(絵・陳九熹)
僅かな奉仕と軽んじてはいけません。一人だから、と声をあげないでいるのも良くありません。人の心に善念を啓発し、世の為に無量の福を造るのです。
十四年前、サイクロン・ナルギスはミャンマーに壊滅的な被害をもたらしました。幾つもの国と地域のボランティアが集まって、災害支援に駆けつけ、甚大な被害を被った地域の農民に稲の種を贈りました。救済、配付と共に寄り添いながら、現地ボランティアはそれを機に、愛の力で繋ぎました。慈済ボランティアのかけた情けは、いつまでもそこに残り、消えることはありません。
慈済は「竹筒歳月」から始まり、毎日五十銭を貯めて慈善を行ってきましたが、今では国際的災害支援や貧困救済、緊急支援を行っています。「竹筒歳月」の精神はミャンマーにも伝わり、日々ご飯を炊く前に一握りの米を貯める善行を行なっており、今までに一年間に延べ五万七千世帯余りがその「米貯金」に参加しています。寄付された米は集められて、三千世帯余りの貧困家庭や身寄りのない一人暮らしのお年寄り、障害のために仕事ができない人の家庭を支援しています。
人助けをする人も貧しいのですが、農作業に励めばご飯は食べられます。その人たちが集まれば、より多くの人を助けることができるのです。「米貯金」に参加している人は、日々の一握りの米は生活に影響しませんが、その一握りの力を軽く見てはいけません。一点一滴の僅かな力でもそれらを集めれば、大きな力となり、助けられる人の数も相当なものになります。量があれば、信念が生まれ、信念があれば、無量の幸福を作り出すことができるのです。
農民のウディントンさんは、慈済から贈られた種籾を蒔いた後、毎日田んぼで稲に良い言葉をかけ、農薬も化学肥料も使いませんでしたが、彼の稲穂は他の人よりも良質のものに成長しました。豊作によって生活が改善されたため、レンガ作りの家を建て、慈済の愛をこの地に根付かせよう、と自宅に近所の人たちを慈済のお茶会に招きました。そして多くの人が彼の「米貯金」という考えに賛同しました。
今年はシュエ・ナ・グウィン村の村人と慈済が一緒になって、コロナ禍で生活に影響を受けた三つの村を支援し、百世帯あまりの農民に種籾を贈りました。また、ドー・タンタン・トーさんは、慈済の話を聞いて感銘を受け、またウディントンさんを見習って、田んぼにいるスクミリンゴガイを殺さず、生存できるよう一画を区切り、「こっちはあなたたちが食べても構わないけど、他の区画に生えている苗は私たちに残しておいてね」と語り掛けました。
心に善の教えがあれば、衆生を感化することができます。敬虔な信念を持てば、自然と幸せに満たされます。この果報が田んぼ一面に影響して、彼女は稲穂が豊かに育つことを信じました。豊作になれば、生活が豊かになり、自分が食べる分ができるだけでなく、売ることもできるのです。
善の教えが隣人を助け、村から村へ伝われば、人々は愛と善念に溢れ、等しい富というものです。人間(じんかん)に幸せをもたらすことは即ち自分も果報が得られ、成すこと全てが順調になるのです。ですから、福のある人は福のある地に暮らし、福のある人が善田を耕します。善の教えを大いに広めて、人々も自分と一緒になって善行をして、幸せを積み重ねるのです。尽きない奉仕をすれば、世の中は無量の幸福が大地を覆い、国が安定して人民は平安に過ごせるのです。
幸せな人は、大きく発心して奉仕しなければなりません。現代は科学技術が発達し、スマホを起動して指一本をタッチするだけで、心も目もそこに集中すれば、世の中の多くの苦難を目にすることができます。同じように、菩薩の心願が集まって、常に人々に呼びかければ、それだけ力が増え、苦難にいる人はその分、助けを得ることができるのです。少しでも多くの善念があれば、世の中はそれだけ平安が訪れます。広く善の種子を蒔いて、愛のエネルギーを行き渡らせることこそが私のたっての願いなのです。
人は元より善性が備わっていますが、ただ習慣が違うだけなのです。例えば、優しい口調で話し、良い励ましの言葉は人を喜ばせ、感謝の気持ちをもたらします。同じように良い言葉であっても、厳しい口調であれば、まるで教戒しているように聞こえるので、人々が従うのは難しいでしょう。私たちが衆生を導く時、事柄が円満になる方法を学び、双方が喜びに浸るようにならなければなりません。
菩薩道は誰でも歩むことができます。発心しさえすれば、人々を救い、人間(じんかん)の苦難を取り除くことができるのです。自分一人だからと思って声をあげないのではなく、一人だからこそ絶えず善行するよう、人に呼びかけるのです。合い言葉で呼びかけるだけでなく、行動をもって示し、人々がそれを見て、奉仕する喜びを感じれば、一緒に投入するようになるのです。
人の力を借りて行うべき善行はとても多く、人生の価値を点検し、過去に事を成してきた分だけ、人々に感謝しなければなりません。善い考えをいつまでも心に留め、常に良言を口にし、絶えず行動して前進すれば、永遠に菩薩道を歩み続けることができます。
広い天地と人口が多い中、やりたいことはまだまだたくさんあります。ただ限られた自分の因縁を嘆き、流れゆく時間は止まってくれません。ですが、常に自分を戒め、足ることを知って、常に楽しく居るべきです。口から口へと言い伝えられ、行動で示し、協力してリレーすることで、生命の歴史が書き記されて来ました。皆さんの歴史を結集させて、現在の慈済世界が形成され、大愛を人間(じんかん)に普く広めて来たことに私は感謝しており、この生涯で感謝の言葉を言い尽くすことはできません。
私は絶えず精進するよう自分を励まし、弟子たちが私について来ることを期待しています。縁を逃さず、仏の教えの下で立ち止まってはいけません。日々の一分一秒をも大切にし、人々に善の教えを説き、慈済の行ってきたことを話してください。人心の善良を信じ、共に人間(じんかん)に福をもたらし、生命の歩みを積み重ねて人生の価値とするのです。皆様の精進を願っております。
(慈済月刊六七一期より)