マレーシア|しっかり生きて行く もう「壊れた」人間ではない

マレーシア・ケダ州にある慈済人工透析センターに寄付してくれた人たちは私たちとは面識がない。それでも、彼らは喜んで、私たちが命を永らえるよう、力を貸してくれる。私は吹っ切れた。

私の名前は漢彬(ハンビン)。小さい頃は楽観的で、明るくて、お喋り好きな、ごく普通の子供だった。そして、大した夢もなく、ただ大人になって、親孝行し、安定した仕事に就いて、結婚して家庭を築く、という普通の生活を送ることが夢だった。

しかし、一世代前の人が言うことは正しい。「運命は決まっている」。多くのことは私たちがコントロールできるものではない。例えば、病気したことがない私のこの体である。

三十才になろうとしていたあの年、体に予想しなかった出来事が起こった。私は人生の旅で大きな曲がり角に差し掛かった時、踏むべきブレーキがなく、あっという間に私は足と目と腎臓が「壊れた」人間になってしまった。

糖尿病で左のふくらはぎが細菌に感染し、三、四回手術を受けた後、医師から、使い物にならなくなった左の膝下を切断して義足にしたらどうかと提案された。私は義足を付けても一人で生活できるから、良いだろうと思った。

その数カ月後、視力が次第に落ちて視界が朦朧とし、ついに失明してしまった。私は淡々と両目が失明したことを受け止めた。諸々のことは神様の取り決めであり、少し時間を掛ければ、真っ黒闇の世界に慣れるだろうと思ったからだ。

やがて尿の量が次第に少なくなり、体がむくみ、よく食欲不振に陥った。何回か診察を受けた後、医師から、血液の透析を受けないと命がないと宣告された。即ち、人工腎透析である。母親も晩年はこの治療をして過ごしたが、大変な苦労だった。今後その辛さが続くのかと考えただけで、私は怖くなった。

この治療は義足を付けることや失明するのと違う。簡単に「適応すればいい」というものではない。一旦、治療を始めれば、週に三日、毎回四時間機械の傍に座り続けないといけないのだから、もう仕事はできないだろう。そうなったら、毎月千元余りの透析費用はどう工面すればいいのか?その後の生活は二人の姉に頼らざるを得なくなった。私は完全に、自立した生活をする能力を失い、長い間にわたって、誰かに頼って生活をする「壊れた」人間になってしまった。

2020年にケダ慈済人工透析センターで年一度の懇親会が開かれ、看護スタッフと漢彬さんは互いに感謝し合った。

小舟が海底に沈む前

子どもの時から家庭は裕福ではなく、十歳の年に学校を中退して、臨時雇いになった。青春真っ只中の時に故郷を離れ、働きに出てあちこちを転々とし、一心に安らぎのある生活を求めた。以前は、私というこの小舟も何時かは岸に辿り着けると思っていた。たまに風や波に遭遇しても、歯を食い縛れば乗り切れるはずだと。しかし、この治療は私にとって、反撃のしようのない打撃となった。静かに海底に沈んで行きたくなった。簡単に言えば、これ以上家族に迷惑を掛けたくないと思ったのだ。

私はゆっくりと死んでいくことを選び、意図的に塩分の多い食事を摂り、毎日大量の水を飲むことで、体をむくませた。肺に水が入ってしまったこともあった。家族は透析費用を負担することができなかったので、いつもこのような緊急時にだけ、入院して透析を受けた。そうして暫く経った頃、姉がケダ慈済人工透析センターを見つけてくれた。

慈済人工透析センターでは無料で人工透析を受けられるが、私は喜びが湧かなかった。毎日、透析を続けて、いつになったら「終わる」のだろうか。私は末っ子として生まれ、上には十何歳も年の離れた二人の姉がいる。母親は亡くなる前、私の面倒を彼女たちに託していた。私は家族を安心させるために、仕方なく受け入れた。

非常にありきたりな言葉ではあるが、私は慈済透析センターにとても感謝している。そこにいると、私は「普通」に接してもらえるからだ。看護スタッフも気さくに話しかけてくれるし、グルメや世間の出来事、旅行の話など話題が尽きない。そして他の患者とも心を割って話し合い、笑い合っていた。

家では、姉たちがあらゆる面で私の面倒を見てくれ、目が見えない為に外出できない私が悲しむのを心配して、会話では外部のことを一切口にしない。それで余計に、私は自分がもう使いものにならないと感じるようになった。

透析は週三回行われる。透析センターに足を踏み入れると、看護スタッフが「食事は済みましたか」「調子はどうですか」と聞いてくれた。家でこのように家族のことを気遣ったことはあるかと、自分に問いかけてみてほしい。あなたはこのように家族を気に掛けたことがあるだろうか。こういう状況下で、私は感動せずにはいられなかった。

透析センターにいる時だけ、私は普通の人間でいられるように思えた。その後、私も或る事から吹っ切れるようになり、それ以上、死のうと思うことはなくなった。私が気づいたのは、社会各方面からの善意の人たちは、私たちとは面識がないにも関わらず、資金を提供してこのセンターの運営を支援し、心から私たちを助けてくれているということだ。それは、透析費用を支払う余裕のない私たちにとっては、「雪中に炭を送る」ことに等しい。私はしっかり生きるべきであり、そうしてこそ寄付してくださった方々の愛に応えることができるのだ。もし、私にもできることがあれば、喜んで協力しよう!

感謝祭で、漢彬(右から2人目)さんは、ステージに上がって寄付してくれた人たちに感謝すると共に、透析を受けている患者たちに希望を持つよう呼びかけた。(撮影・英鑑華)

浮き沈みがあるのが人生

私の目は「壊れて」見えなくなったが、口は「壊れて」いない。私の心は看護師たちによって愛で満たされた。私にも貢献できることがあるのだ。例えば慰め役だ。機嫌が悪かったり、落ち込んでいたりする同じ透析患者、または、透析を始めて間もない患者に対して、看護スタッフはわざと私をその隣に座らせるようにしてくれた。

その四時間の間、私は適切な機会を見つけて彼らと世間話をし、彼らが思い詰めないように、違う角度から物事を見るようになることを期待して、自分の経験を共有するようにした。もし彼らが心を開き、悲しそうな顔をしなくなって、喜んでくれるようになったら、私もとても嬉しくなり、満足できるからだ。良いことをしたと感じるのは、金銭で買えない喜びである。

時々、私は慈済の活動に呼ばれて、透析患者や障害者を励ますことがある。私は寄付した方々に、彼らの寄付金が私を変えた様子を見てもらいたいと思う。私のような 「壊れた」人間でもこのように有意義な人生を送れるようになったのだから、他の人でもこのように変われるはずだ。

左脛を失っても、義足を付ければ歩ける。両目が失明したら、確かに多くのことで不便にはなったが、逆に私の世界は美しいものになった。物の外観が見えなくなったことで、自ずとそれに対する偏見や先入観を持たなくなった。

例えば、私は初対面の人に対して、その外見が見えないので、ハンサムな人だと想像しながら、熱心に話を聞く。会話を通じて、私はその人の性格を知り、彼の喜怒哀楽を耳にすることができる。私は相手の外見の良し悪しによって誤解することはなく、直ぐに心から出た美と善を発見できるのだ。私にとっては、何事も美しい面から始まる。今、私に声を掛けてくれば、私はあなたをハンサムな男性や美女と想像するでしょう。ハハハ!

私は食習慣と生活上の衛生管理が悪かったために、入退院を繰り返していた。今は、合格点を取った腎臓病患者である。飲む水の量をコントロールでき、ベジタリアンでもある。それでも、体調に良し悪しはあり、安定はしていない。しかし、これが人生だと割り切っている。思い通りになることより、そうならないことの方が多いのが普通だ。現状に満足すればいいのだ。

たまに今でも、追い詰められることがある。やはり、家族に頼って生きていくのに慣れていないのだ。もしある日、病状が悪化したら、家族には私をそっと見送り、私の遺灰を海に撒いてほしいと思っている。そうすれば、私の魂は海と共に、あちこち美しい世界を見ることができるだろう。これも私の最後の夢だと言える。

しかし、今の私は健康状態がまあまあで、私を細心に世話してくれた皆さんに感謝したい。私は能力の限り精一杯奉仕し、最期の日まで一日一日心を込めて生きて行きたいと思っている。

(慈済月刊六八二期より)

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