日々、善の念を発して貯めれば、心が愛に満たされ、いつまでも人助けする力に溢れる。
有から無になり、無から有に変わる
「慈済の志業は一念に始まり、無から有が生まれました。その『有』は人によって成就されるものです。人は誰でも強い自我を持っていますが、慈済が説く仏法では、常に『有我』を『無我』にする、即ち、『我』に執着せず、心身から奉仕するよう教えてきました。従って、社会的に地位が高く、名声のある人でも、慈済のためなら腰を低くして志業に投入することができるのです」。
定例の月曜日の慈済基金会の心温まる報告を聞いた後、上人はこう語りました。
「数十年前、無の状態で四大志業と八大法印を立ち上げたのは、確かに身の程知らずの至りでした。それはただ一念の慈悲心から、苦しんでいる衆生を見るに忍びなかったことに起因したからです。従って、やらなければならない事は、どんなに大変で、困難であっても、歯を喰いしばり、あらゆる方法を使って困難を突破しました。私に福があって、良縁に恵まれていたことにとても感謝しています。いつも必要な時に、助けてくれる善の人が現れ、同じ志の下に志業の重責を担ってくれました」。
「私たちは時間を惜しみ、縁を逃してはいけません。今は縁があって、感染予防物資を八十数カ国に支援していますが、それは慈済人が世界各地にいて、現地や近隣の縁によるものです。また、『無縁の人に慈悲を掛け、相手の身になって悲しむ』という菩薩の大愛から、救いを求める衆生に寄り添って奉仕しているのです」。
「慈済人は絶えず、大衆に愛を奉仕するよう呼びかけています。宗教に関係なく、善意の寄付は僅かであっても貯まれば、この世で苦難があった時、衆生の必要に応じて力を発揮することができます。私は慈済人に、たとえ支援を受けた人に対しても、少しずつ小銭を貯めることで彼らの善意を啓発し、善行する習慣を身に付けさせるために寄付を促すよう教えています。大衆が慈済に出会って、定期的に寄付する会員になれば、自ずと慈済の志業に関心を持つようになります。そして、慈済精神の方向を理解すれば、一歩踏み込んで養成講座に参加し、認証を受けて慈済人になることも可能です。一人でも多くの慈済人がいれば、心を法水で清められた人が増え、また一人、人間菩薩が生まれるのです」。
上人は皆が共通の認識を持ち、人助けする縁があれば、精一杯支援することを願っています。それも自発的なもので、人に請われて行くのではなく、苦難に喘ぐ人のために自主的に奉仕するのです。
「この世には苦難が多いのですが、多くの人はその縁に出会うことはなく、慈済も縁がないために支援できないこともありました。今、修道女会やカトリック教の団体からの縁に対して、私たちは感謝の心でそれを引き受けるべきです。衆生には『衆生の福』があり、私たちは『自分の無私を信じ、人に愛があることを信じ』て、精一杯尽くすことを発心すれば、苦難にある衆生に奉仕する力が湧いてきます」。
イタリアは今年上半期のヨーロッパにおけるコロナ禍の震源地で、都市封鎖していた時、慈済は4月に第1回目の感染予防物質を中部の都市・ネピ市に寄贈し、それらは赤十字社を介して届けられた。市政府から慈済に丁重な感謝状が届いた。(撮影・チェチリア・メディチ)
善が増える分だけ欲が減る
十三日のボランティア朝会で上人は大衆にこう言いました、「感染予防を疎かにしてはいけません。台湾は相対的に落ち着いていますが、その機会に福を多く造るべきです。幸福は日頃から造って貯めておくもので、借金を返済するように、どうしようもなくなってから造り出すようではいけません。同じ理屈で、毎日の食事も『借り』ような食事ではなく、『感謝』できる食事であるべきです。大自然によって成長し、農民が植えて育った五穀に感謝するのです」。
また上人は、「もし菜食をしなければ、一回の食事にどれだけの生命が殺されるか分かりません。菜食すれば、一日三食で殺生の業を造らなくなり、衆生の生命に対して借金をすることはなくなります。ましてや今生はこの大きな縁によって仏法を聞き、行法ができるのです。それによって、これ以上、業を造ることがない上に、福を修めて智慧が増えるのですから、その縁を逃すべきではありません」と言いました。
「日々、善の念を発して少しずつ貯め、心に愛さえあれば、人助けの力が生まれます。それこそが心の大富者なのです。一つの小さな硬貨であっても愛を表しており、こまごました愛の力が結集すれば、水滴が集まって河となるように、慈済が国内外で奉仕してきた善行には、一人一人の発心から成る善行の力が含まれているのです」。
(慈済月刊六四九期より)