フィリピン・ダバオ市 バナナが豊作の時

北ダバオ州の山間部にある部落の住民は、有機バナナの栽培による貧困支援プロジェクトに参加している。慈済が品種の選択から技術指導、流通販売まで協力して来たことで、収入が徐々に安定して来ている。

住民らは一日に一食も保証されなかった生活から、今では三食で米が食べられるようになった。

北ダバオ州サント・ニーニョ部落の住民は、慈済の農業による脱貧困プロジェクトに参加し、ボランティアの協力の下、生活を改善するモデルを切り拓いた。(撮影・Harold Alzaga)

私だけではなく、ここのバナナ農家は皆とても幸せです」。エリックさんは部落の農家と一緒に生い茂ったバナナ園で収穫をしていた。大きなバナナの房を担いで山を下り、川を渡った。ダバオとマニラのボランティアも豊作の喜びを分かち合いながら、バナナを運ぶ手伝いをした。

二〇二二年以前、このような光景は、三人の子供を持つ若い父親であるエリックさんにとって、遠い夢話だった。北ダバオ州タラインゴッド・サントニーニョの原住民居住地はダバオ市から車で約三時間半の距離にあり、広い山間地区では雇用機会が乏しく、住民は付加価値の低いトウモロコシやマニラ麻を栽培し、収穫した物を他の所に輸送するが低い値段でしか売れず、運賃を差し引いた後のお金は殆ど手元に残らなかった。トウモロコシは四カ月毎に収穫するので、一世帯の平均所得は月五百ベソ(約1300円)だった。それだけでは四カ月も生活できないので、山菜や芋でお腹を満たしていた。山奥の山村は電気、交通などインフラも整備されてなく、村民は病気になっても下山して治療を受けるお金さえなかった。

二〇二〇年十月、慈済ボランティアは、コロナ禍による経済的な困窮を緩和するための物資を持って来た時、部落は貧しくて活気がなく、住民の目が虚ろだったことに気づいた。「『家徒四壁』と言う言葉がありますが、ここは竹で編んだ家の壁が三方しかなかったのです」とボランティアの呉麗君(ウー・リージュン)さんが言った。

慈済は、長期的な生計問題を解決する時、物資の支援だけに頼るのではなく、「喉の渇きを解決してあげるよりも、井戸を掘ることを教える」という例えを基本としている。そこで、二〇二二年一月に、慈済の農業による脱貧困プロジェクトを始めた。農業専門のボランティアである蔡天保(ツァイ・ティエンバオ)さんは、農産物加工分野で、食品原料の中で最も不足していたバナナの品種を選び、慈済が苗木を提供すると同時に、農民に有機栽培の技術を伝授した。

この地域の百十一世帯のうち、一部は既に若い男性が出稼ぎに行っているので、四十一世帯がプロジェクトに参加した。有機肥料を使った環境に優しい農耕法で栽培しており、バナナの木の成長が遅くても、質、量共に申し分ない。二〇二三年八月にはすでに実がなり、収穫した後にまた新しい芽が出た。栽培面積が拡大するにつれ、四カ月で二千五百株のバナナの木から一万五千キロの収穫があった。ボランティアは輸送を手伝うだけでなく、市場より高い値段で買い取って、食糧市場に投入した。

「この一年間、村民の生活が向上したので、私も本当に感動しました」。プロジェクトを担当するのは、ダバオボランティアのアリエルさんだ。

「このプロジェクトの良い点は、持続可能であることです。真面目に続ければ、土地も住民をも利します」。

アルマンドさんによると、家族は以前一日一食の生活で、長い間、米が食べられない時期もあったという。「しかし今は違います。三食とも米のご飯が食べられ、時には子供に小遣いもあげられるようになりました」。

村人の収入が安定して増えると共に、部落には電気が通るようになった。エリックさんはテレビを買ったことで、部落外の世界の出来事が分かるようになった。「疲れて帰って来て、家族と一緒にテレビを見るのは素晴らしいことです」。子供に飴を買ってあげることもできるようになった。「父親として、子供に生活必需品を買ってあげられないのは、とても辛いことでした。今、子供の嬉しそうな顔を見ることができて、私も嬉しいです!」。

エリックさんとアルマンドさんは、分割払いで中古バイクを買い、農作物を麓まで運んだり、市場へ買い出しに行ったりするようになった。「以前は市場へ行くのに徒歩で六時間掛かっていました。今は三十分で行けます」とアルマンドさんがホッとした様子で言った。「子供に良い教育を受けさせ、良い暮らしをさせたい」、これはアルマンドさんにとって夢のような生活だったが、今、この土地は一家を養い、未来が見える場所となっている。

(慈済月刊六九二期より)

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