人の師たる者は道を志すべき

「仏教の為、衆生の為」とは、導師の私への期待ですが、私自身の発願でもあり、生涯をそれに捧げるだけでなく、生生世世にわたり、弘法の師表となることを決意し、世の衆生の為に慧命の道を切り開くことにしたのです。

最近は、二つの文字がいつも心の奥深くに重くのしかかっています!とても強い「感恩」という二文字で、感恩せずにはいられないのです!私は生涯での生みの親と育ての親への感恩の気持ちであり、彼らの姿がいつも脳裏に浮かびます。

また、私の恩師にも感謝しています。導師は「仏教の為、衆生の為」という言葉を下さったことで、出家したものの、私はまだ社会の中にいるのです。社会に入っているからこそ、先生たちや慈済人と知り合うことができ、お互いに団結して、一緒に人間(じんかん)で奉仕しているのです。

ですから、私は因縁に感謝しています。もし生みの親と育ての親、そして、慧命を下さった導師がおられなかったら、今日の慈済は存在していなかったでしょう。私は導師に帰依を請うた故に、あの日、受戒することができたのです。導師の私に対する期待はとても簡単なものでした。「私とあなたには師弟の縁があります。これ以上話す時間はありません。『佛教の為,眾生の為』と覚えておいてください」。あの時、私はとても清らかで懇切に答えました。「生涯を捧げます!」。仏教の為、衆生の為に一生を尽くすこと、これは導師の私に対する期待であり、私自身の発願でもあるのです。

ですから、六十年近く経った今でも捧げ続けています。私と縁のある先生の皆さんたちが言うように、「生涯を喜んで捧げます!」。皆さんと私に共通する願い、それは、教育を志すことです。人々は皆さんを先生と呼んでいますが、私も同じく、人々から法師あるいは師父と呼ばれています。私はその名前に込められた責任を心に感じ、世の衆生のために慧命の道を切り開くことを使命と考えています。慈済は一本の菩薩道です。修行は平坦な道ではありませんが、私はそれを広く、平坦で皆が歩きやすい大道にしなければならないのです。

先生たちが慈済に入って、慈済教師懇親会でさらに多くの教師たちと知り合い、お互いに教え方を分かち合って、交流していると思います。今は退職しているとはいえ、数十年の豊富な経験は伝え続けなくてはいけません。幼児クラスから中学、大学に至るまで、先生たちが歩きやすい道を切り開いてくれているため、その指導を受けられるのです。

知識の布施は、良い方法を使って学生を教育することであり、施教或いは法施(ほうせ)とも言われます。良い教師は生涯において育ての親のような存在ですから、先生を敬って道を重んじ、両親のように慕うことが大事です。仏陀が衆生に智慧を伝え、教師が学生に智慧を伝える訳ですから、教師を仏陀のように敬うのです。

先ほど教師の皆さんが私の前で、「生生世世にわたって法脈を伝承します」と発願しました。私たちは心と心を繋ぐだけでなく、立志して宗門を広めなければなりません。「志」という文字は「士」と「心」から成っています。「士」とは紳士を意味し、人格的にどっしりした人のことです。学生か弟子かにかかわらず、私たちは志を立て、真心を込めて、生生世世にわたって彼らの為に未来の道を敷かなければなりません。

「道とは人として歩むべき道です」という言葉がありますが、道を敷くことは道を切り開くことであり、方向がずれてはなりません。皆さんが発願した時、「私たち弟子は謹んで心に記します」と言いました。静思の弟子になったからには、正知、正見、正道法から逸脱せず、私に心配をかけないようにすることです。誰もが慈済との因縁を大切にして、宗門を広め、そして静思法脈から逸脱せず、よく考えて無量義の法髄を深く理解しなければなりません。『無量義經』は『法華經』の精髄ですから、毎日『無量義經』を一段読むことで、智慧が啓発されます。

私たちは、幸いにも慈済で出会いました。私は歳を取りましたが、リタイアしてはならないと思っています。生命には限りがありますが、慧命は続きます。再び人として戻って来る時、私はやはり人の師を志し、仏法を伝える模範になりたいのです。

慈済に入った教師の皆さんの中には、二、三十年のベテランの人たちがいますが、これからはもっと増えることに期待しています。それには、皆で慈済の法を説き、常に静思法脈を分かち合って、絶えず弘法していくことです。また、人と慈済の情、菩薩の情を結ぶことでもあり、小さな私情ではなく、悟りを開いた有情なのです。社会の中で良縁を結び、正しい道に人を導く人こそが、菩薩の一員だと言えるのです。

「学び」と「覚り」を繋ぐには、菩薩道を歩むことです。先生たちは、教育を施す以外に、自分たちも学び続けなければなりません。私は一日も学ぶことを怠ったことはありません。なぜなら仏教の経典は、大海のように深くて広いからです。私は身をもって人間(じんかん)で菩薩道に努め励んでいます。それだから皆さんとこの情が分かち合えるのです。

「覚り」とは、智慧の目で人間(じんかん)を見ることで、迷わされることはありません。「学び」は、赤子の心に戻って学び続けることであり、学んでこそ覚りがあるのです。先に覚る人と後に覚る人、先に学ぶ人と後に学ぶ人の繋がりのように、私たちはいつの世でも繋がっていなければなりません。教師の皆さんが永遠に幸福をもたらし続け、智慧が成長し、福と慧の双方を修められることを願っております。

(慈済月刊七〇六期より)

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