心は菩薩道から離れない

(絵・陳九熹)

菩薩になれるよう学びましょう。聞こえて目にすることができれば、助けることができるのです。

広く見聞きして、世の苦難に心を寄せ、心が菩薩道から離れないよう、行動しましょう。

近頃の気候は正に異常と言えます。国際的に高温で人が亡くなる報道をよく目にします。また、こんなに強い日差しの下で、トタン屋根の家に住んでいる多くの貧しい人は、まるでストーブに放り込まれたかのようで、耐え難い地獄にいる気分に違いありません。

世の中の裕福で幸せな家庭では、子供たちは常に大切にされ、可愛がられていますが、一方、貧困、病、苦難に満ちた人生もあるのです。「苦」というのは言葉で表わせることではなく、日々の実生活は哀れなものです。しかし、私たちは幸いにも、人間(じんかん)菩薩がこの時代に湧き出ているのを目にしています。

菩薩の心で、世の衆生の苦しみに関心を寄せるのです。心に愛があれば、自然と多くの助けを必要とする人と接することができます。人間(じんかん)に苦しみが多いのは、人心が複雑になっているからで、災いを作り出しているだけでなく、気候変動による災難ももたらしているのです。世界に苦難があれば、慈済人は心して、愛で以って、あらゆる国や地域で、リレー式に支援しています。私はこの大いなる因縁を大切にしていると同時に、とても感謝し、感動しています。しかし、「世の中にはこのような苦しみがどれだけあるのだろうか」とも思ってしまいます。私たちの力はとても微弱なのです。

苦しみの無い場所など無いと言われますが、それでも私たちは苦しんでいる人を助けるためにできる限り尽くし、少しでも多く奉仕しなければなりません。決して自分の力が微弱だから何もできないと思わないでください。少しずつ積み重なれば、大きな力になり、広く奉仕できるのです。もし、慈済が初期の頃、助けを必要とする人を目にしなかったら、発心する機会はなく、愛のエネルギーを結集できず、今のように慈善の足跡が百三十六の国と地域に到達することはなかったでしょう。

人口は増え続けていますが、地球は一つしかないため、どうすれば大地を破壊せず、どうすれば気候変動の影響を避けられるでしょうか。仏陀は、衆生に真理を理解させるために、人間(じんかん)にやって来たのです。仏法のたとえに、「衆生の心が浄化されなければ、人間(じんかん)はまるで『火宅』のようだ」とあります。長者が炎に包まれた屋敷にいる子供たちに、早く逃げるよう呼び掛けても、子供たちは依然として欲望を追求し、それに夢中になっているのです。火宅から救い出すにはどうすればいいのでしょう。それには、彼らの心を救わなければなりません。

「心、仏、衆生の三者に違いはありません」。誰もが仏性を持っていますが、長い間無明の煩悩に惑わされて来たため、目覚めることができないのです。ですから学ばなければならず、菩薩道を歩んで「覚り」という目標に向かって進むのです。もし菩薩道を歩まなければ、あなたは迷える無知な子供と同じであり、思いはあっても実践しなければ、いつまでも同じ場所に留まったまま、決して到達することはできません。

この菩薩道がこの世にあるのですから、自分の目で見て学ぶのです。人生の苦しみを知らなくては幸福を作ることはできません。幸福を浪費するだけで楽しみに浸っていたら、絶えず心が動いて、貪、瞋、癡という無明に執われ、地獄にいるように苦しみから逃れられないでしょう。

「人心の浄化と平和な社会」は、私がこの生涯で最もやり遂げたいことです。ですから、毎日の言葉にもこの願いを込めているのです。自分を過小評価しないで、自分に備わっている良知の本性を引き出してください。心の泉を結集すれば、大地を潤すことができ、心の泉が純粋であれば、悟りを開くことができ、人を悟りに導くこともできるのです。

私の師匠は「仏法の為、衆生の為」という言葉をくれ、私は全力を尽くしてきました。慈済人は必ずしも仏教徒ではありませんが、誰もが仏心を持っています。宗教によって名称は仁愛、博愛、大愛と違っても、共に善を行えば、その力は非常に大きなものになります。

八月上旬、慈済人は再度ブラジル南部のリオグランデ‧ド‧スル州を訪れて災害調査をしました。洪水から数カ月が経過していましたが、撮影された写真から災害の爪痕が依然として残っていることが見て取れ、人を派遣して調査と配付をする必要があることが分かったのです。地元の神父は教会の仲間に呼びかけ、慈済人と協力して被害を受けた住民を支援しました。私は、宗教を超越した神父の精神に敬服し、感謝しています。お互いの宗教を尊重し、励まし合って善行することは、即ち善の原点に回帰することに他なりません。

善行を成就して誰かを救うのは、心の一念によります。しかし、因縁が有っても行動に移さず、目も耳も閉じていては、助けを求める人の声も聞こえず、姿も目に入らず、人助けの機会は通り過ぎて、せっかくの思いも無になってしまいます。

「菩薩」とはサンスクリット語で、悟りを開いた情のある人を意味します。菩薩になるにはどのように学べばよいのでしょう?それは非常に簡単です。耳で聞き、目で見れば、助けることができるので、もっと聞いて、見て、一歩ずつ奉仕すれば良いのです。千里の道も第一歩から始まります。菩薩とは単なる固有名詞ではなく、この世に現実に存在するのです。その発心は目に見えず、触ることができなくても、皆さんの努力を結集することで、計り知れない大きな功徳になるのです。

菩薩の精神は清浄で無私の愛であり、広い心を持ち、清浄な意識で以って接するため、生きとし生けるものを愛することができるのです。この世の苦しみに心を寄せ、心も行動も菩薩道から離れず、一途に歩んでください。皆さんが心して精進することを願っています。

(慈済月刊六九四期より)

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