風に乗り波を蹴って前進する─杖一本を贈るだけで終わらない

離島の高齢化は深刻で、長期介護や福祉用具のニーズが高まっている。

ボランティアは要望に応じて高齢者に歩行補助杖を届けたが、実際に家庭訪問して初めて、生活する上で心配な点があることに気づき、高齢者たちにもっと関心を寄せなければならないことが分かった。

この十年間、観光客の増加は離島に大きな経済効果をもたらしてきたが、金門県や澎湖諸島などの離島における少子高齢化、医療資源の不足等の構造的な問題を解決するには至っていない。

離島の市街地や集落を訪ねてみると、若者の流出状況が依然として深刻で、独居老人や老夫婦が多いのに気づく。それ故、離島の慈済エコ福祉用具プラットフォーム拠点のボランティアたちは、重い任務と遠い道のりを感じている。

「最初の頃は、金門島のエコ福祉用具の需要はそれほど多くないと思っていましたが、この一年間で想像を上回りました」と、小金門地区在住のボランティア、洪松柏(ホン・ソンボ)さんが言った。昨年七月十八日からスタートして今年の十月までに、既に三百世帯余りにエコ福祉用具を届けたそうだ。平均すると三日に二世帯のペースで奉仕していることになる。

新型コロナの後遺症なのか、肺に損傷のある患者が多く、今年上半期からずっと、酸素濃縮器の供給が需要に追い付かなかった。車椅子やトイレチェア、病院用ベッド及びその他の福祉用具の需要も非常に多かった。福祉用具チームの珍しく暇な時間に、ボランティアの王仁戚(ワン・レンウェイ)さんは、「二、三日に一度行くこともあれば、一日に何カ所も回ることもあります」と大方の状況を説明した。そして、チームの主要メンバーは「歳をとっても引退しないお年寄り」ばかりで、よく物を運んで腰が痛くなっても諦めないのだ、と笑った。

「私は今年七十六歳ですが、まだまだやらなければなりません!なぜなら、住民の喜びは私の喜びですから」。

植物が人類に与えるメリットは、人々が自然から離れてしまった今、特に重視されている。「ハーブの家」は劉雨青さんが器用な手で作り上げたもので、その気さえあれば、誰でも「グリーンフィンガー」になれる。

年配者が快適であれば、若者は安心する

金門県には閩南式の古民家や東南アジア様式の洋館が多く、ボランティアチームはよく古民家が両側に並ぶ曲がりくねった路地を行き来するが、時には「迷路」に迷い込んでしまったかのように、長い時間かけてやっと訪問先にたどり着き、エコ福祉用具を届けることもある。

また、使用者から不要になったという知らせが入れば、早速回収に行く。古寧頭地区に住んでいる李さんは、病気で亡くなった九十歳の父親の葬儀を終え、少し落ち着くとボランティアに連絡し、父親が使っていた中古の医療用ベッドを慈済に返却した。

彼は以前、高齢の両親と叔父のために、三台の電動ベッドを慈済に申請したことがある。お年寄りは三人とも九十歳を超え、自力で生活できないほどの健康状態になっていたので、五十歳の李さんはきっぱり仕事を辞め、介護に専念することにした。

「私の子供たちは皆成長し、自立して生活しています。私の日常は、お年寄りたちの世話の外は、テレビを見たり、アルバイトをしたり、時間を見つけては寝ています」。他人の目には、大変な苦労が要る介護者と映り、その孝行ぶりを褒められるが、彼はいとも簡単に言ってのけた。慈済が提供した医療用ベッドで、お年寄りたちは快適に暮らすことができた。「申請してから四日ほどで届きました。仕事がとてもスピーディでした。電動ベッドを使うようになってからは、介護がとても楽になりました」と李さんが賞賛した。

金門の王清武さん(右)は、新型コロナウイルスに感染したが、人工透析をしながら緊急入院し、肺機能の回復を待った。ボランティアの陳翔景さん(左)は酸素濃縮器を届けて、使い方を教えた。(撮影・蕭耀華)

船酔いを克服し、波を蹴って進む

澎湖諸島は金門県と同様、高齢化が深刻なため、長期介護と福祉用具の需要が非常に高まっている。ただ違うのは、金門県では大金門(金門島)と小金門の間に金門大橋が建設され、福祉用具はトラックで輸送できるようになったことだ。澎湖諸島の場合は、市街地と吉貝、望安、七美などの離島間の輸送は依然として船に頼るしかない。

「冬になると、北東の季節風がいつもレベル八から十の強さになり、時にはレベル十二に達することもありますが、緊急の場合は送り届けなければなりません」。澎湖諸島に嫁いで三十年余りになるボランティアの陳沛琳(ツン・ペイリン)さんは、船に乗る話になると、今でも不安に感じる。澎湖の慈済人には、港を出るとすぐ船酔いする人が少なくないが、それでも勇気を出し、「エチケット袋」を用意して、波を蹴って前に進むのである。

今回、望安郷の花嶼に来たのは、一人暮らしの九十歳の劉蔡お婆さんに福祉用具を届けるためである。村長がニーズを聞き取った時、お婆さんは「杖一本だけで十分です」と答えたが、ボランティアは彼女が必要としているのはそれだけではないと思った。「こんなのはよくないですよ、とても硬いから」。陳さんは、劉蔡お婆さんがテーブルを組み合わせた木の板のベッドで寝ているのを見て忍びなく思い、慈済からの電動ベッドを受け入れるよう説得した。

「ベッドならあります。でもぼろぼろで、家も雨漏りがします」。お婆さんによると、その古い家は台風五号(トクスリ)の被害を受け、屋根から雨漏りが三階から二階を伝って一階の寝室まで浸透し、元々あったベッドが水浸しになったので、やむなくリビングに移動し、テーブルと椅子をベッドにしたのだそうだ。

ボランティアたちは彼女に電動ベッドだけでなく、トイレチェアも持って来た。「夜のおトイレは部屋の中でも大丈夫になりましたよ。座ってみてください」。ボランティアの許文虎(シュ・ウェンフ)さんはトイレチェアの蓋を開けて、お婆さんに座ってもらった。花嶼の古い家には殆どバス・トイレ設備がない。お年寄りたちは若い時からずっと公衆トイレや公衆浴室を使用しているのだった。ボランティアたちは、高齢のお婆さんが、夜中に公衆トイレに行く途中で転倒したり、事故に遭ったりするのが心配なのである。

夜になるとボランティアは、馬公市慈済エコ福祉用具プラットフォームの倉庫で、翌日発送する電動ベッドを清潔にしてから消毒した。

馬公から花嶼までの船は、一日に二便しかなく、ボランティアたちは、初日に午後の便で島に着くと、三十分足らずの停泊時間を利用して、「フラッシュモブ」のように訪問ケアを終えたが、その日の夕食後、翌日早朝の船で電動ベッドを運ぶことにした。

「シューッ!シューッ!」と、許さんは低圧エアスプレーガンを手に取り、ベッドフレームに付着したほこりを吹き飛ばした。出荷前夜に澎湖エコ福祉用具プラットフォームの倉庫に集合したボランティアは、出荷する予定の電動ベッドを丁寧に整理し、次亜塩素酸水で消毒した。日が昇ると、ベッドフレームとマットレスをトラックに積み込み、船着場で船に載せた。

往路の一時間は波が穏やかで、港に到着すると、島民と沿岸警備隊員に協力してもらって、電動ベッドをお婆さんの家に届けた。

「ベッドはこちらから上り下りします。これは固定したままにしておいてください。では、横になってみませんか。起きる時は、ボタンを押して角度を上げれば、腰の力を余り使わなくて済みます」と許さんが丁寧に説明した。ベッドの手すりにつかまり、杖で体を支えて上り下りする方法を教えた。ボランティアたちがお婆さんの家を整理し、電動ベッドを設置するのを見て、近所の奥さんが率直な気持ちを言葉にした。

「まあ、こんなベッドを用意してあげたなんて、あなた方は本当に助けが必要な人を助けましたね」。

その奥さんの話によると、お婆さんは波瀾万丈の人生を送ってきたそうだ。彼女には二人の息子がいるが、次男は心身障害があり、施設で暮らしている。夫と長男は既に亡くなり、長男の嫁は馬公に住んでいて、孫は他の地方で働いている。彼女は政府の補助金に頼って、一人で花嶼に暮らしているのだった。

この奥さんの話から、劉蔡お婆さんの困窮した生活が報告されたのだが、そこには隣人同士の緊密な付き合いが見て取れた。もしエコ福祉用具によって、日常生活のリスクが軽減されれば、お婆さんの晩年の生活はより保障され、安心したものになるだろう。

慈済が提供した杖をついて、長年してきたように、近所の人たちを訪ねて談笑するお婆さんの姿を見て、ボランティアたちは安心して帰途に就いた。「お気をつけて!」、「お元気で!」と皆口々に祝福した。

夜が明けると、ボランティアは電動ベッドを定期船に積み込んで離島行きの準備を整えた。輸送中に緩んで危険にならないよう、事前にベッドフレームを布で縛って固定した。

緊急時に全力を尽くす

慈済エコ福祉用具プラットフォームは、現在すでに澎湖諸島、金門県をはじめ、馬祖列島、小琉球、蘭嶼などの離島でも奉仕をしている。金門県と澎湖諸島のプラットフォームは既に稼働して一年余りになる。大部分のエコ福祉用具は、台湾本島の北部の慈済人によって、基隆港或いは台北港を経由して金門や澎湖に運ばれているが、嘉義から澎湖に運ばれるものもある。

「澎湖へのエコ福祉用具の輸送は、嘉義の布袋港からが最も早いのです。北部の師兄が、コンテナ輸送の連絡方法を教えてくれました。それで、情報と資源を連携させることができました」。海上輸送担当ボランティアの陳明周(ツン・ミンヅォウ)さんによると、去年、嘉義エコ福祉用具プラットフォームが立ち上げられた時、ボランティアたちは既に澎湖諸島を支援する任務に就いていたので、煩雑な海運業務について熟知していた。「嘉義でコンテナに積み終わっていても、強風や高波のために船が出航できず、待たなければならない時もあります」。

人力と物資が限られ、輸送が天候に左右されるので、離島でエコ福祉用具プラットフォームを運営する場合は、台湾本島よりもはるかに苦労が多い。しかし、ボランティアは村民の緊急のニーズに応えており、多くの喜びの声を得ている。

澎湖諸島のボランティア、陳沛霖(チェン・ペイリン)さんによると、島民は県政府に福祉用具を申請しても、順番待ちの人が多いため、長い間待たなければならず、場合によっては三カ月後にやっと入手できることもあるそうだ。そして、重症患者の中には、退院して在宅ホスピスケアを受けながら、福祉用具が届く前に亡くなってしまう人もいる。

「私たちは、人々のニーズに応えて速やかに愛を届けています。人生の最期を快適に過ごし、安らかに旅立ってもらえるようにと願っているからです。真っ先に私たちに機会を与えてくれたことに感謝しています」。

陳さんは、澎湖諸島のエコ福祉用具プラットフォームの運営状況について話してくれた。福祉用具は利用者が健康になったか、亡くなってから返還されたかに関わらず、利用者も家族も大いに感謝しており、中にはこれがきっかけとなってボランティアとして参加する人も少なくない、という。陳さんは付け加えて言った。

「そういう感動があるから、私たちはどんなに疲れても、やり甲斐を感じるのです」。

(慈済月刊六八五期より)

劉蔡お婆さんは試しに電動ベッドで横になり、ボランティアの許文虎さんが電動ベッドの操作方法と、ベッドの柵を掴んで上り下りする方法を教えた。

離島の高齢化は深刻で、長期介護や福祉用具のニーズが高まっている。

ボランティアは要望に応じて高齢者に歩行補助杖を届けたが、実際に家庭訪問して初めて、生活する上で心配な点があることに気づき、高齢者たちにもっと関心を寄せなければならないことが分かった。

この十年間、観光客の増加は離島に大きな経済効果をもたらしてきたが、金門県や澎湖諸島などの離島における少子高齢化、医療資源の不足等の構造的な問題を解決するには至っていない。

離島の市街地や集落を訪ねてみると、若者の流出状況が依然として深刻で、独居老人や老夫婦が多いのに気づく。それ故、離島の慈済エコ福祉用具プラットフォーム拠点のボランティアたちは、重い任務と遠い道のりを感じている。

「最初の頃は、金門島のエコ福祉用具の需要はそれほど多くないと思っていましたが、この一年間で想像を上回りました」と、小金門地区在住のボランティア、洪松柏(ホン・ソンボ)さんが言った。昨年七月十八日からスタートして今年の十月までに、既に三百世帯余りにエコ福祉用具を届けたそうだ。平均すると三日に二世帯のペースで奉仕していることになる。

新型コロナの後遺症なのか、肺に損傷のある患者が多く、今年上半期からずっと、酸素濃縮器の供給が需要に追い付かなかった。車椅子やトイレチェア、病院用ベッド及びその他の福祉用具の需要も非常に多かった。福祉用具チームの珍しく暇な時間に、ボランティアの王仁戚(ワン・レンウェイ)さんは、「二、三日に一度行くこともあれば、一日に何カ所も回ることもあります」と大方の状況を説明した。そして、チームの主要メンバーは「歳をとっても引退しないお年寄り」ばかりで、よく物を運んで腰が痛くなっても諦めないのだ、と笑った。

「私は今年七十六歳ですが、まだまだやらなければなりません!なぜなら、住民の喜びは私の喜びですから」。

植物が人類に与えるメリットは、人々が自然から離れてしまった今、特に重視されている。「ハーブの家」は劉雨青さんが器用な手で作り上げたもので、その気さえあれば、誰でも「グリーンフィンガー」になれる。

年配者が快適であれば、若者は安心する

金門県には閩南式の古民家や東南アジア様式の洋館が多く、ボランティアチームはよく古民家が両側に並ぶ曲がりくねった路地を行き来するが、時には「迷路」に迷い込んでしまったかのように、長い時間かけてやっと訪問先にたどり着き、エコ福祉用具を届けることもある。

また、使用者から不要になったという知らせが入れば、早速回収に行く。古寧頭地区に住んでいる李さんは、病気で亡くなった九十歳の父親の葬儀を終え、少し落ち着くとボランティアに連絡し、父親が使っていた中古の医療用ベッドを慈済に返却した。

彼は以前、高齢の両親と叔父のために、三台の電動ベッドを慈済に申請したことがある。お年寄りは三人とも九十歳を超え、自力で生活できないほどの健康状態になっていたので、五十歳の李さんはきっぱり仕事を辞め、介護に専念することにした。

「私の子供たちは皆成長し、自立して生活しています。私の日常は、お年寄りたちの世話の外は、テレビを見たり、アルバイトをしたり、時間を見つけては寝ています」。他人の目には、大変な苦労が要る介護者と映り、その孝行ぶりを褒められるが、彼はいとも簡単に言ってのけた。慈済が提供した医療用ベッドで、お年寄りたちは快適に暮らすことができた。「申請してから四日ほどで届きました。仕事がとてもスピーディでした。電動ベッドを使うようになってからは、介護がとても楽になりました」と李さんが賞賛した。

金門の王清武さん(右)は、新型コロナウイルスに感染したが、人工透析をしながら緊急入院し、肺機能の回復を待った。ボランティアの陳翔景さん(左)は酸素濃縮器を届けて、使い方を教えた。(撮影・蕭耀華)

船酔いを克服し、波を蹴って進む

澎湖諸島は金門県と同様、高齢化が深刻なため、長期介護と福祉用具の需要が非常に高まっている。ただ違うのは、金門県では大金門(金門島)と小金門の間に金門大橋が建設され、福祉用具はトラックで輸送できるようになったことだ。澎湖諸島の場合は、市街地と吉貝、望安、七美などの離島間の輸送は依然として船に頼るしかない。

「冬になると、北東の季節風がいつもレベル八から十の強さになり、時にはレベル十二に達することもありますが、緊急の場合は送り届けなければなりません」。澎湖諸島に嫁いで三十年余りになるボランティアの陳沛琳(ツン・ペイリン)さんは、船に乗る話になると、今でも不安に感じる。澎湖の慈済人には、港を出るとすぐ船酔いする人が少なくないが、それでも勇気を出し、「エチケット袋」を用意して、波を蹴って前に進むのである。

今回、望安郷の花嶼に来たのは、一人暮らしの九十歳の劉蔡お婆さんに福祉用具を届けるためである。村長がニーズを聞き取った時、お婆さんは「杖一本だけで十分です」と答えたが、ボランティアは彼女が必要としているのはそれだけではないと思った。「こんなのはよくないですよ、とても硬いから」。陳さんは、劉蔡お婆さんがテーブルを組み合わせた木の板のベッドで寝ているのを見て忍びなく思い、慈済からの電動ベッドを受け入れるよう説得した。

「ベッドならあります。でもぼろぼろで、家も雨漏りがします」。お婆さんによると、その古い家は台風五号(トクスリ)の被害を受け、屋根から雨漏りが三階から二階を伝って一階の寝室まで浸透し、元々あったベッドが水浸しになったので、やむなくリビングに移動し、テーブルと椅子をベッドにしたのだそうだ。

ボランティアたちは彼女に電動ベッドだけでなく、トイレチェアも持って来た。「夜のおトイレは部屋の中でも大丈夫になりましたよ。座ってみてください」。ボランティアの許文虎(シュ・ウェンフ)さんはトイレチェアの蓋を開けて、お婆さんに座ってもらった。花嶼の古い家には殆どバス・トイレ設備がない。お年寄りたちは若い時からずっと公衆トイレや公衆浴室を使用しているのだった。ボランティアたちは、高齢のお婆さんが、夜中に公衆トイレに行く途中で転倒したり、事故に遭ったりするのが心配なのである。

夜になるとボランティアは、馬公市慈済エコ福祉用具プラットフォームの倉庫で、翌日発送する電動ベッドを清潔にしてから消毒した。

馬公から花嶼までの船は、一日に二便しかなく、ボランティアたちは、初日に午後の便で島に着くと、三十分足らずの停泊時間を利用して、「フラッシュモブ」のように訪問ケアを終えたが、その日の夕食後、翌日早朝の船で電動ベッドを運ぶことにした。

「シューッ!シューッ!」と、許さんは低圧エアスプレーガンを手に取り、ベッドフレームに付着したほこりを吹き飛ばした。出荷前夜に澎湖エコ福祉用具プラットフォームの倉庫に集合したボランティアは、出荷する予定の電動ベッドを丁寧に整理し、次亜塩素酸水で消毒した。日が昇ると、ベッドフレームとマットレスをトラックに積み込み、船着場で船に載せた。

往路の一時間は波が穏やかで、港に到着すると、島民と沿岸警備隊員に協力してもらって、電動ベッドをお婆さんの家に届けた。

「ベッドはこちらから上り下りします。これは固定したままにしておいてください。では、横になってみませんか。起きる時は、ボタンを押して角度を上げれば、腰の力を余り使わなくて済みます」と許さんが丁寧に説明した。ベッドの手すりにつかまり、杖で体を支えて上り下りする方法を教えた。ボランティアたちがお婆さんの家を整理し、電動ベッドを設置するのを見て、近所の奥さんが率直な気持ちを言葉にした。

「まあ、こんなベッドを用意してあげたなんて、あなた方は本当に助けが必要な人を助けましたね」。

その奥さんの話によると、お婆さんは波瀾万丈の人生を送ってきたそうだ。彼女には二人の息子がいるが、次男は心身障害があり、施設で暮らしている。夫と長男は既に亡くなり、長男の嫁は馬公に住んでいて、孫は他の地方で働いている。彼女は政府の補助金に頼って、一人で花嶼に暮らしているのだった。

この奥さんの話から、劉蔡お婆さんの困窮した生活が報告されたのだが、そこには隣人同士の緊密な付き合いが見て取れた。もしエコ福祉用具によって、日常生活のリスクが軽減されれば、お婆さんの晩年の生活はより保障され、安心したものになるだろう。

慈済が提供した杖をついて、長年してきたように、近所の人たちを訪ねて談笑するお婆さんの姿を見て、ボランティアたちは安心して帰途に就いた。「お気をつけて!」、「お元気で!」と皆口々に祝福した。

夜が明けると、ボランティアは電動ベッドを定期船に積み込んで離島行きの準備を整えた。輸送中に緩んで危険にならないよう、事前にベッドフレームを布で縛って固定した。

緊急時に全力を尽くす

慈済エコ福祉用具プラットフォームは、現在すでに澎湖諸島、金門県をはじめ、馬祖列島、小琉球、蘭嶼などの離島でも奉仕をしている。金門県と澎湖諸島のプラットフォームは既に稼働して一年余りになる。大部分のエコ福祉用具は、台湾本島の北部の慈済人によって、基隆港或いは台北港を経由して金門や澎湖に運ばれているが、嘉義から澎湖に運ばれるものもある。

「澎湖へのエコ福祉用具の輸送は、嘉義の布袋港からが最も早いのです。北部の師兄が、コンテナ輸送の連絡方法を教えてくれました。それで、情報と資源を連携させることができました」。海上輸送担当ボランティアの陳明周(ツン・ミンヅォウ)さんによると、去年、嘉義エコ福祉用具プラットフォームが立ち上げられた時、ボランティアたちは既に澎湖諸島を支援する任務に就いていたので、煩雑な海運業務について熟知していた。「嘉義でコンテナに積み終わっていても、強風や高波のために船が出航できず、待たなければならない時もあります」。

人力と物資が限られ、輸送が天候に左右されるので、離島でエコ福祉用具プラットフォームを運営する場合は、台湾本島よりもはるかに苦労が多い。しかし、ボランティアは村民の緊急のニーズに応えており、多くの喜びの声を得ている。

澎湖諸島のボランティア、陳沛霖(チェン・ペイリン)さんによると、島民は県政府に福祉用具を申請しても、順番待ちの人が多いため、長い間待たなければならず、場合によっては三カ月後にやっと入手できることもあるそうだ。そして、重症患者の中には、退院して在宅ホスピスケアを受けながら、福祉用具が届く前に亡くなってしまう人もいる。

「私たちは、人々のニーズに応えて速やかに愛を届けています。人生の最期を快適に過ごし、安らかに旅立ってもらえるようにと願っているからです。真っ先に私たちに機会を与えてくれたことに感謝しています」。

陳さんは、澎湖諸島のエコ福祉用具プラットフォームの運営状況について話してくれた。福祉用具は利用者が健康になったか、亡くなってから返還されたかに関わらず、利用者も家族も大いに感謝しており、中にはこれがきっかけとなってボランティアとして参加する人も少なくない、という。陳さんは付け加えて言った。

「そういう感動があるから、私たちはどんなに疲れても、やり甲斐を感じるのです」。

(慈済月刊六八五期より)

劉蔡お婆さんは試しに電動ベッドで横になり、ボランティアの許文虎さんが電動ベッドの操作方法と、ベッドの柵を掴んで上り下りする方法を教えた。

關鍵字

山に分け入り海を渡る

慈済ボランティアは雨の中、澎湖花嶼の狭い路地を進み、百キロを超える電動ベッドを必要としている家庭に届けた。

重さ百キロの電動ベッド、または持てば直ぐ歩ける多点杖など、慈済ボランティアは、多種多様な福祉用具をリサイクルし、洗浄、消毒、点検、修理してから届けている。

長年都市圏で奉仕しているので、仕事には慣れているが、数百件の福祉用具を離島や山奥に届けるのは、また別な意味でヘビー級の挑戦である。

「立ち型車椅子があれば、彼は自分で立ち上がりたい時は、ゆっくり立ち上がり、座りたい時はゆっくり座ることができ、人に介護してもらう必要はなくなります」。陳恵仙(チェン・フェイシェン)さんは、介護サービス事業所に勤めていて、高齢者の心身の活動を促進し、要介護になるのを遅らせる手伝いをしている。しかし、帰宅しても同様な仕事をしているそうだ。というのは、八十八歳という高齢の父親が五年前からパーキンソン病を患い、今では病状が進行して、立つことも座った姿勢を保つこともできなくなったからだ。

高齢者のベッドの上り下りや手洗い、食事はどれも介護が必要で、外国籍ヘルパーは一日に数十回彼を移動させて腰を悪くしたため、離職せざるを得なくなった。陳さんと介護士をしている姉は、順番に弟の家に行って、弟と一緒に父親の介護と年配の母親の世話をしている。

陳さんは、慈済のエコ福祉用具プラットフォームを通じて、電動ベッドと電動立ち型車椅子等の福祉用具を申請した。彼女は毎日、父親を立ち型車椅子に移し、胸と腰、足をベルトでしっかり固定してからコントローラーを渡し、自分で立ち上がったり、座ったりさせている。本人に適した福祉用具が手に入ったことで、父親は心身ともに好転し、一家の生活の質も改善した。

「初めは、政府の介護サービスも福祉用具を取り扱っているのに、どうして慈済が人手を掛けてやっているのか、と思いました。しかし、ここ数年、社会全体でこのようなニーズが本当に高まっていることが分かりました!」。

洪淑英(ホン・スゥイン)さんは、ご主人が退院して自宅で最期の療養をする前に、慈済に福祉用具を申請した。慈済人は医療用電動ベッドと車椅子、入浴用椅子等を用意した。洪さんがやることはドアを開けるだけでよく、ボランティアはそれらを室内に運び入れて設置した。

今年五月、旦那さんは病気が重くなってこの世を去った。彼女は一度、どうやってエコ福祉用具を慈済に返したらいいのだろうか、と心配した。ボランティアは、先ず旦那さんの葬儀を済ませてから、福祉用具を処理するように言った。その過程で、彼女は何もすることがなかった。「私は同じようにドアを開けただけでした。ボランティアの皆さんが来られて運んでくれました」。辛くても、多くのケアをもらったその過程を振り返ると、「私が受け取ったのは皆さんの奉仕でした。彼らは大きなチームで、それは無私の愛で、感動以外の何ものでもありません」と感謝した。

台湾では、へき地の多くで青壮年が大量に流出して高齢者の割合が比較的高くなり、車椅子での移動に頼ることが多い。それは現地の介護労力と福祉用具の切実なニーズを反映している。

慈善アクションで社会のニーズに応える

行政院国家発展委員会の推定統計によれば、台湾は二〇二五年に超高齢化社会に突入する。つまり六十五歳以上の高齢者の割合が二十%以上になるのである。しかし、年を取ることは、より良く年を取ることと同じではない。今の国民の平均寿命は既に八十歳前後だが、平均的な「不健康余命」は七年から八年に達している。言い換えれば、高い割合の高齢者が、要介護や寝たきりの状態で、最期の七、八年を過ごしているのである。

数百万人の高齢者や傷病による障害を負った人の介護ニーズに対応するために、政府が長期介護システムを構築するだけでなく、地方自治体でも福祉用具リソースセンターを設立した。現行の規定によれば、長期介護の資格に合致した人や身障者証明を有していて労働災害に遭った人は全て、政府に補助を申請し、新品の福祉用具を購入することができる。短期療養で一時的に必要とする人は、自治体の福祉用具リソースセンターから借りるか、無償で中古の福祉用具を受け取ることができる。

台湾の福祉用具リソースセンターの多くは、地方自治体が設立し、監視、管理の下に、民間の財団法人に運営を委託している。政府直営や公的な施設を民間が運営している福祉用具センター以外に、慈善を主体にエコを重視する慈済基金会があり、人口の老化に対応して、二〇一七年に「エコ福祉用具プラットフォーム」を設立し、ボランティアが回収した中古の福祉用具を洗浄、消毒、修理した後、貧困者と病人、立場の弱い人を優先して無償で提供している。

この時代に即した展開をしている慈善行動は、最も早いもので、一九九〇年に始まった慈済の環境保全志業に遡ることができる。ボランティアが證厳法師の「拍手する手でリサイクル活動をしましょう」と呼びかけたのに応えたもので、紙類、ペットボトル等の資源を回収して再利用した。しかし、中古の車椅子や医療用ベッド、歩行器等の福祉用具の多くは、使用者が亡くなったか、或いは回復して必要がなくなったかで、慈済のリサイクルステーションに持ち込まれた物だ。

当初、慈済ボランティアも福祉用具を一般回収物とみなし、状態が悪い物は分解し、使える物はきれいにしてから、七、八割新品に近い古着の例に倣って、「惜福(物を大切にする)」エリアに並べ、縁のある人が引き取りに来るのを待ったり、それらを必要としている慈済のケア世帯に贈ったりしていた。

その後、数人の電気修理ができるボランティアが、検査、修理を始め、それらを必要としているという口コミが寄せられた時に、届けるようになった。二〇一二年から、通信ソフトウェアが普及し、直ぐに参加意志があるボランティアたちが繋がって、互いに交流しながら、メンテナンス方法や洗浄テクニックを学ぶようになった。チームができたことで、ボランティアたちは街の至る所に出向くようになり、エレベーターのない古いアパートでも、より効率的エコに福祉用具を必要としている家に届けるようになった。

台湾で高齢化が進むにつれ、ボランティアは、定期的に慈善訪問をする中で対象者の福祉用具に対するニーズが益々高くなっていることを知り、適切に消毒し、修理した中古の福祉用具がその不足分を満たせることに気づいた。二〇一七年から、慈済エコ福祉用具プラットフォームが各地に続々と設立され、現地ボランティアが奮って参加するようになった。

高雄岡山志業パークでボランティアの曽堯山(ヅン・イャオサン)さんはトイレ椅子を修理していた。リサイクルして物を大切にする原則に基づき、時には一本のレンチ、数個のネジを使った技で、福祉用具の命を生まれ変わらせることができる。

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物を届けるのではなく、祝福を家に届ける

仮に送り届けた福祉用具を金額に換算したら、この数年で既に民衆は四億元(約十六億円)以上を節約したことになるが、それには慈済ボランティアの無償の奉仕コストは含まれていない。慈済基金会慈善志業発展処の呂芳川(リュ・フォンツヮァン)主任は、「エコと福祉用具とは、一つは大地の守護で、一つは人のケアです。エコ福祉用具は資源の回収になるだけでなく、物の寿命を延ばし、更に善の効能を発揮し、苦しんでいる人の声を聞いて、手を差し伸べているのです」と説明した。

福祉用具を素早く届けるために、ボランティアは臨機応変に、どんな問題にも対応できるようにしている。アパートの階段が狭くて、医療用ベッドの搬入が難しい時、それを分解し、百キロ以上もあるベッドフレームを幾つかの数十キロのユニットにして運びやすくし、到着してから再び組み立てるのである。そのため、ボランティアは運送の過程で、自身たちの安全にも注意し、アクシデントの発生を避ける必要がある。

四十数年間左官職人として働いてきた林金城(リン・ジンツン)さんは、最初、福祉用具は車椅子とトイレチェアの二つだけだと思っていた。去年、定年退職した後、新北市土城の福祉用具チームに加わって初めて電動ベッドと歩行器もあり、車椅子にも異なる規格があることを知り、今では二時間足らずで一台の車椅子を組み立てることができるようになった。彼は既に五百台以上の車椅子を修理し、百キロを超える医療用ベッドの運搬にも何度も参加した。二十三年間のボランティア生活の中で、リサイクル活動や訪問ケア活動等に参加してきた林さんは、「エコ福祉用具は最も大変な仕事です!しかし、私は全力で打ち込んでいます。なぜなら、多くの人が必要としていますし、最も直接的に人を助けることができると言えるので、後へは引けません」と率直に言った。

林さんによると、台湾全土で福祉用具が最も多いのはやはり大台北地区で、ボランティアが回収した福祉用具は主に慈済リサイクルステーションや病院、老人ホームから来ており、仮に病院などの設備更新の時期に運よく遭遇すると、古い医療用ベッドや車椅子等の物資が慈済に寄付され、最低一度に二台から三台のトラックで運ばなければならないそうだ。

「持ち帰った物は選別してから、できる限り長く使うという原則の下に、状態が悪いものは解体して部品の備品にし、使えるものは残しておき、メンテナンスが終わってから配送します。屏東や嘉義、更には離島の澎湖諸島や金門県にまで送り届けます」と林さんが補足した。

95歳での初心運転者

一人の高齢者が慈済ボランティアの提供した電動カートを運転して、自宅付近を自在に行き来していた。交通安全の確保するため、介護スタッフは特別に彼女の椅子の後ろに注意の標識を付けた。(撮影・蕭耀華)

今年四月、慈済環境保全志業は正式にイギリスの社会的価値(Social value UK)という組織の「社会的投資収益率」(SROI)の認証を取得した。エコ福祉用具プラットフォームは、一元を投じれば、81・18倍の効率を生み出すことができる。言い換えれば、慈済ボランティアがエコ福祉用具プラットフォームで使っているあらゆる労力は、社会で80倍以上の効率をもたらしているのである。これらポジティブな影響によって、それを必要としている人の経済的負担が軽減され、生活の質が改善されて、身心の安全感が向上していることが分かる。

エコ福祉用具プラットフォームは、病気で苦しんでいる人に適切な福祉用具の取得を手助けするだけでなく、福祉用具の資源を持続的に循環再利用させており、国連十七箇条の持続可能な発展目標の中のSDG3「すべての人に健康と福祉」を着実に実践している。エコ福祉用具プラットフォームは、慈済基金会が今年度第三回「TSAA台湾サステイナビリティアクションアワード」で獲得した三項目の金賞の内の一つである。

エコ福祉用具プラットフォームは、良縁を結び、幸福を呼ぶ。慈済人は送り出す福祉用具を品物ではなく、真心を込めた祝福とみなし、恩恵を受けた使用者も一緒に他人に恩恵を施し、大地を護る人になってほしいと願っている。

(慈済月刊六八五期より)

澎湖諸島のボランティアは、離島の花嶼に住んでいる一人暮らしの高齢者にトイレチェアを届けた。ここでは海運が主体だが、ボランティアは万難を排して自ら視察訪問し、ニーズをアセスメントしてから再び訪れ、必要なものを届けるのである。

慈済ボランティアは雨の中、澎湖花嶼の狭い路地を進み、百キロを超える電動ベッドを必要としている家庭に届けた。

重さ百キロの電動ベッド、または持てば直ぐ歩ける多点杖など、慈済ボランティアは、多種多様な福祉用具をリサイクルし、洗浄、消毒、点検、修理してから届けている。

長年都市圏で奉仕しているので、仕事には慣れているが、数百件の福祉用具を離島や山奥に届けるのは、また別な意味でヘビー級の挑戦である。

「立ち型車椅子があれば、彼は自分で立ち上がりたい時は、ゆっくり立ち上がり、座りたい時はゆっくり座ることができ、人に介護してもらう必要はなくなります」。陳恵仙(チェン・フェイシェン)さんは、介護サービス事業所に勤めていて、高齢者の心身の活動を促進し、要介護になるのを遅らせる手伝いをしている。しかし、帰宅しても同様な仕事をしているそうだ。というのは、八十八歳という高齢の父親が五年前からパーキンソン病を患い、今では病状が進行して、立つことも座った姿勢を保つこともできなくなったからだ。

高齢者のベッドの上り下りや手洗い、食事はどれも介護が必要で、外国籍ヘルパーは一日に数十回彼を移動させて腰を悪くしたため、離職せざるを得なくなった。陳さんと介護士をしている姉は、順番に弟の家に行って、弟と一緒に父親の介護と年配の母親の世話をしている。

陳さんは、慈済のエコ福祉用具プラットフォームを通じて、電動ベッドと電動立ち型車椅子等の福祉用具を申請した。彼女は毎日、父親を立ち型車椅子に移し、胸と腰、足をベルトでしっかり固定してからコントローラーを渡し、自分で立ち上がったり、座ったりさせている。本人に適した福祉用具が手に入ったことで、父親は心身ともに好転し、一家の生活の質も改善した。

「初めは、政府の介護サービスも福祉用具を取り扱っているのに、どうして慈済が人手を掛けてやっているのか、と思いました。しかし、ここ数年、社会全体でこのようなニーズが本当に高まっていることが分かりました!」。

洪淑英(ホン・スゥイン)さんは、ご主人が退院して自宅で最期の療養をする前に、慈済に福祉用具を申請した。慈済人は医療用電動ベッドと車椅子、入浴用椅子等を用意した。洪さんがやることはドアを開けるだけでよく、ボランティアはそれらを室内に運び入れて設置した。

今年五月、旦那さんは病気が重くなってこの世を去った。彼女は一度、どうやってエコ福祉用具を慈済に返したらいいのだろうか、と心配した。ボランティアは、先ず旦那さんの葬儀を済ませてから、福祉用具を処理するように言った。その過程で、彼女は何もすることがなかった。「私は同じようにドアを開けただけでした。ボランティアの皆さんが来られて運んでくれました」。辛くても、多くのケアをもらったその過程を振り返ると、「私が受け取ったのは皆さんの奉仕でした。彼らは大きなチームで、それは無私の愛で、感動以外の何ものでもありません」と感謝した。

台湾では、へき地の多くで青壮年が大量に流出して高齢者の割合が比較的高くなり、車椅子での移動に頼ることが多い。それは現地の介護労力と福祉用具の切実なニーズを反映している。

慈善アクションで社会のニーズに応える

行政院国家発展委員会の推定統計によれば、台湾は二〇二五年に超高齢化社会に突入する。つまり六十五歳以上の高齢者の割合が二十%以上になるのである。しかし、年を取ることは、より良く年を取ることと同じではない。今の国民の平均寿命は既に八十歳前後だが、平均的な「不健康余命」は七年から八年に達している。言い換えれば、高い割合の高齢者が、要介護や寝たきりの状態で、最期の七、八年を過ごしているのである。

数百万人の高齢者や傷病による障害を負った人の介護ニーズに対応するために、政府が長期介護システムを構築するだけでなく、地方自治体でも福祉用具リソースセンターを設立した。現行の規定によれば、長期介護の資格に合致した人や身障者証明を有していて労働災害に遭った人は全て、政府に補助を申請し、新品の福祉用具を購入することができる。短期療養で一時的に必要とする人は、自治体の福祉用具リソースセンターから借りるか、無償で中古の福祉用具を受け取ることができる。

台湾の福祉用具リソースセンターの多くは、地方自治体が設立し、監視、管理の下に、民間の財団法人に運営を委託している。政府直営や公的な施設を民間が運営している福祉用具センター以外に、慈善を主体にエコを重視する慈済基金会があり、人口の老化に対応して、二〇一七年に「エコ福祉用具プラットフォーム」を設立し、ボランティアが回収した中古の福祉用具を洗浄、消毒、修理した後、貧困者と病人、立場の弱い人を優先して無償で提供している。

この時代に即した展開をしている慈善行動は、最も早いもので、一九九〇年に始まった慈済の環境保全志業に遡ることができる。ボランティアが證厳法師の「拍手する手でリサイクル活動をしましょう」と呼びかけたのに応えたもので、紙類、ペットボトル等の資源を回収して再利用した。しかし、中古の車椅子や医療用ベッド、歩行器等の福祉用具の多くは、使用者が亡くなったか、或いは回復して必要がなくなったかで、慈済のリサイクルステーションに持ち込まれた物だ。

当初、慈済ボランティアも福祉用具を一般回収物とみなし、状態が悪い物は分解し、使える物はきれいにしてから、七、八割新品に近い古着の例に倣って、「惜福(物を大切にする)」エリアに並べ、縁のある人が引き取りに来るのを待ったり、それらを必要としている慈済のケア世帯に贈ったりしていた。

その後、数人の電気修理ができるボランティアが、検査、修理を始め、それらを必要としているという口コミが寄せられた時に、届けるようになった。二〇一二年から、通信ソフトウェアが普及し、直ぐに参加意志があるボランティアたちが繋がって、互いに交流しながら、メンテナンス方法や洗浄テクニックを学ぶようになった。チームができたことで、ボランティアたちは街の至る所に出向くようになり、エレベーターのない古いアパートでも、より効率的エコに福祉用具を必要としている家に届けるようになった。

台湾で高齢化が進むにつれ、ボランティアは、定期的に慈善訪問をする中で対象者の福祉用具に対するニーズが益々高くなっていることを知り、適切に消毒し、修理した中古の福祉用具がその不足分を満たせることに気づいた。二〇一七年から、慈済エコ福祉用具プラットフォームが各地に続々と設立され、現地ボランティアが奮って参加するようになった。

高雄岡山志業パークでボランティアの曽堯山(ヅン・イャオサン)さんはトイレ椅子を修理していた。リサイクルして物を大切にする原則に基づき、時には一本のレンチ、数個のネジを使った技で、福祉用具の命を生まれ変わらせることができる。

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物を届けるのではなく、祝福を家に届ける

仮に送り届けた福祉用具を金額に換算したら、この数年で既に民衆は四億元(約十六億円)以上を節約したことになるが、それには慈済ボランティアの無償の奉仕コストは含まれていない。慈済基金会慈善志業発展処の呂芳川(リュ・フォンツヮァン)主任は、「エコと福祉用具とは、一つは大地の守護で、一つは人のケアです。エコ福祉用具は資源の回収になるだけでなく、物の寿命を延ばし、更に善の効能を発揮し、苦しんでいる人の声を聞いて、手を差し伸べているのです」と説明した。

福祉用具を素早く届けるために、ボランティアは臨機応変に、どんな問題にも対応できるようにしている。アパートの階段が狭くて、医療用ベッドの搬入が難しい時、それを分解し、百キロ以上もあるベッドフレームを幾つかの数十キロのユニットにして運びやすくし、到着してから再び組み立てるのである。そのため、ボランティアは運送の過程で、自身たちの安全にも注意し、アクシデントの発生を避ける必要がある。

四十数年間左官職人として働いてきた林金城(リン・ジンツン)さんは、最初、福祉用具は車椅子とトイレチェアの二つだけだと思っていた。去年、定年退職した後、新北市土城の福祉用具チームに加わって初めて電動ベッドと歩行器もあり、車椅子にも異なる規格があることを知り、今では二時間足らずで一台の車椅子を組み立てることができるようになった。彼は既に五百台以上の車椅子を修理し、百キロを超える医療用ベッドの運搬にも何度も参加した。二十三年間のボランティア生活の中で、リサイクル活動や訪問ケア活動等に参加してきた林さんは、「エコ福祉用具は最も大変な仕事です!しかし、私は全力で打ち込んでいます。なぜなら、多くの人が必要としていますし、最も直接的に人を助けることができると言えるので、後へは引けません」と率直に言った。

林さんによると、台湾全土で福祉用具が最も多いのはやはり大台北地区で、ボランティアが回収した福祉用具は主に慈済リサイクルステーションや病院、老人ホームから来ており、仮に病院などの設備更新の時期に運よく遭遇すると、古い医療用ベッドや車椅子等の物資が慈済に寄付され、最低一度に二台から三台のトラックで運ばなければならないそうだ。

「持ち帰った物は選別してから、できる限り長く使うという原則の下に、状態が悪いものは解体して部品の備品にし、使えるものは残しておき、メンテナンスが終わってから配送します。屏東や嘉義、更には離島の澎湖諸島や金門県にまで送り届けます」と林さんが補足した。

95歳での初心運転者

一人の高齢者が慈済ボランティアの提供した電動カートを運転して、自宅付近を自在に行き来していた。交通安全の確保するため、介護スタッフは特別に彼女の椅子の後ろに注意の標識を付けた。(撮影・蕭耀華)

今年四月、慈済環境保全志業は正式にイギリスの社会的価値(Social value UK)という組織の「社会的投資収益率」(SROI)の認証を取得した。エコ福祉用具プラットフォームは、一元を投じれば、81・18倍の効率を生み出すことができる。言い換えれば、慈済ボランティアがエコ福祉用具プラットフォームで使っているあらゆる労力は、社会で80倍以上の効率をもたらしているのである。これらポジティブな影響によって、それを必要としている人の経済的負担が軽減され、生活の質が改善されて、身心の安全感が向上していることが分かる。

エコ福祉用具プラットフォームは、病気で苦しんでいる人に適切な福祉用具の取得を手助けするだけでなく、福祉用具の資源を持続的に循環再利用させており、国連十七箇条の持続可能な発展目標の中のSDG3「すべての人に健康と福祉」を着実に実践している。エコ福祉用具プラットフォームは、慈済基金会が今年度第三回「TSAA台湾サステイナビリティアクションアワード」で獲得した三項目の金賞の内の一つである。

エコ福祉用具プラットフォームは、良縁を結び、幸福を呼ぶ。慈済人は送り出す福祉用具を品物ではなく、真心を込めた祝福とみなし、恩恵を受けた使用者も一緒に他人に恩恵を施し、大地を護る人になってほしいと願っている。

(慈済月刊六八五期より)

澎湖諸島のボランティアは、離島の花嶼に住んでいる一人暮らしの高齢者にトイレチェアを届けた。ここでは海運が主体だが、ボランティアは万難を排して自ら視察訪問し、ニーズをアセスメントしてから再び訪れ、必要なものを届けるのである。

關鍵字

能登半島地震 断水しても続ける炊き出し

日本
能登半島地震 断水しても続ける炊き出し

二○二四年元日の午後、日本の石川県能登半島でマグニチュード七・六の強い地震が発生し、三万棟の家屋の損壊、死者二百三十余人、負傷者千人余りの被害が出た。被災後、住民が最も困っているのは断水で、生活にとても大きな影響をもたらしている。慈済が重点的に支援している穴水町を例にとると、水道管の破損箇所を確認して修理するには、少なくとも一カ月を要する、と吉村光輝町長が説明した。

慈済は一月十三日から穴水総合病院と避難所になっているさわやか交流会館プルートで、住民と医療スタッフ、事務員及び各地から支援に来た人たちに昼食の炊き出しを行った。ボランティアは比較的被害が軽かった中能登町に宿泊しているが、水と食料を持参して、毎日穴水町と往復した。根菜入りの味噌汁、麻婆豆腐、中華丼、すき焼き丼などだが、このようなごく普通の料理も、雪が降る寒い中では、行列ができるほど大人気になるのだ。

(慈済月刊六八七期より)

日本
能登半島地震 断水しても続ける炊き出し

二○二四年元日の午後、日本の石川県能登半島でマグニチュード七・六の強い地震が発生し、三万棟の家屋の損壊、死者二百三十余人、負傷者千人余りの被害が出た。被災後、住民が最も困っているのは断水で、生活にとても大きな影響をもたらしている。慈済が重点的に支援している穴水町を例にとると、水道管の破損箇所を確認して修理するには、少なくとも一カ月を要する、と吉村光輝町長が説明した。

慈済は一月十三日から穴水総合病院と避難所になっているさわやか交流会館プルートで、住民と医療スタッフ、事務員及び各地から支援に来た人たちに昼食の炊き出しを行った。ボランティアは比較的被害が軽かった中能登町に宿泊しているが、水と食料を持参して、毎日穴水町と往復した。根菜入りの味噌汁、麻婆豆腐、中華丼、すき焼き丼などだが、このようなごく普通の料理も、雪が降る寒い中では、行列ができるほど大人気になるのだ。

(慈済月刊六八七期より)

關鍵字

職場のマナー、新人は準備ができている!

問:

新入社員の職場マナ―が欠けているのは教育の失敗だと言う人がいます。基本的なモラルやマナーは、家庭と学校のどちらで育むべきでしょうか。

答:最初に夫に嫁ごうと決心した時のキーポイントは、「彼の両親は仲が良く、愛し合っていて、互いに冗談を言い合う」ことでした。このような家庭教育の中で育った人ならば、子供は絶対に暴力的になることはなく、妻を可愛がるはずだと信じたのです。

結婚した後、主人は私を娘のように可愛がり、一度も怒鳴ったことはありません。二人の子供は知らず知らずのうちに、節度のある話し方をして、人を尊重し、思いやりのある人間になっています。

家とは、人が社会に踏み出す土台です。家族だけは唯一自分で選択できず、人生で最も長く寄り添う集団です。従って家庭教育は非常に重要なのです。

職場のマナーに欠ける新入社員を見ると、家庭教育から切り離して考えることはできません。職場のマナ―は倫理教育の延長の一環であり、倫理教育にある互いを尊重して思いやる気持ちは、家庭教育が拠り所になります。家庭教育の定義では、親の役割、子供の役割、性別、婚姻、片親、倫理、多元文化などの部類に分けられますが、いくら私たちの理論が透徹していて、はっきり書いてあっても、しっかり実践しなければ、ただのスロ―ガンにすぎません。

家庭教育だけでは不十分で、学校教育でそれを補う必需があります。両者はどのような方向で実践すれば、学校を卒業して職場に入る新入社員として、立居振舞では礼儀をわきまえ、身心共に健康でいられるのでしょうか。

家庭教育は人格形成の最前線

家は社会の中の最小単位で、家族のメンバ―は全て互いに交流して学び合っています。歌手のクリスティン・ファン(范瑋琪)さんの歌、「最も重要な決定」の次のような歌詞に、私の心は強く打たれました。「幸福に近道はない、運営するしかない」。生まれつき親になれる人はいませんし、相手もいないうちに、生まれつき結婚とは何かを知っている人も、生まれつき親とコミュニケ―ションが取れる子供もいません。家庭とは少しずつ運営していく必要があるものなのです。

親の仲が良く、円満な結婚生活をするのが最高の家庭教育であり、子供が幸せを学ぶ鍵でもあるのです。

ある友人の両親は結緍して四十数年で、意見はよく合わなくても、大きな喧嘩をしたことはありません。というのは、彼の両親には取り決めがありました。一方が大声を出したら、もう一方は静かに話を聞くのです。そうすれば、大声を出し終えた後、風船に針を刺したように、空気が完全に抜けてしまうのです。今、友人もそういう方法で妻と生活し、彼らの模範的な行動が、子供に伝わっています。

そのような結婚生活のパタ―ンは子供に、将来、配偶者と生活していく方法を教え、「感謝し、尊重し、愛すること」ができる子供になるように、親としての役割がスムーズに果たせるので、子供は家庭で完全な愛とケアをもらい、情緒を穏やかに維持できるのです。そして、安定した情緒は、人間関係において非常に重要な要素となります。

学校敎育は基本知識を教える

私は、中学校の家庭科で様々な裁縫を学んだことで、親の衣服のほころびを縫うことができるようになったので、今では主人や子供の服にボタンを縫い付けたり、袖口のほころびを縫ったりしています。そして、生物の授業では葉脈を学んだので、旅行する時には花や木の名前が分かり、生活に彩りを添えています。体育の授業では、個人の能力よりも団結力について学んだことに価値がありました。美術の授業では、饅頭を消しゴム替りに、描き損じた木炭を使ったデッサンを修正する技を身につけました。大部分の饅頭は食いしん坊の口に入りましたが、その過程は深い印象を与えてくれました。先生はいつも、「どうぞ、ありがとうございます、すみません」を忘れないように、と念を押してくれたので、私は良好な人間関係を築くことができました。

このコ―スをよく見ると、「教育は即ち生活」という理念に基づいていることが分かります。五育である徳、智、体、群、美を並行して行う学校教育を家庭教育で達成させるのは難しいのです。学校教育がしっかり実践されていれば、健全な人格形成された国民に育てることができ、家庭教育を補うことができるのです。

理想的な教育とは、子供が自分の個性を伸ばし、人を尊重すると共に称賛するようになることです。それには家庭教育と学校教育を並行させなければなりません。なぜなら、学生は最終的に学校という快適な環境から出て、社会に入らなければならないからです。ですから、知識を学ぶ以外に、学校で社会規範と人間関係の処し方を学ぶべきです。

子供は将来、より速く変化する環境に向き合うのですから、親や教師が一面の肥沃な土地を提供できるかどうか、子供が「感謝し、尊重し、愛する心」、「善意に解釈して寛容になる」広い心を持てるように最良の環境を用意できるか否かには、一生を左右するほどの責任がかかっています。次々と新人が入って来る社会は、私たちの未来でもあるのですから。

(慈済月刊六八〇期より)

問:

新入社員の職場マナ―が欠けているのは教育の失敗だと言う人がいます。基本的なモラルやマナーは、家庭と学校のどちらで育むべきでしょうか。

答:最初に夫に嫁ごうと決心した時のキーポイントは、「彼の両親は仲が良く、愛し合っていて、互いに冗談を言い合う」ことでした。このような家庭教育の中で育った人ならば、子供は絶対に暴力的になることはなく、妻を可愛がるはずだと信じたのです。

結婚した後、主人は私を娘のように可愛がり、一度も怒鳴ったことはありません。二人の子供は知らず知らずのうちに、節度のある話し方をして、人を尊重し、思いやりのある人間になっています。

家とは、人が社会に踏み出す土台です。家族だけは唯一自分で選択できず、人生で最も長く寄り添う集団です。従って家庭教育は非常に重要なのです。

職場のマナーに欠ける新入社員を見ると、家庭教育から切り離して考えることはできません。職場のマナ―は倫理教育の延長の一環であり、倫理教育にある互いを尊重して思いやる気持ちは、家庭教育が拠り所になります。家庭教育の定義では、親の役割、子供の役割、性別、婚姻、片親、倫理、多元文化などの部類に分けられますが、いくら私たちの理論が透徹していて、はっきり書いてあっても、しっかり実践しなければ、ただのスロ―ガンにすぎません。

家庭教育だけでは不十分で、学校教育でそれを補う必需があります。両者はどのような方向で実践すれば、学校を卒業して職場に入る新入社員として、立居振舞では礼儀をわきまえ、身心共に健康でいられるのでしょうか。

家庭教育は人格形成の最前線

家は社会の中の最小単位で、家族のメンバ―は全て互いに交流して学び合っています。歌手のクリスティン・ファン(范瑋琪)さんの歌、「最も重要な決定」の次のような歌詞に、私の心は強く打たれました。「幸福に近道はない、運営するしかない」。生まれつき親になれる人はいませんし、相手もいないうちに、生まれつき結婚とは何かを知っている人も、生まれつき親とコミュニケ―ションが取れる子供もいません。家庭とは少しずつ運営していく必要があるものなのです。

親の仲が良く、円満な結婚生活をするのが最高の家庭教育であり、子供が幸せを学ぶ鍵でもあるのです。

ある友人の両親は結緍して四十数年で、意見はよく合わなくても、大きな喧嘩をしたことはありません。というのは、彼の両親には取り決めがありました。一方が大声を出したら、もう一方は静かに話を聞くのです。そうすれば、大声を出し終えた後、風船に針を刺したように、空気が完全に抜けてしまうのです。今、友人もそういう方法で妻と生活し、彼らの模範的な行動が、子供に伝わっています。

そのような結婚生活のパタ―ンは子供に、将来、配偶者と生活していく方法を教え、「感謝し、尊重し、愛すること」ができる子供になるように、親としての役割がスムーズに果たせるので、子供は家庭で完全な愛とケアをもらい、情緒を穏やかに維持できるのです。そして、安定した情緒は、人間関係において非常に重要な要素となります。

学校敎育は基本知識を教える

私は、中学校の家庭科で様々な裁縫を学んだことで、親の衣服のほころびを縫うことができるようになったので、今では主人や子供の服にボタンを縫い付けたり、袖口のほころびを縫ったりしています。そして、生物の授業では葉脈を学んだので、旅行する時には花や木の名前が分かり、生活に彩りを添えています。体育の授業では、個人の能力よりも団結力について学んだことに価値がありました。美術の授業では、饅頭を消しゴム替りに、描き損じた木炭を使ったデッサンを修正する技を身につけました。大部分の饅頭は食いしん坊の口に入りましたが、その過程は深い印象を与えてくれました。先生はいつも、「どうぞ、ありがとうございます、すみません」を忘れないように、と念を押してくれたので、私は良好な人間関係を築くことができました。

このコ―スをよく見ると、「教育は即ち生活」という理念に基づいていることが分かります。五育である徳、智、体、群、美を並行して行う学校教育を家庭教育で達成させるのは難しいのです。学校教育がしっかり実践されていれば、健全な人格形成された国民に育てることができ、家庭教育を補うことができるのです。

理想的な教育とは、子供が自分の個性を伸ばし、人を尊重すると共に称賛するようになることです。それには家庭教育と学校教育を並行させなければなりません。なぜなら、学生は最終的に学校という快適な環境から出て、社会に入らなければならないからです。ですから、知識を学ぶ以外に、学校で社会規範と人間関係の処し方を学ぶべきです。

子供は将来、より速く変化する環境に向き合うのですから、親や教師が一面の肥沃な土地を提供できるかどうか、子供が「感謝し、尊重し、愛する心」、「善意に解釈して寛容になる」広い心を持てるように最良の環境を用意できるか否かには、一生を左右するほどの責任がかかっています。次々と新人が入って来る社会は、私たちの未来でもあるのですから。

(慈済月刊六八〇期より)

關鍵字

竹筒歳月の教えは愛の心の教育

(絵・陳九熹)

もしも慈済の成就を支えた源を探るなら、それは「竹筒歳月」の教えです。 あの頃に真の愛の心とは何かを教育していたからこそ、今のように慈善が全世界に広まったのです。

その教えが愛の心を啓発した始まりでした。 この一念が途切れなく、代々伝わっていくことを願っております。

新年の到来と共に、世界の慈済人が歳末祝福会や認証式に帰って来ているのを見て、私は心に感謝と喜びが満ちております。普段の距離は遠く離れていても、千山万水も菩薩の情を断つことはできないのです。過去世や今世だけの発願でなく、未来の生生世世にわたって、私たちは菩薩道を歩むという、同じ心の願を持っています。

菩薩とは道を切り開いて、導く人であり、仏陀の教育を延々と伝承し、一本の大道を拓くと共に、次の世代にバトンを渡すのですから、私たちの代で途切れてはいけないのです。何時も若い人が私の前に来て、天下の米俵を担ぐと発願し、彼らの「喜んで担います!」という力強い声を聞くと、私は益々安心します。近頃、私は老いを感じ、体が弱って話をすることさえままなりません。今私は、私の代わりに皆が力を出し、説法することで、慈済の法を弘め、世の苦難の人が皆支援を受けられることを最も願っております。

慈済が如何にして成就したのかと言えば、それは「竹筒歳月」の教えがあったからです。あの時代に真に愛の教育を提唱したからこそ、世界に慈善を普及させることができたのです。最近インドのブッダガヤで、ボランティアと村民が竹を取って来て竹筒を作り、少額のお金を貯めて献金しているのを目にします。生活は貧しくても、心を豊かにすれば、人助けをすることができるのです。

人からどれだけの額のお金を寄付してもらうかではなく、「徳」を求めるのです。台湾語では、「徳」と「竹」は同音で、竹には節があり、求めるのはその信念、募るのは人、心、愛であり、善行をする心です。人の愛の心は平等であり、小川に皆さんの一滴の水が注がれれば、大河は海へと流れて行きます。無量は海のように、集まったものは愛のエネルギーであり、皆さんの功徳も無量なのです。竹筒歳月の教えが愛の心の啓発の始まりであり、その一念が途切れることなく、代々受け継がれて行くことを願っています。

毎日、世の中で発生している出来事を見たり聞いたりしますが、貧困と病の苦、身寄りのない老いの苦、人心の無明の苦など、様々な苦しみがあります。悟りを開くには、学ばなければなりません。私も日々、如何にして解脱するか、愛を更に広めるにはどうすればよいかを学んでいます。日々、発願と期待を新たにしています。大きな因果と大いなる縁に恵まれ、途切れない情という大愛があれば、私たちが菩薩道で修行し、広く「善縁」を結ぶことができる、と発願し期待するのです。

私たちはとても幸せです。自分で精進する方向と人生の生き方を選択することができるからです。また、良い因縁によって、仏法に回帰し、佛を敬い、重んじています。僧を敬うことはとても重要なことで、最も重要なのは、自分で「慈、悲、喜、捨」に励むことです。慈とは「与楽」であり、人々が私たちを見て喜び、安心し、温かさを感じることです。或る人は親近感を持たれ、こちらはその話を聞き入れることができ、その人が行った善行に、私も呼応したいと思うようになります。これが即ち、その人は衆生と良縁を結んでいるということなのです。

正知、正見、正行為を持ち、人々から敬意と愛を持たれ、喜んで応えてくれるようになるのは容易ではありませんが、やらなければならない、と堅く発心しています。これも私の自分に対する期待です。私は毎日のように、間に合わない、間に合わないと言っているのは、間に合わないという思いを持つことで、今のこの時を無駄にせず、精進し、話す一言一言が、仏法の正見と正道から逸れないように、自分を励まし、教育しているのです。

二千五百年余り前、仏陀が目にした人間(じんかん)の病苦が、彼の慈悲心を動かし、世間の万物は「三理四相」から離れられない事を悟ったのです。即ち、「物の理」には、成、住、壊、空があり、「心の理」には生、住、異、空、「生の理」には生、老、病、死があるのです。あらゆる物質は無常の中にあり、ましてや人心は言うまでもなく、発心するのは容易ではなく、因縁があって既に発心していても、その心をいつまでも保つのはとても難しく、立願して堅持するのはもっと困難です。というのも、人間(じんかん)には様々な煩悩や無明、障害があるからです。「信は悟りのもとであり、功徳を生む母である」と言われますが、もし堅く信じる心がなければ、愛の心は速やかに消えてなくなり、功徳を積むのは難しいのです。

慈済はこの五十数年間、仏法で以て人々の心を開き、慈済法を以て慈済の人々の心を清めてきました。ですから私は常々、慈済は人間(じんかん)で大いに役立っていると言っているのです。それに慈済の最も大きな価値は、大愛を結集し、手を繋いで地球を囲むように、世界中の慈済人が心を一つに協力し合い、長く続く情と大愛を繋げていることにあるのです。

福を作ってこそ福に恵まれ、そうやって歩み出してこそ進歩があり、一歩ずつ歩めば、千里の道も到達できるのです。過ぎ去った一分一秒は戻ってきません。時間は私たちにとって非常に貴いものです。因縁を逃さず精進しましょう。人を助けられる人は幸せな人であり、自分で福を集めるのです。皆さんの精進を願っています。

(慈済月刊六八六期より)

(絵・陳九熹)

もしも慈済の成就を支えた源を探るなら、それは「竹筒歳月」の教えです。 あの頃に真の愛の心とは何かを教育していたからこそ、今のように慈善が全世界に広まったのです。

その教えが愛の心を啓発した始まりでした。 この一念が途切れなく、代々伝わっていくことを願っております。

新年の到来と共に、世界の慈済人が歳末祝福会や認証式に帰って来ているのを見て、私は心に感謝と喜びが満ちております。普段の距離は遠く離れていても、千山万水も菩薩の情を断つことはできないのです。過去世や今世だけの発願でなく、未来の生生世世にわたって、私たちは菩薩道を歩むという、同じ心の願を持っています。

菩薩とは道を切り開いて、導く人であり、仏陀の教育を延々と伝承し、一本の大道を拓くと共に、次の世代にバトンを渡すのですから、私たちの代で途切れてはいけないのです。何時も若い人が私の前に来て、天下の米俵を担ぐと発願し、彼らの「喜んで担います!」という力強い声を聞くと、私は益々安心します。近頃、私は老いを感じ、体が弱って話をすることさえままなりません。今私は、私の代わりに皆が力を出し、説法することで、慈済の法を弘め、世の苦難の人が皆支援を受けられることを最も願っております。

慈済が如何にして成就したのかと言えば、それは「竹筒歳月」の教えがあったからです。あの時代に真に愛の教育を提唱したからこそ、世界に慈善を普及させることができたのです。最近インドのブッダガヤで、ボランティアと村民が竹を取って来て竹筒を作り、少額のお金を貯めて献金しているのを目にします。生活は貧しくても、心を豊かにすれば、人助けをすることができるのです。

人からどれだけの額のお金を寄付してもらうかではなく、「徳」を求めるのです。台湾語では、「徳」と「竹」は同音で、竹には節があり、求めるのはその信念、募るのは人、心、愛であり、善行をする心です。人の愛の心は平等であり、小川に皆さんの一滴の水が注がれれば、大河は海へと流れて行きます。無量は海のように、集まったものは愛のエネルギーであり、皆さんの功徳も無量なのです。竹筒歳月の教えが愛の心の啓発の始まりであり、その一念が途切れることなく、代々受け継がれて行くことを願っています。

毎日、世の中で発生している出来事を見たり聞いたりしますが、貧困と病の苦、身寄りのない老いの苦、人心の無明の苦など、様々な苦しみがあります。悟りを開くには、学ばなければなりません。私も日々、如何にして解脱するか、愛を更に広めるにはどうすればよいかを学んでいます。日々、発願と期待を新たにしています。大きな因果と大いなる縁に恵まれ、途切れない情という大愛があれば、私たちが菩薩道で修行し、広く「善縁」を結ぶことができる、と発願し期待するのです。

私たちはとても幸せです。自分で精進する方向と人生の生き方を選択することができるからです。また、良い因縁によって、仏法に回帰し、佛を敬い、重んじています。僧を敬うことはとても重要なことで、最も重要なのは、自分で「慈、悲、喜、捨」に励むことです。慈とは「与楽」であり、人々が私たちを見て喜び、安心し、温かさを感じることです。或る人は親近感を持たれ、こちらはその話を聞き入れることができ、その人が行った善行に、私も呼応したいと思うようになります。これが即ち、その人は衆生と良縁を結んでいるということなのです。

正知、正見、正行為を持ち、人々から敬意と愛を持たれ、喜んで応えてくれるようになるのは容易ではありませんが、やらなければならない、と堅く発心しています。これも私の自分に対する期待です。私は毎日のように、間に合わない、間に合わないと言っているのは、間に合わないという思いを持つことで、今のこの時を無駄にせず、精進し、話す一言一言が、仏法の正見と正道から逸れないように、自分を励まし、教育しているのです。

二千五百年余り前、仏陀が目にした人間(じんかん)の病苦が、彼の慈悲心を動かし、世間の万物は「三理四相」から離れられない事を悟ったのです。即ち、「物の理」には、成、住、壊、空があり、「心の理」には生、住、異、空、「生の理」には生、老、病、死があるのです。あらゆる物質は無常の中にあり、ましてや人心は言うまでもなく、発心するのは容易ではなく、因縁があって既に発心していても、その心をいつまでも保つのはとても難しく、立願して堅持するのはもっと困難です。というのも、人間(じんかん)には様々な煩悩や無明、障害があるからです。「信は悟りのもとであり、功徳を生む母である」と言われますが、もし堅く信じる心がなければ、愛の心は速やかに消えてなくなり、功徳を積むのは難しいのです。

慈済はこの五十数年間、仏法で以て人々の心を開き、慈済法を以て慈済の人々の心を清めてきました。ですから私は常々、慈済は人間(じんかん)で大いに役立っていると言っているのです。それに慈済の最も大きな価値は、大愛を結集し、手を繋いで地球を囲むように、世界中の慈済人が心を一つに協力し合い、長く続く情と大愛を繋げていることにあるのです。

福を作ってこそ福に恵まれ、そうやって歩み出してこそ進歩があり、一歩ずつ歩めば、千里の道も到達できるのです。過ぎ去った一分一秒は戻ってきません。時間は私たちにとって非常に貴いものです。因縁を逃さず精進しましょう。人を助けられる人は幸せな人であり、自分で福を集めるのです。皆さんの精進を願っています。

(慈済月刊六八六期より)

關鍵字

マレーシア|しっかり生きて行く もう「壊れた」人間ではない

マレーシア・ケダ州にある慈済人工透析センターに寄付してくれた人たちは私たちとは面識がない。それでも、彼らは喜んで、私たちが命を永らえるよう、力を貸してくれる。私は吹っ切れた。

私の名前は漢彬(ハンビン)。小さい頃は楽観的で、明るくて、お喋り好きな、ごく普通の子供だった。そして、大した夢もなく、ただ大人になって、親孝行し、安定した仕事に就いて、結婚して家庭を築く、という普通の生活を送ることが夢だった。

しかし、一世代前の人が言うことは正しい。「運命は決まっている」。多くのことは私たちがコントロールできるものではない。例えば、病気したことがない私のこの体である。

三十才になろうとしていたあの年、体に予想しなかった出来事が起こった。私は人生の旅で大きな曲がり角に差し掛かった時、踏むべきブレーキがなく、あっという間に私は足と目と腎臓が「壊れた」人間になってしまった。

糖尿病で左のふくらはぎが細菌に感染し、三、四回手術を受けた後、医師から、使い物にならなくなった左の膝下を切断して義足にしたらどうかと提案された。私は義足を付けても一人で生活できるから、良いだろうと思った。

その数カ月後、視力が次第に落ちて視界が朦朧とし、ついに失明してしまった。私は淡々と両目が失明したことを受け止めた。諸々のことは神様の取り決めであり、少し時間を掛ければ、真っ黒闇の世界に慣れるだろうと思ったからだ。

やがて尿の量が次第に少なくなり、体がむくみ、よく食欲不振に陥った。何回か診察を受けた後、医師から、血液の透析を受けないと命がないと宣告された。即ち、人工腎透析である。母親も晩年はこの治療をして過ごしたが、大変な苦労だった。今後その辛さが続くのかと考えただけで、私は怖くなった。

この治療は義足を付けることや失明するのと違う。簡単に「適応すればいい」というものではない。一旦、治療を始めれば、週に三日、毎回四時間機械の傍に座り続けないといけないのだから、もう仕事はできないだろう。そうなったら、毎月千元余りの透析費用はどう工面すればいいのか?その後の生活は二人の姉に頼らざるを得なくなった。私は完全に、自立した生活をする能力を失い、長い間にわたって、誰かに頼って生活をする「壊れた」人間になってしまった。

2020年にケダ慈済人工透析センターで年一度の懇親会が開かれ、看護スタッフと漢彬さんは互いに感謝し合った。

小舟が海底に沈む前

子どもの時から家庭は裕福ではなく、十歳の年に学校を中退して、臨時雇いになった。青春真っ只中の時に故郷を離れ、働きに出てあちこちを転々とし、一心に安らぎのある生活を求めた。以前は、私というこの小舟も何時かは岸に辿り着けると思っていた。たまに風や波に遭遇しても、歯を食い縛れば乗り切れるはずだと。しかし、この治療は私にとって、反撃のしようのない打撃となった。静かに海底に沈んで行きたくなった。簡単に言えば、これ以上家族に迷惑を掛けたくないと思ったのだ。

私はゆっくりと死んでいくことを選び、意図的に塩分の多い食事を摂り、毎日大量の水を飲むことで、体をむくませた。肺に水が入ってしまったこともあった。家族は透析費用を負担することができなかったので、いつもこのような緊急時にだけ、入院して透析を受けた。そうして暫く経った頃、姉がケダ慈済人工透析センターを見つけてくれた。

慈済人工透析センターでは無料で人工透析を受けられるが、私は喜びが湧かなかった。毎日、透析を続けて、いつになったら「終わる」のだろうか。私は末っ子として生まれ、上には十何歳も年の離れた二人の姉がいる。母親は亡くなる前、私の面倒を彼女たちに託していた。私は家族を安心させるために、仕方なく受け入れた。

非常にありきたりな言葉ではあるが、私は慈済透析センターにとても感謝している。そこにいると、私は「普通」に接してもらえるからだ。看護スタッフも気さくに話しかけてくれるし、グルメや世間の出来事、旅行の話など話題が尽きない。そして他の患者とも心を割って話し合い、笑い合っていた。

家では、姉たちがあらゆる面で私の面倒を見てくれ、目が見えない為に外出できない私が悲しむのを心配して、会話では外部のことを一切口にしない。それで余計に、私は自分がもう使いものにならないと感じるようになった。

透析は週三回行われる。透析センターに足を踏み入れると、看護スタッフが「食事は済みましたか」「調子はどうですか」と聞いてくれた。家でこのように家族のことを気遣ったことはあるかと、自分に問いかけてみてほしい。あなたはこのように家族を気に掛けたことがあるだろうか。こういう状況下で、私は感動せずにはいられなかった。

透析センターにいる時だけ、私は普通の人間でいられるように思えた。その後、私も或る事から吹っ切れるようになり、それ以上、死のうと思うことはなくなった。私が気づいたのは、社会各方面からの善意の人たちは、私たちとは面識がないにも関わらず、資金を提供してこのセンターの運営を支援し、心から私たちを助けてくれているということだ。それは、透析費用を支払う余裕のない私たちにとっては、「雪中に炭を送る」ことに等しい。私はしっかり生きるべきであり、そうしてこそ寄付してくださった方々の愛に応えることができるのだ。もし、私にもできることがあれば、喜んで協力しよう!

感謝祭で、漢彬(右から2人目)さんは、ステージに上がって寄付してくれた人たちに感謝すると共に、透析を受けている患者たちに希望を持つよう呼びかけた。(撮影・英鑑華)

浮き沈みがあるのが人生

私の目は「壊れて」見えなくなったが、口は「壊れて」いない。私の心は看護師たちによって愛で満たされた。私にも貢献できることがあるのだ。例えば慰め役だ。機嫌が悪かったり、落ち込んでいたりする同じ透析患者、または、透析を始めて間もない患者に対して、看護スタッフはわざと私をその隣に座らせるようにしてくれた。

その四時間の間、私は適切な機会を見つけて彼らと世間話をし、彼らが思い詰めないように、違う角度から物事を見るようになることを期待して、自分の経験を共有するようにした。もし彼らが心を開き、悲しそうな顔をしなくなって、喜んでくれるようになったら、私もとても嬉しくなり、満足できるからだ。良いことをしたと感じるのは、金銭で買えない喜びである。

時々、私は慈済の活動に呼ばれて、透析患者や障害者を励ますことがある。私は寄付した方々に、彼らの寄付金が私を変えた様子を見てもらいたいと思う。私のような 「壊れた」人間でもこのように有意義な人生を送れるようになったのだから、他の人でもこのように変われるはずだ。

左脛を失っても、義足を付ければ歩ける。両目が失明したら、確かに多くのことで不便にはなったが、逆に私の世界は美しいものになった。物の外観が見えなくなったことで、自ずとそれに対する偏見や先入観を持たなくなった。

例えば、私は初対面の人に対して、その外見が見えないので、ハンサムな人だと想像しながら、熱心に話を聞く。会話を通じて、私はその人の性格を知り、彼の喜怒哀楽を耳にすることができる。私は相手の外見の良し悪しによって誤解することはなく、直ぐに心から出た美と善を発見できるのだ。私にとっては、何事も美しい面から始まる。今、私に声を掛けてくれば、私はあなたをハンサムな男性や美女と想像するでしょう。ハハハ!

私は食習慣と生活上の衛生管理が悪かったために、入退院を繰り返していた。今は、合格点を取った腎臓病患者である。飲む水の量をコントロールでき、ベジタリアンでもある。それでも、体調に良し悪しはあり、安定はしていない。しかし、これが人生だと割り切っている。思い通りになることより、そうならないことの方が多いのが普通だ。現状に満足すればいいのだ。

たまに今でも、追い詰められることがある。やはり、家族に頼って生きていくのに慣れていないのだ。もしある日、病状が悪化したら、家族には私をそっと見送り、私の遺灰を海に撒いてほしいと思っている。そうすれば、私の魂は海と共に、あちこち美しい世界を見ることができるだろう。これも私の最後の夢だと言える。

しかし、今の私は健康状態がまあまあで、私を細心に世話してくれた皆さんに感謝したい。私は能力の限り精一杯奉仕し、最期の日まで一日一日心を込めて生きて行きたいと思っている。

(慈済月刊六八二期より)

マレーシア・ケダ州にある慈済人工透析センターに寄付してくれた人たちは私たちとは面識がない。それでも、彼らは喜んで、私たちが命を永らえるよう、力を貸してくれる。私は吹っ切れた。

私の名前は漢彬(ハンビン)。小さい頃は楽観的で、明るくて、お喋り好きな、ごく普通の子供だった。そして、大した夢もなく、ただ大人になって、親孝行し、安定した仕事に就いて、結婚して家庭を築く、という普通の生活を送ることが夢だった。

しかし、一世代前の人が言うことは正しい。「運命は決まっている」。多くのことは私たちがコントロールできるものではない。例えば、病気したことがない私のこの体である。

三十才になろうとしていたあの年、体に予想しなかった出来事が起こった。私は人生の旅で大きな曲がり角に差し掛かった時、踏むべきブレーキがなく、あっという間に私は足と目と腎臓が「壊れた」人間になってしまった。

糖尿病で左のふくらはぎが細菌に感染し、三、四回手術を受けた後、医師から、使い物にならなくなった左の膝下を切断して義足にしたらどうかと提案された。私は義足を付けても一人で生活できるから、良いだろうと思った。

その数カ月後、視力が次第に落ちて視界が朦朧とし、ついに失明してしまった。私は淡々と両目が失明したことを受け止めた。諸々のことは神様の取り決めであり、少し時間を掛ければ、真っ黒闇の世界に慣れるだろうと思ったからだ。

やがて尿の量が次第に少なくなり、体がむくみ、よく食欲不振に陥った。何回か診察を受けた後、医師から、血液の透析を受けないと命がないと宣告された。即ち、人工腎透析である。母親も晩年はこの治療をして過ごしたが、大変な苦労だった。今後その辛さが続くのかと考えただけで、私は怖くなった。

この治療は義足を付けることや失明するのと違う。簡単に「適応すればいい」というものではない。一旦、治療を始めれば、週に三日、毎回四時間機械の傍に座り続けないといけないのだから、もう仕事はできないだろう。そうなったら、毎月千元余りの透析費用はどう工面すればいいのか?その後の生活は二人の姉に頼らざるを得なくなった。私は完全に、自立した生活をする能力を失い、長い間にわたって、誰かに頼って生活をする「壊れた」人間になってしまった。

2020年にケダ慈済人工透析センターで年一度の懇親会が開かれ、看護スタッフと漢彬さんは互いに感謝し合った。

小舟が海底に沈む前

子どもの時から家庭は裕福ではなく、十歳の年に学校を中退して、臨時雇いになった。青春真っ只中の時に故郷を離れ、働きに出てあちこちを転々とし、一心に安らぎのある生活を求めた。以前は、私というこの小舟も何時かは岸に辿り着けると思っていた。たまに風や波に遭遇しても、歯を食い縛れば乗り切れるはずだと。しかし、この治療は私にとって、反撃のしようのない打撃となった。静かに海底に沈んで行きたくなった。簡単に言えば、これ以上家族に迷惑を掛けたくないと思ったのだ。

私はゆっくりと死んでいくことを選び、意図的に塩分の多い食事を摂り、毎日大量の水を飲むことで、体をむくませた。肺に水が入ってしまったこともあった。家族は透析費用を負担することができなかったので、いつもこのような緊急時にだけ、入院して透析を受けた。そうして暫く経った頃、姉がケダ慈済人工透析センターを見つけてくれた。

慈済人工透析センターでは無料で人工透析を受けられるが、私は喜びが湧かなかった。毎日、透析を続けて、いつになったら「終わる」のだろうか。私は末っ子として生まれ、上には十何歳も年の離れた二人の姉がいる。母親は亡くなる前、私の面倒を彼女たちに託していた。私は家族を安心させるために、仕方なく受け入れた。

非常にありきたりな言葉ではあるが、私は慈済透析センターにとても感謝している。そこにいると、私は「普通」に接してもらえるからだ。看護スタッフも気さくに話しかけてくれるし、グルメや世間の出来事、旅行の話など話題が尽きない。そして他の患者とも心を割って話し合い、笑い合っていた。

家では、姉たちがあらゆる面で私の面倒を見てくれ、目が見えない為に外出できない私が悲しむのを心配して、会話では外部のことを一切口にしない。それで余計に、私は自分がもう使いものにならないと感じるようになった。

透析は週三回行われる。透析センターに足を踏み入れると、看護スタッフが「食事は済みましたか」「調子はどうですか」と聞いてくれた。家でこのように家族のことを気遣ったことはあるかと、自分に問いかけてみてほしい。あなたはこのように家族を気に掛けたことがあるだろうか。こういう状況下で、私は感動せずにはいられなかった。

透析センターにいる時だけ、私は普通の人間でいられるように思えた。その後、私も或る事から吹っ切れるようになり、それ以上、死のうと思うことはなくなった。私が気づいたのは、社会各方面からの善意の人たちは、私たちとは面識がないにも関わらず、資金を提供してこのセンターの運営を支援し、心から私たちを助けてくれているということだ。それは、透析費用を支払う余裕のない私たちにとっては、「雪中に炭を送る」ことに等しい。私はしっかり生きるべきであり、そうしてこそ寄付してくださった方々の愛に応えることができるのだ。もし、私にもできることがあれば、喜んで協力しよう!

感謝祭で、漢彬(右から2人目)さんは、ステージに上がって寄付してくれた人たちに感謝すると共に、透析を受けている患者たちに希望を持つよう呼びかけた。(撮影・英鑑華)

浮き沈みがあるのが人生

私の目は「壊れて」見えなくなったが、口は「壊れて」いない。私の心は看護師たちによって愛で満たされた。私にも貢献できることがあるのだ。例えば慰め役だ。機嫌が悪かったり、落ち込んでいたりする同じ透析患者、または、透析を始めて間もない患者に対して、看護スタッフはわざと私をその隣に座らせるようにしてくれた。

その四時間の間、私は適切な機会を見つけて彼らと世間話をし、彼らが思い詰めないように、違う角度から物事を見るようになることを期待して、自分の経験を共有するようにした。もし彼らが心を開き、悲しそうな顔をしなくなって、喜んでくれるようになったら、私もとても嬉しくなり、満足できるからだ。良いことをしたと感じるのは、金銭で買えない喜びである。

時々、私は慈済の活動に呼ばれて、透析患者や障害者を励ますことがある。私は寄付した方々に、彼らの寄付金が私を変えた様子を見てもらいたいと思う。私のような 「壊れた」人間でもこのように有意義な人生を送れるようになったのだから、他の人でもこのように変われるはずだ。

左脛を失っても、義足を付ければ歩ける。両目が失明したら、確かに多くのことで不便にはなったが、逆に私の世界は美しいものになった。物の外観が見えなくなったことで、自ずとそれに対する偏見や先入観を持たなくなった。

例えば、私は初対面の人に対して、その外見が見えないので、ハンサムな人だと想像しながら、熱心に話を聞く。会話を通じて、私はその人の性格を知り、彼の喜怒哀楽を耳にすることができる。私は相手の外見の良し悪しによって誤解することはなく、直ぐに心から出た美と善を発見できるのだ。私にとっては、何事も美しい面から始まる。今、私に声を掛けてくれば、私はあなたをハンサムな男性や美女と想像するでしょう。ハハハ!

私は食習慣と生活上の衛生管理が悪かったために、入退院を繰り返していた。今は、合格点を取った腎臓病患者である。飲む水の量をコントロールでき、ベジタリアンでもある。それでも、体調に良し悪しはあり、安定はしていない。しかし、これが人生だと割り切っている。思い通りになることより、そうならないことの方が多いのが普通だ。現状に満足すればいいのだ。

たまに今でも、追い詰められることがある。やはり、家族に頼って生きていくのに慣れていないのだ。もしある日、病状が悪化したら、家族には私をそっと見送り、私の遺灰を海に撒いてほしいと思っている。そうすれば、私の魂は海と共に、あちこち美しい世界を見ることができるだろう。これも私の最後の夢だと言える。

しかし、今の私は健康状態がまあまあで、私を細心に世話してくれた皆さんに感謝したい。私は能力の限り精一杯奉仕し、最期の日まで一日一日心を込めて生きて行きたいと思っている。

(慈済月刊六八二期より)

關鍵字

福に近づいてもらう

寒い冬が過ぎれば、温かい春の日差しが射してきます。
寛容になれば、未来の幸福が懐に入ってきます。

互いに恩人になり、感謝し合う

十月二十二日から二十四日まで、トルコ・マンナハイ国際学校のチームが台南慈済中学校を訪れ、教育関係の交流を行い、姉妹校として締結しました。二十五日は台中静思堂で、トルコの胡光中師兄と周如意師姐及びマンナハイチームが今回の訪問に関して分かち合いました。
上人は、「皆さんの分かち合いから真の愛を見て取りました。何人かが過去の生活と今の心境を語っていましたが、過去はやり過ごすべきで、直面している現状に対して心を平静に保ち、人間の本性である愛を発揮しなければなりません。それは宗教の違いを超えた、広くて寛大で、思いやりのある美徳なのです」と言いました。「仏教では因縁を語ります。不本意な状況は既に過ぎ去っています。心を平静に保って未来を迎え入れれば、幸福は絶えず近づいてきます。それは、苦痛が過ぎ去って、寛容になれた自分がすでに受け入れていることを意味します。過去に対して寛容になり、未来の幸福を迎えることです」。
「マンナハイチームは台湾に来たことで、慈済人の誠意のある長く続く情を目にしただけでなく、台湾の慈済学校の教師や生徒の心からの愛を感じ取ったことでしょう。マンナハイ学校の教師が、シリア難民の子供たちが学校に通えない苦しみを語ったことで、台湾の教師や生徒は自分たちの平和を今まで以上に大切にし、平安が即ち幸福であることを深く感じて、今の生活を大事にしていくでしょう」。
「この世で、誰もが教師になり、互いに恩人になることができます。ですから、私たちはお互いに知って愛し合い、感謝し合うべきです。私が毎日話していることはどれも感謝以外の何ものでもありません。感謝こそが私の生命で最も現実的に感じることなのです。皆さんが幸せや喜びを感じるなら、感謝と満ち足りた心を持たなくてはなりません」。
「世の中は災難が多く、天災の他に、人心の不調和によって衝突が起き、広い地域で数多くの人々が苦しんでいますが、それは天気と同じで、春夏秋冬が巡るように、冷たい風が肌を刺すような冬もいつかは過ぎ去り、温かい日差しが訪れるのです」。
トルコのアルナフツキョイ地区はマンナハイ国際学校の新住所です。高等部、小中等部及び現地の貧困家庭の子どもたちのためのトルコ大愛高校などの建設が予定されています。また上人は、「慈済が苦難を助け、学校の支援建設をするのは至って単純な心からの考えです。しかし、それぞれの国には法律の規制がありますから、慈済人が外国で志業を行う時は、各国の法律を遵守すべきで、違反してはいけません。ですから、現地で長く生活しているトルコの慈済人に頼らなければならず、重責を担った彼らはとても苦労が多いのです。しかし、師兄と師姐に福縁がある故に、とても良い縁を結ぶことができ、共にそれを成就させることができたのです」と言いました。
「世の中の正信の宗教は皆、大衆を教育したり、導いたりしており、信者が正しい道理を人間(じんかん)に広めることで、人心を雑念や欲念、悪念から愛と善に向かわせています。それも大善と大愛です。人々が大善や大愛を結集させれば、世の中に困難なことはなくなります」。上人はマンナハイ学校のチームに、心を一つにして力を出し合うようにと励ましました。管理職たちは声を揃えて、「上人、やり遂げます!」と発願しました。

誰でも福を造る機会がある

十月二十八日に彰化地区で催された歳末祝福会は、今年の台湾全土における最初の認証授与式と歳末祝福式典です。上人はこう開示しました。「この時にこれほど多くの荘厳な人間(じんかん)菩薩に会い、皆が平穏で健康に過ごされているのを見て、心から無限の喜びを覚えました。日々平穏に過ごせることに感謝の気持ちでいっぱいになります。人として生まれ、仏法を聞くことができるのは容易なことではありませんが、それ以上に人間(じんかん)菩薩道を歩むことができるのは稀で、とてつもなく長い時間の中で出会った、実に素晴らしい因縁です。皆さん、それを大切にしてください。無駄にしてはいけません」。
「毎日、不順な天気や人心の乱れを目にして、とても憂慮していますが、どうなるものでもありません。世の中はこんなにも広く、どうにもならないことが多いのです。菩薩の慈悲はいつも、衆生が苦しんでいるのを見過ごしません。ですから、関わることができ、助けられるのであれば、直ちに慈善支援を始めるのです」。
「私たちは衆生を愛護し、広く悟りに導かなければなりません。衆生を菩薩道に迎え入れて共に歩み、誰にも福を造る機会を持ってもらうのです」。善法を心に受け入れ、悪念を起こさず、自分の善行を促すと共に、人間(じんかん)に幸福をもたらすのが即ち、菩薩です、と上人は言っています。お互いに愛おしみ、励まし、手を取り合いながら、修行するのです。

(慈済月刊六八五期より)

寒い冬が過ぎれば、温かい春の日差しが射してきます。
寛容になれば、未来の幸福が懐に入ってきます。

互いに恩人になり、感謝し合う

十月二十二日から二十四日まで、トルコ・マンナハイ国際学校のチームが台南慈済中学校を訪れ、教育関係の交流を行い、姉妹校として締結しました。二十五日は台中静思堂で、トルコの胡光中師兄と周如意師姐及びマンナハイチームが今回の訪問に関して分かち合いました。
上人は、「皆さんの分かち合いから真の愛を見て取りました。何人かが過去の生活と今の心境を語っていましたが、過去はやり過ごすべきで、直面している現状に対して心を平静に保ち、人間の本性である愛を発揮しなければなりません。それは宗教の違いを超えた、広くて寛大で、思いやりのある美徳なのです」と言いました。「仏教では因縁を語ります。不本意な状況は既に過ぎ去っています。心を平静に保って未来を迎え入れれば、幸福は絶えず近づいてきます。それは、苦痛が過ぎ去って、寛容になれた自分がすでに受け入れていることを意味します。過去に対して寛容になり、未来の幸福を迎えることです」。
「マンナハイチームは台湾に来たことで、慈済人の誠意のある長く続く情を目にしただけでなく、台湾の慈済学校の教師や生徒の心からの愛を感じ取ったことでしょう。マンナハイ学校の教師が、シリア難民の子供たちが学校に通えない苦しみを語ったことで、台湾の教師や生徒は自分たちの平和を今まで以上に大切にし、平安が即ち幸福であることを深く感じて、今の生活を大事にしていくでしょう」。
「この世で、誰もが教師になり、互いに恩人になることができます。ですから、私たちはお互いに知って愛し合い、感謝し合うべきです。私が毎日話していることはどれも感謝以外の何ものでもありません。感謝こそが私の生命で最も現実的に感じることなのです。皆さんが幸せや喜びを感じるなら、感謝と満ち足りた心を持たなくてはなりません」。
「世の中は災難が多く、天災の他に、人心の不調和によって衝突が起き、広い地域で数多くの人々が苦しんでいますが、それは天気と同じで、春夏秋冬が巡るように、冷たい風が肌を刺すような冬もいつかは過ぎ去り、温かい日差しが訪れるのです」。
トルコのアルナフツキョイ地区はマンナハイ国際学校の新住所です。高等部、小中等部及び現地の貧困家庭の子どもたちのためのトルコ大愛高校などの建設が予定されています。また上人は、「慈済が苦難を助け、学校の支援建設をするのは至って単純な心からの考えです。しかし、それぞれの国には法律の規制がありますから、慈済人が外国で志業を行う時は、各国の法律を遵守すべきで、違反してはいけません。ですから、現地で長く生活しているトルコの慈済人に頼らなければならず、重責を担った彼らはとても苦労が多いのです。しかし、師兄と師姐に福縁がある故に、とても良い縁を結ぶことができ、共にそれを成就させることができたのです」と言いました。
「世の中の正信の宗教は皆、大衆を教育したり、導いたりしており、信者が正しい道理を人間(じんかん)に広めることで、人心を雑念や欲念、悪念から愛と善に向かわせています。それも大善と大愛です。人々が大善や大愛を結集させれば、世の中に困難なことはなくなります」。上人はマンナハイ学校のチームに、心を一つにして力を出し合うようにと励ましました。管理職たちは声を揃えて、「上人、やり遂げます!」と発願しました。

誰でも福を造る機会がある

十月二十八日に彰化地区で催された歳末祝福会は、今年の台湾全土における最初の認証授与式と歳末祝福式典です。上人はこう開示しました。「この時にこれほど多くの荘厳な人間(じんかん)菩薩に会い、皆が平穏で健康に過ごされているのを見て、心から無限の喜びを覚えました。日々平穏に過ごせることに感謝の気持ちでいっぱいになります。人として生まれ、仏法を聞くことができるのは容易なことではありませんが、それ以上に人間(じんかん)菩薩道を歩むことができるのは稀で、とてつもなく長い時間の中で出会った、実に素晴らしい因縁です。皆さん、それを大切にしてください。無駄にしてはいけません」。
「毎日、不順な天気や人心の乱れを目にして、とても憂慮していますが、どうなるものでもありません。世の中はこんなにも広く、どうにもならないことが多いのです。菩薩の慈悲はいつも、衆生が苦しんでいるのを見過ごしません。ですから、関わることができ、助けられるのであれば、直ちに慈善支援を始めるのです」。
「私たちは衆生を愛護し、広く悟りに導かなければなりません。衆生を菩薩道に迎え入れて共に歩み、誰にも福を造る機会を持ってもらうのです」。善法を心に受け入れ、悪念を起こさず、自分の善行を促すと共に、人間(じんかん)に幸福をもたらすのが即ち、菩薩です、と上人は言っています。お互いに愛おしみ、励まし、手を取り合いながら、修行するのです。

(慈済月刊六八五期より)

關鍵字

一月の出来事

01・03

ミャンマーの慈済ボランティアは、オッカン県フエ・ナ・ガウィン村のオッカン集会所で、ケア世帯に毛布と衣類を配付すると共に、行動の不自由なお年寄りたちの家を訪れて物資を届けた。全部で19の村の81世帯が冬を過ごすことができる。

01・04

イギリスは新年の前後に続けてサイクロン・ゲリットとヘンクに襲われ、ウスターシャーで大きな水害が起きた。慈済ボランティアは4日に甚大な被害を被ったセバーン・ストークとパウィックなどに向かうと共に、ビュードリーで被災した家々の清掃を手伝った。

01・05

◎能登半島地震災害支援で、慈済日本支部からボランティアの陳金発さん、盧建安さん、池田浩一さん及び清修士の陳量達(思道)さんが、5日と6日に石川県七尾市と鳳珠郡穴水町を訪れて視察した。また、石川県台湾交流促進協会の陳文筆理事長と共に、公立穴水総合病院の島中公志院長及び穴水町の吉村光輝町長を訪ね、現地の被災状況と住民のニーズを聞き取った。

◎慈済ベトナム連絡所は5日から7日まで、ベンチェ省ゾンチョム県とモーカイナム県、モーカイバク県で歳末配付活動を行った。987世帯に米と麺、食用油及び50万ドン(約3000円)の生活補助金を届けると共に、ゾンチョム県で30人に助学金を支給した。

01・06

12月中旬、アメリカ・ニュージャージー州は連日の豪雨で河の堤防が決壊し、パサイク郡で数百世帯が避難を余儀なくされた。慈済ニュージャージー支部は赤十字社の要請を受けて、共同で被災者に関心を寄せた。被災状況を把握した後、本日ウェイン町で配付が行われ、リンカーンパークとリトルフォールズ、ポンプトンレークス等の45世帯の沿岸被災住民にプリペイドカードとエコ毛布などが支給された。

01・09

マレーシア・ジョホール州は連日の豪雨の影響で、数多くの地区で水害が発生した。慈済ジョホールバル支部は9日、イスカンダル・プテリ行政都市避難センター(PPSMPIP)の現地長老であるエン・ハムバリ氏から物資の支援要請を受け、慈済ボランティアは直ちに物資の調達を行い、35世帯にエコ毛布とトイレタリー、寝具、食糧、衛生用品などを配付した。

01・11

慈済日本支部は能登半島地震支援で、石川県鳳珠郡穴水町さわやか交流会館プルートに避難している住民に炊き出しを行った。11日先ず、清修士の陳量達(思道)さんとボランティアの井田龍成さんが石川県に入り、12日に穴水町社会福祉協議会メンバーと関連事項を話し合った他、中能登町に向かい、宮下為幸町長を訪ねた後、町役場職員の案内で宿泊所に向かった。そこで翌日に鳳珠郡穴水町さわやか交流館プルートで行う炊き出しの材料を準備した。13日は東京や大阪から集まった14人のボランティアが会館に避難している住民に炊き出しを行なった。初日に220食分の昼食を提供した。この他、公立穴水総合病院の島中院長は、病院にも避難者がいるので、ボランティアに翌日から病院で温かい食事を提供してほしいと要請し、そのために病院内の厨房と調理器具を使えるように取り計らった。現在の炊き出し予定は13日から29日までの17日間だが、避難所の人数やニーズを見て調整する。

日本産経新聞は、慈済ボランティアが避難所で炊き出しを行っている状況を報道した(写真1、2)。

熱々で盛りだくさんの菜食は住民の心を温めた(写真3 撮影・周利貞)。

NHK仙台支局の記者が炊き出しの状況を取材した。(写真4 撮影・呉恵珍)

01・12

モザンビークは2019年にサイクロン・イダイによって大きな被害を受け、ベイラ市やティカ町などの数多くの学校が損壊した。その後、慈済基金会は23校の再建支援プロジェクトを展開し、本日、ニャマタンダ郡で13校の校舎引渡し式が行われた

01・13

大愛テレビ番組の大愛劇場《捜索者》の出演者である莊岳さんと《早く帰ってきて》の出演者、楊麗音さんが第28回アジアテレビアウォードの最優秀助演男優賞と最優秀助演女優賞を獲得し、本日、ベトナムのホーチミン市で授与式が行われた。

01・14

◎ベトナムの慈済ボランティアは、ビンズオン省ダウティエン県、ベンカト市、トゥーザウモット市などで歳末配付活動を行い、目の不自由な人や枯葉剤被害者の家庭など1500世帯を対象に、補助金と米、麺類、食用油などの物資を配付した。

◎ネパールのロータリークラブが一回目の建築道具50セットを寄付し、慈済基金会仏の国プロジェクトチームメンバーの陳吉民(済連)さんと現地ボランティアのマハスさんが代表で受け取った。その由来は、ロータリークラブ会長と多くのメンバーがマハスさんの講演を聞いたことにある。彼らは、慈済が西部地震の被災地でプレハブ教室の建設を支援した話を聞いて感動し、200セットの調達を決め、本日、その一回目の寄贈が行われた。

01・20

慈済基金会は10日から28日まで、台湾本土、金門、澎湖などで55回の冬季配付活動を行い、27000世帯の社会的弱者に「慈善プリペイドカード」と年越しの物資を配付した。

01・21

慈済日本支部は「令和6年能登半島地震」の被災者を支援するため、本日から26日まで、毎日午後1時から4時半まで街頭募金を行った。初日の募金活動はJR新大久保駅と新宿小田急デパート西口広場で行われ、11万3696円が集った。

01・03

ミャンマーの慈済ボランティアは、オッカン県フエ・ナ・ガウィン村のオッカン集会所で、ケア世帯に毛布と衣類を配付すると共に、行動の不自由なお年寄りたちの家を訪れて物資を届けた。全部で19の村の81世帯が冬を過ごすことができる。

01・04

イギリスは新年の前後に続けてサイクロン・ゲリットとヘンクに襲われ、ウスターシャーで大きな水害が起きた。慈済ボランティアは4日に甚大な被害を被ったセバーン・ストークとパウィックなどに向かうと共に、ビュードリーで被災した家々の清掃を手伝った。

01・05

◎能登半島地震災害支援で、慈済日本支部からボランティアの陳金発さん、盧建安さん、池田浩一さん及び清修士の陳量達(思道)さんが、5日と6日に石川県七尾市と鳳珠郡穴水町を訪れて視察した。また、石川県台湾交流促進協会の陳文筆理事長と共に、公立穴水総合病院の島中公志院長及び穴水町の吉村光輝町長を訪ね、現地の被災状況と住民のニーズを聞き取った。

◎慈済ベトナム連絡所は5日から7日まで、ベンチェ省ゾンチョム県とモーカイナム県、モーカイバク県で歳末配付活動を行った。987世帯に米と麺、食用油及び50万ドン(約3000円)の生活補助金を届けると共に、ゾンチョム県で30人に助学金を支給した。

01・06

12月中旬、アメリカ・ニュージャージー州は連日の豪雨で河の堤防が決壊し、パサイク郡で数百世帯が避難を余儀なくされた。慈済ニュージャージー支部は赤十字社の要請を受けて、共同で被災者に関心を寄せた。被災状況を把握した後、本日ウェイン町で配付が行われ、リンカーンパークとリトルフォールズ、ポンプトンレークス等の45世帯の沿岸被災住民にプリペイドカードとエコ毛布などが支給された。

01・09

マレーシア・ジョホール州は連日の豪雨の影響で、数多くの地区で水害が発生した。慈済ジョホールバル支部は9日、イスカンダル・プテリ行政都市避難センター(PPSMPIP)の現地長老であるエン・ハムバリ氏から物資の支援要請を受け、慈済ボランティアは直ちに物資の調達を行い、35世帯にエコ毛布とトイレタリー、寝具、食糧、衛生用品などを配付した。

01・11

慈済日本支部は能登半島地震支援で、石川県鳳珠郡穴水町さわやか交流会館プルートに避難している住民に炊き出しを行った。11日先ず、清修士の陳量達(思道)さんとボランティアの井田龍成さんが石川県に入り、12日に穴水町社会福祉協議会メンバーと関連事項を話し合った他、中能登町に向かい、宮下為幸町長を訪ねた後、町役場職員の案内で宿泊所に向かった。そこで翌日に鳳珠郡穴水町さわやか交流館プルートで行う炊き出しの材料を準備した。13日は東京や大阪から集まった14人のボランティアが会館に避難している住民に炊き出しを行なった。初日に220食分の昼食を提供した。この他、公立穴水総合病院の島中院長は、病院にも避難者がいるので、ボランティアに翌日から病院で温かい食事を提供してほしいと要請し、そのために病院内の厨房と調理器具を使えるように取り計らった。現在の炊き出し予定は13日から29日までの17日間だが、避難所の人数やニーズを見て調整する。

日本産経新聞は、慈済ボランティアが避難所で炊き出しを行っている状況を報道した(写真1、2)。

熱々で盛りだくさんの菜食は住民の心を温めた(写真3 撮影・周利貞)。

NHK仙台支局の記者が炊き出しの状況を取材した。(写真4 撮影・呉恵珍)

01・12

モザンビークは2019年にサイクロン・イダイによって大きな被害を受け、ベイラ市やティカ町などの数多くの学校が損壊した。その後、慈済基金会は23校の再建支援プロジェクトを展開し、本日、ニャマタンダ郡で13校の校舎引渡し式が行われた

01・13

大愛テレビ番組の大愛劇場《捜索者》の出演者である莊岳さんと《早く帰ってきて》の出演者、楊麗音さんが第28回アジアテレビアウォードの最優秀助演男優賞と最優秀助演女優賞を獲得し、本日、ベトナムのホーチミン市で授与式が行われた。

01・14

◎ベトナムの慈済ボランティアは、ビンズオン省ダウティエン県、ベンカト市、トゥーザウモット市などで歳末配付活動を行い、目の不自由な人や枯葉剤被害者の家庭など1500世帯を対象に、補助金と米、麺類、食用油などの物資を配付した。

◎ネパールのロータリークラブが一回目の建築道具50セットを寄付し、慈済基金会仏の国プロジェクトチームメンバーの陳吉民(済連)さんと現地ボランティアのマハスさんが代表で受け取った。その由来は、ロータリークラブ会長と多くのメンバーがマハスさんの講演を聞いたことにある。彼らは、慈済が西部地震の被災地でプレハブ教室の建設を支援した話を聞いて感動し、200セットの調達を決め、本日、その一回目の寄贈が行われた。

01・20

慈済基金会は10日から28日まで、台湾本土、金門、澎湖などで55回の冬季配付活動を行い、27000世帯の社会的弱者に「慈善プリペイドカード」と年越しの物資を配付した。

01・21

慈済日本支部は「令和6年能登半島地震」の被災者を支援するため、本日から26日まで、毎日午後1時から4時半まで街頭募金を行った。初日の募金活動はJR新大久保駅と新宿小田急デパート西口広場で行われ、11万3696円が集った。

關鍵字

台東での障害者歯科施療─半年前の約束 愛で包み込む

懐中電灯とヘッドランプで入所者の口を照らしながら、医師は丁寧に診療していた。全てのスケーリングをするベッドには、看護師と歯科助手、配管ボランティアが付いているが、さらに巡回医師が加わって一緒に安全を見守っている。

渡り鳥に似た毎年二回の集いで、二百人余りのボランティアが台湾全土から台東にある三つの養護施設に集まり、植物状態の人やディスアビリティ、心身障害者などに歯科の施療を行っている。

大勢で一床を取り囲み、最も行き届いた心遣いで、医者に行けない問題を解決し、家族の心の痛みを和らげている…。

「ママはここにいるよ。もうすぐだから、力を抜いて。ハンサムになるわよ!」陳世隆(チェン・スーロン)さん夫婦は毎週、創世基金会(Genesis Social Welfare Foundation)台東分院へ息子の泰佑(タイヨウ)さんを見舞いに来るが、その日だけは特別だった。七年前、泰佑さんは大型バイクで転倒事故を起こし、植物人間になってしまった。歯の治療のために、何軒もの歯医者に助けを求めたが、反応がない上に、気管切開をしているため、医師たちは治療できないと考え、丁重に断った。

二〇二二年、彼は創世緩和ケアホームに移ったところ、慈済人医会が定期的に歯科の施療を行っていたので、泰佑さんの黒っぽくて黄色だった歯が白くなった。

「泰佑が二回瞬きをしました。先生にお礼を言っています!」。息子は事故を起こしてから、去年十一月に初めてスケーリングしてもらったので、ずっと慈済のチームに会えることを楽しみにしていたが、やっと願いが叶った、と言った。「今日、こんなにたくさんの人が泰佑のために尽くしてくれるのを見ましたが、本当に思いもかけないことでした。こんなに素晴らしいチームがあることに心から感謝しています!」

陳世隆夫妻(右後方)は、慈済人医会チームが息子のためにスケーリングの準備をするのを見守っていた。

歯石が溜まっても、口で言えない苦しみ

北部、中部、南部、東部から来た慈済人医会の医療スタッフ合計二百十三人は、五月二十日と二十一日、台東仁愛の家養護センター、創世社会福利基金会台東分院、馬蘭栄の家附属慎修養護センターの三つの施設で、ディスアビリティのお年寄り、植物状態の人、心身障害者に、歯科と耳鼻咽喉科、外科の施療を行い、延べ三百人に奉仕した。

特殊な要求を必要とする歯科患者は、特別な臨床ケアが必要で、一床につき二名の歯科医を配置して相互にサポートし合う。アシスタントには看護師または特殊な訓練を受けた歯科助手を配置し、二人から三人が両側に分かれて立ち、患者の口の中の水分を吸い取り、器具の受け渡しの担当をする。ベッドの端には看護師または医師が一人いて、パルスオキシメーターを監視し、随時、血中酸素濃度に注意を払う。スケーリングする時、ひとたび水が気管に入ってしまえば、呼吸困難を引き起こし、血中酸素濃度が低下する。また、電気・水道設備工事ボランティアが側で待機し、機械が正常に作動するよう見守っている。巡回する医師も警戒心を持って待機し、緊急事態が起これば、直ちに対応できるようにしている。皆で方法を考えて、力を結集させることで、何重にも患者を保護し、最も安全な状態で治療を行えるようにしている。

花蓮慈済病院歯科部門の障害者歯科主任の李彝邦(リ―・イ―バン)医師は二〇〇七年、日本歯科大学で口腔在宅医療を学んだ。翌年、慈済人医会は創世基金会台中南屯分院から、植物状態の人が歯科の受診を必要としているが、ことごとく壁にぶつかっているという質問を受けた。そこで、台湾中部慈済人医会は初めて遷延性意識障害者施設で施療を始め、李医師と十数人のボランティアが三十人の植物状態の人に、スケーリングと治療を行った。

「初めて植物状態の人に施療をした時、私は泣きながら帰りました。それまで、あれほどの苦しみを抱えている患者を見たことがありません。まるで魂が牢獄の中に閉じ込められているようで、歯が痛くても声に出せないのです。ここで私たちはお手伝いしなければならない、と思いました」。

「彼らの歯石はコインほどの大きさになっていて、虫歯や歯周病も非常に多いのです。全部の歯をスケーリングするには、一人当たり一時間余りかかり、時には二、三回スケーリングしてやっと、歯石を完全に取り除くことができるのです」と李医師が言った。口のケアをしっかりしていないと、歯周病や虫歯になりやすく、そこから誤嚥性肺炎などを引き起こすリスクがある。歯周病の細菌が血液に入って心臓に影響を与えたり、脳に感染して腦膿瘍を引き起こしたり、血管に炎症を起こしたり、詰まったりすることで、脳卒中の確率が高くなるのだ。

毎回、次の動作に移る前に、李医師は患者を尊重して、一通り説明する。「スケーリングは痛いですよ。申し訳ありませんが、少し我慢してください」。特に植物状態の人の歯を治療するには経験が必要である。例えば、素早く歯石とスケーリングの時の水を吸い取り、水が口から溢れるのを防ぐ必要がある。彼は通常、心で十から二十数えると、一回スケーリングを中止する。患者が安全だと感じる姿勢を勝手に変えてはならない。ベッドを約四十度から六十度の角度に起こす必要があり、さらに首の後ろに枕を入れて、気管に角度がつくようにする。その時、患者は顔を下に向けた状態になる。頭が後ろに傾くと、水が容易に直接気管を通って肺に入ってしまう。

医師は寝たきりの患者に合わせて腰を屈め、時には長時間ベッドに身を乗り出して治療するので、首と腰部が痛くなるため、腰にサポーターをつけて診察することもあるが、どの医師も施療に喜びを感じ、皆、休みを取って自腹で何度も参加する。

二〇〇八年から既に十五年になるが、慈済人医会は三カ月に一回、創世台中南屯分院に赴いて施療を行っている。施療する場所は南屯創世に始まって、今は苗栗創世、南投草屯創世、新竹創世、台北華山創世、基隆創世、新店創世、台東創世まで増えた。植物状態の人が歯に痛みを感じ、歯茎に炎症が起きている時は、絶えず涎を垂らす。スケーリングすると、炎症による異臭はなくなり、施設内の空気も清々しくなって、臭気もなくなる。口の細菌が減り、肺炎に感染して入院する患者も減る。看護スタッフの負担が軽減するだけでなく、家族が見舞いに来る時も、近づき易くなる。

苦労は厭わないが、怖いのは孤軍奮闘

「噛まれたらそれは痛いですよ!しかし私は彼らがわざとやっているのではないことを知っています。もし私がその立場だったら、医療スタッフに理解してもらいたいと思うでしょう」。慎修センターのある高齢の患者は絶えず叫び続け、診察を拒み、黄文国(ホワン・ウェングォ)医師の手をきつく噛んだまま離そうとしなかった。

台北慈済病院歯科主治医の黄医師は、特殊需要者歯科向け外来に投入して既に二十年が過ぎた。診察室を訪れる患者の半数は精神疾患患者で、次に多いのが身体障害者である。一部の心身障害者は、警備員の協力を得てもスムーズに診療を終えることができない。

ある躁うつ病患者が診察室でぐだぐだと一時間余りも話し続けたため、一度助手が手を挙げて止めるように言ったが、その患者は憤慨して、助手の手を払いのけたことがある。黄医師は我慢強く耳を傾け、適時に諭した。患者は最後に、「私の話をずっと聞いてくれてありがとうございます。もうその人を殺そうとは思いません」と言った。

また、最後の別れを告げにきたと言う患者もいた。自分はすでに七日間、絶食していると言い、黄医師が長年にわたってケアしてくれたお蔭で、歯が痛くなくなったことに感謝した。黄医師は直ちにソーシャルワーカーに連絡すると同時に、その人を落ち着かせた。そして、慈済病院の懿徳ママが医療スタッフに贈ったプレゼントを彼にあげると、なんと患者は土下座して何度も礼を述べ、四日後の再診の時には、「気分が良くなりました」と言った。

黄医師は幼い頃から、父親に言い聞かせられてきたそうだ。「家族の面倒をきちんと見ること。能力が出てきたら、人を助けること」。彼は父親の言葉を胸に刻み、全身全霊で医療のプロとして人助けをしている。「しかし、私も歳をとって来たので、まだ働ける間に、若い人にバトンを渡したいのです!」と黄医師は最も心配していることを話してくれた。

障害者は容易に協力してくれない。医師は収入があまり高くないのに比べ医療リスクが高い。新人医師はいつも、三カ月もしないうちに辞めてしまう。黄医師は、苦労は厭わないが、外来でも施療でも、若い人材が続けて入って来てくれることを願っている。

李姿瑩(リ―・ツーイン)さんは、高雄医学大学慈済青年サークルの先輩格で、卒業後研修医(post graduate year)をしていた時、どの専門歯科を選択しようかと悩んでいた。ふと頭に浮かんだのは、彼女が大学五年生の研修の時、台湾障害者歯科医療の開拓者で、心身障害者歯科外来の創設者でもある黄純徳(ホワン・ツゥンド)医師が障害者の手を握って、患者に歌を歌っていた光景だった。それは彼女に、以前、慈青医療ボランティアチームに参加して患者に付き添った経験を思い起させた。「私は人生を有意義なものにしたいから、子供と障害者専門の歯科を選ぶことにしたのです!」。

二〇一七年、李さんは慈済人医会の施療活動に投入するようになり、翌年、後輩で大学三年生の黄子旻(ホワン・ヅーミン)さんを台東施療活動での歯科助手に誘った。黄さんは卒業後、去年初めて歯科医として台東施療活動に参加した。

李さんは以前、證厳法師が彼女に話したことを思い出した。「若い人を施療活動に誘うのは、実はそれほど困難ではありません」。そこで今年、勇気を出して、先輩の廖官瑄(リアォ・グヮンシュェン)医師と一緒に、母校の慈青サークルで青年医療ボランティア養成講座を開いた。十人の在校生と卒業生が参加してくれた。口腔の保健指導や医師について診療テクニックなどを学ぶ課程を組み入れた。そして順次、高屏地区慈済人医会の施療活動と協力し、今回の台東施療活動には五人の学生が参加した。

李さんによると、若い人は素直で熱意がある。国際的に著名な人類学者、ジェーン・グドール博士が言ったように、「若い人が集まれば、世界を変える力になる」。そして、彼女はその力の心強い後ろ盾になることを決めた。

陳清家(チェン・チンジア)医師は台東の人で、台東県歯科医協会の理事長である。三、四年間、健康保険医療チームが養護施設で行っていた障害者歯科診療に参加したことがあり、二〇二〇年十一月、初めて慈済人医会の施療活動に参加した。施設内にエイズ患者がいると知っていたが、彼は怯むことはなかった。「自分をしっかり守れば問題はない。みんながやっているから、私もやるのです」。

施療活動はコロナ禍で二年間中止されたが、二〇二二年十一月、彼は再び施療活動に加わり、初めて創世で植物状態の人のためにスケーリングをした。不安は収まらなかったが、幸いにも同じチームの李彝邦医師が数多くの診療テクニックを教えてくれた。また、医療チームにこれほどたくさんの人が一緒に患者をケアしているのを見て、彼は気持ちが大分落ち着いた。

植物状態の人がスケーリングの時に突然涙を流したため、彼はとても驚いたことがある。患者が痛みからなのか、それともたくさんの人の心遣いに感動したからなのかは分からなかった。皆優しく、「私たちはお手伝いするために来ているのですよ」と労った。

妻の呉彦嬋(ウ―・イェンツァン)さんと息子の陳道宜(チェン・ダオイー)さんも参加して助手を担当した。妻は彼と一緒に施療活動に参加できたことに心から感謝した。道宜さんは丁度一回目の国家試験に合格したところで、まだ研修医だった。陳さんは息子が施療活動で技術や経験を学ぶだけでなく、将来、大愛精神を生涯の医療志業の中に溶け込ませてほしいと望んでいる。

施療開始前、ボランティアは、医療チームがスムーズに診察できるように、配管や配線の取り付けに忙しかった。

定期治療にまた来ます

創世基金会台東分院の王玉鳳(ワン・ユ―フォン)院長は、二〇一六年、慈済人医会が初めて施療に訪れた時、四十数名の医療スタッフとボランティアが来てくれたことに、彼女はその場で感動して涙を流し、「まるで一筋の暁光が射したようです」と言った。

二〇一四年に台東分院が開院した後、彼女は現地で口腔医療ケアのリソースを見つけることができなかったが、台湾全土から集まって、遠く離れた台東で患者に奉仕しているチームがあるとは思ってもいなかった。活動終了間際、王さんは、「次の機会はあるのでしょうか」とひどく心配した。謝金龍(シェ・ヂンロン)医師や李医師などの多くの医師は迷うことなく、「私たちは必ずまた来ます!」と答えた。

毎年五月と十一月、慈済人医会は定期的に、台東での障害者歯科施療を行っている。新型コロナの感染が拡大した時期、施療は中止せざるを得なかったが、医療チームはオンラインで継続してケアした。「昨晩、台東の地震はやや大きかったようですが、院長も入所者も大丈夫でしたか?」、「院長と入所者のことがとても懐かしく、彼らの口腔の健康が心配です」、「施療活動が早く以前のようにできるよう願っています」……。

コロナ禍が落ち着くと、去年十一月に施療活動が再開し、王玉鳳さんは、「彼らが来るのを見て、私はまた泣いてしまいました。彼らは私たちのことを忘れていないのです!」

李彝邦さんは患者に歌を歌ってあげるのが好きで、患者の気持ちが落ち着く。「歌ってあげると、植物状態の人は、血中酸素濃度が上がることもあるのです!」若いマイさんは交通事故で脳が損傷し、創世台東分院に来て半年になるが、奇跡的に意識を取り戻した。李医師は、マイさんが台湾の歌手ジェイ・チョウの歌を聞くのが好きだと知っていたので、「虹」という歌を特別に練習して歌って聞かせた。マイさんは聞きながら笑顔を見せた。李医師は、リハビリをしっかりやるよう励まし、「杖をついて歩くことができるようになったら、台中に遊びに連れて行ってあげるよ!」と言った。

「初めは十数人だったのが、今では二百人余りになっています。本当に別の意味での奇跡だと思います」と李医師が言った。

「慈済に参加しているから、これほど多くの志を一つにした医師とボランティアを見つけることができ、本当に素晴らしいと感じました。皆が力を結集させたことで、一度にこんなにも多くの人の口の健康ケアをすることができたのです。あらゆる善の心やポジティブなエネルギーがここに集まって、彼らの苦しみを取り除いているのです。私は、慈済にいることはとても幸せなことだと思います!」。

(慈済月刊六八〇期より)

懐中電灯とヘッドランプで入所者の口を照らしながら、医師は丁寧に診療していた。全てのスケーリングをするベッドには、看護師と歯科助手、配管ボランティアが付いているが、さらに巡回医師が加わって一緒に安全を見守っている。

渡り鳥に似た毎年二回の集いで、二百人余りのボランティアが台湾全土から台東にある三つの養護施設に集まり、植物状態の人やディスアビリティ、心身障害者などに歯科の施療を行っている。

大勢で一床を取り囲み、最も行き届いた心遣いで、医者に行けない問題を解決し、家族の心の痛みを和らげている…。

「ママはここにいるよ。もうすぐだから、力を抜いて。ハンサムになるわよ!」陳世隆(チェン・スーロン)さん夫婦は毎週、創世基金会(Genesis Social Welfare Foundation)台東分院へ息子の泰佑(タイヨウ)さんを見舞いに来るが、その日だけは特別だった。七年前、泰佑さんは大型バイクで転倒事故を起こし、植物人間になってしまった。歯の治療のために、何軒もの歯医者に助けを求めたが、反応がない上に、気管切開をしているため、医師たちは治療できないと考え、丁重に断った。

二〇二二年、彼は創世緩和ケアホームに移ったところ、慈済人医会が定期的に歯科の施療を行っていたので、泰佑さんの黒っぽくて黄色だった歯が白くなった。

「泰佑が二回瞬きをしました。先生にお礼を言っています!」。息子は事故を起こしてから、去年十一月に初めてスケーリングしてもらったので、ずっと慈済のチームに会えることを楽しみにしていたが、やっと願いが叶った、と言った。「今日、こんなにたくさんの人が泰佑のために尽くしてくれるのを見ましたが、本当に思いもかけないことでした。こんなに素晴らしいチームがあることに心から感謝しています!」

陳世隆夫妻(右後方)は、慈済人医会チームが息子のためにスケーリングの準備をするのを見守っていた。

歯石が溜まっても、口で言えない苦しみ

北部、中部、南部、東部から来た慈済人医会の医療スタッフ合計二百十三人は、五月二十日と二十一日、台東仁愛の家養護センター、創世社会福利基金会台東分院、馬蘭栄の家附属慎修養護センターの三つの施設で、ディスアビリティのお年寄り、植物状態の人、心身障害者に、歯科と耳鼻咽喉科、外科の施療を行い、延べ三百人に奉仕した。

特殊な要求を必要とする歯科患者は、特別な臨床ケアが必要で、一床につき二名の歯科医を配置して相互にサポートし合う。アシスタントには看護師または特殊な訓練を受けた歯科助手を配置し、二人から三人が両側に分かれて立ち、患者の口の中の水分を吸い取り、器具の受け渡しの担当をする。ベッドの端には看護師または医師が一人いて、パルスオキシメーターを監視し、随時、血中酸素濃度に注意を払う。スケーリングする時、ひとたび水が気管に入ってしまえば、呼吸困難を引き起こし、血中酸素濃度が低下する。また、電気・水道設備工事ボランティアが側で待機し、機械が正常に作動するよう見守っている。巡回する医師も警戒心を持って待機し、緊急事態が起これば、直ちに対応できるようにしている。皆で方法を考えて、力を結集させることで、何重にも患者を保護し、最も安全な状態で治療を行えるようにしている。

花蓮慈済病院歯科部門の障害者歯科主任の李彝邦(リ―・イ―バン)医師は二〇〇七年、日本歯科大学で口腔在宅医療を学んだ。翌年、慈済人医会は創世基金会台中南屯分院から、植物状態の人が歯科の受診を必要としているが、ことごとく壁にぶつかっているという質問を受けた。そこで、台湾中部慈済人医会は初めて遷延性意識障害者施設で施療を始め、李医師と十数人のボランティアが三十人の植物状態の人に、スケーリングと治療を行った。

「初めて植物状態の人に施療をした時、私は泣きながら帰りました。それまで、あれほどの苦しみを抱えている患者を見たことがありません。まるで魂が牢獄の中に閉じ込められているようで、歯が痛くても声に出せないのです。ここで私たちはお手伝いしなければならない、と思いました」。

「彼らの歯石はコインほどの大きさになっていて、虫歯や歯周病も非常に多いのです。全部の歯をスケーリングするには、一人当たり一時間余りかかり、時には二、三回スケーリングしてやっと、歯石を完全に取り除くことができるのです」と李医師が言った。口のケアをしっかりしていないと、歯周病や虫歯になりやすく、そこから誤嚥性肺炎などを引き起こすリスクがある。歯周病の細菌が血液に入って心臓に影響を与えたり、脳に感染して腦膿瘍を引き起こしたり、血管に炎症を起こしたり、詰まったりすることで、脳卒中の確率が高くなるのだ。

毎回、次の動作に移る前に、李医師は患者を尊重して、一通り説明する。「スケーリングは痛いですよ。申し訳ありませんが、少し我慢してください」。特に植物状態の人の歯を治療するには経験が必要である。例えば、素早く歯石とスケーリングの時の水を吸い取り、水が口から溢れるのを防ぐ必要がある。彼は通常、心で十から二十数えると、一回スケーリングを中止する。患者が安全だと感じる姿勢を勝手に変えてはならない。ベッドを約四十度から六十度の角度に起こす必要があり、さらに首の後ろに枕を入れて、気管に角度がつくようにする。その時、患者は顔を下に向けた状態になる。頭が後ろに傾くと、水が容易に直接気管を通って肺に入ってしまう。

医師は寝たきりの患者に合わせて腰を屈め、時には長時間ベッドに身を乗り出して治療するので、首と腰部が痛くなるため、腰にサポーターをつけて診察することもあるが、どの医師も施療に喜びを感じ、皆、休みを取って自腹で何度も参加する。

二〇〇八年から既に十五年になるが、慈済人医会は三カ月に一回、創世台中南屯分院に赴いて施療を行っている。施療する場所は南屯創世に始まって、今は苗栗創世、南投草屯創世、新竹創世、台北華山創世、基隆創世、新店創世、台東創世まで増えた。植物状態の人が歯に痛みを感じ、歯茎に炎症が起きている時は、絶えず涎を垂らす。スケーリングすると、炎症による異臭はなくなり、施設内の空気も清々しくなって、臭気もなくなる。口の細菌が減り、肺炎に感染して入院する患者も減る。看護スタッフの負担が軽減するだけでなく、家族が見舞いに来る時も、近づき易くなる。

苦労は厭わないが、怖いのは孤軍奮闘

「噛まれたらそれは痛いですよ!しかし私は彼らがわざとやっているのではないことを知っています。もし私がその立場だったら、医療スタッフに理解してもらいたいと思うでしょう」。慎修センターのある高齢の患者は絶えず叫び続け、診察を拒み、黄文国(ホワン・ウェングォ)医師の手をきつく噛んだまま離そうとしなかった。

台北慈済病院歯科主治医の黄医師は、特殊需要者歯科向け外来に投入して既に二十年が過ぎた。診察室を訪れる患者の半数は精神疾患患者で、次に多いのが身体障害者である。一部の心身障害者は、警備員の協力を得てもスムーズに診療を終えることができない。

ある躁うつ病患者が診察室でぐだぐだと一時間余りも話し続けたため、一度助手が手を挙げて止めるように言ったが、その患者は憤慨して、助手の手を払いのけたことがある。黄医師は我慢強く耳を傾け、適時に諭した。患者は最後に、「私の話をずっと聞いてくれてありがとうございます。もうその人を殺そうとは思いません」と言った。

また、最後の別れを告げにきたと言う患者もいた。自分はすでに七日間、絶食していると言い、黄医師が長年にわたってケアしてくれたお蔭で、歯が痛くなくなったことに感謝した。黄医師は直ちにソーシャルワーカーに連絡すると同時に、その人を落ち着かせた。そして、慈済病院の懿徳ママが医療スタッフに贈ったプレゼントを彼にあげると、なんと患者は土下座して何度も礼を述べ、四日後の再診の時には、「気分が良くなりました」と言った。

黄医師は幼い頃から、父親に言い聞かせられてきたそうだ。「家族の面倒をきちんと見ること。能力が出てきたら、人を助けること」。彼は父親の言葉を胸に刻み、全身全霊で医療のプロとして人助けをしている。「しかし、私も歳をとって来たので、まだ働ける間に、若い人にバトンを渡したいのです!」と黄医師は最も心配していることを話してくれた。

障害者は容易に協力してくれない。医師は収入があまり高くないのに比べ医療リスクが高い。新人医師はいつも、三カ月もしないうちに辞めてしまう。黄医師は、苦労は厭わないが、外来でも施療でも、若い人材が続けて入って来てくれることを願っている。

李姿瑩(リ―・ツーイン)さんは、高雄医学大学慈済青年サークルの先輩格で、卒業後研修医(post graduate year)をしていた時、どの専門歯科を選択しようかと悩んでいた。ふと頭に浮かんだのは、彼女が大学五年生の研修の時、台湾障害者歯科医療の開拓者で、心身障害者歯科外来の創設者でもある黄純徳(ホワン・ツゥンド)医師が障害者の手を握って、患者に歌を歌っていた光景だった。それは彼女に、以前、慈青医療ボランティアチームに参加して患者に付き添った経験を思い起させた。「私は人生を有意義なものにしたいから、子供と障害者専門の歯科を選ぶことにしたのです!」。

二〇一七年、李さんは慈済人医会の施療活動に投入するようになり、翌年、後輩で大学三年生の黄子旻(ホワン・ヅーミン)さんを台東施療活動での歯科助手に誘った。黄さんは卒業後、去年初めて歯科医として台東施療活動に参加した。

李さんは以前、證厳法師が彼女に話したことを思い出した。「若い人を施療活動に誘うのは、実はそれほど困難ではありません」。そこで今年、勇気を出して、先輩の廖官瑄(リアォ・グヮンシュェン)医師と一緒に、母校の慈青サークルで青年医療ボランティア養成講座を開いた。十人の在校生と卒業生が参加してくれた。口腔の保健指導や医師について診療テクニックなどを学ぶ課程を組み入れた。そして順次、高屏地区慈済人医会の施療活動と協力し、今回の台東施療活動には五人の学生が参加した。

李さんによると、若い人は素直で熱意がある。国際的に著名な人類学者、ジェーン・グドール博士が言ったように、「若い人が集まれば、世界を変える力になる」。そして、彼女はその力の心強い後ろ盾になることを決めた。

陳清家(チェン・チンジア)医師は台東の人で、台東県歯科医協会の理事長である。三、四年間、健康保険医療チームが養護施設で行っていた障害者歯科診療に参加したことがあり、二〇二〇年十一月、初めて慈済人医会の施療活動に参加した。施設内にエイズ患者がいると知っていたが、彼は怯むことはなかった。「自分をしっかり守れば問題はない。みんながやっているから、私もやるのです」。

施療活動はコロナ禍で二年間中止されたが、二〇二二年十一月、彼は再び施療活動に加わり、初めて創世で植物状態の人のためにスケーリングをした。不安は収まらなかったが、幸いにも同じチームの李彝邦医師が数多くの診療テクニックを教えてくれた。また、医療チームにこれほどたくさんの人が一緒に患者をケアしているのを見て、彼は気持ちが大分落ち着いた。

植物状態の人がスケーリングの時に突然涙を流したため、彼はとても驚いたことがある。患者が痛みからなのか、それともたくさんの人の心遣いに感動したからなのかは分からなかった。皆優しく、「私たちはお手伝いするために来ているのですよ」と労った。

妻の呉彦嬋(ウ―・イェンツァン)さんと息子の陳道宜(チェン・ダオイー)さんも参加して助手を担当した。妻は彼と一緒に施療活動に参加できたことに心から感謝した。道宜さんは丁度一回目の国家試験に合格したところで、まだ研修医だった。陳さんは息子が施療活動で技術や経験を学ぶだけでなく、将来、大愛精神を生涯の医療志業の中に溶け込ませてほしいと望んでいる。

施療開始前、ボランティアは、医療チームがスムーズに診察できるように、配管や配線の取り付けに忙しかった。

定期治療にまた来ます

創世基金会台東分院の王玉鳳(ワン・ユ―フォン)院長は、二〇一六年、慈済人医会が初めて施療に訪れた時、四十数名の医療スタッフとボランティアが来てくれたことに、彼女はその場で感動して涙を流し、「まるで一筋の暁光が射したようです」と言った。

二〇一四年に台東分院が開院した後、彼女は現地で口腔医療ケアのリソースを見つけることができなかったが、台湾全土から集まって、遠く離れた台東で患者に奉仕しているチームがあるとは思ってもいなかった。活動終了間際、王さんは、「次の機会はあるのでしょうか」とひどく心配した。謝金龍(シェ・ヂンロン)医師や李医師などの多くの医師は迷うことなく、「私たちは必ずまた来ます!」と答えた。

毎年五月と十一月、慈済人医会は定期的に、台東での障害者歯科施療を行っている。新型コロナの感染が拡大した時期、施療は中止せざるを得なかったが、医療チームはオンラインで継続してケアした。「昨晩、台東の地震はやや大きかったようですが、院長も入所者も大丈夫でしたか?」、「院長と入所者のことがとても懐かしく、彼らの口腔の健康が心配です」、「施療活動が早く以前のようにできるよう願っています」……。

コロナ禍が落ち着くと、去年十一月に施療活動が再開し、王玉鳳さんは、「彼らが来るのを見て、私はまた泣いてしまいました。彼らは私たちのことを忘れていないのです!」

李彝邦さんは患者に歌を歌ってあげるのが好きで、患者の気持ちが落ち着く。「歌ってあげると、植物状態の人は、血中酸素濃度が上がることもあるのです!」若いマイさんは交通事故で脳が損傷し、創世台東分院に来て半年になるが、奇跡的に意識を取り戻した。李医師は、マイさんが台湾の歌手ジェイ・チョウの歌を聞くのが好きだと知っていたので、「虹」という歌を特別に練習して歌って聞かせた。マイさんは聞きながら笑顔を見せた。李医師は、リハビリをしっかりやるよう励まし、「杖をついて歩くことができるようになったら、台中に遊びに連れて行ってあげるよ!」と言った。

「初めは十数人だったのが、今では二百人余りになっています。本当に別の意味での奇跡だと思います」と李医師が言った。

「慈済に参加しているから、これほど多くの志を一つにした医師とボランティアを見つけることができ、本当に素晴らしいと感じました。皆が力を結集させたことで、一度にこんなにも多くの人の口の健康ケアをすることができたのです。あらゆる善の心やポジティブなエネルギーがここに集まって、彼らの苦しみを取り除いているのです。私は、慈済にいることはとても幸せなことだと思います!」。

(慈済月刊六八〇期より)

關鍵字

ヨルダン|ヨルダンの新メンバー 平和はこんなにも貴い

一人はパレスチナ難民であり、一人はシリア難民で一人親家庭の大黒柱である。戦火にさらされる故郷に戻るのは難しいが、心の里に平和を見つけた。

6月に海外ボランティアの研修キャンプに参加するため、ヨルダンに戻れなくなる危険を冒してまで花蓮にやって来たアルリズさん(右)と、20年以上慈済の活動を協力してきたハリファさん(左)は、慈済ボランティアの認証を授かった。 (撮影・陳秋華)

飛行機は、ヨルダンのアンマンを出発するとバーレーン、シンガポール、タイを経由し、四十八時間後にやっと台湾に着いた。今年の六月二十三日、ヨルダン人のカデル・ハリファさんとシリア人のムハンマド・ヘア・アルリズさんは、長旅を恐れず、二人とも心の故郷に戻り、花蓮静思堂で證厳法師から慈済ボランティアの認証を授かった。

研修キャンプが無事に終わっても、アルリズさんのヨルダン入境ビザは下りなかったが、二人はスケジュール通り飛行機に乗るつもりで桃園空港に向かった。ハリファさんはアルリズさんにずっと付き添って「大丈夫です。ヨルダン内務省はもう、ビザの許可を下しています」と慰めの言葉をかけていたが、二人は不安の気持ちを拭い去れなかった。

戦火を逃れ、困窮を味わった

六十歳のハリファさんは、ヨルダンの首都アンマンにある公立学校を定年退職した教師である。彼は十六歳の時から、ハッサン皇太子の護衛隊武術教官だった陳秋華(チェン・チュウフワ)氏についてテコンドーを学んでいたが、パフォーマンスが突出していたため、その後、テコンドーヨルダン代表チームのコーチを二十一年間務めた。パレスチナ人であるハリファさんの父親は、一九四八年に第一次中東戦争が起きた時、家族を連れてエルサレムからヨルダンへ逃れて来た。十人兄弟の長男であるハリファさんは、弟妹たちを世話する責任を感じていた。

「子供の頃、私は市街地で新聞を売って生計を立てていました。冬と夏休みの時は、叔父について建設現場でレンガ運びやセメントのかき混ぜなどのアルバイトをして小遣いを稼ぎました。青少年の頃は、近くの小学校の正門前でアイスキャンディーを売っていました」。貧しい家庭環境で苦労して育ったハリファさんは、過酷な環境で生き抜く方法をよく理解している。

学校へ行くにも大変苦労したそうだ。政府から交通費の補助が得られる大学に入り、やっと学士号を取得することができた。卒業後は公立の専門学校で教師として勤めるようになり、また陳さんのテコンドー道場でコーチとして働き、生活が少しずつ上向きになった。彼より十四歳年上の陳さんは、ハリファさんにとって、教師や友人であるだけでなく、父親代わりであり、兄弟でもあるのだ。

テコンドー道場にいた数年間は、陳さんの傍について貧困者への支援活動をした。毎年、ラマダンになると、貧しい子どものために、新年を迎えるための新しい服を購入した。また、優秀な成績で大学に合格しても学費を払えない学生には、学費をサポートした。その他、学生の家庭で大きな出来事が発生すると、緊急支援をした。時間が経つのは早く、彼がこのような慈済のヨルダンでの活動に接して、二十年余りが経った。

「極度な貧困地区にいる人を見ると、私は自分の生活に対して感謝の気持ちでいっぱいになると同時に、もっと多くの人に手を差し伸べたいと思うようになります」。配付活動で人々をケアしながら、證厳法師の宗教家の志と陳さんの見返りを求めない奉仕が、彼の心を徐々に潤していった。

二〇二〇年、コロナ禍によるロックダウンの最中、陳さんは仕事の制限で、現地へ配付活動に行くことができなかった。陳さんは地元出身の慈済ボランティアである済仁さん(アブ・タマル)とハリフェさんに頼んで、通行パスを発行できる警察の退職職員を探してもらった。そして、全国的なロックダウン期間でも、十五カ所で千六百世帯余りに困窮支援の配付を行うという任務を果たした。

ある日、陳さんは救済支援に必要な資金を引き出すために銀行へ行こうとしたが、公共交通機関がストップし、道路も規制がかかっていたので、炎天下で三時間かけて歩いて行った。苦難の人々のために、我が身を顧みない慈悲心は、ハリファさんの心を動かし、より深く慈済のことを知りたいと思うようになった。 「一体どのような因縁で、七十歳の年長者が足の痛みに耐えながら、ヨルダン人やシリア難民に、これほどの気配りをしているのだろうか」。

国境のマフラク地区で慈済ボランティアは長年、ベドウィン族に寄り添っている。アルリズさん(後列左から6人目)とハリファさん(後列右から2人目)はケア世帯の子どもたちを伴って、自分たちよりも苦しんでいる子どもたちへの文房具の配付活動の手伝いに参加してもらった。(撮影・陳秋華)

「慈心の家」 難民と孤児と未亡人を保護

二〇二一年七月、シリア人のシングルマザーと子どもたちを受け入れている「慈心の家」でテコンドー教室を開くことになった。これを機会に、ハリフェさんは慈済ボランティアの活動に参加する機会が増え、より多くのシリア難民に接するようになった。慈済ボランティアは、配付活動の時にいつも五つの静思語をシェアしているが、「慈心の家」の子どもたちはしっかりと聞き入れている。現地ボランティアたちも、慈済は人種や宗教の超えた大家族だと更に理解を深めた。同年十月には、ハリファさんと「慈心の家」の責任者アルリズさんが、研修ボランティアの仲間に加わった。

アルリズさんの父親ムハンマド・バシール・ローズさんは、シリアのダマスカスのスラム街に生まれ、若い頃は靴の修理で生計を立て、貧しくても懸命に勉強した。最終的にはアラビア文学、イスラム教法と法律の三つの学士号を取得した。そして、ダマスカス大学の有名な学者になった。二〇一一年に病でこの世を去った時、ダマスカス住民たちの半数が、街頭で彼の告別式に参列した。

「父親の人生は私の励みになり、一生懸命勉強して働かなければと思うようになりました」と五十八歳のアルリズさんは振り返った。一九八二年からシリアにおける政治が混乱したことから、一九九〇年父親はアルリズさんに故郷を離れるよう勧め、彼はドバイでアラビア語教師として十七年間働いた。

二〇〇七年、アルリズさんはシリアに戻り、出版社を設立した。四年後、シリアで内戦が勃発し、彼は再びドバイへ向かったが、数カ月経っても仕事を見つけることができなかった。二〇一二年に再びシリアに戻り、家族全員でヨルダンに行き、まずザータリ難民キャンプに宿泊し、それからアンマンに移った。

妻の叔父は商売に成功した人で、二〇一二年に三人の友人と資金を出し合い、アンマンのアインアルバーシャ地区にある建物を賃貸してシリア難民の未亡人や孤児たちを保護するようになった。そして、「サファウトハウス」とネーミングされたその建物の管理を、アルリズさんに任せるようになった。それが「慈心の家」の由来である。

人々は、戦争などすぐに終わると思っていた。二〇一六年には、妻の叔父と友人たちは、サファウトハウスの家賃を払えなくなり、アルリズさんは慈済に、難民家族を支援できないか、と助けを求めた。

その年の十二月、ヨルダンの慈済ボランティアは食糧パックを持ってサファウトハウスにやって来た。「初めて慈済と接触した時、この慈善団体は全く違うと感じました。彼らの真心と思いやりが感じられ、人の子を我が子と思って接しているのです」。そして、アルリズさんは陳さんに、来月また来てもらえないかと尋ねた。そのようにして、慈済が家賃援助を行うようになってから、サファウトハウスの経済状況は次第に安定するようになった。慈済がその後も施療、物資の配付、学費の支援などを続けたので、二〇一七年、その建物の名称は「慈心の家」になった。

二〇二三年七月末の統計によると、慈心ハウスには三十三世帯の難民家族が暮らしている。さらに慈済は、入居者のシングルマザーたちが自力更生できるよう、就業スキルを身につけてもらうために、裁縫師、美容師、在宅介護士、料理職人などの職業訓練の提供を試みている。

異国の地に留まる 
最も難しい選択

この七年間あまり、アルリズさんは慈済の活動にボランティアとして参加してきたことで、慈済に対する理解が益々深まった。

「證厳法師の教えは純粋で、正しい宗教ですから」彼は法師の教えにとても敬服している。

アルリズさんは強調してこう言った。「法師は、誰もがあらゆる生命を愛し、心を浄化し、欲望を減らすよう教えています。これは世界がより良くなる唯一の方法なのです」。イスラム教のハディース(預言者の聖訓)に、「あなたが地上の楽園に住めないのであれば、天上のパラダイスにも住めません」という言葉がある。また、「上人は私たちの導師であり、あらゆる慈済ボランティアを導いて、どこであっても、一緒に助けを必要としている人に手を差し伸べています。上人に感謝しています」。

今年二月六日にトルコ・シリア大地震が発生すると、同月二十八日には慈済の支援物資を積んだ四台の軍用トラックがシリア領内に入り、三月には再び、十八台の軍用トラックが衣服、毛布、靴、手袋、帽子を積んで、四回にわたって被災地に入った。

「ほら!あちらがシリアです!」とアルリズさんは興奮して叫んだ。ヨルダンのジャビル国境検問所の向こうを指さしながら、同行した慈済ヨルダン支部のスタッフである林綠卿(リン・リューチン)さんに懇願した。「早くシリアを背景にした写真を撮ってください」。彼の目には涙が溢れた。指が指す方向にあるのは、昼夜を分かたず思い続け、帰りたくても帰れない故郷なのだ。

「戦争が始まってから、シリア人は皆、安全とはどれほど貴重なものかを初めて知りました。私たちは皆、戦争が終わり、平和な日々が戻って来て欲しいと、どれほど願っていることか」。外国からの支援物資がついに国境を通過したのを見たとき、アルリズさんの胸には感慨深いものが溢れた。「私の三人の姉妹はまだシリアにいます。彼女たちは、戦争の起こっていない比較的安全な地域に住んでいるので、あまり心配していません。しかし、十二年間も会っていないのです。とても会いたいです」。アルリズさんは避難した何百万人ものシリア人の気持ちを代弁した。「かつてシリアにあった私の財産は、全てなくなってしまいました。帰る理由がありませんし、もし帰ったら、ヨルダンに戻って来られなくなります」。

ヨルダンの政策によると、難民証明書を持っているシリア人がヨルダンを離れる時、シリア難民として再びヨルダンに入国することができないという誓約書に署名し、難民証明書を置いていかなければならないのである。今年六月、アルリズさんは「慈済海外委員慈誠精神セミナー」に参加するつもりだったが、台湾へ出発する直前になってもヨルダンへの再入国許可が遅々として下りなかった。順調にヨルダンに戻れないかもしれないという不安な気持ちを抱えていたが、彼の台湾行きの決意が揺らぐことはなかった。台湾の静思精舎で、長年、シリア難民を見捨てず、援助し続けてくれた證厳法師に、直接、感謝したかったのだ。

ハリファさん(左から4人目)とアルリズさん(左から3人目)は、慈心の家にあるテコンドー教室の子どもたちを連れて、イルビド社会福祉部の女子保護施設で交流に参加した。さらに学習する機会を大切にして、専門の技術を身につけるようにと励ました。(撮影・林緑卿)

どこから来たのか問わない 
ここでは皆家族

台湾へ来る前、ハリファさんは、再入国許可を待っているアルリズさんを一人残して飛行機の長旅をするのは忍びなくなり、自ら進んで出国の期日を伸ばし、アルリズさんに併せて台湾へ出発した。

五日間にわたる海外ボランティア研修キャンプで、アルリズさんは深く感銘を受けた。

「慈済では和諧、調和の大切さを感じました。地域を超えて各地からきた人々を家族と見なし、みんなで一丸となって人心の浄化に努めています。とても貴重な講座であり、ここから離れず、ずっと聴き続けていたい気持ちです」。また、慈済の組織力と調整力を賞賛し、「今の世界で、慈済のような団体は稀です。まるで天国にいるかのようで、平和な気持ちになれました」。

研修キャンプを無事に終えた後、ハリファさんとアルリズさんは再び一緒に、帰国の途に着いた。しかし、バンコクの空港で乗り継ぐ際、ハリフェさんは不安が募った。それは「あるシリア人の男性が空港の警備員に連行され、出発地に送り返されるのを見た」 からだった。

一方、まだ台湾に滞在していた陳さんは、もっと心配していた。彼はヨルダンのハッサン親王の娘であるスマヤ王女に助けを求めた。親王執務室の二人の職員が空港まで出迎えに行き、 六月二十八日の正午、保安検査と入境審査を通過した二人は、やっと入国することができた。

当日はイスラム教のイード・アル=アドハー(犠牲祭)の初日で、家族が一家団欒する日でもある。二人は空港を出ると直ぐ皆に無事を報告し、連絡を待ち望んでいた台湾とヨルダンの法縁者たちにオンラインで報告した。皆はやっと安心することができた。

無事に戻った後、アルリズさんは證厳法師に短い手紙を書いた。「他人に感謝しない人はアッラー(神)に感謝することも知らない、と私たちはよく言います。先ず、上人に感謝します。私たちの慈悲心をケアして下さり、深く心を動かされました。上人は世界中の人から愛され、尊敬され、感謝されるに値する人だ、とつくづく感じました」。

また、海外ボランティア研修キャンプで、「もし師父のことを愛するならば、師父の愛する人を愛してください。即ちこの世で苦しんでいる衆生です」という證厳法師の言葉を心に刻んだ。陳さんが苦しんでいる人々のために、なぜそれほどまでに苦労して奔走しているのか。実はそういう理由があったからなのだ。

人生の苦難、貧困、戦争を共に経験した彼らが、このように成長して来た過程で、決して諦めることがなかったことが二つある。慈善と教育である。上に向けて支援を受けていた手のひらを下に向け、他人を引き上げる力を持つようになった。アルリズさんとハリファさんは、自身の経験を活かし、苦難に喘ぐ人たちに逞しくなろうと励ましている。二人はヨルダンチームで最も心優しく力強い、新たなメンバーなのである。

(慈済月刊六八二期より)

一人はパレスチナ難民であり、一人はシリア難民で一人親家庭の大黒柱である。戦火にさらされる故郷に戻るのは難しいが、心の里に平和を見つけた。

6月に海外ボランティアの研修キャンプに参加するため、ヨルダンに戻れなくなる危険を冒してまで花蓮にやって来たアルリズさん(右)と、20年以上慈済の活動を協力してきたハリファさん(左)は、慈済ボランティアの認証を授かった。 (撮影・陳秋華)

飛行機は、ヨルダンのアンマンを出発するとバーレーン、シンガポール、タイを経由し、四十八時間後にやっと台湾に着いた。今年の六月二十三日、ヨルダン人のカデル・ハリファさんとシリア人のムハンマド・ヘア・アルリズさんは、長旅を恐れず、二人とも心の故郷に戻り、花蓮静思堂で證厳法師から慈済ボランティアの認証を授かった。

研修キャンプが無事に終わっても、アルリズさんのヨルダン入境ビザは下りなかったが、二人はスケジュール通り飛行機に乗るつもりで桃園空港に向かった。ハリファさんはアルリズさんにずっと付き添って「大丈夫です。ヨルダン内務省はもう、ビザの許可を下しています」と慰めの言葉をかけていたが、二人は不安の気持ちを拭い去れなかった。

戦火を逃れ、困窮を味わった

六十歳のハリファさんは、ヨルダンの首都アンマンにある公立学校を定年退職した教師である。彼は十六歳の時から、ハッサン皇太子の護衛隊武術教官だった陳秋華(チェン・チュウフワ)氏についてテコンドーを学んでいたが、パフォーマンスが突出していたため、その後、テコンドーヨルダン代表チームのコーチを二十一年間務めた。パレスチナ人であるハリファさんの父親は、一九四八年に第一次中東戦争が起きた時、家族を連れてエルサレムからヨルダンへ逃れて来た。十人兄弟の長男であるハリファさんは、弟妹たちを世話する責任を感じていた。

「子供の頃、私は市街地で新聞を売って生計を立てていました。冬と夏休みの時は、叔父について建設現場でレンガ運びやセメントのかき混ぜなどのアルバイトをして小遣いを稼ぎました。青少年の頃は、近くの小学校の正門前でアイスキャンディーを売っていました」。貧しい家庭環境で苦労して育ったハリファさんは、過酷な環境で生き抜く方法をよく理解している。

学校へ行くにも大変苦労したそうだ。政府から交通費の補助が得られる大学に入り、やっと学士号を取得することができた。卒業後は公立の専門学校で教師として勤めるようになり、また陳さんのテコンドー道場でコーチとして働き、生活が少しずつ上向きになった。彼より十四歳年上の陳さんは、ハリファさんにとって、教師や友人であるだけでなく、父親代わりであり、兄弟でもあるのだ。

テコンドー道場にいた数年間は、陳さんの傍について貧困者への支援活動をした。毎年、ラマダンになると、貧しい子どものために、新年を迎えるための新しい服を購入した。また、優秀な成績で大学に合格しても学費を払えない学生には、学費をサポートした。その他、学生の家庭で大きな出来事が発生すると、緊急支援をした。時間が経つのは早く、彼がこのような慈済のヨルダンでの活動に接して、二十年余りが経った。

「極度な貧困地区にいる人を見ると、私は自分の生活に対して感謝の気持ちでいっぱいになると同時に、もっと多くの人に手を差し伸べたいと思うようになります」。配付活動で人々をケアしながら、證厳法師の宗教家の志と陳さんの見返りを求めない奉仕が、彼の心を徐々に潤していった。

二〇二〇年、コロナ禍によるロックダウンの最中、陳さんは仕事の制限で、現地へ配付活動に行くことができなかった。陳さんは地元出身の慈済ボランティアである済仁さん(アブ・タマル)とハリフェさんに頼んで、通行パスを発行できる警察の退職職員を探してもらった。そして、全国的なロックダウン期間でも、十五カ所で千六百世帯余りに困窮支援の配付を行うという任務を果たした。

ある日、陳さんは救済支援に必要な資金を引き出すために銀行へ行こうとしたが、公共交通機関がストップし、道路も規制がかかっていたので、炎天下で三時間かけて歩いて行った。苦難の人々のために、我が身を顧みない慈悲心は、ハリファさんの心を動かし、より深く慈済のことを知りたいと思うようになった。 「一体どのような因縁で、七十歳の年長者が足の痛みに耐えながら、ヨルダン人やシリア難民に、これほどの気配りをしているのだろうか」。

国境のマフラク地区で慈済ボランティアは長年、ベドウィン族に寄り添っている。アルリズさん(後列左から6人目)とハリファさん(後列右から2人目)はケア世帯の子どもたちを伴って、自分たちよりも苦しんでいる子どもたちへの文房具の配付活動の手伝いに参加してもらった。(撮影・陳秋華)

「慈心の家」 難民と孤児と未亡人を保護

二〇二一年七月、シリア人のシングルマザーと子どもたちを受け入れている「慈心の家」でテコンドー教室を開くことになった。これを機会に、ハリフェさんは慈済ボランティアの活動に参加する機会が増え、より多くのシリア難民に接するようになった。慈済ボランティアは、配付活動の時にいつも五つの静思語をシェアしているが、「慈心の家」の子どもたちはしっかりと聞き入れている。現地ボランティアたちも、慈済は人種や宗教の超えた大家族だと更に理解を深めた。同年十月には、ハリファさんと「慈心の家」の責任者アルリズさんが、研修ボランティアの仲間に加わった。

アルリズさんの父親ムハンマド・バシール・ローズさんは、シリアのダマスカスのスラム街に生まれ、若い頃は靴の修理で生計を立て、貧しくても懸命に勉強した。最終的にはアラビア文学、イスラム教法と法律の三つの学士号を取得した。そして、ダマスカス大学の有名な学者になった。二〇一一年に病でこの世を去った時、ダマスカス住民たちの半数が、街頭で彼の告別式に参列した。

「父親の人生は私の励みになり、一生懸命勉強して働かなければと思うようになりました」と五十八歳のアルリズさんは振り返った。一九八二年からシリアにおける政治が混乱したことから、一九九〇年父親はアルリズさんに故郷を離れるよう勧め、彼はドバイでアラビア語教師として十七年間働いた。

二〇〇七年、アルリズさんはシリアに戻り、出版社を設立した。四年後、シリアで内戦が勃発し、彼は再びドバイへ向かったが、数カ月経っても仕事を見つけることができなかった。二〇一二年に再びシリアに戻り、家族全員でヨルダンに行き、まずザータリ難民キャンプに宿泊し、それからアンマンに移った。

妻の叔父は商売に成功した人で、二〇一二年に三人の友人と資金を出し合い、アンマンのアインアルバーシャ地区にある建物を賃貸してシリア難民の未亡人や孤児たちを保護するようになった。そして、「サファウトハウス」とネーミングされたその建物の管理を、アルリズさんに任せるようになった。それが「慈心の家」の由来である。

人々は、戦争などすぐに終わると思っていた。二〇一六年には、妻の叔父と友人たちは、サファウトハウスの家賃を払えなくなり、アルリズさんは慈済に、難民家族を支援できないか、と助けを求めた。

その年の十二月、ヨルダンの慈済ボランティアは食糧パックを持ってサファウトハウスにやって来た。「初めて慈済と接触した時、この慈善団体は全く違うと感じました。彼らの真心と思いやりが感じられ、人の子を我が子と思って接しているのです」。そして、アルリズさんは陳さんに、来月また来てもらえないかと尋ねた。そのようにして、慈済が家賃援助を行うようになってから、サファウトハウスの経済状況は次第に安定するようになった。慈済がその後も施療、物資の配付、学費の支援などを続けたので、二〇一七年、その建物の名称は「慈心の家」になった。

二〇二三年七月末の統計によると、慈心ハウスには三十三世帯の難民家族が暮らしている。さらに慈済は、入居者のシングルマザーたちが自力更生できるよう、就業スキルを身につけてもらうために、裁縫師、美容師、在宅介護士、料理職人などの職業訓練の提供を試みている。

異国の地に留まる 
最も難しい選択

この七年間あまり、アルリズさんは慈済の活動にボランティアとして参加してきたことで、慈済に対する理解が益々深まった。

「證厳法師の教えは純粋で、正しい宗教ですから」彼は法師の教えにとても敬服している。

アルリズさんは強調してこう言った。「法師は、誰もがあらゆる生命を愛し、心を浄化し、欲望を減らすよう教えています。これは世界がより良くなる唯一の方法なのです」。イスラム教のハディース(預言者の聖訓)に、「あなたが地上の楽園に住めないのであれば、天上のパラダイスにも住めません」という言葉がある。また、「上人は私たちの導師であり、あらゆる慈済ボランティアを導いて、どこであっても、一緒に助けを必要としている人に手を差し伸べています。上人に感謝しています」。

今年二月六日にトルコ・シリア大地震が発生すると、同月二十八日には慈済の支援物資を積んだ四台の軍用トラックがシリア領内に入り、三月には再び、十八台の軍用トラックが衣服、毛布、靴、手袋、帽子を積んで、四回にわたって被災地に入った。

「ほら!あちらがシリアです!」とアルリズさんは興奮して叫んだ。ヨルダンのジャビル国境検問所の向こうを指さしながら、同行した慈済ヨルダン支部のスタッフである林綠卿(リン・リューチン)さんに懇願した。「早くシリアを背景にした写真を撮ってください」。彼の目には涙が溢れた。指が指す方向にあるのは、昼夜を分かたず思い続け、帰りたくても帰れない故郷なのだ。

「戦争が始まってから、シリア人は皆、安全とはどれほど貴重なものかを初めて知りました。私たちは皆、戦争が終わり、平和な日々が戻って来て欲しいと、どれほど願っていることか」。外国からの支援物資がついに国境を通過したのを見たとき、アルリズさんの胸には感慨深いものが溢れた。「私の三人の姉妹はまだシリアにいます。彼女たちは、戦争の起こっていない比較的安全な地域に住んでいるので、あまり心配していません。しかし、十二年間も会っていないのです。とても会いたいです」。アルリズさんは避難した何百万人ものシリア人の気持ちを代弁した。「かつてシリアにあった私の財産は、全てなくなってしまいました。帰る理由がありませんし、もし帰ったら、ヨルダンに戻って来られなくなります」。

ヨルダンの政策によると、難民証明書を持っているシリア人がヨルダンを離れる時、シリア難民として再びヨルダンに入国することができないという誓約書に署名し、難民証明書を置いていかなければならないのである。今年六月、アルリズさんは「慈済海外委員慈誠精神セミナー」に参加するつもりだったが、台湾へ出発する直前になってもヨルダンへの再入国許可が遅々として下りなかった。順調にヨルダンに戻れないかもしれないという不安な気持ちを抱えていたが、彼の台湾行きの決意が揺らぐことはなかった。台湾の静思精舎で、長年、シリア難民を見捨てず、援助し続けてくれた證厳法師に、直接、感謝したかったのだ。

ハリファさん(左から4人目)とアルリズさん(左から3人目)は、慈心の家にあるテコンドー教室の子どもたちを連れて、イルビド社会福祉部の女子保護施設で交流に参加した。さらに学習する機会を大切にして、専門の技術を身につけるようにと励ました。(撮影・林緑卿)

どこから来たのか問わない 
ここでは皆家族

台湾へ来る前、ハリファさんは、再入国許可を待っているアルリズさんを一人残して飛行機の長旅をするのは忍びなくなり、自ら進んで出国の期日を伸ばし、アルリズさんに併せて台湾へ出発した。

五日間にわたる海外ボランティア研修キャンプで、アルリズさんは深く感銘を受けた。

「慈済では和諧、調和の大切さを感じました。地域を超えて各地からきた人々を家族と見なし、みんなで一丸となって人心の浄化に努めています。とても貴重な講座であり、ここから離れず、ずっと聴き続けていたい気持ちです」。また、慈済の組織力と調整力を賞賛し、「今の世界で、慈済のような団体は稀です。まるで天国にいるかのようで、平和な気持ちになれました」。

研修キャンプを無事に終えた後、ハリファさんとアルリズさんは再び一緒に、帰国の途に着いた。しかし、バンコクの空港で乗り継ぐ際、ハリフェさんは不安が募った。それは「あるシリア人の男性が空港の警備員に連行され、出発地に送り返されるのを見た」 からだった。

一方、まだ台湾に滞在していた陳さんは、もっと心配していた。彼はヨルダンのハッサン親王の娘であるスマヤ王女に助けを求めた。親王執務室の二人の職員が空港まで出迎えに行き、 六月二十八日の正午、保安検査と入境審査を通過した二人は、やっと入国することができた。

当日はイスラム教のイード・アル=アドハー(犠牲祭)の初日で、家族が一家団欒する日でもある。二人は空港を出ると直ぐ皆に無事を報告し、連絡を待ち望んでいた台湾とヨルダンの法縁者たちにオンラインで報告した。皆はやっと安心することができた。

無事に戻った後、アルリズさんは證厳法師に短い手紙を書いた。「他人に感謝しない人はアッラー(神)に感謝することも知らない、と私たちはよく言います。先ず、上人に感謝します。私たちの慈悲心をケアして下さり、深く心を動かされました。上人は世界中の人から愛され、尊敬され、感謝されるに値する人だ、とつくづく感じました」。

また、海外ボランティア研修キャンプで、「もし師父のことを愛するならば、師父の愛する人を愛してください。即ちこの世で苦しんでいる衆生です」という證厳法師の言葉を心に刻んだ。陳さんが苦しんでいる人々のために、なぜそれほどまでに苦労して奔走しているのか。実はそういう理由があったからなのだ。

人生の苦難、貧困、戦争を共に経験した彼らが、このように成長して来た過程で、決して諦めることがなかったことが二つある。慈善と教育である。上に向けて支援を受けていた手のひらを下に向け、他人を引き上げる力を持つようになった。アルリズさんとハリファさんは、自身の経験を活かし、苦難に喘ぐ人たちに逞しくなろうと励ましている。二人はヨルダンチームで最も心優しく力強い、新たなメンバーなのである。

(慈済月刊六八二期より)

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