新入社員の職場マナ―が欠けているのは教育の失敗だと言う人がいます。基本的なモラルやマナーは、家庭と学校のどちらで育むべきでしょうか。
答:最初に夫に嫁ごうと決心した時のキーポイントは、「彼の両親は仲が良く、愛し合っていて、互いに冗談を言い合う」ことでした。このような家庭教育の中で育った人ならば、子供は絶対に暴力的になることはなく、妻を可愛がるはずだと信じたのです。
結婚した後、主人は私を娘のように可愛がり、一度も怒鳴ったことはありません。二人の子供は知らず知らずのうちに、節度のある話し方をして、人を尊重し、思いやりのある人間になっています。
家とは、人が社会に踏み出す土台です。家族だけは唯一自分で選択できず、人生で最も長く寄り添う集団です。従って家庭教育は非常に重要なのです。
職場のマナーに欠ける新入社員を見ると、家庭教育から切り離して考えることはできません。職場のマナ―は倫理教育の延長の一環であり、倫理教育にある互いを尊重して思いやる気持ちは、家庭教育が拠り所になります。家庭教育の定義では、親の役割、子供の役割、性別、婚姻、片親、倫理、多元文化などの部類に分けられますが、いくら私たちの理論が透徹していて、はっきり書いてあっても、しっかり実践しなければ、ただのスロ―ガンにすぎません。
家庭教育だけでは不十分で、学校教育でそれを補う必需があります。両者はどのような方向で実践すれば、学校を卒業して職場に入る新入社員として、立居振舞では礼儀をわきまえ、身心共に健康でいられるのでしょうか。
家庭教育は人格形成の最前線
家は社会の中の最小単位で、家族のメンバ―は全て互いに交流して学び合っています。歌手のクリスティン・ファン(范瑋琪)さんの歌、「最も重要な決定」の次のような歌詞に、私の心は強く打たれました。「幸福に近道はない、運営するしかない」。生まれつき親になれる人はいませんし、相手もいないうちに、生まれつき結婚とは何かを知っている人も、生まれつき親とコミュニケ―ションが取れる子供もいません。家庭とは少しずつ運営していく必要があるものなのです。
親の仲が良く、円満な結婚生活をするのが最高の家庭教育であり、子供が幸せを学ぶ鍵でもあるのです。
ある友人の両親は結緍して四十数年で、意見はよく合わなくても、大きな喧嘩をしたことはありません。というのは、彼の両親には取り決めがありました。一方が大声を出したら、もう一方は静かに話を聞くのです。そうすれば、大声を出し終えた後、風船に針を刺したように、空気が完全に抜けてしまうのです。今、友人もそういう方法で妻と生活し、彼らの模範的な行動が、子供に伝わっています。
そのような結婚生活のパタ―ンは子供に、将来、配偶者と生活していく方法を教え、「感謝し、尊重し、愛すること」ができる子供になるように、親としての役割がスムーズに果たせるので、子供は家庭で完全な愛とケアをもらい、情緒を穏やかに維持できるのです。そして、安定した情緒は、人間関係において非常に重要な要素となります。
学校敎育は基本知識を教える
私は、中学校の家庭科で様々な裁縫を学んだことで、親の衣服のほころびを縫うことができるようになったので、今では主人や子供の服にボタンを縫い付けたり、袖口のほころびを縫ったりしています。そして、生物の授業では葉脈を学んだので、旅行する時には花や木の名前が分かり、生活に彩りを添えています。体育の授業では、個人の能力よりも団結力について学んだことに価値がありました。美術の授業では、饅頭を消しゴム替りに、描き損じた木炭を使ったデッサンを修正する技を身につけました。大部分の饅頭は食いしん坊の口に入りましたが、その過程は深い印象を与えてくれました。先生はいつも、「どうぞ、ありがとうございます、すみません」を忘れないように、と念を押してくれたので、私は良好な人間関係を築くことができました。
このコ―スをよく見ると、「教育は即ち生活」という理念に基づいていることが分かります。五育である徳、智、体、群、美を並行して行う学校教育を家庭教育で達成させるのは難しいのです。学校教育がしっかり実践されていれば、健全な人格形成された国民に育てることができ、家庭教育を補うことができるのです。
理想的な教育とは、子供が自分の個性を伸ばし、人を尊重すると共に称賛するようになることです。それには家庭教育と学校教育を並行させなければなりません。なぜなら、学生は最終的に学校という快適な環境から出て、社会に入らなければならないからです。ですから、知識を学ぶ以外に、学校で社会規範と人間関係の処し方を学ぶべきです。
子供は将来、より速く変化する環境に向き合うのですから、親や教師が一面の肥沃な土地を提供できるかどうか、子供が「感謝し、尊重し、愛する心」、「善意に解釈して寛容になる」広い心を持てるように最良の環境を用意できるか否かには、一生を左右するほどの責任がかかっています。次々と新人が入って来る社会は、私たちの未来でもあるのですから。
(慈済月刊六八〇期より)