無私の大愛を広めて、世の苦難を和らげる

仏陀の愛は遍く虚空界に広がっていますが、私の心願も尽きません。一人では果たせないことも、人々が結集すれば、力が得られます。

この一生で果たせなければ、来世で続けます。生生世世、皆と善縁を結び、共に福を作っていきましょう!

二○二四年十二月の歳末祝福会で、慈誠と委員の認証授与が行われましたが、二十以上の国と地域から帰って来ていました。中には遥か遠くから、飛行機で五十時間以上かけ、三つの国で乗り換えて、やっと台湾に辿り着いた人もいました。苦労を惜しまず、縁があれば、会うことができます。ステージの上では幾つか異なる言語で分かちあいがありますが、言葉が理解できなくても、表情を見て声を聞くと、私の心は喜びに満ちていきました。というのは、彼らの心には愛があり、正しい道を選択したからです。彼らは最も喜びに満ちて、幸せな人たちだと、私は信じています。

授与式で、認証を授かる一人一人の菩薩が私の前に来ると、私は必ず「祝福します。精進してください」と声をかけます。全ての慈済人を見るたびに、「感謝します」と心中に念じます。人間(じんかん)には苦しんでいる人が大勢いるのに、たった一人でどうやって彼らを助けることができるでしょうか。私は常々、慈済人に感謝しています。あなたは私と縁があり、側に来て、私の心に寄り添い、宗教や国籍を分かたず、私たちは一つの使命を持って、人間(じんかん)で必要としていることに奉仕し、一緒により多くの助けが必要な人を支援しています。

元慈青(慈済青年ボランティア)だった人が、私の前に来てこう言いました。

「上人様、あなたの弟子が帰って来ました」。なんと思いやりのある言葉でしょう!私も仏陀の弟子であり、仏陀の志業を受け継ぎ、無私な愛を広め、世間で苦しんでいる人々を救い助けることに努めています。

二千五百年余り前、仏陀は人間(じんかん)に生まれました。高貴な王子で、一国の後継者でありながら、宮殿の外の人々の苦しみを見て、自分とは全く異なる生活をしていることを知りました。そして王位を放棄し、真理を探求する決意を固めました。悟りを開いた後も、人々が正しい考えを持ち、生命の由来と価値を理解し、また「因、縁、果、報」の関係を知り、どのようにして智慧を養い、来世のために福を集めたら良いかを理解してほしいと願いました。

仏陀は人間(じんかん)に豊かな智慧を与えてくれましたが、私はずっと、その恩に報いるにはどうしたらよいかを考えていました。シンガポールとマレーシアの慈済人は、師匠である私の心願を知って、この数年間、チームで交代しながらネパールとインドの貧しい村に足を踏み入れ、貧困救済や施療、大愛村の建設、職業養成講座の開設、学校の建設に取り組んでいます。私は、このように菩薩のチームが大きな志をもって集まり、仏陀の故郷に福をもたらしていることに感謝しています。

私はいつも、経済的に困窮している国の貧しい人々はどんな生活をしているのだろうかと思うと、心がとても痛みます。干ばつが起きている所では草一本生えず、ましてや五穀と雑穀は言うまでもありません。水を汲みに行っても、水は汚染されており、その途中で動物に襲われることもあります。ジンバブエに在住する朱金財(ヅゥー・ジンツァイ)さんは、二○一三年から新しい井戸を掘り、古い井戸を修理しており、その数は合計で二千本余りに達しました。また、朱さんは毎週月曜日から土曜日まで昼食を提供しており、毎日約一万七千人がその食事に頼っているのです。この二十年間、彼はどうやってそれを続けて来たのか、慈済と縁を結んで食糧を受け取った人がどれほどいるのか、また、私たちの目が届かず、支援できない人が、まだどれほどいるのか、といつも思います。

私は毎晩、世界で起きている重要なことや気候変動による数々の自然災害などに目を向けます。また、幾つかの国は危機に直面しており、人心が乱れ、争い、奪い合って、大衆が安心して暮らせず、苦しんでいます。それを見ると、とても悲しく、心が痛みます。なぜ人々は対立し、争うのでしょうか。平和な日々がなければ、いくら財産を持っていても、全く価値はありません。

大地が生気に満ち、五穀豊穣であれば、人類に供給でき、生活に問題はなくなります。人々の心に愛さえあれば、お互いに励まし合い、祝福し合い、寛容な態度で分け隔てなく接するようになり、人間(じんかん)は天国の如き浄土になるのです。

五十年余り前、慈済を創設したばかりの頃は、本当に大変でしたが、私はいつも、自分で発心したのだから、堅持し続けようと、自分を励まして来ました。徐々に、私の心からの呼びかけが皆さんに聞こえ、意義のある善行が目に見えるようになり、湧き出るように増えていきました。小さな「蛍」が発する淡い光は、信号を発するように群れを成して集まり、暗闇の中をキラキラさせながら、この世を美しくしています。

慈済人は皆、家庭環境も職業も異なり、それぞれの生活をしていますが、仏陀の教えに従っています。社会の流れに身を任せて、漠然と生きているのではなく、目標と方向性を持って、互いに協力しながら、大切にし合い、共に衆生を済度しています。

私自身、この世に来て価値があったのだろうか、と見つめ直してみると、「確かに価値があります!」と皆さんに言えます。初心である「愛と善」の気持ちによって、大愛を持った心を啓発してくれ、善の方向を間違わず、一路進んで来ましたが、後悔の念はありません。私の言葉は毎日似通ったものであるのは、最初から進む方向が定っていたからであり、少しの偏りもありません。

仏陀の愛は、遍く虚空界に広がっていますが、私の心願も尽きません。今生で成し終えなかったら、来世で続けます。しかし、もし来世で私が一人だったら、孤独すぎて、どんなに大きな心願があっても、何事も成せないでしょう。それ故、私は生生世世、何がなんでも皆さんと善縁を結ばなければならないのです。皆さんは今世、慈済の志業に投入していますが、來世でも皆で、慈済で奉仕するでしょう。

一人の力では何もできませんが、自分の力が足りないと心配することはありません。一人ひとりの愛のエネルギーが集まれば、成し遂げられないことは無いのです。人助けする人が最も幸せであり、福を作る人生が、最も幸せな人生なのです。

(慈済月刊六九八期より)

    キーワード :