経蔵劇のキーワード:私は喜んでやることを誓う!

舞台には白髪で猫背のベテランボランティアや事業に多忙な中年の人、また機転の利く活気ある若者もいる。

二十六幕の舞台に隊形の変化を加え、経文に対して全く理解していなかった彼らは、自信を持って動作で説法するまでになった。

色とりどりのマークの中からひと目で自分の位置を見つけ、素早く隊形を作り出している。かつて歴史を創り出した彼らは、今まさに未来のために歴史を刻んでいる。

二〇二三年七月二十八日から三十日まで、彰化県立体育館で八回上演された経蔵劇『無量義 法髄頌』は、円満に幕を閉じた。中部地区の慈済ボランティアが、唐美雲台湾オペラ劇団と優人神鼓(U Theatre)というプロの芸術・文学従事者と共演し、約三時間にわたる舞台で「仏陀の一生」と「悟りの道」、「六瑞相」、「慈済小惑星」、『無量義経』の「徳行品」、「説法品」、「功徳品」等の内容を、吟唱、手話、ミュージカル等の形式で演じた。五十七年来の慈済の軌跡を振り返り、全ての歴史物語の精髄と仏法を緊密に結びつけ、より多くの人に仏教精神を体得してもらった。

優人神鼓創設者の劉若瑀(リュウ・ルォユー)さんは、舞台芸術チームの創設者として、長い時間をかけて自分の心を理解してから、やっと芸術と結合して生命の探求に回帰することができるのだ、と言った。「今このような素晴らしい機会を与えていただき、私が伝えたいことを慈済という団体を通して、系統立てて表現をすることができました。とても光栄に思います」。

劉さんによると、最初は慈済と共に公演に参加するのが、すこし恥ずかしかったとのこと。「私たちが自分の芸術のために汗水流し、琢磨していた時、彼らはすでに私たちのために、この世界や台湾社会を安定させていたのです」。

唐美雲さんは既に上人に帰依した慈済人であり、長年、経蔵劇に参加して来た。彼女は上人の経蔵劇に対する期待を話してくれた。「これは『演技』ではなく、『説法』です。ですから、ここ数日間の公演は大規模な法会なのです」。

彼女は、縁があって共に霊山法会に集えることは、誰もが何世にも渡って発願して来たに違いなく、今回の公演を通じて、法会に参加した一人ひとりに、心を洗い清めることができたと思ってほしい、と言った。

『法華経』は菩薩法を教え、『無量義経』は『法華経』の真髄である。そして、在家居士もまた菩薩道の主な実践者である。舞台の上や舞台の下にいる膨大な数のボランティアがこの劇の主役であり、菩提心を発して勇猛に精進し、動作を通して身で以て説法をした。

欠席したらもったいない、チャレンジする

毎回七百三十八人の経蔵劇出演者と慈優(ツーヨウ‥事前に優人神鼓の訓練を受けた慈済の青年ボランティア)、舞台芸術団体など、スタンド席に位置する白い服を着た六百八十人、手に「蛍」のライトを持った「大愛の光」区域の人たち、それに三千七百人の観客が参加した。更にスタッフも合わせると、約六千五百人が共に荘厳で殊勝な霊山法会に参加したのである。

三時間にわたる合計二十六幕の、音楽と照明に伴って変形する隊形が、大画面に映し出されていた。それぞれの公演で出演するボランティアは、異なった地域から来ている──苗栗、台中、彰化、南投などから、体力と記憶力、時間等での困難を克服し、四十回以上の大規模な集中稽古と成果の検収を経て来ている。

舞台には白髪で猫背のベテランボランティアや事業で多忙な中年、それに機敏で活気に溢れた若者がおり、皆初めは経文を全く理解していなかったが、三カ月後には自信を持って動作で説法をしていた。彼らも最初は床の様々なマークを見ただけでめまいがするほどだったが、本番では既に素早く正確に位置につけるようになっていた。

三十歳の蘇閲(ス―・ユェ)さんは、二〇二一年慈済五十五周年に花蓮静思堂で公演された経蔵劇『静思法髄妙蓮華』のメンバーで、その後、二〇二二年に花蓮と高雄ドーム、そして、今年の彰化県立体育館での公演に参加し、一度も欠場したことはない。

今回は経蔵劇企画チームのメンバーとして、三カ月間、体力の試練と言えるほど、台湾を南へ北へと行き来した。「中部地区の八回の公演では、上演までに検収が一日四回、朝七時から夜九時まで行われたので、疲れないわけはありません」。しかし、その過程で、彼はより慈済の歴史を理解するようになった。特にベテランボランティアが打ち込む姿を見てそう感じたそうだ。跪くことができなかったり、経文を暗記する速度が早くない人もいたりしたが、それでも皆と一緒に練習をしていた。「彼らの姿は、正に上人がおっしゃった『仏教のため、衆生のため』でした。私はとても勉強になりました」。

蘇さんも「慈優」の一人である。若者たちと一緒に、優人神鼓のメンバーに太鼓の打ち方を習い、舞台の上では横一列に並び、太鼓の音で見る人の心を震わせた。中部地区の八回の経蔵劇が円満に終わると、企画チームは重心を北部に移し、十月下旬に台北アリーナで行われる経蔵劇の準備をしている。蘇さんにとって、新たなチャレンジである。

あなたも私もいれば、法会が解散することはない

大画面に映された三人の慈済人を見ながら、ちょうど手に設計図を持ち、地形を調査していた李朝森(リー・ツァオスン)さんと、向かい側にある「大愛の光」スタンド席にいた高麗雪(ガオ・リーシュェ)さんは、感慨深いものがあった。

土地の測量専門家である李朝森さんは、一九九四年に慈済タイ北部貧困救済プロジェクトに参加した。当時は通信が不便で、メッセージのやり取りはファックスに頼るしかなく、普段から家族思いの李さんは毎日、妻の麗雪さんと連絡を取り合い、今日どこそこへ行ったとか、何をしたとかを分かち合った。彼女はその日の三人の子供の状況やどのような慈済のことをしたかを報告した。

麗雪さんによると、以前タイ北部は荒涼としていて、交通が不便で、食事習慣も台湾と異なっていたが、證厳法師が託した任務を達成するために、李さんは多くの障害と試練を経て、最終的には法師の期待を裏切らなかっただけでなく、現地で数多くの慈済人を養成したのだそうだ。二〇一七年二月に李さんが亡くなった時は、現地で慈済人となった人たちがはるばるタイ北部から台湾に来て、追悼式に参加したのだった。

二〇一一年、経蔵劇『法で水の如く衆生を潤す・広く環境保全を行い、人文を広める』(原文‥『法譬如水潤蒼生,廣行環保弘人文』)の公演では、李さんはプロジェクトの調整役を努めた。今年再び彼の姿が映像に映し出された時、高さんは、「彼は今回も欠席していません」と嬉しそうに話した。

劇は「骨髄寄贈」の章になり、一九九三年、たとえ多くの疑いの目で見られても、法師は臆することなく、非血縁者間の造血幹細胞寄贈を推し進めた。「台湾には愛のある人がたくさんいます。呼びかけなければなりません!人の命は助けられても、自分の健康を損なうことはないのです」。劇の中でこう言った、「あなたはどこにいるのですか?」出演者は力強く叫んだ。「私は喜んで寄贈します!」、「寄贈します!」、「寄贈します!」手話劇チームの中にいた林雪珠(リン・シュェヅゥ)さんは「この部分を演じていて、とても感動しました」と言った。

その年、慈済は彰化八卦山麓で、台湾で初めて骨髄寄贈血液登録活動を行い、その時から林さんは骨髄寄贈ケアチームのメンバーになったのだった。三十年の時を経て、慈済は八卦山麓の彰化県立体育館で慈済手語による経蔵劇を演じたのだから、寄贈者の無私の奉仕に対して、林さんはいつまでも感動でいっぱいだった。

慈済初めての血液登録活動が、一般の八百四十人から支持を得たことで、「慈済骨髄バンク」は順調にスタートした。「私もその内の一人です!」慈悲の善行における最高の境地は、「徳行品」偈頌で、「一切の捨て難きを、財宝、妻子、国、城を悉く捨て、法の内に外に惜しみなく、頭目髄脳悉く人に施す」と述べている所だ。経蔵劇がこの場面になると、林さんは法師の智慧に心から感謝し、「私たちはあらゆる方法を尽くしてドナーを見つけ、それから骨髄の提供を勧めました。その後、ケアチームは範囲を白血病患者にまで広げ、それがきっかけで慈済のケア対象者になった人もいました」。

人々の風習が保守的だった時代、怒涛のように押し寄せる反対の声に向かって、林さんは、「自分が困難に打ち負かされず、ドナーを見つける過程で尻込みしなかったことをとても幸いに感じています。私には一つの信念しかありません。それは何としてでもその人を見つけることでした。もしマッチングが成功したら、一人の人とその人の家庭を助けることができるからです!拍手喝采は求めず、共鳴を得て、本分を尽くすだけです」と言った。

優人神鼓と唐美雲台湾オペラ劇団及び特訓を受けた慈済の青年ボランティアたちは、芸術の形式を通して、一幕一幕を演じ、真実の出来事を引用して経文の意義を解釈し、伝統的な弘法形式とは異なる表現をした。

化城から足を踏み出せば、宝は近くにある

后里連絡所の三千坪余りの古い工場跡地は、緊急支援物資の貯蔵センターになっていて、中部地区の全ての連絡所の中で最も面積が広いため、経蔵劇の稽古場に選ばれた。三月中旬、工場を空にした後、木製の舞台を作って、カーペットを敷き、マークを貼るなど、次々と仕事に取りかかり、工場の外の千坪ほどの敷地にインターロッキングブロックを敷き詰めた。四月から七月二十三日まで、毎週末と休日は千人から四千人近い出演者が来て、集中稽古をした。后里、豊原、東勢地区のボランティアが交通整理やトイレ清掃を担当し、お茶や菓子などの準備をすると同時に、経蔵劇の稽古も行ったので、「幸福を味わった」(慈済では苦労を経て法悦に浸る意味)と言っても過言ではない。

七月十九日から、ボランティアは彰化県立体育館に入って、清掃、装飾や配置、マーク貼りを、出演者はリハーサルを行った。三日間の公演で、一万八千人余りが観光バスで鑑賞に訪れた。観光バスは全部で二百八十台運行したが、幸いなことに現地の彰化チームが事前に視察して、移動ルートを青、黄、赤、紫の四色に分け、同じ座席エリアの人はできるだけ同じバスに乗ってもらうようにしたので、案内スタッフは色によって入場や退場を案内した。毎回、場外には二百三十七人の案内スタッフを配置した。ボランティアの高季恵(ガオ・ヂーフウェイ)さんは、彰化県立体育館の設計は、比較的若い人が球技を観戦するのに適しており、観客席の階段は急勾配なので、会場の案内スタッフは懐中電灯を持って、高齢の観客の着席に手を貸したと説明した。

彰化のボランティアは、スタッフチームと出演者たちへの三度の食事とおやつ、お茶の補充を担当した。約十日間、支部の厨房はほとんど明け方四時から賑わっていた。各区のボランティアが交代で調理を担当し、今日は弁当作りだが、明日は舞台に立つ、というように互いに支え合った。

彰化区総コーディネーターの陳素香(チェン・スーシャン)さんは「お金を出しても、これだけ多くの人に来てもらえるとは限りません。慈済という団体の求心力によって、一人ひとりが使命感を持っています。本当に感動します」。最初の外部の会場レンタル、ハードウェアメーカーとのやり取りから経蔵劇が始まるまで、七十六歳になる陳さんは、朝から晩まで体育館の内外を駆け回っていたが、疲れた顔を見せることもなく、「私は毎日ここに来て、人が私を見つけて、その人の問題を処理し、解決するのが役目なのです」と言った。

『化城喩』の偈頌の一節はこうだ。「この城に入って休息すると、疲れ切った人々は大いに歓喜し、皆で人生を度したことを讃え合い、安穏に暮らせることを喜んだ」四カ月余りの間、五千人近い経蔵劇の出演者は、まるで一歩ずつ霊鷲山を登って偉大な法を聞いたかのようだった。経蔵劇の終幕は次の始まりであり、この化城を経たことにより、再び歩を進めることができるのだ。(資料提供・陳秀嫚、溫燕雪、梁錦彬、鐘碧香、楊絮惠)

(慈済月刊六八二期より)

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