ヨルダン|ヨルダンの新メンバー 平和はこんなにも貴い

一人はパレスチナ難民であり、一人はシリア難民で一人親家庭の大黒柱である。戦火にさらされる故郷に戻るのは難しいが、心の里に平和を見つけた。

6月に海外ボランティアの研修キャンプに参加するため、ヨルダンに戻れなくなる危険を冒してまで花蓮にやって来たアルリズさん(右)と、20年以上慈済の活動を協力してきたハリファさん(左)は、慈済ボランティアの認証を授かった。 (撮影・陳秋華)

飛行機は、ヨルダンのアンマンを出発するとバーレーン、シンガポール、タイを経由し、四十八時間後にやっと台湾に着いた。今年の六月二十三日、ヨルダン人のカデル・ハリファさんとシリア人のムハンマド・ヘア・アルリズさんは、長旅を恐れず、二人とも心の故郷に戻り、花蓮静思堂で證厳法師から慈済ボランティアの認証を授かった。

研修キャンプが無事に終わっても、アルリズさんのヨルダン入境ビザは下りなかったが、二人はスケジュール通り飛行機に乗るつもりで桃園空港に向かった。ハリファさんはアルリズさんにずっと付き添って「大丈夫です。ヨルダン内務省はもう、ビザの許可を下しています」と慰めの言葉をかけていたが、二人は不安の気持ちを拭い去れなかった。

戦火を逃れ、困窮を味わった

六十歳のハリファさんは、ヨルダンの首都アンマンにある公立学校を定年退職した教師である。彼は十六歳の時から、ハッサン皇太子の護衛隊武術教官だった陳秋華(チェン・チュウフワ)氏についてテコンドーを学んでいたが、パフォーマンスが突出していたため、その後、テコンドーヨルダン代表チームのコーチを二十一年間務めた。パレスチナ人であるハリファさんの父親は、一九四八年に第一次中東戦争が起きた時、家族を連れてエルサレムからヨルダンへ逃れて来た。十人兄弟の長男であるハリファさんは、弟妹たちを世話する責任を感じていた。

「子供の頃、私は市街地で新聞を売って生計を立てていました。冬と夏休みの時は、叔父について建設現場でレンガ運びやセメントのかき混ぜなどのアルバイトをして小遣いを稼ぎました。青少年の頃は、近くの小学校の正門前でアイスキャンディーを売っていました」。貧しい家庭環境で苦労して育ったハリファさんは、過酷な環境で生き抜く方法をよく理解している。

学校へ行くにも大変苦労したそうだ。政府から交通費の補助が得られる大学に入り、やっと学士号を取得することができた。卒業後は公立の専門学校で教師として勤めるようになり、また陳さんのテコンドー道場でコーチとして働き、生活が少しずつ上向きになった。彼より十四歳年上の陳さんは、ハリファさんにとって、教師や友人であるだけでなく、父親代わりであり、兄弟でもあるのだ。

テコンドー道場にいた数年間は、陳さんの傍について貧困者への支援活動をした。毎年、ラマダンになると、貧しい子どものために、新年を迎えるための新しい服を購入した。また、優秀な成績で大学に合格しても学費を払えない学生には、学費をサポートした。その他、学生の家庭で大きな出来事が発生すると、緊急支援をした。時間が経つのは早く、彼がこのような慈済のヨルダンでの活動に接して、二十年余りが経った。

「極度な貧困地区にいる人を見ると、私は自分の生活に対して感謝の気持ちでいっぱいになると同時に、もっと多くの人に手を差し伸べたいと思うようになります」。配付活動で人々をケアしながら、證厳法師の宗教家の志と陳さんの見返りを求めない奉仕が、彼の心を徐々に潤していった。

二〇二〇年、コロナ禍によるロックダウンの最中、陳さんは仕事の制限で、現地へ配付活動に行くことができなかった。陳さんは地元出身の慈済ボランティアである済仁さん(アブ・タマル)とハリフェさんに頼んで、通行パスを発行できる警察の退職職員を探してもらった。そして、全国的なロックダウン期間でも、十五カ所で千六百世帯余りに困窮支援の配付を行うという任務を果たした。

ある日、陳さんは救済支援に必要な資金を引き出すために銀行へ行こうとしたが、公共交通機関がストップし、道路も規制がかかっていたので、炎天下で三時間かけて歩いて行った。苦難の人々のために、我が身を顧みない慈悲心は、ハリファさんの心を動かし、より深く慈済のことを知りたいと思うようになった。 「一体どのような因縁で、七十歳の年長者が足の痛みに耐えながら、ヨルダン人やシリア難民に、これほどの気配りをしているのだろうか」。

国境のマフラク地区で慈済ボランティアは長年、ベドウィン族に寄り添っている。アルリズさん(後列左から6人目)とハリファさん(後列右から2人目)はケア世帯の子どもたちを伴って、自分たちよりも苦しんでいる子どもたちへの文房具の配付活動の手伝いに参加してもらった。(撮影・陳秋華)

「慈心の家」 難民と孤児と未亡人を保護

二〇二一年七月、シリア人のシングルマザーと子どもたちを受け入れている「慈心の家」でテコンドー教室を開くことになった。これを機会に、ハリフェさんは慈済ボランティアの活動に参加する機会が増え、より多くのシリア難民に接するようになった。慈済ボランティアは、配付活動の時にいつも五つの静思語をシェアしているが、「慈心の家」の子どもたちはしっかりと聞き入れている。現地ボランティアたちも、慈済は人種や宗教の超えた大家族だと更に理解を深めた。同年十月には、ハリファさんと「慈心の家」の責任者アルリズさんが、研修ボランティアの仲間に加わった。

アルリズさんの父親ムハンマド・バシール・ローズさんは、シリアのダマスカスのスラム街に生まれ、若い頃は靴の修理で生計を立て、貧しくても懸命に勉強した。最終的にはアラビア文学、イスラム教法と法律の三つの学士号を取得した。そして、ダマスカス大学の有名な学者になった。二〇一一年に病でこの世を去った時、ダマスカス住民たちの半数が、街頭で彼の告別式に参列した。

「父親の人生は私の励みになり、一生懸命勉強して働かなければと思うようになりました」と五十八歳のアルリズさんは振り返った。一九八二年からシリアにおける政治が混乱したことから、一九九〇年父親はアルリズさんに故郷を離れるよう勧め、彼はドバイでアラビア語教師として十七年間働いた。

二〇〇七年、アルリズさんはシリアに戻り、出版社を設立した。四年後、シリアで内戦が勃発し、彼は再びドバイへ向かったが、数カ月経っても仕事を見つけることができなかった。二〇一二年に再びシリアに戻り、家族全員でヨルダンに行き、まずザータリ難民キャンプに宿泊し、それからアンマンに移った。

妻の叔父は商売に成功した人で、二〇一二年に三人の友人と資金を出し合い、アンマンのアインアルバーシャ地区にある建物を賃貸してシリア難民の未亡人や孤児たちを保護するようになった。そして、「サファウトハウス」とネーミングされたその建物の管理を、アルリズさんに任せるようになった。それが「慈心の家」の由来である。

人々は、戦争などすぐに終わると思っていた。二〇一六年には、妻の叔父と友人たちは、サファウトハウスの家賃を払えなくなり、アルリズさんは慈済に、難民家族を支援できないか、と助けを求めた。

その年の十二月、ヨルダンの慈済ボランティアは食糧パックを持ってサファウトハウスにやって来た。「初めて慈済と接触した時、この慈善団体は全く違うと感じました。彼らの真心と思いやりが感じられ、人の子を我が子と思って接しているのです」。そして、アルリズさんは陳さんに、来月また来てもらえないかと尋ねた。そのようにして、慈済が家賃援助を行うようになってから、サファウトハウスの経済状況は次第に安定するようになった。慈済がその後も施療、物資の配付、学費の支援などを続けたので、二〇一七年、その建物の名称は「慈心の家」になった。

二〇二三年七月末の統計によると、慈心ハウスには三十三世帯の難民家族が暮らしている。さらに慈済は、入居者のシングルマザーたちが自力更生できるよう、就業スキルを身につけてもらうために、裁縫師、美容師、在宅介護士、料理職人などの職業訓練の提供を試みている。

異国の地に留まる 
最も難しい選択

この七年間あまり、アルリズさんは慈済の活動にボランティアとして参加してきたことで、慈済に対する理解が益々深まった。

「證厳法師の教えは純粋で、正しい宗教ですから」彼は法師の教えにとても敬服している。

アルリズさんは強調してこう言った。「法師は、誰もがあらゆる生命を愛し、心を浄化し、欲望を減らすよう教えています。これは世界がより良くなる唯一の方法なのです」。イスラム教のハディース(預言者の聖訓)に、「あなたが地上の楽園に住めないのであれば、天上のパラダイスにも住めません」という言葉がある。また、「上人は私たちの導師であり、あらゆる慈済ボランティアを導いて、どこであっても、一緒に助けを必要としている人に手を差し伸べています。上人に感謝しています」。

今年二月六日にトルコ・シリア大地震が発生すると、同月二十八日には慈済の支援物資を積んだ四台の軍用トラックがシリア領内に入り、三月には再び、十八台の軍用トラックが衣服、毛布、靴、手袋、帽子を積んで、四回にわたって被災地に入った。

「ほら!あちらがシリアです!」とアルリズさんは興奮して叫んだ。ヨルダンのジャビル国境検問所の向こうを指さしながら、同行した慈済ヨルダン支部のスタッフである林綠卿(リン・リューチン)さんに懇願した。「早くシリアを背景にした写真を撮ってください」。彼の目には涙が溢れた。指が指す方向にあるのは、昼夜を分かたず思い続け、帰りたくても帰れない故郷なのだ。

「戦争が始まってから、シリア人は皆、安全とはどれほど貴重なものかを初めて知りました。私たちは皆、戦争が終わり、平和な日々が戻って来て欲しいと、どれほど願っていることか」。外国からの支援物資がついに国境を通過したのを見たとき、アルリズさんの胸には感慨深いものが溢れた。「私の三人の姉妹はまだシリアにいます。彼女たちは、戦争の起こっていない比較的安全な地域に住んでいるので、あまり心配していません。しかし、十二年間も会っていないのです。とても会いたいです」。アルリズさんは避難した何百万人ものシリア人の気持ちを代弁した。「かつてシリアにあった私の財産は、全てなくなってしまいました。帰る理由がありませんし、もし帰ったら、ヨルダンに戻って来られなくなります」。

ヨルダンの政策によると、難民証明書を持っているシリア人がヨルダンを離れる時、シリア難民として再びヨルダンに入国することができないという誓約書に署名し、難民証明書を置いていかなければならないのである。今年六月、アルリズさんは「慈済海外委員慈誠精神セミナー」に参加するつもりだったが、台湾へ出発する直前になってもヨルダンへの再入国許可が遅々として下りなかった。順調にヨルダンに戻れないかもしれないという不安な気持ちを抱えていたが、彼の台湾行きの決意が揺らぐことはなかった。台湾の静思精舎で、長年、シリア難民を見捨てず、援助し続けてくれた證厳法師に、直接、感謝したかったのだ。

ハリファさん(左から4人目)とアルリズさん(左から3人目)は、慈心の家にあるテコンドー教室の子どもたちを連れて、イルビド社会福祉部の女子保護施設で交流に参加した。さらに学習する機会を大切にして、専門の技術を身につけるようにと励ました。(撮影・林緑卿)

どこから来たのか問わない 
ここでは皆家族

台湾へ来る前、ハリファさんは、再入国許可を待っているアルリズさんを一人残して飛行機の長旅をするのは忍びなくなり、自ら進んで出国の期日を伸ばし、アルリズさんに併せて台湾へ出発した。

五日間にわたる海外ボランティア研修キャンプで、アルリズさんは深く感銘を受けた。

「慈済では和諧、調和の大切さを感じました。地域を超えて各地からきた人々を家族と見なし、みんなで一丸となって人心の浄化に努めています。とても貴重な講座であり、ここから離れず、ずっと聴き続けていたい気持ちです」。また、慈済の組織力と調整力を賞賛し、「今の世界で、慈済のような団体は稀です。まるで天国にいるかのようで、平和な気持ちになれました」。

研修キャンプを無事に終えた後、ハリファさんとアルリズさんは再び一緒に、帰国の途に着いた。しかし、バンコクの空港で乗り継ぐ際、ハリフェさんは不安が募った。それは「あるシリア人の男性が空港の警備員に連行され、出発地に送り返されるのを見た」 からだった。

一方、まだ台湾に滞在していた陳さんは、もっと心配していた。彼はヨルダンのハッサン親王の娘であるスマヤ王女に助けを求めた。親王執務室の二人の職員が空港まで出迎えに行き、 六月二十八日の正午、保安検査と入境審査を通過した二人は、やっと入国することができた。

当日はイスラム教のイード・アル=アドハー(犠牲祭)の初日で、家族が一家団欒する日でもある。二人は空港を出ると直ぐ皆に無事を報告し、連絡を待ち望んでいた台湾とヨルダンの法縁者たちにオンラインで報告した。皆はやっと安心することができた。

無事に戻った後、アルリズさんは證厳法師に短い手紙を書いた。「他人に感謝しない人はアッラー(神)に感謝することも知らない、と私たちはよく言います。先ず、上人に感謝します。私たちの慈悲心をケアして下さり、深く心を動かされました。上人は世界中の人から愛され、尊敬され、感謝されるに値する人だ、とつくづく感じました」。

また、海外ボランティア研修キャンプで、「もし師父のことを愛するならば、師父の愛する人を愛してください。即ちこの世で苦しんでいる衆生です」という證厳法師の言葉を心に刻んだ。陳さんが苦しんでいる人々のために、なぜそれほどまでに苦労して奔走しているのか。実はそういう理由があったからなのだ。

人生の苦難、貧困、戦争を共に経験した彼らが、このように成長して来た過程で、決して諦めることがなかったことが二つある。慈善と教育である。上に向けて支援を受けていた手のひらを下に向け、他人を引き上げる力を持つようになった。アルリズさんとハリファさんは、自身の経験を活かし、苦難に喘ぐ人たちに逞しくなろうと励ましている。二人はヨルダンチームで最も心優しく力強い、新たなメンバーなのである。

(慈済月刊六八二期より)

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