で妻と一緒に四人の可愛い子供を育てていたムニルさんの人生は、三十代である程度の成功を収めていた。しかし、二〇一一年にシリア内戦が勃発すると、彼の故郷である、国境に近い町イドリブは、一夜にして各勢力が争う場所になった。戦火によって彼は恵まれた環境から離れることを余儀なくされ、残酷なことに、妻子と母親に別れを告げなければならなかった。二〇一五年転々した挙句、トルコのイスタンブールに辿り着いたが、彼の専門はまったく役に立たず、パン屋で働くことになった。

その年、慈済がイスタンブールのスルタンガジ市と協力して、シリア難民の子供たちのためにマンナハイ小・中学校を設立したことで、ムニルさんは再び教育界に戻ることができた。そしてボランティアになり、毎月数千世帯のシリア難民家族への配付を手伝った。さらに二〇二三年二月初めにトルコ・シリア地震が起こった時は、遠く被災地に赴いて支援活動に参加した。四十六歳になった時、彼はどうにかトルコで生活基盤ができたかのように見えたが、昨年、病気の母親を見舞いにイドリブヘ里帰りして別れる時に母親は、彼に次のように言った。「家族をしっかり守って、私のことも忘れないでね」。母親にとっても自分にとっても、困難はまだ消えていないのだ。

「マンナハイ」はアラビア語で「砂漠の中の泉」を意味しており、砂漠化とした教育環境にある子供たちに、知識の泉が見つかるようにという意味が込められている。マンナハイ国際学校は、二〇一八年にアメリカの学校認証機構による認定を獲得し、「トルコ・マンナハイ国際学校」と校名を改め、さらにトルコ教育部からも認定されたので、卒業生は各地で進学することができるようになった。去年末の統計によると、三百四十三人の卒業生を送り出し、そのうちの二百六十五人が大学へ進学した。その内訳は、医学関連学部に七十人、理工関連学部に百十四人、文学部と社会科学関連学部に八十一人が進学し、各領域に進学した時の成績は素晴らしいものだった。

生徒数は増え続けており、慈済はすでに校舎を新築するための土地を確保した。マンナハイ国際学校の教師たちは、トルコのボランティア十三人と共に、昨年十月台湾を訪れ、慈済の志業を参観した。教務主任と高校の校長を兼任しているムニルさんは、両校生徒の国際的な視野を広げるために、代表で台南慈済高校と協力覚書を交わした。

トルコに戻る前夜、彼は涙ながらにこう語った。歴史は数多くの人が愛と善の心で、数千人のシリアの子供たちを無知という暗闇から光明へと導いたことを記録するだろう。彼は、證厳法師とボランティアに、自分たちは愛を持ち帰り、いつの日か優れた卒業生を率いて再び台湾に戻り、彼らがどのようにして、慈済のおかげで非凡な人生を手に入れたかを分ち合うと約束した。

マンナハイ国際学校は、シリアの高知識人を招聘して良質な教育を提供している。写真は中等部の昨年11月の授業風景。(写真1 撮影・余自成、写真2 撮影・ムハンマド・ニミル・アルジャマル)

教職員が慈善の主力になった

シリアの内戦は十二年も続き、三十万人以上が亡くなり、約一千三百万人余りが、家を離れて避難している。トルコは世界で最も多くのシリア難民を受け入れている国であり、その数は三百七十万人に達している。

トルコボランティアの胡光中(フー・グォンヅォン)さんと周如意(ヅォウ・ルーイー)さん、余自成(ユー・ヅーチェン)さんの三人は、二〇一四年からシリア人家庭へ支援を始めた。学びの機会を失った子供たちを一軒一軒訪問して探し、彼らのために学校設立に奔走した。子供たちは幼い頃から戦火を逃れ、定住する場所のない生活を強いられ、ひいては異郷で臨時雇いとなって一家の生計を担うまでになった。彼らは所有していたものを失ったが、後に、慈済からの補助金で学業を続けることができ、再びこの世の助け合いと愛を感じたのだった。

「マンナハイは、学校であるだけではありません。私はここで愛の心を身につけ、ボランティアをする機会に恵まれたのです。私たちは、その愛を教師や生徒たちに伝え、一緒に異国で避難生活を乗り越えるのです」。小学校の事務室主任のダナさんは、「内戦の前はゆとりのある暮らしをしていて、そのような生活がいつまでも変わらないと思っていました。しかし、トルコに密入国してから、マンナハイで教職に就くまで、辛い日々を過ごしました」と言った。一般の学校では、シリア人の子供はアラビア語を学ぶことができないが、マンナハイは彼らに、母語での勉強を続けられるようにした。

マンナハイ国際学校は、三カ国語の教育を提供している。アラビア語の学習は、シリアの生徒が母国の文化的ルーツを理解することに繋がる。難民となった教師が、難民の子供たちに母国語で教え、バトンを渡している。一方、トルコ語を身につければ、トルコの社会に溶け込むことができる、英語は世界と接することができるのだ。その他、学校では選択科目として中国語を提供している。中国語を身につけて、證厳法師に直接分かち合いたいと思い、中国語を学ぶ生徒は少なくない。

マンナハイの卒業生や難民の子供が大学に合格した場合、家庭に経済的な困難があれば、慈済は毎月の生活費として、千から三千リラを支援し、学費も三割から五割を補助する。彼らが卒業して、社会に入って安定した仕事に就いてほしいと願っている。

マンナハイは一年生から十二年生まであり、登校する生徒とオンライン授業を受ける者を合わせると五千人を超え、教職員は約三百人いる。遠距離教育の責任者であるイハムさんによると、オンラインで学習している人は三千人に上り、シリアを離れられない子供や出かけられない女性たちも含まれている。

計画中の新校舍には、国際小・中学部と私立高等部を設立する予定であり、トルコの恵まれない生徒を受け入れる。シリア人教師らは、同胞の世話をするだけでなく、慈済が現地で善行をする時の主力ボランティアになっている。彼らは慈済を代表してレバノンやポーランドに赴いて支援をしただけでなく、トルコの貧しい人々にも関心を寄せ、援助を受けた人が人助けする人に変わった。

異郷の日々は辛いことばかり

十月中旬、台湾に来たシリア人教師たちは、既にトルコ国籍を取得しているので、出国することができた。今回の旅の主要な目的は、教育経験の交流であるが、最も期待しているのは、證厳法師との面会である。故郷に戻れない悲しみと愛しい身内と離れ離れになる辛さ、そして先の見えない中で失うことの苦しさも再会の喜びも経験した。それらを法師に打ち明けた時、誰もが涙を禁じ得なかった。

「あの日のことは、生涯忘れることはありません。私の勤めていた学校が爆撃に遭い、多くの人が目の前で亡くなり、至る所が血だらけでした。一体一体の遺体を跨ぎながら、自分の子供がここで見つかるかもしれないことを恐れていました……やっと隅で泣いている娘を見つけ、彼女を懷の中に強く抱きしめ、祖国を離れなければならないことを知りました」。イハムさんは、慈済の支援を受けて、自分の子供がトルコで一番の大学に合格した、と言った。ある時、子供たちの会話を聞いた。「慈済は私たちを助けてくれたけど、どうやってお恩返しをすればいいかな」。「心配しないで。歯学部を卒業したら、私たちも慈済の人医会に参加して、世界各地で人助けをするのよ。これこそが私たちの恩返しよ!」。

学生事務を担当するジヤドさんは、この内戦は全く理解できないと言う。「私たちは平和を愛する人間で、私たちの身の上に戦争が降りかかるとは思ってもいませんでした。二〇一七年、私はトルコに密入国した後、マンナハイ学校に出会って、やっと自分の天職である教師の仕事に戻ることができ、仕事と収入が得られてから、妻と子供を順番にトルコに密入国させることができました。その辛い歳月の中、慈済と皆さんが味方になってくれたことに感謝しています」。

副校長のアフマドさんの兄と叔父は、残酷な拷問で亡くなった。二年後、彼は兄の臨終の写真を受け取った。額には番号が書かれてあった。いつ死ぬのか分からないのが怖く、彼らは国外へ逃亡することを決意した。「イスタンブールに密入国しましたが、私と兄の六人の子供、両親の合計十人で、行く宛はありませんでした。当時私は五十歳近くでしたから、私を雇ってくれる工場はありませんでした。やっと慈済が私にチャンスを与えてくれ、マンナハイの先生になりました」。

出勤の初日、彼はボランティアとなった。毎日午後三時に授業を終えると、難民世帯への訪問ケアを手伝い、夜の十時にやっと帰宅した。二〇二〇年にレバノンの首都べイルートで大爆発事故が起きた後、彼は慈済を代表して被災地支援に赴き、毛布を配付した。「その時、私は何年も前に慈済から毛布を五枚もらったことを思い出しました。あの晩、家族全員は温かさに包まれました」。

現在、教師たちが生活で一番困っているのは、家賃の負担である。トルコ・シリア地震の後、イスタンブールへの流入人ロが増え、さらにインフレなどの要因が加わり、家賃は大幅に上昇した。一日に三度変わることもあり、三倍ひいては七倍にまで上昇し、払えなければ直ちに追い出され、慈済の事務所でさえ同じ境遇を味わった。家賃が給料の金額に近くなっているため、彼らはできるだけ生活費を切り詰めなければ、シリアの家族に仕送りできないので、毎日大変な日々を過ごしている。

訪問に同行した慈済ボランティアの胡光中(フー・グォンヅォン)さんは、次のように述べた。教師たちの人生は、持っていたものを全て無くしたが、慈済に出会ったことで、再び持てる人になれた。人間としての尊厳は、難民登録番号だけではなかったのだ。今回の旅のために、教師たちはそれぞれ取っておきの贈り物を持参した。戦火を逃れた故郷の木の工芸品や母の手編みの芸術作品、また、生徒が描いた絵もあり、彼らの気持ちを表していた。正にダナさんの言うように、「私たちは母国を離れ、トルコで新しい家に辿り着きました。その家は慈済という名前です」。(資料提供・林昱汝、周如意、余自成)

(慈済月刊六八五期より)

トルコのマンナハイ国際学校は、昨年10月に台南慈済高校を訪問し、協力覚書を交わした。人文講座で教師と生徒が交流し、記念写真を撮っていた。(攝影・陳達生)

關鍵字

苦楽を共にする人生で 自分の幸福を祈ってください

(絵・陳九熹)

人生は苦ばかりと言いますが、お互いに関心を寄せ合いながら暮らしていれば幸福と言えます。

自分自身を祝福しましょう。日々良い人と一緒に、よい言葉を聞き、善いことをしてください。更に自分が行って来た善行を共有すれば、それを振り返るほど、嬉しくなるでしょう。

六月、行脚のために花蓮を離れて、南回りで北まで充実した三十一日間を過ごしました。皆さんの人生を見つめ直す話は、聞けば聞くほど喜びを感じるのです。皆さんが幸いにも慈済に参加し、慈済が世界中に残した足跡にはその諸々を見ることができ、慈済が支援した衆生には、皆さんの貢献が見て取れます。私も過去を振り返り、「幸いなことに、とても価値のある人生でした」と自分に言い聞かせています。

慈済人が地域道場と慈済病院を守っているのを見ると、愛の力はとても強固であることが分かり、何十年も変わっていません。また、環境保全ボランティアは早朝から出かけて、時間を気にかけることもなく、見返りを求めず奉仕するだけでなく、心から「感謝します」と言います。その功徳は、実に計り知れないものです。また、途中で菩薩の皆さんの精進した話を聞き、高齢や貧困、病に苦しんでいる人を目にします。ベテランボランティアとして、三、四十年にわたって慈済に参加していますが、心して一途に慈済の志業に投入し、たとえ体は衰えても、慧命は中断することなく、慈済精神を維持し続けており、誠に心強いばかりです。もちろん残念なこともあります。病気で会いに来られない人もいますし、もう会えない人もいます。弟子が先に逝ったことを聞くと、本当に名残惜しいものです。しかし、智慧を働かせ、全ては自然の法則であると自分に言い聞かせています。そして、弟子が自在に行き来し、安らかで自在になり、気にかけることも悩みもなくなるよう、敬虔に祝福してあげるのです。

人生に悔いは残っても、今まで長い年月をかけて、私たちが共通の愛の心を結集して来たからこそ、世界中に慈済が広まったのです。私たちは皆、この人生を価値のあるものにして来ました。仏法に出会い、慈済に加わり、人間(じんかん)の菩薩道で励んでいます。命は、一日過ぎると一日減りますが、慧命は成長しており、世代から世代へと受け継いで、愛の歴史を作り続けるのです。

人生には節目があり、若い時は立ち止まることなく勉強し、正しい考えを認識できるようになるのが、最も幸せなことです。現代社会の趨勢は、若者は進学や就職に家を離れ、そして新しい家庭を築き、年長者は、一人暮らしや老夫婦で生活しています。少年から中年、そして老齢期になる過程では、楽しいながらも多くの人は煩悩を抱えています。貧しい人も裕福な人も、思い通りにならないことはたくさんあります。人生は苦ばかりと言いますが、人々がお互いに関心を寄せ合い、仲良く暮らしていけば、それで幸福だと言えます。

年齢を重ねるほど、一層時間を無駄にしてはいけません。リサイクルステーションや支部に行って、毎日良い言葉を口にし、成して来た善行の話をしながら、手を動かし、頭を働かせ、楽しくしていれば、自ずと健康になります。寿命は無量であるため、自信を持ち、その長さを気に掛けず、自分を祝福するのです。

「私は幸せです。毎日善人と会い、よい言葉を聞き、自分がして来た善行は覚えていてくれ、心には憂い事も不満もなく、満ち足りた心でいつも楽しい」と。

毎日皆さんの分かち合いを聞くのは、それぞれの家庭の「経」を聞くようなものです。或る家庭は事情がやや難解で、私の前に来ると、皆に向かって訴えます。そうすると、以前は自分が一番苦しいと思っていた人が、思いもよらず、もっと苦しい人がいることを知れば、甘んじて今の状況を受け入れよう、と思うようになるでしょう。煩悩を感謝に変え、自分を困らせた人が、自分を忍耐強い人間に変えてくれたことに感謝しましょう。

生の喜びと老の無力感は、人生の本質のようなものです。子供や孫ができると、とても喜び、孫が幼い時は、私たちの意見をまだ聞いてくれます。孫が成長するにつれ、私たちも世話がやける老人になります。しかし、人生は過ぎれば終わりなのではなく、福は増やしても、煩悩を増やしてはいけません。

もし、損得勘定が高く、先が見通せず、執着してばかりいるならば、常々障害が絶えず、苦しみ続けるでしょう。無明が増え続ければ、今生で苦しむだけでなく、悪縁が来世にもたらされ、更に苦しむことになるでしょう。人生は「風や雨」が付きものです。私たちは自分で風を遮り、雨を避けるところを見つけ、そして、無明を取り除く方法を学ばなければなりません。

行脚に同行した職員たちは毎晩、世界の様々な情報を整理して提供してくれました。自然界では四大元素のバランスが崩れ、人の心も調和せず、複雑に交差しています。即ち、「衆生の共業(ぐうごう、多くの生物に共通する果報を引き起こす業)」です。このようなことに対して、いつも感慨深いものがあり、私は、止まることなく、残された命を善用し、時間のある限り、より多くのことをしよう、と自分に警鐘を鳴らしています。

世の中には苦難が多く、いつも善と悪が綱引きをしていますが、善の力が大きければ、人は平穏に健康でいられます。しかし、もし悪の力が強ければ、善も引っぱられてしまいます。どうすればバランスが取れるのでしょうか?お互いに引っ張り合わず、愛で以て譲り合い、礼儀正しく、誠心誠意で接すれば、美しい世界を作り上げることができるのです。

地球の温暖化は深刻で、気温は上昇し続けています。私たちが使っている物は、殆どが大地を破壊して、それを切断したり、製造されたりして出来たものです。生活の利便性を享受しながらも、地球の生態系のことを忘れてはいけません。消費を減らし、質素な生活をし、殺生を無くして菜食をし、善行を多く行い、悪行を減らさなければいけません。愛のエネルギーは尽きることがなく、体力が続く限り、善行を続ければいいのです。皆さんの精進を願っています。

(慈済月刊六九三期より)

(絵・陳九熹)

人生は苦ばかりと言いますが、お互いに関心を寄せ合いながら暮らしていれば幸福と言えます。

自分自身を祝福しましょう。日々良い人と一緒に、よい言葉を聞き、善いことをしてください。更に自分が行って来た善行を共有すれば、それを振り返るほど、嬉しくなるでしょう。

六月、行脚のために花蓮を離れて、南回りで北まで充実した三十一日間を過ごしました。皆さんの人生を見つめ直す話は、聞けば聞くほど喜びを感じるのです。皆さんが幸いにも慈済に参加し、慈済が世界中に残した足跡にはその諸々を見ることができ、慈済が支援した衆生には、皆さんの貢献が見て取れます。私も過去を振り返り、「幸いなことに、とても価値のある人生でした」と自分に言い聞かせています。

慈済人が地域道場と慈済病院を守っているのを見ると、愛の力はとても強固であることが分かり、何十年も変わっていません。また、環境保全ボランティアは早朝から出かけて、時間を気にかけることもなく、見返りを求めず奉仕するだけでなく、心から「感謝します」と言います。その功徳は、実に計り知れないものです。また、途中で菩薩の皆さんの精進した話を聞き、高齢や貧困、病に苦しんでいる人を目にします。ベテランボランティアとして、三、四十年にわたって慈済に参加していますが、心して一途に慈済の志業に投入し、たとえ体は衰えても、慧命は中断することなく、慈済精神を維持し続けており、誠に心強いばかりです。もちろん残念なこともあります。病気で会いに来られない人もいますし、もう会えない人もいます。弟子が先に逝ったことを聞くと、本当に名残惜しいものです。しかし、智慧を働かせ、全ては自然の法則であると自分に言い聞かせています。そして、弟子が自在に行き来し、安らかで自在になり、気にかけることも悩みもなくなるよう、敬虔に祝福してあげるのです。

人生に悔いは残っても、今まで長い年月をかけて、私たちが共通の愛の心を結集して来たからこそ、世界中に慈済が広まったのです。私たちは皆、この人生を価値のあるものにして来ました。仏法に出会い、慈済に加わり、人間(じんかん)の菩薩道で励んでいます。命は、一日過ぎると一日減りますが、慧命は成長しており、世代から世代へと受け継いで、愛の歴史を作り続けるのです。

人生には節目があり、若い時は立ち止まることなく勉強し、正しい考えを認識できるようになるのが、最も幸せなことです。現代社会の趨勢は、若者は進学や就職に家を離れ、そして新しい家庭を築き、年長者は、一人暮らしや老夫婦で生活しています。少年から中年、そして老齢期になる過程では、楽しいながらも多くの人は煩悩を抱えています。貧しい人も裕福な人も、思い通りにならないことはたくさんあります。人生は苦ばかりと言いますが、人々がお互いに関心を寄せ合い、仲良く暮らしていけば、それで幸福だと言えます。

年齢を重ねるほど、一層時間を無駄にしてはいけません。リサイクルステーションや支部に行って、毎日良い言葉を口にし、成して来た善行の話をしながら、手を動かし、頭を働かせ、楽しくしていれば、自ずと健康になります。寿命は無量であるため、自信を持ち、その長さを気に掛けず、自分を祝福するのです。

「私は幸せです。毎日善人と会い、よい言葉を聞き、自分がして来た善行は覚えていてくれ、心には憂い事も不満もなく、満ち足りた心でいつも楽しい」と。

毎日皆さんの分かち合いを聞くのは、それぞれの家庭の「経」を聞くようなものです。或る家庭は事情がやや難解で、私の前に来ると、皆に向かって訴えます。そうすると、以前は自分が一番苦しいと思っていた人が、思いもよらず、もっと苦しい人がいることを知れば、甘んじて今の状況を受け入れよう、と思うようになるでしょう。煩悩を感謝に変え、自分を困らせた人が、自分を忍耐強い人間に変えてくれたことに感謝しましょう。

生の喜びと老の無力感は、人生の本質のようなものです。子供や孫ができると、とても喜び、孫が幼い時は、私たちの意見をまだ聞いてくれます。孫が成長するにつれ、私たちも世話がやける老人になります。しかし、人生は過ぎれば終わりなのではなく、福は増やしても、煩悩を増やしてはいけません。

もし、損得勘定が高く、先が見通せず、執着してばかりいるならば、常々障害が絶えず、苦しみ続けるでしょう。無明が増え続ければ、今生で苦しむだけでなく、悪縁が来世にもたらされ、更に苦しむことになるでしょう。人生は「風や雨」が付きものです。私たちは自分で風を遮り、雨を避けるところを見つけ、そして、無明を取り除く方法を学ばなければなりません。

行脚に同行した職員たちは毎晩、世界の様々な情報を整理して提供してくれました。自然界では四大元素のバランスが崩れ、人の心も調和せず、複雑に交差しています。即ち、「衆生の共業(ぐうごう、多くの生物に共通する果報を引き起こす業)」です。このようなことに対して、いつも感慨深いものがあり、私は、止まることなく、残された命を善用し、時間のある限り、より多くのことをしよう、と自分に警鐘を鳴らしています。

世の中には苦難が多く、いつも善と悪が綱引きをしていますが、善の力が大きければ、人は平穏に健康でいられます。しかし、もし悪の力が強ければ、善も引っぱられてしまいます。どうすればバランスが取れるのでしょうか?お互いに引っ張り合わず、愛で以て譲り合い、礼儀正しく、誠心誠意で接すれば、美しい世界を作り上げることができるのです。

地球の温暖化は深刻で、気温は上昇し続けています。私たちが使っている物は、殆どが大地を破壊して、それを切断したり、製造されたりして出来たものです。生活の利便性を享受しながらも、地球の生態系のことを忘れてはいけません。消費を減らし、質素な生活をし、殺生を無くして菜食をし、善行を多く行い、悪行を減らさなければいけません。愛のエネルギーは尽きることがなく、体力が続く限り、善行を続ければいいのです。皆さんの精進を願っています。

(慈済月刊六九三期より)

關鍵字

心を等しく豊かに導き、貧困を無くそう

編集者の言葉

持続可能という言葉が、世界中で流行っている。今世界の国や企業、民間団体は、取り組みや物作りにおいて、皆、国連の唱える十七の持続可能な開発目標(以下SDGs)に合わせるようにしており、それにより運用過程や結果における影響は全て生態系に優しくなり、衆生を利する方向に進もうとしている。

慈済が志業を推進し始めてから、今年で五十九年目になる。慈善、医療、教育、環境保全、地域ボランティア及び国際災害支援等の項目を含め、その多くの活動が、二〇一六年から国連が唱えているSDGsに、偶然にも一致している。慈済の各志業体が網羅する活動範囲は、人類の地球上における生活と生産及び生態などに関係しており、この三つとも互いに密接に繋がって、助け合って、成り立っているので、正にSDGsの構成内容その物になっている。

月刊誌『慈済』は七月号から、慈済志業の発展がSDGsに対応している記事を連載する。先ず五十八年間にわたる慈善支援から始まり、慈済慈善志業で尽くしてきた地域社会の貧困改善の実践とその理念、特色を考え、そして、それらとSDGs「目標1、貧困をなくそう」との関連と影響について紹介している。

慈済が台湾で行っている慈善志業の内容は、日に日に多様化して完成したと言える。例えば、病による貧困に対して、慈済は実際に経済面と医療面の支援が必要だと捉えている。教育問題では、評価してから学費や雑費の支援、或いは課外補習を提供している。そして、家に短期や長期にわたって自立した生活ができない人や寝たきりの人がいる場合は、エコ福祉用具プラットフォームを通じて直ちに必要な設備を届けることができる。一人暮らしの高齢者や障害者の住環境に問題があれば、修繕を行う。

上述の慈善志業モデルは、対象者に合わせた「オーダーメイド」のようなものであり、具体的に各世帯が直面している問題に対応して、解決策を講じている。そして、慈済のこの「地域慈善ネットワーク」は、政府の社会福祉で及ばない所を補い、民間の慈善パワーによって、弱者が目前の困難な状況を脱し、いつか貧困から抜け出して、安定した生活を軌道に乗せ、余力があれば、人助けができるよう期待するものである。

慈済の地域慈善が行っている諸々は、その本質がSDGs1に沿っていると共に、貧困の撲滅と困窮した生活の改善の外、慈済の慈善は彼らが考え方や価値観、人生観を変えることに期待したものである。

短期的な困窮に対する支援にしろ、長期的な貧困や病に苦しむ人への支援にしろ、慈済の貧富に関する考え方は、基本的生活に必要な物資の確保をするだけでなく、それ以上に心に愛と善があることを大切にしている。なぜならこれこそが、「等しい豊かさ」というプラスエネルギーだからだ。そして、このような世の中になってこそ、真に貧困の終わりという目標に到達できると言える。このような慈善モデルは、早くから世界各国の慈済ボランティアによって「コピー」されて広がり、同じ原則に基づいて世界各地で慈善活動が行われ、貧困を覆してきたのだ。

(慈済月刊六九二期より)

編集者の言葉

持続可能という言葉が、世界中で流行っている。今世界の国や企業、民間団体は、取り組みや物作りにおいて、皆、国連の唱える十七の持続可能な開発目標(以下SDGs)に合わせるようにしており、それにより運用過程や結果における影響は全て生態系に優しくなり、衆生を利する方向に進もうとしている。

慈済が志業を推進し始めてから、今年で五十九年目になる。慈善、医療、教育、環境保全、地域ボランティア及び国際災害支援等の項目を含め、その多くの活動が、二〇一六年から国連が唱えているSDGsに、偶然にも一致している。慈済の各志業体が網羅する活動範囲は、人類の地球上における生活と生産及び生態などに関係しており、この三つとも互いに密接に繋がって、助け合って、成り立っているので、正にSDGsの構成内容その物になっている。

月刊誌『慈済』は七月号から、慈済志業の発展がSDGsに対応している記事を連載する。先ず五十八年間にわたる慈善支援から始まり、慈済慈善志業で尽くしてきた地域社会の貧困改善の実践とその理念、特色を考え、そして、それらとSDGs「目標1、貧困をなくそう」との関連と影響について紹介している。

慈済が台湾で行っている慈善志業の内容は、日に日に多様化して完成したと言える。例えば、病による貧困に対して、慈済は実際に経済面と医療面の支援が必要だと捉えている。教育問題では、評価してから学費や雑費の支援、或いは課外補習を提供している。そして、家に短期や長期にわたって自立した生活ができない人や寝たきりの人がいる場合は、エコ福祉用具プラットフォームを通じて直ちに必要な設備を届けることができる。一人暮らしの高齢者や障害者の住環境に問題があれば、修繕を行う。

上述の慈善志業モデルは、対象者に合わせた「オーダーメイド」のようなものであり、具体的に各世帯が直面している問題に対応して、解決策を講じている。そして、慈済のこの「地域慈善ネットワーク」は、政府の社会福祉で及ばない所を補い、民間の慈善パワーによって、弱者が目前の困難な状況を脱し、いつか貧困から抜け出して、安定した生活を軌道に乗せ、余力があれば、人助けができるよう期待するものである。

慈済の地域慈善が行っている諸々は、その本質がSDGs1に沿っていると共に、貧困の撲滅と困窮した生活の改善の外、慈済の慈善は彼らが考え方や価値観、人生観を変えることに期待したものである。

短期的な困窮に対する支援にしろ、長期的な貧困や病に苦しむ人への支援にしろ、慈済の貧富に関する考え方は、基本的生活に必要な物資の確保をするだけでなく、それ以上に心に愛と善があることを大切にしている。なぜならこれこそが、「等しい豊かさ」というプラスエネルギーだからだ。そして、このような世の中になってこそ、真に貧困の終わりという目標に到達できると言える。このような慈善モデルは、早くから世界各国の慈済ボランティアによって「コピー」されて広がり、同じ原則に基づいて世界各地で慈善活動が行われ、貧困を覆してきたのだ。

(慈済月刊六九二期より)

關鍵字

フィリピン・ダバオ市 バナナが豊作の時

北ダバオ州の山間部にある部落の住民は、有機バナナの栽培による貧困支援プロジェクトに参加している。慈済が品種の選択から技術指導、流通販売まで協力して来たことで、収入が徐々に安定して来ている。

住民らは一日に一食も保証されなかった生活から、今では三食で米が食べられるようになった。

北ダバオ州サント・ニーニョ部落の住民は、慈済の農業による脱貧困プロジェクトに参加し、ボランティアの協力の下、生活を改善するモデルを切り拓いた。(撮影・Harold Alzaga)

私だけではなく、ここのバナナ農家は皆とても幸せです」。エリックさんは部落の農家と一緒に生い茂ったバナナ園で収穫をしていた。大きなバナナの房を担いで山を下り、川を渡った。ダバオとマニラのボランティアも豊作の喜びを分かち合いながら、バナナを運ぶ手伝いをした。

二〇二二年以前、このような光景は、三人の子供を持つ若い父親であるエリックさんにとって、遠い夢話だった。北ダバオ州タラインゴッド・サントニーニョの原住民居住地はダバオ市から車で約三時間半の距離にあり、広い山間地区では雇用機会が乏しく、住民は付加価値の低いトウモロコシやマニラ麻を栽培し、収穫した物を他の所に輸送するが低い値段でしか売れず、運賃を差し引いた後のお金は殆ど手元に残らなかった。トウモロコシは四カ月毎に収穫するので、一世帯の平均所得は月五百ベソ(約1300円)だった。それだけでは四カ月も生活できないので、山菜や芋でお腹を満たしていた。山奥の山村は電気、交通などインフラも整備されてなく、村民は病気になっても下山して治療を受けるお金さえなかった。

二〇二〇年十月、慈済ボランティアは、コロナ禍による経済的な困窮を緩和するための物資を持って来た時、部落は貧しくて活気がなく、住民の目が虚ろだったことに気づいた。「『家徒四壁』と言う言葉がありますが、ここは竹で編んだ家の壁が三方しかなかったのです」とボランティアの呉麗君(ウー・リージュン)さんが言った。

慈済は、長期的な生計問題を解決する時、物資の支援だけに頼るのではなく、「喉の渇きを解決してあげるよりも、井戸を掘ることを教える」という例えを基本としている。そこで、二〇二二年一月に、慈済の農業による脱貧困プロジェクトを始めた。農業専門のボランティアである蔡天保(ツァイ・ティエンバオ)さんは、農産物加工分野で、食品原料の中で最も不足していたバナナの品種を選び、慈済が苗木を提供すると同時に、農民に有機栽培の技術を伝授した。

この地域の百十一世帯のうち、一部は既に若い男性が出稼ぎに行っているので、四十一世帯がプロジェクトに参加した。有機肥料を使った環境に優しい農耕法で栽培しており、バナナの木の成長が遅くても、質、量共に申し分ない。二〇二三年八月にはすでに実がなり、収穫した後にまた新しい芽が出た。栽培面積が拡大するにつれ、四カ月で二千五百株のバナナの木から一万五千キロの収穫があった。ボランティアは輸送を手伝うだけでなく、市場より高い値段で買い取って、食糧市場に投入した。

「この一年間、村民の生活が向上したので、私も本当に感動しました」。プロジェクトを担当するのは、ダバオボランティアのアリエルさんだ。

「このプロジェクトの良い点は、持続可能であることです。真面目に続ければ、土地も住民をも利します」。

アルマンドさんによると、家族は以前一日一食の生活で、長い間、米が食べられない時期もあったという。「しかし今は違います。三食とも米のご飯が食べられ、時には子供に小遣いもあげられるようになりました」。

村人の収入が安定して増えると共に、部落には電気が通るようになった。エリックさんはテレビを買ったことで、部落外の世界の出来事が分かるようになった。「疲れて帰って来て、家族と一緒にテレビを見るのは素晴らしいことです」。子供に飴を買ってあげることもできるようになった。「父親として、子供に生活必需品を買ってあげられないのは、とても辛いことでした。今、子供の嬉しそうな顔を見ることができて、私も嬉しいです!」。

エリックさんとアルマンドさんは、分割払いで中古バイクを買い、農作物を麓まで運んだり、市場へ買い出しに行ったりするようになった。「以前は市場へ行くのに徒歩で六時間掛かっていました。今は三十分で行けます」とアルマンドさんがホッとした様子で言った。「子供に良い教育を受けさせ、良い暮らしをさせたい」、これはアルマンドさんにとって夢のような生活だったが、今、この土地は一家を養い、未来が見える場所となっている。

(慈済月刊六九二期より)

北ダバオ州の山間部にある部落の住民は、有機バナナの栽培による貧困支援プロジェクトに参加している。慈済が品種の選択から技術指導、流通販売まで協力して来たことで、収入が徐々に安定して来ている。

住民らは一日に一食も保証されなかった生活から、今では三食で米が食べられるようになった。

北ダバオ州サント・ニーニョ部落の住民は、慈済の農業による脱貧困プロジェクトに参加し、ボランティアの協力の下、生活を改善するモデルを切り拓いた。(撮影・Harold Alzaga)

私だけではなく、ここのバナナ農家は皆とても幸せです」。エリックさんは部落の農家と一緒に生い茂ったバナナ園で収穫をしていた。大きなバナナの房を担いで山を下り、川を渡った。ダバオとマニラのボランティアも豊作の喜びを分かち合いながら、バナナを運ぶ手伝いをした。

二〇二二年以前、このような光景は、三人の子供を持つ若い父親であるエリックさんにとって、遠い夢話だった。北ダバオ州タラインゴッド・サントニーニョの原住民居住地はダバオ市から車で約三時間半の距離にあり、広い山間地区では雇用機会が乏しく、住民は付加価値の低いトウモロコシやマニラ麻を栽培し、収穫した物を他の所に輸送するが低い値段でしか売れず、運賃を差し引いた後のお金は殆ど手元に残らなかった。トウモロコシは四カ月毎に収穫するので、一世帯の平均所得は月五百ベソ(約1300円)だった。それだけでは四カ月も生活できないので、山菜や芋でお腹を満たしていた。山奥の山村は電気、交通などインフラも整備されてなく、村民は病気になっても下山して治療を受けるお金さえなかった。

二〇二〇年十月、慈済ボランティアは、コロナ禍による経済的な困窮を緩和するための物資を持って来た時、部落は貧しくて活気がなく、住民の目が虚ろだったことに気づいた。「『家徒四壁』と言う言葉がありますが、ここは竹で編んだ家の壁が三方しかなかったのです」とボランティアの呉麗君(ウー・リージュン)さんが言った。

慈済は、長期的な生計問題を解決する時、物資の支援だけに頼るのではなく、「喉の渇きを解決してあげるよりも、井戸を掘ることを教える」という例えを基本としている。そこで、二〇二二年一月に、慈済の農業による脱貧困プロジェクトを始めた。農業専門のボランティアである蔡天保(ツァイ・ティエンバオ)さんは、農産物加工分野で、食品原料の中で最も不足していたバナナの品種を選び、慈済が苗木を提供すると同時に、農民に有機栽培の技術を伝授した。

この地域の百十一世帯のうち、一部は既に若い男性が出稼ぎに行っているので、四十一世帯がプロジェクトに参加した。有機肥料を使った環境に優しい農耕法で栽培しており、バナナの木の成長が遅くても、質、量共に申し分ない。二〇二三年八月にはすでに実がなり、収穫した後にまた新しい芽が出た。栽培面積が拡大するにつれ、四カ月で二千五百株のバナナの木から一万五千キロの収穫があった。ボランティアは輸送を手伝うだけでなく、市場より高い値段で買い取って、食糧市場に投入した。

「この一年間、村民の生活が向上したので、私も本当に感動しました」。プロジェクトを担当するのは、ダバオボランティアのアリエルさんだ。

「このプロジェクトの良い点は、持続可能であることです。真面目に続ければ、土地も住民をも利します」。

アルマンドさんによると、家族は以前一日一食の生活で、長い間、米が食べられない時期もあったという。「しかし今は違います。三食とも米のご飯が食べられ、時には子供に小遣いもあげられるようになりました」。

村人の収入が安定して増えると共に、部落には電気が通るようになった。エリックさんはテレビを買ったことで、部落外の世界の出来事が分かるようになった。「疲れて帰って来て、家族と一緒にテレビを見るのは素晴らしいことです」。子供に飴を買ってあげることもできるようになった。「父親として、子供に生活必需品を買ってあげられないのは、とても辛いことでした。今、子供の嬉しそうな顔を見ることができて、私も嬉しいです!」。

エリックさんとアルマンドさんは、分割払いで中古バイクを買い、農作物を麓まで運んだり、市場へ買い出しに行ったりするようになった。「以前は市場へ行くのに徒歩で六時間掛かっていました。今は三十分で行けます」とアルマンドさんがホッとした様子で言った。「子供に良い教育を受けさせ、良い暮らしをさせたい」、これはアルマンドさんにとって夢のような生活だったが、今、この土地は一家を養い、未来が見える場所となっている。

(慈済月刊六九二期より)

關鍵字

善と悪の綱引き 迷いと悟りの間で

ホームシックになった人が、刑務所から出て間もないというのに、再び罪を犯して、刑務所に戻ってしまうのはなぜだろうか?

蔡美恵(ツァイ・メイフェイ)さんは、二十年前に抱いていた疑問を解決しようと、ケア活動に参加した。彼女の所属するボランティアチームは、まるで菩薩が娑婆の世界を行き来するように、闇と混乱に囚われた心を仏法の灯で照らすため、刑務所を往復している。

慈済ボランティアは定期的に屏東刑務所で読書会を行っている。2013年、人助けしたいという受刑者が、切手を寄付した。

屏東にある小さな寝具店。ベッドや寝具が並べられているが、一般と大きく違うのは、端正な筆文字で書かれた『般若心経』や、厳かな顔の菩薩像などの掛け軸が壁一面に飾られていることだ。

「これらの書画は獄中の『受刑中の菩薩』から贈られたものです。店内の壁に飾りきれないほどの数があって、多くは巻物にしてしまってあります」と店主の蔡さんが笑顔で語った。

蔡さんは、十二年近く刑務所の受刑者を世話してきた慈済ボランティアである。きっかけは二十年前、出所後再び罪を犯してすぐに戻ってしまうというニュースを数日間続けてテレビで見た時だった。

突然、慈悲心が芽生え、「彼らは刑期中、とてもホームシックになったはずなのに、なぜ出所すると、繰り返し罪を犯すのだろう」と彼女は思った。信仰の拠り所を見つけられなかったからに違いないと推測した。当時、彼女はまだ慈済委員として認証を授かっていなかったが、既に證厳法師の開示を聞いており、「受刑者の人々と友達になって、彼らが自分を肯定し、未来を創造する自信を築けるよう、刑務所を訪ねる機会が得られるように!」と心の中で願った。

二〇〇九年、蔡さんは願いが叶って、慈済人になった。翌年、屏東区教師懇親会の窓口である徐雲彩(シュー・ユンツァイ)さんが刑務所ケアの任務を引き継ぎ、蔡さんを誘った。驚きと喜びの中、八年間も心の中に抱いていた思いは口に出さなかったが、縁とは不思議なもので、彼女は即座に「やります」と誓った。

二〇一一年、彼女らは「信じる力」チームを結成し、毎月、屏東刑務所で読書会を開いた。「善行と親孝行は待ったなし」、「布施は金持ちの特権ではなく、志がある人が参加して行うもの」などの静思語が、徐々に善の効果を表し始めた。受刑者たちが切手を寄付したことで、チームは切手の貯金箱を設計した。更に額面千四百元という、彼らの半年間の刑務作業手当に相当する手形を二枚も受け取ったことがあった。蔡さんは、彼らの服役期間は変えられないが、心を入れ変えて、迷いから悟りへと変わる手伝いをしたい、と言った。十二年間通い続け、既に六人もの受刑者が、出所後、慈済の慈誠隊員になった。

罪の代償は辛いもの

一通の手紙が蔡さん宛てに送られてきたことで、ケアチームに特別な任務が与えられた。

「美恵菩薩師姐へ、私事で言うべきかどうか散々悩みました。家の事なのですが、祖母が転んで怪我してしまいました。刑務所にいて何もできない自分をすごく責めています。できることなら、師姐が私の代わりに様子を見に行ってくれないでしょうか」。何度も薬物使用を繰り返した阿盛からの手紙だった。

二〇一六年に遡って、彼は刑務所内で、あるニュースを見たそうだ。慈済ボランティアが台風被災者を訪問した時のもので、彼の故郷を訪れていたのだ。写真に隣のお婆さんの姿が写っていたが、会いたかった祖母の姿がなかったので、心配になった。そして、初めてボランティアが彼の代わりに家庭訪問をしてくれた。

今回、ケアチームのボランティアは、屏東県内埔から一番南端の恒春まで、七つほどの町を通らなければならなかった。以前一度訪れたことはあったが、車は再び田舎道で迷ってしまい、カーナビを使って暫く探して、やっと阿盛の実家を見つけた。

「おばあちゃん!まだ私たちのことを覚えていますか?」 と蔡さんがドアから暗い室内に向かって声を掛けた。中から黒ずんだ手が伸びてきて、蔡さんの手に重ねた。「また来てくれたのかい!」。お祖母さんは笑顔を浮かべて出て来ると、頷きながら、「この前は、うちの阿盛のことで来たのだったね」と言った。

ボランティアたちは、ポーチの椅子に座ると、「平安」の文字のストラップを取り出してお祖母さんに贈った。「文字の下の方に小さな鈴が付いています。平安が訪れますよ」。蔡さんは、お祖母さんが手に持った赤いストラップは、生気のない孤独な日々に彩りを添えたようだ、と思った。

「この前、私たちが来た時、おばあちゃんの写真を撮ったことを覚えていますか?その写真を現像して阿盛に見せたら、大喜びしていましたよ」。蔡さんは、お祖母さんの肩に腕を回しながら言った。

「おばあちゃんの写真を見たら、会いたいと言って泣き続けていました」。

お祖母さんはため息をついて、仕方なさそうに首を横に振りながら言った。

「物事の善悪が分からない子で、心配ばかり掛けるのです」。

蔡さんはお祖母さんを慰めながら言った。

「彼はおばあちゃんにとても会いたがっています。ですから、おばあちゃんも彼を祝福してあげてください。今日もおばあちゃんの写真を撮って、阿盛に見せてあげますからね。おばあちゃんは九十歳でも、まだとても健康で、穏やかに暮らしていることも、伝えますから」。

蔡さんが焼きそばを作って持って来たので、みんなで家族のように、お祖母さんと食べながらおしゃべりをした。普段は静かな家が、温かい言葉で愛の温もりに満ち溢れた。

家族の思いが伝わらない苦しさ

「誰かいらっしゃいますか」。蔡さんたちは、遠路はるばる、受刑者阿鋭の家にたどり着いた。二年前に阿鋭のお父さんが亡くなった時、阿鋭は葬儀に参列できなかったので、ボランティアに頼んで、写経したものを家へ持って帰ってもらうことで、父親の冥福を祈った。

阿鋭の長兄に会うと、母親に会わせてほしいと蔡さんが訪問の意を伝えたが、残念なことに母親は手術のために入院していた。長兄は黙ったままで、顔は低く被った帽子のつばに隠れて半分しか出していなかったので、表情はよく見えなかった。

「お兄さんは、阿鋭の刑期がどれくらいかご存知ですか?」と蔡さんが小声で聞いた。

すると長兄は、「彼のことには全く興味がありません!」。阿鋭が刑務所入りを繰り返していたので、ほとんど諦めていたのだった。「私たちは三人兄弟で、あの子は末っ子ですが、一番性根が悪いのです。今度は違法薬物を販売したのですから、長いですよ。七年半です!」

その家庭は、母親が入院していて、祖母は認知症で、阿鋭の兄嫁が亡くなったばかりだった。主に責任を担っている長兄は、本当に心身ともに疲れきっているようだった。寄り添ってここまでに来てくれたボランティアたちを前に、長兄はもう耐えられなくなり、震える声で言った。

「彼が悔い改めてさえくれれば、それで十分だ、と彼に伝えてください」。無力感と心の痛みの全てが、この瞬間に涙となって流れ出した。

「分かりました。代わりに伝えます。悔い改めるように、と。お兄さんも体に気を付けてください!お母さんとお祖母さんはあなたが頼りですし、弟さんと妹さんも同じです」と、蔡さんは長兄の手を握りながら、優しく慰めた。長兄は涙を拭いて言った。

「この一言だけ伝えてくれればいいのです。他には何も持って行かなくていいですから」。

帰る前に、ボランティアは長兄に付き添い、一緒にご先祖の位牌に手を合わせた。

「お父さん、お祖父さん、明日お母さんの手術が無事に終わるよう、守ってください」。お兄さんは疲れ切った顔で、合掌した。続いて蔡さんが、阿鋭の代わりに祈った。

「お母さんの手術が無事に終わりますように。歴代のご先祖様、守ってくださるようお願いします」。

今回の訪問で、ボランティアたちは阿鋭の長兄のストレスと疲れを感じ取ることができた。蔡さんは、阿鋭に手紙を書いた。

「昨日、あなたの実家に行ってきました。お祖母さんは相変わらず元気ですが、お母さんは、前回転んだことが原因で入院していました。二人のお兄さんが心を込めて看病と介護をしていますので、安心してください。しっかり刑期を務め、出所後は善行と親孝行をして、新しく人生をやり直して下さい」。短い手紙だが、阿鋭の長兄の深い思いと、蔡さんが阿鋭を善行に導きたい気持ちが込められていた。

蔡美恵(左)、徐雲彩(右)の付き添いで、2013年、鐘烱元(中央)は出所後、真っ先に慈済屏東支部に来て仏様を拝んだ。

泥の中に蓮の花が咲けば、辛くない

受刑者の家族ケアで行き来する蔡さんだが、辛くはないそうだ。

「家族に会いたくても、何らかの事情で会いに行けないことは、誰にでもあります。その時、代わりに行ってくれる人がいて、声を掛けてくれれば、とても意義があると感じます」と彼女が言った。

ケアチームの管轄範囲は屏東刑務所、屏東拘置所、台南拘置所、台南刑務所、高雄矯正施設などである。鐘烱元(ヅォン・ジョンユェン)さんは屏東で受刑中に蔡さんと良縁を結び、獄中で「二度と受刑者菩薩にはならない!」と誓った。「人間菩薩になってね!」と、蔡さんが祝福した。道に迷って戻って来た鐘さんは、屏東刑務所に来てくれたボランティアたちに感謝した。今の彼があるのは、ボランティアのおかげだと言う。彼がこの決意を携えて高雄第二刑務所と矯正施設に行き、立ち直った前科者の体験者として証言したのは、六年後のことだった。二〇二一年には、総統府から旭青獎が表彰された。

證厳法師は刑務所ケアチームの努力を肯定した。

「この世に悪い人はいません。過ちを犯した人がいるだけです。慈済は面倒や困難を恐れず、彼らが豊かな心の福田を育てられるよう、道に迷った人を正しい方向に導いているのです」。

刑務所を訪れるボランティアたちは、まるで娑婆の世界を行ったり来たりする菩薩のように、暗い道に迷った人々の心を灯で照らしているのだ。受刑者がボランティアたちの誠実で長く続く愛と寄り添いを感じた時、泥の中に清らかな蓮の花が咲くのである。(資料の提供・楊舜斌、大愛テレビ番組「アクションライブ」)

(慈済月刊六八六期より)

ホームシックになった人が、刑務所から出て間もないというのに、再び罪を犯して、刑務所に戻ってしまうのはなぜだろうか?

蔡美恵(ツァイ・メイフェイ)さんは、二十年前に抱いていた疑問を解決しようと、ケア活動に参加した。彼女の所属するボランティアチームは、まるで菩薩が娑婆の世界を行き来するように、闇と混乱に囚われた心を仏法の灯で照らすため、刑務所を往復している。

慈済ボランティアは定期的に屏東刑務所で読書会を行っている。2013年、人助けしたいという受刑者が、切手を寄付した。

屏東にある小さな寝具店。ベッドや寝具が並べられているが、一般と大きく違うのは、端正な筆文字で書かれた『般若心経』や、厳かな顔の菩薩像などの掛け軸が壁一面に飾られていることだ。

「これらの書画は獄中の『受刑中の菩薩』から贈られたものです。店内の壁に飾りきれないほどの数があって、多くは巻物にしてしまってあります」と店主の蔡さんが笑顔で語った。

蔡さんは、十二年近く刑務所の受刑者を世話してきた慈済ボランティアである。きっかけは二十年前、出所後再び罪を犯してすぐに戻ってしまうというニュースを数日間続けてテレビで見た時だった。

突然、慈悲心が芽生え、「彼らは刑期中、とてもホームシックになったはずなのに、なぜ出所すると、繰り返し罪を犯すのだろう」と彼女は思った。信仰の拠り所を見つけられなかったからに違いないと推測した。当時、彼女はまだ慈済委員として認証を授かっていなかったが、既に證厳法師の開示を聞いており、「受刑者の人々と友達になって、彼らが自分を肯定し、未来を創造する自信を築けるよう、刑務所を訪ねる機会が得られるように!」と心の中で願った。

二〇〇九年、蔡さんは願いが叶って、慈済人になった。翌年、屏東区教師懇親会の窓口である徐雲彩(シュー・ユンツァイ)さんが刑務所ケアの任務を引き継ぎ、蔡さんを誘った。驚きと喜びの中、八年間も心の中に抱いていた思いは口に出さなかったが、縁とは不思議なもので、彼女は即座に「やります」と誓った。

二〇一一年、彼女らは「信じる力」チームを結成し、毎月、屏東刑務所で読書会を開いた。「善行と親孝行は待ったなし」、「布施は金持ちの特権ではなく、志がある人が参加して行うもの」などの静思語が、徐々に善の効果を表し始めた。受刑者たちが切手を寄付したことで、チームは切手の貯金箱を設計した。更に額面千四百元という、彼らの半年間の刑務作業手当に相当する手形を二枚も受け取ったことがあった。蔡さんは、彼らの服役期間は変えられないが、心を入れ変えて、迷いから悟りへと変わる手伝いをしたい、と言った。十二年間通い続け、既に六人もの受刑者が、出所後、慈済の慈誠隊員になった。

罪の代償は辛いもの

一通の手紙が蔡さん宛てに送られてきたことで、ケアチームに特別な任務が与えられた。

「美恵菩薩師姐へ、私事で言うべきかどうか散々悩みました。家の事なのですが、祖母が転んで怪我してしまいました。刑務所にいて何もできない自分をすごく責めています。できることなら、師姐が私の代わりに様子を見に行ってくれないでしょうか」。何度も薬物使用を繰り返した阿盛からの手紙だった。

二〇一六年に遡って、彼は刑務所内で、あるニュースを見たそうだ。慈済ボランティアが台風被災者を訪問した時のもので、彼の故郷を訪れていたのだ。写真に隣のお婆さんの姿が写っていたが、会いたかった祖母の姿がなかったので、心配になった。そして、初めてボランティアが彼の代わりに家庭訪問をしてくれた。

今回、ケアチームのボランティアは、屏東県内埔から一番南端の恒春まで、七つほどの町を通らなければならなかった。以前一度訪れたことはあったが、車は再び田舎道で迷ってしまい、カーナビを使って暫く探して、やっと阿盛の実家を見つけた。

「おばあちゃん!まだ私たちのことを覚えていますか?」 と蔡さんがドアから暗い室内に向かって声を掛けた。中から黒ずんだ手が伸びてきて、蔡さんの手に重ねた。「また来てくれたのかい!」。お祖母さんは笑顔を浮かべて出て来ると、頷きながら、「この前は、うちの阿盛のことで来たのだったね」と言った。

ボランティアたちは、ポーチの椅子に座ると、「平安」の文字のストラップを取り出してお祖母さんに贈った。「文字の下の方に小さな鈴が付いています。平安が訪れますよ」。蔡さんは、お祖母さんが手に持った赤いストラップは、生気のない孤独な日々に彩りを添えたようだ、と思った。

「この前、私たちが来た時、おばあちゃんの写真を撮ったことを覚えていますか?その写真を現像して阿盛に見せたら、大喜びしていましたよ」。蔡さんは、お祖母さんの肩に腕を回しながら言った。

「おばあちゃんの写真を見たら、会いたいと言って泣き続けていました」。

お祖母さんはため息をついて、仕方なさそうに首を横に振りながら言った。

「物事の善悪が分からない子で、心配ばかり掛けるのです」。

蔡さんはお祖母さんを慰めながら言った。

「彼はおばあちゃんにとても会いたがっています。ですから、おばあちゃんも彼を祝福してあげてください。今日もおばあちゃんの写真を撮って、阿盛に見せてあげますからね。おばあちゃんは九十歳でも、まだとても健康で、穏やかに暮らしていることも、伝えますから」。

蔡さんが焼きそばを作って持って来たので、みんなで家族のように、お祖母さんと食べながらおしゃべりをした。普段は静かな家が、温かい言葉で愛の温もりに満ち溢れた。

家族の思いが伝わらない苦しさ

「誰かいらっしゃいますか」。蔡さんたちは、遠路はるばる、受刑者阿鋭の家にたどり着いた。二年前に阿鋭のお父さんが亡くなった時、阿鋭は葬儀に参列できなかったので、ボランティアに頼んで、写経したものを家へ持って帰ってもらうことで、父親の冥福を祈った。

阿鋭の長兄に会うと、母親に会わせてほしいと蔡さんが訪問の意を伝えたが、残念なことに母親は手術のために入院していた。長兄は黙ったままで、顔は低く被った帽子のつばに隠れて半分しか出していなかったので、表情はよく見えなかった。

「お兄さんは、阿鋭の刑期がどれくらいかご存知ですか?」と蔡さんが小声で聞いた。

すると長兄は、「彼のことには全く興味がありません!」。阿鋭が刑務所入りを繰り返していたので、ほとんど諦めていたのだった。「私たちは三人兄弟で、あの子は末っ子ですが、一番性根が悪いのです。今度は違法薬物を販売したのですから、長いですよ。七年半です!」

その家庭は、母親が入院していて、祖母は認知症で、阿鋭の兄嫁が亡くなったばかりだった。主に責任を担っている長兄は、本当に心身ともに疲れきっているようだった。寄り添ってここまでに来てくれたボランティアたちを前に、長兄はもう耐えられなくなり、震える声で言った。

「彼が悔い改めてさえくれれば、それで十分だ、と彼に伝えてください」。無力感と心の痛みの全てが、この瞬間に涙となって流れ出した。

「分かりました。代わりに伝えます。悔い改めるように、と。お兄さんも体に気を付けてください!お母さんとお祖母さんはあなたが頼りですし、弟さんと妹さんも同じです」と、蔡さんは長兄の手を握りながら、優しく慰めた。長兄は涙を拭いて言った。

「この一言だけ伝えてくれればいいのです。他には何も持って行かなくていいですから」。

帰る前に、ボランティアは長兄に付き添い、一緒にご先祖の位牌に手を合わせた。

「お父さん、お祖父さん、明日お母さんの手術が無事に終わるよう、守ってください」。お兄さんは疲れ切った顔で、合掌した。続いて蔡さんが、阿鋭の代わりに祈った。

「お母さんの手術が無事に終わりますように。歴代のご先祖様、守ってくださるようお願いします」。

今回の訪問で、ボランティアたちは阿鋭の長兄のストレスと疲れを感じ取ることができた。蔡さんは、阿鋭に手紙を書いた。

「昨日、あなたの実家に行ってきました。お祖母さんは相変わらず元気ですが、お母さんは、前回転んだことが原因で入院していました。二人のお兄さんが心を込めて看病と介護をしていますので、安心してください。しっかり刑期を務め、出所後は善行と親孝行をして、新しく人生をやり直して下さい」。短い手紙だが、阿鋭の長兄の深い思いと、蔡さんが阿鋭を善行に導きたい気持ちが込められていた。

蔡美恵(左)、徐雲彩(右)の付き添いで、2013年、鐘烱元(中央)は出所後、真っ先に慈済屏東支部に来て仏様を拝んだ。

泥の中に蓮の花が咲けば、辛くない

受刑者の家族ケアで行き来する蔡さんだが、辛くはないそうだ。

「家族に会いたくても、何らかの事情で会いに行けないことは、誰にでもあります。その時、代わりに行ってくれる人がいて、声を掛けてくれれば、とても意義があると感じます」と彼女が言った。

ケアチームの管轄範囲は屏東刑務所、屏東拘置所、台南拘置所、台南刑務所、高雄矯正施設などである。鐘烱元(ヅォン・ジョンユェン)さんは屏東で受刑中に蔡さんと良縁を結び、獄中で「二度と受刑者菩薩にはならない!」と誓った。「人間菩薩になってね!」と、蔡さんが祝福した。道に迷って戻って来た鐘さんは、屏東刑務所に来てくれたボランティアたちに感謝した。今の彼があるのは、ボランティアのおかげだと言う。彼がこの決意を携えて高雄第二刑務所と矯正施設に行き、立ち直った前科者の体験者として証言したのは、六年後のことだった。二〇二一年には、総統府から旭青獎が表彰された。

證厳法師は刑務所ケアチームの努力を肯定した。

「この世に悪い人はいません。過ちを犯した人がいるだけです。慈済は面倒や困難を恐れず、彼らが豊かな心の福田を育てられるよう、道に迷った人を正しい方向に導いているのです」。

刑務所を訪れるボランティアたちは、まるで娑婆の世界を行ったり来たりする菩薩のように、暗い道に迷った人々の心を灯で照らしているのだ。受刑者がボランティアたちの誠実で長く続く愛と寄り添いを感じた時、泥の中に清らかな蓮の花が咲くのである。(資料の提供・楊舜斌、大愛テレビ番組「アクションライブ」)

(慈済月刊六八六期より)

關鍵字