竹筒歳月の教えは愛の心の教育

(絵・陳九熹)

もしも慈済の成就を支えた源を探るなら、それは「竹筒歳月」の教えです。 あの頃に真の愛の心とは何かを教育していたからこそ、今のように慈善が全世界に広まったのです。

その教えが愛の心を啓発した始まりでした。 この一念が途切れなく、代々伝わっていくことを願っております。

新年の到来と共に、世界の慈済人が歳末祝福会や認証式に帰って来ているのを見て、私は心に感謝と喜びが満ちております。普段の距離は遠く離れていても、千山万水も菩薩の情を断つことはできないのです。過去世や今世だけの発願でなく、未来の生生世世にわたって、私たちは菩薩道を歩むという、同じ心の願を持っています。

菩薩とは道を切り開いて、導く人であり、仏陀の教育を延々と伝承し、一本の大道を拓くと共に、次の世代にバトンを渡すのですから、私たちの代で途切れてはいけないのです。何時も若い人が私の前に来て、天下の米俵を担ぐと発願し、彼らの「喜んで担います!」という力強い声を聞くと、私は益々安心します。近頃、私は老いを感じ、体が弱って話をすることさえままなりません。今私は、私の代わりに皆が力を出し、説法することで、慈済の法を弘め、世の苦難の人が皆支援を受けられることを最も願っております。

慈済が如何にして成就したのかと言えば、それは「竹筒歳月」の教えがあったからです。あの時代に真に愛の教育を提唱したからこそ、世界に慈善を普及させることができたのです。最近インドのブッダガヤで、ボランティアと村民が竹を取って来て竹筒を作り、少額のお金を貯めて献金しているのを目にします。生活は貧しくても、心を豊かにすれば、人助けをすることができるのです。

人からどれだけの額のお金を寄付してもらうかではなく、「徳」を求めるのです。台湾語では、「徳」と「竹」は同音で、竹には節があり、求めるのはその信念、募るのは人、心、愛であり、善行をする心です。人の愛の心は平等であり、小川に皆さんの一滴の水が注がれれば、大河は海へと流れて行きます。無量は海のように、集まったものは愛のエネルギーであり、皆さんの功徳も無量なのです。竹筒歳月の教えが愛の心の啓発の始まりであり、その一念が途切れることなく、代々受け継がれて行くことを願っています。

毎日、世の中で発生している出来事を見たり聞いたりしますが、貧困と病の苦、身寄りのない老いの苦、人心の無明の苦など、様々な苦しみがあります。悟りを開くには、学ばなければなりません。私も日々、如何にして解脱するか、愛を更に広めるにはどうすればよいかを学んでいます。日々、発願と期待を新たにしています。大きな因果と大いなる縁に恵まれ、途切れない情という大愛があれば、私たちが菩薩道で修行し、広く「善縁」を結ぶことができる、と発願し期待するのです。

私たちはとても幸せです。自分で精進する方向と人生の生き方を選択することができるからです。また、良い因縁によって、仏法に回帰し、佛を敬い、重んじています。僧を敬うことはとても重要なことで、最も重要なのは、自分で「慈、悲、喜、捨」に励むことです。慈とは「与楽」であり、人々が私たちを見て喜び、安心し、温かさを感じることです。或る人は親近感を持たれ、こちらはその話を聞き入れることができ、その人が行った善行に、私も呼応したいと思うようになります。これが即ち、その人は衆生と良縁を結んでいるということなのです。

正知、正見、正行為を持ち、人々から敬意と愛を持たれ、喜んで応えてくれるようになるのは容易ではありませんが、やらなければならない、と堅く発心しています。これも私の自分に対する期待です。私は毎日のように、間に合わない、間に合わないと言っているのは、間に合わないという思いを持つことで、今のこの時を無駄にせず、精進し、話す一言一言が、仏法の正見と正道から逸れないように、自分を励まし、教育しているのです。

二千五百年余り前、仏陀が目にした人間(じんかん)の病苦が、彼の慈悲心を動かし、世間の万物は「三理四相」から離れられない事を悟ったのです。即ち、「物の理」には、成、住、壊、空があり、「心の理」には生、住、異、空、「生の理」には生、老、病、死があるのです。あらゆる物質は無常の中にあり、ましてや人心は言うまでもなく、発心するのは容易ではなく、因縁があって既に発心していても、その心をいつまでも保つのはとても難しく、立願して堅持するのはもっと困難です。というのも、人間(じんかん)には様々な煩悩や無明、障害があるからです。「信は悟りのもとであり、功徳を生む母である」と言われますが、もし堅く信じる心がなければ、愛の心は速やかに消えてなくなり、功徳を積むのは難しいのです。

慈済はこの五十数年間、仏法で以て人々の心を開き、慈済法を以て慈済の人々の心を清めてきました。ですから私は常々、慈済は人間(じんかん)で大いに役立っていると言っているのです。それに慈済の最も大きな価値は、大愛を結集し、手を繋いで地球を囲むように、世界中の慈済人が心を一つに協力し合い、長く続く情と大愛を繋げていることにあるのです。

福を作ってこそ福に恵まれ、そうやって歩み出してこそ進歩があり、一歩ずつ歩めば、千里の道も到達できるのです。過ぎ去った一分一秒は戻ってきません。時間は私たちにとって非常に貴いものです。因縁を逃さず精進しましょう。人を助けられる人は幸せな人であり、自分で福を集めるのです。皆さんの精進を願っています。

(慈済月刊六八六期より)

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