家の中も外も皆家族—台湾型共生の実践

親族でも知人でもないのに、祖母と孫のような二人が、閑散とした小学校のキャンパスで出会った。ここは幼稚園とデイケアセンターが一体となっている。限られた社会福祉に民間の資源をプラスした多世代共生、即ち若者と高齢者を同時に受け入れる場所の設置は、超高齢化社会の急務である。

春の陽だまりを求めながら、何本もの路地から、杖をついて歩いて来る人もいれば、車椅子の人やゆっくり移動する人もいた。お婆さんやお爺さんたちは、期せずして同じ時間に台北市の西松公園に着いた。この日は、弘道老人福利基金会主催の、毎週木曜日午前中に行なわれるアウトリーチ活動の日である。車椅子を利用する要介護の高齢者と外国籍介護者の十二組に加え、自力歩行が可能、或いは年が少し若い奥さんたちも多数来ている。

「呉先生、こんにちは!」

トレーナーの呉永昌(ウー・ヨンツァン)さんは笑顔を浮かべて、「始めた頃は五人しかいなかったんですよ」と言った。九年間も共に活動をしているので、呉さんはお爺さんやお婆さん、または外国籍介護者たち皆をよく知っている。数えてみると、大樹の周りには二、三十人近くいた。買い物カートを引いて通りかかった女性も立ち止まった。

普遍的な「ケア」は公園から始まる

台北市松山区にある公務員と教職員向け住宅は一九六〇年代に、アメリカの都市計画制度に倣って、七万人を収容できるモデル・コミュニティとして建設された。高齢化が進む台湾では今、居住人口は八万人を超えているが、言うまでもなく、高齢者が多い。一九九五年に設立された弘道基金会は、ソーシャルケアの最前線に立ち、このコミュニティを台北市進出の初拠点とし、これまで二十四年間運営を続けている。呉先生は音楽を流し始め、車椅子に乗った年長者たちには腕のストレッチと足の上げ下げをしてもらい、立ち上がることができる人や奥さんたちは、後ろでダンスをするように動いている。曲は「快楽出航」から「小城故事」まで、リズムの速いものも遅いものもある。ソーシャルワーカーの李秀蓉(リー・シュウロン)さんは、横で外国籍介護者が抱えている介護上の問題を解決してきた。評判が良い呉さんは、今では多くの外国籍介護者たちは、市場で出会う時、互いに情報交換をしており、インドネシアに帰国する際は、わざわざ雇用主に、「お爺ちゃんの健康維持のために、公園に連れて行くよう、次の介護者に伝えてください」と念を押すほどだ。

隣に座っていた八十二歳の温素珠(ウェン・スーヅゥー)さんは、新しい隣人に付きそって来たのだと言った。「彼女は私より何歳か年下ですが、引っ越してきたばかりで、どこに行ったらいいのか分からないそうです」。素珠さんは元気一杯で、毎日色々な活動に参加している。近くにある宝清や婦聯など四つの公園で異なる時間にアウトリーチ活動が行われていれば、順番に参加する。「これ以上、心が塞ぎ込まないようにするには、近所の人たちを連れ出せばいいのです」。彼女の前にいる何人かの車椅子に乗ったお婆さんたちは、皆隣人で、彼女より年下の人でも、急に寝込んでしまうこともあるため、家から出て日光浴ができるのも、大きな一歩なのだ。

「高齢者は、短くても幸福だと思える時間があれば、それで良いのです」と李さんは感慨深げに語った。

ベストセラーの『下流老人』に三つの指標が書かれてある。その一つが社会的孤立である。即ち頼れる人がいない状況下で、その上、近所とあまり言葉を交わさず、歩き回るスペースも少なく、テレビだけが連れとなっている人である。

都市部では、多くの高齢者が自宅で外国籍介護者を雇っている。日中は近くの公園で日光浴をする。弘道老人福利基金会は、デイサービス拠点を離れることで、高齢者により多くの交流機会を与える。

都市と田舎で大きく異なる
地域の「個性」活かした共生

台北と比べて中南部の県や市は、青壮年の人が早くに家を離れるため、お爺さんやお婆さんたちは、近所とのつながりを維持する必要性が増している。これは正に基本的な地域社会の共生を意味している。

強い海風と河口の氾濫が頻繁な雲林県台西村に住む八十歳の丁良琴(ディン・リャンチン)お婆さんは、優雅な女性である。毎朝決まった時間に、コミュニティの介護センターへ行きくため、インドネシア人の介護者アヤさんを急かして外出する。これが彼女の一日の始まりだ。

その日、アヤさんはお婆さんの車椅子を押しながら、市場の横にある海天府を通った。そこは二○二○年にできた、台西村で最初の介護拠点である。当時、政府は路地裏にディケアC基地を立ち上げる政策を推し進め、その後、農業委員会が農業・自然環境をベースにした、グリーンケアを推進した。海に面した台西村には資源がなく、当時海天府管理委員会の委員長だった頼俊傑(ライ・ジュンジェ)村長は、廟の前に簡易テントを建てて、近くのお年寄りたちに体を動かすよう呼びかけた。一日、二日やっただけでは、お爺さんお婆さんたちは覚えられないだろうと、彼は頑張って週に五日間行った。また、お年寄りたちの昼食を心配して、店じまいしようとしていた露天商に呼びかけ、安くするために、大鍋でお粥を作ってくれるよう頼んだ。こんな調子で三年間が過ぎた。場所は転々とした後、彼の家に落ち着いた。村長の事務所でもあり、雨風も凌げるので、大分良くなった。二○二四年の春節の後、区役所の空きスペースに移転したことで、やっとケア拠点らしくなった。

昼になると、七十歳だが髪が真っ黒な賴さんは、自宅のキッチンに戻り、ご飯やおかずを持って拠点に戻ってきた。きびきびした動作の九十一歳のお婆さんが、弁当作りを手伝った。そして、みんなは弁当ができると、自転車や徒歩で帰宅して一息入れ、午後にまたやって来るのだ。台西、海南、海口、海北など台湾の最西端に位置する海沿いの漁村は、限られた資源を利用して高齢者向けの長青食堂を運営することで、高齢者に栄養を補給すると共に、毎日決まった時間に会えるようにしている。これは最低限のケア方法である。

弘道老人福利基金会のアウトリーチ活動により、外国籍介護者も体を動かすことができる。エクササイズバンドでストレッチをしていた。介護する人とされる人、双方の間に、暗黙の了解と感情を深めることができるのだ。

水平移動の生活

頼さんが準備している弁当にはいつも、糖尿病で足を切断し、車椅子生活をしているお隣の林張水(リン・ヅァンスイ)さんの分が含まれている。外出できないので、毎日車椅子に座って自宅の前で、早朝に海藻を採りに出かけて午後に帰宅する妻を待っている。漁村に住むこの七、八十歳の老夫婦は、贅沢な食事はせず、質素な生活を送っている。

一九六〇年から七〇年代にかけて、台湾の経済は高度成長したが、医療資源と高齢者ケア方面の環境はまだ整っていなかったため、村民にタイムリーに寄り添えるのは誰かといえば、農業組合や漁業組合だけだった。家政指導員(以下家指と称す)の仕事は、毎日田んぼの畦道や魚の養殖場を回ることである。口湖農業組合の指導員である呉金珠(ウー・ジンヅゥ)さんは、私たちを水井村の八十から九十歳の高齢者たちのもとに案内してくれた。毎朝十時に決まって、八十八歳の李金貴(リー・ジングェイ)さんの家に来るが、軒下に黒いネットを掛けて日陰を作り、近所の人たちにお茶を入れて、おしゃべりをする。その中の三人は一人暮らしのお婆さんだが、そういう高齢者の生活に慣れており、「誰それが来てないけど、どうしたのかな」とお互いに声をかけ合ったり、直ぐ呉さんや村長に知らせたりする。「毎日友達とおしゃべりでき、将棋やマージャンができるのです」。このような場所は、静宜大学の社会福祉学部の教授であり、台中地区で多世代共生を提唱した紀金山(ジー・ジンサン)先生が疑問視した伝統的価値観の「自宅での老後が最良」という考え方を具体化している。「今は小家族が増え、人口が減少しているため、それを支える能力が弱まっているのです」。

同じ時間帯に、高雄市前金区林投里にある築五十年の警察宿舎を改築した公営住宅は、既に若い親がベビーカーを押しながら次々と出勤していた。一階にある「林投好居間」を通ると、上に住んでいる七十三歳の呉衡英(ウー・ヘンイン)さんが既に降りて来ていて、ドアを開けたり、花に水をやったりしていた。お互いに挨拶を交わしながら、衡英お婆さんは赤ちゃんが可愛くてたまらず、頭を撫でていたが、彼女はれっきとした弘道基金会高雄林投C拠点のボランティアである。

まだ二歳の子供は、百メートル離れた最寄りの前金幼稚園に預けている。この幼稚園と向かいの前金小学校は、どちらも百年以上の歴史があり、高雄で最大の公立幼稚園である。前金小学校は、日本統治時代は「貴族」しか入学できなかった小学校だ。同じ公営住宅の一階の反対側には、高雄で唯一二十四時間営業の公立保育所があり、高齢者と若者が共に暮らす模範的なコミュニティと言っても間違いではない!

設立から三年半が経った林投好居間のソーシャルワーカー、翁弘育(オン・ホンユー)さんはこう言った。

「海底のサンゴ礁のように、どれだけの資源を投じれば、どれだけの魚や生態系が集まって共生するかが分かるのです」。このような実験場があって、彼はとても幸運だと言う。熱心な弘育さんは、ソーシャルワーカーの特質を持っている。非常に忍耐強く、細かく気配りし、「処理すべき事と処理不必要な事」をきちんと整理する頭脳の持ち主で、「好居間」の中心的な存在である。彼自身、三年余りでこれほど多くの力と幸福を蓄積できて、忙しいながらも幸せを感じているそうだ。

軽度の認知症を患っている海明(ハイミン)さんは、衡英おばさんのご主人である。朝少し遅めに降りてきて、トレーナーと一緒に体を動かし、筋肉を強化すると同時に、トレーナーは簡単な質問を交えて、高齢者の脳を活性化させている。休憩時間には、自由にグループに分かれて、ラミィというボードゲームを楽しむ。頭を使うマージャンのようなものだ。

雲林台西村路地裏のケア拠点では、写真に写っている91歳のお婆ちゃんがこれほど上手にボールを当てられることが信じ難い。農村や漁村の高齢者には、身体上または頭脳上の交流ができる簡単な場所が必要だ。

台西村の丁お婆ちゃんは、軽度の認知症を患っているが、デイケアセンターに入るのを急いでいない。毎日外国籍介護者が車椅子を押して混雑した市場を通る。規則正しいスケジュールを維持することは、彼女や半健康の高齢者が身体機能を維持する良い方法である。

上下階で縦繋がりの家族

ふと見ると春風(チュンフォン)お爺さんが、心身の不調のため居間の奥に一人で座っていたが、みんなは彼の存在に慣れていて、特に気にすることはなく、時々様子を見に行くぐらいである。弘育さんは、春風お爺さんにも悲しい話があると語った。彼は知的障害のある二人の息子と暮らしていて、つい最近一人が亡くなり、長男は毎日保護工場で働いているそうだ。春風お爺さんは週に二回在宅介護サービスを利用し、サービス内容毎に精算する方法を取っているが、介護員はサービスが終わると直ぐ帰らなければならないので、毎回二階の家から彼を下ろして、好居間に移動させているそうだ。一人で家に閉じ込こもっているよりずっと良い。それがみんなの居間であり、うたた寝をしたり、ぼーっとしたりできる上、冷房代も節約できる。ソーシャルワーカーの陳雅芬(チェン・ヤーフェン)さんは、彼に目薬と耳薬をさすことを忘れないようにし、介護員と協力してお爺さんの状況を共有している。

月鳳お婆さんは料理が大好きで、よくスープを作っては大きな鍋で持ってきて、みんなと一緒に新鮮な料理を楽しんでいる。一人暮らしの羅さんは毎日やって来て、出来たての料理を楽しんでいる。ここでは、一人ひとりが自分の居場所を見つけている。陳さんによると、実は、林投好居間のようなC拠点は高齢者だけが利用する場所ではなく、むしろ「コミュニティが共同で穏やかに過ごす環境」であるべきだ。台湾社会では、「穏やかに過ごす」という言葉が高齢者専用と誤解されがちだが、誰もがそこで過ごすことができるのだ。好居間は仲介的な役割を果たし、住民が交流によって変わるよう促している。たとえば、子どもが放課後、好居間で宿題をしたり、少し遅くなったら向かいのお婆さんの家でお母さんの帰りを待ったりすることもできる。七十五歳だが、背筋が真っ直ぐな羅さんは、毎晩七十三歳の張海明(ヅァン・ハイミン) さんを連れて散歩に行く。奥さんの衡英さんは、その間にカートを引いて街で、学校が終わるのを待ち、弘道不老時間ベーカリーでパンの販売を手伝う。中では、聶庭莉(サー・ティンリー)お婆さんが自主的にほうきで床を掃き、全てが自然体である。

その日の午後、幼稚園が終わると、上の階の若い夫婦が通りかかり、好居間での和菓子作りに、隣の臨時保育所の先生が幼児たちを連れて遊びに来ていたのを見て、一緒に加わった。年齢に関係なく、みんなで生地をこねて花の形を作る姿を見て、高齢者たちは嬉しくないわけがない。

上の階と下の階の「好居間」

張海明さんと羅さんは、上下階に住んでいる良き隣人で、毎日好居間で会い、夕方には手を繋いで散歩する。(写真1)

ここは彼らのコミュニティであり、1階の扉を開けると歓迎してくれ、衡英お婆さんは花に水をやる。(写真2)

居間では、様々な活動が行われ、お年寄りも子どもも楽しんでいる。(写真3)

多世代共生の「スタートアップスタイル」

「年を重ねると、あまり遠くには行けないので、益々家の近くの環境に依存するようになるのです。長年地域で経営している小規模の商店は、しばしば近所の交流を繋ぐ場所になります。それは、高齢者に外出や会話の機会が増え、コミュニティでのサポートが増えたことを意味しています」。ベルリンのフンボルト大学でコミュニティ研究をしている李香誼(リー・シャンイー)さんによると、ここ数年、各地でコミュニティ住宅の計画や建設が進められていて、高齢者と若者の共生が期待されている。「しかし、残念なことに、一階は殆どがPXマートのような店舗が入り、便利さや経済性が重視されていますが、それでは人情的な結びつきや生活の支援性に欠けています」と雅芬さんが指摘した。

高雄前鎮にある興仁中学は、広大なキャンパスが三つのエリアに分けられている。一つは少子化の影響で縮小された中学校の教室、一つは幼稚園、もう一つは幼稚園と同時に改築されて新たに設置されたデイサービスセンターだ。かつて高雄大同病院で地域サービス部門の主任を務めたことのある黄仲平(ホワン・ヅォンピン)さんは、二〇一九年に高雄市政府の強力な支持の下、少子化で余剰となった大同と建興小学校の一部の教室を、認知症や要介護高齢者のB拠点に変身させた。高雄市新興区の大同楽福学堂は、台湾全土の長期介護政策において初めての小学校デイサービスのモデルケースと言える。現在の興仁中学校は、進学よりも就業に重きを置いた学校で、学生が早くから高齢者の血圧を測ったり、木工作品を共有したりしている。高齢者と若者の双方の学びを通して交流しており、業者と学校側も試行錯誤を重ねている。

外観は学校のように見えるが、黄さんは教室間の壁を取り除いて、「古い」印象を全面的に覆した。彼は千人の高齢者とその家族にアンケートを行い、もう一つの家はどのようにあるべきかを調査したことがある。ノスタルジックにして、高齢者の若い頃の記憶を呼び起こす場所であるべきか、それとも、手の届かない夢の実現であるべきか。最も記憶に残っているのは、長年口を開かなかったお婆さんが、娘に連れられてカフェに来た時のことだ。お婆さんは娘のスカートの裾を引っ張りながらこっそり「いいね」とサインを送ったら、「それなら毎日来ない?」と娘が聞いた。「それはダメ……高いからね」とお婆さんが突然口を開いたのだ。それで、黄さんはその後、若々しい色彩とモダンさを組み合わせたデザインのテーブルと椅子を設計し、高齢者がデイケアセンターに来れば、自分は病人だから、もう無理だと思うことなく、全く新しい体験を喜んで受け入れてもらえるようにした。

黄さんは、旗津(チージン)地区でもっと広い、漁業組合の二階の四百坪のスペースを創作拠点として利用しているが、若者や団体に余ったスペースを無償で提供しており、自然と拠点が若返り、お年寄りは毎日異なる年齢層の人が出入りするのを見ることができる。彼は感慨深く語った。

「どの家庭にも高齢者がいるかもしれませんが、多くの家族は『認知症』が何かを理解していません。子供が何度もスズメが何かと聞いたら、忍耐強く教えるのに、自分の両親が認知症になって同じ質問を繰り返すと、スズメだよ、と怒り出してしまうのです」。

高雄市前鎮区の興仁中学校の一部の教室は、デイケアセンターに改装され、認知症高齢者たちは医療施設とは思えない「夢のような」環境の中で、音楽に合わせて楽しそうに踊っていた。

ここでは、スマートフィットネス機器は高齢者の毎日の身体状況に合わせて強度が調整され、個人用ICカードに保存される。

不老の幸福の行き先

台湾におけるコミュニティ共生はまだ初歩段階で、実験が順調に進むかどうかは担当者の姿勢にかかっている。興仁中学校付属幼稚園の園長先生は、とても親しみやすい人柄だ。ある日、十数人の子どもたちをお爺さんやお婆さんたちに会わせ、画面に合わせて大声で歌い踊る姿を見せた。子どもたちの無邪気さは、お年寄りの憂鬱や体の不快感を和らげ、笑顔になって手を振り、一部の要介護の人も嬉しくなって、その場で踊り出した。黄さんによると、一般の人が心配しているような「子供が高齢者にぶつかる」状況は、まだ見たことがないそうだ。大同楽福学堂を設立した年を振り返ると、大同病院が後ろ盾になってくれてはいたが、学校や保護者への説明会は一年八カ月にわたって、百六十回開催され、最終的には学校側が「公立学校」であることからやっと同意した。今では、多くの県や市政府が大同楽福学堂を頻繁に訪れ、模倣しようとしているが、彼は彼らに、学校側や保護者から必ず出る十の質問を伝えている。その中には、子どもと認知症の高齢者との間に衝突したり、怪我人が出るような事態に発展したりした場合はどうするのか、という問いがある。「これらは確かに問題だが、問題ではないのです」と黄さんは意図的に例を挙げた。誰もが権利が変わることによって、相対的に剥奪感を持つようになるが、予め想定された立場や問題は合意と努力によって回避できる。しかし、どのコミュニティでも、異なる人から成る組織ができ、外部の介護機関がどのように調和し、信頼感を得られるかが問われる。

外国籍介護者は、認知症や自立不能の高齢者の家族のようなものだ。台北市松山区にある築50年以上の歴史を持つ公営住宅では、至る所に高齢者の姿が見られるが、皆少なからずデイケアサービスを必要としている。

ボトムアップ形式の「創造性ある」共生

創新長期介護経営管理協会の事務局長である黄毓瑩(ホワン・ユーイン)さんは、二○○九至二○一七年までの長期介護利用者数の複合年増加率を観察したところ、コミュニティケアが31%で最も高く、次に在宅ケアが12%、施設ケアが2%と最も低いことが分かった。これは台湾特有の文化と家族観を反映しており、やはり自宅近くのコミュニティで余生を送るのが最も望ましいことを示している。現在、介護人員は五万人強で、サービス対象は約七十四万人である。二○二五年には超高齢社会に突入し、六十五歳以上の人口は五百万人に迫るが、政府は現行のトップダウン型の介護制度を推進するのが難しいと見ており、ニーズを満たすためには、地方産業化を望む声が益々高くなっている。二○一四年に「コミュニティ3・0」概念を提唱した日本の地方創生デザイナー、山崎亮氏は、「豊かな都市とはどういうものでしょうか。全員のポケットが満たされていることでしょうか」と訊いたことことがある。彼は、誰もが心の中に理想的な「豊かさ」を持っていると信じている。それは、安定した暮らしと職業、安心して長く暮らすという願いである。「住民の自発的な参加を促す」ことによって、人と人との繋がりを築いて、孤独死を防ぐことが、共生コミュニティのコアとなる概念である。

九十七歳の葉子(イェヅ)お婆さんは、子どもと同じくらい小柄で、風が吹くと倒れてしまうような細い体をしている。ソーシャルワーカーの陳微竹(チェン・ウェイヅゥ)さんは、昼寝をしたがらないお婆さんを支えながら、長い廊下を行ったり来たりしていた。お婆さんのつぶやきは私たちには理解できないが、その目は純真且つ無邪気で、子供のようだ。さて、どのようにすれば、これら「子供のようなお年寄り」をケアし、青春を捧げた彼女の人生を楽しく、平穏に全うさせ得るであろうか?

(経典雑誌三一〇期より)

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