嘉義や台南の沿岸一帯の村々で被災状況を調査していると、よく「これほど強い台風は今までになかった!」と言う言葉が聞かれた。
その後、一瞬の沈黙が流れた。まるで、あの夜の恐怖の記憶が蘇ったかのようだった。お年寄りは無念そうに首を振り、黙り込んで、それ以上語ろうとしなかった。
七月六日午後十一時ごろ、中型の台風四号(ダナス)が、珍しく台湾南西部の嘉義県と台南市の境にある布袋鎮から上陸した。暴風域はそのまま内陸へと進み、嘉義と台南に甚大な被害をもたらした。多くの独居高齢者は、この状況にひとりで向き合うことを余儀なくされた。取材中、彼らの多くは当時の様子を簡単な言葉で語った。
「本当に怖かった!」
「『ドン!』って、すごい音がしたの!」と或るお婆さんが言った。長年自分が暮らしてきた古い家が壊れてしまった悲しみからなのか、あの夜の風雨の恐ろしさがまだ収まらなかったせいなのか、ふと声を詰まらせた。
通信不通
最も原始的な形に戻った家庭訪問
台風が去ってから二日後、台南と嘉義市の中心では、破れたビニールシートやめくれたトタン屋根、折れた大木の枝などが街の隅に散らばり、被害の痕跡を見て取ることができた。
垂れた電線に沿って沿岸一帯へ進むと、傾いたり、折れたりしたコンクリート製の電柱や点灯しない信号機、道路に散乱した大量の枝や木の幹、屋根のない家々といった台風被害の光景が、ようやく目に飛び込んできた。
台風四号により、台湾全土で約二千五百本近い電柱が折れたり、倒れたりし、過去の記録を更新した。市街地の電力が復旧しても、海岸部や郊外の一部の被災地では、まだ明かりがつかなかった。多くの家庭に足を踏み入れると、鼻を突く湿気とカビの臭いを感じると共に、室内は昼間にもかかわらず真っ暗だった。沿岸地域のかなりの村では、五日目になってもなお停電が続き、台南市内では十二の学区で休校が続いていた。
七月七日の早朝に風雨が収まると、慈済ボランティアは直ちに嘉義と台南などで支援活動を開始し、被害調査と温かい食事の配付、清掃活動など多岐にわたって、同時に行動を開始した。災害後の断水と停電の中、温かい食事は特に貴重であり、里長や区役所から次々と食事提供の要望が寄せられた。災害から一週間経っても、嘉義と台南の香積(調理)チームは温かい食事の提供を続けていた。
慈済ボランティアの石瑞銓(スー・ルィチュエン)さんは、今回の災害で、嘉義の被災地における特殊性について次のように説明した。「被害が各地に散在し、停電やインターネット不通の状況下で、田舎の高齢者も積極的に助けを求めることが非常に困難になっているのです」。このような状況で、温かい食事や緊急支援金の配付に大きな課題をもたらした。特に、弱者層の人数や被害状況を迅速かつ全体的に把握することが難しかった。通信が途絶え、区役所などの公的機関も停電により資料の提供ができないため、被害調査や支援活動は、人と人の直接的な接触に立ち返る必要があった。慈済のスタッフと村長や里長が一軒一軒訪問するか、住民からの自主的な支援の申し出を待つしかない。
ボランティアは「安心家庭訪問」を行い、お見舞いの品と證厳法師の手紙を被災者に届けると同時に、被災状況の調査と援助の査定を行った。(撮影・黄筱哲)
今日調査、明日直ちに必要物資を補給
台南市七股区頂山里は郊外に位置しているが、台風被害に見舞われた翌日の七月七日には、里長が慈済と連絡を取り、ボランティアが必要な温かい食事の数を確認して、できる限り早く届けた。
嘉義の六脚郷や布袋鎮などの地域では、点在した被害や区域的な被害の両方が見られた。停電やインターネット不通の状況下で、ソーシャルワーカーやボランティアは複数のルートに分かれて異なる町村を巡回して、家庭訪問を行った。七月九日の早朝、慈済のソーシャルワーカーである陳彦睿(チェン・イェンルイ)さんとボランティアの謝惠芬(シェ・フウェイフェン)さんは、六脚郷で九世帯の被災者を訪問し、二つの村や町を跨いだため、半日以上を費やした。訪問後、陳さんは慈済嘉義連絡所の災害対策センターに戻り、状況を報告した。会議が終わった時は、すでに夜の七時半になっていた。
点在した被災者は嘉義の各区に住んでいて、沿岸部に入ると区域的な被害が見られた。七月十日、布袋の慈済ボランティア、蔡琬雯(ツァイ・ワンウェン)さんからの報告を受け、チームは数カ所で現地調査を行った。そのうち布袋鎮復興里では、一列に並んだ、三階建ての家の屋根がすべて吹き飛ばされ、更に飛んできたトタンによって路地が塞がれていた。
ボランティアが到着する前に激しい雨が降った。滝のような雨水が直接屋根から流れ落ち、そのまま階下へ流れていった。村人たちの家々はすべて浸水し、一軒たりとも免れた家はなかった。
村長の案内のもとで、ボランティアは被害が最も深刻な路地を訪ね歩いた。その中で蔡さんはすでに数日間奔走した。彼女は、慈済による住宅の修繕や福祉用具の提供、ケアケースの件で、村長とは以前から長期にわたり関わりがあった。普段から村の里長とも連絡を取り合っていたため、タイムリーに被害状況を報告してくれた。
布袋鎮復興里の状況を調査した後、ボランティアはそこを甚大被災地区と判定した。被害の深刻さを考慮して、人手が最も多い週末を待たず、翌日に五十世帯余りに緊急支援金を届けた。
同じ七月十一日、台南では完全なデータが揃った七股区から「安心家庭訪問」を開始し、連続二日間で合計二千四百世帯余りを訪問した。その後、北門区、学甲区、将軍区などでも公的機関から提供されたデータを基に迅速に展開すると共に、弱者層の被災世帯に緊急支援金を届けた。
七股区頂山里で家庭訪問を行った慈済ボランティアの賴秀鸞(ライ・シュウラン)さんは、こう説明した。この一万元の緊急支援金は、住宅被害の補助金ではなく、緊急災害救助で生活補助に当たり、被災者がすぐに現金を使えるようにとの配慮で配付されたのだ。
損壊した屋根の修理には建材と専門職人が必要だが、被災地域が広範で、人手や資材が不足していたため、慈済は専門チームに委託すると共に、すでに台湾全土からビニールシートを調達して、損壊した家の屋根を一時的に覆えるようにした。
家庭訪問の過程で、忘れがたい光景がいくつかあった。その中の一つが布袋鎮の虎尾寮である。海岸沿いに位置する虎尾寮では、一列に並んだ戸建て住宅が、遠くから見ると廃墟のように見えた。ある家は二階正面に大きな穴が開き、三階のトタン屋根も吹き飛ばされていた。二階と三階の内部が丸見えで、災害後の数日間の雨水が溜まっていた。
家主の女性には、悲しむ理由が十分にあった。しかし、ボランティアが訪ねて来た時、彼女は笑顔を見せた。誠実な眼差しと輝くような笑顔は、まさに強さを象徴していた。
付近ではかなりの家の屋根が強風で吹き飛ばされ、生活のための漁船さえも破壊された。住民の顔には、疲れや不機嫌はあったかもしれないが、それでも明日を迎える前向きさと楽観さは失っていなかった。「彼らの口からは、一言も愚痴を聞いたことがありません」と一緒に訪れたボランティアの石さんは、心から感嘆した。「ここに足を運んで初めて、住民の純朴さが見えました」とベテランボランティアの葉麗卿(イェ・リーチン)さんが言った。
財産の損失や体調不良という困難な状況の中で、被災者の楽観さと前向きな気持ちは、何より貴いものであり、なかなかできることではない。また、自分も被災した慈済ボランティアや他の慈善団体、村や地区の役員、台湾全土から集まった電力会社の修理スタッフ、清掃を手伝う青年ボランティアたちなどの人々は、使命感と責任感、そして住民への思いやりから、進んで支援に駆けつけたのである。一人ひとりの顔には、容赦のない災害を乗り越えた後も失っていない強靭さが表れていた。復旧の力が嘉南平野に注がれ続け、風雨が過ぎた後には、平安が訪れた。
(慈済月刊七〇五期より)
台風が上陸し、被災した嘉義県布袋鎮の空中写真。強い突風で民家の屋根が酷く損傷している。(撮影・黄文徴)


