モザンビークに希望が見えた

心して伝法し、当地に智慧を伝え、助けを求める声を聞けば駆けつける菩薩の精神と愛のエネルギーを大衆に伝え、人と人が愛で接し、見返りを求めず奉仕することを願っています。

六月十日、モザンビークの蔡岱霖(ツァイ・ダイリン)師姐たちは、当国中部で建設している大愛村と希望工程に関する事務担当の本部職員、台湾の慈済学校で勉強しているアフリカの学生十数人、そしてオンラインで報告したモザンビークの慈済ボランティアたちを伴い、オンラインで上人と端午の節句を祝いました。

岱霖師姐は、メトゥシラ大愛村の由来から報告しました。メトゥシラ町は川沿いにあり、住民の多くは農耕で生計を立てています。サイクロン・イダイで被害を受けてから、一部の住民は地理的に高い、今大愛村を建設している場所に移住せざるを得ませんでした。慈済ボランティアが緊急支援で住民に物資を配付する以外に、マプトからも現地ボランティアが来て、長期的に地域ボランティアの先頭に立って大愛農場を運営しています。村人が慈済の配付した種を使って栽培した結果、実り多い豊作となり、経済状況が改善しました。メトゥシラ町には今、二千七百人余りのボランティアがいます。

高敬堯(ガオ・ジンヤオ)師兄が「大愛村が出現した」状況を簡潔に報告しました。二〇一九年にイダイ支援建設プロジェクトが始まりましたが、紆余曲折の後、二〇二二年四月にやっと本格的な工事が始まり、二〇二四年四月に大愛村の四百十戸全てが完成しました。村人は、慈済は唯一サイクロン被害から今日まで途切れることなく寄り添ってくれた団体です、と感謝の意を表しました。

モバンビス中学校では、被災した直後、使える教室は僅か三つで、五千人の教師と生徒に対して二つの野外トイレしかありませんでした。支援建設プロジェクトは二〇二二年六月に始まり,二〇二四年一月に完成し、当国の大統領自らが出席して起用式典を主催しました。その後、慈済ボランティアは引き続き学校に関心を寄せ、静思語教育を推し進め、衛生概念などを教えています。岱霖師姐によると、慈済の愛は学校からコミュニティに広まりました。モバンビス中学校はソファラ州ドンド郡にあり、郡長は、慈済人が長期駐在できるようにと、学校に隣接する宿舎を無償で提供してくれました。慈済は今年二月からコミュニティで愛を広める活動を行なっており、多くの住民は静思語に出会ったことで、家族関係が改善されたり、以前は思い詰めていた人が静思語に心を打たれ、生きていく原動力を見つけたりしたことで、今は地域ボランティアとして精進しているそうです。

当国では、大学に進むチャンスがある人は僅か八パーセントしかいません。そこで、青年養成プロジェクトによって、二〇一九年から今まで十三人の学生が台湾に来て勉強しており、そのうちの五人は既に学業を終えて帰国し、慈済の連絡所で奉仕しています。慈済は現地の中学校や職業学校と協力を続けていますが、今年は学校側から、百七十人余りの優秀な卒業生の推薦がありました。学生は筆記試験と面接、チームによる査定、総合評価を経て、台湾に来て勉強できる資格を得ます。

上人は、台湾に来て勉強する若者たちに、引き続き勉学に励み、進歩し続けるよう言い聞かせました。中国語を習得するだけでなく、発音も正しくなければならないこと、そして、慈済精神を学んで心に刻み、学業を終えて帰国したら、困難な生活をしているお国の人々を助けて欲しいと言葉をかけたのです。

「岱霖にはとても感謝しています。モザンビークで慈済との因縁を築いたことで、この国の若い人たちは台湾で中国語とその他の知識や技術を学ぶことができたのです。彼らはとても頑張っており、モザンビークの未来には大いに希望がある、と感じました」。

支援を受けている住民も現地ボランティアも、多くがキリスト教徒です。

「信仰を心の拠り所とする以外に、自分でも努力しなければいけません。慈済人は仏教精神を学ぶ対象であり、仏陀は悟りを開いて、遍く衆生を愛しました。慈済人は、モザンビークで大衆の先頭に立ってボランティアをする時、心して仏法と智慧を現地に伝えなければいけません。助けを求める声を聞けば駆けつける菩薩の精神と愛のエネルギーを大衆に伝えることで、人々が互いに愛を啓発し合い、見返りを求めない奉仕をするよう導くのです」。

上人は、慈済が当地で大愛村や学校を建てるのは、見返りを求めない清らかな大愛であり、人々に求めたいのは、精進して積極的に生活に立ち向かって欲しいということだけです、と言いました。

「報告の映像からモバンビス中学校が完成したことが分かりました。灯りがついたその瞬間、私は言葉で言い表せないほど嬉しく感じました。この先、子供たちは安心して勉強ができ、学校は現地で人材の育成をすることができます。社会に希望ができたのです。若い人が教育を受けられれば、国に希望が見えます。これこそが、私たちがモザンビークで奉仕している目的なのです」。

そして上人は、本部の数人の職員が、支援建設工事のために、使命感で以って現地に駐在し、我慢強く現地の気候に馴染み、真面目に心して投入してくれたことに感謝しました。

「将来、その大愛村は輝き、生気溢れる人々が集まる場所となり、地域の発展をもたらしてくれるでしょう」。

(慈済月刊六九三期より)

心して伝法し、当地に智慧を伝え、助けを求める声を聞けば駆けつける菩薩の精神と愛のエネルギーを大衆に伝え、人と人が愛で接し、見返りを求めず奉仕することを願っています。

六月十日、モザンビークの蔡岱霖(ツァイ・ダイリン)師姐たちは、当国中部で建設している大愛村と希望工程に関する事務担当の本部職員、台湾の慈済学校で勉強しているアフリカの学生十数人、そしてオンラインで報告したモザンビークの慈済ボランティアたちを伴い、オンラインで上人と端午の節句を祝いました。

岱霖師姐は、メトゥシラ大愛村の由来から報告しました。メトゥシラ町は川沿いにあり、住民の多くは農耕で生計を立てています。サイクロン・イダイで被害を受けてから、一部の住民は地理的に高い、今大愛村を建設している場所に移住せざるを得ませんでした。慈済ボランティアが緊急支援で住民に物資を配付する以外に、マプトからも現地ボランティアが来て、長期的に地域ボランティアの先頭に立って大愛農場を運営しています。村人が慈済の配付した種を使って栽培した結果、実り多い豊作となり、経済状況が改善しました。メトゥシラ町には今、二千七百人余りのボランティアがいます。

高敬堯(ガオ・ジンヤオ)師兄が「大愛村が出現した」状況を簡潔に報告しました。二〇一九年にイダイ支援建設プロジェクトが始まりましたが、紆余曲折の後、二〇二二年四月にやっと本格的な工事が始まり、二〇二四年四月に大愛村の四百十戸全てが完成しました。村人は、慈済は唯一サイクロン被害から今日まで途切れることなく寄り添ってくれた団体です、と感謝の意を表しました。

モバンビス中学校では、被災した直後、使える教室は僅か三つで、五千人の教師と生徒に対して二つの野外トイレしかありませんでした。支援建設プロジェクトは二〇二二年六月に始まり,二〇二四年一月に完成し、当国の大統領自らが出席して起用式典を主催しました。その後、慈済ボランティアは引き続き学校に関心を寄せ、静思語教育を推し進め、衛生概念などを教えています。岱霖師姐によると、慈済の愛は学校からコミュニティに広まりました。モバンビス中学校はソファラ州ドンド郡にあり、郡長は、慈済人が長期駐在できるようにと、学校に隣接する宿舎を無償で提供してくれました。慈済は今年二月からコミュニティで愛を広める活動を行なっており、多くの住民は静思語に出会ったことで、家族関係が改善されたり、以前は思い詰めていた人が静思語に心を打たれ、生きていく原動力を見つけたりしたことで、今は地域ボランティアとして精進しているそうです。

当国では、大学に進むチャンスがある人は僅か八パーセントしかいません。そこで、青年養成プロジェクトによって、二〇一九年から今まで十三人の学生が台湾に来て勉強しており、そのうちの五人は既に学業を終えて帰国し、慈済の連絡所で奉仕しています。慈済は現地の中学校や職業学校と協力を続けていますが、今年は学校側から、百七十人余りの優秀な卒業生の推薦がありました。学生は筆記試験と面接、チームによる査定、総合評価を経て、台湾に来て勉強できる資格を得ます。

上人は、台湾に来て勉強する若者たちに、引き続き勉学に励み、進歩し続けるよう言い聞かせました。中国語を習得するだけでなく、発音も正しくなければならないこと、そして、慈済精神を学んで心に刻み、学業を終えて帰国したら、困難な生活をしているお国の人々を助けて欲しいと言葉をかけたのです。

「岱霖にはとても感謝しています。モザンビークで慈済との因縁を築いたことで、この国の若い人たちは台湾で中国語とその他の知識や技術を学ぶことができたのです。彼らはとても頑張っており、モザンビークの未来には大いに希望がある、と感じました」。

支援を受けている住民も現地ボランティアも、多くがキリスト教徒です。

「信仰を心の拠り所とする以外に、自分でも努力しなければいけません。慈済人は仏教精神を学ぶ対象であり、仏陀は悟りを開いて、遍く衆生を愛しました。慈済人は、モザンビークで大衆の先頭に立ってボランティアをする時、心して仏法と智慧を現地に伝えなければいけません。助けを求める声を聞けば駆けつける菩薩の精神と愛のエネルギーを大衆に伝えることで、人々が互いに愛を啓発し合い、見返りを求めない奉仕をするよう導くのです」。

上人は、慈済が当地で大愛村や学校を建てるのは、見返りを求めない清らかな大愛であり、人々に求めたいのは、精進して積極的に生活に立ち向かって欲しいということだけです、と言いました。

「報告の映像からモバンビス中学校が完成したことが分かりました。灯りがついたその瞬間、私は言葉で言い表せないほど嬉しく感じました。この先、子供たちは安心して勉強ができ、学校は現地で人材の育成をすることができます。社会に希望ができたのです。若い人が教育を受けられれば、国に希望が見えます。これこそが、私たちがモザンビークで奉仕している目的なのです」。

そして上人は、本部の数人の職員が、支援建設工事のために、使命感で以って現地に駐在し、我慢強く現地の気候に馴染み、真面目に心して投入してくれたことに感謝しました。

「将来、その大愛村は輝き、生気溢れる人々が集まる場所となり、地域の発展をもたらしてくれるでしょう」。

(慈済月刊六九三期より)

關鍵字

心は菩薩道から離れない

(絵・陳九熹)

菩薩になれるよう学びましょう。聞こえて目にすることができれば、助けることができるのです。

広く見聞きして、世の苦難に心を寄せ、心が菩薩道から離れないよう、行動しましょう。

近頃の気候は正に異常と言えます。国際的に高温で人が亡くなる報道をよく目にします。また、こんなに強い日差しの下で、トタン屋根の家に住んでいる多くの貧しい人は、まるでストーブに放り込まれたかのようで、耐え難い地獄にいる気分に違いありません。

世の中の裕福で幸せな家庭では、子供たちは常に大切にされ、可愛がられていますが、一方、貧困、病、苦難に満ちた人生もあるのです。「苦」というのは言葉で表わせることではなく、日々の実生活は哀れなものです。しかし、私たちは幸いにも、人間(じんかん)菩薩がこの時代に湧き出ているのを目にしています。

菩薩の心で、世の衆生の苦しみに関心を寄せるのです。心に愛があれば、自然と多くの助けを必要とする人と接することができます。人間(じんかん)に苦しみが多いのは、人心が複雑になっているからで、災いを作り出しているだけでなく、気候変動による災難ももたらしているのです。世界に苦難があれば、慈済人は心して、愛で以って、あらゆる国や地域で、リレー式に支援しています。私はこの大いなる因縁を大切にしていると同時に、とても感謝し、感動しています。しかし、「世の中にはこのような苦しみがどれだけあるのだろうか」とも思ってしまいます。私たちの力はとても微弱なのです。

苦しみの無い場所など無いと言われますが、それでも私たちは苦しんでいる人を助けるためにできる限り尽くし、少しでも多く奉仕しなければなりません。決して自分の力が微弱だから何もできないと思わないでください。少しずつ積み重なれば、大きな力になり、広く奉仕できるのです。もし、慈済が初期の頃、助けを必要とする人を目にしなかったら、発心する機会はなく、愛のエネルギーを結集できず、今のように慈善の足跡が百三十六の国と地域に到達することはなかったでしょう。

人口は増え続けていますが、地球は一つしかないため、どうすれば大地を破壊せず、どうすれば気候変動の影響を避けられるでしょうか。仏陀は、衆生に真理を理解させるために、人間(じんかん)にやって来たのです。仏法のたとえに、「衆生の心が浄化されなければ、人間(じんかん)はまるで『火宅』のようだ」とあります。長者が炎に包まれた屋敷にいる子供たちに、早く逃げるよう呼び掛けても、子供たちは依然として欲望を追求し、それに夢中になっているのです。火宅から救い出すにはどうすればいいのでしょう。それには、彼らの心を救わなければなりません。

「心、仏、衆生の三者に違いはありません」。誰もが仏性を持っていますが、長い間無明の煩悩に惑わされて来たため、目覚めることができないのです。ですから学ばなければならず、菩薩道を歩んで「覚り」という目標に向かって進むのです。もし菩薩道を歩まなければ、あなたは迷える無知な子供と同じであり、思いはあっても実践しなければ、いつまでも同じ場所に留まったまま、決して到達することはできません。

この菩薩道がこの世にあるのですから、自分の目で見て学ぶのです。人生の苦しみを知らなくては幸福を作ることはできません。幸福を浪費するだけで楽しみに浸っていたら、絶えず心が動いて、貪、瞋、癡という無明に執われ、地獄にいるように苦しみから逃れられないでしょう。

「人心の浄化と平和な社会」は、私がこの生涯で最もやり遂げたいことです。ですから、毎日の言葉にもこの願いを込めているのです。自分を過小評価しないで、自分に備わっている良知の本性を引き出してください。心の泉を結集すれば、大地を潤すことができ、心の泉が純粋であれば、悟りを開くことができ、人を悟りに導くこともできるのです。

私の師匠は「仏法の為、衆生の為」という言葉をくれ、私は全力を尽くしてきました。慈済人は必ずしも仏教徒ではありませんが、誰もが仏心を持っています。宗教によって名称は仁愛、博愛、大愛と違っても、共に善を行えば、その力は非常に大きなものになります。

八月上旬、慈済人は再度ブラジル南部のリオグランデ‧ド‧スル州を訪れて災害調査をしました。洪水から数カ月が経過していましたが、撮影された写真から災害の爪痕が依然として残っていることが見て取れ、人を派遣して調査と配付をする必要があることが分かったのです。地元の神父は教会の仲間に呼びかけ、慈済人と協力して被害を受けた住民を支援しました。私は、宗教を超越した神父の精神に敬服し、感謝しています。お互いの宗教を尊重し、励まし合って善行することは、即ち善の原点に回帰することに他なりません。

善行を成就して誰かを救うのは、心の一念によります。しかし、因縁が有っても行動に移さず、目も耳も閉じていては、助けを求める人の声も聞こえず、姿も目に入らず、人助けの機会は通り過ぎて、せっかくの思いも無になってしまいます。

「菩薩」とはサンスクリット語で、悟りを開いた情のある人を意味します。菩薩になるにはどのように学べばよいのでしょう?それは非常に簡単です。耳で聞き、目で見れば、助けることができるので、もっと聞いて、見て、一歩ずつ奉仕すれば良いのです。千里の道も第一歩から始まります。菩薩とは単なる固有名詞ではなく、この世に現実に存在するのです。その発心は目に見えず、触ることができなくても、皆さんの努力を結集することで、計り知れない大きな功徳になるのです。

菩薩の精神は清浄で無私の愛であり、広い心を持ち、清浄な意識で以って接するため、生きとし生けるものを愛することができるのです。この世の苦しみに心を寄せ、心も行動も菩薩道から離れず、一途に歩んでください。皆さんが心して精進することを願っています。

(慈済月刊六九四期より)

(絵・陳九熹)

菩薩になれるよう学びましょう。聞こえて目にすることができれば、助けることができるのです。

広く見聞きして、世の苦難に心を寄せ、心が菩薩道から離れないよう、行動しましょう。

近頃の気候は正に異常と言えます。国際的に高温で人が亡くなる報道をよく目にします。また、こんなに強い日差しの下で、トタン屋根の家に住んでいる多くの貧しい人は、まるでストーブに放り込まれたかのようで、耐え難い地獄にいる気分に違いありません。

世の中の裕福で幸せな家庭では、子供たちは常に大切にされ、可愛がられていますが、一方、貧困、病、苦難に満ちた人生もあるのです。「苦」というのは言葉で表わせることではなく、日々の実生活は哀れなものです。しかし、私たちは幸いにも、人間(じんかん)菩薩がこの時代に湧き出ているのを目にしています。

菩薩の心で、世の衆生の苦しみに関心を寄せるのです。心に愛があれば、自然と多くの助けを必要とする人と接することができます。人間(じんかん)に苦しみが多いのは、人心が複雑になっているからで、災いを作り出しているだけでなく、気候変動による災難ももたらしているのです。世界に苦難があれば、慈済人は心して、愛で以って、あらゆる国や地域で、リレー式に支援しています。私はこの大いなる因縁を大切にしていると同時に、とても感謝し、感動しています。しかし、「世の中にはこのような苦しみがどれだけあるのだろうか」とも思ってしまいます。私たちの力はとても微弱なのです。

苦しみの無い場所など無いと言われますが、それでも私たちは苦しんでいる人を助けるためにできる限り尽くし、少しでも多く奉仕しなければなりません。決して自分の力が微弱だから何もできないと思わないでください。少しずつ積み重なれば、大きな力になり、広く奉仕できるのです。もし、慈済が初期の頃、助けを必要とする人を目にしなかったら、発心する機会はなく、愛のエネルギーを結集できず、今のように慈善の足跡が百三十六の国と地域に到達することはなかったでしょう。

人口は増え続けていますが、地球は一つしかないため、どうすれば大地を破壊せず、どうすれば気候変動の影響を避けられるでしょうか。仏陀は、衆生に真理を理解させるために、人間(じんかん)にやって来たのです。仏法のたとえに、「衆生の心が浄化されなければ、人間(じんかん)はまるで『火宅』のようだ」とあります。長者が炎に包まれた屋敷にいる子供たちに、早く逃げるよう呼び掛けても、子供たちは依然として欲望を追求し、それに夢中になっているのです。火宅から救い出すにはどうすればいいのでしょう。それには、彼らの心を救わなければなりません。

「心、仏、衆生の三者に違いはありません」。誰もが仏性を持っていますが、長い間無明の煩悩に惑わされて来たため、目覚めることができないのです。ですから学ばなければならず、菩薩道を歩んで「覚り」という目標に向かって進むのです。もし菩薩道を歩まなければ、あなたは迷える無知な子供と同じであり、思いはあっても実践しなければ、いつまでも同じ場所に留まったまま、決して到達することはできません。

この菩薩道がこの世にあるのですから、自分の目で見て学ぶのです。人生の苦しみを知らなくては幸福を作ることはできません。幸福を浪費するだけで楽しみに浸っていたら、絶えず心が動いて、貪、瞋、癡という無明に執われ、地獄にいるように苦しみから逃れられないでしょう。

「人心の浄化と平和な社会」は、私がこの生涯で最もやり遂げたいことです。ですから、毎日の言葉にもこの願いを込めているのです。自分を過小評価しないで、自分に備わっている良知の本性を引き出してください。心の泉を結集すれば、大地を潤すことができ、心の泉が純粋であれば、悟りを開くことができ、人を悟りに導くこともできるのです。

私の師匠は「仏法の為、衆生の為」という言葉をくれ、私は全力を尽くしてきました。慈済人は必ずしも仏教徒ではありませんが、誰もが仏心を持っています。宗教によって名称は仁愛、博愛、大愛と違っても、共に善を行えば、その力は非常に大きなものになります。

八月上旬、慈済人は再度ブラジル南部のリオグランデ‧ド‧スル州を訪れて災害調査をしました。洪水から数カ月が経過していましたが、撮影された写真から災害の爪痕が依然として残っていることが見て取れ、人を派遣して調査と配付をする必要があることが分かったのです。地元の神父は教会の仲間に呼びかけ、慈済人と協力して被害を受けた住民を支援しました。私は、宗教を超越した神父の精神に敬服し、感謝しています。お互いの宗教を尊重し、励まし合って善行することは、即ち善の原点に回帰することに他なりません。

善行を成就して誰かを救うのは、心の一念によります。しかし、因縁が有っても行動に移さず、目も耳も閉じていては、助けを求める人の声も聞こえず、姿も目に入らず、人助けの機会は通り過ぎて、せっかくの思いも無になってしまいます。

「菩薩」とはサンスクリット語で、悟りを開いた情のある人を意味します。菩薩になるにはどのように学べばよいのでしょう?それは非常に簡単です。耳で聞き、目で見れば、助けることができるので、もっと聞いて、見て、一歩ずつ奉仕すれば良いのです。千里の道も第一歩から始まります。菩薩とは単なる固有名詞ではなく、この世に現実に存在するのです。その発心は目に見えず、触ることができなくても、皆さんの努力を結集することで、計り知れない大きな功徳になるのです。

菩薩の精神は清浄で無私の愛であり、広い心を持ち、清浄な意識で以って接するため、生きとし生けるものを愛することができるのです。この世の苦しみに心を寄せ、心も行動も菩薩道から離れず、一途に歩んでください。皆さんが心して精進することを願っています。

(慈済月刊六九四期より)

關鍵字

見舞金に込められた気持 確実に届けた

厳冬期に地震が起き、家が半壊した水谷育子さんは、直ちに自宅で温かい食事を作って、近所の人に届けた。見舞金を受け取ると、竹筒貯金箱を持ち帰り、孫たちと一緒に善行して慈済にお返しをしたいと言った。

地震の後、娘や孫たちは倹約した生活を送って、損壊した家の再建に頑張ってくれています。

見舞金を受け取ったので、彼女らを連れて美味しいものを食べて、幸せな時間を過ごしたいと思います。残りは家の修理のために貯金します。台湾の慈済からいただいた、心温まるご支援に感謝しています。

私は水谷育子です。年は六十六歳です。国民年金で生活しています。数年前、娘と三人の孫と一緒に小さな家を建てましたが、今年の能登半島地震で家が半壊してしまいました。

私たちが住んでいるのは古い住宅街で、多くの家は古い土壁造りですが、地震ですぐに倒壊してしまいました。幸い、私の家は一部が無事だったので、温かいスープとお握りを作ることができました。そして夫々の家で避難生活をしていた近所の独り暮らしのお年寄りたちに配りました。

あの時はまだとても寒く、温かい食べ物で心まで温まったという言葉を頂きました。その言葉に私も励まされ、その温かさを七尾市の田鶴浜高校の避難所に届けました。被災後まもない援助ができて、皆さんにも喜んでもらいました。

余震が続いていた関係で、私たちは暫くの間、車の中で寝泊まりしていました。八月末になった今でも、いつでも避難できるように、身の回り品を持ち歩いています。地震が起きた時にとても怖い思いをしたので、万全の準備をするようになりました。

最初に台湾の慈善団体が見舞金の配付に来ると聞いた時は信じられず、詐欺か何かと思いました。その後、各方面に確認して、やっと本当だと分かり、今日は感謝の気持ちで受け取りに来ました。台湾も四月に地震被害に遭われたのに、私たちの支援に来てくださり、とても感動しています。

家の修理には非常に多くのお金がかかるので、あちこちから集めた補助金を充てています。生活は決して豊かではありませんが、今日頂いた心温まる見舞金は、娘や孫たちを労る意味で少し使わせていただきたいと思います。長い間、家の修理のために生活を切り詰めて頑張ってくれたので、美味しいものを食べさせて、幸せな時間を過ごそうと思っています。残りは家の修理費に貯金します。

「竹筒歳月」のお話を伺って、私も竹筒を持ち帰りました。孫たちに、毎日善の心を育んで、台湾の慈済から頂いたとても意義のある祝福にお返しをするようにと話して聞かせています。

(慈済月刊六九五期より)

厳冬期に地震が起き、家が半壊した水谷育子さんは、直ちに自宅で温かい食事を作って、近所の人に届けた。見舞金を受け取ると、竹筒貯金箱を持ち帰り、孫たちと一緒に善行して慈済にお返しをしたいと言った。

地震の後、娘や孫たちは倹約した生活を送って、損壊した家の再建に頑張ってくれています。

見舞金を受け取ったので、彼女らを連れて美味しいものを食べて、幸せな時間を過ごしたいと思います。残りは家の修理のために貯金します。台湾の慈済からいただいた、心温まるご支援に感謝しています。

私は水谷育子です。年は六十六歳です。国民年金で生活しています。数年前、娘と三人の孫と一緒に小さな家を建てましたが、今年の能登半島地震で家が半壊してしまいました。

私たちが住んでいるのは古い住宅街で、多くの家は古い土壁造りですが、地震ですぐに倒壊してしまいました。幸い、私の家は一部が無事だったので、温かいスープとお握りを作ることができました。そして夫々の家で避難生活をしていた近所の独り暮らしのお年寄りたちに配りました。

あの時はまだとても寒く、温かい食べ物で心まで温まったという言葉を頂きました。その言葉に私も励まされ、その温かさを七尾市の田鶴浜高校の避難所に届けました。被災後まもない援助ができて、皆さんにも喜んでもらいました。

余震が続いていた関係で、私たちは暫くの間、車の中で寝泊まりしていました。八月末になった今でも、いつでも避難できるように、身の回り品を持ち歩いています。地震が起きた時にとても怖い思いをしたので、万全の準備をするようになりました。

最初に台湾の慈善団体が見舞金の配付に来ると聞いた時は信じられず、詐欺か何かと思いました。その後、各方面に確認して、やっと本当だと分かり、今日は感謝の気持ちで受け取りに来ました。台湾も四月に地震被害に遭われたのに、私たちの支援に来てくださり、とても感動しています。

家の修理には非常に多くのお金がかかるので、あちこちから集めた補助金を充てています。生活は決して豊かではありませんが、今日頂いた心温まる見舞金は、娘や孫たちを労る意味で少し使わせていただきたいと思います。長い間、家の修理のために生活を切り詰めて頑張ってくれたので、美味しいものを食べさせて、幸せな時間を過ごそうと思っています。残りは家の修理費に貯金します。

「竹筒歳月」のお話を伺って、私も竹筒を持ち帰りました。孫たちに、毎日善の心を育んで、台湾の慈済から頂いたとても意義のある祝福にお返しをするようにと話して聞かせています。

(慈済月刊六九五期より)

關鍵字

飢餓をゼロに 茶碗一杯の幸せ

2019年春、サイクロン・イダイが東アフリカ3国を襲った。モザンビーク・ソファラ州のテントエリアで、慈善組織の炊き出しを子どもたちが待っていた。(撮影・蕭耀華)

異常気象、地域間の衝突、インフレの深刻化によって食糧不足のリスクが増大しつつある。命を守るための食料援助など慈善支援は、万難を排して行わなければならない。

食に余裕が出るようになれば、「腹八分にして二分で人助け」することも、より多くの人を飢餓から救うこともできる。

【慈済の活動XSDGs】シリーズ

食糧不足で起きる災害を防ぐ

文/葉子豪
訳/高雄外国語チーム日本語組

気候変動により壊滅的な飢餓に直面しているマダガスカル。子どもたちは深刻な栄養不良に陥っている。(写真提供・慈済基金会)

国連が初めて「気候変動による飢饉」と位置づけた国が、アフリカ南東部のインド洋に浮かぶ島国マダガスカルである。マダガスカルは四年間続いた干ばつによって農作物が不作になった。その上、二〇二二年一月下旬から立て続けに四つのサイクロンに襲われ、その規模も頻度も過去の平均値を上まわっていたため、被害はさらに広がった。

飢饉はどれほど深刻だったのか。現地の人は生き延びるためにイナゴを捕まえ、野生のサボテンを食べたりして空腹を満たし、靴を作るための革まで煮て食べたが、飢饉は深刻化する一方だった。乳飲み子を抱えた母親は栄養不足で母乳が出ず、産着にくるまれた赤ちゃんは痩せ細って骨と皮だけになっていた。マダガスカルでは何万という人が餓死寸前になった。

国連の持続可能な開発目標(SDGs)の十七項目のうち、「貧困をなくそう」に続いて二番目に挙げられているのが「飢餓をゼロに」である。現在の世界の食料事情を見ると、八十億の人口のうち六割の約五十億人が十分な食料を得ている一方、依然として極めて深刻な飢餓が存在している。

国連の統計によると、二〇二二年現在、世界で二十四億人が重度または中程度の食料不安にあり、七億三千五百万人が慢性的な食糧不足に直面している。また、気候変動が深刻化し、戦争や武装衝突が多発するにつれ、食糧不足を背景とした人道危機は今後ますます深刻化すると見られている。

延べ千七百万人が台湾米の支援を受けた

マダガスカルにおいて、慈済基金会は現地のライオンズクラブと共同で食料支援を行った。二〇二二年四月には南部のマナンジャリ(Mananjary)地域の四集落で千四百六十世帯に食料と日用品セットを配付した。慈済にとっては初めてのマダガスカルでの活動で、SDGsの「飢餓をゼロに」の目標に対応している、積極的な取り組みでもあった。

二〇二三年、船でマダガスカル島に到着した百二十トンの台湾産白米は、三日間かけて泥道を揺られ、カヌーに積まれて南東部と南部へ運ばれた後、計十回の配付によって四千九百七十三世帯の二万五千人に手渡された。

四十度を超える灼熱の太陽の下、憔悴した住民の頬に笑みが浮かんだ。女性たちは二十キロの米と栄養補給セット、とうもろこし、ピーナッツ等を頭に載せ、数時間歩いて帰宅するのも厭わなかった。何しろ、ようやく食料が手に入ったのだから。配付を取り仕切ったライオンズクラブ副会長のユージニーさんは、住民に物資の由来を説明すると共に、彼らに合掌を教え、遠い島からこの島に手を差し伸べてくれた支援者に「慈済の皆さん、ありがとう!」と感謝した。

マダガスカルでは、二千八百万余りの人口のうち七割が貧困線を下回っている。慈済ではその後も食料支援を継続し、今年は二百四十トンの台湾米を贈る予定だ。

「台湾政府農業部農業署がこれまで二十一年間にわたり愛の米を提供してくださったおかげで、途上国の被災者や貧しい人々に生きる希望を与えることができました」。国際援助事務を統括する慈済基金会の熊士民(シオン・スーミン)副執行長が、政府の備蓄米を利用した国際援助の成果について説明した。

台湾政府が、国際支援を行う民間団体を対象に備蓄米の無償申請を開放して以来、慈済は二〇〇三年から二〇二三年までに十五万四千トン余りの台湾米の輸出を申請し、国連により中程度から最悪レベルの食糧危機リスク国と位置づけられている十七カ国を含む計二十カ国の、延べ千七百八十九万人に届けた。

二〇二四年に慈済が申請した備蓄米は、アフリカと中米を合わせた十の国と地域に届けられる予定だ。中米の支援対象国のうち、最も状況が深刻なのは、武装組織による暴力事件が多発しているハイチだ。慈済では貧しい人々の手に無事に食糧が届くよう、以前より提携関係にある現地の台湾企業を通じ、軍や警察、政府機関の協力を得て通関から配付までの日数をできるだけ短縮し、順調に配付できるよう図っている。

「これまでにアフリカ五十五カ国中、三十六カ国で支援を行っており、現在も十三カ国で継続的に支援を行っています」と話すのは、慈済基金会宗教処海外慈善チームの楊琇光(ヤン・シュウグァン)さんだ。海外支援は現地の文化に沿って、輸送による環境負荷を考慮し、近年では支援物資に現地調達の割合を増やしているという。

例えば、慈済が三十年以上にわたって支援を行ってきた東アフリカのエチオピアでは、一億二千万の人口のうち三百万人が内戦や干ばつにより難民となっており、慈済は二〇二二年から難民に食料セットを配付し、二〇二三年五月にはキドミア協会(KIDMIA MAHIBER)と協力して、南部の干ばつ被害地を支援したが、この際の支援物資はアフリカ現地で調達したものである。

慈済を通じて台湾愛心米がマダガスカル(写真1 撮影・藍祥佑)、モザンビーク(写真2 撮影・蕭耀華)など20カ国に届けられた。また、2003年、インドネシアにて慈済は初めて政府の備蓄穀物による食糧援助を行った。
2011年、ジャカルタでの愛心米配付の際、お年寄りに代わって愛心米を運ぶ慈済青年ボランティアのメンバー。(写真3 撮影・チャンドラ・ウィジャヤ)

種籾を提供して農耕再開を支援

SDGsの目標2「飢餓をゼロに」のターゲットには、全ての人が一年中安全かつ栄養のある食料を十分得られるようにすること、栄養不良を解消すること、また食料の生産性を上げ、小規模食料生産者の所得を増加させることなど、持続可能な農業に関する項目が含まれている。食糧不足や食料価格の高騰に直面している国々にとって、食料援助は飢餓を緩和する恵みの雨ではあるが、それだけではなく、地元の食料自給率を高め、農業生産力を維持することで、食料危機へのレジリエンスを強化することも可能だ。

慈済では食料の緊急支援に加え、現地の条件やニーズに沿って、種や肥料、灌漑設備などで農耕の再開を支援している。熊副執行長は、「慈済は地域の環境や生活文化、気候風土が農耕に適しているかどうかを丹念に調査しています。農村であれば当然農業の方面からアプローチすることになります」と簡潔に説明した。

話は一九九一年に遡るが、慈済が最初に中国華東大水害の災害支援をした時、證厳法師は災害支援チームに、食料支援に加え、農民に種籾を提供するよう指示した。実った米は食料になるだけでなく、翌年の種にもなるのだ。

一九九四年にカンボジア西部が干ばつと洪水災害に見舞われた際は、米や穀物の種の他、百台余りの給水ポンプを各被災地に送り、川の水や溜まり水を汲み上げて、涸田を灌漑することで、田植えに間に合わせた。ポンプや種の支援は、被災地の農業再生につながったことから、一九九五年四月、カンボジア内政部副大臣の何速将軍が復興した農地で収穫された米を携えて静思精舎を訪れ、支援を受けた農民に代わって謝意を伝えた。

また、二〇〇〇年以降に行われた国際災害支援のうち、二〇〇八年にサイクロン・ナルギスに襲われたミャンマーに対するその後の農業再生および農村活性化は、飢餓や貧困の解消におけるモデルケースと言えるだろう。

慈済ミャンマー連絡所現責任者の李金蘭(リー・ジンラン)さんは、災害後の被害調査時の光景を今も忘れられないと言う。被災した農村は一面の廃墟と化し、生き残った農民たちは家も耕牛も失い、農地さえも高潮による塩害を受けていた。海外からの資金援助がなければ、農民たちは土地売却の波に巻き込まれていたはずだ。幸い慈済がすぐに早熟の種籾や肥料を無償で提供したので、農民たちは、被災と借金の二重苦に陥ることなく、農地を再生し、故郷を復興することができた。

慈済人は災害調査と物資の配付を同時に行い、村人たちに「一日に五十銭を貯めて善を行う」という慈済の「竹筒歳月」の精神を紹介した。しかし、農民の生活は苦しく、貯金する余裕などない。その時、農民の一人が「代わりに毎日一つかみの米を貯めてはどうか」と提案した。こうしてミャンマー特有の「米貯金箱」が誕生したのである。

「一つかみの米で人助けができると聞いて、それなら簡単だと感じたのでしょう。村のほとんどの人がこの活動に参加してくれたのです。集まった米で村の貧しい人を助けることができました。農民自身だけでなく、より貧しい人たちも食料不足を免れたのです」と李さんが言った。

飢餓をなくすための取り組みの1つに、農村における食料生産力の向上がある。慈済は多数の国において、種子の提供や灌漑設備支援といった災害後の農耕再開を支援している(撮影・蕭耀華)。

2023年10月、大洪水が起きたミャンマー中部。今年2月、慈済は被災地のオッカンで施肥の時期に間に合うよう肥料を配付した。慈済から肥料を受け取る農民(撮影・パイオ・パイエ・アウン)。

二千人で農業用水を運ぶ

「米貯金箱」活動を通じて、ミャンマーの村人たちの間には「腹八分にして二分で人助け」という考え方が広まり、貧富にかかわらず善行するようになった。また、慈済人は人種、文化、食習慣の全く異なるアフリカでも菜園や農場を開拓し、その収穫でより支援を必要としている人々を助けている。

例えば、東アフリカのモザンビークでは、二〇一九年のサイクロン・イダイ被害の後、現地の慈済ボランティアは首都で行われていた農耕による支援方式を中部の被災地ソファラ州ニャマタンダ郡メトゥシラに広げた。メトゥシラの「大愛農場」は当初たったの二ヘクタールしかなかったが、それにもかかわらず、千人以上が自発的に慈善農耕に参加してくれた。

用水路が整備されていないモザンビークでは、農地に撒く水は人力で運ばなければならず、高齢で水を運べない農民も少なくないため、彼らは無償で土地を慈済に貸した。慈済モザンビーク連絡所責任者の蔡岱霖(ツァイ・ダイリン)さんは、「ニャマタンダ郡では二千人余りのボランティアが水汲みネットワークを作り、井戸や川で水を汲んでは農地に撒いてくれます。本当に多くの人が力を合わせています」と賞賛を込めて言った。

「大愛農場」では野菜や果物が豊かに実っている。アフリカ人にとって欠かせない主食のとうもろこし以外に、かぼちゃ、トマト、さつまいもの葉などビタミンが豊富な野菜類もあり、大きなピーナッツはタンパク質や油脂の重要な供給源である。

元々は貧しい人たちを助けるために開拓された農場だったが、予想外だったのは、二〇二〇年四月以降、新型コロナの流行によって全国が緊急事態に突入したことだ。都市でロックダウンが開始され、仕事がなくなった人々は故郷に帰る他なかった。メトゥシラの大愛農場で栽培された野菜や果物は、折良く帰郷者の生活を支えるのに役立ったのである。

「今年から新たに十六ヘクタールでとうもろこしの栽培が始まりました。これは初めての主食用作物の大規模栽培になります。収穫は売り物になるのではなく、とうもろこし粉にして小学生の給食にすることを、農場ボランティアたちは皆知っています」と蔡さんは説明した。

ニャマタンダ郡には慈済の支援で建設されたホアキン・マラ小学校がある。この小学校では、貧しい家庭の子どもたちはお腹が空いて授業に集中できず、学校を休むことも多かったという。

「去年から温かい給食の提供を始め、今年は週二回に増やしました。大愛農場の収穫だけでは五百人以上の児童の給食の半年分にしかならず、残りは依然として台湾の愛心米に頼っていますが、自給自足を目指して頑張ります」と蔡さんは誓った。

農耕プロジェクトを通じて自ら収穫したとうもろこし粉を頭に載せ、南アフリカのボランティアとともに貧しい家を訪問するマラウイの村人(写真1)。現地の多くの村で慈済が贈った種が使われ(写真2)、収穫は慈善活動に充てられる。(撮影・袁亜棋)

一粒のとうもろこしが命を救う

アフリカ最南端、南アフリカ共和国のダーバン市では、現地ボランティアが各地区に設けられた二百カ所余りの炊き出し場所で、孤児やお年寄りなどに温かい食事を提供している他、大愛菜園も運営している。

「私たちは現地ボランティアを通じ、援助を待つのではなく自分たちで動くよう地域に働きかけています。努力さえすれば自力で野菜の栽培ができるだけでなく、他の人に分け与えることもできるのです」。

こう語るのはダーバン市在住の慈済ボランティア袁亜棋(ユエン・ヤーチー)さんだ。菜園の普及状況に関しては「正直に言って思うような成果は出ていない」と袁さんは言う。周辺の国に比べて経済状況の比較的良い南アフリカでは、低所得者は政府や慈善団体から支援を受けられる。長い間、支援を受け続けてきた彼らは「援助依存」に陥っていたのである。地域の若者たちに働きかけることができなかったので、現地の中高年女性ボランティアたちが慈済青年ボランティアと共に畑を耕し、採れた野菜や「愛心米(支援米)」で炊き出しを維持している。

「全ての地区が自力で農業を営むようになってほしいと思います。そうすれば、援助依存を断ち切ることができます。現地ボランティアには、これこそが證厳法師の精神であり、精舎の師父たちが『一日働かねば、一日食せず』の精神の下、農業や手工業で生計を立て、さらに人助けをしたのが慈済の起源なのだと話しています。この精神が伝わることを願っています」と袁さんは気持ちを込めて懇ろに語った。

この精神は同じアフリカの国マラウイに伝わった。慈済の呼びかけに応じ、ブランタイア市では七集落の農民五十人が農耕プロジェクトに参加してくれた。慈済はとうもろこしや大豆の種を提供し、彼らの自立を支援した。

六十歳のアニーさんは二〇一九年に慈済に加わった。彼女は一・五ヘクタールの農地を持っており、とうもろこしを栽培していたが、今年はエルニーニョ現象による雨不足で、たったの三百五十キロしか収穫できなかった。それにもかかわらず、彼女はそのうち百キロを寄付したのである。心配したボランティアは「ただでさえ少ない収穫を寄付してしまって、生活は大丈夫なのですか」と尋ねた。

「慈済がくれた種がなければ、今、私たちの手には何もなかったでしょう。私はもう必要なだけ持っています。ですから、感謝の心で、この愛をより多くの人にシェアしたいのです」。

アニーさんも、また同じくとうもろこしを寄付した現地ボランティアのステラさんも、異口同音にこう答えたのであった。おしなべて貧しいこの地域で、この愛はより多くの人を飢餓から救っている。

慈済の支援で建設されたモザンビークのホアキン・マラ小学校。現地慈済ボランティアと学校側が協力し、農場の収穫と台湾愛心米を使って温かい食事を提供する「給食プロジェクト」に取り組んでいる。(写真提供・モザンビーク連絡所)

食料システムの転換で全人類を救う

二〇二三年、COP28国連気候変動枠組条約第二十八回締約国会議において食料問題が初めて焦点となった。また、今年六月ドイツで開かれたCOP29の事前ミーティングでは、食料システムの転換を年末に開かれる大会の重要議題とすることが確認された。この先、飢餓をなくし、持続可能な方法で世界の人口を支えるためには、食料生産量を増やすと同時に二酸化炭素の排出量を削減し、地球の気温上昇を一・五度以下に抑えなければならない。

壊滅的な飢餓を防止する唯一の解決策というものはない。とはいえ、自給力の回復、持続可能な農業の普及発展、食品ロスの削減が解決の鍵と言えるだろう。慈済では長年にわたり、貧困による食料不足に直面している国や深刻な災害が発生した国に対し、食料支援を行ってきた。まず被災者の生存を確保し、その後も飢餓の緩和と持続的な食料確保を目指し、長期的に農地再生を支援している。

これは法師のおっしゃる「種は何世代にもわたり収穫をもたらす。愛も、幾年月と続いて永遠に尽きることはない」という言葉の通りだ。物資が尽きることはあっても、人を思いやるこの愛は、尽きることはないのである。

(慈済月刊六九三期より)

2019年春、サイクロン・イダイが東アフリカ3国を襲った。モザンビーク・ソファラ州のテントエリアで、慈善組織の炊き出しを子どもたちが待っていた。(撮影・蕭耀華)

異常気象、地域間の衝突、インフレの深刻化によって食糧不足のリスクが増大しつつある。命を守るための食料援助など慈善支援は、万難を排して行わなければならない。

食に余裕が出るようになれば、「腹八分にして二分で人助け」することも、より多くの人を飢餓から救うこともできる。

【慈済の活動XSDGs】シリーズ

食糧不足で起きる災害を防ぐ

文/葉子豪
訳/高雄外国語チーム日本語組

気候変動により壊滅的な飢餓に直面しているマダガスカル。子どもたちは深刻な栄養不良に陥っている。(写真提供・慈済基金会)

国連が初めて「気候変動による飢饉」と位置づけた国が、アフリカ南東部のインド洋に浮かぶ島国マダガスカルである。マダガスカルは四年間続いた干ばつによって農作物が不作になった。その上、二〇二二年一月下旬から立て続けに四つのサイクロンに襲われ、その規模も頻度も過去の平均値を上まわっていたため、被害はさらに広がった。

飢饉はどれほど深刻だったのか。現地の人は生き延びるためにイナゴを捕まえ、野生のサボテンを食べたりして空腹を満たし、靴を作るための革まで煮て食べたが、飢饉は深刻化する一方だった。乳飲み子を抱えた母親は栄養不足で母乳が出ず、産着にくるまれた赤ちゃんは痩せ細って骨と皮だけになっていた。マダガスカルでは何万という人が餓死寸前になった。

国連の持続可能な開発目標(SDGs)の十七項目のうち、「貧困をなくそう」に続いて二番目に挙げられているのが「飢餓をゼロに」である。現在の世界の食料事情を見ると、八十億の人口のうち六割の約五十億人が十分な食料を得ている一方、依然として極めて深刻な飢餓が存在している。

国連の統計によると、二〇二二年現在、世界で二十四億人が重度または中程度の食料不安にあり、七億三千五百万人が慢性的な食糧不足に直面している。また、気候変動が深刻化し、戦争や武装衝突が多発するにつれ、食糧不足を背景とした人道危機は今後ますます深刻化すると見られている。

延べ千七百万人が台湾米の支援を受けた

マダガスカルにおいて、慈済基金会は現地のライオンズクラブと共同で食料支援を行った。二〇二二年四月には南部のマナンジャリ(Mananjary)地域の四集落で千四百六十世帯に食料と日用品セットを配付した。慈済にとっては初めてのマダガスカルでの活動で、SDGsの「飢餓をゼロに」の目標に対応している、積極的な取り組みでもあった。

二〇二三年、船でマダガスカル島に到着した百二十トンの台湾産白米は、三日間かけて泥道を揺られ、カヌーに積まれて南東部と南部へ運ばれた後、計十回の配付によって四千九百七十三世帯の二万五千人に手渡された。

四十度を超える灼熱の太陽の下、憔悴した住民の頬に笑みが浮かんだ。女性たちは二十キロの米と栄養補給セット、とうもろこし、ピーナッツ等を頭に載せ、数時間歩いて帰宅するのも厭わなかった。何しろ、ようやく食料が手に入ったのだから。配付を取り仕切ったライオンズクラブ副会長のユージニーさんは、住民に物資の由来を説明すると共に、彼らに合掌を教え、遠い島からこの島に手を差し伸べてくれた支援者に「慈済の皆さん、ありがとう!」と感謝した。

マダガスカルでは、二千八百万余りの人口のうち七割が貧困線を下回っている。慈済ではその後も食料支援を継続し、今年は二百四十トンの台湾米を贈る予定だ。

「台湾政府農業部農業署がこれまで二十一年間にわたり愛の米を提供してくださったおかげで、途上国の被災者や貧しい人々に生きる希望を与えることができました」。国際援助事務を統括する慈済基金会の熊士民(シオン・スーミン)副執行長が、政府の備蓄米を利用した国際援助の成果について説明した。

台湾政府が、国際支援を行う民間団体を対象に備蓄米の無償申請を開放して以来、慈済は二〇〇三年から二〇二三年までに十五万四千トン余りの台湾米の輸出を申請し、国連により中程度から最悪レベルの食糧危機リスク国と位置づけられている十七カ国を含む計二十カ国の、延べ千七百八十九万人に届けた。

二〇二四年に慈済が申請した備蓄米は、アフリカと中米を合わせた十の国と地域に届けられる予定だ。中米の支援対象国のうち、最も状況が深刻なのは、武装組織による暴力事件が多発しているハイチだ。慈済では貧しい人々の手に無事に食糧が届くよう、以前より提携関係にある現地の台湾企業を通じ、軍や警察、政府機関の協力を得て通関から配付までの日数をできるだけ短縮し、順調に配付できるよう図っている。

「これまでにアフリカ五十五カ国中、三十六カ国で支援を行っており、現在も十三カ国で継続的に支援を行っています」と話すのは、慈済基金会宗教処海外慈善チームの楊琇光(ヤン・シュウグァン)さんだ。海外支援は現地の文化に沿って、輸送による環境負荷を考慮し、近年では支援物資に現地調達の割合を増やしているという。

例えば、慈済が三十年以上にわたって支援を行ってきた東アフリカのエチオピアでは、一億二千万の人口のうち三百万人が内戦や干ばつにより難民となっており、慈済は二〇二二年から難民に食料セットを配付し、二〇二三年五月にはキドミア協会(KIDMIA MAHIBER)と協力して、南部の干ばつ被害地を支援したが、この際の支援物資はアフリカ現地で調達したものである。

慈済を通じて台湾愛心米がマダガスカル(写真1 撮影・藍祥佑)、モザンビーク(写真2 撮影・蕭耀華)など20カ国に届けられた。また、2003年、インドネシアにて慈済は初めて政府の備蓄穀物による食糧援助を行った。
2011年、ジャカルタでの愛心米配付の際、お年寄りに代わって愛心米を運ぶ慈済青年ボランティアのメンバー。(写真3 撮影・チャンドラ・ウィジャヤ)

種籾を提供して農耕再開を支援

SDGsの目標2「飢餓をゼロに」のターゲットには、全ての人が一年中安全かつ栄養のある食料を十分得られるようにすること、栄養不良を解消すること、また食料の生産性を上げ、小規模食料生産者の所得を増加させることなど、持続可能な農業に関する項目が含まれている。食糧不足や食料価格の高騰に直面している国々にとって、食料援助は飢餓を緩和する恵みの雨ではあるが、それだけではなく、地元の食料自給率を高め、農業生産力を維持することで、食料危機へのレジリエンスを強化することも可能だ。

慈済では食料の緊急支援に加え、現地の条件やニーズに沿って、種や肥料、灌漑設備などで農耕の再開を支援している。熊副執行長は、「慈済は地域の環境や生活文化、気候風土が農耕に適しているかどうかを丹念に調査しています。農村であれば当然農業の方面からアプローチすることになります」と簡潔に説明した。

話は一九九一年に遡るが、慈済が最初に中国華東大水害の災害支援をした時、證厳法師は災害支援チームに、食料支援に加え、農民に種籾を提供するよう指示した。実った米は食料になるだけでなく、翌年の種にもなるのだ。

一九九四年にカンボジア西部が干ばつと洪水災害に見舞われた際は、米や穀物の種の他、百台余りの給水ポンプを各被災地に送り、川の水や溜まり水を汲み上げて、涸田を灌漑することで、田植えに間に合わせた。ポンプや種の支援は、被災地の農業再生につながったことから、一九九五年四月、カンボジア内政部副大臣の何速将軍が復興した農地で収穫された米を携えて静思精舎を訪れ、支援を受けた農民に代わって謝意を伝えた。

また、二〇〇〇年以降に行われた国際災害支援のうち、二〇〇八年にサイクロン・ナルギスに襲われたミャンマーに対するその後の農業再生および農村活性化は、飢餓や貧困の解消におけるモデルケースと言えるだろう。

慈済ミャンマー連絡所現責任者の李金蘭(リー・ジンラン)さんは、災害後の被害調査時の光景を今も忘れられないと言う。被災した農村は一面の廃墟と化し、生き残った農民たちは家も耕牛も失い、農地さえも高潮による塩害を受けていた。海外からの資金援助がなければ、農民たちは土地売却の波に巻き込まれていたはずだ。幸い慈済がすぐに早熟の種籾や肥料を無償で提供したので、農民たちは、被災と借金の二重苦に陥ることなく、農地を再生し、故郷を復興することができた。

慈済人は災害調査と物資の配付を同時に行い、村人たちに「一日に五十銭を貯めて善を行う」という慈済の「竹筒歳月」の精神を紹介した。しかし、農民の生活は苦しく、貯金する余裕などない。その時、農民の一人が「代わりに毎日一つかみの米を貯めてはどうか」と提案した。こうしてミャンマー特有の「米貯金箱」が誕生したのである。

「一つかみの米で人助けができると聞いて、それなら簡単だと感じたのでしょう。村のほとんどの人がこの活動に参加してくれたのです。集まった米で村の貧しい人を助けることができました。農民自身だけでなく、より貧しい人たちも食料不足を免れたのです」と李さんが言った。

飢餓をなくすための取り組みの1つに、農村における食料生産力の向上がある。慈済は多数の国において、種子の提供や灌漑設備支援といった災害後の農耕再開を支援している(撮影・蕭耀華)。

2023年10月、大洪水が起きたミャンマー中部。今年2月、慈済は被災地のオッカンで施肥の時期に間に合うよう肥料を配付した。慈済から肥料を受け取る農民(撮影・パイオ・パイエ・アウン)。

二千人で農業用水を運ぶ

「米貯金箱」活動を通じて、ミャンマーの村人たちの間には「腹八分にして二分で人助け」という考え方が広まり、貧富にかかわらず善行するようになった。また、慈済人は人種、文化、食習慣の全く異なるアフリカでも菜園や農場を開拓し、その収穫でより支援を必要としている人々を助けている。

例えば、東アフリカのモザンビークでは、二〇一九年のサイクロン・イダイ被害の後、現地の慈済ボランティアは首都で行われていた農耕による支援方式を中部の被災地ソファラ州ニャマタンダ郡メトゥシラに広げた。メトゥシラの「大愛農場」は当初たったの二ヘクタールしかなかったが、それにもかかわらず、千人以上が自発的に慈善農耕に参加してくれた。

用水路が整備されていないモザンビークでは、農地に撒く水は人力で運ばなければならず、高齢で水を運べない農民も少なくないため、彼らは無償で土地を慈済に貸した。慈済モザンビーク連絡所責任者の蔡岱霖(ツァイ・ダイリン)さんは、「ニャマタンダ郡では二千人余りのボランティアが水汲みネットワークを作り、井戸や川で水を汲んでは農地に撒いてくれます。本当に多くの人が力を合わせています」と賞賛を込めて言った。

「大愛農場」では野菜や果物が豊かに実っている。アフリカ人にとって欠かせない主食のとうもろこし以外に、かぼちゃ、トマト、さつまいもの葉などビタミンが豊富な野菜類もあり、大きなピーナッツはタンパク質や油脂の重要な供給源である。

元々は貧しい人たちを助けるために開拓された農場だったが、予想外だったのは、二〇二〇年四月以降、新型コロナの流行によって全国が緊急事態に突入したことだ。都市でロックダウンが開始され、仕事がなくなった人々は故郷に帰る他なかった。メトゥシラの大愛農場で栽培された野菜や果物は、折良く帰郷者の生活を支えるのに役立ったのである。

「今年から新たに十六ヘクタールでとうもろこしの栽培が始まりました。これは初めての主食用作物の大規模栽培になります。収穫は売り物になるのではなく、とうもろこし粉にして小学生の給食にすることを、農場ボランティアたちは皆知っています」と蔡さんは説明した。

ニャマタンダ郡には慈済の支援で建設されたホアキン・マラ小学校がある。この小学校では、貧しい家庭の子どもたちはお腹が空いて授業に集中できず、学校を休むことも多かったという。

「去年から温かい給食の提供を始め、今年は週二回に増やしました。大愛農場の収穫だけでは五百人以上の児童の給食の半年分にしかならず、残りは依然として台湾の愛心米に頼っていますが、自給自足を目指して頑張ります」と蔡さんは誓った。

農耕プロジェクトを通じて自ら収穫したとうもろこし粉を頭に載せ、南アフリカのボランティアとともに貧しい家を訪問するマラウイの村人(写真1)。現地の多くの村で慈済が贈った種が使われ(写真2)、収穫は慈善活動に充てられる。(撮影・袁亜棋)

一粒のとうもろこしが命を救う

アフリカ最南端、南アフリカ共和国のダーバン市では、現地ボランティアが各地区に設けられた二百カ所余りの炊き出し場所で、孤児やお年寄りなどに温かい食事を提供している他、大愛菜園も運営している。

「私たちは現地ボランティアを通じ、援助を待つのではなく自分たちで動くよう地域に働きかけています。努力さえすれば自力で野菜の栽培ができるだけでなく、他の人に分け与えることもできるのです」。

こう語るのはダーバン市在住の慈済ボランティア袁亜棋(ユエン・ヤーチー)さんだ。菜園の普及状況に関しては「正直に言って思うような成果は出ていない」と袁さんは言う。周辺の国に比べて経済状況の比較的良い南アフリカでは、低所得者は政府や慈善団体から支援を受けられる。長い間、支援を受け続けてきた彼らは「援助依存」に陥っていたのである。地域の若者たちに働きかけることができなかったので、現地の中高年女性ボランティアたちが慈済青年ボランティアと共に畑を耕し、採れた野菜や「愛心米(支援米)」で炊き出しを維持している。

「全ての地区が自力で農業を営むようになってほしいと思います。そうすれば、援助依存を断ち切ることができます。現地ボランティアには、これこそが證厳法師の精神であり、精舎の師父たちが『一日働かねば、一日食せず』の精神の下、農業や手工業で生計を立て、さらに人助けをしたのが慈済の起源なのだと話しています。この精神が伝わることを願っています」と袁さんは気持ちを込めて懇ろに語った。

この精神は同じアフリカの国マラウイに伝わった。慈済の呼びかけに応じ、ブランタイア市では七集落の農民五十人が農耕プロジェクトに参加してくれた。慈済はとうもろこしや大豆の種を提供し、彼らの自立を支援した。

六十歳のアニーさんは二〇一九年に慈済に加わった。彼女は一・五ヘクタールの農地を持っており、とうもろこしを栽培していたが、今年はエルニーニョ現象による雨不足で、たったの三百五十キロしか収穫できなかった。それにもかかわらず、彼女はそのうち百キロを寄付したのである。心配したボランティアは「ただでさえ少ない収穫を寄付してしまって、生活は大丈夫なのですか」と尋ねた。

「慈済がくれた種がなければ、今、私たちの手には何もなかったでしょう。私はもう必要なだけ持っています。ですから、感謝の心で、この愛をより多くの人にシェアしたいのです」。

アニーさんも、また同じくとうもろこしを寄付した現地ボランティアのステラさんも、異口同音にこう答えたのであった。おしなべて貧しいこの地域で、この愛はより多くの人を飢餓から救っている。

慈済の支援で建設されたモザンビークのホアキン・マラ小学校。現地慈済ボランティアと学校側が協力し、農場の収穫と台湾愛心米を使って温かい食事を提供する「給食プロジェクト」に取り組んでいる。(写真提供・モザンビーク連絡所)

食料システムの転換で全人類を救う

二〇二三年、COP28国連気候変動枠組条約第二十八回締約国会議において食料問題が初めて焦点となった。また、今年六月ドイツで開かれたCOP29の事前ミーティングでは、食料システムの転換を年末に開かれる大会の重要議題とすることが確認された。この先、飢餓をなくし、持続可能な方法で世界の人口を支えるためには、食料生産量を増やすと同時に二酸化炭素の排出量を削減し、地球の気温上昇を一・五度以下に抑えなければならない。

壊滅的な飢餓を防止する唯一の解決策というものはない。とはいえ、自給力の回復、持続可能な農業の普及発展、食品ロスの削減が解決の鍵と言えるだろう。慈済では長年にわたり、貧困による食料不足に直面している国や深刻な災害が発生した国に対し、食料支援を行ってきた。まず被災者の生存を確保し、その後も飢餓の緩和と持続的な食料確保を目指し、長期的に農地再生を支援している。

これは法師のおっしゃる「種は何世代にもわたり収穫をもたらす。愛も、幾年月と続いて永遠に尽きることはない」という言葉の通りだ。物資が尽きることはあっても、人を思いやるこの愛は、尽きることはないのである。

(慈済月刊六九三期より)

關鍵字

三十年を振り返る 愛で以て傷を癒す

華人を標的にしたジャカルタ暴動、ジャカルタの大洪水、スマトラ島沖地震(インド洋大津波)、新型コロナウイルス……

この三十年間、激甚災害の支援の度に、慈済インドネシア支部は歴史を書き換え、愛で以て垣根を取り払うことに取り組み、傷を癒して来た。

2023年9月、慈済インドネシア支部は30周年を迎え、郭再源師兄(グォ・ザイユェン、中央左)、黃栄年師兄(ホヮン・ロンニェン、中央右)及び台湾から出席した慈済基金会の顏博文(イェン・ボーウェン)執行長(中央)が喜びを分かち合った。

二〇二三年、慈済インドネシア支部は三十周年を迎えた。私は一九九五年に慈済に参加し、既に二十八年が経過したが、自分はとても幸福であり、インドネシアも幸福に満ちている場所だと思っている。それは、こんなに多くの師兄や師姐が共に慈済の志業を行っているからである。

現在、慈済インドネシア支部には一万五千人余りのボランティアがいて、十八の連絡拠点がある。ジャカルタに荘厳な静思堂を建立し、慈済小学校、慈済病院及び大愛テレビ局もできた。それらは、私が慈済に参加した頃には考えられなかったことである。

第一回大規模医療ケア活動

一九九三年、劉素美(リュウ・スゥーメイ)師姐が数人の台湾実業家夫人と共に慈済の志業を始め、慈済をインドネシアに根付かせた。もし、素美師姐が勇猛果敢に担っていなければ、今日の慈済インドネシア支部はなかっただろう。私たちは彼女にとても感謝している。最初の慈善ケースとして、貧しい家庭の子供への学費支援、第一回災害支援として、ムラピ山の噴火後に行った被災者支援がある。集まった募金をジョグジャカルタ省の社会福祉局に渡し、十二戸の「大愛の家」を建てた。

一九九五年から、慈済はジャカルタ近隣のタンゲラン県衛生局と共同で、肺結核撲滅プロジェクトを進め、定期的に薬を配付するようになった。私はその時初めて、インドネシアの肺結核症例が当時の世界で第二位だったことと、六カ月から九カ月間継続して薬を服用し、食生活と生活習慣に気をつければ、必ず治ることを知った。

慈済がミルク、緑豆、米等の物資を提供し、ボランティアが二週間に一回体重計を持参して患者の体重を測定した。体重の増加は、栄養が付き、病状が改善されたことを意味するからだ。しかし一部の患者には、ミネラルウォーターを服の中に入れて、体重が増えたように見せかける人もいた。というのも、彼らのライフスタイルでは十分な休息を取る余裕がなかったり、栄養のある食べ物を全て子供に残したりしていたからだ。私たちは絶えず彼らに、病をしっかり治すようにと説得した。一九九九年までに、千百八十三人の患者をケアした。

当時、私たちは肺結核のことをよく理解しておらず、至近距離で接する時はマスクと手袋を着用する必要があることを知らなかった。シンガポールの慈済人医会の医師が、私たちが患者の手を引いている写真を見て、他人をケアする前に、先ず自分を守るようにと教えてくれた。その時初めて、ウイルスの危険性を知った。それは、慈済がインドネシアで最初に行った大規模医療活動だった。当時は誰もがとても感動し、実践している中で、證厳法師がおっしゃる「人傷つけば我痛み、人苦しめば我悲しむ」という言葉の意味を、つくづく実感した。

私はシナールマスグループ創設者黄奕聡(フヮン・イーツォン)さんの秘書をしていたが、一九九八年五月九日、黄おじさんが夫人と息子の栄年(ロンニェン)師兄を連れて台湾を訪れ、法師に拝謁した。それは知らず知らずのうちに運命で定められていたのだと感じた。その証拠に、五月十三日、ジャカルタで「暗黒の五月暴動(ジャカルタ暴動)」が起きた。その頃がインドネシア史上、最も暗黒な時期であり、華人排斥暴動に対して、法師は私たちに「愛で以て憎しみを解消するのです」と諭された。

私たちは、安全を守ってくれる軍と警察及びジャカルタ周辺の民衆に米を配付した。栄年師兄とシナールマスグループの支援、そして軍と警察の協力があったからこそ、あのような緊迫して混乱した時に、大規模な配付活動を展開し、千百トンの米を配付することができたのである。

しかし、あの時の状況は依然として厳しく、空港を往復するシナールマスグループ職員が栄年師兄に、誰々もシンガポールに行ってしまったと話しているのを聞いて、私もとても怖くなり、本当に国外に逃れたいと思ったものだった。だから余計に、黄おじさんと栄年師兄、シナールマスグループの師兄や師姐たちが国を離れなかったことに感謝した。

インドネシア慈済人は1995年、ジャカルタに隣接するタンゲラン県政府と共に「肺結核撲滅プロジェクト」を推進し、賈文玉師姐(中央)が村人に説明した。

ジャカルタ大洪水が縁を成就させた

二〇〇二年一月、ジャカルタで大洪水が発生した。最も甚大な被災区域はアンケ川下流で、沿岸には貧民がいっぱい住んでいて、河はゴミに被われていた。ボランティアは浸水区域に入り、炊き出しと施療を行った。ある日、黄おじさんは私に、「文玉(ウエンユー)、慈済の師兄や師姐、そして医療チームを招いて会食をしたい」と言った。黄おじさんは、慈済が休まず被災世帯をケアしていることを知っており、加えて旧正月を迎える頃だったからである。

私はあの日のことを永遠に忘れることはない。二〇〇二年二月二十三日の土曜日だった。会食の場所は郭再源(グォ・ザイユェン)師兄のボロブドゥールホテルだった。思賢(スーシエン)師兄はわざわざ台湾からジャカルタに来て、阿源(アーユェン)師兄と麗萍(リーピン)師姐も初めて慈済の活動に招かれた。会食の席で、黄おじさんは「慈済に被災住民にもっと多く支援をしてもらえないでしょうか?」と言った。大洪水が過ぎて二カ月近く経っても、依然として多くの人が道端に住み、ちゃんとしたシェルターもないことをテレビで見て知っていたからだ。思賢師兄は、支援プロジェクトがとても大きいので、法師に指示を仰ぐ必要があると言った。

黄おじさんは見るに忍びなく、三月六日栄年師兄や素美師姐ら、そして私を伴って、花蓮に向かった。黄おじさんを見て、法師は「私は黄居士のお力を借りて、企業家たちと一緒に被災地の清掃をしてくれたらと思っています」と言った。

ジャカルタに戻ってから、黄おじさんは早速慈済ボランティア全員を集め、どのように被災地を清掃するかを話し合った。翌日、黄おじさんは阿源師兄をオフィスに招き、「上人は、私たちが一緒にジャカルタを清掃することを望んでいます。一緒にやってくれますか?」と聞くと、阿源師兄は直ちに頷いた。

オランダがインドネシアを統治していた時期、数多くの華人を虐殺したことで河が赤色に染まり、それが元でアンケ川と呼ばれるようになった。私たちは華人として、この川が抜本的に浄化され、大愛村が建てられ、更にこのような愛と温もりの物語に満ちた場所になるとは、思ってもいなかった。

1998年5月初め、シナールマスグループ創設者の黄奕聡氏夫妻が花蓮を訪れ、上人に拝謁した。

省長が大愛村の二十年をこの目で見てきた

当初、多くのアンケ川沿いの住民は引っ越しに消極的だったが、師兄、師姐たちは、これは防災のためだけではなく、大愛村には学校や病院、良好な環境もあり、子供たちが大愛村で暮らせば希望が出てくる、と説明して聞かせた。

今でも覚えているが、大愛村建設の時、慈済は一世帯につき五十万ルピア(約四千円)の補助金を出して、仮住まいをしてもらった。その頃、陳豊霊(チェン・フォンリン)師兄と彼のチームがジャカルタ政府と交渉したが、容易ではなかった。一方、私たちは募金活動をした。一軒あたりのコストは五千万ルピア(約四十万円)と見積もり、大愛村には千三百軒を建てるので、「寄付して大愛の家を建てることは祝福であり、自分を祝福し、子供や孫も円満な家庭を持つことができるよう祝福しましょう」と呼びかけた。

当時、阿源師兄は慈済に参加して間もなく、もし集めたお金が足りない時は、不足部分を自分と栄年師兄が折半して負担しようと提案したところ、栄年師兄はためらうことなく同意した。後で知ったことだが、実はその時期がシナールマスグループにとって最も困難な時期だったのだ。

この川を整治していた間、思賢師兄がジャカルタを八回も訪れたことに、私たちはとても感謝している。ある夜、私が空港に出迎えに行くと、彼がこの川を見たいと言ったので、「こんな遅い時間に見ても仕方ないのに」と思ったものだ。丁度数トンのゴミを清掃したばかりだったので、車を降りると、私はその臭気にすぐ鼻を覆ってしまった。思賢師兄は逆に満足そうに、「どうです、この景色はベニスに似ていると思いませんか?岸辺で誰かがギターでも弾けば、もっとロマンチックでしょうね」と私に言った。その言葉を聞いて、私は手を下ろし、二度と鼻を覆うことができなかった。思賢師兄は、私たちがこのアンケ川の整治という大規模な慈善プロジェクトを進めていたことを目にして、とても感動していたことを私は知っている。

二〇二三年五月、豊霊師兄は私のオフィスに来て、昨日ジャカルタ知事代行のヘルさんと会食した時、私が彼に「大愛村は八月で設立二十年になります」と言うと、彼は感動しながら「早いものですね」と答えた。

その時豊霊師兄が突然言葉を切ったので、私が「泣いているのですか?」と聞くと、彼は頷きながら「そうです!」と言った。二十年前この川の整治をしていた当時、ヘルさんは北ジャカルタ市の職員だったが、彼は全力で取り組み、豊霊師兄も全身全霊で打ち込んでいたのは、全てジャカルタのためだった。あれから、二十年が経ち、今思い返すと、感動せずにはいられないのだ。

二〇二三年八月二十六日、大愛村は二十周年を祝った。村民たちは台上に上がって、移住後の変化と子供たちがとても優秀になったことを分ち合った。このことから私は、慈済で何を奉仕しても、必ず善い縁になると感じた。なぜなら、私たちの行動は自分のためではなく、社会に福をもたらすためだからだ。

アンケ川は整治される前は、現地の人から「ジャカルタの黒い心臓」と呼ばれた。住民は川縁に違法建築を建て、生活用水は河から汲み取り、汚水もゴミも河に流していた。

五万トンの米は慈済の種

二〇〇三年から二〇〇七年まで、インドネシア慈済は五万トンの米を配付したことで、インドネシア各地に「慈済の種」をもたらした。

この件は、阿源師兄が数人の企業家を伴って花蓮を訪れていた時期に、台湾農業委員会が、十万トンの人道支援米を慈済の貧困救済に割り当てると聞いたことが始まりだった。法師がインドネシアは何トン必要ですかと聞いたところ、阿源師兄は正直に、「五万トンです」と答えた。ジャカルタにいた私たちは、五万トンの米を全部配付すると聞いて、やる前から疲れてしまった!

一世帯に二十キロ配付するとして、五万トンということは、二百五十万世帯に配付するのである。当時、ボランティアの人数はとても限られていたが、阿源師兄は、暴動以降、インドネシアの経済は回復しておらず、人民の生活は依然として困難だったことを考えていた。

その大量の米は、台湾の高雄からジャカルタの埠頭まで輸送するだけでも百万ドルかかったが、十人の実業家が費用を分担してくれたのだ。とても感謝している。ジャカルタからインドネシア各地への輸送費用は、各地域の実業家に負担してもらった。

当時参加してくれた師兄や師姐たちにも、とても感謝している。なぜなら、全ての国がインドネシアのように幸福ではないからだ。一部の国ではボランティアが米を配付したいと考えても、輸送費を支払う余裕がない場合もある。インドネシアでは、その時の米の配付活動のおかげで、多くの新しいボランティアを迎え入れることができ、多くの大企業家が従業員を派遣して協力してくれた。

米の配付は難しいことではないが、困難だったのは物資の引換券である。打ち合わせの時は、四人一組で引換券を配付する予定だったが、現地に着いてみると、配付範囲がとても広かったため、一人一組に変わった!スラム街に入って引換券を配付するのは、やはり怖く感じ、終わってからも万一、他の師兄、師姐と合流できなかったらどうすればいいのか?またもし、全部配付してしまっても、まだ多くの世帯に行き届いていなかったら、新たに引換券を持って来てもらうまでそこで待つのもとても怖いのだ。またもし、引換券が余ったら、バイクタクシーに乗って隣村まで行き、配付を続けなければならなかった。

あの時、私は生まれて初めてバイクタクシーに乗り、一方の手で引換券と慈済のバッグを持ち、もう一方の手でバイクの後ろにあるタンデムバーを掴みながら隣の村に行き、午後まで配付を続けた。

大愛村で成長したダグナスさん(左)は現在警察官になり、母親のトゥティンさん(右)は移住したことで生活が改善されたと感謝した。

チェンカレン大愛村は2023年8月に20周年を祝った。ジャカルタ知事代行のハルさん(中央)は当時、ジャカルタ市の職員で、村の建設に尽力した。

インド洋大津波で、仏法を体得

二〇〇四年、インド洋大津波により、インドネシア・アチュ州等で二十万人以上が犠牲になった。あの年の十二月二十六日、阿源師兄と家族は上海にいたが、ニュースを見て直ちにジャカルタへ戻った。二十八日、直ちに数人のボランティアと共に、専用機に救援物資を積んで被災地に向かった。災害はあまりにも大きく、空港では人々は裸足のまま我先にと飛行機で離れようとしていた。阿源師兄は、「人は何も持って行けないが、業だけがついて回る」の意味をつくづく実感した。

最初、アチェへ災害支援に向かった時、恐怖を克服するのが大変だった。なぜなら、テレビであれだけたくさんの人が亡くなったり、家族を失ったりした映像を見ていたからだ。被災地に着くと、重々しい空気を感じたが、師兄や師姐たちの勇敢な奉仕を目の当たりにした。秋蘭(チュウラン)師姐は現地で三カ月間調理ボランティアをし、何人かの師兄は災害支援と同時に遺体の搬送を手伝い、所謂「大悲心」(だいひしん)を真に実践していた。

今回の災害はその時代の悲劇であるが、慈済はそれが縁となり、アチェ州に二千七百戸の大愛の家を建てた。阿源師兄が現地政府と交渉してくれたことと、栄年師兄が何千トンもの支援物資の貯蔵と輸送に協力してくれたことに感謝している。そして法師、街頭募金をしてくれた世界中の慈済人と共に成就できたことに感謝している!

台湾の農業委員会(現:農業部)は2003年、米の対外援助を行なった。その内の5万トンはインドネシアの慈済人が食糧不足の民衆に配付した。

2004年12月のインド洋大津波により、甚大被災地域のインドネシア・アチェ州では約20万人が命を落とし、インフラもひどく破損した。(写真1)アチェ州の大愛一村(1期目)は2005年から入居が始まり、ユドヨノ大統領(写真2・中央右)が訪れた。(写真2、撮影・顔霖沼)

互いに信頼し愛することで無事に過ぎたコロナ禍

二〇二〇年から、新型コロナウイルスによる世紀のパンデミックで、人々は自由に行動することができずにいたが、慈済インドネシアは逆に、その三年間に数多くの良縁を結んだ。真っ先に全国の医療機関に大量の防護服、簡易検査キット、薬等を寄付し、インドネシアの最も遠い離島ニアスにも慈済の支援が届いた。それはインドネシアの慈済人が互いに協力し合ったからこそできたことであり、それ以上に素美師姐が責任をもって自分のポジションを守り、ジャカルタに留まって、私たちのために指揮してくれたことに感謝している。

二〇二三年六月十四日、ジョコ大統領がインドネシア慈済病院の開業式に訪れ、私たちはとても嬉しく、光栄に思った。インドネシアでは、慈済病院にだけ患者とその家族をケアするボランティアがいるが、病院で生、老、病、死を感じ取ることができるため、より多くの人が共に医療ボランティアとして参加してくれることを期待している。

慈済インドネシアはこの三十年間、非常に多くのことを経験し、私たちにブッダが説いている「苦」という言葉を深く実感させてくれた。奉仕することと他人を思いやることを学び、その過程で自分も成長し、より価値のある人生になったと思うし、もちろん慧命も延びたと思う。今生に慈済という道場で修行ができたことに感謝し、生生世世菩提(悟り)の道を歩むことを発願する!

(慈済月刊六八七期より)

賈文玉(ジャ・ウェンユー)のミニプロフィール

賈文玉(ジャ・ウェンユー)のミニプロフィール

  • 1957年生まれ、1995年にインドネシア初の認証を授かった慈済委員になる。
  • 1992年シマールナスグループに就職。慈済をグループの創設者黄奕聡さんに紹介し、実業家を迎え入れて、共に慈済志業を続けてきた。

華人を標的にしたジャカルタ暴動、ジャカルタの大洪水、スマトラ島沖地震(インド洋大津波)、新型コロナウイルス……

この三十年間、激甚災害の支援の度に、慈済インドネシア支部は歴史を書き換え、愛で以て垣根を取り払うことに取り組み、傷を癒して来た。

2023年9月、慈済インドネシア支部は30周年を迎え、郭再源師兄(グォ・ザイユェン、中央左)、黃栄年師兄(ホヮン・ロンニェン、中央右)及び台湾から出席した慈済基金会の顏博文(イェン・ボーウェン)執行長(中央)が喜びを分かち合った。

二〇二三年、慈済インドネシア支部は三十周年を迎えた。私は一九九五年に慈済に参加し、既に二十八年が経過したが、自分はとても幸福であり、インドネシアも幸福に満ちている場所だと思っている。それは、こんなに多くの師兄や師姐が共に慈済の志業を行っているからである。

現在、慈済インドネシア支部には一万五千人余りのボランティアがいて、十八の連絡拠点がある。ジャカルタに荘厳な静思堂を建立し、慈済小学校、慈済病院及び大愛テレビ局もできた。それらは、私が慈済に参加した頃には考えられなかったことである。

第一回大規模医療ケア活動

一九九三年、劉素美(リュウ・スゥーメイ)師姐が数人の台湾実業家夫人と共に慈済の志業を始め、慈済をインドネシアに根付かせた。もし、素美師姐が勇猛果敢に担っていなければ、今日の慈済インドネシア支部はなかっただろう。私たちは彼女にとても感謝している。最初の慈善ケースとして、貧しい家庭の子供への学費支援、第一回災害支援として、ムラピ山の噴火後に行った被災者支援がある。集まった募金をジョグジャカルタ省の社会福祉局に渡し、十二戸の「大愛の家」を建てた。

一九九五年から、慈済はジャカルタ近隣のタンゲラン県衛生局と共同で、肺結核撲滅プロジェクトを進め、定期的に薬を配付するようになった。私はその時初めて、インドネシアの肺結核症例が当時の世界で第二位だったことと、六カ月から九カ月間継続して薬を服用し、食生活と生活習慣に気をつければ、必ず治ることを知った。

慈済がミルク、緑豆、米等の物資を提供し、ボランティアが二週間に一回体重計を持参して患者の体重を測定した。体重の増加は、栄養が付き、病状が改善されたことを意味するからだ。しかし一部の患者には、ミネラルウォーターを服の中に入れて、体重が増えたように見せかける人もいた。というのも、彼らのライフスタイルでは十分な休息を取る余裕がなかったり、栄養のある食べ物を全て子供に残したりしていたからだ。私たちは絶えず彼らに、病をしっかり治すようにと説得した。一九九九年までに、千百八十三人の患者をケアした。

当時、私たちは肺結核のことをよく理解しておらず、至近距離で接する時はマスクと手袋を着用する必要があることを知らなかった。シンガポールの慈済人医会の医師が、私たちが患者の手を引いている写真を見て、他人をケアする前に、先ず自分を守るようにと教えてくれた。その時初めて、ウイルスの危険性を知った。それは、慈済がインドネシアで最初に行った大規模医療活動だった。当時は誰もがとても感動し、実践している中で、證厳法師がおっしゃる「人傷つけば我痛み、人苦しめば我悲しむ」という言葉の意味を、つくづく実感した。

私はシナールマスグループ創設者黄奕聡(フヮン・イーツォン)さんの秘書をしていたが、一九九八年五月九日、黄おじさんが夫人と息子の栄年(ロンニェン)師兄を連れて台湾を訪れ、法師に拝謁した。それは知らず知らずのうちに運命で定められていたのだと感じた。その証拠に、五月十三日、ジャカルタで「暗黒の五月暴動(ジャカルタ暴動)」が起きた。その頃がインドネシア史上、最も暗黒な時期であり、華人排斥暴動に対して、法師は私たちに「愛で以て憎しみを解消するのです」と諭された。

私たちは、安全を守ってくれる軍と警察及びジャカルタ周辺の民衆に米を配付した。栄年師兄とシナールマスグループの支援、そして軍と警察の協力があったからこそ、あのような緊迫して混乱した時に、大規模な配付活動を展開し、千百トンの米を配付することができたのである。

しかし、あの時の状況は依然として厳しく、空港を往復するシナールマスグループ職員が栄年師兄に、誰々もシンガポールに行ってしまったと話しているのを聞いて、私もとても怖くなり、本当に国外に逃れたいと思ったものだった。だから余計に、黄おじさんと栄年師兄、シナールマスグループの師兄や師姐たちが国を離れなかったことに感謝した。

インドネシア慈済人は1995年、ジャカルタに隣接するタンゲラン県政府と共に「肺結核撲滅プロジェクト」を推進し、賈文玉師姐(中央)が村人に説明した。

ジャカルタ大洪水が縁を成就させた

二〇〇二年一月、ジャカルタで大洪水が発生した。最も甚大な被災区域はアンケ川下流で、沿岸には貧民がいっぱい住んでいて、河はゴミに被われていた。ボランティアは浸水区域に入り、炊き出しと施療を行った。ある日、黄おじさんは私に、「文玉(ウエンユー)、慈済の師兄や師姐、そして医療チームを招いて会食をしたい」と言った。黄おじさんは、慈済が休まず被災世帯をケアしていることを知っており、加えて旧正月を迎える頃だったからである。

私はあの日のことを永遠に忘れることはない。二〇〇二年二月二十三日の土曜日だった。会食の場所は郭再源(グォ・ザイユェン)師兄のボロブドゥールホテルだった。思賢(スーシエン)師兄はわざわざ台湾からジャカルタに来て、阿源(アーユェン)師兄と麗萍(リーピン)師姐も初めて慈済の活動に招かれた。会食の席で、黄おじさんは「慈済に被災住民にもっと多く支援をしてもらえないでしょうか?」と言った。大洪水が過ぎて二カ月近く経っても、依然として多くの人が道端に住み、ちゃんとしたシェルターもないことをテレビで見て知っていたからだ。思賢師兄は、支援プロジェクトがとても大きいので、法師に指示を仰ぐ必要があると言った。

黄おじさんは見るに忍びなく、三月六日栄年師兄や素美師姐ら、そして私を伴って、花蓮に向かった。黄おじさんを見て、法師は「私は黄居士のお力を借りて、企業家たちと一緒に被災地の清掃をしてくれたらと思っています」と言った。

ジャカルタに戻ってから、黄おじさんは早速慈済ボランティア全員を集め、どのように被災地を清掃するかを話し合った。翌日、黄おじさんは阿源師兄をオフィスに招き、「上人は、私たちが一緒にジャカルタを清掃することを望んでいます。一緒にやってくれますか?」と聞くと、阿源師兄は直ちに頷いた。

オランダがインドネシアを統治していた時期、数多くの華人を虐殺したことで河が赤色に染まり、それが元でアンケ川と呼ばれるようになった。私たちは華人として、この川が抜本的に浄化され、大愛村が建てられ、更にこのような愛と温もりの物語に満ちた場所になるとは、思ってもいなかった。

1998年5月初め、シナールマスグループ創設者の黄奕聡氏夫妻が花蓮を訪れ、上人に拝謁した。

省長が大愛村の二十年をこの目で見てきた

当初、多くのアンケ川沿いの住民は引っ越しに消極的だったが、師兄、師姐たちは、これは防災のためだけではなく、大愛村には学校や病院、良好な環境もあり、子供たちが大愛村で暮らせば希望が出てくる、と説明して聞かせた。

今でも覚えているが、大愛村建設の時、慈済は一世帯につき五十万ルピア(約四千円)の補助金を出して、仮住まいをしてもらった。その頃、陳豊霊(チェン・フォンリン)師兄と彼のチームがジャカルタ政府と交渉したが、容易ではなかった。一方、私たちは募金活動をした。一軒あたりのコストは五千万ルピア(約四十万円)と見積もり、大愛村には千三百軒を建てるので、「寄付して大愛の家を建てることは祝福であり、自分を祝福し、子供や孫も円満な家庭を持つことができるよう祝福しましょう」と呼びかけた。

当時、阿源師兄は慈済に参加して間もなく、もし集めたお金が足りない時は、不足部分を自分と栄年師兄が折半して負担しようと提案したところ、栄年師兄はためらうことなく同意した。後で知ったことだが、実はその時期がシナールマスグループにとって最も困難な時期だったのだ。

この川を整治していた間、思賢師兄がジャカルタを八回も訪れたことに、私たちはとても感謝している。ある夜、私が空港に出迎えに行くと、彼がこの川を見たいと言ったので、「こんな遅い時間に見ても仕方ないのに」と思ったものだ。丁度数トンのゴミを清掃したばかりだったので、車を降りると、私はその臭気にすぐ鼻を覆ってしまった。思賢師兄は逆に満足そうに、「どうです、この景色はベニスに似ていると思いませんか?岸辺で誰かがギターでも弾けば、もっとロマンチックでしょうね」と私に言った。その言葉を聞いて、私は手を下ろし、二度と鼻を覆うことができなかった。思賢師兄は、私たちがこのアンケ川の整治という大規模な慈善プロジェクトを進めていたことを目にして、とても感動していたことを私は知っている。

二〇二三年五月、豊霊師兄は私のオフィスに来て、昨日ジャカルタ知事代行のヘルさんと会食した時、私が彼に「大愛村は八月で設立二十年になります」と言うと、彼は感動しながら「早いものですね」と答えた。

その時豊霊師兄が突然言葉を切ったので、私が「泣いているのですか?」と聞くと、彼は頷きながら「そうです!」と言った。二十年前この川の整治をしていた当時、ヘルさんは北ジャカルタ市の職員だったが、彼は全力で取り組み、豊霊師兄も全身全霊で打ち込んでいたのは、全てジャカルタのためだった。あれから、二十年が経ち、今思い返すと、感動せずにはいられないのだ。

二〇二三年八月二十六日、大愛村は二十周年を祝った。村民たちは台上に上がって、移住後の変化と子供たちがとても優秀になったことを分ち合った。このことから私は、慈済で何を奉仕しても、必ず善い縁になると感じた。なぜなら、私たちの行動は自分のためではなく、社会に福をもたらすためだからだ。

アンケ川は整治される前は、現地の人から「ジャカルタの黒い心臓」と呼ばれた。住民は川縁に違法建築を建て、生活用水は河から汲み取り、汚水もゴミも河に流していた。

五万トンの米は慈済の種

二〇〇三年から二〇〇七年まで、インドネシア慈済は五万トンの米を配付したことで、インドネシア各地に「慈済の種」をもたらした。

この件は、阿源師兄が数人の企業家を伴って花蓮を訪れていた時期に、台湾農業委員会が、十万トンの人道支援米を慈済の貧困救済に割り当てると聞いたことが始まりだった。法師がインドネシアは何トン必要ですかと聞いたところ、阿源師兄は正直に、「五万トンです」と答えた。ジャカルタにいた私たちは、五万トンの米を全部配付すると聞いて、やる前から疲れてしまった!

一世帯に二十キロ配付するとして、五万トンということは、二百五十万世帯に配付するのである。当時、ボランティアの人数はとても限られていたが、阿源師兄は、暴動以降、インドネシアの経済は回復しておらず、人民の生活は依然として困難だったことを考えていた。

その大量の米は、台湾の高雄からジャカルタの埠頭まで輸送するだけでも百万ドルかかったが、十人の実業家が費用を分担してくれたのだ。とても感謝している。ジャカルタからインドネシア各地への輸送費用は、各地域の実業家に負担してもらった。

当時参加してくれた師兄や師姐たちにも、とても感謝している。なぜなら、全ての国がインドネシアのように幸福ではないからだ。一部の国ではボランティアが米を配付したいと考えても、輸送費を支払う余裕がない場合もある。インドネシアでは、その時の米の配付活動のおかげで、多くの新しいボランティアを迎え入れることができ、多くの大企業家が従業員を派遣して協力してくれた。

米の配付は難しいことではないが、困難だったのは物資の引換券である。打ち合わせの時は、四人一組で引換券を配付する予定だったが、現地に着いてみると、配付範囲がとても広かったため、一人一組に変わった!スラム街に入って引換券を配付するのは、やはり怖く感じ、終わってからも万一、他の師兄、師姐と合流できなかったらどうすればいいのか?またもし、全部配付してしまっても、まだ多くの世帯に行き届いていなかったら、新たに引換券を持って来てもらうまでそこで待つのもとても怖いのだ。またもし、引換券が余ったら、バイクタクシーに乗って隣村まで行き、配付を続けなければならなかった。

あの時、私は生まれて初めてバイクタクシーに乗り、一方の手で引換券と慈済のバッグを持ち、もう一方の手でバイクの後ろにあるタンデムバーを掴みながら隣の村に行き、午後まで配付を続けた。

大愛村で成長したダグナスさん(左)は現在警察官になり、母親のトゥティンさん(右)は移住したことで生活が改善されたと感謝した。

チェンカレン大愛村は2023年8月に20周年を祝った。ジャカルタ知事代行のハルさん(中央)は当時、ジャカルタ市の職員で、村の建設に尽力した。

インド洋大津波で、仏法を体得

二〇〇四年、インド洋大津波により、インドネシア・アチュ州等で二十万人以上が犠牲になった。あの年の十二月二十六日、阿源師兄と家族は上海にいたが、ニュースを見て直ちにジャカルタへ戻った。二十八日、直ちに数人のボランティアと共に、専用機に救援物資を積んで被災地に向かった。災害はあまりにも大きく、空港では人々は裸足のまま我先にと飛行機で離れようとしていた。阿源師兄は、「人は何も持って行けないが、業だけがついて回る」の意味をつくづく実感した。

最初、アチェへ災害支援に向かった時、恐怖を克服するのが大変だった。なぜなら、テレビであれだけたくさんの人が亡くなったり、家族を失ったりした映像を見ていたからだ。被災地に着くと、重々しい空気を感じたが、師兄や師姐たちの勇敢な奉仕を目の当たりにした。秋蘭(チュウラン)師姐は現地で三カ月間調理ボランティアをし、何人かの師兄は災害支援と同時に遺体の搬送を手伝い、所謂「大悲心」(だいひしん)を真に実践していた。

今回の災害はその時代の悲劇であるが、慈済はそれが縁となり、アチェ州に二千七百戸の大愛の家を建てた。阿源師兄が現地政府と交渉してくれたことと、栄年師兄が何千トンもの支援物資の貯蔵と輸送に協力してくれたことに感謝している。そして法師、街頭募金をしてくれた世界中の慈済人と共に成就できたことに感謝している!

台湾の農業委員会(現:農業部)は2003年、米の対外援助を行なった。その内の5万トンはインドネシアの慈済人が食糧不足の民衆に配付した。

2004年12月のインド洋大津波により、甚大被災地域のインドネシア・アチェ州では約20万人が命を落とし、インフラもひどく破損した。(写真1)アチェ州の大愛一村(1期目)は2005年から入居が始まり、ユドヨノ大統領(写真2・中央右)が訪れた。(写真2、撮影・顔霖沼)

互いに信頼し愛することで無事に過ぎたコロナ禍

二〇二〇年から、新型コロナウイルスによる世紀のパンデミックで、人々は自由に行動することができずにいたが、慈済インドネシアは逆に、その三年間に数多くの良縁を結んだ。真っ先に全国の医療機関に大量の防護服、簡易検査キット、薬等を寄付し、インドネシアの最も遠い離島ニアスにも慈済の支援が届いた。それはインドネシアの慈済人が互いに協力し合ったからこそできたことであり、それ以上に素美師姐が責任をもって自分のポジションを守り、ジャカルタに留まって、私たちのために指揮してくれたことに感謝している。

二〇二三年六月十四日、ジョコ大統領がインドネシア慈済病院の開業式に訪れ、私たちはとても嬉しく、光栄に思った。インドネシアでは、慈済病院にだけ患者とその家族をケアするボランティアがいるが、病院で生、老、病、死を感じ取ることができるため、より多くの人が共に医療ボランティアとして参加してくれることを期待している。

慈済インドネシアはこの三十年間、非常に多くのことを経験し、私たちにブッダが説いている「苦」という言葉を深く実感させてくれた。奉仕することと他人を思いやることを学び、その過程で自分も成長し、より価値のある人生になったと思うし、もちろん慧命も延びたと思う。今生に慈済という道場で修行ができたことに感謝し、生生世世菩提(悟り)の道を歩むことを発願する!

(慈済月刊六八七期より)

賈文玉(ジャ・ウェンユー)のミニプロフィール

賈文玉(ジャ・ウェンユー)のミニプロフィール

  • 1957年生まれ、1995年にインドネシア初の認証を授かった慈済委員になる。
  • 1992年シマールナスグループに就職。慈済をグループの創設者黄奕聡さんに紹介し、実業家を迎え入れて、共に慈済志業を続けてきた。
關鍵字

九月の出来事

09・01

慈済チリ連絡所は僑聯総会友好会館で、アブラザルテ財団及びフェルナンド・アラゴン・スカウト連盟と共同で、冬季の配付活動を行い、マポチョ川流域で貧困環境にある20世帯に、菜食のランチと生活物資を届けた。

09・04

オランダ領セントマーティンの慈済ボランティアである張傑榮さんと朱細芳さん一行5人は4日、セントヴィンセント及びグレナディーン諸島 に到着し、翌日港で簡単な貨物受け取り式典を行った後、政府緊急行動センターと台湾駐オランダ代表、現地のボランティアと共に、船でユニオン島とカヌアン島、メイルー島に渡り、ハリケーン・ベリルで被災した500世帯を対象に生活物資を配付した。

09・05

静思語出版35周年に当たり、慈済香港支部は、当地の学校向けに静思語読書を紹介する書籍贈呈プロジェクトを開始した。本日、慈済ボランティアは仏教孔仙洲記念中学校と宝覚中学校を訪れ、静思語系列の書籍を寄贈した。

09・06

インド慈済仏の国プロジェクトチームは本日、23箱合計900足の運動靴をムンバイのインド仏教ABM組織を通じて、2つの学校で貧困家庭の生徒に配付するなどの支援を行った。

09・10

慈済基金会の顏博文執行長と執行長室付属グローバル協力及び青年発展室の陳祖淞副主任らが10日、東京に向かった。日本の衆議院議員の佐々木氏の紹介で、11日に内閣府の平沼正二郎復興大臣を訪ね、慈済の災害支援の原則と精神をシェアし、将来は協力し合う機会が得られればという期待を込めた。一行は13日に帰国した。 

09・11

パラグアイ・アスンシオンの慈済ボランティアは、プレシデンテ・アイェス県ポソ・コロラド町のマクサウアヤという先住民コミュニティを訪れ、250の貧困世帯に38キロの食糧セットを届けた。

09・12

台風11号がタイ北部に甚大な被害をもたらした。慈済基金会宗教処職員とチェンマイ慈済学校の教師たちは、チェンマイ県ファーン郡とメーアーイ郡へ被害状況の視察に行き、被災した村民や学生の家庭を見舞うと共に、メーアーイ郡トレン村の泥流被害で亡くなった人の家族に慰問金を届けた。

09・14

◎台風11号がフィリピンを襲い、水害と土砂災害をもたらした。慈済ボランティアは6日、被害状況の視察にリサール州アンティポロ市を訪れた。本日、3つの会場で被災した1119世帯に米と生活物資を配付すると同時に、家屋が全壊した住民に建材と交換できる引換券を配付した。

◎慈済基金会は0403花蓮地震後の「安心居住プロジェクト」における中継の家の新築起工祝福式典を催し、県政府職員と被災住民合わせて285人が出席した。この大愛の家は花蓮市主商段に位置し、集合住宅形式の140軒で、「Alfa Safe耐震シリーズ工法」を採用して、耐震強度を上げている。

09・16

14日、フィリピン・マニラのトンド地区で火災が発生し、約2000世帯が住む所を失った。慈済ボランティアは本日視察に行き、被害状況の聞き取りと今後の支援を査定した。

09・17

◎慈済インドネシア支部は中部ジャワ州マゲラン県ボロブドゥール町で、米5キロと砂糖1キロ、食用油1リットル、大愛麺10パックが入った生活物資5000箱を7つの地区の貧困環境にある人々に配付した。

◎モザンビーク・ソファラ州ニャマタンダ郡の慈済ボランティアは、途切れることなくメトゥシラ大愛農場を耕している。本日、収穫した野菜をメトゥシラ大愛村の貧しい病人や孤児、お年寄りなど30の恵まれない世帯に届けた。

◎暴風雨ボリスがポーランド南西部で洪水を引き起こし、多数の橋が流され、ダムが決壊した。慈済ボランティア一行5人は本日、甚大被災地であるクウォツコとオウドジホヴィツェ・クウォツキエへ被害調査に行き、97世帯に慈済エコ毛布と緊急援助物資、買い物カードを届けた。

09・18

マレーシア北部が暴風雨に見舞われ、ペナン州の多くの場所で倒木や水害が発生した。慈済ボランティアは本日、バターワースとブキット・メルタジャムへ被害調査に向かい、避難所にいる住民を見舞い、飲料用水と食料、衛生用品など緊急援助物資を届けた。

09・19

◎慈済モザンビーク連絡所は、ソファラ州ニャマタンダ郡のラメゴ小学校で、1717人の生徒にキャンバスシューズと服及び静思語全集を配付した。

◎アメリカ・南カリフオルニアで5日、ラインファイアとブリッジファイア及びエアーポートファイアという名称の三つの大規模な山火事が発生し、1万世帯以上の人が避難した。慈済ボランティアは、19日から24日までリバーサイド郡とロサンゼルス郡、サンバナディーノ郡のそれぞれの緊急救助センターに駐在し、被災者に現金カードと慈済エコ毛布の配付活動や情報提供を行った。

09・21

慈済オーストラリア・パース連絡所は、初めてカルグーリーで施療活動を行った。6月15日と16日に視察した後、9月21日から23日まで、現地の恵まれない人々を対象に、歯科の施療活動を行った。

09・01

慈済チリ連絡所は僑聯総会友好会館で、アブラザルテ財団及びフェルナンド・アラゴン・スカウト連盟と共同で、冬季の配付活動を行い、マポチョ川流域で貧困環境にある20世帯に、菜食のランチと生活物資を届けた。

09・04

オランダ領セントマーティンの慈済ボランティアである張傑榮さんと朱細芳さん一行5人は4日、セントヴィンセント及びグレナディーン諸島 に到着し、翌日港で簡単な貨物受け取り式典を行った後、政府緊急行動センターと台湾駐オランダ代表、現地のボランティアと共に、船でユニオン島とカヌアン島、メイルー島に渡り、ハリケーン・ベリルで被災した500世帯を対象に生活物資を配付した。

09・05

静思語出版35周年に当たり、慈済香港支部は、当地の学校向けに静思語読書を紹介する書籍贈呈プロジェクトを開始した。本日、慈済ボランティアは仏教孔仙洲記念中学校と宝覚中学校を訪れ、静思語系列の書籍を寄贈した。

09・06

インド慈済仏の国プロジェクトチームは本日、23箱合計900足の運動靴をムンバイのインド仏教ABM組織を通じて、2つの学校で貧困家庭の生徒に配付するなどの支援を行った。

09・10

慈済基金会の顏博文執行長と執行長室付属グローバル協力及び青年発展室の陳祖淞副主任らが10日、東京に向かった。日本の衆議院議員の佐々木氏の紹介で、11日に内閣府の平沼正二郎復興大臣を訪ね、慈済の災害支援の原則と精神をシェアし、将来は協力し合う機会が得られればという期待を込めた。一行は13日に帰国した。 

09・11

パラグアイ・アスンシオンの慈済ボランティアは、プレシデンテ・アイェス県ポソ・コロラド町のマクサウアヤという先住民コミュニティを訪れ、250の貧困世帯に38キロの食糧セットを届けた。

09・12

台風11号がタイ北部に甚大な被害をもたらした。慈済基金会宗教処職員とチェンマイ慈済学校の教師たちは、チェンマイ県ファーン郡とメーアーイ郡へ被害状況の視察に行き、被災した村民や学生の家庭を見舞うと共に、メーアーイ郡トレン村の泥流被害で亡くなった人の家族に慰問金を届けた。

09・14

◎台風11号がフィリピンを襲い、水害と土砂災害をもたらした。慈済ボランティアは6日、被害状況の視察にリサール州アンティポロ市を訪れた。本日、3つの会場で被災した1119世帯に米と生活物資を配付すると同時に、家屋が全壊した住民に建材と交換できる引換券を配付した。

◎慈済基金会は0403花蓮地震後の「安心居住プロジェクト」における中継の家の新築起工祝福式典を催し、県政府職員と被災住民合わせて285人が出席した。この大愛の家は花蓮市主商段に位置し、集合住宅形式の140軒で、「Alfa Safe耐震シリーズ工法」を採用して、耐震強度を上げている。

09・16

14日、フィリピン・マニラのトンド地区で火災が発生し、約2000世帯が住む所を失った。慈済ボランティアは本日視察に行き、被害状況の聞き取りと今後の支援を査定した。

09・17

◎慈済インドネシア支部は中部ジャワ州マゲラン県ボロブドゥール町で、米5キロと砂糖1キロ、食用油1リットル、大愛麺10パックが入った生活物資5000箱を7つの地区の貧困環境にある人々に配付した。

◎モザンビーク・ソファラ州ニャマタンダ郡の慈済ボランティアは、途切れることなくメトゥシラ大愛農場を耕している。本日、収穫した野菜をメトゥシラ大愛村の貧しい病人や孤児、お年寄りなど30の恵まれない世帯に届けた。

◎暴風雨ボリスがポーランド南西部で洪水を引き起こし、多数の橋が流され、ダムが決壊した。慈済ボランティア一行5人は本日、甚大被災地であるクウォツコとオウドジホヴィツェ・クウォツキエへ被害調査に行き、97世帯に慈済エコ毛布と緊急援助物資、買い物カードを届けた。

09・18

マレーシア北部が暴風雨に見舞われ、ペナン州の多くの場所で倒木や水害が発生した。慈済ボランティアは本日、バターワースとブキット・メルタジャムへ被害調査に向かい、避難所にいる住民を見舞い、飲料用水と食料、衛生用品など緊急援助物資を届けた。

09・19

◎慈済モザンビーク連絡所は、ソファラ州ニャマタンダ郡のラメゴ小学校で、1717人の生徒にキャンバスシューズと服及び静思語全集を配付した。

◎アメリカ・南カリフオルニアで5日、ラインファイアとブリッジファイア及びエアーポートファイアという名称の三つの大規模な山火事が発生し、1万世帯以上の人が避難した。慈済ボランティアは、19日から24日までリバーサイド郡とロサンゼルス郡、サンバナディーノ郡のそれぞれの緊急救助センターに駐在し、被災者に現金カードと慈済エコ毛布の配付活動や情報提供を行った。

09・21

慈済オーストラリア・パース連絡所は、初めてカルグーリーで施療活動を行った。6月15日と16日に視察した後、9月21日から23日まで、現地の恵まれない人々を対象に、歯科の施療活動を行った。

關鍵字

二十三日 救災停看聽

8.23《農七月‧二十》

【靜思小語】救急要及時,前提是要照顧好人人的平安。

人間菩薩,適應人間

七月下旬凱米颱風來襲時,夾帶劇烈風雨,造成臺南多處淹水致災。臺南慈濟人返回精舍,分享動員關懷情形。上人肯定師兄師姊顧及安全而謀定後動,在水退以後就趕緊去了解災區狀況,協助獨居長者清掃;然而慈濟志工大多上了年紀,而且受災範圍廣大,若只靠師兄師姊幫忙清掃,也難以負荷,可用以工代賑的模式,邀請居民投入,讓受災家庭儘快回復乾淨清爽,安然生活;協助清掃之外,發現有的家庭生活較為困難,慈濟及時發放應急金,也能給予一股支持的力量。

師姊提到有受災戶會婉拒協助,但實際上是真的很需要幫忙。上人說,幸好慈濟人真誠關懷、用心溝通,才能讓受災鄉親得到幫助。當然希望將來都能平安度過每一次風雨,不過屢次累積經驗,急難救助與慈善關懷的方法可因應狀況調整。

「聽到你們自家也受災,我很不捨;而且你們也真正投入急難救災,還會照顧法親安全,這都很好。只是師父要建議你們,淹水時物資無法送到受災家庭,至少在災難過了以後,可給予購物卡,讓他們購買需要用的物資。」

上人說,當慈濟志工人力有限,可僱人投入打掃,不過慈濟人還是要到受災戶家探望與關心,去擁抱、疼惜老弱鄉親,平復他們惶恐無助的心情。「當人間有需要,慈濟人就發揮慈悲喜捨的精神去付出,每一位都是活生生的人間菩薩。師父感恩你們也祝福你們!」

上人教眾,若是發現某一鄰某一里有幾戶受災需要救助,在很緊急的時候,先動用預備金去援助,事後再將這些發放紀錄回報基金會。「給你們這麼大的空間,就是要讓你們安心、用心去做,而且要及時做,也請你們多發揮這分愛的力量。淹水時缺水電瓦斯,送熱食也很重要;只要有人手可以煮熱食供應,讓受災戶、救災人員維持體力,供應的對象就不一定是老弱貧苦,而且要及時付出。同理,如果人力不足,可以僱請在地居民來幫忙做。」

上人說明:「在急難中,不分貧富,及時付出;當我們人力不足要僱請人,也可以補貼一點工資,請受災戶的鄰居來投入,也不一定非要低收入才補貼。」

「你們用心做到以後,還要把握機會多分享,之後也可以舉辦祈福會、感恩會,邀居民一起來,而我們就可以談慈濟。『人能弘道、非道弘人』,我們真誠的付出,讓人看到、聽到,法也會因此走入人人的心中。」上人指出,行善造福不是非要讓人知道而來讚歎自己,是為了弘法利生,讓人看見好人做好事,也會受到啟發與帶動,讓行善造福的人愈多,受苦受難的人就愈有機會得救,大家的善行也能感動、帶動更多人,使更多眾生得度。

「看到慈濟人做好事的人,也許就是我們要用法度的人。師父常教你們,菩薩大招生,要用什麼方法招菩薩?剛才你們提到,要為阿婆打掃家裏,她的兒子本來很反對,剛開始對志工的態度沒有很好,到後來他知道慈濟人無所求而付出,他也會感動,降伏他剛強的心,也投入一起做,這樣就值得了;不然面對淹水過後一片狼藉的住家,若志工沒有去幫忙,他想要打掃也束手無策。」

上人強調,在急難的時候要救急,前提是要保護好人人的平安。「你們做得很好、做得很對,也會照顧人人的平安,讓師父安心。不可去,我們就要停步,保護好自己;在付出時遇到挫折,我們就要用法調伏自己的心。我們是人間菩薩,就要適應人間、適應時代、適應人心。該做,我們盡量去做;不該做,我們就停、聽、看,像開車要過馬路,也要看紅綠燈。」

上人再提起「學」與「覺」,中間是菩薩道;慈濟人力行菩薩道,所做的一切被大眾看見,也能讓人「見」道而有所覺悟,願意共同行道。不過,走在菩薩道上仍然在學習,學無止境,要用單純真誠的赤「子」之心,把握因緣不斷精進。

上人說,雖然災後已經過了一個月,現在要再整理訪視資料,或是再到災區走訪關懷,若有家庭需要經濟援助,可評估援助三個月、四個月或半年,直到他們能恢復生活再停扶;或是有孤老貧殘的家庭,過去沒有發現到的,需要長期照顧,就開案繼續幫助。

「師父很讚歎你們的付出,也很感恩大家平安,雖然很忙碌、很『幸福』,自己家也淹水,同樣要整理,不過隨著時間,有危、有災的狀況都過去了,要慶幸與感恩;再接下來,若有住家受損而無力修繕的,我們趕快幫助,讓他們有力量僱人來修,給予一個安全的居住環境。」

本專欄為靜思人文出版之《證嚴上人衲履足跡》精簡版;更完整的慈濟脈動與開示內容,以及師徒之間的感人對談,請展閱每季出版的《證嚴上人衲履足跡》

8.23《農七月‧二十》

【靜思小語】救急要及時,前提是要照顧好人人的平安。

人間菩薩,適應人間

七月下旬凱米颱風來襲時,夾帶劇烈風雨,造成臺南多處淹水致災。臺南慈濟人返回精舍,分享動員關懷情形。上人肯定師兄師姊顧及安全而謀定後動,在水退以後就趕緊去了解災區狀況,協助獨居長者清掃;然而慈濟志工大多上了年紀,而且受災範圍廣大,若只靠師兄師姊幫忙清掃,也難以負荷,可用以工代賑的模式,邀請居民投入,讓受災家庭儘快回復乾淨清爽,安然生活;協助清掃之外,發現有的家庭生活較為困難,慈濟及時發放應急金,也能給予一股支持的力量。

師姊提到有受災戶會婉拒協助,但實際上是真的很需要幫忙。上人說,幸好慈濟人真誠關懷、用心溝通,才能讓受災鄉親得到幫助。當然希望將來都能平安度過每一次風雨,不過屢次累積經驗,急難救助與慈善關懷的方法可因應狀況調整。

「聽到你們自家也受災,我很不捨;而且你們也真正投入急難救災,還會照顧法親安全,這都很好。只是師父要建議你們,淹水時物資無法送到受災家庭,至少在災難過了以後,可給予購物卡,讓他們購買需要用的物資。」

上人說,當慈濟志工人力有限,可僱人投入打掃,不過慈濟人還是要到受災戶家探望與關心,去擁抱、疼惜老弱鄉親,平復他們惶恐無助的心情。「當人間有需要,慈濟人就發揮慈悲喜捨的精神去付出,每一位都是活生生的人間菩薩。師父感恩你們也祝福你們!」

上人教眾,若是發現某一鄰某一里有幾戶受災需要救助,在很緊急的時候,先動用預備金去援助,事後再將這些發放紀錄回報基金會。「給你們這麼大的空間,就是要讓你們安心、用心去做,而且要及時做,也請你們多發揮這分愛的力量。淹水時缺水電瓦斯,送熱食也很重要;只要有人手可以煮熱食供應,讓受災戶、救災人員維持體力,供應的對象就不一定是老弱貧苦,而且要及時付出。同理,如果人力不足,可以僱請在地居民來幫忙做。」

上人說明:「在急難中,不分貧富,及時付出;當我們人力不足要僱請人,也可以補貼一點工資,請受災戶的鄰居來投入,也不一定非要低收入才補貼。」

「你們用心做到以後,還要把握機會多分享,之後也可以舉辦祈福會、感恩會,邀居民一起來,而我們就可以談慈濟。『人能弘道、非道弘人』,我們真誠的付出,讓人看到、聽到,法也會因此走入人人的心中。」上人指出,行善造福不是非要讓人知道而來讚歎自己,是為了弘法利生,讓人看見好人做好事,也會受到啟發與帶動,讓行善造福的人愈多,受苦受難的人就愈有機會得救,大家的善行也能感動、帶動更多人,使更多眾生得度。

「看到慈濟人做好事的人,也許就是我們要用法度的人。師父常教你們,菩薩大招生,要用什麼方法招菩薩?剛才你們提到,要為阿婆打掃家裏,她的兒子本來很反對,剛開始對志工的態度沒有很好,到後來他知道慈濟人無所求而付出,他也會感動,降伏他剛強的心,也投入一起做,這樣就值得了;不然面對淹水過後一片狼藉的住家,若志工沒有去幫忙,他想要打掃也束手無策。」

上人強調,在急難的時候要救急,前提是要保護好人人的平安。「你們做得很好、做得很對,也會照顧人人的平安,讓師父安心。不可去,我們就要停步,保護好自己;在付出時遇到挫折,我們就要用法調伏自己的心。我們是人間菩薩,就要適應人間、適應時代、適應人心。該做,我們盡量去做;不該做,我們就停、聽、看,像開車要過馬路,也要看紅綠燈。」

上人再提起「學」與「覺」,中間是菩薩道;慈濟人力行菩薩道,所做的一切被大眾看見,也能讓人「見」道而有所覺悟,願意共同行道。不過,走在菩薩道上仍然在學習,學無止境,要用單純真誠的赤「子」之心,把握因緣不斷精進。

上人說,雖然災後已經過了一個月,現在要再整理訪視資料,或是再到災區走訪關懷,若有家庭需要經濟援助,可評估援助三個月、四個月或半年,直到他們能恢復生活再停扶;或是有孤老貧殘的家庭,過去沒有發現到的,需要長期照顧,就開案繼續幫助。

「師父很讚歎你們的付出,也很感恩大家平安,雖然很忙碌、很『幸福』,自己家也淹水,同樣要整理,不過隨著時間,有危、有災的狀況都過去了,要慶幸與感恩;再接下來,若有住家受損而無力修繕的,我們趕快幫助,讓他們有力量僱人來修,給予一個安全的居住環境。」

本專欄為靜思人文出版之《證嚴上人衲履足跡》精簡版;更完整的慈濟脈動與開示內容,以及師徒之間的感人對談,請展閱每季出版的《證嚴上人衲履足跡》

十六日 當夢想成為現實

8.16《農七月‧十三》

【靜思小語】願意揮汗耕耘,才有美好收穫;發願就要力行,把夢想變現實。

安居樂業,最美的村落

慈濟非洲關懷團與莫三比克志工於莫凡比斯中學、貝拉會所預定地、梅圖希拉大愛村及馬普托「慈濟的家」,與本會視訊連線,向上人報告援建現況;雅瑪郡歐蘇曼郡長、棟多郡瑪麗亞郡長、莫凡比斯中學巴塔札校長等人,亦在場表達感恩。

上人憶及伊代風災後,有十八位本土志工,從一千多公里外的馬普托移居中部災區,他們拿了鍋子、鍋鏟、鋤頭,還有《靜思語》,要來陪伴受災同胞,幾年來帶動出四千多位志工。

「感恩迪諾(傅迪諾師兄),與政府單位及當地人士接洽、互動,一步一腳印,除了農耕以外,已經建設起慈濟村,讓原本荒蕪的土地變成生機盎然的綠地;更感動的是希望工程,學校建築亮麗、莊嚴。在這片大地上,居民認真農耕,高麗菜種得很飽滿、很扎實,看了實在很感動!所以說願意付出,揮汗用力去耕耘,才能有美好的收穫。」上人勉勵蔡岱霖師姊與傅迪諾師兄,既發心立願,這一念發心很正確,把握正向就要步步踏實,不斷帶動大家往這個方向走,則前途無限量。

南非、史瓦帝尼、賴索托等非洲國家的慈濟人亦來到莫三比克相聚;上人請大家把握難得的機會用心觀察、交流與學習,為善競爭,造福人群。「只要有心、發心要做事,並且身體力行,夢想就會成為現實。慈濟人付出無所求,即使很忙碌、很辛苦,但是心理上很歡喜,而且看見努力的成果,會很有成就感,這就是最好的回饋,能加強我們的信心,增進我們的生命價值。」

上人感恩營建處同仁長時間駐守,用心投入當地工程,耐苦耐勞,現在看到成果,真的會很欣慰。「整個區域原本在入夜以後黑暗無光,現在大愛村有太陽能板的電力供應,晚上點亮電燈,好像一盞燈籠照亮黑夜,實在很震撼。」

「尤其是看到他們安居樂業,有這麼多孩子都能得到教育。再幾年後,相信這個區域會是莫三比克最好、最美的村落;要多種樹木綠化環境,整個村莊整齊乾淨,最重要的是要用心教育居民,提升品格。剛剛聽到居民在志工輔導下,不抽菸、不喝酒,還願意吃素,要繼續維持,讓大愛村成為模範村。」

上人說,莫國居民很純真、很真誠,相信他們既然發心,一定會做到,將來這裏就是真善美的好村莊。「每天的日升日落,是地球不斷在運行,我們也要不斷精進成就一切好事,所以要持續勉勵人人勤精進,耕耘大地也要耕耘心地,並且共同耕耘整個村莊,讓它成為很真、很善、很美好的人間樂土。」

推動素食,對眾生的愛

聆聽全球合作暨青年發展室團隊報告,上人說,看到年輕人的智慧與愛心,方向正確、勇於承擔,所展現的品格,讓人感覺很有希望!

「年紀大了,常常想未來的慈濟會變得如何?現在覺得比較安心,因為看到年輕人已經成長;不只是區域性的承擔,而能進入聯合國,與國際人士分享慈濟事,並且推動素食。若說,素食有什麼大不了呢?素食可以減緩地球環境的惡化,是非常重要的。若懂得道理,願意茹素,是對眾生表達真誠的愛。」上人請年輕一代帶動同儕多付出,而資深慈濟人要恆持初心,把過去跟著師父做事的經驗傳給年輕一輩。

本專欄為靜思人文出版之《證嚴上人衲履足跡》精簡版;更完整的慈濟脈動與開示內容,以及師徒之間的感人對談,請展閱每季出版的《證嚴上人衲履足跡》

8.16《農七月‧十三》

【靜思小語】願意揮汗耕耘,才有美好收穫;發願就要力行,把夢想變現實。

安居樂業,最美的村落

慈濟非洲關懷團與莫三比克志工於莫凡比斯中學、貝拉會所預定地、梅圖希拉大愛村及馬普托「慈濟的家」,與本會視訊連線,向上人報告援建現況;雅瑪郡歐蘇曼郡長、棟多郡瑪麗亞郡長、莫凡比斯中學巴塔札校長等人,亦在場表達感恩。

上人憶及伊代風災後,有十八位本土志工,從一千多公里外的馬普托移居中部災區,他們拿了鍋子、鍋鏟、鋤頭,還有《靜思語》,要來陪伴受災同胞,幾年來帶動出四千多位志工。

「感恩迪諾(傅迪諾師兄),與政府單位及當地人士接洽、互動,一步一腳印,除了農耕以外,已經建設起慈濟村,讓原本荒蕪的土地變成生機盎然的綠地;更感動的是希望工程,學校建築亮麗、莊嚴。在這片大地上,居民認真農耕,高麗菜種得很飽滿、很扎實,看了實在很感動!所以說願意付出,揮汗用力去耕耘,才能有美好的收穫。」上人勉勵蔡岱霖師姊與傅迪諾師兄,既發心立願,這一念發心很正確,把握正向就要步步踏實,不斷帶動大家往這個方向走,則前途無限量。

南非、史瓦帝尼、賴索托等非洲國家的慈濟人亦來到莫三比克相聚;上人請大家把握難得的機會用心觀察、交流與學習,為善競爭,造福人群。「只要有心、發心要做事,並且身體力行,夢想就會成為現實。慈濟人付出無所求,即使很忙碌、很辛苦,但是心理上很歡喜,而且看見努力的成果,會很有成就感,這就是最好的回饋,能加強我們的信心,增進我們的生命價值。」

上人感恩營建處同仁長時間駐守,用心投入當地工程,耐苦耐勞,現在看到成果,真的會很欣慰。「整個區域原本在入夜以後黑暗無光,現在大愛村有太陽能板的電力供應,晚上點亮電燈,好像一盞燈籠照亮黑夜,實在很震撼。」

「尤其是看到他們安居樂業,有這麼多孩子都能得到教育。再幾年後,相信這個區域會是莫三比克最好、最美的村落;要多種樹木綠化環境,整個村莊整齊乾淨,最重要的是要用心教育居民,提升品格。剛剛聽到居民在志工輔導下,不抽菸、不喝酒,還願意吃素,要繼續維持,讓大愛村成為模範村。」

上人說,莫國居民很純真、很真誠,相信他們既然發心,一定會做到,將來這裏就是真善美的好村莊。「每天的日升日落,是地球不斷在運行,我們也要不斷精進成就一切好事,所以要持續勉勵人人勤精進,耕耘大地也要耕耘心地,並且共同耕耘整個村莊,讓它成為很真、很善、很美好的人間樂土。」

推動素食,對眾生的愛

聆聽全球合作暨青年發展室團隊報告,上人說,看到年輕人的智慧與愛心,方向正確、勇於承擔,所展現的品格,讓人感覺很有希望!

「年紀大了,常常想未來的慈濟會變得如何?現在覺得比較安心,因為看到年輕人已經成長;不只是區域性的承擔,而能進入聯合國,與國際人士分享慈濟事,並且推動素食。若說,素食有什麼大不了呢?素食可以減緩地球環境的惡化,是非常重要的。若懂得道理,願意茹素,是對眾生表達真誠的愛。」上人請年輕一代帶動同儕多付出,而資深慈濟人要恆持初心,把過去跟著師父做事的經驗傳給年輕一輩。

本專欄為靜思人文出版之《證嚴上人衲履足跡》精簡版;更完整的慈濟脈動與開示內容,以及師徒之間的感人對談,請展閱每季出版的《證嚴上人衲履足跡》

十九日 愛人才會被愛

8.19《農七月‧十六》

【靜思小語】有愛還要有情,愛是清淨無私的大愛,情是讓人感受到慈悲與真誠。

感恩與尊重資深慈濟人

常住師父與清修士黃思浩等人報告法親關懷方向,上人教大家用感恩心關懷年長、資深的慈濟人,有些人或許老邁衰弱,難以出門走動,又少有子孫後輩在家陪伴與照顧,很需要法親時常關心與互動。

「早期慈濟委員幾乎每天走在街頭巷尾,為慈濟勸募,自掏腰包坐車、買伴手禮去拜訪會員。那時候要招會員不容易,他們還能一路陪伴會員成為受證委員,現在有許多慈濟委員就是被陪伴出來的,真的要感恩資深委員的付出;你們也是在師父陪伴下成長的,現在換你們要陪伴人成長。」

「慈濟已經走過五十八年了,有些資深慈濟人的年齡比我大,或與我差不多,他們從開始直到現在,不要說投入多少力量,只說那念心沒有斷,就很值得感恩、很值得恭敬。」上人教導大家要用感恩、尊重、愛待人,何況是這群資深的年長慈濟人;感恩、尊重、愛要從心發揮出來,行進、說話都離不開這分精神。就如大家平時與人擦身而過,彼此打個招呼、關心問候,也會讓人有所感受。

上人指出,修行者最重要就是這一分愛,這分愛包含慈悲喜捨,無分年齡長幼,都同樣愛護與關懷;有愛還要有情,見面互動,多問候幾句,把情牽起來。拉長情、擴大愛,才能廣度眾生;菩薩這分覺有情的長情要表達出來,讓人感受到慈愛,用慈悲與愛的形象及態度貼近眾生,讓人接受道理,得法受用。

「有的人講話如切菜,雖然說的話很有道理,但是言語鋒利會傷人心。眾生根機各不相同,我們要用愛應機設教,沒有得失心,不會從任何人身上要求自我利益。要記得,修行就要改變過去不好的習氣,而且是現在就要改過來。期待大家用心修行,自利利他─與人互動時和顏悅色,讓人感受到修行者的修養,這是修行自利;而我們的道場要行菩薩道,所以自利還要利他,要與人結好緣,才有力量救度眾生、利益眾生。」

上人說,凡夫眾生久受無明煩惱糾纏,要如何輔導?無緣不能度;但是過去無緣,現在有機會遇到,就要結善緣,來生就有度化的因緣。「要相信過去、現在、未來的三世因緣,修行方向要直,一點都不能偏,修行的念頭一如初心。有人說自己是看到師父起歡喜心而來修行,不為其他;看到師父就歡喜,這就是緣。有緣人知道師父要做什麼事,就全然護持,這就是他們的方向。而我盤點自己,也很感恩自己,因為我的方向都沒有偏差,覺得很有價值,慶幸自己當年發那一念善心、愛心,身體力行走過來,才會有今天的慈濟。」

「這條路當然不好走,即使遭遇逆境,我還是感恩,就這樣從克難中起步,到現在化為開闊的道場。大家既來之則安之,而且要很慶幸,就如師父感恩自己開頭那一念間沒有偏差,你們要慶幸自己發心修行,來到這個菩薩道場,不求自己享受,所做皆利於他人、利益社會。」

招呼慈濟人回社區的家

上人說,從靜思精舍到慈濟四大志業、八大法印,在各個領域因應社會所需而發揮良能,幾十年來真的為臺灣社會注入一股安定的力量;除了委員、慈誠,包括教聯會、人醫會等功能團體,都在臺灣各地發揮救苦救難、淨化人心的菩薩良能。「我們要珍惜這些菩薩,因為珍惜,所以很自然會感恩、尊重、愛;我們還要讓年輕一輩知道,過去的中老年人如何為社會付出,讓社會安定。」

行菩薩道要走入人群,面對習氣各不相同的眾生,上人期勉大家不斷啟動慈悲利他的腦神經細胞,思想方向都是利他的好心念,身體行動都要做好事,加深慈悲利他的意識,生生世世利益眾生、度化眾生。

慈濟在人間,已經有一百多個國家地區的民眾接受過慈濟的人道關懷或幫助,六十多個國家地區有慈濟人,而臺灣是慈濟的發祥地,大家在法脈與宗門的中心,要時常關懷海內外的法親,或是前往各地慈濟道場與志工們互動,將大家的心力凝聚起來;無論過去認識或不認識,經由真誠的關心,傳達師父的關心與勉勵,把眾生緣牽緊、拉近。

言及常住師父出門是代表自己對慈濟志工傳達真誠關心,並且呼喚大家多到社區道場,彼此互動熟悉,上人指出,安排時間讓社區裏的志工共聚在社區道場,也可以讓當區法親互動,平時能夠多聯絡,人間菩薩彼此關心,感情更緊密;當區有年長體弱的志工需要協助,法親就能及時去幫忙。「靜思堂、聯絡處、環保站等社區慈濟道場,就是慈濟人的家;我們有一個家在社區裏,有人招呼大家回來這個家,相互聯絡感情,情就牽得起來。」

「我們要度眾生,就要應機,若是時機用錯,或者是地點用錯,而且彼此沒有特殊的因緣,都不對機,無法讓人接受。過去有結好緣,且生生世世不斷累積,才能在此生相見歡喜,得到大家的尊重與愛。所以你們在修行的道路上,要抱著感恩心,還要用尊重與真誠的愛,學習常不輕菩薩,即使被討厭、被人打罵,他還是閃開攻擊,回過頭來向人敬禮,表示自己不輕視對方,因為人人將來都會成佛。」

上人教導大家,想要被愛,就要先愛人,這分愛是清淨無私的大愛,也就是覺有情;沒有愛就沒有情,但是有愛還要有覺悟的長情。修行是從「學」到「覺」,大家都還在「學地」,要抱著清淨赤子心學習,同時牽引懵懂的眾生,適應他們的根機,教他們跟著一起做事,從做中學、學中覺。

本專欄為靜思人文出版之《證嚴上人衲履足跡》精簡版;更完整的慈濟脈動與開示內容,以及師徒之間的感人對談,請展閱每季出版的《證嚴上人衲履足跡》

8.19《農七月‧十六》

【靜思小語】有愛還要有情,愛是清淨無私的大愛,情是讓人感受到慈悲與真誠。

感恩與尊重資深慈濟人

常住師父與清修士黃思浩等人報告法親關懷方向,上人教大家用感恩心關懷年長、資深的慈濟人,有些人或許老邁衰弱,難以出門走動,又少有子孫後輩在家陪伴與照顧,很需要法親時常關心與互動。

「早期慈濟委員幾乎每天走在街頭巷尾,為慈濟勸募,自掏腰包坐車、買伴手禮去拜訪會員。那時候要招會員不容易,他們還能一路陪伴會員成為受證委員,現在有許多慈濟委員就是被陪伴出來的,真的要感恩資深委員的付出;你們也是在師父陪伴下成長的,現在換你們要陪伴人成長。」

「慈濟已經走過五十八年了,有些資深慈濟人的年齡比我大,或與我差不多,他們從開始直到現在,不要說投入多少力量,只說那念心沒有斷,就很值得感恩、很值得恭敬。」上人教導大家要用感恩、尊重、愛待人,何況是這群資深的年長慈濟人;感恩、尊重、愛要從心發揮出來,行進、說話都離不開這分精神。就如大家平時與人擦身而過,彼此打個招呼、關心問候,也會讓人有所感受。

上人指出,修行者最重要就是這一分愛,這分愛包含慈悲喜捨,無分年齡長幼,都同樣愛護與關懷;有愛還要有情,見面互動,多問候幾句,把情牽起來。拉長情、擴大愛,才能廣度眾生;菩薩這分覺有情的長情要表達出來,讓人感受到慈愛,用慈悲與愛的形象及態度貼近眾生,讓人接受道理,得法受用。

「有的人講話如切菜,雖然說的話很有道理,但是言語鋒利會傷人心。眾生根機各不相同,我們要用愛應機設教,沒有得失心,不會從任何人身上要求自我利益。要記得,修行就要改變過去不好的習氣,而且是現在就要改過來。期待大家用心修行,自利利他─與人互動時和顏悅色,讓人感受到修行者的修養,這是修行自利;而我們的道場要行菩薩道,所以自利還要利他,要與人結好緣,才有力量救度眾生、利益眾生。」

上人說,凡夫眾生久受無明煩惱糾纏,要如何輔導?無緣不能度;但是過去無緣,現在有機會遇到,就要結善緣,來生就有度化的因緣。「要相信過去、現在、未來的三世因緣,修行方向要直,一點都不能偏,修行的念頭一如初心。有人說自己是看到師父起歡喜心而來修行,不為其他;看到師父就歡喜,這就是緣。有緣人知道師父要做什麼事,就全然護持,這就是他們的方向。而我盤點自己,也很感恩自己,因為我的方向都沒有偏差,覺得很有價值,慶幸自己當年發那一念善心、愛心,身體力行走過來,才會有今天的慈濟。」

「這條路當然不好走,即使遭遇逆境,我還是感恩,就這樣從克難中起步,到現在化為開闊的道場。大家既來之則安之,而且要很慶幸,就如師父感恩自己開頭那一念間沒有偏差,你們要慶幸自己發心修行,來到這個菩薩道場,不求自己享受,所做皆利於他人、利益社會。」

招呼慈濟人回社區的家

上人說,從靜思精舍到慈濟四大志業、八大法印,在各個領域因應社會所需而發揮良能,幾十年來真的為臺灣社會注入一股安定的力量;除了委員、慈誠,包括教聯會、人醫會等功能團體,都在臺灣各地發揮救苦救難、淨化人心的菩薩良能。「我們要珍惜這些菩薩,因為珍惜,所以很自然會感恩、尊重、愛;我們還要讓年輕一輩知道,過去的中老年人如何為社會付出,讓社會安定。」

行菩薩道要走入人群,面對習氣各不相同的眾生,上人期勉大家不斷啟動慈悲利他的腦神經細胞,思想方向都是利他的好心念,身體行動都要做好事,加深慈悲利他的意識,生生世世利益眾生、度化眾生。

慈濟在人間,已經有一百多個國家地區的民眾接受過慈濟的人道關懷或幫助,六十多個國家地區有慈濟人,而臺灣是慈濟的發祥地,大家在法脈與宗門的中心,要時常關懷海內外的法親,或是前往各地慈濟道場與志工們互動,將大家的心力凝聚起來;無論過去認識或不認識,經由真誠的關心,傳達師父的關心與勉勵,把眾生緣牽緊、拉近。

言及常住師父出門是代表自己對慈濟志工傳達真誠關心,並且呼喚大家多到社區道場,彼此互動熟悉,上人指出,安排時間讓社區裏的志工共聚在社區道場,也可以讓當區法親互動,平時能夠多聯絡,人間菩薩彼此關心,感情更緊密;當區有年長體弱的志工需要協助,法親就能及時去幫忙。「靜思堂、聯絡處、環保站等社區慈濟道場,就是慈濟人的家;我們有一個家在社區裏,有人招呼大家回來這個家,相互聯絡感情,情就牽得起來。」

「我們要度眾生,就要應機,若是時機用錯,或者是地點用錯,而且彼此沒有特殊的因緣,都不對機,無法讓人接受。過去有結好緣,且生生世世不斷累積,才能在此生相見歡喜,得到大家的尊重與愛。所以你們在修行的道路上,要抱著感恩心,還要用尊重與真誠的愛,學習常不輕菩薩,即使被討厭、被人打罵,他還是閃開攻擊,回過頭來向人敬禮,表示自己不輕視對方,因為人人將來都會成佛。」

上人教導大家,想要被愛,就要先愛人,這分愛是清淨無私的大愛,也就是覺有情;沒有愛就沒有情,但是有愛還要有覺悟的長情。修行是從「學」到「覺」,大家都還在「學地」,要抱著清淨赤子心學習,同時牽引懵懂的眾生,適應他們的根機,教他們跟著一起做事,從做中學、學中覺。

本專欄為靜思人文出版之《證嚴上人衲履足跡》精簡版;更完整的慈濟脈動與開示內容,以及師徒之間的感人對談,請展閱每季出版的《證嚴上人衲履足跡》

十七至十八日 得萬分福利

8.17~18《農七月‧十四至十五》

【靜思小語】常捨一分時間做好事,可以得萬萬分的福利─造福人間、利益眾生。

承擔醫療志工,耕耘福田

八月十七日,長年承擔醫療志工的清修士顏靜曦、黃靜力師姊,偕全臺醫療志工幹部,與上人座談。上人感恩大家用愛付出無所求,無論面對什麼境界,心都很甘願,付出之後感受歡喜,也就是法喜;相信大家內心存有清淨無染的法,八識田中所種的都是善的種子、法的種子,天天都在耕耘福田,造福人間。

上人說,教大家盤點生命,回想過去,「想」字是「相」字下面一個「心」字;想想自己過去的相,是佛相、菩薩相,或是凡夫相、眾生相?是哪一種占大部分?投入慈濟以後,是不是時時都在為苦難人、需要幫助的人而用心付出?若有,就不斷在八識田撒播善與愛的種子,並且持續耕耘福田。

「我們已經播下的種子,不要輕易放棄;所以承擔幹部,有傳承、交接,都是負起責任。除了醫療,慈濟有四大志業、八大法印,都是我們發自內心,隨著時間一路做過來的。」上人說,大家平時做早晚課,念〈回向文〉真誠懺悔「往昔所造諸惡業,皆由無始貪瞋癡」;而今盤點生命,則要真誠感恩「過去所做諸福業,皆由去除貪瞋癡」,因為大家行善造福的同時,也在清除人間的無明煩惱。

「我們到慈濟醫院當志工,與人說話,不是為了談生意賺錢,而是為人解開煩惱無明,是為了利益眾生;若是談生意,就有得失、有計較,煩惱不斷、造業不斷。做慈濟事,是在佛法中耕福田,捨一分時間,得萬萬分的福利─造福人間、利益眾生。在慈院當志工,無論是一天或三天、八天,能夠造福多少人,而且對方聞法受用,是長長久久。所以好好去思考,我們做得心無掛礙且法喜充滿,就是在佛法之中利益眾生,這也是佛陀來人間的一大事。」

「你們走入慈濟,也是一大事,是為了福利人間;要做慈濟福利人間,也要有因緣,否則同樣來到醫院,許多人是身有病痛或心裏有苦,徬徨無助,無所依靠,而志工即時走近他們,才讓他們安下心來。」

生生世世,一人度無量人

上人說,大家走在「學」與「覺」中間的菩薩道,不斷為人間付出,也從種種人間相思考與學習。在《法華經》中,佛陀形容三界如火宅,而眾生就如火宅中的孩子,隨著欲念追求,懵懂、貪玩,不願意出離火宅,甚至還在裏面玩火。

大家在醫院裏看到很多病人,明明知道抽菸、酗酒有害健康,卻無法戒菸、戒酒,甚至還在發酒瘋;等到酒醒了,旁人再與他們說喝醉酒的形態,或許他們也會覺得慚愧,但仍受不了誘惑而沉迷,這就是顛倒的凡夫,明知道理卻無法改過,實在「無法度」。

上人指出,許多人明知犯錯卻無法改過,有時是因為業力深重,讓無明欲念掩蓋了清淨智慧,所以懵懂如幼子。志工就要像教導不懂事的孩子,要順著他們,讓他們不排斥志工的靠近,從而建立感情,在這分情的基礎上,耐心引導他們走回正軌。

不少慈濟人在年輕時也曾懵懂犯錯,有因緣接觸慈濟、走入慈濟而發願改變自己。雖然有過去認識的人對他們做志工不以為然,但他們勇於承認錯誤,以行動證明自己真正是「懺悔即清淨」。這些負面的人生故事與轉變之後的真實見證,都是很寶貴的人間教材,可以適時引導犯錯的人懸崖勒馬,學習典範懺悔並改過。

「孩子不懂事,所以必須學習;凡夫要學佛,也不可能一下子就成佛,要下功夫用心學,而且要在人群中學;學習好典範,改正自己的過錯,也能用我們學習向善的歷程在人群中說法。要有發露懺悔的勇氣,才有辦法在菩薩道上精進往前走,而能明心見性,回歸清淨覺性;如果不行菩薩道,就還未明心,無法見性。」

上人說,眾生如果不明道理,隨著欲念追求,就是在火宅裏玩火。佛陀為了引導眾生出離火宅,所以來人間說法,要把人心的無明清除,清淨「心宅」,所以大家一定要聞法。

「對我來說,你們都是人間的活菩薩,所分享的都是法,因為你們在濁惡的世間,是拿著掃把掃地、刷地板、擦窗戶,讓周圍變得乾淨。來當志工,看著惡濁的人間、迷茫的眾生,看著貪、瞋、癡、慢、疑等凡夫無明導致的身心疾病,分秒中都在用佛法清淨心地。眾生有病來求醫,大醫王對症下藥,菩薩在身邊呵護,能夠為他們說法,解開心結。」

感恩家人,成全此生道業

上人說,醫療志工傾聽病患與家屬的心聲,可以知道每一個人的家庭都是修行道場,家家都有一本難念的經。而志工很有福,有的在家人的支持下來當醫療志工,或全家都是菩薩,這個家庭就是此生的好道場,所以要珍惜且彼此成就,這分緣不只在這一生,而是生生世世。

「我很慶幸此生可以看到人間菩薩會聚,共同為人間做多少事;除了這群出家弟子很甘願,還有清修士同樣在修行,但是為了芸芸眾生,沒有在精舍裏,天天走入濁世之中,面對醉酒之人、面對無明眾生,還要替師父帶一群人間菩薩。師父總是發自內心感恩他們,覺得自己此生很有價值,相信自己與這群弟子生生世世相伴,同行菩薩道,或許將來換他們當師父,換我當弟子,都要為人間付出,道心不退。」

「未來的五濁惡世,更需要身心清淨的菩薩在人間付出與帶動。這輩子大家都有家庭,但是你們有福,家庭就是道場;期待大家要發心立願,下輩子在清淨的大道場領眾,不是獨善其身的道場,而是兼利天下的大道場,一人可以度無量人,在世界各地行菩薩道,將慧命不斷延續下去。」

分秒微細,不知不覺空過

八月十八日,已至農曆七月十五,上人於早課後開示:「時日匆匆,下個月又是中秋了;一年過一年,無聲無息過去。時間對我們每個人都是平等的,增長的年齡與老邁的身軀提醒著我們,『是日已過,命亦隨減』。生命日日減少,其實是分分、秒秒減少,只因分秒太微細,讓我們忽視它,總是不知過去,仍然執著現在。」

「現在執著得了嗎?一分一秒不斷過去,很快就過了半個小時、一個小時,一天也只有二十四個小時,所以總是感覺很緊迫。假如說一天八萬六千四百秒,放鬆一秒不打緊,但是這一放鬆,就在不知不覺中空過了一分鐘、一小時,就此迷失了。我們修行的道業,是否隨著時間快步精進?如果跟得上時間,就不會感慨時日快過,因為我們隨著時日過去而成就慧命;假如對於時日的流逝不知不覺,不懂得把握,此生就空空過去了。」

上人教大家把握分秒,生活中與人對話時,句句都是鼓勵別人精進的好話;同時自我警惕,知之為知之,知道理就要力行實踐,一句好話、一句勉勵,增長別人的道心,成就自己的責任,讓人聞法而歡喜,增長智慧。自度度人,都在當下一念中;將師父的叮嚀聽入心,並且身體力行,就是得法受用。

本專欄為靜思人文出版之《證嚴上人衲履足跡》精簡版;更完整的慈濟脈動與開示內容,以及師徒之間的感人對談,請展閱每季出版的《證嚴上人衲履足跡》

8.17~18《農七月‧十四至十五》

【靜思小語】常捨一分時間做好事,可以得萬萬分的福利─造福人間、利益眾生。

承擔醫療志工,耕耘福田

八月十七日,長年承擔醫療志工的清修士顏靜曦、黃靜力師姊,偕全臺醫療志工幹部,與上人座談。上人感恩大家用愛付出無所求,無論面對什麼境界,心都很甘願,付出之後感受歡喜,也就是法喜;相信大家內心存有清淨無染的法,八識田中所種的都是善的種子、法的種子,天天都在耕耘福田,造福人間。

上人說,教大家盤點生命,回想過去,「想」字是「相」字下面一個「心」字;想想自己過去的相,是佛相、菩薩相,或是凡夫相、眾生相?是哪一種占大部分?投入慈濟以後,是不是時時都在為苦難人、需要幫助的人而用心付出?若有,就不斷在八識田撒播善與愛的種子,並且持續耕耘福田。

「我們已經播下的種子,不要輕易放棄;所以承擔幹部,有傳承、交接,都是負起責任。除了醫療,慈濟有四大志業、八大法印,都是我們發自內心,隨著時間一路做過來的。」上人說,大家平時做早晚課,念〈回向文〉真誠懺悔「往昔所造諸惡業,皆由無始貪瞋癡」;而今盤點生命,則要真誠感恩「過去所做諸福業,皆由去除貪瞋癡」,因為大家行善造福的同時,也在清除人間的無明煩惱。

「我們到慈濟醫院當志工,與人說話,不是為了談生意賺錢,而是為人解開煩惱無明,是為了利益眾生;若是談生意,就有得失、有計較,煩惱不斷、造業不斷。做慈濟事,是在佛法中耕福田,捨一分時間,得萬萬分的福利─造福人間、利益眾生。在慈院當志工,無論是一天或三天、八天,能夠造福多少人,而且對方聞法受用,是長長久久。所以好好去思考,我們做得心無掛礙且法喜充滿,就是在佛法之中利益眾生,這也是佛陀來人間的一大事。」

「你們走入慈濟,也是一大事,是為了福利人間;要做慈濟福利人間,也要有因緣,否則同樣來到醫院,許多人是身有病痛或心裏有苦,徬徨無助,無所依靠,而志工即時走近他們,才讓他們安下心來。」

生生世世,一人度無量人

上人說,大家走在「學」與「覺」中間的菩薩道,不斷為人間付出,也從種種人間相思考與學習。在《法華經》中,佛陀形容三界如火宅,而眾生就如火宅中的孩子,隨著欲念追求,懵懂、貪玩,不願意出離火宅,甚至還在裏面玩火。

大家在醫院裏看到很多病人,明明知道抽菸、酗酒有害健康,卻無法戒菸、戒酒,甚至還在發酒瘋;等到酒醒了,旁人再與他們說喝醉酒的形態,或許他們也會覺得慚愧,但仍受不了誘惑而沉迷,這就是顛倒的凡夫,明知道理卻無法改過,實在「無法度」。

上人指出,許多人明知犯錯卻無法改過,有時是因為業力深重,讓無明欲念掩蓋了清淨智慧,所以懵懂如幼子。志工就要像教導不懂事的孩子,要順著他們,讓他們不排斥志工的靠近,從而建立感情,在這分情的基礎上,耐心引導他們走回正軌。

不少慈濟人在年輕時也曾懵懂犯錯,有因緣接觸慈濟、走入慈濟而發願改變自己。雖然有過去認識的人對他們做志工不以為然,但他們勇於承認錯誤,以行動證明自己真正是「懺悔即清淨」。這些負面的人生故事與轉變之後的真實見證,都是很寶貴的人間教材,可以適時引導犯錯的人懸崖勒馬,學習典範懺悔並改過。

「孩子不懂事,所以必須學習;凡夫要學佛,也不可能一下子就成佛,要下功夫用心學,而且要在人群中學;學習好典範,改正自己的過錯,也能用我們學習向善的歷程在人群中說法。要有發露懺悔的勇氣,才有辦法在菩薩道上精進往前走,而能明心見性,回歸清淨覺性;如果不行菩薩道,就還未明心,無法見性。」

上人說,眾生如果不明道理,隨著欲念追求,就是在火宅裏玩火。佛陀為了引導眾生出離火宅,所以來人間說法,要把人心的無明清除,清淨「心宅」,所以大家一定要聞法。

「對我來說,你們都是人間的活菩薩,所分享的都是法,因為你們在濁惡的世間,是拿著掃把掃地、刷地板、擦窗戶,讓周圍變得乾淨。來當志工,看著惡濁的人間、迷茫的眾生,看著貪、瞋、癡、慢、疑等凡夫無明導致的身心疾病,分秒中都在用佛法清淨心地。眾生有病來求醫,大醫王對症下藥,菩薩在身邊呵護,能夠為他們說法,解開心結。」

感恩家人,成全此生道業

上人說,醫療志工傾聽病患與家屬的心聲,可以知道每一個人的家庭都是修行道場,家家都有一本難念的經。而志工很有福,有的在家人的支持下來當醫療志工,或全家都是菩薩,這個家庭就是此生的好道場,所以要珍惜且彼此成就,這分緣不只在這一生,而是生生世世。

「我很慶幸此生可以看到人間菩薩會聚,共同為人間做多少事;除了這群出家弟子很甘願,還有清修士同樣在修行,但是為了芸芸眾生,沒有在精舍裏,天天走入濁世之中,面對醉酒之人、面對無明眾生,還要替師父帶一群人間菩薩。師父總是發自內心感恩他們,覺得自己此生很有價值,相信自己與這群弟子生生世世相伴,同行菩薩道,或許將來換他們當師父,換我當弟子,都要為人間付出,道心不退。」

「未來的五濁惡世,更需要身心清淨的菩薩在人間付出與帶動。這輩子大家都有家庭,但是你們有福,家庭就是道場;期待大家要發心立願,下輩子在清淨的大道場領眾,不是獨善其身的道場,而是兼利天下的大道場,一人可以度無量人,在世界各地行菩薩道,將慧命不斷延續下去。」

分秒微細,不知不覺空過

八月十八日,已至農曆七月十五,上人於早課後開示:「時日匆匆,下個月又是中秋了;一年過一年,無聲無息過去。時間對我們每個人都是平等的,增長的年齡與老邁的身軀提醒著我們,『是日已過,命亦隨減』。生命日日減少,其實是分分、秒秒減少,只因分秒太微細,讓我們忽視它,總是不知過去,仍然執著現在。」

「現在執著得了嗎?一分一秒不斷過去,很快就過了半個小時、一個小時,一天也只有二十四個小時,所以總是感覺很緊迫。假如說一天八萬六千四百秒,放鬆一秒不打緊,但是這一放鬆,就在不知不覺中空過了一分鐘、一小時,就此迷失了。我們修行的道業,是否隨著時間快步精進?如果跟得上時間,就不會感慨時日快過,因為我們隨著時日過去而成就慧命;假如對於時日的流逝不知不覺,不懂得把握,此生就空空過去了。」

上人教大家把握分秒,生活中與人對話時,句句都是鼓勵別人精進的好話;同時自我警惕,知之為知之,知道理就要力行實踐,一句好話、一句勉勵,增長別人的道心,成就自己的責任,讓人聞法而歡喜,增長智慧。自度度人,都在當下一念中;將師父的叮嚀聽入心,並且身體力行,就是得法受用。

本專欄為靜思人文出版之《證嚴上人衲履足跡》精簡版;更完整的慈濟脈動與開示內容,以及師徒之間的感人對談,請展閱每季出版的《證嚴上人衲履足跡》