The Illustrated Jing Si Aphorisms

The Buddha says:

Be determined to fulfill yourself
and work hard to strengthen your character.
Prevent the evil that has not yet begun,
stop the evil that has already begun,
do the good that has not yet begun,
and encourage the good that has already begun.
My fellow monks! This is “Right Effort.”

Right effort” means that you must work hard. However, the more diligently you march down the wrong road, the faster and farther you will fall from your goal.

Therefore, in all your endeavors, you must have the correct behavior, the correct disposition, and the correct methods of spiritual cultivation. This is “Right Effort.

Master Cheng Yen, why do you insist on not getting involved in politics?

As a religious leader, I must clearly distinguish between religion and politics. As a neutral party, I can work better to help the world and all people. Not getting involved does not mean that I don’t care. For example, I respect every citizen’s right to vote or to be elected. I do not try to influence their choices. The purpose of an election is to choose good, capable public officials. I am glad to see such people run for office and propose constructive suggestions for improving our society. I also firmly support the right of all people to judge wisely and elect those who they feel are best fitted to serve our community.

Translated by E. E. Ho and W. L. Rathje; drawings by Tsai Chih-chung; coloring by May E. Gu

The Buddha says:

Be determined to fulfill yourself
and work hard to strengthen your character.
Prevent the evil that has not yet begun,
stop the evil that has already begun,
do the good that has not yet begun,
and encourage the good that has already begun.
My fellow monks! This is “Right Effort.”

Right effort” means that you must work hard. However, the more diligently you march down the wrong road, the faster and farther you will fall from your goal.

Therefore, in all your endeavors, you must have the correct behavior, the correct disposition, and the correct methods of spiritual cultivation. This is “Right Effort.

Master Cheng Yen, why do you insist on not getting involved in politics?

As a religious leader, I must clearly distinguish between religion and politics. As a neutral party, I can work better to help the world and all people. Not getting involved does not mean that I don’t care. For example, I respect every citizen’s right to vote or to be elected. I do not try to influence their choices. The purpose of an election is to choose good, capable public officials. I am glad to see such people run for office and propose constructive suggestions for improving our society. I also firmly support the right of all people to judge wisely and elect those who they feel are best fitted to serve our community.

Translated by E. E. Ho and W. L. Rathje; drawings by Tsai Chih-chung; coloring by May E. Gu

關鍵字

世の衆生のために尽くす

人間(じんかん)で菩薩道に励めば、
自分の悟りを開いた情に自信が持てます。
万里の道も一歩に始まり、
皆で広く世を利して良能を啓発するのです。
小さな愛も口伝えに伝承すれば、
法は人の心に入ります。
志を一つに愛で互いに気遣い、
弘法して衆生を利することを使命とするのです。
誰もが福を造って自他共に利し、
衆生のために尽くしましょう。

人間(じんかん)で菩薩道に励めば、自分の悟りを開いた情に自信が持てます。

万里の道も一歩に始まり、皆で広く世を利して良能を啓発するのです。

小さな愛も口伝えに伝承すれば、法は人の心に入ります。

志を一つに愛で互いに気遣い、弘法して衆生を利することを使命とするのです。

誰もが福を造って自他共に利し、衆生のために尽くしましょう。

人間(じんかん)で菩薩道に励めば、
自分の悟りを開いた情に自信が持てます。
万里の道も一歩に始まり、
皆で広く世を利して良能を啓発するのです。
小さな愛も口伝えに伝承すれば、
法は人の心に入ります。
志を一つに愛で互いに気遣い、
弘法して衆生を利することを使命とするのです。
誰もが福を造って自他共に利し、
衆生のために尽くしましょう。

人間(じんかん)で菩薩道に励めば、自分の悟りを開いた情に自信が持てます。

万里の道も一歩に始まり、皆で広く世を利して良能を啓発するのです。

小さな愛も口伝えに伝承すれば、法は人の心に入ります。

志を一つに愛で互いに気遣い、弘法して衆生を利することを使命とするのです。

誰もが福を造って自他共に利し、衆生のために尽くしましょう。

關鍵字

群衆に混じって経蔵に浸る

編集者の言葉

七月末、彰化県立体育館で三日間にわたって八回行われた経蔵劇「無量義 法髄頌」の公演が、無事に終了した。その後、北部の桃園、新竹、花蓮、宜蘭のボランティアがバトンを引継ぎ、十月下旬に台北アリーナで上演する為に、毎週末と休日に集中的な練習を重ねている。

世の人々に経典を親しみのあるものにするために、芸術を演じるのも、弘法の一つである。中でも「優人神鼓」は変わらず、太鼓の音が心を震わせるだけでなく、メンバーは経典の芸術的理解から境地を見事に描き出し、動作にも音楽創作にも優れている。台湾オペラの唐美雲歌劇団は、歌謡による芸術的技法で具体的に表現している。現代の歌劇スタイルだが、伝統的な戯曲形式も失われていない。

三年をかけて経蔵劇の内容は絶えず修正されており、三時間の公演は長いように思えるが、二千五百年の時を超えた物語が演じられている。シッダールタ王子が成長した古代インドの情景と現代社会の生活を結び付け、「自覚覚他」(自分が悟り、他人をも悟らせる)を実践する仏陀と、人々を導いて世を救う證厳法師の姿を表す。仏陀は苦集滅道という真理を説き、法師は貧困に苦しむ人を助けて裕福な人を善行に導く。仏陀がこの世に来られた一大事因縁と、證厳法師が創建した静思法脈慈済宗門が、深い縁で結ばれていることを描き出している。時空を超えた真理が世の出来事に結びついた経蔵劇によって、視聴者は知らない間に経蔵の世界に引き込まれてしまう。

経蔵劇が終わると、苗栗、台中、彰化、南投のボランティアは、台中の静思堂を訪れていた證厳法師と心得を分かち合った。年配のボランティアは感無量で、十二年前に経蔵劇「慈悲三昧水懺」を演じた時に比べると、体力は大分落ちていたが、人生の最後のチャンスを掴み、再び参加できた事に感謝した。若いボランティアたちもチャンスを見逃さなかったことに喜びを覚え、三時間の公演の中で、五十七年にわたる慈済の歴史を辿ることができ、道を切り開いてくれた先輩たちに心から感動し、感謝した。そして、自分たちの人生の方向もこれで定まったそうだ。

静思人文叢書所から出版された最新の《證厳上人衲履足跡二○二三年夏之卷》の中で、六月三日に述べられた證厳法師のお言葉がある。「これは私たちの歴史で、非常に貴重なものです。この《無量義経》は、様々な仏法経典の中から見つけたもので、日本語の『法華経大講座』でしたが、私が一字一句を写経したものです。それは私が若かったからできたことで、今は視力も体調も良くなく、座って字を書くことさえ体力的に難しくなっています。ですから、この経典がこの世にあることを、皆さんは大切にしてください。若しもあの時、私がこの経典を書き写さなかったら、《無量義経》をこれほど多くの人に接してもらうことはできなかったでしょう」。

證厳法師は《法華経》を主軸とし、《無量義経》を以て修行の方向とした。慈済人は《無量義経》を読み、実践し、演じて伝えているのだ。舞台で次から次に演じられるのは実際にあったことであり、同時に自分の人生を再点検するきっかけにもなる。今まで證厳法師と共に歩んだことで、この一生がとても豊かであったことが分かる。会場に描かれた線に立っている全ての人が主人公であり、最も真実を語っている演技でもある。

(慈済月刊六八二期より)

編集者の言葉

七月末、彰化県立体育館で三日間にわたって八回行われた経蔵劇「無量義 法髄頌」の公演が、無事に終了した。その後、北部の桃園、新竹、花蓮、宜蘭のボランティアがバトンを引継ぎ、十月下旬に台北アリーナで上演する為に、毎週末と休日に集中的な練習を重ねている。

世の人々に経典を親しみのあるものにするために、芸術を演じるのも、弘法の一つである。中でも「優人神鼓」は変わらず、太鼓の音が心を震わせるだけでなく、メンバーは経典の芸術的理解から境地を見事に描き出し、動作にも音楽創作にも優れている。台湾オペラの唐美雲歌劇団は、歌謡による芸術的技法で具体的に表現している。現代の歌劇スタイルだが、伝統的な戯曲形式も失われていない。

三年をかけて経蔵劇の内容は絶えず修正されており、三時間の公演は長いように思えるが、二千五百年の時を超えた物語が演じられている。シッダールタ王子が成長した古代インドの情景と現代社会の生活を結び付け、「自覚覚他」(自分が悟り、他人をも悟らせる)を実践する仏陀と、人々を導いて世を救う證厳法師の姿を表す。仏陀は苦集滅道という真理を説き、法師は貧困に苦しむ人を助けて裕福な人を善行に導く。仏陀がこの世に来られた一大事因縁と、證厳法師が創建した静思法脈慈済宗門が、深い縁で結ばれていることを描き出している。時空を超えた真理が世の出来事に結びついた経蔵劇によって、視聴者は知らない間に経蔵の世界に引き込まれてしまう。

経蔵劇が終わると、苗栗、台中、彰化、南投のボランティアは、台中の静思堂を訪れていた證厳法師と心得を分かち合った。年配のボランティアは感無量で、十二年前に経蔵劇「慈悲三昧水懺」を演じた時に比べると、体力は大分落ちていたが、人生の最後のチャンスを掴み、再び参加できた事に感謝した。若いボランティアたちもチャンスを見逃さなかったことに喜びを覚え、三時間の公演の中で、五十七年にわたる慈済の歴史を辿ることができ、道を切り開いてくれた先輩たちに心から感動し、感謝した。そして、自分たちの人生の方向もこれで定まったそうだ。

静思人文叢書所から出版された最新の《證厳上人衲履足跡二○二三年夏之卷》の中で、六月三日に述べられた證厳法師のお言葉がある。「これは私たちの歴史で、非常に貴重なものです。この《無量義経》は、様々な仏法経典の中から見つけたもので、日本語の『法華経大講座』でしたが、私が一字一句を写経したものです。それは私が若かったからできたことで、今は視力も体調も良くなく、座って字を書くことさえ体力的に難しくなっています。ですから、この経典がこの世にあることを、皆さんは大切にしてください。若しもあの時、私がこの経典を書き写さなかったら、《無量義経》をこれほど多くの人に接してもらうことはできなかったでしょう」。

證厳法師は《法華経》を主軸とし、《無量義経》を以て修行の方向とした。慈済人は《無量義経》を読み、実践し、演じて伝えているのだ。舞台で次から次に演じられるのは実際にあったことであり、同時に自分の人生を再点検するきっかけにもなる。今まで證厳法師と共に歩んだことで、この一生がとても豊かであったことが分かる。会場に描かれた線に立っている全ての人が主人公であり、最も真実を語っている演技でもある。

(慈済月刊六八二期より)

關鍵字

経蔵劇─無量義 法髄頌

霊山法会で法華経を説く

古代インド・マガダ国の都ラージャグリハにある霊鷲山(りょうじゅせん)に大衆が集まり、仏陀が法華経を説いた。『無量義経・德行品』の経文が映像に映し出され、梵唄の朗誦と太鼓の音が心に届いた。あたかも二千五百年余り前の時空に戻ったように。

慈済は『法華経』を軸に、『無量義経』を精髄としている。『無量義 法髄頌』の経蔵劇が七月二十八日から七月三十日まで八回、彰化県立体育館で上演された。苗栗、台中、彰化、南投の慈済ボランティアが優人神鼓、台湾オペラの唐美雲歌劇団と共演し、音楽の旋律に合わせた動作で、仏陀の一生と慈済の史実を表現した。

物語を使って道理を伝える

シッダールタ王子は宮廷を離れ、五年の旅と六年の苦行を経た後、体を酷使しても生命の真理を悟ることができるとは限らず、逆に体力がなくなって、川を渡って対岸に上がることさえできないほど弱ってしまうことに気づいた。羊飼いの女から山羊の乳の供養を受けてから、やっと体力が回復した。

経蔵劇は物語の演繹であり、様々な方法を使ってその精神を表現している。そこで、時空を超えて当時の背景に戻り、シッダールタ王子が何故全てを捨てて真理を探求したのか、演芸関係のプロが芸術で表現し、物語によって道理を伝えているのである。

法脈の伝授 宗門の立ち上げ

「一粒の米に歳月が宿り、半升の鍋に山河を映す」という言葉は、慈済創設当初の困難な生活を物語っている。毎月、貧困世帯に配付する時はいつも、油と米を借りてお粥を炊いていた。自分はお腹いっぱいにならなくても、他の人にはお粥を食べさせたいと努力した。

精舎では「一日働かねば、一日食せず」を実行し、常住尼僧たちは農耕で自力更生すると共に、自分たちを犠牲にして全力で奉仕した。慈済は五十七年間に、慈善の足跡を世界百二十八の国と地域に広げて来た。

大船頭・大医王

ボランティアと台中慈済病院のチームが『徳行品』を演じた。「大医王は病を見分け、薬の性質を理解して、患者に処方する。大船頭は、衆生を乗せて生死の河を渡り、涅槃の岸に送り届ける」。佛陀は「大船頭」や「大医王」のように、仏法でこの世を救っている。人々が皆、発心立願すれば、衆生の苦しみは取り除かれ、楽になることができる。

心を一つにすれば、愛は無量

「大慈無悔愛無量,大悲無怨願無量,大喜無憂楽無量,大捨無求恩無量……」と、證厳法師が開示した『勤行頌』が音楽に伴って歌われる中、出演者たちは蓮の花やさざなみの形に並んだ。そして、花が咲いて、揺れ動いて広がるように、観客とパフォーマーが一体となって力強い声を発した。

八回の公演では、会場とオンライン合わせてのべ六万五千人余りが敬虔にこの法会に参加した。舞台の「大愛の光」に出演したボランティアたちは互いに影響し合い、台上でも観客席でも、場内場外全てで、法音と法海が一緒に法義を演じ、心を一つに協力し合いながら、円満に無量義の法会を終えた。

(キャプションの編集・編集部)

霊山法会で法華経を説く

古代インド・マガダ国の都ラージャグリハにある霊鷲山(りょうじゅせん)に大衆が集まり、仏陀が法華経を説いた。『無量義経・德行品』の経文が映像に映し出され、梵唄の朗誦と太鼓の音が心に届いた。あたかも二千五百年余り前の時空に戻ったように。

慈済は『法華経』を軸に、『無量義経』を精髄としている。『無量義 法髄頌』の経蔵劇が七月二十八日から七月三十日まで八回、彰化県立体育館で上演された。苗栗、台中、彰化、南投の慈済ボランティアが優人神鼓、台湾オペラの唐美雲歌劇団と共演し、音楽の旋律に合わせた動作で、仏陀の一生と慈済の史実を表現した。

物語を使って道理を伝える

シッダールタ王子は宮廷を離れ、五年の旅と六年の苦行を経た後、体を酷使しても生命の真理を悟ることができるとは限らず、逆に体力がなくなって、川を渡って対岸に上がることさえできないほど弱ってしまうことに気づいた。羊飼いの女から山羊の乳の供養を受けてから、やっと体力が回復した。

経蔵劇は物語の演繹であり、様々な方法を使ってその精神を表現している。そこで、時空を超えて当時の背景に戻り、シッダールタ王子が何故全てを捨てて真理を探求したのか、演芸関係のプロが芸術で表現し、物語によって道理を伝えているのである。

法脈の伝授 宗門の立ち上げ

「一粒の米に歳月が宿り、半升の鍋に山河を映す」という言葉は、慈済創設当初の困難な生活を物語っている。毎月、貧困世帯に配付する時はいつも、油と米を借りてお粥を炊いていた。自分はお腹いっぱいにならなくても、他の人にはお粥を食べさせたいと努力した。

精舎では「一日働かねば、一日食せず」を実行し、常住尼僧たちは農耕で自力更生すると共に、自分たちを犠牲にして全力で奉仕した。慈済は五十七年間に、慈善の足跡を世界百二十八の国と地域に広げて来た。

大船頭・大医王

ボランティアと台中慈済病院のチームが『徳行品』を演じた。「大医王は病を見分け、薬の性質を理解して、患者に処方する。大船頭は、衆生を乗せて生死の河を渡り、涅槃の岸に送り届ける」。佛陀は「大船頭」や「大医王」のように、仏法でこの世を救っている。人々が皆、発心立願すれば、衆生の苦しみは取り除かれ、楽になることができる。

心を一つにすれば、愛は無量

「大慈無悔愛無量,大悲無怨願無量,大喜無憂楽無量,大捨無求恩無量……」と、證厳法師が開示した『勤行頌』が音楽に伴って歌われる中、出演者たちは蓮の花やさざなみの形に並んだ。そして、花が咲いて、揺れ動いて広がるように、観客とパフォーマーが一体となって力強い声を発した。

八回の公演では、会場とオンライン合わせてのべ六万五千人余りが敬虔にこの法会に参加した。舞台の「大愛の光」に出演したボランティアたちは互いに影響し合い、台上でも観客席でも、場内場外全てで、法音と法海が一緒に法義を演じ、心を一つに協力し合いながら、円満に無量義の法会を終えた。

(キャプションの編集・編集部)

關鍵字

経蔵劇のキーワード:私は喜んでやることを誓う!

舞台には白髪で猫背のベテランボランティアや事業に多忙な中年の人、また機転の利く活気ある若者もいる。

二十六幕の舞台に隊形の変化を加え、経文に対して全く理解していなかった彼らは、自信を持って動作で説法するまでになった。

色とりどりのマークの中からひと目で自分の位置を見つけ、素早く隊形を作り出している。かつて歴史を創り出した彼らは、今まさに未来のために歴史を刻んでいる。

二〇二三年七月二十八日から三十日まで、彰化県立体育館で八回上演された経蔵劇『無量義 法髄頌』は、円満に幕を閉じた。中部地区の慈済ボランティアが、唐美雲台湾オペラ劇団と優人神鼓(U Theatre)というプロの芸術・文学従事者と共演し、約三時間にわたる舞台で「仏陀の一生」と「悟りの道」、「六瑞相」、「慈済小惑星」、『無量義経』の「徳行品」、「説法品」、「功徳品」等の内容を、吟唱、手話、ミュージカル等の形式で演じた。五十七年来の慈済の軌跡を振り返り、全ての歴史物語の精髄と仏法を緊密に結びつけ、より多くの人に仏教精神を体得してもらった。

優人神鼓創設者の劉若瑀(リュウ・ルォユー)さんは、舞台芸術チームの創設者として、長い時間をかけて自分の心を理解してから、やっと芸術と結合して生命の探求に回帰することができるのだ、と言った。「今このような素晴らしい機会を与えていただき、私が伝えたいことを慈済という団体を通して、系統立てて表現をすることができました。とても光栄に思います」。

劉さんによると、最初は慈済と共に公演に参加するのが、すこし恥ずかしかったとのこと。「私たちが自分の芸術のために汗水流し、琢磨していた時、彼らはすでに私たちのために、この世界や台湾社会を安定させていたのです」。

唐美雲さんは既に上人に帰依した慈済人であり、長年、経蔵劇に参加して来た。彼女は上人の経蔵劇に対する期待を話してくれた。「これは『演技』ではなく、『説法』です。ですから、ここ数日間の公演は大規模な法会なのです」。

彼女は、縁があって共に霊山法会に集えることは、誰もが何世にも渡って発願して来たに違いなく、今回の公演を通じて、法会に参加した一人ひとりに、心を洗い清めることができたと思ってほしい、と言った。

『法華経』は菩薩法を教え、『無量義経』は『法華経』の真髄である。そして、在家居士もまた菩薩道の主な実践者である。舞台の上や舞台の下にいる膨大な数のボランティアがこの劇の主役であり、菩提心を発して勇猛に精進し、動作を通して身で以て説法をした。

欠席したらもったいない、チャレンジする

毎回七百三十八人の経蔵劇出演者と慈優(ツーヨウ‥事前に優人神鼓の訓練を受けた慈済の青年ボランティア)、舞台芸術団体など、スタンド席に位置する白い服を着た六百八十人、手に「蛍」のライトを持った「大愛の光」区域の人たち、それに三千七百人の観客が参加した。更にスタッフも合わせると、約六千五百人が共に荘厳で殊勝な霊山法会に参加したのである。

三時間にわたる合計二十六幕の、音楽と照明に伴って変形する隊形が、大画面に映し出されていた。それぞれの公演で出演するボランティアは、異なった地域から来ている──苗栗、台中、彰化、南投などから、体力と記憶力、時間等での困難を克服し、四十回以上の大規模な集中稽古と成果の検収を経て来ている。

舞台には白髪で猫背のベテランボランティアや事業で多忙な中年、それに機敏で活気に溢れた若者がおり、皆初めは経文を全く理解していなかったが、三カ月後には自信を持って動作で説法をしていた。彼らも最初は床の様々なマークを見ただけでめまいがするほどだったが、本番では既に素早く正確に位置につけるようになっていた。

三十歳の蘇閲(ス―・ユェ)さんは、二〇二一年慈済五十五周年に花蓮静思堂で公演された経蔵劇『静思法髄妙蓮華』のメンバーで、その後、二〇二二年に花蓮と高雄ドーム、そして、今年の彰化県立体育館での公演に参加し、一度も欠場したことはない。

今回は経蔵劇企画チームのメンバーとして、三カ月間、体力の試練と言えるほど、台湾を南へ北へと行き来した。「中部地区の八回の公演では、上演までに検収が一日四回、朝七時から夜九時まで行われたので、疲れないわけはありません」。しかし、その過程で、彼はより慈済の歴史を理解するようになった。特にベテランボランティアが打ち込む姿を見てそう感じたそうだ。跪くことができなかったり、経文を暗記する速度が早くない人もいたりしたが、それでも皆と一緒に練習をしていた。「彼らの姿は、正に上人がおっしゃった『仏教のため、衆生のため』でした。私はとても勉強になりました」。

蘇さんも「慈優」の一人である。若者たちと一緒に、優人神鼓のメンバーに太鼓の打ち方を習い、舞台の上では横一列に並び、太鼓の音で見る人の心を震わせた。中部地区の八回の経蔵劇が円満に終わると、企画チームは重心を北部に移し、十月下旬に台北アリーナで行われる経蔵劇の準備をしている。蘇さんにとって、新たなチャレンジである。

あなたも私もいれば、法会が解散することはない

大画面に映された三人の慈済人を見ながら、ちょうど手に設計図を持ち、地形を調査していた李朝森(リー・ツァオスン)さんと、向かい側にある「大愛の光」スタンド席にいた高麗雪(ガオ・リーシュェ)さんは、感慨深いものがあった。

土地の測量専門家である李朝森さんは、一九九四年に慈済タイ北部貧困救済プロジェクトに参加した。当時は通信が不便で、メッセージのやり取りはファックスに頼るしかなく、普段から家族思いの李さんは毎日、妻の麗雪さんと連絡を取り合い、今日どこそこへ行ったとか、何をしたとかを分かち合った。彼女はその日の三人の子供の状況やどのような慈済のことをしたかを報告した。

麗雪さんによると、以前タイ北部は荒涼としていて、交通が不便で、食事習慣も台湾と異なっていたが、證厳法師が託した任務を達成するために、李さんは多くの障害と試練を経て、最終的には法師の期待を裏切らなかっただけでなく、現地で数多くの慈済人を養成したのだそうだ。二〇一七年二月に李さんが亡くなった時は、現地で慈済人となった人たちがはるばるタイ北部から台湾に来て、追悼式に参加したのだった。

二〇一一年、経蔵劇『法で水の如く衆生を潤す・広く環境保全を行い、人文を広める』(原文‥『法譬如水潤蒼生,廣行環保弘人文』)の公演では、李さんはプロジェクトの調整役を努めた。今年再び彼の姿が映像に映し出された時、高さんは、「彼は今回も欠席していません」と嬉しそうに話した。

劇は「骨髄寄贈」の章になり、一九九三年、たとえ多くの疑いの目で見られても、法師は臆することなく、非血縁者間の造血幹細胞寄贈を推し進めた。「台湾には愛のある人がたくさんいます。呼びかけなければなりません!人の命は助けられても、自分の健康を損なうことはないのです」。劇の中でこう言った、「あなたはどこにいるのですか?」出演者は力強く叫んだ。「私は喜んで寄贈します!」、「寄贈します!」、「寄贈します!」手話劇チームの中にいた林雪珠(リン・シュェヅゥ)さんは「この部分を演じていて、とても感動しました」と言った。

その年、慈済は彰化八卦山麓で、台湾で初めて骨髄寄贈血液登録活動を行い、その時から林さんは骨髄寄贈ケアチームのメンバーになったのだった。三十年の時を経て、慈済は八卦山麓の彰化県立体育館で慈済手語による経蔵劇を演じたのだから、寄贈者の無私の奉仕に対して、林さんはいつまでも感動でいっぱいだった。

慈済初めての血液登録活動が、一般の八百四十人から支持を得たことで、「慈済骨髄バンク」は順調にスタートした。「私もその内の一人です!」慈悲の善行における最高の境地は、「徳行品」偈頌で、「一切の捨て難きを、財宝、妻子、国、城を悉く捨て、法の内に外に惜しみなく、頭目髄脳悉く人に施す」と述べている所だ。経蔵劇がこの場面になると、林さんは法師の智慧に心から感謝し、「私たちはあらゆる方法を尽くしてドナーを見つけ、それから骨髄の提供を勧めました。その後、ケアチームは範囲を白血病患者にまで広げ、それがきっかけで慈済のケア対象者になった人もいました」。

人々の風習が保守的だった時代、怒涛のように押し寄せる反対の声に向かって、林さんは、「自分が困難に打ち負かされず、ドナーを見つける過程で尻込みしなかったことをとても幸いに感じています。私には一つの信念しかありません。それは何としてでもその人を見つけることでした。もしマッチングが成功したら、一人の人とその人の家庭を助けることができるからです!拍手喝采は求めず、共鳴を得て、本分を尽くすだけです」と言った。

優人神鼓と唐美雲台湾オペラ劇団及び特訓を受けた慈済の青年ボランティアたちは、芸術の形式を通して、一幕一幕を演じ、真実の出来事を引用して経文の意義を解釈し、伝統的な弘法形式とは異なる表現をした。

化城から足を踏み出せば、宝は近くにある

后里連絡所の三千坪余りの古い工場跡地は、緊急支援物資の貯蔵センターになっていて、中部地区の全ての連絡所の中で最も面積が広いため、経蔵劇の稽古場に選ばれた。三月中旬、工場を空にした後、木製の舞台を作って、カーペットを敷き、マークを貼るなど、次々と仕事に取りかかり、工場の外の千坪ほどの敷地にインターロッキングブロックを敷き詰めた。四月から七月二十三日まで、毎週末と休日は千人から四千人近い出演者が来て、集中稽古をした。后里、豊原、東勢地区のボランティアが交通整理やトイレ清掃を担当し、お茶や菓子などの準備をすると同時に、経蔵劇の稽古も行ったので、「幸福を味わった」(慈済では苦労を経て法悦に浸る意味)と言っても過言ではない。

七月十九日から、ボランティアは彰化県立体育館に入って、清掃、装飾や配置、マーク貼りを、出演者はリハーサルを行った。三日間の公演で、一万八千人余りが観光バスで鑑賞に訪れた。観光バスは全部で二百八十台運行したが、幸いなことに現地の彰化チームが事前に視察して、移動ルートを青、黄、赤、紫の四色に分け、同じ座席エリアの人はできるだけ同じバスに乗ってもらうようにしたので、案内スタッフは色によって入場や退場を案内した。毎回、場外には二百三十七人の案内スタッフを配置した。ボランティアの高季恵(ガオ・ヂーフウェイ)さんは、彰化県立体育館の設計は、比較的若い人が球技を観戦するのに適しており、観客席の階段は急勾配なので、会場の案内スタッフは懐中電灯を持って、高齢の観客の着席に手を貸したと説明した。

彰化のボランティアは、スタッフチームと出演者たちへの三度の食事とおやつ、お茶の補充を担当した。約十日間、支部の厨房はほとんど明け方四時から賑わっていた。各区のボランティアが交代で調理を担当し、今日は弁当作りだが、明日は舞台に立つ、というように互いに支え合った。

彰化区総コーディネーターの陳素香(チェン・スーシャン)さんは「お金を出しても、これだけ多くの人に来てもらえるとは限りません。慈済という団体の求心力によって、一人ひとりが使命感を持っています。本当に感動します」。最初の外部の会場レンタル、ハードウェアメーカーとのやり取りから経蔵劇が始まるまで、七十六歳になる陳さんは、朝から晩まで体育館の内外を駆け回っていたが、疲れた顔を見せることもなく、「私は毎日ここに来て、人が私を見つけて、その人の問題を処理し、解決するのが役目なのです」と言った。

『化城喩』の偈頌の一節はこうだ。「この城に入って休息すると、疲れ切った人々は大いに歓喜し、皆で人生を度したことを讃え合い、安穏に暮らせることを喜んだ」四カ月余りの間、五千人近い経蔵劇の出演者は、まるで一歩ずつ霊鷲山を登って偉大な法を聞いたかのようだった。経蔵劇の終幕は次の始まりであり、この化城を経たことにより、再び歩を進めることができるのだ。(資料提供・陳秀嫚、溫燕雪、梁錦彬、鐘碧香、楊絮惠)

(慈済月刊六八二期より)

舞台には白髪で猫背のベテランボランティアや事業に多忙な中年の人、また機転の利く活気ある若者もいる。

二十六幕の舞台に隊形の変化を加え、経文に対して全く理解していなかった彼らは、自信を持って動作で説法するまでになった。

色とりどりのマークの中からひと目で自分の位置を見つけ、素早く隊形を作り出している。かつて歴史を創り出した彼らは、今まさに未来のために歴史を刻んでいる。

二〇二三年七月二十八日から三十日まで、彰化県立体育館で八回上演された経蔵劇『無量義 法髄頌』は、円満に幕を閉じた。中部地区の慈済ボランティアが、唐美雲台湾オペラ劇団と優人神鼓(U Theatre)というプロの芸術・文学従事者と共演し、約三時間にわたる舞台で「仏陀の一生」と「悟りの道」、「六瑞相」、「慈済小惑星」、『無量義経』の「徳行品」、「説法品」、「功徳品」等の内容を、吟唱、手話、ミュージカル等の形式で演じた。五十七年来の慈済の軌跡を振り返り、全ての歴史物語の精髄と仏法を緊密に結びつけ、より多くの人に仏教精神を体得してもらった。

優人神鼓創設者の劉若瑀(リュウ・ルォユー)さんは、舞台芸術チームの創設者として、長い時間をかけて自分の心を理解してから、やっと芸術と結合して生命の探求に回帰することができるのだ、と言った。「今このような素晴らしい機会を与えていただき、私が伝えたいことを慈済という団体を通して、系統立てて表現をすることができました。とても光栄に思います」。

劉さんによると、最初は慈済と共に公演に参加するのが、すこし恥ずかしかったとのこと。「私たちが自分の芸術のために汗水流し、琢磨していた時、彼らはすでに私たちのために、この世界や台湾社会を安定させていたのです」。

唐美雲さんは既に上人に帰依した慈済人であり、長年、経蔵劇に参加して来た。彼女は上人の経蔵劇に対する期待を話してくれた。「これは『演技』ではなく、『説法』です。ですから、ここ数日間の公演は大規模な法会なのです」。

彼女は、縁があって共に霊山法会に集えることは、誰もが何世にも渡って発願して来たに違いなく、今回の公演を通じて、法会に参加した一人ひとりに、心を洗い清めることができたと思ってほしい、と言った。

『法華経』は菩薩法を教え、『無量義経』は『法華経』の真髄である。そして、在家居士もまた菩薩道の主な実践者である。舞台の上や舞台の下にいる膨大な数のボランティアがこの劇の主役であり、菩提心を発して勇猛に精進し、動作を通して身で以て説法をした。

欠席したらもったいない、チャレンジする

毎回七百三十八人の経蔵劇出演者と慈優(ツーヨウ‥事前に優人神鼓の訓練を受けた慈済の青年ボランティア)、舞台芸術団体など、スタンド席に位置する白い服を着た六百八十人、手に「蛍」のライトを持った「大愛の光」区域の人たち、それに三千七百人の観客が参加した。更にスタッフも合わせると、約六千五百人が共に荘厳で殊勝な霊山法会に参加したのである。

三時間にわたる合計二十六幕の、音楽と照明に伴って変形する隊形が、大画面に映し出されていた。それぞれの公演で出演するボランティアは、異なった地域から来ている──苗栗、台中、彰化、南投などから、体力と記憶力、時間等での困難を克服し、四十回以上の大規模な集中稽古と成果の検収を経て来ている。

舞台には白髪で猫背のベテランボランティアや事業で多忙な中年、それに機敏で活気に溢れた若者がおり、皆初めは経文を全く理解していなかったが、三カ月後には自信を持って動作で説法をしていた。彼らも最初は床の様々なマークを見ただけでめまいがするほどだったが、本番では既に素早く正確に位置につけるようになっていた。

三十歳の蘇閲(ス―・ユェ)さんは、二〇二一年慈済五十五周年に花蓮静思堂で公演された経蔵劇『静思法髄妙蓮華』のメンバーで、その後、二〇二二年に花蓮と高雄ドーム、そして、今年の彰化県立体育館での公演に参加し、一度も欠場したことはない。

今回は経蔵劇企画チームのメンバーとして、三カ月間、体力の試練と言えるほど、台湾を南へ北へと行き来した。「中部地区の八回の公演では、上演までに検収が一日四回、朝七時から夜九時まで行われたので、疲れないわけはありません」。しかし、その過程で、彼はより慈済の歴史を理解するようになった。特にベテランボランティアが打ち込む姿を見てそう感じたそうだ。跪くことができなかったり、経文を暗記する速度が早くない人もいたりしたが、それでも皆と一緒に練習をしていた。「彼らの姿は、正に上人がおっしゃった『仏教のため、衆生のため』でした。私はとても勉強になりました」。

蘇さんも「慈優」の一人である。若者たちと一緒に、優人神鼓のメンバーに太鼓の打ち方を習い、舞台の上では横一列に並び、太鼓の音で見る人の心を震わせた。中部地区の八回の経蔵劇が円満に終わると、企画チームは重心を北部に移し、十月下旬に台北アリーナで行われる経蔵劇の準備をしている。蘇さんにとって、新たなチャレンジである。

あなたも私もいれば、法会が解散することはない

大画面に映された三人の慈済人を見ながら、ちょうど手に設計図を持ち、地形を調査していた李朝森(リー・ツァオスン)さんと、向かい側にある「大愛の光」スタンド席にいた高麗雪(ガオ・リーシュェ)さんは、感慨深いものがあった。

土地の測量専門家である李朝森さんは、一九九四年に慈済タイ北部貧困救済プロジェクトに参加した。当時は通信が不便で、メッセージのやり取りはファックスに頼るしかなく、普段から家族思いの李さんは毎日、妻の麗雪さんと連絡を取り合い、今日どこそこへ行ったとか、何をしたとかを分かち合った。彼女はその日の三人の子供の状況やどのような慈済のことをしたかを報告した。

麗雪さんによると、以前タイ北部は荒涼としていて、交通が不便で、食事習慣も台湾と異なっていたが、證厳法師が託した任務を達成するために、李さんは多くの障害と試練を経て、最終的には法師の期待を裏切らなかっただけでなく、現地で数多くの慈済人を養成したのだそうだ。二〇一七年二月に李さんが亡くなった時は、現地で慈済人となった人たちがはるばるタイ北部から台湾に来て、追悼式に参加したのだった。

二〇一一年、経蔵劇『法で水の如く衆生を潤す・広く環境保全を行い、人文を広める』(原文‥『法譬如水潤蒼生,廣行環保弘人文』)の公演では、李さんはプロジェクトの調整役を努めた。今年再び彼の姿が映像に映し出された時、高さんは、「彼は今回も欠席していません」と嬉しそうに話した。

劇は「骨髄寄贈」の章になり、一九九三年、たとえ多くの疑いの目で見られても、法師は臆することなく、非血縁者間の造血幹細胞寄贈を推し進めた。「台湾には愛のある人がたくさんいます。呼びかけなければなりません!人の命は助けられても、自分の健康を損なうことはないのです」。劇の中でこう言った、「あなたはどこにいるのですか?」出演者は力強く叫んだ。「私は喜んで寄贈します!」、「寄贈します!」、「寄贈します!」手話劇チームの中にいた林雪珠(リン・シュェヅゥ)さんは「この部分を演じていて、とても感動しました」と言った。

その年、慈済は彰化八卦山麓で、台湾で初めて骨髄寄贈血液登録活動を行い、その時から林さんは骨髄寄贈ケアチームのメンバーになったのだった。三十年の時を経て、慈済は八卦山麓の彰化県立体育館で慈済手語による経蔵劇を演じたのだから、寄贈者の無私の奉仕に対して、林さんはいつまでも感動でいっぱいだった。

慈済初めての血液登録活動が、一般の八百四十人から支持を得たことで、「慈済骨髄バンク」は順調にスタートした。「私もその内の一人です!」慈悲の善行における最高の境地は、「徳行品」偈頌で、「一切の捨て難きを、財宝、妻子、国、城を悉く捨て、法の内に外に惜しみなく、頭目髄脳悉く人に施す」と述べている所だ。経蔵劇がこの場面になると、林さんは法師の智慧に心から感謝し、「私たちはあらゆる方法を尽くしてドナーを見つけ、それから骨髄の提供を勧めました。その後、ケアチームは範囲を白血病患者にまで広げ、それがきっかけで慈済のケア対象者になった人もいました」。

人々の風習が保守的だった時代、怒涛のように押し寄せる反対の声に向かって、林さんは、「自分が困難に打ち負かされず、ドナーを見つける過程で尻込みしなかったことをとても幸いに感じています。私には一つの信念しかありません。それは何としてでもその人を見つけることでした。もしマッチングが成功したら、一人の人とその人の家庭を助けることができるからです!拍手喝采は求めず、共鳴を得て、本分を尽くすだけです」と言った。

優人神鼓と唐美雲台湾オペラ劇団及び特訓を受けた慈済の青年ボランティアたちは、芸術の形式を通して、一幕一幕を演じ、真実の出来事を引用して経文の意義を解釈し、伝統的な弘法形式とは異なる表現をした。

化城から足を踏み出せば、宝は近くにある

后里連絡所の三千坪余りの古い工場跡地は、緊急支援物資の貯蔵センターになっていて、中部地区の全ての連絡所の中で最も面積が広いため、経蔵劇の稽古場に選ばれた。三月中旬、工場を空にした後、木製の舞台を作って、カーペットを敷き、マークを貼るなど、次々と仕事に取りかかり、工場の外の千坪ほどの敷地にインターロッキングブロックを敷き詰めた。四月から七月二十三日まで、毎週末と休日は千人から四千人近い出演者が来て、集中稽古をした。后里、豊原、東勢地区のボランティアが交通整理やトイレ清掃を担当し、お茶や菓子などの準備をすると同時に、経蔵劇の稽古も行ったので、「幸福を味わった」(慈済では苦労を経て法悦に浸る意味)と言っても過言ではない。

七月十九日から、ボランティアは彰化県立体育館に入って、清掃、装飾や配置、マーク貼りを、出演者はリハーサルを行った。三日間の公演で、一万八千人余りが観光バスで鑑賞に訪れた。観光バスは全部で二百八十台運行したが、幸いなことに現地の彰化チームが事前に視察して、移動ルートを青、黄、赤、紫の四色に分け、同じ座席エリアの人はできるだけ同じバスに乗ってもらうようにしたので、案内スタッフは色によって入場や退場を案内した。毎回、場外には二百三十七人の案内スタッフを配置した。ボランティアの高季恵(ガオ・ヂーフウェイ)さんは、彰化県立体育館の設計は、比較的若い人が球技を観戦するのに適しており、観客席の階段は急勾配なので、会場の案内スタッフは懐中電灯を持って、高齢の観客の着席に手を貸したと説明した。

彰化のボランティアは、スタッフチームと出演者たちへの三度の食事とおやつ、お茶の補充を担当した。約十日間、支部の厨房はほとんど明け方四時から賑わっていた。各区のボランティアが交代で調理を担当し、今日は弁当作りだが、明日は舞台に立つ、というように互いに支え合った。

彰化区総コーディネーターの陳素香(チェン・スーシャン)さんは「お金を出しても、これだけ多くの人に来てもらえるとは限りません。慈済という団体の求心力によって、一人ひとりが使命感を持っています。本当に感動します」。最初の外部の会場レンタル、ハードウェアメーカーとのやり取りから経蔵劇が始まるまで、七十六歳になる陳さんは、朝から晩まで体育館の内外を駆け回っていたが、疲れた顔を見せることもなく、「私は毎日ここに来て、人が私を見つけて、その人の問題を処理し、解決するのが役目なのです」と言った。

『化城喩』の偈頌の一節はこうだ。「この城に入って休息すると、疲れ切った人々は大いに歓喜し、皆で人生を度したことを讃え合い、安穏に暮らせることを喜んだ」四カ月余りの間、五千人近い経蔵劇の出演者は、まるで一歩ずつ霊鷲山を登って偉大な法を聞いたかのようだった。経蔵劇の終幕は次の始まりであり、この化城を経たことにより、再び歩を進めることができるのだ。(資料提供・陳秀嫚、溫燕雪、梁錦彬、鐘碧香、楊絮惠)

(慈済月刊六八二期より)

關鍵字

台湾の特色─華やかさと簡素さのスペクトラムとも言える

高雄市岡山の旧市街にある一軒の雑貨店の店先は、生活の中でよく見かける伝統文化に源を発した色彩で飽和している。市場メカニズムの影響を受けた「人目につく」配色であると同時に、社会情勢が移り変わるにつれて、華やかさと簡素さの間を揺れ動く。

午後三時に六時間目が終わるベルが鳴り響くと、新北市新荘区の民安小学校では児童が掃除を始める。教室、廊下、階段、運動場に現れる子供達の真面目な、或いはわんぱくな姿はいつもと変わらない。ただ、その掃除道具には、小さいようで大きな変化が起きていた。

「お爺ちゃんは、小さい時の箒も『赤と綠』で、僕たちが前に使っていたのと同じだった、と言っていたよ」。新学期に受け取った黒の掃除道具を手にして、四年生の男子生徒がか細い声で言った。

赤と緑の箒、赤いちりとり、赤いモップ、緑色のバケツ、青色のゴミ箱、これらは老若を問わず見慣れた日常的な色である。学校に黒、グレー、アースカラーの掃除道具が現れるにつれ、今の子供たちは、やっと五十年前の「お爺さんの時代」とは違う選択をすることができるようになった。

実際は学校の掃除道具だけでなく、街の看板や屋台、または会合の時に使う赤い腰掛け、道を行き来する観光バス、海辺のカラフルなパラソルなど、日常生活のいたるところに見られる物は、鮮やか且つ強烈な色をしていて、彩度の高さとその組み合わせの全ては「人目を引く」ことと「目立つ」ことを目的としているのである。

長年、私たちは意識的または無意識的に、今日の台湾の容貌を作り出してきた。しかし、なぜこういう色なのか。これらは今の台湾の環境に最も適した色彩の表現なのだろうか。

レインコート(写真1)や扇風機(写真2)など少なからぬ日用品に彩度の高い配色が施されているが、私たちはそれらに慣れてしまっている。

様々な色を使って神に敬意を払う

「色彩は人が絵画や物から受ける第一印象であり、この印象は往々にして『見た感じが良いか否か』を決定付けます」。教育部が成功大学建築部に委託して編集した「美感入門」という本の中で、その「見た感じが良いか否か」の判断は、視覚による色彩に対する直観的な反応の他に、文化の背景や地理的環境等といった外的要因が与える美の経験と、切っても切れない関係がある、と指摘している。

例えば、赤道に近い緯度や日光が直射に近い熱帯や亜熱帯地帯では、豊富な種類の物を育み、多様な自然環境の色彩をもたらす。また強烈な日光によって繊細な淡い色は目立たなくなるため、建築や器物には高彩度で対比がはっきりしている色の組み合わせを使用する傾向がある。これは東南アジアの国々で濃い配色がよく見られる一因でもある。

もし、歴史と文化の面から見れば、四百年間の台湾の歴史は、台湾の人々と風景の変装の歴史のようなもので、別の文化が入ってくる度に、その時々の統治者の色彩に変わるが、何度変装しても、以前の統治文化の痕跡は発見することができ、特に中国の伝統的な文化の影響を深く受けている。

「中国人が重視するのは視覚的な美学ではありません。美は「装飾」のカテゴリーに入るのです。また煌びやかな色彩を高尚な象徴と見なしています」と、早い時期から美感教育を提唱して来た建築師の漢寶徳氏が言ったことがある。古代から色で階級を区別し、鮮やかな色の服は官吏だけが着ることができた。黄色は皇室専用で、次いで紫、赤、緑、青の順である。平民が身につける色は黒か灰色または自然の素材色に限られていた。服の他、建築にも制限があった。

後に商業と民主政治の発展により、色彩は次第に階級を表すという戒律は打ち破られていき、上流社会の特権ではなくなった。そして、台湾は古代中国文化を受け継いで、鮮やかな色を廟や祠に好んで使用し、民間芸術や日常器物は過去の「伝統装飾」を引き継ぐ形となった。

大龍洞の保安宮や萬華の龍山寺、北港の朝天宮などの大きな廟では、屋根や壁に中国南方の陶磁器の一種「交趾焼(コーチやき)」と「剪黏(ジェンネン)」という工芸が見られ、高貴な雰囲気を醸し出す古代の黄色、淡い黄色、エンジ色、或いは鮮やかな玉緑色、コバルトブルーなど多彩な色を使い、瑞獣、花、鳥、人物、山林を組み合わせた装飾をしており、鮮やかな色と光沢に溢れると同時に長く保たれて来たため、「神様に敬意を表す」ものとして真っ先に選ばれるのである。

「信仰上で使用する色彩は、美感でもって総括することは出来ず、それ以上に人目を引くこと、稀有、敬虔と意義の象徴として、台湾の廟は強烈な色調で煌びやかな色彩になったのです」と、雲林科技大学視覚伝達設計学部の曽啓雄(ゾン・チーシオン)名誉教授が言った。台湾の廟の装飾性色彩表現は中国の廟に比べ、より鮮やかで、力強く、大胆になっており、配色或は意義において、「台湾色」の代表的なものとなっている。

時間と空間が積み重なるにつれ、今日に至ると、この様々な色彩で華やかさと賑やかさを表現するというやり方は、節句や祭りから日常生活の器物に至るまで、類似した色使いで私たちの日常生活に広く溶け込んでいることがわかる。

それ以外に、もう一つ大きな力が色彩の容貌発展に影響している。それは市場メカニズムであり、生産、マーケティング、販売の過程で市場のニーズを満たし、コストを削減できる色を選択していることである。

新北市は古いコミュニティーの美化を推進するにあたって、あちこちのマンション外壁に彩色画を描いた。板橋区国慶路辺りにある多くの大型テーマ彩色壁画は、道行く人々に豊かな彩りを見せ、暫しの間、その後ろの不揃いな増築窓を忘れさせる。

市場メカニズムが日常における色の選択に影響を及ぼしている

台湾の市場で最も普遍的に見られる「台湾特有」の紅と白のビニール袋を例にとってみよう。最初に紅と白を配色した理由は人々の想像とは全く異なっているかもしれない。世界で初めて「一層二色」の紅と白のビニール袋を製造する機械設備を開発した鳳記国際機械社の魏燦仁(ウェイ・ツァンレン)総経理は、ポッドキャストの番組「製造癮(ものづくりはやめられない)」でこう語った。「実は当時のアフリカ市場のニーズによるものでした」。

当時、ビニール袋は白色で、少しはデザインすることがあったが、一九七〇年代にアフリカに輸出するようになった時、顧客が現地は豊富な色彩を好むと言ったため、鳳記会社は二種類の色の袋を製造する機械を開発し、アフリカ好みの紅と白のビニール袋を生産した。予想外だったのは、それが最終的には台湾に根づいたことだ。

政府機関や学校、店の出入り口、マンションの壁など至る所に、赤と緑の箒を見ることができる。なぜこのような配色と機能のものが「五十年一日の如く」変わることがなかったのか。その背景にあるのは、必ずしも色の好き嫌いではなく、産業チェーン全体に関わっているのだ。

「貴方は今の学校が購入している箒の予算は、一本三十元にも満たないということを知っていますか?」と、美感細胞協会の創立者である陳慕天(チェン・ムーティエン)氏がこのように聞いた。

協会は九年前から「美感教科書」という提案を行ってきたそうだ。昨年は新北市政府教育局と共同で、「キャンパス掃除道具美感改造プロジェクト」を推進し、多元的な美感設計を教科書だけでなく、キャンパスの掃除道具にも取り入れようとした。「多くのメーカーが、かなり前からそういう儲からない生産を止めたいと言っているのです」。以前は誰でも購入できるように値段を抑えてきたが、メーカーに利益がなくなり、革新の意欲も無くなった挙句、学校の掃除道具の選択肢も限られてしまったのだ、と彼が説明した。

「ですから、私たちが挑戦しているのは、このように利潤がなく、誰も作りたがらなくても価値があって、大きな影響力があり、公共性を有する物作りです。他の収益性の高いものは、とっくに改良されていますよ」と陳氏が強調した。実際の行動を通して産業チェーンを動員して初めて、問題を解決ができるのだ。

台北市と新北市の学校が購入する日常百貨の会社を四十年以上続けて経営してきたハッピードッグ社は、今回のキャンパス掃除道具改造プロジェクトに応じたディーラーの中の一社である。今まで学校の掃除道具の仕入れは殆ど慣例に倣って行われ、誰も「他の色はありますか」と尋ねる人はなかった、と社長の李栄光(リー・ロングアン)氏が言った。

それでもハッピードッグ社は、プロジェクトが始まる前から耐久性のある新シリーズの掃除道具を売り出しており、質感を象徴する「黒色」を採用して差別化を図り、市場のニーズを掘り起こした。

「お爺さんの時代の箒はなぜ赤と緑なのか、調べようがありません。縁起が良いと人々が思ったのかもしれません」。ハッピードッグ社の黒シリーズ箒の下請け生産をしている候泰社は、創業五十年の掃除道具老舗メーカーである。二代目社長の侯嘉麟(ホウ・ジアリン)氏によると、普通の工場で長年変わっていないのは、顔料のコストを考えるよりも「習慣」であり、流通方面の考え方が止まったままであれば、製造面にも影響を与えるのだという。

野外劇場には、赤と青の演劇用衣装と赤と青のキャンバス屋根が互いに引き立て合って風情を出していた(写真1)。イベントや集会或いは屋台にも見られる赤い腰掛けが、会場を盛り上げているような気がした。(写真2)

環境もコーディネートが必要

このように産業チェーンを小さなことで大々的に変革させたのは、美感細胞協会が「美感は育まれる」という初心を貫いたからだった。以前、教育部の「美を学ぶ・美学‐キャンパス美感設計実践プロジェクト」に参加した時、空間は改装して美しくなっても、主役でもない掃除道具がいつも廊下やバルコニーに置かれていることに気が付いた。収納が不適切であった一方、色が目立ちすぎるため、環境との一体化に欠けていたのだ。

「洋服の着合わせのように、ただ着るだけでなく、着こなすことが必要で、スペース全体のコーディネートも必要なのです」と陳さんが言った。

限られた資源と各方面のニーズを釣り合わせながらも、美感と機能の両面を兼ね備えた掃除道具が直ぐにできるわけではないため、とりあえず色から着手し、黒、グレー、アースカラーを見本に、興味のある学校に選択肢を広げ、将来、段階的に収納管理や機能設計などを改善していく予定である。

「美感を育むために、子供の日常的な環境から実践すべきです」。民安小学校は真っ先に新しい掃除道具を採用した学校の一つだ。校長の王健旺(ワン・ジエンワン)先生自身が長年芸術教育を推進して来た方であり、改造プロジェクトに大いに賛同したのだ。

純粋な芸術と民俗芸術の分野に関わってきた王先生は、黒、グレー、白という無色彩系統の方が他の色と調和できるが、それが美感の基準を代表するものではないと述べた。「私たちは子供に『慣れ親しんだ色』以外の組み合わせを提供することで、生活の中の事物に何かを感じ、自分なりの考えを持つよう啓発したいのです。これこそが美感掃除道具の改造プロジェクトの目的なのです」。

みずみずしさに溢れた南国フルーツの盛り付け、元気いっぱいの炒め物屋台、野外劇用の蛍のようにキラキラ輝く服装などを、常時フェイスブックにアップしては色彩観察について分かち合っている、台湾カラー・マーケティング協会理事長の蔡元(ツァイ・ユエン)氏は、市場や寺院或いは道端の屋台などの最も日常的な色彩が大好きで、一見雑然としているが、隠れた法則があるのだ、と語る。

彼は、台湾における色使いの特徴は、「人情味のある色彩」だと言う。人々の性格が色の表現に反映されるのである。一つは親しみやすさで、距離を感じさせない鮮やかでカラフルなものであり、もう一つは生命力に満ちたものである。道端の屋台にしても夜市にしても、どの色も「一番になりたい」という気持ちを表しているのだ。

「キャンパス掃除道具改造プロジェクト」を推進する美感細胞協会は、先ず色から着手し、学校により多くの選択肢を与えている(写真1)。嘉義市文化路夜市では、標識と目印用コーンをストレスを与えにくい配色に変えた。(写真2)(写真1提供・美感細胞協會)

正否ではなく、適しているかどうか

「私たちの環境の色彩は、言うなれば私たちという集団の個性の延長です」と蔡理事長が強調した。「色彩に正否はなく、適しているかどうかです」。

それならば、近年、地域の路地や公園、川堤、擁壁、ポンプ場、石油貯蔵タンクなど、雨後の筍のように、視覚に訴える彩色画が次々と現れているが、このような「色彩で新しい景観づくり」を進める方法は適切なのと言えるだろうか。二年前に完成し、数々の景観賞を得て認められた台北市の辛亥生態公園だが、最近「彩色壁画」に対して景観業界から反対署名が提出されたことで、都市景観に関心のある人々の間では議論が巻き起こっている。

辛亥公園は都市の森と遊び場を融合した所が特色であると共に、地下には大きな調整池がある。池の壁が地面に突き出しているので、設計チームは色が邪魔にならないように、色彩のないグレー・ホワイトで壁と周囲の芝生の斜面を融合させた。

プロジェクトの初期段階で、住民が工房や公聴会などの段取りに参加したが、完成した時、一部の民衆から「お墓みたい」との声が出たため、政府は最終的に方向を転換して、彩色画で解決することにした。鮮やかな青い空や緑の大地に動物を描いて、「生態を模倣」した。目立たず環境に溶け込むグレーの壁を隠すつもりだったが、今は逆に「拡大版の変電ボックスか電信ボックス」と揶揄されている。

意思決定の段取りの他に、台湾の景観環境にこの類の彩色画による美化方式が適しているか、ということも考えてみるべきである。

「美化はそれぞれの土地柄に適したようにする必要があり、外国に適した絵画技法が必ずしも台湾に適しているとは限りません」。台中教育大学文化創意産業設計及びオペレーションサイエンス学部の顔名宏(イエン・ミンホン)準教授が言った。顔先生は教育部「キャンパス美感環境改修プロジェクト」の主催者でもあり、この八年間、美感教育とキャンパスの環境に力を注いできた。

彼はヨーロッパを例に挙げ、現地の建物は整然とした秩序と無機質なものが多く、住民に単調で退屈な印象を与えやすいため、補完的にバランスをとるために、カラフルな彩色画が適しているという。台湾の状況はその逆で、街並みが比較的雑然としているので、多様な中で秩序を見出す方法が適しており、色彩を増やしてはいけないのだ。「ヨーロッパは『静の中で豊さ』を出す必要がありますが、台湾に必要なのは『喧騒の中で静けさを求める』方法なのです」。

もちろん、人間の本性は色彩を好み、環境がカラフルになることを望むのは間違いではなく、彩色画で環境を美化するのもいいだろう。だが「これらのいわゆる『美化』が適切に企画や設計されていない場合、逆に視覚汚染になってしまいます。そこに住んでいる人々は、知らないうちに段々とその高色彩、高明度、混色といった『色彩暴力』に慣れてしまい、自分たちも気がつかないのです」と中国文化大学景観学部の郭瓊瑩(グオ・ジョンイン)教授が率直に言った。

四年前、暗い雰囲気を一転させた基隆・正浜漁港の「カラフルハウス」は、典型的な彩色画による成功例と言える。二年間にわたる周到な色彩プロジェクトを経て、十数軒の家が「正浜彩色」に塗られた。埠頭の青、暖かい日光のオレンジ色などの「正浜色」で彩られ、多くの観光客がわざわざ訪れるようになり、その驚くべき成果に各地も追随するようになった。

このプロジェクトを取り仕切る郭教授はこう語った。色彩は単なるツールに過ぎず、どのように配色して色の調合や比率を決めるか、どのように環境との調和を取るか、すべて専門家の協力が必要であり、住民たちとの対話が不可欠だ。そして、それを支える科学的根拠と環境美学の後押しがなければならない。「適当に何軒かの家に、異なる色を塗ればいいのではありません」。

「活気に溢れた状態」も「賑やかさ」も、人類の活動がもたらしたものである。例え暗い路地が色彩で僅かに活気を取り戻すことができても、決して様々な色で賑やかさを生み出すことはできない。地域の活動と結び付けてこそ、持続的な活気と変化を生み出すことができるのだ。

台南市孔子廟の赤色の壁(写真1)と、屋根を色鮮やかに彩る交趾焼及び剪粘(写真2)。様々な陶器を裁断して貼り付けて形作る。このように伝統的な様々な色を表現する方法は、今でも台湾人の日常に溶け込んでいる。

新北大都会公園にある滝のターフスキー場には、堤防の斜面に人工芝が敷かれ、全面的に濃淡のある青色の水模様で「滝」が表現されている。

先ず素顔に戻り、それから丁寧にメイクアップする

「いっぱい塗りたくり、厚化粧しているのが『美』というわけではありません」と二十年間、「引き算の美学」を熱心に提唱してきた台湾設計研究院の張基義(チャン・ジーイー)院長が強調した。台湾は、古代中国が好んだ繁華で艶やかな装飾をする足し算の美学を受け継ぎ、簡潔で簡略な美を疎かにしたため、今、あらゆる方面でいき過ぎた飽和状態になり、「少ないことは美である」という文化を学ぶ時期に来ているという。

「先ず『減』、それから慎重に『加』に転じるべきです」と張院長は言った。先ず、垢や無用の物を取り除いて元の素顔に戻り、それから如何にして化粧やメイクをするかを考えてこそ、確実に問題を解決し、ニーズに応えることができるのだ。総合的な美感が不足している台湾では、「引き算」によって美感を感じさせる必要性こそ、通らなければならない道なのである。

「カラフル」と「簡素で内気」は色のスペクトルの両端であり、その間で必ずしもどちらかを選ぶ必要はない。伝統文化や市場メカニズム、社会の雰囲気、価値観の変化に沿って、歩調は調整することができる。時には或る一点で、動的なバランスを取ることもできる。

色彩に正否も絶対的な基準もない。しかし、私たちの周りで色をより意識的且つ注意深く観察すると、その時点での最善の答えがようやく見つかるのだ。

(経典雑誌二九一期より)

基隆の正浜漁港の暗い雰囲気を一掃した「カラフルハウス」は、決して無作為に描かれたのではない。専門家が2年間の計画を経て、住民たちと対話の場を持ちながら、環境に調和した配色を創出した。

高雄市岡山の旧市街にある一軒の雑貨店の店先は、生活の中でよく見かける伝統文化に源を発した色彩で飽和している。市場メカニズムの影響を受けた「人目につく」配色であると同時に、社会情勢が移り変わるにつれて、華やかさと簡素さの間を揺れ動く。

午後三時に六時間目が終わるベルが鳴り響くと、新北市新荘区の民安小学校では児童が掃除を始める。教室、廊下、階段、運動場に現れる子供達の真面目な、或いはわんぱくな姿はいつもと変わらない。ただ、その掃除道具には、小さいようで大きな変化が起きていた。

「お爺ちゃんは、小さい時の箒も『赤と綠』で、僕たちが前に使っていたのと同じだった、と言っていたよ」。新学期に受け取った黒の掃除道具を手にして、四年生の男子生徒がか細い声で言った。

赤と緑の箒、赤いちりとり、赤いモップ、緑色のバケツ、青色のゴミ箱、これらは老若を問わず見慣れた日常的な色である。学校に黒、グレー、アースカラーの掃除道具が現れるにつれ、今の子供たちは、やっと五十年前の「お爺さんの時代」とは違う選択をすることができるようになった。

実際は学校の掃除道具だけでなく、街の看板や屋台、または会合の時に使う赤い腰掛け、道を行き来する観光バス、海辺のカラフルなパラソルなど、日常生活のいたるところに見られる物は、鮮やか且つ強烈な色をしていて、彩度の高さとその組み合わせの全ては「人目を引く」ことと「目立つ」ことを目的としているのである。

長年、私たちは意識的または無意識的に、今日の台湾の容貌を作り出してきた。しかし、なぜこういう色なのか。これらは今の台湾の環境に最も適した色彩の表現なのだろうか。

レインコート(写真1)や扇風機(写真2)など少なからぬ日用品に彩度の高い配色が施されているが、私たちはそれらに慣れてしまっている。

様々な色を使って神に敬意を払う

「色彩は人が絵画や物から受ける第一印象であり、この印象は往々にして『見た感じが良いか否か』を決定付けます」。教育部が成功大学建築部に委託して編集した「美感入門」という本の中で、その「見た感じが良いか否か」の判断は、視覚による色彩に対する直観的な反応の他に、文化の背景や地理的環境等といった外的要因が与える美の経験と、切っても切れない関係がある、と指摘している。

例えば、赤道に近い緯度や日光が直射に近い熱帯や亜熱帯地帯では、豊富な種類の物を育み、多様な自然環境の色彩をもたらす。また強烈な日光によって繊細な淡い色は目立たなくなるため、建築や器物には高彩度で対比がはっきりしている色の組み合わせを使用する傾向がある。これは東南アジアの国々で濃い配色がよく見られる一因でもある。

もし、歴史と文化の面から見れば、四百年間の台湾の歴史は、台湾の人々と風景の変装の歴史のようなもので、別の文化が入ってくる度に、その時々の統治者の色彩に変わるが、何度変装しても、以前の統治文化の痕跡は発見することができ、特に中国の伝統的な文化の影響を深く受けている。

「中国人が重視するのは視覚的な美学ではありません。美は「装飾」のカテゴリーに入るのです。また煌びやかな色彩を高尚な象徴と見なしています」と、早い時期から美感教育を提唱して来た建築師の漢寶徳氏が言ったことがある。古代から色で階級を区別し、鮮やかな色の服は官吏だけが着ることができた。黄色は皇室専用で、次いで紫、赤、緑、青の順である。平民が身につける色は黒か灰色または自然の素材色に限られていた。服の他、建築にも制限があった。

後に商業と民主政治の発展により、色彩は次第に階級を表すという戒律は打ち破られていき、上流社会の特権ではなくなった。そして、台湾は古代中国文化を受け継いで、鮮やかな色を廟や祠に好んで使用し、民間芸術や日常器物は過去の「伝統装飾」を引き継ぐ形となった。

大龍洞の保安宮や萬華の龍山寺、北港の朝天宮などの大きな廟では、屋根や壁に中国南方の陶磁器の一種「交趾焼(コーチやき)」と「剪黏(ジェンネン)」という工芸が見られ、高貴な雰囲気を醸し出す古代の黄色、淡い黄色、エンジ色、或いは鮮やかな玉緑色、コバルトブルーなど多彩な色を使い、瑞獣、花、鳥、人物、山林を組み合わせた装飾をしており、鮮やかな色と光沢に溢れると同時に長く保たれて来たため、「神様に敬意を表す」ものとして真っ先に選ばれるのである。

「信仰上で使用する色彩は、美感でもって総括することは出来ず、それ以上に人目を引くこと、稀有、敬虔と意義の象徴として、台湾の廟は強烈な色調で煌びやかな色彩になったのです」と、雲林科技大学視覚伝達設計学部の曽啓雄(ゾン・チーシオン)名誉教授が言った。台湾の廟の装飾性色彩表現は中国の廟に比べ、より鮮やかで、力強く、大胆になっており、配色或は意義において、「台湾色」の代表的なものとなっている。

時間と空間が積み重なるにつれ、今日に至ると、この様々な色彩で華やかさと賑やかさを表現するというやり方は、節句や祭りから日常生活の器物に至るまで、類似した色使いで私たちの日常生活に広く溶け込んでいることがわかる。

それ以外に、もう一つ大きな力が色彩の容貌発展に影響している。それは市場メカニズムであり、生産、マーケティング、販売の過程で市場のニーズを満たし、コストを削減できる色を選択していることである。

新北市は古いコミュニティーの美化を推進するにあたって、あちこちのマンション外壁に彩色画を描いた。板橋区国慶路辺りにある多くの大型テーマ彩色壁画は、道行く人々に豊かな彩りを見せ、暫しの間、その後ろの不揃いな増築窓を忘れさせる。

市場メカニズムが日常における色の選択に影響を及ぼしている

台湾の市場で最も普遍的に見られる「台湾特有」の紅と白のビニール袋を例にとってみよう。最初に紅と白を配色した理由は人々の想像とは全く異なっているかもしれない。世界で初めて「一層二色」の紅と白のビニール袋を製造する機械設備を開発した鳳記国際機械社の魏燦仁(ウェイ・ツァンレン)総経理は、ポッドキャストの番組「製造癮(ものづくりはやめられない)」でこう語った。「実は当時のアフリカ市場のニーズによるものでした」。

当時、ビニール袋は白色で、少しはデザインすることがあったが、一九七〇年代にアフリカに輸出するようになった時、顧客が現地は豊富な色彩を好むと言ったため、鳳記会社は二種類の色の袋を製造する機械を開発し、アフリカ好みの紅と白のビニール袋を生産した。予想外だったのは、それが最終的には台湾に根づいたことだ。

政府機関や学校、店の出入り口、マンションの壁など至る所に、赤と緑の箒を見ることができる。なぜこのような配色と機能のものが「五十年一日の如く」変わることがなかったのか。その背景にあるのは、必ずしも色の好き嫌いではなく、産業チェーン全体に関わっているのだ。

「貴方は今の学校が購入している箒の予算は、一本三十元にも満たないということを知っていますか?」と、美感細胞協会の創立者である陳慕天(チェン・ムーティエン)氏がこのように聞いた。

協会は九年前から「美感教科書」という提案を行ってきたそうだ。昨年は新北市政府教育局と共同で、「キャンパス掃除道具美感改造プロジェクト」を推進し、多元的な美感設計を教科書だけでなく、キャンパスの掃除道具にも取り入れようとした。「多くのメーカーが、かなり前からそういう儲からない生産を止めたいと言っているのです」。以前は誰でも購入できるように値段を抑えてきたが、メーカーに利益がなくなり、革新の意欲も無くなった挙句、学校の掃除道具の選択肢も限られてしまったのだ、と彼が説明した。

「ですから、私たちが挑戦しているのは、このように利潤がなく、誰も作りたがらなくても価値があって、大きな影響力があり、公共性を有する物作りです。他の収益性の高いものは、とっくに改良されていますよ」と陳氏が強調した。実際の行動を通して産業チェーンを動員して初めて、問題を解決ができるのだ。

台北市と新北市の学校が購入する日常百貨の会社を四十年以上続けて経営してきたハッピードッグ社は、今回のキャンパス掃除道具改造プロジェクトに応じたディーラーの中の一社である。今まで学校の掃除道具の仕入れは殆ど慣例に倣って行われ、誰も「他の色はありますか」と尋ねる人はなかった、と社長の李栄光(リー・ロングアン)氏が言った。

それでもハッピードッグ社は、プロジェクトが始まる前から耐久性のある新シリーズの掃除道具を売り出しており、質感を象徴する「黒色」を採用して差別化を図り、市場のニーズを掘り起こした。

「お爺さんの時代の箒はなぜ赤と緑なのか、調べようがありません。縁起が良いと人々が思ったのかもしれません」。ハッピードッグ社の黒シリーズ箒の下請け生産をしている候泰社は、創業五十年の掃除道具老舗メーカーである。二代目社長の侯嘉麟(ホウ・ジアリン)氏によると、普通の工場で長年変わっていないのは、顔料のコストを考えるよりも「習慣」であり、流通方面の考え方が止まったままであれば、製造面にも影響を与えるのだという。

野外劇場には、赤と青の演劇用衣装と赤と青のキャンバス屋根が互いに引き立て合って風情を出していた(写真1)。イベントや集会或いは屋台にも見られる赤い腰掛けが、会場を盛り上げているような気がした。(写真2)

環境もコーディネートが必要

このように産業チェーンを小さなことで大々的に変革させたのは、美感細胞協会が「美感は育まれる」という初心を貫いたからだった。以前、教育部の「美を学ぶ・美学‐キャンパス美感設計実践プロジェクト」に参加した時、空間は改装して美しくなっても、主役でもない掃除道具がいつも廊下やバルコニーに置かれていることに気が付いた。収納が不適切であった一方、色が目立ちすぎるため、環境との一体化に欠けていたのだ。

「洋服の着合わせのように、ただ着るだけでなく、着こなすことが必要で、スペース全体のコーディネートも必要なのです」と陳さんが言った。

限られた資源と各方面のニーズを釣り合わせながらも、美感と機能の両面を兼ね備えた掃除道具が直ぐにできるわけではないため、とりあえず色から着手し、黒、グレー、アースカラーを見本に、興味のある学校に選択肢を広げ、将来、段階的に収納管理や機能設計などを改善していく予定である。

「美感を育むために、子供の日常的な環境から実践すべきです」。民安小学校は真っ先に新しい掃除道具を採用した学校の一つだ。校長の王健旺(ワン・ジエンワン)先生自身が長年芸術教育を推進して来た方であり、改造プロジェクトに大いに賛同したのだ。

純粋な芸術と民俗芸術の分野に関わってきた王先生は、黒、グレー、白という無色彩系統の方が他の色と調和できるが、それが美感の基準を代表するものではないと述べた。「私たちは子供に『慣れ親しんだ色』以外の組み合わせを提供することで、生活の中の事物に何かを感じ、自分なりの考えを持つよう啓発したいのです。これこそが美感掃除道具の改造プロジェクトの目的なのです」。

みずみずしさに溢れた南国フルーツの盛り付け、元気いっぱいの炒め物屋台、野外劇用の蛍のようにキラキラ輝く服装などを、常時フェイスブックにアップしては色彩観察について分かち合っている、台湾カラー・マーケティング協会理事長の蔡元(ツァイ・ユエン)氏は、市場や寺院或いは道端の屋台などの最も日常的な色彩が大好きで、一見雑然としているが、隠れた法則があるのだ、と語る。

彼は、台湾における色使いの特徴は、「人情味のある色彩」だと言う。人々の性格が色の表現に反映されるのである。一つは親しみやすさで、距離を感じさせない鮮やかでカラフルなものであり、もう一つは生命力に満ちたものである。道端の屋台にしても夜市にしても、どの色も「一番になりたい」という気持ちを表しているのだ。

「キャンパス掃除道具改造プロジェクト」を推進する美感細胞協会は、先ず色から着手し、学校により多くの選択肢を与えている(写真1)。嘉義市文化路夜市では、標識と目印用コーンをストレスを与えにくい配色に変えた。(写真2)(写真1提供・美感細胞協會)

正否ではなく、適しているかどうか

「私たちの環境の色彩は、言うなれば私たちという集団の個性の延長です」と蔡理事長が強調した。「色彩に正否はなく、適しているかどうかです」。

それならば、近年、地域の路地や公園、川堤、擁壁、ポンプ場、石油貯蔵タンクなど、雨後の筍のように、視覚に訴える彩色画が次々と現れているが、このような「色彩で新しい景観づくり」を進める方法は適切なのと言えるだろうか。二年前に完成し、数々の景観賞を得て認められた台北市の辛亥生態公園だが、最近「彩色壁画」に対して景観業界から反対署名が提出されたことで、都市景観に関心のある人々の間では議論が巻き起こっている。

辛亥公園は都市の森と遊び場を融合した所が特色であると共に、地下には大きな調整池がある。池の壁が地面に突き出しているので、設計チームは色が邪魔にならないように、色彩のないグレー・ホワイトで壁と周囲の芝生の斜面を融合させた。

プロジェクトの初期段階で、住民が工房や公聴会などの段取りに参加したが、完成した時、一部の民衆から「お墓みたい」との声が出たため、政府は最終的に方向を転換して、彩色画で解決することにした。鮮やかな青い空や緑の大地に動物を描いて、「生態を模倣」した。目立たず環境に溶け込むグレーの壁を隠すつもりだったが、今は逆に「拡大版の変電ボックスか電信ボックス」と揶揄されている。

意思決定の段取りの他に、台湾の景観環境にこの類の彩色画による美化方式が適しているか、ということも考えてみるべきである。

「美化はそれぞれの土地柄に適したようにする必要があり、外国に適した絵画技法が必ずしも台湾に適しているとは限りません」。台中教育大学文化創意産業設計及びオペレーションサイエンス学部の顔名宏(イエン・ミンホン)準教授が言った。顔先生は教育部「キャンパス美感環境改修プロジェクト」の主催者でもあり、この八年間、美感教育とキャンパスの環境に力を注いできた。

彼はヨーロッパを例に挙げ、現地の建物は整然とした秩序と無機質なものが多く、住民に単調で退屈な印象を与えやすいため、補完的にバランスをとるために、カラフルな彩色画が適しているという。台湾の状況はその逆で、街並みが比較的雑然としているので、多様な中で秩序を見出す方法が適しており、色彩を増やしてはいけないのだ。「ヨーロッパは『静の中で豊さ』を出す必要がありますが、台湾に必要なのは『喧騒の中で静けさを求める』方法なのです」。

もちろん、人間の本性は色彩を好み、環境がカラフルになることを望むのは間違いではなく、彩色画で環境を美化するのもいいだろう。だが「これらのいわゆる『美化』が適切に企画や設計されていない場合、逆に視覚汚染になってしまいます。そこに住んでいる人々は、知らないうちに段々とその高色彩、高明度、混色といった『色彩暴力』に慣れてしまい、自分たちも気がつかないのです」と中国文化大学景観学部の郭瓊瑩(グオ・ジョンイン)教授が率直に言った。

四年前、暗い雰囲気を一転させた基隆・正浜漁港の「カラフルハウス」は、典型的な彩色画による成功例と言える。二年間にわたる周到な色彩プロジェクトを経て、十数軒の家が「正浜彩色」に塗られた。埠頭の青、暖かい日光のオレンジ色などの「正浜色」で彩られ、多くの観光客がわざわざ訪れるようになり、その驚くべき成果に各地も追随するようになった。

このプロジェクトを取り仕切る郭教授はこう語った。色彩は単なるツールに過ぎず、どのように配色して色の調合や比率を決めるか、どのように環境との調和を取るか、すべて専門家の協力が必要であり、住民たちとの対話が不可欠だ。そして、それを支える科学的根拠と環境美学の後押しがなければならない。「適当に何軒かの家に、異なる色を塗ればいいのではありません」。

「活気に溢れた状態」も「賑やかさ」も、人類の活動がもたらしたものである。例え暗い路地が色彩で僅かに活気を取り戻すことができても、決して様々な色で賑やかさを生み出すことはできない。地域の活動と結び付けてこそ、持続的な活気と変化を生み出すことができるのだ。

台南市孔子廟の赤色の壁(写真1)と、屋根を色鮮やかに彩る交趾焼及び剪粘(写真2)。様々な陶器を裁断して貼り付けて形作る。このように伝統的な様々な色を表現する方法は、今でも台湾人の日常に溶け込んでいる。

新北大都会公園にある滝のターフスキー場には、堤防の斜面に人工芝が敷かれ、全面的に濃淡のある青色の水模様で「滝」が表現されている。

先ず素顔に戻り、それから丁寧にメイクアップする

「いっぱい塗りたくり、厚化粧しているのが『美』というわけではありません」と二十年間、「引き算の美学」を熱心に提唱してきた台湾設計研究院の張基義(チャン・ジーイー)院長が強調した。台湾は、古代中国が好んだ繁華で艶やかな装飾をする足し算の美学を受け継ぎ、簡潔で簡略な美を疎かにしたため、今、あらゆる方面でいき過ぎた飽和状態になり、「少ないことは美である」という文化を学ぶ時期に来ているという。

「先ず『減』、それから慎重に『加』に転じるべきです」と張院長は言った。先ず、垢や無用の物を取り除いて元の素顔に戻り、それから如何にして化粧やメイクをするかを考えてこそ、確実に問題を解決し、ニーズに応えることができるのだ。総合的な美感が不足している台湾では、「引き算」によって美感を感じさせる必要性こそ、通らなければならない道なのである。

「カラフル」と「簡素で内気」は色のスペクトルの両端であり、その間で必ずしもどちらかを選ぶ必要はない。伝統文化や市場メカニズム、社会の雰囲気、価値観の変化に沿って、歩調は調整することができる。時には或る一点で、動的なバランスを取ることもできる。

色彩に正否も絶対的な基準もない。しかし、私たちの周りで色をより意識的且つ注意深く観察すると、その時点での最善の答えがようやく見つかるのだ。

(経典雑誌二九一期より)

基隆の正浜漁港の暗い雰囲気を一掃した「カラフルハウス」は、決して無作為に描かれたのではない。専門家が2年間の計画を経て、住民たちと対話の場を持ちながら、環境に調和した配色を創出した。

關鍵字

孫娘の手をとってバージンロードを歩く・インドネシア

マスワさんは、子供たちに医療費の為の借金をさせたくないと思い、様々な言い訳を使って白内障の手術を避け、視力が失われていく苦痛を淡々と受け入れて来た。

慈済の施療で視力を取り戻した結果、孫娘の花嫁姿を見ることができた。

孫娘のイムロアタンさんは、祖母のマスワさんの白内障手術が順調に終わったことを喜んだ。

「今はっきりと物が見えるようになりました。アラーと慈済ボランティアに感謝します」。六十五才のマスワさんが、ジャカルタのボランティア蔡菊花(ツァイ・ジュフヮ)さんを抱きしめながら言った。

白内障手術後の検査では、視力が順調に回復しているとのことで、マスワさんは感動して涙をこぼした。「まだ泣いてはダメですよ。目を濡らしてはいけませんから」と蔡さんも同じ気持ちに浸りながら声をかけた。するとマスワさんは、こう答えた。

「とても嬉しいのです。そして、みんなの綺麗で、ハンサムで礼儀正しい姿を見ることが出来ました」。

マスワさんは、西ジャワ州インドラマユの出身で、慈済の施療を受ける為に、わざわざジャカルタに三週間仮住まいした。両目共白内障を患い、光の判別しかできなくなって、はっきり物を見ることができないので、子供たちは気苦労が多かった。

彼女は若い頃、サウジアラビアに出稼ぎに行き、家計の一部と家の修繕を負担したことがあったそうだ。夫は既に他界し、子供たちは自立して他の所に住んでいる。彼女は脳卒中を患った息子と隣接して住んでいるが、嫁と孫が世話をしている。

マスワさんは一人で生活することに慣れていた。残された時間が多くないことを自覚すると、子供たちに医療費の為の借金をさせたくないと思い、様々な理由を使って家族が勧める自費の手術を断り続け、視力が失われていく苦痛を淡々と受け入れて来た。間も無く結婚する孫娘のイムロアタンさんは、「お婆ちゃんは私の花嫁姿を見たくないの?慈済の施療に参加しさえすれば、私の結婚を見届けることができるのよ」と懇願した。手術が無料で、子供たちに負担をかけないことを知ると、マスワさんはやっと首を縦に振った。

「お婆ちゃんが手術を受けるのを見て、心配と同時に感動しました」と小学校でクラスを受け持っているイムロアタンさんが言った。それ以上に、ボランティアと医療スタッフが幸せをもたらして彼女たちの人生を変えたことに、感謝した。「皆さんが幸福で長生きして、全てが順調に行くことを願っています」。

慈済インドネシア支部は今年五月二十七日と二十八日、インドネシア仏教慈済病院で初めて施療活動を行ったが、それは、同支部による百三十八回目の大規模施療活動でもあった。八十三人の医療スタッフと延べ百二十四人のボランティアが参加して、九十五人の患者への白内障やヘルニアの手術を行った。

五月二十日、医療チームは先ず、施療に来た民衆に初歩的な検査をした。「私が選ばれて、手術を受けられるようになったことを神に感謝します」。六十一才のタレブさんは、目を潤ませながらこの言葉を繰り返した。ボランティアは、一週間後の白内障手術に備えて、健康に注意するよう念を押した。

タレブさんは、西ジャワ州ブカシ県チカラン市に住んでおり、遠い道のりを克服して州境を越えて、ジャカルタのカブ市シン村にあるインドネシア慈済病院にやって来て検査を受けた。彼は自動車の修理工場に勤めていたが、視力が次第に朦朧として来たため、自費で二〇一九年に殆ど見えなくなっていた左目の手術をした。その時の医療費は約千五百万ルピア(約十二万円)だった。そして、彼が右目の手術の為にお金を作ろうとした時、新型コロナの影響で、生計が困難に陥った。

その後、自動車修理工場を廃業すると、転職して或る教会が経営する診療所で清掃員となった。その診療所の歯医者は、彼に慈済の施療活動の情報を伝えただけでなく、旅費まで出してくれた。「検査は順調で、ボランティアたちも良い人ばかりで、心を込めて付き添ってくれました」。タレブさんは、全ての出来事に心から感謝した。

八十一才のヘルさんは、視力を取り戻した後、やっと預言者・モハメッドの伝記がすらすら読めるようになった。六十三才で屋台を営業しているカルサンさんは、奥さんをバイクに乗せて市場に仕入れに行く途中で転倒してからは、バイクに乗らなくなった。手術が成功してから彼が一番喜んだのは、仕事場に復帰でき、家族に苦労をかけなくて済むようになったことである。インドネシア慈済病院の謝源生(シエ・ユエンション)院長は、無私の奉仕をした結果、多くの患者が視力を取り戻したことに対して、敬虔に医療チームに感謝した。「患者が目を大切にして、生活を改善していくようにと期待しています」。

(慈済月刊六八〇期より)

マスワさんは、子供たちに医療費の為の借金をさせたくないと思い、様々な言い訳を使って白内障の手術を避け、視力が失われていく苦痛を淡々と受け入れて来た。

慈済の施療で視力を取り戻した結果、孫娘の花嫁姿を見ることができた。

孫娘のイムロアタンさんは、祖母のマスワさんの白内障手術が順調に終わったことを喜んだ。

「今はっきりと物が見えるようになりました。アラーと慈済ボランティアに感謝します」。六十五才のマスワさんが、ジャカルタのボランティア蔡菊花(ツァイ・ジュフヮ)さんを抱きしめながら言った。

白内障手術後の検査では、視力が順調に回復しているとのことで、マスワさんは感動して涙をこぼした。「まだ泣いてはダメですよ。目を濡らしてはいけませんから」と蔡さんも同じ気持ちに浸りながら声をかけた。するとマスワさんは、こう答えた。

「とても嬉しいのです。そして、みんなの綺麗で、ハンサムで礼儀正しい姿を見ることが出来ました」。

マスワさんは、西ジャワ州インドラマユの出身で、慈済の施療を受ける為に、わざわざジャカルタに三週間仮住まいした。両目共白内障を患い、光の判別しかできなくなって、はっきり物を見ることができないので、子供たちは気苦労が多かった。

彼女は若い頃、サウジアラビアに出稼ぎに行き、家計の一部と家の修繕を負担したことがあったそうだ。夫は既に他界し、子供たちは自立して他の所に住んでいる。彼女は脳卒中を患った息子と隣接して住んでいるが、嫁と孫が世話をしている。

マスワさんは一人で生活することに慣れていた。残された時間が多くないことを自覚すると、子供たちに医療費の為の借金をさせたくないと思い、様々な理由を使って家族が勧める自費の手術を断り続け、視力が失われていく苦痛を淡々と受け入れて来た。間も無く結婚する孫娘のイムロアタンさんは、「お婆ちゃんは私の花嫁姿を見たくないの?慈済の施療に参加しさえすれば、私の結婚を見届けることができるのよ」と懇願した。手術が無料で、子供たちに負担をかけないことを知ると、マスワさんはやっと首を縦に振った。

「お婆ちゃんが手術を受けるのを見て、心配と同時に感動しました」と小学校でクラスを受け持っているイムロアタンさんが言った。それ以上に、ボランティアと医療スタッフが幸せをもたらして彼女たちの人生を変えたことに、感謝した。「皆さんが幸福で長生きして、全てが順調に行くことを願っています」。

慈済インドネシア支部は今年五月二十七日と二十八日、インドネシア仏教慈済病院で初めて施療活動を行ったが、それは、同支部による百三十八回目の大規模施療活動でもあった。八十三人の医療スタッフと延べ百二十四人のボランティアが参加して、九十五人の患者への白内障やヘルニアの手術を行った。

五月二十日、医療チームは先ず、施療に来た民衆に初歩的な検査をした。「私が選ばれて、手術を受けられるようになったことを神に感謝します」。六十一才のタレブさんは、目を潤ませながらこの言葉を繰り返した。ボランティアは、一週間後の白内障手術に備えて、健康に注意するよう念を押した。

タレブさんは、西ジャワ州ブカシ県チカラン市に住んでおり、遠い道のりを克服して州境を越えて、ジャカルタのカブ市シン村にあるインドネシア慈済病院にやって来て検査を受けた。彼は自動車の修理工場に勤めていたが、視力が次第に朦朧として来たため、自費で二〇一九年に殆ど見えなくなっていた左目の手術をした。その時の医療費は約千五百万ルピア(約十二万円)だった。そして、彼が右目の手術の為にお金を作ろうとした時、新型コロナの影響で、生計が困難に陥った。

その後、自動車修理工場を廃業すると、転職して或る教会が経営する診療所で清掃員となった。その診療所の歯医者は、彼に慈済の施療活動の情報を伝えただけでなく、旅費まで出してくれた。「検査は順調で、ボランティアたちも良い人ばかりで、心を込めて付き添ってくれました」。タレブさんは、全ての出来事に心から感謝した。

八十一才のヘルさんは、視力を取り戻した後、やっと預言者・モハメッドの伝記がすらすら読めるようになった。六十三才で屋台を営業しているカルサンさんは、奥さんをバイクに乗せて市場に仕入れに行く途中で転倒してからは、バイクに乗らなくなった。手術が成功してから彼が一番喜んだのは、仕事場に復帰でき、家族に苦労をかけなくて済むようになったことである。インドネシア慈済病院の謝源生(シエ・ユエンション)院長は、無私の奉仕をした結果、多くの患者が視力を取り戻したことに対して、敬虔に医療チームに感謝した。「患者が目を大切にして、生活を改善していくようにと期待しています」。

(慈済月刊六八〇期より)

關鍵字

心を開き、何にも囚われない─台南市 陳富足さん

台南市安平区は、以前から史跡と港、軽食で有名な所だ。中でも「安平古堡」は代表的な史跡であり、現地の人々が誇りにしている人文の香り高い文化財の一つである。二〇二二年、六月のある暑い日に、安平古堡から徒歩でわずか五分の距離にある古い民家を訪ねた。観光のためではなく、ベテランリサイクルボランティアの陳富足(チェン・フーズー)お婆さんを訪ねるためだった。七十六歳の彼女は、清掃員であると同時にリサイクルボランティアで、小柄だが動作はテキパキしていて、少しも老いを感じさせない。

リサイクル活動するようになった縁を尋ねると、感慨深いものがあったようで、以前の家庭事情と家族との仲違いについて話し出した。彼女は長い間我慢してきた結果、四十九歳の時に心臓の病気を患い、ICUに一カ月間入院し、あやうく心臓移植手術が必要になるところだった。その時の医師は彼女に向かって特別に注意した。「全てを胸の中にしまい込むのではなく、話したいことは適時に人に話すようにしてください。さもなければ、それが溜まって病気になりますよ」。念を押して言った。退院して間もない頃、ちょうど證厳法師が行脚で台南静思堂に来られていたので、姪に誘われて一緒に法師の開示を聞いた。その年から資源の回収を始め、今年で既に二十七年になる。今、お婆さんは薬で治療する必要がなくなり、心のわだかまりが時と共に解けた。心もリサイクル活動によって広くなったのだった。

一石二鳥のよいこと

お婆さんは定年退職の歳をとっくに過ぎているが、今でも週に二日、近所のアパートの清掃をしているが、既に五年が過ぎた。子供は母親が疲れるのを見るに忍び難く、辞めるよう説得するが、彼女は、生きて動ける間は可能な限り何かした方がよく、何もしないでいるよりいい、と言った。月に三千元にも満たない工賃でも、苦労を厭わない。

お婆さんは、経済的に困難でお金を稼がなければならないわけではなく、アパートの住民が出す回収物を見て見ぬふりをすることができないのだ。住民は、長年お婆さんが資源回収をしていることを知っているので、暗黙の了解の下に、自宅にある回収物を自発的に決まった場所に持っていく。彼女は清掃が終わると、回収物をバイクの足踏み台に置くか後部座席にひもで縛ってから家に持ち帰り、土曜まで暫時保管した後、回収トラックに引き取ってもらっている。彼女にとって、清掃の傍ら資源の回収ができるのは、住民への奉仕になると同時に、大地に貢献できる、正に一石二鳥のよいことなのだ!

お婆さんのリサイクル天地

富足お婆さんの家の裏には五坪ほどの空き地があり、資源回収物を保管する場所をそこに増築した。初めは空き地だったが、回収物が増え、長い間太陽や雨にさらされていたため、彼女は十数万元を負担し、人を雇ってトタン屋根を付けて改善した。今では、その場所が彼女のリサイクル天地であり、毎日回収物と向き合っている彼女の姿がそこにある。

お婆さんの一週間の回収物の量は少なくなったことはなく、それらを積むには平均して三トン半のトラックが必要だ。それらの回収物はアパートの清掃によるものの他に、隣近所からのもある。隣人が持って来てくれるか、或いは彼女が随時歩き回って回収したものだ。

お婆さんの家の裏は、歴史のある湯匙山公共墓地に隣接している。彼女は暇があると墓地の雑草を刈り、環境を整えている。彼女の単純な善念と忍耐強さによる献身ぶりは、時間の経過と共に多くの人の目にとまり、影響を与えている。それで皆が喜んで回収物を持って来るようになり、皆が知らず知らずのうちに、慈済と「リサイクルの縁」を結ぶようになったのだ。

病が福に転じるのを見届ける

鯤鯓リサイクルステーションの蔡金木(ツァイ・ジンムー)師兄(スーシオン)は、毎週土曜日の午前中に、決まってお婆さんの家へ回収物を取りに行く。その日、台南では突然雨が降ったが、長年の暗黙の了解には何の影響もなかった。回収トラックが到着する前、遠くから玄関先で編み笠を被ったお婆さんが待っているのが見えた。到着時間を正確に予測していたようで、車が止まると直ぐ整理された回収物を車に積み込むことができた。

お婆さんの前向きで勤勉な性格を、金木さんは称賛している。中でもコロナ禍の間、一部の拠点は回収を中止したが、彼女は一日も止めるのが惜しく、同じように毎週回収トラック一台分の回収物を保管していた。彼女に、疲れませんかと聞くと、彼女は、「環境保全に携わることができるのが本当に嬉しいのです。長年やって来て、体は益々健康になり、知らず知らずのうちに,心臓までも正常になりました!」と答えた。

二〇二二年六月三十日、そこを離れる前、私は思いついて、お婆さんと回収物の置き場を写真に撮って記念に残した。彼女がマスクを外し、はにかんだ笑顔を見せた時、シャッターを押した。その瞬間、病が福に転じたこととリサイクルを実行に移すことで、心を開いたリサイクルボランティアの姿を、しかと見届けた。

(慈済月刊六七七期より)

台南市安平区は、以前から史跡と港、軽食で有名な所だ。中でも「安平古堡」は代表的な史跡であり、現地の人々が誇りにしている人文の香り高い文化財の一つである。二〇二二年、六月のある暑い日に、安平古堡から徒歩でわずか五分の距離にある古い民家を訪ねた。観光のためではなく、ベテランリサイクルボランティアの陳富足(チェン・フーズー)お婆さんを訪ねるためだった。七十六歳の彼女は、清掃員であると同時にリサイクルボランティアで、小柄だが動作はテキパキしていて、少しも老いを感じさせない。

リサイクル活動するようになった縁を尋ねると、感慨深いものがあったようで、以前の家庭事情と家族との仲違いについて話し出した。彼女は長い間我慢してきた結果、四十九歳の時に心臓の病気を患い、ICUに一カ月間入院し、あやうく心臓移植手術が必要になるところだった。その時の医師は彼女に向かって特別に注意した。「全てを胸の中にしまい込むのではなく、話したいことは適時に人に話すようにしてください。さもなければ、それが溜まって病気になりますよ」。念を押して言った。退院して間もない頃、ちょうど證厳法師が行脚で台南静思堂に来られていたので、姪に誘われて一緒に法師の開示を聞いた。その年から資源の回収を始め、今年で既に二十七年になる。今、お婆さんは薬で治療する必要がなくなり、心のわだかまりが時と共に解けた。心もリサイクル活動によって広くなったのだった。

一石二鳥のよいこと

お婆さんは定年退職の歳をとっくに過ぎているが、今でも週に二日、近所のアパートの清掃をしているが、既に五年が過ぎた。子供は母親が疲れるのを見るに忍び難く、辞めるよう説得するが、彼女は、生きて動ける間は可能な限り何かした方がよく、何もしないでいるよりいい、と言った。月に三千元にも満たない工賃でも、苦労を厭わない。

お婆さんは、経済的に困難でお金を稼がなければならないわけではなく、アパートの住民が出す回収物を見て見ぬふりをすることができないのだ。住民は、長年お婆さんが資源回収をしていることを知っているので、暗黙の了解の下に、自宅にある回収物を自発的に決まった場所に持っていく。彼女は清掃が終わると、回収物をバイクの足踏み台に置くか後部座席にひもで縛ってから家に持ち帰り、土曜まで暫時保管した後、回収トラックに引き取ってもらっている。彼女にとって、清掃の傍ら資源の回収ができるのは、住民への奉仕になると同時に、大地に貢献できる、正に一石二鳥のよいことなのだ!

お婆さんのリサイクル天地

富足お婆さんの家の裏には五坪ほどの空き地があり、資源回収物を保管する場所をそこに増築した。初めは空き地だったが、回収物が増え、長い間太陽や雨にさらされていたため、彼女は十数万元を負担し、人を雇ってトタン屋根を付けて改善した。今では、その場所が彼女のリサイクル天地であり、毎日回収物と向き合っている彼女の姿がそこにある。

お婆さんの一週間の回収物の量は少なくなったことはなく、それらを積むには平均して三トン半のトラックが必要だ。それらの回収物はアパートの清掃によるものの他に、隣近所からのもある。隣人が持って来てくれるか、或いは彼女が随時歩き回って回収したものだ。

お婆さんの家の裏は、歴史のある湯匙山公共墓地に隣接している。彼女は暇があると墓地の雑草を刈り、環境を整えている。彼女の単純な善念と忍耐強さによる献身ぶりは、時間の経過と共に多くの人の目にとまり、影響を与えている。それで皆が喜んで回収物を持って来るようになり、皆が知らず知らずのうちに、慈済と「リサイクルの縁」を結ぶようになったのだ。

病が福に転じるのを見届ける

鯤鯓リサイクルステーションの蔡金木(ツァイ・ジンムー)師兄(スーシオン)は、毎週土曜日の午前中に、決まってお婆さんの家へ回収物を取りに行く。その日、台南では突然雨が降ったが、長年の暗黙の了解には何の影響もなかった。回収トラックが到着する前、遠くから玄関先で編み笠を被ったお婆さんが待っているのが見えた。到着時間を正確に予測していたようで、車が止まると直ぐ整理された回収物を車に積み込むことができた。

お婆さんの前向きで勤勉な性格を、金木さんは称賛している。中でもコロナ禍の間、一部の拠点は回収を中止したが、彼女は一日も止めるのが惜しく、同じように毎週回収トラック一台分の回収物を保管していた。彼女に、疲れませんかと聞くと、彼女は、「環境保全に携わることができるのが本当に嬉しいのです。長年やって来て、体は益々健康になり、知らず知らずのうちに,心臓までも正常になりました!」と答えた。

二〇二二年六月三十日、そこを離れる前、私は思いついて、お婆さんと回収物の置き場を写真に撮って記念に残した。彼女がマスクを外し、はにかんだ笑顔を見せた時、シャッターを押した。その瞬間、病が福に転じたこととリサイクルを実行に移すことで、心を開いたリサイクルボランティアの姿を、しかと見届けた。

(慈済月刊六七七期より)

關鍵字

世界に目を向ける

フィリピン
大規模施療活動 ダバオで病苦を癒す

文、撮影・慈済フィリピン支部

夜更けになっても、ボランティアはまだ準備に忙しく、教室がそれぞれの診察室の配置になっているかを確かめていた。慈済人医会の医師は電灯を明るくして夜の診察を行い、患者の手術前の状況を確認した。

 慈済フィリピン支部は、七月二十日から三日続けて、ミンダナオ島の大都市ダバオで大規模な施療活動を行い、延べ二千七百五十人に恩恵が行き届いた。ボランティアチームが整った医療機器を運び入れた中華中学校では、歯科、内科、小児科、眼科などの診察が行われ、眼科では検眼をして老眼鏡を贈呈した。また、ラナンにある第一病院を借りて、甲状腺とへルニアの手術を行った。これは、三年間のコロナ禍以来、慈済フィリピン支部として初めて行ったマニラ以外での施療である。

ミャンマー
新学期、新しいカバンで気分が弾む

文・黃露發(慈済ミャンマー連絡所職員)
撮影・陳勇珽(ミャンマー慈済青年)

ミャンマーの慈済ボランティアは、オカン町スエナグウィン村の勉強会の教室で、ケア世帯の子供たちに、背丈に合わせて腰をかがめながら文房具とユニホームを贈った。子供たちは文房具を一つずつカバンに入れると、仮設テントの下で満面の笑顔を見せた。

文房具を除いて、レインコートとカバンだけの就学費用は、約五万五千チャット(約三千円)もするので、数多くの家庭には負担する余裕がなかった。日雇いで生計を立てているドママチュさんには、安定した収入がない。「三人の息子は、全て他の人から文房具をもらっていましたが、今年初めて、カバンと新しい文房具をもらい、とても喜んでいます」。五月から六月にかけてはまだ始業前だったが、子供たちは皆待ち遠しそうに、新しい制服を着たり、新しい靴を履いたりして、学校に行く道をより遠くへ歩けるようにと、期待に胸を膨らませていた。

グアテマラ
土砂災害で避難 新しいかまど

文、撮影・吳慈恬(慈済グアテマラのボランティア)

グアテマラ・アマティトラン市キソコミル村は、七月中旬に、連日の豪雨によって土石流が発生し、湖が増水したため、住民は急いで避難し、家に帰ることができなかった。慈済ボランティアは七月十三日、土石流が起きた地域で視察を行った。ガスコンロ、ガスボンベ、福慧べッド、毛布、即席麺などを緊急に購入すると、七月十八日に見舞い金を添えて、被災した四十四世帯に贈呈した。

 住民は今でも、災害を思い出すと震えてしまうそうだ。深夜に泥流が家に流れ込んだので、ボートに乘って避難して、市街地に仮住まいしている。とりあえず慈済から届けられた物質で生活し、それからどうやって家屋を再建するかを考える。

(慈済月刊六八二期より)

フィリピン
大規模施療活動 ダバオで病苦を癒す

文、撮影・慈済フィリピン支部

夜更けになっても、ボランティアはまだ準備に忙しく、教室がそれぞれの診察室の配置になっているかを確かめていた。慈済人医会の医師は電灯を明るくして夜の診察を行い、患者の手術前の状況を確認した。

 慈済フィリピン支部は、七月二十日から三日続けて、ミンダナオ島の大都市ダバオで大規模な施療活動を行い、延べ二千七百五十人に恩恵が行き届いた。ボランティアチームが整った医療機器を運び入れた中華中学校では、歯科、内科、小児科、眼科などの診察が行われ、眼科では検眼をして老眼鏡を贈呈した。また、ラナンにある第一病院を借りて、甲状腺とへルニアの手術を行った。これは、三年間のコロナ禍以来、慈済フィリピン支部として初めて行ったマニラ以外での施療である。

ミャンマー
新学期、新しいカバンで気分が弾む

文・黃露發(慈済ミャンマー連絡所職員)
撮影・陳勇珽(ミャンマー慈済青年)

ミャンマーの慈済ボランティアは、オカン町スエナグウィン村の勉強会の教室で、ケア世帯の子供たちに、背丈に合わせて腰をかがめながら文房具とユニホームを贈った。子供たちは文房具を一つずつカバンに入れると、仮設テントの下で満面の笑顔を見せた。

文房具を除いて、レインコートとカバンだけの就学費用は、約五万五千チャット(約三千円)もするので、数多くの家庭には負担する余裕がなかった。日雇いで生計を立てているドママチュさんには、安定した収入がない。「三人の息子は、全て他の人から文房具をもらっていましたが、今年初めて、カバンと新しい文房具をもらい、とても喜んでいます」。五月から六月にかけてはまだ始業前だったが、子供たちは皆待ち遠しそうに、新しい制服を着たり、新しい靴を履いたりして、学校に行く道をより遠くへ歩けるようにと、期待に胸を膨らませていた。

グアテマラ
土砂災害で避難 新しいかまど

文、撮影・吳慈恬(慈済グアテマラのボランティア)

グアテマラ・アマティトラン市キソコミル村は、七月中旬に、連日の豪雨によって土石流が発生し、湖が増水したため、住民は急いで避難し、家に帰ることができなかった。慈済ボランティアは七月十三日、土石流が起きた地域で視察を行った。ガスコンロ、ガスボンベ、福慧べッド、毛布、即席麺などを緊急に購入すると、七月十八日に見舞い金を添えて、被災した四十四世帯に贈呈した。

 住民は今でも、災害を思い出すと震えてしまうそうだ。深夜に泥流が家に流れ込んだので、ボートに乘って避難して、市街地に仮住まいしている。とりあえず慈済から届けられた物質で生活し、それからどうやって家屋を再建するかを考える。

(慈済月刊六八二期より)

關鍵字

感動して初めて行動するようになる

道理を人に話しても、
心に入れることができるとは限りません。
愛と善を発揮し、
真心が伴った行動が最も人を感動させるのです。

行動、学術、実践

七月四日、医療関係者が上人を訪ねた時、人の心臓と脳の構造は似ているが、思考や行動はまちまちである、という話になりました。医学界はその二つの臓器に対して深く研究をしていますが、そこから人の思考や行動に関する答えを見つけることはできていません。「例えば、皆一緒に座禅して瞑想している時、各自それぞれが考えを巡らせており、本当に心を沈めるのはとても難しく、皆の考えを講師の言う通りにするのは困難を極めます。ですから、講義は学術的で、言葉を用いて知識を伝授しますが、人の思考と行動は全てまちまちなのです。それで、学術と実践がよく乖離するわけです」。

「慈済人が世界で様々な善行をしているのは何故でしょう?彼らは別に事前に訓練を受けてから世界各地に出向いているわけではなく、災害が発生した国によっては、台湾から慈済人が支援に赴き、そこでの慈善支援を通して現地の人と知り合うようになるのです。人性(じんせい)の善により、現地の人は土地に不案内なこの団体を見て、熱心に現地政府との交渉や通訳の役割を買って出ています。その時から慈済が行っていることを理解し、感動して賛同すると共に、慈済人と友情を結ぶようになるのです。緊急支援の後に、中長期的支援プロジェクトがある場合、彼らは喜んで連絡係になり、関係事務を手伝いますが、そうやって人間関係が出来上がるのです。ですから、慈済は学術界やそこの国の政府と交流するのではなく、愛と善を発揮して、各方面の人と共に慈善を行っているのです」。

上人は学術と教育が結合し、慈済人が実践していることが学術理論になり、それを学習に提供すると共に、学ぶ者が思想理論を実践するよう導くことを望んでいます。以前は先ず慈善活動をしていたため、行動が理論の前にありました。しかし、今の国際社会は、学術的に慈善を理解してから、群衆に混じって実践するようになっています。

上人はこう指摘しています。「以前は教育が行き渡っていませんでしたが、家庭と社会が人々に親孝行や善行を教えていました。しかし、今の人は学問や地位を重視し、価値観が異なっています。しかし、未来の世の中が道徳観を欠き、ハイテクによって権力と利益を奪い合うことで、社会が混乱に陥り、危険な状態になる危機を孕んでいます」。

どうやって偏った観念を正しく導いたら良いのでしょう?上人はこう言いました。「ただ道理を話すだけでは、相手はそれを聞いても心に留めるとは限りません。縁のある人なら、軽く言った一言を重く受け止め、人生を変える良薬になりますが、縁のない人にどれだけ重い話をしても、心に感ずることはなく、子供が吹くシャボン玉のように、直ぐに消えてなくなってしまいます。ですから、衆生を正しい方向に導く最も良い方法は、自分から実践して、人に伝えたい道理を示し、身でもって人々の模範になることです」。

「慈済人の真心からの善意は、言葉と行動に現れています。例えば、福祉用具の回収ですが、民衆から使わなくなった電動ベッドや車いすがある、という知らせを受けると、慈済人は出向いて回収し、丁寧に整備や修理をしてから大事に保管し、それらを必要とする人が現れた時にその家に届け、ちゃんと使えるように設置し、使い方まで教えます」。

「慈済人は物の寿命を有効活用し、生命を愛護しています。人も物も心から惜しむため、その行いの全ては愛と善があることを教えています。「愛と善」は簡単に聞こえても、一人ひとりの心に行き渡らせるには、生活や行動の中にそれを発揮させるべきですが、非常に難しいことでもあります。しかし私は、世界中の慈済人が志を一つに、大衆の良い模範となっていることにとても感謝しています。誰もが慈済と聞けば、善行する団体だと分かり、一旦慈済と接点を持てば、感動を与えられ、自発的に投入するようになって、全ての慈済人と同じように行動して、同じ方向に向かい、同じような生命の価値を持つようになるのです」。

独りぼっちではなく、体を動かし、楽しく余生を送る

七月五日、教育志業の教師たちの報告で、若い時に勉強ができなかったお年寄りが学校に通いたいと思っている、という話をしました。それに対して上人はこう言いました。「今は定年退職の年齢が六十五歳で、六十五歳以上は老年と定義されています。実は六十歳や七十歳はまだまだ活動でき、定年退職して暇を持て余しているため、何かすることを見つけなければなりません。オンライン講座をお年寄りの終身学習の場にするのはいいことですが、人との接触が足りません。医療専門家によると、人体の老化や反応の衰えは、人との接触不足が関係しています。今の家庭は、若い人と子供が日中、仕事や学校に出かけ、家にはお年寄りしかいないため、相手になる人も話し相手もなく、体の動作や思考反応が容易に退化してしまったり、心が生理にも影響して自分は歳だから役に立たないと思い込んで、悲観的になったりするのです」。

「各地でお年寄りのための講座を開いて、同世代の人たちと一緒に勉強する機会を与えているそうですが、これはとても良いことです」。そして、上人はこう言いました。「慈済のリサイクルステーションでは年齢や生活背景の異なる人たちが来ていますが、皆一緒に回収した資源を分別し、互いに良好な交流をしているため、彼らにとって心身の健康の促進になっているのです」。

「ステーションには、暇で何もすることがない人たちが行くだけでなく、多くの人は仕事を終えてから出向いています。特に週末はもっと多くの人が来て奉仕しています。それは、リサイクルステーションにいる人たちは皆、誠意を持っているので、気軽に接することができるからです。少なからぬ高学歴の人たちによれば、リサイクル活動に参加して初めて、普段自分が捨てている廃棄物が実は回収して再利用でき、以前は資源を浪費していたことを知ったそうです。従って、これは非常に現実的な教育と言えるのです」。

上人は教師たちに、「今、世界中で環境保全をとても重視しています。慈済は環境保全を始めて三十年余りになり、既に国際的にも注目される成果を出しています。そこで、教育志業が環境保全に関する教育講座を開いて、それを口先で語ったり民間団体のスローガンにしたりするだけでなく、学術教育への賛同や推進になることを期待しています」と言いました。

(慈済月刊六八二期より)

道理を人に話しても、
心に入れることができるとは限りません。
愛と善を発揮し、
真心が伴った行動が最も人を感動させるのです。

行動、学術、実践

七月四日、医療関係者が上人を訪ねた時、人の心臓と脳の構造は似ているが、思考や行動はまちまちである、という話になりました。医学界はその二つの臓器に対して深く研究をしていますが、そこから人の思考や行動に関する答えを見つけることはできていません。「例えば、皆一緒に座禅して瞑想している時、各自それぞれが考えを巡らせており、本当に心を沈めるのはとても難しく、皆の考えを講師の言う通りにするのは困難を極めます。ですから、講義は学術的で、言葉を用いて知識を伝授しますが、人の思考と行動は全てまちまちなのです。それで、学術と実践がよく乖離するわけです」。

「慈済人が世界で様々な善行をしているのは何故でしょう?彼らは別に事前に訓練を受けてから世界各地に出向いているわけではなく、災害が発生した国によっては、台湾から慈済人が支援に赴き、そこでの慈善支援を通して現地の人と知り合うようになるのです。人性(じんせい)の善により、現地の人は土地に不案内なこの団体を見て、熱心に現地政府との交渉や通訳の役割を買って出ています。その時から慈済が行っていることを理解し、感動して賛同すると共に、慈済人と友情を結ぶようになるのです。緊急支援の後に、中長期的支援プロジェクトがある場合、彼らは喜んで連絡係になり、関係事務を手伝いますが、そうやって人間関係が出来上がるのです。ですから、慈済は学術界やそこの国の政府と交流するのではなく、愛と善を発揮して、各方面の人と共に慈善を行っているのです」。

上人は学術と教育が結合し、慈済人が実践していることが学術理論になり、それを学習に提供すると共に、学ぶ者が思想理論を実践するよう導くことを望んでいます。以前は先ず慈善活動をしていたため、行動が理論の前にありました。しかし、今の国際社会は、学術的に慈善を理解してから、群衆に混じって実践するようになっています。

上人はこう指摘しています。「以前は教育が行き渡っていませんでしたが、家庭と社会が人々に親孝行や善行を教えていました。しかし、今の人は学問や地位を重視し、価値観が異なっています。しかし、未来の世の中が道徳観を欠き、ハイテクによって権力と利益を奪い合うことで、社会が混乱に陥り、危険な状態になる危機を孕んでいます」。

どうやって偏った観念を正しく導いたら良いのでしょう?上人はこう言いました。「ただ道理を話すだけでは、相手はそれを聞いても心に留めるとは限りません。縁のある人なら、軽く言った一言を重く受け止め、人生を変える良薬になりますが、縁のない人にどれだけ重い話をしても、心に感ずることはなく、子供が吹くシャボン玉のように、直ぐに消えてなくなってしまいます。ですから、衆生を正しい方向に導く最も良い方法は、自分から実践して、人に伝えたい道理を示し、身でもって人々の模範になることです」。

「慈済人の真心からの善意は、言葉と行動に現れています。例えば、福祉用具の回収ですが、民衆から使わなくなった電動ベッドや車いすがある、という知らせを受けると、慈済人は出向いて回収し、丁寧に整備や修理をしてから大事に保管し、それらを必要とする人が現れた時にその家に届け、ちゃんと使えるように設置し、使い方まで教えます」。

「慈済人は物の寿命を有効活用し、生命を愛護しています。人も物も心から惜しむため、その行いの全ては愛と善があることを教えています。「愛と善」は簡単に聞こえても、一人ひとりの心に行き渡らせるには、生活や行動の中にそれを発揮させるべきですが、非常に難しいことでもあります。しかし私は、世界中の慈済人が志を一つに、大衆の良い模範となっていることにとても感謝しています。誰もが慈済と聞けば、善行する団体だと分かり、一旦慈済と接点を持てば、感動を与えられ、自発的に投入するようになって、全ての慈済人と同じように行動して、同じ方向に向かい、同じような生命の価値を持つようになるのです」。

独りぼっちではなく、体を動かし、楽しく余生を送る

七月五日、教育志業の教師たちの報告で、若い時に勉強ができなかったお年寄りが学校に通いたいと思っている、という話をしました。それに対して上人はこう言いました。「今は定年退職の年齢が六十五歳で、六十五歳以上は老年と定義されています。実は六十歳や七十歳はまだまだ活動でき、定年退職して暇を持て余しているため、何かすることを見つけなければなりません。オンライン講座をお年寄りの終身学習の場にするのはいいことですが、人との接触が足りません。医療専門家によると、人体の老化や反応の衰えは、人との接触不足が関係しています。今の家庭は、若い人と子供が日中、仕事や学校に出かけ、家にはお年寄りしかいないため、相手になる人も話し相手もなく、体の動作や思考反応が容易に退化してしまったり、心が生理にも影響して自分は歳だから役に立たないと思い込んで、悲観的になったりするのです」。

「各地でお年寄りのための講座を開いて、同世代の人たちと一緒に勉強する機会を与えているそうですが、これはとても良いことです」。そして、上人はこう言いました。「慈済のリサイクルステーションでは年齢や生活背景の異なる人たちが来ていますが、皆一緒に回収した資源を分別し、互いに良好な交流をしているため、彼らにとって心身の健康の促進になっているのです」。

「ステーションには、暇で何もすることがない人たちが行くだけでなく、多くの人は仕事を終えてから出向いています。特に週末はもっと多くの人が来て奉仕しています。それは、リサイクルステーションにいる人たちは皆、誠意を持っているので、気軽に接することができるからです。少なからぬ高学歴の人たちによれば、リサイクル活動に参加して初めて、普段自分が捨てている廃棄物が実は回収して再利用でき、以前は資源を浪費していたことを知ったそうです。従って、これは非常に現実的な教育と言えるのです」。

上人は教師たちに、「今、世界中で環境保全をとても重視しています。慈済は環境保全を始めて三十年余りになり、既に国際的にも注目される成果を出しています。そこで、教育志業が環境保全に関する教育講座を開いて、それを口先で語ったり民間団体のスローガンにしたりするだけでなく、学術教育への賛同や推進になることを期待しています」と言いました。

(慈済月刊六八二期より)

關鍵字