見えないからこそ、より遠くが見える

私は目が見えなくなってから、認めてもらえた。今度は、自分の力でより多くの人を見ようと思う。

— 劉育琛(リュウ・ユーチェン)

朝は学生寮を出てMRT(地下鉄)に乗り、台北万華区にある社会福祉施設のデイケアセンターへ実習に向かい、夕方五時過ぎに再び台大(国立台湾大学)の学生寮に戻る。歩調は他の人ほど速くないが、確かな足取りで進むことができる。社会福祉関係の学部に籍を置く劉育琛(リュウユーチェン)さんは、大学四年の一学期(春学期に相当)からは実習のためにこのセンターに通い始め、既に一学期が過ぎた。劉さんは弱視で、片方の視力は〇・四しかないが、デイケアセンターで学んだことを実践して、お年寄りと会話したり、体を動かすように導いたり、ソーシャルワーカーに同行してケア世帯を訪問したりしている。

「台北での生活は四年近くになりますが、いつも自分でMRTに乗って、街を歩いたり、ショッピングしたりしています」。子供の頃から自由な生活を好み、視覚障害は彼の前向きな生活を妨げることはない。苗栗の田舎から出てきて、大都会で自分の道を歩んでいる。

ぼんやりとしか見えない、孤独な幼少期

遺伝的なもので、祖母から父親、彼と更に妹まで、先天性の網膜剥離という目の病気を抱えている。

「子供の頃、自分は普通の人と変わらないと思っていました。しかし、体育の授業で、分厚い眼鏡をかけ、同級生と同じようにグラウンドを走り回っても、他の人には直ぐに見えるものが、私は目を凝らして見ないと分からず、常に他の人より反応が遅かったのです」。彼は子供の頃を振り返ってこう言った。同級生が徐々に離れていき、幼いながらも彼は落ち込んで、日に日に喋らないようになった。このような辛い思いを、同様に視力障害のある父親は、よく理解してくれていた。時々、彼が学業のストレスや成績が良くなくて気が晴れないでいる時は、父親が寄り添って「私も子供の頃があったんだよ」と言った。

彼の勉強がはかどるようにと、小学校の先生が保護者会を通じて、一台の読書拡大器を見つけてきた。読書拡大器のルーペ機能により、彼の〇・〇三ほどの視力でも黒板の文字がはっきり見えるようになり、学習に対する焦りと不便が解消された。しかし、中学の時、バスケットボールコートで、ボールが彼の眼鏡に当たり、眼球が傷ついてしまった。急いで病院に行って幸いにも手術と治療を受け、左目の視力を取り戻すことができたが、右目は徐々に機能を失い、殆ど見えなくなってしまった。

たとえ視力が限られ、勉強で他の同級生よりも時間と努力を必要としても、彼は学ぶのを諦めることはなかった。僅かな視力を頼りに、黒板に近づいて文を読み取り、熱心に授業を聞いた。小学校から毎学期全学年で一位の成績を取り、中学から高校は毎学期奨学金を受け取った。クラスの同級生も、毎回奨学金を受け取って真面目に努力する彼を見て、彼の長所を見出した。こうして同級生との関係も改善していった。

2020年新芽奨学金授与式にて、劉育琛(中央)君と父親の劉秀煌さん(左から2人目)と、長年彼らに寄り添って来た呉玉彩さん(右から2人目)らボランティアチーム。(撮影・欧明達)

ハードモードには宝が詰まっている

毎回学校で学費請求書が配られると、劉さんは先ず父親の様子から察して、収入が多くない時は請求書を隠し、父親にお金がある時に支払うようにしていた。清貧な暮らしの中で一層勉学に励み、奨学金で家計を助け、父親の負担を減らそうとした。

「父は,私にストレスを与えたことは一度もありませんが、勉強することも、良い成績を取ることも、自分の責任としてしっかりやってほしいという考えの人です」。彼は、父親が成績に関してストレスを与えないことにとても感謝した。そのことが彼の自律性と自信を育むことになった。先天性視力障害と貧しい家庭環境は、彼をより向上させ、大学入試は良い成績だったので、台湾大学の社会福祉関係の学部と別の私立大学のマスメディア関係の学部に同時に合格した。「放送メディアに興味を持っていますが、公立学校の方が学費の負担が少なく、ここまで、先生や師姑師伯(ベテランボランティア)など多くの人の助けがあったことを思うと、社会福祉関係の学部を選ぶことで、皆さんと社会に恩返しをすることにしました」。彼なりに考えた結果だった。

二〇一八年、彼は理想を胸に抱いて苗栗の家を離れ、独り台北の台湾大学へ進学した。内向的であった彼は、蚕が繭を破って蝶になったように、自信に溢れ、優秀な大学生に生まれ変わった。

社会の高齢化に伴い、将来は老人介護の方面で発展したいと思っているそうだ。「私たちを気にかけてくれる玉彩(ユーツァイ)師姑(スーグ)と師伯(スーボ)は、この長い年月の間で髪の色が黒から白に変わりました。今度は私が寄り添う番なのです」。

「私たちは二〇一三年から育琛君と家族に寄り添い、彼の新芽奨学金を申請しました」。苗栗訪問ケアボランティアの呉玉彩(ウー・ユーツァイ)さんは、「育琛君はとても優秀な子供です。八年連続で学習分野の奨を受賞しました」と話した。二〇二〇年、呉さんは彼を慈済新芽奨学金の模範生徒に推薦した。

台中市新芽奨学金授与式で、大専チーム(大学と専門学校生)に属する彼は、授与者の前で、「私たちは生まれてくる環境を選ぶことはできません。私たちは皆、『ハードモード』の中で生き、異なる人生を過ごしています。だから、私たちは他の人より勇気があるのです。皆さんが成長して、ここに立ち、もっと多くの新芽奨学金授与者と全世界に向かって、これまでどれほど苦しかったか、真面目に努力しながら『ハードモード』をどのように乗り越えて来たかを伝えてください。これはあなただけの、特別で、大切な宝なのです」と話した。

深夜の街頭で寄り添う

学業成績に優れた育琛は、ボランティアにとても力を入れている。彼は色々なサークルに参加し、授業以外の時間はオンラインで、離島にある東引小中学校のリモート学習をサポートしている。大学二年の時、彼は台湾大学で「ホームレス支援サークル」(無家者服務社)を設立し、二〇一九年十二月からホームレスへの支援を始めた。「大学生にとって、彼らはとても特殊なグループであり、最も赤裸裸で、困窮している立場の弱い人たちなのです」。

彼は志をともにする同級生を募り、台北駅でホームレス支援を行い、深夜、集められた衣服や生活用品を配りながら、座って彼らと人生についての話をした。深く理解することで、彼らには人の知らない一面があることに気がついた。

二年余りの間、彼と仲間たちは何度も物資を配付し、弁当を募って「ホームレスに食事を」提供し、年末にはサイズの合う冬服を募って、ホームレスに配った。サークルはホームレスをテーマにし、彼らが人々に受け入れられるよう呼びかけた。

「ホームレス支援サークル」では広報長を担い、外部との講演関係の交渉と経費の募金などを担当している。サークルのファンページ「ホームレスに食事を」には、すでに九千人余りのフォロアーがいる。また彼は、サークルで募った愛を同級生たちと共に、自らホームレスに届けたりして、人々を繋ぐ役割を果たしている。

活動をしている時、彼らの中には以前の自分と似たような境遇の人がいることに気づいた。幼い頃、下校後家に帰っても、父親は仕事でまだ帰宅してなくて、彼はお金がないので、お腹が空いても何か買って食べることができなかったことを思い出した。あの辛い思いを彼は知っている。

台湾大学ホームレス支援サークルの設立者である劉育琛は、フェアを催して、同級生たちから寄付を募った。あらゆる物には使い道があり、人と人の間には違いはないことを人々に知ってもらいたい。(写真提供・劉育琛)

角を曲がると成長する

彼は、苦労の絶えなかった自分の人生を読み解いた。ゲームのように、「イージー、ノーマル、ハード」の三種類のモードがあり、ハードモードを選択した場合は、クリアするのが比較的難しいが、より多くの収穫が得られるのである。「私の人生は、最初からハードモードに設定されていたため、チャレンジの連続でした。最後にはもっと良い褒美が得られると信じています。順風な人生も悪くありませんが、曲がり角に遭遇すると、毎回が成長するチャンスだと思っています」。

子供の頃はいつも、「なぜ自分は他人と違うのか」と考え、「どうしてあなたはできないの」と聞かれた。この問題は彼をひどく混乱させ縛り続けた。小学五年生の時、家庭支援センターの職員は彼に、コンテストや野外活動に参加することを勧めた。彼が賞を受賞した時、同じように苦労している多くの子供を見て、自分は孤軍奮闘しているのではない上に、自分には家があるのだ、と気づいた。

「ホームレス支援をしているうちに、彼らの家という定義が、風雨を凌いで、寝るだけの場所ではないようだ、と気がつきました」。一部のホームレスは、実際帰る家はある。だが、そこに帰るとは限らない。彼らは街頭に留まることを選び、そこが家だと感じられるのだ。なぜなら、そこには彼らの友人がいて、友情で結ばれているからである。「私からすれば、学生寮は風雨を凌いで寝ることができる場所ですが、私にとっては誰かが自分の帰りを待ってくれているのが家なのです」と劉さんは言う。

自分は恵まれていると思っているそうだ。父も母も彼をとても大切にし、生活は苦しくても、一家は仲睦まじいのだから。

ソーシャルワーカーお姉さん  ボランティアお母さん

本当の自分を受け入れたことで、彼は心からより広い世界を見ることができるようになった。二〇二一年八月、彼は、「総統教育賞」を受賞した。申請する過程で、先生、同級生、家庭支援センターが資料の準備を手伝ってくれた。慈済台中支部のソーシャルワーカーが推薦状を書き、ボランティアも特別に彼の台北での面接に付き添った。愛のサポートの下、彼は受賞に輝いた。全てのサポートを彼は心に刻み、自分に恩返しができることを期待した。「総統教育賞を得たことは終着点ではなく、自分が社会のためにより多く奉仕し、より多くの弱者グループが人の目に留まって重視されてほしいと願っています」。

慈済のソーシャルワーカーとボランティアが彼の家族をケアして、既に八年になる。これまで彼が学習における困難を克服して果敢に自分の限界と難問を突破し、理想の大学に合格した姿を見守ってきた。更に彼の前向きなエネルギーが、周りに良い影響をもたらしている様子を見てきた。同じように社会福祉関係の学部を卒業した、台中支部ソーシャルワーカーの紀婉婷(ジー・ワンティン)さんは、時間があると、劉さんと互いにソーシャルサービス関連のケースや文章をシェアしたり、討論をしたりしている。彼女はお姉さんのように、同世代の目線で彼を気にかけている。

振り返れば、二〇二〇年に新型コロナ肺炎が北部で確認され、海外で感染死亡者数が急増してパニックを起こし、人々は消毒用アルコールや各種防疫用品を争って買い集めたが、劉さんは何も買えなかった。紀さんは、「育琛君がコロナ禍の厳しい都市で生活していることを思うと、安心して勉強できるように、直ぐに家にあったアルコールとアルコールシート、ビタミン剤などを大きな箱に詰め、台大の学生寮に郵送しました」と言った。

劉さんの話になると、紀さんは称賛の言葉が絶えない。「育琛君は運命も人をも恨むことなく、驕ることもありません。今の彼は、自分の専門だけでなく、他の分野のことも懸命に学び、しっかりと自分の人生に責任を持っています。同時に他の人のケアをして恩返しをしています。慈済人が慈しんで彼を育んだことで、彼の人生に豊富な『福と慧』の糧をもたらしたのだと信じます。私たちも彼から愛と善の循環を感じています」。

寄り添って来たソーシャルワーカーの秘めた思い

太陽のように温かい心

文・紀婉婷 訳・御山凛

育琛君に対して、本当に「我が家の弟が成長した」ように喜びを感じている。彼と知り合うことができて、とても嬉しく思う。私たちを受け入れ、信じてくれたことにとても感謝している。また私の人生を豊かにしてくれたのも彼だ。彼のおかげで慈済の意義を実感し、ソーシャルワーカーとしての価値を感じ、多くを学んで、成長することができた。私が落ち込んで後ろ向きになった時、彼の太陽のように温かい心と、それでいて勇敢で逞しい姿を思い出し、そのどれもが容易ではないこと、師兄や師姐の変わらない愛も簡単ではないことに気づいた。数多くの容易でないことが、一つの愛、一つの強さと縁で結ばれていたからこそ、今日まで一緒に歩んで来られたのだ。私をより前へと突き動かす力にもなっている。

経験を積む 志は人助け

今年の夏に卒業する劉さんは、順調に学部の大学院に合格した。心に描いた未来図によると、今はまず、介護の最前線であるデイケアセンターで実習することである。将来最もやりたいことは、老人介護の仕事における政策提言の研究に取り組むことである。

よりチャレンジ性のある大学院という場所で直面するストレスに対して、すでにプランを立てた。「高校生の時から時間の管理を習得して来ました。やらなければならないことを分配し、段階的に成し遂げるのです」。彼は視力が悪く、長時間本を読んでパソコンを使うことができないため、時間を区切って管理し、目に負担をかけずに、勉強の効率も上げられるようにしている。

「今の自分は八十点かな!」どうしてですか。「これでも評価が高すぎるくらいですよ…」。彼には未完成の理想があり、もっと多くのホームレスに深く関わって奉仕したいと思っているそうだ。また、この社会にももっと多く奉仕したいのだ。

「僕に伝え、信じて迷わないようにしてくれて、ありがとう。一緒に未来を見据え、明日のためにがんばろう…」。彼は大愛インターネットラジオ『心を込めて深呼吸』という番組のインタビューで、耳に心地よい澄んだ声で「ありがとう」(謝謝你)という歌を披露した。彼はこの歌で、自分の人生でこれまで面倒を見て、寄り添ってくれた先生や慈善団体、ソーシャルワーカーたちに感謝の気持ちを伝えたかったのだ。そして、最前線で活躍し、台湾の介護政策に尽力すると発願した。「私は見えなくなってから、認めてもらえました。今度は、自分の力でより多くの人を見つけようと思います!」。

(参考資料・大愛インターネットラジオ『心を込めて深呼吸』、大愛ニュースより)(慈済月刊六六四期より)

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