708期—慈濟誌 天下事

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臺灣

  • 樺加沙颱風外圍環流豪雨,導致馬太鞍溪堰塞湖溢流,造成花蓮光復鄉大規模水患;慈濟動員26113人次,其中逾2萬投入清掃災區;包括瑞穗靜思堂和行動廚房,共提供88401份熱餐;花蓮慈濟醫院駐守災區,醫療照顧4600人次;慈濟向光復鄉、鳳林鎮發出慰問金逾2670戶;並提供學校與學生再生電腦等數位學習資源(9月22日~10月21日)★完整報導

  • 花蓮太魯閣國家公園燕子口10月17日上午因立霧溪邊坡崩塌形成堰塞湖,下游富世村及秀林村部分社區居民下午預防性撤離;慈濟緊急調度福慧床、毛毯送往秀林國中及亞泥宿舍協助安置,並提供熱食關懷

  • 大愛劇《在光裏的人》演員杜蕾,榮獲第60屆金鐘獎戲劇節目最具潛力新人獎(10月18日)   

  • 慈濟基金會以「大愛接引希望:尼泊爾震災援助行動」,榮獲全球公益獎「人道救援卓越獎」(Humanitarian Response Champions)銀獎;執行長顏博文入圍「年度個人變革獎」(Individual Changemaker of the Year)。創立於2015年的全球公益獎(Global Good Awards),旨在表彰世界各地各類型的企業、非政府組織、慈善機構和社會企業,尤其是有實際影響力的組織與個人(9月25日)

  • 花蓮慈濟醫院名譽院長陳英和獲得第35屆醫療奉獻獎。服務花東偏鄉近40年,他以精湛手術治癒罕見疾病患者,首創的「僵直性脊椎炎駝背矯正手術」被收入美國醫學教科書《骨科新知》第8版,其「經椎弓切骨矯正術」更受邀於《小兒脊椎手術教科書》撰寫專章,讓世界看見臺灣醫者力量及骨科醫術

  • 2025年「傳承靜思法脈、弘揚慈濟宗門」志業體同仁精進共修,於9月26日至28日在花蓮靜思堂、靜思精舍舉辦,主題「學與覺—學在良能、覺在力行」,學員及隊輔共435人參加;27日全員參與花蓮縣光復鄉災後家戶清掃

  • 2025年國際慈濟人醫會年會,主題為「慈悲協力‧醫愛寰宇—愛是人間最好的藥」,於10月4日至7日在花蓮靜思堂舉辦,來自16個國家地區、共380位學員參加

  • 慈濟大學榮獲教育部「114年績優大專院校原住民族學生資源中心」,中心同仁冉少文並獲得「績優專任人員」(10月1日)

【2025年9月臺灣慈善數據】
*提報個案9,037件
*長期濟助90,471戶次
*居家關懷152,451戶次
*急難補助12,285件
*居住環境改善420件
*助學補助5,132人次

巴勒斯坦

慈濟土耳其聯絡點、滿納海國際學校發起募款,與臺北清真寺合作,透過該寺董事長鄭泰祥在巴勒斯坦加薩走廊的友人,於9月26日起為當地青少年、孩童等提供熱食,發放地點阿茲扎韋達位於加薩走廊的正中心、加薩市禁區南邊,10月6日統計受惠8500人次

巴勒斯坦伊斯蘭主義運動組織哈瑪斯2023年10月7日對以色列發動攻擊,以色列隨後反擊。慈濟基金會以合作共善模式延伸關懷,巴勒斯坦成為慈濟人道關懷的第137個國家地區

以哈戰爭今年10月10日進入停火狀態,約旦慈濟將與約旦哈希米慈善組織、皇家醫療組織合作,年底前將抗生素、洗腎藥劑等藥品送達加薩兩家野戰醫院,後續提供環保毛毯與糧食

經由巴勒斯坦醫療援助組織(MAP)提報,約旦慈濟人10月16日於安曼舉辦牙科義診,107位難民受惠,其中80位需要追蹤治療

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菲律賓

  • 樺加沙颱風9月21日登陸菲律賓北部卡加延省,7萬戶受影響;重災區位於巴布延群島,慈濟人困於交通受阻無法到達,先針對土格加勞(Tuguegarao)與阿帕里(Aparri)572位來自重災區的大學生,發放連續3個月的超市禮券,總值6000菲幣(約新臺幣3000元),避免斷炊(10月1日〜4日)

  • 博羅依颱風9月25日橫掃菲律賓中部,強風暴雨引發洪水;萊特省奧莫克大愛村晚間淹水,千餘名村民撤離。許多同樣受災的本土慈濟志工,於翌日凌晨4時起在該村慈濟辦公室開始供應熱食和發放衣物。10月12日舉辦3場發放,向1200戶致贈福慧床、環保毛毯與25公斤大米

  • 宿霧(Cebu)9月30日發生芮氏規模6.9極淺層地震,上千棟建築毀損、74人罹難,18萬戶受災。馬尼拉及宿霧慈濟志工克服災後交通受阻,10月5日進入災區,首先在位處偏遠、較少獲得關注的聖雷米希奧鎮(San Remigio)里包翁村(Libaong)發放,包括食物、礦泉水、衛生用品、藥品及環保毛毯,422戶受惠。預計針對震央博戈市(Bogo)進行慰問金與白米大型發放

辛巴威

慈濟鑿井團隊獲得政府認證。由中央單位―鄉村基礎建設局(RIDA)開設技師課程,近150位成員有71人取得證書,朝專業且合法合規發展

為了幫助居民取得安全用水,慈濟2013年組成團隊,為部落或社區開鑿水源或修井,到今年10月17日統計已超過4000口井

緬甸

3月28日緬甸曼德勒強震後,慈濟志工半年來持續發放大米與食用油,10月統計共興建273間簡易教室,致贈11493套文具、1766套課桌椅、125個白板。威沙利馬哈甘達勇寺院學校校舍受損嚴重,慈濟援建教室9月20日啟用,並致贈1206套文具、白板筆等教學用具及550張課桌椅

斯里蘭卡

在斯里蘭卡,配鏡費用約8000至10000盧比(約25〜30美元),對貧民是高額負擔。志工前往賓吉里耶(Bingiriya)區域醫院,兌現8月義診時的承諾,為231位居民免費分發眼鏡(10月9日)

越南

博羅依颱風9月29日侵襲越南,重創北部和中部多個省分;慈濟越南聯絡處經過地方政府核准及安排,志工前往河靜省丹海鄉(Đan Hải)、香平鄉(Hương Bình)、安和鄉(Yên Hòa)勘災(10月2日)

泰國

慈濟泰國分會長年對難民與無身分者提供慈善關懷與醫療照護,已超過1萬人,獲得聯合國難民署(UNHCR)肯定,雙方進行信函交換,象徵攜手合作。根據UNHCR今年4月報告,泰國城市中仍有3526名難民和2774名尋求庇護者需要幫助(9月25日)

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臺灣

  • 樺加沙颱風外圍環流豪雨,導致馬太鞍溪堰塞湖溢流,造成花蓮光復鄉大規模水患;慈濟動員26113人次,其中逾2萬投入清掃災區;包括瑞穗靜思堂和行動廚房,共提供88401份熱餐;花蓮慈濟醫院駐守災區,醫療照顧4600人次;慈濟向光復鄉、鳳林鎮發出慰問金逾2670戶;並提供學校與學生再生電腦等數位學習資源(9月22日~10月21日)★完整報導

  • 花蓮太魯閣國家公園燕子口10月17日上午因立霧溪邊坡崩塌形成堰塞湖,下游富世村及秀林村部分社區居民下午預防性撤離;慈濟緊急調度福慧床、毛毯送往秀林國中及亞泥宿舍協助安置,並提供熱食關懷

  • 大愛劇《在光裏的人》演員杜蕾,榮獲第60屆金鐘獎戲劇節目最具潛力新人獎(10月18日)   

  • 慈濟基金會以「大愛接引希望:尼泊爾震災援助行動」,榮獲全球公益獎「人道救援卓越獎」(Humanitarian Response Champions)銀獎;執行長顏博文入圍「年度個人變革獎」(Individual Changemaker of the Year)。創立於2015年的全球公益獎(Global Good Awards),旨在表彰世界各地各類型的企業、非政府組織、慈善機構和社會企業,尤其是有實際影響力的組織與個人(9月25日)

  • 花蓮慈濟醫院名譽院長陳英和獲得第35屆醫療奉獻獎。服務花東偏鄉近40年,他以精湛手術治癒罕見疾病患者,首創的「僵直性脊椎炎駝背矯正手術」被收入美國醫學教科書《骨科新知》第8版,其「經椎弓切骨矯正術」更受邀於《小兒脊椎手術教科書》撰寫專章,讓世界看見臺灣醫者力量及骨科醫術

  • 2025年「傳承靜思法脈、弘揚慈濟宗門」志業體同仁精進共修,於9月26日至28日在花蓮靜思堂、靜思精舍舉辦,主題「學與覺—學在良能、覺在力行」,學員及隊輔共435人參加;27日全員參與花蓮縣光復鄉災後家戶清掃

  • 2025年國際慈濟人醫會年會,主題為「慈悲協力‧醫愛寰宇—愛是人間最好的藥」,於10月4日至7日在花蓮靜思堂舉辦,來自16個國家地區、共380位學員參加

  • 慈濟大學榮獲教育部「114年績優大專院校原住民族學生資源中心」,中心同仁冉少文並獲得「績優專任人員」(10月1日)

【2025年9月臺灣慈善數據】
*提報個案9,037件
*長期濟助90,471戶次
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*急難補助12,285件
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*助學補助5,132人次

巴勒斯坦

慈濟土耳其聯絡點、滿納海國際學校發起募款,與臺北清真寺合作,透過該寺董事長鄭泰祥在巴勒斯坦加薩走廊的友人,於9月26日起為當地青少年、孩童等提供熱食,發放地點阿茲扎韋達位於加薩走廊的正中心、加薩市禁區南邊,10月6日統計受惠8500人次

巴勒斯坦伊斯蘭主義運動組織哈瑪斯2023年10月7日對以色列發動攻擊,以色列隨後反擊。慈濟基金會以合作共善模式延伸關懷,巴勒斯坦成為慈濟人道關懷的第137個國家地區

以哈戰爭今年10月10日進入停火狀態,約旦慈濟將與約旦哈希米慈善組織、皇家醫療組織合作,年底前將抗生素、洗腎藥劑等藥品送達加薩兩家野戰醫院,後續提供環保毛毯與糧食

經由巴勒斯坦醫療援助組織(MAP)提報,約旦慈濟人10月16日於安曼舉辦牙科義診,107位難民受惠,其中80位需要追蹤治療

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菲律賓

  • 樺加沙颱風9月21日登陸菲律賓北部卡加延省,7萬戶受影響;重災區位於巴布延群島,慈濟人困於交通受阻無法到達,先針對土格加勞(Tuguegarao)與阿帕里(Aparri)572位來自重災區的大學生,發放連續3個月的超市禮券,總值6000菲幣(約新臺幣3000元),避免斷炊(10月1日〜4日)

  • 博羅依颱風9月25日橫掃菲律賓中部,強風暴雨引發洪水;萊特省奧莫克大愛村晚間淹水,千餘名村民撤離。許多同樣受災的本土慈濟志工,於翌日凌晨4時起在該村慈濟辦公室開始供應熱食和發放衣物。10月12日舉辦3場發放,向1200戶致贈福慧床、環保毛毯與25公斤大米

  • 宿霧(Cebu)9月30日發生芮氏規模6.9極淺層地震,上千棟建築毀損、74人罹難,18萬戶受災。馬尼拉及宿霧慈濟志工克服災後交通受阻,10月5日進入災區,首先在位處偏遠、較少獲得關注的聖雷米希奧鎮(San Remigio)里包翁村(Libaong)發放,包括食物、礦泉水、衛生用品、藥品及環保毛毯,422戶受惠。預計針對震央博戈市(Bogo)進行慰問金與白米大型發放

辛巴威

慈濟鑿井團隊獲得政府認證。由中央單位―鄉村基礎建設局(RIDA)開設技師課程,近150位成員有71人取得證書,朝專業且合法合規發展

為了幫助居民取得安全用水,慈濟2013年組成團隊,為部落或社區開鑿水源或修井,到今年10月17日統計已超過4000口井

緬甸

3月28日緬甸曼德勒強震後,慈濟志工半年來持續發放大米與食用油,10月統計共興建273間簡易教室,致贈11493套文具、1766套課桌椅、125個白板。威沙利馬哈甘達勇寺院學校校舍受損嚴重,慈濟援建教室9月20日啟用,並致贈1206套文具、白板筆等教學用具及550張課桌椅

斯里蘭卡

在斯里蘭卡,配鏡費用約8000至10000盧比(約25〜30美元),對貧民是高額負擔。志工前往賓吉里耶(Bingiriya)區域醫院,兌現8月義診時的承諾,為231位居民免費分發眼鏡(10月9日)

越南

博羅依颱風9月29日侵襲越南,重創北部和中部多個省分;慈濟越南聯絡處經過地方政府核准及安排,志工前往河靜省丹海鄉(Đan Hải)、香平鄉(Hương Bình)、安和鄉(Yên Hòa)勘災(10月2日)

泰國

慈濟泰國分會長年對難民與無身分者提供慈善關懷與醫療照護,已超過1萬人,獲得聯合國難民署(UNHCR)肯定,雙方進行信函交換,象徵攜手合作。根據UNHCR今年4月報告,泰國城市中仍有3526名難民和2774名尋求庇護者需要幫助(9月25日)

あの素晴らしい週末の朝

あの週末の午前に開かれたがん患者懇親会で、おじさんと私は一緒に花を鉢に植えた。

傍目から見ると、私が身寄りのない彼に付き添っているように見えるだろうが、実は彼が私に素晴らしい時間をくれたのだ。

(絵画・温牧)

七十歳を超えたそのおじさんは、腹痛のために病院の救急外来を受診したが、検査の結果、腸に腫瘍ができていることが判明した。さらに腫瘍の蠕動によって、腸に腸が被さるような状況になり、「腸重積症」という病気になってしまった。一般には、腸が蠕動によって腸に被さるのはよくあることだが、腫瘍によって腸が被さったら、回復することができない。私たちが指にぴったり合う指輪をはめていて外すことができなくなった時と同じで、手術する以外に方法が無いのだ。

私はおじさんに、「腹痛と腸の腫瘍は、手術で治療するしかありません。ご家族と一緒に、病状に対して最良の方法を相談したいと思います」と説明した。「私には身内が一人もいません。次に何をするかは、私に直接話してください」とおじさんが言った。

これは夏休みの時のことだ。私の妻と子供は丁度、他県でサマーキャンプに参加していた。それで私は、毎日仕事が終わって家に帰ると、一人で食事や家事をしていたが、数日経っただけで、家の中がとても閑散としているように感じられた。目の前のこのおじさんは何年、或いは何十年も一人で暮らしてきたのだ。私は「できる限りお手伝いします」とおじさんに伝えた。

一回目の手術の後、おじさんの腸の回復状況は余り良くなかった。そこで一時的に人工肛門(ストーマ)を作った。後日、病院に戻って二度目の手術をして、人工肛門を閉じることにした。そして、おじさんはとても嬉しそうに再び入院してきた。

自分が以前、病気で入院した時、とても辛くて退屈だったことを思い出した。毎日一番楽しかった時間は、主治医が回診に来る時だった。だから、おじさんは私の顏を見たら、嬉しいだろうと思った。手術の翌日、回診に行くと、おじさんはとても勇敢に、すでにべットから降りて歩いていた。

あの週末、私たちの大腸直腸科で、がん患者の会が開かれた。朝の回診を終えた後、私が会場に向かうと、同僚たちは準備に忙しく、手作り体験用の園芸の材料は側に置かれたままだった。会場を一周したが、おじさんの姿が見当らなかった。彼はすでにべッドから降りて動けるようになっているし、ましてや彼の得意分野は草花の園芸なのに、なぜ参加していないのだろう、と思った。そこで病室に行って、直接誘うことにした。

おじさんは、「今の体の状態で参加したら、皆さんに迷惑をかけないでしょうか」と尋ねた。私は「大丈夫です。私たちが二人一組になって、お互いに助け合えばいいのです」と答えた。おじさんの同意を得て、私は車椅子を押しながら会場に行った。

寄せ植えを作る過程で、おじさんはとても上手に作業を進め、私は側で簡単に花を挿すぐらいだった。私たちのチームは美しい作品を完成させた。周りから見たら、私が彼に付き添っているように見えたかもしれないが、実はおじさんが私に寄り添い、私に素晴らしい朝の一時をくれたのだった。

エジソンが百四十五年前に発明した電灯は、私たちの世界を照らし、人類の文明を明るくした。私はこの小さな物語を通して、より多くの人の心に愛を呼び覚ますことを願っている。皆が愛をもって他人の心の灯をともせば、世界は温かさに満ち、菩薩が人間(じんかん)に満ちるだろう。

(慈済月刊七〇一期より)

あの週末の午前に開かれたがん患者懇親会で、おじさんと私は一緒に花を鉢に植えた。

傍目から見ると、私が身寄りのない彼に付き添っているように見えるだろうが、実は彼が私に素晴らしい時間をくれたのだ。

(絵画・温牧)

七十歳を超えたそのおじさんは、腹痛のために病院の救急外来を受診したが、検査の結果、腸に腫瘍ができていることが判明した。さらに腫瘍の蠕動によって、腸に腸が被さるような状況になり、「腸重積症」という病気になってしまった。一般には、腸が蠕動によって腸に被さるのはよくあることだが、腫瘍によって腸が被さったら、回復することができない。私たちが指にぴったり合う指輪をはめていて外すことができなくなった時と同じで、手術する以外に方法が無いのだ。

私はおじさんに、「腹痛と腸の腫瘍は、手術で治療するしかありません。ご家族と一緒に、病状に対して最良の方法を相談したいと思います」と説明した。「私には身内が一人もいません。次に何をするかは、私に直接話してください」とおじさんが言った。

これは夏休みの時のことだ。私の妻と子供は丁度、他県でサマーキャンプに参加していた。それで私は、毎日仕事が終わって家に帰ると、一人で食事や家事をしていたが、数日経っただけで、家の中がとても閑散としているように感じられた。目の前のこのおじさんは何年、或いは何十年も一人で暮らしてきたのだ。私は「できる限りお手伝いします」とおじさんに伝えた。

一回目の手術の後、おじさんの腸の回復状況は余り良くなかった。そこで一時的に人工肛門(ストーマ)を作った。後日、病院に戻って二度目の手術をして、人工肛門を閉じることにした。そして、おじさんはとても嬉しそうに再び入院してきた。

自分が以前、病気で入院した時、とても辛くて退屈だったことを思い出した。毎日一番楽しかった時間は、主治医が回診に来る時だった。だから、おじさんは私の顏を見たら、嬉しいだろうと思った。手術の翌日、回診に行くと、おじさんはとても勇敢に、すでにべットから降りて歩いていた。

あの週末、私たちの大腸直腸科で、がん患者の会が開かれた。朝の回診を終えた後、私が会場に向かうと、同僚たちは準備に忙しく、手作り体験用の園芸の材料は側に置かれたままだった。会場を一周したが、おじさんの姿が見当らなかった。彼はすでにべッドから降りて動けるようになっているし、ましてや彼の得意分野は草花の園芸なのに、なぜ参加していないのだろう、と思った。そこで病室に行って、直接誘うことにした。

おじさんは、「今の体の状態で参加したら、皆さんに迷惑をかけないでしょうか」と尋ねた。私は「大丈夫です。私たちが二人一組になって、お互いに助け合えばいいのです」と答えた。おじさんの同意を得て、私は車椅子を押しながら会場に行った。

寄せ植えを作る過程で、おじさんはとても上手に作業を進め、私は側で簡単に花を挿すぐらいだった。私たちのチームは美しい作品を完成させた。周りから見たら、私が彼に付き添っているように見えたかもしれないが、実はおじさんが私に寄り添い、私に素晴らしい朝の一時をくれたのだった。

エジソンが百四十五年前に発明した電灯は、私たちの世界を照らし、人類の文明を明るくした。私はこの小さな物語を通して、より多くの人の心に愛を呼び覚ますことを願っている。皆が愛をもって他人の心の灯をともせば、世界は温かさに満ち、菩薩が人間(じんかん)に満ちるだろう。

(慈済月刊七〇一期より)

關鍵字

慈済環境保全三十五年—SDGsに対応する草の根の取り組み

(撮影・黄筱哲)

リサイクルボランティアが毎日、街角や路地裏で資源の回収を行っている。この草の根の活動は、三十五年にわたって変わることなく続いてきた。彼らの日常生活は、地球の未来を持続可能なものにするためであり、さらに慈済を次の段階へと押し上げ、循環経済とカーボンニュートラルを実践している。

【慈済の活動XSDGs】シリーズ

一九九〇年、證厳法師が台中の新民商工高等学校で行った講演で、「拍手する手で環境保全をしましょう」と呼びかけた時、台湾の環境保全に対する認識はまだ啓蒙の初期段階にあった。行政院環境保護署(現在の環境部)が設立されてからまだ数年しか経っておらず、関連する法規や政策も実施途上にあった。当時の一般市民は、くず鉄を廃品回収業者に売ることは知っていたが、「資源の回収」の意味は分かっていなかったので、鉄やアルミの空き缶類、紙類、プラスチックなどが、回収不能なごみと一緒に捨てられるのが一般的だった。慈済人が地域で資源の回収を始めた頃は、近所の人から生活に困っているのではないかと心配されることすらあった。

最初に證厳法師の呼びかけに応じた先駆者の一人である、台中の慈済ボランティア・簡素娟(ジェン・スウージュエン)さんは、当時近所の人々から受けた誤解を今でもよく覚えている。「みんな、私が経済的に困っていると思っていたみたいで、私のためにとあらゆる物をくれました。それで近所の人に、『これは證厳法師が病院や学校を建てるためにやっていることなのです』と説明しました」。

より多くの人々を環境保全へ導くには、「自ら実践したことを語り、語ったことを実行に移す」しかないのだ。一九九〇年代初期に台湾経済は急速に成長し、工業排水や大気による汚染が酷くなり、ごみの量が激増し、社会には投機的な賭博の風潮が蔓延した。そこで慈済は、まず金車教育基金会(King Car Cultural&Educational Foundation)と協力し、「人間浄土を築く約束」という一連の活動を共催した。講演会、チャリティバザー、植樹、資源回収などを通じて、人心の浄化と環境への配慮を推進したのである。

一九九二年の「世界地球デー」には、慈済は特別に「福を知り、福を惜しみ、更に福を造る─紙類を回収して台湾の森林を救おう」という活動を催した。一般市民に不要になった紙類の提供を呼びかけ、売却収益はすべて慈済医学院の建設資金に充てられた。当日わずか六時間の活動で、回収された紙類の量は百六十トンにのぼり、「ごみは黄金に変わり、紙は優秀な医師を育てる」という歴史的な記録を残した。

一九九六年の台風九号(ハーブ)が通過すると、證厳法師は、その被害が台湾全土にわたり、山河の色が変わったことに心を痛め、改めて台湾を大切にするよう呼びかけた。『天下雑誌』(Common Wealth Magazine)は慈済、台北市環境保護局、工業技術研究院など十七の機構と協力して、「美しい台湾、清らかな故郷を永遠に─みんなで清掃」という活動を催した。参加者五万人のうちの一万人は、慈済ボランティアだった。参加者たちは台湾全土の県や市で街の清掃や資源の回収などの公益活動を行い、環境保護意識を一層人々の心に根付かせる契機ともなった。

「一九九〇年、證厳法師は『拍手する両手で環境保全をしましょう』と呼びかけました。私はさっそくコミュニティで取り組みを始め、五人の女性グループを作って中和の莒光路でチラシを手に一軒一軒を訪ね、人々にリサイクル活動への参加と近所の路地の清掃を呼びかけました」と、新北市中・永和区の慈済ボランティア・呉燕雪(ウー・イエンシュエ)さんが当時の様子を一から説明した。

当時、中和の自強小学校周辺でボランティアたちは資源の回収を呼びかけ、リサイクルステーションを開設した。全部で三十三カ所の回収拠点を開設したが、そのうちの一つは慈済が台湾に開設した初めての大規模資源回収ステーションだった。「市民たちはお年寄りや子どもを連れて参加しましたが、人がいっぱい居ても秩序は非常によく保たれていました。トラックや中型バン、さらには幼稚園の送迎バスを使ってまで協力してくれました。座席を取り外せば回収物を運ぶことができたのです。私たちが取り組みを始めると、板橋、土城、中正、萬華、新店のボランティアたちが見学に来られ、それぞれの地域にそのアイデアを持ち帰っては活動を広めました」。

「拍手する両手で環境保全に取り組む」姿は、1990年代に台中の黎明新村などで見られるようになった。(写真提供・花蓮本会)

1996年には「永遠にみんなできれいにしよう」活動を台湾各地と連携して実施し、人々は回収した資源を分別した。(撮影・林美依)

リサイクルボランティアは家の宝

慈済人がリサイクル活動を始めた当初は、活動場所の確保、人集め、車の手配など、多くの困難に直面したが、もっと大きな課題は、大衆の心構えを改めることだった。北部の環境保全合心幹事の陳金海(チェン・ジンハイ)さんは、率直に語った。「三十年以上前ですから、多くの人が環境保全の地球にもたらす意義を理解しておらず、リサイクルを単なるごみ回収と見なしていました。私たち自身も気恥ずかしい思いをしていました」。

自らの内面と、社会一般が抱く「廃品回収」への固定観念を覆すことに加え、「お金を稼ぐ」という期待を捨て、真の価値を理解し、回収物の売値の高低で一喜一憂しないことこそが、より大切な修行なのである。時にはトラック一台分の回収物を売った金額が運搬のガソリン代よりも少なく、価格がどん底まで落ちた時や回収業者が利益にならないので引き取りを拒んだ時は、ボランティアが回収物の行き先を探さなければならなかった。

たとえば三十年以上前のある時期、台北大都会圏の回収業者が、突如としてペットボトルの買い取りを止めたことがあった。数人のボランティア幹部はわざわざ交渉に出向き、引き取ってくれさえしたら、慈済のエコステーションは、無料で提供するとまで申し出た。

陳金海さんはさらに、慈済の資源回収は、初めから金銭を尺度として行っているのではなく、一つのエコステーションには数十人が働いていることや、もし一般的なコストや利益の思考で計算していたら絶対に採算は取れないが、個々人に対する益や地球と社会への貢献を考えれば、極めて意義深い営みなのだと説明した。

「慈済の提唱と證厳法師の絶え間ない励ましを経て、今では環境保全に取り組むことは人々から大いに尊敬されるようになり、子どもたちは、親や年長者が環境保全に取り組んでいることを誇りにさえ思うようになりました。以前は家に居て食べて、寝て、死ぬのを待つだけだった、『三等市民』(三つを待つ市民)だった多くの高齢者自身も、環境保全に取り組むことで社会貢献でき、環境のために心血を注ぐことで、「上等市民」になり、さらには死後、献体して自らの体を再利用してもらうことまで願うようになったのです」。

一元の投入に秘められた六倍の影響力

見返りを求めず奉仕し、金銭収入にこだわらないが、投入することで健康になり、喜びをもって活動し、大地を清らかにすることを願う。これが、何万人もの慈済環境保全ボランティアの日常である。かつては、効果を測る基準や方法が未熟であったため、慈済人が社会や環境にもたらす貢献度は、具体的な数字で示すことが難しかった。二〇一五年、慈済が安侯建業聯合会計師事務所(KPMG台湾)と契約し、組織の最適化を進めるために、『サステナビリティ報告書』を作成するようになってからは、次第に慈済ボランティアの社会的投資収益率(Social Return on Investment,SROI)が数値化され、目に見えるようになった。

二〇二一年の調査結果によれば、環境保全志業によるごみの減量、リサイクルステーションでの高齢者への食事の提供、エコ福祉用具など、活動における総体的なSROI値は六・三であった。これは、一元の善意の寄付が社会に六・三元分の影響力を生み出すことを意味する。

「この行動は、表面上は環境保全でも、実は多様な効果をもたらしているのです」。調査と集計を担当した安侯永續發展顧問会社の取締役総経理である黄正忠(ホワァン・ヅンヅォン)さんがこう述べた。慈済ボランティアのリサイクル活動は、まず間違って廃棄された資源を回収し、その再利用性を高めていると同時に、ごみの埋立地や焼却炉による処理の量を減らしており、さらに、そこで得られた金銭的収入を大愛テレビに使うことで、より多くの慈善公益や人心を浄化する報道に充てられているのである。また、ボランティアがリサイクルステーションで回収作業をすることで、お互いに語らいながら交流することは、健康福祉の面から見ても非常に有意義な行為なのである。

黄さんは、「我々が分析した結果から、環境保全に一元の資源を投入すれば、六元以上の効果が得られることが分かったのです」と説明した。これは最低時給に基づく時間コストを考慮した数値である。しかし、ボランティアはすべて無償で活動しているため、その時間コストを差し引けば、その効率は百五十二・七元に達するのである。

慈済大学宗教と人文研究所の簡玟玲(ジエン・ウェンリン )副教授は、リサイクルボランティアの「幸福感」を深く研究した。六十歳から八十二歳までの、環境保全活動歴十年以上の慈済リサイクルボランティア十数名にじっくりとインタビューし、簡単な「幸福感尺度」と「高齢者幸福感尺度」を記入してもらった。その結果はいずれも、「最も幸福」を示す六段階と五段階を示していた。

「奉仕した後の気持ちこそが、この高齢ボランティアたちが感じる幸福なのです。簡単に言えば、リサイクルボランティアの幸福感の奥深くにあるメカニズムは、家という概念を一度壊して再構築することによって成り立っています。限られた時間と空間の小さい家庭から、環境の調和を取り持ち、子孫の持続可能性を包含する大家族に転化しています。思いやりとケアの心と行動は無限に広がり、その背後で『究極的に大きな喜び』を達成しているのです」と、簡さんが総括した。

夕暮れの大通りから路地裏まで、多くのリサイクルボランティアが数十年にわたって本業のかたわら資源の回収に尽力してきた。(撮影・黄筱哲)

回収物は拠点からリサイクルステーションに集められ、シニアボランティアたちが細かく分別をして整理する。手を動かしながら頭脳も使う。(撮影・蕭耀華)

大地を守る手で
ボランティアも守る

認証機関による定量化から、学術研究者による質的な分析までを見ても、環境保全活動は、自利利他の善行であり、その影響は極めて深くまた広範囲に及ぶ。

慈済慈善事業基金会の統計によれば、二〇二四年一年間に、全台湾で九万二千人余りの慈済リサイクルボランティアが、合計八万トン余りの各種資源を回収した。その内訳は、三千五百八十一トンのビニール袋、六千五百三十三トンのガラス瓶などだった。三十年以上にわたる努力は、二酸化炭素排出量三百四十一万トンの削減に相当する。これらの数字は、同時期に地球が受けた環境破壊と比べれば微々たるものであるが、全台湾、さらには世界の慈済リサイクルボランティアは、善行が小さくてもためらわず、地球と人類の持続可能性のために努力を続けているのである。

ボランティアが高齢化していることを踏まえ、各リサイクルステーションの施設や用具も年月の経過とともに老朽化している。慈済基金会環境保全推進チームは二〇二〇年より、「リサイクルステーション電気回路改善計画」を推進し、台湾全土のリサイクルステーションで電気回路および関連安全設備を新しくした。まず、老朽化して安全性に問題のある電線や配電盤を取り替え、現代の安全基準に適合した新設備を導入した。ステーションの厨房用ガス管についても、ボランティアは念入りに、ネズミにかじられても破れないステンレス製編み込みホースと、ガス漏れを遮断できるジョイントを選び、より万全な安全対策をとって災害リスクを軽減している。五年の歳月を経て、今年の夏季に再度、安全面の点検と改善が行われた。

業務安全を担当する環境保全推進チームスタッフの許桂榮(シュ・グェイロン)さんによれば、現在、慈済は二つの安全面に重点を置いているそうだ。一つは火災予防で、電気回路、ガスを使用する上での安全を確保することである。特に『リチウム電池の発火』問題にも備えている。

「私たちは既に、全てのリサイクルステーションでリチウム電池を回収しないよう告知しました。民衆は不要になったリチウム電池を直接、市の清掃班の資源回収車に手渡すことができます。もし回収物の中にリチウム電池が混入していた場合は、千分の一に薄めた食塩水に一日浸し、電気がなくなって泡が出なくなったら回収業者に渡すか、清掃班に処理を依頼することにしています」。

ステーションの火災予防対策に加え、同チームは高齢ボランティアの運転の安全にも注意を払っている。七十五歳以上のボランティアには、交通部の規定に従って運転免許を更新し、さらに随行係を担当して回収物の搬送に協力してもらっている。

国連の持続可能な開発の観点から見ると、ボランティアたちの一見単純な資源の回収活動や、同時に物を大切にする姿勢と省エネでCO2を削減するライフスタイルは、海洋や陸上の生態系を保護するだけでなく、個人の能力で行える最高の「気候行動」なのである。それは、都市や地方で持続可能性を促進し、個人および社会の健康と福祉の向上することにもつながっている。

振り返れば、たくさんの人々が既に三十年以上環境保全に取り組んできた。今では、働き盛りの会社員や熱心な若い世代も加わっている。背景や年齢、職業はそれぞれ異なっていても、地球を大切にしたいという一念の心で、無数の手で人々の捨てた資源を拾い、清らかな大地の明日もまた拾い上げているのである。

(慈済月刊七〇五期より)

ビニール袋は軽くて薄いため、廃品回収業者の多くは回収しない。慈済のリサイクルボランティアは丁寧に整理して梱包し(写真1)、プラスチックビーズの原料に再生する業者を探す(写真2)。利益の多少にかかわらず、大地の汚染を減らすために取り組んでいる。(撮影・蕭耀華)

ペットボトルのキャップを集めて慈済環境保全志業のロゴを作った。ボランティアたちの素朴な笑顔の中には、地球の資源を大切にし、青い山や清らかな水を子孫に残したいという共通の願いが込められている。(撮影・蕭耀華)

(撮影・黄筱哲)

リサイクルボランティアが毎日、街角や路地裏で資源の回収を行っている。この草の根の活動は、三十五年にわたって変わることなく続いてきた。彼らの日常生活は、地球の未来を持続可能なものにするためであり、さらに慈済を次の段階へと押し上げ、循環経済とカーボンニュートラルを実践している。

【慈済の活動XSDGs】シリーズ

一九九〇年、證厳法師が台中の新民商工高等学校で行った講演で、「拍手する手で環境保全をしましょう」と呼びかけた時、台湾の環境保全に対する認識はまだ啓蒙の初期段階にあった。行政院環境保護署(現在の環境部)が設立されてからまだ数年しか経っておらず、関連する法規や政策も実施途上にあった。当時の一般市民は、くず鉄を廃品回収業者に売ることは知っていたが、「資源の回収」の意味は分かっていなかったので、鉄やアルミの空き缶類、紙類、プラスチックなどが、回収不能なごみと一緒に捨てられるのが一般的だった。慈済人が地域で資源の回収を始めた頃は、近所の人から生活に困っているのではないかと心配されることすらあった。

最初に證厳法師の呼びかけに応じた先駆者の一人である、台中の慈済ボランティア・簡素娟(ジェン・スウージュエン)さんは、当時近所の人々から受けた誤解を今でもよく覚えている。「みんな、私が経済的に困っていると思っていたみたいで、私のためにとあらゆる物をくれました。それで近所の人に、『これは證厳法師が病院や学校を建てるためにやっていることなのです』と説明しました」。

より多くの人々を環境保全へ導くには、「自ら実践したことを語り、語ったことを実行に移す」しかないのだ。一九九〇年代初期に台湾経済は急速に成長し、工業排水や大気による汚染が酷くなり、ごみの量が激増し、社会には投機的な賭博の風潮が蔓延した。そこで慈済は、まず金車教育基金会(King Car Cultural&Educational Foundation)と協力し、「人間浄土を築く約束」という一連の活動を共催した。講演会、チャリティバザー、植樹、資源回収などを通じて、人心の浄化と環境への配慮を推進したのである。

一九九二年の「世界地球デー」には、慈済は特別に「福を知り、福を惜しみ、更に福を造る─紙類を回収して台湾の森林を救おう」という活動を催した。一般市民に不要になった紙類の提供を呼びかけ、売却収益はすべて慈済医学院の建設資金に充てられた。当日わずか六時間の活動で、回収された紙類の量は百六十トンにのぼり、「ごみは黄金に変わり、紙は優秀な医師を育てる」という歴史的な記録を残した。

一九九六年の台風九号(ハーブ)が通過すると、證厳法師は、その被害が台湾全土にわたり、山河の色が変わったことに心を痛め、改めて台湾を大切にするよう呼びかけた。『天下雑誌』(Common Wealth Magazine)は慈済、台北市環境保護局、工業技術研究院など十七の機構と協力して、「美しい台湾、清らかな故郷を永遠に─みんなで清掃」という活動を催した。参加者五万人のうちの一万人は、慈済ボランティアだった。参加者たちは台湾全土の県や市で街の清掃や資源の回収などの公益活動を行い、環境保護意識を一層人々の心に根付かせる契機ともなった。

「一九九〇年、證厳法師は『拍手する両手で環境保全をしましょう』と呼びかけました。私はさっそくコミュニティで取り組みを始め、五人の女性グループを作って中和の莒光路でチラシを手に一軒一軒を訪ね、人々にリサイクル活動への参加と近所の路地の清掃を呼びかけました」と、新北市中・永和区の慈済ボランティア・呉燕雪(ウー・イエンシュエ)さんが当時の様子を一から説明した。

当時、中和の自強小学校周辺でボランティアたちは資源の回収を呼びかけ、リサイクルステーションを開設した。全部で三十三カ所の回収拠点を開設したが、そのうちの一つは慈済が台湾に開設した初めての大規模資源回収ステーションだった。「市民たちはお年寄りや子どもを連れて参加しましたが、人がいっぱい居ても秩序は非常によく保たれていました。トラックや中型バン、さらには幼稚園の送迎バスを使ってまで協力してくれました。座席を取り外せば回収物を運ぶことができたのです。私たちが取り組みを始めると、板橋、土城、中正、萬華、新店のボランティアたちが見学に来られ、それぞれの地域にそのアイデアを持ち帰っては活動を広めました」。

「拍手する両手で環境保全に取り組む」姿は、1990年代に台中の黎明新村などで見られるようになった。(写真提供・花蓮本会)

1996年には「永遠にみんなできれいにしよう」活動を台湾各地と連携して実施し、人々は回収した資源を分別した。(撮影・林美依)

リサイクルボランティアは家の宝

慈済人がリサイクル活動を始めた当初は、活動場所の確保、人集め、車の手配など、多くの困難に直面したが、もっと大きな課題は、大衆の心構えを改めることだった。北部の環境保全合心幹事の陳金海(チェン・ジンハイ)さんは、率直に語った。「三十年以上前ですから、多くの人が環境保全の地球にもたらす意義を理解しておらず、リサイクルを単なるごみ回収と見なしていました。私たち自身も気恥ずかしい思いをしていました」。

自らの内面と、社会一般が抱く「廃品回収」への固定観念を覆すことに加え、「お金を稼ぐ」という期待を捨て、真の価値を理解し、回収物の売値の高低で一喜一憂しないことこそが、より大切な修行なのである。時にはトラック一台分の回収物を売った金額が運搬のガソリン代よりも少なく、価格がどん底まで落ちた時や回収業者が利益にならないので引き取りを拒んだ時は、ボランティアが回収物の行き先を探さなければならなかった。

たとえば三十年以上前のある時期、台北大都会圏の回収業者が、突如としてペットボトルの買い取りを止めたことがあった。数人のボランティア幹部はわざわざ交渉に出向き、引き取ってくれさえしたら、慈済のエコステーションは、無料で提供するとまで申し出た。

陳金海さんはさらに、慈済の資源回収は、初めから金銭を尺度として行っているのではなく、一つのエコステーションには数十人が働いていることや、もし一般的なコストや利益の思考で計算していたら絶対に採算は取れないが、個々人に対する益や地球と社会への貢献を考えれば、極めて意義深い営みなのだと説明した。

「慈済の提唱と證厳法師の絶え間ない励ましを経て、今では環境保全に取り組むことは人々から大いに尊敬されるようになり、子どもたちは、親や年長者が環境保全に取り組んでいることを誇りにさえ思うようになりました。以前は家に居て食べて、寝て、死ぬのを待つだけだった、『三等市民』(三つを待つ市民)だった多くの高齢者自身も、環境保全に取り組むことで社会貢献でき、環境のために心血を注ぐことで、「上等市民」になり、さらには死後、献体して自らの体を再利用してもらうことまで願うようになったのです」。

一元の投入に秘められた六倍の影響力

見返りを求めず奉仕し、金銭収入にこだわらないが、投入することで健康になり、喜びをもって活動し、大地を清らかにすることを願う。これが、何万人もの慈済環境保全ボランティアの日常である。かつては、効果を測る基準や方法が未熟であったため、慈済人が社会や環境にもたらす貢献度は、具体的な数字で示すことが難しかった。二〇一五年、慈済が安侯建業聯合会計師事務所(KPMG台湾)と契約し、組織の最適化を進めるために、『サステナビリティ報告書』を作成するようになってからは、次第に慈済ボランティアの社会的投資収益率(Social Return on Investment,SROI)が数値化され、目に見えるようになった。

二〇二一年の調査結果によれば、環境保全志業によるごみの減量、リサイクルステーションでの高齢者への食事の提供、エコ福祉用具など、活動における総体的なSROI値は六・三であった。これは、一元の善意の寄付が社会に六・三元分の影響力を生み出すことを意味する。

「この行動は、表面上は環境保全でも、実は多様な効果をもたらしているのです」。調査と集計を担当した安侯永續發展顧問会社の取締役総経理である黄正忠(ホワァン・ヅンヅォン)さんがこう述べた。慈済ボランティアのリサイクル活動は、まず間違って廃棄された資源を回収し、その再利用性を高めていると同時に、ごみの埋立地や焼却炉による処理の量を減らしており、さらに、そこで得られた金銭的収入を大愛テレビに使うことで、より多くの慈善公益や人心を浄化する報道に充てられているのである。また、ボランティアがリサイクルステーションで回収作業をすることで、お互いに語らいながら交流することは、健康福祉の面から見ても非常に有意義な行為なのである。

黄さんは、「我々が分析した結果から、環境保全に一元の資源を投入すれば、六元以上の効果が得られることが分かったのです」と説明した。これは最低時給に基づく時間コストを考慮した数値である。しかし、ボランティアはすべて無償で活動しているため、その時間コストを差し引けば、その効率は百五十二・七元に達するのである。

慈済大学宗教と人文研究所の簡玟玲(ジエン・ウェンリン )副教授は、リサイクルボランティアの「幸福感」を深く研究した。六十歳から八十二歳までの、環境保全活動歴十年以上の慈済リサイクルボランティア十数名にじっくりとインタビューし、簡単な「幸福感尺度」と「高齢者幸福感尺度」を記入してもらった。その結果はいずれも、「最も幸福」を示す六段階と五段階を示していた。

「奉仕した後の気持ちこそが、この高齢ボランティアたちが感じる幸福なのです。簡単に言えば、リサイクルボランティアの幸福感の奥深くにあるメカニズムは、家という概念を一度壊して再構築することによって成り立っています。限られた時間と空間の小さい家庭から、環境の調和を取り持ち、子孫の持続可能性を包含する大家族に転化しています。思いやりとケアの心と行動は無限に広がり、その背後で『究極的に大きな喜び』を達成しているのです」と、簡さんが総括した。

夕暮れの大通りから路地裏まで、多くのリサイクルボランティアが数十年にわたって本業のかたわら資源の回収に尽力してきた。(撮影・黄筱哲)

回収物は拠点からリサイクルステーションに集められ、シニアボランティアたちが細かく分別をして整理する。手を動かしながら頭脳も使う。(撮影・蕭耀華)

大地を守る手で
ボランティアも守る

認証機関による定量化から、学術研究者による質的な分析までを見ても、環境保全活動は、自利利他の善行であり、その影響は極めて深くまた広範囲に及ぶ。

慈済慈善事業基金会の統計によれば、二〇二四年一年間に、全台湾で九万二千人余りの慈済リサイクルボランティアが、合計八万トン余りの各種資源を回収した。その内訳は、三千五百八十一トンのビニール袋、六千五百三十三トンのガラス瓶などだった。三十年以上にわたる努力は、二酸化炭素排出量三百四十一万トンの削減に相当する。これらの数字は、同時期に地球が受けた環境破壊と比べれば微々たるものであるが、全台湾、さらには世界の慈済リサイクルボランティアは、善行が小さくてもためらわず、地球と人類の持続可能性のために努力を続けているのである。

ボランティアが高齢化していることを踏まえ、各リサイクルステーションの施設や用具も年月の経過とともに老朽化している。慈済基金会環境保全推進チームは二〇二〇年より、「リサイクルステーション電気回路改善計画」を推進し、台湾全土のリサイクルステーションで電気回路および関連安全設備を新しくした。まず、老朽化して安全性に問題のある電線や配電盤を取り替え、現代の安全基準に適合した新設備を導入した。ステーションの厨房用ガス管についても、ボランティアは念入りに、ネズミにかじられても破れないステンレス製編み込みホースと、ガス漏れを遮断できるジョイントを選び、より万全な安全対策をとって災害リスクを軽減している。五年の歳月を経て、今年の夏季に再度、安全面の点検と改善が行われた。

業務安全を担当する環境保全推進チームスタッフの許桂榮(シュ・グェイロン)さんによれば、現在、慈済は二つの安全面に重点を置いているそうだ。一つは火災予防で、電気回路、ガスを使用する上での安全を確保することである。特に『リチウム電池の発火』問題にも備えている。

「私たちは既に、全てのリサイクルステーションでリチウム電池を回収しないよう告知しました。民衆は不要になったリチウム電池を直接、市の清掃班の資源回収車に手渡すことができます。もし回収物の中にリチウム電池が混入していた場合は、千分の一に薄めた食塩水に一日浸し、電気がなくなって泡が出なくなったら回収業者に渡すか、清掃班に処理を依頼することにしています」。

ステーションの火災予防対策に加え、同チームは高齢ボランティアの運転の安全にも注意を払っている。七十五歳以上のボランティアには、交通部の規定に従って運転免許を更新し、さらに随行係を担当して回収物の搬送に協力してもらっている。

国連の持続可能な開発の観点から見ると、ボランティアたちの一見単純な資源の回収活動や、同時に物を大切にする姿勢と省エネでCO2を削減するライフスタイルは、海洋や陸上の生態系を保護するだけでなく、個人の能力で行える最高の「気候行動」なのである。それは、都市や地方で持続可能性を促進し、個人および社会の健康と福祉の向上することにもつながっている。

振り返れば、たくさんの人々が既に三十年以上環境保全に取り組んできた。今では、働き盛りの会社員や熱心な若い世代も加わっている。背景や年齢、職業はそれぞれ異なっていても、地球を大切にしたいという一念の心で、無数の手で人々の捨てた資源を拾い、清らかな大地の明日もまた拾い上げているのである。

(慈済月刊七〇五期より)

ビニール袋は軽くて薄いため、廃品回収業者の多くは回収しない。慈済のリサイクルボランティアは丁寧に整理して梱包し(写真1)、プラスチックビーズの原料に再生する業者を探す(写真2)。利益の多少にかかわらず、大地の汚染を減らすために取り組んでいる。(撮影・蕭耀華)

ペットボトルのキャップを集めて慈済環境保全志業のロゴを作った。ボランティアたちの素朴な笑顔の中には、地球の資源を大切にし、青い山や清らかな水を子孫に残したいという共通の願いが込められている。(撮影・蕭耀華)

關鍵字

人の師たる者は道を志すべき

「仏教の為、衆生の為」とは、導師の私への期待ですが、私自身の発願でもあり、生涯をそれに捧げるだけでなく、生生世世にわたり、弘法の師表となることを決意し、世の衆生の為に慧命の道を切り開くことにしたのです。

最近は、二つの文字がいつも心の奥深くに重くのしかかっています!とても強い「感恩」という二文字で、感恩せずにはいられないのです!私は生涯での生みの親と育ての親への感恩の気持ちであり、彼らの姿がいつも脳裏に浮かびます。

また、私の恩師にも感謝しています。導師は「仏教の為、衆生の為」という言葉を下さったことで、出家したものの、私はまだ社会の中にいるのです。社会に入っているからこそ、先生たちや慈済人と知り合うことができ、お互いに団結して、一緒に人間(じんかん)で奉仕しているのです。

ですから、私は因縁に感謝しています。もし生みの親と育ての親、そして、慧命を下さった導師がおられなかったら、今日の慈済は存在していなかったでしょう。私は導師に帰依を請うた故に、あの日、受戒することができたのです。導師の私に対する期待はとても簡単なものでした。「私とあなたには師弟の縁があります。これ以上話す時間はありません。『佛教の為,眾生の為』と覚えておいてください」。あの時、私はとても清らかで懇切に答えました。「生涯を捧げます!」。仏教の為、衆生の為に一生を尽くすこと、これは導師の私に対する期待であり、私自身の発願でもあるのです。

ですから、六十年近く経った今でも捧げ続けています。私と縁のある先生の皆さんたちが言うように、「生涯を喜んで捧げます!」。皆さんと私に共通する願い、それは、教育を志すことです。人々は皆さんを先生と呼んでいますが、私も同じく、人々から法師あるいは師父と呼ばれています。私はその名前に込められた責任を心に感じ、世の衆生のために慧命の道を切り開くことを使命と考えています。慈済は一本の菩薩道です。修行は平坦な道ではありませんが、私はそれを広く、平坦で皆が歩きやすい大道にしなければならないのです。

先生たちが慈済に入って、慈済教師懇親会でさらに多くの教師たちと知り合い、お互いに教え方を分かち合って、交流していると思います。今は退職しているとはいえ、数十年の豊富な経験は伝え続けなくてはいけません。幼児クラスから中学、大学に至るまで、先生たちが歩きやすい道を切り開いてくれているため、その指導を受けられるのです。

知識の布施は、良い方法を使って学生を教育することであり、施教或いは法施(ほうせ)とも言われます。良い教師は生涯において育ての親のような存在ですから、先生を敬って道を重んじ、両親のように慕うことが大事です。仏陀が衆生に智慧を伝え、教師が学生に智慧を伝える訳ですから、教師を仏陀のように敬うのです。

先ほど教師の皆さんが私の前で、「生生世世にわたって法脈を伝承します」と発願しました。私たちは心と心を繋ぐだけでなく、立志して宗門を広めなければなりません。「志」という文字は「士」と「心」から成っています。「士」とは紳士を意味し、人格的にどっしりした人のことです。学生か弟子かにかかわらず、私たちは志を立て、真心を込めて、生生世世にわたって彼らの為に未来の道を敷かなければなりません。

「道とは人として歩むべき道です」という言葉がありますが、道を敷くことは道を切り開くことであり、方向がずれてはなりません。皆さんが発願した時、「私たち弟子は謹んで心に記します」と言いました。静思の弟子になったからには、正知、正見、正道法から逸脱せず、私に心配をかけないようにすることです。誰もが慈済との因縁を大切にして、宗門を広め、そして静思法脈から逸脱せず、よく考えて無量義の法髄を深く理解しなければなりません。『無量義經』は『法華經』の精髄ですから、毎日『無量義經』を一段読むことで、智慧が啓発されます。

私たちは、幸いにも慈済で出会いました。私は歳を取りましたが、リタイアしてはならないと思っています。生命には限りがありますが、慧命は続きます。再び人として戻って来る時、私はやはり人の師を志し、仏法を伝える模範になりたいのです。

慈済に入った教師の皆さんの中には、二、三十年のベテランの人たちがいますが、これからはもっと増えることに期待しています。それには、皆で慈済の法を説き、常に静思法脈を分かち合って、絶えず弘法していくことです。また、人と慈済の情、菩薩の情を結ぶことでもあり、小さな私情ではなく、悟りを開いた有情なのです。社会の中で良縁を結び、正しい道に人を導く人こそが、菩薩の一員だと言えるのです。

「学び」と「覚り」を繋ぐには、菩薩道を歩むことです。先生たちは、教育を施す以外に、自分たちも学び続けなければなりません。私は一日も学ぶことを怠ったことはありません。なぜなら仏教の経典は、大海のように深くて広いからです。私は身をもって人間(じんかん)で菩薩道に努め励んでいます。それだから皆さんとこの情が分かち合えるのです。

「覚り」とは、智慧の目で人間(じんかん)を見ることで、迷わされることはありません。「学び」は、赤子の心に戻って学び続けることであり、学んでこそ覚りがあるのです。先に覚る人と後に覚る人、先に学ぶ人と後に学ぶ人の繋がりのように、私たちはいつの世でも繋がっていなければなりません。教師の皆さんが永遠に幸福をもたらし続け、智慧が成長し、福と慧の双方を修められることを願っております。

(慈済月刊七〇六期より)

「仏教の為、衆生の為」とは、導師の私への期待ですが、私自身の発願でもあり、生涯をそれに捧げるだけでなく、生生世世にわたり、弘法の師表となることを決意し、世の衆生の為に慧命の道を切り開くことにしたのです。

最近は、二つの文字がいつも心の奥深くに重くのしかかっています!とても強い「感恩」という二文字で、感恩せずにはいられないのです!私は生涯での生みの親と育ての親への感恩の気持ちであり、彼らの姿がいつも脳裏に浮かびます。

また、私の恩師にも感謝しています。導師は「仏教の為、衆生の為」という言葉を下さったことで、出家したものの、私はまだ社会の中にいるのです。社会に入っているからこそ、先生たちや慈済人と知り合うことができ、お互いに団結して、一緒に人間(じんかん)で奉仕しているのです。

ですから、私は因縁に感謝しています。もし生みの親と育ての親、そして、慧命を下さった導師がおられなかったら、今日の慈済は存在していなかったでしょう。私は導師に帰依を請うた故に、あの日、受戒することができたのです。導師の私に対する期待はとても簡単なものでした。「私とあなたには師弟の縁があります。これ以上話す時間はありません。『佛教の為,眾生の為』と覚えておいてください」。あの時、私はとても清らかで懇切に答えました。「生涯を捧げます!」。仏教の為、衆生の為に一生を尽くすこと、これは導師の私に対する期待であり、私自身の発願でもあるのです。

ですから、六十年近く経った今でも捧げ続けています。私と縁のある先生の皆さんたちが言うように、「生涯を喜んで捧げます!」。皆さんと私に共通する願い、それは、教育を志すことです。人々は皆さんを先生と呼んでいますが、私も同じく、人々から法師あるいは師父と呼ばれています。私はその名前に込められた責任を心に感じ、世の衆生のために慧命の道を切り開くことを使命と考えています。慈済は一本の菩薩道です。修行は平坦な道ではありませんが、私はそれを広く、平坦で皆が歩きやすい大道にしなければならないのです。

先生たちが慈済に入って、慈済教師懇親会でさらに多くの教師たちと知り合い、お互いに教え方を分かち合って、交流していると思います。今は退職しているとはいえ、数十年の豊富な経験は伝え続けなくてはいけません。幼児クラスから中学、大学に至るまで、先生たちが歩きやすい道を切り開いてくれているため、その指導を受けられるのです。

知識の布施は、良い方法を使って学生を教育することであり、施教或いは法施(ほうせ)とも言われます。良い教師は生涯において育ての親のような存在ですから、先生を敬って道を重んじ、両親のように慕うことが大事です。仏陀が衆生に智慧を伝え、教師が学生に智慧を伝える訳ですから、教師を仏陀のように敬うのです。

先ほど教師の皆さんが私の前で、「生生世世にわたって法脈を伝承します」と発願しました。私たちは心と心を繋ぐだけでなく、立志して宗門を広めなければなりません。「志」という文字は「士」と「心」から成っています。「士」とは紳士を意味し、人格的にどっしりした人のことです。学生か弟子かにかかわらず、私たちは志を立て、真心を込めて、生生世世にわたって彼らの為に未来の道を敷かなければなりません。

「道とは人として歩むべき道です」という言葉がありますが、道を敷くことは道を切り開くことであり、方向がずれてはなりません。皆さんが発願した時、「私たち弟子は謹んで心に記します」と言いました。静思の弟子になったからには、正知、正見、正道法から逸脱せず、私に心配をかけないようにすることです。誰もが慈済との因縁を大切にして、宗門を広め、そして静思法脈から逸脱せず、よく考えて無量義の法髄を深く理解しなければなりません。『無量義經』は『法華經』の精髄ですから、毎日『無量義經』を一段読むことで、智慧が啓発されます。

私たちは、幸いにも慈済で出会いました。私は歳を取りましたが、リタイアしてはならないと思っています。生命には限りがありますが、慧命は続きます。再び人として戻って来る時、私はやはり人の師を志し、仏法を伝える模範になりたいのです。

慈済に入った教師の皆さんの中には、二、三十年のベテランの人たちがいますが、これからはもっと増えることに期待しています。それには、皆で慈済の法を説き、常に静思法脈を分かち合って、絶えず弘法していくことです。また、人と慈済の情、菩薩の情を結ぶことでもあり、小さな私情ではなく、悟りを開いた有情なのです。社会の中で良縁を結び、正しい道に人を導く人こそが、菩薩の一員だと言えるのです。

「学び」と「覚り」を繋ぐには、菩薩道を歩むことです。先生たちは、教育を施す以外に、自分たちも学び続けなければなりません。私は一日も学ぶことを怠ったことはありません。なぜなら仏教の経典は、大海のように深くて広いからです。私は身をもって人間(じんかん)で菩薩道に努め励んでいます。それだから皆さんとこの情が分かち合えるのです。

「覚り」とは、智慧の目で人間(じんかん)を見ることで、迷わされることはありません。「学び」は、赤子の心に戻って学び続けることであり、学んでこそ覚りがあるのです。先に覚る人と後に覚る人、先に学ぶ人と後に学ぶ人の繋がりのように、私たちはいつの世でも繋がっていなければなりません。教師の皆さんが永遠に幸福をもたらし続け、智慧が成長し、福と慧の双方を修められることを願っております。

(慈済月刊七〇六期より)

關鍵字

慈済の出来事 8/22-9/23

台湾
Taiwan

●大愛テレビドラマが2025年アジアコンテンツアワードで多くの賞を受賞した。最優秀主演男優賞に『血‧拾人生』(A Second Chance of Life)の宋偉恩氏、最優秀助演男優賞に『生日快樂』(Happy Birthday)の徐灝翔氏が輝き、そして『你好 我是誰2』(Still Me2)の班鐵翔氏がブロンズ賞を受賞した。(9月4日)

●慈済はアジア太平洋サステナビリティ・アクション・アワード(APSAA)と第5回台湾サステナビリティ・アクション・アワード(TSAA)で、2つのシルバー賞と1つのブロンズ賞を獲得した。「愛越高牆:慈濟攜手更生」(愛は塀を越えた・慈済が社会更生に寄り添う)、ミャンマーでの「點米成光:從米撲滿到太陽能的堅韌社區之路」(米粒が光に変わる・米募金から太陽光発電へ回復力のある地域への道)及びインドでの「思龍加大愛屋‥永續共好的希望家園」(シロンガ大愛の家・皆のサステナブルな繁栄への希望の家)プロジェクトである。

●花蓮慈済病院は、「秀林郷全人整合照護計畫」(秀林郷全人的統合ケアプロジェクト)と「運動照護永續行動」(運動によるサステナブルなケア活動)の2項目がアジア太平洋サステナブルアクションアワードと台湾サステナブルアクションアワードで、それぞれゴールド賞を獲得した。(9月11日~13日)

●台中慈済病院は、「関節センター」を開設した。膝関節の権威である呂紹睿教授の指導により、親伝弟子の周立展主任と趙子鎔医師と共に、国内外の患者をケアしている。(9月19日)

●慈済は台湾全土で「七月吉祥月祈福会」を約800回催し、旧暦7月を「吉祥の月、喜びの月、恩を報いる月」として正信の概念を広め、斎戒をして菜食することで生命を守ろうと呼びかけた。静思精舎とオンラインで結んだ『地蔵経』の勉強会には、延べ約15万人が参加した。

●慈済は台風4号(ダナス)災害で緊急支援をした後、嘉義・台南の被災地で175の恵まれない世帯の住居の屋根を修理し、9月末に工事を終えた。

シンガポール
Singapore

●第4回慈済国際青年会(TIYA)年次会が、初めて海外に進出した。シンガポール慈済人文青年センターで催され、14の国と地域の約200人の青年と国連の代表などが参加し、国連の持続可能な発展目標(SDGs)、青年の行動とボランティアの経験などをテーマに交流した。(8月22日~24日)

モザンビーク
Mozambique

●2019年のサイクロン・イダイ被災地に対し、慈済は4つの大愛村と23の学校の建設を支援してきた。順次使われ始めており、2027年までに全てが完成する予定である。当国のチャポ大統領は、ソファラ州の10の学校の完成式典に招かれ、クアラクアラ大愛村の840世帯に住居が引き渡された。そして、慈済が何千、何万もの子供に品質の高い教育の基礎を建設してくれたことに感謝した。(9月3日)

9月3日、ソファラ州ニャマタンダのムダムブ小学校で、慈済が支援建設していた10の小学校の合同引き渡し式典が行われた。チャポ大統領(右)と林静憪清修士(中央)が一緒に記念碑の除幕を行った。(撮影・蔡睿和)

ジンバブエ
Zimbabwe

●2022年に南アフリカで静思堂が完成してから、アフリカで2つ目の静思堂が首都ハラレで起工した。将来、職業訓練や施療、勉強会などが行われる。(9月7日)

カザフスタン
Kazakhstan

●第8回世界宗教および伝統宗教指導者会議が首都アスタナで開かれ、60の国と地域から代表が参加した。慈済はアメリカ総支部の曽慈慧国際長が国連「文明の同盟(UNAOC)」の推薦を受けて、仏教団体の代表として参加し、「二十一世紀の人類共同体における宗教の役割」と題した報告を行った。(9月17日~18日)

台湾
Taiwan

●大愛テレビドラマが2025年アジアコンテンツアワードで多くの賞を受賞した。最優秀主演男優賞に『血‧拾人生』(A Second Chance of Life)の宋偉恩氏、最優秀助演男優賞に『生日快樂』(Happy Birthday)の徐灝翔氏が輝き、そして『你好 我是誰2』(Still Me2)の班鐵翔氏がブロンズ賞を受賞した。(9月4日)

●慈済はアジア太平洋サステナビリティ・アクション・アワード(APSAA)と第5回台湾サステナビリティ・アクション・アワード(TSAA)で、2つのシルバー賞と1つのブロンズ賞を獲得した。「愛越高牆:慈濟攜手更生」(愛は塀を越えた・慈済が社会更生に寄り添う)、ミャンマーでの「點米成光:從米撲滿到太陽能的堅韌社區之路」(米粒が光に変わる・米募金から太陽光発電へ回復力のある地域への道)及びインドでの「思龍加大愛屋‥永續共好的希望家園」(シロンガ大愛の家・皆のサステナブルな繁栄への希望の家)プロジェクトである。

●花蓮慈済病院は、「秀林郷全人整合照護計畫」(秀林郷全人的統合ケアプロジェクト)と「運動照護永續行動」(運動によるサステナブルなケア活動)の2項目がアジア太平洋サステナブルアクションアワードと台湾サステナブルアクションアワードで、それぞれゴールド賞を獲得した。(9月11日~13日)

●台中慈済病院は、「関節センター」を開設した。膝関節の権威である呂紹睿教授の指導により、親伝弟子の周立展主任と趙子鎔医師と共に、国内外の患者をケアしている。(9月19日)

●慈済は台湾全土で「七月吉祥月祈福会」を約800回催し、旧暦7月を「吉祥の月、喜びの月、恩を報いる月」として正信の概念を広め、斎戒をして菜食することで生命を守ろうと呼びかけた。静思精舎とオンラインで結んだ『地蔵経』の勉強会には、延べ約15万人が参加した。

●慈済は台風4号(ダナス)災害で緊急支援をした後、嘉義・台南の被災地で175の恵まれない世帯の住居の屋根を修理し、9月末に工事を終えた。

シンガポール
Singapore

●第4回慈済国際青年会(TIYA)年次会が、初めて海外に進出した。シンガポール慈済人文青年センターで催され、14の国と地域の約200人の青年と国連の代表などが参加し、国連の持続可能な発展目標(SDGs)、青年の行動とボランティアの経験などをテーマに交流した。(8月22日~24日)

モザンビーク
Mozambique

●2019年のサイクロン・イダイ被災地に対し、慈済は4つの大愛村と23の学校の建設を支援してきた。順次使われ始めており、2027年までに全てが完成する予定である。当国のチャポ大統領は、ソファラ州の10の学校の完成式典に招かれ、クアラクアラ大愛村の840世帯に住居が引き渡された。そして、慈済が何千、何万もの子供に品質の高い教育の基礎を建設してくれたことに感謝した。(9月3日)

9月3日、ソファラ州ニャマタンダのムダムブ小学校で、慈済が支援建設していた10の小学校の合同引き渡し式典が行われた。チャポ大統領(右)と林静憪清修士(中央)が一緒に記念碑の除幕を行った。(撮影・蔡睿和)

ジンバブエ
Zimbabwe

●2022年に南アフリカで静思堂が完成してから、アフリカで2つ目の静思堂が首都ハラレで起工した。将来、職業訓練や施療、勉強会などが行われる。(9月7日)

カザフスタン
Kazakhstan

●第8回世界宗教および伝統宗教指導者会議が首都アスタナで開かれ、60の国と地域から代表が参加した。慈済はアメリカ総支部の曽慈慧国際長が国連「文明の同盟(UNAOC)」の推薦を受けて、仏教団体の代表として参加し、「二十一世紀の人類共同体における宗教の役割」と題した報告を行った。(9月17日~18日)

關鍵字

善法を弘め、慧命を永らえる

四大元素の不調和で災害は多く、
人生で最も苦しいのが病です。
苦を取り除き、楽を与えて善の種を蒔き、
善法を弘めて慧命を永らえましょう。

四大元素の不調和で災害は多く、人生で最も苦しいのが病です。苦を取り除き、楽を与えて善の種を蒔き、善法を弘めて慧命を永らえましょう。

四大元素の不調和で災害は多く、
人生で最も苦しいのが病です。
苦を取り除き、楽を与えて善の種を蒔き、
善法を弘めて慧命を永らえましょう。

四大元素の不調和で災害は多く、人生で最も苦しいのが病です。苦を取り除き、楽を与えて善の種を蒔き、善法を弘めて慧命を永らえましょう。

關鍵字

蔡昇航 身で以て道を示す—自分の為に道を拓き 苦難にある人の為に舗装する

慈済フィリピン支部副執行長の蔡昇航(ツァイ・ションハン)さんは、六月二日、希な病気で亡くなった。五十一年の生涯のうち、三十年を志業に全力で捧げ、多くの善縁を結び、慈済人にとって永遠に忘れられない存在となった。

(撮影・鍾文英)

「昇航の人生を振り返ると、本当に価値があると思います。若い頃は慈青(慈済青年ボランティア)のリーダーを努め、卒業後は志業に打ち込みました。拓いて舗装したこの道は彼自身が作ったもので、自ら歩み、自らを利し、彼の心はとても澄んでいました。彼の歩む道を私たちが心配する必要はありません。この縁を、私たちは心から祝福してあげましょう」─證厳法師

一家全員が慈済人

一九七四年四月二十一日、蔡昇航さんはフィリピン華僑の家庭に生まれた。父親の蔡萬擂(ツァイ・ワンレイ)さんと母親の郭麗華(グオ・リーフワァ)さんは、伝統を重んじる素朴な人たちで、四人の子どもを、中国語を学ばせるために台北に送って、小学校に一年通わせた。

一九九四年、五十歳を過ぎた蔡萬擂さんは花蓮を訪れ、證厳法師にこう約束した─「来年、家族全員を連れて帰ってきます」。一九九五年四月、蔡萬擂さんは家族を連れ精舎を訪れた。「一家で初めて證厳法師と共に写真を撮りましたが、写真に写った皆の顔は、どこかやつれて見えました」。(写真1)

当時、昇航さんは二十一歳で、こう振り返った。「私たちは皆、慈済のことを全く知りませんでした。興奮していたのは父だけで、私たちは台湾に遊びに行くものだと思っていました。ところが、慈済病院に連れて行かれ、医療ボランティアをすることになったのです。しかし、病院で奉仕したことで、この団体がとても特別で、他の団体とは全く違うと感じました」。彼は、フィリピンに戻ると、慈済の活動に参加するようになった。一九九七年に大学を卒業し、慈誠隊員の認証を授かった。また同年九月には、彼の企画に基づいて、フィリピン慈青懇親会が設立された。

昇航さんの弟と二人の妹は台湾の慈済で奉仕し、彼はフィリピンで家業と事業、志業を担った。二〇〇五年、同じく慈済ボランティアの黄亮亮(フワォン ・リィァンリィァン)さんと結婚し、まだ整地が完了していなかった慈済マニラ志業パークで結婚式を挙げ、「幸福な人生講座」という形式で、全ての来賓が慈済を理解できるようにした。結婚式のご祝儀は、全て施療センターの建設基金に寄付した。

婿と嫁を含めて、一家全員が慈済人である。(写真2)。台湾とフィリピンの二カ所に分かれて住み、同じテーブルで食事をすることは滅多になく、緊急災害支援の時にだけ、一家は団らんの時間を持つことができた。これについて蔡萬擂さんは、同じ師を持ち、同じ道を歩む縁を大切にし、四六時中一緒にいるよりも、心が通じ合っていることの方が大切だと述べた。「私は家庭教育と身をもって教えることを非常に重視しています。慈済に接してからは、さらに仏教を合わせて家庭に取り入れています。我が家の三教はこの三つなのです」。

今年、昇航さんが花蓮の慈済病院で治療を受けていた時、蔡萬擂さんは集中治療室にいる息子のことを思い、メッセージで励ました。「これは大きな試練で、君の忍耐力を鍛えるためのものだ。自分を信じ、決して諦めてはいけない。世界の慈済人としての模範になりなさい」。

(写真1、写真2提供・花蓮本部)

證厳法師を安心させる弟子となる

フィリピンには、毎年二十幾つもの台風が上陸する。台風の上陸や強い地震による災害に加え、貧民地区でよく見られる火災も、昇航さんの気がかりなことだった。ほぼ毎月数回、数百世帯から千世帯規模の緊急支援物資の配付を行ってきた。昇航さんは、このような慈善活動の流れにとても詳しいが、二〇〇九年の台風一六号(ケッサーナ)では、初めて一万人による「仕事を与えて支援に代える活動」が実施され、大規模な清掃と地域の復旧活動が行われた。

最初、ボランティアたちは、なぜ日当を現地の賃金に合わせた二百六十ペソではなく、五百ペソに引き上げる指示が出たのか理解できず、なかなか行動に移さなかった。「私たちは怖くなり、自信がありませんでした。実は、『皆が白いズボンを履いて清掃を呼び掛けたのを見て、疑念を抱いていた』と後になって、現地ボランティアも言っていたのです」。

昇航さんはその後、證厳法師の思いやりが理解できた。「祝福金は元々被災者に渡すものであり、作業を依頼し、自分たちの家を自分たちの手で清掃してもらうのだから、感謝しなければならない」ということだった。「私たちは心を開いて、『自分の無私を信じ、人の愛を信じる』ことが必要であり、心の在り方を変え、愛でもって人々を迎え入れるべきです」。

その時、昇航さんは「證厳法師のお言葉に従う」覚悟を持った。その後、二〇一三年に台風三十号(ハイエン)被害で、慈済は再び「仕事を与えて支援に代える活動」を実施した。十九日間で延べ三十万人以上が参加し、彼は人々に慈済の理念を伝え(写真3)、やがて現地ボランティアを育てあげた。二〇一九年九月、ミンダナオ島ダバオ市で水害被災地を視察し、同様に「仕事を与えて支援に代える活動」を実施した(写真4)。

この数十年にわたる経験を経て、昇航さんは「フィリピン災害復興支援の王子」と称されるようになった。「どうしてそんなに若いうちから慈済に積極的に取り組んでいるのですか?とよく聞かれます。上人は私たちの一大事因縁なのですから。上人の弟子として、本分を尽くし、上人に安心してもらえることをすべきだと思っています」。

(写真3撮影・黄筱哲、写真4撮影・アンナ・ジェロニモ)

(写真5撮影・莊慧貞)

謙虚さと慈悲心で人々の心を動かす

昇航さんは、中国語、台湾語、英語、フィリピン語に精通し、慈済の理念も熟知していた。緊急支援物資の配付や灌仏会など、数千人から一万人を超える規模の活動現場でも、静寂な雰囲気の中で円滑に進行できたのは、躍動的かつユーモアあふれる彼のリーダーシップによるところが多い。

台風三十号(ハイエン)による被害が甚大だったタクロバン市で、昇航さんは「仕事を与えて支援に代える活動」に参加した住民たちを率いて、心を込めて祈りを捧げた。マリキナ市の住民も呼びかけに応え、「仕事を与えて支援に代える活動」に参加し、竹筒募金箱を引き受けた。また、メトロマニラのラスピニャス市の老朽化した住宅街での大火災では、被災者たちを優しく慰めた。

昇航さんは慈済の志業をより多くのボランティアと共に担う必要があると理解していたので、現地のボランティアを育成すると共に、彼らの信仰や背景、文化、言語を尊重し、「慈悲等観(誰に対しても分け隔てのない慈悲)」の心で以てケアした。

コロナ禍の間、彼は、ウイルスの猛威、封鎖政策、慈済の使命の間でとても苦悩した。彼は、苦しんでいる人がさらに苦しみ、医療従事者がもっと大変になることを心配した。コロナ禍で、フィリピンの慈済人は、十万世帯を対象にした米の救済配付活動を開始し、その直後に台風被害が発生したが、ボランティアをいつもと同じように動員して、災害復興支援にあたった。昇航さんは、「一つの灯火、一本の蝋燭になろうと自分に言い聞かせました。苦しんでいる人々は暗闇の中におり、彼らはどれほど私たちが心の灯りを灯し、助けを必要としていることでしょう」と述べた。

昇航さんの死は、現地のボランティアに深い悲しみをもたらした。台風三十号の後、彼が長年寄り添ってきたオルモックのボランティアや奨学生たちは、慈済の活動センターに集まり、追悼の意を表した。「私たちは一堂に会して彼との日々の一つひとつを静かに思い返し、彼の優しい善良な心と、無私の貢献に満ちた人生を共に偲びました。信仰と愛の中で共に歩み、謙虚、奉仕、慈悲心で多くの人々に感動を与えた魂を温かく見送り、最後の祝福とします」。

昇航さんが一九九八年に證厳法師へ宛てた手紙からは、すでに彼の深い覚悟が見られた。「海外に身を置く私たちですが、上人のご負担を少しでも軽くしたく、永遠に上人の最も素直で思いやりのある弟子となることを誓います」。その誓いを、彼はすべて成し遂げたのである。

(慈済月刊七〇四期より)

(写真6撮影・エリージャ、写真7撮影・黄紅紅)

慈済フィリピン支部副執行長の蔡昇航(ツァイ・ションハン)さんは、六月二日、希な病気で亡くなった。五十一年の生涯のうち、三十年を志業に全力で捧げ、多くの善縁を結び、慈済人にとって永遠に忘れられない存在となった。

(撮影・鍾文英)

「昇航の人生を振り返ると、本当に価値があると思います。若い頃は慈青(慈済青年ボランティア)のリーダーを努め、卒業後は志業に打ち込みました。拓いて舗装したこの道は彼自身が作ったもので、自ら歩み、自らを利し、彼の心はとても澄んでいました。彼の歩む道を私たちが心配する必要はありません。この縁を、私たちは心から祝福してあげましょう」─證厳法師

一家全員が慈済人

一九七四年四月二十一日、蔡昇航さんはフィリピン華僑の家庭に生まれた。父親の蔡萬擂(ツァイ・ワンレイ)さんと母親の郭麗華(グオ・リーフワァ)さんは、伝統を重んじる素朴な人たちで、四人の子どもを、中国語を学ばせるために台北に送って、小学校に一年通わせた。

一九九四年、五十歳を過ぎた蔡萬擂さんは花蓮を訪れ、證厳法師にこう約束した─「来年、家族全員を連れて帰ってきます」。一九九五年四月、蔡萬擂さんは家族を連れ精舎を訪れた。「一家で初めて證厳法師と共に写真を撮りましたが、写真に写った皆の顔は、どこかやつれて見えました」。(写真1)

当時、昇航さんは二十一歳で、こう振り返った。「私たちは皆、慈済のことを全く知りませんでした。興奮していたのは父だけで、私たちは台湾に遊びに行くものだと思っていました。ところが、慈済病院に連れて行かれ、医療ボランティアをすることになったのです。しかし、病院で奉仕したことで、この団体がとても特別で、他の団体とは全く違うと感じました」。彼は、フィリピンに戻ると、慈済の活動に参加するようになった。一九九七年に大学を卒業し、慈誠隊員の認証を授かった。また同年九月には、彼の企画に基づいて、フィリピン慈青懇親会が設立された。

昇航さんの弟と二人の妹は台湾の慈済で奉仕し、彼はフィリピンで家業と事業、志業を担った。二〇〇五年、同じく慈済ボランティアの黄亮亮(フワォン ・リィァンリィァン)さんと結婚し、まだ整地が完了していなかった慈済マニラ志業パークで結婚式を挙げ、「幸福な人生講座」という形式で、全ての来賓が慈済を理解できるようにした。結婚式のご祝儀は、全て施療センターの建設基金に寄付した。

婿と嫁を含めて、一家全員が慈済人である。(写真2)。台湾とフィリピンの二カ所に分かれて住み、同じテーブルで食事をすることは滅多になく、緊急災害支援の時にだけ、一家は団らんの時間を持つことができた。これについて蔡萬擂さんは、同じ師を持ち、同じ道を歩む縁を大切にし、四六時中一緒にいるよりも、心が通じ合っていることの方が大切だと述べた。「私は家庭教育と身をもって教えることを非常に重視しています。慈済に接してからは、さらに仏教を合わせて家庭に取り入れています。我が家の三教はこの三つなのです」。

今年、昇航さんが花蓮の慈済病院で治療を受けていた時、蔡萬擂さんは集中治療室にいる息子のことを思い、メッセージで励ました。「これは大きな試練で、君の忍耐力を鍛えるためのものだ。自分を信じ、決して諦めてはいけない。世界の慈済人としての模範になりなさい」。

(写真1、写真2提供・花蓮本部)

證厳法師を安心させる弟子となる

フィリピンには、毎年二十幾つもの台風が上陸する。台風の上陸や強い地震による災害に加え、貧民地区でよく見られる火災も、昇航さんの気がかりなことだった。ほぼ毎月数回、数百世帯から千世帯規模の緊急支援物資の配付を行ってきた。昇航さんは、このような慈善活動の流れにとても詳しいが、二〇〇九年の台風一六号(ケッサーナ)では、初めて一万人による「仕事を与えて支援に代える活動」が実施され、大規模な清掃と地域の復旧活動が行われた。

最初、ボランティアたちは、なぜ日当を現地の賃金に合わせた二百六十ペソではなく、五百ペソに引き上げる指示が出たのか理解できず、なかなか行動に移さなかった。「私たちは怖くなり、自信がありませんでした。実は、『皆が白いズボンを履いて清掃を呼び掛けたのを見て、疑念を抱いていた』と後になって、現地ボランティアも言っていたのです」。

昇航さんはその後、證厳法師の思いやりが理解できた。「祝福金は元々被災者に渡すものであり、作業を依頼し、自分たちの家を自分たちの手で清掃してもらうのだから、感謝しなければならない」ということだった。「私たちは心を開いて、『自分の無私を信じ、人の愛を信じる』ことが必要であり、心の在り方を変え、愛でもって人々を迎え入れるべきです」。

その時、昇航さんは「證厳法師のお言葉に従う」覚悟を持った。その後、二〇一三年に台風三十号(ハイエン)被害で、慈済は再び「仕事を与えて支援に代える活動」を実施した。十九日間で延べ三十万人以上が参加し、彼は人々に慈済の理念を伝え(写真3)、やがて現地ボランティアを育てあげた。二〇一九年九月、ミンダナオ島ダバオ市で水害被災地を視察し、同様に「仕事を与えて支援に代える活動」を実施した(写真4)。

この数十年にわたる経験を経て、昇航さんは「フィリピン災害復興支援の王子」と称されるようになった。「どうしてそんなに若いうちから慈済に積極的に取り組んでいるのですか?とよく聞かれます。上人は私たちの一大事因縁なのですから。上人の弟子として、本分を尽くし、上人に安心してもらえることをすべきだと思っています」。

(写真3撮影・黄筱哲、写真4撮影・アンナ・ジェロニモ)

(写真5撮影・莊慧貞)

謙虚さと慈悲心で人々の心を動かす

昇航さんは、中国語、台湾語、英語、フィリピン語に精通し、慈済の理念も熟知していた。緊急支援物資の配付や灌仏会など、数千人から一万人を超える規模の活動現場でも、静寂な雰囲気の中で円滑に進行できたのは、躍動的かつユーモアあふれる彼のリーダーシップによるところが多い。

台風三十号(ハイエン)による被害が甚大だったタクロバン市で、昇航さんは「仕事を与えて支援に代える活動」に参加した住民たちを率いて、心を込めて祈りを捧げた。マリキナ市の住民も呼びかけに応え、「仕事を与えて支援に代える活動」に参加し、竹筒募金箱を引き受けた。また、メトロマニラのラスピニャス市の老朽化した住宅街での大火災では、被災者たちを優しく慰めた。

昇航さんは慈済の志業をより多くのボランティアと共に担う必要があると理解していたので、現地のボランティアを育成すると共に、彼らの信仰や背景、文化、言語を尊重し、「慈悲等観(誰に対しても分け隔てのない慈悲)」の心で以てケアした。

コロナ禍の間、彼は、ウイルスの猛威、封鎖政策、慈済の使命の間でとても苦悩した。彼は、苦しんでいる人がさらに苦しみ、医療従事者がもっと大変になることを心配した。コロナ禍で、フィリピンの慈済人は、十万世帯を対象にした米の救済配付活動を開始し、その直後に台風被害が発生したが、ボランティアをいつもと同じように動員して、災害復興支援にあたった。昇航さんは、「一つの灯火、一本の蝋燭になろうと自分に言い聞かせました。苦しんでいる人々は暗闇の中におり、彼らはどれほど私たちが心の灯りを灯し、助けを必要としていることでしょう」と述べた。

昇航さんの死は、現地のボランティアに深い悲しみをもたらした。台風三十号の後、彼が長年寄り添ってきたオルモックのボランティアや奨学生たちは、慈済の活動センターに集まり、追悼の意を表した。「私たちは一堂に会して彼との日々の一つひとつを静かに思い返し、彼の優しい善良な心と、無私の貢献に満ちた人生を共に偲びました。信仰と愛の中で共に歩み、謙虚、奉仕、慈悲心で多くの人々に感動を与えた魂を温かく見送り、最後の祝福とします」。

昇航さんが一九九八年に證厳法師へ宛てた手紙からは、すでに彼の深い覚悟が見られた。「海外に身を置く私たちですが、上人のご負担を少しでも軽くしたく、永遠に上人の最も素直で思いやりのある弟子となることを誓います」。その誓いを、彼はすべて成し遂げたのである。

(慈済月刊七〇四期より)

(写真6撮影・エリージャ、写真7撮影・黄紅紅)

關鍵字

日常生活こそが旅

問:

夏休みや冬休みに海外旅行へ行くのは、今の子どもたちにとって珍しいことではありませんが、家庭の事情によって旅行に行けない子どももいます。新学期が始まった後、子ども同士が比較したり、旅行に行けなかった子が気落ちしたりするのをどう防げばよいのでしょうか?

答:新学期が始まって一週間後、瑩(イン)ちゃん(仮名)は放課後、落ち込んだ様子で担任の先生のところへやってきました。クラスの多くの同級生が海外のお菓子を持ってきて皆に分けたり、旅行の話を話し合っていたりしても、彼女は横で聞いているだけで、会話に加わることができなかった、と言いました。彼女の落ち込んだ様子を見て、先生は瑩ちゃんの肩を抱きながら、いくつかの実話や、休暇を充実させる良い方法を教えてあげました。

或る先輩によると、両親はブルーカラーで、海外旅行に行く余裕がなかったそうです。しかし、その先輩は一生懸命勉強してT大学に合格し、大学の奨学金をもらって、半年間の海外交換留学に応募しました。そして休暇のたびに、近隣の観光地へ列車で出かけ、数日間旅行を楽しんでいたそうです。この半年間は、これまで叶えられなかった「海外へ行く夢」を実現し、忘れられない思い出ができたと言っていました。

「今は様々な事情で海外へ行けないかもしれないけど、それは将来も行けないという意味ではないよ。自分の力で行ける日が来れば、喜びはきっともっと大きくなると思う」と先生は心を込めて瑩ちゃんに言いました。

台湾の自然と人情に恋し

台湾には、美しい山や海など、忘れられない風景がたくさんあります。

「私はいろんな国を訪れましたが、台湾の人情味と美しい風景、おいしい食べ物ほど人を惹きつける場所は他にありません」と、或るおばあさんが言っていました。
 
先生が、授業中に台湾各地の特色ある観光地の映像を見せて、生徒たちに行ってみたい場所を選ばせ、交通手段、ルート、宿泊場所などを自分で調べて計画させるのも一つの方法です。そして旅行後に感想文を書かせ、学期が始まったら、発表の場を設けたらいいでしょう。きっと良い影響が広がり、生徒たちは自分の住む土地について深く知るようになり、台湾に対する愛着も深まることでしょう。

このような創意工夫にあふれた授業を通じて、生徒たちの学習意欲を引き出すことができれば、それぞれの冬休み・夏休みがより有意義なものになるはずです。

子どもの心に無限の世界を育む

冬休みや夏休みが近づくと、確かに多くの家庭では海外旅行を計画します。しかし、共働きのために長期間の旅行が難しかったり、一家全員の旅費を負担できなかったりする家庭もあります。ここで保護者の皆さんに言いたいのは、「周りがそうだから」と、無理して旅行をする必要はないということです。一旦「みんなと同じように」となると、どうしても比較したり、見栄を張ったりする心理が生まれてしまいます。

或る親子教育の専門家で双子の母親は、次のように述べたことがあります。「何事もできる範囲内で精一杯やればいいのです。実は、子どもは親が海外に連れて行ってくれるかどうかよりも、心から愛情と時間を使って一緒に過ごしてくれることを望んでいるのです。意味のない旅行に参加させるよりも、日常生活を通じて観察力や考える力を育む方が、ずっと価値があります。感受性を持った子どもは、どんなに平凡な草木でも美しいと感じ、一杯のご飯にもありがたみを感じるのです。これこそが、旅の本当の意義だと思います」。

先生は、冬休みや夏休み前に、子どもと一緒に数日の地元旅行の計画を立てることを、保護者に勧めてもいいでしょう。心を込めて子どもと一緒に、台湾の自然を満喫することで、きっと家族全員が充実を感じ、意義のある休暇になるはずです。

「心の中に無数の世界を持っている子どもこそ、遠くへ旅立つ力を持っています」と或る教育者が言いました。教師と保護者が子どもに与えることができる最も素晴らしい贈り物は、生命の素晴らしさと情熱を心から感じてもらうことです。周囲に流されず、自分の世界を豊かに広げることです。これこそ、親と教師と子供の三者が共に目指す目標にしていいのではないでしょうか。

(慈済月刊七〇三期より)

問:

夏休みや冬休みに海外旅行へ行くのは、今の子どもたちにとって珍しいことではありませんが、家庭の事情によって旅行に行けない子どももいます。新学期が始まった後、子ども同士が比較したり、旅行に行けなかった子が気落ちしたりするのをどう防げばよいのでしょうか?

答:新学期が始まって一週間後、瑩(イン)ちゃん(仮名)は放課後、落ち込んだ様子で担任の先生のところへやってきました。クラスの多くの同級生が海外のお菓子を持ってきて皆に分けたり、旅行の話を話し合っていたりしても、彼女は横で聞いているだけで、会話に加わることができなかった、と言いました。彼女の落ち込んだ様子を見て、先生は瑩ちゃんの肩を抱きながら、いくつかの実話や、休暇を充実させる良い方法を教えてあげました。

或る先輩によると、両親はブルーカラーで、海外旅行に行く余裕がなかったそうです。しかし、その先輩は一生懸命勉強してT大学に合格し、大学の奨学金をもらって、半年間の海外交換留学に応募しました。そして休暇のたびに、近隣の観光地へ列車で出かけ、数日間旅行を楽しんでいたそうです。この半年間は、これまで叶えられなかった「海外へ行く夢」を実現し、忘れられない思い出ができたと言っていました。

「今は様々な事情で海外へ行けないかもしれないけど、それは将来も行けないという意味ではないよ。自分の力で行ける日が来れば、喜びはきっともっと大きくなると思う」と先生は心を込めて瑩ちゃんに言いました。

台湾の自然と人情に恋し

台湾には、美しい山や海など、忘れられない風景がたくさんあります。

「私はいろんな国を訪れましたが、台湾の人情味と美しい風景、おいしい食べ物ほど人を惹きつける場所は他にありません」と、或るおばあさんが言っていました。
 
先生が、授業中に台湾各地の特色ある観光地の映像を見せて、生徒たちに行ってみたい場所を選ばせ、交通手段、ルート、宿泊場所などを自分で調べて計画させるのも一つの方法です。そして旅行後に感想文を書かせ、学期が始まったら、発表の場を設けたらいいでしょう。きっと良い影響が広がり、生徒たちは自分の住む土地について深く知るようになり、台湾に対する愛着も深まることでしょう。

このような創意工夫にあふれた授業を通じて、生徒たちの学習意欲を引き出すことができれば、それぞれの冬休み・夏休みがより有意義なものになるはずです。

子どもの心に無限の世界を育む

冬休みや夏休みが近づくと、確かに多くの家庭では海外旅行を計画します。しかし、共働きのために長期間の旅行が難しかったり、一家全員の旅費を負担できなかったりする家庭もあります。ここで保護者の皆さんに言いたいのは、「周りがそうだから」と、無理して旅行をする必要はないということです。一旦「みんなと同じように」となると、どうしても比較したり、見栄を張ったりする心理が生まれてしまいます。

或る親子教育の専門家で双子の母親は、次のように述べたことがあります。「何事もできる範囲内で精一杯やればいいのです。実は、子どもは親が海外に連れて行ってくれるかどうかよりも、心から愛情と時間を使って一緒に過ごしてくれることを望んでいるのです。意味のない旅行に参加させるよりも、日常生活を通じて観察力や考える力を育む方が、ずっと価値があります。感受性を持った子どもは、どんなに平凡な草木でも美しいと感じ、一杯のご飯にもありがたみを感じるのです。これこそが、旅の本当の意義だと思います」。

先生は、冬休みや夏休み前に、子どもと一緒に数日の地元旅行の計画を立てることを、保護者に勧めてもいいでしょう。心を込めて子どもと一緒に、台湾の自然を満喫することで、きっと家族全員が充実を感じ、意義のある休暇になるはずです。

「心の中に無数の世界を持っている子どもこそ、遠くへ旅立つ力を持っています」と或る教育者が言いました。教師と保護者が子どもに与えることができる最も素晴らしい贈り物は、生命の素晴らしさと情熱を心から感じてもらうことです。周囲に流されず、自分の世界を豊かに広げることです。これこそ、親と教師と子供の三者が共に目指す目標にしていいのではないでしょうか。

(慈済月刊七〇三期より)

關鍵字

災害復旧の道

編集者の言葉

台風四号(ダナス)は台湾海峡に沿って北上し、台湾西側の嘉義県布袋鎮に上陸した。これは百年に一度あるかないかの事だった。中型の上限に発達した台風は、十五級の強風(暴風警報基準以上の風)で嘉義県と台南市の沿岸地域に深刻な被害をもたらした。多くの古い家は、屋根瓦やトタン屋根、ガラス戸や窓が、強風で吹き飛ばされたり、ひび割れたり、歪んだりした。この地域に数十年間住んでいる多くの住民は、恐怖の面持ちで、こんな強い風は初めてだと語った。地元の慈済ボランティアも大きな災害を被った。

台風が過ぎた後、多くの被災地で断水や停電が発生し、インターネットも不安定になった。慈済ボランティアは役所から支援要請の電話を受け取ると、直ちに出動して炊き出しを行った。そして、被災者を訪問して「安心祝福セット」と緊急支援金を届けると共に、ビニールシートを調達して雨よけの設置を手伝い、電気のこぎりで倒木を片付けるなどの支援をした。台湾全土の若いボランティアに、学校やお寺、果樹園の復旧を手伝って欲しいと呼びかけたほか、修繕や再建支援の評価を開始した。

台湾全土から慈済ボランティアが嘉義県と台南市に集まり、地元ボランティアと共に被災世帯を訪問して寄り添った。気温が高い中での復旧作業は、体力的にも非常に過酷であったが、オンラインでも、ボランティアグループを通してでも申し込みが殺到し、登録開始から瞬時に予約でいっぱいになった。ボランティアを乗せた車が次々と各学校に到着し、一つの学校で清掃が完了すると、チームを編成し直して、次の校舎へ移動したが、ボランティアは被災地に負担をかけたくないため、学校側からの食事の提供を辞退した。

月刊誌『慈済』のスタッフが、ボランティアに同行して取材したのだが、執筆者の周伝斌(ヅォウ・チュアンビン)さんは、ボランティアたちが過去の支援の経験を活かして同時に複数の作業を行っている様子を目にした。「特に温かい食事の提供は得難いものでした。水も電気も不足していた数日間は、家にどれだけ食材があっても、一品の料理も作れなかったのですから」。

撮影記者の黃筱哲(フワォン・シャオヅォ)さんは、地元ボランティアの発心に心を打たれた。彼ら自身も被災したにもかかわらず、自分たちの家の清掃や修繕作業を後回しにし、いち早く緊急援助の隊列に加わったのだ。被災した住民も温かく親切に対応し、互いに慰め合う場面も見られた。無事でいてくれさえすれば、それで十分だった。容赦ない風雨の中でも互いに理解し支え合うことこそが、最良の再建方法なのである。

慈済は、長年にわたって緊急災害支援の経験を積み重ね、災害救済モデルを完成させている。ボランティア同士にも暗黙の了解が存在するが、益々頻繁に起こる気候災害や高齢化という社会現象と向き合ううちに、レジリエンス(回復力)を向上させることが、災害後の思考及び精進の方向性となっていった。

今年の六月から七月にかけては、台湾の台風被害だけでなく、オーストラリア東海岸では爆弾低気圧が発生し、西ヨーロッパでは熱波が、アメリカ・カリフォルニア州中部ではマドレ火災が、ギリシア・クレタ島では山火事が、日本の鹿児島県では地震が頻発していることから、科学技術が急速に発展する時代に生きていても、人類は危機に満ちた地球という惑星に住んでいるのだと感じさせられる。

今月号の『慈済SDGsレポートシリーズ』では、 慈済の環境保全志業三十五周年を始めとして、ネットゼロという目標の実現に向けた慈済環境保全ボランティアの取組みを報道している。環境保全と気候災害はどういう関係があるのか。その答えはこれらの文章の中にある。

(慈済月刊七〇五期より)

編集者の言葉

台風四号(ダナス)は台湾海峡に沿って北上し、台湾西側の嘉義県布袋鎮に上陸した。これは百年に一度あるかないかの事だった。中型の上限に発達した台風は、十五級の強風(暴風警報基準以上の風)で嘉義県と台南市の沿岸地域に深刻な被害をもたらした。多くの古い家は、屋根瓦やトタン屋根、ガラス戸や窓が、強風で吹き飛ばされたり、ひび割れたり、歪んだりした。この地域に数十年間住んでいる多くの住民は、恐怖の面持ちで、こんな強い風は初めてだと語った。地元の慈済ボランティアも大きな災害を被った。

台風が過ぎた後、多くの被災地で断水や停電が発生し、インターネットも不安定になった。慈済ボランティアは役所から支援要請の電話を受け取ると、直ちに出動して炊き出しを行った。そして、被災者を訪問して「安心祝福セット」と緊急支援金を届けると共に、ビニールシートを調達して雨よけの設置を手伝い、電気のこぎりで倒木を片付けるなどの支援をした。台湾全土の若いボランティアに、学校やお寺、果樹園の復旧を手伝って欲しいと呼びかけたほか、修繕や再建支援の評価を開始した。

台湾全土から慈済ボランティアが嘉義県と台南市に集まり、地元ボランティアと共に被災世帯を訪問して寄り添った。気温が高い中での復旧作業は、体力的にも非常に過酷であったが、オンラインでも、ボランティアグループを通してでも申し込みが殺到し、登録開始から瞬時に予約でいっぱいになった。ボランティアを乗せた車が次々と各学校に到着し、一つの学校で清掃が完了すると、チームを編成し直して、次の校舎へ移動したが、ボランティアは被災地に負担をかけたくないため、学校側からの食事の提供を辞退した。

月刊誌『慈済』のスタッフが、ボランティアに同行して取材したのだが、執筆者の周伝斌(ヅォウ・チュアンビン)さんは、ボランティアたちが過去の支援の経験を活かして同時に複数の作業を行っている様子を目にした。「特に温かい食事の提供は得難いものでした。水も電気も不足していた数日間は、家にどれだけ食材があっても、一品の料理も作れなかったのですから」。

撮影記者の黃筱哲(フワォン・シャオヅォ)さんは、地元ボランティアの発心に心を打たれた。彼ら自身も被災したにもかかわらず、自分たちの家の清掃や修繕作業を後回しにし、いち早く緊急援助の隊列に加わったのだ。被災した住民も温かく親切に対応し、互いに慰め合う場面も見られた。無事でいてくれさえすれば、それで十分だった。容赦ない風雨の中でも互いに理解し支え合うことこそが、最良の再建方法なのである。

慈済は、長年にわたって緊急災害支援の経験を積み重ね、災害救済モデルを完成させている。ボランティア同士にも暗黙の了解が存在するが、益々頻繁に起こる気候災害や高齢化という社会現象と向き合ううちに、レジリエンス(回復力)を向上させることが、災害後の思考及び精進の方向性となっていった。

今年の六月から七月にかけては、台湾の台風被害だけでなく、オーストラリア東海岸では爆弾低気圧が発生し、西ヨーロッパでは熱波が、アメリカ・カリフォルニア州中部ではマドレ火災が、ギリシア・クレタ島では山火事が、日本の鹿児島県では地震が頻発していることから、科学技術が急速に発展する時代に生きていても、人類は危機に満ちた地球という惑星に住んでいるのだと感じさせられる。

今月号の『慈済SDGsレポートシリーズ』では、 慈済の環境保全志業三十五周年を始めとして、ネットゼロという目標の実現に向けた慈済環境保全ボランティアの取組みを報道している。環境保全と気候災害はどういう関係があるのか。その答えはこれらの文章の中にある。

(慈済月刊七〇五期より)

關鍵字

一夜の風雨 一万人余りのボランティアが支援に来た

嘉義や台南の沿岸一帯の村々で被災状況を調査していると、よく「これほど強い台風は今までになかった!」と言う言葉が聞かれた。

その後、一瞬の沈黙が流れた。まるで、あの夜の恐怖の記憶が蘇ったかのようだった。お年寄りは無念そうに首を振り、黙り込んで、それ以上語ろうとしなかった。

七月六日午後十一時ごろ、中型の台風四号(ダナス)が、珍しく台湾南西部の嘉義県と台南市の境にある布袋鎮から上陸した。暴風域はそのまま内陸へと進み、嘉義と台南に甚大な被害をもたらした。多くの独居高齢者は、この状況にひとりで向き合うことを余儀なくされた。取材中、彼らの多くは当時の様子を簡単な言葉で語った。

「本当に怖かった!」

「『ドン!』って、すごい音がしたの!」と或るお婆さんが言った。長年自分が暮らしてきた古い家が壊れてしまった悲しみからなのか、あの夜の風雨の恐ろしさがまだ収まらなかったせいなのか、ふと声を詰まらせた。

通信不通 
最も原始的な形に戻った家庭訪問

台風が去ってから二日後、台南と嘉義市の中心では、破れたビニールシートやめくれたトタン屋根、折れた大木の枝などが街の隅に散らばり、被害の痕跡を見て取ることができた。

垂れた電線に沿って沿岸一帯へ進むと、傾いたり、折れたりしたコンクリート製の電柱や点灯しない信号機、道路に散乱した大量の枝や木の幹、屋根のない家々といった台風被害の光景が、ようやく目に飛び込んできた。

台風四号により、台湾全土で約二千五百本近い電柱が折れたり、倒れたりし、過去の記録を更新した。市街地の電力が復旧しても、海岸部や郊外の一部の被災地では、まだ明かりがつかなかった。多くの家庭に足を踏み入れると、鼻を突く湿気とカビの臭いを感じると共に、室内は昼間にもかかわらず真っ暗だった。沿岸地域のかなりの村では、五日目になってもなお停電が続き、台南市内では十二の学区で休校が続いていた。

七月七日の早朝に風雨が収まると、慈済ボランティアは直ちに嘉義と台南などで支援活動を開始し、被害調査と温かい食事の配付、清掃活動など多岐にわたって、同時に行動を開始した。災害後の断水と停電の中、温かい食事は特に貴重であり、里長や区役所から次々と食事提供の要望が寄せられた。災害から一週間経っても、嘉義と台南の香積(調理)チームは温かい食事の提供を続けていた。

慈済ボランティアの石瑞銓(スー・ルィチュエン)さんは、今回の災害で、嘉義の被災地における特殊性について次のように説明した。「被害が各地に散在し、停電やインターネット不通の状況下で、田舎の高齢者も積極的に助けを求めることが非常に困難になっているのです」。このような状況で、温かい食事や緊急支援金の配付に大きな課題をもたらした。特に、弱者層の人数や被害状況を迅速かつ全体的に把握することが難しかった。通信が途絶え、区役所などの公的機関も停電により資料の提供ができないため、被害調査や支援活動は、人と人の直接的な接触に立ち返る必要があった。慈済のスタッフと村長や里長が一軒一軒訪問するか、住民からの自主的な支援の申し出を待つしかない。

ボランティアは「安心家庭訪問」を行い、お見舞いの品と證厳法師の手紙を被災者に届けると同時に、被災状況の調査と援助の査定を行った。(撮影・黄筱哲)

今日調査、明日直ちに必要物資を補給

台南市七股区頂山里は郊外に位置しているが、台風被害に見舞われた翌日の七月七日には、里長が慈済と連絡を取り、ボランティアが必要な温かい食事の数を確認して、できる限り早く届けた。

嘉義の六脚郷や布袋鎮などの地域では、点在した被害や区域的な被害の両方が見られた。停電やインターネット不通の状況下で、ソーシャルワーカーやボランティアは複数のルートに分かれて異なる町村を巡回して、家庭訪問を行った。七月九日の早朝、慈済のソーシャルワーカーである陳彦睿(チェン・イェンルイ)さんとボランティアの謝惠芬(シェ・フウェイフェン)さんは、六脚郷で九世帯の被災者を訪問し、二つの村や町を跨いだため、半日以上を費やした。訪問後、陳さんは慈済嘉義連絡所の災害対策センターに戻り、状況を報告した。会議が終わった時は、すでに夜の七時半になっていた。

点在した被災者は嘉義の各区に住んでいて、沿岸部に入ると区域的な被害が見られた。七月十日、布袋の慈済ボランティア、蔡琬雯(ツァイ・ワンウェン)さんからの報告を受け、チームは数カ所で現地調査を行った。そのうち布袋鎮復興里では、一列に並んだ、三階建ての家の屋根がすべて吹き飛ばされ、更に飛んできたトタンによって路地が塞がれていた。

ボランティアが到着する前に激しい雨が降った。滝のような雨水が直接屋根から流れ落ち、そのまま階下へ流れていった。村人たちの家々はすべて浸水し、一軒たりとも免れた家はなかった。

村長の案内のもとで、ボランティアは被害が最も深刻な路地を訪ね歩いた。その中で蔡さんはすでに数日間奔走した。彼女は、慈済による住宅の修繕や福祉用具の提供、ケアケースの件で、村長とは以前から長期にわたり関わりがあった。普段から村の里長とも連絡を取り合っていたため、タイムリーに被害状況を報告してくれた。

布袋鎮復興里の状況を調査した後、ボランティアはそこを甚大被災地区と判定した。被害の深刻さを考慮して、人手が最も多い週末を待たず、翌日に五十世帯余りに緊急支援金を届けた。

同じ七月十一日、台南では完全なデータが揃った七股区から「安心家庭訪問」を開始し、連続二日間で合計二千四百世帯余りを訪問した。その後、北門区、学甲区、将軍区などでも公的機関から提供されたデータを基に迅速に展開すると共に、弱者層の被災世帯に緊急支援金を届けた。

七股区頂山里で家庭訪問を行った慈済ボランティアの賴秀鸞(ライ・シュウラン)さんは、こう説明した。この一万元の緊急支援金は、住宅被害の補助金ではなく、緊急災害救助で生活補助に当たり、被災者がすぐに現金を使えるようにとの配慮で配付されたのだ。

損壊した屋根の修理には建材と専門職人が必要だが、被災地域が広範で、人手や資材が不足していたため、慈済は専門チームに委託すると共に、すでに台湾全土からビニールシートを調達して、損壊した家の屋根を一時的に覆えるようにした。

家庭訪問の過程で、忘れがたい光景がいくつかあった。その中の一つが布袋鎮の虎尾寮である。海岸沿いに位置する虎尾寮では、一列に並んだ戸建て住宅が、遠くから見ると廃墟のように見えた。ある家は二階正面に大きな穴が開き、三階のトタン屋根も吹き飛ばされていた。二階と三階の内部が丸見えで、災害後の数日間の雨水が溜まっていた。

家主の女性には、悲しむ理由が十分にあった。しかし、ボランティアが訪ねて来た時、彼女は笑顔を見せた。誠実な眼差しと輝くような笑顔は、まさに強さを象徴していた。

付近ではかなりの家の屋根が強風で吹き飛ばされ、生活のための漁船さえも破壊された。住民の顔には、疲れや不機嫌はあったかもしれないが、それでも明日を迎える前向きさと楽観さは失っていなかった。「彼らの口からは、一言も愚痴を聞いたことがありません」と一緒に訪れたボランティアの石さんは、心から感嘆した。「ここに足を運んで初めて、住民の純朴さが見えました」とベテランボランティアの葉麗卿(イェ・リーチン)さんが言った。

財産の損失や体調不良という困難な状況の中で、被災者の楽観さと前向きな気持ちは、何より貴いものであり、なかなかできることではない。また、自分も被災した慈済ボランティアや他の慈善団体、村や地区の役員、台湾全土から集まった電力会社の修理スタッフ、清掃を手伝う青年ボランティアたちなどの人々は、使命感と責任感、そして住民への思いやりから、進んで支援に駆けつけたのである。一人ひとりの顔には、容赦のない災害を乗り越えた後も失っていない強靭さが表れていた。復旧の力が嘉南平野に注がれ続け、風雨が過ぎた後には、平安が訪れた。

(慈済月刊七〇五期より)

台風が上陸し、被災した嘉義県布袋鎮の空中写真。強い突風で民家の屋根が酷く損傷している。(撮影・黄文徴)

停電と断水で食事の支度ができなくなった嘉義県と台南市では、多くの慈済の会所が炊き出しを続け、被災地に届けた。住民と懇意にしている嘉義県布袋鎮江山里の里長は、自ら弁当を届けていた。(撮影・黄筱哲)

嘉義や台南の沿岸一帯の村々で被災状況を調査していると、よく「これほど強い台風は今までになかった!」と言う言葉が聞かれた。

その後、一瞬の沈黙が流れた。まるで、あの夜の恐怖の記憶が蘇ったかのようだった。お年寄りは無念そうに首を振り、黙り込んで、それ以上語ろうとしなかった。

七月六日午後十一時ごろ、中型の台風四号(ダナス)が、珍しく台湾南西部の嘉義県と台南市の境にある布袋鎮から上陸した。暴風域はそのまま内陸へと進み、嘉義と台南に甚大な被害をもたらした。多くの独居高齢者は、この状況にひとりで向き合うことを余儀なくされた。取材中、彼らの多くは当時の様子を簡単な言葉で語った。

「本当に怖かった!」

「『ドン!』って、すごい音がしたの!」と或るお婆さんが言った。長年自分が暮らしてきた古い家が壊れてしまった悲しみからなのか、あの夜の風雨の恐ろしさがまだ収まらなかったせいなのか、ふと声を詰まらせた。

通信不通 
最も原始的な形に戻った家庭訪問

台風が去ってから二日後、台南と嘉義市の中心では、破れたビニールシートやめくれたトタン屋根、折れた大木の枝などが街の隅に散らばり、被害の痕跡を見て取ることができた。

垂れた電線に沿って沿岸一帯へ進むと、傾いたり、折れたりしたコンクリート製の電柱や点灯しない信号機、道路に散乱した大量の枝や木の幹、屋根のない家々といった台風被害の光景が、ようやく目に飛び込んできた。

台風四号により、台湾全土で約二千五百本近い電柱が折れたり、倒れたりし、過去の記録を更新した。市街地の電力が復旧しても、海岸部や郊外の一部の被災地では、まだ明かりがつかなかった。多くの家庭に足を踏み入れると、鼻を突く湿気とカビの臭いを感じると共に、室内は昼間にもかかわらず真っ暗だった。沿岸地域のかなりの村では、五日目になってもなお停電が続き、台南市内では十二の学区で休校が続いていた。

七月七日の早朝に風雨が収まると、慈済ボランティアは直ちに嘉義と台南などで支援活動を開始し、被害調査と温かい食事の配付、清掃活動など多岐にわたって、同時に行動を開始した。災害後の断水と停電の中、温かい食事は特に貴重であり、里長や区役所から次々と食事提供の要望が寄せられた。災害から一週間経っても、嘉義と台南の香積(調理)チームは温かい食事の提供を続けていた。

慈済ボランティアの石瑞銓(スー・ルィチュエン)さんは、今回の災害で、嘉義の被災地における特殊性について次のように説明した。「被害が各地に散在し、停電やインターネット不通の状況下で、田舎の高齢者も積極的に助けを求めることが非常に困難になっているのです」。このような状況で、温かい食事や緊急支援金の配付に大きな課題をもたらした。特に、弱者層の人数や被害状況を迅速かつ全体的に把握することが難しかった。通信が途絶え、区役所などの公的機関も停電により資料の提供ができないため、被害調査や支援活動は、人と人の直接的な接触に立ち返る必要があった。慈済のスタッフと村長や里長が一軒一軒訪問するか、住民からの自主的な支援の申し出を待つしかない。

ボランティアは「安心家庭訪問」を行い、お見舞いの品と證厳法師の手紙を被災者に届けると同時に、被災状況の調査と援助の査定を行った。(撮影・黄筱哲)

今日調査、明日直ちに必要物資を補給

台南市七股区頂山里は郊外に位置しているが、台風被害に見舞われた翌日の七月七日には、里長が慈済と連絡を取り、ボランティアが必要な温かい食事の数を確認して、できる限り早く届けた。

嘉義の六脚郷や布袋鎮などの地域では、点在した被害や区域的な被害の両方が見られた。停電やインターネット不通の状況下で、ソーシャルワーカーやボランティアは複数のルートに分かれて異なる町村を巡回して、家庭訪問を行った。七月九日の早朝、慈済のソーシャルワーカーである陳彦睿(チェン・イェンルイ)さんとボランティアの謝惠芬(シェ・フウェイフェン)さんは、六脚郷で九世帯の被災者を訪問し、二つの村や町を跨いだため、半日以上を費やした。訪問後、陳さんは慈済嘉義連絡所の災害対策センターに戻り、状況を報告した。会議が終わった時は、すでに夜の七時半になっていた。

点在した被災者は嘉義の各区に住んでいて、沿岸部に入ると区域的な被害が見られた。七月十日、布袋の慈済ボランティア、蔡琬雯(ツァイ・ワンウェン)さんからの報告を受け、チームは数カ所で現地調査を行った。そのうち布袋鎮復興里では、一列に並んだ、三階建ての家の屋根がすべて吹き飛ばされ、更に飛んできたトタンによって路地が塞がれていた。

ボランティアが到着する前に激しい雨が降った。滝のような雨水が直接屋根から流れ落ち、そのまま階下へ流れていった。村人たちの家々はすべて浸水し、一軒たりとも免れた家はなかった。

村長の案内のもとで、ボランティアは被害が最も深刻な路地を訪ね歩いた。その中で蔡さんはすでに数日間奔走した。彼女は、慈済による住宅の修繕や福祉用具の提供、ケアケースの件で、村長とは以前から長期にわたり関わりがあった。普段から村の里長とも連絡を取り合っていたため、タイムリーに被害状況を報告してくれた。

布袋鎮復興里の状況を調査した後、ボランティアはそこを甚大被災地区と判定した。被害の深刻さを考慮して、人手が最も多い週末を待たず、翌日に五十世帯余りに緊急支援金を届けた。

同じ七月十一日、台南では完全なデータが揃った七股区から「安心家庭訪問」を開始し、連続二日間で合計二千四百世帯余りを訪問した。その後、北門区、学甲区、将軍区などでも公的機関から提供されたデータを基に迅速に展開すると共に、弱者層の被災世帯に緊急支援金を届けた。

七股区頂山里で家庭訪問を行った慈済ボランティアの賴秀鸞(ライ・シュウラン)さんは、こう説明した。この一万元の緊急支援金は、住宅被害の補助金ではなく、緊急災害救助で生活補助に当たり、被災者がすぐに現金を使えるようにとの配慮で配付されたのだ。

損壊した屋根の修理には建材と専門職人が必要だが、被災地域が広範で、人手や資材が不足していたため、慈済は専門チームに委託すると共に、すでに台湾全土からビニールシートを調達して、損壊した家の屋根を一時的に覆えるようにした。

家庭訪問の過程で、忘れがたい光景がいくつかあった。その中の一つが布袋鎮の虎尾寮である。海岸沿いに位置する虎尾寮では、一列に並んだ戸建て住宅が、遠くから見ると廃墟のように見えた。ある家は二階正面に大きな穴が開き、三階のトタン屋根も吹き飛ばされていた。二階と三階の内部が丸見えで、災害後の数日間の雨水が溜まっていた。

家主の女性には、悲しむ理由が十分にあった。しかし、ボランティアが訪ねて来た時、彼女は笑顔を見せた。誠実な眼差しと輝くような笑顔は、まさに強さを象徴していた。

付近ではかなりの家の屋根が強風で吹き飛ばされ、生活のための漁船さえも破壊された。住民の顔には、疲れや不機嫌はあったかもしれないが、それでも明日を迎える前向きさと楽観さは失っていなかった。「彼らの口からは、一言も愚痴を聞いたことがありません」と一緒に訪れたボランティアの石さんは、心から感嘆した。「ここに足を運んで初めて、住民の純朴さが見えました」とベテランボランティアの葉麗卿(イェ・リーチン)さんが言った。

財産の損失や体調不良という困難な状況の中で、被災者の楽観さと前向きな気持ちは、何より貴いものであり、なかなかできることではない。また、自分も被災した慈済ボランティアや他の慈善団体、村や地区の役員、台湾全土から集まった電力会社の修理スタッフ、清掃を手伝う青年ボランティアたちなどの人々は、使命感と責任感、そして住民への思いやりから、進んで支援に駆けつけたのである。一人ひとりの顔には、容赦のない災害を乗り越えた後も失っていない強靭さが表れていた。復旧の力が嘉南平野に注がれ続け、風雨が過ぎた後には、平安が訪れた。

(慈済月刊七〇五期より)

台風が上陸し、被災した嘉義県布袋鎮の空中写真。強い突風で民家の屋根が酷く損傷している。(撮影・黄文徴)

停電と断水で食事の支度ができなくなった嘉義県と台南市では、多くの慈済の会所が炊き出しを続け、被災地に届けた。住民と懇意にしている嘉義県布袋鎮江山里の里長は、自ら弁当を届けていた。(撮影・黄筱哲)

關鍵字