自分が菩薩になれることに期待する

(絵・陳九熹)

菩薩になれる自分に期待して、人の為に道を敷きましょう菩薩はもし、道を敷かなければ、ただの行きずりの人に過ぎません。
自分がしっかりこの道を歩むだけでなく、後から来る人の為にも、平穏に歩める道を残さなければならないのです。
これこそが私たちの生命の価値です。

い冬が過ぎ去り、温暖な春がやってきて、大地に春が巡ってくることで、万物は栄えるのです。私たちも同じく、仏に学ぶ心が新春にめぐり逢うように、法を心の中に存分に吸収すれば、繁栄して力強くなれます。毎日が新年であるかのように、いつも互いに祝福し、感謝し合うのが、人と接する最も美しい光景です。

旧正月前、台湾の数十カ所の慈済道場で、「年越し」の食事会が開かれ、心をこめてケア世帯を招待しました。慈済が一九六九年に普明寺で初めて冬季配付を行って以来、毎年、年越しの食事会で、社会の暗がりや家にいて寂しく一人暮らしをしているお年寄りも、この場所に来れば、人々と顔を合わせることができるのです。慈済は大家族なのですから。

世の衆生を自分の家族と見なす愛は、とても誠意のあるものです。私たちが毎日早朝に「大殿」(本殿)で〈炉香讃〉を唱えているように、「心のこもった誠意があれば、諸仏は姿を現わす」のです。その実、諸仏や菩薩の姿が私たちには見えなくても、感じ取ることは出来ます。なぜなら自分が誠実なのは、仏様がお分かりになっていると信じており、またこの誠意が証明されたからこそ、仏様が私の心の中にその姿を表すのです。誰もがこのような心を持っていれば、仏様や菩薩はいつでも私たちの心にあります。仏心や菩薩心があれば、自然とあらゆる衆生に対して誠意で接するようになります。

慈済人は、この世の貧困や病、一人暮らしのお年寄り、障害者を見れば、直ぐに関心を寄せて寄り添い、連絡が取れれば情は繋がり、良縁が結ばれます。年越しや節句に家々で楽しく団欒する時、彼らは困難を乗り越えて来たことを忘れていません。そこでボランティアは、年越しの美味しい料理を用意して「囲炉(食卓を囲む)」をしたり、各テーブルを回って話をしたり、料理を取ってあげたりすることで、彼らに美味しい料理を楽しむだけでなく、心遣いも感じ取ってもらうのです。招待された人たちは喜びに満ちたことでしょう。

「囲炉」の時、多くのケア世帯が「竹筒貯金箱」を持って来て、毎月コツコツ貯めた硬貨をチャラチャラ、カラカラと音をたてながら、大きなかめに空けます。これが竹筒歳月であり、軽々しく見てはいけません。一滴の水でも河となって乾いた大地を潤します。僅かでも集まれば、無数の救済ができるのです。

旧正月の間、多くの国々から慈済人が私に会いに帰って来ます。静思精舎は世界中の慈済人の家なのです。皆さんは普段は人間(じんかん)で精進していますが、精進の道場と同時に仏法の大家庭に帰って来るのです。除夜の食事会は二百卓以上になり、どのテーブルに行っても、喜びに溢れた挨拶の声が聞こえてきます。

慈済人は毎日のように人と良縁を結ぶと共に、常に自分への祝福もしなければいけません。「幸いにも私は慈済の大家庭にいるので、師父は私を『菩薩』と呼んでくれます。菩薩にならなければ……」と誰かが言いました。慈済は間もなく六十年になります。世界中の慈済人のサポートに感謝し、心と愛で道を切り開いては敷いて来ました。菩薩は道を切り開かなければ、ただの通りすがりの人でしかありません。私たちの役目はその道をしっかり歩むだけでなく、後の人に軽快で平穏に歩ける大道を残すようにすることであり、これが生命の価値なのです。

世の中には欠陥のある人生を送っている人がとても多いのです。様々な人間(じんかん)の苦を目にしなければ、ぼんやりした日々を送ってしまいます。世の苦難の声に耳を傾ければ、自分の幸福を大切にするようになります。福があって、因縁によって苦を目にしたのなら、使命感と責任感で以て愛の力を啓発すべきです。どこかの国で苦難や災難が起これば、そこの慈済人が行動を起こします。災害の面積が大きい時は他国から動員することもあります。或いは被災者の自力救済を促し、「仕事を以て支援に代える」方式で、自分たちの町や身寄りのないお年寄りをケアしてもらうのです。災害支援は日常生活にも関心を寄せなければなりません。一時的な支援だけに留まらず、三カ月或いは半年掛けなければ、元の生活に戻れないと評価した場合は、中期的な支援をします。また家庭に独居のお年寄りや障害者、病人しかいなければ、長期ケアの対象にし、しいては人生の最後に至るまで関心を寄せなければなりません。ですから私は慈済人の大愛に感謝しています。菩薩のいる所には苦難の人々に幸福が訪れるのです。

一日は八万六千四百秒と聴くと、多いように思いますが、時計のチクタクだけを聞いていると時はすぐに過ぎ去ってしまいます。人生もまた、この一秒の間に飛び去り、自覚を持たなければ、知らない間に過ぎて行き、気にしていないと、命もまた時と共に飛び去ってしまいます。時はどんなに把握しても、極微細なミリ秒も過ぎて行きます。時を利用して、この一秒を価値のあるものに使うのです。

感慨深げに時は過ぎ去りますが、「命もまたそれと共に終わる」のです。そして、過去の歴史は積み上がりますが、それらの出来事があったことに感謝し、この一生で実践してきた正しいことを忘れてはいけません。体力は歳を追って衰えていきますが、精進に努め、自分の気力と勇気を忘れずにいたいものです。なぜなら修行の目的は衆生を済度することであり、それは縁がないとできません。この一生で、もっと多く福縁を結んでこそ、来世で修行する時、衆生との縁に恵まれるのです。修行が長ければ長い程、済度出来る人が多くなります。人間(じんかん)の至る所は菩薩道に通じ、一本一本の菩薩道は仏道に通じるのです。どうぞ絶えず心して励んでください。

(慈済月刊六八八期より)

(絵・陳九熹)

菩薩になれる自分に期待して、人の為に道を敷きましょう菩薩はもし、道を敷かなければ、ただの行きずりの人に過ぎません。
自分がしっかりこの道を歩むだけでなく、後から来る人の為にも、平穏に歩める道を残さなければならないのです。
これこそが私たちの生命の価値です。

い冬が過ぎ去り、温暖な春がやってきて、大地に春が巡ってくることで、万物は栄えるのです。私たちも同じく、仏に学ぶ心が新春にめぐり逢うように、法を心の中に存分に吸収すれば、繁栄して力強くなれます。毎日が新年であるかのように、いつも互いに祝福し、感謝し合うのが、人と接する最も美しい光景です。

旧正月前、台湾の数十カ所の慈済道場で、「年越し」の食事会が開かれ、心をこめてケア世帯を招待しました。慈済が一九六九年に普明寺で初めて冬季配付を行って以来、毎年、年越しの食事会で、社会の暗がりや家にいて寂しく一人暮らしをしているお年寄りも、この場所に来れば、人々と顔を合わせることができるのです。慈済は大家族なのですから。

世の衆生を自分の家族と見なす愛は、とても誠意のあるものです。私たちが毎日早朝に「大殿」(本殿)で〈炉香讃〉を唱えているように、「心のこもった誠意があれば、諸仏は姿を現わす」のです。その実、諸仏や菩薩の姿が私たちには見えなくても、感じ取ることは出来ます。なぜなら自分が誠実なのは、仏様がお分かりになっていると信じており、またこの誠意が証明されたからこそ、仏様が私の心の中にその姿を表すのです。誰もがこのような心を持っていれば、仏様や菩薩はいつでも私たちの心にあります。仏心や菩薩心があれば、自然とあらゆる衆生に対して誠意で接するようになります。

慈済人は、この世の貧困や病、一人暮らしのお年寄り、障害者を見れば、直ぐに関心を寄せて寄り添い、連絡が取れれば情は繋がり、良縁が結ばれます。年越しや節句に家々で楽しく団欒する時、彼らは困難を乗り越えて来たことを忘れていません。そこでボランティアは、年越しの美味しい料理を用意して「囲炉(食卓を囲む)」をしたり、各テーブルを回って話をしたり、料理を取ってあげたりすることで、彼らに美味しい料理を楽しむだけでなく、心遣いも感じ取ってもらうのです。招待された人たちは喜びに満ちたことでしょう。

「囲炉」の時、多くのケア世帯が「竹筒貯金箱」を持って来て、毎月コツコツ貯めた硬貨をチャラチャラ、カラカラと音をたてながら、大きなかめに空けます。これが竹筒歳月であり、軽々しく見てはいけません。一滴の水でも河となって乾いた大地を潤します。僅かでも集まれば、無数の救済ができるのです。

旧正月の間、多くの国々から慈済人が私に会いに帰って来ます。静思精舎は世界中の慈済人の家なのです。皆さんは普段は人間(じんかん)で精進していますが、精進の道場と同時に仏法の大家庭に帰って来るのです。除夜の食事会は二百卓以上になり、どのテーブルに行っても、喜びに溢れた挨拶の声が聞こえてきます。

慈済人は毎日のように人と良縁を結ぶと共に、常に自分への祝福もしなければいけません。「幸いにも私は慈済の大家庭にいるので、師父は私を『菩薩』と呼んでくれます。菩薩にならなければ……」と誰かが言いました。慈済は間もなく六十年になります。世界中の慈済人のサポートに感謝し、心と愛で道を切り開いては敷いて来ました。菩薩は道を切り開かなければ、ただの通りすがりの人でしかありません。私たちの役目はその道をしっかり歩むだけでなく、後の人に軽快で平穏に歩ける大道を残すようにすることであり、これが生命の価値なのです。

世の中には欠陥のある人生を送っている人がとても多いのです。様々な人間(じんかん)の苦を目にしなければ、ぼんやりした日々を送ってしまいます。世の苦難の声に耳を傾ければ、自分の幸福を大切にするようになります。福があって、因縁によって苦を目にしたのなら、使命感と責任感で以て愛の力を啓発すべきです。どこかの国で苦難や災難が起これば、そこの慈済人が行動を起こします。災害の面積が大きい時は他国から動員することもあります。或いは被災者の自力救済を促し、「仕事を以て支援に代える」方式で、自分たちの町や身寄りのないお年寄りをケアしてもらうのです。災害支援は日常生活にも関心を寄せなければなりません。一時的な支援だけに留まらず、三カ月或いは半年掛けなければ、元の生活に戻れないと評価した場合は、中期的な支援をします。また家庭に独居のお年寄りや障害者、病人しかいなければ、長期ケアの対象にし、しいては人生の最後に至るまで関心を寄せなければなりません。ですから私は慈済人の大愛に感謝しています。菩薩のいる所には苦難の人々に幸福が訪れるのです。

一日は八万六千四百秒と聴くと、多いように思いますが、時計のチクタクだけを聞いていると時はすぐに過ぎ去ってしまいます。人生もまた、この一秒の間に飛び去り、自覚を持たなければ、知らない間に過ぎて行き、気にしていないと、命もまた時と共に飛び去ってしまいます。時はどんなに把握しても、極微細なミリ秒も過ぎて行きます。時を利用して、この一秒を価値のあるものに使うのです。

感慨深げに時は過ぎ去りますが、「命もまたそれと共に終わる」のです。そして、過去の歴史は積み上がりますが、それらの出来事があったことに感謝し、この一生で実践してきた正しいことを忘れてはいけません。体力は歳を追って衰えていきますが、精進に努め、自分の気力と勇気を忘れずにいたいものです。なぜなら修行の目的は衆生を済度することであり、それは縁がないとできません。この一生で、もっと多く福縁を結んでこそ、来世で修行する時、衆生との縁に恵まれるのです。修行が長ければ長い程、済度出来る人が多くなります。人間(じんかん)の至る所は菩薩道に通じ、一本一本の菩薩道は仏道に通じるのです。どうぞ絶えず心して励んでください。

(慈済月刊六八八期より)

關鍵字

仏陀成道の地を行く 書き尽くせない苦楽

台湾に戻ってからも、ブッダガヤに滞在した三週間のことをよく思い出す。レポートを書いていたり、シャワーを浴びている時に停電になると、平静さを保つよう訓練した。

毎日外出でトゥクトゥクに乗っていたので、腕の力が鍛えられた。それから誰も行きたがらない村に行くのも、週に一度の楽しい時間だった。

ブッダガヤに来れば、どこよりも早く成仏できますよ」。二〇二三年九月九日、私はマレーシアのボランティア十一人とブッダガヤ慈済連絡所に到着し、今年二月からブッダガヤに駐在しているマレーシア・セランゴール支部の副執行長・蘇祈逢(スー・チーフォン)さんは、こう言った。

蘇さんが言いたいのは、これからそこで様々な試練が待っているという意味だった。実はそこへ行く前私は、インドの暑さと食事に慣れなければならない心構えができていたつもりだったので、彼の言葉を真剣に受け止めなかった。

私と同じく台中市中区から来た陳麗雪(ツン・リーシュエ)さんは、撮影と日誌レポートを書く担当で、私は文字で記録する係りだった。彼女は早めに九月一日に出発し、私の宿泊先を用意してくれていた。またインドと台湾の時差は二時間半だけなので、その晩、荷物を置くと、直ちに出かけた。私は医師のチトラ先生をインタビューした。

9月12日、チトラ先生はスジャータ村のコロニー路地で、3件の医療ケースを訪問した。その中の火傷を負った6歳の少年は、5本の指が既に変形して硬直していた。(撮影・葉晋宏)

チトラ先生の帰郷

数カ月の運用を経ると、慈済の各チームは、それぞれ担当する役割にかなり慣れた。そして、慈善、医療、教育などのチームは、翌日果たすべき任務をラインで伝え、随行できるボランティアはそこに申し込んでもらうことで、トゥクトゥク(三輪タクシー)を手配した。私たち文書記録チームは、チトラ先生の医療チームについて行くことにした。健康診断を行う過程をレポートする他、医師であるチトラ先生の人物像を描こうと考えた。

チトラ先生は一九六三年生まれで、インドのチェンナイ出身である。彼女は一九八八年に、マレーシアのコタキナバルから来たご主人と結婚した後、医師としてコタキナバルに定住し、二年前に医師を退職した。彼女は隣人の誘いで慈済の活動によく参加するようになり、十五年前に慈済人医会のメンバーになり、花蓮で開催された世界人医会(TIMA)の総会に出席したこともある。

慈済がブッダガヤで深くボランティア活動を進めていることを知った彼女は、自ら参加したいと申し込んだ。現地の方言や風土人情に熟知している点で力になれるため、彼女は医療チームのボランティアと一緒に、貧しい村落で奉仕している。

ガンジス河岸のビハール村に着くと、空気中に漂う牛糞の匂いに襲われた。道を歩くと牛や羊たちとすれ違い、ヒヨコをつれたニワトリが餌を探している光景にも出会い、まるで四、五十年前の台湾の農村風景を見ているようだった。

チトラ先生は三十年以上もインドを離れていたが、流暢な方言で村人に挨拶し、家庭の状況を尋ねたりした。高血圧の持病を持つ村人に出会うと、飲酒をやめるよう丁寧にアドバイスをしたり、体調不良を訴えた女性の話に耳を傾けたりした。彼女は側に座って手を握ったりして、まるで家族のように寄り添っていた。

村の家には表札がないため、医療チーム担当でシンガポールから来た看護師の林金燕(リン・ヂンイェン)さんは、健康診断を受けたい世帯の家の入り口に番号札を掛けるよう、チームに要請した。初歩的な健診結果で治療が必要と認められた人は、地域の診療所に報告した。生活の困窮でBMI値が十六以下の体重が軽すぎる人には、ひよこ豆や大豆などの豆類を毎月無償で配付し、栄養を補給する。

チトラ先生は、誰に対しても常に笑顔で話をする。私は英語が不得意なので、彼女にインタビューした時、マレーシアのボランティアの通訳を介して行ったが、先生はそれを気にする様子もなく、このような素晴らしい交流ができた。

大樹の下の青空人文教室

九月十一日午後三時半、私は教育チームと一緒にスジャータ村のコロニー街に来て、週に一回の「大樹の下の青空人文教室」が開かれた。

トゥクトゥクで尼連禅河の浅瀬を渡り、コロニー街に到着した時、はしゃいで遊びまわる子供たちと、家の前に座るか、赤ん坊を抱きながらトゥクトゥクが通り過ぎていくのをぼうっと見ている女性たちを見かけた。

「どこへ行けば見つかるのでしょうか?」そこに着いてから、私は教育チーム担当の姚雅美(ヤオ・ヤーメイ)さんに尋ねた。彼女は即座に、「一軒ずつ家を訪ねるのですよ」と言った。他の人も目が覚めたかのように家々の方へ向かった。女性たちにヘアバンドの縫い方を教え、子供たちと楽しく遊ぶために、一軒一軒声をかけた。暫くして、大人と子供合わせて四、五十人がやって来た。

あのような光景を見て私は言葉を失った。授業というのは、子どもたちが自ら受けにやってくるのではないのか?私は元教師だが、「恐れ知らず」の精神を持った教育チームに感心してしまった。

同じ「大樹の下で青空人文教室」でも、シロンガ村のバクルルバザールでは違った光景が見られた。

九月十五日の午後、バクルルバザールに到着する前、チームが初めて来た時、村の入り口にある木の下で授業を行おうと思っていたが、木陰が小さくて日差しを遮ることができず、とても暑かったので、涼しそうな村の奥の方へ行くことになったのだ、と姚さんが教えてくれた。

メンバーが子どもたちを誘った時、彼らの母親たちは、裏の村の住民は前の村に比べて身分がもっと低いので、彼女たちの子供を裏の子どもたちと一緒に遊ばせたくないと言って拒否した。メンバーが表の村の小道を通って、裏の村に行く度に、子どもたちは羨ましそうに見ているしかなかった。

メンバーたちが村に入って来るのを見ると、裏の村の子どもたちは、直ぐ小さな両手で黒いあごを支え、「クシー!クシー!」(ヒンディー語で幸福、喜びを意味する)のポーズをとるのだ。そして、彼らは自主的に大樹の下に集まり、私たちに倣って右へ左へ動いたり、上に下に飛び跳ねたりして、一緒に合わせ、とても秩序正しくレクリエーションに参加してくれる。

チームは、『證厳法師が語る物語』の中の「少女を救った象」という話を用意した。陳麗婷(ツン・リーティン)師姐と現地ボランティアのロージー・パーウィンさんは、それぞれノートパソコンで同時にビデオを再生し、ロージーさんも映像に合わせて、方言でストーリーを説明した。

スクリーンは大きくなかったので、皆目を大きくして見つめた。彼らが理解できたかどうかはさておき、その集中した様子が不憫に思えてならなかった。彼らの家はとても質素で、ベッドと簡単な炊事道具の他に余分な物はなく、テレビや携帯電話は言うに及ばない。

授業の途中で雨が降り出した。大人も子供も急いで雨宿りし、ある者は家に駆け戻り、ある者は近くの木の下にある空き家に逃げ込んだ。雨が止み、人々は建物から出てきたが、施依伶(スー・イーリン)師姐は滑って転んでしまった。泥だらけの地面は滑りやすく、三人のボランティアが次々に滑って転び、服もズボンも靴も泥まみれになってしまった。これらの光景を見ていた子どもたちは、無邪気に叫んだり、笑ったりしたので、大人ももらい笑いをした。その大人も子供も楽しくなった光景は、白い靴が泥まみれになった苦境を忘れさせた。

村を出る頃に、施さんは私を呼び止めて言った。「この子は、私がまた転ぶといけないので、先ほどからずっと私と手を繋いでいるのです」。私は振り向いて、スマホでその光景を写した。そして、私はロージーさんに、なぜ先生の手を引いているのかをその子に聞いてもらった。するとその子は、大波が来た時、ゾウさんが少女を救った映像を見て、先生を「救ってやりたいのです」と言ったのだ。その返事は皆の心を打った。正にそれは、「心、仏、衆生の三つには区別がない」ことを最もよく表している証しではないか。

週に一回の「大樹の下の青空人文教室」を開くため、教育チームはバクルルの市場を訪れ、地元ボランティアのロージーさんが子どもたちに物語を話して聞かせた。

心はブッダガヤにある

トゥクトゥクという乗り物は、ブッダガヤでは最も便利な交通手段だ。この電動三輪車は、後部に二列の椅子が向かい合わせになっていて、四人が乗れ、前は運転席の隣にもう一人乗れる。現地は殆どセメント道だが、路面は穴だらけで、トゥクトゥクは上下左右に揺れるため、つり輪にしっかりと掴まらずにはいられない。

他の車とすれ違う時、危ないので、体を座席横の鉄柵から出さないように、と経験豊富なボランティアが注意してくれた。数日後、吊り輪に強く捕まっていたせいで肩が痛くなった。また座席横の鉄柵に当たったせいで、両上腕部もかすかな痛みを覚えた。

ボランティアは殆ど毎日外出しなければならなかったが、連絡所に戻っても仕事に没頭した。ケータイに「昼食の用意ができました」、「夕食ですよ」というメッセージが来ると、最上階に上がって、交代で担当するマレーシアのボランティアたちが作ってくれた昼食や夕食をいただいた。その日が何月の何日なのかは問題ではない。パソコンの作業中やシャワーの最中に停電になっても慌てることはない。直ぐに発電機が起動し、電気が送られて来るからだ。

九月二十八日は台湾に帰る日だったが、そこを離れる前にもう一度ラオ・シャンニーに会いたかった。ラオ・シャンニーと出会ったのは、ブッダガヤに到着して三日目の午後だった。私の孫娘と同じくらいの年頃だが、顔が傷ついて五官が大きく崩れ、右の手のひらも外側に向き、母親の手に引かれて、大勢の人について歩いていた。側にいたボランティアのシーマさんに事情を尋ねると、慈済ボランティアが既に手を差しのべていると分かったので、ひと安心した。

一年半前、彼女は誤ってベッドから転落した際、丁度ベッド脇で暖を取っていた火のついた薪の上に落下したため、顔と右手に大火傷を負ってしまったとのこと。私たちはラオ・シャンニーの足の傷をチェックし、傷口から感染しないために定時に薬を塗るよう、母親に言付けた。ラオ・シャンニーが慈済人の支援の下に、平穏無事にこれからの人生を迎えられるように、と心の中で祈った。

台湾に戻って二日目、私は自宅の裏山の道を歩いていた。一カ月ぶりの山道で、眼下にある台中の街を眺めながら、「今日も慈善チームはスジャータ村の女性たちに手工芸を教えに行くかな、教育チームは学校で運動会を開くのかな、医療チームは……」と、さまざまな思いが頭をよぎった。

私は台湾にいるが、心はブッダガヤにある。

(慈済月刊六八四期より)

お姉さんに抱かれたラオ・シャンニーは、慈済の医療補助により、第一段階の整形手術を終えた。

台湾ボランティアの魏玉縣さんは、チームと一緒に前正覚山を訪れた。山中の留影窟で仏陀に礼拝した後、仏陀が2500年余り前に、ここで悟りを開こうとした情景に思いを馳せた。

台湾に戻ってからも、ブッダガヤに滞在した三週間のことをよく思い出す。レポートを書いていたり、シャワーを浴びている時に停電になると、平静さを保つよう訓練した。

毎日外出でトゥクトゥクに乗っていたので、腕の力が鍛えられた。それから誰も行きたがらない村に行くのも、週に一度の楽しい時間だった。

ブッダガヤに来れば、どこよりも早く成仏できますよ」。二〇二三年九月九日、私はマレーシアのボランティア十一人とブッダガヤ慈済連絡所に到着し、今年二月からブッダガヤに駐在しているマレーシア・セランゴール支部の副執行長・蘇祈逢(スー・チーフォン)さんは、こう言った。

蘇さんが言いたいのは、これからそこで様々な試練が待っているという意味だった。実はそこへ行く前私は、インドの暑さと食事に慣れなければならない心構えができていたつもりだったので、彼の言葉を真剣に受け止めなかった。

私と同じく台中市中区から来た陳麗雪(ツン・リーシュエ)さんは、撮影と日誌レポートを書く担当で、私は文字で記録する係りだった。彼女は早めに九月一日に出発し、私の宿泊先を用意してくれていた。またインドと台湾の時差は二時間半だけなので、その晩、荷物を置くと、直ちに出かけた。私は医師のチトラ先生をインタビューした。

9月12日、チトラ先生はスジャータ村のコロニー路地で、3件の医療ケースを訪問した。その中の火傷を負った6歳の少年は、5本の指が既に変形して硬直していた。(撮影・葉晋宏)

チトラ先生の帰郷

数カ月の運用を経ると、慈済の各チームは、それぞれ担当する役割にかなり慣れた。そして、慈善、医療、教育などのチームは、翌日果たすべき任務をラインで伝え、随行できるボランティアはそこに申し込んでもらうことで、トゥクトゥク(三輪タクシー)を手配した。私たち文書記録チームは、チトラ先生の医療チームについて行くことにした。健康診断を行う過程をレポートする他、医師であるチトラ先生の人物像を描こうと考えた。

チトラ先生は一九六三年生まれで、インドのチェンナイ出身である。彼女は一九八八年に、マレーシアのコタキナバルから来たご主人と結婚した後、医師としてコタキナバルに定住し、二年前に医師を退職した。彼女は隣人の誘いで慈済の活動によく参加するようになり、十五年前に慈済人医会のメンバーになり、花蓮で開催された世界人医会(TIMA)の総会に出席したこともある。

慈済がブッダガヤで深くボランティア活動を進めていることを知った彼女は、自ら参加したいと申し込んだ。現地の方言や風土人情に熟知している点で力になれるため、彼女は医療チームのボランティアと一緒に、貧しい村落で奉仕している。

ガンジス河岸のビハール村に着くと、空気中に漂う牛糞の匂いに襲われた。道を歩くと牛や羊たちとすれ違い、ヒヨコをつれたニワトリが餌を探している光景にも出会い、まるで四、五十年前の台湾の農村風景を見ているようだった。

チトラ先生は三十年以上もインドを離れていたが、流暢な方言で村人に挨拶し、家庭の状況を尋ねたりした。高血圧の持病を持つ村人に出会うと、飲酒をやめるよう丁寧にアドバイスをしたり、体調不良を訴えた女性の話に耳を傾けたりした。彼女は側に座って手を握ったりして、まるで家族のように寄り添っていた。

村の家には表札がないため、医療チーム担当でシンガポールから来た看護師の林金燕(リン・ヂンイェン)さんは、健康診断を受けたい世帯の家の入り口に番号札を掛けるよう、チームに要請した。初歩的な健診結果で治療が必要と認められた人は、地域の診療所に報告した。生活の困窮でBMI値が十六以下の体重が軽すぎる人には、ひよこ豆や大豆などの豆類を毎月無償で配付し、栄養を補給する。

チトラ先生は、誰に対しても常に笑顔で話をする。私は英語が不得意なので、彼女にインタビューした時、マレーシアのボランティアの通訳を介して行ったが、先生はそれを気にする様子もなく、このような素晴らしい交流ができた。

大樹の下の青空人文教室

九月十一日午後三時半、私は教育チームと一緒にスジャータ村のコロニー街に来て、週に一回の「大樹の下の青空人文教室」が開かれた。

トゥクトゥクで尼連禅河の浅瀬を渡り、コロニー街に到着した時、はしゃいで遊びまわる子供たちと、家の前に座るか、赤ん坊を抱きながらトゥクトゥクが通り過ぎていくのをぼうっと見ている女性たちを見かけた。

「どこへ行けば見つかるのでしょうか?」そこに着いてから、私は教育チーム担当の姚雅美(ヤオ・ヤーメイ)さんに尋ねた。彼女は即座に、「一軒ずつ家を訪ねるのですよ」と言った。他の人も目が覚めたかのように家々の方へ向かった。女性たちにヘアバンドの縫い方を教え、子供たちと楽しく遊ぶために、一軒一軒声をかけた。暫くして、大人と子供合わせて四、五十人がやって来た。

あのような光景を見て私は言葉を失った。授業というのは、子どもたちが自ら受けにやってくるのではないのか?私は元教師だが、「恐れ知らず」の精神を持った教育チームに感心してしまった。

同じ「大樹の下で青空人文教室」でも、シロンガ村のバクルルバザールでは違った光景が見られた。

九月十五日の午後、バクルルバザールに到着する前、チームが初めて来た時、村の入り口にある木の下で授業を行おうと思っていたが、木陰が小さくて日差しを遮ることができず、とても暑かったので、涼しそうな村の奥の方へ行くことになったのだ、と姚さんが教えてくれた。

メンバーが子どもたちを誘った時、彼らの母親たちは、裏の村の住民は前の村に比べて身分がもっと低いので、彼女たちの子供を裏の子どもたちと一緒に遊ばせたくないと言って拒否した。メンバーが表の村の小道を通って、裏の村に行く度に、子どもたちは羨ましそうに見ているしかなかった。

メンバーたちが村に入って来るのを見ると、裏の村の子どもたちは、直ぐ小さな両手で黒いあごを支え、「クシー!クシー!」(ヒンディー語で幸福、喜びを意味する)のポーズをとるのだ。そして、彼らは自主的に大樹の下に集まり、私たちに倣って右へ左へ動いたり、上に下に飛び跳ねたりして、一緒に合わせ、とても秩序正しくレクリエーションに参加してくれる。

チームは、『證厳法師が語る物語』の中の「少女を救った象」という話を用意した。陳麗婷(ツン・リーティン)師姐と現地ボランティアのロージー・パーウィンさんは、それぞれノートパソコンで同時にビデオを再生し、ロージーさんも映像に合わせて、方言でストーリーを説明した。

スクリーンは大きくなかったので、皆目を大きくして見つめた。彼らが理解できたかどうかはさておき、その集中した様子が不憫に思えてならなかった。彼らの家はとても質素で、ベッドと簡単な炊事道具の他に余分な物はなく、テレビや携帯電話は言うに及ばない。

授業の途中で雨が降り出した。大人も子供も急いで雨宿りし、ある者は家に駆け戻り、ある者は近くの木の下にある空き家に逃げ込んだ。雨が止み、人々は建物から出てきたが、施依伶(スー・イーリン)師姐は滑って転んでしまった。泥だらけの地面は滑りやすく、三人のボランティアが次々に滑って転び、服もズボンも靴も泥まみれになってしまった。これらの光景を見ていた子どもたちは、無邪気に叫んだり、笑ったりしたので、大人ももらい笑いをした。その大人も子供も楽しくなった光景は、白い靴が泥まみれになった苦境を忘れさせた。

村を出る頃に、施さんは私を呼び止めて言った。「この子は、私がまた転ぶといけないので、先ほどからずっと私と手を繋いでいるのです」。私は振り向いて、スマホでその光景を写した。そして、私はロージーさんに、なぜ先生の手を引いているのかをその子に聞いてもらった。するとその子は、大波が来た時、ゾウさんが少女を救った映像を見て、先生を「救ってやりたいのです」と言ったのだ。その返事は皆の心を打った。正にそれは、「心、仏、衆生の三つには区別がない」ことを最もよく表している証しではないか。

週に一回の「大樹の下の青空人文教室」を開くため、教育チームはバクルルの市場を訪れ、地元ボランティアのロージーさんが子どもたちに物語を話して聞かせた。

心はブッダガヤにある

トゥクトゥクという乗り物は、ブッダガヤでは最も便利な交通手段だ。この電動三輪車は、後部に二列の椅子が向かい合わせになっていて、四人が乗れ、前は運転席の隣にもう一人乗れる。現地は殆どセメント道だが、路面は穴だらけで、トゥクトゥクは上下左右に揺れるため、つり輪にしっかりと掴まらずにはいられない。

他の車とすれ違う時、危ないので、体を座席横の鉄柵から出さないように、と経験豊富なボランティアが注意してくれた。数日後、吊り輪に強く捕まっていたせいで肩が痛くなった。また座席横の鉄柵に当たったせいで、両上腕部もかすかな痛みを覚えた。

ボランティアは殆ど毎日外出しなければならなかったが、連絡所に戻っても仕事に没頭した。ケータイに「昼食の用意ができました」、「夕食ですよ」というメッセージが来ると、最上階に上がって、交代で担当するマレーシアのボランティアたちが作ってくれた昼食や夕食をいただいた。その日が何月の何日なのかは問題ではない。パソコンの作業中やシャワーの最中に停電になっても慌てることはない。直ぐに発電機が起動し、電気が送られて来るからだ。

九月二十八日は台湾に帰る日だったが、そこを離れる前にもう一度ラオ・シャンニーに会いたかった。ラオ・シャンニーと出会ったのは、ブッダガヤに到着して三日目の午後だった。私の孫娘と同じくらいの年頃だが、顔が傷ついて五官が大きく崩れ、右の手のひらも外側に向き、母親の手に引かれて、大勢の人について歩いていた。側にいたボランティアのシーマさんに事情を尋ねると、慈済ボランティアが既に手を差しのべていると分かったので、ひと安心した。

一年半前、彼女は誤ってベッドから転落した際、丁度ベッド脇で暖を取っていた火のついた薪の上に落下したため、顔と右手に大火傷を負ってしまったとのこと。私たちはラオ・シャンニーの足の傷をチェックし、傷口から感染しないために定時に薬を塗るよう、母親に言付けた。ラオ・シャンニーが慈済人の支援の下に、平穏無事にこれからの人生を迎えられるように、と心の中で祈った。

台湾に戻って二日目、私は自宅の裏山の道を歩いていた。一カ月ぶりの山道で、眼下にある台中の街を眺めながら、「今日も慈善チームはスジャータ村の女性たちに手工芸を教えに行くかな、教育チームは学校で運動会を開くのかな、医療チームは……」と、さまざまな思いが頭をよぎった。

私は台湾にいるが、心はブッダガヤにある。

(慈済月刊六八四期より)

お姉さんに抱かれたラオ・シャンニーは、慈済の医療補助により、第一段階の整形手術を終えた。

台湾ボランティアの魏玉縣さんは、チームと一緒に前正覚山を訪れた。山中の留影窟で仏陀に礼拝した後、仏陀が2500年余り前に、ここで悟りを開こうとした情景に思いを馳せた。

關鍵字

実践したことを話す

確かに歩んで来てこそ、
沿道の風景を心に刻むことができ、
実践することで、道理を話すことができるのです。

客が布施すると、オーナーが賞賛した

桃園の経蔵劇チームと愛ある商店チームの感想を聞いて、上人は、愛は無形でも、諸々の行動で誰かに何かを感じさせ、より多くの人が奉仕するよう導くことができ、もっと多くの愛を結集すれば、苦難を救う力はもっと大きくなり、支援する範囲も広くなり、救われる人ももっと多くなるのです、と言いました。

「慈済に参加するだけではなく、世の中の事を知らなければなりません。世の出来事を知れば、なぜ慈済が志業をするのかが分かってきます。衆生はこの世界を共有していますが、衆生というのは人間だけではなく、あらゆる生命を意味します。仏陀は菩薩の道、即ち私たちに衆生を愛護することを教えてくれました。人間(じんかん)ではいつも善と悪が綱引きをしていますから、仏陀は、善を助け、悪を断ち、人間(じんかん)の苦を断ち切るよう衆生に説法し、教えています。天国と地獄は、実は人間(じんかん)にあるのであって、善行すれば日々が楽しく、毎日天国にいるのです。もし悪念につられて悪事をすれば、日々地獄の苦しみを味わいます。これは明らかな道理です」。

上人のお考えでは、仏に学ぶ者は法でもって自ら悟りを開くと共に、他人を悟りに導いて、仏法を人間(じんかん)に根付かせなければならず、そして、道理を理解するだけでなく、もっと多くの人に理解してもらうことが大切なのです。ですから菩薩である皆さんが大衆を愛で満たし、方向を見失った人や一念の偏りで道を誤った人を導かなければなりません。皆さんが商店を訪ねて回り、お店が喜んで募金箱を置くようになった商店街は、愛で満ちています。その募金箱には人助けに使ってほしいという愛のこもったお金が入っているのです。お店ごとに福を造り、喜んで布施するお客さんがいれば、店の主人は賞賛と感謝の言葉を述べるので、人間(じんかん)は温かく満たされていきます。

「私たちが募金する場合、どれだけ集めなければならないかが目的なのではなく、一人ひとりが愛の心を啓発してくれることを願っているのです。心して愛を募る時、人に出会えば、自然と慈済のことを話すようになります。会う人ごとに慈済のことを話すのは、人に会うごとに念仏するのと同じです。慈済が実践してきたことを話すのですから、どこそこの国や地域でどんな災害が発生したかを伝え、皆で慈済と一緒に支援し、善行することを勧めるのです」。上人は、大愛テレビを見れば、最新の世界中で慈済の行いを知ることができるので、いつでもそれらを分かち合いながら、一緒に善行してほしいと声を掛ければ良い、と言いました。

仏法は広大無辺であり、道理の範囲も無辺際ですが、やり遂げなければ語ることはできない、と上人は言います。「経は即ち道理であり、道理は道なのです」。もし学んだ道理を実践していなければ、目の前に道があっても、そこを歩かなければ、沿道の風景が分からず、感想を話すことができないのと同じです。確実に歩んで来たのであれば、実際に体験したことを人に話すことができるのです。

上人はこんな話をしました。「以前、陳燦暉教授が聖厳法師(台湾の宗教団体「法鼓山」の創始者)に会った時、『慈済は大衆の愛を結集してこんなにも多くの善いことをしていますが、證厳法師の体は弱く、万が一の時に、慈済はどうすればいいのでしょうか?』と尋ねました。聖厳法師は、『證厳法師の思想や理念を五十人が持っていれば、その五十人が即ち一体の證厳法師なのです』とお答えになったそうです」。

「私は聖厳法師のその言葉にとても感謝しています。人には誰でも仏心があり、私たちの本性は皆同じで、清らかな大愛を持っているのですから、誰もが『證厳法師』であることを願っています。よく慈済人が『それは師父の心願であり、師父の言う通りに私は実行します』と言うのを耳にします。私が皆さんに言いたいのは、これは釈迦牟尼仏が私たちにそう教えているのであり、私たちは縁がある故に、私が創設した慈済で、皆が集まって一緒に人々を悟りに導いているのです。ですから、慈済人が至る所に出向くのは、災害が多い今世で、一人ひとりの愛の支援を必要としていることを人々に知ってもらうためです。人助けができる人は幸せです。福を知って、福を惜しみ、更に福を造るのです」。

上人はこう開示しました。経験豊富な慈済人は三、四十年前から、一軒一軒家を訪ねて「托鉢募金」を行ってきましたが、今は街を歩いて「愛ある商店」を募っています。どちらも同じ精神であり、共に善行しようと多くの人に呼びかけているのです。もし人数が少なければ、どんなに力があっても、広い範囲で全てを成しとげることはできません。

また、愛の募金箱を置かせてくれる店では、お客さんに愛の奉仕をする機会を与えています。それが一元であれ、五元、十元であれ、小さな額でも人々に幸福をもたらします。皆で愛の力を結集すれば、「福の気」ができ、一人ひとりが福を造ってこそ、衆生の共業から出る「汚れた気」を浄化できるのです。皆で親しい人や会員に愛を呼びかけてください。一人でも多くの人が応えてくれれば、それだけ人間(じんかん)に多く「福の気」をもたらすことができるのです。善の念という清流と「福の気」を、人間(じんかん)で絶えず高めることが大切です。

(慈済月刊六八七期より)

確かに歩んで来てこそ、
沿道の風景を心に刻むことができ、
実践することで、道理を話すことができるのです。

客が布施すると、オーナーが賞賛した

桃園の経蔵劇チームと愛ある商店チームの感想を聞いて、上人は、愛は無形でも、諸々の行動で誰かに何かを感じさせ、より多くの人が奉仕するよう導くことができ、もっと多くの愛を結集すれば、苦難を救う力はもっと大きくなり、支援する範囲も広くなり、救われる人ももっと多くなるのです、と言いました。

「慈済に参加するだけではなく、世の中の事を知らなければなりません。世の出来事を知れば、なぜ慈済が志業をするのかが分かってきます。衆生はこの世界を共有していますが、衆生というのは人間だけではなく、あらゆる生命を意味します。仏陀は菩薩の道、即ち私たちに衆生を愛護することを教えてくれました。人間(じんかん)ではいつも善と悪が綱引きをしていますから、仏陀は、善を助け、悪を断ち、人間(じんかん)の苦を断ち切るよう衆生に説法し、教えています。天国と地獄は、実は人間(じんかん)にあるのであって、善行すれば日々が楽しく、毎日天国にいるのです。もし悪念につられて悪事をすれば、日々地獄の苦しみを味わいます。これは明らかな道理です」。

上人のお考えでは、仏に学ぶ者は法でもって自ら悟りを開くと共に、他人を悟りに導いて、仏法を人間(じんかん)に根付かせなければならず、そして、道理を理解するだけでなく、もっと多くの人に理解してもらうことが大切なのです。ですから菩薩である皆さんが大衆を愛で満たし、方向を見失った人や一念の偏りで道を誤った人を導かなければなりません。皆さんが商店を訪ねて回り、お店が喜んで募金箱を置くようになった商店街は、愛で満ちています。その募金箱には人助けに使ってほしいという愛のこもったお金が入っているのです。お店ごとに福を造り、喜んで布施するお客さんがいれば、店の主人は賞賛と感謝の言葉を述べるので、人間(じんかん)は温かく満たされていきます。

「私たちが募金する場合、どれだけ集めなければならないかが目的なのではなく、一人ひとりが愛の心を啓発してくれることを願っているのです。心して愛を募る時、人に出会えば、自然と慈済のことを話すようになります。会う人ごとに慈済のことを話すのは、人に会うごとに念仏するのと同じです。慈済が実践してきたことを話すのですから、どこそこの国や地域でどんな災害が発生したかを伝え、皆で慈済と一緒に支援し、善行することを勧めるのです」。上人は、大愛テレビを見れば、最新の世界中で慈済の行いを知ることができるので、いつでもそれらを分かち合いながら、一緒に善行してほしいと声を掛ければ良い、と言いました。

仏法は広大無辺であり、道理の範囲も無辺際ですが、やり遂げなければ語ることはできない、と上人は言います。「経は即ち道理であり、道理は道なのです」。もし学んだ道理を実践していなければ、目の前に道があっても、そこを歩かなければ、沿道の風景が分からず、感想を話すことができないのと同じです。確実に歩んで来たのであれば、実際に体験したことを人に話すことができるのです。

上人はこんな話をしました。「以前、陳燦暉教授が聖厳法師(台湾の宗教団体「法鼓山」の創始者)に会った時、『慈済は大衆の愛を結集してこんなにも多くの善いことをしていますが、證厳法師の体は弱く、万が一の時に、慈済はどうすればいいのでしょうか?』と尋ねました。聖厳法師は、『證厳法師の思想や理念を五十人が持っていれば、その五十人が即ち一体の證厳法師なのです』とお答えになったそうです」。

「私は聖厳法師のその言葉にとても感謝しています。人には誰でも仏心があり、私たちの本性は皆同じで、清らかな大愛を持っているのですから、誰もが『證厳法師』であることを願っています。よく慈済人が『それは師父の心願であり、師父の言う通りに私は実行します』と言うのを耳にします。私が皆さんに言いたいのは、これは釈迦牟尼仏が私たちにそう教えているのであり、私たちは縁がある故に、私が創設した慈済で、皆が集まって一緒に人々を悟りに導いているのです。ですから、慈済人が至る所に出向くのは、災害が多い今世で、一人ひとりの愛の支援を必要としていることを人々に知ってもらうためです。人助けができる人は幸せです。福を知って、福を惜しみ、更に福を造るのです」。

上人はこう開示しました。経験豊富な慈済人は三、四十年前から、一軒一軒家を訪ねて「托鉢募金」を行ってきましたが、今は街を歩いて「愛ある商店」を募っています。どちらも同じ精神であり、共に善行しようと多くの人に呼びかけているのです。もし人数が少なければ、どんなに力があっても、広い範囲で全てを成しとげることはできません。

また、愛の募金箱を置かせてくれる店では、お客さんに愛の奉仕をする機会を与えています。それが一元であれ、五元、十元であれ、小さな額でも人々に幸福をもたらします。皆で愛の力を結集すれば、「福の気」ができ、一人ひとりが福を造ってこそ、衆生の共業から出る「汚れた気」を浄化できるのです。皆で親しい人や会員に愛を呼びかけてください。一人でも多くの人が応えてくれれば、それだけ人間(じんかん)に多く「福の気」をもたらすことができるのです。善の念という清流と「福の気」を、人間(じんかん)で絶えず高めることが大切です。

(慈済月刊六八七期より)

關鍵字

善い願を共に実行する お力添えに感謝する

愛なる慈済ボランティアと会員、各業界の良き友人の皆様、こんにちは。謹んで新春のお祝いを申し上げます。昨年は皆様からの温かいご支援により、慈済慈善志業が成長と感動で満たされたことを心より感謝申し上げます。

新しい取り組みが認められた

慈済の栄光をすべて分かち合う――昨年の「アジア太平洋サステナビリティ・アクション・アワード」において、慈済の持続可能な開発目標達成に向けた取り組みが表彰されました。「慈済とPaGamOによる環境防災教育」、「エコ福祉用具」、「VO2菜食弁当でCO2削減」の三つの活動が金賞を獲得し、環境保護教育と寄り添いケア、食生活関係で、創意工夫とその成果が認められました。

慈済基金会は、「二○二○年〜二○二一年SDGsレポート」に、社会的、人文、寄り添いケアなど社会的協力への取り組みが示されています。また、コロナ禍の期間にワクチンの購入と寄贈で衆生を利したことで、SGS(検査、認証の会社)の第八回「ESGアワード:ダイバーシティ&インクルージョン賞」で唯一の受賞者となりました。

政府経済部の「購買力・社会イノベーション製品およびサービス推進」において、慈済青年公益実践プロジェクトが青年の社会イノベーションを大きく後押しし、公益事業を促進したことが、再びBuying部門の最優秀賞に選ばれました。

昨年度、教育部(文部省に相当)青年署の「青年海外ボランティア活動優秀チーム選抜」において、慈済国際青年会TIYAの「マンナハイの約束―シリア難民への中国語講座伴走プログラム」が、革新的な中国語講座プラットフォームをオンライン遠隔学習という形で、台湾とトルコ、シリアの学生らを結びつけたことを、初めてコンテストに応募したところ、「貢献成果と評価」の部門で特別優秀賞、そして「チームの創設と伝承」部門で優秀賞を獲得しました。

台湾を守りながら影響力を広げる

慈済は台湾に根ざし、長年恵まれない家庭を支援して、青少年教育、高齢者の安全な生活環境、防災教育に力を注ぎ、デジタル化した慈善システムによって強力なネットワークで台湾を守ってきました。地方自治体の各部門だけでなく、四十の民間企業とも契約を交わし、恵まれない家庭の子どもへの就学補助や心身障害者ケア、災害時の支援効率アップ、物資の輸送、防災教育などで協力することによって、公益における相乗効果を上げています。また、都市部と農村部合わせて一万六千軒以上の商店が既に「愛ある商店」計画に参加し、顧客が少額のお金を寄付して共に善行することを呼びかけています。

社会的投資収益率(SROI)に基づいて計算すると、各地の静思堂で台湾ドル一元を寄付した場合、8・5倍の慈善エネルギーが生まれ、環境保全志業へ投入した場合は6・3倍のポジティブな効果、エコ福祉用具活動の場合は81・18倍もの社会的影響力を生み出していることになり、支援を受ける側の経済的負担の軽減にも繋がっています。

二○五○年までのネット・ゼロ・エミッションを目指し、十七カ所の静思堂に太陽光パネルを取り付け、グリーンエネルギーの創出とスマートエネルギー貯蔵システム、エネルギーの正しい使い方に向かって邁進しています。また、台北市松山区には植物性飲食の複合施設「植境」がオープンしました。ここでは、若い世代に斬新な菜食を体験してもらうための活動が始まっています。その他にも、移動式環境保全教育車両を十五の県や市の小中学校に派遣したり、公的施設で九十回ほどの展示イベントを開催したりしており、既に延べ十万人以上が参加しました。

ホタルの淡い光が世界で灯る

二〇二三年世界宗教議会の閉会式で、證厳法師が要請に答えてオンラインで、世界が直面している問題についての懸念と感謝の気持ちを述べられました。

慈済は国連や世界のNGO組織と協力していますが、昨年の国際災害支援で援助した人数は延べ四十五万人以上を数え、台湾の米による支援で延べ七十九万人が恩恵を受け、戦争で避難した延べ五十八万人を支援しました。現地の長期的な教育支援と養成ボランティアの自立によって、蛍の淡い光が各地に広がるように、これこそグローバル・ローカリゼーション化した善の循環と言えるのではないでしょうか。

ネパールのルンビニやカピラヴァストゥ、インドのブッダガヤなどで、慈善・医療・教育・人文という「四面体支援」によって、「仏陀の故郷に恩返し」プロジェクトを推進してきました。ネパールで国際非政府組織(INGO)が設立されたことを機に、女性の職業訓練、貧困からの脱出、就学費の助成に焦点を当て、人々の生活を改善して人文教養を高めることに力を入れています。

九月には、米国ハーバード大学文理学部との共催で、「第九回グローバル共善学思会シンポジウム」が同大学で開催されました。世界各地から三十名以上の学者や専門家が参加して、「證厳法師の思想と実践に関する研究」をテーマにした研究発表がありました。世界最高峰と言われる大学で、慈済の開祖證厳法師の思想とリーダーシップによる行いが研究討論されたのです。

青年ボランティアが役割を引き継ぐ

昨年、台湾全土の延べ二十五万人が参加し、高雄、彰化、台北で上演回数二十三回に及んだ経蔵劇「無量義・法髓頌」は芸術と仏教を融合したもので、慈済志業が世の中で仏陀の教えを実践していることを表していると共に、自らの清らかな本性と法師に対する「必ずやり遂げます」という途切れない決意を表しています。千人近い若者が経蔵劇に参加して、一挙手一投足で仏法を表し、観衆と深く共鳴したことで、大きな希望を感じました。

青年たちの引き継ぎに、研修キャンプ側は手応えを感じており、慈済国際青年協会(TIYA)が多国籍の人材を育成して、COP28やクライメート・ウィーク・ニューヨーク、国連経済社会理事会青年フォーラムなどの国際会議に出席していることもその表れです。

アメリカ海洋大気庁(NOAA)の研究統計によると、二○二三年七月六日、世界の気温が再び高温記録を刷新したとのことです。国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が発表した報告書によれば、多くの科学者は、人類の行動が気候温暖化をもたらしていると考えています。

深刻化する気候非常事態宣言に向き合い、誰もが人類の持続可能という使命を共に背負っているのです。慈済基金会はガバナンスの強化、領域を超えたデジタル化、エンパワーメントの伝承、防災教育と菜食の促進、持続可能なネットゼロエミッションの実現に向けての取り組みを、皆様のご支援の下で着実に実践してまいります。

本年も、お力添えをよろしくお願い申し上げます。皆様にとって良い年になりますよう祝福を祈念して、私からの挨拶とさせていただきます。

(慈済月刊六八七期より)

愛なる慈済ボランティアと会員、各業界の良き友人の皆様、こんにちは。謹んで新春のお祝いを申し上げます。昨年は皆様からの温かいご支援により、慈済慈善志業が成長と感動で満たされたことを心より感謝申し上げます。

新しい取り組みが認められた

慈済の栄光をすべて分かち合う――昨年の「アジア太平洋サステナビリティ・アクション・アワード」において、慈済の持続可能な開発目標達成に向けた取り組みが表彰されました。「慈済とPaGamOによる環境防災教育」、「エコ福祉用具」、「VO2菜食弁当でCO2削減」の三つの活動が金賞を獲得し、環境保護教育と寄り添いケア、食生活関係で、創意工夫とその成果が認められました。

慈済基金会は、「二○二○年〜二○二一年SDGsレポート」に、社会的、人文、寄り添いケアなど社会的協力への取り組みが示されています。また、コロナ禍の期間にワクチンの購入と寄贈で衆生を利したことで、SGS(検査、認証の会社)の第八回「ESGアワード:ダイバーシティ&インクルージョン賞」で唯一の受賞者となりました。

政府経済部の「購買力・社会イノベーション製品およびサービス推進」において、慈済青年公益実践プロジェクトが青年の社会イノベーションを大きく後押しし、公益事業を促進したことが、再びBuying部門の最優秀賞に選ばれました。

昨年度、教育部(文部省に相当)青年署の「青年海外ボランティア活動優秀チーム選抜」において、慈済国際青年会TIYAの「マンナハイの約束―シリア難民への中国語講座伴走プログラム」が、革新的な中国語講座プラットフォームをオンライン遠隔学習という形で、台湾とトルコ、シリアの学生らを結びつけたことを、初めてコンテストに応募したところ、「貢献成果と評価」の部門で特別優秀賞、そして「チームの創設と伝承」部門で優秀賞を獲得しました。

台湾を守りながら影響力を広げる

慈済は台湾に根ざし、長年恵まれない家庭を支援して、青少年教育、高齢者の安全な生活環境、防災教育に力を注ぎ、デジタル化した慈善システムによって強力なネットワークで台湾を守ってきました。地方自治体の各部門だけでなく、四十の民間企業とも契約を交わし、恵まれない家庭の子どもへの就学補助や心身障害者ケア、災害時の支援効率アップ、物資の輸送、防災教育などで協力することによって、公益における相乗効果を上げています。また、都市部と農村部合わせて一万六千軒以上の商店が既に「愛ある商店」計画に参加し、顧客が少額のお金を寄付して共に善行することを呼びかけています。

社会的投資収益率(SROI)に基づいて計算すると、各地の静思堂で台湾ドル一元を寄付した場合、8・5倍の慈善エネルギーが生まれ、環境保全志業へ投入した場合は6・3倍のポジティブな効果、エコ福祉用具活動の場合は81・18倍もの社会的影響力を生み出していることになり、支援を受ける側の経済的負担の軽減にも繋がっています。

二○五○年までのネット・ゼロ・エミッションを目指し、十七カ所の静思堂に太陽光パネルを取り付け、グリーンエネルギーの創出とスマートエネルギー貯蔵システム、エネルギーの正しい使い方に向かって邁進しています。また、台北市松山区には植物性飲食の複合施設「植境」がオープンしました。ここでは、若い世代に斬新な菜食を体験してもらうための活動が始まっています。その他にも、移動式環境保全教育車両を十五の県や市の小中学校に派遣したり、公的施設で九十回ほどの展示イベントを開催したりしており、既に延べ十万人以上が参加しました。

ホタルの淡い光が世界で灯る

二〇二三年世界宗教議会の閉会式で、證厳法師が要請に答えてオンラインで、世界が直面している問題についての懸念と感謝の気持ちを述べられました。

慈済は国連や世界のNGO組織と協力していますが、昨年の国際災害支援で援助した人数は延べ四十五万人以上を数え、台湾の米による支援で延べ七十九万人が恩恵を受け、戦争で避難した延べ五十八万人を支援しました。現地の長期的な教育支援と養成ボランティアの自立によって、蛍の淡い光が各地に広がるように、これこそグローバル・ローカリゼーション化した善の循環と言えるのではないでしょうか。

ネパールのルンビニやカピラヴァストゥ、インドのブッダガヤなどで、慈善・医療・教育・人文という「四面体支援」によって、「仏陀の故郷に恩返し」プロジェクトを推進してきました。ネパールで国際非政府組織(INGO)が設立されたことを機に、女性の職業訓練、貧困からの脱出、就学費の助成に焦点を当て、人々の生活を改善して人文教養を高めることに力を入れています。

九月には、米国ハーバード大学文理学部との共催で、「第九回グローバル共善学思会シンポジウム」が同大学で開催されました。世界各地から三十名以上の学者や専門家が参加して、「證厳法師の思想と実践に関する研究」をテーマにした研究発表がありました。世界最高峰と言われる大学で、慈済の開祖證厳法師の思想とリーダーシップによる行いが研究討論されたのです。

青年ボランティアが役割を引き継ぐ

昨年、台湾全土の延べ二十五万人が参加し、高雄、彰化、台北で上演回数二十三回に及んだ経蔵劇「無量義・法髓頌」は芸術と仏教を融合したもので、慈済志業が世の中で仏陀の教えを実践していることを表していると共に、自らの清らかな本性と法師に対する「必ずやり遂げます」という途切れない決意を表しています。千人近い若者が経蔵劇に参加して、一挙手一投足で仏法を表し、観衆と深く共鳴したことで、大きな希望を感じました。

青年たちの引き継ぎに、研修キャンプ側は手応えを感じており、慈済国際青年協会(TIYA)が多国籍の人材を育成して、COP28やクライメート・ウィーク・ニューヨーク、国連経済社会理事会青年フォーラムなどの国際会議に出席していることもその表れです。

アメリカ海洋大気庁(NOAA)の研究統計によると、二○二三年七月六日、世界の気温が再び高温記録を刷新したとのことです。国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が発表した報告書によれば、多くの科学者は、人類の行動が気候温暖化をもたらしていると考えています。

深刻化する気候非常事態宣言に向き合い、誰もが人類の持続可能という使命を共に背負っているのです。慈済基金会はガバナンスの強化、領域を超えたデジタル化、エンパワーメントの伝承、防災教育と菜食の促進、持続可能なネットゼロエミッションの実現に向けての取り組みを、皆様のご支援の下で着実に実践してまいります。

本年も、お力添えをよろしくお願い申し上げます。皆様にとって良い年になりますよう祝福を祈念して、私からの挨拶とさせていただきます。

(慈済月刊六八七期より)

關鍵字

私の執筆活動─「一本指タイピング」から始まったマジック

どんな仕事も、生まれつきできるわけではない。例えば、執筆活動。私は「一本指タイピング」でパソコンを学び始め、楽しく活動をしている。辛いと思うことはなく、美しい話を残すことで、幸せな気分になれる。

九九五年に「一本指タイピング」でパソコンを学び始めて原稿を書き続け、今ではこのパソコンという「ペン」と切っても切れない縁を結んだ。

誰でも何か本能を秘めている、と私は信じている。例えば、私は慈済に参加してから、手話やシェフになる方法を学び、訪問ケアボランティアとなって憂え悲しんでいる人を奮い立たせ、生死の無常に立ち向かわせた。また、人文記録ボランティアになって、原稿書きや写真撮影、動画編集などを学んだ。どれ一つとっても、生まれつきできるのではない。学ぼうとする意思が必要であり、人生の中で目標を立てて実践し、理想を実現するのである。

地域ボランティアの素晴らしい軌跡を残すために、私はできないことをできるまで学んだ。どんなことでも、その気さえあればできるようになる。「心して行えば、プロになれる」のである。初めてパソコンを買って、タイピングを習い始めた時、私は宣伝チームのリーダーになったことを覚えている。初めてサマーキャンプのマニュアルを作成した時は、一つの原稿を編集するだけで、九回も電子ファイルが消え、やり直さなければならなかった。苦労してタイプした原稿ファイルが突如として消えてしまった時、私は平常心を保って、「もう一度作れば、もっと上手く書けるだろう」と自分を励ますことしかできなかった。

何かを望めば苦しむことになる。證厳法師は、「見返りを求めず奉仕し、その上、お礼を言うのです」と諭している。楽しく物事を行えば、辛いと感じることはない。幸せとは、学ぼうとする意志から生まれ、「その気さえあれば、難しいことはない」のだ。

林秀女(右から二人目)は2009年、清水の静思堂で歳末祝福会に参加しに来た夫婦をインタビューした。車椅子に座ったご主人が、「ここにいる人は皆とても優しく、私は温かさと感動で満たされました」と言った。

美しい心の旅を見届ける

インタビューを記録するために、ボランティアたちの人生を深く理解していくことは、あたかも何冊もの経典を読んでいるようなものである。彼らのあらゆる奉仕に対して感動を覚えるようになった。ボランティアは皆、慈済で情熱をもって奉仕するという深い情に溢れているが、時には、衆生への思いやりの気持ちや与えることで得られる無上の喜びを、どのように表現したらよいのか分からなくなることがある。彼らの心に触れるたびに、私たちは永遠の初心を共有しているので、それによって慈済の道を修行し続けることができることに気づく。

あるボランティアは以前、醜い自分がいるのは母親のせいだと恨み、カメラを見ると隠れてしまっていた。「こんなに醜い私を撮らないでください!」私は唖然として、「世の中に誰一人として娘を醜いと思う母親はいません。お母さんがその言葉を聞いたら、とても悲しむでしょう」と彼女に言った。そして、「心が美しければ、何を見ても美しいと思う」という法師のお諭しを、彼女と分かち合った。

次に会った時、彼女はユーモラスにこう言った。「写真を撮ってもらえますか?以前、私の心は美しくないことで劣等感を抱いていて、母を責めていたのです。師姐(スージエ)が分かち合ってくれたおかげで、私は変われるのだと分かりました」。私は彼女の心の変化を記録し、それを見届けることができたことに感謝すると共に、荘厳な菩薩の姿を写真に撮らせてもらった。

人文記録ボランティアは、誰よりも「幸せ」である。イベント会場で取材をして、感動的な場面を撮影するだけでなく、イベントが終わると、自宅で編集する。そして、その美しい映像を、大愛テレビ局が世界中に広めてくれるのだ。

私の記事は、『慈済速報』や『慈済』月刊誌、『慈済道侶』シリーズの本に掲載されたことがある。動画撮影や編集を学び、大愛テレビでも何度か放送された。作品が採用されるたびに、認められたことを感じた。しかし、自分でもそのコンテンツに感動しなければ、どうやって他人に感動を与えることができるだろう?これらは私のこれまでの努力を肯定するものだと信じている。慈済を愛しているから、これからも努力を続ける。

人文記録ボランティアの使命は、「時代の証人となり、人類のために歴史を残し、慈済のために経典を書くこと」である。かつて法師は、“文字にして記録するのは頭を使うため、どちらかというと大変な仕事ですが、それは永遠に残すことができ、何千年、何万年も保存されるのです”と言ったことがある。

世の中には美しい善意に満ちた話が沢山ある。どれも後世の教育で良薬となることができる。私は、あらゆる慈済人が、人文記録ボランティアになってくれることを望んでいる。全てが感動的な史実であり、私たちが心して記録するから残るのだ。そして、後に続く人たちはそのような菩薩の足跡と模範を追随するようになる。慈済の四大志業を全て歴史に残すために、人文記録ボランティアは必要だ。それはとても光栄なことであり、この因縁を大切にして、真の伝法菩薩となって、真実の仏法を世の中に伝えたい。

(慈済月刊六八一期より)

どんな仕事も、生まれつきできるわけではない。例えば、執筆活動。私は「一本指タイピング」でパソコンを学び始め、楽しく活動をしている。辛いと思うことはなく、美しい話を残すことで、幸せな気分になれる。

九九五年に「一本指タイピング」でパソコンを学び始めて原稿を書き続け、今ではこのパソコンという「ペン」と切っても切れない縁を結んだ。

誰でも何か本能を秘めている、と私は信じている。例えば、私は慈済に参加してから、手話やシェフになる方法を学び、訪問ケアボランティアとなって憂え悲しんでいる人を奮い立たせ、生死の無常に立ち向かわせた。また、人文記録ボランティアになって、原稿書きや写真撮影、動画編集などを学んだ。どれ一つとっても、生まれつきできるのではない。学ぼうとする意思が必要であり、人生の中で目標を立てて実践し、理想を実現するのである。

地域ボランティアの素晴らしい軌跡を残すために、私はできないことをできるまで学んだ。どんなことでも、その気さえあればできるようになる。「心して行えば、プロになれる」のである。初めてパソコンを買って、タイピングを習い始めた時、私は宣伝チームのリーダーになったことを覚えている。初めてサマーキャンプのマニュアルを作成した時は、一つの原稿を編集するだけで、九回も電子ファイルが消え、やり直さなければならなかった。苦労してタイプした原稿ファイルが突如として消えてしまった時、私は平常心を保って、「もう一度作れば、もっと上手く書けるだろう」と自分を励ますことしかできなかった。

何かを望めば苦しむことになる。證厳法師は、「見返りを求めず奉仕し、その上、お礼を言うのです」と諭している。楽しく物事を行えば、辛いと感じることはない。幸せとは、学ぼうとする意志から生まれ、「その気さえあれば、難しいことはない」のだ。

林秀女(右から二人目)は2009年、清水の静思堂で歳末祝福会に参加しに来た夫婦をインタビューした。車椅子に座ったご主人が、「ここにいる人は皆とても優しく、私は温かさと感動で満たされました」と言った。

美しい心の旅を見届ける

インタビューを記録するために、ボランティアたちの人生を深く理解していくことは、あたかも何冊もの経典を読んでいるようなものである。彼らのあらゆる奉仕に対して感動を覚えるようになった。ボランティアは皆、慈済で情熱をもって奉仕するという深い情に溢れているが、時には、衆生への思いやりの気持ちや与えることで得られる無上の喜びを、どのように表現したらよいのか分からなくなることがある。彼らの心に触れるたびに、私たちは永遠の初心を共有しているので、それによって慈済の道を修行し続けることができることに気づく。

あるボランティアは以前、醜い自分がいるのは母親のせいだと恨み、カメラを見ると隠れてしまっていた。「こんなに醜い私を撮らないでください!」私は唖然として、「世の中に誰一人として娘を醜いと思う母親はいません。お母さんがその言葉を聞いたら、とても悲しむでしょう」と彼女に言った。そして、「心が美しければ、何を見ても美しいと思う」という法師のお諭しを、彼女と分かち合った。

次に会った時、彼女はユーモラスにこう言った。「写真を撮ってもらえますか?以前、私の心は美しくないことで劣等感を抱いていて、母を責めていたのです。師姐(スージエ)が分かち合ってくれたおかげで、私は変われるのだと分かりました」。私は彼女の心の変化を記録し、それを見届けることができたことに感謝すると共に、荘厳な菩薩の姿を写真に撮らせてもらった。

人文記録ボランティアは、誰よりも「幸せ」である。イベント会場で取材をして、感動的な場面を撮影するだけでなく、イベントが終わると、自宅で編集する。そして、その美しい映像を、大愛テレビ局が世界中に広めてくれるのだ。

私の記事は、『慈済速報』や『慈済』月刊誌、『慈済道侶』シリーズの本に掲載されたことがある。動画撮影や編集を学び、大愛テレビでも何度か放送された。作品が採用されるたびに、認められたことを感じた。しかし、自分でもそのコンテンツに感動しなければ、どうやって他人に感動を与えることができるだろう?これらは私のこれまでの努力を肯定するものだと信じている。慈済を愛しているから、これからも努力を続ける。

人文記録ボランティアの使命は、「時代の証人となり、人類のために歴史を残し、慈済のために経典を書くこと」である。かつて法師は、“文字にして記録するのは頭を使うため、どちらかというと大変な仕事ですが、それは永遠に残すことができ、何千年、何万年も保存されるのです”と言ったことがある。

世の中には美しい善意に満ちた話が沢山ある。どれも後世の教育で良薬となることができる。私は、あらゆる慈済人が、人文記録ボランティアになってくれることを望んでいる。全てが感動的な史実であり、私たちが心して記録するから残るのだ。そして、後に続く人たちはそのような菩薩の足跡と模範を追随するようになる。慈済の四大志業を全て歴史に残すために、人文記録ボランティアは必要だ。それはとても光栄なことであり、この因縁を大切にして、真の伝法菩薩となって、真実の仏法を世の中に伝えたい。

(慈済月刊六八一期より)

關鍵字

呼吸ができる家

四十年間住んできたが、物は入っても出ることがないため、家には呼吸できる場所が無いほどになっていた。ボランティアは陳さんに付き添って、「要る物」と「要らない物」を選り分けた。

陳さん一家の了承を得て、ボランティアはリビングルームに置いてあった巨大な魚の観賞用水槽を、リサイクルするために運び出した。

四十年の古いアパートは、昔ながらの住宅街に位置し、二階にある広さ二十七坪の住居に三世帯の五人が生活している。バルコニーだけを見ても物が一杯に置かれ、リビングのソファー、テーブル、スツールにも多くの物が積み重ねられていて、それらしく見えなかった。棚は薬が入った袋で一杯だ。そして、巨大な魚の観賞用水槽が空のままリビングの中央に横たわっていた。

三つある部屋にはそれぞれ、陳さん、癌を患う次男、奥さんと長男の二人の娘が暮らしていた。物が床から天井まで積み上げられ、部屋いっぱいになっていて、横向きでないと移動できない。微かな光が窓から入ってきていたが、寝るスペース以外は全て物で埋め尽くされていて、この家には「呼吸」できる場所がないほどだ。

八年ほど前、ある小学校の先生から慈済に、二人の子供の面倒を見て欲しいという依頼が来た。ボランティアの葉美雲(イェ・メイユン)さんは、その時から現在に至るまで、陳家に寄り添ってきた。陳さんの孫娘たちは、今はもう中学生である。葉さんは毎月自転車に乗って、台北市忠孝東路六段末から新北市汐止区南勢街まで三十分かけて通っている。雨の日も風の日も例外ではない。その誠意が通じたので、遠慮がちな陳さんは、やっと彼女に心の内を打ち明けるようになった。

「妻は人工透析をして寝たきりで、長男は刑務所を出て半年もしない内に家出して行方不明になりました。そして次男が癌に罹ったのです。私は本気で運を変えなければ、と思っています」。葉さんは陳さんがそう言ったのを聞いて、待ちに待った機会がやってきたと思った。

「家を整理すれば、心も晴れますよ」。陳さんも承諾してくれた。

六月十八日、端午の節句の前日、十二人のボランティアが陳家にやって来た。陳さんは「私はもう一週間も整理しています」とあわてて言った。皆で手分けして、バルコニー、リビング及び寝室を片付け始め、一つひとつ陳さんの同意を得てから物を捨てた。

空の水槽は捨てていいかと尋ねると、孫娘が「要る」と言い、陳さんは「要らない」と言ったので、膠着状態に陥った。葉さんの説得で、孫娘がやっと捨てることに同意したので、リビングが広くなった。

今日は他にも大変な作業があった。奥さんが寝ているベッドを陳さんの寝室に搬入してから、電動ベッドを彼女の寝室に搬入したのだ。移動距離は長くないが、中間に動かせない食器棚と大きな冷蔵庫が道を塞いでおり、二部屋に長年貯まっていた物を捨ててスペースを作らなければならなかった。ボランティアたちは力を振り絞って、やっとベッドを陳さんの寝室前まで運んだが、曲がり角のスペースが足りず、搬入することができなかった。

汗で濡れた服は乾く間もなかったが、ボランティアは気落ちすることも、諦めることもなく、やっとベッドの方向を変え、寝室に押し込み、問題を解決することができた。陳さんが笑顔を見せた。長年マットレスだけで寝ていたが、今夜からやっとちゃんとしたベッドで寝られるようになるからだ。

ボランティアたちは気を付けながら、水槽とマットレスを一階まで運び、普段は従業員に対して指揮している邱進興(チュウ・ジンシン)さんも一緒に一階まで運んだ。「陳さんはご近所です。今日は上ったり下りたりして全身に汗をびっしょりかきましたが、人助けができて実に爽快です。自分で体験しないと分かりません」。エコ福祉用具を届けに来たボランティアの曽立文(ヅン・リウェン)さんは、「彼らの苦しみを和らげることができました。彼らの喜びは私たちの喜びでもあるのです。これこそまさしく、上人が私たちに求めていることです」と言った。

整理整頓は一段落しても、「寄り添いはつづけます」と葉さんが言った。陳さんはボランティアと一緒に家の内外で忙しくしていたが、「私一人の力では何もできませんでした。ボランティアの皆さんには心から感謝しています」と言った。

数十年来、物は中に入れても、出すことはなかった。「捨てる」か「捨てない」か、陳さんにとっては決め難いことだった。それはまるで人生の方向を探している姿と同じである。ボランティアたちは、力を合わせ、見返りを求めず奉仕しながら、陳さんが安心して生活できるように、また、人間(じんかん)の温かさを感じ取ってくれるようにと期待した。

(慈済月刊六八一期より)

四十年間住んできたが、物は入っても出ることがないため、家には呼吸できる場所が無いほどになっていた。ボランティアは陳さんに付き添って、「要る物」と「要らない物」を選り分けた。

陳さん一家の了承を得て、ボランティアはリビングルームに置いてあった巨大な魚の観賞用水槽を、リサイクルするために運び出した。

四十年の古いアパートは、昔ながらの住宅街に位置し、二階にある広さ二十七坪の住居に三世帯の五人が生活している。バルコニーだけを見ても物が一杯に置かれ、リビングのソファー、テーブル、スツールにも多くの物が積み重ねられていて、それらしく見えなかった。棚は薬が入った袋で一杯だ。そして、巨大な魚の観賞用水槽が空のままリビングの中央に横たわっていた。

三つある部屋にはそれぞれ、陳さん、癌を患う次男、奥さんと長男の二人の娘が暮らしていた。物が床から天井まで積み上げられ、部屋いっぱいになっていて、横向きでないと移動できない。微かな光が窓から入ってきていたが、寝るスペース以外は全て物で埋め尽くされていて、この家には「呼吸」できる場所がないほどだ。

八年ほど前、ある小学校の先生から慈済に、二人の子供の面倒を見て欲しいという依頼が来た。ボランティアの葉美雲(イェ・メイユン)さんは、その時から現在に至るまで、陳家に寄り添ってきた。陳さんの孫娘たちは、今はもう中学生である。葉さんは毎月自転車に乗って、台北市忠孝東路六段末から新北市汐止区南勢街まで三十分かけて通っている。雨の日も風の日も例外ではない。その誠意が通じたので、遠慮がちな陳さんは、やっと彼女に心の内を打ち明けるようになった。

「妻は人工透析をして寝たきりで、長男は刑務所を出て半年もしない内に家出して行方不明になりました。そして次男が癌に罹ったのです。私は本気で運を変えなければ、と思っています」。葉さんは陳さんがそう言ったのを聞いて、待ちに待った機会がやってきたと思った。

「家を整理すれば、心も晴れますよ」。陳さんも承諾してくれた。

六月十八日、端午の節句の前日、十二人のボランティアが陳家にやって来た。陳さんは「私はもう一週間も整理しています」とあわてて言った。皆で手分けして、バルコニー、リビング及び寝室を片付け始め、一つひとつ陳さんの同意を得てから物を捨てた。

空の水槽は捨てていいかと尋ねると、孫娘が「要る」と言い、陳さんは「要らない」と言ったので、膠着状態に陥った。葉さんの説得で、孫娘がやっと捨てることに同意したので、リビングが広くなった。

今日は他にも大変な作業があった。奥さんが寝ているベッドを陳さんの寝室に搬入してから、電動ベッドを彼女の寝室に搬入したのだ。移動距離は長くないが、中間に動かせない食器棚と大きな冷蔵庫が道を塞いでおり、二部屋に長年貯まっていた物を捨ててスペースを作らなければならなかった。ボランティアたちは力を振り絞って、やっとベッドを陳さんの寝室前まで運んだが、曲がり角のスペースが足りず、搬入することができなかった。

汗で濡れた服は乾く間もなかったが、ボランティアは気落ちすることも、諦めることもなく、やっとベッドの方向を変え、寝室に押し込み、問題を解決することができた。陳さんが笑顔を見せた。長年マットレスだけで寝ていたが、今夜からやっとちゃんとしたベッドで寝られるようになるからだ。

ボランティアたちは気を付けながら、水槽とマットレスを一階まで運び、普段は従業員に対して指揮している邱進興(チュウ・ジンシン)さんも一緒に一階まで運んだ。「陳さんはご近所です。今日は上ったり下りたりして全身に汗をびっしょりかきましたが、人助けができて実に爽快です。自分で体験しないと分かりません」。エコ福祉用具を届けに来たボランティアの曽立文(ヅン・リウェン)さんは、「彼らの苦しみを和らげることができました。彼らの喜びは私たちの喜びでもあるのです。これこそまさしく、上人が私たちに求めていることです」と言った。

整理整頓は一段落しても、「寄り添いはつづけます」と葉さんが言った。陳さんはボランティアと一緒に家の内外で忙しくしていたが、「私一人の力では何もできませんでした。ボランティアの皆さんには心から感謝しています」と言った。

数十年来、物は中に入れても、出すことはなかった。「捨てる」か「捨てない」か、陳さんにとっては決め難いことだった。それはまるで人生の方向を探している姿と同じである。ボランティアたちは、力を合わせ、見返りを求めず奉仕しながら、陳さんが安心して生活できるように、また、人間(じんかん)の温かさを感じ取ってくれるようにと期待した。

(慈済月刊六八一期より)

關鍵字

三月の出来事

03・01

慈済基金会と慈済大学は、宗教団体のシカゴ・ヴィヴェカーナンダ・ヴェーダーンタ協会と共同で、即日より12月31日まで、オンラインで英語による仏教講座を開く。日本の京都大学と東北大学、台湾法鼓文理学院及びアメリカ・ハーバード大学、ナロパ大学、ニューヨークのユニオン神学校などから教授や学者を講師に迎える。講座の内容は仏教の起源と核心概念、初期の仏教の発展、仏教後期の発展と仏教現代主義、当代社会の仏教、世界変革者としての仏教などである。

03・02

◎慈済基金会は中正静思堂で正式に、第二期「マンナハイの約束」と題したシリア難民への中国語学習伴走プロジェクトと第一期「異郷の愛」と題したタイ北部での中国語学習伴走プロジェクトを開始した。国立師範大学教育学院の中国語教育学科のカリキュラムに基づくコースに、本日は75人が出席した。

◎静思書軒は拓凱教育基金会と共同で、初めて台中の慈済東大静思堂において、「二十一世紀の教養觀――如何にして多元的に変化する世界と歩調を合わせるか」というテーマの下に講座を開いた。国立中央大学認知神経研究所の洪蘭(ホン・ラン)教授が招かれて、子供に教養を身につけさせる考えと方法について話した。360人が参加した。

03・03

◎北部慈済人医会は、2004年から台北市政府労働局と協力して、外国籍労働者の健康ケア活動を行っており、これまで延べ1万6千人が恩恵を受けた。本日、台北駅で本年度第一回の活動を催し、歯科、耳鼻咽喉科、内科、産婦人科、心身医学科、中医学科などの診療と共に、腹部と産婦人科のエコー検査が行われた。

◎チリ慈済連絡所は、華僑懇親会の友誼会館で新春祈福感謝会を催し、参加者100人余りが訪れた。責任者の呉惠蘭(ウー・フウェイラン)師姐が、大衆の慈済に対する護持を感謝すると共に、慈済のビニャ・デル・マール火災被災者支援を呼びかけ、711万ペソの募金を集めた。

03・07

慈済基金会は桃園八徳静思堂で、「慈済緊急災害支援物資貯蔵管理教育講座」を開いた。劉效成(リュウ・シァオツン)副執行長を先頭に、総務所と慈発所及び防災関連業務の職員60数人が参加した。この「クラウド貯蔵システム」は新竹物流会社が開発したもので、無償で慈済に提供している。

03・10

◎国際仏教連盟(IBC)主席のラマ・アワング・テンジン・ギャソ氏と災害支援所秘書のナワン氏一行が、本日慈済インド・ブッダガヤ連絡所を訪れ、仏国プロジェクトチームの蘇祈逢(スウ・チーフォン)師兄と医療チームボランティアの林金燕(リン・ジンイェン)師姐が出迎え、慈済の由来及び当地で進めている慈善や医療などの志業活動の足跡を紹介した。

◎慈済ドミニカ連絡所は設立25周年の記念行事を行い、120人余りが参加した。

03・11

◎慈済基金会とエアリンク(航空輸送と物流のNGO)が共同で主催する「第二回アジア太平洋地区非営利団体のための人道支援物流防災ワークショップ」が11日から15日まで新店静思堂と花蓮静思精舎で開かれた。

◎第68回国連女性の地位委員会(CSW68)が11日から22日までアメリカ・ニューヨークで開かれた。慈済基金会の代表チームは全日程に出席すると共に、多数のインタラクティブ・ダイアローグを主催した。

03・12

新北市政府消防局主催で、慈済基金会と台湾大学気候災害研究センター共催の「新北市2024年第49期防災士養成講座」が、12日と13日に板橋静思堂で開かれた。新北市副市長の朱惕之(ヅウ・ティーヅー)氏と慈済副執行長の濟舵(ヂー・ドゥオ)師兄が開講式を主宰した。慈済が受け持つ本年度の新北市防災士養成講座は、3月6日から第47期が始まり、11月下旬まで23回開かれる。

03・13

慈済基金会仏の国プロジェクトチームは、ネパール・ルンビニ文化都市第11区のサドハワ村で、「米貯金箱の里帰り」活動を行った。当村で20世帯の住民が呼応して、合計63キロの米を寄付した。当日、他の5世帯が新たに参加して米貯金箱を受け取り、活動を盛り上げた。

03・14

慈済マレーシア・マラッカ支部は国家衛生研究院、国立科学工芸博物館と共同で、マラッカ静思堂にて「防疫戦キャンプ」の巡回展示会が催され、マルチメディアを通した体験とレベルクリアゲームによって、デング熱や流感、新型コロナなどの病気と予防法を紹介した。展示会は2024年3月14日から5月17日まで開かれる。

03・15

慈済基金会2024年外国語チーム・ルーツ探訪研修会が、15日から17日まで花蓮静思堂と静思精舎で開かれ、75人が参加した。そのうちの10人は外国籍で、ロシア、日本、インド、インドネシア、ベトナムの人たちである。

03・01

慈済基金会と慈済大学は、宗教団体のシカゴ・ヴィヴェカーナンダ・ヴェーダーンタ協会と共同で、即日より12月31日まで、オンラインで英語による仏教講座を開く。日本の京都大学と東北大学、台湾法鼓文理学院及びアメリカ・ハーバード大学、ナロパ大学、ニューヨークのユニオン神学校などから教授や学者を講師に迎える。講座の内容は仏教の起源と核心概念、初期の仏教の発展、仏教後期の発展と仏教現代主義、当代社会の仏教、世界変革者としての仏教などである。

03・02

◎慈済基金会は中正静思堂で正式に、第二期「マンナハイの約束」と題したシリア難民への中国語学習伴走プロジェクトと第一期「異郷の愛」と題したタイ北部での中国語学習伴走プロジェクトを開始した。国立師範大学教育学院の中国語教育学科のカリキュラムに基づくコースに、本日は75人が出席した。

◎静思書軒は拓凱教育基金会と共同で、初めて台中の慈済東大静思堂において、「二十一世紀の教養觀――如何にして多元的に変化する世界と歩調を合わせるか」というテーマの下に講座を開いた。国立中央大学認知神経研究所の洪蘭(ホン・ラン)教授が招かれて、子供に教養を身につけさせる考えと方法について話した。360人が参加した。

03・03

◎北部慈済人医会は、2004年から台北市政府労働局と協力して、外国籍労働者の健康ケア活動を行っており、これまで延べ1万6千人が恩恵を受けた。本日、台北駅で本年度第一回の活動を催し、歯科、耳鼻咽喉科、内科、産婦人科、心身医学科、中医学科などの診療と共に、腹部と産婦人科のエコー検査が行われた。

◎チリ慈済連絡所は、華僑懇親会の友誼会館で新春祈福感謝会を催し、参加者100人余りが訪れた。責任者の呉惠蘭(ウー・フウェイラン)師姐が、大衆の慈済に対する護持を感謝すると共に、慈済のビニャ・デル・マール火災被災者支援を呼びかけ、711万ペソの募金を集めた。

03・07

慈済基金会は桃園八徳静思堂で、「慈済緊急災害支援物資貯蔵管理教育講座」を開いた。劉效成(リュウ・シァオツン)副執行長を先頭に、総務所と慈発所及び防災関連業務の職員60数人が参加した。この「クラウド貯蔵システム」は新竹物流会社が開発したもので、無償で慈済に提供している。

03・10

◎国際仏教連盟(IBC)主席のラマ・アワング・テンジン・ギャソ氏と災害支援所秘書のナワン氏一行が、本日慈済インド・ブッダガヤ連絡所を訪れ、仏国プロジェクトチームの蘇祈逢(スウ・チーフォン)師兄と医療チームボランティアの林金燕(リン・ジンイェン)師姐が出迎え、慈済の由来及び当地で進めている慈善や医療などの志業活動の足跡を紹介した。

◎慈済ドミニカ連絡所は設立25周年の記念行事を行い、120人余りが参加した。

03・11

◎慈済基金会とエアリンク(航空輸送と物流のNGO)が共同で主催する「第二回アジア太平洋地区非営利団体のための人道支援物流防災ワークショップ」が11日から15日まで新店静思堂と花蓮静思精舎で開かれた。

◎第68回国連女性の地位委員会(CSW68)が11日から22日までアメリカ・ニューヨークで開かれた。慈済基金会の代表チームは全日程に出席すると共に、多数のインタラクティブ・ダイアローグを主催した。

03・12

新北市政府消防局主催で、慈済基金会と台湾大学気候災害研究センター共催の「新北市2024年第49期防災士養成講座」が、12日と13日に板橋静思堂で開かれた。新北市副市長の朱惕之(ヅウ・ティーヅー)氏と慈済副執行長の濟舵(ヂー・ドゥオ)師兄が開講式を主宰した。慈済が受け持つ本年度の新北市防災士養成講座は、3月6日から第47期が始まり、11月下旬まで23回開かれる。

03・13

慈済基金会仏の国プロジェクトチームは、ネパール・ルンビニ文化都市第11区のサドハワ村で、「米貯金箱の里帰り」活動を行った。当村で20世帯の住民が呼応して、合計63キロの米を寄付した。当日、他の5世帯が新たに参加して米貯金箱を受け取り、活動を盛り上げた。

03・14

慈済マレーシア・マラッカ支部は国家衛生研究院、国立科学工芸博物館と共同で、マラッカ静思堂にて「防疫戦キャンプ」の巡回展示会が催され、マルチメディアを通した体験とレベルクリアゲームによって、デング熱や流感、新型コロナなどの病気と予防法を紹介した。展示会は2024年3月14日から5月17日まで開かれる。

03・15

慈済基金会2024年外国語チーム・ルーツ探訪研修会が、15日から17日まで花蓮静思堂と静思精舎で開かれ、75人が参加した。そのうちの10人は外国籍で、ロシア、日本、インド、インドネシア、ベトナムの人たちである。

關鍵字

読書によって慈済の種子を届けたい

主人は毎週末、私を連れて車でコミュニティを巡り、街角の小さい図書館(図書ボックス)を見つけては、慈済の書籍を置いている。

それから、ルートを見つけて、図書館や古本屋にも寄贈している。私たちが住んでいる町には、中華系の人は多くなく、ボランティアの人数も数えるほどだ。

しかし、「努力した分だけ、得るものがある」。ひたすら努力するまでだ!

今年6月、カナダのウィニペグ・フードバンクと合意し、候宣如さん(左から2人目)とボランティアたちは慈済の書籍を寄付して法縁者と縁を結んだ。

ィニペグ市は、カナダ中央のマニトバ州にある。気候はかなり極端で、年平均の最高気温と最低温度の差が三十五℃にもなり、夏は暑くて短く、冬は寒くて長いという、カナダで一番寒い都市である。

カナダは移民の人種が多く、信仰も相応に多元的だ。ウィニペグ市の華人は大都市ほど多くはないが、人口の流動がかなり高いため、ボランティアを募集することが一層難しい。その上、過去三年間のコロナ禍の影響で、地域ボランティアはほぼ引き継がれていない。

慈済ウィニペグ連絡所は二〇〇八年に設立され、マレーシアから来た蘇琪龍(スー・チーロン)さんが一人で、慈済のあらゆる事を担ってきた。四年後、蘇さんはケベック州のモントリオール市に引っ越し、その後、中国からきた李晟旭(リー・チェンシュー)さんと劉玲瑋(リュウ・リンウェイ)さん夫婦が引き継いだ。今年五月、李さん一家がアルバータ州のカルガリー市に引っ越したので、六月に、ウィニペグに来て一年の台湾人ボランティア黄添華(ホワン・ティエンホワ)さんが事務の窓口を受け持つようになった。

黄さんの家にある慈済に関する物のうち、二十箱余りに入っている約千六百冊の出版物は、私が取り扱った。どのようにして人と縁を結べばいいかを考えていると、姉の口ぐせである「考え方を変えて、祝福しよう」という言葉を思い出した。

確かに、これら素晴しい書籍を人と分かち合える自分を祝福したいと思った。そして、週末になると必ず、主人が私を連れて車でコミュニティを巡り、街角に約三十册の本しか收容できないような小さい「図書館」を探し求めるようになった。

他の人が本を置くのに影響しないように、私は慈済の書籍を每回五冊だけ置くことにした。英語の本が大半を占める中で、中国語や日本語版の慈済の書籍が偶に出現すると目立つものだ。それから、当地の図書館と古本屋への寄贈も試みた。住民に少しでも慈済の事を知ってもらうチャンスを与えようと思ったのだ。

六月十日、蘇さんは、李さんと黄さんを招いて、オンラインで私に会わせてくれた。私たちはそれぞれ三つの異なる町に住んでいるが、互いに過去の事を分かち合い、慈済の将来の色々な事を話し合った。

蘇さんは、二〇〇九年にウィニペグのボランティアとして、初めて歳末祝福会を催したことを振り返った。当時はそれに適した場所がなく、ボランティアも足りなく、ハード設備やソフトウェアも不足していたが、幸い、台湾から嫁いできた黄美華(ホワン・メイホワ)さんが、自分の家を臨時の会場にと提供してくれた。その後、林麗芬(リン・リーフェン)さんが、長期的に彼女の幼稚園を提供してくれたお陰で、年二回の比較的大規模な活動である、歳末祝福会と灌仏会を行うことができた。

蘇さんが話題を変えて、黄さんに尋ねた。「次はあなたが引き継ぐ番ですが、何か考えはありますか」。

「私は喜んで引き受けますが、宣如師姐と協力してやり遂げます。宣如師姐、聞こえましたか?」と黄さんは突然、私を指名した。

「引き受ける」という言葉は重苦しい。楽しいボランティアになりたいだけで、言い訳を探して辞退したかったが、證厳法師の言葉を思い出した。「異国の空の下で異国の地に生きるのですから、恩返しすることを忘れてはいけません」。すると、答えは自ずと「YES」に変わった。

十四年間、ウィニペグのボランティアは一人ひとり、と引き継がれて来たが、「実践しながら学び、学ぶうちに体得し、体得を経て悟る」ことが精神的な支えとなっている。今でもボランティアの数は少なく、人間(じんかん)菩薩を大募集するのは更に遠い先のことだが、「構いません、全力を尽くした分だけ、得るものがあり、頑張って福田を耕していきましょう!」と黄さんはいつも励ましてくれる。

ウィニペグのボランティアは目の前に広がる福田を歩いていくうちに、行き交う法縁者に出会う。たとえ偶然の出会いでも、或いは、何百、何千マイル離れていても、いつかは静思法脈の中で悦びに溢れた出会いがあるだろう。集まっては去って行ったボランティアはタンポポのように、法師の教えを携え、「仏心師志」と言う四文字の下に、風に載って各地に届けられ、もう一度「慈善」の種子として根付き、辛抱強く芽が出るきっかけを待っている。

(慈済月刊六八二期より)

主人は毎週末、私を連れて車でコミュニティを巡り、街角の小さい図書館(図書ボックス)を見つけては、慈済の書籍を置いている。

それから、ルートを見つけて、図書館や古本屋にも寄贈している。私たちが住んでいる町には、中華系の人は多くなく、ボランティアの人数も数えるほどだ。

しかし、「努力した分だけ、得るものがある」。ひたすら努力するまでだ!

今年6月、カナダのウィニペグ・フードバンクと合意し、候宣如さん(左から2人目)とボランティアたちは慈済の書籍を寄付して法縁者と縁を結んだ。

ィニペグ市は、カナダ中央のマニトバ州にある。気候はかなり極端で、年平均の最高気温と最低温度の差が三十五℃にもなり、夏は暑くて短く、冬は寒くて長いという、カナダで一番寒い都市である。

カナダは移民の人種が多く、信仰も相応に多元的だ。ウィニペグ市の華人は大都市ほど多くはないが、人口の流動がかなり高いため、ボランティアを募集することが一層難しい。その上、過去三年間のコロナ禍の影響で、地域ボランティアはほぼ引き継がれていない。

慈済ウィニペグ連絡所は二〇〇八年に設立され、マレーシアから来た蘇琪龍(スー・チーロン)さんが一人で、慈済のあらゆる事を担ってきた。四年後、蘇さんはケベック州のモントリオール市に引っ越し、その後、中国からきた李晟旭(リー・チェンシュー)さんと劉玲瑋(リュウ・リンウェイ)さん夫婦が引き継いだ。今年五月、李さん一家がアルバータ州のカルガリー市に引っ越したので、六月に、ウィニペグに来て一年の台湾人ボランティア黄添華(ホワン・ティエンホワ)さんが事務の窓口を受け持つようになった。

黄さんの家にある慈済に関する物のうち、二十箱余りに入っている約千六百冊の出版物は、私が取り扱った。どのようにして人と縁を結べばいいかを考えていると、姉の口ぐせである「考え方を変えて、祝福しよう」という言葉を思い出した。

確かに、これら素晴しい書籍を人と分かち合える自分を祝福したいと思った。そして、週末になると必ず、主人が私を連れて車でコミュニティを巡り、街角に約三十册の本しか收容できないような小さい「図書館」を探し求めるようになった。

他の人が本を置くのに影響しないように、私は慈済の書籍を每回五冊だけ置くことにした。英語の本が大半を占める中で、中国語や日本語版の慈済の書籍が偶に出現すると目立つものだ。それから、当地の図書館と古本屋への寄贈も試みた。住民に少しでも慈済の事を知ってもらうチャンスを与えようと思ったのだ。

六月十日、蘇さんは、李さんと黄さんを招いて、オンラインで私に会わせてくれた。私たちはそれぞれ三つの異なる町に住んでいるが、互いに過去の事を分かち合い、慈済の将来の色々な事を話し合った。

蘇さんは、二〇〇九年にウィニペグのボランティアとして、初めて歳末祝福会を催したことを振り返った。当時はそれに適した場所がなく、ボランティアも足りなく、ハード設備やソフトウェアも不足していたが、幸い、台湾から嫁いできた黄美華(ホワン・メイホワ)さんが、自分の家を臨時の会場にと提供してくれた。その後、林麗芬(リン・リーフェン)さんが、長期的に彼女の幼稚園を提供してくれたお陰で、年二回の比較的大規模な活動である、歳末祝福会と灌仏会を行うことができた。

蘇さんが話題を変えて、黄さんに尋ねた。「次はあなたが引き継ぐ番ですが、何か考えはありますか」。

「私は喜んで引き受けますが、宣如師姐と協力してやり遂げます。宣如師姐、聞こえましたか?」と黄さんは突然、私を指名した。

「引き受ける」という言葉は重苦しい。楽しいボランティアになりたいだけで、言い訳を探して辞退したかったが、證厳法師の言葉を思い出した。「異国の空の下で異国の地に生きるのですから、恩返しすることを忘れてはいけません」。すると、答えは自ずと「YES」に変わった。

十四年間、ウィニペグのボランティアは一人ひとり、と引き継がれて来たが、「実践しながら学び、学ぶうちに体得し、体得を経て悟る」ことが精神的な支えとなっている。今でもボランティアの数は少なく、人間(じんかん)菩薩を大募集するのは更に遠い先のことだが、「構いません、全力を尽くした分だけ、得るものがあり、頑張って福田を耕していきましょう!」と黄さんはいつも励ましてくれる。

ウィニペグのボランティアは目の前に広がる福田を歩いていくうちに、行き交う法縁者に出会う。たとえ偶然の出会いでも、或いは、何百、何千マイル離れていても、いつかは静思法脈の中で悦びに溢れた出会いがあるだろう。集まっては去って行ったボランティアはタンポポのように、法師の教えを携え、「仏心師志」と言う四文字の下に、風に載って各地に届けられ、もう一度「慈善」の種子として根付き、辛抱強く芽が出るきっかけを待っている。

(慈済月刊六八二期より)

關鍵字

思いやりも練習が必要

問:

子供が中学に進学しましたが、自分の事しか思い至らず、 他人を思いやらないのです。 私がきちんと教えていないからでしょうか?

:友人のCさんの二人の娘さんは、笑顏が素敵で、褒め上手で、誰からも好かれます。ご両親ともベテランボランティアなので、お母さんは図書館にボランティアに行く時、お子さんを連れて行き、一緒に本の整理をしています。お子さんは自然に本に親しみを持つと共に、自主的に人に挨拶をしたり、小さい子供の世話をしたり、年長者に付き添ったりします。お父さんは每日朝早くからコミュニティで健康体操を教えています。自分が健康になり、家族全員も早寝早起きの習慣を身につけるようになりました。

以下は、青春期のお子さんを持つご両親に読んでいただきたい内容です。

愛と手本

ほとんどの人は、子供を持ってから如何にして親になるかを学び始めます。いったい子供のためになるには、どのようにすれば良いのでしょうか。私は、教育專門家が提唱している「愛と手本」を示すだけでいいと思います。

教師を退職した倪美英(ニー・メイイン)さんは、「愛」について独特な解釈をしています。
   
『愛』という字は真中に『心』があり、その上下の部分だけを合わせると『受』になります。つまり『心』の中に感じてこそ愛であり、『私があなたを叩いたり、叱ったりするのはあなたのためであり、今私たちがやっている全ては、あなたを愛しているからです』というのは間違っています。そういう愛情は重すぎて、お子さんは愛を感じることができず、高い塀を築いて「自分」の空間に閉じこもってしまいます。

子供は、生まれると親の世話で成長しますから、「両親が手本となる」ことはとても重要です。お子さんが時間通りに起きて、寝て、食事する時はスマホをいじらないことを望むなら、親自身も時間通りに寝て、ドラマ三昧になってはいけません。お子さんに読書を好きになって欲しければ、大人も本を一緒に読みましょう。両親が他人に関心を寄せていれば、お子さんは自然に周りの人を思いやるようになるのです。

一緒にボランティアをする

作家の劉威麟(リュウ・ウェイリン)さんは、「ボランティア活動に参加し、手本に出会う」という文章の中に、アメリカ・テキサス州立大学助教授のケビン•ランザ氏が発表した研究報告の引用がありました。ボランティアをする人は皆、或る特質があるというのです。楽観的、積極的、ポジティブな考えを持っていると指摘しました。ですから仲の良い友人のCさんの家には、常に人も羨むほどの笑い声が溢れているのでしょう。

ボランティア活動はもう一つの学習あるいは社会と接触するルートであるだけではありません。このような活動は、今のところ主催者が事前に選別して手配しているので、お子さんにとってあまり刺激がなく、活動の内容もあまり挑戦的でなく、学べることは多くありません。しかし、奉仕に投入した時の最も貴重な体験は、同じようにボランティアをする人々に出会うことです。彼らの情熱的且つ積極的で前向きな生き方は、電子製品が築いた高い塀を打ち破り、「オタク族」の冰山を溶かすことができます。

ですから、ご両親が休日に家から出て、お子さんを連れてボランティア活動に行ってみたらどうでしょう。お子さんは知らず知らずのうちに感化され、きっと情熱的で陽気な青年になるでしょう。真心で人に奉仕すれば、人生で小さな素晴らしいことと幸せを感じるでしょう。それが価値のある人生であり、その価値でお子さんがより奉仕する気になり、多くの人に接して、「手のひらを下に向ける」人になろうとするようになるでしょう。

両親が先に手を放す

手を放して、お子さんに自分で試して過ちを犯しても償い、解決させるのです。それは、肯定と信頼を意味していることであり、全ての過程を経験することでもっと強くなり、重責を担える力をつければ、将来、人生の責任を担うことができます。

手を放す過程で、心を落ち着かせてお子さんとよく、自分たちの期待について話合ってみましょう。ひたすら負担するのでは、期待が外れた時、傷付いてしまい、そのまま親子が衝突してしまえば、モラハラの一種になってしまいます。

かつて、お子さんに医学部への進学を望んだ、あるお父さんがいました。お子さんは要求通り医学部を勉強し終わりました。卒業式の日、お子さんは恭しく卒業証書をお父さんに捧げ、「私はもう『あなたの医学部』を勉強し終わりました。これからは、私の最も好きな数学科に進学します!」と言って、振り向きもせず出て行ってしまいました。後悔するお父さんが後に残されました。

人性は本来、自分を利するものであり、利他は後天的に培われた情操です。しかし、絶えず練習する必要があり、ローマは一日にして成らず、ですから。お子さんが中学生の段階であれば、親子の間には感情の貯金があるはずで、どのように教えても、まだ間に合います。ヘリコプターペアレントとなって、過保護、過干涉或いは子供の生活に介入するより、むしろ子供を連れて、快適な生活から出て人に奉仕すべきです。そうして初めて、彼は「思いやり、観察する」ことを練習する機会に恵まれ、人との付き合い方が分かるようになり、利己的な人間になることはないでしょう。

(慈済月刊六八五期より)

問:

子供が中学に進学しましたが、自分の事しか思い至らず、 他人を思いやらないのです。 私がきちんと教えていないからでしょうか?

:友人のCさんの二人の娘さんは、笑顏が素敵で、褒め上手で、誰からも好かれます。ご両親ともベテランボランティアなので、お母さんは図書館にボランティアに行く時、お子さんを連れて行き、一緒に本の整理をしています。お子さんは自然に本に親しみを持つと共に、自主的に人に挨拶をしたり、小さい子供の世話をしたり、年長者に付き添ったりします。お父さんは每日朝早くからコミュニティで健康体操を教えています。自分が健康になり、家族全員も早寝早起きの習慣を身につけるようになりました。

以下は、青春期のお子さんを持つご両親に読んでいただきたい内容です。

愛と手本

ほとんどの人は、子供を持ってから如何にして親になるかを学び始めます。いったい子供のためになるには、どのようにすれば良いのでしょうか。私は、教育專門家が提唱している「愛と手本」を示すだけでいいと思います。

教師を退職した倪美英(ニー・メイイン)さんは、「愛」について独特な解釈をしています。
   
『愛』という字は真中に『心』があり、その上下の部分だけを合わせると『受』になります。つまり『心』の中に感じてこそ愛であり、『私があなたを叩いたり、叱ったりするのはあなたのためであり、今私たちがやっている全ては、あなたを愛しているからです』というのは間違っています。そういう愛情は重すぎて、お子さんは愛を感じることができず、高い塀を築いて「自分」の空間に閉じこもってしまいます。

子供は、生まれると親の世話で成長しますから、「両親が手本となる」ことはとても重要です。お子さんが時間通りに起きて、寝て、食事する時はスマホをいじらないことを望むなら、親自身も時間通りに寝て、ドラマ三昧になってはいけません。お子さんに読書を好きになって欲しければ、大人も本を一緒に読みましょう。両親が他人に関心を寄せていれば、お子さんは自然に周りの人を思いやるようになるのです。

一緒にボランティアをする

作家の劉威麟(リュウ・ウェイリン)さんは、「ボランティア活動に参加し、手本に出会う」という文章の中に、アメリカ・テキサス州立大学助教授のケビン•ランザ氏が発表した研究報告の引用がありました。ボランティアをする人は皆、或る特質があるというのです。楽観的、積極的、ポジティブな考えを持っていると指摘しました。ですから仲の良い友人のCさんの家には、常に人も羨むほどの笑い声が溢れているのでしょう。

ボランティア活動はもう一つの学習あるいは社会と接触するルートであるだけではありません。このような活動は、今のところ主催者が事前に選別して手配しているので、お子さんにとってあまり刺激がなく、活動の内容もあまり挑戦的でなく、学べることは多くありません。しかし、奉仕に投入した時の最も貴重な体験は、同じようにボランティアをする人々に出会うことです。彼らの情熱的且つ積極的で前向きな生き方は、電子製品が築いた高い塀を打ち破り、「オタク族」の冰山を溶かすことができます。

ですから、ご両親が休日に家から出て、お子さんを連れてボランティア活動に行ってみたらどうでしょう。お子さんは知らず知らずのうちに感化され、きっと情熱的で陽気な青年になるでしょう。真心で人に奉仕すれば、人生で小さな素晴らしいことと幸せを感じるでしょう。それが価値のある人生であり、その価値でお子さんがより奉仕する気になり、多くの人に接して、「手のひらを下に向ける」人になろうとするようになるでしょう。

両親が先に手を放す

手を放して、お子さんに自分で試して過ちを犯しても償い、解決させるのです。それは、肯定と信頼を意味していることであり、全ての過程を経験することでもっと強くなり、重責を担える力をつければ、将来、人生の責任を担うことができます。

手を放す過程で、心を落ち着かせてお子さんとよく、自分たちの期待について話合ってみましょう。ひたすら負担するのでは、期待が外れた時、傷付いてしまい、そのまま親子が衝突してしまえば、モラハラの一種になってしまいます。

かつて、お子さんに医学部への進学を望んだ、あるお父さんがいました。お子さんは要求通り医学部を勉強し終わりました。卒業式の日、お子さんは恭しく卒業証書をお父さんに捧げ、「私はもう『あなたの医学部』を勉強し終わりました。これからは、私の最も好きな数学科に進学します!」と言って、振り向きもせず出て行ってしまいました。後悔するお父さんが後に残されました。

人性は本来、自分を利するものであり、利他は後天的に培われた情操です。しかし、絶えず練習する必要があり、ローマは一日にして成らず、ですから。お子さんが中学生の段階であれば、親子の間には感情の貯金があるはずで、どのように教えても、まだ間に合います。ヘリコプターペアレントとなって、過保護、過干涉或いは子供の生活に介入するより、むしろ子供を連れて、快適な生活から出て人に奉仕すべきです。そうして初めて、彼は「思いやり、観察する」ことを練習する機会に恵まれ、人との付き合い方が分かるようになり、利己的な人間になることはないでしょう。

(慈済月刊六八五期より)

關鍵字

一枚の帽子を編むことは 一つの夢を紡ぐこと

最近、私は帽子を五枚編んで、千五百ルピーの工賃をもらったので、滞納していた学費をすぐに支払いました」。ネパール・ルンビニ第四里メノーラ村のサンギータさんは、慈済の職業訓練講座に参加して、毛系の帽子を編むようになった。彼女は地主から田んぼを借りて耕作しているが、ご主人は臨時雇いなので收入が不安定である。一家八人が最も困難な時は、ご飯に塩を掛けて食べるしかなかった。しかし、子供には同じような人生を送らせたくないと思い、彼女は子供に教育を受けさせることを堅持した。「私にこのような機会を与えて下さって感謝しています。自分の手でお金を稼ぐことができるのですから」。

慈済は村の女性たちに呼びかけて、毛系の帽子を編んでもらっている。慈済が毛系と教師を提供し、検品に合格した完成品には、一枚三百ルピー (約三百四十円)の工賃を支払っている。これは首都カトマンズでの三十ルピーよりもかなり高額だ。彼女たちに收入ができただけでなく、ケア世帶や支援建設している学校の生徒及び西部地震の被災者世帯に、防寒用として送ることもできた。第四里コンペ村とメノーラ村以外に、慈済連絡所でも、女性たちが每日、毛系の帽子を編んでいる。二○二三年十月から今年一月初めまでに、既に千枚余りの帽子が編み上がり、配付物資として提供されている。

このようなアイデアが生まれてから、女性たちは編み針と糸を手放したことが無い。村に入ると、至る所で集まっては座って編む人、しゃがんで編む人、立ったままで編む人もいて、皆が沒頭していた。工賃を受け取る時は、名前が呼ばれると、サインか拇印を押しに行く。そして、ニコニコしながらお札を数えていた。時にはその中から小額の紙幣を取り出して、人助けのためにと竹筒貯金箱に入れる人もいた。

ウルミラさんは、ガソリンと肥料を買うために、工賃をご主人に渡した。ガソリンは地下水を汲み上げる灌漑用のポンプに使い、肥料は麦の苗の成長を助けるのに使う。「私たちはやっと、以前のように、自分はとにかく貧しいのだからと絶えず人に施しを求めるようなことは、しなくてもよくなりました」。

(慈済月刊六八七期より)

職業訓練
  • コミュニティに裁縫教室を開設:エコバッグと制服の製作。
  • 職業訓練コースの開設:縫製教室、編み物教室、手作り石鹸教室。
  • 「仕事を与えて支援に代える」活動:民衆を雇って、住宅建設支援に協力してもらうと同時に、建築に関するスキルを学んでもらう。

最近、私は帽子を五枚編んで、千五百ルピーの工賃をもらったので、滞納していた学費をすぐに支払いました」。ネパール・ルンビニ第四里メノーラ村のサンギータさんは、慈済の職業訓練講座に参加して、毛系の帽子を編むようになった。彼女は地主から田んぼを借りて耕作しているが、ご主人は臨時雇いなので收入が不安定である。一家八人が最も困難な時は、ご飯に塩を掛けて食べるしかなかった。しかし、子供には同じような人生を送らせたくないと思い、彼女は子供に教育を受けさせることを堅持した。「私にこのような機会を与えて下さって感謝しています。自分の手でお金を稼ぐことができるのですから」。

慈済は村の女性たちに呼びかけて、毛系の帽子を編んでもらっている。慈済が毛系と教師を提供し、検品に合格した完成品には、一枚三百ルピー (約三百四十円)の工賃を支払っている。これは首都カトマンズでの三十ルピーよりもかなり高額だ。彼女たちに收入ができただけでなく、ケア世帶や支援建設している学校の生徒及び西部地震の被災者世帯に、防寒用として送ることもできた。第四里コンペ村とメノーラ村以外に、慈済連絡所でも、女性たちが每日、毛系の帽子を編んでいる。二○二三年十月から今年一月初めまでに、既に千枚余りの帽子が編み上がり、配付物資として提供されている。

このようなアイデアが生まれてから、女性たちは編み針と糸を手放したことが無い。村に入ると、至る所で集まっては座って編む人、しゃがんで編む人、立ったままで編む人もいて、皆が沒頭していた。工賃を受け取る時は、名前が呼ばれると、サインか拇印を押しに行く。そして、ニコニコしながらお札を数えていた。時にはその中から小額の紙幣を取り出して、人助けのためにと竹筒貯金箱に入れる人もいた。

ウルミラさんは、ガソリンと肥料を買うために、工賃をご主人に渡した。ガソリンは地下水を汲み上げる灌漑用のポンプに使い、肥料は麦の苗の成長を助けるのに使う。「私たちはやっと、以前のように、自分はとにかく貧しいのだからと絶えず人に施しを求めるようなことは、しなくてもよくなりました」。

(慈済月刊六八七期より)

職業訓練
  • コミュニティに裁縫教室を開設:エコバッグと制服の製作。
  • 職業訓練コースの開設:縫製教室、編み物教室、手作り石鹸教室。
  • 「仕事を与えて支援に代える」活動:民衆を雇って、住宅建設支援に協力してもらうと同時に、建築に関するスキルを学んでもらう。
關鍵字