慈済フィリピン支部副執行長の蔡昇航(ツァイ・ションハン)さんは、六月二日、希な病気で亡くなった。五十一年の生涯のうち、三十年を志業に全力で捧げ、多くの善縁を結び、慈済人にとって永遠に忘れられない存在となった。
(撮影・鍾文英)
「昇航の人生を振り返ると、本当に価値があると思います。若い頃は慈青(慈済青年ボランティア)のリーダーを努め、卒業後は志業に打ち込みました。拓いて舗装したこの道は彼自身が作ったもので、自ら歩み、自らを利し、彼の心はとても澄んでいました。彼の歩む道を私たちが心配する必要はありません。この縁を、私たちは心から祝福してあげましょう」─證厳法師
一家全員が慈済人
一九七四年四月二十一日、蔡昇航さんはフィリピン華僑の家庭に生まれた。父親の蔡萬擂(ツァイ・ワンレイ)さんと母親の郭麗華(グオ・リーフワァ)さんは、伝統を重んじる素朴な人たちで、四人の子どもを、中国語を学ばせるために台北に送って、小学校に一年通わせた。
一九九四年、五十歳を過ぎた蔡萬擂さんは花蓮を訪れ、證厳法師にこう約束した─「来年、家族全員を連れて帰ってきます」。一九九五年四月、蔡萬擂さんは家族を連れ精舎を訪れた。「一家で初めて證厳法師と共に写真を撮りましたが、写真に写った皆の顔は、どこかやつれて見えました」。(写真1)
当時、昇航さんは二十一歳で、こう振り返った。「私たちは皆、慈済のことを全く知りませんでした。興奮していたのは父だけで、私たちは台湾に遊びに行くものだと思っていました。ところが、慈済病院に連れて行かれ、医療ボランティアをすることになったのです。しかし、病院で奉仕したことで、この団体がとても特別で、他の団体とは全く違うと感じました」。彼は、フィリピンに戻ると、慈済の活動に参加するようになった。一九九七年に大学を卒業し、慈誠隊員の認証を授かった。また同年九月には、彼の企画に基づいて、フィリピン慈青懇親会が設立された。
昇航さんの弟と二人の妹は台湾の慈済で奉仕し、彼はフィリピンで家業と事業、志業を担った。二〇〇五年、同じく慈済ボランティアの黄亮亮(フワォン ・リィァンリィァン)さんと結婚し、まだ整地が完了していなかった慈済マニラ志業パークで結婚式を挙げ、「幸福な人生講座」という形式で、全ての来賓が慈済を理解できるようにした。結婚式のご祝儀は、全て施療センターの建設基金に寄付した。
婿と嫁を含めて、一家全員が慈済人である。(写真2)。台湾とフィリピンの二カ所に分かれて住み、同じテーブルで食事をすることは滅多になく、緊急災害支援の時にだけ、一家は団らんの時間を持つことができた。これについて蔡萬擂さんは、同じ師を持ち、同じ道を歩む縁を大切にし、四六時中一緒にいるよりも、心が通じ合っていることの方が大切だと述べた。「私は家庭教育と身をもって教えることを非常に重視しています。慈済に接してからは、さらに仏教を合わせて家庭に取り入れています。我が家の三教はこの三つなのです」。
今年、昇航さんが花蓮の慈済病院で治療を受けていた時、蔡萬擂さんは集中治療室にいる息子のことを思い、メッセージで励ました。「これは大きな試練で、君の忍耐力を鍛えるためのものだ。自分を信じ、決して諦めてはいけない。世界の慈済人としての模範になりなさい」。
證厳法師を安心させる弟子となる
フィリピンには、毎年二十幾つもの台風が上陸する。台風の上陸や強い地震による災害に加え、貧民地区でよく見られる火災も、昇航さんの気がかりなことだった。ほぼ毎月数回、数百世帯から千世帯規模の緊急支援物資の配付を行ってきた。昇航さんは、このような慈善活動の流れにとても詳しいが、二〇〇九年の台風一六号(ケッサーナ)では、初めて一万人による「仕事を与えて支援に代える活動」が実施され、大規模な清掃と地域の復旧活動が行われた。
最初、ボランティアたちは、なぜ日当を現地の賃金に合わせた二百六十ペソではなく、五百ペソに引き上げる指示が出たのか理解できず、なかなか行動に移さなかった。「私たちは怖くなり、自信がありませんでした。実は、『皆が白いズボンを履いて清掃を呼び掛けたのを見て、疑念を抱いていた』と後になって、現地ボランティアも言っていたのです」。
昇航さんはその後、證厳法師の思いやりが理解できた。「祝福金は元々被災者に渡すものであり、作業を依頼し、自分たちの家を自分たちの手で清掃してもらうのだから、感謝しなければならない」ということだった。「私たちは心を開いて、『自分の無私を信じ、人の愛を信じる』ことが必要であり、心の在り方を変え、愛でもって人々を迎え入れるべきです」。
その時、昇航さんは「證厳法師のお言葉に従う」覚悟を持った。その後、二〇一三年に台風三十号(ハイエン)被害で、慈済は再び「仕事を与えて支援に代える活動」を実施した。十九日間で延べ三十万人以上が参加し、彼は人々に慈済の理念を伝え(写真3)、やがて現地ボランティアを育てあげた。二〇一九年九月、ミンダナオ島ダバオ市で水害被災地を視察し、同様に「仕事を与えて支援に代える活動」を実施した(写真4)。
この数十年にわたる経験を経て、昇航さんは「フィリピン災害復興支援の王子」と称されるようになった。「どうしてそんなに若いうちから慈済に積極的に取り組んでいるのですか?とよく聞かれます。上人は私たちの一大事因縁なのですから。上人の弟子として、本分を尽くし、上人に安心してもらえることをすべきだと思っています」。
(写真5撮影・莊慧貞)
謙虚さと慈悲心で人々の心を動かす
昇航さんは、中国語、台湾語、英語、フィリピン語に精通し、慈済の理念も熟知していた。緊急支援物資の配付や灌仏会など、数千人から一万人を超える規模の活動現場でも、静寂な雰囲気の中で円滑に進行できたのは、躍動的かつユーモアあふれる彼のリーダーシップによるところが多い。
台風三十号(ハイエン)による被害が甚大だったタクロバン市で、昇航さんは「仕事を与えて支援に代える活動」に参加した住民たちを率いて、心を込めて祈りを捧げた。マリキナ市の住民も呼びかけに応え、「仕事を与えて支援に代える活動」に参加し、竹筒募金箱を引き受けた。また、メトロマニラのラスピニャス市の老朽化した住宅街での大火災では、被災者たちを優しく慰めた。
昇航さんは慈済の志業をより多くのボランティアと共に担う必要があると理解していたので、現地のボランティアを育成すると共に、彼らの信仰や背景、文化、言語を尊重し、「慈悲等観(誰に対しても分け隔てのない慈悲)」の心で以てケアした。
コロナ禍の間、彼は、ウイルスの猛威、封鎖政策、慈済の使命の間でとても苦悩した。彼は、苦しんでいる人がさらに苦しみ、医療従事者がもっと大変になることを心配した。コロナ禍で、フィリピンの慈済人は、十万世帯を対象にした米の救済配付活動を開始し、その直後に台風被害が発生したが、ボランティアをいつもと同じように動員して、災害復興支援にあたった。昇航さんは、「一つの灯火、一本の蝋燭になろうと自分に言い聞かせました。苦しんでいる人々は暗闇の中におり、彼らはどれほど私たちが心の灯りを灯し、助けを必要としていることでしょう」と述べた。
昇航さんの死は、現地のボランティアに深い悲しみをもたらした。台風三十号の後、彼が長年寄り添ってきたオルモックのボランティアや奨学生たちは、慈済の活動センターに集まり、追悼の意を表した。「私たちは一堂に会して彼との日々の一つひとつを静かに思い返し、彼の優しい善良な心と、無私の貢献に満ちた人生を共に偲びました。信仰と愛の中で共に歩み、謙虚、奉仕、慈悲心で多くの人々に感動を与えた魂を温かく見送り、最後の祝福とします」。
昇航さんが一九九八年に證厳法師へ宛てた手紙からは、すでに彼の深い覚悟が見られた。「海外に身を置く私たちですが、上人のご負担を少しでも軽くしたく、永遠に上人の最も素直で思いやりのある弟子となることを誓います」。その誓いを、彼はすべて成し遂げたのである。
(慈済月刊七〇四期より)


