三十年を振り返る 愛で以て傷を癒す

華人を標的にしたジャカルタ暴動、ジャカルタの大洪水、スマトラ島沖地震(インド洋大津波)、新型コロナウイルス……

この三十年間、激甚災害の支援の度に、慈済インドネシア支部は歴史を書き換え、愛で以て垣根を取り払うことに取り組み、傷を癒して来た。

2023年9月、慈済インドネシア支部は30周年を迎え、郭再源師兄(グォ・ザイユェン、中央左)、黃栄年師兄(ホヮン・ロンニェン、中央右)及び台湾から出席した慈済基金会の顏博文(イェン・ボーウェン)執行長(中央)が喜びを分かち合った。

二〇二三年、慈済インドネシア支部は三十周年を迎えた。私は一九九五年に慈済に参加し、既に二十八年が経過したが、自分はとても幸福であり、インドネシアも幸福に満ちている場所だと思っている。それは、こんなに多くの師兄や師姐が共に慈済の志業を行っているからである。

現在、慈済インドネシア支部には一万五千人余りのボランティアがいて、十八の連絡拠点がある。ジャカルタに荘厳な静思堂を建立し、慈済小学校、慈済病院及び大愛テレビ局もできた。それらは、私が慈済に参加した頃には考えられなかったことである。

第一回大規模医療ケア活動

一九九三年、劉素美(リュウ・スゥーメイ)師姐が数人の台湾実業家夫人と共に慈済の志業を始め、慈済をインドネシアに根付かせた。もし、素美師姐が勇猛果敢に担っていなければ、今日の慈済インドネシア支部はなかっただろう。私たちは彼女にとても感謝している。最初の慈善ケースとして、貧しい家庭の子供への学費支援、第一回災害支援として、ムラピ山の噴火後に行った被災者支援がある。集まった募金をジョグジャカルタ省の社会福祉局に渡し、十二戸の「大愛の家」を建てた。

一九九五年から、慈済はジャカルタ近隣のタンゲラン県衛生局と共同で、肺結核撲滅プロジェクトを進め、定期的に薬を配付するようになった。私はその時初めて、インドネシアの肺結核症例が当時の世界で第二位だったことと、六カ月から九カ月間継続して薬を服用し、食生活と生活習慣に気をつければ、必ず治ることを知った。

慈済がミルク、緑豆、米等の物資を提供し、ボランティアが二週間に一回体重計を持参して患者の体重を測定した。体重の増加は、栄養が付き、病状が改善されたことを意味するからだ。しかし一部の患者には、ミネラルウォーターを服の中に入れて、体重が増えたように見せかける人もいた。というのも、彼らのライフスタイルでは十分な休息を取る余裕がなかったり、栄養のある食べ物を全て子供に残したりしていたからだ。私たちは絶えず彼らに、病をしっかり治すようにと説得した。一九九九年までに、千百八十三人の患者をケアした。

当時、私たちは肺結核のことをよく理解しておらず、至近距離で接する時はマスクと手袋を着用する必要があることを知らなかった。シンガポールの慈済人医会の医師が、私たちが患者の手を引いている写真を見て、他人をケアする前に、先ず自分を守るようにと教えてくれた。その時初めて、ウイルスの危険性を知った。それは、慈済がインドネシアで最初に行った大規模医療活動だった。当時は誰もがとても感動し、実践している中で、證厳法師がおっしゃる「人傷つけば我痛み、人苦しめば我悲しむ」という言葉の意味を、つくづく実感した。

私はシナールマスグループ創設者黄奕聡(フヮン・イーツォン)さんの秘書をしていたが、一九九八年五月九日、黄おじさんが夫人と息子の栄年(ロンニェン)師兄を連れて台湾を訪れ、法師に拝謁した。それは知らず知らずのうちに運命で定められていたのだと感じた。その証拠に、五月十三日、ジャカルタで「暗黒の五月暴動(ジャカルタ暴動)」が起きた。その頃がインドネシア史上、最も暗黒な時期であり、華人排斥暴動に対して、法師は私たちに「愛で以て憎しみを解消するのです」と諭された。

私たちは、安全を守ってくれる軍と警察及びジャカルタ周辺の民衆に米を配付した。栄年師兄とシナールマスグループの支援、そして軍と警察の協力があったからこそ、あのような緊迫して混乱した時に、大規模な配付活動を展開し、千百トンの米を配付することができたのである。

しかし、あの時の状況は依然として厳しく、空港を往復するシナールマスグループ職員が栄年師兄に、誰々もシンガポールに行ってしまったと話しているのを聞いて、私もとても怖くなり、本当に国外に逃れたいと思ったものだった。だから余計に、黄おじさんと栄年師兄、シナールマスグループの師兄や師姐たちが国を離れなかったことに感謝した。

インドネシア慈済人は1995年、ジャカルタに隣接するタンゲラン県政府と共に「肺結核撲滅プロジェクト」を推進し、賈文玉師姐(中央)が村人に説明した。

ジャカルタ大洪水が縁を成就させた

二〇〇二年一月、ジャカルタで大洪水が発生した。最も甚大な被災区域はアンケ川下流で、沿岸には貧民がいっぱい住んでいて、河はゴミに被われていた。ボランティアは浸水区域に入り、炊き出しと施療を行った。ある日、黄おじさんは私に、「文玉(ウエンユー)、慈済の師兄や師姐、そして医療チームを招いて会食をしたい」と言った。黄おじさんは、慈済が休まず被災世帯をケアしていることを知っており、加えて旧正月を迎える頃だったからである。

私はあの日のことを永遠に忘れることはない。二〇〇二年二月二十三日の土曜日だった。会食の場所は郭再源(グォ・ザイユェン)師兄のボロブドゥールホテルだった。思賢(スーシエン)師兄はわざわざ台湾からジャカルタに来て、阿源(アーユェン)師兄と麗萍(リーピン)師姐も初めて慈済の活動に招かれた。会食の席で、黄おじさんは「慈済に被災住民にもっと多く支援をしてもらえないでしょうか?」と言った。大洪水が過ぎて二カ月近く経っても、依然として多くの人が道端に住み、ちゃんとしたシェルターもないことをテレビで見て知っていたからだ。思賢師兄は、支援プロジェクトがとても大きいので、法師に指示を仰ぐ必要があると言った。

黄おじさんは見るに忍びなく、三月六日栄年師兄や素美師姐ら、そして私を伴って、花蓮に向かった。黄おじさんを見て、法師は「私は黄居士のお力を借りて、企業家たちと一緒に被災地の清掃をしてくれたらと思っています」と言った。

ジャカルタに戻ってから、黄おじさんは早速慈済ボランティア全員を集め、どのように被災地を清掃するかを話し合った。翌日、黄おじさんは阿源師兄をオフィスに招き、「上人は、私たちが一緒にジャカルタを清掃することを望んでいます。一緒にやってくれますか?」と聞くと、阿源師兄は直ちに頷いた。

オランダがインドネシアを統治していた時期、数多くの華人を虐殺したことで河が赤色に染まり、それが元でアンケ川と呼ばれるようになった。私たちは華人として、この川が抜本的に浄化され、大愛村が建てられ、更にこのような愛と温もりの物語に満ちた場所になるとは、思ってもいなかった。

1998年5月初め、シナールマスグループ創設者の黄奕聡氏夫妻が花蓮を訪れ、上人に拝謁した。

省長が大愛村の二十年をこの目で見てきた

当初、多くのアンケ川沿いの住民は引っ越しに消極的だったが、師兄、師姐たちは、これは防災のためだけではなく、大愛村には学校や病院、良好な環境もあり、子供たちが大愛村で暮らせば希望が出てくる、と説明して聞かせた。

今でも覚えているが、大愛村建設の時、慈済は一世帯につき五十万ルピア(約四千円)の補助金を出して、仮住まいをしてもらった。その頃、陳豊霊(チェン・フォンリン)師兄と彼のチームがジャカルタ政府と交渉したが、容易ではなかった。一方、私たちは募金活動をした。一軒あたりのコストは五千万ルピア(約四十万円)と見積もり、大愛村には千三百軒を建てるので、「寄付して大愛の家を建てることは祝福であり、自分を祝福し、子供や孫も円満な家庭を持つことができるよう祝福しましょう」と呼びかけた。

当時、阿源師兄は慈済に参加して間もなく、もし集めたお金が足りない時は、不足部分を自分と栄年師兄が折半して負担しようと提案したところ、栄年師兄はためらうことなく同意した。後で知ったことだが、実はその時期がシナールマスグループにとって最も困難な時期だったのだ。

この川を整治していた間、思賢師兄がジャカルタを八回も訪れたことに、私たちはとても感謝している。ある夜、私が空港に出迎えに行くと、彼がこの川を見たいと言ったので、「こんな遅い時間に見ても仕方ないのに」と思ったものだ。丁度数トンのゴミを清掃したばかりだったので、車を降りると、私はその臭気にすぐ鼻を覆ってしまった。思賢師兄は逆に満足そうに、「どうです、この景色はベニスに似ていると思いませんか?岸辺で誰かがギターでも弾けば、もっとロマンチックでしょうね」と私に言った。その言葉を聞いて、私は手を下ろし、二度と鼻を覆うことができなかった。思賢師兄は、私たちがこのアンケ川の整治という大規模な慈善プロジェクトを進めていたことを目にして、とても感動していたことを私は知っている。

二〇二三年五月、豊霊師兄は私のオフィスに来て、昨日ジャカルタ知事代行のヘルさんと会食した時、私が彼に「大愛村は八月で設立二十年になります」と言うと、彼は感動しながら「早いものですね」と答えた。

その時豊霊師兄が突然言葉を切ったので、私が「泣いているのですか?」と聞くと、彼は頷きながら「そうです!」と言った。二十年前この川の整治をしていた当時、ヘルさんは北ジャカルタ市の職員だったが、彼は全力で取り組み、豊霊師兄も全身全霊で打ち込んでいたのは、全てジャカルタのためだった。あれから、二十年が経ち、今思い返すと、感動せずにはいられないのだ。

二〇二三年八月二十六日、大愛村は二十周年を祝った。村民たちは台上に上がって、移住後の変化と子供たちがとても優秀になったことを分ち合った。このことから私は、慈済で何を奉仕しても、必ず善い縁になると感じた。なぜなら、私たちの行動は自分のためではなく、社会に福をもたらすためだからだ。

アンケ川は整治される前は、現地の人から「ジャカルタの黒い心臓」と呼ばれた。住民は川縁に違法建築を建て、生活用水は河から汲み取り、汚水もゴミも河に流していた。

五万トンの米は慈済の種

二〇〇三年から二〇〇七年まで、インドネシア慈済は五万トンの米を配付したことで、インドネシア各地に「慈済の種」をもたらした。

この件は、阿源師兄が数人の企業家を伴って花蓮を訪れていた時期に、台湾農業委員会が、十万トンの人道支援米を慈済の貧困救済に割り当てると聞いたことが始まりだった。法師がインドネシアは何トン必要ですかと聞いたところ、阿源師兄は正直に、「五万トンです」と答えた。ジャカルタにいた私たちは、五万トンの米を全部配付すると聞いて、やる前から疲れてしまった!

一世帯に二十キロ配付するとして、五万トンということは、二百五十万世帯に配付するのである。当時、ボランティアの人数はとても限られていたが、阿源師兄は、暴動以降、インドネシアの経済は回復しておらず、人民の生活は依然として困難だったことを考えていた。

その大量の米は、台湾の高雄からジャカルタの埠頭まで輸送するだけでも百万ドルかかったが、十人の実業家が費用を分担してくれたのだ。とても感謝している。ジャカルタからインドネシア各地への輸送費用は、各地域の実業家に負担してもらった。

当時参加してくれた師兄や師姐たちにも、とても感謝している。なぜなら、全ての国がインドネシアのように幸福ではないからだ。一部の国ではボランティアが米を配付したいと考えても、輸送費を支払う余裕がない場合もある。インドネシアでは、その時の米の配付活動のおかげで、多くの新しいボランティアを迎え入れることができ、多くの大企業家が従業員を派遣して協力してくれた。

米の配付は難しいことではないが、困難だったのは物資の引換券である。打ち合わせの時は、四人一組で引換券を配付する予定だったが、現地に着いてみると、配付範囲がとても広かったため、一人一組に変わった!スラム街に入って引換券を配付するのは、やはり怖く感じ、終わってからも万一、他の師兄、師姐と合流できなかったらどうすればいいのか?またもし、全部配付してしまっても、まだ多くの世帯に行き届いていなかったら、新たに引換券を持って来てもらうまでそこで待つのもとても怖いのだ。またもし、引換券が余ったら、バイクタクシーに乗って隣村まで行き、配付を続けなければならなかった。

あの時、私は生まれて初めてバイクタクシーに乗り、一方の手で引換券と慈済のバッグを持ち、もう一方の手でバイクの後ろにあるタンデムバーを掴みながら隣の村に行き、午後まで配付を続けた。

大愛村で成長したダグナスさん(左)は現在警察官になり、母親のトゥティンさん(右)は移住したことで生活が改善されたと感謝した。

チェンカレン大愛村は2023年8月に20周年を祝った。ジャカルタ知事代行のハルさん(中央)は当時、ジャカルタ市の職員で、村の建設に尽力した。

インド洋大津波で、仏法を体得

二〇〇四年、インド洋大津波により、インドネシア・アチュ州等で二十万人以上が犠牲になった。あの年の十二月二十六日、阿源師兄と家族は上海にいたが、ニュースを見て直ちにジャカルタへ戻った。二十八日、直ちに数人のボランティアと共に、専用機に救援物資を積んで被災地に向かった。災害はあまりにも大きく、空港では人々は裸足のまま我先にと飛行機で離れようとしていた。阿源師兄は、「人は何も持って行けないが、業だけがついて回る」の意味をつくづく実感した。

最初、アチェへ災害支援に向かった時、恐怖を克服するのが大変だった。なぜなら、テレビであれだけたくさんの人が亡くなったり、家族を失ったりした映像を見ていたからだ。被災地に着くと、重々しい空気を感じたが、師兄や師姐たちの勇敢な奉仕を目の当たりにした。秋蘭(チュウラン)師姐は現地で三カ月間調理ボランティアをし、何人かの師兄は災害支援と同時に遺体の搬送を手伝い、所謂「大悲心」(だいひしん)を真に実践していた。

今回の災害はその時代の悲劇であるが、慈済はそれが縁となり、アチェ州に二千七百戸の大愛の家を建てた。阿源師兄が現地政府と交渉してくれたことと、栄年師兄が何千トンもの支援物資の貯蔵と輸送に協力してくれたことに感謝している。そして法師、街頭募金をしてくれた世界中の慈済人と共に成就できたことに感謝している!

台湾の農業委員会(現:農業部)は2003年、米の対外援助を行なった。その内の5万トンはインドネシアの慈済人が食糧不足の民衆に配付した。

2004年12月のインド洋大津波により、甚大被災地域のインドネシア・アチェ州では約20万人が命を落とし、インフラもひどく破損した。(写真1)アチェ州の大愛一村(1期目)は2005年から入居が始まり、ユドヨノ大統領(写真2・中央右)が訪れた。(写真2、撮影・顔霖沼)

互いに信頼し愛することで無事に過ぎたコロナ禍

二〇二〇年から、新型コロナウイルスによる世紀のパンデミックで、人々は自由に行動することができずにいたが、慈済インドネシアは逆に、その三年間に数多くの良縁を結んだ。真っ先に全国の医療機関に大量の防護服、簡易検査キット、薬等を寄付し、インドネシアの最も遠い離島ニアスにも慈済の支援が届いた。それはインドネシアの慈済人が互いに協力し合ったからこそできたことであり、それ以上に素美師姐が責任をもって自分のポジションを守り、ジャカルタに留まって、私たちのために指揮してくれたことに感謝している。

二〇二三年六月十四日、ジョコ大統領がインドネシア慈済病院の開業式に訪れ、私たちはとても嬉しく、光栄に思った。インドネシアでは、慈済病院にだけ患者とその家族をケアするボランティアがいるが、病院で生、老、病、死を感じ取ることができるため、より多くの人が共に医療ボランティアとして参加してくれることを期待している。

慈済インドネシアはこの三十年間、非常に多くのことを経験し、私たちにブッダが説いている「苦」という言葉を深く実感させてくれた。奉仕することと他人を思いやることを学び、その過程で自分も成長し、より価値のある人生になったと思うし、もちろん慧命も延びたと思う。今生に慈済という道場で修行ができたことに感謝し、生生世世菩提(悟り)の道を歩むことを発願する!

(慈済月刊六八七期より)

賈文玉(ジャ・ウェンユー)のミニプロフィール

賈文玉(ジャ・ウェンユー)のミニプロフィール

  • 1957年生まれ、1995年にインドネシア初の認証を授かった慈済委員になる。
  • 1992年シマールナスグループに就職。慈済をグループの創設者黄奕聡さんに紹介し、実業家を迎え入れて、共に慈済志業を続けてきた。
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