『戦火の下の光』|異国で初めての冬

気温1℃という低温の中で困難に陥っているウクライナ人家族のために、私たちは越冬用の物資を配付した。

愛があれば、どんなに寒くても温もりを感じ、また誰もが愛で助け合うことができれば、面識のない人であっても家族なのだ。私は八十日間ポーランドに滞在し、このことを身をもって体験した。

飛行機はイスタンブールを離陸し、夕方六時頃にポーランドの首都ワルシャワに到着した。空港を出るとすでに空は暗く、気温は摂氏一度しかなく、コートのジッパーを閉めても肌を刺すような寒さに襲われた。

あれから四カ月、季節は寒い年末を迎えていた。故郷を離れて異郷にいるウクライナの友人たちは無事だろうか?と心配しながら、二○二二年十一月二十三日、私は妻と再びポーランドを訪れた。今回はこの七カ月間で三度目の訪問になる。また同行した二人の仲間は、シリア人のIT技術者バジル・ハリルさんとハニ・アルディブさんである。

ロシアとウクライナの戦争は新たなピークに入ったが、気候は益々寒くなり、欧州連合は、新たな難民の波が押し寄せてくると推測した。今回の訪問は、ポーランドに滞在して困難な生活を送っているウクライナ人家族たちのために、越冬物資を補充するだけでなく、長期的支援プロジェックトを企画するためでもある。

戦火の下の光

作者:王慧萍、黃秀花
挿絵:凌阿板、高智能
出版社:慈済人文志業基金会
「慈済道侶檀施会」への入会や
出版資金援助を歓迎します。
振込口座:19905781
口座名:慈済伝播人文基金会
(「慈済道侶檀施会入会希望」と明記してください)
コールセンター: +886-28989000 内線 2145

美しいのは景色ではなく、心のあり方

夜になると気温はさらに下がり続け、早朝の三時に起きて窓の外を見ると、すでに雪が降っていた。まだ暗い空には星が瞬いているが、私たち五人は雪を踏んで出かけた。妻が身につけていた綿入ジャケットには慈済基金会のロゴが縫い付けてあったが、それは、一九九九年に初めて慈済のトルコ大地震災害支援に参加した時に着ていた制服だ。その後、私たちと共にボランティアの道を歩み、災害支援のために多くの国を訪れたが、あっという間に二十三年間が過ぎた。

早朝四時二十分のワルシャワ駅は、見慣れているようで、見知らぬ場所のようでもあった。半年あまり前には世界各国の慈善団体がここに集まり、旗を掲げ、ブースを設置して、逃れてきた難民に様々な支援を提供していた。宿泊施設や交通手段、テレホンカード、医療から各種生活必需品に至るまで網羅したありとあらゆる支援が行われ、街角の隅々まで温かい愛が押し寄せる人波に溢れていた。その当時、混雑して不安に満ちていた駅の大広間は、今は明るく広々としていて、あちこちに独創的なインスタレーションアートが飾られ、ゆったりとした旅行ができる雰囲気をかもし出していた。

ワルシャワからポズナン行きの始発列車は、夜明けに射してきた朝日を受けて定刻の五時九分に出発した。ワルシャワから三百十キロ離れたポズナンは、ポーランド中西部における歴史、経済、文化及びテクノロジーの要であり、学術の重鎮地でもある。私たちはポーランドに嫁いだ台湾人の張淑兒(ヅァン・スゥーアール)さんとその夫ルーカスさんを訪ねようとしていた。

ルーカスさんはモバイルゲーム会社の副社長で、張さんはIT業界でシニアデータアナリストとして活躍し、二人とも多忙な上級幹部だが、手のかかる幼い子供が三人いる。しかし、大勢のウクライナ人が逃れてきた三月初旬以来、彼らは慈済基金会の委託を受け入れ、ここでウクライナ人家族を支援している。そして、三月だけで、ポズナンで四回配付活動を行った。特に一回目の活動で配付された八百件の物資は、買い付けから運搬まで、全て夫婦二人だけで行ったそうだ。その後は姉と義兄も手伝うようになり、ロシア語が話せる義理の母まで配付時の通訳として参加してくれた。家族全員が親切で、喜んで人助けの手伝いをしてくれた。

ポーランド政府と国民は善意をもって、数百万ものウクライナ人高齢者や女性、子どもを受け入れ、多くの支援をしていた。しかし、思いも寄らず、戦争は長引き、エネルギーと経済面で大きな影響が出始めた。その結果、多くのヨーロッパ諸国と同じく、深刻なインフレが起きた。この数カ月間に、水道代や電気代、物価が数倍に上がり、家賃も論外ではない。そこで政府は、財政の負荷が大きい難民家族への補助金の支給を停止した。それだけに、難民のために金銭面と人的支援を続けている張さんご夫婦は、実にありがたい存在であり、我々も敬服した。

私と妻はこれまで二回ポーランドを訪れ、合計六十七日間、滞在したが、主な活動範囲はワルシャワだった。調査や配付などでよそへ行くことはあっても、どこかの組織の施設や避難所を訪ねるにとどまり、各地の景色を見る暇などあまりなかった。今回、張さんご夫婦が手配した快適な車に乗り、大きな窓ガラス越しにポーランド中部の美しい景色を堪能することができた。しかし、リラックスした心地良い旅とはほど遠かった。何故なら、故郷を離れて異郷にいるウクライナ人にとって、最も美しいのは眼前の風景ではなく、夜中に夢で見る故郷だからだ。戦火で故郷の色は褪せ、残骸のグレーと黒色しか見えない。目の前にあるのは、生きるための生計をどう維持して行くか、または就学や就職に関わる多くの困難が横たわっている。

これらのことは、感慨深く、悲しい気持ちにさせるが、我々への警鐘でもあるのだ。平和に暮らしているからこそ、のんびりと風景を楽しめるし、平和な時だからこそ、景色が色鮮やかに見えるのである。

ポズナンに到着した私たちを出迎えてくれた張さん夫婦は、満面の笑顔でプラットホームに立っていた。彼女は、本職が弁護士、建築家、企業の上級幹部だったウクライナ人女性三人を紹介してくれた。今は、ポズナン慈済基金会の事務職員として働いている。

三人は、現地の二百世帯あまりのウクライナ人のケアを続けている。家賃を払えない若い母親たちは転々と住居を変え、子供たちの就学に影響が出ていた。張さん夫婦は、四方八方尋ねて難民たちが安住できる幾つかの場所を見つけたため、私たちにその審査を委ねた。

ポーランドに避難してきたウクライナ人の高齢者は、言葉の壁と就業の困難の中で、外出できないことが心身の健康に影響を及ぼしていた。そこで、慈済はワルシャワで「ワレニキクラブ」を立ち上げ、毎週のように彼らを招いてワレニキを作ってもらった。(写真提供・ウクライナ慈済ボランティア)

トルコの慈済ボランティアである胡光忠さんと周如意さん夫婦は、昨年12月にワレニキクラブを訪れ、台湾風餃子を振る舞って、皆に楽しんでもらった。(写真、提供者・周如意)

事態は好転すると信じよう

ポズナンでの三日間の滞在を終え、私たちは慣れ親しんだワルシャワに戻った。七月末に大規模な配付活動が終了した後も、慈済の奉仕が中断することはなかった。ワルシャワに事務所を設立して、七人のウクライナ人女性をプロジェクトスタッフとして雇用した。彼女たちは途絶えることなく、同胞の世話を続けている。

この数カ月間、彼女たちは、支援を必要とするウクライナ人の家庭を見つけるために、丁寧に慈善訪問を行った。慈済基金会の審査が通ると、経済的な支援と心理的サポートを続けて受けられるのである。また、それだけでなく、慈済基金会とカミロ修道会が協力して進めているプロジェクトでも、彼女たちは自分たちの本職を活かして、子どもたちのために人格教育(道徳の授業)を行ったり、高齢者たちのための「ワレニキクラブ」を立ち上げたりして、同胞のために全力で投入した。さらに私たちを安心させたのは、 彼女たちがすでに自分たちだけで責任を持って、ワルシャワでの初めての冬季配付活動を企画し、十一月二十八日にそれを行ったことである。

㊟ワレニキは水餃子に似たウクライナの食べ物。

「ワレニキクラブ」は、私たちのウクライナ人スタッフが心を尽くした成果である。彼女たちは家庭訪問の際、ウクライナ人のお年寄りたちが言葉の壁や身体的・心理的な事情で、長期間にわたって狭い部屋に閉じこもっているのを見て、忍びない気持ちになった。そこで、考えた結果、彼らを慈済の事務所に連れて行き、そこでワレニキを作ってもらった。それは、ウクライナ人家族が集まる時によく食べる伝統的な美食で、お年寄りたちは殆ど皆、それを作ることができるのだ。できたワレニキは、連絡所のスタッフがネットを通じて販売した。売り上げは、二十%を支援を必要としている同胞のために充てた他は、お年寄りたちに還元された。それは、慈済基金会の理念の一つである、「腹八分目、残りの二分で人助け」の教えから来ている。お年寄りたちの歌声や笑顔から、困っている人のために奉仕することで、異国の地で人生の目標と価値を取り戻したことが分かり、とても嬉しく思った。

「今、どんな困難に直面しても、いつか事態は好転すると信じるのです。自分の目標を貫き通し、決して希望を捨ててはなりません。トルコにいる私たちは毎日、このような言葉で自分を励まし続けて来ました」。シリア籍のITエンジニアであるバースィルさんとハニさんは、自分たちの亡命の経験でもって、異国に放浪しているウクライナ人に、最後まで頑張り続ければ事態は必ず好転すると励ました。

バースィルさんとハニさんが再びポーランドにやって来て、皆さんを励ましていることに、心から感謝している。特にバースィルさんは、飛行機を降りた時になって連絡して来た。実は、彼は大の飛行機嫌いだったのだ。トルコからポーランドまでの二時間半、彼は落ち着かず、苦しい時間だったそうだ。前回の体験にもかかわらず、今回また来てくれたのだ。

ポーランドに避難しているウクライナ人ボランティアは、自分たちの本職を活かして同胞のために奉仕している。英語教師であるハンナさん(左から1人目)は、一羽のオウムを伴って、アシスタントとして、動物に優しく接する方法を子どもたちに教えていた。(写真提供‥ウクライナ慈済ボランティア)

帰郷できる日まで一緒に待つ

ロシア・ウクライナ戦争が起きてから十日目のことを思い返した。ポズナン在住の張さん夫婦は、慈済基金会初めての配付活動を行ったが、間髪を入れず、十二の国と地域から慈済ボランティアがポーランドを訪れ、支援活動に参加した。配付の主なものは、最初は購買カードだったが、ヨーロッパ全域で通用するデビットカードになり、エコ毛布、五穀パウダー、クッキーなども含まれていた。支援を受けた人数は延べ八万人を超え、二百日あまりにわたって、物資の提供だけでなく、寄り添いケアも続いた。

異国の地で放浪しているウクライナ人が冬を乗り越えられるように、私たちはワルシャワで八回、冬季配付をした。六百三十一枚のデビットカードを贈呈し、二百七十七世帯に寄り添い、八百四十一人が早めの感謝祭を過ごした。何も見返りを求めない私たちでも、涙ぐんでいる彼らにきつく抱きしめられた時は、やって来たことの全てに価値があることを深く感じた。私たちは世界中から寄せられた愛と祝福を彼らの手元に届けたのだ。

慈済基金会ワルシャワ事務所の七人のウクライナ人スタッフは、皆非常に勇気ある強い女性だ。彼女たちは自分たちの悲しみを横に置いて、同じく亡命して来た同胞の世話に全力を尽くしている。また慈済の理念を存分に理解した上で、指示を待ってから行動するのではなく、自発的に問題を見つけては解決していた。「ワレニキクラブ」という交流会に続いて、最近彼女たちは、子どもの登校について来た母親たちは、子どもの下校を待っている間に何か学ぶことができるのではないかと気付いた。そこで、ヨガや社交ダンスなどの講座を提案した。

ウクライナ人は故郷の歌「ああ、草原上の赤いガマズミよ」を歌う時、眼を輝かせ、力いっぱい両手を挙げて大声で歌う。「我々は曲がったガマズミを真っ直ぐに立たせる、ウクライナに栄光あれ、さあ、さあ、元気を出そう!」 情況がどんなに苦しくても、心して職責を全うしているスタッフたちは、ワルシャワに留まっている同胞たちのために最善を尽くし続けるだろう。そして彼女たちは互いに励まし合いながら、「帰郷できる」日を一緒に待ち続けている。

愛があれば、どんなに寒くても温もりが感じられ、また誰もが愛でもって助け合うことができれば、面識のない人であっても家族である。私は八十日間ポーランドに滞在して、このことを、身をもって体験した。(文章は『戦火の下の光』より引用)

(慈済月刊六七九期より)

気温1℃という低温の中で困難に陥っているウクライナ人家族のために、私たちは越冬用の物資を配付した。

愛があれば、どんなに寒くても温もりを感じ、また誰もが愛で助け合うことができれば、面識のない人であっても家族なのだ。私は八十日間ポーランドに滞在し、このことを身をもって体験した。

飛行機はイスタンブールを離陸し、夕方六時頃にポーランドの首都ワルシャワに到着した。空港を出るとすでに空は暗く、気温は摂氏一度しかなく、コートのジッパーを閉めても肌を刺すような寒さに襲われた。

あれから四カ月、季節は寒い年末を迎えていた。故郷を離れて異郷にいるウクライナの友人たちは無事だろうか?と心配しながら、二○二二年十一月二十三日、私は妻と再びポーランドを訪れた。今回はこの七カ月間で三度目の訪問になる。また同行した二人の仲間は、シリア人のIT技術者バジル・ハリルさんとハニ・アルディブさんである。

ロシアとウクライナの戦争は新たなピークに入ったが、気候は益々寒くなり、欧州連合は、新たな難民の波が押し寄せてくると推測した。今回の訪問は、ポーランドに滞在して困難な生活を送っているウクライナ人家族たちのために、越冬物資を補充するだけでなく、長期的支援プロジェックトを企画するためでもある。

戦火の下の光

作者:王慧萍、黃秀花
挿絵:凌阿板、高智能
出版社:慈済人文志業基金会
「慈済道侶檀施会」への入会や
出版資金援助を歓迎します。
振込口座:19905781
口座名:慈済伝播人文基金会
(「慈済道侶檀施会入会希望」と明記してください)
コールセンター: +886-28989000 内線 2145

美しいのは景色ではなく、心のあり方

夜になると気温はさらに下がり続け、早朝の三時に起きて窓の外を見ると、すでに雪が降っていた。まだ暗い空には星が瞬いているが、私たち五人は雪を踏んで出かけた。妻が身につけていた綿入ジャケットには慈済基金会のロゴが縫い付けてあったが、それは、一九九九年に初めて慈済のトルコ大地震災害支援に参加した時に着ていた制服だ。その後、私たちと共にボランティアの道を歩み、災害支援のために多くの国を訪れたが、あっという間に二十三年間が過ぎた。

早朝四時二十分のワルシャワ駅は、見慣れているようで、見知らぬ場所のようでもあった。半年あまり前には世界各国の慈善団体がここに集まり、旗を掲げ、ブースを設置して、逃れてきた難民に様々な支援を提供していた。宿泊施設や交通手段、テレホンカード、医療から各種生活必需品に至るまで網羅したありとあらゆる支援が行われ、街角の隅々まで温かい愛が押し寄せる人波に溢れていた。その当時、混雑して不安に満ちていた駅の大広間は、今は明るく広々としていて、あちこちに独創的なインスタレーションアートが飾られ、ゆったりとした旅行ができる雰囲気をかもし出していた。

ワルシャワからポズナン行きの始発列車は、夜明けに射してきた朝日を受けて定刻の五時九分に出発した。ワルシャワから三百十キロ離れたポズナンは、ポーランド中西部における歴史、経済、文化及びテクノロジーの要であり、学術の重鎮地でもある。私たちはポーランドに嫁いだ台湾人の張淑兒(ヅァン・スゥーアール)さんとその夫ルーカスさんを訪ねようとしていた。

ルーカスさんはモバイルゲーム会社の副社長で、張さんはIT業界でシニアデータアナリストとして活躍し、二人とも多忙な上級幹部だが、手のかかる幼い子供が三人いる。しかし、大勢のウクライナ人が逃れてきた三月初旬以来、彼らは慈済基金会の委託を受け入れ、ここでウクライナ人家族を支援している。そして、三月だけで、ポズナンで四回配付活動を行った。特に一回目の活動で配付された八百件の物資は、買い付けから運搬まで、全て夫婦二人だけで行ったそうだ。その後は姉と義兄も手伝うようになり、ロシア語が話せる義理の母まで配付時の通訳として参加してくれた。家族全員が親切で、喜んで人助けの手伝いをしてくれた。

ポーランド政府と国民は善意をもって、数百万ものウクライナ人高齢者や女性、子どもを受け入れ、多くの支援をしていた。しかし、思いも寄らず、戦争は長引き、エネルギーと経済面で大きな影響が出始めた。その結果、多くのヨーロッパ諸国と同じく、深刻なインフレが起きた。この数カ月間に、水道代や電気代、物価が数倍に上がり、家賃も論外ではない。そこで政府は、財政の負荷が大きい難民家族への補助金の支給を停止した。それだけに、難民のために金銭面と人的支援を続けている張さんご夫婦は、実にありがたい存在であり、我々も敬服した。

私と妻はこれまで二回ポーランドを訪れ、合計六十七日間、滞在したが、主な活動範囲はワルシャワだった。調査や配付などでよそへ行くことはあっても、どこかの組織の施設や避難所を訪ねるにとどまり、各地の景色を見る暇などあまりなかった。今回、張さんご夫婦が手配した快適な車に乗り、大きな窓ガラス越しにポーランド中部の美しい景色を堪能することができた。しかし、リラックスした心地良い旅とはほど遠かった。何故なら、故郷を離れて異郷にいるウクライナ人にとって、最も美しいのは眼前の風景ではなく、夜中に夢で見る故郷だからだ。戦火で故郷の色は褪せ、残骸のグレーと黒色しか見えない。目の前にあるのは、生きるための生計をどう維持して行くか、または就学や就職に関わる多くの困難が横たわっている。

これらのことは、感慨深く、悲しい気持ちにさせるが、我々への警鐘でもあるのだ。平和に暮らしているからこそ、のんびりと風景を楽しめるし、平和な時だからこそ、景色が色鮮やかに見えるのである。

ポズナンに到着した私たちを出迎えてくれた張さん夫婦は、満面の笑顔でプラットホームに立っていた。彼女は、本職が弁護士、建築家、企業の上級幹部だったウクライナ人女性三人を紹介してくれた。今は、ポズナン慈済基金会の事務職員として働いている。

三人は、現地の二百世帯あまりのウクライナ人のケアを続けている。家賃を払えない若い母親たちは転々と住居を変え、子供たちの就学に影響が出ていた。張さん夫婦は、四方八方尋ねて難民たちが安住できる幾つかの場所を見つけたため、私たちにその審査を委ねた。

ポーランドに避難してきたウクライナ人の高齢者は、言葉の壁と就業の困難の中で、外出できないことが心身の健康に影響を及ぼしていた。そこで、慈済はワルシャワで「ワレニキクラブ」を立ち上げ、毎週のように彼らを招いてワレニキを作ってもらった。(写真提供・ウクライナ慈済ボランティア)

トルコの慈済ボランティアである胡光忠さんと周如意さん夫婦は、昨年12月にワレニキクラブを訪れ、台湾風餃子を振る舞って、皆に楽しんでもらった。(写真、提供者・周如意)

事態は好転すると信じよう

ポズナンでの三日間の滞在を終え、私たちは慣れ親しんだワルシャワに戻った。七月末に大規模な配付活動が終了した後も、慈済の奉仕が中断することはなかった。ワルシャワに事務所を設立して、七人のウクライナ人女性をプロジェクトスタッフとして雇用した。彼女たちは途絶えることなく、同胞の世話を続けている。

この数カ月間、彼女たちは、支援を必要とするウクライナ人の家庭を見つけるために、丁寧に慈善訪問を行った。慈済基金会の審査が通ると、経済的な支援と心理的サポートを続けて受けられるのである。また、それだけでなく、慈済基金会とカミロ修道会が協力して進めているプロジェクトでも、彼女たちは自分たちの本職を活かして、子どもたちのために人格教育(道徳の授業)を行ったり、高齢者たちのための「ワレニキクラブ」を立ち上げたりして、同胞のために全力で投入した。さらに私たちを安心させたのは、 彼女たちがすでに自分たちだけで責任を持って、ワルシャワでの初めての冬季配付活動を企画し、十一月二十八日にそれを行ったことである。

㊟ワレニキは水餃子に似たウクライナの食べ物。

「ワレニキクラブ」は、私たちのウクライナ人スタッフが心を尽くした成果である。彼女たちは家庭訪問の際、ウクライナ人のお年寄りたちが言葉の壁や身体的・心理的な事情で、長期間にわたって狭い部屋に閉じこもっているのを見て、忍びない気持ちになった。そこで、考えた結果、彼らを慈済の事務所に連れて行き、そこでワレニキを作ってもらった。それは、ウクライナ人家族が集まる時によく食べる伝統的な美食で、お年寄りたちは殆ど皆、それを作ることができるのだ。できたワレニキは、連絡所のスタッフがネットを通じて販売した。売り上げは、二十%を支援を必要としている同胞のために充てた他は、お年寄りたちに還元された。それは、慈済基金会の理念の一つである、「腹八分目、残りの二分で人助け」の教えから来ている。お年寄りたちの歌声や笑顔から、困っている人のために奉仕することで、異国の地で人生の目標と価値を取り戻したことが分かり、とても嬉しく思った。

「今、どんな困難に直面しても、いつか事態は好転すると信じるのです。自分の目標を貫き通し、決して希望を捨ててはなりません。トルコにいる私たちは毎日、このような言葉で自分を励まし続けて来ました」。シリア籍のITエンジニアであるバースィルさんとハニさんは、自分たちの亡命の経験でもって、異国に放浪しているウクライナ人に、最後まで頑張り続ければ事態は必ず好転すると励ました。

バースィルさんとハニさんが再びポーランドにやって来て、皆さんを励ましていることに、心から感謝している。特にバースィルさんは、飛行機を降りた時になって連絡して来た。実は、彼は大の飛行機嫌いだったのだ。トルコからポーランドまでの二時間半、彼は落ち着かず、苦しい時間だったそうだ。前回の体験にもかかわらず、今回また来てくれたのだ。

ポーランドに避難しているウクライナ人ボランティアは、自分たちの本職を活かして同胞のために奉仕している。英語教師であるハンナさん(左から1人目)は、一羽のオウムを伴って、アシスタントとして、動物に優しく接する方法を子どもたちに教えていた。(写真提供‥ウクライナ慈済ボランティア)

帰郷できる日まで一緒に待つ

ロシア・ウクライナ戦争が起きてから十日目のことを思い返した。ポズナン在住の張さん夫婦は、慈済基金会初めての配付活動を行ったが、間髪を入れず、十二の国と地域から慈済ボランティアがポーランドを訪れ、支援活動に参加した。配付の主なものは、最初は購買カードだったが、ヨーロッパ全域で通用するデビットカードになり、エコ毛布、五穀パウダー、クッキーなども含まれていた。支援を受けた人数は延べ八万人を超え、二百日あまりにわたって、物資の提供だけでなく、寄り添いケアも続いた。

異国の地で放浪しているウクライナ人が冬を乗り越えられるように、私たちはワルシャワで八回、冬季配付をした。六百三十一枚のデビットカードを贈呈し、二百七十七世帯に寄り添い、八百四十一人が早めの感謝祭を過ごした。何も見返りを求めない私たちでも、涙ぐんでいる彼らにきつく抱きしめられた時は、やって来たことの全てに価値があることを深く感じた。私たちは世界中から寄せられた愛と祝福を彼らの手元に届けたのだ。

慈済基金会ワルシャワ事務所の七人のウクライナ人スタッフは、皆非常に勇気ある強い女性だ。彼女たちは自分たちの悲しみを横に置いて、同じく亡命して来た同胞の世話に全力を尽くしている。また慈済の理念を存分に理解した上で、指示を待ってから行動するのではなく、自発的に問題を見つけては解決していた。「ワレニキクラブ」という交流会に続いて、最近彼女たちは、子どもの登校について来た母親たちは、子どもの下校を待っている間に何か学ぶことができるのではないかと気付いた。そこで、ヨガや社交ダンスなどの講座を提案した。

ウクライナ人は故郷の歌「ああ、草原上の赤いガマズミよ」を歌う時、眼を輝かせ、力いっぱい両手を挙げて大声で歌う。「我々は曲がったガマズミを真っ直ぐに立たせる、ウクライナに栄光あれ、さあ、さあ、元気を出そう!」 情況がどんなに苦しくても、心して職責を全うしているスタッフたちは、ワルシャワに留まっている同胞たちのために最善を尽くし続けるだろう。そして彼女たちは互いに励まし合いながら、「帰郷できる」日を一緒に待ち続けている。

愛があれば、どんなに寒くても温もりが感じられ、また誰もが愛でもって助け合うことができれば、面識のない人であっても家族である。私は八十日間ポーランドに滞在して、このことを、身をもって体験した。(文章は『戦火の下の光』より引用)

(慈済月刊六七九期より)

關鍵字

法を心に近づけ、正しい方向に導く

(絵・陳九熹)

毎日《無量義経》を開いて、一句一節を注意深く読み取ってください。
日々の暮らしの中で、その境地が出現した時、法の教えが思い出されれば、自分に善を行って悪を止めることを促すことで、平穏で自在になることができます。

中部地区の慈済人が集まって、心を入れて、経蔵劇「無量義 法髄偈頌」を八回公演してくれたことに感謝します。これは活動ではなく、素晴らしい因縁による大法要だと言えます。多くのボランティアを大動員して、長い間、準備し、稽古するだけでなく、彰化の第一体育館を荘厳な道場に仕上げ、そこに素晴らしい雰囲気を醸し出しました。足を踏み入れた途端、心は自然にその雰囲気に溶け込み、出入りする時は秩序を守り、話す時も小声になりました。三時間に及ぶ公演で、私には時間が過ぎた感じはなく、心は法悦に満たされました。皆の誠意ある心が善の美しさを完成させたのです。大成功の中、円満に幕を閉じました。

仏陀は大きな事を成し遂げる為に人間(じんかん)に来られ、衆生に菩薩法を行うよう教え導きました。菩薩法とは《法華経》のことであり、《法華経》の精髄は《無量義経》にあります。皆さんは練習を通して、経文のどの部分も朗々と諳んじることができます。目で見て耳で聞けば、口ずさむことができ、更に体は音律に合わせて動き、体と心と口と意識が敬虔に集中し、心にしっかり刻まれていたと言えるでしょう。身も心も法が刻まれたことは、心に善の種が蒔かれたようなものであり、それをしっかり育て、法水で潤して四季を通じて大きくし、その種子が「一から無量が生まれ、無量の糧が生まれる」ようにするのです。

どの動作も法であり、あらゆる文字が髄で、法髄が音律を伴って舞台で展開すれば、容易に人々の中に溶け込むことができます。中にはもっと多くの道理があり、皆さんは毎日、《無量義経》を開いて、一句一節を真心でもって読んで心に留めてください。日常生活の中で或る境地に向き合った時、その言葉が心に浮び、「諸悪をする莫れ、善行に奉ずるべし」と自分に警鐘を鳴らすでしょう。

読経の功徳は、人生を正しい方向に導き、法や規律のように、悪を止めて善を宣揚することにあるのです。心は寸分違わず正しくあるべきで、少しでも偏りがあれば、見た所大差がなくても、次第に偏りが大きくなって、「僅かな差は千里を失する」ことになります。人口が絶えず増加する中、心は益々複雑化しています。中でも現代科学が発達する中、もし、心をしっかり守らなければ、権力のある人の僅かな心の偏りによって、世の中を危険に晒してしまいます。

二千五百年余り前、仏陀の一念の悟りが、天下のこれほど多くの人に影響し、仏法に触れるようになりました。同じ道理で、愛の心は人を導き、それが少数から多数になって集まります。誰でも幸福をもたらすことができ、愛と善の念は社会に平安をもたらします。

よく「衆生の共業(ぐうごう)」に言及しますが、人心の乱れや気候変動は憂うべきことです。このような時に必要なのは「共に善行する」ことです。心ある人もいますが、私たちの呼びかけが足りません。どの人も軽々しく見てはいけません。もしかしたら、あなたか私が彼を菩薩道に導く因縁ができるかも知れないからです。世間には苦しんでいる人は多く、もしこの人たちに声をかけなかったら、私たちとの縁は結べず、助けることができません。「因縁」の因とは種であり、縁は大地を意味します。心の大地に善があれば、種が撒かれた時、喜んでこの世のことに関心を寄せるようになります。

菩薩とは「悟りを開いた情を持った人」のことであり、訳の分からない無明の凡夫のように、道理が分からず、心が狭く、今日得たものは自分の理想とは違うと感じるような情ではありません。完璧を求めれば、失望が待っています。

もし、それほど強く求めなければ、幸福な人生を送ることができます。私は毎日、自分のして来たことを振り返り、幸せだと感じています。私に幸せをもたらしてくれたのは、多くの志を一つにした人間菩薩(ボランティア)たちです。幸せですから、この生涯が辛いものだったとは言いませんが、それでも容易ではなかった事を思い出します。その時の思いがあるからこそ、人間(じんかん)で多くのことを為し得たのだと思います。事を為すには一人ではできませんが、多くの人を募るのも容易ではありません。そして、誰が誰を指導するのではなく、一人一人が主導者として、心を一つに協力する精神が、最も質が高くて力を発揮することができ、最も美しい姿なのです。

毎日のように菩薩と一緒にいられるので、とても満足しています。私たちのいる所を菩薩の集まる場所にして、何処かで災難が起きたら、直ちに人助けに行くのです。「諸々の善人の集まる所」は、皆が集まって率先して道を行き、灯りを灯してさらに明るくなるようにし、世の中が輝くようにするのです。

いわゆる「法を聞く」とは、世の真諦を体得して、心が常に闊達であることです。「心が虚空を包み込むほど広くなり、砂のように数え切れない世界に達する」と言われるように、心はあらゆるものを受け入れることができ、何事にも囚われなければ、障害は存在しません。法を心に近づければ近づけるほど、行動する方向は「善」なのです。皆さんが《無量義經》を慧命の種子とし、身をもって実践すれば、軽やかで自在になれるでしょう。皆さんが真に経蔵を理解し、智慧で満たされ、何事も順調にいき、福と慧の双方を修めることを祈っています。

(慈済月刊六八二期より)

(絵・陳九熹)

毎日《無量義経》を開いて、一句一節を注意深く読み取ってください。
日々の暮らしの中で、その境地が出現した時、法の教えが思い出されれば、自分に善を行って悪を止めることを促すことで、平穏で自在になることができます。

中部地区の慈済人が集まって、心を入れて、経蔵劇「無量義 法髄偈頌」を八回公演してくれたことに感謝します。これは活動ではなく、素晴らしい因縁による大法要だと言えます。多くのボランティアを大動員して、長い間、準備し、稽古するだけでなく、彰化の第一体育館を荘厳な道場に仕上げ、そこに素晴らしい雰囲気を醸し出しました。足を踏み入れた途端、心は自然にその雰囲気に溶け込み、出入りする時は秩序を守り、話す時も小声になりました。三時間に及ぶ公演で、私には時間が過ぎた感じはなく、心は法悦に満たされました。皆の誠意ある心が善の美しさを完成させたのです。大成功の中、円満に幕を閉じました。

仏陀は大きな事を成し遂げる為に人間(じんかん)に来られ、衆生に菩薩法を行うよう教え導きました。菩薩法とは《法華経》のことであり、《法華経》の精髄は《無量義経》にあります。皆さんは練習を通して、経文のどの部分も朗々と諳んじることができます。目で見て耳で聞けば、口ずさむことができ、更に体は音律に合わせて動き、体と心と口と意識が敬虔に集中し、心にしっかり刻まれていたと言えるでしょう。身も心も法が刻まれたことは、心に善の種が蒔かれたようなものであり、それをしっかり育て、法水で潤して四季を通じて大きくし、その種子が「一から無量が生まれ、無量の糧が生まれる」ようにするのです。

どの動作も法であり、あらゆる文字が髄で、法髄が音律を伴って舞台で展開すれば、容易に人々の中に溶け込むことができます。中にはもっと多くの道理があり、皆さんは毎日、《無量義経》を開いて、一句一節を真心でもって読んで心に留めてください。日常生活の中で或る境地に向き合った時、その言葉が心に浮び、「諸悪をする莫れ、善行に奉ずるべし」と自分に警鐘を鳴らすでしょう。

読経の功徳は、人生を正しい方向に導き、法や規律のように、悪を止めて善を宣揚することにあるのです。心は寸分違わず正しくあるべきで、少しでも偏りがあれば、見た所大差がなくても、次第に偏りが大きくなって、「僅かな差は千里を失する」ことになります。人口が絶えず増加する中、心は益々複雑化しています。中でも現代科学が発達する中、もし、心をしっかり守らなければ、権力のある人の僅かな心の偏りによって、世の中を危険に晒してしまいます。

二千五百年余り前、仏陀の一念の悟りが、天下のこれほど多くの人に影響し、仏法に触れるようになりました。同じ道理で、愛の心は人を導き、それが少数から多数になって集まります。誰でも幸福をもたらすことができ、愛と善の念は社会に平安をもたらします。

よく「衆生の共業(ぐうごう)」に言及しますが、人心の乱れや気候変動は憂うべきことです。このような時に必要なのは「共に善行する」ことです。心ある人もいますが、私たちの呼びかけが足りません。どの人も軽々しく見てはいけません。もしかしたら、あなたか私が彼を菩薩道に導く因縁ができるかも知れないからです。世間には苦しんでいる人は多く、もしこの人たちに声をかけなかったら、私たちとの縁は結べず、助けることができません。「因縁」の因とは種であり、縁は大地を意味します。心の大地に善があれば、種が撒かれた時、喜んでこの世のことに関心を寄せるようになります。

菩薩とは「悟りを開いた情を持った人」のことであり、訳の分からない無明の凡夫のように、道理が分からず、心が狭く、今日得たものは自分の理想とは違うと感じるような情ではありません。完璧を求めれば、失望が待っています。

もし、それほど強く求めなければ、幸福な人生を送ることができます。私は毎日、自分のして来たことを振り返り、幸せだと感じています。私に幸せをもたらしてくれたのは、多くの志を一つにした人間菩薩(ボランティア)たちです。幸せですから、この生涯が辛いものだったとは言いませんが、それでも容易ではなかった事を思い出します。その時の思いがあるからこそ、人間(じんかん)で多くのことを為し得たのだと思います。事を為すには一人ではできませんが、多くの人を募るのも容易ではありません。そして、誰が誰を指導するのではなく、一人一人が主導者として、心を一つに協力する精神が、最も質が高くて力を発揮することができ、最も美しい姿なのです。

毎日のように菩薩と一緒にいられるので、とても満足しています。私たちのいる所を菩薩の集まる場所にして、何処かで災難が起きたら、直ちに人助けに行くのです。「諸々の善人の集まる所」は、皆が集まって率先して道を行き、灯りを灯してさらに明るくなるようにし、世の中が輝くようにするのです。

いわゆる「法を聞く」とは、世の真諦を体得して、心が常に闊達であることです。「心が虚空を包み込むほど広くなり、砂のように数え切れない世界に達する」と言われるように、心はあらゆるものを受け入れることができ、何事にも囚われなければ、障害は存在しません。法を心に近づければ近づけるほど、行動する方向は「善」なのです。皆さんが《無量義經》を慧命の種子とし、身をもって実践すれば、軽やかで自在になれるでしょう。皆さんが真に経蔵を理解し、智慧で満たされ、何事も順調にいき、福と慧の双方を修めることを祈っています。

(慈済月刊六八二期より)

關鍵字

路地に入り、一人暮らしのお年寄りのために計画を立てる

両側に建てられたばかりの一戸建てに挟まれたレンガ作りの古い家屋は殆ど日差しが届かない。

家主の楊(ヤン)さんは、軽度の認知症が見られるようになってから、徐々に自立した生活ができなくなっていた。
そしてある団体が彼の生活に現れた。

ボランティアが懸命に磨いた結果、褐色の油汚れに覆われていた冷蔵庫が新品のようになった。

また来ます。このユニフォームを着ている人が誰だか分かりますか?」ボランティアは自分のユニフォームを指して笑顔で尋ねた。「慈済ボランティアですね!」と家主の楊さんが答えると、ボランティアたちは疲れを忘れ、嬉しそうに笑った。

町長から台南市新豊区社会福祉センターに、楊さんの家が掃除の手伝いを必要としている、という連絡が入った。二月二十七日、十七人の帰仁区の慈済ボランティアが掃除道具一式を用意して彼の家に向かった。楊さんの家は路地の中にあり、伝統的な一列形式のレンガ造りで、居間は昔ながらの二枚扉で、かんぬきで施錠する必要がある。その家の両側には真新しい一戸建てが建ち、彼の家は真ん中に挟まれて、正午以外は小さな中庭にも日が当たらず、昼間でも灯りをつけないと、家の中はかなり薄暗い。

訪問ケアボランティアの古月英(グ・ユエイン)さんによると、七十歳の楊さんは一人暮らしで、低所得世帯の補助金はもらっているが、近頃、軽度の認知症が見られるという。補助金は、彼が紛失したり浪費したりするのを防ぐために、新豊区社会福祉センターのソーシャルワーカーと町長が管理して支払っている。楊さんは認知機能の衰えで、いつも食事したことを忘れてしまい、近くのレストランに重複して食事を取りに行くことがよくある。このことからも分かるように、楊さんは生活環境の整理ができなくなっている。

外から中庭まで雑草が生い茂り、家の中は薄暗く、居間のテレビはつけているが、リモコンの電池が切れていて、その取り換えもできないため、ずっと付けっぱなしになっているのだ。彼はかつて左官屋で、家の至るところに工具や鉄フレーム、はしごが詰め込まれていた。寝室は日が差し込まないため、とてもじめじめしていた。また、強い尿の臭いが空間全体に充満していた。寝室とトイレが離れているので、彼は寝室で小用を足していると推測される。ボランティアは町長と相談して、トイレの隣にある小部屋を整理して寝室にすることにした。「スペースを調整した方が、彼の日常生活はより安全になります」。

ボランティアの游士印(ヨゥ・スーイン)さんは、室内装飾の設計と施工の仕事に携わっていて、住居改善の専門家である。その日、彼は楊さんのために、わざわざシングルベッドを持ってきた。「寝室にあったベッドは状態が悪く、強い異臭を放っていました。この新しいシングルベッドは清潔で使い勝手がよく、師姐(スージエ)は蚊帳とムシロ付きマットレス、新しい掛布団まで持って来てくれました」。ボランティアの配慮は、自分の家族に対するように行き届いており、決していい加減ではない。

楊さんは清潔で整頓された居間に座り、穏やかにテレビを見ていた。(撮影‧沈雅慧)

相手が喜べば、自分も嬉しい

「わっ、ネズミ!なんて大きなネズミ!」ボランティアが家から要らないものを片付け始めた時、平穏に暮らしていたネズミたちが驚いて瞬時に逃げ出した。大小合わせて十数匹。ゴキブリも巣から逃げ出し、ボランティアたちは鳥肌が立った。しかし、びっくりはしても、彼らは清掃の手を止めることはなかった。

点検後、冷蔵庫はまだ使えるが、スープをこぼしたせいで褐色の油汚れがこびりついていたので、ボランティアは力を合わせて冷蔵庫を中庭まで運び出した。意外にも、長年付着していた油汚れはどんなに擦ってもきれいにならなかった。張淑齢(チャン・スゥリン)さんが雑貨屋まで走って、洗浄剤を買ってきた。ようやく三人の男性ボランティアが協力してブラッシングした結果、楊さんの冷蔵庫は新品のようになった。

軒下の廊下に金網の籠があり、そこに二羽の鳩が飼われていた。「誰かが捕まえてきて、飼ってもらっているのですが、彼には育て方が分からず、かなり死んでしまいました」と楊さんの近くに住むボランティアが言った。「楊さん、相談があるのですが、この二羽の鳩を放してあげませんか?」彼は少し気が進まなかったようだったが、直ぐにうなずいて同意した。彼が自分で鳩をつかんで空中に放り上げると、鳩は自由になった。ボランティアは直ぐ鳩の糞を掃除し、籠を解体して回収した。

薄暗いキッチンから鍋やフライパンなどを外に出して洗い、レンジフードと調理台もボランティアによってきれいになり、バス・トイレも新品のようにピカピカになった。その時、游さんは他のボランティアにシングルベッドを搬入して組み立ててもらい、蚊帳も吊るした。その頃には屋外の清掃も大方完了していた。

ボランティアが楊さんを家の中に招くと、きれいになった部屋を一つ一つ見て回り、「これでいいですか?嬉しいですか?」と聞くと、楊さんは、「はい!もちろん嬉しいです」と素直に笑顔で答えた。

僅か二時間で、ボランティアたちは乱雑極まりなかった家を片付けて清掃し、快適な家に変えた。また、楊さんを取り囲んで、「無量寿福」という歌を歌い、何度も「祝福します。無量寿の祝福」と歌った。楊さんがそれ以降、きれいな環境で暮らして行くよう祝福した。

目の前の光景を見て、游さんは心に感じるところがあり、「奉仕できる人は幸せです。奉仕することで得られる至福の喜びはとても長く続きますが、奉仕するにも因縁が必要です!」 以前の游さんはいつも仕事で忙しかったが、半分リタイアした今、偶然に静思堂の整頓に参加し、実践するうちに大きな喜びを感じた。それ以来、彼は慈善活動に自分の専門を取り入れている。他の人を助けるだけでなく、自分自身を成就しており、それこそ「福は実践する中で喜びを感じる」ことの証である。

(慈済月刊六七七期より)

両側に建てられたばかりの一戸建てに挟まれたレンガ作りの古い家屋は殆ど日差しが届かない。

家主の楊(ヤン)さんは、軽度の認知症が見られるようになってから、徐々に自立した生活ができなくなっていた。
そしてある団体が彼の生活に現れた。

ボランティアが懸命に磨いた結果、褐色の油汚れに覆われていた冷蔵庫が新品のようになった。

また来ます。このユニフォームを着ている人が誰だか分かりますか?」ボランティアは自分のユニフォームを指して笑顔で尋ねた。「慈済ボランティアですね!」と家主の楊さんが答えると、ボランティアたちは疲れを忘れ、嬉しそうに笑った。

町長から台南市新豊区社会福祉センターに、楊さんの家が掃除の手伝いを必要としている、という連絡が入った。二月二十七日、十七人の帰仁区の慈済ボランティアが掃除道具一式を用意して彼の家に向かった。楊さんの家は路地の中にあり、伝統的な一列形式のレンガ造りで、居間は昔ながらの二枚扉で、かんぬきで施錠する必要がある。その家の両側には真新しい一戸建てが建ち、彼の家は真ん中に挟まれて、正午以外は小さな中庭にも日が当たらず、昼間でも灯りをつけないと、家の中はかなり薄暗い。

訪問ケアボランティアの古月英(グ・ユエイン)さんによると、七十歳の楊さんは一人暮らしで、低所得世帯の補助金はもらっているが、近頃、軽度の認知症が見られるという。補助金は、彼が紛失したり浪費したりするのを防ぐために、新豊区社会福祉センターのソーシャルワーカーと町長が管理して支払っている。楊さんは認知機能の衰えで、いつも食事したことを忘れてしまい、近くのレストランに重複して食事を取りに行くことがよくある。このことからも分かるように、楊さんは生活環境の整理ができなくなっている。

外から中庭まで雑草が生い茂り、家の中は薄暗く、居間のテレビはつけているが、リモコンの電池が切れていて、その取り換えもできないため、ずっと付けっぱなしになっているのだ。彼はかつて左官屋で、家の至るところに工具や鉄フレーム、はしごが詰め込まれていた。寝室は日が差し込まないため、とてもじめじめしていた。また、強い尿の臭いが空間全体に充満していた。寝室とトイレが離れているので、彼は寝室で小用を足していると推測される。ボランティアは町長と相談して、トイレの隣にある小部屋を整理して寝室にすることにした。「スペースを調整した方が、彼の日常生活はより安全になります」。

ボランティアの游士印(ヨゥ・スーイン)さんは、室内装飾の設計と施工の仕事に携わっていて、住居改善の専門家である。その日、彼は楊さんのために、わざわざシングルベッドを持ってきた。「寝室にあったベッドは状態が悪く、強い異臭を放っていました。この新しいシングルベッドは清潔で使い勝手がよく、師姐(スージエ)は蚊帳とムシロ付きマットレス、新しい掛布団まで持って来てくれました」。ボランティアの配慮は、自分の家族に対するように行き届いており、決していい加減ではない。

楊さんは清潔で整頓された居間に座り、穏やかにテレビを見ていた。(撮影‧沈雅慧)

相手が喜べば、自分も嬉しい

「わっ、ネズミ!なんて大きなネズミ!」ボランティアが家から要らないものを片付け始めた時、平穏に暮らしていたネズミたちが驚いて瞬時に逃げ出した。大小合わせて十数匹。ゴキブリも巣から逃げ出し、ボランティアたちは鳥肌が立った。しかし、びっくりはしても、彼らは清掃の手を止めることはなかった。

点検後、冷蔵庫はまだ使えるが、スープをこぼしたせいで褐色の油汚れがこびりついていたので、ボランティアは力を合わせて冷蔵庫を中庭まで運び出した。意外にも、長年付着していた油汚れはどんなに擦ってもきれいにならなかった。張淑齢(チャン・スゥリン)さんが雑貨屋まで走って、洗浄剤を買ってきた。ようやく三人の男性ボランティアが協力してブラッシングした結果、楊さんの冷蔵庫は新品のようになった。

軒下の廊下に金網の籠があり、そこに二羽の鳩が飼われていた。「誰かが捕まえてきて、飼ってもらっているのですが、彼には育て方が分からず、かなり死んでしまいました」と楊さんの近くに住むボランティアが言った。「楊さん、相談があるのですが、この二羽の鳩を放してあげませんか?」彼は少し気が進まなかったようだったが、直ぐにうなずいて同意した。彼が自分で鳩をつかんで空中に放り上げると、鳩は自由になった。ボランティアは直ぐ鳩の糞を掃除し、籠を解体して回収した。

薄暗いキッチンから鍋やフライパンなどを外に出して洗い、レンジフードと調理台もボランティアによってきれいになり、バス・トイレも新品のようにピカピカになった。その時、游さんは他のボランティアにシングルベッドを搬入して組み立ててもらい、蚊帳も吊るした。その頃には屋外の清掃も大方完了していた。

ボランティアが楊さんを家の中に招くと、きれいになった部屋を一つ一つ見て回り、「これでいいですか?嬉しいですか?」と聞くと、楊さんは、「はい!もちろん嬉しいです」と素直に笑顔で答えた。

僅か二時間で、ボランティアたちは乱雑極まりなかった家を片付けて清掃し、快適な家に変えた。また、楊さんを取り囲んで、「無量寿福」という歌を歌い、何度も「祝福します。無量寿の祝福」と歌った。楊さんがそれ以降、きれいな環境で暮らして行くよう祝福した。

目の前の光景を見て、游さんは心に感じるところがあり、「奉仕できる人は幸せです。奉仕することで得られる至福の喜びはとても長く続きますが、奉仕するにも因縁が必要です!」 以前の游さんはいつも仕事で忙しかったが、半分リタイアした今、偶然に静思堂の整頓に参加し、実践するうちに大きな喜びを感じた。それ以来、彼は慈善活動に自分の専門を取り入れている。他の人を助けるだけでなく、自分自身を成就しており、それこそ「福は実践する中で喜びを感じる」ことの証である。

(慈済月刊六七七期より)

關鍵字

通りから路地まで「愛の心ある商店」を探し求める

「愛の心ある商店」を募る過程で、躊躇して前に進めず、自分で限界を設けてしまっていた。

実はこんなにも多くの人が声を掛けられるのを待っていたことを知った。愛の心を募るペースを加速しなきゃ……。

昨年六月下旬、桃園の慈済ボランティアは、「愛の心ある商店」を広める活動を始め、積極的に各店舗に竹筒貯金箱を置かせてもらった。店主や顧客は毎日、この縁を大切にして自分に応じた善行を実行することができるのだ。貯金箱がいっぱいになったら、ボランティアに引き取りに来て欲しいと知らせればいい。

初めの一カ月だけで、三百軒近い店が参加し、ここ一年ほどの間に一千百軒以上が呼応した。この活動を始める前、證厳法師が開示で、現世は悪業が蔓延していると語っていたことを思い出し、「もし上人のお言葉の通りであれば、もう間に合わないかもしれない」と、当惑と落胆を感じていた。

ある日、一軒の店の前に来ると、中で店員が真剣な顔で懸命に掃除をしているのが見えた。「入ってもきっと拒絶されるだろうなあ」と一瞬躊躇した。

しかし、次の瞬間、「自分で限界を設けてはいけない」と自分に言い聞かせ、いつものように「ドアを開けると善に出会う」言葉を掛けた。「こんにちは。慈済ボランティアですが、『愛の心ある商店』と言う活動を行っています。竹筒貯金箱を置かせていただいても宜しいでしょうか。多くの人に愛の心を発揮して欲しいのです」。

「ええ、いいですよ」。五十過ぎの女性は瞬時に親切な眼差しになった上、竹筒貯金箱をレジの前の人目につき易い場所に置いてくれた。更に話を聞いていくと、彼女は若い時に献金をしたことがあると言ったので、びっくりして、「ではまた、慈済の会員になりませんか」と誘うと、「いいですよ!」と返事したのである。そうやって三十年前の会員を見つけ、慈済にまた一つ善の力が加わったのだ。

また別のマントウ店の店主は、引っ越した後、献金を辞めていたが、今回は活動に参加してくれた上に、奥さんと息子さんのために、再び会員になってくれた。

騙されるのではないかと心配していた朝食店の店主の奥さんは、十元を入れた後、これ以上貯金箱を置きたくないと言った。数日後、鄭文章(ヅン・ウェンツォン)さんがその十元の領収証を渡しに行くと、彼女は嬉しくなり、再びその活動に参加してくれた。鄭さんは、「実は皆、愛の心を持っているのです。少しであっても、一番大事なのは人々の『善念の蓄積』です」と言った。

「愛の心ある商店」の募集が始まった時、ボランティアの陳淑華(チェン・スーフワ)さんは手術後の休養中で、まだ車の運転は無理だった。「でも私は歩くことはできますから、他に二人の師姐(スージエ)と一人の師兄(スーシォン)にも協力してもらって、路地の角にある朝食店から呼びかけを始めました」。店に着くと、「竹筒貯金箱を置いて、お客さんに小銭を入れてもらうことは、誰かを祝福すると同時に、自分を祝福することにもなります」と説明した。それを聞いて、店主はとても喜んでくれた。そうやって一軒一軒訪ねると、十軒のうち七軒ほどの店は参加してくれた。

去年11月、鄭文章さん(右)は娘さん夫婦が経営しているカフェを訪れ、募金でいっぱいになった竹筒貯金箱を回収した。これで三度目だ。この店は、桃園市で一番に「愛の心ある商店」に応募した店である。

大園に住んでいる張月里(ヅァン・ユェリー)さんは、バイクで先ず知り合いの店を訪ねたが、その後、知らない店も訪ねた。広く認めて貰えて、彼女はとても嬉しくなった。「善行は自分だけでなく、他の人もしたいのだと分かったのです」。衣料品店を経営する游玉閔(ヨウ・ユーミン)さんも、「私たちの行動は単一的ですが、助けられる人は温かさを感じるのです。お客さんがお金を入れるたびに、私は微笑んでいます」。

鄭さんは、若い人が経営している多くの店が、喜んで善行する理念を受け入れている、と言った。「私たちが外に出て呼びかける意欲さえあればいいのです。志があれば、難しいことではありません」。

アート編集を担当している若いボランティアの陳静(チェン・ジン)さんは、よく町を歩いている時に「愛の心ある商店」の張り紙や竹筒貯金箱がレジに置いてあるのを見ると、「これは年配のボランティアたちが一生懸命頑張った結果、千以上のお店に参加してもらったのだ、と感無量になります」と思うそうだ。

ベテランボランティアの丁林彩(ディン・リンツァイ)さんがある店に入った時、店主がこう言った。「テレビではあなたたちの悪口を言っていることを知っているのですか?それでも店に来るとは度胸があります」。彼女は、だからこそもっと人々と接して、私たちがしていることを正しく説明しなければならないのです、と答えた。すると店主は、「テレビではああ言っているけど、あなたたちがそれほどまで言うのなら、やっていることは正しいと思います。絶対に竹筒貯金箱をここに置いてもらいたい。私も手伝いますよ」と言った。丁さんは、「本当に怖がったり、心配することはないのです。正しいことは実行すればいいのです」と言った。

昨年十二月十九日のことを思い出した。法師が桃園の「愛の心ある商店」活動メンバーと話をした時、「店に竹筒貯金箱を置いてもらうことも、良縁を結ぶきっかけであり、人の性は善であることや初期の「竹筒歳月」の話をする機会に恵まれたのです。相手が理解すれば、あるいは発心して、私たちの力となってくれるかもしれません」と言われたのだ。

参加の呼びかけをする時、喜びもあれば、様々な挫折を経験することもある。しかし、直ぐに頭を切り替え、「まだまだ多くの愛の心を持っている人たちが皆の誘いを待っているのだ、と自分に言い聞かせています。どこに行っても呼びかけ、愛の心と善念で世の中を満たし、共に善行を多くすることで、災難を減らすのです。全ての「愛の心ある商店」が、最高の「善」が集まる場所になるよう願っています」。

(慈済月刊六七九期より)

「愛の心ある商店」を募る過程で、躊躇して前に進めず、自分で限界を設けてしまっていた。

実はこんなにも多くの人が声を掛けられるのを待っていたことを知った。愛の心を募るペースを加速しなきゃ……。

昨年六月下旬、桃園の慈済ボランティアは、「愛の心ある商店」を広める活動を始め、積極的に各店舗に竹筒貯金箱を置かせてもらった。店主や顧客は毎日、この縁を大切にして自分に応じた善行を実行することができるのだ。貯金箱がいっぱいになったら、ボランティアに引き取りに来て欲しいと知らせればいい。

初めの一カ月だけで、三百軒近い店が参加し、ここ一年ほどの間に一千百軒以上が呼応した。この活動を始める前、證厳法師が開示で、現世は悪業が蔓延していると語っていたことを思い出し、「もし上人のお言葉の通りであれば、もう間に合わないかもしれない」と、当惑と落胆を感じていた。

ある日、一軒の店の前に来ると、中で店員が真剣な顔で懸命に掃除をしているのが見えた。「入ってもきっと拒絶されるだろうなあ」と一瞬躊躇した。

しかし、次の瞬間、「自分で限界を設けてはいけない」と自分に言い聞かせ、いつものように「ドアを開けると善に出会う」言葉を掛けた。「こんにちは。慈済ボランティアですが、『愛の心ある商店』と言う活動を行っています。竹筒貯金箱を置かせていただいても宜しいでしょうか。多くの人に愛の心を発揮して欲しいのです」。

「ええ、いいですよ」。五十過ぎの女性は瞬時に親切な眼差しになった上、竹筒貯金箱をレジの前の人目につき易い場所に置いてくれた。更に話を聞いていくと、彼女は若い時に献金をしたことがあると言ったので、びっくりして、「ではまた、慈済の会員になりませんか」と誘うと、「いいですよ!」と返事したのである。そうやって三十年前の会員を見つけ、慈済にまた一つ善の力が加わったのだ。

また別のマントウ店の店主は、引っ越した後、献金を辞めていたが、今回は活動に参加してくれた上に、奥さんと息子さんのために、再び会員になってくれた。

騙されるのではないかと心配していた朝食店の店主の奥さんは、十元を入れた後、これ以上貯金箱を置きたくないと言った。数日後、鄭文章(ヅン・ウェンツォン)さんがその十元の領収証を渡しに行くと、彼女は嬉しくなり、再びその活動に参加してくれた。鄭さんは、「実は皆、愛の心を持っているのです。少しであっても、一番大事なのは人々の『善念の蓄積』です」と言った。

「愛の心ある商店」の募集が始まった時、ボランティアの陳淑華(チェン・スーフワ)さんは手術後の休養中で、まだ車の運転は無理だった。「でも私は歩くことはできますから、他に二人の師姐(スージエ)と一人の師兄(スーシォン)にも協力してもらって、路地の角にある朝食店から呼びかけを始めました」。店に着くと、「竹筒貯金箱を置いて、お客さんに小銭を入れてもらうことは、誰かを祝福すると同時に、自分を祝福することにもなります」と説明した。それを聞いて、店主はとても喜んでくれた。そうやって一軒一軒訪ねると、十軒のうち七軒ほどの店は参加してくれた。

去年11月、鄭文章さん(右)は娘さん夫婦が経営しているカフェを訪れ、募金でいっぱいになった竹筒貯金箱を回収した。これで三度目だ。この店は、桃園市で一番に「愛の心ある商店」に応募した店である。

大園に住んでいる張月里(ヅァン・ユェリー)さんは、バイクで先ず知り合いの店を訪ねたが、その後、知らない店も訪ねた。広く認めて貰えて、彼女はとても嬉しくなった。「善行は自分だけでなく、他の人もしたいのだと分かったのです」。衣料品店を経営する游玉閔(ヨウ・ユーミン)さんも、「私たちの行動は単一的ですが、助けられる人は温かさを感じるのです。お客さんがお金を入れるたびに、私は微笑んでいます」。

鄭さんは、若い人が経営している多くの店が、喜んで善行する理念を受け入れている、と言った。「私たちが外に出て呼びかける意欲さえあればいいのです。志があれば、難しいことではありません」。

アート編集を担当している若いボランティアの陳静(チェン・ジン)さんは、よく町を歩いている時に「愛の心ある商店」の張り紙や竹筒貯金箱がレジに置いてあるのを見ると、「これは年配のボランティアたちが一生懸命頑張った結果、千以上のお店に参加してもらったのだ、と感無量になります」と思うそうだ。

ベテランボランティアの丁林彩(ディン・リンツァイ)さんがある店に入った時、店主がこう言った。「テレビではあなたたちの悪口を言っていることを知っているのですか?それでも店に来るとは度胸があります」。彼女は、だからこそもっと人々と接して、私たちがしていることを正しく説明しなければならないのです、と答えた。すると店主は、「テレビではああ言っているけど、あなたたちがそれほどまで言うのなら、やっていることは正しいと思います。絶対に竹筒貯金箱をここに置いてもらいたい。私も手伝いますよ」と言った。丁さんは、「本当に怖がったり、心配することはないのです。正しいことは実行すればいいのです」と言った。

昨年十二月十九日のことを思い出した。法師が桃園の「愛の心ある商店」活動メンバーと話をした時、「店に竹筒貯金箱を置いてもらうことも、良縁を結ぶきっかけであり、人の性は善であることや初期の「竹筒歳月」の話をする機会に恵まれたのです。相手が理解すれば、あるいは発心して、私たちの力となってくれるかもしれません」と言われたのだ。

参加の呼びかけをする時、喜びもあれば、様々な挫折を経験することもある。しかし、直ぐに頭を切り替え、「まだまだ多くの愛の心を持っている人たちが皆の誘いを待っているのだ、と自分に言い聞かせています。どこに行っても呼びかけ、愛の心と善念で世の中を満たし、共に善行を多くすることで、災難を減らすのです。全ての「愛の心ある商店」が、最高の「善」が集まる場所になるよう願っています」。

(慈済月刊六七九期より)

關鍵字

勝ち負けにこだわらず、読書しよう

劉玉秀さんは毎日《靜思法髓妙蓮華》を読み、オンライン勉強会にも参加している。(撮影・顔霖沼)

かつて夫と言い争っていたが、やがて夫が酔いから覚めるのを待って、優しく説得するようになった。息子は我慢できず、一緒に家を出ようと言ってくれたが、彼女は「大丈夫よ、我慢するから」と言った。今、夫は家を守り、彼女も初心を守って、人生という自分のお経を、最後まで読み続けようとしている。

劉玉秀(リュウ・ユーシユウ)さんは、「家を持つ」という息子の夢を叶えるために、礁渓温泉エリアにある売却相場の良い家を手放して、息子が三世代同居できる家を建てられるようにした。

その古い家は夫と苦労して建てたものだったが、知人は皆、彼女が一人で頑張ってここまで来たことを知っている。今、夫は酒もギャンブルも止め、朝から晩まで、玉秀さんと新築の家の野菜畑を見守っている。そして、「野菜がよく育っていますね!」と褒められるのが一番嬉しい。

玉秀さんが慈済の仕事に出かけると、彼は妻の帰宅を待って、仕切られた野菜畑の一つひとつについてくどくど話し始める。

彼女は自宅の広々としたリビングルームを提供して、ボランティアと共に《靜思法髓妙蓮華》の勉強会を開いている。七十歳を超えた彼女は、「孫は学校に行っていますが、私は家で勉強しています」と言った。もし慈済のボランティアしていなかったら、残りの人生はどうなっていただろうか。「そんなことは恐ろしくて考えられません」と彼女は言った。

息子と娘は、母親が苦労して家を守って来たことを知っているので、成長してからはとても親孝行になった。今の「家」には、温もりがいっぱいだ。

10数年前、劉玉秀さん(中央)はボランティアと共に施設で高齢者をケアした。(撮影・廖月鳳)

どんな人が幸せか

障害のある父親と病気の母親を持つ貧しい家に育った玉秀さんは、教育を受けるどころか、お腹を満たすことも適わず、五、六歳の時から二人の弟の世話をし始め、学校に行けなかった。そして、十歳過ぎから「力仕事」をしてお金を稼いだ。その後、父親の指示で結婚させられた。結婚すれば安定した生活ができるかと思いきや、いつまでも続く困難な日々が彼女の心を打ちのめした。

塗装の仕事をしていた夫は酒が好きで、博打をした。仕事が取れても玉秀さんに任せっきりで、彼女が一人で何とか乗り切ることがよくあった。彼女はひたすら塗りまくり、何軒の家を塗装したか分からない。そして、稼いだお金で家を買い、三人の子供を大学まで卒業させた。その全てを見ていた姑は、嫁が可哀想だとは思っていたが、どうしようもなかった。出来ることと言えば、孫の世話と食事の支度だった。

人生の大半をそのように過ごしていた頃、彼女が建設現場に着いて車から降りると、夫は直ぐ車を走らせて姿を消した。再び夫の姿が見えたのは翌日の早朝で、全身酒臭く、家に入るなり大声で叫び、女の愚痴を聞く耳も持たず、二人とも互いに譲り合うことなく、大喧嘩が始まった。挙句の果てに家族全員が起こされ、子どもたちは怯えながら布団の中で泣くか、そうでなければ母子が抱き合って泣いた。

どこからそんな肝っ玉が備わったのか、彼女は口喧嘩になったら、理屈を通して勝つまで譲らなかった。互いに大声で怒鳴り合うだけでなく、手に取れるものを投げ合ったりした。誰も怪我はしなかったが、家具や電気製品はよく買い直さなければならなかった。

玉秀さんはこう言った。「主人は酒癖が悪いだけで、酒を飲まない時は私を思いやってくれます。私が疲れていることを知ると、日本から輸入された薬用酒や栄養剤を買って労ってくれました。ただ、一日中どこに行ったのか姿が見当たらず、帰宅した時には酔いつぶれていると、私は耐えられなくなって、薬用酒や栄養剤を叩き割って見せました」。

近所に住んでいた劉雲娥(リュウ・ユンオー)さんは薬局を経営していたが、ある日、風邪薬を買いに行った時、誰かが雲娥さんにお金を渡しているのを見かけた。医者の奥さんと呼ばれていた雲娥さんはとても丁寧に、ノートに記入していた。玉秀さんは、「何をしていらっしゃるのですか」と聞いた。その三十数年前に好奇心から質問したことが、彼女の運命を変えるとは知る由もなかった。

雲娥さんは彼女に、「花蓮のある師父が自分も満足に食べられないのに、貧しい人たちのことばかり心配しているのです。このお金は、師父に貧しい人を助けるために使ってもらうのです」と言った。そういえば、工事現場で働いていた当時、あるラジオ番組の司会者が、「花蓮にはとても偉い師父がいます」と紹介していたのを思い出した。その師父に会いたいと思ったが、どこへ行けば会えるのか分からなかった。それで、雲娥さんが彼女を花蓮に誘った時、「もちろん、行きたいわ」と喜んで答えた。

一行が静思精舎に着いた時は正午を過ぎていたが、證厳法師が出てきて、「皆さん、お昼は済ませましたか」と優しく聞いたのだ。その言葉に玉秀さんはとても温かみを感じた。彼女が実家に帰った時、母親の言葉からも同じような感じがしていたのだ。

その日の午後、私たちと雑談していた時、法師が語ったある言葉が、彼女の胸に刻まれ、今も残っている。それは「健康な体を持ち、食べものがあり、住む場所もある私たちは、最も幸せな人です」というお諭しだった。

その言葉は、玉秀さんの人生観と価値観に大きな影響を与えた。「そうなんだ。私はこんなにも元気で、衣食住にも困らない。何を不満に思うことがあるだろう」と彼女は思った。

結婚25周年に撮影した家族写真。劉玉秀さん(前列左から一人目)は苦労の日々を乗り越え、温もりのある家庭を築き、護って来た。(写真提供・劉玉秀)

甘んじて行い、恨み事を言わない

ある時、皆一緒に山の上に住むケア世帯を訪ねた。その日は雨の日で、下山していた時、川の水が急増し、小型ショベルカーが急流にのまれそうな光景を目にし、状況が切羽詰まっていた。

その日は玉秀さんのご主人も同行していて、彼は急いでショベルカーを河岸から遠ざける手伝いをしようとした。しかし、思いもよらず、足がショベルカーのキャタピラーに轢かれて骨折し、破れた皮膚は泥だらけだった。突然のことにショックを受けた玉秀さんは、泥の中に跪いて泣きながら、神様に発願した、「神様、どうか主人の足が切断されずに済み、健康を害さないよう、お守りください。全ての仕事は私が甘んじて一人でやります。もう恨み言は言いません」。

大雨の中で起きた事故と仏法の導きを経て、夫のもたらす試練に対して、彼女はもう癇癪を起こすことはなくなった。夫が酒を飲んで帰宅した時は、取り合わないようにし、夫の酔いが覚めるのを待って、優しく説得した。「もう若くないのだから、飲まないほうがいいわよ。健康を害するから」。酒を飲んだ後の夫は依然として無茶を言ったが、彼女はただ微笑むだけで取り合わなかった。

法師の環境保全を奨励するという理念に応えて、一九九一年末、玉秀さんと雲娥さん、洪阿鳳(ホン・アフォン)さん、李秀玉(リー・シユウユー)さんの四人は相談した結果、街角で段ボール箱を回収することにした。そして、回収した段ボール箱を売って貯めたお金が百万元(約四百五十万円)になったら、皆でくじ引きをして、誰が先に栄誉董事になるか、を決めることにした。

玉秀さんと洪さんの二人は昼間働いているので、四人は夜の八時に集合することを約束した。そして、車の運転ができる雲娥さんが先導して、他の三人はスクーターでついて行き、大通りや路地に沿って「段ボール箱拾い」をした。次第に慈済の仕事が増えていくと、四人は栄誉董事になることを忘れてしまった。瞬く間に三十一年の歳月が過ぎたが、段ボール箱の回収によって栄誉董事になる夢を叶えた人は誰一人いなかった。

慈済に入った玉秀さんは、募金活動をする場合、読み書きができないことが最大の障壁だと気づいた。会費を集める時、詳細に書かなければならず、会員の名前を間違えでもしたら、大変なことになるからだ。そこで、姑の同意を得て、四十歳の時に、夜間学校に願書を出した。昼間は働いたが、夜は家事を姑にお願いし、学校に通い始めた。若くない歳で勉強するのは容易ではなく、手に持ったペンはペンキの刷毛よりも重く感じられた。

三年間の初級クラスに続いて中学校の夜間部に通った。その結果、日常生活に必要な基本的な読み書きはできるようになったが、会費を集めるにあたっては、やはり彼女の人並外れた記憶力が頼りだった。彼女には宜蘭県の田舎にも会員がいるが、三十数年間、その会員が毎月幾ら寄付したか、全部記憶しており、間違ったことはない。

強面が柔和になった

玉秀さんは、リサイクルボランティアになってから、夫もよく軽トラックを運転して、彼女と一緒に決った場所での資源の回収をするようになった。子どもたちが成長してからは、経済的に余裕ができ、苦労して塗装の仕事をしなくてもよくなった。そして、夫が自分の退職金で彼女を栄誉董事にすると言った時、玉秀さんはびっくりして言葉も出なかった。息子は、「寄付したらいいよ。さもないとまた賭博に使ってしまうからね」と言った。

小学校教師の息子が宜蘭に戻って学校に勤め出した時、父親が相変わらず酒に酔って暴れていたことに気づいた。腹を立てた彼は母親を連れて家を出ようと言ったが、玉秀さんは息子に、「それはだめ。お祖母さんはもう歳だから、私がこの家を出たら誰が彼女の世話をするの?大丈夫よ、我慢するから」と言った。その後、母親に頼れる息子がいたからなのか、妻の忍耐力が強かったからなのか分からないが、夫の行動は段々大人しくなった。

末の娘は二〇〇五年に慈済委員の認証を授かり、長女は塾で講師をしている時に、静思語授業をすることを提案した。また二人の孫は幼い頃から慈済児童クラスに入った。嫁も募金帳の整理を引き継ぎ、今では家族で話す時はいつも、慈済の話題になる。

この十年間、彼女は毎日、證厳法師が講釈する《法華経》を聞き、聞いた仏法はほとんど心に銘記していた。彼女は、知っている漢字は少なく、文章を読む時も一字ずつ考えながらでないと読めない、と謙虚に言うが、皆、彼女の感想や話を聞くのが好きだ。

かつて夫と家の物を投げ合った気性の荒い彼女はもういない。、今は話し方からして優しく穏やかになった。二〇二二年、ガンと診断された時、家族は、彼女がパニックになって怖がるのではないかと心配したが、電話の向こうの口調は相変わらず優しいものだった。「心配しないで。向こうからやって来るものは逃げられないから、割り切ってるのよ。平常心でいるわ」。

退院して数日後、グループのボランティア読書会の日、彼女は時間通りにオンラインで参加した。なぜゆっくり休まないのかと聞かれた彼女はこう言った。「無常は本当に怖いものです。たとえ無常が予測不可能だとしても、人生の方向はしっかり把握しなければなりません。無常に対応できるのは仏法だけです。体が病気に罹っても、心が病んではいけません。やはり仏法の勉強を急がなければなりませんね」。心を静め、無常に惑わされないよう、読書に励もう。

(慈済月刊六七七期より)

劉玉秀さんは毎日《靜思法髓妙蓮華》を読み、オンライン勉強会にも参加している。(撮影・顔霖沼)

かつて夫と言い争っていたが、やがて夫が酔いから覚めるのを待って、優しく説得するようになった。息子は我慢できず、一緒に家を出ようと言ってくれたが、彼女は「大丈夫よ、我慢するから」と言った。今、夫は家を守り、彼女も初心を守って、人生という自分のお経を、最後まで読み続けようとしている。

劉玉秀(リュウ・ユーシユウ)さんは、「家を持つ」という息子の夢を叶えるために、礁渓温泉エリアにある売却相場の良い家を手放して、息子が三世代同居できる家を建てられるようにした。

その古い家は夫と苦労して建てたものだったが、知人は皆、彼女が一人で頑張ってここまで来たことを知っている。今、夫は酒もギャンブルも止め、朝から晩まで、玉秀さんと新築の家の野菜畑を見守っている。そして、「野菜がよく育っていますね!」と褒められるのが一番嬉しい。

玉秀さんが慈済の仕事に出かけると、彼は妻の帰宅を待って、仕切られた野菜畑の一つひとつについてくどくど話し始める。

彼女は自宅の広々としたリビングルームを提供して、ボランティアと共に《靜思法髓妙蓮華》の勉強会を開いている。七十歳を超えた彼女は、「孫は学校に行っていますが、私は家で勉強しています」と言った。もし慈済のボランティアしていなかったら、残りの人生はどうなっていただろうか。「そんなことは恐ろしくて考えられません」と彼女は言った。

息子と娘は、母親が苦労して家を守って来たことを知っているので、成長してからはとても親孝行になった。今の「家」には、温もりがいっぱいだ。

10数年前、劉玉秀さん(中央)はボランティアと共に施設で高齢者をケアした。(撮影・廖月鳳)

どんな人が幸せか

障害のある父親と病気の母親を持つ貧しい家に育った玉秀さんは、教育を受けるどころか、お腹を満たすことも適わず、五、六歳の時から二人の弟の世話をし始め、学校に行けなかった。そして、十歳過ぎから「力仕事」をしてお金を稼いだ。その後、父親の指示で結婚させられた。結婚すれば安定した生活ができるかと思いきや、いつまでも続く困難な日々が彼女の心を打ちのめした。

塗装の仕事をしていた夫は酒が好きで、博打をした。仕事が取れても玉秀さんに任せっきりで、彼女が一人で何とか乗り切ることがよくあった。彼女はひたすら塗りまくり、何軒の家を塗装したか分からない。そして、稼いだお金で家を買い、三人の子供を大学まで卒業させた。その全てを見ていた姑は、嫁が可哀想だとは思っていたが、どうしようもなかった。出来ることと言えば、孫の世話と食事の支度だった。

人生の大半をそのように過ごしていた頃、彼女が建設現場に着いて車から降りると、夫は直ぐ車を走らせて姿を消した。再び夫の姿が見えたのは翌日の早朝で、全身酒臭く、家に入るなり大声で叫び、女の愚痴を聞く耳も持たず、二人とも互いに譲り合うことなく、大喧嘩が始まった。挙句の果てに家族全員が起こされ、子どもたちは怯えながら布団の中で泣くか、そうでなければ母子が抱き合って泣いた。

どこからそんな肝っ玉が備わったのか、彼女は口喧嘩になったら、理屈を通して勝つまで譲らなかった。互いに大声で怒鳴り合うだけでなく、手に取れるものを投げ合ったりした。誰も怪我はしなかったが、家具や電気製品はよく買い直さなければならなかった。

玉秀さんはこう言った。「主人は酒癖が悪いだけで、酒を飲まない時は私を思いやってくれます。私が疲れていることを知ると、日本から輸入された薬用酒や栄養剤を買って労ってくれました。ただ、一日中どこに行ったのか姿が見当たらず、帰宅した時には酔いつぶれていると、私は耐えられなくなって、薬用酒や栄養剤を叩き割って見せました」。

近所に住んでいた劉雲娥(リュウ・ユンオー)さんは薬局を経営していたが、ある日、風邪薬を買いに行った時、誰かが雲娥さんにお金を渡しているのを見かけた。医者の奥さんと呼ばれていた雲娥さんはとても丁寧に、ノートに記入していた。玉秀さんは、「何をしていらっしゃるのですか」と聞いた。その三十数年前に好奇心から質問したことが、彼女の運命を変えるとは知る由もなかった。

雲娥さんは彼女に、「花蓮のある師父が自分も満足に食べられないのに、貧しい人たちのことばかり心配しているのです。このお金は、師父に貧しい人を助けるために使ってもらうのです」と言った。そういえば、工事現場で働いていた当時、あるラジオ番組の司会者が、「花蓮にはとても偉い師父がいます」と紹介していたのを思い出した。その師父に会いたいと思ったが、どこへ行けば会えるのか分からなかった。それで、雲娥さんが彼女を花蓮に誘った時、「もちろん、行きたいわ」と喜んで答えた。

一行が静思精舎に着いた時は正午を過ぎていたが、證厳法師が出てきて、「皆さん、お昼は済ませましたか」と優しく聞いたのだ。その言葉に玉秀さんはとても温かみを感じた。彼女が実家に帰った時、母親の言葉からも同じような感じがしていたのだ。

その日の午後、私たちと雑談していた時、法師が語ったある言葉が、彼女の胸に刻まれ、今も残っている。それは「健康な体を持ち、食べものがあり、住む場所もある私たちは、最も幸せな人です」というお諭しだった。

その言葉は、玉秀さんの人生観と価値観に大きな影響を与えた。「そうなんだ。私はこんなにも元気で、衣食住にも困らない。何を不満に思うことがあるだろう」と彼女は思った。

結婚25周年に撮影した家族写真。劉玉秀さん(前列左から一人目)は苦労の日々を乗り越え、温もりのある家庭を築き、護って来た。(写真提供・劉玉秀)

甘んじて行い、恨み事を言わない

ある時、皆一緒に山の上に住むケア世帯を訪ねた。その日は雨の日で、下山していた時、川の水が急増し、小型ショベルカーが急流にのまれそうな光景を目にし、状況が切羽詰まっていた。

その日は玉秀さんのご主人も同行していて、彼は急いでショベルカーを河岸から遠ざける手伝いをしようとした。しかし、思いもよらず、足がショベルカーのキャタピラーに轢かれて骨折し、破れた皮膚は泥だらけだった。突然のことにショックを受けた玉秀さんは、泥の中に跪いて泣きながら、神様に発願した、「神様、どうか主人の足が切断されずに済み、健康を害さないよう、お守りください。全ての仕事は私が甘んじて一人でやります。もう恨み言は言いません」。

大雨の中で起きた事故と仏法の導きを経て、夫のもたらす試練に対して、彼女はもう癇癪を起こすことはなくなった。夫が酒を飲んで帰宅した時は、取り合わないようにし、夫の酔いが覚めるのを待って、優しく説得した。「もう若くないのだから、飲まないほうがいいわよ。健康を害するから」。酒を飲んだ後の夫は依然として無茶を言ったが、彼女はただ微笑むだけで取り合わなかった。

法師の環境保全を奨励するという理念に応えて、一九九一年末、玉秀さんと雲娥さん、洪阿鳳(ホン・アフォン)さん、李秀玉(リー・シユウユー)さんの四人は相談した結果、街角で段ボール箱を回収することにした。そして、回収した段ボール箱を売って貯めたお金が百万元(約四百五十万円)になったら、皆でくじ引きをして、誰が先に栄誉董事になるか、を決めることにした。

玉秀さんと洪さんの二人は昼間働いているので、四人は夜の八時に集合することを約束した。そして、車の運転ができる雲娥さんが先導して、他の三人はスクーターでついて行き、大通りや路地に沿って「段ボール箱拾い」をした。次第に慈済の仕事が増えていくと、四人は栄誉董事になることを忘れてしまった。瞬く間に三十一年の歳月が過ぎたが、段ボール箱の回収によって栄誉董事になる夢を叶えた人は誰一人いなかった。

慈済に入った玉秀さんは、募金活動をする場合、読み書きができないことが最大の障壁だと気づいた。会費を集める時、詳細に書かなければならず、会員の名前を間違えでもしたら、大変なことになるからだ。そこで、姑の同意を得て、四十歳の時に、夜間学校に願書を出した。昼間は働いたが、夜は家事を姑にお願いし、学校に通い始めた。若くない歳で勉強するのは容易ではなく、手に持ったペンはペンキの刷毛よりも重く感じられた。

三年間の初級クラスに続いて中学校の夜間部に通った。その結果、日常生活に必要な基本的な読み書きはできるようになったが、会費を集めるにあたっては、やはり彼女の人並外れた記憶力が頼りだった。彼女には宜蘭県の田舎にも会員がいるが、三十数年間、その会員が毎月幾ら寄付したか、全部記憶しており、間違ったことはない。

強面が柔和になった

玉秀さんは、リサイクルボランティアになってから、夫もよく軽トラックを運転して、彼女と一緒に決った場所での資源の回収をするようになった。子どもたちが成長してからは、経済的に余裕ができ、苦労して塗装の仕事をしなくてもよくなった。そして、夫が自分の退職金で彼女を栄誉董事にすると言った時、玉秀さんはびっくりして言葉も出なかった。息子は、「寄付したらいいよ。さもないとまた賭博に使ってしまうからね」と言った。

小学校教師の息子が宜蘭に戻って学校に勤め出した時、父親が相変わらず酒に酔って暴れていたことに気づいた。腹を立てた彼は母親を連れて家を出ようと言ったが、玉秀さんは息子に、「それはだめ。お祖母さんはもう歳だから、私がこの家を出たら誰が彼女の世話をするの?大丈夫よ、我慢するから」と言った。その後、母親に頼れる息子がいたからなのか、妻の忍耐力が強かったからなのか分からないが、夫の行動は段々大人しくなった。

末の娘は二〇〇五年に慈済委員の認証を授かり、長女は塾で講師をしている時に、静思語授業をすることを提案した。また二人の孫は幼い頃から慈済児童クラスに入った。嫁も募金帳の整理を引き継ぎ、今では家族で話す時はいつも、慈済の話題になる。

この十年間、彼女は毎日、證厳法師が講釈する《法華経》を聞き、聞いた仏法はほとんど心に銘記していた。彼女は、知っている漢字は少なく、文章を読む時も一字ずつ考えながらでないと読めない、と謙虚に言うが、皆、彼女の感想や話を聞くのが好きだ。

かつて夫と家の物を投げ合った気性の荒い彼女はもういない。、今は話し方からして優しく穏やかになった。二〇二二年、ガンと診断された時、家族は、彼女がパニックになって怖がるのではないかと心配したが、電話の向こうの口調は相変わらず優しいものだった。「心配しないで。向こうからやって来るものは逃げられないから、割り切ってるのよ。平常心でいるわ」。

退院して数日後、グループのボランティア読書会の日、彼女は時間通りにオンラインで参加した。なぜゆっくり休まないのかと聞かれた彼女はこう言った。「無常は本当に怖いものです。たとえ無常が予測不可能だとしても、人生の方向はしっかり把握しなければなりません。無常に対応できるのは仏法だけです。体が病気に罹っても、心が病んではいけません。やはり仏法の勉強を急がなければなりませんね」。心を静め、無常に惑わされないよう、読書に励もう。

(慈済月刊六七七期より)

關鍵字

里子お婆さんの特効薬

王楊里子さんはコミュニティから集めた回收物をリサイクル拠点まで台車を推して行き、分別作業をする。

里子お婆さんは大股で力強く資源回收物を載せた台車を推して行く。
彼女は体内にある三つの癌と穏やかに共存している。
リサイクル活動していると、痛みを忘れる。
彼女には特効薬があるから……。

每週水曜日、王楊里子さんはコミュニティに住んでいるボランティアたちの家を一軒一軒回って、資源回收物を集めに行く。午後に台車いっぱいになるまで回収物を載せ、台北市中山区龍江路にある銀行前の「騎樓」(アーケード型歩道)にあるリサイクル拠点まで推して行き、他のボランティアと一緒に分別作業をする。

八十歳に近く、アパートの五階に住んでいる彼女にとって、この作業は容易とは言えない。しかし、彼女の動きは機敏で、足どりは軽い。よく人にこんな冗談を言う。「知っていますか?私は三つの癌に罹り、四十二回のキモセラピーと電気療法を受けたのですよ」。彼女は軽ろやかで簡単に話すが、痛みを忘れたわけではなく、受け入れることを選んだのだ。「癌は私の良友ですから、每日連れて歩いています」。彼女はまだ使える体を善用して、一心に「地球を救いたい」と思っている。

これ以上体が言うことを聞かなくなった時

里子お婆さんは十八歳で結婚し、二十八歳の時には四人の子供を持つ母親になっていたが、三十歳過ぎで結婚生活に問題が発生し、夫との関係が変わってしまい、仕方なく一人で子供を育て始めた。「葬儀場のバンドをしたこともあり、ショーのあるレストラン内の仕事も十年続け、ハウスキーパーも二十年続けました……每日外出する時は、おむすび一つと水一本を持って出れば、一日が過ごせました」。

日々懸命にお金を稼いだ数十年を経て来たが、里子お婆さんは、「私はこんなに沢山の仕事をして来ても、体はまだ『壮健』だ!」と思っていた。しかし、十六年前、もう直ぐ旧正月という時に、数軒の家の清掃をした後、家に帰ったが、思いも寄らず、下痢が続いた。何日か休めばよくなると思っていたが、末の娘に強く言われて、病院に行った。

医師は末の娘に、「あなたのお母さんは『大当たりだよ』!」と告げた。検査の結果は直腸癌で、速やかに治療をしなければならない肝心な時だと言われたため、即刻入院した。彼女はよく、手術、キモセラピー、電気療法、検査などの苦しさに耐えられず、淚を流して、自殺したいとまで考えた。

病床で、彼女はよくお金を稼いだ若い頃の苦労を思い出した。ほとんど休む暇がなかった。病床で悲しむのも無理はなかった。「どうして人生はこんなに苦しいのだろう……」。

彼女は解脱したかったが、試しても成功しなかった。身心が苛まれて、スランプに陥っていた時、上人の著作の中のある言葉を目にした、「人生は列に並ぶものであり、割り込んではいけない」。死を求める考えから、ハッと目が覚めた。「繰り返して読むと、本当に一理あるのです。自殺は割り込みであって、自然の法則ではないのです。人生はゆっくりと列に並んで過ごし、時が来れば神様は自然に私を連れて帰ってくれるのです」。

その年、彼女は六十二歳で、「退職」して、四人の子供たちに世話をしてもらうことにした。「彼らはもう大きくなったから、私を養う番だ」と思った。しかし、数年のうちに他の部位にも癌細胞が検出され、体の中には三つの癌を抱え、もう一度苦しい治療を経験した……。

病と共存することを決めた里子お婆さんは、病苦は生まれ持った業であり、来たるべきものは来るのだし、今元気で生きていられるのはまだその時ではないからかもしれない、と思った。彼女は病気する前、大愛ニュースでリサイクルボランティアが腰をかがめて資源を回收していた姿を見たことを思い出した。当時の彼女は、ハウスキーパーの仕事に忙しく、やる気はあったが力が伴わなかった。これからは家の近くで、慈済のリサイクル拠点があるかどうか、注意して見ようと思った。

十五年前のある夕方、龍江路銀行前の「騎樓」を通った時、ボランティアの人たちがリサイクルしているのを見かけた。とうとう見つけた、と彼女は心の中で思った。「師姐、ちょっとお伺いします。私も参加出来ますか?」すると中山区ボランティアの黃莉晏(フワォン・リーイェン)さんが、「いいですとも!私たちは水曜日の午後五時に、ここでリサイクルをしています」と答えた。里子お婆さんは、「わかりました!この時間なら私は伺えます」と明快に言った。

毎週水曜日の午後、台北市中山区龍江路銀行前の「騎樓」では、慈済ボランティアがリサイクルした資源の分別作業をしている。王楊里子さん(右)は回収した段ボール箱を解体していた。

自分に自信を持つ

里子お婆さんはリサイクル活動に参加できる機会をとても大切にしている。たとえ每回のキモセラピーの後でも、副作用でしばらく休むが、少しでも体力が回復すると、彼女は頑なにリサイクル拠点に戻って、分別の仕事を続ける。

「リサイクル活動は楽しいですよ。去年はひいお婆さんになりましたが、今は人生にあまり執着していません。人生のシナリオは自分で書くべきですからね。来たるべきものは来るでしょう。あまり考えても仕方ありません。その時が来たら、無常の数秒間で逝ってしまいます」。里子お婆さんは、リサイクルするのが楽しく、どんなに忙しくても気にしない。「リサイクルすると地球を守ることができて、生命の良能を発揮できるのです」。

三つの癌の苦しみを経験した里子お婆さんの全身は、一度作り直されたかのようだ。だんだん老化していく目と膝関節も続けて手術した。彼女は笑いながら、「まだ、リサイクルが出来るので、とても慰められます。まだ使える体だということですから。膝の手術をして一カ月で、我慢できなくなり、リサイクルをしに行きました。動いていれば、痛みを忘れることができるのです」。リサイクルすればするほど「体はまだ長く使える」と感じている。娘さんは、「お母さん、今、私と徒競走したら、私は負けるかもしれないね!」と冗談を言った。

奉仕できるということは、里子お婆さんに一層の自信をもたらした。黃莉晏さんは、「里子お婆さんは、キモセラピーや電気療法を経て『傷だらけ』になっていますが、彼女は本当に勇敢で、努力して発願し、リサイクルを続けています」。

今、里子お婆さんは每月一回再診を受け、三カ月ごとに採血検査、半年に一回MRA検査を受けている。彼女は每朝五時半に出掛けて運動をし、二キロ歩いてから公園で友人と一緒に健康ダンスをし、午後三時にまた出掛けて一周して来る。また、每週火曜日朝の慈済の勉強会に参加して、仏法を深く理解することで、脳を活性化させている。

病の中で「痛快」にリサイクル活動して大地に奉仕する過程で、まるで特効薬が痛みを止め、苦しみを忘れさせており、彼女は憂いを忘れて楽しく生きている。

(慈済月刊六七九期より)

王楊里子さんはコミュニティから集めた回收物をリサイクル拠点まで台車を推して行き、分別作業をする。

里子お婆さんは大股で力強く資源回收物を載せた台車を推して行く。
彼女は体内にある三つの癌と穏やかに共存している。
リサイクル活動していると、痛みを忘れる。
彼女には特効薬があるから……。

每週水曜日、王楊里子さんはコミュニティに住んでいるボランティアたちの家を一軒一軒回って、資源回收物を集めに行く。午後に台車いっぱいになるまで回収物を載せ、台北市中山区龍江路にある銀行前の「騎樓」(アーケード型歩道)にあるリサイクル拠点まで推して行き、他のボランティアと一緒に分別作業をする。

八十歳に近く、アパートの五階に住んでいる彼女にとって、この作業は容易とは言えない。しかし、彼女の動きは機敏で、足どりは軽い。よく人にこんな冗談を言う。「知っていますか?私は三つの癌に罹り、四十二回のキモセラピーと電気療法を受けたのですよ」。彼女は軽ろやかで簡単に話すが、痛みを忘れたわけではなく、受け入れることを選んだのだ。「癌は私の良友ですから、每日連れて歩いています」。彼女はまだ使える体を善用して、一心に「地球を救いたい」と思っている。

これ以上体が言うことを聞かなくなった時

里子お婆さんは十八歳で結婚し、二十八歳の時には四人の子供を持つ母親になっていたが、三十歳過ぎで結婚生活に問題が発生し、夫との関係が変わってしまい、仕方なく一人で子供を育て始めた。「葬儀場のバンドをしたこともあり、ショーのあるレストラン内の仕事も十年続け、ハウスキーパーも二十年続けました……每日外出する時は、おむすび一つと水一本を持って出れば、一日が過ごせました」。

日々懸命にお金を稼いだ数十年を経て来たが、里子お婆さんは、「私はこんなに沢山の仕事をして来ても、体はまだ『壮健』だ!」と思っていた。しかし、十六年前、もう直ぐ旧正月という時に、数軒の家の清掃をした後、家に帰ったが、思いも寄らず、下痢が続いた。何日か休めばよくなると思っていたが、末の娘に強く言われて、病院に行った。

医師は末の娘に、「あなたのお母さんは『大当たりだよ』!」と告げた。検査の結果は直腸癌で、速やかに治療をしなければならない肝心な時だと言われたため、即刻入院した。彼女はよく、手術、キモセラピー、電気療法、検査などの苦しさに耐えられず、淚を流して、自殺したいとまで考えた。

病床で、彼女はよくお金を稼いだ若い頃の苦労を思い出した。ほとんど休む暇がなかった。病床で悲しむのも無理はなかった。「どうして人生はこんなに苦しいのだろう……」。

彼女は解脱したかったが、試しても成功しなかった。身心が苛まれて、スランプに陥っていた時、上人の著作の中のある言葉を目にした、「人生は列に並ぶものであり、割り込んではいけない」。死を求める考えから、ハッと目が覚めた。「繰り返して読むと、本当に一理あるのです。自殺は割り込みであって、自然の法則ではないのです。人生はゆっくりと列に並んで過ごし、時が来れば神様は自然に私を連れて帰ってくれるのです」。

その年、彼女は六十二歳で、「退職」して、四人の子供たちに世話をしてもらうことにした。「彼らはもう大きくなったから、私を養う番だ」と思った。しかし、数年のうちに他の部位にも癌細胞が検出され、体の中には三つの癌を抱え、もう一度苦しい治療を経験した……。

病と共存することを決めた里子お婆さんは、病苦は生まれ持った業であり、来たるべきものは来るのだし、今元気で生きていられるのはまだその時ではないからかもしれない、と思った。彼女は病気する前、大愛ニュースでリサイクルボランティアが腰をかがめて資源を回收していた姿を見たことを思い出した。当時の彼女は、ハウスキーパーの仕事に忙しく、やる気はあったが力が伴わなかった。これからは家の近くで、慈済のリサイクル拠点があるかどうか、注意して見ようと思った。

十五年前のある夕方、龍江路銀行前の「騎樓」を通った時、ボランティアの人たちがリサイクルしているのを見かけた。とうとう見つけた、と彼女は心の中で思った。「師姐、ちょっとお伺いします。私も参加出来ますか?」すると中山区ボランティアの黃莉晏(フワォン・リーイェン)さんが、「いいですとも!私たちは水曜日の午後五時に、ここでリサイクルをしています」と答えた。里子お婆さんは、「わかりました!この時間なら私は伺えます」と明快に言った。

毎週水曜日の午後、台北市中山区龍江路銀行前の「騎樓」では、慈済ボランティアがリサイクルした資源の分別作業をしている。王楊里子さん(右)は回収した段ボール箱を解体していた。

自分に自信を持つ

里子お婆さんはリサイクル活動に参加できる機会をとても大切にしている。たとえ每回のキモセラピーの後でも、副作用でしばらく休むが、少しでも体力が回復すると、彼女は頑なにリサイクル拠点に戻って、分別の仕事を続ける。

「リサイクル活動は楽しいですよ。去年はひいお婆さんになりましたが、今は人生にあまり執着していません。人生のシナリオは自分で書くべきですからね。来たるべきものは来るでしょう。あまり考えても仕方ありません。その時が来たら、無常の数秒間で逝ってしまいます」。里子お婆さんは、リサイクルするのが楽しく、どんなに忙しくても気にしない。「リサイクルすると地球を守ることができて、生命の良能を発揮できるのです」。

三つの癌の苦しみを経験した里子お婆さんの全身は、一度作り直されたかのようだ。だんだん老化していく目と膝関節も続けて手術した。彼女は笑いながら、「まだ、リサイクルが出来るので、とても慰められます。まだ使える体だということですから。膝の手術をして一カ月で、我慢できなくなり、リサイクルをしに行きました。動いていれば、痛みを忘れることができるのです」。リサイクルすればするほど「体はまだ長く使える」と感じている。娘さんは、「お母さん、今、私と徒競走したら、私は負けるかもしれないね!」と冗談を言った。

奉仕できるということは、里子お婆さんに一層の自信をもたらした。黃莉晏さんは、「里子お婆さんは、キモセラピーや電気療法を経て『傷だらけ』になっていますが、彼女は本当に勇敢で、努力して発願し、リサイクルを続けています」。

今、里子お婆さんは每月一回再診を受け、三カ月ごとに採血検査、半年に一回MRA検査を受けている。彼女は每朝五時半に出掛けて運動をし、二キロ歩いてから公園で友人と一緒に健康ダンスをし、午後三時にまた出掛けて一周して来る。また、每週火曜日朝の慈済の勉強会に参加して、仏法を深く理解することで、脳を活性化させている。

病の中で「痛快」にリサイクル活動して大地に奉仕する過程で、まるで特効薬が痛みを止め、苦しみを忘れさせており、彼女は憂いを忘れて楽しく生きている。

(慈済月刊六七九期より)

關鍵字

善の種子を大福田に植える

配付する物資はどんなに多くても限られていますが、
口から出た良い言葉は、人に受け入れられれば、
一生役に立ちます。

仏法をネパールに持ち帰る

ネパールのルンビニでプロジェクトを推進している師兄や師姐たちは、オンラインビデオ通話を通じて、上人に進捗状況を報告しました。上人は、攝氏四十度以上の高温の環境で活動していることが忍びなく、皆の「苦労」を労いました。彼らは発心立願し、快適な生活環境から出て、仏陀の故郷に足を踏み入れました。そして、高温と暑さもさることながら、それ以上に、現地の住民の貧しさと苦難に憐れみを感じ、直ちに縁を逃さず、仏陀の智慧と愛をネパールに持ち帰って広い菩薩道を敷きたい、と考えました。

「私はとても幸せな人間だと思います。台湾と縁があるからです。今、台湾に慈済があって、仏陀の精神でもって大きな道を切り拓いて来ました。一寸一歩、近い所から始めて遠い所まで前進し続けています。実際、この菩薩大道はどこから来たのでしょうか?それは今あなたたちが踏んでいる大地からです。仏法はネパールで隆盛を見ることはできませんでしたが、その時、既に他の国々へ伝わっていました。過去に玄奘法師が西に行って仏法を求め、鳩摩羅什法師が東で仏法を伝えました。そして、あなたたちは今、仏陀の故郷に戻って、仏陀の教えに基づいた菩薩法で住民の苦しみを救おうとしています」。

ルンビニ文化市にある、アマ衛生センターは、厳しい環境にあり、水源が不足していた。慈済が井戸を掘ることを支援し、今年5月に近隣の住民たちはやっと、厳しい暑さの中で浄水を手に入れることができるようになった。(撮影・張美玲)

「現地の住民を救済する方法は、あなたたちの心から出た誠意と、あなたたちの福報に発しています。あなたも私も大きな福報がありますが、実は、苦しんでいる眾生にも彼らなりの福があるのです。人間(じんかん)菩薩に出会うという良い縁さえあれば、私たちはその力を使って、良い縁を結集することで、彼らは私たちの助けを得ることができるのです。しかし、もし彼らに福がなく、私たちと縁がなければ、顔を会わせる機会すらなく、ましてや助けを得ることはできません。彼らが助けを得られるのは、彼ら自身の運命に福縁があるからです。そして、あなたたちは、自らの手で施しを行い、人助けする喜びを感じる一方で、支援を受け入れてくれる側にも感謝しなければなりません。『苦難が取り除かれた後、説法をする』ことで、彼らの心に善の種を蒔いていくのです」。

上人は、「慈済人が到達し、善行を行って幸福をもたらすことができる土地は、即ち福ある土地であり、慈済人は直ちにそこに種を蒔かなければいけません。提供する物資はいくら多くても限られていますが、説かれた仏法を住民が受け入れれば、一生にわたって恩恵となるのです。シンガポールとマレーシアの慈済人がルンビニで、心して『静思語』を広めてくれていることにとても感謝しています。短い文章でも簡単で分かり易い道理があり、学校の先生であっても一般の人であっても受け入れることができ、心に留めて、日常生活に活かしていくのです」と言いました。

「仏陀の故郷は私たちの慧命のふるさとでもあるのです。あなたたちがマレーシアとシンガポールに戻って仏陀の故郷の状況を広く人々と共有することで、人々に愛の心を啓発してくれることを期待しています。目に見える支援をするにしても、奉仕するために発心立願してネパールに出向くにしても、よく準備をして、ネパールでのボランティアが交代で途切れないようになることを願っています」。

上人は、弟子たちが代わりに仏陀の故郷に行ってくれていることに感謝しています。「私は自ら行くことができなくても、皆さんがまるで私を連れて行っているかのように、映像を送ってくれています。自分でネパールやインドの景色を見ると共に、「藍天白雲」(紺のシャツに白いパンツ姿)の慈済人たちも見ることができました。皆、灼熱の太陽の下、その熱い大地を踏みしめながら、貧しい人々を助けるために奔走しています。しかし、やはり皆さんには外の強い日差しの下で作業しないでほしいのです。木陰で地元の人々と交流し、説法してください。仏陀も菩提樹の下で説法をしました。今、あなたたちは「仏心師志」という四文字を携えてそこに行っているのですから、人々を大樹の下に集め、そこで仏法や静思法脈を聞いてもらい、静思語を話してあげ、『竹筒歳月』の話をしてあげることで、善の念を啓発し、福田を耕すよう、励ますのです」。

また、上人はこう言いました。「あなたたちは、ネパールで福田を耕しているのです。この広大な福田に善の種をしっかり蒔き、地元の人々が勤勉に、積極的に生活に立ち向かうよう指導するのです。あなたたちが彼らに衛生的な環境を維持するように教えたことで、慈済人に倣って、元来は汚れていた環境を整えるようになったことが良い例です。そして、小さい子供たちですらゴミを拾い、物を整頓し、リサイクルした物を使って、手工芸品を作るようになりました。もしかしたら、彼らが手工芸品を作り、販売することで、生活の足しになることを教えるのも良いかもしれません。師兄師姐たちが智慧を発揮して、現地に幸福をもたらしていることに感謝しています。これこそが、まさに福と慧の双方を修行することなのです」。

(慈済月刊六八一期より)

配付する物資はどんなに多くても限られていますが、
口から出た良い言葉は、人に受け入れられれば、
一生役に立ちます。

仏法をネパールに持ち帰る

ネパールのルンビニでプロジェクトを推進している師兄や師姐たちは、オンラインビデオ通話を通じて、上人に進捗状況を報告しました。上人は、攝氏四十度以上の高温の環境で活動していることが忍びなく、皆の「苦労」を労いました。彼らは発心立願し、快適な生活環境から出て、仏陀の故郷に足を踏み入れました。そして、高温と暑さもさることながら、それ以上に、現地の住民の貧しさと苦難に憐れみを感じ、直ちに縁を逃さず、仏陀の智慧と愛をネパールに持ち帰って広い菩薩道を敷きたい、と考えました。

「私はとても幸せな人間だと思います。台湾と縁があるからです。今、台湾に慈済があって、仏陀の精神でもって大きな道を切り拓いて来ました。一寸一歩、近い所から始めて遠い所まで前進し続けています。実際、この菩薩大道はどこから来たのでしょうか?それは今あなたたちが踏んでいる大地からです。仏法はネパールで隆盛を見ることはできませんでしたが、その時、既に他の国々へ伝わっていました。過去に玄奘法師が西に行って仏法を求め、鳩摩羅什法師が東で仏法を伝えました。そして、あなたたちは今、仏陀の故郷に戻って、仏陀の教えに基づいた菩薩法で住民の苦しみを救おうとしています」。

ルンビニ文化市にある、アマ衛生センターは、厳しい環境にあり、水源が不足していた。慈済が井戸を掘ることを支援し、今年5月に近隣の住民たちはやっと、厳しい暑さの中で浄水を手に入れることができるようになった。(撮影・張美玲)

「現地の住民を救済する方法は、あなたたちの心から出た誠意と、あなたたちの福報に発しています。あなたも私も大きな福報がありますが、実は、苦しんでいる眾生にも彼らなりの福があるのです。人間(じんかん)菩薩に出会うという良い縁さえあれば、私たちはその力を使って、良い縁を結集することで、彼らは私たちの助けを得ることができるのです。しかし、もし彼らに福がなく、私たちと縁がなければ、顔を会わせる機会すらなく、ましてや助けを得ることはできません。彼らが助けを得られるのは、彼ら自身の運命に福縁があるからです。そして、あなたたちは、自らの手で施しを行い、人助けする喜びを感じる一方で、支援を受け入れてくれる側にも感謝しなければなりません。『苦難が取り除かれた後、説法をする』ことで、彼らの心に善の種を蒔いていくのです」。

上人は、「慈済人が到達し、善行を行って幸福をもたらすことができる土地は、即ち福ある土地であり、慈済人は直ちにそこに種を蒔かなければいけません。提供する物資はいくら多くても限られていますが、説かれた仏法を住民が受け入れれば、一生にわたって恩恵となるのです。シンガポールとマレーシアの慈済人がルンビニで、心して『静思語』を広めてくれていることにとても感謝しています。短い文章でも簡単で分かり易い道理があり、学校の先生であっても一般の人であっても受け入れることができ、心に留めて、日常生活に活かしていくのです」と言いました。

「仏陀の故郷は私たちの慧命のふるさとでもあるのです。あなたたちがマレーシアとシンガポールに戻って仏陀の故郷の状況を広く人々と共有することで、人々に愛の心を啓発してくれることを期待しています。目に見える支援をするにしても、奉仕するために発心立願してネパールに出向くにしても、よく準備をして、ネパールでのボランティアが交代で途切れないようになることを願っています」。

上人は、弟子たちが代わりに仏陀の故郷に行ってくれていることに感謝しています。「私は自ら行くことができなくても、皆さんがまるで私を連れて行っているかのように、映像を送ってくれています。自分でネパールやインドの景色を見ると共に、「藍天白雲」(紺のシャツに白いパンツ姿)の慈済人たちも見ることができました。皆、灼熱の太陽の下、その熱い大地を踏みしめながら、貧しい人々を助けるために奔走しています。しかし、やはり皆さんには外の強い日差しの下で作業しないでほしいのです。木陰で地元の人々と交流し、説法してください。仏陀も菩提樹の下で説法をしました。今、あなたたちは「仏心師志」という四文字を携えてそこに行っているのですから、人々を大樹の下に集め、そこで仏法や静思法脈を聞いてもらい、静思語を話してあげ、『竹筒歳月』の話をしてあげることで、善の念を啓発し、福田を耕すよう、励ますのです」。

また、上人はこう言いました。「あなたたちは、ネパールで福田を耕しているのです。この広大な福田に善の種をしっかり蒔き、地元の人々が勤勉に、積極的に生活に立ち向かうよう指導するのです。あなたたちが彼らに衛生的な環境を維持するように教えたことで、慈済人に倣って、元来は汚れていた環境を整えるようになったことが良い例です。そして、小さい子供たちですらゴミを拾い、物を整頓し、リサイクルした物を使って、手工芸品を作るようになりました。もしかしたら、彼らが手工芸品を作り、販売することで、生活の足しになることを教えるのも良いかもしれません。師兄師姐たちが智慧を発揮して、現地に幸福をもたらしていることに感謝しています。これこそが、まさに福と慧の双方を修行することなのです」。

(慈済月刊六八一期より)

關鍵字

九月の出来事

09・01

金門の慈済エコ福祉用具プラットフォームは、1日から3日まで「慈済金湖鎮介護2・0福祉用具被覆率プロジェクト」が展開された。瓊林村役場、金湖町役場、料羅湾公民館などで6回、生活福祉用具の寄贈活動が行われた。老眼鏡、ひざや腰用のサポーター、杖などを416人のお年寄りに寄贈した。

09・02

慈済基金会執行長室グローバル協調及び青年発展室の指導の下に、慈済国際青年会主催の「アフリカ青年人材育成プロジェクト」が8月24日から外部に対してチームリーダーと養成講座企画スタッフの募集を始めた。コミュニケーション能力の育成と中国語の勉強をオンラインで付き添うことで、アフリカの青年の成長と中国語の学習、良好な生活習慣や思考方法などを育成する。本日、オンライン説明会が開かれ、20日に選抜された人のリストを公表する。

09・03

◎慈済基金会「第9回グローバル共善学思会」が初めて海外で開かれ、ハーバード大学中国芸術実験室天竺仏教研究室と共にオンラインで主催した。3日と4日にハーバード大学で、「證厳法師の思想と実践に関する研究」というテーマの下に催された。アメリカ、イギリス、ニュージーランド、中国、マカオ、インドネシア、マレーシア、台湾などから30人の学者が出席し、12本の論文が発表された。

◎チリの慈済ボランティアはアコンカグア州クリモン町で、本年度最後の冬季配付活動を行い、貧困世帯に小麦粉、洗面用具などの生活用品を150世帯に配付して支援した。

◎ハワイの慈済ボランティアは、8月27日のマウイ島森林火災被災者への配付に続いて、9月3日から3週の日曜日に続けてプリペイドカードなどを被災世帯に配付した。今回の支援活動は8月に続いて4回目で、延べ243人のボランティアを動員して、1593世帯を支援した。

09・04

慈済基金会は引き続きウクライナ難民ケアを行っている。空輸組織のエアーリンクとエバーエアーを通じて、難民が必要とする冬季物資のエコ毛布6千枚をルーマニアに送り、イスラエルの人道支援組織によってウクライナまで空輸される。毛布は4日と11日に3千枚空輸された。

09・05

◎「2023年アセアン会議」が5日から7日までインドネシアのジャカルタで開かれた。慈済インドネシア支部の黃栄年副執行長が招かれ、「東南アジア‥平和、寛容と調和の中心」というテーマで、各国参加者や政府要人、来賓に證厳法師と慈済の歩みと共に、慈済が1993年から現地で進めてきた慈善、医療、教育、人文志業を紹介し、法師の《人間菩提》ビデオを放映した。

◎アルゼンチンの慈済ボランティアは引き続きパラグアイからの腎臓移植をした子供一家をケアした。本日、家族のニーズに合わせて、新品の靴と古着及び米、麺類などを届け、生活を支援した。

09・08

モザンビークの慈済ボランティアは8日と12日に、ソファラ州グラシャ小学校とクラ小学校で、1660人の生徒にカバン、鉛筆などの学用品と衣類を配付した。

09・10

◎慈済ヨルダン支部のボランティアはアンマンにある「慈心の家」に身を寄せているシリア人家庭と共に、国際ブリッジ学校で学用品の配付活動を行い、130人のシリア難民の生徒にカバンと筆記用具などを贈った。

◎パラグアイの慈済ボランティアはカグアズ州RI3地区で、気候によって農作物の収穫が影響を受けた245世帯に食糧パックを配付した。

09・14

◎バークレー・イノベーションフォーラムが11日から14日まで、アメリカのカリフォルニア大学で開かれた。慈済基金会の何日生副執行長が代表で参加すると共に、フォーラム最終日の会議で、「善の経済」をテーマに講演した。

◎慈済基金会執行長室グローバル協調及び青年発展室職員の凃君曄さんが14日と15日、タイのバンコクに向かい、アジア太平洋地域国連難民事務所及びNGO会議に参加した。世界の難民状況を理解すると共に、各団体と難民支援の行動に関した交流を行った。

09・16

慈済病院が主催した「第15回パンパシフィック幹細胞及び癌に関する研究討論会」が、16日と17日にアメリカや日本などからの専門家や学者を招いて開かれた。医学と幹細胞及び神経退化性疾患遺伝子治療の成果及び発展趨勢などをテーマに、報告と交流を行った。今回は約200人が参加した。

09・17

「2023年ニューヨーク気候ウィーク」が17日から24日までアメリカ・ニューヨークで催された。慈済基金会執行長室グローバル協調及び青年発展室職員の黃恩婷さんと凃君曄さんが、アメリカ総支部職員の裘曜陽さん及び3人の慈青と共に参加し、3つの活動を主催すると共に、国連児童基金会及びイスラエル救援基金会などと会議の場を持った。

09・01

金門の慈済エコ福祉用具プラットフォームは、1日から3日まで「慈済金湖鎮介護2・0福祉用具被覆率プロジェクト」が展開された。瓊林村役場、金湖町役場、料羅湾公民館などで6回、生活福祉用具の寄贈活動が行われた。老眼鏡、ひざや腰用のサポーター、杖などを416人のお年寄りに寄贈した。

09・02

慈済基金会執行長室グローバル協調及び青年発展室の指導の下に、慈済国際青年会主催の「アフリカ青年人材育成プロジェクト」が8月24日から外部に対してチームリーダーと養成講座企画スタッフの募集を始めた。コミュニケーション能力の育成と中国語の勉強をオンラインで付き添うことで、アフリカの青年の成長と中国語の学習、良好な生活習慣や思考方法などを育成する。本日、オンライン説明会が開かれ、20日に選抜された人のリストを公表する。

09・03

◎慈済基金会「第9回グローバル共善学思会」が初めて海外で開かれ、ハーバード大学中国芸術実験室天竺仏教研究室と共にオンラインで主催した。3日と4日にハーバード大学で、「證厳法師の思想と実践に関する研究」というテーマの下に催された。アメリカ、イギリス、ニュージーランド、中国、マカオ、インドネシア、マレーシア、台湾などから30人の学者が出席し、12本の論文が発表された。

◎チリの慈済ボランティアはアコンカグア州クリモン町で、本年度最後の冬季配付活動を行い、貧困世帯に小麦粉、洗面用具などの生活用品を150世帯に配付して支援した。

◎ハワイの慈済ボランティアは、8月27日のマウイ島森林火災被災者への配付に続いて、9月3日から3週の日曜日に続けてプリペイドカードなどを被災世帯に配付した。今回の支援活動は8月に続いて4回目で、延べ243人のボランティアを動員して、1593世帯を支援した。

09・04

慈済基金会は引き続きウクライナ難民ケアを行っている。空輸組織のエアーリンクとエバーエアーを通じて、難民が必要とする冬季物資のエコ毛布6千枚をルーマニアに送り、イスラエルの人道支援組織によってウクライナまで空輸される。毛布は4日と11日に3千枚空輸された。

09・05

◎「2023年アセアン会議」が5日から7日までインドネシアのジャカルタで開かれた。慈済インドネシア支部の黃栄年副執行長が招かれ、「東南アジア‥平和、寛容と調和の中心」というテーマで、各国参加者や政府要人、来賓に證厳法師と慈済の歩みと共に、慈済が1993年から現地で進めてきた慈善、医療、教育、人文志業を紹介し、法師の《人間菩提》ビデオを放映した。

◎アルゼンチンの慈済ボランティアは引き続きパラグアイからの腎臓移植をした子供一家をケアした。本日、家族のニーズに合わせて、新品の靴と古着及び米、麺類などを届け、生活を支援した。

09・08

モザンビークの慈済ボランティアは8日と12日に、ソファラ州グラシャ小学校とクラ小学校で、1660人の生徒にカバン、鉛筆などの学用品と衣類を配付した。

09・10

◎慈済ヨルダン支部のボランティアはアンマンにある「慈心の家」に身を寄せているシリア人家庭と共に、国際ブリッジ学校で学用品の配付活動を行い、130人のシリア難民の生徒にカバンと筆記用具などを贈った。

◎パラグアイの慈済ボランティアはカグアズ州RI3地区で、気候によって農作物の収穫が影響を受けた245世帯に食糧パックを配付した。

09・14

◎バークレー・イノベーションフォーラムが11日から14日まで、アメリカのカリフォルニア大学で開かれた。慈済基金会の何日生副執行長が代表で参加すると共に、フォーラム最終日の会議で、「善の経済」をテーマに講演した。

◎慈済基金会執行長室グローバル協調及び青年発展室職員の凃君曄さんが14日と15日、タイのバンコクに向かい、アジア太平洋地域国連難民事務所及びNGO会議に参加した。世界の難民状況を理解すると共に、各団体と難民支援の行動に関した交流を行った。

09・16

慈済病院が主催した「第15回パンパシフィック幹細胞及び癌に関する研究討論会」が、16日と17日にアメリカや日本などからの専門家や学者を招いて開かれた。医学と幹細胞及び神経退化性疾患遺伝子治療の成果及び発展趨勢などをテーマに、報告と交流を行った。今回は約200人が参加した。

09・17

「2023年ニューヨーク気候ウィーク」が17日から24日までアメリカ・ニューヨークで催された。慈済基金会執行長室グローバル協調及び青年発展室職員の黃恩婷さんと凃君曄さんが、アメリカ総支部職員の裘曜陽さん及び3人の慈青と共に参加し、3つの活動を主催すると共に、国連児童基金会及びイスラエル救援基金会などと会議の場を持った。

關鍵字

二十六日 平伏漣漪

8.26《農七月‧十一》

【靜思小語】要做事情難免會有雜音,要更有耐心耐力;而不是跟著議論紛紛,讓平靜水面頻起漣漪。

《證嚴上人衲履足跡》有聲書,由慈濟人文志業廣播內容創作中心提供,更多精彩的廣播節目,歡迎到「大愛網路電台」收聽。

縮小自己,寬諒他人

泰國分會執行長林純鈴、副執行長張惠珍師姊報告會務,包括援助境內難民及計程車司機發放計畫進度等。上人教泰國慈濟人,有土地、有空間、有計畫,最重要的是有人能夠長期投入,腳踏實地,穩步前進。「我們要下定決心,心寬念純,就地招募、培育人間菩薩。於法、於理、於情,我們要做的都沒有錯,理很足夠,但是缺了情,沒情就沒緣,所以我們要拉長情,讓任何一個人覺得對於慈濟很有信心,因為聽到慈濟人說的話覺得很投緣,很願意跟著一起做慈濟事。」

上人舉自己為例,此生未曾到海外,只在臺灣的範圍裏繞,到了最近幾年更是大部分時間都在精舍,空間很狹窄,不過因為有累生累世與許多人結下的好緣,所以生命的空間無限開闊,全球各地的慈濟人發心,做師父想要做的事,去幫助師父想要幫助的苦難人。就如在座有泰國、馬來西亞、新加坡、緬甸等地的慈濟人,大家都發心立願,就地度眾生;慈濟人都與師父有情、有緣,所以很貼心、很真誠。也請大家回到居住地以後,要發揮佛教精神,拉起人與人之間的真情與好緣。「你們發願在當地承擔志業責任,就要縮小自己、寬諒他人,心胸要開闊,這也是『覺有情』的菩薩必須具有的精神。」

佛陀來人間說法度眾生,開、示、悟、入佛之知見;上人指出《法華經》的大乘菩薩法,是佛陀本懷之法,是佛陀最想要傳達給眾生的道理。「佛陀為我們開示了,我們有體悟嗎?道理我們聽入心了嗎?開示在於說法的人,而聽法的人要自己用心,聽懂、了解道理了,就要做到。」

「大家都有力量,只要有誠意、有情,與人談慈濟歷史、精神理念,讓人肯定、認同,人間菩薩招生就會成功。我們發願淨化人心、祥和社會,使天下無災無難,但若只是坐著聽佛法而沒有起於行動,永遠無法達成;而我們要做事,一定要有人力,所以要把當地的慈濟委員培養出來,也要招呼很久沒有參加慈濟活動的法親,邀請他們一起回到花蓮與師父見面,再把心力凝聚起來,讓佛陀的正法落實在這片土地上,未來泰國靜思堂興建完成,就可以讓當地民眾有明確的信仰方向,成為泰國慈濟人的大本營。」

上人說,泰國的窮困人不少,又有來自許多國家的難民,苦難人很多,而慈濟志工相對稀少,只能用心盡力幫助有因緣接觸到的人。疫情期間,援助生活困頓的計程車司機,並非為了宣導「竹筒歲月」而做,要讓大家了解慈濟幫助計程車司機的因緣,司機們真誠感恩慈濟在他們最困難的時候伸出援手,並從慈濟人的分享中了解竹筒歲月的故事與精神,所以主動在車上放竹筒撲滿,自己行善也邀請乘客發心行善。

「我們發心,拉起各方因緣,能幫助很多家庭脫離苦難,教育很多孩子上進。認定該做的事就要用心去做,不要一邊做事一邊起煩惱,還發出雜音,讓平靜的水面起漣漪。」

「其實只要不再滴水,漣漪會慢慢平伏,水面又會恢復平靜。你們就要抱這個心態,不要在做事的過程中,聽到雜音又議論紛紛;要做事情難免會有聲音,我們要有耐心、耐力,更要有情、有愛,朝認定的方向繼續往前進。」上人肯定泰國慈濟人很有承擔,雖然人數不多但做了很多事,而且真誠用愛呵護苦難人。

上人對座中海外師兄師姊說,「常常在聽你們分享時,我心裏就想,我面對的這一群弟子,其實都是菩薩;你們貼近苦難人、幫助苦難人,讓我很感恩、很感動!更要收攝自己的心,心要守好、修好,守護師徒之間的因緣,將來換你們度我,因為你們走菩薩道,走得比我深入,直接走到苦難人的家裏,因應他們的需要而給予幫助。感恩全球慈濟人以長情大愛行遍天下,讓慈濟的菩薩道路不斷開展。」

本專欄為靜思人文出版之《證嚴上人衲履足跡》精簡版;更完整的慈濟脈動與開示內容,以及師徒之間的感人對談,請展閱每季出版的《證嚴上人衲履足跡》

8.26《農七月‧十一》

【靜思小語】要做事情難免會有雜音,要更有耐心耐力;而不是跟著議論紛紛,讓平靜水面頻起漣漪。

《證嚴上人衲履足跡》有聲書,由慈濟人文志業廣播內容創作中心提供,更多精彩的廣播節目,歡迎到「大愛網路電台」收聽。

縮小自己,寬諒他人

泰國分會執行長林純鈴、副執行長張惠珍師姊報告會務,包括援助境內難民及計程車司機發放計畫進度等。上人教泰國慈濟人,有土地、有空間、有計畫,最重要的是有人能夠長期投入,腳踏實地,穩步前進。「我們要下定決心,心寬念純,就地招募、培育人間菩薩。於法、於理、於情,我們要做的都沒有錯,理很足夠,但是缺了情,沒情就沒緣,所以我們要拉長情,讓任何一個人覺得對於慈濟很有信心,因為聽到慈濟人說的話覺得很投緣,很願意跟著一起做慈濟事。」

上人舉自己為例,此生未曾到海外,只在臺灣的範圍裏繞,到了最近幾年更是大部分時間都在精舍,空間很狹窄,不過因為有累生累世與許多人結下的好緣,所以生命的空間無限開闊,全球各地的慈濟人發心,做師父想要做的事,去幫助師父想要幫助的苦難人。就如在座有泰國、馬來西亞、新加坡、緬甸等地的慈濟人,大家都發心立願,就地度眾生;慈濟人都與師父有情、有緣,所以很貼心、很真誠。也請大家回到居住地以後,要發揮佛教精神,拉起人與人之間的真情與好緣。「你們發願在當地承擔志業責任,就要縮小自己、寬諒他人,心胸要開闊,這也是『覺有情』的菩薩必須具有的精神。」

佛陀來人間說法度眾生,開、示、悟、入佛之知見;上人指出《法華經》的大乘菩薩法,是佛陀本懷之法,是佛陀最想要傳達給眾生的道理。「佛陀為我們開示了,我們有體悟嗎?道理我們聽入心了嗎?開示在於說法的人,而聽法的人要自己用心,聽懂、了解道理了,就要做到。」

「大家都有力量,只要有誠意、有情,與人談慈濟歷史、精神理念,讓人肯定、認同,人間菩薩招生就會成功。我們發願淨化人心、祥和社會,使天下無災無難,但若只是坐著聽佛法而沒有起於行動,永遠無法達成;而我們要做事,一定要有人力,所以要把當地的慈濟委員培養出來,也要招呼很久沒有參加慈濟活動的法親,邀請他們一起回到花蓮與師父見面,再把心力凝聚起來,讓佛陀的正法落實在這片土地上,未來泰國靜思堂興建完成,就可以讓當地民眾有明確的信仰方向,成為泰國慈濟人的大本營。」

上人說,泰國的窮困人不少,又有來自許多國家的難民,苦難人很多,而慈濟志工相對稀少,只能用心盡力幫助有因緣接觸到的人。疫情期間,援助生活困頓的計程車司機,並非為了宣導「竹筒歲月」而做,要讓大家了解慈濟幫助計程車司機的因緣,司機們真誠感恩慈濟在他們最困難的時候伸出援手,並從慈濟人的分享中了解竹筒歲月的故事與精神,所以主動在車上放竹筒撲滿,自己行善也邀請乘客發心行善。

「我們發心,拉起各方因緣,能幫助很多家庭脫離苦難,教育很多孩子上進。認定該做的事就要用心去做,不要一邊做事一邊起煩惱,還發出雜音,讓平靜的水面起漣漪。」

「其實只要不再滴水,漣漪會慢慢平伏,水面又會恢復平靜。你們就要抱這個心態,不要在做事的過程中,聽到雜音又議論紛紛;要做事情難免會有聲音,我們要有耐心、耐力,更要有情、有愛,朝認定的方向繼續往前進。」上人肯定泰國慈濟人很有承擔,雖然人數不多但做了很多事,而且真誠用愛呵護苦難人。

上人對座中海外師兄師姊說,「常常在聽你們分享時,我心裏就想,我面對的這一群弟子,其實都是菩薩;你們貼近苦難人、幫助苦難人,讓我很感恩、很感動!更要收攝自己的心,心要守好、修好,守護師徒之間的因緣,將來換你們度我,因為你們走菩薩道,走得比我深入,直接走到苦難人的家裏,因應他們的需要而給予幫助。感恩全球慈濟人以長情大愛行遍天下,讓慈濟的菩薩道路不斷開展。」

本專欄為靜思人文出版之《證嚴上人衲履足跡》精簡版;更完整的慈濟脈動與開示內容,以及師徒之間的感人對談,請展閱每季出版的《證嚴上人衲履足跡》

三十一日 融媒,融美

8.31《農七月‧十六》

【靜思小語】善用媒體,「融媒」也要「融美」,融會人間的美好,呈現真、善、美。

《證嚴上人衲履足跡》有聲書,由慈濟人文志業廣播內容創作中心提供,更多精彩的廣播節目,歡迎到「大愛網路電台」收聽。

關心世間事,依佛法修行

德𠆩師父與人文志業姚仁祿合心精進長、法脈宗門中心黃麗馨祕書長請示上人精舍制度化事宜。上人表示,靜思法脈的出家修行者,一向自力「耕」生,沒有離開修行的宗旨。凡夫心煩惱迷茫,所以佛陀修行覺悟以後,教導戒、定、慧,指引眾生走回正確的方向。

眾生剛強,人的貪瞋癡最難調伏,所以佛陀有個別號為「調御師」,就像馴獸師;眾生的個性各式各樣,不論是老鼠或猛虎,甚至如小螞蟻,各有其生活法則;要調伏眾生,就要用心了解,適應眾生的根機而引導。

常說時間、空間、人與人之間,在佛陀的時代,人口不多,但是現在問題愈來愈多,是因為人口愈多,社會愈複雜,人心的無明煩惱比過去更多;而且這二千五百多年來,眾生無明造業的業力累積得很深重,所以如今天災人禍不斷。

上人提到以前的人很單純,在家庭裏守家庭的規矩,出社會守社會的規矩,公、私分明;此時卻很混亂,人們很自我,倫理道德淡化,不擇手段謀取利益、彼此競爭,以致人禍紛起,讓天地大空間與人間愈來愈難以平靜。

上人說,無論外境如何變化,還是要堅守佛陀的教育,並且讓佛陀的教育延續在人間。過去高僧大德雖然致力傳法,佛法仍然只能局限在各叢林道場,各自立宗立派。「慈濟宗門人間路,我們用靜思法脈在人間開啟慈濟宗門。靜思法脈歸屬在靜思精舍的出家修行者,我們的生活是自力耕生,如同唐代百丈禪師也是一日不作、一日不食,過著農禪生活;在靜思道場就是依循佛法而修行,慈濟宗門則要關心世間事。」

「精舍除了出家修行者,還有清修士,清修士有男眾也有女眾,同樣是辭親割愛,專心在慈濟宗門內。他們也有受證,宣誓守戒,他們的父母也要來見證,知道孩子從此就像出家,為天下眾生而奉獻,清修士仍是居士身,但精神已經出家;精神就是法脈,只是沒有現出家身。」

「慈濟開宗門的目的,就是為佛教而走入社會利益眾生,而在家居士在人群中做事比出家人的身分更方便;全球慈濟人,老老少少都是法脈宗門的護法,在社會上發揮慈濟宗門的功能,思想精神依靠在靜思法脈。」

「法脈要入世,就要因應在家人的生活方式,而我們建立了慈善機構,這就是法脈精神的其中一環,從而進入社會世俗,活用方法,教富濟貧,引導富有的人幫助苦難人,見苦知福,此舉是用世間的貧困苦難來教育富有者,讓富有者願意不斷用愛投入慈善行動。這是我最初的想法,應該從此為基礎,清楚又簡單,再從這個基礎分出四大志業、八大法印。」

素食有道理,將盲點打開

於教育志策會,主管們報告中提及「融媒」,意謂融合媒體,將電視、報紙、廣播等傳統媒體,與網站、直播平臺、通訊軟體等新興媒體結合。上人遂期許善用媒體,要「融美」,融會人間的美好,呈現真、善、美。

「教育是希望,大家有希望達到的目標,就要從現在開始力行;否則只是想、只是說而沒有做,沒有用力,氣就提不起來。」對於老年長照,上人肯定醫療、教育志業都在關心年長者的照護問題,而且用心又出力。只要大家合心、和氣,彼此溝通、互動和諧,要做什麼事情,往同一個方向出力,就可以快速推行。

上人指出,人與人之間能合心、互動和氣,最重要的是彼此都有一分真誠的愛。就如老師愛護學生,就像對待自己的孩子一樣,即使孩子畢業以後,這分師生情永遠存在。

「我們要好好教育,讓大家通情達理,情就是菩薩情。常說要拉長情,就是要拉起菩薩情;擴大愛,則是不分宗教,會合於一分無私的愛。」上人感恩教育志業著手進行有系統的素食教育,其實素食的道理涵蓋在「三理四相」當中,值得大家好好研究,用心闡釋、書寫出來,用深入淺出的文章讓人讀懂素食的道理,了解素食的優點與必要性。

慈濟教育有人文志業可以用媒體傳播力量幫忙推動,還有一大群志工可以支援,合力推動,能夠影響更多人。「現在的科技很發達,可以將素食的道理廣為傳播。素食不是只為了宗教的規定,而是疼惜生命,為了天地眾生的健康。這些道理若能分析出來,大家心服口服,很自然會認為素食是理所當然。」上人指出高知識分子也有盲點,就是既定印象的成見;素食推動的論述若能有憑有據、有條有理,將道理分析清楚,就能將盲點打開。

上人期勉四大志業會合力量,還要加強力量。有心做事就要有人力投入,要凝聚心力、人力,發揮智慧,朝正確的方向不斷精進。若說不同宗教信仰者有隔閡,其實在慈濟,無論是志工或同仁,就有各種宗教信仰,但是大家都能合和互協,在社會上發揮四大志業的良能,利益社會人間。

慈濟的教育理念從臺灣做起,推展到泰國、印尼,還有國際間許多國家的慈濟人設立人文學校,將慈濟學校的教育方法搬回居住地,把孩子教得很整齊、很有氣質。上人說,只要大家有心去做,可以將慈濟教育之美推展到世界各地。

上人提到過去慈濟教聯會老師分布在全臺灣各級學校,推動靜思語教學有很好的回響;當時的學生很受教,調皮的孩子把老師教的靜思語銘記在心,改變自己的行為,還會影響家長。過去推動得很好、很有效的事,要讓它復甦起來,不要放任它沉睡。就像施益民博士所說,腦神經反應區域中有一塊「利他」的反應區域,如果都不去用它、刺激它,那塊區域的腦細胞就像睡著了;要把它從沉睡中啟動,並且持續運用,腦細胞才會活絡。教育就是要為懵懂的人心啟蒙,也就是要啟發腦細胞,不斷加強善念與善行。

本專欄為靜思人文出版之《證嚴上人衲履足跡》精簡版;更完整的慈濟脈動與開示內容,以及師徒之間的感人對談,請展閱每季出版的《證嚴上人衲履足跡》

礙於篇幅,還有更多重要開示無法刊登……

八月六日─與中部九二一希望工程學校師長與畢業生座談
八月七日─行腳臺中東大園區
八月十三日─PaGamO 環保防災教育團隊分享

※完整的每日行記以及師徒間感人對談,請關注靜思人文叢書處每季出版新書

→前往靜思網路書軒

8.31《農七月‧十六》

【靜思小語】善用媒體,「融媒」也要「融美」,融會人間的美好,呈現真、善、美。

《證嚴上人衲履足跡》有聲書,由慈濟人文志業廣播內容創作中心提供,更多精彩的廣播節目,歡迎到「大愛網路電台」收聽。

關心世間事,依佛法修行

德𠆩師父與人文志業姚仁祿合心精進長、法脈宗門中心黃麗馨祕書長請示上人精舍制度化事宜。上人表示,靜思法脈的出家修行者,一向自力「耕」生,沒有離開修行的宗旨。凡夫心煩惱迷茫,所以佛陀修行覺悟以後,教導戒、定、慧,指引眾生走回正確的方向。

眾生剛強,人的貪瞋癡最難調伏,所以佛陀有個別號為「調御師」,就像馴獸師;眾生的個性各式各樣,不論是老鼠或猛虎,甚至如小螞蟻,各有其生活法則;要調伏眾生,就要用心了解,適應眾生的根機而引導。

常說時間、空間、人與人之間,在佛陀的時代,人口不多,但是現在問題愈來愈多,是因為人口愈多,社會愈複雜,人心的無明煩惱比過去更多;而且這二千五百多年來,眾生無明造業的業力累積得很深重,所以如今天災人禍不斷。

上人提到以前的人很單純,在家庭裏守家庭的規矩,出社會守社會的規矩,公、私分明;此時卻很混亂,人們很自我,倫理道德淡化,不擇手段謀取利益、彼此競爭,以致人禍紛起,讓天地大空間與人間愈來愈難以平靜。

上人說,無論外境如何變化,還是要堅守佛陀的教育,並且讓佛陀的教育延續在人間。過去高僧大德雖然致力傳法,佛法仍然只能局限在各叢林道場,各自立宗立派。「慈濟宗門人間路,我們用靜思法脈在人間開啟慈濟宗門。靜思法脈歸屬在靜思精舍的出家修行者,我們的生活是自力耕生,如同唐代百丈禪師也是一日不作、一日不食,過著農禪生活;在靜思道場就是依循佛法而修行,慈濟宗門則要關心世間事。」

「精舍除了出家修行者,還有清修士,清修士有男眾也有女眾,同樣是辭親割愛,專心在慈濟宗門內。他們也有受證,宣誓守戒,他們的父母也要來見證,知道孩子從此就像出家,為天下眾生而奉獻,清修士仍是居士身,但精神已經出家;精神就是法脈,只是沒有現出家身。」

「慈濟開宗門的目的,就是為佛教而走入社會利益眾生,而在家居士在人群中做事比出家人的身分更方便;全球慈濟人,老老少少都是法脈宗門的護法,在社會上發揮慈濟宗門的功能,思想精神依靠在靜思法脈。」

「法脈要入世,就要因應在家人的生活方式,而我們建立了慈善機構,這就是法脈精神的其中一環,從而進入社會世俗,活用方法,教富濟貧,引導富有的人幫助苦難人,見苦知福,此舉是用世間的貧困苦難來教育富有者,讓富有者願意不斷用愛投入慈善行動。這是我最初的想法,應該從此為基礎,清楚又簡單,再從這個基礎分出四大志業、八大法印。」

素食有道理,將盲點打開

於教育志策會,主管們報告中提及「融媒」,意謂融合媒體,將電視、報紙、廣播等傳統媒體,與網站、直播平臺、通訊軟體等新興媒體結合。上人遂期許善用媒體,要「融美」,融會人間的美好,呈現真、善、美。

「教育是希望,大家有希望達到的目標,就要從現在開始力行;否則只是想、只是說而沒有做,沒有用力,氣就提不起來。」對於老年長照,上人肯定醫療、教育志業都在關心年長者的照護問題,而且用心又出力。只要大家合心、和氣,彼此溝通、互動和諧,要做什麼事情,往同一個方向出力,就可以快速推行。

上人指出,人與人之間能合心、互動和氣,最重要的是彼此都有一分真誠的愛。就如老師愛護學生,就像對待自己的孩子一樣,即使孩子畢業以後,這分師生情永遠存在。

「我們要好好教育,讓大家通情達理,情就是菩薩情。常說要拉長情,就是要拉起菩薩情;擴大愛,則是不分宗教,會合於一分無私的愛。」上人感恩教育志業著手進行有系統的素食教育,其實素食的道理涵蓋在「三理四相」當中,值得大家好好研究,用心闡釋、書寫出來,用深入淺出的文章讓人讀懂素食的道理,了解素食的優點與必要性。

慈濟教育有人文志業可以用媒體傳播力量幫忙推動,還有一大群志工可以支援,合力推動,能夠影響更多人。「現在的科技很發達,可以將素食的道理廣為傳播。素食不是只為了宗教的規定,而是疼惜生命,為了天地眾生的健康。這些道理若能分析出來,大家心服口服,很自然會認為素食是理所當然。」上人指出高知識分子也有盲點,就是既定印象的成見;素食推動的論述若能有憑有據、有條有理,將道理分析清楚,就能將盲點打開。

上人期勉四大志業會合力量,還要加強力量。有心做事就要有人力投入,要凝聚心力、人力,發揮智慧,朝正確的方向不斷精進。若說不同宗教信仰者有隔閡,其實在慈濟,無論是志工或同仁,就有各種宗教信仰,但是大家都能合和互協,在社會上發揮四大志業的良能,利益社會人間。

慈濟的教育理念從臺灣做起,推展到泰國、印尼,還有國際間許多國家的慈濟人設立人文學校,將慈濟學校的教育方法搬回居住地,把孩子教得很整齊、很有氣質。上人說,只要大家有心去做,可以將慈濟教育之美推展到世界各地。

上人提到過去慈濟教聯會老師分布在全臺灣各級學校,推動靜思語教學有很好的回響;當時的學生很受教,調皮的孩子把老師教的靜思語銘記在心,改變自己的行為,還會影響家長。過去推動得很好、很有效的事,要讓它復甦起來,不要放任它沉睡。就像施益民博士所說,腦神經反應區域中有一塊「利他」的反應區域,如果都不去用它、刺激它,那塊區域的腦細胞就像睡著了;要把它從沉睡中啟動,並且持續運用,腦細胞才會活絡。教育就是要為懵懂的人心啟蒙,也就是要啟發腦細胞,不斷加強善念與善行。

本專欄為靜思人文出版之《證嚴上人衲履足跡》精簡版;更完整的慈濟脈動與開示內容,以及師徒之間的感人對談,請展閱每季出版的《證嚴上人衲履足跡》

礙於篇幅,還有更多重要開示無法刊登……

八月六日─與中部九二一希望工程學校師長與畢業生座談
八月七日─行腳臺中東大園區
八月十三日─PaGamO 環保防災教育團隊分享

※完整的每日行記以及師徒間感人對談,請關注靜思人文叢書處每季出版新書

→前往靜思網路書軒