上人の法語:
日常で話をする時、気をつけなければいけません。人、時、場所をよく見て話すのです。
誰にどんな話しをするのか、どんな場所で話すべきか、もし話すべきことを話さなかったら、その縁は失われます。時には一言足りなかったために、大きく後悔することもあるのです。これは毎日の決まりごととしてしっかり学びましょう。
ストレートに話すことは、わざとらしくないと思うかもしれないが、知らぬ間に人を傷つけ、収拾がつかなくなることもある。毎日良い言葉を口にするのは簡単そうに見えて、其の実、容易ではない。口から言葉を出すことは修行の一つなのである。
喋るということは一種の芸術であり、一種の智慧である。如何に最適な時に最適な場所で、相手に加減よくて分かりやすく、礼儀のある話し方をするか、なかなか容易なことではない。幼い頃から偏屈な性格だった私は、人前で話すことがとても恐ろしかった。私にとっての「人前」とは二人以上のことと言うと少し大げさに思われるかもしれないが、事実である。
小学校五年の時に児童合唱団に入りたいと母に頼んだが、許してくれなかった。どうしても入りたかったので、「嘆願書」を書いて父母の枕元に置いて願いを聞いてもらいたいと思った。ようやく父母の許しを貰って大喜びで入団テストの日を迎えた。ピアノの傍に立つと、男の先生が伴奏を弾き始め私が歌いだすのを待っていた。しかし、終わりまで全部歌ったが、自分でも聞き取れないほど小さな声だったのだ。
小さい頃から人と関わることが苦手だった私は、パズルや読書をして、静かに自分の世界に浸っていると、人に合わせることも話しをする必要もなく、気が楽だった。独りに慣れていて自分だけの生活をしていたため、社会に入って仕事し始めた時、自分は「ストレートに話す」ことはわざとらしくない率直な性格だと思っていた。「白黒をはっきりさせる」ことは物事をはっきりさせる無私の正義感であり、生まれ持ったものは変えられないと思っていた。そのようにして心のなすままに数十年を過ごしてきた。
或る日、慈済の研修会で世話係として、忙しい時間を過ごした後に休憩室に行った時、テーブルの上にあるお菓子を見回し、心ならずも「何にも食べる物がないわね」と言ってしまった。傍にいたボランティアは「テーブルにはこんなに沢山のお菓子とお茶があるのに、どうして食べる物がないと言うの?」と言った。
自分でも間違ったことを言ってしまった、とびっくりしたが、もう取り返しがつかず、慌てて悪気はなかったと謝った。後でどうしてあのような事を言ってしまったのかと反省した。本当は「テーブルの上には私の食べたいお菓子はない」と思ったのだ。その時、お茶菓子を用意してくれたボランティアたちのことが念頭になく、少し感謝の気持ちが足りなかったと懺悔した。
◎法語は大愛テレビ「静思妙蓮華」という番組の字幕から取ったもので、徳懋法師と林翠玉師姐が修正を加えてから、慈済ボランティアの林正龍、許峻嘉、黄文欽によって製作され、二〇一九年十一月八日正式に発信された。パソコンやスマートフォン、SNS等があれば、何時どこでも法を聴くことができる。
◎元々の名称は「静思妙華籤」だったが、後に法師が「静思法膸籤」と改め、題字とした。「膸」は「髄」の古い字体である。HPにあるのは慈済人の心象風景の「大地の母」及び「宇宙大覚者」である。
日常生活の中で話をする時、気をつけなければならない。言動を謹んで言葉による業を作ってはならず、人を傷つければ自分も傷つくのである。しかし私たちは往々にして自分の心を制御することができず、情緒に任せて言葉を使って憂さを晴らし、相手を攻撃しようとする。修行とは、常に心の中で戒律を守ることであり、戒律があれば、修行者が薪や水を担ぐように、一挙手一投足、話すこと、お茶を飲んだりご飯を食べること等々、禅でない動作はない。それを正念という。
精舎での生活に入って七年になるが、最初から「人に会ったら挨拶をする」と考え、知っている人も知らない人に関わらず、「おはよう」、「食事はすみましたか?」と声をかけて良縁を結ぶことで、全ての人にとって好い一日になるよう願ってきた。
簡単なように見える動作は実は容易ではない。これは自分に課した課題であり、自分を見つめ直して心を捉えているかどうかをチェックしている。微笑みを湛えて挨拶ができた時は、自分には何の煩悩も心配もないことを意味している。無理矢理に微笑んでついでに挨拶した状態の時は、何か問題に直面して心が傷ついており、直ぐに調整する必要があることを意味している。
上人のこう開示したことがある、「もし人と良縁を結ぶことができれば、人に影響を与えることができます。人は誰でも慈悲と善念を持っており、もし誰もが心からの敬虔な気持ちで以って、最も慎み深い身・口・意(態度と話し方と心の持ち様)を整えて日々祈願すれば、天下に災難は起きなくなるでしょう」。
いつも良い言葉を口にして良縁を結び、単純で広い心を持ち、身・口・意を四季の移り変わりの中で修行するのである。生活の中の至る所で私たちは人・事・物の修行ができるが、ただ、私たちが心して行なっているかどうかである。
(慈済月刊六四一期より)