ボランティアが山を動かした

九十三歳の老人が家で卒倒した。救急人員が現場に着くと、屋内、屋外とも種々雑多な物が山積みにされていたので、腹ばいで中に入ってやっと老人を運び出し、病院に搬送することができた。

ボランティアたちは、塀をのり越え、門扉を外してごみの山を運び出し、老人と地域住民に安全で衛生的な居住環境を取り戻した。

土曜日の朝八時前、新北市永和区秀朗路一段の路地に各地から来た八十人余りのボランティアが集まり、住居の清掃準備をしていた。門扉の向こうは種々雑多な物に遮られ、入ることができなかった。ボランティアは仕方なく、塀を乗り越えてそれらの物の山の上に立ち、少しずつごみを運び出すことでスペースを作り、そして二枚の門扉を取り外した。

得和地区の代表、蔡綉花(ツァイ・シュウフヮ)によると、九十三歳になる住民の張さんは先日、家で卒倒したため、友人が通報した。救急人員が来た時、三十坪の家は種々雑多な物が山積みにされて、僅かに一人が横になるスペースしかなかった。救急人員は中に入ることができず、戻ってから、もう一度体格が小さめの人を派遣してやっと中に入り、患者を運び出して、病院に搬送することができた。

永和区慈済ボランティアの初志堅(ツゥ・ヅージェン)さんは、地区の代表から、張さんの居住環境を改善してあげるために、彼が二、三十年間溜めてきた雑物の清掃を手伝ってもらえないかと聞かれ、六月十五日に行うことになった。参加者は、永利ボランティア消防隊員や得和地区のコミュニティボランティア、般若共修会、慈済ボランティアなどの他、ネットの情報を見て、自発的にやって来た九人の若者が含まれていた。

張さんは、元は塗装屋で、家には木製の梯子だけでも五十数脚ある上に大量の塗料缶を貯蔵しており、その上、資源ごみがいっぱいあった。周辺住民の安全を考えて、十一人の永利ボランティア消防隊員は大声で、「重い物は、私達に任せてください」と呼びかけた。彼らは消火用の「おきかき」まで持って来た。それは火が燻っている時に灰をかき回すためのものだが、それを使わないと、積み重なった雑物を素手で運ぶしかなく、時間と手間がかかるのだ。

玄関の扉を外すと、ボランティアたちは二つの通路を作って、雑物を路地口までリレー式に運んで袋に入れた。数人の若者は、終始笑顔を浮かべながら、きびきびした動作で運んでいた。皆にこの活動を呼びかけた慈済ボランティアの曽彦禎(ヅン・イエンヅン)さんは、こう言った。「体は疲れても、心は充実しています。慈悲によって、私たちは『苦を見て、福を知る』からです。そして、愛があるから、喜んで奉仕できるのです」と言った。

若者の一人、連思怡(リエン・スーイー)さんは不思議そうに言った。「私も永和区の人間ですが、永和区にこんな文明から取り残された所があるとは、想像もできませんでした。そこで直ちに申し込みました。今日の動員力はかなりの規模ですが、大事なことは皆が熱意をもって行動していることです。一緒に善を行うという心がとても大切だと思います」。

年配のボランティアたちは清掃の第一線に立って懸命に行動し、彼らの弛まない勤勉な精神と姿が若いボランティアにとって最良の模範となった。一日、手分けして交代で清掃し、大型のゴミ収集車によって何回も運搬した後、やっとリビングと部屋、そして庭という間取りが現れた。その後は環境局がトラックを派遣して、危険性のある有機溶剤を運び出してくれることになった。

張さんの子供は五十歳過ぎだが、発達障害があるため、父親の医療ケアをすることができない。幸いに友人が手を差し伸べてくれている。これで居住環境が清潔になったので、張さんも家に戻って休養することができる。地区代表の蔡さんによると、二十年前にも慈済ボランティアが関心を寄せ、住居の清掃を申し出たが、ことごとく張さんに拒絶されたそうだ。だが、物を溜め込む癖は日増しに深刻になり、手が付けられなくなってしまった。近所の住民は皆、ボランティアに感謝した。「この問題が解決したので、これから安心して暮らせます」。

(慈済月刊六九三期より)

張さんの家は、種々雑多な物が山積みになり、30坪のスペースは足の踏み場もなく、居住品質は一目瞭然であった。

数回の清掃と整理で、家は少しずつ元来の広々としたスペ―スを取り戻した。

九十三歳の老人が家で卒倒した。救急人員が現場に着くと、屋内、屋外とも種々雑多な物が山積みにされていたので、腹ばいで中に入ってやっと老人を運び出し、病院に搬送することができた。

ボランティアたちは、塀をのり越え、門扉を外してごみの山を運び出し、老人と地域住民に安全で衛生的な居住環境を取り戻した。

土曜日の朝八時前、新北市永和区秀朗路一段の路地に各地から来た八十人余りのボランティアが集まり、住居の清掃準備をしていた。門扉の向こうは種々雑多な物に遮られ、入ることができなかった。ボランティアは仕方なく、塀を乗り越えてそれらの物の山の上に立ち、少しずつごみを運び出すことでスペースを作り、そして二枚の門扉を取り外した。

得和地区の代表、蔡綉花(ツァイ・シュウフヮ)によると、九十三歳になる住民の張さんは先日、家で卒倒したため、友人が通報した。救急人員が来た時、三十坪の家は種々雑多な物が山積みにされて、僅かに一人が横になるスペースしかなかった。救急人員は中に入ることができず、戻ってから、もう一度体格が小さめの人を派遣してやっと中に入り、患者を運び出して、病院に搬送することができた。

永和区慈済ボランティアの初志堅(ツゥ・ヅージェン)さんは、地区の代表から、張さんの居住環境を改善してあげるために、彼が二、三十年間溜めてきた雑物の清掃を手伝ってもらえないかと聞かれ、六月十五日に行うことになった。参加者は、永利ボランティア消防隊員や得和地区のコミュニティボランティア、般若共修会、慈済ボランティアなどの他、ネットの情報を見て、自発的にやって来た九人の若者が含まれていた。

張さんは、元は塗装屋で、家には木製の梯子だけでも五十数脚ある上に大量の塗料缶を貯蔵しており、その上、資源ごみがいっぱいあった。周辺住民の安全を考えて、十一人の永利ボランティア消防隊員は大声で、「重い物は、私達に任せてください」と呼びかけた。彼らは消火用の「おきかき」まで持って来た。それは火が燻っている時に灰をかき回すためのものだが、それを使わないと、積み重なった雑物を素手で運ぶしかなく、時間と手間がかかるのだ。

玄関の扉を外すと、ボランティアたちは二つの通路を作って、雑物を路地口までリレー式に運んで袋に入れた。数人の若者は、終始笑顔を浮かべながら、きびきびした動作で運んでいた。皆にこの活動を呼びかけた慈済ボランティアの曽彦禎(ヅン・イエンヅン)さんは、こう言った。「体は疲れても、心は充実しています。慈悲によって、私たちは『苦を見て、福を知る』からです。そして、愛があるから、喜んで奉仕できるのです」と言った。

若者の一人、連思怡(リエン・スーイー)さんは不思議そうに言った。「私も永和区の人間ですが、永和区にこんな文明から取り残された所があるとは、想像もできませんでした。そこで直ちに申し込みました。今日の動員力はかなりの規模ですが、大事なことは皆が熱意をもって行動していることです。一緒に善を行うという心がとても大切だと思います」。

年配のボランティアたちは清掃の第一線に立って懸命に行動し、彼らの弛まない勤勉な精神と姿が若いボランティアにとって最良の模範となった。一日、手分けして交代で清掃し、大型のゴミ収集車によって何回も運搬した後、やっとリビングと部屋、そして庭という間取りが現れた。その後は環境局がトラックを派遣して、危険性のある有機溶剤を運び出してくれることになった。

張さんの子供は五十歳過ぎだが、発達障害があるため、父親の医療ケアをすることができない。幸いに友人が手を差し伸べてくれている。これで居住環境が清潔になったので、張さんも家に戻って休養することができる。地区代表の蔡さんによると、二十年前にも慈済ボランティアが関心を寄せ、住居の清掃を申し出たが、ことごとく張さんに拒絶されたそうだ。だが、物を溜め込む癖は日増しに深刻になり、手が付けられなくなってしまった。近所の住民は皆、ボランティアに感謝した。「この問題が解決したので、これから安心して暮らせます」。

(慈済月刊六九三期より)

張さんの家は、種々雑多な物が山積みになり、30坪のスペースは足の踏み場もなく、居住品質は一目瞭然であった。

数回の清掃と整理で、家は少しずつ元来の広々としたスペ―スを取り戻した。

關鍵字

無私の大愛を広めて、世の苦難を和らげる

仏陀の愛は遍く虚空界に広がっていますが、私の心願も尽きません。一人では果たせないことも、人々が結集すれば、力が得られます。

この一生で果たせなければ、来世で続けます。生生世世、皆と善縁を結び、共に福を作っていきましょう!

二○二四年十二月の歳末祝福会で、慈誠と委員の認証授与が行われましたが、二十以上の国と地域から帰って来ていました。中には遥か遠くから、飛行機で五十時間以上かけ、三つの国で乗り換えて、やっと台湾に辿り着いた人もいました。苦労を惜しまず、縁があれば、会うことができます。ステージの上では幾つか異なる言語で分かちあいがありますが、言葉が理解できなくても、表情を見て声を聞くと、私の心は喜びに満ちていきました。というのは、彼らの心には愛があり、正しい道を選択したからです。彼らは最も喜びに満ちて、幸せな人たちだと、私は信じています。

授与式で、認証を授かる一人一人の菩薩が私の前に来ると、私は必ず「祝福します。精進してください」と声をかけます。全ての慈済人を見るたびに、「感謝します」と心中に念じます。人間(じんかん)には苦しんでいる人が大勢いるのに、たった一人でどうやって彼らを助けることができるでしょうか。私は常々、慈済人に感謝しています。あなたは私と縁があり、側に来て、私の心に寄り添い、宗教や国籍を分かたず、私たちは一つの使命を持って、人間(じんかん)で必要としていることに奉仕し、一緒により多くの助けが必要な人を支援しています。

元慈青(慈済青年ボランティア)だった人が、私の前に来てこう言いました。

「上人様、あなたの弟子が帰って来ました」。なんと思いやりのある言葉でしょう!私も仏陀の弟子であり、仏陀の志業を受け継ぎ、無私な愛を広め、世間で苦しんでいる人々を救い助けることに努めています。

二千五百年余り前、仏陀は人間(じんかん)に生まれました。高貴な王子で、一国の後継者でありながら、宮殿の外の人々の苦しみを見て、自分とは全く異なる生活をしていることを知りました。そして王位を放棄し、真理を探求する決意を固めました。悟りを開いた後も、人々が正しい考えを持ち、生命の由来と価値を理解し、また「因、縁、果、報」の関係を知り、どのようにして智慧を養い、来世のために福を集めたら良いかを理解してほしいと願いました。

仏陀は人間(じんかん)に豊かな智慧を与えてくれましたが、私はずっと、その恩に報いるにはどうしたらよいかを考えていました。シンガポールとマレーシアの慈済人は、師匠である私の心願を知って、この数年間、チームで交代しながらネパールとインドの貧しい村に足を踏み入れ、貧困救済や施療、大愛村の建設、職業養成講座の開設、学校の建設に取り組んでいます。私は、このように菩薩のチームが大きな志をもって集まり、仏陀の故郷に福をもたらしていることに感謝しています。

私はいつも、経済的に困窮している国の貧しい人々はどんな生活をしているのだろうかと思うと、心がとても痛みます。干ばつが起きている所では草一本生えず、ましてや五穀と雑穀は言うまでもありません。水を汲みに行っても、水は汚染されており、その途中で動物に襲われることもあります。ジンバブエに在住する朱金財(ヅゥー・ジンツァイ)さんは、二○一三年から新しい井戸を掘り、古い井戸を修理しており、その数は合計で二千本余りに達しました。また、朱さんは毎週月曜日から土曜日まで昼食を提供しており、毎日約一万七千人がその食事に頼っているのです。この二十年間、彼はどうやってそれを続けて来たのか、慈済と縁を結んで食糧を受け取った人がどれほどいるのか、また、私たちの目が届かず、支援できない人が、まだどれほどいるのか、といつも思います。

私は毎晩、世界で起きている重要なことや気候変動による数々の自然災害などに目を向けます。また、幾つかの国は危機に直面しており、人心が乱れ、争い、奪い合って、大衆が安心して暮らせず、苦しんでいます。それを見ると、とても悲しく、心が痛みます。なぜ人々は対立し、争うのでしょうか。平和な日々がなければ、いくら財産を持っていても、全く価値はありません。

大地が生気に満ち、五穀豊穣であれば、人類に供給でき、生活に問題はなくなります。人々の心に愛さえあれば、お互いに励まし合い、祝福し合い、寛容な態度で分け隔てなく接するようになり、人間(じんかん)は天国の如き浄土になるのです。

五十年余り前、慈済を創設したばかりの頃は、本当に大変でしたが、私はいつも、自分で発心したのだから、堅持し続けようと、自分を励まして来ました。徐々に、私の心からの呼びかけが皆さんに聞こえ、意義のある善行が目に見えるようになり、湧き出るように増えていきました。小さな「蛍」が発する淡い光は、信号を発するように群れを成して集まり、暗闇の中をキラキラさせながら、この世を美しくしています。

慈済人は皆、家庭環境も職業も異なり、それぞれの生活をしていますが、仏陀の教えに従っています。社会の流れに身を任せて、漠然と生きているのではなく、目標と方向性を持って、互いに協力しながら、大切にし合い、共に衆生を済度しています。

私自身、この世に来て価値があったのだろうか、と見つめ直してみると、「確かに価値があります!」と皆さんに言えます。初心である「愛と善」の気持ちによって、大愛を持った心を啓発してくれ、善の方向を間違わず、一路進んで来ましたが、後悔の念はありません。私の言葉は毎日似通ったものであるのは、最初から進む方向が定っていたからであり、少しの偏りもありません。

仏陀の愛は、遍く虚空界に広がっていますが、私の心願も尽きません。今生で成し終えなかったら、来世で続けます。しかし、もし来世で私が一人だったら、孤独すぎて、どんなに大きな心願があっても、何事も成せないでしょう。それ故、私は生生世世、何がなんでも皆さんと善縁を結ばなければならないのです。皆さんは今世、慈済の志業に投入していますが、來世でも皆で、慈済で奉仕するでしょう。

一人の力では何もできませんが、自分の力が足りないと心配することはありません。一人ひとりの愛のエネルギーが集まれば、成し遂げられないことは無いのです。人助けする人が最も幸せであり、福を作る人生が、最も幸せな人生なのです。

(慈済月刊六九八期より)

仏陀の愛は遍く虚空界に広がっていますが、私の心願も尽きません。一人では果たせないことも、人々が結集すれば、力が得られます。

この一生で果たせなければ、来世で続けます。生生世世、皆と善縁を結び、共に福を作っていきましょう!

二○二四年十二月の歳末祝福会で、慈誠と委員の認証授与が行われましたが、二十以上の国と地域から帰って来ていました。中には遥か遠くから、飛行機で五十時間以上かけ、三つの国で乗り換えて、やっと台湾に辿り着いた人もいました。苦労を惜しまず、縁があれば、会うことができます。ステージの上では幾つか異なる言語で分かちあいがありますが、言葉が理解できなくても、表情を見て声を聞くと、私の心は喜びに満ちていきました。というのは、彼らの心には愛があり、正しい道を選択したからです。彼らは最も喜びに満ちて、幸せな人たちだと、私は信じています。

授与式で、認証を授かる一人一人の菩薩が私の前に来ると、私は必ず「祝福します。精進してください」と声をかけます。全ての慈済人を見るたびに、「感謝します」と心中に念じます。人間(じんかん)には苦しんでいる人が大勢いるのに、たった一人でどうやって彼らを助けることができるでしょうか。私は常々、慈済人に感謝しています。あなたは私と縁があり、側に来て、私の心に寄り添い、宗教や国籍を分かたず、私たちは一つの使命を持って、人間(じんかん)で必要としていることに奉仕し、一緒により多くの助けが必要な人を支援しています。

元慈青(慈済青年ボランティア)だった人が、私の前に来てこう言いました。

「上人様、あなたの弟子が帰って来ました」。なんと思いやりのある言葉でしょう!私も仏陀の弟子であり、仏陀の志業を受け継ぎ、無私な愛を広め、世間で苦しんでいる人々を救い助けることに努めています。

二千五百年余り前、仏陀は人間(じんかん)に生まれました。高貴な王子で、一国の後継者でありながら、宮殿の外の人々の苦しみを見て、自分とは全く異なる生活をしていることを知りました。そして王位を放棄し、真理を探求する決意を固めました。悟りを開いた後も、人々が正しい考えを持ち、生命の由来と価値を理解し、また「因、縁、果、報」の関係を知り、どのようにして智慧を養い、来世のために福を集めたら良いかを理解してほしいと願いました。

仏陀は人間(じんかん)に豊かな智慧を与えてくれましたが、私はずっと、その恩に報いるにはどうしたらよいかを考えていました。シンガポールとマレーシアの慈済人は、師匠である私の心願を知って、この数年間、チームで交代しながらネパールとインドの貧しい村に足を踏み入れ、貧困救済や施療、大愛村の建設、職業養成講座の開設、学校の建設に取り組んでいます。私は、このように菩薩のチームが大きな志をもって集まり、仏陀の故郷に福をもたらしていることに感謝しています。

私はいつも、経済的に困窮している国の貧しい人々はどんな生活をしているのだろうかと思うと、心がとても痛みます。干ばつが起きている所では草一本生えず、ましてや五穀と雑穀は言うまでもありません。水を汲みに行っても、水は汚染されており、その途中で動物に襲われることもあります。ジンバブエに在住する朱金財(ヅゥー・ジンツァイ)さんは、二○一三年から新しい井戸を掘り、古い井戸を修理しており、その数は合計で二千本余りに達しました。また、朱さんは毎週月曜日から土曜日まで昼食を提供しており、毎日約一万七千人がその食事に頼っているのです。この二十年間、彼はどうやってそれを続けて来たのか、慈済と縁を結んで食糧を受け取った人がどれほどいるのか、また、私たちの目が届かず、支援できない人が、まだどれほどいるのか、といつも思います。

私は毎晩、世界で起きている重要なことや気候変動による数々の自然災害などに目を向けます。また、幾つかの国は危機に直面しており、人心が乱れ、争い、奪い合って、大衆が安心して暮らせず、苦しんでいます。それを見ると、とても悲しく、心が痛みます。なぜ人々は対立し、争うのでしょうか。平和な日々がなければ、いくら財産を持っていても、全く価値はありません。

大地が生気に満ち、五穀豊穣であれば、人類に供給でき、生活に問題はなくなります。人々の心に愛さえあれば、お互いに励まし合い、祝福し合い、寛容な態度で分け隔てなく接するようになり、人間(じんかん)は天国の如き浄土になるのです。

五十年余り前、慈済を創設したばかりの頃は、本当に大変でしたが、私はいつも、自分で発心したのだから、堅持し続けようと、自分を励まして来ました。徐々に、私の心からの呼びかけが皆さんに聞こえ、意義のある善行が目に見えるようになり、湧き出るように増えていきました。小さな「蛍」が発する淡い光は、信号を発するように群れを成して集まり、暗闇の中をキラキラさせながら、この世を美しくしています。

慈済人は皆、家庭環境も職業も異なり、それぞれの生活をしていますが、仏陀の教えに従っています。社会の流れに身を任せて、漠然と生きているのではなく、目標と方向性を持って、互いに協力しながら、大切にし合い、共に衆生を済度しています。

私自身、この世に来て価値があったのだろうか、と見つめ直してみると、「確かに価値があります!」と皆さんに言えます。初心である「愛と善」の気持ちによって、大愛を持った心を啓発してくれ、善の方向を間違わず、一路進んで来ましたが、後悔の念はありません。私の言葉は毎日似通ったものであるのは、最初から進む方向が定っていたからであり、少しの偏りもありません。

仏陀の愛は、遍く虚空界に広がっていますが、私の心願も尽きません。今生で成し終えなかったら、来世で続けます。しかし、もし来世で私が一人だったら、孤独すぎて、どんなに大きな心願があっても、何事も成せないでしょう。それ故、私は生生世世、何がなんでも皆さんと善縁を結ばなければならないのです。皆さんは今世、慈済の志業に投入していますが、來世でも皆で、慈済で奉仕するでしょう。

一人の力では何もできませんが、自分の力が足りないと心配することはありません。一人ひとりの愛のエネルギーが集まれば、成し遂げられないことは無いのです。人助けする人が最も幸せであり、福を作る人生が、最も幸せな人生なのです。

(慈済月刊六九八期より)

關鍵字

儲からない裁縫師

母は裁縫の仕事をして私たちを育ててくれた。七十六歳になった彼女は、今も熱心に仕事を続けている。客がお直しに服を持って来るのは、彼女と世間話をしたいからである。「互いを思いやる」善意と心の交流が、狭い工房に満ちていた。

作者懿旖(イーイー)さんの母親は、若い頃から今に至るまでミシンを踏み続けている。自分は極めて倹約的だが、周りの人に対しては気前が良いので、数多くの良縁を結んで来た。

台湾最南端の屏東の辺地にある客家人の農村に生まれた母は、十八歳の時に一人で台北に出ると、裁縫を勉強して生計を立てるようになった。一人で服の注文仕立てや直しをして家族を養った。勤勉で倹約家の客家人精神が、彼女には惜しみなく現れている。服装は、一年中いつも白い服と黒いスカートだ。両方を二枚ずつ持っていて交互に着るのだ。自分に対して極めて倹約的だが、他人に対しては非常に気前が良かった。

今年七十六歳の彼女は、今でもお直しの仕事をしている。いつもサイズ直しなどの簡単な用事で来る客に対しては、ついでだからと言って、お金を取らない。時には、客と母がお金を押しつけ合っているのを見かける。母は「いいの、要らないから!」と懸命に断るが、最後に客はお金を置いて、さっとドアを開けて逃げてしまうのである。

もし客が外国人労働者だったら、母は費用を安くするか、無料サービスにする。適当な物があれば、その人たちにあげることもある。異国で頑張っている辛さは、十八歳の時に異郷で生計を立てた彼女にはよく分かるのだと言っていた。

「損得を気にしてはいけない。度量が大きければ、福は自然とやって来るよ」。母はいつも私にこう言う。母は周りの人に寛大なので、良い縁に恵まれたのだ。多くの客はお直しにやって来るのだが、主な目的は母と世間話をしたいからである。母は、あまり学歴はないが、真心で人に接し、誠実である。新しい洋服を買ってはお直しに持って来る若い客には、「あまり無駄遣いをしないように。買う量を減らしてね」と思わず自分の子供のように諭してしまうのだ。

新年や祭日になると、狭い工房の中は様々な贈り物でいっぱいになる。ほとんどの客が彼女を友だちだと思っているので、彼女の好意にお礼をしたいと言って、持ってくるのだ。

相手がよくしてくれたら自分はもっと尽くす

「相手がよくしてくれたら自分はもっと尽くす」とは、母の処世信念である。毎年、端午の節句になると、母はいつも自分で食材を買って来て粽を作る。「今度は九キロの食材を買って、一人で百十個の粽を作って多くの人に分けたわよ。皆、私の手作り粽が美味しいと言ってくれるの」と電話で私に自慢していた。

粽を作るのに、一週間も忙しい日が続いた。毎日早朝の四時に起きて粽を作り始め、その後八時に工房でリフォームの仕事を始める。夕方にやっと家に帰り、夕食の支度をして食事と家事を済ませると、深夜の十二時まで粽を作り続けた。

母にはそんな頑張りをしてほしくないが、「お客さんから贈り物をもらうたびに、お返しするものが何もなくて恥ずかしいのよ。手作りの粽だったら、誠意満点でちょうどいいでしょう」と言った。彼女の粽は、ただの粽ではなく、人の温もりと感謝の気持ちを包んでいるのだと私は思った。

彼女は平凡で素朴な人間だが、情熱的でもあり、その姿には多くの台湾人に共通する勤勉さが現れている。自分なりの方法で、周りに優しい雰囲気を醸し出しているのだ。私は慈済という大家族に入ってから、もっと多くの、このような真心から出た誠意を見て来た。リサイクルセンター、調理場、大小さまざまな慈善活動で、時間を気にせず熱心に自分の労力で以て奉仕する人たちだ。みんなに共通する信念は、「人々のために」である。

利他の信念を結集すれば、大きな力となる。五十八年前のように、花蓮で三十名の主婦が、「人助けのために一日に五十銭を貯金する」という単純で優しい考えから、市場で寄付を募った。その善意の信念はさざ波のように広がり、庶民から企業家までが、それぞれの力や良能を奉仕するようになった。今日では、慈済の足跡が、世界百三十六の国と地域に及んでいる。

善と愛の積み重ねは、他人への思いやりから生じたものだ。この愛の雰囲気は、分厚い福の防護カバーとなって、台湾という美しい大地と、この土地にいる愛しい人々を護っていくだろう。

(慈済月刊六九三期より)

母は裁縫の仕事をして私たちを育ててくれた。七十六歳になった彼女は、今も熱心に仕事を続けている。客がお直しに服を持って来るのは、彼女と世間話をしたいからである。「互いを思いやる」善意と心の交流が、狭い工房に満ちていた。

作者懿旖(イーイー)さんの母親は、若い頃から今に至るまでミシンを踏み続けている。自分は極めて倹約的だが、周りの人に対しては気前が良いので、数多くの良縁を結んで来た。

台湾最南端の屏東の辺地にある客家人の農村に生まれた母は、十八歳の時に一人で台北に出ると、裁縫を勉強して生計を立てるようになった。一人で服の注文仕立てや直しをして家族を養った。勤勉で倹約家の客家人精神が、彼女には惜しみなく現れている。服装は、一年中いつも白い服と黒いスカートだ。両方を二枚ずつ持っていて交互に着るのだ。自分に対して極めて倹約的だが、他人に対しては非常に気前が良かった。

今年七十六歳の彼女は、今でもお直しの仕事をしている。いつもサイズ直しなどの簡単な用事で来る客に対しては、ついでだからと言って、お金を取らない。時には、客と母がお金を押しつけ合っているのを見かける。母は「いいの、要らないから!」と懸命に断るが、最後に客はお金を置いて、さっとドアを開けて逃げてしまうのである。

もし客が外国人労働者だったら、母は費用を安くするか、無料サービスにする。適当な物があれば、その人たちにあげることもある。異国で頑張っている辛さは、十八歳の時に異郷で生計を立てた彼女にはよく分かるのだと言っていた。

「損得を気にしてはいけない。度量が大きければ、福は自然とやって来るよ」。母はいつも私にこう言う。母は周りの人に寛大なので、良い縁に恵まれたのだ。多くの客はお直しにやって来るのだが、主な目的は母と世間話をしたいからである。母は、あまり学歴はないが、真心で人に接し、誠実である。新しい洋服を買ってはお直しに持って来る若い客には、「あまり無駄遣いをしないように。買う量を減らしてね」と思わず自分の子供のように諭してしまうのだ。

新年や祭日になると、狭い工房の中は様々な贈り物でいっぱいになる。ほとんどの客が彼女を友だちだと思っているので、彼女の好意にお礼をしたいと言って、持ってくるのだ。

相手がよくしてくれたら自分はもっと尽くす

「相手がよくしてくれたら自分はもっと尽くす」とは、母の処世信念である。毎年、端午の節句になると、母はいつも自分で食材を買って来て粽を作る。「今度は九キロの食材を買って、一人で百十個の粽を作って多くの人に分けたわよ。皆、私の手作り粽が美味しいと言ってくれるの」と電話で私に自慢していた。

粽を作るのに、一週間も忙しい日が続いた。毎日早朝の四時に起きて粽を作り始め、その後八時に工房でリフォームの仕事を始める。夕方にやっと家に帰り、夕食の支度をして食事と家事を済ませると、深夜の十二時まで粽を作り続けた。

母にはそんな頑張りをしてほしくないが、「お客さんから贈り物をもらうたびに、お返しするものが何もなくて恥ずかしいのよ。手作りの粽だったら、誠意満点でちょうどいいでしょう」と言った。彼女の粽は、ただの粽ではなく、人の温もりと感謝の気持ちを包んでいるのだと私は思った。

彼女は平凡で素朴な人間だが、情熱的でもあり、その姿には多くの台湾人に共通する勤勉さが現れている。自分なりの方法で、周りに優しい雰囲気を醸し出しているのだ。私は慈済という大家族に入ってから、もっと多くの、このような真心から出た誠意を見て来た。リサイクルセンター、調理場、大小さまざまな慈善活動で、時間を気にせず熱心に自分の労力で以て奉仕する人たちだ。みんなに共通する信念は、「人々のために」である。

利他の信念を結集すれば、大きな力となる。五十八年前のように、花蓮で三十名の主婦が、「人助けのために一日に五十銭を貯金する」という単純で優しい考えから、市場で寄付を募った。その善意の信念はさざ波のように広がり、庶民から企業家までが、それぞれの力や良能を奉仕するようになった。今日では、慈済の足跡が、世界百三十六の国と地域に及んでいる。

善と愛の積み重ねは、他人への思いやりから生じたものだ。この愛の雰囲気は、分厚い福の防護カバーとなって、台湾という美しい大地と、この土地にいる愛しい人々を護っていくだろう。

(慈済月刊六九三期より)

關鍵字

慈済の出来事 12/15-1/22

台湾
Taiwan

●慈済が支援建設していた台東県豊田中学校の寄宿舎「築夢楼」が完成した。126床のベッドが入った21の寝室の他、浴室、閲覧室、食堂、合宿用休憩室などがあり、学生が勉強に専念して、それぞれの長所を伸ばせるようにしている。(1月2日)

●慈済基金会は台湾全土で55回もの冬季配付活動を催し、そのうち42回は忘年会を兼ねた。その他は地域の歳末祝福会を催したり、ボランティアたちが冬季の祝福ギフトを届けたりした。27,500もの弱者世帯が年越しを前に、買い物カードや祝福ギフトを受け取った。また、高雄の慈済人は辺境の山間に住むケア世帯に年越しの食材を届けた。(1月4日~22日)

●新北市三重区六張街のある建設工事現場で掘削した際、隣接の建物が酷く傾いたため、緊急に取り壊しが行われ、周辺の79世帯が避難した。慈済は六合市民センターに奉仕拠点を立ち上げ、三重静思堂が延べ102人を受け入れ、住民と救助人員に682食の炊き出しを行った。合わせて延べ206人のボランティアが動員され、被災した56世帯に祝福ギフトと応急手当てが贈られた。(1月6日~8日)

●慈済骨髄幹細胞センターは一月、世界骨髄寄贈者協会から三回目の「ハイレベル」の国際認証を得た。世界で103ある骨髄バンクの中でも、僅か35のバンクしか認証を得られていない。4年毎に同認証があり、慈済は、骨髄寄贈者の安全と権利を確保し、質の高いマッチングサービスと手慣れた作業の流れ及び社会の善意の人々の参加など、多方面で最高の国際水準に達していることが認められた。

●1月21日午前0時17分、嘉義県大埔区でマグニチュード6・4の表層地震が発生した。最大震度は6弱に達して、体に感じる揺れが43秒続き、50年来最大規模の地震となった。震源地に近い台南市楠西区と玉井区で家屋の損壊が発生した。

・大林慈済病院が引き受けて20数年になる大埔クリニックで、一部の設備が損壊したが、被災した住民のニーズを考慮して、いつものように開業した。

・慈済ボランティアは深夜に楠西区で被害状況を視察した後、福慧ベッドと毛布、間仕切りテントを避難所に届け、生姜茶を炊いて、救助人員や住民に提供した。

・楠西区は地震がおさまっても電気と水の供給が不安定で、店は営業ができず、家庭で食事の準備をすることもできなかった。ボランティアは夜が明けてから朝食に500食、昼食に900食、夕食に千食の弁当を提供した。大林慈済病院栄養治療科は、夜が明けてから人員を動員し、ビーフン炒めとベジタリアン蒸し粽を作って楠西区に届けた。

・ボランティアは、避難した住民が必要とする、男女用と子供用の厚手のジャケット190枚を梱包し、午後、避難所に届けることができた。その後はダウンジャケットやパン、トマトジュース、福慧ベッドを提供した。

・ボランティアは被災地を視察した後、1月22日から100世帯余りの家庭訪問を行って、祝福ギフトと損壊状況に応じた緊急手当を提供した他、後続の支援計画を立てている。

インドネシア
Indonesia

●インド洋大津波から20周年になる。慈済インドネシア支部はアチェ州イスカンダムダ軍司令部と協力して、バンダアチェ市クタアラム陸軍病院で大規模な施療活動を行った。延べ114人が白内障や鼠径ヘルニア、兎唇、腫瘍などの手術を受けた。(12月14~15日)

タイ
Thailand

●慈済タイ支部は、歳末の冬季配付活動を行い、イランやパキスタンなどから来た2046世帯の難民に買い物カードを贈呈した。(12月18~19日)

マレーシア
Malaysia

●クランタン支部は2024年末に一段階目の水害被災者支援を終えた後、2025年初めにトゥンパット地区とパシルマス地区の11の小中学校を訪れて、3321人の生徒に制服と日用品、そして295人の教職員に慰問金を配付した。また、タイの寺院で、タイ系住民の村に携帯用主食や布団、清掃用具及び慰問金を568世帯に配付した。動員ボランティア数は延べ700人を超えた。(1月5~15日)

アメリカ
United States

●1月7日、ロサンゼルスで大規模な山火事が発生し、1万2千棟余りの建物が焼失した。15日現在の統計によると、、依然として8万人以上が強制避難を命じられており、今回の山火事はアメリカ史上最も被害の大きい火災の一つになる可能性がある。

・慈済セイクリッド・バレー・ラブ・マンディ連絡所はイートンファイアから15キロの所にあり、慈済ボランティアはケアセンターを立ち上げて、山火事で影響を受けたボランティアや会員のケアを行った。

・政府は、UCLAウェストリサーチパークとパサディナ市立学院コミュニティ教育センターに、災害復興センターを設置し、被災者の証明書の再発行や連邦政府と民間機構からの支援への申請に当たった。アメリカ合衆国緊急事務管理庁(FEMA)は1月14日、慈済ボランティアに、被災者の心身ケアなどで駐留を要請した。期間は1カ月の予定。

・慈済ラブ・マンディ連絡所と慈済ウェスト連絡所は、1月18日、山火事被害における第一回配付活動を行った。87世帯が、罹災証明と住宅の損傷度合いの審査を経て、現金カードと清掃用品、食料、衣類などの物資を受け取った。

・アメリカ全土の支部や連絡所で「ロサンゼルス世紀の山火事支援に馳せる」というタイトルの下に、復興に向けて愛の募金が始まった。

ネパール
Nepal

●慈済ルンビニ志業パークで起工式が行われ、2300人余りの住民とボランティアが出席した。志業パークはルンビニ庭園4号出入り口の向かいにあり、教育と施療を行う計画である。(1月11日)

中国
China

●1月7日、チベットのシガツェ市ディンリ県で、マグニチュード6・8の地震が発生し、近隣のラツェ県も影響を受けた。3千棟を超える家屋が倒壊し、6万人余りが避難した。中国の慈済人は緊急に、現地の主食であるツァンパ約3トンと毛布2000枚、暖房用石炭350トン及び折りたたみ式ベッド600床を集め、避難所の被災住民に輸送した。(1月17日)

台湾
Taiwan

●慈済が支援建設していた台東県豊田中学校の寄宿舎「築夢楼」が完成した。126床のベッドが入った21の寝室の他、浴室、閲覧室、食堂、合宿用休憩室などがあり、学生が勉強に専念して、それぞれの長所を伸ばせるようにしている。(1月2日)

●慈済基金会は台湾全土で55回もの冬季配付活動を催し、そのうち42回は忘年会を兼ねた。その他は地域の歳末祝福会を催したり、ボランティアたちが冬季の祝福ギフトを届けたりした。27,500もの弱者世帯が年越しを前に、買い物カードや祝福ギフトを受け取った。また、高雄の慈済人は辺境の山間に住むケア世帯に年越しの食材を届けた。(1月4日~22日)

●新北市三重区六張街のある建設工事現場で掘削した際、隣接の建物が酷く傾いたため、緊急に取り壊しが行われ、周辺の79世帯が避難した。慈済は六合市民センターに奉仕拠点を立ち上げ、三重静思堂が延べ102人を受け入れ、住民と救助人員に682食の炊き出しを行った。合わせて延べ206人のボランティアが動員され、被災した56世帯に祝福ギフトと応急手当てが贈られた。(1月6日~8日)

●慈済骨髄幹細胞センターは一月、世界骨髄寄贈者協会から三回目の「ハイレベル」の国際認証を得た。世界で103ある骨髄バンクの中でも、僅か35のバンクしか認証を得られていない。4年毎に同認証があり、慈済は、骨髄寄贈者の安全と権利を確保し、質の高いマッチングサービスと手慣れた作業の流れ及び社会の善意の人々の参加など、多方面で最高の国際水準に達していることが認められた。

●1月21日午前0時17分、嘉義県大埔区でマグニチュード6・4の表層地震が発生した。最大震度は6弱に達して、体に感じる揺れが43秒続き、50年来最大規模の地震となった。震源地に近い台南市楠西区と玉井区で家屋の損壊が発生した。

・大林慈済病院が引き受けて20数年になる大埔クリニックで、一部の設備が損壊したが、被災した住民のニーズを考慮して、いつものように開業した。

・慈済ボランティアは深夜に楠西区で被害状況を視察した後、福慧ベッドと毛布、間仕切りテントを避難所に届け、生姜茶を炊いて、救助人員や住民に提供した。

・楠西区は地震がおさまっても電気と水の供給が不安定で、店は営業ができず、家庭で食事の準備をすることもできなかった。ボランティアは夜が明けてから朝食に500食、昼食に900食、夕食に千食の弁当を提供した。大林慈済病院栄養治療科は、夜が明けてから人員を動員し、ビーフン炒めとベジタリアン蒸し粽を作って楠西区に届けた。

・ボランティアは、避難した住民が必要とする、男女用と子供用の厚手のジャケット190枚を梱包し、午後、避難所に届けることができた。その後はダウンジャケットやパン、トマトジュース、福慧ベッドを提供した。

・ボランティアは被災地を視察した後、1月22日から100世帯余りの家庭訪問を行って、祝福ギフトと損壊状況に応じた緊急手当を提供した他、後続の支援計画を立てている。

インドネシア
Indonesia

●インド洋大津波から20周年になる。慈済インドネシア支部はアチェ州イスカンダムダ軍司令部と協力して、バンダアチェ市クタアラム陸軍病院で大規模な施療活動を行った。延べ114人が白内障や鼠径ヘルニア、兎唇、腫瘍などの手術を受けた。(12月14~15日)

タイ
Thailand

●慈済タイ支部は、歳末の冬季配付活動を行い、イランやパキスタンなどから来た2046世帯の難民に買い物カードを贈呈した。(12月18~19日)

マレーシア
Malaysia

●クランタン支部は2024年末に一段階目の水害被災者支援を終えた後、2025年初めにトゥンパット地区とパシルマス地区の11の小中学校を訪れて、3321人の生徒に制服と日用品、そして295人の教職員に慰問金を配付した。また、タイの寺院で、タイ系住民の村に携帯用主食や布団、清掃用具及び慰問金を568世帯に配付した。動員ボランティア数は延べ700人を超えた。(1月5~15日)

アメリカ
United States

●1月7日、ロサンゼルスで大規模な山火事が発生し、1万2千棟余りの建物が焼失した。15日現在の統計によると、、依然として8万人以上が強制避難を命じられており、今回の山火事はアメリカ史上最も被害の大きい火災の一つになる可能性がある。

・慈済セイクリッド・バレー・ラブ・マンディ連絡所はイートンファイアから15キロの所にあり、慈済ボランティアはケアセンターを立ち上げて、山火事で影響を受けたボランティアや会員のケアを行った。

・政府は、UCLAウェストリサーチパークとパサディナ市立学院コミュニティ教育センターに、災害復興センターを設置し、被災者の証明書の再発行や連邦政府と民間機構からの支援への申請に当たった。アメリカ合衆国緊急事務管理庁(FEMA)は1月14日、慈済ボランティアに、被災者の心身ケアなどで駐留を要請した。期間は1カ月の予定。

・慈済ラブ・マンディ連絡所と慈済ウェスト連絡所は、1月18日、山火事被害における第一回配付活動を行った。87世帯が、罹災証明と住宅の損傷度合いの審査を経て、現金カードと清掃用品、食料、衣類などの物資を受け取った。

・アメリカ全土の支部や連絡所で「ロサンゼルス世紀の山火事支援に馳せる」というタイトルの下に、復興に向けて愛の募金が始まった。

ネパール
Nepal

●慈済ルンビニ志業パークで起工式が行われ、2300人余りの住民とボランティアが出席した。志業パークはルンビニ庭園4号出入り口の向かいにあり、教育と施療を行う計画である。(1月11日)

中国
China

●1月7日、チベットのシガツェ市ディンリ県で、マグニチュード6・8の地震が発生し、近隣のラツェ県も影響を受けた。3千棟を超える家屋が倒壊し、6万人余りが避難した。中国の慈済人は緊急に、現地の主食であるツァンパ約3トンと毛布2000枚、暖房用石炭350トン及び折りたたみ式ベッド600床を集め、避難所の被災住民に輸送した。(1月17日)

關鍵字

家の中も外も皆家族—台湾型共生の実践

親族でも知人でもないのに、祖母と孫のような二人が、閑散とした小学校のキャンパスで出会った。ここは幼稚園とデイケアセンターが一体となっている。限られた社会福祉に民間の資源をプラスした多世代共生、即ち若者と高齢者を同時に受け入れる場所の設置は、超高齢化社会の急務である。

春の陽だまりを求めながら、何本もの路地から、杖をついて歩いて来る人もいれば、車椅子の人やゆっくり移動する人もいた。お婆さんやお爺さんたちは、期せずして同じ時間に台北市の西松公園に着いた。この日は、弘道老人福利基金会主催の、毎週木曜日午前中に行なわれるアウトリーチ活動の日である。車椅子を利用する要介護の高齢者と外国籍介護者の十二組に加え、自力歩行が可能、或いは年が少し若い奥さんたちも多数来ている。

「呉先生、こんにちは!」

トレーナーの呉永昌(ウー・ヨンツァン)さんは笑顔を浮かべて、「始めた頃は五人しかいなかったんですよ」と言った。九年間も共に活動をしているので、呉さんはお爺さんやお婆さん、または外国籍介護者たち皆をよく知っている。数えてみると、大樹の周りには二、三十人近くいた。買い物カートを引いて通りかかった女性も立ち止まった。

普遍的な「ケア」は公園から始まる

台北市松山区にある公務員と教職員向け住宅は一九六〇年代に、アメリカの都市計画制度に倣って、七万人を収容できるモデル・コミュニティとして建設された。高齢化が進む台湾では今、居住人口は八万人を超えているが、言うまでもなく、高齢者が多い。一九九五年に設立された弘道基金会は、ソーシャルケアの最前線に立ち、このコミュニティを台北市進出の初拠点とし、これまで二十四年間運営を続けている。呉先生は音楽を流し始め、車椅子に乗った年長者たちには腕のストレッチと足の上げ下げをしてもらい、立ち上がることができる人や奥さんたちは、後ろでダンスをするように動いている。曲は「快楽出航」から「小城故事」まで、リズムの速いものも遅いものもある。ソーシャルワーカーの李秀蓉(リー・シュウロン)さんは、横で外国籍介護者が抱えている介護上の問題を解決してきた。評判が良い呉さんは、今では多くの外国籍介護者たちは、市場で出会う時、互いに情報交換をしており、インドネシアに帰国する際は、わざわざ雇用主に、「お爺ちゃんの健康維持のために、公園に連れて行くよう、次の介護者に伝えてください」と念を押すほどだ。

隣に座っていた八十二歳の温素珠(ウェン・スーヅゥー)さんは、新しい隣人に付きそって来たのだと言った。「彼女は私より何歳か年下ですが、引っ越してきたばかりで、どこに行ったらいいのか分からないそうです」。素珠さんは元気一杯で、毎日色々な活動に参加している。近くにある宝清や婦聯など四つの公園で異なる時間にアウトリーチ活動が行われていれば、順番に参加する。「これ以上、心が塞ぎ込まないようにするには、近所の人たちを連れ出せばいいのです」。彼女の前にいる何人かの車椅子に乗ったお婆さんたちは、皆隣人で、彼女より年下の人でも、急に寝込んでしまうこともあるため、家から出て日光浴ができるのも、大きな一歩なのだ。

「高齢者は、短くても幸福だと思える時間があれば、それで良いのです」と李さんは感慨深げに語った。

ベストセラーの『下流老人』に三つの指標が書かれてある。その一つが社会的孤立である。即ち頼れる人がいない状況下で、その上、近所とあまり言葉を交わさず、歩き回るスペースも少なく、テレビだけが連れとなっている人である。

都市部では、多くの高齢者が自宅で外国籍介護者を雇っている。日中は近くの公園で日光浴をする。弘道老人福利基金会は、デイサービス拠点を離れることで、高齢者により多くの交流機会を与える。

都市と田舎で大きく異なる
地域の「個性」活かした共生

台北と比べて中南部の県や市は、青壮年の人が早くに家を離れるため、お爺さんやお婆さんたちは、近所とのつながりを維持する必要性が増している。これは正に基本的な地域社会の共生を意味している。

強い海風と河口の氾濫が頻繁な雲林県台西村に住む八十歳の丁良琴(ディン・リャンチン)お婆さんは、優雅な女性である。毎朝決まった時間に、コミュニティの介護センターへ行きくため、インドネシア人の介護者アヤさんを急かして外出する。これが彼女の一日の始まりだ。

その日、アヤさんはお婆さんの車椅子を押しながら、市場の横にある海天府を通った。そこは二○二○年にできた、台西村で最初の介護拠点である。当時、政府は路地裏にディケアC基地を立ち上げる政策を推し進め、その後、農業委員会が農業・自然環境をベースにした、グリーンケアを推進した。海に面した台西村には資源がなく、当時海天府管理委員会の委員長だった頼俊傑(ライ・ジュンジェ)村長は、廟の前に簡易テントを建てて、近くのお年寄りたちに体を動かすよう呼びかけた。一日、二日やっただけでは、お爺さんお婆さんたちは覚えられないだろうと、彼は頑張って週に五日間行った。また、お年寄りたちの昼食を心配して、店じまいしようとしていた露天商に呼びかけ、安くするために、大鍋でお粥を作ってくれるよう頼んだ。こんな調子で三年間が過ぎた。場所は転々とした後、彼の家に落ち着いた。村長の事務所でもあり、雨風も凌げるので、大分良くなった。二○二四年の春節の後、区役所の空きスペースに移転したことで、やっとケア拠点らしくなった。

昼になると、七十歳だが髪が真っ黒な賴さんは、自宅のキッチンに戻り、ご飯やおかずを持って拠点に戻ってきた。きびきびした動作の九十一歳のお婆さんが、弁当作りを手伝った。そして、みんなは弁当ができると、自転車や徒歩で帰宅して一息入れ、午後にまたやって来るのだ。台西、海南、海口、海北など台湾の最西端に位置する海沿いの漁村は、限られた資源を利用して高齢者向けの長青食堂を運営することで、高齢者に栄養を補給すると共に、毎日決まった時間に会えるようにしている。これは最低限のケア方法である。

弘道老人福利基金会のアウトリーチ活動により、外国籍介護者も体を動かすことができる。エクササイズバンドでストレッチをしていた。介護する人とされる人、双方の間に、暗黙の了解と感情を深めることができるのだ。

水平移動の生活

頼さんが準備している弁当にはいつも、糖尿病で足を切断し、車椅子生活をしているお隣の林張水(リン・ヅァンスイ)さんの分が含まれている。外出できないので、毎日車椅子に座って自宅の前で、早朝に海藻を採りに出かけて午後に帰宅する妻を待っている。漁村に住むこの七、八十歳の老夫婦は、贅沢な食事はせず、質素な生活を送っている。

一九六〇年から七〇年代にかけて、台湾の経済は高度成長したが、医療資源と高齢者ケア方面の環境はまだ整っていなかったため、村民にタイムリーに寄り添えるのは誰かといえば、農業組合や漁業組合だけだった。家政指導員(以下家指と称す)の仕事は、毎日田んぼの畦道や魚の養殖場を回ることである。口湖農業組合の指導員である呉金珠(ウー・ジンヅゥ)さんは、私たちを水井村の八十から九十歳の高齢者たちのもとに案内してくれた。毎朝十時に決まって、八十八歳の李金貴(リー・ジングェイ)さんの家に来るが、軒下に黒いネットを掛けて日陰を作り、近所の人たちにお茶を入れて、おしゃべりをする。その中の三人は一人暮らしのお婆さんだが、そういう高齢者の生活に慣れており、「誰それが来てないけど、どうしたのかな」とお互いに声をかけ合ったり、直ぐ呉さんや村長に知らせたりする。「毎日友達とおしゃべりでき、将棋やマージャンができるのです」。このような場所は、静宜大学の社会福祉学部の教授であり、台中地区で多世代共生を提唱した紀金山(ジー・ジンサン)先生が疑問視した伝統的価値観の「自宅での老後が最良」という考え方を具体化している。「今は小家族が増え、人口が減少しているため、それを支える能力が弱まっているのです」。

同じ時間帯に、高雄市前金区林投里にある築五十年の警察宿舎を改築した公営住宅は、既に若い親がベビーカーを押しながら次々と出勤していた。一階にある「林投好居間」を通ると、上に住んでいる七十三歳の呉衡英(ウー・ヘンイン)さんが既に降りて来ていて、ドアを開けたり、花に水をやったりしていた。お互いに挨拶を交わしながら、衡英お婆さんは赤ちゃんが可愛くてたまらず、頭を撫でていたが、彼女はれっきとした弘道基金会高雄林投C拠点のボランティアである。

まだ二歳の子供は、百メートル離れた最寄りの前金幼稚園に預けている。この幼稚園と向かいの前金小学校は、どちらも百年以上の歴史があり、高雄で最大の公立幼稚園である。前金小学校は、日本統治時代は「貴族」しか入学できなかった小学校だ。同じ公営住宅の一階の反対側には、高雄で唯一二十四時間営業の公立保育所があり、高齢者と若者が共に暮らす模範的なコミュニティと言っても間違いではない!

設立から三年半が経った林投好居間のソーシャルワーカー、翁弘育(オン・ホンユー)さんはこう言った。

「海底のサンゴ礁のように、どれだけの資源を投じれば、どれだけの魚や生態系が集まって共生するかが分かるのです」。このような実験場があって、彼はとても幸運だと言う。熱心な弘育さんは、ソーシャルワーカーの特質を持っている。非常に忍耐強く、細かく気配りし、「処理すべき事と処理不必要な事」をきちんと整理する頭脳の持ち主で、「好居間」の中心的な存在である。彼自身、三年余りでこれほど多くの力と幸福を蓄積できて、忙しいながらも幸せを感じているそうだ。

軽度の認知症を患っている海明(ハイミン)さんは、衡英おばさんのご主人である。朝少し遅めに降りてきて、トレーナーと一緒に体を動かし、筋肉を強化すると同時に、トレーナーは簡単な質問を交えて、高齢者の脳を活性化させている。休憩時間には、自由にグループに分かれて、ラミィというボードゲームを楽しむ。頭を使うマージャンのようなものだ。

雲林台西村路地裏のケア拠点では、写真に写っている91歳のお婆ちゃんがこれほど上手にボールを当てられることが信じ難い。農村や漁村の高齢者には、身体上または頭脳上の交流ができる簡単な場所が必要だ。

台西村の丁お婆ちゃんは、軽度の認知症を患っているが、デイケアセンターに入るのを急いでいない。毎日外国籍介護者が車椅子を押して混雑した市場を通る。規則正しいスケジュールを維持することは、彼女や半健康の高齢者が身体機能を維持する良い方法である。

上下階で縦繋がりの家族

ふと見ると春風(チュンフォン)お爺さんが、心身の不調のため居間の奥に一人で座っていたが、みんなは彼の存在に慣れていて、特に気にすることはなく、時々様子を見に行くぐらいである。弘育さんは、春風お爺さんにも悲しい話があると語った。彼は知的障害のある二人の息子と暮らしていて、つい最近一人が亡くなり、長男は毎日保護工場で働いているそうだ。春風お爺さんは週に二回在宅介護サービスを利用し、サービス内容毎に精算する方法を取っているが、介護員はサービスが終わると直ぐ帰らなければならないので、毎回二階の家から彼を下ろして、好居間に移動させているそうだ。一人で家に閉じ込こもっているよりずっと良い。それがみんなの居間であり、うたた寝をしたり、ぼーっとしたりできる上、冷房代も節約できる。ソーシャルワーカーの陳雅芬(チェン・ヤーフェン)さんは、彼に目薬と耳薬をさすことを忘れないようにし、介護員と協力してお爺さんの状況を共有している。

月鳳お婆さんは料理が大好きで、よくスープを作っては大きな鍋で持ってきて、みんなと一緒に新鮮な料理を楽しんでいる。一人暮らしの羅さんは毎日やって来て、出来たての料理を楽しんでいる。ここでは、一人ひとりが自分の居場所を見つけている。陳さんによると、実は、林投好居間のようなC拠点は高齢者だけが利用する場所ではなく、むしろ「コミュニティが共同で穏やかに過ごす環境」であるべきだ。台湾社会では、「穏やかに過ごす」という言葉が高齢者専用と誤解されがちだが、誰もがそこで過ごすことができるのだ。好居間は仲介的な役割を果たし、住民が交流によって変わるよう促している。たとえば、子どもが放課後、好居間で宿題をしたり、少し遅くなったら向かいのお婆さんの家でお母さんの帰りを待ったりすることもできる。七十五歳だが、背筋が真っ直ぐな羅さんは、毎晩七十三歳の張海明(ヅァン・ハイミン) さんを連れて散歩に行く。奥さんの衡英さんは、その間にカートを引いて街で、学校が終わるのを待ち、弘道不老時間ベーカリーでパンの販売を手伝う。中では、聶庭莉(サー・ティンリー)お婆さんが自主的にほうきで床を掃き、全てが自然体である。

その日の午後、幼稚園が終わると、上の階の若い夫婦が通りかかり、好居間での和菓子作りに、隣の臨時保育所の先生が幼児たちを連れて遊びに来ていたのを見て、一緒に加わった。年齢に関係なく、みんなで生地をこねて花の形を作る姿を見て、高齢者たちは嬉しくないわけがない。

上の階と下の階の「好居間」

張海明さんと羅さんは、上下階に住んでいる良き隣人で、毎日好居間で会い、夕方には手を繋いで散歩する。(写真1)

ここは彼らのコミュニティであり、1階の扉を開けると歓迎してくれ、衡英お婆さんは花に水をやる。(写真2)

居間では、様々な活動が行われ、お年寄りも子どもも楽しんでいる。(写真3)

多世代共生の「スタートアップスタイル」

「年を重ねると、あまり遠くには行けないので、益々家の近くの環境に依存するようになるのです。長年地域で経営している小規模の商店は、しばしば近所の交流を繋ぐ場所になります。それは、高齢者に外出や会話の機会が増え、コミュニティでのサポートが増えたことを意味しています」。ベルリンのフンボルト大学でコミュニティ研究をしている李香誼(リー・シャンイー)さんによると、ここ数年、各地でコミュニティ住宅の計画や建設が進められていて、高齢者と若者の共生が期待されている。「しかし、残念なことに、一階は殆どがPXマートのような店舗が入り、便利さや経済性が重視されていますが、それでは人情的な結びつきや生活の支援性に欠けています」と雅芬さんが指摘した。

高雄前鎮にある興仁中学は、広大なキャンパスが三つのエリアに分けられている。一つは少子化の影響で縮小された中学校の教室、一つは幼稚園、もう一つは幼稚園と同時に改築されて新たに設置されたデイサービスセンターだ。かつて高雄大同病院で地域サービス部門の主任を務めたことのある黄仲平(ホワン・ヅォンピン)さんは、二〇一九年に高雄市政府の強力な支持の下、少子化で余剰となった大同と建興小学校の一部の教室を、認知症や要介護高齢者のB拠点に変身させた。高雄市新興区の大同楽福学堂は、台湾全土の長期介護政策において初めての小学校デイサービスのモデルケースと言える。現在の興仁中学校は、進学よりも就業に重きを置いた学校で、学生が早くから高齢者の血圧を測ったり、木工作品を共有したりしている。高齢者と若者の双方の学びを通して交流しており、業者と学校側も試行錯誤を重ねている。

外観は学校のように見えるが、黄さんは教室間の壁を取り除いて、「古い」印象を全面的に覆した。彼は千人の高齢者とその家族にアンケートを行い、もう一つの家はどのようにあるべきかを調査したことがある。ノスタルジックにして、高齢者の若い頃の記憶を呼び起こす場所であるべきか、それとも、手の届かない夢の実現であるべきか。最も記憶に残っているのは、長年口を開かなかったお婆さんが、娘に連れられてカフェに来た時のことだ。お婆さんは娘のスカートの裾を引っ張りながらこっそり「いいね」とサインを送ったら、「それなら毎日来ない?」と娘が聞いた。「それはダメ……高いからね」とお婆さんが突然口を開いたのだ。それで、黄さんはその後、若々しい色彩とモダンさを組み合わせたデザインのテーブルと椅子を設計し、高齢者がデイケアセンターに来れば、自分は病人だから、もう無理だと思うことなく、全く新しい体験を喜んで受け入れてもらえるようにした。

黄さんは、旗津(チージン)地区でもっと広い、漁業組合の二階の四百坪のスペースを創作拠点として利用しているが、若者や団体に余ったスペースを無償で提供しており、自然と拠点が若返り、お年寄りは毎日異なる年齢層の人が出入りするのを見ることができる。彼は感慨深く語った。

「どの家庭にも高齢者がいるかもしれませんが、多くの家族は『認知症』が何かを理解していません。子供が何度もスズメが何かと聞いたら、忍耐強く教えるのに、自分の両親が認知症になって同じ質問を繰り返すと、スズメだよ、と怒り出してしまうのです」。

高雄市前鎮区の興仁中学校の一部の教室は、デイケアセンターに改装され、認知症高齢者たちは医療施設とは思えない「夢のような」環境の中で、音楽に合わせて楽しそうに踊っていた。

ここでは、スマートフィットネス機器は高齢者の毎日の身体状況に合わせて強度が調整され、個人用ICカードに保存される。

不老の幸福の行き先

台湾におけるコミュニティ共生はまだ初歩段階で、実験が順調に進むかどうかは担当者の姿勢にかかっている。興仁中学校付属幼稚園の園長先生は、とても親しみやすい人柄だ。ある日、十数人の子どもたちをお爺さんやお婆さんたちに会わせ、画面に合わせて大声で歌い踊る姿を見せた。子どもたちの無邪気さは、お年寄りの憂鬱や体の不快感を和らげ、笑顔になって手を振り、一部の要介護の人も嬉しくなって、その場で踊り出した。黄さんによると、一般の人が心配しているような「子供が高齢者にぶつかる」状況は、まだ見たことがないそうだ。大同楽福学堂を設立した年を振り返ると、大同病院が後ろ盾になってくれてはいたが、学校や保護者への説明会は一年八カ月にわたって、百六十回開催され、最終的には学校側が「公立学校」であることからやっと同意した。今では、多くの県や市政府が大同楽福学堂を頻繁に訪れ、模倣しようとしているが、彼は彼らに、学校側や保護者から必ず出る十の質問を伝えている。その中には、子どもと認知症の高齢者との間に衝突したり、怪我人が出るような事態に発展したりした場合はどうするのか、という問いがある。「これらは確かに問題だが、問題ではないのです」と黄さんは意図的に例を挙げた。誰もが権利が変わることによって、相対的に剥奪感を持つようになるが、予め想定された立場や問題は合意と努力によって回避できる。しかし、どのコミュニティでも、異なる人から成る組織ができ、外部の介護機関がどのように調和し、信頼感を得られるかが問われる。

外国籍介護者は、認知症や自立不能の高齢者の家族のようなものだ。台北市松山区にある築50年以上の歴史を持つ公営住宅では、至る所に高齢者の姿が見られるが、皆少なからずデイケアサービスを必要としている。

ボトムアップ形式の「創造性ある」共生

創新長期介護経営管理協会の事務局長である黄毓瑩(ホワン・ユーイン)さんは、二○○九至二○一七年までの長期介護利用者数の複合年増加率を観察したところ、コミュニティケアが31%で最も高く、次に在宅ケアが12%、施設ケアが2%と最も低いことが分かった。これは台湾特有の文化と家族観を反映しており、やはり自宅近くのコミュニティで余生を送るのが最も望ましいことを示している。現在、介護人員は五万人強で、サービス対象は約七十四万人である。二○二五年には超高齢社会に突入し、六十五歳以上の人口は五百万人に迫るが、政府は現行のトップダウン型の介護制度を推進するのが難しいと見ており、ニーズを満たすためには、地方産業化を望む声が益々高くなっている。二○一四年に「コミュニティ3・0」概念を提唱した日本の地方創生デザイナー、山崎亮氏は、「豊かな都市とはどういうものでしょうか。全員のポケットが満たされていることでしょうか」と訊いたことことがある。彼は、誰もが心の中に理想的な「豊かさ」を持っていると信じている。それは、安定した暮らしと職業、安心して長く暮らすという願いである。「住民の自発的な参加を促す」ことによって、人と人との繋がりを築いて、孤独死を防ぐことが、共生コミュニティのコアとなる概念である。

九十七歳の葉子(イェヅ)お婆さんは、子どもと同じくらい小柄で、風が吹くと倒れてしまうような細い体をしている。ソーシャルワーカーの陳微竹(チェン・ウェイヅゥ)さんは、昼寝をしたがらないお婆さんを支えながら、長い廊下を行ったり来たりしていた。お婆さんのつぶやきは私たちには理解できないが、その目は純真且つ無邪気で、子供のようだ。さて、どのようにすれば、これら「子供のようなお年寄り」をケアし、青春を捧げた彼女の人生を楽しく、平穏に全うさせ得るであろうか?

(経典雑誌三一〇期より)

親族でも知人でもないのに、祖母と孫のような二人が、閑散とした小学校のキャンパスで出会った。ここは幼稚園とデイケアセンターが一体となっている。限られた社会福祉に民間の資源をプラスした多世代共生、即ち若者と高齢者を同時に受け入れる場所の設置は、超高齢化社会の急務である。

春の陽だまりを求めながら、何本もの路地から、杖をついて歩いて来る人もいれば、車椅子の人やゆっくり移動する人もいた。お婆さんやお爺さんたちは、期せずして同じ時間に台北市の西松公園に着いた。この日は、弘道老人福利基金会主催の、毎週木曜日午前中に行なわれるアウトリーチ活動の日である。車椅子を利用する要介護の高齢者と外国籍介護者の十二組に加え、自力歩行が可能、或いは年が少し若い奥さんたちも多数来ている。

「呉先生、こんにちは!」

トレーナーの呉永昌(ウー・ヨンツァン)さんは笑顔を浮かべて、「始めた頃は五人しかいなかったんですよ」と言った。九年間も共に活動をしているので、呉さんはお爺さんやお婆さん、または外国籍介護者たち皆をよく知っている。数えてみると、大樹の周りには二、三十人近くいた。買い物カートを引いて通りかかった女性も立ち止まった。

普遍的な「ケア」は公園から始まる

台北市松山区にある公務員と教職員向け住宅は一九六〇年代に、アメリカの都市計画制度に倣って、七万人を収容できるモデル・コミュニティとして建設された。高齢化が進む台湾では今、居住人口は八万人を超えているが、言うまでもなく、高齢者が多い。一九九五年に設立された弘道基金会は、ソーシャルケアの最前線に立ち、このコミュニティを台北市進出の初拠点とし、これまで二十四年間運営を続けている。呉先生は音楽を流し始め、車椅子に乗った年長者たちには腕のストレッチと足の上げ下げをしてもらい、立ち上がることができる人や奥さんたちは、後ろでダンスをするように動いている。曲は「快楽出航」から「小城故事」まで、リズムの速いものも遅いものもある。ソーシャルワーカーの李秀蓉(リー・シュウロン)さんは、横で外国籍介護者が抱えている介護上の問題を解決してきた。評判が良い呉さんは、今では多くの外国籍介護者たちは、市場で出会う時、互いに情報交換をしており、インドネシアに帰国する際は、わざわざ雇用主に、「お爺ちゃんの健康維持のために、公園に連れて行くよう、次の介護者に伝えてください」と念を押すほどだ。

隣に座っていた八十二歳の温素珠(ウェン・スーヅゥー)さんは、新しい隣人に付きそって来たのだと言った。「彼女は私より何歳か年下ですが、引っ越してきたばかりで、どこに行ったらいいのか分からないそうです」。素珠さんは元気一杯で、毎日色々な活動に参加している。近くにある宝清や婦聯など四つの公園で異なる時間にアウトリーチ活動が行われていれば、順番に参加する。「これ以上、心が塞ぎ込まないようにするには、近所の人たちを連れ出せばいいのです」。彼女の前にいる何人かの車椅子に乗ったお婆さんたちは、皆隣人で、彼女より年下の人でも、急に寝込んでしまうこともあるため、家から出て日光浴ができるのも、大きな一歩なのだ。

「高齢者は、短くても幸福だと思える時間があれば、それで良いのです」と李さんは感慨深げに語った。

ベストセラーの『下流老人』に三つの指標が書かれてある。その一つが社会的孤立である。即ち頼れる人がいない状況下で、その上、近所とあまり言葉を交わさず、歩き回るスペースも少なく、テレビだけが連れとなっている人である。

都市部では、多くの高齢者が自宅で外国籍介護者を雇っている。日中は近くの公園で日光浴をする。弘道老人福利基金会は、デイサービス拠点を離れることで、高齢者により多くの交流機会を与える。

都市と田舎で大きく異なる
地域の「個性」活かした共生

台北と比べて中南部の県や市は、青壮年の人が早くに家を離れるため、お爺さんやお婆さんたちは、近所とのつながりを維持する必要性が増している。これは正に基本的な地域社会の共生を意味している。

強い海風と河口の氾濫が頻繁な雲林県台西村に住む八十歳の丁良琴(ディン・リャンチン)お婆さんは、優雅な女性である。毎朝決まった時間に、コミュニティの介護センターへ行きくため、インドネシア人の介護者アヤさんを急かして外出する。これが彼女の一日の始まりだ。

その日、アヤさんはお婆さんの車椅子を押しながら、市場の横にある海天府を通った。そこは二○二○年にできた、台西村で最初の介護拠点である。当時、政府は路地裏にディケアC基地を立ち上げる政策を推し進め、その後、農業委員会が農業・自然環境をベースにした、グリーンケアを推進した。海に面した台西村には資源がなく、当時海天府管理委員会の委員長だった頼俊傑(ライ・ジュンジェ)村長は、廟の前に簡易テントを建てて、近くのお年寄りたちに体を動かすよう呼びかけた。一日、二日やっただけでは、お爺さんお婆さんたちは覚えられないだろうと、彼は頑張って週に五日間行った。また、お年寄りたちの昼食を心配して、店じまいしようとしていた露天商に呼びかけ、安くするために、大鍋でお粥を作ってくれるよう頼んだ。こんな調子で三年間が過ぎた。場所は転々とした後、彼の家に落ち着いた。村長の事務所でもあり、雨風も凌げるので、大分良くなった。二○二四年の春節の後、区役所の空きスペースに移転したことで、やっとケア拠点らしくなった。

昼になると、七十歳だが髪が真っ黒な賴さんは、自宅のキッチンに戻り、ご飯やおかずを持って拠点に戻ってきた。きびきびした動作の九十一歳のお婆さんが、弁当作りを手伝った。そして、みんなは弁当ができると、自転車や徒歩で帰宅して一息入れ、午後にまたやって来るのだ。台西、海南、海口、海北など台湾の最西端に位置する海沿いの漁村は、限られた資源を利用して高齢者向けの長青食堂を運営することで、高齢者に栄養を補給すると共に、毎日決まった時間に会えるようにしている。これは最低限のケア方法である。

弘道老人福利基金会のアウトリーチ活動により、外国籍介護者も体を動かすことができる。エクササイズバンドでストレッチをしていた。介護する人とされる人、双方の間に、暗黙の了解と感情を深めることができるのだ。

水平移動の生活

頼さんが準備している弁当にはいつも、糖尿病で足を切断し、車椅子生活をしているお隣の林張水(リン・ヅァンスイ)さんの分が含まれている。外出できないので、毎日車椅子に座って自宅の前で、早朝に海藻を採りに出かけて午後に帰宅する妻を待っている。漁村に住むこの七、八十歳の老夫婦は、贅沢な食事はせず、質素な生活を送っている。

一九六〇年から七〇年代にかけて、台湾の経済は高度成長したが、医療資源と高齢者ケア方面の環境はまだ整っていなかったため、村民にタイムリーに寄り添えるのは誰かといえば、農業組合や漁業組合だけだった。家政指導員(以下家指と称す)の仕事は、毎日田んぼの畦道や魚の養殖場を回ることである。口湖農業組合の指導員である呉金珠(ウー・ジンヅゥ)さんは、私たちを水井村の八十から九十歳の高齢者たちのもとに案内してくれた。毎朝十時に決まって、八十八歳の李金貴(リー・ジングェイ)さんの家に来るが、軒下に黒いネットを掛けて日陰を作り、近所の人たちにお茶を入れて、おしゃべりをする。その中の三人は一人暮らしのお婆さんだが、そういう高齢者の生活に慣れており、「誰それが来てないけど、どうしたのかな」とお互いに声をかけ合ったり、直ぐ呉さんや村長に知らせたりする。「毎日友達とおしゃべりでき、将棋やマージャンができるのです」。このような場所は、静宜大学の社会福祉学部の教授であり、台中地区で多世代共生を提唱した紀金山(ジー・ジンサン)先生が疑問視した伝統的価値観の「自宅での老後が最良」という考え方を具体化している。「今は小家族が増え、人口が減少しているため、それを支える能力が弱まっているのです」。

同じ時間帯に、高雄市前金区林投里にある築五十年の警察宿舎を改築した公営住宅は、既に若い親がベビーカーを押しながら次々と出勤していた。一階にある「林投好居間」を通ると、上に住んでいる七十三歳の呉衡英(ウー・ヘンイン)さんが既に降りて来ていて、ドアを開けたり、花に水をやったりしていた。お互いに挨拶を交わしながら、衡英お婆さんは赤ちゃんが可愛くてたまらず、頭を撫でていたが、彼女はれっきとした弘道基金会高雄林投C拠点のボランティアである。

まだ二歳の子供は、百メートル離れた最寄りの前金幼稚園に預けている。この幼稚園と向かいの前金小学校は、どちらも百年以上の歴史があり、高雄で最大の公立幼稚園である。前金小学校は、日本統治時代は「貴族」しか入学できなかった小学校だ。同じ公営住宅の一階の反対側には、高雄で唯一二十四時間営業の公立保育所があり、高齢者と若者が共に暮らす模範的なコミュニティと言っても間違いではない!

設立から三年半が経った林投好居間のソーシャルワーカー、翁弘育(オン・ホンユー)さんはこう言った。

「海底のサンゴ礁のように、どれだけの資源を投じれば、どれだけの魚や生態系が集まって共生するかが分かるのです」。このような実験場があって、彼はとても幸運だと言う。熱心な弘育さんは、ソーシャルワーカーの特質を持っている。非常に忍耐強く、細かく気配りし、「処理すべき事と処理不必要な事」をきちんと整理する頭脳の持ち主で、「好居間」の中心的な存在である。彼自身、三年余りでこれほど多くの力と幸福を蓄積できて、忙しいながらも幸せを感じているそうだ。

軽度の認知症を患っている海明(ハイミン)さんは、衡英おばさんのご主人である。朝少し遅めに降りてきて、トレーナーと一緒に体を動かし、筋肉を強化すると同時に、トレーナーは簡単な質問を交えて、高齢者の脳を活性化させている。休憩時間には、自由にグループに分かれて、ラミィというボードゲームを楽しむ。頭を使うマージャンのようなものだ。

雲林台西村路地裏のケア拠点では、写真に写っている91歳のお婆ちゃんがこれほど上手にボールを当てられることが信じ難い。農村や漁村の高齢者には、身体上または頭脳上の交流ができる簡単な場所が必要だ。

台西村の丁お婆ちゃんは、軽度の認知症を患っているが、デイケアセンターに入るのを急いでいない。毎日外国籍介護者が車椅子を押して混雑した市場を通る。規則正しいスケジュールを維持することは、彼女や半健康の高齢者が身体機能を維持する良い方法である。

上下階で縦繋がりの家族

ふと見ると春風(チュンフォン)お爺さんが、心身の不調のため居間の奥に一人で座っていたが、みんなは彼の存在に慣れていて、特に気にすることはなく、時々様子を見に行くぐらいである。弘育さんは、春風お爺さんにも悲しい話があると語った。彼は知的障害のある二人の息子と暮らしていて、つい最近一人が亡くなり、長男は毎日保護工場で働いているそうだ。春風お爺さんは週に二回在宅介護サービスを利用し、サービス内容毎に精算する方法を取っているが、介護員はサービスが終わると直ぐ帰らなければならないので、毎回二階の家から彼を下ろして、好居間に移動させているそうだ。一人で家に閉じ込こもっているよりずっと良い。それがみんなの居間であり、うたた寝をしたり、ぼーっとしたりできる上、冷房代も節約できる。ソーシャルワーカーの陳雅芬(チェン・ヤーフェン)さんは、彼に目薬と耳薬をさすことを忘れないようにし、介護員と協力してお爺さんの状況を共有している。

月鳳お婆さんは料理が大好きで、よくスープを作っては大きな鍋で持ってきて、みんなと一緒に新鮮な料理を楽しんでいる。一人暮らしの羅さんは毎日やって来て、出来たての料理を楽しんでいる。ここでは、一人ひとりが自分の居場所を見つけている。陳さんによると、実は、林投好居間のようなC拠点は高齢者だけが利用する場所ではなく、むしろ「コミュニティが共同で穏やかに過ごす環境」であるべきだ。台湾社会では、「穏やかに過ごす」という言葉が高齢者専用と誤解されがちだが、誰もがそこで過ごすことができるのだ。好居間は仲介的な役割を果たし、住民が交流によって変わるよう促している。たとえば、子どもが放課後、好居間で宿題をしたり、少し遅くなったら向かいのお婆さんの家でお母さんの帰りを待ったりすることもできる。七十五歳だが、背筋が真っ直ぐな羅さんは、毎晩七十三歳の張海明(ヅァン・ハイミン) さんを連れて散歩に行く。奥さんの衡英さんは、その間にカートを引いて街で、学校が終わるのを待ち、弘道不老時間ベーカリーでパンの販売を手伝う。中では、聶庭莉(サー・ティンリー)お婆さんが自主的にほうきで床を掃き、全てが自然体である。

その日の午後、幼稚園が終わると、上の階の若い夫婦が通りかかり、好居間での和菓子作りに、隣の臨時保育所の先生が幼児たちを連れて遊びに来ていたのを見て、一緒に加わった。年齢に関係なく、みんなで生地をこねて花の形を作る姿を見て、高齢者たちは嬉しくないわけがない。

上の階と下の階の「好居間」

張海明さんと羅さんは、上下階に住んでいる良き隣人で、毎日好居間で会い、夕方には手を繋いで散歩する。(写真1)

ここは彼らのコミュニティであり、1階の扉を開けると歓迎してくれ、衡英お婆さんは花に水をやる。(写真2)

居間では、様々な活動が行われ、お年寄りも子どもも楽しんでいる。(写真3)

多世代共生の「スタートアップスタイル」

「年を重ねると、あまり遠くには行けないので、益々家の近くの環境に依存するようになるのです。長年地域で経営している小規模の商店は、しばしば近所の交流を繋ぐ場所になります。それは、高齢者に外出や会話の機会が増え、コミュニティでのサポートが増えたことを意味しています」。ベルリンのフンボルト大学でコミュニティ研究をしている李香誼(リー・シャンイー)さんによると、ここ数年、各地でコミュニティ住宅の計画や建設が進められていて、高齢者と若者の共生が期待されている。「しかし、残念なことに、一階は殆どがPXマートのような店舗が入り、便利さや経済性が重視されていますが、それでは人情的な結びつきや生活の支援性に欠けています」と雅芬さんが指摘した。

高雄前鎮にある興仁中学は、広大なキャンパスが三つのエリアに分けられている。一つは少子化の影響で縮小された中学校の教室、一つは幼稚園、もう一つは幼稚園と同時に改築されて新たに設置されたデイサービスセンターだ。かつて高雄大同病院で地域サービス部門の主任を務めたことのある黄仲平(ホワン・ヅォンピン)さんは、二〇一九年に高雄市政府の強力な支持の下、少子化で余剰となった大同と建興小学校の一部の教室を、認知症や要介護高齢者のB拠点に変身させた。高雄市新興区の大同楽福学堂は、台湾全土の長期介護政策において初めての小学校デイサービスのモデルケースと言える。現在の興仁中学校は、進学よりも就業に重きを置いた学校で、学生が早くから高齢者の血圧を測ったり、木工作品を共有したりしている。高齢者と若者の双方の学びを通して交流しており、業者と学校側も試行錯誤を重ねている。

外観は学校のように見えるが、黄さんは教室間の壁を取り除いて、「古い」印象を全面的に覆した。彼は千人の高齢者とその家族にアンケートを行い、もう一つの家はどのようにあるべきかを調査したことがある。ノスタルジックにして、高齢者の若い頃の記憶を呼び起こす場所であるべきか、それとも、手の届かない夢の実現であるべきか。最も記憶に残っているのは、長年口を開かなかったお婆さんが、娘に連れられてカフェに来た時のことだ。お婆さんは娘のスカートの裾を引っ張りながらこっそり「いいね」とサインを送ったら、「それなら毎日来ない?」と娘が聞いた。「それはダメ……高いからね」とお婆さんが突然口を開いたのだ。それで、黄さんはその後、若々しい色彩とモダンさを組み合わせたデザインのテーブルと椅子を設計し、高齢者がデイケアセンターに来れば、自分は病人だから、もう無理だと思うことなく、全く新しい体験を喜んで受け入れてもらえるようにした。

黄さんは、旗津(チージン)地区でもっと広い、漁業組合の二階の四百坪のスペースを創作拠点として利用しているが、若者や団体に余ったスペースを無償で提供しており、自然と拠点が若返り、お年寄りは毎日異なる年齢層の人が出入りするのを見ることができる。彼は感慨深く語った。

「どの家庭にも高齢者がいるかもしれませんが、多くの家族は『認知症』が何かを理解していません。子供が何度もスズメが何かと聞いたら、忍耐強く教えるのに、自分の両親が認知症になって同じ質問を繰り返すと、スズメだよ、と怒り出してしまうのです」。

高雄市前鎮区の興仁中学校の一部の教室は、デイケアセンターに改装され、認知症高齢者たちは医療施設とは思えない「夢のような」環境の中で、音楽に合わせて楽しそうに踊っていた。

ここでは、スマートフィットネス機器は高齢者の毎日の身体状況に合わせて強度が調整され、個人用ICカードに保存される。

不老の幸福の行き先

台湾におけるコミュニティ共生はまだ初歩段階で、実験が順調に進むかどうかは担当者の姿勢にかかっている。興仁中学校付属幼稚園の園長先生は、とても親しみやすい人柄だ。ある日、十数人の子どもたちをお爺さんやお婆さんたちに会わせ、画面に合わせて大声で歌い踊る姿を見せた。子どもたちの無邪気さは、お年寄りの憂鬱や体の不快感を和らげ、笑顔になって手を振り、一部の要介護の人も嬉しくなって、その場で踊り出した。黄さんによると、一般の人が心配しているような「子供が高齢者にぶつかる」状況は、まだ見たことがないそうだ。大同楽福学堂を設立した年を振り返ると、大同病院が後ろ盾になってくれてはいたが、学校や保護者への説明会は一年八カ月にわたって、百六十回開催され、最終的には学校側が「公立学校」であることからやっと同意した。今では、多くの県や市政府が大同楽福学堂を頻繁に訪れ、模倣しようとしているが、彼は彼らに、学校側や保護者から必ず出る十の質問を伝えている。その中には、子どもと認知症の高齢者との間に衝突したり、怪我人が出るような事態に発展したりした場合はどうするのか、という問いがある。「これらは確かに問題だが、問題ではないのです」と黄さんは意図的に例を挙げた。誰もが権利が変わることによって、相対的に剥奪感を持つようになるが、予め想定された立場や問題は合意と努力によって回避できる。しかし、どのコミュニティでも、異なる人から成る組織ができ、外部の介護機関がどのように調和し、信頼感を得られるかが問われる。

外国籍介護者は、認知症や自立不能の高齢者の家族のようなものだ。台北市松山区にある築50年以上の歴史を持つ公営住宅では、至る所に高齢者の姿が見られるが、皆少なからずデイケアサービスを必要としている。

ボトムアップ形式の「創造性ある」共生

創新長期介護経営管理協会の事務局長である黄毓瑩(ホワン・ユーイン)さんは、二○○九至二○一七年までの長期介護利用者数の複合年増加率を観察したところ、コミュニティケアが31%で最も高く、次に在宅ケアが12%、施設ケアが2%と最も低いことが分かった。これは台湾特有の文化と家族観を反映しており、やはり自宅近くのコミュニティで余生を送るのが最も望ましいことを示している。現在、介護人員は五万人強で、サービス対象は約七十四万人である。二○二五年には超高齢社会に突入し、六十五歳以上の人口は五百万人に迫るが、政府は現行のトップダウン型の介護制度を推進するのが難しいと見ており、ニーズを満たすためには、地方産業化を望む声が益々高くなっている。二○一四年に「コミュニティ3・0」概念を提唱した日本の地方創生デザイナー、山崎亮氏は、「豊かな都市とはどういうものでしょうか。全員のポケットが満たされていることでしょうか」と訊いたことことがある。彼は、誰もが心の中に理想的な「豊かさ」を持っていると信じている。それは、安定した暮らしと職業、安心して長く暮らすという願いである。「住民の自発的な参加を促す」ことによって、人と人との繋がりを築いて、孤独死を防ぐことが、共生コミュニティのコアとなる概念である。

九十七歳の葉子(イェヅ)お婆さんは、子どもと同じくらい小柄で、風が吹くと倒れてしまうような細い体をしている。ソーシャルワーカーの陳微竹(チェン・ウェイヅゥ)さんは、昼寝をしたがらないお婆さんを支えながら、長い廊下を行ったり来たりしていた。お婆さんのつぶやきは私たちには理解できないが、その目は純真且つ無邪気で、子供のようだ。さて、どのようにすれば、これら「子供のようなお年寄り」をケアし、青春を捧げた彼女の人生を楽しく、平穏に全うさせ得るであろうか?

(経典雑誌三一〇期より)

關鍵字

東南アジア—強い台風11号 被災後のドキュメンタリー

八月三十日、台風十一号(ヤギ)は、フィリピンの東方海域で発生し、九月二日に軽度台風となってルソン島に上陸した。そのまま速いスピードで通過し、南シナ海に進みながら勢力を強め続け、中国、ベトナム、ラオスを通過した後、タイとミャンマーに豪雨をもたらした。全体で二千万人以上が被災し、二〇二四年にアジアで発生した台風のうち、最も勢力が強かったと言われている。

(撮影‧シンハラット‧チュンチョム)(場所·タイ北部ムアンチェンライ郡 メーヤオ郷コクリバー)

台風十一号(ヤギ)は九十度近い大きなカーブを描いて台湾を掠めたが、逆に東南アジア諸国が大変な事態に遭遇した。台風は、九月二日にフィリピン・ルソン島に上陸して、土砂災害や洪水被害を引き起こし、首都マニラから約二十五キロの距離にあるリサール州では、山崩れが起きた。毎年二十以上の台風がフィリピンを襲うため、ボランティアは既に、迅速に対応する災害支援マニュアルを確立している。今回は千百世帯余りに白米等の物資を配付し、被害が大きかったアンティポロ市の二つの地域で、家が損壊した世帯に建築材料の購入券を配付して、住民が店舗で引き換えに必要な建材を受け取り、住宅を修繕することができるようにした。

しかし、それは悲劇の幕開けに過ぎず、九月六日、台風十一号は中国・海南省に上陸した後、ベトナムに進んだ。勢力は徐々に弱まっていたが、残留していた雲がインドシナ半島を通過し、インド洋に入る過程で、雨水が豊富な雨季と重なってしまい、ミャンマーとタイでは多くの河川の水位が急上昇して洪水を引き起こし、山沿いで発生した土石流により農地が埋もれた。統計によると、台風十一号による東南アジアでの犠牲者は、七百人以上に上った。

ベトナム政府はこの台風を、近年の三十年間で最も勢力の強い台風であると認定した。慈済人は北部で被害の大きかった地域の一つであるラオカイ省およびイエンバイ省で被害調査を行った。被災者の多くは農民で、家屋がほぼ全壊に等しい被害を受けた人もいた。元々彼らは貧しい上に、災害リスクの高い地域に住んでいて、再建は難しかったので、政府の支援の下に、移住することになった。慈済人は十一月中旬に、二千六百世帯余りに見舞金を配付して、緊急時を乗り切れるよう支援した。

同様にタイ北部のチェンマイ県、チェンライ県でも、ここ八十年間で最も甚大な洪水被害に見舞われた。被災地の近くにあるチェンマイ慈済学校では、先生と生徒たちが自主的に被害調査や配付活動に参加し、清掃を手伝った。首都バンコクにある慈済タイ支部のボランティアは、そのすぐ後に遠隔地の町や村を訪れ、被害調査を行った。

ミャンマーの被害は、より広い範囲に及んだ。首都ネピドーやマンダレー、バゴー、そしてシャン州の低地が洪水で浸水し、その被害は全国六十四の町や郡に広がり、多くの道路と橋が損壊した。現地の慈済会員の協力の下、慈済人はネピドー・ノースダゴン郡の村落に入り、緊急支援として見舞金を配付すると同時に、「仕事を与えて支援に代える」活動を始めた。住民は外部との連絡道路の清掃から始め、続いて泥の中にあった家が本来の姿を取り戻していった。

東南アジアは、世界規模の気候変動に対して最も脆弱な地域の一つである。被災地の多くが農業国であるため、深刻な農業被害が起きると、食糧の安全のみならず、食糧価格の高騰が貧困や飢餓問題を助長するようになる。国内のインフラも深刻な損害を受け、救援活動にも多くの試練が待ち受ける。困難な復興への道は、慈済人の付き添いがあれば、共に困難を乗り切ることができる。

(慈済月刊六九七期より)

被害状況の概要
  • アジアでこの数十年稀に見る地すべりが起きた。
  • 多くの住宅が浸水や停電、或いは村落が水没し、 インフラが損壊した。
  • ミャンマー政府は、緊急事態を宣言し、珍しく国際社会に支援を呼びかけた。

慈済の支援

(2024年11月25日までの統計)

ベトナム

  • 北部のラオカイ省、イエンバイ省での災害視察。(9月25日~28日)
  • ラオカイ省ナムプンコミューン、サンマサオコミューン及びイエンバイ省チャウ・クエ・トゥオン・コミューン、チャウ・クエ・ハ・コミューンにて見舞金を2671世帯に配付。(11月15日~19日)

ベトナムは台風11号が通った終点となったが、この30年間で最大の洪水が発生した。ボランティアは首都ハノイから北部のラオカイ省へ行って訪問ケアを行い、2時間かけて山を上り、荒れた農耕地の中で被災世帯を探した。

ラオカイ省ナムプンコミューンの住民は農業が主体で、5つの村落の382世帯の約65%が貧困か、それに近い状態で、台風の後、3分の1の被災世帯が、政府の支援による移住を待っていた。ボランティアは災害視察と訪問ケアを行い、餅菓子を贈って縁を結び、更に11月には、各世帯の人数に合わせて7万2千〜12万円相当の見舞金を配付した。(撮影‧阮廷雄)

ボランティアは9月25日から28日まで災害視察で、ラオカイ省ナムプンコミューンに向かう途中、何度も土砂崩れが起きた場所に遭遇し、一部の道は車両が通行できず、下車して徒歩するか、バイクでの移動を余儀なくされた。台風通過後の山は脆く、住民の安全が懸念されている。(撮影‧阮廷雄)

タイ

  • チェンマイ慈済学校の先生は、チェンマイ県・ファーン郡、メーアーイ郡ドイレム村およびチェンライ県メーファールワン郡メーサロン村を慰問した。被災視察の後、見舞金を46世帯に配付し、29名の寄宿生がファーン郡政府による被災住宅の清掃活動に参加した。(9月12日~10月5日)
  • 慈済タイ支部はムアンチェンライ郡、メーサイ郡の一部地域で被害視察を行い、薬品500人分、子供用の薬250人分、清掃用具と日用品500セットを配付した。(9月18日~19日)
  • チェンマイ県の慈済ボランティアは、チェンマイ県の市内及びサーラピー郡で2585食の炊き出しを行い、毎日チェンマイ県の社会福祉局と協力して300食を提供した。(9月26日~30日、10月5日~8日)
  • 道路が通行可能になるのを待って、二回ムアンチェンライ郡、メーサイ郡、メーファールワン郡及びウィエンケン郡で被害視察を行った。(10月4日~7日)
  • メーサロン村、タートン川沿岸の村落、ドイレム村で、中長期支援のアセスメントを行った。(10月4日~7日)
  • 慈済タイ支部はムアンチェンライ郡、メーサイ郡で888世帯に見舞金を配付した。(10月29日~30日)
  • 慈済タイ支部は、チェンマイ県メーアーイ郡で66世帯に見舞金を配付した。ムアンチェンライ郡、メーサイ郡、メーファールワン郡では、見舞金とエコ毛布を1206世帯に配付した。(11月19日、11月25日)

今回は、この80年間に北部のチェンマイ県とチェンライ県で起きた最も深刻な水害である。遠隔地の被災者に支援が行き届かないことを心配して、ボランティアは泥の中を歩いて村まで行き、配付活動を行った。山奥で宅地を調査し、地盤の緩い土地で暮らす貧困世帯が、一日も早く安心して暮らせるよう願った。10月初め、チェンライ県メーサイ郡の住民は見舞金を受け取ると笑顔を見せた。(撮影‧蘇品緹)

ミャンマー

  • ネピドー・ダゴン郡で被害視察(9月28日)
  • 「仕事を与えて支援に代える」活動による現地の清掃で、20日間に延べ5546人の住民が参加し、198世帯に見舞金を配付した。(10月8日~27日)

田畑を失い、絶望的になっていた米農家の人々は、廃墟の中から道具を見つけ出し、協力して現地を清掃した。女性たちは調理チームと生活チームに参加し、まばゆい陽の下で村内の道を隈なく清掃していたコミュニティの住民に関心を寄せた。私たちは、「仕事を与えて支援に代える」活動が与えるパワーが、士気を高め、力を合わせて村の復旧に取り組む様子を目の当たりにした。(撮影‧Hein Pyae Sone)

ミャンマーでは、寺院が社会福祉機構のような役割を果たしている。現地のチャン・ミャエ・ミャイン禅修院のウー・ティハ・ニャル・ナ法師が、被災地へ案内してくれたことで、より甚大な被災状況を見た。10月下旬、「仕事を与えて支援に代える」活動による現地の清掃は第一段階が完了し、法師は村人と励まし合った。(撮影‧Hein Pyae Sone)

八月三十日、台風十一号(ヤギ)は、フィリピンの東方海域で発生し、九月二日に軽度台風となってルソン島に上陸した。そのまま速いスピードで通過し、南シナ海に進みながら勢力を強め続け、中国、ベトナム、ラオスを通過した後、タイとミャンマーに豪雨をもたらした。全体で二千万人以上が被災し、二〇二四年にアジアで発生した台風のうち、最も勢力が強かったと言われている。

(撮影‧シンハラット‧チュンチョム)(場所·タイ北部ムアンチェンライ郡 メーヤオ郷コクリバー)

台風十一号(ヤギ)は九十度近い大きなカーブを描いて台湾を掠めたが、逆に東南アジア諸国が大変な事態に遭遇した。台風は、九月二日にフィリピン・ルソン島に上陸して、土砂災害や洪水被害を引き起こし、首都マニラから約二十五キロの距離にあるリサール州では、山崩れが起きた。毎年二十以上の台風がフィリピンを襲うため、ボランティアは既に、迅速に対応する災害支援マニュアルを確立している。今回は千百世帯余りに白米等の物資を配付し、被害が大きかったアンティポロ市の二つの地域で、家が損壊した世帯に建築材料の購入券を配付して、住民が店舗で引き換えに必要な建材を受け取り、住宅を修繕することができるようにした。

しかし、それは悲劇の幕開けに過ぎず、九月六日、台風十一号は中国・海南省に上陸した後、ベトナムに進んだ。勢力は徐々に弱まっていたが、残留していた雲がインドシナ半島を通過し、インド洋に入る過程で、雨水が豊富な雨季と重なってしまい、ミャンマーとタイでは多くの河川の水位が急上昇して洪水を引き起こし、山沿いで発生した土石流により農地が埋もれた。統計によると、台風十一号による東南アジアでの犠牲者は、七百人以上に上った。

ベトナム政府はこの台風を、近年の三十年間で最も勢力の強い台風であると認定した。慈済人は北部で被害の大きかった地域の一つであるラオカイ省およびイエンバイ省で被害調査を行った。被災者の多くは農民で、家屋がほぼ全壊に等しい被害を受けた人もいた。元々彼らは貧しい上に、災害リスクの高い地域に住んでいて、再建は難しかったので、政府の支援の下に、移住することになった。慈済人は十一月中旬に、二千六百世帯余りに見舞金を配付して、緊急時を乗り切れるよう支援した。

同様にタイ北部のチェンマイ県、チェンライ県でも、ここ八十年間で最も甚大な洪水被害に見舞われた。被災地の近くにあるチェンマイ慈済学校では、先生と生徒たちが自主的に被害調査や配付活動に参加し、清掃を手伝った。首都バンコクにある慈済タイ支部のボランティアは、そのすぐ後に遠隔地の町や村を訪れ、被害調査を行った。

ミャンマーの被害は、より広い範囲に及んだ。首都ネピドーやマンダレー、バゴー、そしてシャン州の低地が洪水で浸水し、その被害は全国六十四の町や郡に広がり、多くの道路と橋が損壊した。現地の慈済会員の協力の下、慈済人はネピドー・ノースダゴン郡の村落に入り、緊急支援として見舞金を配付すると同時に、「仕事を与えて支援に代える」活動を始めた。住民は外部との連絡道路の清掃から始め、続いて泥の中にあった家が本来の姿を取り戻していった。

東南アジアは、世界規模の気候変動に対して最も脆弱な地域の一つである。被災地の多くが農業国であるため、深刻な農業被害が起きると、食糧の安全のみならず、食糧価格の高騰が貧困や飢餓問題を助長するようになる。国内のインフラも深刻な損害を受け、救援活動にも多くの試練が待ち受ける。困難な復興への道は、慈済人の付き添いがあれば、共に困難を乗り切ることができる。

(慈済月刊六九七期より)

被害状況の概要
  • アジアでこの数十年稀に見る地すべりが起きた。
  • 多くの住宅が浸水や停電、或いは村落が水没し、 インフラが損壊した。
  • ミャンマー政府は、緊急事態を宣言し、珍しく国際社会に支援を呼びかけた。

慈済の支援

(2024年11月25日までの統計)

ベトナム

  • 北部のラオカイ省、イエンバイ省での災害視察。(9月25日~28日)
  • ラオカイ省ナムプンコミューン、サンマサオコミューン及びイエンバイ省チャウ・クエ・トゥオン・コミューン、チャウ・クエ・ハ・コミューンにて見舞金を2671世帯に配付。(11月15日~19日)

ベトナムは台風11号が通った終点となったが、この30年間で最大の洪水が発生した。ボランティアは首都ハノイから北部のラオカイ省へ行って訪問ケアを行い、2時間かけて山を上り、荒れた農耕地の中で被災世帯を探した。

ラオカイ省ナムプンコミューンの住民は農業が主体で、5つの村落の382世帯の約65%が貧困か、それに近い状態で、台風の後、3分の1の被災世帯が、政府の支援による移住を待っていた。ボランティアは災害視察と訪問ケアを行い、餅菓子を贈って縁を結び、更に11月には、各世帯の人数に合わせて7万2千〜12万円相当の見舞金を配付した。(撮影‧阮廷雄)

ボランティアは9月25日から28日まで災害視察で、ラオカイ省ナムプンコミューンに向かう途中、何度も土砂崩れが起きた場所に遭遇し、一部の道は車両が通行できず、下車して徒歩するか、バイクでの移動を余儀なくされた。台風通過後の山は脆く、住民の安全が懸念されている。(撮影‧阮廷雄)

タイ

  • チェンマイ慈済学校の先生は、チェンマイ県・ファーン郡、メーアーイ郡ドイレム村およびチェンライ県メーファールワン郡メーサロン村を慰問した。被災視察の後、見舞金を46世帯に配付し、29名の寄宿生がファーン郡政府による被災住宅の清掃活動に参加した。(9月12日~10月5日)
  • 慈済タイ支部はムアンチェンライ郡、メーサイ郡の一部地域で被害視察を行い、薬品500人分、子供用の薬250人分、清掃用具と日用品500セットを配付した。(9月18日~19日)
  • チェンマイ県の慈済ボランティアは、チェンマイ県の市内及びサーラピー郡で2585食の炊き出しを行い、毎日チェンマイ県の社会福祉局と協力して300食を提供した。(9月26日~30日、10月5日~8日)
  • 道路が通行可能になるのを待って、二回ムアンチェンライ郡、メーサイ郡、メーファールワン郡及びウィエンケン郡で被害視察を行った。(10月4日~7日)
  • メーサロン村、タートン川沿岸の村落、ドイレム村で、中長期支援のアセスメントを行った。(10月4日~7日)
  • 慈済タイ支部はムアンチェンライ郡、メーサイ郡で888世帯に見舞金を配付した。(10月29日~30日)
  • 慈済タイ支部は、チェンマイ県メーアーイ郡で66世帯に見舞金を配付した。ムアンチェンライ郡、メーサイ郡、メーファールワン郡では、見舞金とエコ毛布を1206世帯に配付した。(11月19日、11月25日)

今回は、この80年間に北部のチェンマイ県とチェンライ県で起きた最も深刻な水害である。遠隔地の被災者に支援が行き届かないことを心配して、ボランティアは泥の中を歩いて村まで行き、配付活動を行った。山奥で宅地を調査し、地盤の緩い土地で暮らす貧困世帯が、一日も早く安心して暮らせるよう願った。10月初め、チェンライ県メーサイ郡の住民は見舞金を受け取ると笑顔を見せた。(撮影‧蘇品緹)

ミャンマー

  • ネピドー・ダゴン郡で被害視察(9月28日)
  • 「仕事を与えて支援に代える」活動による現地の清掃で、20日間に延べ5546人の住民が参加し、198世帯に見舞金を配付した。(10月8日~27日)

田畑を失い、絶望的になっていた米農家の人々は、廃墟の中から道具を見つけ出し、協力して現地を清掃した。女性たちは調理チームと生活チームに参加し、まばゆい陽の下で村内の道を隈なく清掃していたコミュニティの住民に関心を寄せた。私たちは、「仕事を与えて支援に代える」活動が与えるパワーが、士気を高め、力を合わせて村の復旧に取り組む様子を目の当たりにした。(撮影‧Hein Pyae Sone)

ミャンマーでは、寺院が社会福祉機構のような役割を果たしている。現地のチャン・ミャエ・ミャイン禅修院のウー・ティハ・ニャル・ナ法師が、被災地へ案内してくれたことで、より甚大な被災状況を見た。10月下旬、「仕事を与えて支援に代える」活動による現地の清掃は第一段階が完了し、法師は村人と励まし合った。(撮影‧Hein Pyae Sone)

關鍵字

世に幸福をもたらす

敬虔な心を持てば、
天と地の気が応じて穏やかになり、
心に愛を培えば、
衆生の業力も好転していくのです。

天を敬い、地を愛し、
福を惜しんで物を愛し、命を護り、
衆生の恩を忘れず、
心を一つにして世に幸福をもたらしましょう。

敬虔な心を持てば、天と地の気が応じて穏やかになり、心に愛を培えば、衆生の業力も好転していくのです。

天を敬い、地を愛し、福を惜しんで物を愛し、命を護り、衆生の恩を忘れず、心を一つにして世に幸福をもたらしましょう。

敬虔な心を持てば、
天と地の気が応じて穏やかになり、
心に愛を培えば、
衆生の業力も好転していくのです。

天を敬い、地を愛し、
福を惜しんで物を愛し、命を護り、
衆生の恩を忘れず、
心を一つにして世に幸福をもたらしましょう。

敬虔な心を持てば、天と地の気が応じて穏やかになり、心に愛を培えば、衆生の業力も好転していくのです。

天を敬い、地を愛し、福を惜しんで物を愛し、命を護り、衆生の恩を忘れず、心を一つにして世に幸福をもたらしましょう。

關鍵字

住み続けられる街づくりを—災害を防ぎ、備え、被災しないようにする

2023年台風6号(カーヌン)で南投山間部の村々が孤立し、慈済基金会は南投県政府、カルフールと協力して1・7トンの生活物資を緊急手配し、空輸した。(撮影・林政男)

極端な気候は益々酷くなり、安全な暮らしと生存基盤を脅かしている。国連は、持続可能な開発目標(SDGs)の目標十一「住み続けられるまちづくりを」で国境を越えた協力を提唱し、安全なまちづくりを呼びかけている。

慈済は災害予防と救援能力を向上させるだけでなく、各界の有識者に協力を呼びかけ、地域を守る力を強化している。

今回の地震でたくさんの家が倒れました。私の家も壊れてしまい、どうしたらいいか分かりません」。白髪混じりのお年寄りが「安心ケアエリア」にやって来て、被災後の苦境を語った。慈済のケア担当ボランティアは、先ず彼の感情を発散させ、その後に「ご家族は無事でしたか?」と優しく尋ねた。

「みんな無事です!でも家が壊れて住むところがありません」。お年寄りが答えると、スタッフは直ぐ彼をなだめ、避難所への受け入れ手続きを手伝った。「今、皆さんの避難先を調整しています。カウンセラーと相談したい方は、面談室にお越しください」と声をかけた。

今年十月、新北市板橋区役所と慈済慈善事業基金会は共同で、「災害協力センター避難所開設訓練」を実施した。板橋区でマグニチュード六・六の強い地震が発生し、二千三百棟以上の家屋が全壊または半壊になり、六万人以上が仮住まいする必要に迫られた、という想定だ。大漢渓や浮洲橋の近くにある慈済板橋志業パークが、緊急時の避難者受け入れ任務を担った。

「なぜ慈済に依頼するのか。それは被災者支援の経験が豊富で、収容スペースが十分にあり、支援の方向も多方面である上、動員力が高いからです」。訓練を開始する際に、協力機関である国立台湾大学気候天気災害研究センターの林永峻(リン・ヨンジュン)副研究員が簡潔に説明した。

会場では、被災者受け入れのシミュレーションが行われ、慈済と板橋区役所及びその他の協力機関が、迅速に二十七種類のサービス拠点や生活施設を開設した。これには、対応センター(指揮センター)、合同サービスセンター、臨時派出所、住民受付登録エリアなどが含まれていた。最も重要な避難所の生活エリアは、単身男性用、単身女性用、家族用、特別ケア用のエリアに細分され、慈済ボランティアがジンスー福慧エコ間仕切りと折畳み式福慧ベッドを設置し、基本的なニーズを満たしながらプライバシーを確保した。これら全ては、今年四月三日の花蓮地震時に大量に活用されたもので、国際的にも高評価を得た救援物資である。

訓練終了後、新北市政府の柯慶忠(コー・チンヅォン)副秘書長がこう評価して言った。

「本日の訓練は、実際の運用そのものでした。新北市が第一級レベルの災害対応センターを開設した際にも、慈済はここで同時に対応してくれて、その対応能力の高さが際立っていました」。

今回は、二○二○年六月に慈済と新北市政府が「共善提携」協定を締結した後、合同で実施した四回目の避難所開設訓練である。正式な訓練はわずか二時間だったが、事前の現地調査、準備、チーム編成訓練、リハーサルといった作業により、慈済、市政府、区役所及び関連協力機関が三カ月にわたり調整してきた。こうした繰り返しの取り組みによって培われたチームワークと熟練度が、お互いの大規模災害への対応能力を高めている。

慈済と板橋区役所が合同で避難所開設訓練を実施した際に、林永峻氏が新北市政府や各参加団体に説明を行った。(撮影・蕭耀華)

公私連携で寒夜に温もりを

今年、台湾は○四○三花蓮地震に加え、台風三号(ケーミー)、十八号(クラトーン)、二十一号(コンレイ)、二十五号(ウサギ)という四つの台風の襲来に見舞われた。気候災害が頻発し、規模が大きくなっていることを鑑み、慈済の緊急支援モデルは、災害後の救援から災害発生前の準備へと発展した。慈済基金会の慈善事業発展処主任の呂芳川(リゥ・フォンツアン)氏は、「以前はどこかで困難が生じれば、慈済が助けに行くというものでしたが、現在は事前に予防し、防災教育と宣伝、防災倉庫の管理、高リスク地域で災害に遭遇しないこと等の準備に力を入れています」と述べた。

避難所では食事や宿泊スペースを提供するだけでなく、心理的なケアも行う。慈済は県市政府と避難所の開設訓練を行い、宗教的寄り添いのコーナーでは、ボランティアとソーシャルワーカーがケアを提供している。写真内の名札は「宗教寄り添いコーナー (仏教)」。(撮影・蕭耀華)

慈済は2022年「国家防災日」の訓練に参加し、花蓮県立体育館に避難所を設置した。この経験は今年の0403花蓮地震で活かされた。(写真1・総統府提供)

救援物資である福慧間仕切りや福慧ベッドは、避難所での市民のプライバシーを守る。(写真2・蕭耀華撮影)

慈済は、慈善救済や環境保護、災害防災能力を高めるため、台湾全土の各県・市政府及び中央レベルの環境部、消防署などの関連機関と「共善提携」協定を締結している。官民が協力して推進するこの取り組みに、多くの企業も参加し、慈済と契約を結んで、共に善い行いで人助けすることを約束している。

呂氏は、多くの政府機関が正式な契約締結前から、慈済が提供する支援を高く評価していたと述べた。

「以前は協力する際に関連部署に照会し、いくつもの手続きや承認を経る必要がありました。しかし、今は協定があるおかげで、迅速に窓口と連絡が取れ、お互いの協力を加速することができます」。

屏東県政府社会処社会救助科科長の張佳樺(ヅァン・ジァフヮ)さんは、協力協定の恩恵を深く感じている。二〇二三年九月二十二日午後、屏東市のある下請け工場で大規模な火災が発生し、十人の命が奪われ、百人以上が負傷した。その時、張さんは災害対応センターにて救助課の役職に就いていたが、深夜十一時ごろ、急遽現場でテントが必要だという指示を受けた。

深夜だったので、業者に人力と出荷を依頼することができず、困り果てた張さんは、断られることを覚悟して屏東慈済のソーシャルワーカーに電話をした。すると、驚いたことに、すぐボランティアに連絡が付いて、テントの準備と組み立て人員の招集をしてくれることになったのだ。遺体が次々と運び出される中、宗教的な寄り添いが必要な場面もあったが、それを言い出すのは難しい状況だった。

「深夜一時か二時頃に助念を依頼したのですが、本当に差し迫った状態でした」。張さんは、不安と心苦しさが入り混じった思いを抱きながら、再び慈済の関係者に連絡を取った。ソーシャルワーカーは、「深夜なので人数は多くありませんが…」と申し訳なさそうに答えた。そして、数人の男性ボランティアが暗闇の中、葬儀場に向かい、亡くなった方への助念を行って、家族を支えたのだった。

火災現場は混乱を極め、最後の犠牲者が発見されたのは九月三十日になってからだった。その間、家族は毎日捜索現場で不安と悲しみを抱えながら待ち続けていたが、慈済ボランティアは終始寄り添い続けた。張さんは、その卓越した超水準の寄り添いにとても心を打たれ、その感動を語った。

「家族が最も心細く、支えを必要としていた時に、慈済の女性ボランティアが優しく手を握り、肩に手を添えて寄り添ってくれたのです。どれほど温かく感じ、拠り所となったかわかりません」。

火災後の片付けにおいても、張さんはボランティアが苦労を厭わず、細やかな配慮をしている姿を目の当たりにした。その支援が円滑に行われたのは、ボランティアの熱意が持続したからだけでなく、「共善提携」協定の力が大きかったと述べた。政府機関と協定を結んだ団体との連携があれば、書類のやり取りや調整にかかる時間を大幅に削減できるのだ。

「正式な契約を結ぶことは、公の場を通して、屏東県政府と慈済がこのような協力関係にあることを社会に知らせることになります」。張さんは、「屏東県政府と社会局には、慈済のような素晴らしいパートナーがいて本当に幸運です。災害時には、非常に力強い後押しがいるのです」と述べた。

災害への備えは災害状況を想定した準備であり、協力機関は訓練の際に避難所での異なる年齢層のニーズに合わせてシミュレーションを行うようにしている。(撮影・蕭耀華)

業界を超えた提携で社会資源を活用

国連の持続可能な開発(SDGs)の目標十一「住み続けられるまちづくりを」では、包摂的で安全性を備えた、しなやかで持続可能な都市や地域の構築を掲げている。特に二〇三〇年までに、災害による死者や被災者の大幅削減が目標として含まれている。民間企業との協力による「共善提携」は、社会資源をより効果的に活用し、地域の防災と緊急援助への対応を可能にする。

二〇二四年六月二十一日には、北廻線の花蓮崇徳駅と和仁駅の区間で土砂崩れが発生し、新自強号列車が脱線した。この事故で九人が負傷し、五百人余りの乗客が列車を降りての避難を余儀なくされた。事故後、台湾鉄道は慈済に支援を要請し、乗客に食料と水の提供を依頼した。

突然の出来事で、乗客たちはシャトルバスに乗り換えることになったため、物資は一時間以内に届ける必要があった。静思精舎の師父たちは、急いで菜食チマキを蒸し、花蓮の慈済ボランティアが新城郷のカルフールで商品を調達した。

新城郷カルフール店長の林廷生(リン・ティンスン)さんは、慈済との緊急物資供給の連携について簡単に説明した。「慈済とカルフールの間には連絡用のグループチャットがあり、必要な時に、ボランティアがグループに情報を発信します。我々は即座に人員を動員して、物資の品目と数量を確認します」。

売り場のスタッフがパンやペットボトル入りの水を探し出して整理し終わると、ボランティアの貨物車も到着した。協力協定に基づき、緊急時には物資の輸送を最優先し、請求書の発行などは事後に対応することになっている。この協力関係がなければ、ボランティアは売り場で物資を探し、レジで順番を待つ必要があり、かなりの時間がかかってしまう。

「協力協定があるおかげで、私たちは店舗全体の力を動員して物資を準備することができ、効率面で大きな違いが生まれます」と林さんが補足した。本社が慈済と協力を始めて以来、防災や備えにおいて両者の間に、様々な暗黙の了解ができている。例えば、台風が接近する前に、店舗側があらかじめペットボトルの水やインスタント食品などの物資を多めに用意しておくことは、住民の台風対策の需要に応えるだけでなく、災害時の緊急対応の準備にもなるのだ。

一般の民間企業との間で緊急災害支援の協力体制を構築することに加え、長年にわたり慈済を支援してきた実業家ボランティアたちも、近年では自らの企業を率いて慈済基金会と正式に協力協定を締結している。例えば、二〇二四年一月に中美医薬グループの董事長である林命権(リン・ミンチュエン)氏が、台中静思堂で慈済基金会執行長の顔博文(イェン・ボーウェン)氏と「企業共善」協力協定にサインした。

かつて「快楽児童精進班」に参加し、慈済の寄り添いの下で成長した長男が、自分の人生を通じて支えてきた団体と協約を結ぶ様子を見て、林氏の母であり、同グループ総裁でもある李阿利(リー・アリ)氏は深い感慨を抱いた。慈済のベテランボランティアである彼女は、「法人同士の契約であり、個人間の私的な関係ではありません。例えば、私がいくら寄付するかは個人の問題です。しかし、本日会社が企業として契約したのは、社員全員が善行を行うことを望んでいるからです」と述べた。

家族が製薬業界に従事し、「良薬をもって世を救う」という家訓を掲げている李阿利さんと、夫の林本源(リン・ベンユェン)さんは、三十年以上前に慈済に出会い、積極的に護持して来た。一九九九年、台湾とトルコでそれぞれ大地震が発生した際、林夫妻は台湾九二一震災の救援に寄付しただけでなく、慈済の呼びかけに応じて社員を動員し、医薬品をパックしてトルコに送った。その後も、インド洋大津波など、いくつかの国際的な大災害に際して、医薬品を提供して慈済の救済活動を支援して来た。

二〇二四年十月、李さんと長男の林命権さんは再び「医薬パック作り」を呼びかけ、社員を率いて慈済のボランティアと共に、千三百六十二個の携帯式保健パックを作った。「今回の医薬パックは、海外支援活動に赴く慈済ボランティアが持参するもので、かぜ薬や痛み止め、胃腸薬、絆創膏などが入っています。もし、被災地で蚊に刺された時や、湿疹が出たりした時に使用できる常備薬も揃えています」と李さんが説明した。

愛と善を出発点に、環境保護、防災・救災、弱者支援といった分野で専門性を活かして貢献することができるのだ。「企業の規模は関係ありません。例えば小さな飲食店や書店、どのような業種でも、持続的に取り組み、専門性を活かして善行すると発心して行動すればよいのです」と李さんが励ました。

台風時には小型ボートで温かい食事を届けた。大きな事故や自然災害では、防災や災害時のケア能力を高める重要性が浮き彫りになる。(撮影・莊煌明)

特急「タロコ号」脱線事故では、家族の悲しみに寄り添った。(撮影・林素月)

持続可能な発展は防災の必修科目に

個人の寄付から、NGOや企業、政府間の連携と協力に至るまで、「協力提携」の締結がもたらす影響力は加速度的に拡大している。特に現代の国際社会では持続可能な発展が重視され、企業や組織に対して環境(Environment)、社会的責任(Social)、企業統治(Governance)の面での要求と監視がますます厳しくなっている。頭文字を合わせてESGと言われるこれら三つの観点を着実に実践し、環境への負荷を減らし、人類の持続可能な発展に貢献することは、もはや選択可能な加点項目ではなく、達成しなければならない、厳格な「必修科目」なのである。政府、企業、NGOが連携して資源を共有し、災害に対応し、人類と地球を守ることは、大きな潮流となっているのだ。

防災は救災に勝る。それは、多様なパートナーと共善を行い、それぞれが持つ資源を統合して活用することで、災害の影響をより軽減できるのである。また、地域社会において防災の意識を住民に浸透させることが必要だ。災害が発生しても迅速に復旧できるようにすることで、居住する都市や農村がより安全で強靭、そして持続可能なものとなるのだ。

(慈済月刊六九七期より)

防災士が防災の善知識になる

文/葉子豪(月刊誌『慈済』執筆者)
撮影/蕭耀華(同カメラマン)
訳/葉美娥

防災士には、住まいの安全、コミュニティの防災、災害への対応、避難生活に関する様々な知識が必要。慈済ボランティアは、防災士養成研修講座を受講して、心肺蘇生法や包帯の巻き方などの応急処置といった基本的な救急救命技能を習得する。

気候変動により、極端な災害が常態化する傾向にあることを鑑み、内政部は民衆とコミュニティによる自主的な防災能力を強化できるよう、二〇一八年より、日本で実施されている「防災士制度」を台湾に導入した。また同年八月、南投県消防訓練センターで、台湾で初めてとなる防災士養成研修講座が開講した。

そして、長年にわたる緊急援助と国際的災害復旧復興支援の経験を持つ慈済基金会も、積極的に「防災士養成機関」になることを目指した結果、二〇二〇年に政府の認可を受け、公的部門と共同で防災士養成研修講座を開設することが可能となった。

(慈済月刊六九七期より) 

防災士とは?

  • 防災の基礎知識と技術を兼ね備えたボランティアのこと。15時間の研修コースを修了し、救急救命実習と学科試験に合格すると、内政部から認証状が発行される。
  • 平時には自ら家庭やコミュニティ、職場で防災活動を広めることができ、災害時には、公的救援が到着するまで、被災地での初期消火、避難誘導、被災状況の通報などの応急作業を行うことができる。
  • 慈済が他の公的部門や民間組織と協力して養成した防災士(慈済ボランティアと一般の民衆を含む):11,050人。

(2024年10月現在)

2023年台風6号(カーヌン)で南投山間部の村々が孤立し、慈済基金会は南投県政府、カルフールと協力して1・7トンの生活物資を緊急手配し、空輸した。(撮影・林政男)

極端な気候は益々酷くなり、安全な暮らしと生存基盤を脅かしている。国連は、持続可能な開発目標(SDGs)の目標十一「住み続けられるまちづくりを」で国境を越えた協力を提唱し、安全なまちづくりを呼びかけている。

慈済は災害予防と救援能力を向上させるだけでなく、各界の有識者に協力を呼びかけ、地域を守る力を強化している。

今回の地震でたくさんの家が倒れました。私の家も壊れてしまい、どうしたらいいか分かりません」。白髪混じりのお年寄りが「安心ケアエリア」にやって来て、被災後の苦境を語った。慈済のケア担当ボランティアは、先ず彼の感情を発散させ、その後に「ご家族は無事でしたか?」と優しく尋ねた。

「みんな無事です!でも家が壊れて住むところがありません」。お年寄りが答えると、スタッフは直ぐ彼をなだめ、避難所への受け入れ手続きを手伝った。「今、皆さんの避難先を調整しています。カウンセラーと相談したい方は、面談室にお越しください」と声をかけた。

今年十月、新北市板橋区役所と慈済慈善事業基金会は共同で、「災害協力センター避難所開設訓練」を実施した。板橋区でマグニチュード六・六の強い地震が発生し、二千三百棟以上の家屋が全壊または半壊になり、六万人以上が仮住まいする必要に迫られた、という想定だ。大漢渓や浮洲橋の近くにある慈済板橋志業パークが、緊急時の避難者受け入れ任務を担った。

「なぜ慈済に依頼するのか。それは被災者支援の経験が豊富で、収容スペースが十分にあり、支援の方向も多方面である上、動員力が高いからです」。訓練を開始する際に、協力機関である国立台湾大学気候天気災害研究センターの林永峻(リン・ヨンジュン)副研究員が簡潔に説明した。

会場では、被災者受け入れのシミュレーションが行われ、慈済と板橋区役所及びその他の協力機関が、迅速に二十七種類のサービス拠点や生活施設を開設した。これには、対応センター(指揮センター)、合同サービスセンター、臨時派出所、住民受付登録エリアなどが含まれていた。最も重要な避難所の生活エリアは、単身男性用、単身女性用、家族用、特別ケア用のエリアに細分され、慈済ボランティアがジンスー福慧エコ間仕切りと折畳み式福慧ベッドを設置し、基本的なニーズを満たしながらプライバシーを確保した。これら全ては、今年四月三日の花蓮地震時に大量に活用されたもので、国際的にも高評価を得た救援物資である。

訓練終了後、新北市政府の柯慶忠(コー・チンヅォン)副秘書長がこう評価して言った。

「本日の訓練は、実際の運用そのものでした。新北市が第一級レベルの災害対応センターを開設した際にも、慈済はここで同時に対応してくれて、その対応能力の高さが際立っていました」。

今回は、二○二○年六月に慈済と新北市政府が「共善提携」協定を締結した後、合同で実施した四回目の避難所開設訓練である。正式な訓練はわずか二時間だったが、事前の現地調査、準備、チーム編成訓練、リハーサルといった作業により、慈済、市政府、区役所及び関連協力機関が三カ月にわたり調整してきた。こうした繰り返しの取り組みによって培われたチームワークと熟練度が、お互いの大規模災害への対応能力を高めている。

慈済と板橋区役所が合同で避難所開設訓練を実施した際に、林永峻氏が新北市政府や各参加団体に説明を行った。(撮影・蕭耀華)

公私連携で寒夜に温もりを

今年、台湾は○四○三花蓮地震に加え、台風三号(ケーミー)、十八号(クラトーン)、二十一号(コンレイ)、二十五号(ウサギ)という四つの台風の襲来に見舞われた。気候災害が頻発し、規模が大きくなっていることを鑑み、慈済の緊急支援モデルは、災害後の救援から災害発生前の準備へと発展した。慈済基金会の慈善事業発展処主任の呂芳川(リゥ・フォンツアン)氏は、「以前はどこかで困難が生じれば、慈済が助けに行くというものでしたが、現在は事前に予防し、防災教育と宣伝、防災倉庫の管理、高リスク地域で災害に遭遇しないこと等の準備に力を入れています」と述べた。

避難所では食事や宿泊スペースを提供するだけでなく、心理的なケアも行う。慈済は県市政府と避難所の開設訓練を行い、宗教的寄り添いのコーナーでは、ボランティアとソーシャルワーカーがケアを提供している。写真内の名札は「宗教寄り添いコーナー (仏教)」。(撮影・蕭耀華)

慈済は2022年「国家防災日」の訓練に参加し、花蓮県立体育館に避難所を設置した。この経験は今年の0403花蓮地震で活かされた。(写真1・総統府提供)

救援物資である福慧間仕切りや福慧ベッドは、避難所での市民のプライバシーを守る。(写真2・蕭耀華撮影)

慈済は、慈善救済や環境保護、災害防災能力を高めるため、台湾全土の各県・市政府及び中央レベルの環境部、消防署などの関連機関と「共善提携」協定を締結している。官民が協力して推進するこの取り組みに、多くの企業も参加し、慈済と契約を結んで、共に善い行いで人助けすることを約束している。

呂氏は、多くの政府機関が正式な契約締結前から、慈済が提供する支援を高く評価していたと述べた。

「以前は協力する際に関連部署に照会し、いくつもの手続きや承認を経る必要がありました。しかし、今は協定があるおかげで、迅速に窓口と連絡が取れ、お互いの協力を加速することができます」。

屏東県政府社会処社会救助科科長の張佳樺(ヅァン・ジァフヮ)さんは、協力協定の恩恵を深く感じている。二〇二三年九月二十二日午後、屏東市のある下請け工場で大規模な火災が発生し、十人の命が奪われ、百人以上が負傷した。その時、張さんは災害対応センターにて救助課の役職に就いていたが、深夜十一時ごろ、急遽現場でテントが必要だという指示を受けた。

深夜だったので、業者に人力と出荷を依頼することができず、困り果てた張さんは、断られることを覚悟して屏東慈済のソーシャルワーカーに電話をした。すると、驚いたことに、すぐボランティアに連絡が付いて、テントの準備と組み立て人員の招集をしてくれることになったのだ。遺体が次々と運び出される中、宗教的な寄り添いが必要な場面もあったが、それを言い出すのは難しい状況だった。

「深夜一時か二時頃に助念を依頼したのですが、本当に差し迫った状態でした」。張さんは、不安と心苦しさが入り混じった思いを抱きながら、再び慈済の関係者に連絡を取った。ソーシャルワーカーは、「深夜なので人数は多くありませんが…」と申し訳なさそうに答えた。そして、数人の男性ボランティアが暗闇の中、葬儀場に向かい、亡くなった方への助念を行って、家族を支えたのだった。

火災現場は混乱を極め、最後の犠牲者が発見されたのは九月三十日になってからだった。その間、家族は毎日捜索現場で不安と悲しみを抱えながら待ち続けていたが、慈済ボランティアは終始寄り添い続けた。張さんは、その卓越した超水準の寄り添いにとても心を打たれ、その感動を語った。

「家族が最も心細く、支えを必要としていた時に、慈済の女性ボランティアが優しく手を握り、肩に手を添えて寄り添ってくれたのです。どれほど温かく感じ、拠り所となったかわかりません」。

火災後の片付けにおいても、張さんはボランティアが苦労を厭わず、細やかな配慮をしている姿を目の当たりにした。その支援が円滑に行われたのは、ボランティアの熱意が持続したからだけでなく、「共善提携」協定の力が大きかったと述べた。政府機関と協定を結んだ団体との連携があれば、書類のやり取りや調整にかかる時間を大幅に削減できるのだ。

「正式な契約を結ぶことは、公の場を通して、屏東県政府と慈済がこのような協力関係にあることを社会に知らせることになります」。張さんは、「屏東県政府と社会局には、慈済のような素晴らしいパートナーがいて本当に幸運です。災害時には、非常に力強い後押しがいるのです」と述べた。

災害への備えは災害状況を想定した準備であり、協力機関は訓練の際に避難所での異なる年齢層のニーズに合わせてシミュレーションを行うようにしている。(撮影・蕭耀華)

業界を超えた提携で社会資源を活用

国連の持続可能な開発(SDGs)の目標十一「住み続けられるまちづくりを」では、包摂的で安全性を備えた、しなやかで持続可能な都市や地域の構築を掲げている。特に二〇三〇年までに、災害による死者や被災者の大幅削減が目標として含まれている。民間企業との協力による「共善提携」は、社会資源をより効果的に活用し、地域の防災と緊急援助への対応を可能にする。

二〇二四年六月二十一日には、北廻線の花蓮崇徳駅と和仁駅の区間で土砂崩れが発生し、新自強号列車が脱線した。この事故で九人が負傷し、五百人余りの乗客が列車を降りての避難を余儀なくされた。事故後、台湾鉄道は慈済に支援を要請し、乗客に食料と水の提供を依頼した。

突然の出来事で、乗客たちはシャトルバスに乗り換えることになったため、物資は一時間以内に届ける必要があった。静思精舎の師父たちは、急いで菜食チマキを蒸し、花蓮の慈済ボランティアが新城郷のカルフールで商品を調達した。

新城郷カルフール店長の林廷生(リン・ティンスン)さんは、慈済との緊急物資供給の連携について簡単に説明した。「慈済とカルフールの間には連絡用のグループチャットがあり、必要な時に、ボランティアがグループに情報を発信します。我々は即座に人員を動員して、物資の品目と数量を確認します」。

売り場のスタッフがパンやペットボトル入りの水を探し出して整理し終わると、ボランティアの貨物車も到着した。協力協定に基づき、緊急時には物資の輸送を最優先し、請求書の発行などは事後に対応することになっている。この協力関係がなければ、ボランティアは売り場で物資を探し、レジで順番を待つ必要があり、かなりの時間がかかってしまう。

「協力協定があるおかげで、私たちは店舗全体の力を動員して物資を準備することができ、効率面で大きな違いが生まれます」と林さんが補足した。本社が慈済と協力を始めて以来、防災や備えにおいて両者の間に、様々な暗黙の了解ができている。例えば、台風が接近する前に、店舗側があらかじめペットボトルの水やインスタント食品などの物資を多めに用意しておくことは、住民の台風対策の需要に応えるだけでなく、災害時の緊急対応の準備にもなるのだ。

一般の民間企業との間で緊急災害支援の協力体制を構築することに加え、長年にわたり慈済を支援してきた実業家ボランティアたちも、近年では自らの企業を率いて慈済基金会と正式に協力協定を締結している。例えば、二〇二四年一月に中美医薬グループの董事長である林命権(リン・ミンチュエン)氏が、台中静思堂で慈済基金会執行長の顔博文(イェン・ボーウェン)氏と「企業共善」協力協定にサインした。

かつて「快楽児童精進班」に参加し、慈済の寄り添いの下で成長した長男が、自分の人生を通じて支えてきた団体と協約を結ぶ様子を見て、林氏の母であり、同グループ総裁でもある李阿利(リー・アリ)氏は深い感慨を抱いた。慈済のベテランボランティアである彼女は、「法人同士の契約であり、個人間の私的な関係ではありません。例えば、私がいくら寄付するかは個人の問題です。しかし、本日会社が企業として契約したのは、社員全員が善行を行うことを望んでいるからです」と述べた。

家族が製薬業界に従事し、「良薬をもって世を救う」という家訓を掲げている李阿利さんと、夫の林本源(リン・ベンユェン)さんは、三十年以上前に慈済に出会い、積極的に護持して来た。一九九九年、台湾とトルコでそれぞれ大地震が発生した際、林夫妻は台湾九二一震災の救援に寄付しただけでなく、慈済の呼びかけに応じて社員を動員し、医薬品をパックしてトルコに送った。その後も、インド洋大津波など、いくつかの国際的な大災害に際して、医薬品を提供して慈済の救済活動を支援して来た。

二〇二四年十月、李さんと長男の林命権さんは再び「医薬パック作り」を呼びかけ、社員を率いて慈済のボランティアと共に、千三百六十二個の携帯式保健パックを作った。「今回の医薬パックは、海外支援活動に赴く慈済ボランティアが持参するもので、かぜ薬や痛み止め、胃腸薬、絆創膏などが入っています。もし、被災地で蚊に刺された時や、湿疹が出たりした時に使用できる常備薬も揃えています」と李さんが説明した。

愛と善を出発点に、環境保護、防災・救災、弱者支援といった分野で専門性を活かして貢献することができるのだ。「企業の規模は関係ありません。例えば小さな飲食店や書店、どのような業種でも、持続的に取り組み、専門性を活かして善行すると発心して行動すればよいのです」と李さんが励ました。

台風時には小型ボートで温かい食事を届けた。大きな事故や自然災害では、防災や災害時のケア能力を高める重要性が浮き彫りになる。(撮影・莊煌明)

特急「タロコ号」脱線事故では、家族の悲しみに寄り添った。(撮影・林素月)

持続可能な発展は防災の必修科目に

個人の寄付から、NGOや企業、政府間の連携と協力に至るまで、「協力提携」の締結がもたらす影響力は加速度的に拡大している。特に現代の国際社会では持続可能な発展が重視され、企業や組織に対して環境(Environment)、社会的責任(Social)、企業統治(Governance)の面での要求と監視がますます厳しくなっている。頭文字を合わせてESGと言われるこれら三つの観点を着実に実践し、環境への負荷を減らし、人類の持続可能な発展に貢献することは、もはや選択可能な加点項目ではなく、達成しなければならない、厳格な「必修科目」なのである。政府、企業、NGOが連携して資源を共有し、災害に対応し、人類と地球を守ることは、大きな潮流となっているのだ。

防災は救災に勝る。それは、多様なパートナーと共善を行い、それぞれが持つ資源を統合して活用することで、災害の影響をより軽減できるのである。また、地域社会において防災の意識を住民に浸透させることが必要だ。災害が発生しても迅速に復旧できるようにすることで、居住する都市や農村がより安全で強靭、そして持続可能なものとなるのだ。

(慈済月刊六九七期より)

防災士が防災の善知識になる

文/葉子豪(月刊誌『慈済』執筆者)
撮影/蕭耀華(同カメラマン)
訳/葉美娥

防災士には、住まいの安全、コミュニティの防災、災害への対応、避難生活に関する様々な知識が必要。慈済ボランティアは、防災士養成研修講座を受講して、心肺蘇生法や包帯の巻き方などの応急処置といった基本的な救急救命技能を習得する。

気候変動により、極端な災害が常態化する傾向にあることを鑑み、内政部は民衆とコミュニティによる自主的な防災能力を強化できるよう、二〇一八年より、日本で実施されている「防災士制度」を台湾に導入した。また同年八月、南投県消防訓練センターで、台湾で初めてとなる防災士養成研修講座が開講した。

そして、長年にわたる緊急援助と国際的災害復旧復興支援の経験を持つ慈済基金会も、積極的に「防災士養成機関」になることを目指した結果、二〇二〇年に政府の認可を受け、公的部門と共同で防災士養成研修講座を開設することが可能となった。

(慈済月刊六九七期より) 

防災士とは?

  • 防災の基礎知識と技術を兼ね備えたボランティアのこと。15時間の研修コースを修了し、救急救命実習と学科試験に合格すると、内政部から認証状が発行される。
  • 平時には自ら家庭やコミュニティ、職場で防災活動を広めることができ、災害時には、公的救援が到着するまで、被災地での初期消火、避難誘導、被災状況の通報などの応急作業を行うことができる。
  • 慈済が他の公的部門や民間組織と協力して養成した防災士(慈済ボランティアと一般の民衆を含む):11,050人。

(2024年10月現在)

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竹筒歲月 幫助比我更苦的人

(攝影/Sunny Kumar)

五百支竹筒撲滿手工打造,
送進歲末祝福現場「竹筒回娘家」專區,
民眾響應「小錢行大善」,
創造屬於菩提迦耶的「竹筒歲月」。

五百支竹筒撲滿手工打造,送進歲末祝福現場「竹筒回娘家」專區,民眾響應「小錢行大善」,創造屬於菩提迦耶的「竹筒歲月」。

歲末祝福一個月前,志工來到牧羊女村,遠遠地就看到甘滿季(Gaina Manjhi,上圖右)正在鋸竹子。他是慈濟照顧戶,也是志工,主動承擔製作竹筒撲滿的重任,準備發給參加歲末祝福的民眾。採購竹子,鋸成一節節,動作簡單卻費工;為了增加產能,來自馬來西亞的李仁粦,教導本土志工桑杰(Sanjay Singh)和蘇雷德拉(Surendra Paswan)使用電鋸趕工。

鋸好竹筒,還要清洗乾淨、曬乾。甘滿季的朋友德夫納拉揚(Devnarayan Paswan)就在慈濟會所旁默默刷洗竹筒;他受助於慈濟,了解「竹筒歲月」的意涵,也想盡心力。

縫紉初階班與電腦班學員,協助在筒身貼上「竹筒歲月」、慈濟標誌貼紙,覆上綠布當蓋子、再畫上一道開口,大功告成,前後共製作了五百餘支。馬來西亞志工姚雅美向學員們說明慈濟早年「竹筒歲月」的歷史。「因為大家都窮,要怎樣去幫助那些更窮的人呢?上人想到小錢行大善,請支持他的三十位家庭主婦,每天買菜省下五毛錢投入竹筒;少五毛買菜錢,對生活沒有影響,但這筆錢積少成多,每個月都可以助人。」

縫紉班學員拉麗塔(Lalita Devi),丈夫過世,獨立撫養三個小孩;她說:「因為慈濟幫助我們,我也想幫助其他人;不用很多錢,每天小錢投進去,也可以助人。」

志工拿著竹筒上街,邀約富有愛心店參加歲末祝福;從乞討到手心向下的甘滿季,也帶著竹筒撲滿來到歲末祝福會場,投入零錢時,他笑著說:「能夠助人,我感覺內心非常富有!」

(攝影/楊桂玟)

(攝影/Sunny Kumar)

五百支竹筒撲滿手工打造,
送進歲末祝福現場「竹筒回娘家」專區,
民眾響應「小錢行大善」,
創造屬於菩提迦耶的「竹筒歲月」。

五百支竹筒撲滿手工打造,送進歲末祝福現場「竹筒回娘家」專區,民眾響應「小錢行大善」,創造屬於菩提迦耶的「竹筒歲月」。

歲末祝福一個月前,志工來到牧羊女村,遠遠地就看到甘滿季(Gaina Manjhi,上圖右)正在鋸竹子。他是慈濟照顧戶,也是志工,主動承擔製作竹筒撲滿的重任,準備發給參加歲末祝福的民眾。採購竹子,鋸成一節節,動作簡單卻費工;為了增加產能,來自馬來西亞的李仁粦,教導本土志工桑杰(Sanjay Singh)和蘇雷德拉(Surendra Paswan)使用電鋸趕工。

鋸好竹筒,還要清洗乾淨、曬乾。甘滿季的朋友德夫納拉揚(Devnarayan Paswan)就在慈濟會所旁默默刷洗竹筒;他受助於慈濟,了解「竹筒歲月」的意涵,也想盡心力。

縫紉初階班與電腦班學員,協助在筒身貼上「竹筒歲月」、慈濟標誌貼紙,覆上綠布當蓋子、再畫上一道開口,大功告成,前後共製作了五百餘支。馬來西亞志工姚雅美向學員們說明慈濟早年「竹筒歲月」的歷史。「因為大家都窮,要怎樣去幫助那些更窮的人呢?上人想到小錢行大善,請支持他的三十位家庭主婦,每天買菜省下五毛錢投入竹筒;少五毛買菜錢,對生活沒有影響,但這筆錢積少成多,每個月都可以助人。」

縫紉班學員拉麗塔(Lalita Devi),丈夫過世,獨立撫養三個小孩;她說:「因為慈濟幫助我們,我也想幫助其他人;不用很多錢,每天小錢投進去,也可以助人。」

志工拿著竹筒上街,邀約富有愛心店參加歲末祝福;從乞討到手心向下的甘滿季,也帶著竹筒撲滿來到歲末祝福會場,投入零錢時,他笑著說:「能夠助人,我感覺內心非常富有!」

(攝影/楊桂玟)